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2010年4月28日 (水)

「ハーバード白熱教室」 第1回 殺人に正義はあるか(1)

 アメリカの名門ハーバード大学でもっとも人気のある、マイケル・サンデル教授の、政治哲学についての講義をテレビ初公開した、「ハーバード白熱教室」。 「白熱教室」 なんて、ネーミングがちょっとダサいですが、教育テレビで再放送されていたので、こういう放送の仕方をするのは、反響がいいせいだ、という勝手な解釈をいたしまして(笑)、ちょっと深夜にやっていた再放送を見てみることにしました。

 番組では、毎年1000人を超える希望者が殺到するほどの講義をテレビで(ほぼ)タダで見せてもらえる、という有難みが、まず強調されます(笑)。 確かに、サンデル教授の講義は、学生との対話を重視した 「ソクラテス形式」 の進め方で、まず常識を懐疑させ、そこからより深い思索を見る側に強要していきます。
 だもんで、第1回目を見ただけで、結構頭の中は、グッタリ状態(笑)。 さすがは名門ハーバード(笑)。 全部で12回(毎回2コマと言っていたので、全6回ということかな?)ほどあるらしいのですが、最後まで頭がパンクせずに、ついていけるか分かりません。

 とりあえず第1回の内容と合わせて、自分の感じたところを書いていきますが、次回以降は期待しないで下さいまし。



 サンデル教授が講義のスタートとしてまず例を上げたのは、次のような設問。

 「きみは路面電車で、時速100キロの猛スピードで走っている。 きみは、行く手に5人の労働者がいることに気付いて、電車を止めようとするが、ブレーキが効かない。 きみは絶望する。 そのまま進んで5人の労働者に突っ込めば、5人とも死んでしまうからだ。 ここでは、それは確実なことだと仮定しよう。 きみは、何もできないと、諦めかける。 が、その時、わきにそれる線で、待避線があることに気付く。 しかしそこにも、働いている人が、ひとりいる。 ブレーキは効かないが、ハンドルは効くので、ハンドルを切ってわきの線路に入れば、ひとりは殺してしまうけれども、5人は助けることができる」

 さて、5人とひとり、どっちの方向を選択するのが、正しいのか?

 多くの学生たちが、ひとりを犠牲にして5人を助けるほうを選びます。

 するとサンデル教授は、同じようなケースで、違ったパターンを提示するのです。

 「今度は、きみは路面電車の運転手ではなく、傍観者だ。 電車の線路のかかる橋にいて、見下ろしていると、電車が来るのが見えた。 線路の先には、5人の労働者がいる。 ブレーキは効かない。 このままだと電車は、猛スピードで5人に突っ込み、5人は死ぬ。 なにも出来ないと諦めかけた時、自分のとなりに、橋から身を乗り出しているものすごく太った、もうひとりの男がいることに気付く(場内に笑い声)。 もしきみが、この太った男をつき落とせば、彼は、橋から、走ってくる電車の前に落ちる。 彼は死ぬが、5人を助けることができる」

 さて、5人とひとり、どちらを優先するのが、正しいのか?

 すると今度は、大多数の学生たちは、5人を犠牲にしても、目の前の太った男をつき落とすという選択を、しなくなるのです。

 つまり、たとえそうすれば、より大勢の人が助かると分かっていても、自分の行為によって、人殺しをしてしまうことのほうが、よっぽど罪深い、と誰もが考えてしまう、ということを、この設問の結果は示しているのです。

 ここでサンデル教授が掲げるのが、「道徳理論」 というもの。 行為の帰結に、道徳性を求める、人間の傾向を指摘する理論です。
 ほーら、ハーバード大学の講義らしくなってきた(笑)。
 簡単に言いますと、人間は、あることを判断するうえで、その判断が理にかなったものであることよりも、最終的には、その判断が人間としての倫理や道徳にかなっているかどうかを求める、というのです。

 ただしここでサンデル教授が掲げた 「ふたつの例」。
 結構、あり得ない話ですよね(笑)。
 「究極の選択」 の一種、とも言っていい。

 この講義中に学生のひとりも指摘していましたが、このふたつの設問は、9.11テロの時、ハイジャックされた旅客機を市街地へ突っ込むか、世界貿易センターへ突っ込ませるかの判断にも類似している。

 私は、現実社会において、最終的に倫理や道徳によって人が判断を起こすのか、というと、必ずしもそうではない、と考えます(いきなりサンデル教授の道徳理論に、反発しております…笑)。

 例えば、ここに5人の労働者と、ひとりの会社経営者がいる(笑)。
 5人の労働者をリストラすれば、会社は労働力を失って、存続出来なくなるが、とりあえず全員の1か月分の給料は確保できる。
 しかし、ひとりの会社経営者の首を切れば、5人の労働者がいま行なっている仕事はしばらく存続することができ、その仕事が切れれば会社自体が消えてなくなるが、とりあえず数カ月は5人の労働者には賃金が支払われる。

 これは今、どっちがいいか?という話で出したのではありません(笑)。

 現実問題として、ある決断を迫られた時、そこにはいくつもの逃げ道がある、ということが、言いたいのです。

 ここで判断の最終的な帰結には、人間が本来持っている自己保身の傾向も絡んでくるし、当事者ひとりひとりの考えの違いのぶつかり、という問題も、絡んでくる。 その中には、問題を先送りしようとするもうひとつのずるい選択肢も、出てくる(日本の政治には、このケースがやたら多い)。

 要するに、最終的な判断に道徳的要素が絡んでくる、などという理論は、究極の選択をする際にしか現れない、机上の空論と言える場合もある、ということなのです。
 哲学というのは、人にまず常識を疑わせることから始めます。 そのために、出発点の設問が、往々にして現実離れし、実践を伴わない頭の中だけの理論の遊戯になってしまうケースがある。 …あー難しい話に、なってきた(笑)。

 そんなことを考えながらこの講義を見ていたら、さすがにサンデル教授、私の考えをまるで見透かしたかのように(笑)、次のようなことをおっしゃる。

 「哲学というものは、人を社会から距離を置かせ、衰弱させるような活動だ。
 ソクラテスの時代でもそうだった。
 ゴルギアスという対話の中で、ソクラテスの友人のひとりカリクレスは、彼に哲学をしないように説得する。
 カリクレスは、ソクラテスにこう言う。 『人生のしかるべき時期に、節度を持って哲学を学ぶなら、哲学はかわいいおもちゃだ。 しかし、節度を超えて哲学を追求するなら、破滅する。 私の助言を聞きなさい。 議論を捨てよ。 行動的な人生の成果を学べ。 気の利いた屁理屈に時間を費やしている人ではなく、善良な生活と評判と、ほかの多くの恵みを持っている人を、手本にせよ』。
 要するにカリクレスは、ソクラテスに、『哲学なんてやめて、現実を見ろ。 ビジネススクールに行け』 と言っているわけだ。
 カリクレスの言うことももっともだ」

 「(哲学が人にもたらす)リスクに直面した時、よく使われる言い訳。 …それが、懐疑主義だ。
 例をあげると、『私たちは、いろいろなケースや原理に対して議論をしたけれども、何も解決しなかった。 アリストテレスやロックや、カントでさえ、長年かけても解決できてないないのだから、この講堂に集まった私たちが、一学期の講義で解決できるわけがない。 要するに、各自が自分なりの原理を持てばいいのであって、これ以上の議論は必要ない。 論じても無駄である』――これが懐疑主義の言い訳だ。
 これに対しては、私は次のように答えたい。
 『確かにこれらの問題は長年にわたり議論されてきた。 しかし、それが繰り返され、議論され続けてきたという、まさにその事実が、その問題の解決がたとえ不可能であっても、議論を続けることは避けられない、ということを示唆している。
 なぜ避けられないかというと、私たちは毎日、これらの疑問に答えを出しながら生きているからだ。 だから懐疑主義に飲み込まれ、諦めてしまい、道徳に関する熟考をやめてしまえば、解決にならない』」

 なるほど、サンデル教授のおっしゃることは、学者だからこそ考える、知への旺盛な探求心をうかがえるものなのですが。
 やはりちょっと、付け加えたくなってくるのです(失礼ながら)。

 人生にとって、より深い知識を得たり、そうすることによって判断力を、より良い方向に高めたりするのは、確かに重要です。
 この講義は、それに対する限りない示唆に満ち、人を啓発するための、契機にあふれています。 このことを学ぶことは、とても意義のあることと、私も考えます。

 でもやはり、その先にあるものを、私たちは見つめていかなければならない。

 それはなにか、と言うと、一歩前に進む、「行動力」 です。

 そして、その行動に必要不可欠なのが、一生懸命さです。 誠実さです。 良心です。

 そこに、他者へのいたわりが加われば、その推進力は、きっともっと大きくなる。

 いくらいいことを考えていても、行動しなければ、それはなんにもならない。

 そしていくらそれがいいことだと考えていても、それが独りよがりな場合、いくら行動しても、それは自分勝手なものにしか終われない。 他人のために成し遂げよう、という気持ちが起きるとき、その行動は、最大限に効果のあるものになる。

 エライ生意気ですが、そんなことを私は考えるのです。 ハーバード大学の最高知性の講義を前にして。

 私たちは、知性の先にあるものを、見据えなければならないのでは、ないでしょうか。

 …困ったぞ(笑)。 まだ第1回目の半分しか書いてない(笑)。 第1回後半には、実際に起きた難破船での人肉食の話をもとにして、ベンサムの功利主義の話に突入するのですが…。 なんか、力が尽きてしまった(笑)。 とにかくこっちの話も、ちょっと書きたい個人的な意見があるので、おいおい書いていこうと思いますが、いつになることやら…。 連休を利用して書こうかなぁ…(笑)。

続きはこちらです↓
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/1-2-6f0c.html

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