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2009年8月29日 (土)

思い出のジャニス・イアン

 風景や記憶と、固く結びついたまま離れない歌というものがある。

 私にも、そんな歌が、歳を重ねていくごとに増えている。
 それがいい思い出ばかりならいいのだが、たまに思い出したくもない恋人との思い出だったりすると、その歌は不幸な運命をたどることになるものだ。

 ジャニス・イアンの曲をそんな不幸な曲の仲間入りにさせなくて、つくづくよかったと思っている。
 なぜなら、ジャニスの一連の曲は私に、いまはもうないふるさとのことを、強烈に思い出させるものばかりだからだ。

 私の田舎は、福島の山奥である。
 三春から小野町方面に分け入っていくと、芦沢という、山に囲まれた盆地がある。
 かつて、私の祖母が暮らす家が、そこにあった。

 多感な思春期を迎えた頃、都会ではジャニス・イアンが流行っていた。
 「岸辺のアルバム」 というドラマの主題歌だったジャニスの曲も、その頃流行っていた。
 私はジャニス・イアンのライヴをやっていたFM番組を録音し、そのカセットを頻繁に聴いていた。 またカセットで出ていた、ベスト盤も叔父から借りてよく聴いていた。

 芦沢は、私の大好きな場所だった。
 その年の夏も、里帰りの時期になり、私はそれらカセットを当然のように持って行って、毎日毎晩のようにラジカセで聴いていた。

 同じ年だったかどうかは忘れたが、田舎では、「岸辺のアルバム」 も、わけが分からないながらも、その夏、祖母や母親と一緒に見ていたものだ。
 なぜなら、このドラマが、私が住んでいる町に流れる、多摩川の洪水(確か、1974年だったと思う)のことを取り扱ったドラマだったからだ。
 ドラマの内容は、少年だった私には興味が持てなかったが、タイトルバックに流れる、洪水によって流される、狛江の住宅の部分だけは、その当時まだ記憶に新しかったこともあって、食い入るように見ていた記憶がある。

 そこに流れてくる、ジャニスの 「ウィル・ユー・ダンス」。
 ドラマの内容と主題歌の雰囲気が全く違う、という新しい価値観の提示を、私はそこで初めて見た。
 それまで私が見てきたテレビの主題歌、と言えば、番組の内容に沿ったものばかりだった。 山田太一サンのそのドラマは、私の主題歌に対する常識を、粉々に打ち砕いた、と言っていい。
 ただ、この 「ウィル・ユー・ダンス」、「ダンスを踊って下さいますか?」 というサビの部分以外の歌詞は、カタストロフィ的だ。 崩壊していく家族を描いたこの作品と、確実にリンクしていると言える。

 じぶんの田舎でジャニスの曲をより深く聴いていくうちに、私はこの 「都会派」 っぽいジャニスの音楽が、緑に囲まれた 「片田舎」 の、午後のけだるい雰囲気や、街灯ひとつついていない夜の、まるで死の世界のような静寂に、とても合っているような気がしてきたのだ。

 それは、ジャニスの作る詞が持っている 「うしろむき感」 とでも呼べる暗さだったり、曲全体に漂うけだるさのせいだったのだろう。

 そのなかでも私が一番インパクトを受けたのは、「想い出の水彩画」 のエンディングだったように思う。 それは「無」 の状態に限りなく近づいていく、曲の終わりかただった。
 「想い出の水彩画」 の詞は、恋人同士の印象的な会話が続く、名作だと私は思っている。 そのふたりの関係が、やがて終わっていくことを示唆しながら、幻想のなかに自分を引きずり込もうとする男を拒絶する女のセリフで、この曲は終わるのだが、いったん本編が終わっても、しばらくの間チェロの独奏でエンディングが続く。

 それは、恋人同士の会話を借りながら、「蜜月状態の死」 に近づきつつある精神状態を表しているようにも感じられた。
 ジャニスの曲は、「想い出の水彩画」 にとどまらず、「死」 のイメージを想起させるものが多い。

 「お茶と同情」 という曲のもつ雰囲気は、詞からアレンジから、私のふるさとの昼下がりに流れていた、やわらかく揺れる日差しの静けさに、怖いくらい溶け込んでいた。
 「お茶と同情」 は、決まりきった生活にうんざりしながら、午後にはお茶を飲み、友達がいなくなれば部屋を片付ける女性の話だ。 彼女は恋人と別れた喪失感のなかで生活しており、「永遠に眠ってしまいたい」 と歌の中で嘆く。
 この曲はストリングスアレンジも秀逸である。 ビーチ・ボーイズの 「ペット・サウンズ」 の影響も感じられる、デモーニッシュなストリングスだ。

 「愛の余韻」 という曲も、好きな曲のひとつである。
 その曲の出だし、「時たま、大きな声で話すことが苦痛に感じます」 という一節には、限りなく魅力的な響きがある。
 「人生の意味がどこに吸い込まれていくのかはだれも知らないけれど、私は明日への希望を強く信じます」 と歌いながら、エンディングは一転してマイナーコードになり、「信念」 というものの持つ危うさを表現する。 不安が常につきまとっているように、ジャニスは前向きな気持ちにいつもブレーキをかけているように、感じるのだ。 それが、いい。
 ジャニスのその部分を、私は信頼してしまうのだ。

 ジャニスの音楽は、いくら明るい曲調でも、常にダウナーな感覚がつきまとっている。 それは今にして思えば、同性愛者だった彼女の、満たされない恋愛生活から生まれたものだったにせよ、暗い淵に沈んでいくような内省的な詞は、当時の私の書く詩にも、大きな影響を与えたものだ。 ただそれは自己満足の域を出ないものではあったが。  

 少年だった私はこれらのジャニスの曲に、何かをやっていなければ落ち着かなかった都会の生き方とは全く別の、「なにもしなくてもよい、時が過ぎていくのをただ眺めるだけの時間」 の価値を、初めて見いだしたような気がした。
 そしてその 「おだやかな時間」 は、すでにもうないふるさとの、あの日々に閉じ込められたまま、いまは静かに眠りについている。
 ジャニスの曲を聴いたり、弾き語りをするとき、その亡霊たちは解凍され、私を涙にくれさせる。

 「イリュージョン」 という歌の一節、「夏が消えていきます/夏がまるでこわれたラジオのように/指の隙間からこぼれ落ちていきます/夏が去ってしまったとき/あなたが泣いたのを覚えています/でも 私は泣きはしませんでした」 この詞をジャニスが歌うのを聴きながら、少年だった私は夏が死んでいくのを、ただ名残惜しく見送っていた。
 芦沢の午後の静けさの中で、ひぐらしが一斉にすすり泣いていたのを、いまでも鮮明に覚えている。

 もう二度とは戻らない日々である。

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