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2009年1月16日 (金)

「なんでも鑑定団」 美術品を見る目とは

 ちょっと長くて小難しい話になりますが。

 テレビ東京の視聴率ナンバーワン番組、「なんでも鑑定団」。
 たまーにしか見なくなったが、見るとつくづく感じるのが、骨董屋という業種には、言っちゃ悪いが詐欺師が多すぎる、という点である。
 言い方を変えれば、プロがいなさすぎる。 よくもこんな程度の鑑識眼で、商売をやっていられるものだ。

 この番組を見ていると、だいたいの傾向が紳助サンでなくともつかめてくる。
 まず、掛け軸は疑ったほうがいい。 特に著名な画家のものはほとんどが偽物だ。
 次に、借金のカタ。 まず本物は出てこない。

 また、骨董を趣味にしている人たちの目利きの悪さ。 別に私は、ガラクタを高い値段で買ってアホみたいだとか、経済力を考えろだとか、家族の迷惑をかえりみろだとか、無知をさらけ出すなとか、ほかにもまだあるけど、そんなことは言わない。
 本人が幸せなら、それでいいのだ。 毎日それを眺めて、または手にとって、本人が幸せな気分を満喫できれば、それ相応のお金を払った価値もあるというものだ。

 逆に言えば、美術品というものは、それを買った当人が、これくらいの値段なら買う、という基準で、その価値が決められるといってもよい。
 であるから、買った当人の 「経済力」 が、その美術品の価値を決める側面さえ、あると思うのだ。

 たとえその掛け軸に書かれた絵が、つまらないものだとしても、買った当人が価値を認めればそれでよい。
 これは一見暴論のように思われるかもしれないが、現代美術の全体像を見るにつけ、私にはそう思われてならないところがある。 ただし、あらかじめ断わっておくが、これはあくまで、金銭的な価値に限った個人的な意見である。

 ピカソを例にとってみよう。
 ピカソは現代美術の巨匠と呼ばれ、その作品は代表作以外でも何億円もすることが多い。

 だが、私の目から見て、それらがたとえ現代美術に及ぼした多大なる影響を加味したとしても、代表作以外で何億円もする価値があるようには思えない。

 ピカソの絵を何億円、という値段で買おうとしている人々は、いったい何を基準にそんな大金を出そうとするのだろう。
 現代美術史における位置を考慮するのなら、まだましなほうだ。 だが、かれらの多くは自分に箔をつけたり、芸術に造詣が深いということを内外に誇示するためだとか、節税対策や転売して利益をうるためだとかのためだけに大金を積んでいるようにしか見えない。
 純粋にその美術的価値を認めて手に入れようとしているようには、私には到底思えないのだ。

 そのいい例が、シャガールである。
 「なんでも鑑定団」 でもシャガールの作品が出てきたことがあったが、意外と金額が低い。 それは、シャガールの絵は非常に多い、ということが原因らしい。 市場にモノがあふれていれば、価格は高騰しない。 絵画が投機の対象になっている端的な例だ。

 また、ピカソの作品を見て理解できる人とできない人が両極端いるように、現代美術は、鑑賞する側の感性を重要視する側面もある。 どこかのオーソリティが、これは現代美術の傑作だ、と言い出したら、傑作になってしまう、そんなことも十分得こりうる。

 すると途端にその作品は作者の純粋な理想から引き離され、欲望の対象にさらされる。 現代美術には、そんないかがわしい側面がついて回っていると、私は思うのだ。

 何年か前に、1万だか2万でオークションに出されるはずだった絵が、ゴッホの初期の絵だということが判明した途端、6000万円以上の値がついて競り落とされた、ということがあった。
 このことは、私の持論があながち暴論でないひとつの証ではないだろうか。

 私は、ゴッホ初期の暗い作風の絵に対して、大して価値を認めていない。 暗すぎて、あまり長いこと眺めていたくないような絵ばかりなのだ。
 その絵がゴッホの絵だと判明する以前の、1万だか2万、という値段は、至極妥当な気さえする。
 それがたとえ、ゴッホ初期の人生の苦悩を読み取る位置にある絵だと考慮したとしても、せいぜい100万程度だ。
 それが6000万円以上。
 これは、オークションが持つ一種異常な高揚感のなせる技ともいえるが、このケタ違いの金額は、明らかに常軌を逸していると言えまいか。

 現代美術の価値観として、オリジナリティが尊重されるという側面についても、相当怪しいものがある。

 また数年前の話になるが、さる有名画家の一連の作品が、どこかの国の画家の作品を模倣したことが分かって大問題に発展したことがあった。 その模倣画家は、その作品でもって、どこかの展覧会で賞を取ったとか。
 これは、その賞の選考委員の無知とか無能とかで片づけられる問題だろうか。
 しかも皮肉なのは、その画家の作品はその問題が発生するまで、大して話題にすら上らなかったという事実だ。

 この一連の騒動を眺めていて、いったい、世の中の評価というものは何なのか、私は深く考えざるを得なかった。 識者が下す評価というもののアテにならなさ加減についてである。

 だから、「なんでも鑑定団」 でスカが出た骨董趣味の人たちは、少しも恥じることはない。

 だがもし自分の買ったその美術品が、有名な作者の作品だからとかいいのだとか、高かったからいいのだ、という目で見るのなら、それはおよしなさいと言いたい。

 そうした曇りのない純粋な気持ちで、この記事の冒頭で書いたように、毎日それを眺め、または手にとって、幸福感に浸れば、それで金銭的な元は十分取れたも同然ではないか、と私は強く言いたいのだ。

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