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2009年9月23日 (水)

「オーラの泉」 信仰とウサン臭さの関係

 はじめにお断りします。 この記事、一部の方には、御不快な点もあると思いますが、あくまで真摯な姿勢で書いております。 説明不足の点も多々あるかと存じますが、なにとぞご了承ください。

 「オーラの泉」、やっぱり終わってしまいましたね。
 と言っても、このところこの番組は、ひと月に一回の放送になってしまって、すでに半分、終わっているようなもんでしたけどね。

 4年半の放送だったとのこと、考えてみれば、この手の半分眉唾ものの番組としては、よく続いたな、という気もします。 スピリチュアルなものの再認識や、日本人の倫理観を問いなおす、という意味では、その役割を終えた、という見方も、できるかもしれません。

 それに、出演を承諾してくれるゲストが、底を尽きてしまったようにも感じます。 番組に出たゲストのなかでは、あからさまに 「こんなものは信じない」 という態度をとっていた(と私が感じた)加藤雅也サンみたいな例もありました。 市川海老蔵サンも、結構茶化し半分だったかなあ。
 そのせいもあるのかな、同じゲストが何回も出てくるようになったのは。

 ただ見ていて、「私は江原信者です!」 みたいな人がいるのには、ちょっと引いたかな。
 分からんでもないですけど、「こんなもの」 とさげすんでいるところを見るのも嫌だけど、「江原サマ」 と盲目的になっているのを見るのも嫌だっていうか。
 ただ、「私は江原サンや、美輪サンの言うことで救われました」 という感謝の気持ちを表すことは、何の間違いもないと思います。 かえってそれが人の道ってもんでしょう。 そこに異議を唱える人は、いないんじゃないでしょうか。

 実は、何かを信仰するときに、そこ(感謝)がいちばんの重要ポイントになるんじゃないのかな、という気が私はします。
 ちょっと話の論点がずれるような気がしますけど。
 あ、断っておきますが、私は江原サンの霊視能力について、こういう人もいるんだろうな、という見方をしています。 以前にも書きましたが、霊能力者というのは、ほとんどが信用できないが、宜保愛子サンや江原サンは、アッチの世界が見えてるんだろうな、という立場です。

 私自身としては、人と向き合って、その人の悪いところをほじくり出して、それをけなす能力にたけているより、その人のいいところを見つけて、その人と出会えたことに感謝する生き方をしていたい。 感謝もできないような人間にはなりたくない。
 だから、美輪サンや江原サンが番組で語ってきた人生の指針に、率直に感謝しています。 そして、何でもかんでもありがたやありがたや、という気持ちにもなっていない。 同じ人間、たまには間違うこともあるでしょう、間違いをひとつも起こさない人間なんていません、…という気持ちでいます。

 江原サンなんかに感じてしまうウサン臭さは、そのスピリチュアルな能力を、生活の糧にしてしまっているところだと思います。
 なんでもカネに結びついてしまうと、感謝するという純粋な気持ちまで、途端に屈折してしまう気がする。
 たとえば江原サンの講演とか、コンサートとか、CDとかにお金を払う人たちは、江原サンにこれまで精神的に助けてもらったという感謝の気持ちでお金を払うのならば、そのお金は純粋に支払われたと思っていい。
 けれども、そうでない人たちもいると思うんです。
 これから助けてもらおうと思っている人たちも。
 そういう人たちは、いわば 「前払い」 をしているわけですよね。
 それで、もし自分の期待通りの癒しが得られなければ、その人たちは、お金を払ったことに、とても不満を抱くだろうな、と思うんです。

 お金が絡むと、こういうややこしいことが起こってくる。

 巷で流行っている宗教も、幸せを 「前払い」 で買おうとしているところに、大きな落とし穴があるような気がしてなりません。 いや、流行ってなくても、昔からそうですかね。 お賽銭なんて、「前払い」 みたいなもんですか。 幸せを前払いで買う、という習慣は、いまに始まったことじゃないですよね。
 習慣的に、お賽銭を投げ入れることに抵抗がないくせに、ツボを買って幸せが来ないことには文句を言う、っていうのは、その金額の大小も確かにありますが、態度的にどうなんだろうなー、という気もします。 ひとの幸せになりたい気持ちや不幸につけ込んで商売しようとする連中を、けっしていいと言っているわけではありませんよ。

 結局、そのお金は、たとえ他人から見て理不尽な額であるにせよ、その神様(相手)に対する 「信頼料」 であると同時に、その人の、その神様(相手)に対する 「感謝」 の形で使われるべきなんじゃないでしょうか。

 どおーも、話があらぬ方向に行ってしまいました。

 なんか、信仰全般に対して、健全な議論がなされていない気がしたもんで。 宗教にお金が要る、という議論には、宗教を信じるかたにも、アンチ宗教の立場のかたにも、「感謝に対する代償」 という観点があまりないことに、違和感を抱いていたもんですから。

 いずれにせよ、初期の 「オーラの泉」 には、オーラの色がどうだとか、お祓いだとか、そのあとよりもずっとウサン臭く見えるような演出が、そこかしこでなされていました。
 これは、深夜でやっていたという強みでもあった気がします。
 テレビは、こんなふうに、もっとウサン臭くてもいい。
 だけど、いくらウサン臭くても、この番組は、より良い生き方とは何なのか、という問いかけに満ちていた。
 それがテレビのもっているパワーの一翼ではないのかな、という気も、私はするのです。
 それが、ゴールデンタイムに移行されたことで、世間の風当たりを受け、どんどんつまらない部分が肥大化していった。
 「オーラの泉」 は、結果的に、そんな不運な番組になってしまったのではないでしょうか。

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