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2009年12月 8日 (火)

「熱中夜話」 中島みゆき 後編 「夜会」 誕生の動機を探る

 ちょっと遅くなりましたが、録ってあった 「熱中夜話」、中島みゆき特集後編を見ました。
 後編のテーマは、ずばり 「夜会」。
 前編の記事にも書きましたが、私、正直なところ 「夜会」 って、なんだかなーという感じなんですよ。
 それを、今回は 「夜会」 を見た人たちが 「夜会」 の魅力について熱く語る!というので、実はちょっと興味津々だったんですがね。
 やはり、ダメでした。
 好きになれそうもありません。
 みゆきサンが芝居をしているってこと自体、ちょっと気持ち的に受け付けないんですよ。 スミマセン。

 ただ、これまで漠然としていた 「夜会」 のイメージが、なんとなくですけど分かったので、それはそれで収穫だった気がします。 そのなんとなく分かった程度の無責任な状態で、生意気にも記事を書いてみたいと思います。 「夜会」 ファンの方にはあらかじめ、前もってお詫び申し上げます(汗)。

 題して、「みゆきサンはなぜ 『歌と劇の混在したショウ』 をやろうと思いたったのか」。
 おそらくそれについてのインタビュー記事は、存在しているものと思われますが、私はそれを読んだことがありませんので、今回はその、「夜会」 の生まれた理由などを、自分なりに思索しようかな、と思います。

 もともと、みゆきサンのつくる歌には、自分の言いたいことに合わせて、極端な状況を、曲の中に作り出そうという意図が、私には感じられるのです。
 そしてそれは、極端なフィクションとして成立している点において、舞台演劇に相似している側面がある。

 例えば、「バス通り」 や 「傾斜」、「狼になりたい」「極楽通りへいらっしゃい」。 そこに出てくる情景は、みゆきサンが実際に体験したものとは、ちょっと考えにくい。 みゆきサンが表現したいものに合わせて、過去にみゆきサンが体験してきたものがデフォルメされ誇張され、曲として成立しているような感じがする。 これと対極にあるのが、「遍路」「元気ですか」「この世に二人だけ」…とか、いや、この話は、また別の機会にいたしましょう。

 自分の言いたいことを架空の極端な話に託して表現したい、という欲求は、実に演劇のそれとマッチしている。 みゆきサンが 「表現者」 として、「夜会」 という手段を選択するのは、その点から言ってとても自然な気がするのです。

 みゆきサンファン途中下車の私が見て、「はじめまして」 あたりから、みゆきサンがなにか、新たな段階に踏み出したがっている、という意志を感じていました。 「歌」 を歌うことだけではない、なにかを。 「夜会」 を始めた時、こういうことだったのかな、という、一種納得した気分がしたことを、覚えています。 ただ個人的には、あんまり突飛なことをやらないで歌一本でどっしり構えててくれ、という気分だったので、開始当初から結構批判的では、ありました(笑)。

 話は戻りますが、「夜会」 をみゆきサンが始めた、ちょっとメインの動機とは考えにくいのですが、…たぶん、松任谷由実サンのステージに感化されたか対抗意識を燃やしたか(笑)。 「シャングリ・ラ」 は当時すでに、やってましたかね。

 みゆきサンがアングラ演劇に興味を持っていたかどうかは知りませんが、「熱中夜話」 で紹介された 「夜会」 の内容を見る限り、みゆきサンのつくる演劇というのは、結構抽象演劇のカテゴリーを含むような気がしました。
 これは、実に詩人っぽい発想だと感じます。
 どこがそうなのかって、以前私も、同じような試みをしたことがありますので、その程度の理由なんですけど(笑)。 結構、演劇の台本みたいな詩を書くのって、アドレナリン出るんっスよ(笑)。

 やはり、自分の言いたいことを何かに託して伝えたい、という気分が、詩人にはとりわけ強いんだろうな、と思うのです。

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