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2008年12月

2008年12月31日 (水)

小田和正 「クリスマスの約束」 の違和感

 毎年クリスマスの時期になるとTBSテレビでやっている小田和正の音楽特番。 今年(2008年)も見た。

 私はオフコース時代の初期から小田サンの歌が比較的好きだった。
 「さよなら」 で人気が出て以降は、オフコースなどというのは女性専用車両、みたいな感じで、確か柴門ふみのマンガ 「同級生」 だったか、主人公の男(鴨居クン)が 「オフコースを聴いて泣いてしまった」 とか打ち明ける場面があったと思うが、男がオフコースを聴いていると告白するのは、結構気恥ずかしい雰囲気の時代があったことは事実だ。
 私もオフコースが好きだと誰かに話すことはなかったが、ひとりでよく弾き語りはしたものだ。

 ただし小田サンの声域は、フツーの男が歌おうとすると少々きついものがある。
 どうやったらあんな澄んだ高い声が出るのだろう。
 毎日練習すると音域だけは届くようにはなるが、どーしてもトリが首を絞められたような声になってしまい(笑)、とてもじゃないがキレイ、とは言い難い。
 練習しなけりゃまた元通りだし。 クリスタルキングの田中サンがいい例だ。 歌わなきゃ、どんどん低くなるのだ、声とゆーものは。

 だが、小田サンは事も無げに高い声が出せる。
 これはもう、もって生まれたものとしか言いようがないだろう。
 私などはうらやましくて仕方ない。
 いや、男はみんな、高い声が出るということに、一種の憧れをもっているのかもしれない、そう私は思う。
 ポール・マッカートニーだって、マイケル・ジャクソンと共演した時に、やたら張り合って高い声を出そうとしていたし。 ポールはビートルズのなかでは一番高い声が出せる人だったが、それでもマイケルには嫉妬してしまうようである。 私はその心情が、とてもよく理解できる。

 しかも、小田サンの澄んでいるのは、声だけではない。 歌詞もメロディも、みんな透明感にあふれているというのが凄い。

 それにしても、あんなに透明感のある歌を歌っておきながら、小田サンがこの番組で全国を旅しているところを見ると、結構辛辣な物言いをする人なんだなあ、というのがよく分かる。 「ババア元気」(笑)とか。 自分とそうトシが変わらないだろ、って感じだけど(笑)。 面と向かっては言わないが、言葉だけ聞いているとまるで毒蝮三太夫状態である(笑)。
 でも、それがイヤミに聞こえないというのが、小田サンの人格のなせる技なのだろう。

 私は 「同級生」 の鴨居クンのように、小田サンの音楽を聴くとウルウルしてしまうところがある。 それはやはり、小田サンのその人格を貫いている透明感が、そうさせるのであろう。 この番組を見ていても、結構ウルウルきてしまった。

 だが。

 このTBSの特番は、毎度々々見ていて、なんだか違和感が残る。
 それは、客席の映し方に最大の問題があるように思う。
 きれいなネーチャンばかり映していることだ(笑)。

 そのきれいなネーチャン達が、小田サンの歌を聴いてみんな泣いている。
 まるで、キレイでなければ小田サンの音楽を聴く資格がない、と言わんばかりに。
 ブス(失礼)が小田サンの音楽を聴いたっていいではないか(笑)。
 私みたいなムサいオッサンが小田サンの音楽を聴いてもいいではないか。 オッサンは映ってたみたいだけど。
 どうしてこう、セレブのパーティみたいな見せ方をしようとするのかなー。
 そりゃ、ブス(たびたび失礼)が泣いているところを見たって、絵的に面白くもおかしくもないが(さらに失礼)、美人ばかりを優遇し過ぎのような気がするのだ。

 客席の映しかた、という点に限って、この番組は、小田サンの音楽を、まるで勝ち組の独占物に矮小化しようとしているように、私には見えてならないのだ。 まあ、ムサいオッサンのひがみでしょうが(笑)。

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2008年12月30日 (火)

「風のガーデン」 をまだ見終えてない理由

 録りだめしたままのフジテレビのドラマ 「風のガーデン」 をまだ見終えてない。

 見終われば、緒形拳サンとも本当にお別れしなければいけない、という気がして嫌なのだ。

 周知のように、このドラマは緒形サンの遺作である。
 なのにこのドラマは、緒形サンが息子の死をみとる、という全く皮肉な設定だ。
 途中まで見た限りでものを言わせてもらえば、やはり息子役の中井貴一サンよりよほど緒形サンのほうが弱って見える。 それを見せようとしまいというようにどうしても見えて、却ってそれが痛々しい。

 それは私が緒形サンの病を先入観としてみているからかもしれない。
 だが私は、去年(2007年)のNHK大河ドラマ 「風林火山」 での緒形サンの武将役を見ていて、なんだか腹に力が入ってないような演技だな、とその時からすでに思っていた。 わざと抑えた演技をしているのか、といぶかったほどだった。 その時分から相当具合が悪かったのだろう。

 現場では相当芝居に対して厳しい人だったと聞くが、当の自分がかつてのような演技をできなくなったとき、いったいどのようにすべきか、その緒形サンなりの結論が、この「風のガーデン」 には結実している。

 私などはちゃらんぽらんな人間なので、このドラマのなかでの緒形サンの闘いを見るのは少々しんどいところがある。
 それも私が、このドラマを見るのを先送り先送りしてしまう一因なのだろう。
 だが、見なければならない。
 それが、緒形サンに対する礼儀というものだ。

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2008年12月28日 (日)

流星群

今夜 流星群が しし座を通過するらしい
ひとびとは流れ星を見上げ 弔いの祈りをささげるらしい
誰かが死んだらしいのだ
季節はこごえる大気をしたがえて 明け方近くに旅立つという

死んだのは おれのなつかしい昔らしいのだ
それならば
弔ってやらねばならぬ
ゆくべき場所にたどり着くことなく燃えつきた流星に
祈りをささげてやらなければならぬ

おれとおまえが共に生きたある一瞬のために祈ろう
おまえと出会うことのできたほんの一瞬のために祈ろう
おまえはいま この地球にはない元素を身にまとい
おれたちに別れを告げるため
地上に光を降りそそぎながら
天空にかえってゆくのだ

歓声のなか流星が消えてから
おれたちは すべてのものが記憶の奥底に閉じてゆくのを見るだろう
だが
あれは けっしてまぼろしではなかったのだ

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生まれてきたことを

親が子供を育てるのは当然だから子供は親に感謝する必要はないという理屈は 成り立つのだろうか?
産んでくれと親に頼んだ覚えなんか誰だってない。 苦しみ傷ついてばかりの人生だとしか思えないとき、親に文句を言うことでしか甘ったれる方法がないのだろう、が
生まれてきたくもないやつが そもそもこの世に生まれてくるはずがないではないか?
なにも楽しいことなんかなかった、落ち込むときまってそう思いたがるものだが、
楽しいことがひとつくらいはあったことを どうして知らんぷりしようとするのだろう?
楽しいことだけ考えて生きよ、とは言わない。
だがつらいことだけ数える人生に 価値があるとも到底思えない。
生まれてきたことを
正しくするのも 間違いにするのも 結局は自分自身だ。
親でも、
環境でも、
友達でも、
教師でも、
時代でもない。

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2008年12月27日 (土)

ポールが声援にこたえてくれたこと

 もうずいぶん昔の話になってしまいますが。
 ポール・マッカートニーが 2002年、「ドライヴィン・ジャパン」 ツアーで公演をしたときのことです。

 それまでのポールの来日公演に、仕事でどうしても行けなかった私だったのですが、その時ようやく都合がつき、チケット予約に、つながらない電話を30分リダイヤルし続けて、ようやく2日目、東京ドーム11月13日のチケットを手に入れたのです。

 アリーナ席14,000円というアホみたいな値段だったんですが、これが最後になるかもしれん、ポールに会うんだっ、絶対真ん前で見るんだっ、という執念で、「席の指定はできません」 という生意気なオペレーターのネエチャンの冷たい言葉にも負けず(笑)、「真ん前の席!」 と言い張り(笑)、その結果、かどうかは分かんないですけど(笑)、大枚はたいて買った20カラットのゴールデンリング、…じゃなかった、ほぼ真ん前の、前から7番目というひっっじょーに見やすい場所の席を勝ち取ったのです!

 チケットが届いた時に席の番号を見ても、その位置がどこなのかピンときませんでしたが、実際行ってみると、前から1列2列目あたりはほとんど見上げるようなステージの高さだったので、7列目ってのは、ホント、ポールの真正面、10メートルも離れていないような感じ。 つまり絶好のポジション。

 ああ、でも、もう、生ビートルズに会えるなんて。
 小5の時からのビートルズ遍歴のなかで、最高の一日でした。

 しかもですよ。

 ポールが私の声援に、こたえてくれたんですよキャー(笑)。
 私が舞い上がりまくりで、「ウォウォウォウォー」 と奇声をあげたら、次の瞬間、ポールがドスのきいた声で 「ウォウォウォウォ」 って。 真似してくれたんですよぉー。

 はああ~もう、夢みたいな一瞬。

 それでも、この奇声には、ポールが反応してくれるひそかな期待はあったんです。
 私はそのとき、「ウィングス・オーヴァー・アメリカ」 のライヴ盤で、「遥か昔のエジプト精神」 の直前にきこえるポール (?) の奇声を真似したんですよ。 ちょっとマニアックすぎかなー(笑)。

 とにかくもう、そん時から、私はポール、いい人! 絶対! という立場であります。 ポールの悪口言うやつは、許さないぞーバイキンマン、て感じ(笑)。
 あ、でも、このブログでポールのこと、悪く言ってる箇所があったっけな? …スイマセン。

 それにしてもその日は、最初から最後まで、全部いっしょに歌いまくりましたよ。
 「サムシング」 はさすがにリズム違うんで遠慮しましたけど。 まわりの人はさぞかし迷惑だっただろうと思います。 オメーの歌聴きに来たんじゃないって。 すみませんでした。 自分ばっかり楽しんで。

 ポールのインド趣味の反映か、ドーム中にお香がたかれていて、ライヴのあと数日は、当日着て行ったジャケットのにおいをかいで、感動を反芻したりしました。 あれもイキな演出だったなあ。

 それにしても、あれからだいぶ経ってしまいました。
 当時あんなにラブラブだったヘザーとも、あんなことになっちゃうし。
 でもまあ、「バック・イン・ザ・USライヴ2002」 のDVDでも、結構シビアな喧嘩してましたけどね、あの二人。 ポールは余裕で冗談めかした対応していましたが、ヘザーはコイツ相当気のツエー女、って感じでしたよ。

 でもまあ、ビートルズの奥さんになるのは大変だ、っていう話ですから、それなりにご苦労もあったんでしょう。 その点には同情いたします。 …しねえよっ! ン十億だかン百億だかもらっといて!(笑)

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2008年12月24日 (水)

ジョージの遺作 「ブレインウォッシュド」その3(了)

(2008年12月18日付 「その2」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2008/12/post-1bc1.htmlよりつづく )

 6曲目 「マルワ・ブルース」 はインスト。 「上海サプライズ」 にも通じる、ジョージの東南アジア嗜好ぶりがうかがえる曲だ。 ラッフルズ・ホテルなんかを、私などは連想してしまうのだが。
 ボトルネックをギターの音域の上限まで押さえながら演奏しているジョージの姿が目に浮かぶ。 にもかかわらず、音程は安定していて、ジョージのスライドの到達点を実感できる。

 7曲目 「スタック・インサイド・ア・クラウズ」 ではまたまたネガティブに逆戻り。
 だが人間は、ネガティブとポジティブを、行ったり来たりする存在なのだ。
 この曲は確か、「ブレインウォッシュド」 からのファースト・シングルだったと思うが、私には甚だ疑問だった。
 この曲を最初のシングルに決めたのは息子のダーニだったらしい。 だが、同じダーニが決めたシングルカットでも、「クラウド・ナイン」 の 「セット・オン・ユー」 のときのほうが、ダーニのカンは鋭かったのではないだろうか?
 この曲は、あまりに後ろ向きすぎる。
 死んでしまった人が、「全然眠れない」 などと歌っているのを聴くのはつらいものだ。 前向きな 「エニイ・ロード」 をしょっぱなにもってくりゃ、もうちょっとはヒットしたろうに。

 次の 「ラン・ソー・ファー」 は、もうちょっとアレンジのしようがあるだろう、という曲だ。
 ジェフもダーニも、これ以上いじれなかったのだろうというのは伝わってくるが、こういう地味な曲でこそ、クラプトンを入れたりすべきではなかったろうか。 8曲目あたりになると聴いているほうも結構ダレるものだ。 ここでカンフル剤的な一発を決めていれば、とは思う。
 私は、このアルバムにクラプトンが参加していないことが不思議でならない。 クラプトンは、それどころか、ジョージの訃報に際してなんのコメントも出さなかったし、彼がジョージのためになにかやった、というのは、「コンサート・フォー・ジョージ」 ぐらいしか私には思い当たらない。
 それは逆に、クラプトンがどれほどジョージの死に衝撃を受けているかの証左だとは思うが、ジョージの最後のアルバムくらい、ほんの少しでもいいから参加して欲しかった。 …というのは勝手な言い分だろうか。 私は、ジョージがもし生きていたならば、「ねえ、ちょっと一緒にやってくれないかな」 と、きっと誘いかけていただろうと思われてならないのだ。
 そりゃ、「ラン・ソー・ファー」 のどこにクラプトンが入り込む余地があるのか、とも思うが、「愛はすべての人に」 みたいな方法だってあるだろう。

 9曲目 「ネヴァー・ゲット・オーヴァー・ユー」 は、ジョージの作った最後のラヴ・ソングであろう。
 途中ちょっとシュールな展開になる。 主旋律があっち行ったりこっち行ったり、というような、心ここにあらず、というような。 この箇所だけは何度聞いてもなかなか完璧に覚えられない。 この箇所はこれでいいのかもしれないが、私としては、もう少し覚えやすい旋律ならば、「サムシング」 級の名曲になっただろうと思うのだが。 それにしてもジョージのスライドの歌うこと歌うこと。 ここがジョージのギターの到達点だったのだと思えてならない。

 10曲目 「絶体絶命」 はカバー曲。
 ジョージのアルバムには、カバー曲が息抜きみたいに入っていることが多い。 またそれが、彼のアルバムの特徴の一つにもなっている、と私は思う。
 ジョンもポールも、カバーを1曲だけ自分のアルバムに入れる、なんてことはしない。 全曲オリジナル、というスタイルにこだわるせいだろう。 やるときゃ徹底して、アルバム1枚分まるまるカバー曲にする(「ロックンロール」 と 「ラン・デヴィル・ラン」)(ポールのほうはオリジナルが数曲入っているが、ジョンのほうも、もともとそうするはずだったのでは、と思われるフシがある…「ロックンロール・ピープル」とか)というのも、ジョンとポールのおもしろい符合だ。
 ジョージには、全曲オリジナル、という形態にこだわっているところがない。
 それは、彼がジョンやポールのツートップに比べて、常にダークホース(穴馬)という意識を持ち続けていたことの表れなのだろう。
 私は思うのだが、ジョージは、自分の曲がバリエーションに乏しい、とどこかで考えていたのではないだろうか。 アルバムにちょっとしたスパイスを効かせるつもりで、他人の曲を入れたようにも思える。 
 また、この 「絶体絶命」 は元の曲を聴いたことがないので分からないが、ジョージが手がけるカバーというのはそのほとんどが、大胆なアレンジですっかり彼の曲になっている。 「バイ・バイ・ラヴ」 などは歌詞の一部も変わって、全く原曲と似ても似つかぬメロディになってしまっていたものだ。
 この曲にもフューチャーされていたが、晩年のジョージのイメージには、ウクレレがついてまわる。 というか、総じて、「慈愛の輝き」 のあたりから、ジョージには南国のイメージがそこはかとなく漂っていた。 彼が夢見た楽園は、南国の世界だったのかもしれない。 そのトロピカルな一連の曲群が、イギリスの彼の居城、F.P.S.H.O.T.で作られた、というのは不思議な気がする。

 11曲目 「ロッキング・チェアー・イン・ハワイ」 もそのテの曲だ。 ジョージの作るブルースは、クラプトンの影響が見え隠れするのだが。 クラプトンが好きなロバート・ジョンソンなんかの流れ、というか。 サマになっているよなあ。 ポールなんかは、それに比べると、ブルースをやってもどうしてもポール的になってしまう、というのが笑える。 この曲で、「ババ・サイ」 というところがあるけど、これってサイババのことなのかなあ? ジョージの書いた詩には、ジョンやポールに比べて、わけのわからない意味や単語が結構多いんだけど。

 そしてラストの 「ブレインウォッシュド」。
 このアルバムのなかでいちばん異彩を放っているのがこの曲ではないだろうか。
 どっかで聞いたことのあるような出だしは笑えるし、ジョージの歌い方もフニャフニャでどことなくヘン。 途中で女性の朗読は入るし。 なんでこの曲がアルバムタイトルになっちまうのか、甚だ疑問だった。 まだ、「カカトの肖像」 のほうが人を食っていて面白かったけど。
 ただ、ジョージが現代文明に警鐘を鳴らし続けていたのは確かで、この曲で歌っていることこそジョージが本当に訴えたかったことだ、ともいえる。 この曲は、「世界を救え」 や、「オール・シングス・モスト・パス」 のリマスター盤でジャケットに描き加えられた世界に共通するものがある。
 だが私には、ジョージの警鐘がどうにも表層的にしか響いてこない。 それは、この曲から私の受ける印象が、現代文明への警鐘よりも、彼自身の根源的な魂の葛藤のほうに重点があるように思えてならないからだ。
 この曲の詩で私が最も注目するのは、マントラに入る直前の 「神様、私たちもいっそのこと洗脳していただけないでしょうか」 という部分だ。 ジョージは神への深い帰依を切々と歌い上げてはいるのだが、実はその自分ですらも、神の教えに洗脳されてしまっていることを暗に表現してしまっている、そう私は考える。 ジョージは、みんな神様に洗脳されちまえばいいんだ、とは歌っていない。 私は、神にいくらすがっても、思い通りにならないジョージのいらだちを、そこに感じるのだ。 これは、ジョージの詩人としてのカンなのではないか、と私には思える。

 「ブレインウォッシュド」 というアルバムは、こうしたジョージの煩悶が渦巻く作品でもある。 先に述べたような、生と死におけるネガティブとポジティブの葛藤という面もある。 アルバム全体に、かなり一筋縄ではいかないある種の深さが、奥底に流れていると言っていいだろう。 その意味で、私がこの記事の冒頭に記したように、ジョージは最後の最後まで、その作品に最高のクオリティを保ったまま、この世を去ったのだ。

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2008年12月23日 (火)

NHK 「ブラタモリ」 で見えた 「タモリ倶楽部」 のよさ

 「タモリ倶楽部」 でたまにやっている古地図散歩をNHKでやってみた、という内容の 「ブラタモリ」。

 NHKの、テレ朝低予算番組との取材力の違いは歴然だったが、普段ガチャガチャうるさい芸人のゲストがないぶん、教養番組として成立していた。 単発レギュラー化を望む(追記・2009年10月より2010年3月まで、半年間ではあるが、週1回の放送が実現)。
 とはいうものの、「タモリ倶楽部」 の芸人(でないひともいるけど)が不要か、というとそうでもない。 しょーもない突っ込みを入れても、タモリサンが絶妙の受け答えをするので、見ていて苦にならないのだ。 受け答え、というより、はぐらかし、と言ったほうが当てはまるか。

 私は、「タモリ倶楽部」 はテレビ放送の財産だとかねてから思っている。
 彼のキャラが最も生きている番組といえよう。
 テーマによって当たり外れが大きい、というのもこの番組の特徴だが、テーマがつまらないときのタモリサンのやる気のなさ加減が、また見ていて楽しいのだ。
 却って彼が大好きな鉄道関係のときのほうが、対象に夢中になりすぎるせいか、気の利いたコメントが聞けなくてつまらなかったりする。 そんなとき、製作者側が今回の 「ブラタモリ」 みたいな取材力でカバーできればいいんだが。

 「空耳アワー」、これもなきゃ始まらん。
 空耳のネタ、2、3持ってるんですけど(笑)。
 温めっぱなしだ。
 なんか出すのメンド臭くて。
 ラテン系がひとつとクラシックがひとつ。 
 ビートルズ関係がひとつ。 ビートルズ関係で思い出すのは、「アホな放尿犯」(笑)。 これには笑ったな~。 「大仁田~」 ってのもおかしかった。 ビートルズファンのなかには、こういうのを嫌う人もいるけど、もっと頭軟らかくしなさい、と言いたくなる。 ビートルズっていうのは、頭の固い人たちと対抗する存在だったのだから。
 
 それにしても、これだけいい加減な制作方針で番組が成立する、というのは、深夜番組のせいもあるだろうが、とても貴重だ。 提供がつかないことも多いけど、このニュートラルな姿勢の番組が、いつまでも続いてほしいと切に思う。

 「ブラタモリ」 で進行役を務めたNHKの女子アナウンサー。 久保田祐佳サンとか。
 ずいぶんくだけた感じで、NHKも変わったなーと思った。
 NHKのそのテのくだけたアナウンサーって、なんかぎこちない気がする。 あのビートルズ大好きっていう松本和也アナにしても、バラエティ専門の小野文惠アナにしても。 もともとNHKに入った時点で、自分がバラエティをやる、という気構えで入ってこないからだろう。 もともとそんな気持ちでは、NHKに入りたいとは思わないだろうが。

 ここは公共放送なのだ、という縛りを自らに課しているようなところもある(NHKが国営放送だと誤解している人、ずいぶん多いですよね)。 くだけたことをすると注意されたりするのかもしれない。

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2008年12月20日 (土)

「Mr.インクレディブル」 から三浦友和サンの思い出

 日テレ金曜ロードショー 「Mr.インクレディブル」、見ました。
 主役の男女ふたりの吹き替えが結構ハマってて、声優にしてはあまり聞いたことのない声だったので、誰かと思って、見ている途中で調べたら、三浦友和サンと黒木瞳サンでした。
 ああ、調べるんじゃなかった(笑)。
 分かった途端、ふたりの顔がちらついて、映画に没頭できなくなってしまいました。 声優が誰か分かってしまうって、どうなんスかね。 って調べた自分が悪いんですけど(笑)。

 三浦友和サンは、実はずっと昔、私ファンでした。
 それは私が、山口百恵チャンのスッゲエエエーファンだったことがそもそものきっかけであります。
 だから今も、ほんとうは陰ながら、友和サンを応援していたりして。

 友和サンが歌も歌っていたことを知っている若い世代は、あまりいないんじゃないでしょうか。 ネットで調べりゃすぐ分かりますけど。
 1976年ごろ、ラジオの文化放送で、日曜朝10時から(だったっけな?)「三浦友和と仲間たち」 っていう番組をやっていて、「今月の歌」 というのを、自分のバンドを率いて歌っていました。 番組名と同じタイトルのアルバムも出していた、と記憶しています。
 確かその 「今月の歌」 というのは、リスナーから歌詞を募集して、それに友和サン、かバンドの誰かが曲を作る、という企画でした。 結構エア・チェック(死語? ラジオ番組を録音することです)をして何回も聴き込んだものです。 だから今でもそのうち何曲かは、ソラで歌うことができます。
 いい歌あったよなー。 「エニシダの木陰」とか。 「水たまりのステップ」 とか。 もおおー、誰も知らんかー(笑)。 誰か、知りませんかー(笑)。 思い出共有、しませんかー(笑)。

 その番組に、百恵チャンがゲストで来たことがありました。 確か 「赤い疑惑」 の最終回から間もなくのころ。
 ふたりでその最終回の大島幸子が死ぬシーンを聴きながら、「よく録れてたねー」 とか感想を言いあったり、ドラマ主題歌 「ありがとうあなた」 を流しながら、百恵チャンが、幸子と同じ白血病で入院している女性から、番組に寄せられた手紙を読んだりしていました。
 その手紙のひと、今どうしているんだろう? もう亡くなってしまったのだろうか、とたまに考えたりします。 それとも 「作り」 だったのかも?とか。

 「エニシダの木陰」 という歌も、6年前に死んだ姉のことを書いたリスナーのお便りをもとに、作られた歌でした。 当時はやけに、陰気で深刻な内容の投書が多かった気がするのですが、それが本当なのかどうか、未だに判然としないところがあります。

 さて、友和サンの歌い方は、性格そのままの、クセのない、悪く言えばなんの毒もないような歌い方。
 聴く人の心をわしづかみにするようなインパクトには、正直言って欠けていました。
 だから当時も、一般にはあまり知られることもなく終わった気がします。
 その後友和サンがアガペ・ハウスというバンドを結成した時にも感じたのですが、ロック的なものを目指しているようで、どうもちぐはぐ、という感じでした。
 それもこれも、友和サンのクセのなさすぎる歌い方に原因があった気がします。

 俳優としての友和サンも、そのクセのないさわやかさが逆にアダになって、面白みのない時期がありました。 百恵チャンとの共演をしていた時期でも、あえてそれを打ち破るためだったのでしょう、「泥だらけの純情」 ではヤクザの役をやったりしたこともありました。

 友和サンはそのさわやかなイメージと同時に、百恵チャンの夫、という、男としてはあまりありがたくない肩書と、闘っているようなところがあった気がします。

 それが、相米慎二監督の 「台風クラブ」 で一皮むけて、それからはちゃんとしたひとりの俳優として、認識されるようになったのではないでしょうか。

 「Mr.インクレディブル」 の吹き替えは、最初彼がやっていると分からなかった私の先入観なしの耳に、はからずもその実力の証拠を、改めて見せつけたのでした。

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2008年12月18日 (木)

ジョージの遺作 「ブレインウォッシュド」その2

(2008年12月11日付 「その1」よりつづく)
その1はこちら
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2008/12/post-7e25.html

 「ブレインウォッシュド」 には、ビートルズアンソロジープロジェクト中に曲想を得たような曲がいくつかある。

 2曲目の 「P2ヴァチカン・ブルース」 もそんな曲だ。
 アンソロジー本で、ジョージ本人が幼年時代を回想するエピソードのなかに、「主に1回、マリア様に3回」 という箇所が出てくる。 毎週木曜日になると教会の司祭がやってきて、貧しい人たちから寄付を募り、その寄付金で豪華な教会やパブを建てることへの偽善を感じた、というくだりだ。
 そのエピソードの発言時期と、作曲時期のどちらが先なのかは分からないが、この曲が、ジョージの幼年時代に植えつけられた、キリスト教会への疑問をテーマとして作られたものであることは確かだ。
 ただ、この曲の出だしは、サンピエトロ聖堂でミケランジェロを見たところから始まっているから、それがこの曲を作るキッカケになったのだろう。
 それにしても、こうした、ちょっと間違えると誤解を招いてしまいそうな歌を、ファンキーなブルースにしてしまうところに、皮肉屋ジョージの本領を見る気がする。 「スー・ミー・スー・ユー・ブルース」 に似た発想か。 同じ、アルバム2曲目だし(P2ってことは、ジョージ自身がアルバムの2曲目を指定しているんだろうと思うけど)。

 3曲目の 「魚座」 も、詩の世界だけでものを言わせてもらえば、ジョンの 「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」 が連想されて仕方ない。
 これも、アンソロジー制作のなかで、ジョージが過去を振り返りながら着想した曲なのではなかろうか。 みんな憶測ですいませんねー。 詩から読み取るイメージが、「ルーシー」 そっくりなもんで。
 この曲で一番印象的なのは、やはり最後の 「自分の人生はまるでフィクションみたいだ」「自分の人生は矛盾そのものだ」 というところ。 この言葉は、自分の人生を全体的に総括しようとしなければ、およそ考えつかない言葉だ。 アンソロジープロジェクトが、そのきっかけになっているように、私には思えるのだが。
 個人的には、私もジョージと同じ魚座なので、ちょっとだけ嬉しい。

 4曲目 「ルッキング・フォー・マイ・ライフ」 は、結構ネガティブに、自分の人生があとわずかなのを神に嘆いている内容だ。
 詩のなかに出てくるGCE(普通教育修了試験)って、アンソロジー本にも書いてあった気がするが、あれはポールのところだったっけな。
 「暴発することもあるなんて」 と嘆いているところを聴くと、どうしてもジョージがエイブラハムに胸を刺された事件のことを想起せずにはいられない。
 このアルバムでは、こうしたネガティブな、絶望に負けたままの曲が何曲かある。 「エニイ・ロード」 で"なんとかなるさ"、と楽観論を展開したにもかかわらず。
 だが、かえってそれが人間ぽくていいのだ。
 確かに誰もが、何かに励まされたり、ジョージのように神にすがったりして、強く生きていくぞ、と決意する時がある。
 だがその決意には、いろんな障害がぶち当たるものだ。 その障害にも負けないで、決意を貫き通す、というのは、実は大変な精神力が必要なのだ。
 かえって、どんな障害にも不幸にもびくともしない、なんてほうが、ウソ臭く思える。 だから、ジョージのこの飾らないネガティブさには、とても親近感を覚えるのだ。

 だがジョージはやはり、絶望したままではない。
 5曲目 「ライジング・サン」 は、DNA(マクロ)も宇宙(ミクロ)も同じなのだ、人はみな永遠の一部なのだ、と自覚することこそが重要なのだ、と説く。 おそらくそれは、絶望に対するひとつの処方箋なのだ。

2008年12月24日付 「その3」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2008/12/post-4c3d.htmlにつづく)

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2008年12月17日 (水)

「めぞん一刻」 切なさの構図

 高橋留美子センセイの 「めぞん一刻」 にかぶれていた時期があった。
 浪人生の五代クンが、アパート一刻館の管理人である響子サンと、イロイロあった末に結ばれる、という、またスンゲエ雑に言うとそういう話だ。
 
 最初のうちは、ギャグ色の強いラブ・コメというスタイルに引き込まれて読んでいた。 しかし、主人公の五代クンが一刻館を出ていく話(スピリッツコミック第4巻 「坂の途中」)あたりから、急激にこの作品に対する思い入れ度が高まった。
 つまり、私もその時点で、すっかり一刻館の住人になってしまっていたことに気づいたのだ。

 一刻館というのは、いわば 「エイリアン」 のノストロモ号のように、閉ざされた空間だ。 私がサエない五代クンに自分を重ね合わせていたのは確かだが、このオンボロ風呂なし共同トイレしかも 「プライバシーまるでなし」 という、明らかに過酷な環境である一刻館が、いつの間にかすっかり居心地のいい空間になっていたことに、気づいた瞬間でもある。

 五代クンが好きになる、響子サンという女性のもつ母性愛も、この居心地のよさを支える柱のひとつだろうか。
 響子サンは、マンガ史上まれに見る母性愛のカタマリなのだ。
 彼女は、自分が好きになった人の後ろ盾となり、陰から支えることに強い生きがいを感じる、徹底した自己犠牲型の愛情を持つ女性だ。
 しかも、彼女はどうも、三鷹サンのような完璧な男性よりも、惣一郎サンや五代クンのようなサエない男を支えるほうが、素直な自分でいられるらしい。 嫉妬深い性格は、その世話女房的性格と表裏一体であるといえる。

 そんな環境のなかにいる五代クンひいては私が、一刻館から離れられるはずがない。
 物語の初期で語られた五代クンの 「家出」 は、そのことを痛いほど認識させる 「事件」 だったのだ。
 家出した五代クンをやっと捕まえた響子サンは、泣きじゃくりながら、「帰ってきて、帰ってきて、お願い!!」 と叫ぶ。 この場面は、この物語のなかで私が一番繰り返して読んだ部分だった。

 五代クンはしかし、物語終盤を迎え、一気に私との同化から、離れていった。
 つまり、五代クンと響子サンは、「いたして」 しまったのだ(笑)。
 私の友人の間でもこのことはとても衝撃を持って受け止める向きが多かったのだが、高橋留美子マンガでセックスが出てきてはいかん、という論調が多かった気がする。 この物語は、ギャグを基調として始まった話であり、後半のあまりにもシリアスな(ギャグはもちろんあったけど)展開は、この変容に読者がついていけなかったことの証左とも解釈できる。 

 この物語が終わりを迎えた時、まるで自分自身が一刻館から追い出されたような、深い切なさを感じたのをよく覚えている。
 それを象徴したのが、ラスト近くで、惣一郎サンの写真を五代クンがようやく見ることのできたシーンだった。

 惣一郎サンは響子サンの死んだ夫で、物語中いつもシルエットでしか登場しないキャラだった。 五代クンも何度か惣一郎サンの顔を見ようと試みたが、どうやっても叶わなかった(「惣一郎の顔」 の回など)。
 高橋センセイは、ここで、惣一郎サンの顔を、五代クンには明かしておきながら、読者には、最後まで見せなかったのだ。
 この瞬間、私は五代クンからの完全な決別を強いられた。 幽体離脱みたいに。

 「めぞん一刻」 は、ドラマ化されるたびに、現代とのタイムラグを実感させる。 現代に置き換えてはどうしても成立しない物語だからだ。
 ケータイのなかったつい最近の時代(といってもすでに30年近くも前になる)のラヴ・ストーリーが、「三丁目の夕日」 みたいに、1980年代という時代に封印され、我々の世代間だけで自己完結していくのを見るのは、何となくさびしいものだ。 これも、この物語を切ないものにさせるひとつの要因なのかもしれぬ。

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2008年12月16日 (火)

NHK大河ドラマ 「篤姫」 もう少し書くかな

 2008年大河ドラマ 「篤姫」 の物語に副次的に流れていたのは、「必要悪」 という概念だった。

 物語序盤で、壊滅的な財政危機に陥っていた薩摩藩を立て直すために、家老であった平幹二朗サンは、相当あくどいこともやりながら、なりふり構わぬ改革を断行していた。

 彼の藩内での評判はサイアクで、その真意をただしに於一(おかつ、のちの篤姫)たちは彼の屋敷に乗り込むのであるが、彼は於一の疑問に真摯に答える。
 彼は、自分の命をかけて、藩内の批判を一身に受けようとしていたのだ。

 その直後彼は、罪をかぶる形で自殺を遂げてしまうのであるが、このドラマがいいものになると私が予感した、これが最初のエピソードだった。
 この家老を演じた平幹二朗サンの息子が、途中から登場した徳川慶喜役の平岳大サンというのも、みている側には世代の交代を感じさせるキャスティングだった。

 物語中盤では、安政の大獄という、歴史の教科書にはヒデエ話としか書いていない(笑)圧政をしいた井伊直弼(中村梅雀サン)が、やはり篤姫の詰問で、自らの覚悟のほどを吐露する。
 江戸城に入った時から何かにつけてムカツクやつだったのに、篤姫は、井伊には井伊の信念があることを理解するのだ。

 終盤に入ると、今度は西郷吉之助(小澤征悦サン)である。

 彼は、自分ひとりが悪者になることで、かつての主である島津斉彬(高橋英樹サン)の娘である篤姫のいる江戸城を攻める決意をしている。
 篤姫は、勝麟太郎(北大路欣也サン)からの事後報告で、「西郷らしい」 とひとり納得するのであるが、それは篤姫が、今まで自らの人生に関わってきた人々が行なってきた 「必要悪」 というものの底流にあるものを、本質的に理解していたからなのではなかろうか。
 そして、その必要悪のはびこる俗世間に最後まで抵抗していたのが、将軍家定(堺雅人サン)であり、家茂(松田翔太クン)であり、小松帯刀(瑛太クン)だったのではなかろうか。

 この物語のなかでは、必要悪を、いいことだとも悪いことだとも結論づけしていない。
 ただ、徳川家の心を守ろうとした篤姫が、その志を全うしていくのに対し、篤姫の周りの人たちは、そのまっすぐな志を果たせないまま死んでゆくものばかりだった。 小松にしろ、西郷や大久保にしろ。

 それは、飛躍すれば、現代に至るまでのこの国の政治が、志というものを失っていく過程のように、私には思えるのだ。

当ブログ 「篤姫」 に関するほかの記事
「篤姫」 役者の成長http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2008/12/nhk-8b82.html

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NHK大河ドラマ 「篤姫」 役者の成長

 今年2008年のNHK大河ドラマ 「篤姫」 は、セリフの端々に 「家族じゃ」「家族ではないか」 と、何を訴えたいのかがとてもよく分かるドラマだったが、そうした小手先のテーマの強調よりも、よほど説得力があったのが、主演の宮崎あおいチャンの演技だった。

 特に物語終盤では、幾島(松坂慶子サン)と再会しては泣き、小松帯刀(瑛太クン)との最後の対局で泣き(今生の別れと分かっているわけでもないのに)、なにかっていうと途端に目がウルウルしていた。
 これは、あおいチャンが1年間演技をともにしてきた共演者に対して、とても強い絆を感じているのだと、みている側に納得させるのにじゅうぶんな演技だった。 共演者とのそれを家族の絆、というには大袈裟な気もするが。
 宮崎あおいチャンが、いかに篤姫と一体化していたかもうかがい知れる。

 それは、物語中盤で、夫の家定(堺雅人サン)が死んだときの涙の演技とは、質的に違うもののように思う。

 その時彼女は、泣こうとして泣いていた。
 終盤での涙は違う。
 たぶん、この1年で、彼女自身の演技が成長したのだろう。

 最初に私が、2008年の大河は宮崎あおい主演、と聞いた時、こんな大役が務まるのか?と疑問だった。
 だが第1回目を見て、この子は物語の根幹の部分をちゃんと理解している、というように見受けられた。
 おもしろい、このコはいける、と思ったものだ。

 大河の最終回によくありがちな回想シーンでの、彼女の少女期の演技は、私のそのときの気持ちを思い出させてくれた懐かしいものだったが、あらためてこうして序盤の演技を見ると、メイクさんの腕にも感心するが、実にキャピキャピしていて、壮年期と完璧に演じ分けがされていたことにちょっとびっくりした。
 そりゃ幾島の厳しい特訓があったからこそ、あれほどまでに変身できたのだが、さすがに大河ドラマの主役を張るだけの力量はある。 20歳そこそこだというのに感心する。

 その20歳そこそこの女の子が1年間頑張ってきたのだ。
 終わりが近づくほど涙ボロボロになるのは、そりゃ仕方ないではないか。

 厳しい見方をすれば、プロならば泣くべきところではないシーンでは泣くな、ということになろうが、却って冷静に演技をされたほうが見ているこっちがしらけてしまう。

 終盤の彼女の感情の昂りはそのギリギリの線で保たれていた。 彼女は、プロとしての演技を全うしたのだ。

当ブログ 「篤姫」 に関するほかの記事
「篤姫」 もう少し書くかなhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2008/12/nhk-af93.html

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2008年12月13日 (土)

「シックス・センス」 の恥ずかしい思い出

 ずいぶん前の話になりますが。

 映画 「シックス・センス」 の結末が分からなくて恥をかいたことがありました。 というか、分かったつもりでツマンネエ映画だったと妹と話していたら、「そうじゃないよこうだよ」 って、ぜんぜん違ってた。 がーんそうだったのか、って感じ(笑)。

 今思い出しても恥ずかしい。
 映画のオチが分からないなんて人生始まって以来。
 単なるオバケものと思って見くびって見ていたのがまずかった。 ユーレイ話にはよくあるエピソードの連続で、「何を今さら…」 と思いながら見ていたのがまずかった。 何かもっと騒々しいクライマックスがあるのを期待しながら見ていたのがまずかった。

 だが、結末がああだったと分かっても、なんだか納得がいかないんですよ。
(ここからは映画を見た人だけがお読みください)
 ブルース・ウィリスがそのことに気づかないってのが、まず最大の不自然なんですよ。
 フツー気づくでしょう。
 気づかないからこの世に残ってんじゃなくて、未練があるから残ってんでしょう。
 1年以上も気づかないほうがおかしい。
 モノにさわれなくなった時点で気づくんじゃないですか? それを何ですか。 わざわざ椅子をあらかじめひいておいたとかいう演出は。
 そーだそーだ。 オレは悪くないぞー(笑)。

 「ゴースト~ニューヨークの幻」 のユーレイの説明の仕方はすごく納得できたけど、その価値観で 「シックス・センス」 を見ちゃいかん、ということですかね。
 だいたい、結末がああだったとわかっても、大して面白くない、と個人的には思います。 逆に言うと、結末だけが命の映画という気がします。 思いっきり負け惜しみですけどね(笑)。

追記 アールグレイ様
コメントありがとうございます。
返信したいのですが私初心者なもので方法が分かりません。
ここでお礼をさせていただきます。

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2008年12月11日 (木)

ジョージの遺作 「ブレインウォッシュド」その1

 ジョージ・ハリスンの遺作となった 「ブレインウォッシュド」 についてのきちんとした評論は、発表から6年たった2008年現在になっても、あまり読んだことがない。

 それは、ジョージの生前からの制作過程と、本人が亡くなってからジェフ・リンとダーニ・ハリスンが手がけた制作過程の、その両方に関する情報があまりに少ないことにその要因があるように思われる。
 ジョージが亡くなってから1年もの間、遺作が出るぞ出るぞと言われ、さんざん待たされたあげく、リリースされたこのアルバムが、どこに1年もかけたのだろうと思われるような、地味なプロデュースぶりだったから余計、謎なのだ。
 だからおそらく、ジェフとダーニが仕上げる前に、このアルバムの曲はジョージの手によってほとんど出来上がっていたのだろう、と誰もが予測した。 ジェフとダーニは、オーバープロデュースを徹底して避け、いかに原曲のジョージ本人のプレイを尊重するかに腐心したのだと。

 それにしても、当初の情報では2枚組にするくらいの曲があるということだった。 察するに、このアルバムからふるい落とされた曲は、歌詞などが不完全で、どうあがいても曲にできるほどの完成度がなかったことになる。
 それでも私はあえて書くが、すべての曲が聴けないということには不満が残る。 「アイ・ミー・マイン」 のように、1分程度の曲を2分程度にするみたいな裏技を、ジョージだって黙認していたではないか? その、ジェフたちの、ジョージの遺志を尊重しようとして、結果的にまるで腫れ物に触るかのようになってしまったプロデュース態度が、なんだかこのアルバムを却って地味で一本調子な印象のものにしてしまったような気がして、はなはだ残念に思うのだ。
 これはあくまで私のわがままな言い分だが、正規盤とは別に、スペシャル・パッケージという形で、ふるい落とされた曲たちも陽の目を浴びさせてもらいたかった。

 だがだからといって、このアルバムが傑作でない理由にはならない。 ジョージは、ものの見事に、最後の最後まで、最高のクオリティの作曲を貫き通したのだ。
 ともかく、情報があまりにも少ないので、憶測だらけの文章になってしまうことを初めに断っておく。

 このアルバムを聴いて最初に気づくのは、ジョージの声質の変化だ。
 ずいぶん低いキイで歌っている。
 喉頭癌のせいかもしれないが、私は加齢によるものだと考える。 毎日歌いでもしない限り、ふつう人の声というものは、年齢とともに低い声になっていくものだ。 ジョン・レノンはこの点、活動停止していた最後の5年間、「ギターに触ったこともなかった」 などと言っていたが、結構頻繁に歌っていたのだろう。 「ダブル・ファンタジー」 でも、かなり声が出ていた。 ジョージは、あまり歌っていなかったのだろう。

 だがこの低い声によって、このアルバムにおけるジョージの存在感は、否応なく増している。 ほかのアルバムに比べて、ジョージの肉声をダイレクトで聞く気がするのはそのためだ。 実に生々しい。 体温さえ伝わってくる気がする。 ヴォーカルに余計なエフェクトがかけられていないせいもあるだろうが。

 そして歌われる内容が、自分の人生と向き合ったようなものが目立つのもこのアルバムの特徴だ。 それがジョージ自身の、その 「肉声」 で語られるために、余計こちらに強く訴えてくるものがある。

 その曲の多くは、自分が死期の近いことを悟った段階で作られたものではないか、と私には思えてならない。 このアルバムの制作が1999年から開始されているところを見ると、それと並行して曲作りも始めたのだろう(書きためていたものに、人生の苦悩を表現した部分を書き足したということもあり得るが)。
 そこに、ジョージの 「死を前にした焦り」 みたいなものも感じる。 生きているうちに自分の表現したいことはすべてやっておこう、という性急さを感じる。 いや、まさにジョージが音楽活動を再開したのは、それが動機だったのではないか。 でなければ、15年も音沙汰なしのミュージシャンが、まとまった数の新作を作ろうと思いつくことなど考えられない。 たとえ1曲2曲、誰かに提供したり、ゲスト参加したりしても、その程度で終わるだろう。
 ジョージは、焦っていたはずだ。

 私は、このアルバムを聴いていると、たまになんだかこっちまで急がされているような胸の動悸を感じることがある。
 1曲目の 「エニイ・ロード」 もそんな曲だ。
 なにしろ歌詞が膨大だ。
 言いたいことをすべて詰め込んだ感じ。
 ただ、その内容は、人生への肯定感で埋め尽くされている。
 私はこの曲が、ジョンのアルバム 「イマジン」 のなかの1曲、「ハウ?」 に対するアンチテーゼもしくはアンサーソングである、と常々考えてきた。
 ジョンは 「ハウ?」 のなかで、「どこへ向かっているかも分からないで、どうやって前に進むことができるだろうか」 と語ったが、ジョージはこの曲で、「どこへ向かっているかが分からなくても、目の前に道があればとりあえずどこかへは行けるだろう」 という結論を導いている。
 それは、明日の見えない状況下でも、何も方法がない、行き先なんかどこにもないと絶望するよりも、とりあえず第一歩を踏み出そう、そうすりゃ何とかなるさ、というポジティブな生き方を勧めている点で、ジョンの考えの先を行っているスタンスだと、私は考える。
 それが、自分の死期が近づいた男の言うことだから、余計に説得力があるのだ。
 ジョージは、オレはいくら絶望的な状況でも、絶対絶望はしない、気楽にいこうぜ、と宣言しているのだ。
 ただ、考えてみれば、ジョンが 「ハウ?」 を作ったのは30歳そこそこだったのに対し、かたやジョージはもうすぐ60の声を聞こうかという年齢だ。 悲観的な 「ハウ?」 をジョンが克服するには、もっと年齢が必要だったに違いない。 死を目前にしたインタビューの中で、ジョンはいみじくもこう述べていた。
 「ぼくは生き続けている人を尊敬する。 死んだ人が何を教えてくれるっていうんだい?」
と。

2008年12月18日付 「その2」 へつづく→
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2008/12/post-1bc1.html

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2008年12月 9日 (火)

「エヴァンゲリオン」 物語の破綻

 「新世紀エヴァンゲリオン」 は、現在のところリメイク版が進行中である。

 私もこの作品にずいぶんハマったほうだが、この作品に対する庵野監督の姿勢には常々疑問を感じている。
 自分でラストシーンをこうする、という確固たる信念が見受けられないことについてだ。
 だからテレビシリーズでも、劇場版でも、ちゃんとしたラストを用意できない。 リメイク版の進行が遅れているのも、たぶんちゃんとラストを決めていないせいだ。

 だがそれは仕方のないことだ。 風呂敷を広げすぎてしまって収拾がつかなくなるのは、創作活動においてよくあることだからだ。

 この物語が不幸なのは、ラストを提示する前に、マニアックな研究がされつくしてしまったことにある。 テレビシリーズのラスト2回でちゃんと終われなかったばかりに、見ている側に考える隙を与えてしまったのだ。
 だがあのラスト2回がなければ、これほどまでに後世までの議論を呼ぶアニメにはならなかっただろう。 だから、話を思い切り引っ張れたという点では、不幸というより幸運だったのかもしれない。 興行的にも。
 しかし本放送できちんと終わっていれば、こうもわけのわからない展開にはならなかっただろうに、とも思う。 たとえそれがチンケなラストだとしても。

 正直なところ、旧劇場版のラストは、言いたいことは何となくわかったけど、気分がモヤモヤして面白くなかった。
 それは、主だった登場人物がほぼ全員、救いようのない形で死んでしまったところに原因がある。
 さらに、生き残ったシンジもアスカも、精神的にちっとも前向きでないところに最大の原因がある。 だから最後にいくら膨大なセリフをならべられても、虚しさとしてしか残らないのだ。 なんでシンジは、アスカの首を絞めなきゃならんのか。 なんでアスカは、「気持ち悪い」 と言わなければならないのか。 解釈の分かれるラスト、というのはよくあるが、ここまでシュールになると、却って結末を放棄したように見えてくるのだ。

 旧劇場版の終盤で、エヴァの最初の劇場版を見に来てくれていた映画館の観客席の写真を一瞬映し、「それでいいの?」 とか、エヴァに依存し過ぎている人たちに対して、マニアの責任を言いたげな部分も、個人的には不快だった。 観客に責任を転嫁するのであれば、初めからギブ・アップすればいいのだ。

 同時に、庵野監督のネガティブさが、このラストには凝縮されている気がする。
 あの不可解なラスト・シーンは、「どんなラストだろうと批判されるだろうから」 という、いさぎの悪さを感じてしまう。 さんざん迷いに迷ったあげく、「もういいやこれで」 みたいな感じ。 「これでいいのだ!」 という、バカボンパパ並み(笑)の堂々さがないのだ。 

 庵野監督は、この 「エヴァ」 という物語を最初に作ろうと思ったとき、いったい世間に対して何を訴えたかったのだろう。 ただ単に、電源コードのついているロボットものをやりたかっただけなのだろうか。 それにしては設定が濃すぎると思うのだが。

 リメイク版では、ラストは大幅に変えてもらいたいのが正直な私の気持ちだ。 ハッピーエンドでなくてもいい、最後まで見てよかった、前向きに明日に向かって生きていこうという気持ちの湧き出るものになれば。 さんざん待たされたあげく、庵野監督の悲観的な人生観など、押しつけられたくはない。

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「ペリーヌ物語」 経営論

 世界名作劇場 「ペリーヌ物語」 の放送から、早30年がたった。

 このシリーズ中一番熱心に見たのがこの番組だった。
 というのも、ペリーヌがかわいかったからに他ならないのだが、放送当時私自身が彼女と同じ13歳だったこともある。 このシリーズ中では最もシンパシーを感じたヒロインだ。

 ボスニアからフランスのマロクールまで母と一緒に祖父のもとへと旅をし、祖父から疎まれていることが分かり素性を隠しながら次第に祖父の愛情を勝ち取っていく、という、スンゲエ大雑把に言うとそういう話なのである。
 とにかく、後半のテンションの上がりまくり状態にはしびれる。
 そのため前半が結構かったるいのだが、いろんな伏線があるために疎かにできない。

 それはそれとして、ここ数年、私のこの物語に対する興味が、以前とは別のところにあることに気づいた。
 ペリーヌの祖父ビルフラン・パンダボアヌが社長を務める、パンダボアヌ紡績工場の経営のあり方だ。

 ビルフランの仕事ぶりは、さすがとしか言いようがない。 他人にも自分にも厳しい、というのが、女工のロザリーにも認識されるほどの経営者ぶりだ。
 彼は、自分が命令したことに対して、部下が最後まで責任を持ってやり遂げないと決して満足しない。 かといって、うまくできなかったことを責めるのではなく、安易に妥協して済ませることをよしとしない。 ビルフランは、彼の命令を受けた部下がその問題を解決するためにどう動いたかを最重要視するのだ。

 たとえば、機械の故障の原因を調べろという命令に対し、工場長のタルエルはろくな調査もせず、「あの機械は20年以上も使っているから寿命がきたのでしょう」 と答えるが、ビルフランは納得しない。 「だろう」 とか、推測でものを言うな、ということだ。
 ビルフランはタルエルの言うことに耳を貸さず、「もういい、自分で調べる」、と言い出す。 ここでタルエルに、「ちゃんともう一度調べろ」 とか、「担当を呼べ」 とかいう反応をしないのだ。
 問題への対応は自分の目で見た判断で、早ければ早いほどいい、という見本だ。

 そして、そのことを調べるために工場内を歩いていると、在庫係のジャックがさぼっているのを即座に見つけてしまう。
 目が見えないのに、である。
 一緒に歩いていたペリーヌは、そのことに驚いてしまうのであるが、それもさることながら、私はビルフランが、工場内の人員配置を完璧に記憶していて、その担当者がその時間帯に工場のどの場所にいなければならないのかを把握していたことに注目する。 現場サイドの監督者クラスともなればそれくらいは当り前のことなのだが、ビルフランがこの工場のトップであることや、工場の規模の大きさ、彼自身目が見えないハンデを考えると、結構驚異的だ。

 英字新聞を取り寄せて情報収集を図る、というのも経営者としては重要だ。 おそらくベンディットが英字新聞を読んでいたのだろうが、彼が病気で倒れた時、ビルフランはペリーヌが英語を読めることが分かると即座にペリーヌを登用する。 年端のいかぬ女の子だとかいう偏見などまるでない。 非常に柔軟に適材適所を決定するのだ。

 御者のギョームを解雇する時もそうだ。 ギョームはタルエル派で、酒癖が治らない問題の多い男だった。 おそらく彼をクビにできなかったのは、ほかに馬を扱える適当な者がいなかったからなのだろう。 ペリーヌが馬を扱える能力があることが分かった時、ビルフランはこの男をクビにしてしまう。 まあ、勤務中に酒を飲んでビルフランの馬車を急停車させるという最悪のヘマを、ギョームがやらかしたことも大きいのだが。

 ビルフランの判断は常に的確かつ迅速だ。
 また厳しい。
 優柔不断なところがない。
 それは、経営者としては正しいあり方かもしれない。
 だが、経営者は、それだけでは人間がついてこれなくなってしまうことを自覚すべきだ。

 あまりに厳しさに徹すると、側近たちがイエスマンだらけになってしまう。 タルエルがいい例だ。 すると、経営理念だけは立派で、従業員の不満も分からない、ワンマンで近視眼的な経営しかできなくなる。
 先ほど例に出した、「もういい、自分で調べる」 というのも、自分の目で確かめたほうが効率がいいことは確かだが、それでは何のための部下なのかが分からなくなる危険性もはらんでいる。
 会社は、従業員あってのものなのだ。
 従業員のために会社があるのであって、会社のために従業員があるのではない。

 昨今は、会社の存在意義だけが独り歩きをして、この会社がなければ社会が不安に陥るだとかいう理屈が大手を振っている。 立ち行かなくなればまず人員削減、それが当然のように行われる。
 ペリーヌは、昨今の会社のように硬直化されつつあったパンダボアヌ工場の経営に、大きな転換を呼び込んだ。 従業員たちの周辺環境を改善する 「福利厚生」 である。

 会社が存続するためには、やはり従業員への愛がなければならない、というのが、「ペリーヌ物語」 から学べる経営哲学だ。 ペリーヌの母マリが最後に残した言葉、「人から愛されるには、まず自分がその人を愛さなければ」 というのは、現在の経営者たちも大いに学ばなければならない点なのではなかろうか。

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2008年12月 8日 (月)

ジョンの命日にポールの話

 振り返ってみると、ジョン・レノンが40歳の若さで殺されてから、ポール・マッカートニーの苦闘の人生が始まったように思えてならない。

 別に彼の人生はその後も紆余曲折はあったものの、総じて栄光に包まれているのだが、彼の言動には、いつもジョンの亡霊と闘っているようなところがある。
 いまだに圧倒的な存在感で崇拝者が後を絶たないジョンに対し、ポールは 「当事者」 として、「そりゃ彼は大した奴だったけど、そんなに祭り上げられるほどのことかい?」「ジョンばっかりほめられるけど、もっとぼくをほめてよ!(碇シンジか?)」 という感情でいるのではなかろうか。

 私が、ポールはまだこだわってるな、と思ったのは、2002年に発表された 「ドライヴィンUSA」 のライヴ盤で、レノン=マッカートニー名義で出されてきたビートルズ時代の曲のうち、自分の作ったものをマッカートニー=レノンとクレジットし直した一件だった。
 確かにビートルズのごく初期には、マッカートニー=レノンでクレジットされたこともあることはあったが、それはそれとして、それ以降はずっとレノンが先で統一されていたではないか。
 正直なところ、こういうセコイ真似をするな、ジョンは 「ギヴ・ピース・ア・チャンス」 でも、 (たぶんやり方を知らなかったかメンド臭かったのだろうが)作曲者クレジットでレノン=マッカートニーを貫いて友情を示しているではないか、と思ったものだ。
 だが、ポールがジョンの過大な評価にいまだに対抗していると考えると、少し同情的にもなる。

 彼がジョンに対して愛憎入り混じった感情でいるもうひとつの原因は、おそらくヨーコ・オノの存在だろう。
 ポールは、ジョンに対して、同性愛とはいかないまでも、強力なシンパシーを感じていたはずだ。 それは、ふたりとも少年時代に母親を亡くしているという共通の傷を持っていることが大きい。 ポールがジョンを追悼した曲 「ヒア・トゥデイ」 のなかで、一緒に泣いた夜、というくだりがあって、最初にこれを聞いた時、私は一緒に泣くなんてことがあるのだろうか、とずいぶん不思議に思ったものだ。 「アンソロジー」 本でそれが母親を思って泣いた、ということが分かりようやく納得したのだが、そのジョンにとっての母親の存在を略奪したのがヨーコだと、ポールはどこかで考えているのではないだろうか。

 すべて憶測で恐縮だが、1年前(2007年)に行なわれたヨーコサンの 「イマジン・ピース・タワー」 点灯式にも、リンゴやジョージの奥サンのオリヴィアサンは出席したのに、ポールだけがいなかったのも、彼のヨーコサンに対する複雑な感情を見て取れる。 表向きはすっかり仲良し、みたいな言動をしているが、ポールはヨーコサンを(完全には)許していない、ように感じる。

 話はそれるが、ポールはヨーコサンと同時に、ヨーコサンの母国である日本にもあまりいい感情を抱いていないのではないかと思うことがある。 だって麻薬で捕まってロウヤにまで入れられたし(笑)。
 麻薬逮捕直後に発表された 「フローズン・ジャパニーズ」 の原題が 「フローズン・ジャップ」 だと知った時は、そりゃショックだった。 悪気はなかったなんて、ポールは強弁しているようだが。 一緒に収監されていた連中に教わった 「オッス!」 は連発するし。 皮肉に聞こえます(笑)。 なにも悪いことしたやつらに無料でイエスタデイを聞かせることはないだろうって思うのだ(でもビートルズのエピソードって、いちいちとんでもないよなあ)。 近年何度もツアーをしているのに、2002年以来、日本に来てないし。

 まあ日本にいいイメージがないといっても、ファンには親切だし、ポールは基本的に、常識のあるいい人である。 私などは件の2002年の東京ドームで … この話は当ブログ 「ポールが声援にこたえてくれたこと」 を参照してください。
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2008/12/post-6f05.html

 ポールがジョンに対抗しているというのは、彼が常に共作のパートナーを求めていることでも分かる。
 リンダをソロになってから最初のパートナーに選んだのも、ジョンとヨーコが夫婦で活動していることに対抗したように思えるのだ。
 だいたいリンダはこう言ってはなんだが、ズブとは言わないまでも、素人レベルであったことは確かなのである。 カメラマンの奥サンを自分の音楽的なパートナーにする、というポールの発想は、ビートルズ後半に次第にギスギスしていった仲間と仕事することへほとほと嫌気がさした末、自分の信用のおける人物と仕事をしたい、という、当時のポールの心情が反映されたもののようにも思えるが、そのバックグラウンドには、ジョンとヨーコの関係が確実にある、そう私は考えている。

 ただリンダとはさすがに、ジョンほどの化学作用が望めない。 ポールは最初、ウィングスのデニー・レインと共作を始める。 個人的には、レインとの共作は結構うまくいっているレベルだと思うのだが、いろいろあって(笑)ウィングス解散後は、疎遠になっていく。
 ポールはマイケル・ジャクソンやスティービー・ワンダーと共演し、10ccのエリック・スチュワートやエルヴィス・コステロに至るまで、共演相手を探し続けた。 この期間というのは、実にジョン・レノンが死んで以降数年に限定される行動だ。 これはポールの喪失感ゆえの行動である気がしてならない。
 ただ、そのほとんどは失敗に終わっているが。

 ロックンロールのオールディーズを集めたアルバムを作る、という点でもそうだ。 1999年発表の 「ラン・デヴィル・ラン」 である。 表向きは 「リンダが生前望んでいたから」 という名目だったが、明らかにジョンのアルバム 「ロックンロール」 に対抗している。 1曲目がジーン・ヴィンセントの曲、というのは、もろに分かりやすいよなあ。

 私は、ポール・マッカートニーの人生がほんとうに評価されるのは、皮肉でエンギでもない話だが、彼が亡くなったあとからだと思う。 だから私はまだ彼が生きている今、声を大にして言いたい。 彼の人生で最も重要かつ学ぶべき点は、他でもない、ジョンという盟友が死んでからの彼の戦いにある、と。

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2008年12月 7日 (日)

ポールの 「イエスタデイ」 に関する恨みごと

 コアなビートルズファンになるほど人気のない、ポールの作った 「イエスタデイ」。

 この曲が嫌いな人たちは、あまりに有名すぎて聴き飽きた、という理由のほかに、バンド演奏じゃないのに、ビートルズをあまり知らない人たちが安易にこの曲をビートルズの代表曲としてしまうことに、抵抗があるようだ。
 確かに、ビートルズは、それまでの世の中の権威に対抗する象徴のように登場したもんだから、それが権威の側からほめられるような曲を作った、ということに、コアなファンは嫌悪感をもよおすのだろう。

 しかし、私はこの曲が嫌いではない。
 実のところ、私がビートルズに興味を持ったのは、この曲がきっかけだった。
 私が小学6年だった1976年当時、「イエスタデイ」 はすでに音楽の教科書か副読本だったかに(メロディラインの楽譜だけだったが)載っていた。 発表から10年程度で載っていたのだから、今から考えると驚くべき早さだ。 そのころにはもう、何百ものカヴァー曲が存在していたひとつのスタンダードだったのだ。 学校の給食時にかかる校内放送でも、なんだかグレゴリオ聖歌みたいな男声コーラスの 「イエスタデイ」 が流れていたのを記憶している。
 そんなこんなで、当時同居していた叔父の持っていたレコードのなかに、確か 「イエスタデイ」 って入ってたよなあ、とごそごそ赤盤を探し当てて聞き出したのが、私のビートルズ遍歴の始まりだった。

 そのため未だに思い入れのある曲なのだが、どうもこの曲に対するファンや評論家の評価が低くて、なんだかもどかしくなることが時々ある。
 その人たちの言い分は確かに当たっている。 ポール個人の曲だとか、ポール以外にこの曲のレコーディングに参加していないとか。。
 私個人の見解を述べれば、この曲はやはり、世紀の傑作だ。

 この曲には、繰り返しの部分がほとんどない。 リフの部分に一か所あるくらいか。 そんな構成の曲はほかにもあるが、それに加えて、一貫してすべてが印象的かつ美しいメロディで、無理をしてくっつけたというぎこちなさがまるでない。 始めから終りまで、というのは、それだけで驚異的なんじゃないだろうか。

 また、ジョンが関与していないといわれる歌詞だが、ポールはすでに、ビートルズ中期の時点で、ジョンも及びのつかない作詞の才能を見せつけた。 あの曲の発表時点で 「イエスタデイ」 の歌詞に匹敵することのできるジョンの作品は、「ゼアス・ア・プレイス」「ヘルプ!」「悲しみはぶっとばせ」 くらいしかない。 と個人的には考えている。

 それにしても思うのは、「イエスタデイ」 とジョンの 「ヘルプ!」 は歌詞がよく似ている、ということだ。
 この2曲とも、対象こそ違うとはいえ、ともに昔を懐かしむ曲である。 ポールは優しかった恋人(歌詞の意味上ではそうだが、じっさいにポールは、亡くなった母親のことを想定しながらこの歌詞を書いている)に、ジョンはなにも気兼ねのなかった若いころに、苦い思いをいたしている。
 出だしの部分から、「若かったころは誰かの助けなんかちっともいらなかった」(「ヘルプ!」)「昨日まで僕の悩みなんかずっと遠くにあると思っていた」(「イエスタデイ」)、となんだか張り合っているようにさえ見える感じだが、象徴的なのは、その昔が 「バニッシュ・イン・ザ・ヘイズ」 (「ヘルプ!」)「ゼアズ・ア・シャドウ・ハンギン・オーヴァ・ミー」(「イエスタデイ」)、という具合に、霧のなかに隠れてしまっているように、ふたりには見えている点だ。
 この2つの名曲はおそらくほぼ同時期に作られたはずだから、何らかの影響をどちらかが与えている可能性がある、と私には思える。

 そして、この 「イエスタデイ」 を名曲たらしめているもうひとつの理由は、ジョージ・マーティンのストリングスアレンジだ。

 アレンジャーの手腕というだけで、それはビートルズの功績ではない、とする意見もあるだろう。 しかし、この人がいなければ、ビートルズはデビューすることさえままならなかったかもしれないのだ。 「プリーズ・プリーズ・ミー」 もスローナンバーのままヒットせず、スーパースターになるきっかけを失ったかもしれないのだ。 この人の働きをビートルズのカテゴリーに入れないことは正しくない。
 私はこの人の仕事を長年見てきたが、この人のストリングスアレンジの最高峰はこの 「イエスタデイ」 だと断言する。
 四つの弦楽器のひとつひとつを注意しながらこの曲を聴いてみよう。 その絶妙な絡み合いに舌を巻くはずだ。

 と、ここまで 「イエスタデイ」 を絶賛した私だが、ちょっとここからは苦言を呈したい。 誰にって、ポールにである。
 この曲、ギターで弾き語りをしようとすると、少々面倒なのである。
 この曲のギターのチューニングが、6弦すべて2フレット、つまり1音下がっているのだ。
 つまりこの曲をオリジナルで演奏しようとすると、糸巻きをキリキリやって2フレット下げなければならない、という面倒な作業を強いられる。
 ギターをもう一本、そのチューニングで揃えればいいのかもしれないが、それも面倒な話だし。
 仕方がないから、この曲を弾く時はいつもF基調のバージョンで演奏している。 ほんとは2フレット下げGコードのオリジナルで弾いたほうが雰囲気が出るのだが。
 実はポールにはこの手の 「反則技」 でちゃんと弾けないもどかしい曲がまだある。
 「カリコ・スカイズ」「ジェニー・レン」 だ。 このふたつともアコギの名曲なので、是非ともちゃんと弾きたいのに。

 こういうのは今後やめてくれませんかね、ポール(笑)。

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ジョン・レノンのマイナーキイの曲は誰の影響か

 ジョン・レノンは、基本的にマイナーキイの曲を作るタイプの人ではなかった気がする。 と言うよりも、ビートルズの楽曲全体に占めるマイナー曲の割合自体が本来かなりひくいのだが。 とりあえずここではジョンの場合だけを例にとることにする。

 ビートルズ時代から見ても、最初にリリースされたジョンのマイナーキイの曲というと、アルバム 「ラバー・ソウル」 の中の 「ガール」 まで容易に思いつかない。
 ブルージーな曲にしても、思い浮かぶのはメジャー基調ばかりだ。 ためしに挙げてみると、「ナット・ア・セカンド・タイム」「ジス・ボーイ」「ノー・リプライ」「アイム・ア・ルーザー」「イエス・イット・イズ」「悲しみはぶっとばせ」「ノーウェジアン・ウッド」 といったところか。 どれもメジャー基調だ。
 「アイル・ビー・バック」 などはメジャーとマイナーを行ったり来たりしているが、ジョンの頭の中では、デル・シャノンの 「悲しき街角」 が流れていたことだろう。 だが、この曲も基本はメジャーだ。
 ビートルズ時代前期のマイナー曲ではヒットと言える 「ガール」 だが、マイナーの曲も作ってみました、的な匂いがして、あくまでイレギュラーな産物でしかない気がする。

 だが、ビートルズ後期からソロ・キャリアに入ると、途端にマイナーキイの曲が多くなるな、という印象がある。 ざっと思いついたところで言うと、「グラス・オニオン」「ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」「カム・トゥゲザー」「アイ・ウォント・ユー」「コールド・ターキー」「労働者階級の英雄」「ウェル・ウェル・ウェル」「イッツ・ソー・ハード」「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」「ワン・デイ」「スケアド」「スティール・アンド・グラス」「アイム・ルージング・ユー」 などか。 ただ、ソロ・アルバムに占める全体の割合から言えば、低いことに変わりはないのだが。

 私は、ジョンの曲にマイナー調の曲が増えた原因は、ヨーコサンにあると思っている。

 ヨーコサンは、基本的にエーマイナー(Am)の人なのではなかろうか。
 いや、ヨーコサンだけの話ではない。 日本人全体が、基本的にエーマイナーなのではないか、とさえ私は思っている。
 要するに、われわれ日本人は、民族の特性として、「悲しい曲はマイナーに限る」 という価値観を抱いているのではないか、ということだ。 しかもエーマイナー。 「四季の歌」 も 「時には母のない子のように」 も 「帰らざる日々」 もエーマイナーだ(笑)。

 私がヨーコサンの曲で強烈なインパクトを受けたのは、アルバム 「ダブル・ファンタジー」の曲群だった。
 「アイム・ムーヴィン・オン」「ビューティフル・ボーイズ」「男は誰もが」 といった一連の曲は、すべて見事にマイナー調である。 当時私は、ヨーコサンはジョンと一緒で幸せなはずなのに、どうしてこんなに悲しい曲ばかり作るのだろう、といぶかしく思ったものだ。 ジョンが殺された時、「ダブル・ファンタジー」 を聴きながら、ヨーコサンはこの悲劇を予感していたのではないか、とさえ思ったほどだ。

 「ダブル・ファンタジー」 はジョンの最晩年の作品だが、この、ヨーコサンという、日本人が持つ独特のエーマイナーDNAに、ジョンが影響されなかったとは、私にはどうしても思えない。 しかも、相当早い段階で、影響されているようなフシもある。 先に挙げた、ビートルズ後期のマイナー曲、「アイ・ウォント・ユー」 は、明らかにヨーコサンに向けて書かれたものだ。
 ただ 「アイ・ウォント・ユー」 は同時にブルーズの形式であることもまた確かだ。 ブルーズのなかに秘められた黒人たちの悲哀は、日本人がDNA的に受け継いでいる 「もののあはれ」 の感覚と自然と合致したのだろう。

 さらに無意識の領域で、ジョンの気持ちはヨーコサンの日本民族DNAに少なからず共鳴していたのではないだろうか。 ヨーコサンと出会う前にも、日本の民謡に影響されていたくらいのジョンである。 この人って、結構いろんなモノに影響されやすいタイプだと、私は思うのだが。

 われわれ日本人も1960年代当時、ブルーズを自らのDNAに取り込んで、「港町ブルース」 とか 「伊勢佐木町ブルース」 とか、歌謡曲の一部にしてしまったではないか。 ジョンのマイナーコードの曲も、その歌謡曲の逆輸入だと考えることも、まあできなくもないのだろう。

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2008年12月 5日 (金)

ジョン・レノン暗殺にまつわる不思議な体験

 少々オカルト的な話になるが、ジョン・レノンの死に関して、私は不思議な体験を2回ほどした。

 1980年当時、私は高校1年で、毎朝マジメに通学する学生だった。
 そのころの私は、今よりかなりビートルズ漬けの毎日を送っていた。  
 そんな11月のある朝、ジョンが殺される半月くらい前だったと記憶している。 いつものように私はマジメに通学していたが、学校まであと数分というところで、不意に、頭の中に 「ヨーコ夫人は終始無表情でした」 という、ニュースで男の人がしゃべるような声が、流れてきたのだ。
 (アーヤバい、コリャヤバい)(笑)

 ヨーコ夫人が無表情?
 まるでジョンの葬式みたいじゃないか。
 ジョンの葬式?
 んなアホな。
 結果的には、ジョンの葬式はしません、というヨーコサンの判断で現実にはそのようなことにはならなかったのだが、ともかくその時は、エンギでもないその妄想が頭を離れず、朝っぱらから相当不吉な気分になったことは言うまでもない。

 2回目は、ジョン暗殺のその瞬間だった。
 私は、眠っていたところを何かに突き上げられるように飛び起きたのだ。
 そりゃおかしい、現地では夜中だが、日本では昼間だ、オマエは学校で寝てたのか、と言われそうだ。
 厳密に言えば昼休み時間なので寝ていてもおかしくはないのだが。

 ところが私は、ジョンが殺された当日、病気で学校を休んでいたのだ。
 12月8日は日本時間では9日だったが、その前日の夕方から夜にかけて、私は原因不明の頭痛に襲われ、翌日休みをとった。 
 今思うと風邪だったような気もする。 けれどもその日の夕方までは全然元気で、飼い犬と追っかけっこをしていたほどなのだ。 それがこれほど急激に具合が悪くなるものだろうか。 もうじき起こるであろう悲劇の毒気にあてられたとも思えてならない。 

 それでその日は昼の間じゅう寝床で眠りこけていた。 ぐっすりよく眠っていたのだが、途中でいきなり電撃にでもあったように、ガバッと目が覚めた。
 自分でもわけが分からず、夢の中で崖からでも落っこったのかと思いつつ、時計を見たら、午後0時48分だった。
 あとからその時間が、現地時間で午後10時50分ごろ、という、ジョン暗殺の瞬間だったことが分かった時はさすがに驚いた。 そして半月ほど前のあの忌々しい予感が的中してしまったことに、なんともいえない空恐ろしさを感じた。 私は未だに、ジョンが撃たれたのは、午後10時48分だと思っている。

 ジョンの命日が近づくと、そのことを思い出す。 生前一度も会うことのなかったジョンだが、このふたつの不思議な体験は、ジョンの運命を一瞬でも共有できたという点で、私にとっては宝物のような体験なのだ。

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