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2010年4月

2010年4月30日 (金)

「チェイス~国税査察官~」 第3回 裏切りに揺れる心

 大雨の降る中、鈴子(水野絵梨奈チャン)をよけようとして事故を起こした、村雲修次(ARATAサン) の車。
 結局両者とも大したことはなかったのですが、ここで春馬草輔(江口洋介サン)と村雲が知り合うきっかけが作られ、村雲は廣川という偽名を使って草輔の仕事の内情を探りだすようになる。

 と同時に、鈴子は村雲の手を借りて、死んだ母親(木村多江サン)の保険金で海外の株取引?を始めるのです。
 ちょっと鈴子、はっきり言って人間の風上にもおけない仕様になってきてるんですけど(笑)。 親への反抗の範疇を超えてます。 鈴子のバカさ加減には、怒りを通り越して呆れ果てます。 更生希望!

 いずれにせよ、村雲と鈴子の出会い頭の事故は、草輔の仕事に対するモチベーションを根底から揺るがす端緒となっていくのです。

 今回草輔たちが追う案件は、現役大臣紺野の脱税容疑。

 それに絡んで、紺野の税務指南役を務めている、元査察OB井坂敏(石橋蓮司サン)との腹の探り合いは、見ごたえがありました。

 最初にそれとなく井坂を訪問した草輔は、「査察の人間は、口よりも目がよく動く」 といきなり先制パンチを井坂から食らわされ、部屋にかかっていた絵画の額縁が小さくなっていることを指摘し、「井坂サンが私を試されたんでしょう」 と返すのですが、井坂は 「紺野を調べても無駄だ」 とばかり、「裏山から3億円」 の新聞記事をバサッと置く。
 「みんなお見通しだ」 ということですよね。

 それにしても、井坂は査察時代、「査察の捜査に聖域はない」 が信条のよくできた男だったのですが、国税局を辞めてから、国会議員の脱税アドバイザーと、なり下がっているわけです。

 議員なんかの公僕の脱税って、一般人以上に、罪が重い気がします。

 自分たちは国民に対して税金をかける法律を作り、それを執行し、従わないものには延滞金だの罰則だのつけるくせに、税金をいただいてお給料にしている側が、脱税なんて。 極刑でもいいくらいだ(言いすぎました…笑)。

 その国会議員の脱税の指南役なんですから、井坂のやっていることは、昔と今では月とスッポン、天地ほどの差がある。
 で、普通の脱税より何倍何百倍もひどい、と思いながら見ていたせいか、井坂に査察の手が回った時に、井坂が草輔に打ち明けた 「転落の理由」 は、ちょっと私には、弱い気がしました。

 脱税の前に、受託収賄の容疑で、紺野が東京地検に逮捕されたことが、井坂の言うその理由。

 「お前ら、検察に抜かれたんだよ…この案件は、私が職務を、いや、命を懸けて追っていた案件だ…それを、お前らは結局逃した…それが答えだ…オレがこうなった答えだ…こんなもんだ…脱税するくらいがちょうど人間なんだよぉ…ハハハ」

 このシーンのあいだに、益岡徹サンが奥田瑛二サンに向かって、「査察は検察の下請けなんですか!」 と詰問していましたが、うーん、これくらいで昨日の友は今日の敵、みたいなことになっちゃうかなー。 なんか、納得しきれませんでした。 て言うか、よく分かんなかった(笑)。

 まあともかく、その井坂の姿を見た草輔は、自らの仕事に対する信念が揺らぎ始めるのですが、そこで、同じ遺族として、一緒に酒を酌み交わすほどの友人となっていた村雲(廣川)に、草輔は電話をするのです。

 「廣川サン、どう思う? 最近の世の中、なんか、おかしくないかな? どんどん悪いほうに行ってるって言うか、人の心みたいなものが、壊れていってる気がするんだ…オレのほうが間違ってんだろうか?」

 それに対する村雲の答えは、草輔のアイデンティティをぶち壊すほどの、恐ろしい答えでした。

 「間違ってないと思いますよ。 …この世界はもう、あなたの知ってる世界じゃないんだ。 『盗まれた街』 という話を知っていますか。 男がある時気付くと、妻が妻でなくなっている。 わが子がわが子でなくなっている。 外見も声も同じなのに、誰もがみな明らかに別人なんです」

 「それはあれだろ、宇宙人とかSFとかの」

 「ええ。 でもあなたに起こっていることと同じだと思いませんか。 あなたはマジメに働いてきた。 正義感を持って、社会のためにと自分を律して生きてきた。 しかしそれを認める人は社会からいなくなった。 世間は官を叩き、役人を諸悪の根源のようにののしる。 …春馬さん。 ぼくは人の悪意というものが、重力のようなものだと思っています。 報われなかった善意や正義感の裏側に、おんなじだけの悪意が根を張るんです」

 「…どういうことだ?」

 「春馬さん。 奥さんを亡くして、娘さんを見失って、本当はあなた、こんな世界滅びてしまえばいいと思っているのではありませんか? もう我慢するのはやめましょう。 あなたには、…この世界を憎む権利がある」

 友人だとばかり思っていた相手から、急にこんな言葉を言われたら、ちょっと普通じゃいられなくなりますよね。 村雲には、草輔を撹乱する目的もあるのでしょうが、もっとほかに、何か意図があるような気がします。 村雲の言った、「報われなかった善意や正義感」 って、一体何だったんでしょう。

 自分自身の仕事に対する疑問がわきあがっているときに、草輔は激励の言葉を期待していたと思うんですよ。 それが、完全に裏切られた形。
 草輔も、この会話のあと、しばらく呼吸困難状態になるのです。 「そんなことはない!」 みたいに反駁するからこそ、草輔のその信念が、ポキッと折れてしまうのが、怖い。
 いや、息をのみました。

 なんか、「ふぞろいの林檎たち」 を思わせる、不条理ドラマみたいになってきた。
 「ハゲタカ」「外事警察」 ほどではないですが、私が見ているなかでは、今クール(全6回ですけど、これくらいの長さのほうが、トラップ仕掛けたりするにはちょうどいいかも)でいちばん面白いドラマじゃないかなー。 でもこの不条理を楽しめないと、ちょっと現実離れしすぎているように思えるかもしれません。

 で、それから草輔は、たぶんそれまで軽蔑して会おうともしなかった元新聞記者の情報屋と接触し、妻を乗せて墜落した旅客機の所有者に、大金が渡っていたことを突き止める。
 そして村雲は、草輔の娘鈴子と、接触するのです。 それで冒頭に書いたようなことを鈴子に吹き込む。
 あーますます、ブラックな話になってきたー(笑)。 鈴子! オジサンは信じてるぞ!(笑)

当ブログ 「チェイス」 に関するほかの記事
第1回 江口サン、公僕の悲哀http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/1-a698.html
第2回 届かぬ父の思いhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-eecd.html
第4回 ふたつの復讐http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/4-3809.html
第5回 黒い薔薇、赤い薔薇http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-05dc.html
第6回(最終回)別の人生への希望http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-785a.html

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「小島慶子 キラキラ」 小島アナ、今後のことは分からないそうです

 出先で 「キラキラ」 を聴いていたら、今日のメッセージテーマ 「怖くて確かめられない」 つながりで、小島アナが6月いっぱいでTBSをやめることを話し出しまして。

 それで気になったのが、7月以降は何も決まっていない、ということ。 今テレビで小島アナがやっている 「時事放談」「サンデースコープ」 とか、この 「キラキラ」 とか。 もしかするといきなり茨の道かも、みたいなことを話してましたかね。

 今回のフリー騒動で、先週行われた聴取率調査も、これまで文化放送の 「大竹まことのゴールデンラジオ」 と同率首位、みたいな状況からひとつ抜け出すのではないか、という予想をしてるんですけど、そうなればTBSだって、おいそれと 「キラキラ」 終了、なんてことにはならないだろう、とは思うんですけどね。

 ただ、この 「キラキラ」 での手応えが、小島サンに独立の道を選ばせたんじゃないのかな、なんて、思うんですよ。 夫にも誰にも相談せずにひとりで決めてしまった、とか言ってたかな。 「エイヤッ!」 という思い切りが、すごい人ですよね。

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FFとドラクエ、連休中にやり直して感じたこと

 ビンボー人がカネもないのに強制的に連休を取らされてやることなど基本的にないので(笑)、見て疲れるようなテレビドラマの録画がたまったものを見ることもなく、大昔に買ったファイナルファンタジーやドラゴンクエストなどの旧作を、ラジオやCDを聞きながらやっているわけですが。

 どうもこれが、開始から30分くらいやると、確実に飽きるようなものばかりで(笑)。 飽きる、というか、やんなってくる。
 昔はそんなでもなかったんですが。

 それで、とっかえひっかえやったのですが、いちばんやり続けようという気力が持続したのは、ファイナルファンタジー9。 プレステ1時代のいちばん最終作、しっぽの生えた少年ジタンとか、黒魔術師ビビとか、ガーネット姫とかが出てくるヤツです。

 どこが違うのかなーと思って、ちょっと考えてみました。

 全体的に感じるのは、それぞれのキャラがみんな個性的で、「なんだろこのキャラ?」 という興味を抱かせやすいところかな。 劇場艇タンタラスのボスに、上条恒彦サンの声を想像で当てているのは、私だけでしょうかね?

 でもいちばんいいのは、戦闘場面で、きちんとキャラたちが闘っている感じがする、というところかもしれない。
 ここで重要なのが、バトルミュージック。 そして、特殊技を掛けたときの、キャラをアップにする手法。 エフェクトがちゃんと分かる、というのもいい。 とどめが、勝利した時にキャラたちが、決めのポーズをとるところ。 ファンファーレがちゃんと鳴るのも、いい。

 このカタルシスが、ここ数作のファイナルファンタジーにはあまりない気がします(11、13は、やってませんけど)。 あまり延々と特殊技や召喚のエフェクトをやられるのもテンポが悪くなる気がしますが、キャラが何か特別なことをやっても、攻守が入り乱れて何をやっているのか分からないのでは、特殊技の意味がないですよね。 しかもそのバトルが、かなり遠目で見ているような感覚だと、ますます当事者感覚が薄れていく。 FF9には、それがないんですよ。
 まあ、個人的な好みの問題にもなりますが。

 それと、FF9で感じるのは、宝箱とか、その辺に落ちているものを取ろうとするときの楽しみに、いろいろ仕掛けが加わっていて、その作業が苦になってこない、というのもあります。 ほかのFFやDQでは、ずいぶんとそれが単調な作業に思える。 DQ7の石版探しは、その点で、かなり、かったるい。 や、DQ7のかったるさは、それ以前に、最初の戦闘に入るまで、誰かに会わないと話が進まないとか、謎解きとか、それでくじけてしまうところにある(笑)。

 DQ8は、その点でとても完成されている気はするのですが、いかんせん、ハマりまくってやりすぎた(笑)。
 甥っ子のDSで最近のドラクエをやらしてもらいましたが、どうも携帯機というのは、ちゃっちく見えて仕方がない。 個人的には、ドラクエは全部、8仕様でリメイクしてもらいたい。 ドラクエやっていていつも不満なのが、鳥山明サンの顔が見えてこないことなんですよ。 8だけはその不満を解消していました。

 FF9にも、不満がないわけじゃないです。 オコチャマ仕様のキャラばかりなのに、みんな小難しいことを、語りすぎる。 あと、戦闘での、コマンド入力してから行動するまでのタイムラグがありすぎる点。 タイミング取りが、とても難しい。 この2点を解消したら、シリーズ中最高の1作と言えるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、以前のように、やりだしたらハマってしまって何時間も、なんてことが一切ない、というのは、さびしいですね~。

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2010年4月29日 (木)

「小島慶子 キラキラ」 ずいぶんあっさりと、フリーの件をお話しになったようです

 今日のニュースを見てびっくり。 TBSアナウンサーの小島慶子サン(通称OJK…オジキ)が、6月30日付でフリーになることを、昨日(4月28日)の 「キラキラ」 で話した、というではないですか。

 あのー、私、昨日聴いていたんですけど(笑)。 全編じゃありませんが。

 気づきませんでした(…がく然…笑)。
 聴いてたって言っても、ほとんど注意して聴いてませんでしたからね。

 昨日のメッセージテーマが制服についてで、「6月30日にTBSの制服を脱ぐことになりました」 としゃべったらしい。 確かに制服について、しゃべっていたなあ…(笑)。

 「キラキラ」 のHP内ツイッターでさっそく確認したのですが、ずいぶんさらっとしゃべったらしくて、ちゃんと聴いてないと、分からないほどだったようですね。 朝刊のニュースが出るまで、ほとんど言及されてなかったから。

 しかも昨日は、毎週水曜レギュラーの宇多丸サンがお休みで、ピンチヒッターの人が出ていた回でしたから、リスナーの興味もそっちに行っているだろうという判断のもとで、ふつうの調子であっさりと告白した可能性が強い(笑)。 小島サンも、あまり大騒ぎされたくないのでしょうが、ずいぶん確信犯的な面があります(笑)。

 で、本日休みなので 「キラキラ」 を聴いておりますが、やはりというか、まったくフリーの件は言及なし(1時20分現在)。 こっちも2時間半、耳をそばだてているわけにもまいりませんので、もうどーでもいーかな(笑)なんて。

 いずれにせよ、当ブログでは、小島アナTBS退社の既報があったにもかかわらず、オジキの口から聞かなければ信用できない、などという記事を何回か書いた経緯がありましたので、ご報告させていただきました。

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2010年4月28日 (水)

「ハーバード白熱教室」 第1回 殺人に正義はあるか(1)

 アメリカの名門ハーバード大学でもっとも人気のある、マイケル・サンデル教授の、政治哲学についての講義をテレビ初公開した、「ハーバード白熱教室」。 「白熱教室」 なんて、ネーミングがちょっとダサいですが、教育テレビで再放送されていたので、こういう放送の仕方をするのは、反響がいいせいだ、という勝手な解釈をいたしまして(笑)、ちょっと深夜にやっていた再放送を見てみることにしました。

 番組では、毎年1000人を超える希望者が殺到するほどの講義をテレビで(ほぼ)タダで見せてもらえる、という有難みが、まず強調されます(笑)。 確かに、サンデル教授の講義は、学生との対話を重視した 「ソクラテス形式」 の進め方で、まず常識を懐疑させ、そこからより深い思索を見る側に強要していきます。
 だもんで、第1回目を見ただけで、結構頭の中は、グッタリ状態(笑)。 さすがは名門ハーバード(笑)。 全部で12回(毎回2コマと言っていたので、全6回ということかな?)ほどあるらしいのですが、最後まで頭がパンクせずに、ついていけるか分かりません。

 とりあえず第1回の内容と合わせて、自分の感じたところを書いていきますが、次回以降は期待しないで下さいまし。



 サンデル教授が講義のスタートとしてまず例を上げたのは、次のような設問。

 「きみは路面電車で、時速100キロの猛スピードで走っている。 きみは、行く手に5人の労働者がいることに気付いて、電車を止めようとするが、ブレーキが効かない。 きみは絶望する。 そのまま進んで5人の労働者に突っ込めば、5人とも死んでしまうからだ。 ここでは、それは確実なことだと仮定しよう。 きみは、何もできないと、諦めかける。 が、その時、わきにそれる線で、待避線があることに気付く。 しかしそこにも、働いている人が、ひとりいる。 ブレーキは効かないが、ハンドルは効くので、ハンドルを切ってわきの線路に入れば、ひとりは殺してしまうけれども、5人は助けることができる」

 さて、5人とひとり、どっちの方向を選択するのが、正しいのか?

 多くの学生たちが、ひとりを犠牲にして5人を助けるほうを選びます。

 するとサンデル教授は、同じようなケースで、違ったパターンを提示するのです。

 「今度は、きみは路面電車の運転手ではなく、傍観者だ。 電車の線路のかかる橋にいて、見下ろしていると、電車が来るのが見えた。 線路の先には、5人の労働者がいる。 ブレーキは効かない。 このままだと電車は、猛スピードで5人に突っ込み、5人は死ぬ。 なにも出来ないと諦めかけた時、自分のとなりに、橋から身を乗り出しているものすごく太った、もうひとりの男がいることに気付く(場内に笑い声)。 もしきみが、この太った男をつき落とせば、彼は、橋から、走ってくる電車の前に落ちる。 彼は死ぬが、5人を助けることができる」

 さて、5人とひとり、どちらを優先するのが、正しいのか?

 すると今度は、大多数の学生たちは、5人を犠牲にしても、目の前の太った男をつき落とすという選択を、しなくなるのです。

 つまり、たとえそうすれば、より大勢の人が助かると分かっていても、自分の行為によって、人殺しをしてしまうことのほうが、よっぽど罪深い、と誰もが考えてしまう、ということを、この設問の結果は示しているのです。

 ここでサンデル教授が掲げるのが、「道徳理論」 というもの。 行為の帰結に、道徳性を求める、人間の傾向を指摘する理論です。
 ほーら、ハーバード大学の講義らしくなってきた(笑)。
 簡単に言いますと、人間は、あることを判断するうえで、その判断が理にかなったものであることよりも、最終的には、その判断が人間としての倫理や道徳にかなっているかどうかを求める、というのです。

 ただしここでサンデル教授が掲げた 「ふたつの例」。
 結構、あり得ない話ですよね(笑)。
 「究極の選択」 の一種、とも言っていい。

 この講義中に学生のひとりも指摘していましたが、このふたつの設問は、9.11テロの時、ハイジャックされた旅客機を市街地へ突っ込むか、世界貿易センターへ突っ込ませるかの判断にも類似している。

 私は、現実社会において、最終的に倫理や道徳によって人が判断を起こすのか、というと、必ずしもそうではない、と考えます(いきなりサンデル教授の道徳理論に、反発しております…笑)。

 例えば、ここに5人の労働者と、ひとりの会社経営者がいる(笑)。
 5人の労働者をリストラすれば、会社は労働力を失って、存続出来なくなるが、とりあえず全員の1か月分の給料は確保できる。
 しかし、ひとりの会社経営者の首を切れば、5人の労働者がいま行なっている仕事はしばらく存続することができ、その仕事が切れれば会社自体が消えてなくなるが、とりあえず数カ月は5人の労働者には賃金が支払われる。

 これは今、どっちがいいか?という話で出したのではありません(笑)。

 現実問題として、ある決断を迫られた時、そこにはいくつもの逃げ道がある、ということが、言いたいのです。

 ここで判断の最終的な帰結には、人間が本来持っている自己保身の傾向も絡んでくるし、当事者ひとりひとりの考えの違いのぶつかり、という問題も、絡んでくる。 その中には、問題を先送りしようとするもうひとつのずるい選択肢も、出てくる(日本の政治には、このケースがやたら多い)。

 要するに、最終的な判断に道徳的要素が絡んでくる、などという理論は、究極の選択をする際にしか現れない、机上の空論と言える場合もある、ということなのです。
 哲学というのは、人にまず常識を疑わせることから始めます。 そのために、出発点の設問が、往々にして現実離れし、実践を伴わない頭の中だけの理論の遊戯になってしまうケースがある。 …あー難しい話に、なってきた(笑)。

 そんなことを考えながらこの講義を見ていたら、さすがにサンデル教授、私の考えをまるで見透かしたかのように(笑)、次のようなことをおっしゃる。

 「哲学というものは、人を社会から距離を置かせ、衰弱させるような活動だ。
 ソクラテスの時代でもそうだった。
 ゴルギアスという対話の中で、ソクラテスの友人のひとりカリクレスは、彼に哲学をしないように説得する。
 カリクレスは、ソクラテスにこう言う。 『人生のしかるべき時期に、節度を持って哲学を学ぶなら、哲学はかわいいおもちゃだ。 しかし、節度を超えて哲学を追求するなら、破滅する。 私の助言を聞きなさい。 議論を捨てよ。 行動的な人生の成果を学べ。 気の利いた屁理屈に時間を費やしている人ではなく、善良な生活と評判と、ほかの多くの恵みを持っている人を、手本にせよ』。
 要するにカリクレスは、ソクラテスに、『哲学なんてやめて、現実を見ろ。 ビジネススクールに行け』 と言っているわけだ。
 カリクレスの言うことももっともだ」

 「(哲学が人にもたらす)リスクに直面した時、よく使われる言い訳。 …それが、懐疑主義だ。
 例をあげると、『私たちは、いろいろなケースや原理に対して議論をしたけれども、何も解決しなかった。 アリストテレスやロックや、カントでさえ、長年かけても解決できてないないのだから、この講堂に集まった私たちが、一学期の講義で解決できるわけがない。 要するに、各自が自分なりの原理を持てばいいのであって、これ以上の議論は必要ない。 論じても無駄である』――これが懐疑主義の言い訳だ。
 これに対しては、私は次のように答えたい。
 『確かにこれらの問題は長年にわたり議論されてきた。 しかし、それが繰り返され、議論され続けてきたという、まさにその事実が、その問題の解決がたとえ不可能であっても、議論を続けることは避けられない、ということを示唆している。
 なぜ避けられないかというと、私たちは毎日、これらの疑問に答えを出しながら生きているからだ。 だから懐疑主義に飲み込まれ、諦めてしまい、道徳に関する熟考をやめてしまえば、解決にならない』」

 なるほど、サンデル教授のおっしゃることは、学者だからこそ考える、知への旺盛な探求心をうかがえるものなのですが。
 やはりちょっと、付け加えたくなってくるのです(失礼ながら)。

 人生にとって、より深い知識を得たり、そうすることによって判断力を、より良い方向に高めたりするのは、確かに重要です。
 この講義は、それに対する限りない示唆に満ち、人を啓発するための、契機にあふれています。 このことを学ぶことは、とても意義のあることと、私も考えます。

 でもやはり、その先にあるものを、私たちは見つめていかなければならない。

 それはなにか、と言うと、一歩前に進む、「行動力」 です。

 そして、その行動に必要不可欠なのが、一生懸命さです。 誠実さです。 良心です。

 そこに、他者へのいたわりが加われば、その推進力は、きっともっと大きくなる。

 いくらいいことを考えていても、行動しなければ、それはなんにもならない。

 そしていくらそれがいいことだと考えていても、それが独りよがりな場合、いくら行動しても、それは自分勝手なものにしか終われない。 他人のために成し遂げよう、という気持ちが起きるとき、その行動は、最大限に効果のあるものになる。

 エライ生意気ですが、そんなことを私は考えるのです。 ハーバード大学の最高知性の講義を前にして。

 私たちは、知性の先にあるものを、見据えなければならないのでは、ないでしょうか。

 …困ったぞ(笑)。 まだ第1回目の半分しか書いてない(笑)。 第1回後半には、実際に起きた難破船での人肉食の話をもとにして、ベンサムの功利主義の話に突入するのですが…。 なんか、力が尽きてしまった(笑)。 とにかくこっちの話も、ちょっと書きたい個人的な意見があるので、おいおい書いていこうと思いますが、いつになることやら…。 連休を利用して書こうかなぁ…(笑)。

続きはこちらです↓
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/1-2-6f0c.html

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「八日目の蝉」 第5回 逃亡の果て

 小豆島で、すっかり日に焼けた島の子になって、坂井真紀サンより上手な島言葉をしゃべるようになった(笑)薫チャン(小林星蘭チャン)。
 「この子を小学校に入れることができるだろうか…」 という不安を抱えながら、小学校で生徒と先生の真似事をしたり、八十八ヵ寺巡りをしたり、母子の思い出を作りながらも、檀れいサンの心には、どうやら旅の終わりに対する予感が、日ごとに高まっていく様子なのです。

 このドラマ、同じ 「子供さらい」 の話である 「Mother」 と決定的に違うのは、檀れいサンが、薫チャンに対して、自分が堕ろしてしまった 「薫」 に対する思いをすべてぶつけるように、愛情をこれでもか、これでもか、と注いでいる部分だと感じます。

 それは、考えようによっては、自分の罪を滅するための、都合のいい愛情かもしれないし、さらわれた側の板谷由夏サンの悲しみを考えない、自分本位な愛情かもしれない。

 おそらく檀れいサンの罪は、薫チャンがその後、恵理菜(北乃きいチャン)として、素直に育たなかったことも含め、最終回にその是非の行方が示されることと思うのですが。

 もしこの事件を、ワイドショー的な報道のされかたをした場合、私たちはけっして、檀れいサンに同情はしないと思うんですよ。
 ところがこのドラマを見ていると、子供をさらった 「誘拐犯」 であるにもかかわらず、檀れいサンが、薫チャンに大きな愛情を注いでいることに目が行ってしまって、この母子がいつまでも、覚めない夢の中にいてほしいとさえ、考えてしまう。
 そこらへんが、このドラマの大きな魅力になっているんだろうと思うんです。

 今回この小豆島に、坂井真紀サンが帰ってきました。
 以前嫁ぎ先を逃げ出して、息子の亮太クンを連れて帰って来た時、母親の吉行和子サンから協力を得られなかったことを、坂井真紀サンはいまだに恨んでいるのですが、帰ってきてから何かの拍子にまたその話がぶり返されてしまい、また島を出ていく、みたいになっちゃって。

 そこで坂井サンは檀サンから、吉行サンがいつも無事に娘が戻ってきますようにと願をかけていたことを聞かされて、長年のわだかまりがなくなるわけです。
 けれども、なんとかもうひと旗あげて、亮太を連れ戻せるように頑張るんだという気持ちが坂井サンにはくすぶっていて、結局島をまた出ていくことになる。

 別れのフェリー乗り場で、娘におにぎりを持たせる、吉行サン。
 うるさがりながらも、最後は 「おかあさーん!」 と泣きながら叫ぶ、坂井サン。
 まーた泣いてしまいました。 ここんとこ、テレビを見ながら毎日泣いてます(笑)。

 特に吉行サン演じる母親が、キレると止まらない娘に対して、とても控えめだけれども、とても深い娘への思いがあるところを演じていて、よかったですね。
 坂井サンも、キレてガーガー母親を罵倒しまくるんですけど、そこには、「本当は思いっきり甘えたことを言いたい」 という気持ちが込められていて、それがよく分かるんだなあ。
 どうも親子の 「思い」 という部分には、敏感です、私。

 話は前後しますが、八十八ヵ寺巡りで、険しい階段をひとりで登っていく檀れいサンと、「下で待ってて」 と言われた薫チャンのお互いを呼ぶ声が途切れた時は、やはり見ているほうもどきりとしました。
 もしかして、下で薫チャンが、警察に確保されてしまったのではないか、とか。
 そんな場面を挿入することで、見ている側にも、このふたりの別れが近づいていることが、ひしひしと感じられてくる。 後半はやはり、いつ捕まってしまうのか、ドキドキものでした。

 そんななか交わされる、檀サンと薫チャンの 「蝉」 の話。

 「えーっ、七日しか生きられんのぉ?」

 「蝉にとったら、ちっとも短くないんだよ。 だって、人間の一生分だもん。 毎朝毎朝、あー神様、今日を迎えられてありがとうございます、って蝉は思うんだろうね。 一日一日が、とーっても幸せで、胸が痛くなるくらいだもん。 夜眠るのが、もったいないくらいで。 …中にはちょっとだけ長く、八日くらい生きる蝉もいるかもね」

 「そんなのいやや」

 「…どうして?」

 「だって、ほかの蝉はみんな死んでしまうのやろ? 自分だけ、一日生き残るなんて、さみしくてたまらん」

 「そっか。 …そうかな?」

 これは、檀れいサンと薫チャンのそれまでと、そして未来の暗示になっている場面のような気がします。
 檀れいサンは、薫チャンとのその日その日を最大限大切にしながら生きてきた。
 けれどもその後檀れいサンは、七日目の蝉のように、薫チャンの前から、姿を消してしまう。
 そして、恵理菜として生きてきた薫チャンは、自分だけ生き残った 「八日目の蝉」 と同じ寂しさを抱えながら生きてきた、という解釈も出来るような、気がするのです。
 「八日目の蝉」 というのは、薫チャン(恵理菜)の比喩だったのではないでしょうか。

 そして、ある朝、吉行サンから、「きょうは仕事に来なくていいから。 …早く逃げて!」 という電話が入る。
 吉行サンは、すべて事情を知っていたんでしょうね。
 そりゃそうか(笑)。 新聞に顔が出てあれだけ檀サンが狼狽すれば(笑)。
 でも 「暴力振るう男から逃げてきたんやろ?」 という坂井真紀サンの推理よりはまともだったわけで(笑)。

 そしてフェリー乗り場。

 岸谷五朗サンの必死の形相で、警察の手が間近に迫っていることを察した檀サンでしたが、フェリーに乗り込む寸前で、ついに、ついに、捕まってしまいます。

 泣き叫びながら、引き裂かれていく 「偽りの母子」。 激しく動く画面は、しばらく無音でした。

 そのとき薫チャンは、それまでの 「ママ」 ではなく、「お母さん」 と、檀れいサンのことを呼ぶのです。

 檀れいサンは、いったい何を叫んでいたのでしょうか。
 次週、最終回です。 ああー、エンディングの歌が、また泣けるんだこれが。

「八日目の蝉」 に関する当ブログほかの記事
第1回 来週も、…見よう、かなあ?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-254c.html
第2回 ヘンなとこ、きちゃったな~http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-4f12.html
第3回 がらんどうの悲しみhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/3-da4d.html
第4回 穏やかな、凪のような回でしたhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/4-a45c.html
第6回(最終回)もう触れることのできぬ思いhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-cef7.html

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2010年4月27日 (火)

「おくりびと」 親不孝してる身には、ちょっと堪えました

 TBSで放送した、映画 「おくりびと」。 「おくりびと」 のロゴが画面の右上に陣取ってうるさかったり、エンドマークも出なくて 「え、終わったの?」 って感じで終わっちゃうし、放送の仕方はサイテーでしたけど、映画のほうは、さすがに賞を100個も獲ったというだけあって、珠玉の出来でした。

 楽団員でチェロを弾いていた本木雅弘クンが楽団の解散に遭ってから里帰りし、納棺師という葬儀屋の一種ですか、そこに半ば騙されたようにして、なし崩しに入ってしまい、納棺の解説DVDに無理矢理遺体役で出たり、というところまでは、ちょっとマンガっぽくて、ずいぶん前に同じ本木クンが出ていた映画 「シコふんじゃった。」 みたいなのかなーと思ったんですが。

 ただ、そこから本木クンが社長の山崎努サンについて納棺師の仕事を覚えていくあたりは、とても興味深い出来事の連続で。
 腐食が進んでいる遺体の処理をした後、銭湯で何度も体を洗い、女房役の広末涼子チャンに取りすがって、「生」 の感触を確かめる、というシーンは、とてつもなくリアルでした。 おかげで、ヒロスエが本木クンに犯されるという、結構ショッキングな映像が、さほど気にならなかった(笑)。
 そしてそのヒロスエ、本木クンがひたすら隠していた夫の職業を知り、「触らないで!けがらわしい!」 と拒絶する場面では、普通だったらそういう反応をしてしまうのかな、なんて考えたりもしました。

 広末チャンから本木クンに突き出された問いは、「その仕事を一生に仕事にするだけの覚悟が、あなたにはできているの?」 というもの。 ただその仕事に興味を持ち始めていただけの本木クンにとっては、そんな重大な覚悟など、その時点ではあるはずもなく。

 それでも本木クンには、自分のしている仕事に別にけがらわしさも感じることがなく、人間の 「死」 というものの尊厳さに触れ続けてきた、この納棺師という仕事に対する誇りだけは、生まれつつあるのです。 だから山崎サンに仕事をやめると言いに行った時も、結局は言い出せずに終わってしまう。

 その時山崎サンは、フグの白子を食べながら、「これもご遺体だ」、だけど困ったことに、これがおいしいんだと、いたずらっぽい笑みを浮かべる。 なんとも説得力のある、変化球ではないですか。

 山崎努サン、と言えば、伊丹十三監督の 「お葬式」 にもお出になってましたね。 あのときは喪主で、今度は納棺師ですが、主題が葬式である映画、という点では、共通しています。

 話はそれますが、それと見ていて気になったのは、この映画にお出になっていた山田辰夫サンや、峰岸徹サンが、すでにお亡くなりになっていること。 たまたまなんでしょうが、ちょっと感慨深いものがありました。 山田辰夫サンは、チンピラ役とか、「傷だらけの天使」 の水谷豊サンみたいな役が、とりわけ多かった気がします。 なんだか心に引っかかる、印象的な脇役をなさっておられました。 峰岸サンは、ホントにしょっちゅうテレビで見ていたような気がします。 結構コミカルなこともこなす人でしたよね。 おふたりとも、この映画では、とても印象的な役をおやりになっていました。

 印象的な役、と言うならば、この映画の大きな特徴は、出演された役者サン全員が、印象的な役をされている。 おそらくそのほとんどの人が、死とかかわった役どころであるがゆえに、印象的にならざるを得ないのです。

 そのなかでも特に涙なしでは見ることができなかったのは、吉行和子サンの息子役だった、杉本哲太サンの演技。
 吉行サンがひとりで切り盛りしている銭湯を建て替えようとしていた杉本サンは、火葬場で母親の焼かれるところを、火葬場の職員で銭湯の常連だった笹野高史サンに頼んで見せてもらうのですが、笹野サンが点火のスイッチを入れた瞬間、「母ちゃん、ゴメン…」 と何度も詫びながら、泣き崩れるんですよ。

 私も、親不孝しているので、このシーンはただひたすら、号泣しました。

 それからは、なんか知らないけど、別に悲しくもないシーンでも、ずっと泣いてましたよ。

 で、本木クンが自分を捨てた父親(峰岸徹サン)の死を知り、最初は拒絶しながらも、結局父親のもとへ向かう。
 そこで本木クンは、自分の父親のおくりびとを買って出るのですが、父親が、何かしっかりと握っている。 それは幼いころに自分が父親にあげた、石文(いしぶみ、自分の思いを込めて渡す石)だったのです。 その時、すっかり忘れたと思っていた父親の顔が、鮮明に記憶の底から浮かび上がってくる。 そして本木クンは、その石を、自分の子供を宿した広末チャンのおなかに、そっとあてるんですよ。

 なんだか、ずーっと、泣きっ放しだったです、私。

 生きている人、死んでゆく人。
 それぞれにみんな、いろんな思いを抱えています。
 そしてとりわけ家族は、お互いに対して、「思い」 どうしで、つながっている。
 「死」 による別れというものは、その家族の 「思い」 を、改めて身をもって感じる、ひとつの契機なのではないでしょうか。

 いい映画でしたー。

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2010年4月25日 (日)

「龍馬伝」第17回 試合という名のラブシーン

 冒頭、日本人が動かす黒船に乗って、完全に舞いあがり気味の福山龍馬。

 そこからジョン万次郎(トータス松本サン)との語らい、そして勝麟太郎(武田鉄矢サン)のお伴として海軍操練所の人集めに奔走するのですが、はしゃぎまくっている龍馬を見るのは、若者が自分の生きる目的に出会って有頂天になっていると考えれば、かわいいもんだと思えるのでしょうが、ちっくと騒ぎ過ぎと思ってしまう私は、つまらん大人なんでしょうかね。

 ところが今回の 「龍馬伝」、時間差攻撃で、かなりの見ごたえある作りに、結果的に、なっておりました。 その時間差攻撃シーンをラストに据えたことで、冒頭のはしゃぎまわりシーンの違和感が、最後まで見終わったあと、さほど意味のないものではないように、思えてくるのです。

 海軍操練所の人集めで、勝について土佐藩邸へ足を踏み入れた、龍馬。
 脱藩者であることから、ほかの藩邸のようにはいかず、少々緊張気味であります。
 そこに現れたのが、下士の龍馬では決して会うことすらままならない、山内容堂(近藤正臣サン)。 上川隆也サンの子孫ですよ…って違うって(笑…「功名が辻」 では上川サン、山内一豊でしたね…スイマセン、手の込んだギャグで)。

 勝は、この席で龍馬の素性を明らかにしないうえで、さりげなく、脱藩した龍馬の罪を許してもらおうと画策するのですが、「脱藩は藩に対する裏切りじゃ。 つまりは、わしに対する裏切りじゃきの」 と、龍馬をぎろりと睨みつけながら、勝の狙いを一蹴。
 会見後、容堂公の印象を勝から訊かれた龍馬は、「底しれん、恐ろしさを感じましたき…」 と、ちょっと放心状態。 はしゃぎっぱなしだった龍馬の態度は、この時点から、かなりトーンダウンするのです。
 「土佐を動かしているのは、まぎれもなくあの容堂公よ」 と、かなり確信して言い放つ、勝。
 ただ、その時点では、今回のサブタイトル、「怪物、容堂」 の、真の意味は見えてこない。

 ここらへん、去年の完全なるこけおどし(いや、看板に偽りありの)サブタイトルの連続だった 「天地人」 とは、雲泥の差だと感じます。

 物語は、人斬りが半ば公然化してきた岡田以蔵(佐藤健クン)の葛藤を、丁寧に追っていきます。 京の町でねんごろになった飲み屋の娘のもとで夜をすごしながら、自分が斬られる悪夢にさいなまれ、娘にすがりつく、以蔵。 なんかすごいリアリティでしたね。 人を殺すという高揚感と、罪悪感。 京のはんなりした言葉の娘に、そのはけ口と救いを求める、という構図。

 そしてその裏で、収二郎(宮迫博之サン)と酒とお茶を酌み交わす武市(大森南朋サン)。 以蔵が苦しんでいる裏で談笑しているのは、とても不遜なのですが、その武市も、実は奥サンの冨(奥貫薫サン)を一途に思っている、ほんとうは優しい人間であることを描写する。 そして冨への手紙に、お役が済んだらお前のもとへ戻る、という意味深なことを書いてよこすのです。 どうもこの書きっぷりを見ていると、武市自身も、こういう冷血漢でいることに、嫌気がさしているような感じも伝わってくる。 深いなあ。

 龍馬は勝と神戸へ旅立つ直前に、千葉道場へ別れのあいさつに赴く。
 重太郎(渡辺いっけいサン)からは、必死の遺留をされるのですが、定吉(里見浩太朗サン)は、「坂本には、坂本の道がある」 とそれをいさめる。
 佐那(貫地谷しほりチャン)も、すでにあきらめた様子。
 「父上のおっしゃる通りです。 坂本サンの選んだ道は、日本を守ることなのですから…」

 ここで龍馬から、意外な申し入れが。

 「最後に、お佐那様と、立ち会わせていただきとうございます」

 この最後の手合わせのシーン、予想外の、素晴らしいシーンでした。
 佐那の戦い方は、龍馬と初めて手合わせした時のように、高速回転でひたすら打ち続ける戦法なのですが、龍馬はそれに、まったく動じず、逆に佐那と同じように、高速回転で、一瞬佐那と組んだような形になり、そして押し返す。
 龍馬はその時、「ありがとうございます! お佐那様に教わった剣は、わしの宝ですき!」 と叫ぶのですが、その瞬間、佐那の竹刀が、龍馬の胴を打つ。 だが浅い。
 佐那は息を荒げながらも、「坂本サン…」 と感情があふれてくるのですが、またふたりは、激しく打ち合い始めるのです。
 この打ち合いが、見ようによっては、まるで会話をしているように、思えてくる。 剣を交えることで、お互いの気持ちが通じ合ってくる、勝負をする者同士にしか分からない感情が、激しく火花を散らしている感じに、見えてくるのです。 私には、龍馬と佐那のラブシーンのように、見えました。

 その様子をじっと見つめる定吉。 ふと両者の動きが止まり、相手の竹刀を回すようにして伸びた龍馬の竹刀が、佐那の面を捉える。 「それまで!」

 「本当に、強くなられましたね…」

 そしてふたりの、回想シーン。 いや、なんか、泣けました。

 龍馬が去ったあとの道場で、「私はもう、誰の嫁にもなりません。 これからも、剣一筋に生きてまいります。 心配しないで下さい、父上、兄上…。 私は幸せです…。 だって、坂本サンは、ここにいるのですから…」 と、龍馬の名札を見つめる、佐那。
 その後、自らの墓石の後ろに、坂本龍馬妻と書きいれたという、千葉佐那サンの思いは、ホントにこんなものだったんだろうな、というのがとても伝わりました。

 ところが、冒頭に書いたように、ここで山内容堂との接見シーンの続きが、控えておったのです。

 武市半平太のことを 「行き過ぎている」 と批判する容堂公。
 「下士は犬猫同然ながじゃ。 下士の分際で藩を動かそうなど、虫唾が走る! 口では、わしのためだと言いながら、武市はわしの支えじゃった吉田東洋を、闇討ちにしたがじゃ。 そんな輩を、許してもえいと思うか、おんし!」
 容堂公はその時、はっきり龍馬に向かって詰問している。
 つまり、龍馬を脱藩浪士と見抜いただけでなく、武市に近い攘夷派の人間であると見做しているのです。

 龍馬は、「武市は容堂公への忠義一筋の人間である」 と説明するのですが、容堂公は
「よう知っちゅうのう。 まるで、土佐者のようじゃ!」 と、つかみかからんばかりの勢い。
 その場は勝のとりなしで収まったのですが、その後、あれほどけなしていた武市を、上士に取り立てる命を下すのです、この容堂公。
 その真の目的は、やはり別のところにあるのでしょうが、そうとも知らない武市が、涙を流して喜んでいるさまは、非常に哀れでも、あるのです。

 ラストに来てこの、容堂公の怪物ぶりをガーンガーンと繰り出す見せかたには、正直シビレました。

 そして今週の、「弥太郎伝」。

 いきなり坂本家の朝餉にやってきて、龍馬との仲の良さぶりを急にアピールし出したと思ったら、「金貸して」(笑)。

 地震で倒壊した家屋の建て替え需要を見込んで材木を購入したはいいものの、地震で壊れた家の家計には、購買能力がなかったという、もっと経済学びんしゃい、みたいなヘマをやらかした末の話で(笑)。

 どこまでドジなんだぁぁ~っ!(笑)

当ブログ 「龍馬伝」 に関する記事
♯01論点が、はっきりしちゅうhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/1-e718.html
♯02えらい天気雨じゃったのう(笑)http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/2-a44b.html
♯03食われっぱなしぜよ、福山サンhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/3-8e96.html
♯04佐那チャン、ツンデレ、してません?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/4-5776.html
♯05アイデンティティの崩壊http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/5-d115.html
♯06本分をわきまえる、ということhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/6-766e.html
♯07父のこころ、子のこころhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/7-e1b3.html
♯08汚さに磨きがかかる(なんだソレ?)弥太郎殿http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/8-8680.html
♯09思想か、命かhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/9-febd.html
♯10もっとなんとかできたはずhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/10-b847.html
♯11龍馬が担ぎ出される、その理由http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/11-ac67.html
♯12武市の心理、執拗にやってますねhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/12-2a95.html
♯13大友サン演出は、一味違うhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/13-e7ca.html
♯14進む龍馬の空洞化http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/14-ef4d.html
♯15龍馬の人物像が、ちっくと見えてきたhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/15-b072.html
♯16日本人じゃあぁーっ!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/16-5e1f.html

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「今夜も生でさだまさし」 しょうゆーわけで千葉編

 2月3月とやらなかった 「今夜も生でさだまさし」。 3ヵ月ぶりにまっさんに会えました。
 しかも今回の放送は、私が社会人になってから、10年以上過ごした千葉県。 野球の延長で、モノレール、終電すぎたらしくて見ることができず残念だったですが、懐かしいなー。 モノレールは、あっちゃこっちゃにあった覚えがあります。 乗ったことないですが。

 さだサンにとっても、千葉県はゆかりの場所で、市川にずっと住んでいた時期があるくらいで。 妹の佐田玲子サンも、市川だったか、行徳だったかに住んでいらっしゃるはずで、地元のはずなんですが、どういうわけか今回はご出演せず。 新しい体制になったとかさだサンが話しておいででしたが、玲子サン、もう出ないんですかね?

 八街の落花生はムチャクチャうまいがヤタラメッタラ高い、簡単に送れとか言うな!という葉書には、大爆笑。 そうなんだよなー、とか。

 いつものことですが、ウィスキーをちびりちびりやりながら、ほろ酔い気分で見ております。
 酔っているせいか、自分が住んでいた佐倉市のことをつらつら思いだしたりしております。
 長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の、実家がありましたっけね、車で10分くらいのところに。
 臼井駅前には、ジャスコくらいしかなくて。
 夜になると、ほぼ真っ暗(笑)。
 大雨が降ると、県道の一部は、湖みたいになっておりました(笑)。

 仕事をやっていた関係上、やな思い出が結構あるんですが、今考えると、ゴミゴミした東京よりも、ずっと自分の人生の速度に合っている土地のような気がいたします。 今、無性に、懐かしいです。 や、個人的な話に、なってしまいましたね。

 ありゃ、歌を1曲も歌わずに、終わっちゃったよ。 今回は、東京ディズニーランドとか、気軽に固有名詞を電波に乗せられないことについて、さだサン結構、ディレクターサンとかにかみついてましたかね。 かみついてはいないか? あと児童手当とかね(笑)。 たぶん制度の不備な点とか、対象者だけ優遇とか、そこらへんを言いたかったのだろうと思いましたが。

 しかし観覧していたかたたち、曲が1曲もなしで、この真夜中NHK千葉放送局から帰るのは、かなりこっちもしんどいですね。 さだサンも、番組終わるとガクっとくる、とかおっしゃってましたが、終了後に1曲くらいお聞かせになったらいいのにな、などと思いましたです。

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2010年4月24日 (土)

「久米宏 ラジオなんですけど」 小島慶子は(!)、フジテレビアナは(…)

 スペシャルウィークのスペシャルゲストで、黒柳徹子サンを迎えて放送した、4月24日の 「久米宏 ラジオなんですけど」。
 1年振りと言ってましたから、その時の記事も当ブログに残っていると思って調べたら、ありましたありました、2009年4月18日付に(その時の記事http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/04/post-c4fb.html)。
 あれから、もう1年かぁ~。

 前回の時と比べて、黒柳サン、あんまりおしゃべりになっていなかった気もするんですけど、「私のしゃべりかた」 というメッセージテーマで電話に出てくれた一般人のしゃべりかたを、いや、マネするマネする(笑)。 黒柳サンの持つ、「失礼なキャラクター」、全開でしたけどね(笑)。

 それで、「しゃべりかた」 というテーマだったので、昔の久米サンや黒柳サンのお出になったラジオ番組のアーカイヴスなども流れたのですが、黒柳サンのしゃべりかたは、んまー昔から、変わっておりませんね(本人は変わったとおっしゃっておいででしたが)。 唯一違っていたのは、やはり 「ザ・ベストテン」。 この番組でのテンションは、ほかとは格段に違っていたことを告白されていました。
 久米サンはやはり、若いころの声のトーンは結構高め。 ただ、1968年だったかな?その時に朝5時からのニュースを読んだ時のテープも流されましたが、その声は実に落ち着いてましたね。 「朝寝坊して報道そのものから降ろされて、次にニュースを読んだのは、1985年(?)のニュースステーションだった」 と話しておられました。

 「しゃべりかた」 の話の流れで、ふと久米サンが、「うちの女房が、『小島慶子と渡辺真理のしゃべりかたは似ている』 と言うので、ちょっと小島慶子のやってる番組(「キラキラ」 でしょうね)を聴いて調べてみた」 と切り出して。

 ちょっと内容的にはアバウトな報告になってしまいますが、久米サンの言うことには、「小島慶子は話の端々に結構キツイ単語を使っている」 らしいんですよ。 いくらふざけて笑いながらしゃべっていても、言葉尻を捕まえると、シリアスな単語を並べている、と言うようなことをしゃべっておいででした。
 これはTBSのアナウンサー全体に言える特徴で、TBSはその部分は、きちっとしたしゃべりをする人間が多い、と。 黒柳サンはその久米サンの指摘に 「そんなことないでしょ」 みたいに突っ込んでましたけど(笑)。

 久米サンがさらに言うことには、小宮悦子サンは、日常の会話でもカチッカチッとしている、とか、局によってアナウンサーの体質が違う、とか。 黒柳サンは、「そんなこと考えたこともない」 と言いながら、NHKだけは確かに違うと指摘していました。
 で、フジテレビのアナウンサーについては、久米サンは自分の意見を表明せず、フジテレビをおやめになった人が 「うちは漢字とか読めなくても顔が良ければいいから」 みたいなことを言っていたと(笑)。 それで久米サンの意見はお察しください(笑)ということだったのだろうと思いますが、去年まで一緒に 「テレヤツ」 とかやっていた八木亜希子アナは、結構能力高い元フジテレビのアナウンサーだと思うんですけどね。

 で、久米サンは、TBSはラジオがあるから、その点で他局とは決定的に違う、みたいなことを話しておいででした。 まあ、他局にも、フジサンケイグループであればニッポン放送、日テレだったら、そんなに結びつきは強くない気がしますが、ラジオ日本とか、ありますけどね。
 でも、小島アナのように、ラジオでこれほどはじけたりする場が、TBSには用意されている、という点では、他のテレビ局よりは恵まれているのかも、しれません。

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「ゲゲゲの女房」 第4週まで見て

 飯田家と村井家のお見合いから結婚式、そして東京での生活のスタートまでを描いた、「ゲゲゲの女房」 第3-4週。
 相変わらずの語り口の丁寧さで、伏線の使い方がうまく、物語に全く破綻が見られないのが、見ていてつくづくすごいと感じます。

 この物語、特別奇をてらったところが全くなくて、ごくごく普通の、市井の人々を描いているのに、視聴者を夢中にさせて離さないような魅力があります。
 思えば、このようなドラマは、大昔にはたくさんあったような気がする。
 そんなドラマが絶滅状態だからこそ、かえって新鮮味が最大限にまで、増しているんだと感じます。 ここ数作の連続テレビ小説を、現代的な変化球だらけの作品にしたのは、このまさに 「本格派」 の 「昭和の物語」 の吸引力を増すための、助走だったとまで考えられる。

 この物語の主人公、布美枝(松下奈緒サン)は、ここ数作の連ドラのヒロインに見られたような 「上昇志向」 が、まずありません。
 ただ与えられた自分のポジションの中で、その日その日をただ普通に生きている。
 家族もとてもまともな人たちばかりで、父親の源兵衛(大杉漣サン)は、いかにも昔よくいた、わけもなくやたらと怖いカミナリオヤジだし、母親の古手川祐子サンは、その厳しい夫を陰で支える良妻賢母の典型みたいな役柄。 兄嫁もよく気配りができるし、とにかく飯田家の家族は、家族の役割を全員がきちんとこなしている印象がある。 そして同時に、そこにはとても愛情があふれています。 お兄さんが父親の命を受けて、ネクタイの結びかたを教えに来たり、古手川サンが 「あっという間に式が決まって何もしてやれない」 と涙したり…。

 そんな飯田家と対照的なのが、村井家。

 なんでも仕切る、男勝りの母親(竹下景子サン)と、おっとりしたインテリでユーモアたっぷりな父親(風間杜夫サン)は、村井家とは全くあべこべです。
 その息子である茂(向井理クン)は、「ひょうひょう」 を絵にかいたような性格で、変人みたいな一面もある。

 水木しげるサンのマンガに慣れ親しんできた身としては、この村井茂の描写は、とても納得できます。

 水木サンって、なんかとても楽天的で、神経がとてもおおらかなんですよ。
 兵隊に行った南国の楽園で、すっかり馴染んでしまってそこに永住しようと思ったとか、片腕を失うきっかけも、最前線に出るのを嫌がって見苦しく逃げ回ったために、結局は死ぬのを免れた結果だった、とか、神経の図太さをうかがわせるエピソードに事欠かない。
 水木サンの精神構造には、ちょっと常人には理解しがたい(笑)、あまりにも大きすぎるスケールがあります。

 それが結婚式での彼の振る舞いにも、とてもよく出ていて(笑)。

 神事を行なう宮司サン?といきなり打ち解けて(笑)、祝詞の文句を取材したり、靴下に穴が開きっ放しだったり(お兄さんが靴下を取り換えて、足袋を履いているのを有森也実サンが見てたまげる場面では、大笑いしました。 「背広に足袋!」 って…)、宴の席で大ーきなオナラをしたり(風間杜夫サンの 「オナラ講義」 も、笑わせていただきました)。

 あげく飲めないお酒を無理やり勧められて、ぶっ倒れてしまうのですが、ここでは茂が源次郎サンの安来節を我慢して最後まで聴いていたり、呆れられながらも、人のことを思いやれる人物であることを、さりげなくセリフで説明する。

 ここらへんのくだり、布美枝の幼いころの 「安来節」 の思い出を挿入させながら、視聴者を泣かせつつ笑わせ、そして感心させる。
 この複雑な構造が、ごくふつうのドラマの中で展開されるのが、このドラマの凄いところなのだと思うのです。

 そして結婚式から、東京に行くまで、布美枝は村井家の実家に泊まるのですが、そこではいつも怒ってばかりの竹下景子サンや、頼りないとばかり思っていた風間杜夫サンが、独特だけれども、しっかり家族に対する愛情を持っている人たちであることが分かるのです。 ここらへんの描きかたも、ほんとに丁寧。 感心するくらい。

 そのいっぽうで、結婚式の時にカツンと触れた茂の義手が、布美枝のこれからの結婚生活に対する不安の象徴としてドラマを見せていく。 新婚初夜には、茂の精神に大きな影響を与えた 「のんのんばあ」 の話まで出てくるのですが、こうして挙げていくと、ずいぶんといろんな話が盛り込まれていて、下手をするととっ散らかっちゃったり、見ているほうが話の目まぐるしさに疲れてしまったりするのですが、そんなことが一切ない。 話の流れが自然過ぎる。 これって、なんか相当高度な技術だと思いますよ。

 そして故郷との別れ。

 電車やプラットホームのセットや、東京駅でのセット。 CGには、見えませんでした。 「どこなんだ?」「どうやって撮ったんだ?」 と、うちの家族もケンケンガクガク(笑)。

 それはそうとして、ここでもミカンとか、赤飯のおにぎりとか、また家族の愛情を列車のなかでも感じさせるであろう小道具にまで、神経がいきわたっている。 つくづく降参であります。 布美枝に抱きついたまま離れなくなってしまう甥っこや、古手川サンの演技。 そしてふるさとでの日々のフラッシュバック。 泣けて泣けて仕方なかったです。 「当時は東京に行くのが、今生の別れのような感覚だった」 という野際陽子サンのナレーションが、また涙の誘い水になっているんですよ。

 その列車の中で遭遇した、浦木克夫(杉浦太陽クン)。 (ドラマ上では)「ねずみ男」 のモデルとなった、という人物ですが、その前知識がないと、とてもヤなヤツとしか見えない(笑)。 けれども、前知識がなくとも、「おるおるこんな礼儀知らずのヤツ」(笑)って、思えてしまうところがすごい(笑)。 ここで茂のあだ名、「ゲゲ」 の由来が明かされます。 ホント、さりげないなあ。

 そして姉の用意してくれた高級車に乗りながら、夢のような東京駅周辺の景色から(これもCGじゃなかったですね。 あっちこっちの古い建物を、ロケハンしたんだろうなあ)、牛が道路を横断するような、武蔵野の風情あふれる(笑)片田舎へとやってきた布美枝。

 茂の一軒家は、墓場が裏手にあるような(「墓場の鬼太郎」 のイメージも、これで作りやすかったんだろうな~と、妙に納得)超ボロ家。 しかも水道高熱の集金の督促が引きも切らない、ゼロではない、マイナスからのスタート。 食べるものもろくにないような状況に、野菜豊富な布美枝の実家の様子をインサートすることで、その対比を狙っています。

 そんななかで布美枝が見てしまった、茂のマンガの、あまりのおどろおどろしさ。

 それが、布美枝の戸惑いをさらに倍加させていく、という作り。 なんか、褒め言葉以外、見つからないですね。 見ている側は、後年の茂氏の成功が分かっているから、ここらへんの布美枝の不幸のスパイラルを、ある程度安心して見ていられるし、だからこそ、今後に対する期待が、膨らんでいく。

 とんでもなく凄い、「ふつうのドラマ」 が出てきた感じがします。

当ブログ 「ゲゲゲの女房」 に関するほかの記事
第01回 NHKのやる気を感じさせますhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-nhk-c7ac.html
第02週まで見てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-5cbd.html
第05週 ほんとうのスタートは、ここからhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-9d37.html
第06週 人事を尽くして天命を待つhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-3192.html
第07週 時代に流されていく人たちhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/7-6a9d.html
第08週 笑って生きよう、たとえ貧しくともhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/8-82ce.html
第09週 「生きるため」 と 「プライド」 の狭間http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/9-476d.html
第10週 ビンボー神の出るタイミングhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/10-8426.html
第11週 まあ…なんとかなーわね!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/11-e5c0.html

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「チェイス~国税査察官~」 第2回 届かぬ父の思い

 おことわり 当記事中過激な表現がままありますが、半分軽口で書いております。 こういうおことわりをすること自体がすでに無粋ではありますが、まともに取ってしまう方がいらっしゃいますので、あえて前置きいたします。

 旅客機墜落事故で亡くなった雪恵(木村多江サン)の代わりに、仕事量も少なくして食事も作り、娘(水野絵梨奈チャン)とのふれあいを持とうと努力している、春馬草輔(江口洋介サン)。 それに対する娘の態度が、先週から引き続き、個人的にはムチャクチャムカつくわけであり(笑)。
 「責任感じてるなら、死ねば?」 なんて、それが親に向かって言う言葉かぁぁーっ!と私なら、星一徹状態でちゃぶ台ひっくり返して(ちゃぶ台はさすがに家にはありませんが…)娘だろうが女だろうがひっぱたきますけどね(笑)。 さもなきゃ誰も傷つけたくない場合は、暴れます(笑)。
 「死ねば?」 はないだろっ、「死ねば?」 は!
 言っていいことと悪いことが、さすがにあるんじゃないかって、思いますよ。
 だいたい、父親が何の仕事をしてるか分からないったって、家に帰ってきてだらしない格好を見せるでもなし、いつも家族と真摯に向き合ってたじゃないですか、草輔は。 しかも江口洋介ですよ(そういう問題じゃないか…)。

 どうもこの、春馬家の親子関係が気になり過ぎて、当の脱税関係の話が上の空になりそうなんですが、その脱税関係の話のほうでも、村雲(ARATAサン)の協力者になっている川島歌織(麻生久美子サン)に、ちょっとムカつき気味です私(笑)。

 つまり、川島圭介の遺産1億7千万(しかも税金なしで丸々もらえるとか、言ってませんでしたっけ?)を、「そんなはした金で何が買えるっていうの?」 みたいに言うし、人の不幸を目の当たりにしながら、「キンチョー感で吐きそうなほどコーフンしてるの」 とか言ってるし。 あーサイテーだぞ、この女!
 しかもですよ、檜山基一(斎藤工サン)の相続税逃れで、子供をタックスヘイブンの外国で産ませるために、檜山と結婚までしちゃうんですよ。 脱税のために、子供まで生むのか!
 この話を村雲から切り出された時、さすがに歌織はひるむのですが、「じゃあほかの人に頼もうっと」 と言う村雲の魂胆を、小賢くも見抜いた気になって、その裏をかこうとするのが、いかにも自意識過剰でムカムカする(笑)。 「Mother」 の児童虐待バカ男にしてもそうですが、見ていてムカツクヤツを書かせたら、ピカイチですね坂元サンは。

 「私のことよく知ってるのね…どんなふうに言えば私が引き受けるか…安く見られてるのか高く見られてるのか…ねえ、裏金が6000億あったら何ができるの?…見てみたい気がするの、その使い道…いいわよ、彼と結婚する…だけど…結婚してもあなたに会いに来るわ…あなたに抱かれに来るわ」

 たまらず歌織を押し倒す村雲。 けれども、その様子は、欲情に駆られているのではなく、歌織のその冷たさに怒りを押し殺している感じなのです。 ここらへん、(勘違いかもしれませんが)村雲のトラウマをうかがわせるような、奥の深いシーンでした。

 それにしても、国外にニセの貴金属を持ち出して、外国で本物と交換し、外貨を課税されずに輸入する、という村雲たちの手口と言ったら。 マネする人が出てきそうな感じがしました。
 このエピソードには、ガンダレ(石黒英雄サン)という中国人を介在させ、中国の最下層の子供たちの暮らしを絡ませたり、そのガンダレを平気で見捨てる村雲たちを描いたり、なかなか見ごたえがありました。 ガンダレは、まるで現代中国の成り上がりの象徴でもあったし、精神的な貧しさの象徴のようでもありました。

 そして芸能プロダクションの脱税調査からザイックのニセ貴金属の情報がつながり、雪恵の飛行機墜落事故の背後に隠れているものを嗅ぎつける、江口サン。
 ここらへんの話は、まさに息をもつかせぬ展開で、シビレまくります。

 ただその話の流れの中で、せっかく修復しかけた江口サンと娘の関係も、また元の木阿弥になってしまう。 イジワルな展開だ…。

 部屋をノックしても応答がない娘鈴子に向かって、扉越しに、お母さんを死なせた張本人を、お父さんは絶対に許さない!と、悲壮なまでの決意を語りかける江口サンでしたが。

 部屋には誰も居ず…。

 その頃村雲は、大雨の中衝突事故を起こしてしまう。 はねられたのは、鈴子? はねられたのか、それをよけようとして壁に車が激突したのかは分かりませんが、また衝撃的なラストでした。 あー面白すぎます。

 今回檜山のオヤジサン役で、中村嘉葎雄サンが、出てきましたね。
 個人的な話になってしまいますが、私がその昔テレビドラマをちゃんと見るようになってから、いちばん最初に 「この人の演技は上手いなあ」 と思ったのが、中村サンでした。 久々にお目にかかります。 今回顔見せ程度でしたが、今後に期待します。

当ブログ 「チェイス」 に関するほかの記事
第1回 江口サン、公僕の悲哀http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/1-a698.html
第3回 裏切りに揺れる心http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/3-77a7.html
第4回 ふたつの復讐http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/4-3809.html
第5回 黒い薔薇、赤い薔薇http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-05dc.html
第6回(最終回)別の人生への希望http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-785a.html

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2010年4月22日 (木)

「Mother」 第1-2回 主人公が、暗いですね…

 「Mother」、ネットでやたらと評判がよかったために、見逃していた先週の第1回目の再放送とともに、第2回目を、見たのですが。

 その第1回再放送は、1時間の短縮版でズタズタだったとは言え、確かにものすごい衝撃的で、評判通りの傑作であることは、とても伝わってきました。
 ただそのコーフン冷めやらぬ中で見たせいか、第2回は、失礼ながら、ずいぶん失速気味に見えました。
 私が現在同時に見ている、子供をさらうという同じ内容のNHKドラマ、「八日目の蝉」 と、方向性が同じような展開かな、という感じ。

 その原因は何かと考えたのですが、「Mother」 第1回目の凄さは、「八日目の蝉」 とは違って、児童虐待、という問題を正面から取り扱っていたためだと感じるのです。
 その方向性を失ってしまうと、どうしても 「母性」 という話になってしまって、ふたつのドラマのベクトルが、似通った感じになってしまうのです。

 「Mother」 第1回目の吸引力は、子役の道木怜南チャン(芦田愛菜チャン)が、虐待を受けながらも表面上ニコニコしていることの、あまりの健気さに集約されているような気がします。 またこの子の演技が、評判通り、ハチャメチャにいいんですよ。
 そしてその、あまりにも可愛らしいこの子を、ロリコンの道具にしたり黒いごみ袋に入れたりしている、この子の母親の、いわゆる 「内縁の夫」 ってやつですか?あえて言わせていただければ、その大バカヤローに対する憎しみ。 個人的には、これがいちばん大きい。 ドラマ見ていてこんなにムカツクヤツを見たのは、久しぶり。

 第2回目では、その吸引力のファクターが、すっかり影をひそめていました。
 そこで浮き彫りになってくるのが、第1回目でも結構気になっていた、主演の松雪泰子サンの、あまりのネクラぶりです。

 松雪サン演じる鈴原奈緒という女性は子供が嫌いなくせに、客員教師だかで怜南チャンの担任教師を受け持っていた。 幼いころに親に捨てられた過去を持っており、それで相当に屈折している、という役どころです。 それに、その捨てられた、という過去には、田中裕子サンや高畑淳子サンが絡んでいる、複雑な事情があるらしい。

 だからなのか何なのか、この奈緒、ヤタラメッタラ、暗い。
 しかもATフィールド全開だし。 (他人を寄せ付けないオーラ全開、ってことです)

 だけどだからこそ、虐待を受けながらも健気に生きている怜南チャンに、奈緒が必要以上に共感し、この子をさらおうとしたのだ、という動機としては、とても納得できる。

 親から普通の愛情を注がれて大人になった人ならば、怜南チャンをかわいそうだとか激しく同情はするけれども、だからと言ってさらおうとまでは、思わないはずだからです。 私も第1回で、道端に捨てられたごみ袋の中に入れられていた怜南チャンを見た時は、「まずは警察に通報だろ、あのクソバカを逮捕させろ!」 と、マジで腹立ちましたもん。 それをさらってしまう、というのは、奈緒がやはり屈折した育ち方をしたゆえなんだろうな、という感じは、するんですよ。

 ただし、そんな突発的な動機だからこそ、怜南チャンには、奈緒のその覚悟の浅さが、見透かされるわけです。

 第2回目の途中で、怜南チャン(奈緒によって、継美と改名させられましたが、とりあえず怜南で統一します)は急に、奈緒の呼びかたを 「お母さん」 から、「先生」 に戻してしまう。
 それは逃亡後、身を寄せていた、奈緒が幼いころ入れられていた養護施設 「桃の家」 の 「お母さん」(高田敏江サン)を、置いて出ていこうとしたからです。

 「どうすればよかったの? 私だって精一杯、あの子の母親役をやってるつもりなのに…」
 すっかりボケてしまったように見える高田敏江サンの前で、ついグチる松雪サンでしたが。

 「奈緒ちゃんだって、そうだったのよ…奈緒ちゃんが桃の家に来た時、お菓子、我慢したでしょ?テレビ、我慢したでしょ?ホントのお母さん、我慢したでしょ?…どうしてだった?」

 「一度、捨てられたから…また、もう一度捨てられるのが、怖いから…」

 借地権が切れて、「桃の家」 から出ていかなければならなくなった高田敏江サンが、松雪サンと怜南チャンに 「ありがとう、ありがとう」 と叫び続ける場面は、実に秀逸でした。
 いくらボケていても、ほんの瞬間、正気に戻ることがある。
 高田サンの演技は、ボケていても子供たちの愛情だけはいつまでも色褪せずに残っている、そんな 「里親」 としてのかけがえのない執念を描き切っていて、とてもよかったです。

 しかし話はそこから、ちょっと謎めいた展開になっていく。

 高田サンが連れていかれた 「桃の家」 で、松雪サンは自分の名前の書かれた箱の中から、何か紙片を取り出すのですが、そこにはなにも、書かれていない。
 何か折り紙を折ったあとのような感じなんですが、箱にはそれ以外、何も入ってなかった様子です。
 これって一体、何なのか?

 そしてもうひとつ。
 結局松雪サンは、頼りたくなかった育ての親らしい高畑淳子サンのもとに電話したみたいなんですが、高畑サンは田中裕子サンと談合していて(笑)、「奈緒についての秘密は、これまで通り厳守だから」 みたいな打ち合わせをしている。
 それはいいのですが、その談合のあと、田中サンは偶然、松雪サンとすれ違うんですよ。
 松雪サンはちっとも気付いていないのですが、田中サンは気付いている。
 これって、田中サンが松雪サンの生みの親?で、高畑サンからは定期的に成長状況を報告されていて、松雪サンがたとえ大人であっても分かるくらいの認識はしている、ということですよね。

 今の時点で別に、いろいろ分からないところがあるのはいいのです。
 ただ気になるのは、結局話がそういう方向に行ってしまう、ということなのか?ということなのです。
 だとすると、第1回目の児童虐待でイカリまくった私の気持ちの矛先は、どこで収めればいいのかなー(笑)。

 要するに、私の強い希望としては、あの大バカ男をテッテ的に懲らしめてやりたい、という感じなんですよ。 なんか、とても、許せなくって…。 脚本家の坂元裕二サンには、この大バカ男に、早いとこ天誅を下してもらいたいものです。

 ドラマの感想としては、こんな感じですが、高畑淳子サンは、おんなじような内容のドラマに、両方とも出てますね(冒頭に書いた、「八日目の蝉」 です)。 でも役柄が、全然違う。
 役柄が違うと言えば、「蒼窮の昴」 で西太后などというとてつもなくエラソーな役をやっていた田中裕子サン、今回は180度違う、平身低頭の役どころです(笑)。 おふたりの演技の幅には、つくづく感服いたします。

 尾野真千子サン。 怜南チャンの実の母親役ですが、あー今回、こんな悪役かよ~…。 ファンだけに、残念な役どころです。

 それにしても、なにしろ、怜南役の芦田愛菜チャン。
 「八日目の蝉」 の小林星蘭チャンもそうですが、最近の子役は、末恐ろしいのが多過ぎ(笑)。 「八日目」 なんて、赤ん坊まですごい演技してましたよ(笑)。

当ブログ 「Mother」 に関するほかの記事
第3-4回 同じテーマのドラマ 「八日目の蝉」 との相違点
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/mother-3-4-34fe.html
第5回 母と娘の距離感http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/mother-5-bc26.html
第6回 行く先が、見えないhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/mother-6-95e0.html
第7回 うっかりさんの裏の顔http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/mother-7-344a.html
第8回 泣いてもいいんだよhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/mother-8-8615.html
第9回 母の手のぬくもりをhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/mother-9-d640.html
第10回 優しさがつき動かすものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/mother-10-db64.html

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2010年4月21日 (水)

「八日目の蝉」 第4回 穏やかな、凪のような回でした

 坂井真紀サンのつてで、小豆島にやってきた、檀れいサンと薫チャン。
 親子そろってムチャクチャかわいいため、目立つこと目立つこと(笑)。
 色目を使うヤラシイオッサンが出てきましたが、その下品な態度はともかく(笑)、そのオッサンの気持ちは痛いほど理解できる(笑)。

 そして、男やもめの漁師役で出てきた岸谷五朗サンも、ムッツリしているけれども檀れいサンを気になって仕方がない様子。 檀サン宅の玄関先に、とれた魚を置いてなんとか気を引こうとする…ように、見えたんですけど(笑)、とにかく愛想がない(笑)。

 ただ、「掃き溜めにツル状態の檀れいサンを、ムッツリスケベの岸谷サンが狙っている」(笑)などという目でこの回のドラマを見ていると、ちょっと本質を見誤りやすい。

 腸閉塞になった薫チャンを本土の病院にまで自分の船で送り、そこで檀サンが保険証を出せずに実費で治療代を払っているのを見て、岸谷サンはこの親子がワケアリだということを察する。
 島に戻ってきたその翌日の晩、岸谷サンは檀サンに、自分の身の上話をするのですが。

 子供を亡くした痛手をリセットしようとして、女房はこの島を出ていった、と語る岸谷サンのセリフが、子供をさらって逃げている檀サンに、またまた突き刺さる。

 「子を亡くした夫婦いうもんは、…さびしいもんや。 一緒におっても、あいだを埋めるもんがない」

 子供をさらわれた側の、津田寛治サンと板谷由夏サン夫婦が、「あいだを埋めるもん」 がなく、どんなに乾ききった毎日を送っているか。 岸谷サンがぼそぼそ話すあいだ、檀れいサンはそのことを考えることができたんでしょうか。 それとも板谷サンにされた仕打ちが忘れられず、いい気味だと考えたのでしょうか。
 檀れいサンの表情を追っていくと、いい気味とは言わないまでも、出来るだけ長く薫と一緒にいたい、ただそれだけの気持ちしか持っていないように見える。 どうも、自分本位が、抜け切れていない気がする。
 結局岸谷サンに抱かれてしまう檀サンが、張り詰めていた気持ちが折れてしまった、みたいに打ち明けていましたが、うーん、島ではずいぶん癒されていたような気がするけどなあ、と感じてしまったのは、私だけでしょうか。

 今回の小豆島編は、島の豊かな自然や、坂井真紀サンの母親役の吉行和子サンの優しさがふんだんに盛り込まれていて、全体的にはとても穏やかな、過去3回の殺伐としたような雰囲気から解放されたような、凪いだ海のような回だった気がします。
 それだけに、エンジェルの家の時以上に、深いつながりでかたく結ばれていく、檀れいサンと薫チャンの姿が、とてもはかなくて悲しくて。
 そして抱かれてしまう檀サンが、なんとも自分本位に、見えてしまって。

 今回の物語冒頭で、その、エンジェルの家で薫と仲良しだったマロンチャン(高橋真唯チャン)が、20歳になった恵理菜(=薫)(北乃きいチャン)の前にあらわれます。 マロンチャンはエンジェルの家のことを調べている記者になっているらしい。 ふたりが語り合う喫茶店は、なんだか檀れいサンと京野ことみサンが第1回でしゃべっていたのと同じ喫茶店、だったような気がします。 違うかな?
 ふたりは廃墟になったエンジェルの家を再び訪れるのですが、それを見ても表情ひとつ動かさない、かつての薫チャン。
 彼女はとても巨大な喪失感の中で生きているみたいなのですが、それがセミの抜け殻に、象徴的に投影されている。
 私は、彼女の喪失感を埋めるのは、かつての自分の名前、「薫」 であるような気がしてなりません。 「薫」 として生きていた日々が、彼女がいちばん誰かに愛されていると実感していた時期だったと思うからです。

 あと2回のこのドラマ、来週から大きく話が動きそうで、とても怖い。
 なんか、見たくない感じ(笑)。
 それというのも、今回の話が、とても穏やかだったからこそです。 ぬるま湯からは、なかなか出たくなくなる。 そういう感じです(笑)。

「八日目の蝉」 に関する当ブログほかの記事
第1回 来週も、…見よう、かなあ?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-254c.html
第2回 ヘンなとこ、きちゃったな~http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-4f12.html
第3回 がらんどうの悲しみhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/3-da4d.html
第5回 逃亡の果てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/5-267b.html
第6回(最終回)もう触れることのできぬ思いhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-cef7.html

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2010年4月20日 (火)

ポールの 「フレンズ・トゥ・ゴー」 に見える、ジョージ・ハリスン観

 ポール・マッカートニーの今世紀最大の傑作と目される、2005年発表のアルバム 「ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード」 の中の一曲、「フレンズ・トゥ・ゴー」 は、この曲を作っているとき、亡くなったジョージ・ハリスンの魂が自分に入りこんできたような錯覚を覚えた、とポール自身が述懐している曲だ。

 その割にはジョージの作った曲っぽくないように、表面上は聴こえるのだが、「ジョージに取り憑かれたのかどうか」 は別として(笑)、この曲を分析すると、ポールが抱いていた 「ジョージ・ハリスン観」 というものが見えてくる。 これは、とても興味深い。

 「ケイオス・アンド・クリエイション」 のアルバム全体を聴いていると、私などはジョージの遺作 「ブレインウォッシュド」 に少なからず影響されている部分を感じる。
 それは、それまでツアーバンドのためのアルバムを出そうとしていたポールが、プロデューサーのナイジェル・ゴドリッチに勧められて、自作自演のアルバムに乗り換えた、という、このアルバム制作をめぐる過程についてだ。
 このポールの路線変更は、ゴドリッチの進言以上に、ジョージの 「ブレインウォッシュド」 が、ほとんどジョージのセルフプレイによるものであったことが大きな動機のひとつだったのではないか、そう私には思えるのである。

 さらにこのアルバム全体に漂うトータル感は、ポールが元ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンによる 「スマイル」 の、37年ぶりの歴史的な完成に影響を受けたものだとも思うのだが、それはまた別の機会に論じよう。

 「フレンズ・トゥ・ゴー」 は、アコギのラフなストロークから始まる。
 この時点で、「どこがジョージ的なのだ?」 といぶかってしまうほどなのだが、問題はそのコード進行と、歌詞の内容なのである。
 ただこのイントロをジョージ的とこじつけるならば(笑)、アコギのラフなストロークというイントロは、「マイ・スィート・ロード」 や 「ギヴ・ミー・ラヴ」 に通じるものがあると、言えなくもない。 …さすがにこじつけだ(笑)。

 この曲の基本コードは、Eである。
 その次のコードはB7。

 このコード進行は、ジョージのビートルズにおけるいちばん最初の(アルバム収録された)自作曲、「ドント・バザー・ミー」 を、私に想起させる。 これもこじつけぽいけど(笑)、ギターで彼らの曲を弾き語りしている私が持つ実感だ。

 「ドント・バザー・ミー」 は、Emで始まるのだが、歌い出すと同時に、B7-A-G-Emという展開を示していく。 Emならば、B7というのは、たいていは最後に戻るときのコードなのだ。 それをのっけから、しかも歌いだしからぶつけてくるこのジョージの感性。 そして2度ずつ下げて展開する進行。 ちょっと普通では考えられないコード展開である。 それまでのレノン=マッカートニーのどの曲にもないコード進行と言える。

 ポールは、ジョージのこの曲を初めて演奏するに当たって、結構衝撃を受けたのではないだろうか。
 「フレンズ・トゥ・ゴー」 のコード進行には、一部ではあるのだが、40年以上前の 「ドント・バザー・ミー」 に対するポールの衝撃が、そのままコードになって乗り移っているような感覚がある。

 また、A-Am-Eみたいな、半音ずつ下がってくるコード進行。 これはジョン・レノンによって 「おなじみのコード進行」 と言わしめるほど、ビートルズにとってはオーソドックスなものだ。
 そのA-Am-Eに乗せて歌われる 「I'd prefer they didn't know」 の、半音が下がっていくくだりは、私の感じたままを述べさせてもらえば、ジョージのアルバム 「クラウド・ナイン」 の中の1曲、「ザッツ・ホワット・イット・テイクス」 を、ポールがちゃんと聴いていた証拠のように思える。
 というより、かなり漠然とした話になってしまうが、この曲全体に流れている雰囲気から、ポールがジョージのすべてのアルバムを、かなり細部にわたるまで聴き込んでいるような印象を、私などは受けるのだ。

 そしてこの 「フレンズ・トゥ・ゴー」 の中でいちばん私が 「ジョージ的」 である、と感じるのは、その歌詞の部分である。

 この曲の内容ですぐに気付くのは、「向こう側」 と 「こちら側」 という、対立意識の中に語り手が存在している、という構造だ。
 仏教的に解説すると、「彼岸」(あの世) と 「此岸」(この世)、ということになる。
 ポールはジョージを、いつもどこか達観したような場所から客観的に自分たちの世界を見ている、「向こう側にいる人間」 という認識を持っていたのではなかろうか。
 そしてその 「向こう側にいる人間」 は、周りに人がたくさんいようとも、常に心の中は孤高を保っていて、何かとんでもない危険が襲っても、それを因果の法則のカテゴリーで片付けてしまうような、皮肉屋の聖人を気取っている。

 「フレンズ・トゥ・ゴー」 の歌詞を読んでいると、ポールがジョージをそんな人間だと認識していたことが、とてもよく分かるのだ。

 特に2連目の 「つるつるした坂を滑り落ちる」 とか 「炎は収まりつつある」 とかという表現は、「ブレインウォッシュド」 のオープニング曲、「エニイ・ロード」 に触発されているのではないか、と思われるほどだ。 そしてここで歌われている 「危機」 は、ジョージの病気もさることながら、ジョージを刺したエイブラハムのことを私に連想させる。
 そして、いろいろ危機はあったけど、死んでからはもうすべてが安らかなんだよ、というジョージの声を、ポールは期待したに違いないのだ。
 だからこそポールはこの曲を書いているとき、その自分の願望を、「ジョージが憑いた」 と思いたがったのではないだろうか。 ちょっと夢のない書きかたで申し訳ないけれども。

 ジョージに対しては、いつも弟のような感情をポールは持っていた、というのは有名な話である。
 そこにはジョージが自分より下、という軽い侮蔑が含まれているような気がするのだが、「フレンズ・トゥ・ゴー」 という曲には、ただ純粋に、ジョージよ安らかなれ、というポールの祈りが込められている、そんな気がするのだ。

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2010年4月19日 (月)

「めざせ!ロックギタリスト」 第4回 バレーってやっぱ、鬼門なのネ

 ドゥービー・ブラザーズの 「ロング・トレイン・ランニング」 のイントロを弾くために、まずはバレー(指1本で1弦から6弦まで全部押さえる、アレです)をますだクンにマスターさせるヨッちゃん。

 ますだクン、これがまた、見ていてもどかしくなるくらい、押さえらんなくて(笑)。
 ますだクンはアコギをやっていた時、ここでつまずいてやめてしまっただけあって、さすがに出来なさに磨きがかかってます(笑)。
 そう、いくらエレキギターがアコギより弦を押さえられやすいからと言って、全部の弦をバレーするとなると、それなりに力がいるのです。

 しかしますだクン、ここはどうしても、乗り越えなくてはなりません。
 ギター弾きに必要なのは、やはり弦を押さえるほうの腕の、筋力だからです。
 そしてもうひとつは、弦を押さえる指先の、皮を厚くする、という工程(笑)。
 これは、ただひたすら、毎日長時間、ギターを弾きづけるしかない。
 もし機会があれば、ギター弾きの人の指先を、触ってみてください。 みんな異様に、硬いです(笑)。
 私もしばらくギターを弾かないと、押さえる握力もなくなって、指先も柔らかくなってしまいますね。
 ギターをある程度弾けるようになりたければ、毎日長時間弾き続けるしかない。 それって、私が考える、基本中の基本です。

 番組ではその後、カッティング技術も教えていくことになるのですが、ますだクン、どおーもなんか、ちょっと、だいぶ、とても、ヘタクソで(笑)。 弦を押さえた指の力をちょっと抜く、という感覚が、分からないようなのですが、自分のフィーリングでやりゃあ簡単だと、思うんですけどね。

 それにしても、この講座開始の時、ヨッちゃんはますだクンにCharの 「SMOKY」 まで弾けるようにする、とか言ってましたけど、見ているととてもできそーな雰囲気じゃない、と言うか(笑)。

 結局 「ロング・トレイン・ランニング」 も、この列車ヤッタラ遅っせーなー(笑)、しかもボロボロだし(笑)、みたいな卒業試験の出来でした。 赤点ギリギリで合格!とかヨッちゃんは言ってましたけど、そうでもしなきゃ番組が進まないからであって(笑)。
 だけど考えてみれば、結局、上達しませんでした!で終わる趣味講座があっても、それはそれで、ウケるんですけどね~(笑)。 それって前代未聞ですけど(笑)。

 にもかかわらず来週は、キッスの 「デトロイト・ロック・シティ」 ですとぉぉ~っ?(笑) や、クライマックス直前のリード・ギターでしょ、たぶん。 アレならトロくて弾けそうです。

 だけど、予告でますだクン、「ギブアップ」 とか言ってましたけど、ホントに出来るんですかね?

当ブログ 「めざせ!ロックギタリスト」 に関するほかの記事
第1回http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/post-a305.html
第3回http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/3-78fd.html
第5回http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-1d98.html
第9回 Charサンからのメッセージhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/9-char-ab5f.html

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「新参者」 第1回 なんとなく、謎解きがすんなりしすぎてる感じ

 阿部寛サン主演、東野圭吾サン原作ということで、それなりの期待をもって臨んだ 「新参者」 でしたが。

 阿部サン演じる加賀恭一郎という人物は、いかにも横溝正史以来の、ひょうひょうとした推理能力の高いキャラクターで、なんとも新鮮味がない。
 第1回目を見る限りでは、その推理能力の高い男が、事件をあまりにもあっさりと片付けていくので、物語的に深みが生まれてこない気がしました。

 第1回目での物語のキモは、岩崎弥太郎、じゃなかった(笑)保険会社の営業マンを演じた香川照之サンが、(あっ、いつものことですけどネタバレです)原田美枝子サンを殺した犯人ではなく、実は市原悦子サンの病気を隠そうとしたゆえのウソをついていただけだった、そこで市原悦子サンの孫である杏サンが、ばあちゃんの優しさに触れる、という構図でしたが(推理ドラマなのに、バレバレですがな…笑)。

 ここで、岩崎弥太郎が(ちゃうちゃう)コイツしか犯人はいないでしょみたいな話の持ってきかたからして、のっけからこれだけ分かりやすい犯人なんていない、なんて、見ている側が気付いちゃうんですよ。

 岩崎弥太郎が(しつこいですね、私も)犯人じゃないとすると、誰なんだろう、ということになりますが、このドラマ、冒頭からいろんな役者サンを、短いショットで出し過ぎる。
 この番組、これからこんなにいろんな大物が出ますよ、みたいなフリなんですが、そんなにいろいろいるんならば、いきなりガチガチの容疑者にされている香川サンが犯人ではない、ということが、確定したも同然なんですよ。 もしこれでこの先、香川サンが犯人だったら、それこそ私も、完全に降参、おみそれしました、と言うしかないんですが。

 加賀恭一郎の謎解きも、首を絞めて殺したことが心に引っかかっているのなら、剣道の試合で相手の首を狙って突きなどしない、というのも、昔の探偵ものを見ている感覚でした。
 もうちょっと、CSIとまではいきませんが、科学的なアプローチによる裏付けを見せてくれれば、物語にもっと深みが生まれる気がするんですが。

 そのせいなのか、杏サンが市原悦子サンの優しさに気付く場面は、ここが泣きどころだった気がしましたが、いまいち感情移入できなかったです。

 それでも、ひょうひょうとした名探偵(探偵じゃないですが)というのは、新鮮味がないなどと記事冒頭に書きましたが、実はそれがミステリードラマの王道でもありまして(笑)。 これって、面白くないわけがない、って感じですよね(笑)。
 さらにこの加賀恭一郎という人物、言いにくいこともずばずば言ってしまう性格なのですが、阿部サンのキャラクターには、とても合っている気がします。 嫌味にちっとも見えてこないのは、阿部サンの人格のたまものなんでしょうか。
 黒木メイサチャンとも、どういう関係なのか。 いろいろ掘り下げどころの多い話のような気がします。

 それにしても、三浦友和サンは、またまた怪しいですよねえ(笑)。

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2010年4月18日 (日)

「龍馬伝」 第16回 日本人じゃあぁーッ!

 龍馬(福山雅治サン)、ついに勝海舟(武田鉄矢サン)と邂逅!
 このことに私が必要以上に興奮しているのは、私どもの世代にとっては、武田鉄矢サンが坂本龍馬という人物を、どれだけ愛しているのかが分かり過ぎるくらい分かっているから、なのであります。
 その武田サンが、福山龍馬をどこまでビシビシ鍛えてくれるのか、と考えると、ちょっとその事情をご存じないかたには想像のつかないくらい、とても感慨深いものがあるのです。

 ワタシ個人は失礼ながら、坂本龍馬という人物に、そんなに深い思い入れがあるわけではございません。
 ただ、武田サンの龍馬に対する思い入れようをガキの頃からつぶさに見てきた私などにとっては、龍馬の大河に武田サンがご出演なさること自体が、わがことのようにうれしいのです。

 そもそも、武田サンが出てきた最初が、海援隊、というフォークグループ。 「母に捧げるバラード」 がヒットしたのは、1974年、私が小学4年の頃でした。
 私などは、海援隊という名前から、坂本龍馬を知ったクチでございます。

 そして武田サンの超当たり役、「3年B組金八先生」 の役名が、「坂本金八」。
 第1シリーズの金八先生の部屋には、大きな龍馬の写真が、貼られていましたっけ。

 龍馬好きが高じて、「お~い、龍馬」 という、小山ゆうセンセイのマンガの原作まで書いてしまったり、「Ronin」 という、吉田拓郎サンやらミュージシャンを多用して、映画まで作ったり。

 要するに、私にとっては、司馬遼太郎の 「竜馬がゆく」 よりも数倍、武田サンの龍馬好きには触れてきたわけなのです。

 さて、今回の物語。

 今回の 「龍馬伝」 は、龍馬がいかにして勝麟太郎に出会ったか、という部分を、千葉道場の千葉重太郎(渡辺いっけいサン)を介して松平春嶽(夏八木勲サン)に会い、その紹介で勝の屋敷に行く、という順序で追っていました。 ただしそこには、千葉定吉(里見浩太朗サン)の大きな後ろ盾があった、という構図でした。

 春嶽の前でエライしどろもどろな龍馬を、どうして春嶽が一目置くのか、という説得力は、どうもイマイチ。
 当の勝は、春嶽の紹介で会ってみた龍馬に、やおら自己採点表(笑)。 ペケのつけまくり(笑)。 オマエは、龍馬失格!オレに龍馬役をやらせろ!という感じ(笑)。

 勝が龍馬に対してほんとうに興味を抱くのは、勝の屋敷で書生になっていた、龍馬と知り合いの饅頭屋の長次郎(大泉洋サン)の話がきっかけではありましたが、勝のもとを訪れた武市(大森南朋サン)が、「幕府も藩も要らないとほざくような男です」 と、龍馬を評したことが、その最も大きな原因だった。
 それでも、勝にとっては、「ちょっともう一回会ってみてやろうじゃないか」 程度のことだったかも、しれません。

 それがドラマを見ていると、そのように見えない。
 その原因は、やはり武田サンの、龍馬に対する思いが強すぎるゆえ。
 どうも性急に、龍馬に会い、なんとか福山サンを 「いっぱしの龍馬」 に仕立てようと焦っているかのような姿を、個人的には感じました。

 だけど分かるんだなー、武田サンのその焦りが。 勝手にですけど(笑)。
 今の福山龍馬を見ていると、ビシビシ鍛えたくなるその心境が(笑)。

 そして武市の言葉で再び龍馬に興味を持った勝が、龍馬に再び会い、龍馬に自問自答させながら、龍馬が自分と同じベクトルをもった人物であることを悟る。 このくだりは、それまで性急に進んでいるように見えた物語が、見る側の心を揺さぶるドラマに進展していった瞬間だったと思います。

 「日本は、島国ですろう。 四方を海に囲まれちゅう。 異人らは、海から来るわけですき。 …やっぱり、いちばん大事ながは、軍艦ですろう。 強い海軍が、必要ですろう」
 「それじゃあ、海軍を持って、どうするね」
 「それは……わしは、千葉道場で、剣術を習うたがです。 ほんで、北辰一刀流の目録を、もらいましたき。 おこがましい言い方をすれば、わしは強いがです。 けんどわしは、人を斬ろうとは思わんがです。 そもそも、わしが強いと知っちゅう者は、ケンカを吹っかけてはきませんき。 つまり、わしが言いたいがは、いま、日本が、異国の言いなりになっちゅうがは、いくさをしたち、負けることが分かっちゅうきじゃ。 けんど、海軍が、強い海軍があれば、誰っちゃあに負けん、剣の腕があったら、戦にはならんぜよ。 …そうじゃ。 日本はもう、開国しちゅうき、異国の技術を学んで、どんどんどんどん日本の軍艦を造ったら、造ったらえいがじゃ! そんで、ほかのもんも、どんどんどんどん取り入れて、異国に張り合えるほどの文明を、文明を手に入れることができたら、日本は安泰となるがじゃ! そうじゃ…いくさをせんでも、攘夷を成し遂げることができるがじゃあっ!」

 最初はどうしたらいいのか分からず、答えをただ乞うために勝のもとに来た龍馬が、それまで自分が見聞して感じてきたことを、自分の言葉で探し当て、思いを結実することができた瞬間です。

 この龍馬の考えの前には、土佐だ攘夷だ日本だと、狭い了見でチマチマやっているこのドラマの中のほとんどの人物たちが、かすんで見える。

 そして龍馬は、勝から、咸臨丸に乗って太平洋を横断した日本人の心意気、というものを伝授されるのです。
 ここは日本人としては、感動せにゃいかんシーンですろう(笑)。
 そして勝に案内され、咸臨丸に乗り込む龍馬。 龍馬はここで、夢にまで見た黒船を、日本人が操舵していることに、心から感激する。

 世界の中で、日本人というものがどうあるべきなのか、自分たちの誇りをどう実感していけばいいのか、世界の中の日本を理解するための、思想の根本とは、どうあるべきなのか。

 より大きな視点で世界をとらえようという気概に、今回の物語はあふれていました。
 狭い考えで、島国根性で、世界を見てちゃ、いかんぜよ!

当ブログ 「龍馬伝」 に関する記事
♯01論点が、はっきりしちゅうhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/1-e718.html
♯02えらい天気雨じゃったのう(笑)http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/2-a44b.html
♯03食われっぱなしぜよ、福山サンhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/3-8e96.html
♯04佐那チャン、ツンデレ、してません?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/4-5776.html
♯05アイデンティティの崩壊http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/5-d115.html
♯06本分をわきまえる、ということhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/6-766e.html
♯07父のこころ、子のこころhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/7-e1b3.html
♯08汚さに磨きがかかる(なんだソレ?)弥太郎殿http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/8-8680.html
♯09思想か、命かhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/9-febd.html
♯10もっとなんとかできたはずhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/10-b847.html
♯11龍馬が担ぎ出される、その理由http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/11-ac67.html
♯12武市の心理、執拗にやってますねhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/12-2a95.html
♯13大友サン演出は、一味違うhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/13-e7ca.html
♯14進む龍馬の空洞化http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/14-ef4d.html
♯15龍馬の人物像が、ちっくと見えてきたhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/15-b072.html

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「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」 テレビドラマの映画化、という問題を、もう一度考えてみる

 あえてこの記事のカテゴリーを、「映画」 とせず 「テレビ」 とします。 その理由は、本文を読んでいただければ、ある程度納得していただけるかと。

 去年(2009年)の12月に映画として劇場公開された 「のだめカンタービレ」 の完結編前編が、早くもテレビに登場。
 放送日当日(4月17日)に封切りされた 「後編」 の宣伝を兼ねた効果を狙ったものであることは、一目瞭然です。
 そのことに対して別に文句はございませんが、テレビ局も収入を得るためにずいぶんなりふりかまっていられないんだなあと、思うばかりなのであります。

 確かに、とてもよくできた作品でした。
 とてもよかったのですが、内容以外の点で、なんか、引っかかる。

 その不安点は、「のだめ」 映画版公開の時に記事にさせてもらったのですが(その時の記事はこちら→http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/post-4349.html)、今回初めてこの映画を見て、やはりその時危惧したような引っかかり部分を感じたのでした。

 画質が映画とテレビでは違うために、何となく今までの 「のだめ」 にないよそよそしさを感じるし、エンディングも、「ラプソディ・イン・ブルー」 じゃないし。

 まあでも、映画版にしたことで、入場料を払って見に来ていただいている方々のために、テレビシリーズ&続編以上に、CGも演奏場面も演出全体も、「いつもより余計に回っております!」 状態でした(笑)。 特に千秋(玉木宏サン)の指揮の演技はこれまでで最高だし、それ以上にのだめ(上野樹里チャン)が、パンチラは見せるわ上半身裸になるわ(註:後ろ向きでしたけど…笑)、テレビの時よりさらに体当たり演技をしている。

 サービス過剰なのはいいことと言っておきますが、そののだめが千秋に、マルレオケのリハを手伝ってくれと呼ばれた時の舞いあがりようは、ちょっと過剰すぎたかも(笑)。 CGだのアニメだの、使いすぎ(笑)。

 ただしそんなサービス過剰部分を除いては、映画にすることのメリットを、「曲がりなりにも」 感じさせる作りには、なっておりました。

 その最も良いと思われた部分は、オケの演奏部分。
 テレビで放送されたヨーロッパ編でも、オケの部分は迫力があったのですが、「最終楽章」 のオケ演奏は、劇場で見てこそすごかったのではないか、と思わせるにじゅうぶんでした。

 ただこれも、自分が5.1のサラウンド環境で見ることができるせいか、個人的にはあまりメリットを感じさせることもなく(笑)。
 たしかに、ステレオ程度の受信環境で見るには、ちょっとしょぼい感じもします。 そんな視聴環境にある人ならば、映画館でお金を払ってみる価値は、じゅうぶんあると言えるのです。

 映画館で見るメリットのもうひとつの要因に、「大画面で見る」、という点があります。
 ただし大型テレビを既に買っている人にとっては、やはりこの映画館のメリットというものがかなりどうでもいいレベルにまで、なってしまっている。

 つまり、テレビのヒット作を映画化する、という商売は、(いち早くそれを見たい、という人を除けば)家庭で映画館のような環境でテレビを見ることのできない層の人々にしか向かっていない商売なのではないか、そう私には思えてならないのです。

 確かに映画館で映画を見ることは、ホームシアターでは味わうことのできない面もあるかと思います。 ただ、そんなホームシアターを実現させている人々でも、映画館で見たい、と思わせるには、公開される映画自体に、もっと決定的な差別化を図れる何かが必要なのではないか。 3Dとか匂い付きとかはすでにありますけどね。
 「のだめ」 の映画版を見ながら、私はそーゆー別のことを考えていたわけです(笑)。

 「のだめカンタービレ」 の映画は、確かによくできていました。
 先に述べた演奏部分の音響的な部分以外にも、ちゃんと演技も演奏もできる外人サンを、よくここまで揃えたものだ、と感心しましたし。 特にマルレオケのコンマス、シモンを演じていた役者サンが、ここまで演奏できるとは、驚き。

 ただ、映画にするだけのクオリティがあったか、というと、ちょっと考えてしまう。
 「ヨーロッパ編」 のスケールをちょっと大きくした程度、という感じに見えてしまうんですよ。 CGてんこ盛りにしなくたって別に…って考えちゃうくらいですから(笑)。
 で、冒頭で述べたような、テレビ局もお金稼がなくちゃ大変だから…という方向に、考えが行ってしまう。
 ホームシアターでじゅうぶん、と思っている人が映画館まで行くだけの魅力が、果たしてあるだろうか、と考えてしまう。
 映画というものを上に見過ぎているのかもしれませんが、どうもこの作品を、「映画」 と言ってしまうには、ちょっと抵抗があるのです。 申し訳ない。

 それから、公開からたった3カ月程度でテレビ放映してしまうのって、後編の宣伝もあるんでしょうけど、わざわざお金を払って見に行ってくれた人に対して、あんまり感謝してないんじゃないか?とも思ってしまうわけです。
 だったら3ヵ月も我慢すれば、タダでテレビで、見られるわけですからね。

 映画の内容以外でこんなに論じられてしまうのって、その作品自体に対して、とても失礼ではあるんですけどね。
 たぶん後編ではのだめが主役なんだろうと思いましたが、前編ではのだめに関する深い描写は、ほとんど見あたりませんでした。 ダメオケを再生しまくった千秋に置き去りにされてしまったのだめの絶望は、見ていてとても伝わりましたが、それがシュトレーゼマン(竹中直人サン)の手の内でもてあそばれている感覚が、どぉ~も、もったいつけているようでイヤ(笑)。

 まあ、後編を見ないことには、内容的に論じられない。
 公開されたばかりの後編も、すぐにテレビでやるでしょうから、気長にそれを、待つとしますか。

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2010年4月16日 (金)

「チェイス~国税査察官~」 第1回 江口サン、公僕の悲哀

 「Mother」 を手掛けている坂元祐二サンがNHK土曜ドラマに登場。 同時多発で注目です。

 国税庁の査察部と言えば、なんと言っても伊丹十三監督の 「マルサの女」 ですが、すでにもう、あの映画から、23年。 その年月には感慨を禁じ得ませんが、私の意識の中で、あの映画自体が色褪せていない、というのも驚きです。 つくづく伊丹監督には、生き抜いて映画を撮り続けてもらいたかったものです。

 その伊丹監督が生きていらっしゃれば、必ず作ったであろう、「マルサの女3」。
 今回のこのドラマには、そんな作り手のオマージュが、そこかしこに感じられるのです。

 査察部の総括官として、「マルサの女」 でも出演されていた、益岡徹サンを起用したことにもニヤリとさせられますが、冒頭の会話で 「今は 『マルサ』 とは言わない。 内偵班は 『8階』、実施班は 『9階』 と呼ばれている」 とか、映画のイメージが強く残っている世代に対して、時代の流れを実感させたりします。

 そのガサ入れの様子は、地味ーな下調べから、脱税者たちの財産隠しの手口まで、「マルサ」 時代と変わらぬノスタルジーあふれる(笑)描写なのですが、今回の本当のテーマは、海外の、税金に対してユルイ国を介して納税をくぐりぬける、国際的な税金徴収の攻防。
 おそらくこれは、伊丹監督がご存命であれば、きっとやっていたであろう、テーマだと思うのです。

 この国際的な税金逃れのコンサルタントとして暗躍しているのが、村雲修次(ARATAサン)。 「カリブの手品師」 と呼ばれています。
 左手が義手なのですが、なんだか失礼ながら、お顔もどことなく人形のような作りもの感が漂ってます。
 その感情を押し殺したような男が、国税局の目をかいくぐって脱税指南をしていくのですが、彼のしていることが、一方的に悪いことをしているように思えない作りになっているのが、このドラマの大きな魅力に思えます。
 つまり、6000億円の相続をしようとすると3000億円持っていかれる、という檜山基一(斎藤工サン)の税収逃れをするために、村雲はかつての同僚で、余命わずかな川島(長谷川朝晴サン)にダミー会社を作らせるのですが、実はこれには、川島の妻である歌織(麻生久美子サン)に財産を残してやろうという思惑が絡んでいる。
 要するに村雲は歌織と以前付き合っていたからこういうことをするのですが、だから村雲のしていることが、一方的に悪いように、思えてこない。
 3000億円も相続でもっていかれる、というのも、額が額だけに別にいーじゃん(笑)とも思えるのですが、相続税が払えずに現物で徴収して故人の思い出がなくなってしまうケースもある、などという実情を考えると、その税収システムが必ず正しいというわけでもないことを、感じるのです。

 そしてその税収システムのいちばんの犠牲になっているようなのが、査察官の江口洋介サン。
 敵役である村雲のキャラクターが 「ハゲタカ」 の鷲津(大森南朋サン)とかぶるようなところもあるためか、第1回目の私の興味の中心は、この江口サン演じる、春馬草輔でした。

 のっけから脱税対象者の下調べで、トイレの便器を細かく調べたり、金が隠してあるプールに背広のまま飛び込んだり、お仕事ご苦労様、としか言えない激務ぶりなのですが。

 大金持ちの査察を日ごろから行なって、「もっと取りやすいところがあるだろう!」 などとタワケたことを(笑)言われながら、自身の家庭は、いたって質素。
 安月給で、肉じゃがを食べながら、がんばっとるのです、オトーサンは(笑)。
 この激務に対して、奥サン(木村多江サン)の理解は得られているのですが、娘(水野絵梨奈チャン)の反感は、物語初めの段階からその萌芽が既にあり、5か月後、川島の死亡時期になると、完全に親父の仕事人間ぶりに頭に来ている状態です。
 それが母親の死をきっかけにして、決定的なものになってしまうのですが、どうも自分が江口サンの世代の人間であるせいか、ドラマでよく見られる、父親の仕事に対する、子供の理解のなさには、憤りがこみあげるのが常なのであります(笑)。
 誰のために汗水たらして便器調べて、プールに飛び込んでると思っとんのじゃ!(笑)

 しかも税金が適正に使用されていないニュースを見て、娘は 「あたし大人になっても税金払いたくないわ」 などと言う始末。
 オトーサンのモチベーション、これではどん底であります(笑)。

 けれども娘の言うことも、至極まっとうなのです、この点においては。

 お上が税金をきちんと運用せず、下らんことに使い続けているからこそ、税金を払う側のモチベーションのほうが、どんどん低下していく。 脱税というのは、決してほめられた行為ではありませんが、同時にお上のそのような行為も、万死に値する犯罪なのではないでしょうか。
 「マルサの女」 では、その視点はあったかなあ。
 国税局の査察官は、そのはざまに存在する、公僕という悲哀にさらされている。
 その悲哀を、草輔は一身に受けているわけです。

 その極めつけが、妻の雪恵の死。

 娘の直訴によって、新婚旅行も行ってなかったこの夫婦が海外旅行に行くことになったのですが、直前に草輔の仕事の都合が悪くなり、ただひとりで旅立った雪恵の乗った旅客機が、墜落炎上。
 まさしく、そんなバカな…、という展開なのですが、この旅客機の墜落が、村雲の進めていた檜山の税金対策の手助けをする、という話につながっていくのです。
 この話の組み立て方には、息をのみました。
 すごい。

 このニュースを偶然娘と一緒に見ていた草輔は、「お父さんがお母さんを殺した」 と言われるのですが、ちょ、ちょ待てよ違うだろソレ!(笑) 何か重ー大な勘違いをされて、オトーサンの立つ瀬は、ますますありません。 カンベンしてくれ! どうなってしまうのか!

 次回が、見逃せません。

当ブログ 「チェイス」 に関するほかの記事
第2回 届かぬ父の思いhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-eecd.html
第3回 裏切りに揺れる心http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/3-77a7.html
第4回 ふたつの復讐http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/4-3809.html
第5回 黒い薔薇、赤い薔薇http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-05dc.html
第6回(最終回)別の人生への希望http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-785a.html

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安売り店って、多売でなきゃ、成り立たないんですね

 あちゃー、近所(って言っても結構遠いですが)にあったショップ99が、なくなっちゃったよ~。
 東急大井町線上野毛から、スーパートップに向かう途中にあったお店。
 大盛カップラーメンとか、お菓子とか、そこでしか売ってないものがたくさんあって、結構重宝してたんだけどなー。

 それにしても、いつもお客サン、3、4人くらいは常にいて、繁盛してるような感じだったんですけど。

 多摩美大から用賀交差点のほうに行くとあったダイソーも、結構お客サンが入っていたようだったのに、つぶれちゃったし、やはりこうした安売り店というのは、客単価を上げないと苦しいんですかね。

 ちょっと昔の話になってしまいますが、大井町線等々力駅の周辺にあったオーエムも、ちょっとした安売り店でしたが、ある時点から急に出血大サービスの安売りを始めたと思ったら、どうも夜逃げをしたらしくて。
 ある日突然、閉店していました。
 それにしてもあのときは、等々力にこんなに人がいたのか!(笑)というくらいの大混雑ぶりでした。

 ゴルフ橋のほうに向かうとあった旭屋、という食料品店も、お菓子とか結構安くて重宝していたんですけど、やはりつぶれてしまって。
 両方ともそのあとコープとかコンビニとか新しいお店が入ったんですが、さすがに以前の店のように安くはない。

 こういう便利な店がこの地域からどんどん消えていくのは、何ともさびしい限りです。

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「Mother」、よかったみたいですね、クソッ…

 なんかネットを眺めていると、日テレの新水曜ドラマ 「Mother」 の評判が、ヤケによろしいようです。
 クソ~、見逃した(笑)。
 私の住んでいる地域では、来週1時間の短縮版みたいですが、第1回目が再放送されるようなので、ちょっとフォローしてやろうと思います。

 いやなんか、主演の松雪泰子サンって、個人的にはあまり興味のない女優サンなんですよ。 申し訳ない。

 それ以外にも、話も、なんか暗そうだし、子供をさらうという設定がNHKでやっている 「八日目の蝉」 とかぶっていたものですから、同じような内容のものを見ることもあるまい、などと判断してしまいました。 失敗した(笑)。

 でも、こういう場合に、すぐさま再放送をしてくれる、というシステムは、結構助かるものですね。

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2010年4月15日 (木)

古代史ドラマスペシャル 「大仏開眼」 やっと見ました

 NHKのスペシャルドラマ 「大仏開眼」、録画していたものを、何回かに分けてやっと見ました。
 やっぱり長編ドラマは、ちょっとキツイ(笑)。
 特に主要人物以外の政治的な立ち位置とかが、漠然と見ているとよく分かんなくなってきて(笑)。
 物語的にいちばん分かんなかったのは、なんで國村準サン演じる聖武天皇が平城京を出なければならなかったのか、そしてどうして平城京に戻ってきたのか、という理屈。
 両方とも、戦を避けるためだとか吉備真備(吉岡秀隆クン)に語らせていましたが。
 まあでも、分かんなくてもいいかあ、なんて(笑)。
 でもそれゆえに、結局大仏がどこに作られたのかが、はっきり見えてこなくて。 平城京の中なのか、遷都先なのか。
 でもまあ、別にいーか(笑)。

 私の興味の中心は、というと、やはりどのようないきさつで、国家財政が疲弊しているさなかに、「大仏建立」 という大事業を成し遂げることができたのか、という点でした。

 確かにドラマのなかでも、そこにはさまざまな政治的思惑が交差してはいたのですが、このドラマの脚本家、池端俊策サンが最も言いたかったのだろうな、と思ったのは、当時の天皇から下々に至るまで、多くの日本人の熱意が、大仏を作らせたのだ、ということです。

 それを象徴したのが、建立費用と国家財政を照らし合わせて理詰めで反対する吉岡クンに対して、國村サンが 「大きな仏像を見てみたい」 と実に簡単に言い放ち(笑)、その場にいた行基(笈田ヨシサン)が 「費用云々ではない。 心の問題なのだ」 と、これまた実に簡単に断定する(笑)場面でした。

 でもこれは、確かに簡単な理由付けのように思えますが、実はこれこそが、国じゅうのありとあらゆる人たちを鼓舞し、生きる目標を持てる、いわばひとつの契機になる、という点で、とても重要なことのように、私には思えるのです。

 何か大きな事業をやり遂げようとするとき、冷静な分析というものも確かに必要であります。
 けれども、いちばん大事なのは、それを成し遂げようとする意気込み、決意、覚悟なのです。
 そのときいちばん邪魔なのが、
 「そんなことをやってどうする」
 「何の得になるんだ」
 という、傍観したような冷え切った態度だと思う。

 大仏を作ることは、醒めた目で見れば、実に馬鹿馬鹿しい。 そんな大量の金や銅があったら、交易に使ったりもっと有効な使い道がありますからね。
 でも、当時の人々は、そんな巨大な仏像ができたらさぞかしすごいことだ、と思ったに違いないのです。

 これは漠然とした思いではない。 なぜなら、当時の人々にとっては、貧困や飢饉などの問題は、およそ現在の比ではない切実な問題を含んでいたと思うからです。 それを乗り越えるための、救いを求める人々の 「祈り」 というものが、その 「思い」 には直結している。
 ケースは違いますが、東京タワーなども戦後の人々の希望、という点で同様の精神的な支柱たりえたのではないでしょうか。
 この 「思い」 というものが、国力、つまり国全体のやる気を押し上げる、という点で、その重要性を見逃すことは、できません。

 そしてこのドラマでもうひとつ強調されていたように思うのは、戦争遂行を手助けするための信仰、という構図が、すでにこの時代には確立していた、という一面です。

 後編終盤の大仏建立後、虫一匹殺せないような人物として描かれていた吉備真備が、権勢をふるう藤原仲麻呂を武力で滅ぼすのですが、その戦闘の前に真備は大仏の前に立ち、「どうか、私の戦いに、間違いがありませんように」 と願う。
 そのセリフはずいぶんもっともらしいのですが(笑)、結局は人、殺してるでしょ、それって間違いじゃないの?みたいな(笑)。

 要するに、仏教というものの根本的な思想には、不殺生という考えが厳然としてあるにもかかわらず、人間どもはそれにあえて目をつぶり、人殺しをするための理屈や、言い訳みたいに利用し続けている。 戦勝祈願なんて、要するに自分は死なずに、相手をやっつけられますように、ってことでしょ。
 宗教の教えの根本を、そんな人たちはみんな踏み外している。

 最後のナレーションで、真備が天皇に仕えた期間、いくさはなかったみたいなことを言っておりましたが、やっぱり仲麻呂をいくさで滅ぼした、という事実は、消えないわけであり。

 「わけであり」…なんて書いて思い出した、わけではないのですが(笑)、今回のこのドラマの主役吉備真備は、その 「北の国から」 の純クン、吉野秀隆クン。

 「Dr.コトー」 とか見たことないので、彼の演技を見るのは、「北の国から」 の最終話以来。
 結構オジサンに、なっておりました(それはそうなんですけどね…)。

 彼の演技を見ていると、失礼ながらいかにもシロート臭さが抜けないように感じるのですが、それがこのたびは、徐々に、そのシロートぽさが彼独自の味を醸し出すような段階に達しているような気が、いたしました。
 特にすごかったのは、前編最後、刀で斬り付けようとする仲麻呂役の高橋克典サンを、丸腰で追い詰めるところ。 こんな迫力を出せる人なんだ、と認識を新たにしました。

 その高橋克典サンも、悪役ではありましたが、登場人物のなかではいちばんエネルギッシュな役どころで、ドラマをいちばん盛り上げたんじゃないでしょうか。 悪役がいいと、ドラマは締まりますよね。

 皇太子役の石原さとみチャンも、舞台で鍛えられたせいか、なんか演技が、とても堂々としていて。 この人、大女優になりつつある感じがしました。 あまりマニアックな演劇人になってしまわなければよいのですが。 とにかく実力は感じます。

 玄昉役の市川亀治郎サン。
 初心を忘れて権力と情欲に取りつかれた僧侶の役を、見事に演じていた気がします。
 この人、「風林火山」 での武田信玄役のインパクトが強すぎて、見るたび面影を追ってしまうのですが(笑)、あの時はアゴを思いっきり引いて演技していたのか、こんなに痩せてたっけなーなんて、よく思うんですけど。

 そのほかにも、老いてますます妖艶な江波杏子サンとか、行基役の笈田ヨシサンとか、印象的な役者サンの演技を堪能いたしました。
 細かい部分まで理解ができなかったのは残念ですが、それは私の頭が悪いのだとあきらめて…(笑)、大筋においてよくできたドラマだったと思います。

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2010年4月14日 (水)

「八日目の蝉」 第3回 がらんどうの悲しみ

 子供をさらって逃亡中の檀れいサンが新興宗教風の施設に入って、ずいぶん変な世界になってきたように感じた、「八日目の蝉」。
 ところが第3回目の今回は、その閉鎖された空間での出来事が、とてもリアリティを持って迫ってくるような感覚に、とらわれました。
 それは子供を夫に取られたままこの施設に逃げ込んだ坂井真紀サンのエピソードと、実は育児ノイローゼで自分の赤ん坊を殺してしまっていた、高畑淳子サンのエピソードが原因。
 そのふたつのエピソードが、この施設に逃げ込んできた17歳の妊婦、水沢奈子チャンの出産で、大きく事態ごと動いていくことになる。
 や、期待したような、いいドラマになってきました。

 舞台は、エンジェルの家に檀れいサンが入所してから3年がたち、さらってきた子供、薫チャンもそこですくすくと育った1992年のこと。

 坂井真紀サンと行商に出かけた檀れいサン、坂井サンから 「ちょっと行った先に亮太(坂井サンの子供)がいる。 ひと目だけでも会いたい」 と言われ、しぶしぶ了承。
 というのもこの坂井サン、子供を連れ出すために施設のお金に手をつけるという大胆なことをして見つかってしまった、という経緯があって、檀サンは高畑サンから坂井サンの監視役を頼まれていたのです。

 果たして坂井サンは亮太クンに会えたのですが、連れ出そうと伸ばした手が止まってしまう。
 「やっぱり連れ出すなんて大それたことはできなかった」、と戻ってきたところに、若いママハハが亮太クンを連れて 「パンを買いたい」 とやってくるんですよ。
 そのママハハ、いかにも優しそうなんですけど、やっぱり実際に自分の腹を痛めた子、という感覚じゃないのが、すごくよく分かるような優しさで。
 ここらへん、とてもよくできてたなあ。

 で、どんなパンがいいのか迷っているそのママハハを見かね、坂井サンはチョココロネをパッと差し出して、タダであげる、と亮太クンに無理やり渡すのです。
 ママハハと亮太クンが去ってしまってから、坂井サンは絞り出すように吐き捨てる。

 「なんやあの女…! 母親でもないのに、母親面しくさって…! 自分の子供の好きなもんも分からんで、…どないすんねん! 亮太の好きなのは、チョココロネや…! 亮太は、あたしの子ォや…! あたしは分かってる…あたしのおなかを痛めて産んだんや…! おなかを痛めてない、血ィもつながってないもんに、亮太のこと、分かってたまるかぁっ…! ホントの、ホントの母親は、あたしやのに…!」

 坂井サン、やっぱり、うまいです。 泣けました、このシーン。

 それにしてもこのセリフ、いちいち檀サンの胸にグサグサ突き刺さりまくっている構図が、すごい。
 坂井サンは檀サンに励まされ、檀サンの胸で泣くのですが、その檀サンこそ、自分の子をさらわれた板谷由夏サンを、坂井サンとおんなじ目に遭わせている、いわば張本人なんですからね。

 そしてその昔、育児ノイローゼで子供をマンションの窓から放り投げて殺した、という過去を持っていた、高畑淳子サン。
 施設に逃げ込んできた、おなかが大きくて今にも産まれそうな感じの水沢奈子チャンに向かって、「どうしてそんなに子供が産みたいの?」 と、あくまで仏頂面のまま(笑)問いかける。
 「どうしてって…かわいいから…」
 「まだ生まれてもないのにどうしてかわいいって分かるの?」
 「自分の子だったら、…かわいいに決まってる」
 その途端逆上する高畑サン(笑)。

 「決まってないのよそんなことはぁぁッ!」

 あー、びっくりした(笑)。 奈子チャンも、目がテン(笑)。

 この高畑サン、奈子チャンが子供を産んだその晩に、礼拝室のマリア様の前で、半狂乱になって泣き崩れる。

 今まさに生まれたばかりの赤子と、遠い昔に自ら殺してしまった赤子と、その両方に対する母性がごちゃまぜになって、自らの罪の大きさに、あらためて押しつぶされる、という心境だったと思います。 男の私ですら、あまりに重すぎるシーンでした。

 結局未成年の水沢奈子チャンをかくまったことで窮地に陥る、エンジェルの家。
 そこから抜け出した檀れいサンと薫チャンは、夜の遊園地へと向かう。
 はじめて外の世界を見た薫チャンは大はしゃぎなのですが、「夢の国みたい」 と話す薫チャンに、「夢の国なんて言わないで…ママは、薫と離れたくない…」 と、檀サンは薫チャンを抱きしめる。
 切ないですよね。 子供を堕ろして、子供が産めない体になった、がらんどうの自分を埋めようと、自分がおなかを痛めたわけではない子供に、救いを求めているのですから。

 それにしてもこのドラマ、今回出てきた薫チャンも亮太クンも、子役の演技が、なんかハチャメチャにいいんですけど(笑)。 赤ん坊もすごかったし、いやいや、すごい子役が、増えてきたもんです(笑)。

「八日目の蝉」 に関する当ブログほかの記事
第1回 来週も、…見よう、かなあ?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-254c.html
第2回 ヘンなとこ、きちゃったな~http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-4f12.html
第4回 穏やかな、凪のような回でしたhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/4-a45c.html
第5回 逃亡の果てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/5-267b.html
第6回(最終回)もう触れることのできぬ思いhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-cef7.html

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2010年4月13日 (火)

「イッツ・オール・トゥー・マッチ」 は、ジョージの作った交響曲だ

 ビートルズのアルバムの中で一番軽い扱いをされている 「イエロー・サブマリン」 の中の1曲、ということで、結構地味な存在に甘んじてきた、たった4曲の新曲。
 そのなかでもジョンの 「ヘイ・ブルドッグ」 なんかは、近年とても評価が高まってきたように思えるが、ジョージの 「イッツ・オール・トゥー・マッチ」 は、個人的にはもっともっと評価してもいい気がする1曲だ。

 ジョージ?の 「To your mo」 という掛け声とともに一閃する、ポール演奏と言われるディストーション・ギター。
 はじめてこのオープニングを聴いた時は、頭がクラクラするほどの衝撃を受けた。

 現在ではこのギターは、ジミ・ヘンドリックスに影響されたものだという解説がされているが、イントロのこの一発、ヤケにサステインが効いていて(音がずーっと長く鳴り響いている、という感じ)、うなりと共に煙でも出てきたような焦げ臭い音が混じり、ジーー、という音までしてくる(フィードバックかな?)。
 私が中1(1978年1月、ビートルズのアルバムのなかではいちばん最後に聴いたアルバムでした)で初めてこの曲を聴いた時は、キッスのエース・フレーリーだったかなあ、あんまりギターをめちゃめちゃに弾いて煙が出てきて火を噴くの。 あれを連想したものだ(笑)。
 ともかく、ムチャクチャカッコイイ。

 このギター、「イエロー・サブマリン・ソングトラック」 では、イントロ後の音がずいぶん前に出てくるリミックスをされており、それにもシビレた。 ただしイントロのギターは後ろに下がり気味。 一長一短、といったところ。

 「イッツ・オール・トゥー・マッチ」 で特に印象的に思えるのは、このディストーション・ギターもそうであるが、リズム隊が一風変わっているところ。
 ン、チャ、ン、チャの、「チャ」 の部分でドラムに合わせて、メンバーたちが(特にポールの声がよく聞こえる気がする)「ウッ!ウッ!」 とユニゾンをかましているのだ。 とても興味深くて、この曲のその部分だけ聴き入ってしまうことが、よくある。
 つまり、変わったリズム音を作りたい、という彼らの野心を、そこに感じることができるのだ。

 今では何でもかんでも、変わった音などというのは、機械で作れてしまうものだが、こうした手作り感覚の音のほうが、数倍楽しく思えてしまうのは、なぜだろうか。

 おそらくそこには、人間の体温が通っているからなのだ、と私は思う。

 ビートルズは、シンセサイザーのない時代に、いろんな音を独自に作り上げてきた。
 ビートルズの音が色褪せてしまわない最も大きな原因はここにある、と私は考えている。

 ひるがえって現在では、簡単にそれらの音を作り出してしまえるイージーさが、蔓延している。
 それはイージーであるがゆえに、こちらの心にまで、届かない。
 そんなもんだと、聴き手が思ってしまうのだ。 ありがたみも、全然ない。

 またこの曲でもうひとつ印象的なのが、ブラス・セクションの音。
 そのメロディはまるで、バグパイプが鳴っているような響きを連想させる。
 いかにもブリティッシュ・ロック、という感じなのだが、私が感じるのは、エンディングに向けてこの曲は、「愛こそはすべて」 にとても影響されているような気がしてくるところだ(レコーディングは先なのだが)。
 歌詞も愛の礼讃だし、「長い髪に青い瞳」 の部分は別の歌らしいし。 なんか、構成が、似ている。
 この曲は、ジョージにとっての 「愛こそはすべて」 だったのかもしれない。 オリジナルアルバムで、この曲に続いて 「愛こそはすべて」 が流れるのは、「イエロー・サブマリン」 の主題を強調する上で、ベストな並べ順である、とは言えないだろうか。

 そして歌詞の内容に関しては、ジョージがまだフラワー・ムーブメントに失望する前に書かれたものだ。 そこで描かれている風景は、とても、お花畑みたいな感じ。
 ただ思うのは、いかにも難しそうなことをノーテンキな言葉に置き換えて表現しようとする、ジョージの姿勢である。
 「すべての場所がきみの作り出した世界、何もかもが素晴らしすぎる」
 という詞の 「きみ」 を 「神」 に置換えると、ジョージが何を言わんとしているのかが見えてくるような気がするのだが、「すごすぎるけど、お茶の時間には帰らせてよ」 とか、人を食っているとしか思えない(笑)フレーズがちょこちょこ顔を出す。
 「世界はバースデイ・ケーキだけど、1ピースだけ食べればそれでじゅうぶん」 とか、聴き手をはぐらかすようなことを言いながら、愛という概念をとっつきやすくさせようとする姿勢が見えるのだ。
 その姿勢は、ビートルズ解散後に、さらに大きく展開していく感じがする。

 6分以上、という、ビートルズ時代にジョージが作ったなかで一番長いこの曲は、こんなにいろんな要素が詰め込まれた大作である。
 ジョージ・マーティンのオーケストラによる曲(これを私は、まったく評価しないわけではない)が半分入っていることで、この曲が入っているアルバムに触れない人が今後もおおぜい生まれるのは、誠に残念だ。
 「イエロー・サブマリン・ソングトラック」 が、もっと聴かれるようになれば、いいのだが。

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2010年4月12日 (月)

「めざせ!ロックギタリスト」 第3回 チューニング狂うワケが分かった!

 弦を2本とか3本押さえるだけでロックギターというものが成立してしまう、ということを生徒のますだクンにまず最初に叩きこませようとする、ヨッちゃんこと野村義男クン。 「1に練習、2に練習」 って、実にその通りなんですよね。

 3回目のきょうはミュートとかシンコペーションとか教えてましたけど、本題はそれとはカンケーのない 「スモーク・オン・ザ・ウォーター」(笑)。

 モチベーションが明確になるのは、こうした誰でも知っているような曲なんですよね。 前回の 「アメリカン・バンド」 などは、そんなに一般的な曲じゃないですから。 ますだクンも今回は、ノっているようでした。

 ただやはり、それだけをやっているとダレるもので(笑)。
 これは誰しも、おんなじなんですが、ますだクンの練習スタイルを見ていて、ギターをエフェクターにつなげてないのが、ちょっと気になる。 卒業試験のときは、つなげますけどね。
 確かに音を歪ませてしまうと、多少ヘタクソでもサマになってしまう、という面はあります。 原音のままで練習するのは、正確なフィンガリングをするためには、必要なことといえます。
 ただやっぱり、同じことばかりだと、気分が萎えてくるんですよ(笑)。 特に原音のままだと、エレキギターって、エライ面白みがなくって(笑)。

 あとやはり、エレキギターを弾く時には、指で押さえている以外の弦を鳴らさない、という練習も必要です。 卒業試験のとき、ますだクン、鳴らしまくってましたよね(笑)。 アコギでジャラーンと弾いているのに慣れちゃってる人なんかは、意外とこれが、大変な作業なんですよ。

 それとは別に、今回とてもタメになったのは、ストラトみたいなピックアップが3つもついているタイプのギターは、チューニングが狂いやすい、という話。
 自分もストラトなので、どうしてこんなにすぐチューニングが狂うのか、すごく疑問だったんですよ。 不良品なのか?なんて。
 その原因は、ピックアップにくっついているマイクの役割を果たしている6つのポッチ、この磁石が、特に太い6弦なんかを引っ張ってしまう作用によるものだったんです。
 それを解消するには、ピックアップの両側についているネジを回して高さを調節させてやれば、よかったんですね。 6弦をいちばん遠くにセッティングするとか。
 いや~、とてもタメになりました。

 私はアコギ大好きタイプの人間なので、エレキに関してもアコギと同様の取り扱いをしてそれでOK、みたいなところがあるんですよ。 音が出て弾けりゃいい、みたいな。
 そんなエレキ無知の人間には、ヨッちゃんの豆知識が、大変参考になります。 アリガトウ!

当ブログ 「めざせ!ロックギタリスト」 に関するほかの記事
第1回http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/post-a305.html
第4回http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/4-8fc5.html
第5回http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-1d98.html
第9回 Charサンからのメッセージhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/9-char-ab5f.html

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「鶴瓶の家族に乾杯」 福岡県大川町に、のだめあらわる

 「のだめカンタービレ」 でのだめをやっている上野樹里チャンが、のだめの故郷である福岡県大川市を訪ねると知って、それで見ようと思った、今回の 「家族に乾杯」。
 素ののだめって、あまり見たことなかったんで、どんなんだろう、と思って。

 聞けば、「のだめ」 のテレビシリーズ(最初のヤツですね)の最終回でここに来ただけで、あっという間に帰ってしまったため、もう一度来たいと思った、とか。
 来年の大河ドラマの主役、お江(ごう)をやる、なんて聞いてから、失礼ながらだいじょうぶかいな?と思っていたので、どれだけ彼女がしっかりとした気持ちの持ち主なのか、ということにも、ちょっと興味がありました。
 だって、なんとなく、彼女、雰囲気的にのだめそのもの、っていう感じなんですもん(笑)。

 それにしても話は 「のだめ」 ばっかりになりますが(笑)、今週末ですか?「のだめカンタービレ」 の映画最終章後編が公開されるのは。
 NHKも、「江」 のPRもあるのでしょうが、よくフジテレビ映画の宣伝協力をするものですよね(笑)。

 鶴瓶サンとの待ち合わせ場所だった船着き場で、海苔の養殖場から帰ってきたご夫婦を手伝うところから、今回の番組は始まるのですが、のっけから樹里チャン、のだめの雰囲気全開(笑)。
 いや、やっぱりこの人、まんま 「のだめ」 なんだなあ(笑)。
 ほっとくと、「ぎゃぽー!」 とか言いそう(笑)。
 なんかいつも口が開いてる感じ、というか(笑)。
 ほわ~~ん、ふにゃ~~ん、ひひ~~ん、という感じ(なんだソレ)。
 鶴瓶サンも、樹里チャンのしゃべりかたを聞いていると、意味もなく笑いがこみあげてくる様子でした。

 ただそんな樹里チャンのフニャフニャな様子を見ていて、来年の大河に、また一抹の不安が…(笑)。
 だいじょうぶ、ですよね…(笑)。

 けれども彼女、積極的にその海苔作りのご夫婦(またこのご夫婦が、いかにも九州男児とその女房、みたいな感じで、素敵でした)を手伝ったり、のほほんとした雰囲気ながら、やるときはやる!というところを見せてくれるのです。
 ちょっとびっくりしました。
 もっと消極的なのかと思ったんですけど。
 採ってきた海苔作りのごみ取り作業など、鶴瓶サンよりもやる気満々で、手を真っ赤にしながら 「かえって血行がよくなった」、なんて。
 女優根性、ありそうですよね。 来年の大河、期待しましょう。

 この、のだめのふるさと大川町なんですが、古賀サンという名前がとても多いらしく、大作曲家の古賀政男サンのふるさとでもあるそうです。
 番組で最初に会ったオバサンも、古賀サン。
 このオバサン、自宅に鶴瓶サンと樹里チャンを招いて、「クツゾコ」 という名のシタビラメをふるまったり、芸能人をふたりも家に入れるなんてとてもうらやましいんですが、なんとその後の取材で、「のど自慢」 の大川町大会で八代亜紀サンの歌を歌って合格したらしく、ちょうどそのときのゲストだった八代亜紀サンとも抱き合っていたことが判明(笑)。 なんかすごい経験の持ち主ですよね(笑)。 主人公たちが有名人と次々ニアミスしていたドラマ、「わが家の歴史」 も真っ青(笑)。

 樹里チャンはその後、いかにもアクが強そうな家具屋の社長(笑)とかに会うのですが、それにしても、「のだめ」 のふるさとだけあって、若いのにもかかわらず、年配の方までとてもすごい知名度でした。
 あのしゃべり方してれば誰だって気付くか(笑)。
 来年の大河が、のだめにとってさらなる大きな一歩になるんでしょうね。

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「わが家の歴史」 第3夜(最終夜) うまくいく人、うまくいかない人

 八女家の人々を中心として、数多くの人々がゆき過ぎて行った、「わが家の歴史」 の最終夜。 合計で7時間以上はあるドラマでしたが、途中でダレることもなく、リアルタイムで一気に見ることができました。

 それは話がとても駆け足だったからこそ見ることができたわけで、これが重苦しいテーマのドラマであったなら(「不毛地帯」 みたいに)、とてもじゃないが一挙に追っていくことは無理だったと思います。 なにしろ第1夜の当ブログ記事にも書いたんですが、やたらとこのところテレビを見続ける根気がなくって(笑)。

 今回の話は、鬼塚(佐藤浩市サン)と、時次郎(西田敏行サン)の死、というものが、物語に大きな影を落としていく作りだった気がします。
 家族の金銭的支柱だった鬼塚と、精神的支柱だった時次郎。 このふたりの死によって、最終話は後半に向かって、どんどん爆笑シーンがなくなっていく。 3日間も見ているとさすがに感情移入してくるもので、不幸になっていく八女家、特に柴咲コウサンを見るのは、ちょっとつらいものがありました。

 ただ、だからこそ、毎回の冒頭に流れていた運動会が、この長編ドラマのラストの舞台になっていることが、大きな救いになったように思いました。
 みんなが頑張って、その日その日を生きている。
 そして子供のため、誰かのために、つらい仕事を頑張っている。
 そのことができない人も、もがきながら苦しんで毎日を生きている。
 ラストのナレーションでも述べられていましたが、ここに出てくる人たちはみんな私たちと同じ、普通の人々なのです。
 そんな人たちが大勢寄り集まって、生きつづけて、この日本という国を、構成している家族の一員なんだ、ということを、ちょっとばかりオオゲサですが(笑)考えたりしました。

 このドラマは、ジャンルとか好き嫌いとかを超越して、そんなほとんどの日本人に向けて発信されていた、ドラマだったのではないでしょうか。

 細かい印象的な話に移りますが、最終夜で前回前々回以上にクローズアップされていたのが、実在する有名人との絡みだった気がします。
 特に伊東四朗サン演じる、古川ロッパ。
 第2夜から、痩せたと観客に思わせないようにタオルを体に巻きつけていたとか、他のちょっとだけしか出ない有名人に比べると、ずいぶん内面にまで切り込んだ描写をしていました。 第3夜も場末のストリップ劇場で往年の意欲を取り戻した場面とか、三谷幸喜サンの、喜劇人ロッパに対するオマージュをも感じさせる、出演のさせ方でした。

 また、そのストリップ劇場に入り浸って舞台に出演までしていた、作家の永井荷風(石坂浩二サン)。
 踊り子たちに囲まれて羨ましい(笑)人だったんですが、そのさびしげな後ろ姿と、孤独死をしたというナレーション。 石坂サンの演技は、深い余韻を残しました。

 それから、榮倉奈々チャンがアシスタントとして勤めた先のマンガ家、手塚治虫(藤原竜也クン)。
 彼は実にエキセントリックな芝居をするんですけど、手塚センセイはこんなイケメンじゃないでしょう~(笑)。
 ただやはり、手塚センセイに関する描写は、やはり濃密。 三谷サンの趣味がそのまま反映されているような感じにも見えました。

 極めつけは、本妻の天海祐希サンが八女家を訪ねた時に、力道山(山口智充サン)、将棋の枡田幸三(内野聖陽サン)、遠藤周作(八嶋智人サン)、丸山(美輪)明宏(ウェンツ瑛士クン…彼のしゃべりかたはクリソツで、大笑いしました)、美空ひばり(相武紗季チャン…これはちょっと、ないでしょーという感じでした…笑)が入れ替わり立ち替わり登場したのには、ドッカンドッカン笑いました。
 ただやはり、大笑いしたのはこの時が最後だったかな。
 つるちゃん(大泉洋サン)が出てくると、大爆笑ばかりしていた気がするんですけどね(笑)。

 実在の有名人以外で印象的だったのは、柴咲コウサンのいちばん最初の恋人だった、大浦竜伍(玉山鉄二サン)。
 戦争に行ったまま戦死扱いにされ、シベリアの収容所で共産主義の洗脳をされ、戻ってきたら元恋人は資本家の2号さんで、社会主義活動をするも目標を見失い、西田敏行サンと高田純次サンのダメ事業につきあって失敗し、右翼のクーデターでいいように利用される。

 彼が柴咲サンに話した、「ぼくはこの世に生きた証を残したいんです」 という気持ちは、痛いほど自分には伝わりました。
 人生を生きる意味をなかなか見つけだすことができずにもがいている人の象徴、でしたよね。 自分もそんな、漂流感覚で生きているから、身につまされます。

 それにしても、洞爺丸沈没事故で行方不明になっていた、長澤まさみチャンの落ちぶれぶりは、ちょっとシャレになっていなかった気がします。 ストリッパーって…。 さすがに脱いでませんでしたけど。
 松本潤クンとの恋愛話は、もっとドラマチックに展開するのかと思いましたが、彼女、急にまたいなくなっちゃったり、ドラマラストで、食堂で働いているところを見ても、ちょっと腑に落ちない作りでした、ここだけは。
 でもなんだか、他人から見れば不本意なように見える生き方をする人って、いるんですよね。
 俯瞰的にこのドラマを見ると、そんな達観したものの見方も出来る気がするのです。

 このように、いちいち細部にわたって書き始めると、かなり果てしなくなってしまうんですが(笑)、それはそれとして、後半に向かってどんどん経済的窮地に陥っていく柴咲コウサンに対して、今まで散々世話になってきた八女家の兄弟たちが、運動会のパン食い競争だけで埋め合わせをしようとしているのは、ちょっと許せないよーな気もするんですけど(じょーだんです…笑)。

 いずれにしろ、家族は大人になってしまうと、確かにバラバラになってしまうものなのですが、たがいにやっぱり、離れていてもどこかで気を遣いながら生きているものですよね。
 八女家の人々はそれまで、鬼塚の庇護のもとで一致団結して生きてきた傾向の強い家族であったので、それが再び集合する、結婚式とか、運動会のようなイベントが、やはりとても見ていてうれしくなるものなのです。

 離れたりくっついたり、誰かが亡くなったり新しい命が誕生したり。
 うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。
 「禍福はあざなえる縄のごとし」 と言いますが、それが家族単位であると、また複雑な様相になる。
 ヒトの体内の細胞は、いつも生まれたり死んだりを繰り返している、と言いますが、やはり家族というものもそれと同じ気がします。
 「不毛地帯」 に引き続いて、フジテレビさんには、開局50周年でぜいたくなドラマを、またまた見させていただきました。
 出来ればこのドラマも、2クールくらいで見たかった気がします。 別にお金をかけなくたって、工夫すればじゅうぶん出来る気が、するんですよね。

当ブログ 「わが家の歴史」 のほかの記事
第1夜http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/1-91c6.html
第2夜http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-88d2.html

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2010年4月11日 (日)

「龍馬伝」 第15回 龍馬の人物像が、ちっくと見えてきた

 「龍馬伝」 第15回は、演出が大友サンとあって、やはり見ごたえがありました。

 なんと言うか、脚本の中核部分を確実に押さえ、その部分を確実に役者に飲み込ませているような演出の仕方をしている気が、するんですよ。
 しかも、42分半の物語の流れの中で、それを緩急使って見せる術に長けている。 ふつうの演出家なら、すべてのシーンにベストを尽くそうと均等な力の入れ方をしているのに、大友サンはキモの部分に向かう前奏曲のように、ドラマ全体を演出する。 要するに、手抜き、じゃないんですよ。 名指揮者と言ってもいいほどです。 大友サンの演出した回を見ていて感じるのは、脚本を生かすも殺すも、演出家の腕よるものが大きい、ということです。

 ただ今回、脚本の部分でも、これまでいかにも消化不良感ばかりが残った主役・龍馬(福山雅治サン)の心理状態が丁寧に描写されていて、前回のようなこけおどし的な部分が全くなかった。 さすが、であります。

 それをいちばん強く感じたのは、次の場面。

 京で再会を果たした、龍馬と加尾(広末涼子チャン)。
 その宿泊先で、龍馬と久しぶりの語らいをした以蔵(佐藤健クン)が、「龍馬はああいう男じゃったかのう…こんなに楽しゅうて、気が楽になれたがは、久しぶりぜよ」 と、別れ際に加尾(広末涼子チャン)につぶやいた場面でした。

 これまでこのドラマでは、いろんな人間に 「龍馬はすごい」「大きくなった」 とか語らせて、その説得力のなさには辟易していたんですが、今回の脚本には、やっとその説得力を感じました。

 つまり、以蔵は武市(大友南朋サン)の思惑通りに殺人をしまくっていたわけですが、それを自慢気に龍馬と加尾に語ろうとするのを、龍馬は敏感に感じ取り、いかにも頭の悪そうな以蔵に、噛んで含めるようにして、人の道に外れたらいかん、おまんは、心根の優しい男じゃ、まっこと強い男は、滅多なことでは剣を抜かんもんじゃ、と説くのです。
 以蔵のしたことをとっさに察知して、さらに以蔵を優しく包み込むようにして語りかける龍馬には、一日やそこらでは身につけることのできない思慮の深さというものを、とてもよく感じることができるのです。

 それまで武市のもとで以蔵が、どれだけテンパっていたか。
 その心を解きほぐした龍馬の力、大きさ、というものを、今回ばかりはじゅうぶんに私も感じ取ることができました。

 そして以蔵が帰ったあと、「以蔵は人斬りをやらされゆう。 こんな、バカなことがあってえいがか? こんなことが当たり前にあったら、日本は自ら滅びてしまうがぜよ! どういたらえいがじゃ? どういたら、みんなをやめさせることができるがじゃ!」 と、激昂する龍馬。
 そんな龍馬を見て、加尾チャンは勝麟太郎(武田鉄矢サン)に会うてみたらどう、と勧め、お役御免となって土佐に帰らなければならない自分も、龍馬ときっぱり別れる決意を吐露するのです。

 この、龍馬と加尾チャンが別れを決意するシーンは、龍馬の大きさを見る側にきちんと印象付けさせ、そこに至るまでの演出面での助走がしっかりしていたからこそ、オオゲサに感じることもなく、素直に感動することができた気がします。

 久々ですが、今週の 「弥太郎伝」。

 龍馬訴追の命を仕損じた弥太郎殿(香川照之サン)、百姓に転落(笑)。 「百姓が板についてきたのぉ~」 とオヤジ殿(蟹江敬三サン)に褒められて逆ギレ(笑)。
 怒鳴り散らす弥太郎に 「卑屈にならんでつかあさいおまさん…毎日おまんまが食えるだけ、あてら幸せもんじゃけ」 と、ニコニコ笑う女房の喜勢(マイコサン)。
 「あんなええ嫁がこんな男の嫁に来てくれるとは、信じられん」 と家族全員から言われ(笑)、「…ワシもじゃ」(笑)。
 ホントに、なんでですろうか?(笑)

 それにしても、龍馬もコーフンしておりましたが(笑)、いよいよ勝麟太郎との、邂逅でございますね。 予告編では、福山龍馬をビシビシ鍛えようとする、龍馬大好きの武田サンの姿。 盛り上がってきましたよー!

当ブログ 「龍馬伝」 に関する記事
♯01論点が、はっきりしちゅうhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/1-e718.html
♯02えらい天気雨じゃったのう(笑)http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/2-a44b.html
♯03食われっぱなしぜよ、福山サンhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/3-8e96.html
♯04佐那チャン、ツンデレ、してません?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/4-5776.html
♯05アイデンティティの崩壊http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/5-d115.html
♯06本分をわきまえる、ということhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/6-766e.html
♯07父のこころ、子のこころhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/7-e1b3.html
♯08汚さに磨きがかかる(なんだソレ?)弥太郎殿http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/8-8680.html
♯09思想か、命かhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/9-febd.html
♯10もっとなんとかできたはずhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/10-b847.html
♯11龍馬が担ぎ出される、その理由http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/11-ac67.html
♯12武市の心理、執拗にやってますねhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/12-2a95.html
♯13大友サン演出は、一味違うhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/13-e7ca.html
♯14進む龍馬の空洞化http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/14-ef4d.html

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「わが家の歴史」 第2夜 思うようにいかないのも、家族の宿命

 第1夜では、柴咲コウサンの経済的援助に対してあまり深く考えることなく、それを中心にして回っていた、八女家。
 第2夜では徐々に、そのひずみが大きくなっていく。
 家族というものがひとつの生き物である以上、年月を重ねるごとにその形態も変質していくことを、三谷幸喜サンはある意味恐ろしいまでの筆致で描き出していました。

 ただ、柴咲コウサンの話が中心に動いていた第1夜と比べて、各登場人物に話が散らばった分、感想文を書く身としては、とてもまとめづらい(笑)。

 それでも、見終わった今感じているのは、やはり家族の変わっていきようです。 物事は、なかなか柴咲コウサンの思ったように、流れてはいかない。

 まず第1夜においてあまり大した物語が展開しなかった、堀北真希チャンや榮倉奈々チャンの変わっていきよう。
 真希チャンは天才なのか凡才なのかよく分からない小説家の山本耕史サンと付き合うようになり、榮倉奈々チャンはつるちゃんこと大泉洋サンと付き合っている様子。

 この山本サンと大泉サンがまた抱腹絶倒ものの可笑しさで、特に山本耕史サンはこれほどのギャグをこなせる人なんだなあ、という新たな発見。 しかも、笑わせるくせにクールなイメージは保ったまま。 なかなかできる芸当ではない気がします。
 つるちゃん(大泉サン)はホントに、人生そのものがギャグみたいな人で(笑)。 警察予備隊の話のところでは、笑いまくりました。
 でもつるちゃんみたいな存在の人って、どの家庭にもひとりはいるんじゃないだろうか?って思えてならないんですよ。 なんかとても近しい、家族全体の知り合い、みたいな人。

 佐藤隆太クンは、アメリカかぶれのジョニー(寺島進サン)なんかと付き合ってとても危なっかしい(笑)。 寺島進サン、かなり笑えました。 テンガロンハットが前後逆だったり、「オーマイガー!」 とか。

 で、第1夜から、柴咲コウサンの経済的な援助を八女家でただひとり負担に思っていた松本潤クンも、光クラブをモデルとしたと思われる、東大生の金貸しグループに参加してひどい目にあう。

 オヤジサンの西田敏行サンも相変わらずの危なっかしさで、八女家を不幸に陥れる悪魔のような(笑)高田純次サンの話にまた乗せられたりしている。 でも今回は免疫がついたせいか、さすがに笑っちゃいましたけどね。

 これらの話には、カネが多少なりとも絡んでいます。

 大人になっていくごとに、カネというものが、家族の体質を変えてしまう。
 このドラマでは、そのシリアスさは大量のギャグや、経済的に潤沢な鬼塚(佐藤浩市サン)の存在によって、多少なりとも薄められてはいます。
 けれども、家族の関係がおかしくなってしまうのは、カネ絡みであることが、とても多い。

 そのほかにも、柴咲コウサンの、家族ひとりひとりに対する 「おしつけ」 が、家族の体形を変えてしまっているような気がします。
 第1夜では、「家族が幸せであったらそれでいい」、という態度だった柴咲サンが、第2夜では、家族に対して 「幸せになるならこうするのがいちばんいい」 と、勝手に決め付けてしまっている。

 これは個人的に思うのですが、子供にはこうなってもらいたいとか、こんな親であってほしいとか、そういう望みって、けっして当人のためになっていないことが、多いんじゃないでしょうか。
 いくら家族であっても、当人にとっていちばんいいことというのは、やはり当人にしか決めることができない。
 それを押しつけるところから、家族のゆがみというものが生まれるような気がするのです。
 ただ、家族だからこそ他人が言ってくれないようなことも、言ってくれるわけですけどね。

 第2夜の中盤から物語の重心が移ってくるのは、松本潤クンと長澤まさみチャンの恋愛話。

 このふたりの付き合いには、柴咲コウサンが2号さん(愛人)であることが障害として横たわり、やがては洞爺丸沈没事故に絡んでくるのですが、ふたりがその悲劇に巻き込まれたその日に、柴咲コウサンは2号さんのまま、鬼塚とのあいだに自分の息子を生む。 その息子が、このドラマのナレーションをやっている、役所広司サン、ということになるのですが。

 物語的には、ここが第2夜のクライマックスとも思える場所なんですけど、この洞爺丸のシーン、なんだか映画 「タイタニック」 そっくりの世界で(笑)。 同じような話である以上、同じようなシーンになってしまうことは仕方がないのですが、そこにふたりの駆け落ち許すまじの長澤まさみチャンの両親を登場させたら、これでは完全にそのまんまじゃないですかね(笑)。
 三谷サンのことだから、それが目的だったとは思うんですが、そのほかにも、まるで 「ロミオとジュリエット」 みたいなシーンがあったり、やっぱり狙ってたんですかね。

 そのほかにも、現実に大親友である、中井貴一サンと佐藤浩市サンの対決シーンがあったり、ちょっとマニアック心を刺激するようなシーンもいろいろあったような気がします。

 問題提起の第1夜、物語の収束の第3夜、という構成からいけば、物語の拡散を狙ったような、第2夜でありました。

当ブログ 「わが家の歴史」 のほかの記事
第1夜http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/1-91c6.html
第3夜(最終夜)http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/3-e3d7.html

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2010年4月10日 (土)

「ゲゲゲの女房」 第2週目まで見て

 「ゲゲゲの女房」 第2週目までの物語は、水木しげる氏(向井理クン)と布美枝(松下奈緒チャン)とのお見合いに至るまでの話でしたが、第1週の子供時代からの切り替えにまず興味がありました。

 第1回目の冒頭からすでに登場していた松下サンでしたけど、子供時代の子役の演技が極端に内気であることを強調していたせいか、やはり初めはちょっと、はきはきしすぎていて違和感あり。 顔も似ても似つかないし。
 ただ、子供時代のお話、というのは、内気でありながらも大事な時には感情を表に出すことで、自分の世界を広げようとした女の子の成長過程を描いたものだった。 そのことを考えると、少女の布美枝がホップステップした後の姿としては、これでいいという気はするのです。

 布美枝の変貌ぶりに慣れてしまうと、物語のよさに、ついつい引き込まれていきます。
 今回の連続ドラマで感じるのは、結構いろんな伏線がさりげなく張り巡らされているところ。
 こういうのは、ドラマ好きの人にとってはたまらない要素なんですよ。

 第2週まで見ていて感じた大きな伏線は、おばば(野際陽子サン)の寝物語とか、川辺で語らう布美枝と父親、源兵衛(大杉漣サン)のシーンとか。
 このふたつとも、話の中核となる部分で見る側をひどく感情移入させてしまう、最高のスパイスになっている。

 まず今週、第2週目の中盤で、早くも亡くなってしまう、おばば。
 脳梗塞で意識不明となり、昏睡状態に陥っていたおばばが、布美枝が看病しているときに目を覚まし、「ご先祖様に会って布美枝のことを聞いて来た」 と、第1週目で布美枝の少女時代に寝物語を聞かせていたときのように、布美枝に語りかけるのです。

 「ご先祖様はなぁ…あぁ、布美枝はのっぽでぇ、ちょっこし内気かなぁ…だどもぉ…気持ちの優しいええ子だけん、いつかきっと、ご縁があるところに導いてくれる…そげん言ったらしてねど…こっぽし(聞き書きで正確さを欠いておりますが)…布美枝チャンに、ええご縁が、ありますように…」

 こっぽしというのは、「おしまい」 っていう意味らしいですね。
 このセリフ、おばばが布美枝の幼いときと同じように語った、というのがミソなんですよ。
 お恥ずかしい話ですが、号泣いたしました。
 ひとりで見てて、よかったなあ(笑)。 みんながいる前じゃ、号泣するわけにもいきませんしね(笑)。

 そして四十九日が終わったあと、川辺におばばの大黒帳を流しに行く、源兵衛。
 この精霊船、これも第1週の盆踊りの回におばばと布美枝が流してましたよね。
 あのシーンがあったからこそ、布美枝と父親のこのシーンが生きてくる。
 頑固で厳格そのものの源兵衛なのですが、ここで 「布美枝、わしなぁ、おばばにすまんことしたわ…最後の最後まで心配かけた…わしは…だらず息子だ…すまんなおばば…」 と話しながら、最後に 「…お母さん…」 とうめくように泣くのです。 あーダメだ、また泣けてきた(笑)。

 しかもこのシーンの途中で、布美枝の母親の古手川祐子サンが台所でつい、いないはずのおばばに話しかけてしまうシーンも挿入。 ちょっとルール違反なくらいの 「泣かせ攻撃」 なのです(笑)。

 このシーンを見ただけで、この連続テレビ小説、今回は最後までついていきます!と思わせるにじゅうぶん、でした。

 そして、片腕もない、マンガ家なんてよく分からない仕事をしている、そんな男と布美枝を見合いさせる、という話を、なぜ決めたのか、という重要な話に、物語は突き進んでいきます。

 ここでは28という年齢で嫁に行かないことの、当時の時代背景としての肩身の狭さ、小姑と化している家の中での肩身の狭さ、布美枝をめぐるそんな状況が丁寧に語られていくのですが、最終的に見る側を心から納得させる話として、川辺での源兵衛と布美枝の話が、作る側から用意されているのです。

 「片腕しかない、勤め人でもない。 40間近の男だけん、はた目には、売れ残りの娘を片付けるように見えるかもしれん。 でもわしは、あの男に会ってみたい。 片腕をなくして、それでも生きて戻ってきた。 勤め人のあてがいぶちでなく、ほんとの腕一本で、おのれの道を生きている。 どんな人間でも、失敗してつまずくときはあるわな。 そげなときに、しぶとく立ち上がるのは、あげな男だぞ。 育ちのええ恵まれた男より、様子のええ優男より、40年50年添い遂げるなら、あげな男がええ」

 なかなかここまで、見る側を納得させるセリフは、思い浮かぶものではありません。

 このドラマの第1回目で、仏壇にあげるごはんを、丁寧にしゃもじで形を整える、古手川祐子サンの姿がありました。
 このドラマ全体には、それと同じような姿勢が見えます。
 ご先祖様があって自分がいる。
 家族があって自分がある。
 それを丁寧に描いていることこそが、このドラマに揺るぎのない説得力を与えているような気が、するのです。

当ブログ 「ゲゲゲの女房」 に関するほかの記事
第01回 NHKのやる気を感じさせますhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-nhk-c7ac.html
第04週まで見てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/4-a685.html
第05週 ほんとうのスタートは、ここからhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-9d37.html
第06週 人事を尽くして天命を待つhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-3192.html
第07週 時代に流されていく人たちhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/7-6a9d.html
第08週 笑って生きよう、たとえ貧しくともhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/8-82ce.html
第09週 「生きるため」 と 「プライド」 の狭間http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/9-476d.html
第10週 ビンボー神の出るタイミングhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/10-8426.html
第11週 まあ…なんとかなーわね!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/11-e5c0.html

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「わが家の歴史」 第1夜 すっと入っていける気楽さの中にひそむもの

 「わが家の歴史」、フジテレビ開局50周年特別企画として三谷幸喜サンのドラマが3夜連続で放送されると聞いて、どんな作品なのか、ほとんど前知識なく臨んだのですが。

 中身を開いてみると、普通の家族の(そんなに普通でもないけど…笑)昭和初期からの話を延々と追っていくもので、いわば 「風と共に去りぬ」 とか、年末のNHK大河ドラマの総集編を見ているような感覚でした。 要するに、ダイジェスト版みたいな物語です。

 そのせいか、2時間半近い放送時間が、そんなに苦にもならず、一気に見ることができました。 近ごろ1時間以上の話につきあう体力がなくて(笑)、この話もどうせ途中でリタイアして、何日もかけてあとから見るんだろうな、と思っていたので、これは意外でした。

 それというのも、細かなエピソードがいちいちコンパクトにまとまっている。
 これは現在、「新・三銃士」 で1回20分間の人形劇を書いている三谷サンの応用力のたまものかとも、思いましたです。

 このドラマ、のっけから、端役に至るまでため息の出るほどのオールスターキャストで。
 この物語の中心、八女家の人々からして、全員が主役を張れる人たちばかり。 西田敏行サン、富司純子サン、松本潤クン、佐藤隆太クン、堀北真希チャン、榮倉奈々チャン。 そして主役が、柴咲コウサン。
 そこにほんの少しだけかかわってくるのが、榎本健一つまりエノケン(木梨憲武サン)、長谷川町子(和久井映見サン)、美空ひばり(さくらまやチャン)、高倉健(小栗旬クン)など。

 この有名人チョイ見せゲストというのは、昭和の断面を垣間見せるとか、単なる視聴者サービスみたいに考えてしまいがちなんですが、よくよく振り返ってみると、有名人に全く興味のない人以外なら、誰しも心当たりがあることなんじゃないでしょうか。
 つまり、誰もが有名人のひとりやふたりと、ニアミスした経験がある、っていうことです。
 そしてこのドラマでは、主人公たちに、有名になった人と、有名になる以前の人と、両方ともニアミスさせている。
 考えてみれば、私たちもどこかで、有名になる前の有名人と会っているかもしれないのです。
 そんな想像をさせてくれるこのドラマの構造は、さすが三谷サン、とうなるほかはありません。

 本編の話ですが、表向きホームドラマ形式で、特にとりたてて重大なことが起こるわけでもない。 話の筋を追うことに、あまり意味がない気もするのですが、話全体から浮かび上がってくるのは、家族というものの本質です。

 家族というものは、みんなが全体でひとつの生き物のようなもので、だれかひとりが幸せになればみんなが幸せになり、誰かひとりが傷つけば、家族全員が傷つくことになる。 今はそんなことが感じられにくくなっている時代のように思えますが、家族の本来の姿とは、そこにあるのではないか。
 喜びも悲しみも幾年月…じゃなくって(笑)、幸せも不幸せも、家族は全員が平等に受ける、ということを、このドラマを見ていて強く感じるのです。

 この物語の主人公、柴咲コウサンは、甲斐性なしの父親(西田敏行サン)の代わりに、クラブ勤めをして生計を支えている。 その過程でオーナー鬼塚(佐藤浩市サン)と懇意になり、愛人、という立場ながら、さらに八女家の経済的支柱となっていくのですが、そのことに対して柴咲サン自身がちっとも負担に思っていない。
 ここらへん、損得勘定ですべてが動いていくような現代の風潮では、決してまねのできない所業です。
 昔だって見返りを求めながら生きていた人はいただろう、とは思うのですが、彼女をそうした人間に設定してしまうと、この単発ドラマ自体の魅力がなくなってしまう気がする。 もっとドロドロした、複雑な内容になって、重たくなってしまう。

 彼女がどうしてそんなに家族に対して見返りを求めず働き続けることができるのか、いみじくも語った部分がありました。

 「だって、お父さんとお母さんがおらんなら、あたしは今ここにおらんとよ。 鬼塚サンとも、知り合えんかったし。 いくら感謝しても、足りんくらいよ」

 つらいことがあまりに続くと、なんで自分なんか産んだんだ、みたいに考えてしまいがちなんですが、よかったことだけを心の真ん中において、このように考えることのできる人というのは、私は人として尊敬します。

 私にとって身につまされたのは、このシーンの前に、ゾウの輸入に失敗したことで、西田敏行サンを責める人たちに向かって、鬼塚の本妻である天海祐希サンが言い放ったセリフでした。

 「ものの道理の分からない人たちだねえ。 このうちの人はねえ。 博多の子供たちの喜ぶ顔が見たかっただけじゃないか。 責められることなんてこれっぽっちもしていません。 …確かに、ゾウは来なかった。 でもあんたらに、このうちの人を責める資格はあるのかい? だったらあんたらは何をした? 博多の街のために何をした! 何もしないで、ただ文句ばかり言ってるだけじゃないか。 恥ずかしくないのかい! 分かったら、とっとと家に帰りなさい。 解散…!」

 それまで、ロクな話を持ってこない高田純次サン(ゾウの輸入の前にも、髪の毛から醤油を作る機械とか…笑)と、それにやすやすと乗っかってしまう西田敏行サンに対して、なんとも腹立たしい気持ちで見ていた自分が、ちょっと恥ずかしくなりました。

 それに、こんなブログでひとさまの一生懸命作ったドラマに、無責任に論評を加えていることにも、です。

 表面的な出来事の羅列かと思いきや、そこに潜んでいるナイフは、とてつもなく鋭い、そんなことを感じたドラマの、第1夜であります。 明日明後日と、ますます楽しみです。

当ブログ 「わが家の歴史」 のほかの記事
第2夜http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-88d2.html
第3夜(最終夜)http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/3-e3d7.html

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2010年4月 7日 (水)

西河克己監督、死去

 映画監督の西河克己監督が、亡くなられました。 91歳。

 私(の世代)にとってはまさに、山口百恵チャン専属の映画監督です。

 91ともなれば大往生の部類でありますが、また少年時代が、過去の彼方に消え去ってしまったような寂しさを感じます。

 特に 「潮騒」 は、叔父に連れられて初めて見た百恵チャン映画だったのですが、それまでなんとなくのファンでしかなかった百恵チャンを、一挙に興味のセンターにのし上げるほどのインパクトを、小5のガキンチョに、与えてくれたのです。 感謝しております。

 なにしろあの、百恵チャンのスリップ姿(この表現、書いてて笑っちゃうくらい古いんですが…笑)。
 「その火を飛び越えて来い!」
 という、気の強そうな娘。
 あまりのみずみずしさに、当時のマセたガキは完全にやられました。

 そしておそらくテレビで前後して見た、「伊豆の踊子」(百恵チャン版のほうです)も、ものすごいインパクトでした。

 ちらっと出てきた百恵チャンのヌードは、差し替えだったのかも分かりませんが、当時のガキンチョを、またまたノックアウトするだけの衝撃じゅうぶんで(笑)。 差し替えだったのかなー。 今にして思えば、どっちでもいいんですが(笑)。
 ともかくそんな、性的にあけすけで純情な娘が、旅の書生にあこがれる、という構造は、百恵チャンがその時代の倫理観、価値観の上で生きている少女である、というイメージを、完璧に私に植え付けてくれたのです。

 この2作における 「刷り込み」 は、自分の成長過程にとっては、とても重要なファクターだった気がしてなりません。
 私がこんにち、このような芸能界寄り、テレビドラマ中心のブログを書いている淵源も、ここにあると言っていい、それくらいの影響力である気がするのです。

 「泥だらけの純情」 も、百恵チャンがギョーザも食ったことがないという超お嬢様の役とか、そりゃ突っ込みどころ満載の映画でしたが(笑)、劇場で見て、ただひたすらその壮絶な最期に心を奪われたものです。 まだガキンチョでしたからね。

 「霧の旗」 では、以前にも書きましたが、三國連太郎サンと百恵チャンの、メチャクチャ激しいラヴシーン(その時の記事はこちらhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/01/post-c087.html)。 ショックでしばらくモーローとしたものです(笑)。

 西河監督は、さまざまの影響を、私に与えてくださっていたんですね、こうして振り返ってみると。

 それにしても、私が百恵チャンに出会ってから、もう40年になろうとしてるんですね。
 百恵チャンだ淳子チャンだ、ヒデキだゴローだと、やいのやいの騒いでいた時期から、もう40年近い。
 自分自身あの時とは、まったく精神年齢が変わっていないような気がするのですが(笑)、この年月は客観的に考え出すと、ただひたすら、長いです。

 こうして過去が遠い彼方に消えていき、老人になっていくものなんでしょうかね(タメ息)。

 西河監督のご冥福を、お祈り申し上げます。

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ジョージ・ハリスンのインド音楽、3曲

 ビートルズ時代、ジョージが作ったインド風音楽は、全部で3曲ある。

 「ラヴ・ユー・トゥ」
 「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」
 「ジ・インナー・ライト」

 それらの曲は全編を通してインド楽器が鳴りつづけているが、ジョージの全キャリアを見ても、これだけどっぷりインド音楽なのは、正直なところこの3曲しかない。
 ビートルズ解散後もジョージは、インド楽器を使ったアプローチもすることはするのだが、それは曲の中で変化をつけるための一部分であったりすることが多いのだ。
 ずいぶんインド音楽に影響されたようなイメージのあるジョージなのに、モロにインド音楽なのがたった3曲って、ちょっと意外に感じる。

 だがこの3曲の、ジョージのインド音楽へのアプローチの仕方は、それぞれ異なっている。

 つまりこの3曲は、ジョージがインド音楽をきっかけにした、東洋思想への接近と、その変質の過程だと思われるのである。

 この3曲のうち、ジョージ23歳の時の作 「ラヴ・ユー・トゥ」、同24歳の 「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」 の底辺に流れているのは、フラワー・ムーブメントに影響されたような、恋愛至上主義とも言える思想だ(それにしても、若い…)。

 最初の曲 「ラヴ・ユー・トゥ」。

 ここでジョージは、「日々はあっという間に行き過ぎ、ふり返ればみんな過去の出来事」「人生はあまりにも短く、新しいものと買い替えるわけにもいかない」 という、それまでのジョージの曲には全く見ることのできなかった、老境に達したかのような人生観を打ち出している。
 これは当時のジョージが、インド思想に触れながら人生というものをトータルでとらえ始めている兆候である、と見ることができる。

 だが、この曲の結論は、「だから愛し合おう」 という、とても簡単なものでしかない。
 その思索は、まだまだ深いものとは言い難い印象が、とてもするのだ。

 これが次の 「ウィズイン・ユー…」 の詞になると、数人で輪になって座り、愛について語り合う、という重層構造を取り、より愛について、客観的そして普遍的に答えを導き出そうとするようになる。

 それにしてもこの、「我々は語り合った」 という出だしの文句は、最初に聞いた当時小学校6年だったガキンチョには、クラクラするようなカッコいいフレーズだった。 よくマネして、詩を書きました(笑)。
 およそポップ・チューンにおいて、「我々は語り合った」 などという哲学的な導入をする曲など、ジョン・レノンさえ書いていなかったし、ボブ・ディランだって書いていなかったのではないだろうか(ディランについては未だ管轄外なので、エラそうに断定はできませんが)。
 ただその影響的には、ジョン・レノンの 「シー・セッド・シー・セッド」 での 「彼女はこう言った、ぼくはこう言った」 にある種のヒントが隠れているような気はするのだが。

 ところでこの、「ウィズイン・ユー…」 の曲の根底に流れているのは、ジョージがドラッグによる幻覚に対して本能的に感じていた疑問であるように、私は考えている。

 これは私の想像からなる議論なのだが、ジョージがドラッグを使用していた動機は、ふたつある。
 ひとつは自分の作曲における創造性を高めることと、もうひとつはより人生の真実に近づくための手段、ということだ(はじめはまわりがやってるからくらいの軽い気持ちだっただろうけど)。
 ただ、幻覚によってそのふたつが得られたようには、ジョージは実感できていなかったのではないだろうか。 少なくとも、「ウィズイン・ユー…」 を書いた時点では。

 それはこの曲の次の部分からもうかがえる。

 「幻覚の壁の中に引きこもってしまう人たちは、けっして現実を見ようとしない」
 「死ぬ時になってそれに気付いても、すでに手遅れだ」

 そしてそれを克服するには、幻覚によってではなく、自分が何者であるかを自覚し、他者への愛を持つことが重要なのだ、という結論を、この曲においてジョージは導き出している。

 これだけの哲学的に深い詞が、ビートルズの最高傑作と評されることの多い 「サージェント・ペパーズ」 に入っていたことは、とても重要なことのように思える。
 このアルバムは後世、曲の不出来さをあげつらう評論が多いのだが、ジョンの 「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」 と比肩する、いやそれ以上の重たい内容を持ったこの曲が、このアルバムに収められていることの意義は、大きい。

 「ウィズイン・ユー…」 は人によって好き嫌いが大きく分かれるタイプの曲ではあるのだが、そのような問題作があるのとないのとでは、世間全体に与えるインパクトの幅が、確実に違ってくるものなのだ。
 これは現在のように、気に入った曲だけをダウンロードして聴くようなスタイルのかたがたには、理解しづらい価値観である気がするが。

 話は戻るが、ジョージはこの時点で、まだフラワー・ムーブメントに対して、一抹の期待を持っていたように思える。
 それが完全に破壊されるのが、1967年8月に赴いたサンフランシスコでの経験だったのではないだろうか。
 そこでジョージが見たものは、ドラッグに溺れ、ただ動物的な欲望として愛を謳歌するヒッピーたちの姿だった。
 ジョージが求めていた 「愛」 というものは、もっと堅固で情欲に流されない、人類を正しい方向に導くものだったに違いない。
 ジョージはその時点で、ドラッグと完全に決別した、と述べている(「アンソロジー」 本より)。

 そこからジョージが向かったのは、周知の通り、マハリシ・マヘシュ・ヨギの教えだったのだが、3曲目の 「ジ・インナー・ライト」 は、その影響下から生み出されたような雰囲気を持つ曲だ。

 ただこの曲の歌詞については、老子の言葉を英訳したものがそのまま使われている、という指摘がされていることを最近読んだ。
 ちょっとばかりそれはショックだったが、何となくそれは、この曲のアレンジの中途半端さにもつながっているような気がして、妙に納得できる気もするのだ。

 この曲の編成は、前の2曲に比べると、楽器の数が相当少ないような印象がある。 どうもレコーディングも、あわただしくやっつけ的な感じで行なわれたようだ。
 おまけにモノ・ヴァージョンしか存在しないし、「レアリティーズ」「パスト・マスターズ」 が出る前までは、シングル 「レディ・マドンナ」 のB面に入れられていただけ、という待遇の悪さもあって、ガキの頃はずいぶんどうでもいいレベルの曲に思えていたものだ。

 だが聴けば聴くほど、この編成の軽さは心地いい。
 フルート?のメロディは曲にうまく絡み合っているし、その音色と曲との相性が、とてもいい。
 ここ数年であれば、マイランキングでは確実に上位に来る曲だ。

 なにしろ 「外に出なくたって、世界のことは分かる」 という歌詞は、現在のネット社会を予見しているような内容。
 でも別に、ネット社会とまで言わなくとも、発表当時すでにテレビや新聞で、外に出なくたって世界のことは分かる状況ではあったのだが(笑)。

 この曲で私が中途半端に思えていたのは、アレンジもさることながら、最後のヴァース、「見ることなくすべてを知覚し、行なうことなくすべてを行なえ」 の意味が、とても結論には思えなかったことによる。

 ここで歌われていることは、実際に目で見えることをそのまま判断せず、そこに含まれている真実というものを見通す力を身につけよ、ということなのだろうと、個人的には考えている。
 ただこの最後のヴァースは、いかにも人をけむに巻いたような、禅問答的なあいまいさを含んでいる。 ちょっとズルイかな、という感じ(笑)。 しかもこれが、老子のまんまパクリだったとは。

 この曲における過去2曲と違う、軽いアレンジの仕方も、ジョージがインド音楽のワンパターンさに、ちょっと距離を置き始めている前兆のようにも、思えたものだ。 シタールという楽器の難しさに、ジョージ自身がくじけ始めていたのも原因のような気がするけど(笑)。
 実際ジョージはこの曲以降、冒頭にも述べたように、どっぷりインド音楽、という曲を、作らなくなる。

 ジョージの思索の方向は、こうした表面的なインド音楽の剽窃(言い過ぎかな…)という時期を過ぎて、より内面的な方向に向かっていくのだ。

 彼の宗教とのかかわりは、自らを知覚し、より世の中の真実を見極めようとした結果たどりついた道のような気がする。 その時点ですでに大金持ちだったジョージには、有名人になったがゆえの苦悩はあったにせよ、世間一般の人が考えているような、「経済的に楽になって幸せになりたい」 みたいな動機で宗教と付き合っている部分が、まったくない。

 まあ、この話は、また別の機会に気が向けばするとして(笑)。

 いずれにせよ、ビートルズの活動期間中にジョージが作ったインド音楽3曲は、ジョージの宗教思想への旅立ちとして、とても興味深い過程なのだ。

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「八日目の蝉」 第2回 ヘンなとこ、きちゃったなあ

 この先見るの、どうしようかなーと思いながら、結局見てしまうドラマ、というものが私にはあるんですが、「八日目の蝉」 もその手のドラマになりそうな感じがいたします。

 その理由として、ネットで眺めたこのドラマの原作、角田光代サンの小説の評判が、やたらといいことがあげられます。 だったら、我慢して見ていても最後にはきっと、感動させてくれるに違いない、という淡い期待がある。

 ただ檀れいサンの(役柄での)危なっかしさぶりが際立った第1回よりも、今回は話的に引き込まれる部分が多かったかな。 ちょっとイレギュラーな部分で、なんですけど。

 今回冒頭、檀れいサンが事件の12年後、1999年の時点で、刑務所に入っていることが明かされます。 ここで見る側は、ある程度この逃走劇の結末を想像することになります。

 で、今回の話のメインは、赤ん坊をさらった檀れいサンが、ロクでもない場所に転がり込み続ける、ということだったんですが。
 なんかあまりにその頼った先が想像を絶する場所ばかりなんで、笑うべきドラマではない気がするんですが、「なんじゃこりゃ」 の連続で、笑わされる箇所が多かったです。 これってイレギュラーな意味で、すごい。

 まず最初に、「龍馬伝」 で弥太郎殿の母親役を印象的に演じている、倍賞美津子サンが住む、「ゴミ屋敷」(笑)。
 この倍賞サンの顔が、ほとんどノーメイク仕様でコワイ(笑)。
 そんなオニババみたいな(失礼)倍賞サンが檀れいサンと赤ん坊を案内したのが、おそらく倍賞サンの亡くなった娘サンの部屋。 そこだけがとてもきれいに片づけられていて、しかも娘サンが亡くなったときのままらしい。
 その風景だけで、見る側にある程度の想像をさせてしまう、という点は、このドラマの優れたところだと感じます。
 先週も、檀サンと不倫相手の津田寛治サンが泊まるホテルが、妊娠発覚前は高そうなホテル、発覚後は安っぽい照明のいかにもラブホテル、という使い分けをしてましたよね。

 ただ、そこで倍賞サンが檀サンのために用意した、コンビニのおにぎりとおーいお茶(笑)。
 1987年設定ですよね?
 当時こういうパリパリおむすびとかお茶の紙パックとか、あったかなあ?みたいな余計なことを、見る側に考えさせてしまう作りは、まあ第1回目と変わっておりません(笑)。 ゴミ屋敷…っていうのも、…んー、あったかもしれませんね(笑)。

 で、そこで、夜泣きする赤ん坊のミルクを作るために、檀サンがちょっとのあいだ部屋を出た隙に、倍賞サンの魔の手が伸びる(笑)。
 でもまあ、ただ赤ん坊にさわりたかっただけで(そりゃそうか)。
 別れ際にも倍賞サンは 「赤ん坊を抱かせてくれ」 と檀サンにせがんで、娘サンを亡くした哀しみから逃れられないままの女性であることを、強烈に印象付けるのです。 その寂しさを、ゴミで埋めようとしている。 哀しいなあ。
 なんかちょっとカテゴリーは違うんですが、死んだわが子を手放さずにずっと抱き続け、ミイラになっても抱き続けて、群れの仲間から攻撃を受け続けた、という母ザルの話を思い出しました。
 弁護士がそのゴミ屋敷に押しかけていて、そのあと倍賞サンは、どうなってしまったんでしょうかね。 気になります。

 そしてその倍賞サンの話で、「エンゼルの家」 というところに向かう、檀れいサン。

 ここがまた、とてもヤバソーな新興宗教風の建物で(よく探したよなー、こんな建物…笑)。

 出迎えたのが、これまた教祖風の、でっかい宝石を首からぶら下げた、仏頂面で目がイッちゃっている高畑淳子サン(笑)。

 コワっ! この時点で大爆笑なのですが(失礼)。

 ここでこの施設に入るための試験を受けることになるのですが、「あなたは女ですか?」 と、いきなりおごそかに尋ねる高畑サン(笑)。 「その根拠は?」…いちいち可笑しくて、失笑の連続でした(笑)。

 また檀サンと一緒にエンゼルの家にやってきた、坂井真紀サンが、私も地元ではないんでエラソーなことは言えませんが、ヘタクソな大阪弁で(笑)。
 彼女が 「今度は男ですって答えたる」 と言って実行に移すと、仏頂面のまま 「信じてもいないことを言わないでください」 と一蹴(笑)。 高畑サン、面白すぎ(笑)。

 たぶんこの場面は、「女でなければならないという意識によって、どれだけ自分が苦しめられているかを自覚せよ」 みたいな深い話だった気はするのですが、これが新興宗教的な流れの中で交わされる話であるがゆえに、納得できそうなのに見る側にブレーキがかかってしまう、そんな気もいたしました。

 そこで檀サン、ちょっと一部自分の身の上話に脚色を加えながら話すのですが、高畑サンはお見通しだったらしくて(またまたコワっ…)。
 結局またウソを重ねて、檀サンはエンゼルの家に入ることを許されるのですが、ここで出てきた、高畑サンよりもさらに上の人物、エンゼルが、藤田弓子サン。
 しかもこれがまた、新興宗教にありがちな、人なつっこい、ただのオバチャンで(笑)。
 なんかもう、ひたすら、変な世界だなあ~、と思うことしきりでした(笑)。

 そのオバチャンに、有り金全部巻き上げられて(そう言えば1987年当時、ATMってあんなに一般的だったかなーとも思いました。 現金引き出しなんて、窓口主流じゃなかったかなー? まあ昔は、一挙に大金を引き出せたものですがね)、それでもここにお世話になれるならと、あえてそれを承諾してしまう檀れいサン。

 相変わらず、危なっかしい幼さであります。

 ただそこで、赤ん坊がハイハイするのを見て、母親の自覚(偽りの、ですけどね)が次第に固まっていく。
 倍賞サンから、「この子、歯が生えてる」 と指摘されたことも、檀サンの赤ん坊との一体感を増した気がします。

 偽りの親子関係が、今後強固になっていくのを見るのは、もしかすると結構しんどいかも、しれません。

「八日目の蝉」 に関する当ブログ別の記事
第1回 来週も、…見よう、かなあ?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-254c.html
第3回 がらんどうの悲しみhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/3-da4d.html
第4回 穏やかな、凪のような回でしたhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/4-a45c.html
第5回 逃亡の果てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/5-267b.html
第6回(最終回)もう触れることのできぬ思いhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-cef7.html

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2010年4月 5日 (月)

「小島慶子 キラキラ」 言えないのよ~(笑)

 TBSの小島慶子アナがTBSを退社する、というニュースに対して、やはり本人の口から聞かないと信用できない、そう考えているのですが。
 先週土曜日に放送された小島慶子アナの冠番組 「キラキラ」 のスペシャル版、「夜もキラキラ」 内でも、見事にフリーの件について言及がございませんでした(その記事はこちらhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/post-3f31.html)。

 番組HP内のツイッターでも、この話題でもちきりで、当の小島アナがこのツイッターを見ていないわけがない。
 おそらく週明け月曜の今日、何らかの話が出るのではないかと、午後1時、「キラキラ」 にダイヤルを合わせてみたのですが…。

 のっけからいつものBGMがなく、月曜パートナーのビビる大木クンと外からの 「花見中継」。

 しかも番組開始時に大雨が降って来たらしく、「なんでこんな雨の中花見をしなきゃいけないんですか~!」 とグチる大木クンに、「したいからするの!」 とスーパーハイテンションの小島サン(ちょっと正確さを欠いておりますが、だいたいこんな感じでした)。

 しかも 「歌いたくなってきた、曲出して!」 と小島サンがしつこくリクエストすると、かかったのは工藤静香チャンの 「MUGOん…色っぽい」(笑)。 「言えないのよ~言えないのよ~」 と、半ばヤケ気味に連呼する小島サン。 もう、番組開始から、相当アナーキーな放送で、ラジオ史に残るかもしれないハチャメチャなスタート(笑)。

 番組内ツイッターでは、さっそくこの選曲に対して 「なるほど、フリーの件については、今は 『言えないのよ~』 ってことか」 と、非常に的確と思える憶測が乱れ飛ぶ(笑)。
 この、ツイッターというのは、同時性というものがとてもあって、同時に一緒のことを考えている人がいる、という、ある種の高揚感を煽りたてるような効果がある気がします。

 なんか、かなりオオゲサに言えば、今日の放送とツイッターに触れながら、歴史的出来事の渦中にいるような感覚さえ覚えました(いや、オオゲサですね、やっぱり…笑)。

 このハチャメチャな放送ぶりに、TBSに苦情が4件寄せられたそうで(笑)。

 結局その時間(1時半くらいまでかなー)しか聴くことはできませんでしたが、おそらくフリーの言及は、なかったと思います。 言えないのよ~ということは、否定しているわけではない、ということですから、水面下ではフリーの話は進行中なんでしょう。

 けれども今回の一件で、思わず 「キラキラ」 リスナーのテンションまで異様に高まり、結束力が増したような感じさえするのです。
 そして、小島アナがんばれ、という思いが期せずして盛り上がっている、そんな気もしました。
 それにつられてなんとなく熱病にでもかかってしまったような、変な感覚に、私もとらわれているのです。

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2010年4月 4日 (日)

「龍馬伝」 第14回 進む龍馬の空洞化

 エピソード2、冒険者・龍馬の幕開けは、エピソード1の時と同じく、大富豪になった岩崎弥太郎(香川照之サン)の懐述から始まりました。 そしてオープニングテーマ、最初の数秒だけ、画面が変わっております。
 いよいよ脱藩後の龍馬(福山雅治サン)がどうなるのか、先週の出来のよさと相まって、期待感膨らむ展開だったのですが。

 が(笑)。

 見終わったばかりの感想を言わせていただくと、失礼ながら、やっぱりこれは、"岩崎弥太郎のフィルターを通して見た"、龍馬 「伝」 にすぎないのだろうか、という感じです。

 確かに勝海舟(武田鉄矢サン)の華々しい登場や、土佐藩内での武市(大森南朋サン)ののし上がりぶり、岡田以蔵(佐藤健クン)の人斬りになる契機、さまざまな見どころが満載でした。

 特に以蔵の心理描写は、まったくもって圧巻の一言。

 土佐勤王党の中でひとり疎外感のただなかにいた以蔵を、言葉巧みに操縦しようとする武市(武市も、役職を離れて気楽に話し合える人間が欲しかった、という描写で、それを龍馬から以蔵に乗り換えた、という絶妙な説明の仕方は、していました)。 その期待に応えんと、以蔵は吉田東洋暗殺の下手人を追ってきていたものを殺す。
 それが、まったくおっかなびっくりで行なわれ、とどめは首を絞めて殺す、という、のちに 「人斬り以蔵」 と呼ばれる、その片鱗すらない手口。
 「仮面ライダー電王」 でいろんな性格の役を演じ分けていた佐藤健クンでしたが、着実に成長しておりますね。
 以蔵の疎外感、というものは、エピソード1の頃からさりげなく挿入され続けてきました。 だからこそ、今回の以蔵の行動には、ある種の説得力がある。

 で、見終わってからいちばん心に残っているのが、この場面ばかり。
 でもこれは別に、佐藤健クンが福山サンを食っているわけではない、と思うんですよ。
 要するに、龍馬についての深い描写が、まったくないからこうなる、ということなんですよ。

 今回の龍馬、ちゃんと登場するのが、開始から約20分後。 そーとーもったいつけとるんですが(笑)。
 東洋暗殺の犯人として龍馬を追ってきた弥太郎と、大坂でばったり出会うのです。
 やっとのことでドラマに登場した龍馬は、相変わらずの無邪気さで、人なつっこさをふりまきながら、いっぽうで視野がどんどん大きくなっている。 頭もろくに手入れしていないせいか、以前よりもワイルドさや凄味も、加わっている。
 そこで大立ち回りを演じて、剣の腕の立つところも披露して、ただひたすら、カッコいいのですが。
 ここでクローズアップされているのは、土佐を離れてのびのびと人生を疾走している龍馬と、土佐の一藩でがんじがらめのお役目をつとめている弥太郎の対比でしかない。

 つまり、どうやって龍馬がそこまでの男になったのかの説明が、すっぽり抜けている。

 確かに龍馬は、脱藩後に薩摩に行って、なんかいろいろ冒険したらしいのですが、それがセリフだけで片付けられてしまう、そこにイージーさがあるんですよ。

 その直後、上奏のため同じ大坂にいた武市に、龍馬は会いに行くのですが、そこに行った龍馬の目的は、「これ以上自分の目的のために人を殺すのはやめてつかあさい」 ということだったと思います。
 ただ、その時点で、武市一派は吉田東洋しか殺していないはずです。
 結局なんのためのシーンだったのか、ふり返ってみると、よく分からない。 結局武市サンとは、進む道が違うのだ、ということの再確認だけだったような。
 だいたい坂本一家が龍馬の脱藩後、武市に少しばかり世話になったことも聞きながら、龍馬が武市にお礼のひとつも言わないのは、脱藩がどれほどのものか龍馬が感じていない証拠のようにも、思えてくる。

 武市や以蔵のキャラに対しては、どうしてそうなったのかの説明がちゃんとなされているのに、肝心の龍馬に対する描写が、エピソード1からこのかた、ちょっと不足気味なのではないか、そんな気がします。

 今回ドラマの途中で、大富豪になったあとの弥太郎がまた登場して、龍馬のことを執拗に聞いてくる新聞記者に対してそれを全く無視し、自分の話を始める。
 この構図って、このドラマ全体に流れている、龍馬に対するよそよそしい描写につながっているシーンのような気が、私なんかはしたんですが。

 まあこのドラマを見た人が、かえって龍馬って、いったいどうい人だったんだろうって、興味を持って他のいろんな龍馬本などを読んだりするのであれば、それはそれでいいことなのかもしれません(笑)。

 幕末の群像劇としては、よう出来ちょります。 群像劇として、見たほうがいいんですかね?

当ブログ 「龍馬伝」 に関する記事
♯01論点が、はっきりしちゅうhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/1-e718.html
♯02えらい天気雨じゃったのう(笑)http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/2-a44b.html
♯03食われっぱなしぜよ、福山サンhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/3-8e96.html
♯04佐那チャン、ツンデレ、してません?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/4-5776.html
♯05アイデンティティの崩壊http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/5-d115.html
♯06本分をわきまえる、ということhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/6-766e.html
♯07父のこころ、子のこころhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/7-e1b3.html
♯08汚さに磨きがかかる(なんだソレ?)弥太郎殿http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/8-8680.html
♯09思想か、命かhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/9-febd.html
♯10もっとなんとかできたはずhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/10-b847.html
♯11龍馬が担ぎ出される、その理由http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/11-ac67.html
♯12武市の心理、執拗にやってますねhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/12-2a95.html
♯13大友サン演出は、一味違うhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/13-e7ca.html

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2010年4月 3日 (土)

「小島慶子 夜もキラキラ」 緊迫の放送…結局言及なし

 おことわり この記事、番組放送中にいったんアップしたものを、番組終了後に書き直しております。

 今朝ネットをぶらついてたら、「小島慶子、TBSを退社」 という、「キラキラ」 リスナーとしては結構衝撃的なニュースが飛び込んできたのですが、ニュースソースが日刊スポーツ。
 トラックバックで朝日新聞にも同様の記事が書いてあったことを知ったのですが、日刊スポーツと同系の会社ですし…。
 なにしろ日刊スポーツって、個人的には、ガセが多い印象があるんですよ。
 小島サンの口から直接聞かなければ、ちょっとにわかには信じがたいところであります。

 そんなところに、あまりにタイミングが良すぎなんですが、この日の夜6時半から、テレビの 「TBSオールスター感謝祭」 と連動しながら平日に放送している 「キラキラ」 のスペシャル番組をやる、ということで、先に聞いた時はあまり聴こうと思っていなかったんですが、がぜん注目度が高まって。 4時間の長丁場でしたが、聴くことにいたしました。

 で、注目の小島慶子アナは、のっけからTBSの社長が出てきたこともあってビビったせいか(?)、どうも退社に関する話に踏み込めない感じで(ビビったのかどうかは分かりませんけど…笑)。

 ただ小島サン、真向かいに座った社長に向かって、さりげなくキックをかまそうとしていたようで(笑)、社長に対してもこの態度、あっぱれ!(笑)、といったところ。
 ただし社長はその小島アナの攻撃を予測していたらしく、かわしまくってましたけど(笑)。

 で、結局、4時間ものあいだ耳をそばだていたにもかかわらず、最後まで退社の話は、ありませんでした(この番組のあとに水曜パートナーの宇多丸サンが番組をやっていますが、ここでも言及は、されないみたいですね。 かん口令かな?)。

 で、「キラキラ」 番組HP http://www.tbsradio.jp/kirakira/index.html には、リアルタイムでツイッターが連動しているのですが、午後6時半の 「夜もキラキラ」 番組開始から、その更新が、とても目まぐるしくて、ほとんどパンク状態。
 次から次から書き込みがされて、スムーズにまったく読めませんでした。
 それを読みながらこのブログ記事の第一稿を書いていたのですが、途中で完全にフリーズしてしまいました(笑)。 仕方がないので、記事の最初から書き直し(笑)。

 そのツイッターでも指摘されていたのですが、番組冒頭から、小島サンのしゃべりが、なんとなくちょっとつんのめり気味。
 いつも一緒に放送している男性パートナーがいなかった(宇多丸サンが、途中参加はしたのですが)せいだったのかもしれなかったんですが。
 でも、小島サンって、気持ちの動揺が、結構オモテに出るタイプだと、私はとらえているんですよ。 
 小島サンからは、「15年間…」 などと思わせぶりな言葉が口をついて出るのですが、「15年間続いたオールスター感謝祭」 とか、聴く側をじらしとんのか?(笑)と思わせるような方向に、時折行ったりして。

 結局何もしゃべらなかった、という事実や、放送時の緊迫していた雰囲気(最初のうちだけでしたけど)に、やっぱり日刊スポーツの記事はガセではなかったのかなー、などと今は考えております。

 それにしても、こんなに緊張してラジオに聴き入ったのは、最近では 「キラキラ」 のウタサンとのケンカ以来かなー。 でもあの時は確か運転しながらとかだったんで、今日ほど真面目には聴いていませんでした。

 しっかしなんで、こんなに気にしなきゃいけないのか、ちょっと我に返ったら不思議に思いまして(笑)。

 まあ、たぶんそれは、「キラキラ」 という放送の中で、小島慶子アナが、自分の所属する会社であるTBSのいろんな面に対して、忌憚のない話をすることが、この番組の大きな吸引力のひとつであると私自身が考えているからなんじゃないかな、と。
 小島アナがTBSを離れてしまうと、要するにそれが 「外野の意見」 になってしまう。
 フリーになることで、「キラキラ」 の魅力が変質してしまうことに、ちょっと危惧を抱いているからなのかな、そんな気がするんですね。
 それと、なんだかんだ言って、ラジオのリスナーとしての自分が、結構ムラ社会的な意識を持っていることの表れなのかな、という気も、するんですよ。 これはラジオが持つ、送り手と聴き手の距離の近さによるものだとも、思うんですけどね。

 でもまあ、吉田照美サンがフリーの立場で、「やるマン」 で自分がかつて勤めていた文化放送の内部に関して、いろいろ言っていた例もありましたし、そんなに気にするほどのことではないのかもしれません。

 蛇足ですが。

 「赤坂マラソン」 のときだけ、テレビの 「オールスター感謝祭」 と同時中継でラジオを聴いていたのですが、テレビのアナログ放送でもラジオと音がずれるって、どういうことなのかなー。 不思議に思いました。
 地デジは2、3秒くらい遅れるのは分かるのですが。
 インターネットでラジオが聞けるサービス 「ラジコ」(一部地域のみです、スミマセン)は相当、遅れてるんですけどね(ラジコって、ひどいときには、30秒ぐらい遅い気がします…笑)。

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久々に、閑話休題

 最近、見たいテレビがなくって、私みたいなブロガーは結構ネタに困ってます(笑)。
 ビートルズ関係の記事でも書けばいいんでしょうけど、あれって結構、体力いるんですよ(笑)。 そのくせアクセスが来ないもので、書き甲斐がないって言うか(笑)。

 このー、番組改変期に特番やるって、もういい加減に、やめてもらいたいんですよね(笑)。

 だんだん改変特番の期間が長くなって、なんか1ヵ月くらい、特番ばかりやってますよねー。 とても変な感じがします。

 だからかな、NHKの特番全くなし、の姿勢には、とても 「テレビのあるべき姿」 を感じます。

 「ゲゲゲの女房」「八日目の蝉」 など、今週から始まったドラマは、だからこそ見る気を余計に起こさせるような気がします。

 ドラマ好きはこの時期、正直言ってドラマに飢えてるんですよ。

 特番でドラマスペシャルとかやったりしますけど、2時間とか2時間半とか、見てらんないんだなー体力なくて(笑)。

 テレビ東京でやっていた、「シューシャイン・ボーイ」 も、いちおう見たんですが、途中からダレてきて(笑)。 一気に見ることができませんでした。
 このドラマ、西田敏行サン、ギバチャン、大滝秀治サンの演技は見ごたえじゅうぶんで、とてもよかったのですが、特に記事にするほど心が動かなかった。
 ところどころに説教臭い部分が挿入されるのですが、それがなんか、浮いちゃってるんですよ。
 鎌田敏夫サンのドラマには、「俺たちの旅」「男女7人」「眠れない夜をかぞえて」 など、ずいぶん心を揺り動かされてきたものですが、ここ最近は 「武蔵MUSASI」 も首をかしげるような出来だったし、うーん、どうなんでしょう。

 山田太一サンのスペシャルドラマも、録画したまま、まだ見ておりません。 いつ見ることになるのやら。

 あ、ようやく自分のブログ内の記事どうしをリンクさせることができるようになりました(遅い…笑)。

 これまで何度やっても、実際にジャンプしようとするとエラーになってしまって。 ベーシックプランでやってるからできないのかなーと思っていたんですが、貼り付けたい記事の 「入力・編集画面のアドレス」 を貼り付けてたせいだったんですよ(笑)。 つまり自分のブログの記事を 「実際にひらかないと」、リンクできるページのアドレスをコピーできないことが分かって(笑)。
 分かる人たちにとっては、マヌケに見えるんでしょうけど。 分かりませんでした。

 ところが今度は、このリンク先のアドレスが、そのまんま出ることが、気になってきた(笑)。

 つまり、リンク先がhttp:hashimotoriu-cocologなんとかかんとかって、いちいちずらずら長い。 実に美しくありません(笑)。

 よく、アドレスじゃなくって、文章に下線が引いてあって、そこにカーソルを合わせればリンクできるようなヤツ、ありますよね?
 あれがしたく、なってきた(笑)。

 そのうちに勉強しようと思いますが、生来がめんどくさがりなもので(笑)。

 いつになるのか、分かりません(笑)。

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「恋のから騒ぎ」 2010年度メンバー、前途多難だ…

 放送日が変更され、個人的には長年の土曜日のリズムが崩されてしまった感のある 「恋のから騒ぎ」。
 同じ曜日の午後11時から放送される 「A-Studio」、そんなに毎回は見ないのですが、そのアシスタントが激ノッポだった小泉深雪クンから比較的背の低いIMALUチャンに交代し、ヘンなところで親子のバトンタッチが見られる、という構造にはなったんですけど(笑)。

 そんななか、前期メンバーのMVPが、その第1回目のときだけしか目立つことのなかったハッハハーチャンになったことも併せて、テンション的にもちょっと低めの状態で今期第1回を見たのですが。

 そんな気持ちで見たのがいけなかったのか、どうにも先行きが不安になるような船出だった気がします。
 まあ、シロートサンが第1回目から面白い、ということのほうがおかしいのですが。
 ここ数年は、しょっぱなから面白くて、ずいぶんメンバーのやる気を感じていただけに余計、今期メンバーのローテンションぶりが気になる。

 そう、なんか、ヤケに新メンバーの皆さん、冷めてるんですよ。
 ゲストの高橋克典サンが登場しても、リアクションが薄くて。

 積極的に番組を盛り上げよう、という意思が、あまり感じられない。
 さんまサンの気力だけが、空回りしている印象でした。

 何度も書きますが、それが本来当たり前なんです。 第1回目ともなれば、なおさら緊張することでしょうし。

 ただ、出だしのさんまサンの登場から歓声をあげて盛り上げていた前期メンバーに比べると、今期メンバーはとても静かで、それだけで番組の中に入っていこう、という、見る側の気力がしぼんでしまう。
 そう考えた時、前期第1回目からおおーきな笑い声で番組を盛り上げたハッハハーチャンの存在が、結果的には前期のスタートダッシュに相当影響を与えていた、そんな気がしてくるのです。 ハッハハーチャンのMVPも、そんな意味ではむべなるかな、という感じに思えてくる(笑)。

 で、今期第1回目の説教部屋は、またそのテンションの低い象徴みたいだった 「恋愛経験ほぼゼロ」 の女の子。

 ハリセンボンの、結核にかかったコがいましたよね、名前なんて言うんだか。 その子をちょっと美人にしたような顔の女の子でした。 テンションが低いのが笑えるレベルにまで到達している、唯一の子だった気がします。

 ただその子も、今回しゃべった恋愛体験で話が出尽くしたらしくて(笑)、もう次回からは出ませんとか(笑)。

 まあ、この感じは久々に味わうんですけどね。
 「今回はつまらんなあ」 とか、「前途多難だ…」 とか。
 でもそれって逆に、「恋から」 の大きな吸引力でもある気はするんです。
 「前のメンバーのほうがよかった」「面白いメンバーだけでやってりゃいいのに」 という視聴者の思惑を、見事に無視しているわけですからね。 それで離れていく視聴者のことを、要するに考えていていない、っていうことでしょ? 視聴者を大きなふるいにかけて、コアな視聴者だけが残る。 その番組姿勢って、慣れ合いと真っ向から対立してるゆえに、コアなファンにとっては、新鮮さがいつまでも失われない、そんな気がするんです。
 まあどうでもいいと思って見ている人にとっては、どうでもいい話ですけどね。

 ただこの 「前途多難」 感、これがもとの放送時間だったら、まだまだ先があるさ…とも思えたんでしょうが、今回からの放送時間の変更で、これでコケたらこのまま打ち切りもあり得るかも…?なんて考えてしまうんですよ。

 なんとなく、私のようなコアなファンには、お尻が落ち着かない展開になっているのです。

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