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2010年5月 4日 (火)

「ハーバード白熱教室」 第1回 殺人に正義はあるか(2)

前半は、こちらです↓
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/1-67c0.html

 サンデル教授の講義の2コマ目は、1コマ目で仮定した 「究極の選択」 という趣旨から一歩踏み込んで、実際にあった事件からの設問。 120年以上前の、古い事例ですけどね。

 この事件も極端な例のひとつと言えるのですが、現実に起きた話から思索をする分だけ、学生たちは自分が陪審員になった感覚で、事件の当事者に対して、有罪か無罪かを決めることができるだけに、より実戦的であると言えます。

 まずその前にちょっと。
 この2コマ目の冒頭でサンデル教授がしゃべっていたことから、この番組自体が、非常にはしょられていることが、推測されます。 サンデル教授が述べていた、「自分の意思に反して臓器を取り出される患者」 とかの話は、1コマ目の講義には、ありませんでした。
 そりゃそうか。 1コマで30分の講義なんて、大学にはないですからね。
 まあ、なんだか、この番組では、試験に重要な要因となる、誰それのなんとか論とか、視聴者が内容を理解するうえで不必要と思われる難解な定義などを、極力省いている感じがする。 1コマ目では、「帰結主義者」 とか、「道徳理論」 とか、簡単そうな事柄を、ヤケに難しく定義させようとする傾向がわずかに見受けられましたが、たぶん講義の大部分は、そんなシチ面倒なことをやっているのではないでしょうか。

 さて。

 サンデル教授が2コマ目で俎上にあげたのは、18世紀イギリスの政治哲学者、ジェレミー・ベンサムの功利主義。 倫社の時間に、習いましたねー(笑)。 今も倫社って、あるんですかね? 倫理社会。

 「ベンサムの基本的な考えとは、『正しい行ないとは、効用を最大化することだ』 というものだ。
 ベンサムの言う 『効用』 とは、苦痛よりも快楽、すなわち喜び…受難よりも幸福…というバランスを意味している。(略)
 何が正しい行ないかについて、個人的、あるいは全体的に考えるとき、私たちは、全体の幸福度を最大化させるやりかたで、行動すべきなのだ――それゆえ、ベンサムの功利主義は、最大多数の最大幸福という標語に集約されることも多い」

 出たー、「最大多数の最大幸福」(笑)。 なんかのっけから、難しそうなんですけど、要するに、「より多くの人が幸せになるようにする生き方こそが、いちばん正しい」、ということですよね。

 ここでサンデル教授は、実際に起こった事件を設問として提示します。

 「当時(1884年)の新聞に、事件の背景を解説した記事が載っている。 悲劇的な海難事故の物語だ。
 この船の名は、ミニョネット号。 南大西洋の喜望峰から、2000キロ離れたところで沈んだ。
 乗組員は4人。 船長のダブリュー、一等航海士のスティーブン、そして船員のブルックス。 
 4人目の乗組員は、給仕のリチャード・パーカー、17歳。
 彼は孤児で身寄りもなく、これが彼にとっては、最初の長い航海だった」

 船の沈没後、3週間ほど漂流して食料も尽きた末、彼らは恐ろしい決断をします。
 くじ引きをし、残りの3人のために、誰が犠牲になって自分の身体を食料とするか決める、というのです。
 これにはブルックスが拒否。
 結局、くじ引きは行われませんでした。
 その時、忠告を無視して海水を飲んだパーカーは、すでに瀕死状態。
 そしてその翌日、ダブリューはスティーブンと話し合い、ブルックスに見ないように言い、パーカーを殺そうと決断。
 ダブリューはパーカーに祈りをささげ、「お前の最期の時が来た」 と告げ、ペンナイフで頸動脈を刺して殺すのです。
 そして4日間、彼ら3人はパーカーの肉と血液で生き延び、救助されました。

 彼らはイギリス送還後、裁判にかけられるのですが、「必要に迫られての行為だった」 と主張。 「3人が生き残れるのなら、ひとりの犠牲は仕方ない」 と論じました。

 ここでサンデル教授は、彼らが有罪か無罪か、学生たちに尋ねます。

 ほとんどの学生が、彼らを有罪だと断じました。

 ひとりひとりにその理由を尋ねるサンデル教授でしたが、有罪無罪の決断を迫られた学生たちの両方とも、なぜ3人が有罪(無罪)であるかについて、とても理路整然と語っていました。 さすがハーバードの学生。

 ここで私が驚いたのは、銃社会であり、政治的な正義を実現するための世界最強の軍隊があるこのアメリカという国にしては、少なくともこのハーバード大学のサンデル教授を受けている学生たちに限っては、彼らがとても、「確固とした」 道徳的な判断力を、持ち合わせていた、ということでした。

 いまなぜ 「確固とした」 などと、カギカッコつきの言葉にしたのか。

 「人を殺すのはいけないことだ」 という認識において、彼らにはわれわれ日本人以上に、「きちんとした」 判断基準が、備わっているように見えたからです。

 それは、やはり彼らが、戦争やテロ、銃乱射などの 「殺人」 を、身近に感じている証拠のように思えます。
 その点で、「殺人」 というのが日常的に起こることのあまりない日本においては、「殺人」 に対する思想が、漠然とならざるを得ない側面がある。
 日本のテレビの討論番組で、「人を殺すのがなぜいけないことなのか?」 という若者がいたことが問題視されたのは、もうずいぶん昔の話だったと思うのですが、それは 「殺人」 が身近な問題でないがゆえに、「人殺し」 に対する倫理感も、ぼやけてしまう好例のような気がします。
 殺人が身近な国民のほうが、テロも戦争もない、殺人から最も隔離されている国民よりも、ずっと 「人を殺すことの罪深さ」 を道徳的に考えている、というのは、興味深い。

 この講義の中では、確かに 「しなければならないことは、しなければならない」 という、「切迫した状況下では倫理観などかまっていられない」、という行動基準の持ち主も、いました。

 ただそれを一概に批判は、できない。

 戦場下では、一瞬の判断ミスが、命取りになる場合が、あまりにも多過ぎるからです。

 またいっぽうで、パーカーに同意を得れば、その人肉食という行為は正当化されるのではないか、という意見も出ました。
 この 「同意」 という点で判断を翻す学生は、何%か増えました。

 サンデル教授はここで、「それでは、同意を得ても、これは決して許される行為ではない、と考える人はいないか」、と学生たちに尋ねます。

 その時立ったのが、「殺人はすべてが悪である。 いかなるケースでも、殺人は許されない。 ベンサムよりも、自分のほうが絶対正しい」 という、思考停止状態のように見えた学生(あえて 「思考停止状態」 と表現します)です。
 彼の立場だと、ベンサムの論理から、真っ向に対立することになる。
 ベンサムの考えから行くと、同意を得れば、殺人は許される、という判断は正しいということに、なってしまうからです。 なぜならそれが、最大多数の最大幸福なのだから。

 ここで私は考えるのですが。

 もし自分が犠牲になることに同意をする、という過程があったとしても、それはくじ引きなどできはなく、自発的に行なわれるべきなのでは、ないでしょうか。

 ここで私が思い出していたのは、手塚治虫氏のマンガ 「ブッダ」 の冒頭で、極寒の地に閉じ込められていた動物3匹と仙人らしき男が、今回と同じような状況に置かれた時、そのうち1匹のウサギが、自分を食べてください、と言って自ら火の中に身を投じた、という逸話です。

 つまり自己犠牲の尊さ、というものを、ここでは説いていたわけですが、その状況下でウサギは、半ば脅迫観念の中でその判断を自らに下している。
 けれども重要なのは、ウサギが精神的に追い込まれてその行為に及んだ、その状況ではありません。
 そのウサギが、自分がみんなの食料となれば、ある程度の飢えをしのぎ、その極寒の状況下からも脱出することができるかもしれない、と考えた、その 「心」 なのです。
 ある種の損得勘定とか自己保身とか、誰もがそんなものに縛られながら、人生を生きている。
 けれどもそのウサギの心、というものは、そんないやらしい合理的な判断を、超越している 「質」 を備えているように感じる。

 くじ引きに限らず、当事者すべての合意、という約束事は、私には、いかにも機械的な冷たい合理性が感じられてならない。
 サンデル先生も指摘したように、もしくじ引きで犠牲となる者が決まったとしても、くじに当たった瞬間、「やっぱりこれはナシにしよう」 と考えを変える者が、ないとも限らないですよね。
 つまり、くじ引きなどというのは、その程度の覚悟しか強要できないのです。 私たちは、その 「同意の質」 というものに、もっと目を向けなければならない。
 ウサギがしたような自発的な覚悟は、その点で 「同意や取り決めの上での犠牲」 よりもずっと、尊い行為である、と私は考えるのです。
 それほどの質を備えた同意がなければ、いかなる人格も、殺していい理屈など、存在するはずがない。 それで全員が飢え死にするのであれば、それは仕方がない、とさえ言える。

 私が考える最良の答えは、まず全員が、自分が死ねばその肉を供してもいいかどうかの同意をあらかじめとる、ということです。

 同意、という点では同じですが、くじ引きであるとか誰かを殺すとか、そういう強制的行為が介在していないだけ、ずっとマシであると思います。
 そしてその肉を食べるかどうかの判断も、各人たちに任せる。
 人が人の肉を食べる、ということに、あくまで倫理的にこだわる人も、いると思うからです。 人の肉を食べることは、人の尊厳に対する冒涜だと考える人は、食べずに自ら死を選ぶ自由を有する、と私は考えます。

 問題は、同意という手続きがありさえすれば殺人にも正義が生じる、と考える、その思考回路にあるのでは、ないでしょうか。

 ベンサムの功利主義には、最大多数の最大幸福という理念はあるが、その範囲に漏れた人の幸福、というものを、考えていない。
 当事者の合意、というものの冷たさを私が感じる原因は、ここにあります。 それは人の幸せを考えているようでいて、実は誰かの犠牲の上によって立っている。 多くの人たちの幸せを考えている、という時点で既に、なんだかウソっぽくも感じられる。

 ここで犠牲になっている誰かは、けっしてその判断に、心から同意していない。
 犠牲者が出るのは、誤解を恐れずに言えば、別にしかたないことでも、あるんですよ。
 でも、同じ犠牲になるのでも、火に自らの身を投じたウサギのような、自発的な覚悟が必要なのではないか、ということが、私は言いたいのです。

 そのうえでさっきの 「思考停止状態」 の学生の言うことを考えると、彼の言うことがとてもまっとうな考えに思えてくるはずです。

 人間は、いかなる場合でも、殺人をしてはいけない。

 確かに、それは当たり前のことです。
 それを思考停止状態と考えるほうが、間違っているとさえ言える。
 どうして 「同意」 とか、条件付きならば殺人が許される、と考えてしまうのか。
 その思考状態こそ、思考停止状態と呼べるのではないか。

 いずれにせよ、この講義を見ていて私が思ったのは、手続きがありさえすれば殺人が有効になると考えてしまうことへの、違和感でした。
 そしてその考えを超えられるのが、「自発的な犠牲行為」 なのではないか、ということを、考えたわけです。

 あ゛ー(笑)。

 ムヂャグヂャ疲れたー(笑)。
 連休でもなければ、こんなに小難しい文章など、ダラダラと書かなかったでしょう。 議論が堂々巡りしているような気もしますし(笑)。 すみません、分かりにくい話で。

 録画してある 「白熱教室」 の第2回目以降も、全く見とりませんし(笑)。 見るんでしょうかね、こんな脳みそが疲れるものを(笑)。 そうだ、こんな記事を書こうとするから、見る前からウンザリしてしまうのだ(笑)。 書くのはやめて、見るだけにしよう。 いや、でも見ちゃったら、また書きたくなりそうだ(笑)。

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コメント

時々読ませていただいています。ありがとうございます。

アメリカの学生の方が確固たる道徳観を持っているという件には、疑問があります。
これはあくまでも大学の授業であって、本心から信じているかどうかは別として、もっともらしい議論をした学生が評価を受けるゲームであるという観点があっていいのではないでしょうか。
ましてやここはハーバード。そういう議論ゲームが得意中の得意で大好きな学生の集まりでしょう(実際、高校までの教育でもディベートは盛んに行われるわけです)。
ここを巣立っていった人たちがアメリカの三百代言、じゃなかった、優秀な弁護士さんになっていくのだろうなあ、というのが今のところの感想です。

(もっというなら、このような授業のやり方そのものが、「学生にはいかにも自分の頭で考えたかのように思わせながら実は教授の用意した結論に巧妙に誘導していく、アメリカ一流の巧みな説得術」じゃないかと思わないでもありません)

投稿: | 2010年5月 7日 (金) 19時02分

??様
コメント、ありがとうございます。
この、長ったらしくて分かりにくい記事をきちんとお読みくださり、重ねて感謝いたします。

「もっともらしい議論をした学生が評価を受けるゲーム」 ですか。 キビシーなあ(笑)。 確かに学生たちにとっては、サンデル教授の単位を取るための手段として、自らの道徳的な側面を、ことさら強調する、という傾向は、あるかもしれませんね。

ディベートに慣らされている国民だからこそ、自分の本心を議論においてさらけ出すよりも、自分がそうしたいという方向に議論を持っていきたがる傾向が、あるのかもしれません。

それに、第1回を見ただけでこんなことを書くのもなんですが、やはり私も、??サンが感じたように、サンデル教授が導きたい結論のほうに、意見を巧みに操作している印象は、ありました。

ただ私が考えたのは、アメリカよりもよほど殺人に対して 「それはイカン」 という道徳観が成り立っているように感じる、この日本という国のほうが、殺人に対する思索というものが、深くなされていないのではないか、ということです。

殺人というものが私たち日本人よりも身近にある彼らのほうが、より深く 「人を殺す」 ということを考えているのかな、なんて、思ったわけです。

投稿: リウ | 2010年5月 7日 (金) 21時27分

前回の投稿では名前を入れ忘れていました。失礼しました。
早速の返信ありがとうございます。私のほうこそ長いコメントですみません。

ところで、まず事実問題として指摘しておかなければならないことがありました。
>>政治的な正義を実現するための徴兵制があるこのアメリカという国
現在のアメリカでは事実上徴兵制は行われていません。
参考:
http://kw.allabout.co.jp/glossary/g_politics/w007987.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%BE%B4%E5%85%B5%E5%88%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
現状の志願制のもとでは(映画『華氏911』でも描かれていましたが)兵隊になるのは貧乏人の子弟が主であり、ハーバードの学生は多分戦地には行くことはないと思われます。


話は変わりますが、授業での発言と評価に関してですが、
※※※
によれば、採点の25%が"Section participation"(授業への参加[発言])によると書いてあります。


>>殺人というものが私たち日本人よりも身近にある彼らのほうが、より深く 「人を殺す」 ということを考えているのかな、なんて、思ったわけです。

日本のテレビ番組(『ジェネジャン』でしたか?)に登場した少年と、ハーバードのエリートとは適切な比較対象とは思えません。
東京大学法学部の学生相手に同じ授業(もちろん、授業での発言を採点の対象にする)をやってみればまた違うと思います。

投稿: がんちゃん | 2010年5月 8日 (土) 19時23分

がんちゃん様
再コメント、ありがとうございます。

がんちゃん様のコメント中のリンク先が問題だったのか、スパム処理されちゃっていたので、今までコメントが入っていたのに、気付きませんでした。 私もスパム処理されたコメントなどめったに見ないので、危うくそのまま自動削除されてしまうところでした。
とりあえず、スパムの原因かと思われる、外国語で書かれたリンク先だけは、ちょっと削除いたしましたので、なにとぞご了承ください。

徴兵制がない、というところ、私もその後のこの授業の再放送を見ていて知り、ゲゲッ、また事実認識が間違っていた!(笑)と、さっそく変更させていただきました。

私もがんちゃん様の貼ってくれたウィキで調べたのですが(笑)、もうずいぶん前に志願制になったらしいですね。 私はビリー・ジョエルが徴兵を忌避したとかいう頭があったので、てっきり今もそうかと思っていました。 あれは、ベトナム戦争の頃でしたからね。

それから、がんちゃん様ご指摘のように、ジェネジャン?の少年とハーバードの学生との比較は、極端な例であって、あまり適切ではありませんでしたね。 その例を持ち出さなくても、日本という国は殺人を身近に考える機会があまりないことは、表現できたと思います。 ただまあ、象徴的な意味合いもありましたので、その点はご理解いただきたいと思います。 また、どちらに優劣があるか、という話をしようとしたわけでもありませんので、重ねてご理解ください。

日米の学生の比較、という話になってしまうと、ちょっと私も実際にかれらと触れ合っていないだけに、適切な論評を加えることができなくなってしまいますが、殺人の是非について深く考えることは、日米にかかわらず、すべての個々人にとって非常に重要なことだと考えます。

特に、正義という概念と結びつくと、殺人が正当化されてしまいますよね。
今、世界で起こっているほとんどの戦争は、国や民族、宗教やイデオロギーなどによって判断がまちまちな 「正義」 というものの名のもとに、行なわれています。

そうした意味においても、「正義」 というものの正体は、深く考えなければならないことだろうと、私は考えます。
「正義」 という言葉は、とても危うい。

第1回以降はとぎれとぎれでまだちゃんとこの講義を見ていませんが、「ジャスティス」 と名のついた講義であるからには、「正義」という言葉の持つ危険性を、暴きだすものになっているのかな。

いずれにせよ、数々のご指摘、大変ありがとうございます。 また、大変参考になりました。 またなにか、拙ブログについてお気づきの点がございましたら、ご指摘いただけると幸いです。

投稿: リウ | 2010年5月 9日 (日) 15時05分

丁寧な返答、ありがとうございます。

実は、リンク先は本家本元ハーバード大学のこの講義に関するページだったんですが、システム上英語ページへのリンクはできないのであれば仕方ないですね。

今後ともよろしくお願いします。

投稿: がんちゃん | 2010年5月 9日 (日) 17時35分

がんちゃん様
再レス、恐れ入ります。

事情はよく分からないのですが、外国のHPって、結構ハネられちゃうことが、多いみたいです。

私もたまたまスパムをチェックして、よかったです。 でなければ、大変な失礼になってしまうところでした…。

ではでは。

投稿: リウ | 2010年5月 9日 (日) 19時15分

シンプルに考えるのはどうでしょうか。
人間には死に対する恐怖があります。
死にたくない、生き続けたい。
人の死を見たらショックを受ける、人を殺したくない。
この感情は、人から教えられるから身に付くというものではない、人間が生まれた時から備わっている感情のようなものです。
人類が始まってから、備わっている人間の感情です。
人類を絶やさない為に、自然が人間に植え付けた感情です。
これは自然の力です、宗教ではありません。あらゆる民族に宗教があり、宗教は時には利害関係があります。あくまでも宗教ではなく哲学です。政治哲学の観点からの正義です。
宗教でもなく、法律でもなく、サンデル教授は人の内部に備わっている理性を呼び起こしているのです。
生きたい、死にたくない。人を殺す事はいけない、これら全て人の内部に備わっている感情です。
普段死に対する恐怖を体験する事はあまりない、だから設問では、実際に起きた事件を題材に、死に対する恐怖を考えたわけです。
人を殺さなければ餓死してしまう。生き続けたい、死にたくない。
死の恐怖を呼び起こす事で、人間の内部に潜んでいる理性を引き出そうとしているのです、サンデル教授は。
そう云う思いで考えた場合、全てレクチャーに共通の流れがある、その事に気付かされます。既に人の内部にあるのです、それを教授は指摘したいのです。
何が正しいかではない、何が間違っているかではない。
正義とは、本来人の内部に既に備わっているものなのでしょう。
ただそれに気付かずに生きているのです、人間は。
一つの結論に辿り着くように出来ているのです、それが人間の理性で感情で正義なのでしょう。
議論を通じて、講義を通して、教授は理性の不安をよみがえらせようとしている。
誰もが既に知っている事を、普段気にしない事を気付かされる。
だから、ハーバード白熱教室は話題を呼び、人気になったと言える。

投稿: 三河のショパン | 2010年7月15日 (木) 15時42分

三河のショパン様
かなりの示唆に富んだコメント、ありがとうございます。 勉強になります。

私見ではありますが、「理性」 というものの危うさ、というものにも、目を向けなければならないのではないでしょうか。

理性というものは、教育によっていかようにでもなる側面を持っているように思われます。

例えば、敵を殺すことは善である、という教育を受けた子供たちは、人を殺すことの嫌悪感を乗り越えて、聖戦の戦士となる。

この子供たちにとって、人を殺すということは、場合によっては讃嘆されるべきことなのだ、という価値観が、その時点において形成されているわけです。

極限状態において人肉食を行なう人間についても、相手を殺してその肉を食べなければ自分が死ぬ、という価値の逆転をあえてするのです。

そこではその人に、理性というものは存在しているのでしょうか?

そこで最も重要に思われる判断基準は、その人がそれまでに受けてきた教育であるとか、宗教的な倫理観だと思われるのです。

現在、宗教というものは、偏見や差別や分断、ドグマの象徴的アイコンとして語られる場合が、とても多い。

けれども、宗教が人間の倫理観を形成するという側面に、いたずらに目をつぶってはいけないような気がいたします。

問題なのは、宗教をエサに悪いことをしている人種。

子供たちを見ていて私はいつも感じるのですが、悪い言葉を覚えるのは、常にまわりの環境によるものが大きい。

それと同様に、「人を殺すことがいけない」 という 「理性」 は、環境によっていかようにも変質する価値観である、と私は考えます。

そして、「正義」 というものの判断基準も、あらゆる思想的な環境によって変質することが可能な、極めて危険な揺らぎを持つ言葉のように、私は考えます。

もしショパン様の考えるように、人間の本質で 「人を殺すことへの嫌悪感」 が備わっているのならば、なぜ世界中から、戦争がなくならないのでしょうか?

それは、極めて危うい 「正義」 という名のもとに、「人を殺すことの嫌悪感」 を乗り越えた聖戦士たちが今この瞬間にも量産され続けている証左のような気がしてなりません。

ショパン様のお考えに真っ向から意見をしてしまい、ご気分を害されてしまったとしたら、心よりお詫び申し上げます。

けれども、自分の考えうる限り、真摯に回答させていただいたつもりであります。 あしからずご了承くださいませ。

哲学というものは、普段当たり前であると思っていたことに対して、ちょっと疑問の目を向けてみようじゃないか、という契機の学問ですよね。

物事をシンプルに考えようとしたとき、どうしてもその人がたどってきた精神土壌的な環境がものを言ってしまう可能性が大きい、と私は思うのです。

日本人はその点おいて、とても倫理的に 「人を殺してはいけない」 という価値観を植え付けられている気がするのです。 でも国によっては、そんな基本的と思われる価値観でさえ、逆転している場合がある、ということを言いたかったがために、このような不躾な文章になってしまいました。 おそらく賢明なショパン様のことですから、そのことも承知でコメントをいただいたのだと思うのです。 大変僭越なマネをしたかも知れません。

いずれにせよ、拙ブログに対し、誠に真摯なコメントをお寄せくださり、大変うれしく存じます。

重ねて、お礼申し上げます。

投稿: リウ | 2010年7月16日 (金) 06時18分

>ショパン様のお考えに真っ向から意見をしてしまい、
>ご気分を害されてしまったとしたら、心よりお詫び申
>し上げます。

とんでもございません、ご気分は一向に害されませんでした。
リウ様のおっしゃる通りでございます。
全く私も同じ意見であります。
10歳未満の少年が小銃を構えている絵がテレビ画面から流れるのを見て、心を痛めます。人類の悲劇です。
戦争や内戦で多くの命が地獄へ落ちて行ったのでしょう、そしてこれからもそれは続くのでしょう。愚かな事です、人間はなんて愚かな生き物でしょうか。
ただ、こうした事実を報道するメディア、それが正義なのでしょう。
その事実をテレビ画面から知った、お茶の間の人類は心を痛める。それが正義なのでしょう。
食事をするように、トイレで用を足すように、日常茶飯事で殺し合いあれば人類は滅びます。人類がまだ滅びていないのは、やはり殺し合いは日常的には行われていないのかもしれません。死の恐怖が人間に備わっていると思いたいものです。
さて、ハーバード白熱教室では、議論を取り入れることで、より講義を深める効果を狙っていたのですが。
どうも私の意見では、議論の進展は見られません。
白熱教室の議論は、反対意見を出し合う事で、内容に深みを持たせていました。
どちらの意見が正しいか判定して、正義という答えを出すのではないのでしょう。
相反する意見から何を感じたか、何を導き出そうとしているのかが答えなのです。
意見を聞いた聴衆が学生が、自分の理性に不安を感じさせるのが教授の狙いです。当然だと思っていた事が、当然ではないのでは、と疑いを抱かせる。
アメリカの銃社会、簡単に銃が手に入り、人殺しが出来る。銃は殺処分出来る道具で他の使い道はないと聞きます。
簡単に銃が手に入り殺し合いが簡単に出来たとしても、それはあまりよくないのではないかと、アメリカ市民に問い掛けるかのように、そんな意味合いはないでしょうね。別に、リウ様をおちゃくっている訳ではありません。
誰もが知っている、当たり前のことを講義するのがハーバード白熱教室でした。

投稿: ショパン | 2010年7月18日 (日) 12時54分

ショパン様
再コメント、ありがとうございます。

このような、「人間の生命に関する尊厳」 などという話や、「正義」「理性」 について、普段議論する環境にないために、大変有意義な時間を持たせていただき、重ねて感謝申し上げます。
その点では、サンデル教授にも感謝すべきでしょうネ。

自らの理性に対する疑問を湧出させるための契機、としてのサンデル教授のこの講義自体に意義がある、というショパン様のお考えには、心から賛同いたします。

人は、自分の身内や友人知人が傷つけられれば、悲しみます。

けれどそこから、なにを感じていくのかが、人にとって重要なことのような気がするのです。

ひどいことをさせたから、自分はそういうことを他人にはしないようにしよう、と考えるのか、ひどいことをされたから、そいつに同じ悲しみを味あわせてやろうと考えるのか。

宗教やイデオロギー、民族の違いで人を憎もうとする人たちにとって、おそらく後者の復讐心を正当化させるための理屈が、「正義」 つまり自分のしていることは正しい、という思い込みをしようとしている点だ、と私は考えるのです。

私がこの記事やコメントへの回答で述べさせていただいたことは、実はサンデル教授の問題提起によって私が自分の理性に対して揺り動かされた結果、でもあるんですよ。

その点では、私もサンデル教授の思惑に乗っかっちゃっている部分はあります。
ショパン様のご指摘のように、「相反する意見から何を感じることができたか」、という結果が、この記事およびコメントへの回答なんですよね。

頭が疲れちゃうためにこの番組を最後までまだちゃんと見ていないので、そんな状態でショパン様のコメントに返答申し上げるのも、誠に失礼に当たるのですが、記事を書いたあとの皆様の反応にも大いに啓発され続けている状態です。

その点では、ショパン様の考える理想的なこの番組の見方を、お互いにしていたような気がするんです。

投稿: リウ | 2010年7月18日 (日) 14時14分

リウ様

本当に度々すみません。
「白熱教室シリーズ」が懐かしかったものでつい・・・。
もう、完全に執拗系でごめんなさい。

白熱教室シリーズ、大人気で、M・サンデルだけでなくて、後々に他の教授や他大のものも放映されてましたね。

私は、テレビでなくて、書籍で読んだクチなのですが、小・中学時代を思い出しました。
私の通っていた小・中学校は授業が「白熱教室」とほぼ同様でディスカッションがメインの授業でした。
50分の授業で最初に教師があるテーマを出し、それについて生徒に議論させ、35分を過ぎたあたりに、教師が生徒の意見を纏め始め、教科書に書いてある内容(史実だったり解釈だったり)に導く、という手法でした。(体育以外全部その内容なので、今思うと教師の力量や負担が伺えます。)


で、白熱教室シリーズで取り上げられた内容とほぼ同類の質問をすることもありまして。
小・中学生の回答ですから、ボキャブラリーや視点はまだまだ甘いところがあるのですが、解答の本質的な部分では白熱教室の生徒と変わらないのです。
中には眼を見張るような、教師や生徒の想定外の解答を導き出す人もいたりして。

と、何だか人様のブログで勝手に懐疑的になってしまって恐れ入りますが、思うのは
「あの時考えた議論を、同級生たちはどのくらい覚えているのだろう」
「当時投げ掛けられた疑問をどのくらい思い起こす事があるのだろう」
という事です。

「哲学は机上の論理」と、やたら言われがちですが、机上の論理にしているのは誰なのか。
日常生活の中で忙殺されながらも、現実のちょっとした場面で哲学や「思考」を活かすも殺すもその人次第なのではないのかと、思う次第です。

多分、目を凝らせばふとした瞬間、もしかしたら全ての瞬間に「思考」のチャンスは与えられているのに、現実では私達はそのチャンスを活かしきれていない。
で、「勉強は社会に出て役に立たない」とか言われてしまう始末だったりして。

でも、当時の事を覚えていて、ふと目を凝らすことが出来たのなら、人生はもっと味わい深く、愉しいものになるだろうに(時には苦しいですが)、なんて考えたりしてます。(頭でっかちは避けたいところですが)

長々とすみません・・・。本当に。


投稿: まぐのりあ | 2012年9月15日 (土) 01時08分

まぐのりあ様
コメント下さり、ありがとうございます。

結局頭を使うこの手の番組は、尻すぼみ的に見なくなってしまいまして…。 自分はちょっと考えすぎる傾向にあるので、こういうトータルな哲学に対して、かなり楯突きたくなるのです(笑)。 要するに哲学というのは、人の行動や心理をひとくくりにしたがる学問ですからね。 いろいろ考えすぎると、頭が疲れてしまう(笑)。

教育というのは、一字一句覚えていることが本質ではないのだ、と感じます。 なんたって、数学の公式を今覚えているか?と問われれば、ま~ったく覚えてませんし(小学生程度の公式ならまだしも)。 大学時代なんか、テストのためにB4で2枚くらいの量の自分で書いた論文を5通り丸々暗記して、それを今覚えているか?と問われたら、1行だって覚えてないし(笑)。

でも、「考え方」 は身についていくんだ、と思うんですよ。

細っかいことは覚えてなくても、自分の考え方の基礎になる思想が、教育によって出来上がる。

これはなにも教わることだけでなく、ディベートという授業形態でも同じだと思います。
ディベートの場合、自分の意見をどのようにしたらに相手に納得してもらえるか、とか、どこで妥協して相手の意見を受け入れなければいけないか、という駆け引きも学べる、と思うのです。

そこで大事なのは、そのときに展開した話そのものではない、と感じます。

日本人はディベート能力が極端に低いから、「朝まで生テレビ」 を見ていても、お互いの主張を披露する場にしかならない。 自分の意見を曲げる、ということは、自分のアイデンティティにまでかかわる重大事だから、けっして相手の意見を聞こうとしないのです。 だから折り合いをつけよう、という感覚にならない。

最近問題の領土問題についても、いきなり国有化、というのは、やはり相手の出方を考えていない方法であると感じる。 かといって何事も 「まことに遺憾に存じます」 では、感情そのものがあるのか?と疑いたくなってくる。

教育が真の成果を発揮していないから、理詰めでかつ効果的に相手と折衝することもできないのだ、と感じるのです。

エライ人がこうなのですから、私たちも教育の成果、というものをじゅうぶんに発揮できないのは当たり前かもしれません(何をもってエライのかは難しい話ですが…笑)。

投稿: リウ | 2012年9月15日 (土) 17時30分

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