「電脳コイル」 たしかなもの、バーチャルなもの
NHKBS衛星ハイビジョンで再放送されていた 「電脳コイル」、最終回までようやく見終わった。
本放送当時5歳だった甥が毎週土曜の午後6時半になるとこれを食い入るように見ていたのだが、私は同時間帯に放送されるBS11の 「ウルトラマン」 を甥に見せて、なんとかウルトラフリークの仲間入りをさせようと躍起になっていたため(笑)、「電脳コイル」 は半ば敵視状態(笑)。
しかもこれが、ちょっと見ただけでは全く話についていけない、どうして5歳の子供がこれをウルトラマンより熱心に見たがるのか理解不能の内容で。
それが私自身の興味をそそられるようになったのは、たぶん 「BSアニメ夜話」 で取り上げられたころだったと思う。
これって、甥が熱心に見ていたやつだよなあ?という感じで。
で、BS2で再放送されたものを見だしたのだが、途中で予約録画をしくじって、見るのをいったんあきらめ、今回衛星ハイビジョンでまたしても再放送してくれたものを見て、ようやく全話を見ることができた、というわけ。
ネットで 「電脳コイル」 を検索すればあまたの感想文がヒットするので、それを片端から読んでみたが、だいたい私が感じたことと同じ感想が述べられているので、あえてここで自分の感想を記事にするのは、実にマヌケな感じがする(笑)。
ただやはり、最終回まで見て、御多聞に漏れず、バーチャルペットであるブサイク犬 「デンスケ」 に号泣してしまったため(笑)、書きたい、という気持ちに抗えない(笑)。
今さら、という感じもするのだが、あえて感想文を書いてみたい。
このアニメは、メガネ形式のパソコンが普及した未来の、小学生たちの話。 メガネを使えばどこででも、パソコンを起動できる。 そして目の前に疑似的なキーボードが現れ、それを打つことができる。
パソコンなので当然のごとく、インターネットも使えるわけで。
で、このメガネを使うと、現実世界とは違うもうひとつの、インターネットの世界がそのまま空間として同時に見えるようになる。
かつて 「攻殻機動隊」 で表現された電脳空間が、より身近なレベルで簡単に体験できるような世の中になっているのだ。
だがこのアニメの舞台 「大黒市」 は、「攻殻」 のようなサイバーパンクの未来都市ではなく、ごくありふれた普通の町。 ただしこのアニメは、今から10数年後の設定だから、そう考えると、この町自体が結構古い町並み、と言えるだろう。
そんな古い町を特徴づける、数多くの神社。
「電脳コイル」 においては、この神社の存在が、電脳空間と死後の世界を子供たちにストレートに結びつける、ある種の契機となっている。 メガネの子供たちはこの電脳空間を、要するに、霊的空間として捉えているのだ。
この電脳空間には、ところどころに古いデータがそのまま残っている空間があって、空間管理局という役所の1セクションが、それを消去して回っている。 その古い空間には、メタバグという 「お役立ちツール」 が転がっていることが多く、子供たちはそれを宝探しのように集めているのだが、空間管理局が古い空間を消して回っているため、鬼ごっこのような敵対関係(笑)。
ここでこうやって、設定自体を書いているだけで相当ウザいのだが(笑)、膨大な専門用語にいちいちついていこうとすると、確実にこのアニメを楽しむチャンスを逃してしまうことだろう。
要するに、この物語は、サイバーパンクを都合よく借りてきた、「コックリさん」 の話なのだ。
そして 「ハイパーコックリさん」 に夢中になって、あっちの世界へ行ってしまった友達を、助ける、という話なのだ、一言で言ってしまえば(あーあ、言っちゃったよ…笑)。
メインの話はそうなのだが、このアニメ、メインの話だけではない。
そのメインとサブの話の立て分けぶりは、「攻殻」 のテレビシリーズに類似しているような感じもする。
そのサブの話にも、印象的な話が多い。
特に 「最後の首長竜」 では 「のび太の恐竜」 に対するオマージュが感じられるし、「ダイチ、発毛ス」 ではヒロインたちにあろうことかヒゲを生やさせ(笑)、ブッ飛びまくりのストーリーを展開したりもする(「ダイチ、発毛ス」 のストーリーは、どことなく江川達也氏の 「BE FREE!」 の文明戦争や、手塚治虫氏の 「火の鳥 未来編」 でのナメクジたちを想起させるような話だった)。
このアニメの主役級である、小学6年生たち。
交わされる会話が私のようなアナログ人間にはとてもついていけない、デジタル時代の申し子のような小学生たちなのだが、この人間関係や、彼らなりのこだわりは、まさしく小学生の世界。
実はその、11-2歳の子供たちの心の機微を細かく描くことで、この物語は私のような、「かつて子どもだった大人」 の共感をかっさらう吸引力を強く有している。
それが最も色濃く投影されたのが、「夏祭り、そして果たし合い」 の回なのだが、恋愛感情というものが人生にはある、ということを認識することができず、気になる女の子につらく当たってしまったり、それを単純に意地悪だと感じてしまったり。
そのほかにも、女の子に対して頭が上がらないことの屈辱だったり、いじめに対して見て見ぬふりをしてしまう、臆病に勝てない自分であったり。
そんな、子供の時にも確実にあった、子供なりの悩み。
ちゃんとその部分が描けているからこそ、メインの話に、のめり込むことができるのだ。
そしてこの、メインの話。
多くの人が指摘しているのだが、幽体離脱をしたまま帰ってこない友人イサコを取り戻すために、この物語中最も重要であると思われる言葉が交わされる。
それは、「痛みのある方向に、出口がある」、という言葉だ。
誤解を恐れずに言えば、これは、特に引きこもりをしている人たちに向けた、強烈なメッセージだ。
誰も傷つかず、幼かったころのような居心地のいい、ぬるま湯のような空間、それがこの作品の中では、「あっちの世界」 として表現されている。
そして 「あっちの世界」 を統率しているのは、かつて自分が味わった、心の傷、トラウマなのだ。
傷つきたくないから、傷つけたくないから、人は心を閉ざしてしまう。 そして自分を、隔離された優しい時間の中に幽閉させようとする。
けれども、その居心地のいい世界から抜け出すには、どうしても痛みというものを覚悟しなければならないのだ。
生きていく、ということは、痛みを伴う作業だ。
誰しもまったく傷つくことなく生きていくのは、不可能と言うしかない。
だが、痛みを伴ってこそ、生き抜いた時の価値は、さらに輝きを増すものなのだ。
この物語はしかし、非現実世界をいたずらに否定もしていない。
居心地のいい世界を形成しているのは、実は手に触れることのできない、空想、バーチャルなものばかりだ。
私が冒頭に述べた 「デンスケ」 も、電脳ペットと言って、実際には存在しない、バーチャルなものであるが、このデンスケは、主人公の女の子ヤサコを守るためのプログラミングをされている。
果たしてデンスケはそのために命を落としてしまうのだが、デンスケを失ってしまってからのヤサコの喪失感は、見ている側を強烈に悲しくさせるほどのリアリティにあふれていた。
「デンスケはただのプログラムで、死ぬ時も痛みを感じなかっただろう。 でもこの胸にあるのは、なにものにも代えがたい痛み…」。
この痛みだけは、まぎれもない「実感」 として、確かにヤサコの胸に存在しているのだ。
そして最終回、「あっちの世界」 からヤサコを送り届けてくれたのが、死んでしまったはずのデンスケのイリーガル(分かりやすく言えば、亡霊)。
ヤサコがそのことに気付いて、手を差し伸べると、初めて出会ったときのように、デンスケはヤサコの手のひらをなめる。
そして、あっちの世界に立ち去っていくデンスケに向かって、ヤサコは 「ありがとう」 と 「さようなら」 を、やっと言うことができる。
恥ずかしい告白でありますが、「こんにちはアン」 以来3ヵ月ぶりかで、号泣いたしました(笑)。 思い出したら、またウルウルと…(笑)。
「ありがとう」 と 「さようなら」 を言わなければ、前に進むことができない。
きっぱり過去と決別しなければ、大人になることはできない。
でもそれまでに自分に勇気や希望をくれたものは、たとえそれがバーチャルなものであっても、未来を生きるための力となるのだ。 けっしてそれは、価値のないものなんかじゃない。 ムダなんかじゃない。
この物語が最先端のデジタルテクノロジーを扱いながら人の心を打つのは、そんな作り手のメッセージが、あまりにも前向きで、ストレートすぎるせいだ。
このメッセージが、第1回目から明確に最終回に向かっていることの語り口には、つくづく感服する。
作者には、第1回目から、最終回の結論が、ちゃんと見えているのだ。
だから全体を通して、物語に破綻が全く見られない。
すごい、と言うしかない。
このアニメのテーマ曲が、オープニングもエンディングも、ちゃんとこの作品自体を語っていることからも、その確かな計画性(アコム、違った、武富士ではありません)が分かろう、というものだ。
それにしてもこのアニメの画風は、一風変わっている。 サブキャラには水木しげる氏の影響が色濃いのだが、こんな目の描きかたをするアニメは、初めて見る気がするのだ(不勉強ですかね、ハイ)。
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コメント
リウさん、こんにちは。
大河ドラマはドラマですから、史実に忠実である必要はありませんが、むーん、最近、大河から脱藩したくなってきました。(笑)
役者も、演出も、プログレッシブカメラも悪くないのですが、視聴率維持のためのコミカルさ、ドラマ性も許容範囲なのですが、やはり脚本家の、幕末に対する深みの無さに、若干ゲンナリしています。
龍馬脱藩後の大河に、期待しようと思います。
あっ、要潤の沢村惣之丞はメチャクチャ良かったです。ひと目見たときは、ヅラをかぶった彼を、要潤とは認識できませんでした。
投稿: 弥太郎 | 2010年3月22日 (月) 17時19分
弥太郎様
コメント、ありがとうございます。
「龍馬伝」第12回記事へのコメントでよろしいですよね?(笑)
やっぱり、弥太郎サンもそのようにお感じでしたか(ちょっと安心…笑)。
ずいぶん気を遣って書いてるんですけどね、最近 「龍馬伝」 についての当ブログは。 それでもやっぱり不満点が、ちょっとずつちょっとずつ、警戒水域に達しつつあるような感じでございます(笑)。
私も、史実がどうだとかは、あまりこだわって見ておりません。
私のドラマを見るポイントは、どうドラマとして仕上がっているかにあくまで重点があります。
その点 「龍馬伝」 で気になるのは、肝心な行動に至るまでの過程が、ちょっと説明不足である、という点ですね。
特に後藤象二郎については、なんでこんなに悪魔キャラになっとるのか?って感じでした、今回ラスト(笑)。
物語の構成が悪いと、せっかくの(ドラマのほうの)弥太郎殿のキャラも、生きてこないようで、はなはだ残念であります。
投稿: リウ | 2010年3月22日 (月) 18時15分
入れたと思ったコメントが消えてるな、と思いきや、こんなところに投稿してたんですね。今気づきました。(笑)
すみません、まったく場違いのコメント欄にのせてしまって。
そういえば昨日3月24日は、龍馬脱藩の日でした。こちらは脱藩ではなく、脱欄になってしまいました。オソマツでした。
投稿: 弥太郎 | 2010年3月25日 (木) 19時48分
弥太郎様
いや、そうでしたか。
当方も 「記事違い」 というのは承知しておりましたが、お引っ越しさせるわけにもいかず、無用なご心配をおかけしました。
基本的に私の場合、エロいコメントとか、あからさまな中傷のコメント以外は、たとえ名無しのゴンベエサンでも削除せず、返信もしております。
もし見当たらない場合は、左側の 「最近のコメント」 欄でご確認ください。
龍馬脱藩記念日でしたか!
さすがに龍馬に関してはお詳しいですネ!
それだけに 「龍馬伝」 の出来には、忸怩たるものがおありだろうと、お察し申し上げます。
投稿: リウ | 2010年3月25日 (木) 22時39分