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2010年8月

2010年8月31日 (火)

「割れたせんべい」 「ゲゲゲ」 コンビ、やっぱりいいですなあ

 「ゲゲゲの女房」 の夫婦役、松下奈緒サンと向井理クンが地デジ促進の10分間ドラマ(正確には8分くらいかな?)に出演した、「いちごとせんべい」。
 その続編、総合テレビで一回放送されたきりで、「見逃したぁ~」 と思っていたら、NHKのサイトでしっかりやってました。

 サイトはこちら
 http://www.nhk.or.jp/digital/pr/express/201007/24_01_01.html

 題名は、「割れたせんべい」。 その題名から察することができるように、前編で幸せいっぱいだった老舗のせんべい屋の夫婦が、ケンカをしてしまうところから物語は始まります。
 10分間ドラマだから、いきなり松下奈緒サンのナレーションで、「ケンカした。」 なんか、どこかのCMで見たことがあるような、簡潔な切り口です。

 「結婚して、初めての大ゲンカ。 原因は、ささいなことだったと思う」

 前編もそうだったのですが、松下サンのしゃべり方は 「ゲゲゲ」 に比べれば低いトーンで、ナレーションも同じ。 こちらのほうが素に近いです…って、前編の記事でも書いたか。 ケンカの仕方も 「ゲゲゲ」 のようなつつましやかなものではなくて、現代っ子らしい、ストレートなものの言いあい。 それをストップモーションやスローモーションで簡潔に見せていくのですが、松下サン(たぶん)の振り下ろした手がせんべいを乗せたバットに当たって、バットごと床に落ちたせんべいは、粉々に割れてしまう。 それが夫婦の気持ちのすれ違いを象徴的に表わしていて、冒頭から 「この続編も質がよさそうだ」 と思わせるのです。

 それにしても、簡潔なドラマなのに、記事のほうはダラダラと書いてますなあ(笑)。

 松下サンは埼玉の実家に里帰り、大量のイチゴにコンデンスミルクをかけまくって、半ばヤケ食い(笑)。 前編でも大量のイチゴを買いまくっておりましたが、なんでかなあと思ったけど、ただ単純に、ドカ食いするほど好きなんですね(笑)。 「実家のイチゴがいちばんだわ」 などと話しながらバクバク食っておりますが、「埼玉のイチゴも東京の下町のイチゴも一緒だと思うよ」 と的確に突っ込みをするのは、父親役の平泉成サン。 「曲げられない女」 でもどこかとぼけた弁護士の役をやっておりましたが、そのキャラに近いような感じ。

 お土産に持ってきたのは、割れたせんべい。 こわれせんべいというのはよく安値で売っとりますが、向井クンのとこではまだそれを商品化してないようです。
 「なかなかうまい」 と舌鼓を打つ平泉サンに、夫の作ったせんべいは日本一なんだから…と思わずのろけてしまって、またブンむくれモードに戻る松下サンがカワイイ(笑)。

 父娘で見ていた地デジテレビに東京スカイツリーが映り、東京観光に行こう、と父親が提案、娘はダンナに自分がいないとどれだけ困るか思い知らせるためにそれに同意します。

 いっぽうダンナの向井クンは、割れたせんべいをごみ箱に入れながら、実家に電話をかけている。 松下サンが気になって仕方がない様子。 平泉サンはアキバに直行(笑)、メイドにデレデレしながら、スイーツなどを満面の笑みで食べている(笑)。

 東京スカイツリーの建設現場を訪れた父娘。
 出来上がっていくタワーを眺めながら、平泉サンは東京タワーができたときのことを語り、新しい地デジ時代の幕開けに大きな期待を寄せるのです。
 地デジ促進の演出、と言ったところですが、前編に引き続いて、実にさりげない嫌みのなさなんですなあ。

 どうしてケンカしたんだ、という父親の問いに、古い機械でせんべいを壊してそれを捨てるより、新しい機械を買うべきだという気持ちがすれ違ってしまった、と打ち明ける娘。
 それを父親は、ケータイでダンナに実況中継しておったのです(アッずるい…笑)。

 向井クンはこの問題を解消するために、こわれせんべいを商品として売り出すことを考えつくのですが、最初のほうで私が感じたとおり、この解決策はさして目新しいものではないですけどね。
 向井クンは向井クンで、結婚してろくにどこにも行かなかったので、リゾート地に旅行に行こうと考えていたらしいのです。
 互いに言い出せないことで気まずくなってケンカしてしまってた、しかもどちらとも相手のことを思いやっているから、というこの構図が、何とも心温まる展開なのです。

 んー、なかなかいいぞ、このコンビは。

 昔の百恵友和(ゴールデンコンビ、などというネーミングでしたっけ)をほうふつとさせる、「このふたりが実際に一緒になればいいのに」、とファンたちにも思わせるような息の合い方をしているんですよ。 このふたりの別のドラマもいろいろ見たくなるような衝動に、ちょっと駆られております。

このドラマの前編 「いちごとせんべい」 に関する当ブログの記事はこちら
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/post-0963.html

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2010年8月30日 (月)

「龍馬伝」 第35回 本気でぶつかることの重要性

 薩長同盟の最終的な仕上げとして用意された舞台は、西郷吉之助(高橋克実サン)と桂小五郎あらため木戸貫治(谷原章介サン)との会談。

 ここに至るまでの経過において、作り手は重要人物を極度に絞り込んでいます。 そして、ここにお登勢(草刈民代サン)、お龍(真木よう子サン)の一見重要ではないと思われる創作をインサートさせている。

 そこから浮き彫りにされていくのは、龍馬(福山雅治サン)がいかにして 「この男、危険につき」 の要注意人物に昇格していったか、という経過であり、それはさらに龍馬暗殺への本格的な胎動が始まった序曲でもある。 そこで龍馬はどのような思いを周囲から受けていったのか。 作り手の描きたいものはこれらに収束されている気がします。

 その結果、福山龍馬はますますヒーロー的な捉えられかたになり、それを快く思わないかたがたには、まことにもって消化不良が残される内容となった危惧は、…まあ毎度のことなので(笑)、毎回それを指摘しても仕方ないのですが。

 今回龍馬がなぜ薩長トップクラス会談で仲介人として求められたかというのは、木戸寛治の次のようなセリフによって説明されています。

 「これから我々が交わす約束は、外に対して宣言するもんじゃありません。
 薩摩と長州だけが知る、密約です。
 じゃからこそ、立会人は坂本龍馬でなくちゃならん!
 …なぜなら、ぼくは彼を信用しとるからです。
 西郷殿も、彼を信じたからこそ、ここにおられるんじゃないですか?」

 「一介の浪人が、どうしてこんな重要な取り決めの場にいなくちゃいかんのだ?」 という西郷の問いに答えた、木戸の言葉がこれです。
 この理屈にハテナ?となってしまうと、どうして西郷と木戸が龍馬の来るのを雁首そろえて待っているかが、飲み込めなくなる。
 互いに犬猿の仲だった両藩がどうしてこうして結びつくまでになったのか。
 それは利害関係の一致、という面もありながら、互いを信じようとしたことが最大の原動力になったのではないでしょうか。
 その、互いの信頼関係を、なんとか最後までつなぎとめようとしていたのが、龍馬だった。
 木戸が龍馬の同席にこだわったのは、「信じる」 ということの重要性を認識していたからに他ならない、そう私は考えるのです。 そしてそれが、作り手の訴えたいことだったのではないでしょうか。

 薩摩と長州の動きを察知し、そこに土佐の脱藩浪人が絡んでいる、という情報は、ずいぶん広範囲にわたって知れ渡っている気がします。
 まず、京都守護職の会津藩主、松平容保(長谷川朝晴サン)、「見廻組」、そして新選組の近藤勇(原田泰造サン)。
 それらの者たちが 「土佐の脱藩浪人」 を探しまくるわけですが、ここで新選組の見廻組との力関係などもさりげなく描写されていたのは、さすがだと感じましたね。 「人殺し」 とさげすまれ、抑圧されていた新選組の屈辱を、原田サンの表情は一瞬で表現していた気がします。

 ところでその新選組が捕まえた 「土佐の脱藩浪人」 らしき男が、岩崎弥太郎(香川照之サン)。
 べらべら本当のことばかり簡単にしゃべってしまうので、かえって近藤から信用されず、またひどく痛めつけられる、という、またしても喜劇を演じております(笑)。

 それにしても、ここで弥太郎が、新選組や見廻組の前で龍馬の名前を簡単(でもないか)に白状してしまうところは、どう解釈すればいいのでしょうか?

 ひどく拷問された、という理由だけでは、この弥太郎の 「友人を売る行為」 の説明はつかない。
 弥太郎には、龍馬に対してどこまでも、劣等感というものがついて回っている。
 だからこそ大切な友人でありながら、妬みやそねみが常に付きまとっているのです。
 ボコボコにされて放り出されたところに駆けつけた龍馬に対して、だからこそ弥太郎は気遣う態度を示すのですが、この相反する感情をうまく表現しているなあ、と感じました。

 そして今回もうひとつ作り手が描きたかったと思われるのが、龍馬に対するお登勢やお龍の感情。

 あまりに自分に対する包囲網が物騒になっていることに、一種の覚悟を決めた龍馬は、薩長会談に向かう前に、お登勢やお龍にもう会わないかのようなあいさつをする。
 それに対してお登勢は、最初龍馬と会った時のことを話し、自分の母親にそっくりと言われて、それ以来龍馬の母親のつもりでいたことを打ち明けるのです。 「母親に瓜二つ」 という設定は、ここで最大限に生きてきた気がします。 この作り話(笑)は、泣かせます。

 ここでの龍馬の反応は、注目に値します。

 「あれはほんとに申し訳なかった。 忘れてつかあさい。 ハハハハ…」

 つまり、「親子ごっこ」 をして楽しみたかった無邪気なあの頃の龍馬は、そこにはもういないのです。 脱皮した龍馬にとって、お登勢が母親に似ていることは、もはや重要事ではなくなっている。

 そんな龍馬に、お登勢は反駁します。

 「息子が命がけの大仕事に向かおうとしているときに、気にならんわけはないやろ…!
 世の中のどんな大変なことより、息子のことが、心配なんやさかい…!」

 龍馬は居ずまいを正し、ありがとう、けんどわしは決して死にはせんき…とお登勢に向かって宣言するのですが、いずれ暗殺されることが見ている側はじゅうぶん分かっているので、この龍馬のセリフ自体も、切なくて仕方ない。 泣けます。

 そしてお龍に対し、龍馬は自分のやろうとしていることを洗いざらいしゃべり、「もうここに戻んて来る気はないき、わしを心配してくれるがは、これで最後にしてくれや」 と、ほぼ別れのあいさつと取れる一言。 思いつめたようにお登勢を振り切り、駆け出して行ってしまうお龍。

 龍馬が寺田屋を出ようとした矢先、お龍は薩摩藩の人間を先導役として連れ込んでくる。

 「おまん、なんちゅう危ないことを…!」 と咎める龍馬に、お龍は握り飯を持たせ、毅然と言い放ちます。

 「うちは…うちは…ずっと坂本さんのお役に立ちたい…。
 これでおしまいやなんていやどす…!
 お役目が終わったら、ここに戻ってきておくれやす…!」

 「…分かった。 戻ってくるき…!」

 見つめあう龍馬とお龍。 このようなラヴシーンなど不要だと考える向きにはお気の毒ですが、龍馬がどのような悲壮な思いを抱えがら、敵がうようよする京の町を駆け抜けていったのか。 それを見ている側は、心で感じ取らなければならないシーンなのだと感じるのです。

 そしてもうひとり、龍馬に対して熱い思いをいたしていた男として、三吉慎蔵(筧利夫サン)が挙げられます。
 何しろここでの筧サン、これまで私が見た中ではいちばんカッコイイ。
 その三吉慎蔵ですが、やはりどうして土佐の名もない下士であった男が薩長を結び付けようなどという大それたことをやるのかが分からない。
 それを龍馬にずばり尋ねるのですが、龍馬はこう答える。

 「三吉さんの言う通り、わしは土佐の下士じゃった。
 けんど、その土佐も捨ててしもうたがじゃき…わしはもう今は、何ちゃあない。
 ただの日本人ぜよ。

 力のない者でも、本気で声をあげ、本気で動いたら、必ず、必ずこの国を変えることができるがじゃき…!」

 この龍馬の言葉に慎蔵は感動し、薩長同盟がなった暁に龍馬と互いに肩を抱き合って喜びを爆発させるのですが、こうして見ると、坂本龍馬がどうしてここまでのことを成し遂げたかが、このドラマではくどいくらいに説明している気さえしてきます。 近藤勇も松平容保に向かって、「底知れない図太さを持った男」 と龍馬を評させています。

 その理由すべてが、実は何の根拠も説得力も持たない、ただいたずらに龍馬を持ちあげている言葉のような気もします。
 けれども実際、龍馬にとっては、実はそれだけが薩長同盟に首を突っ込むことができた理由だったのではないでしょうか?

 彼には本当に、何もない。

 けれども、何もないからこそ、本気でぶつかっていかなければ、道は開けない。

 このドラマのいちばん深淵には、そんなテーマが隠されているような気がして、ならないのです。

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2010年8月29日 (日)

「今夜も生でさだまさし」 浪花さだしぐれ・「てっぱん」 ヒロインも登場

 今回の 「今夜も生でさだまさし」 は、NHK大阪放送局からの放送。 「SONGS」 でお父上の精霊流しを見たそばからだったので、「なんかまっさんづいてるなあ」 と思いながらの視聴でした。

 読む予定のハガキをぶっ散らばしてしまったため、順番がワヤになってしまったせいか、一枚目のハガキから 「受信料をきちんと前納しているのに、NHKの映りがいちばん悪い」 というクレームの内容(笑)。

 さだサン、のっけから平謝りで、「なんとかいたします」 などと話しているのですが、さだサンの両翼にいる構成作家の井上サン、音響効果の住吉サン、ふたりとも硬い表情(笑)。
 ハガキのクレームが、アナログ放送を見ていてのものだったため、あと1年を切ったアナログ放送のメンテナンスなんかできるかよ、みたいな感じで何となく可笑しい。
 まあ、井上サンなんかはフリー、でしたっけ?あまりNHKとは関係ないみたいですが、いずれにせよ 「安請け合いはやめてほしい」 という感じでしたね(笑)。

 それ以外ではいつもと同じように番組は進行したのですが、途中でのニュースによる5分間の中断のあと登場したのが、なんと 「ゲゲゲの女房」 の後番組、秋からの新しい連ドラ 「てっぱん」 のヒロイン、瀧本美織チャン。 この番組定番の、再利用によるフリップに自分の名前を手書きで書いたものを持って、赤いエプロンといういでたちです。 これがドラマでのユニフォームなんでしょうかね?

 顔の印象としては、安田美沙子サンとか、加藤あいサンとか、その手の系統かな。 1400人余りのオーディションをくぐり抜けたにしては、わりかしフツーの顔というか。 でも、元気いっぱいですけどネ。
 …どおーも、「ゲゲゲ」 に思い入れがありすぎるせいで、警戒感をもって見てしまうようですなあ(笑)。 はきはきしていて、いい性格そうな女の子ですよ。

 警戒感ついでに書いてしまえば(笑)、この 「てっぱん」 のさわりの部分も紹介されたのですが、ちょっとこれについても一言(すいませんねえ…)。
 埠頭に佇んでいたあるおばあちゃん(富司純子サン)がトランペットを海に投げ捨てたのを、たまたま通りかかったヒロインのあかり(美織チャン)が海に飛び込んで取り戻すのですが、いきなり海に飛び込ませる体当たりの演技を新人に要求しているのはいいとして、そのおばあちゃんがヒロインの実の祖母だった、という、何となくいやーな予感のする偶然(笑)。

 警戒感ついでにさらに書いてしまえば(笑)、「今夜も生でさだまさし」 に登場したこの美織チャン、お好み焼屋の役ということで、お好み焼きの特訓の成果を披露!という触れ込み…はよかったんですが、ボウルから鉄板に流し込んだ生地を、いきなりへらで整えようとする(笑)。 まあとても細かいことを言って大変恐縮なのですが、フツー、ボウルについていた長いスプーンみたいなので形を整えますよねえ? 案の定へらには生地がべっとり付いておりました(笑)。 こんなんでダイジョーブかなあ…あ、いやいや、この程度で不安視するのは気が早すぎますよね?ね?(笑)。

 いずれにせよ、今回私が持ってしまった警戒感は、大部分の視聴者が抱いてしまう感情のような気がするんですよ。
 「ゲゲゲ」 という傑作の後番組に課せられた、それが重い十字架のような気がするのです。
 ともあれ、9月27日月曜日から、「てっぱん」 は放送開始だそうです。

 番組本編のほうですが、さだサンのお父上の話も再び触れられて、「SONGS」 の続編みたいな感じになったのですが、あの巨大な屋形船のような精霊船(この記事の直近の記事をお読みください)は、全国からお父上を慕う人々150人が集まったために、いきおいあんな大きな船になったということも話されていました。

 ご自身の父親の人生を 「ハチャメチャな人生だった」 と繰り返し強調していたさだサンでしたが、落ち着いたら 「さだのやばいじいちゃん」 という本を書いて 「佐賀のがばいばあちゃん」 と同じような装丁にして間違わせて売り出そうとか、明るく笑って生きていくことが本当の故人への追悼になる、そんなさだサンの思いを感じながらの、本日2度目の 「精霊流し」 でした。

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2010年8月28日 (土)

「SONGS」 さだまさし 「精霊流し」 に込めた思い

 今週のNHK 「SONGS」 は、お父上を亡くしたばかりのさだまさしサンが、故郷長崎で今年夏行われた精霊流しに参加、父親を送り出したことを中心に進行しました。
 番組では 「精霊流し」 も歌われたのですが、もともと 「椎の実のママ」 の息子さんの死がきっかけで書かれたこの曲、今回ばかりはいやがおうでも、父親に向けて歌われたものになった気がします。
 けれども、この曲の歌詞にあるように、「涙は見せずに」 という態度を貫いたさだサンなのであります。
 反して見ているこちらは、「精霊流し」 を聴いてかつてないほど泣きました。 この曲を弾き語りして泣いたことは数度あるんですけどね。

 それにしてもこの曲によって長崎の夏の風物詩である 「精霊流し」 については知ったつもりでおったのですが、この曲のSEバージョンでも聴かれる爆竹の音とか、その程度の知識しか結局ありませんでした。
 何しろさだサンのお父様の精霊船は、屋形船遊びでもできてしまいそうなほどの大型。 全長にして26メートル。 しかも、2両編成だったかな?
 まあ、そのほかに流される精霊船も見たところでは、せいぜい1メートル程度の長さのものが多い気がしたのですが、それにしても1メートルにしたって、デカイ。
 さだサンはもともとそんなに大きくするつもりはなかったらしいのですが、地元の有志が 「さだまさしの父親を送り出すのにそんなにしみったれてちゃイカン」 ということで結局これほどまでに大きくなってしまった、とのこと。 その志もありがたいものですが、この巨大な精霊船が街を練り歩く模様は、まさに壮観。 提灯がずらりとわきに配置された、巨大な霊柩車、という感覚なのです。 というより、斎場が移動している感覚?

 「ぼくの今があるのはあの、赤貧洗うがごとき生活の中での、クラシック音楽を続けさせたっていうその、親の…投資。 あるいは期待。 ぼくに対するね。
 よく頑張ったよね何の根拠もなしにね。
 よくオレのことあそこまで応援できたなあって思う。
 自分が逆だったらそこまで自分の息子に、何もかも、投げ捨てて、まあいわば投資できるかって言われるとね」

 小さなバイオリンを与えられて長崎の神童とまで言われ、東京に単身音楽のために上京し、結局ドロップ・アウトしたさだサン。
 結局お父様のその投資は無駄にはならなかったのですが、今回の巨大な精霊船はそんな父親の恩にさだサンが応えたような心意気も感じるのです。

 8月15日の精霊流し当日、あまりに壮観な精霊船にさだサンのお母様?と目される年老いた女性も、感極まった様子で映し出されていました。
 そして大量の爆竹や銅鑼が打ち鳴らされ、喪主を務めるさだサンが、精霊船の先頭を歩く。
 その様は最近 「龍馬伝」 で見たような、異国情緒が感じられる一種独特の風景なのです。
 異国情緒、などと簡単に言いますが、なんというか、長崎というと連想される、オランダとかポルトガルとかの異国ではない。 中国の上海とか華僑の影響が色濃い、と言ったほうが適切な気がするのです。
 精霊船の最後尾には、さだサンが書いたと思われる、墨書きの 「ありがとう」 の文字。
 ここで、「精霊流し」 の物悲しいイントロが、流れてくるのです。

 もうこの時点で、こちらはちょっとウルウルしています。
 この曲のイントロは、「神田川」 の二番煎じと当時陰口を叩かれた、さだサンが鳴らすバイオリンなのですが、先ほどのバイオリニストに賭けたお父様の話を聞いた今回は、この曲でバイオリンが使われていることの意義を、限りなくしみじみと思い知るのです。

 そしてこの曲の持つ思いは、時代が移り変わっても、決して色褪せないことを思い知るのです。
 たとえば、歌詞に出てくる 「テープレコーダー」「レコード」 というメディアは、もう現在ではメインの音楽媒体ではありません。
 それでも、「ふたりで作った浴衣を、今夜はひとりで着る」「空の上から、線香花火が見えますか」「あなたの愛した母親は、ちょっとの間にすっかり年老いました」 という内容は、すべての人の琴線を大きく揺さぶる、さりげなさに満ちている。 私は、「詩人としてのさだまさし」 はすごい、と昔から考えていました。
 それが今回は、お父上の死が重なって聞こえるのですから、もうこちらはボロボロ泣きました。

 今日は、土曜ドラマ 「チャンス」 で泣いて、「ゲゲゲの女房」 で泣いて、「SONGS」 で泣いて、一日泣きっぱなしだったです(笑)。

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「ゲゲゲの女房」 第22週 失って初めて気づく家族の愛情

 「おかあちゃんの家出」 という副題がついた22週目の 「ゲゲゲの女房」。 布美枝(松下奈緒サン)がプチ家出をしたことだけの話かと思っていましたが、弟貴司(星野源サン)の急死という展開や、美智子(松坂慶子サン)がなぜまた登場したかも含め、家族の誰かがいなくなる、という話で括れるような気がするのです。 そこに残るのはいつも、家族に対する愛情だけ。 泣けました。 ひょっとすると今までで一番泣けた週だったような気がする。 その人それぞれの、家族に対する思いが交錯し、凝縮し尽くした話の連続だったからです。

 家族の愛情というものは、いつもは当たり前すぎて、あまり有難味が感じられない。 たとえば母親や女房がご飯を作ってくれることでさえ、それが仕事だぐらいの感覚になってしまったりしている。 うまいだのまずいだの、まあ感謝することもあるでしょう。 でも、それがどんなにかけがえのないものなのか、という実感を得るには、その人がいなくなってみないと、真から理解することは難しいのです。

 仕事のゴタゴタを家に持ち込みたくない、という茂(向井理クン)は、出版会社の倒産という危機に襲われ、その穴を埋めるためにますます仕事にのめりこむ。
 そのせいでこれまでになく布美枝に仕事の心配をさせまいとキツイ態度になってしまっていたのですが、当の布美枝は限りない疎外感を膨らませていきます。
 さらに自らの思いを茂に綴った手紙が捨てられているのを見て、布美枝の孤独はもう爆発寸前。 いつもなら我慢できたであろう茂のそっけない態度に、ついにブチ切れるのです。

 「『いらんこと言うな。 口出すな』。 お父ちゃん近頃、いつもそればっかり!
 私にだって、気持ちはあるんです!
 何言っても…お父ちゃんの耳には、届かんのですけん…」

 家を飛び出して行ってしまう布美枝。

 いつも家にいる母親がいなくなったことで、次女の喜子チャン(松本春姫チャン)が 「お母ちゃん、お母ちゃん! …お母ちゃんが、いなくなっちゃった…」 と玄関先まで追いかけて泣き崩れてしまうシーンは、あまりに演技が痛々しくて、見ているこちらも泣きました。 うまいな~、この子。 台所で殊勝に後片付けをする藍子チャン(菊池和澄チャン)に 「お母ちゃんはどこ行ったの? なんで帰ってこないの?」 と泣きつく姿にも参りました。

 しかし、今週の 「ゲゲゲ」 泣かせ攻撃は、これがほんの序の口だったのです(笑)。 しかもこの喜子チャンのシーン、今週を貫くテーマとして象徴的なシーンだった気がするのです。

 布美枝の家出は文字通り 「プチ家出」 に終わったのですが、こんな今までになかった行動に出られた茂は、内心気が気ではない(笑)。 翌日布美枝が藍子チャンと喜子チャンを連れて買い物に出たのを子供を引き連れて家出したものだと勘違いして大騒ぎ、したらしいです(笑)。

 ちょっと話を飛ばしていきますが、茂が過労で倒れたことで夫婦の会話をすることができ、布美枝が抱いていたモヤモヤは雲散霧消します。
 この時点で今週の 「おかあちゃんの家出」 は終わった気がしたのですが、その矢先に故郷から入った電話。
 それは、布美枝の弟貴司が亡くなった、という知らせだったのです。

 今週の冒頭、精巧な作りの鬼太郎ハウスを喜子チャンに送って寄こし、「いい叔父ちゃん」 ぶりを全開にアピールしていた貴司が、海で波にさらわれ、3日後にやっと発見された、ということ。
 そんな状態であったため、遺体は急きょ荼毘に付され、布美枝と暁子(飯沼千恵子サン)が実家に駆けつけたときには、もうお骨になった後。 死に顔も拝めなかったというのも悲痛な話ですが、やはり源兵衛(大杉漣サン)たちの様子も、とてもいたましい。

 姉妹揃って実家に泊ったその日の夜、寝付けず酒屋の店のほうに行った布美枝は、ひと回り痩せて小さくなったような源兵衛の背中を見て、思わず声をかけるのです。
 そして貴司が死んだ後、一度も涙を見せなかった源兵衛が、絞り出すように男泣きをするのを、布美枝は見るのです。

 「…あいつは、親不孝もんだ…!
 …親より先に死んでしまうのは…。
 親不孝だわい…!
 …うっ…うっ…貴司……」

 あーダメです(笑)。 また泣けてきました(笑)。 くそー(笑)。 源兵衛サンには、おばばが死んだ時以来、ハチャメチャに泣かせていただきました。

 そして布美枝たちが東京に帰ろうという日、リューマチにもかかわらず、藍子チャンと喜子チャンにとどてらを縫って渡してくれる、母ミヤコ(古手川祐子サン)。 その心遣いも母親として、貧乏な時に何もしてあげられなかったという思いの裏返しだったりするのですが、いつも子供のことを気にかけている、そんな母親の愛情を強く感じることができるのです。
 そして話はいつしか、また貴司のことに。

 「お母さん、思い出しとった。
 貴司のちいちゃい時から、ずーっと。
 …何を思い出しても…笑ってる顔しか思い浮かばんのだわ。
 …あの子は子供の時から…いっつも、にこにこしとって…」

 ここで言ったん泣き崩れるミヤコなのですが、なんとか気を取り戻そうとする。

 「…泣いとったら、貴司が悲しがるね。
 お母さん、貴司の笑ってる顔がすきだけん。
 貴司に、悲しい顔さしたくないけん…。
 …もう、泣かんことにした。
 ああ!
 あんたも、元気出しなさいね!」

 涙を必死にこらえながら笑おうとする古手川サンに、またまたこちらもナミダ、ナミダです。

 東京に帰ってきた布美枝。
 「『お母ちゃんがいないと家の中が暗いな』、とお父ちゃんが言ってたよ」 と話す藍子チャン。
 晩御飯を食べていないという布美枝に、じゃあワシの特製てんぷらを食わしてやろう、と言うイトツ(風間杜夫サン)。
 誰もが互いに家族のことを思いやっているこの構図は、「家の中の誰かがいなくなる」 という思いで共通してつながっているのです。

 そしてその究極のシーン、やはり喜子チャンがさらって行きました(笑)。
 「しんでしまったって、どういうことかな?」 とお姉ちゃんに訊いて、「もう、あえないってことだよ」 と聞かされ、貴司叔父ちゃんに電話をするんですよ。

 「もしもーし! もしもし!
 貴司叔父ちゃんですか?
 鬼太郎のおうち、ありがとう!
 みんな待ってるから、遊びに来てね!
 もしもーし! 叔父ちゃん?」

 「めそめそしてても仕方ない」 と踏ん切りをつけようとしていた布美枝は、その喜子チャンの電話に、はからずも大粒の涙をぽろぽろ流し、座り込んで号泣してしまうのです。 思い出すのは、やはり笑顔の、貴司の姿。

 この 「笑顔」、というキーワード、実は布美枝がプチ家出をしたときにも、昔を懐かしむ言葉として使われていました。
 貧乏だったけど、あの頃のお父ちゃんには、笑顔があった。 いくら仕事が忙しくて貧乏から抜け出しても、あの頃のほうが私はよかった。
 本当に価値あるものって何なのだろう。
 源兵衛もその昔、「笑って暮らせているならそれでええ」、と言ってましたよね。

 そして貴司の死の悲しみからなかなか抜け出せない布美枝のもとにやってきたのは、懐かしい田中美智子サン。
 自分の亡くなった息子の墓を千葉に移動しようという目的で、やってきたのです。
 「これで智志(息子の名前)にさびしい思いをさせずに済むわ」
 と言って笑う美智子サンなのですが、家族がたとえ死んでも近くにいるということだけで安心できる気持ち、というのも、その人を失った悲しみを和らげるひとつの方策のような気がします。

 そして、貧乏だったあのころが懐かしくなる、という布美枝に、美智子は 「一生懸命だった時がいとおしいのよ」、と話します。 でも、今だってあとから考えれば、いとおしくなる。 それはあなたが今も頑張っているからだ、と励ますのです。
 美智子サンの再登場は、目的を失い、大事な人を失い、さまよっていた布美枝に改めて道標を示したような気さえします。

 茂は布美枝に、仕事をセーブすることを宣言。 普通の人からすればとても想像のできない超売れっ子になってしまったマンガ家と、その家族が、いったい何が自分にとっていちばん価値があるものなのかを模索しながら生きている。 「ゲゲゲの女房」 で描かなければならないものは、まだまだ多いようです。

当ブログ 「ゲゲゲの女房」 に関するほかの記事
第1回 NHKのやる気を感じさせます
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-nhk-c7ac.html
第2週まで見てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-5cbd.html
第4週まで見てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/4-a685.html
第5週 ほんとうのスタートは、ここからhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-9d37.html
第6週 人事を尽くして天命を待つhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-3192.html
第7週 時代に流されていく人たちhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/7-6a9d.html
第8週 笑って生きよう、たとえ貧しくともhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/8-82ce.html
第9週 「生きるため」 と 「プライド」 の狭間http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/9-476d.html
第10週 ビンボー神の出るタイミングhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/10-8426.html
第11週 まあ…なんとかなーわね!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/11-e5c0.html
第12週 冷たい風に吹かれてhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/12-2a16.html
第13週 自分のいるべき場所http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/13-f9bf.html
第14週 自分の名前と自分の存在http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/14-30e2.html
第15週 夢をあきらめないで… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/15-19ee.html
第16週 性急に見える成功、ですが… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/16-7865.html
第17週 村井家ビフォー・アフター?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/17-d98c.html
第18週 「悪魔くん」 成功の裏で描かれるものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/18-6ede.html
第19週 漠然とした願いと覚悟との狭間http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/08/19-7dcb.html
第20週 見えないもの、見えなくなるものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/08/20-0c48.html
第21週 「鬼太郎が見た玉砕」 と比較してhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/08/21-d16a.html

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NHK土曜ドラマ 「チャンス」 第1回 その馬の瞳にやられました…

 証券業界と競馬という、よく分からない組み合わせのドラマが始まりました。
 ふつう、新しいドラマが始まる、といった場合、私の場合は遠巻きからそっと覗いてみて(笑)見るかどうか決めるのですが、このところNHKの土曜ドラマというと、ちょっと無条件に見るカテゴリーに入ってしまう危うさというのがあります(笑)。
 けれども、その題名(「チャンス」)から言って、新鮮さが全くない。 前回が 「チェイス」 で、今回は 「チャンス」 か、という安易さも感じられますし。
 しかも主演が、何かと不評もよく聞く藤原紀香サン。
 私の場合、彼女の主演ドラマ 「ギネ」 を見ていたので、だいたい彼女がどういう演技をするのかはよく知ったつもりでいたのですが。

 これが見てみると、どうして証券と競馬がセットで出てくるのかはすぐ分かりますし、しかも紀香サンの演技が、「ギネ」 に比べると、格段に進化している気がとてもする。 たぶん紀香サンは 「ギネ」 の次がこのドラマじゃないかと思うんですけど(舞台はやってた気がする)。

 確かに 「ギネ」 の紀香サンは、仏頂面で感情の起伏があまりない役でした。 いや、思いっきり感情を吐き出しても、次の瞬間にはまるで何もなかったかのような不自然な役でした。 脚本のせいだったのかな? いずれにせよ、演技力をあまり要求されるような役ではなかった気がします。 というか、このような不自然な役をこなしきれなかったのかも。

 たいしてこの 「チャンス」 では、彼女はきちんとした感情を有している女性の役。 失礼ながら、結構彼女にとってはハードルが高いような気がしたのですが、…これが、全く杞憂。 彼女の演技で、私はじめて泣きました。

 ドラマは、証券会社に勤めていた紀香サンが大々的に顧客にプッシュした株が暴落して、そのうちのひとり(小野寺昭サン)を自殺に追い込んでしまうことで、失意のどん底に陥り、北海道の地でさ迷い歩くうちに、サラブレッドの厩舎に迷い込み、寝込んでしまったところから始まります。

 朝起きると目の前には牝のサラブレッドの大きな顔が。
 驚きまくって拒絶反応をする紀香サンに、その牧場のあるじ、ご存知 「マルサのジャック・ニコルソン」(笑)、大地康雄サンが 「ハルコが添い寝してくれなかったら、あんたは凍え死んでた」 と一喝します。

 その命の恩人(恩馬?)「ハルコ」 の優しそうな瞳に、紀香サンは完全にノックアウト。
 いや、私もこのハルコには、やられました。
 すごく優しそうな眼をしているんですよ。
 この瞬間、私の中でこのドラマの主役は、紀香サンからハルコに交代!(笑)

 紀香サンはとても仕事に復帰できるような精神状態ではなかったので、しばらくこの牧場に住み込みで働くことに。
 そんなある日、子供が生まれないことを理由に、ハルコは売られることになる。
 しかも、明言はされていませんでしたが、おそらく屠殺されてサクラ肉になってしまうのでしょう。
 こんなに優しい目をしたハルコが、殺されてしまうなんて…。
 紀香サンは自分を助けてくれたこの馬を、何とか救いたいと大地サン夫妻に強く訴えるのです。

 「ハルコは…ハルコは私が買います!
 ハルコを売って下さい!
 いくらですか?
 100万ですか?
 200万、300万…?」

 しかし大地サンは 「素人が口出すな!」 と大激怒。
 なんと、ハルコの値段は、たった15万円だったのです(3か月分のエサ代、つまり維持費ってことなんですけど)。

 それでも紀香サンは、土下座をして頼み込むのです。

 「ハルコは、私の命の恩人です…。
 ハルコは…死なせるわけにはいかないんです!
 私…東京の証券会社に勤めています…。
 何日か前…私の担当のお客様が亡くなりました…。
 私のせいで…株に失敗して…。
 自ら命を…。
 入社以来、私を育ててくれた、大切な…大切なお客様でした…。
 なのに…なのに、私のせいで…」

 ぽろぽろ涙を流し続ける紀香サン。 頑固者の大地サンも、その奥さん(宮下順子サン)も、言葉を失う。 ハルコも、何かその瞳だけでいろんなことを理解しているよう。

 「…ハルコには、生きててほしいんです。
 東京に戻ったら、お金すぐに支払います!
 だから…なんとか…なんとか…なんとかお願いします!
 お願いします! お願いします!
 なんとかお願いします!
 …お願いします…」

 冒頭の、颯爽として化粧もバリバリ、スーツ姿でトレーディングをしている紀香サンと、全く化粧っ気なしで顔をぐちゃぐちゃにしながら懇願する紀香サン、この対比もすごかったですが、ここまで泣きの演技に徹することができるのかこの人は、というくらい、ものすごい演技を見たような気がします。 こっちももう、ボロボロ泣きまくりました。

 ただボロボロ 「ドナドナ」 の世界に浸りながら(笑)、こういうことができるのも紀香サンが証券会社でいっぱしの給料をもらっているからだ、という気持ちもどこかにある。
 ドラマの中でも効果的に説明されていましたが、サラブレッドの世界というのは、成功するのは一握り、末端のほうに行くとハルコのようなケースは別段珍しくもなんともないのです。
 その現実にまた、涙を禁じえない。

 これって馬の世界だけじゃなくて、家畜全般に言えるんですけど、もし食用牛のつぶらな瞳を見てしまったら、とてもじゃないけどこの子を殺さないで!と思ってしまうでしょう。 ましてや自分に懐いている動物だったら。 そのことにまで思いが至ってしまって、涙がとめどもなく流れ続けました。 私って、神経過敏すぎ? でもやはり、うまいうまいと食べてしまうんでしょうけど。 せめて残さず食べるようにしよう。 間違っても、「この肉まずい」 なんて言わないようにしよう。 …話がずれまくっております(笑)。

 というわけで、証券会社をやめてしまうと収入の道が断たれるため、ハルコ存続のため、そしてハルコが子供を産めるようにするために紀香サンは証券会社に舞い戻って仕事を続けることになるのですが、小野寺昭サンを自殺に追い込んだ件の株暴落に、新興ファンド会社の代表である市川亀治郎サンが絡んでいることを上司から聞き、対決姿勢をあらわにしていく。

 なるほど、こういう絡みなのか、証券と競馬。

 結局、「土曜ドラマ」 としての期待は全く裏切られなかったわけですが、それ以上に藤原紀香サンの演技力の向上に目を見張った、「チャンス」 なのです。
 そしてそれ以上に、市川亀治郎サンの 「マッチ棒アタマ」 が気になって仕方がない、「チャンス」 なのであります(笑)。

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「五木寛之のオールナイトニッポンゴールド」 半分つぶれてよみがえるムカツク気持ち

 またまたラジオのお話でございます。
 聴取率調査ということでラジオはスペシャルウィークなるものを立ち上げていろんなあの手この手の聴取率アップを考えているのですが、普段はニッポン放送の新保サンという女子アナがやっている金曜日の 「オールナイトニッポンゴールド」 も、今週は作家の五木寛之サンが登場(ただし1時間のみ)ということで、大変楽しみにしておったのです。

 ところが…(と書くと野際陽子サンを思い出してしまう今日この頃…笑)。

 野球中継の広島-巨人戦が延びに延びてしまい、実際始まったのは番組の3分の2が終わった午後10時40分ごろ(正確には42、3分だったと思います)。

 この番組、生放送でやっているとは到底考えられないのですが、録音であろうにもかかわらず、「野球中継が延びてしまいました」 という五木寛之サンのお断りが入ったりするのです。
 そして 「ニッポン放送でお聴きのかたには日を改めて日曜の午前2時40分(だったっけなー)から再放送することになりました」 とか五木サン、続けておっしゃる。 まあおそらくその時間帯は私も仕事だと思うので聴けるかもしれませんが、ずいぶん乱暴な事をするもんだなあ、と感じられるのです。 「五木寛之の夜」 より遅い時間帯じゃないですか(笑)。
 しかし、ということはですよ、ニッポン放送以外のキー局では、この番組が全編聴けた、ということじゃないですか。

 この 「五木寛之のオールナイトニッポンゴールド」、3分の1の放送を聴いた限りでは、「鬱」 という文字はひとつには気持がふさぐという意味もあるのだが、もうひとつ、生命の活動が盛んなさまを意味するらしい。 「鬱蒼とした森」 とか、そんなときにも使うということは、「鬱」 という状態を否定的に考えるのではなく、生命力が活発な証拠なのであるというとらえ方をすればいいのではないか、というような、実に面白い逆転の発想を語っておいででした。 うーん、初めの40分間何を話していたんだか、ますます聴きたくなってくるのです。

 それにしてもですよ。

 この野球中継、いつ終わるんだいつ終わるんだという感じで、普段全く聞いたりしないのに、最後まで全部聞いちゃいましたよ。
 それで巨人の野間口?土間口?が広島のなんとかっていう選手から延長戦の末逆転サヨナラスリーランを打たれてしまってあえなく惨敗。

 この試合、点を取ったり取られたりの、客観的にみると実にすばらしいシーソーゲームだったんですが。
 ワタシ、こう言っちゃなんですが、巨人ファンの残党なんですよ(笑)。
 それでも、もうずいぶん前から、巨人戦は見なくなりました。 ラジオでやってても、絶対聞きません。

 なぜかっていうと、私が見たり聞いたりしているときまって、ぶざまな負け方をするんですよ、巨人(笑)。
 そりゃオマエが疫病神のせいだ、そうしてもらって結構、昨日の試合だってオマエが聞いてたからあんな悔しい負け方をしたんだ、…巨人ファンのそんな声が聞こえてきそうであります(笑)。

 とにかくですね、巨人の試合を見ているとフラストレーションがエライたまるので、ずいぶん前に、公然たる巨人ファンはやめました。 今じゃ高橋ヨシノブと阿部くらいしか、選手の顔は分かりません。 これって 「巨人の星」 で洗脳された筋金入りの巨人ファンとしては、実にさびしいことでもあるんですけど。

 で、昨日の広島の最後の攻撃、ピッチャーが相手に呑まれているのが、ラジオからでもじゅうぶん伝わってきて。
 ボールを連発するピッチャーに阿部がマウンドまでいって叱咤激励したり、「ああ~こりゃダメだ」 と思っていたら、そのあと何かの拍子に原監督がダッグアウトから出てきて、ピッチャー交代かと思ったら何かの確認のためだけだった。
 いかんですよ、相手に呑まれているようなピッチャーを前にして、こういう 「スワ交代か」 などと思わせる動作は、原監督。
 ピッチャーのテンションがこれでどれだけ下がることか。
 案の定、その直後に逆転サヨナラスリーランですからね。
 言わんこっちゃない、などと考えているうちに、昔感じていたフラストレーションが、またじわじわと頭をもたげてきて。
 「ざっけんなよ、クルーンテメエが打たれたからこんなことになったんじゃねーかよ」 とか、「こんなびくびくしていたら2点リードなんてカンケーねえじゃんかよ」「相手を呑んでかからんかい」 とか、まあここに書くのもはばかられるほどの文句が次から次から出てくるわ(笑)。

 それが原因で、野球ファンをやめたんですが。
 気持がすさむんですよ、見てると(笑)。
 しかもテレビ中継は途中で終わるし(最後までやらないスポーツ中継なんて、プロ野球だけじゃないですかね?)。 テレビ見て、気分悪くなりたくないですから。

 そんなムカムカを、ほんとに久しぶりに味わいました。 どうもありがとう!(半ばヤケです…笑)。

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2010年8月26日 (木)

「亀梨和也のKスバイKス」「KAT-TUNスタイル」 いまどきのアイドル

 テレビドラマの話題がないのでこのところラジオの話をよくするのですが。
 ニッポン放送で毎日23時50分からやっている10分間の帯番組(月-木)、「KAT-TUNスタイル」、金曜日は23時40分からの20分番組、「亀梨和也のKスバイKス」、両方とも同カテゴリーの番組なんですが、夜勤の時計代わりにして聴いてます。
 オッサンがジャニーズタレントのラジオ番組を聞いている、という図自体がかなり奇妙なものがあるのですが(笑)、この番組を聞いていると、今どきのアイドルというものがどんなものなのか、何となく分かってくる気がするのです。

 「KAT-TUNスタイル」 の出演メンバーは、田口淳之介クンと田中聖(こうき)クン。 金曜日の亀梨クンの番組もおんなじことをやっているのですが、番組に届いたファンからのメールを紹介したり、そのファンにアポなしで電話をしたりする番組内容です。 そのほかはどこそこでライヴをやりますとかやったとかの近況と、あとは雑談。 最後のテーマ曲が流れると、オッサンはさあ、仕事に行くぞ!、という感じになるのであります(笑)。

 ここで気づくのが、KAT-TUNのメンバーが、番組に寄せられたメールをきちんとチェックしている、という点。
 「この子はよくメールくれるよね」 とか、まあその程度のことしか言いませんけど(笑)、私が小中学生だった頃は、山口百恵チャンのラジオ番組で読まれるハガキを、彼女が逐一チェックしている、という実感には程遠かったことを考えると、なんかとても誠意みたいなものも感じるし、仕立て上げられてお膳立てされたものをただこなしているアイドルとは違うんだなあ、ということを感じるのです。

 そして両方の番組でやっている 「アポなしテレフォン」。
 そういうファンだけをチョイスして電話しているのかもしれないのですが、KAT-TUNファンなのにもかかわらず、電話の相手(基本、女の子ばっかりのようです)はほとんどいつも自分の彼氏がちゃんといる(笑)。
 だからなのかなー、あこがれのアイドルが 「淳之介だよ~」 とか 「亀ちゃんです」 とか電話してきたのにもかかわらず、彼女たちの反応はとても冷静(笑)。 最初のうちはびっくりしたりするんですけどね。
 そのことに気づいたのは、確か台湾からの留学生かなんかで日本に来ている女の子にメンバーがアポなしテレフォンをしたときのこと。
 日本語がとても上手な彼女は、電話のあいだじゅう 「ホントですか?」「えーっ」 を連発、彼らと話すことに完全に舞い上がっている様子だったのです。
 私なんかにしてみると、これが普通の反応のように思えたんですけどね。
 要するに、台湾の女の子のほうが、昔の私たちがアイドルに抱いていた 「手の届かない存在」 という目でアイドルを見ていると思ったんですよ。
 日本ではかなり早い段階から(おニャン子クラブよりももっと前、石野真子サンや松本ちえこサンのような)「隣に住んでいるお姉さん」 タイプのアイドルが台頭してきて、それ以来ファンとの距離感がとても近い気がする。
 私がトチ狂っていた山口百恵チャンなど、雲の上の人の代表的存在だったわけです。

 それから、「KスバイKス」 は亀梨クンの単独番組だけあって、メンバーがワイワイガヤガヤやっている月-木の番組とは明らかに雰囲気が違うのですが、そこで彼が話す内容はとてもしっかりしていて、なんか感心することが多いです。 亀梨クンがきちんとした大人の良識を兼ね備えていることがよく分かる。 メールの内容を聞いていて、この子はちょっとイケナイなあ、などとこちらが思っていると、亀梨クンも結構キツイ言葉でそれに反応したりするんですよ。 彼が上っ面だけのカッコイイ男だというわけではない、というのが分かるのです。 巷間では 「視聴率の取れない男」 などという有り難くない評価もされている亀梨クンですが、ここまで考えがしっかりしている男なら大丈夫だろうと思わせる何かを持っている。

 彼らのやっていることには全く興味のない私ですが(笑)、こういうラジオ番組なんかがあると何となく応援したくなってくる。 そんなオッサンもいるのです(笑)。

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2010年8月25日 (水)

「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」 面白いです

 ニッポン放送月曜午後10時から11時50分まで放送している 「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」。 ラジオ番組はどうしても聞く番組が固定化してしまって、チェックが大幅に遅れてしまいました。 だって拓郎サンがレギュラー番組を持っているなんて、夢にも思わなかったですからね。 体調を崩してから単独で 「オールナイトニッポンGOLD」 枠でしゃべったのが、確か加藤和彦サンが亡くなった時に一回きりだと、すっかりこっちは思いこんでおったのです。

 それがTHEALFEEの坂崎サンと一緒とは言え、2時間近い番組を、毎週やっとったんですからね。 まずそれでびっくりいたしまして、実際聞いてみたら、そのあまりのお元気さに、またまたびっくり。 自分が高校時代、売れる前のアルフィーが拓郎サンのオールナイトに出演していたころのノリと全く変わってなくて、それだけでも大大感激なのであります。

 で、それがもう今週で36回?だか続いていると聞いて、くそーっもっと早くチェックしときゃよかったと大後悔なのでありますが、もともと最初にニッポン放送から拓郎サンに打診された話では、「そんなに毎週無理して出なくてもいいです、ひと月に一回でも、坂崎をつけますので、あとは坂崎がやってくれます」 ということだったらしい(笑)。 おとといの放送で、拓郎サンご自身がそう語っておいででした。 だから番組名も、坂崎サンの名前が最初に来ているんだ、と。

 だから自分は本当はもっと休んでいいんだ、こんなに皆勤するとは考えてなかった、もう疲れたから休みたい、と例の調子でだだこねまくりの拓郎サン(笑)。 「坂崎オマエひとりでやってくれる?」 と訊くと、「やですよそんなの」 と坂崎サンのほうもにべもなく拒絶の方向。 坂崎サンもニッポン放送の社員のかたの最初の意向など聞かされていなかった様子なのですが、かつてはご自身でも単独でオールナイトをやっていたのに、坂崎サンのその拒絶する様を聞いていると、自分も拓郎サン相手だからこそ出たいのだ、という気持ちがとても伝わってくるのです。

 考えてみると、坂崎サンという存在は、日本のフォーク界になくてはならない生き字引の役割を急激に担わされるようになってしまった感があります。 それだけご本人がいろんな人のどっぷりフォロワーだったせいもあるのですが、これだけの知識を持っている人は、確かにたくさん世間にはいるのでしょうが、ここまでプロのテクニックを備えたミュージシャンであることも兼ね備えている、というのは、坂崎サンを除いては確かに皆無なような気がします。
 個人的な話で恐縮ですが、私が芸能界の人でいちばんお友達になりたいのは、坂崎サンですなあ(笑)。
 飲み屋なんかでギターを抱えて夜通し飲み明かしながらサイモン&ガーファンクルとかビートルズとか、ハモりたいもんです。 なかなかすべてのパートを歌える人って、自分の周りにおらんのですよ。 ここ数週結婚式で歌うとかで、拓郎サンと坂崎サンはビートルズの 「恋におちたら」 とか 「オール・マイ・ラヴィング」 とかを番組の中でハモっておりますが、羨ましくって仕方ない。
 「ギターを抱えたライナス」(ライナス…って、スヌーピーに出てくる、毛布をいつも持った子です)というあだ名を、私は坂崎サンに勝手につけておりますが(笑)、番組中でも四六時中、ギターを抱えているようですね。 ジョニー・ワイズミュラーのターザンだと思うんですが(古い…)、そのものまねをしたら拓郎サンにウケて、ここ数週は 「ターザン坂崎」 と名乗っておりますが(笑)。

 それにしても拓郎サンのトークは、相変わらずハチャメチャに面白い。
 全く枯れてません。
 私はつくづく思うのですが、70年代フォークの旗手たちがおしなべてトークも抜群に面白かった、というのは、特筆すべきことなんじゃないでしょうか。
 拓郎サンもそうですが、谷村新司サンや中島みゆきサン、さだまさしサンなどは、けっして自らの作る歌のように自閉的な暗い世界に閉じこもることなく、積極的にファンとの交流を大切にした。
 なかでも拓郎サンのトークの面白さは、群を抜いている気がします。

 拓郎サンのトークは、あくまで自分の欲望に忠実で、言いたい放題、バンカラの象徴みたいに 「オレについてこい!」 というタイプのトーク。 しかもそのムチャクチャさを、自虐的に分析しながらだから、話に嫌みがない。 そして話のキモを押さえてキャッチコピーみたいに象徴的な言葉に置き換えるのが、とてもうまいんですよ。 このテクニックがまるきり衰えていないことに、「拓郎サンの病気はもう大丈夫だ、全快だ」 との思い込みに安易に陥ってしまいそうな自分がいます。

 今週の民放ラジオは聴取率調査でスペシャル・ウィークとかやっておるのですが、私に言わせればそんなもの、いくらプレゼントで釣ったって聴く番組はいつも一緒だ、意味ないじゃん、といったところなんですが、拓郎サンが 「どうだっていいんだそんなもの」 と今週一刀両断に喝破されていたのには、笑いながらも心から同意。

 やはりこの人の持っているナイフのエッジは、ちっとも錆びておりません。

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2010年8月23日 (月)

「龍馬伝」 第34回 志で飯は食えるか

 薩長同盟の要となる軍艦や銃の買い付けに大きな力を発揮した、近藤長次郎(大泉洋サン)。 今回の 「龍馬伝」 は彼の心の動きをメインに据え、切ないばかりの話に昇華していました。 泣けました。

 ここでこの話に感動するためにどうしてもクローズアップしなければならないのは、亀山社中の経済状態。
 長次郎は今回の話の中で、「亀山社中は火の車じゃ!」 とその逼迫した状況を説明している。
 実際のところどうだったのかは詳しい人たちに任せるとして、ドラマを見ている限りでは、ある程度の収入はあったものだと想定されます。 でなければ、当時高価だった写真などそうそう簡単に撮れるものではないし、芸子遊びなどできるわけがない。
 そこのところを 「金もないのによくいろいろできるもんだ」 という冷めた目で見てしまえば、今回の長次郎の話に、到底没入できないのではないでしょうか。

 そして今回の話のキーとなる小道具に、この 「写真」 が使われるのです。

 その話はのちほどするとして、長次郎が中心となって取り決めたと思われる、長州に運んできた軍艦を薩摩名義のものとし、亀山社中も自由に使える、とした約定が、まず問題にされる。
 ここで桂(谷原章介サン)の苦渋を描き出すことによって、長州の中での不満分子が生まれつつあることを描き、龍馬(福山雅治サン)暗殺への萌芽を匂わせる。 高杉晋作(伊勢谷友介サン)はそんな龍馬に、自分の大切にしていたピストルを贈るのです。

 長次郎にとってみれば、この約定の動機は亀山社中の行動拠点として今後の金もうけのための足がかり、だったはずです。 このドラマではあくまで亀山社中の目的は 「日本を守る」 というきれいごとに終始していますが、実際のところは龍馬にしたって、霞を食って生きていけるなどと考えていたわけではないことは想像がつく。 龍馬が長州の不満を抑えるために、軍艦を長州名義にすることをのむところでは、そこらへんの脳内補完が必要な気がします。 それをこのドラマを批判する人は、リアリティがどうのとか脚本がどうのとか指摘する。 僭越ながら申し上げますが、何でもかんでも説明してもらわなければ分からないというのは、ドラマを見るのには適切な姿勢ではないと思いますね。

 ドラマでは長次郎をさらに極端に追い詰めるために、亀山社中のメンバーに長次郎をコテンパンに責めさせる。
 ここで最大のキツーイ一発は、長次郎のことを 「偽侍」 とののしる言葉。

 ドラマ終了後の 「龍馬伝紀行」 での知識程度でものを言う失礼をお許しいただきたいのですが、ドラマの作り手は、近藤長次郎が 「切腹して死んだ」 という点に最も着目している気がします。 もともと饅頭屋(商人)であった男がどうして切腹しなければならなかったのか。 士農工商という厳しい身分制度が、まるで崩壊しているかのような長次郎の 「侍としての死に方」 なのですが、その当時の決まり事との齟齬を考えながらでなければ、このドラマをきちんと見ることができない。

 長次郎は結局、長州からの謝礼金を元手にイギリス密航を企てて失敗し、それが露見するのを防ぐために自ら切腹した。 長州の者たちがイギリスに留学した、などという話を聞いていて簡単に行けると思った、長次郎の思慮の浅さにも着目せねばならないのですが、ことが長崎奉行所に知れ亀山社中にも手が回ってきたと知れば、自分がしたことがどんなに大変なことか、いやがおうでも気づいてしまう。 人生、順風満帆に過ごしていた人がこの長次郎を見たら、「なんと浅はかか」 としか思えないでしょうね。 そして長次郎を 「偽侍」とののしった男が放つ、やり場のない後悔の言葉。 人を心から傷つけて自分も傷ついた、という経験のない人からすれば、とてもわざとらしく見えるでしょうね。
 龍馬が切腹して果てた長次郎の元に駆けつけ号泣するシーンでは、そんな後悔ややるせなさがドラマ全体を重く覆っていて、知らず知らずのうちに涙しました。

 長次郎の切腹を詮索する長崎奉行所にたいして、あくまでしらを切りとおす、グラバー(ティム・ウェラードサン)、小曽根乾堂(本田博太郎サン)。
 亀山社中の代表として奉行所で申し開きをした龍馬も、一切知らぬ存ぜぬで通す。
 この彼らの心意気が、長次郎の死を冒涜してはならないという強い意志にあふれていて、また知らず知らずに涙が。

 そして、お元(蒼井優サン)を呼んでひとり盃を交わす、龍馬。
 お元が先週龍馬を評した 「おめでたい人」 という言葉は本当じゃった、と話します。
 志を大きく持つのもいいが、それには現実が伴っていなくてはならぬ。
 龍馬はそのことを今回つくづく思い知ったのです。

 もうひとつ用意された膳にお元は 「もうひとりのおかたは?」 と龍馬に尋ねるのですが、龍馬はこう答えるのです。

 「おまんとおんなじように、異国に行きたいと、夢見た男じゃ…」

 龍馬を見つめるお元。 ぼんやりと、悲しみが通り過ぎていくのをただ見守るかのような龍馬。

 死者を弔うかのような舞を続けるお元を見ながら、龍馬はその、もうひとつ出された膳の上に、長次郎がひとり写った写真を置いて、こうつぶやきます。

 「…約束通り、今夜はおまんとふたりで飲むがぜよ…」

 今は亡き、昔からの友に盃をあげながら、静かに涙を流す、龍馬。
 私も涙、涙でした。

 今回冒頭では、亀山社中の面々とワイワイガヤガヤ、ひと仕事を成し遂げて浮かれまくる若き青年たちがテリー伊藤サンに写真を撮られていました。
 それがまるであまりに遠い昔の出来事のように、龍馬が酒の席に持ってきていたのは、イギリスに行こうという大きな夢に飲み込まれていく寸前に撮られた、長次郎のひとりきりの写真。 その切羽詰まった表情。
 その対比が鮮やかで、ドラマとしては極上のものを見せられた気がします。

 龍馬はここで、金もないのに芸子遊びをしているわけではない。
 金がないからこそ、長次郎のために、精一杯の弔いをしているのです。

 …どおーも、「龍馬伝」 批判の人たちに向けたような記事になってしまいます。 生意気なことを申し上げました。 気分を害された方にはお詫び申し上げますが、人気だけで実力の伴わないやつが…とか、幕末を知らないやつが…とか、そんな見方でこのドラマを楽しめないかたがたは、なんかとっても損をしている気がして、ならないのです。

 そして、大泉洋サンの長次郎や 「龍馬伝」 に対する思いを読んで、また涙している、私なのです(その番組HPはこちらhttp://www9.nhk.or.jp/ryomaden/topics/20_comments/index.html)。

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2010年8月21日 (土)

「第42回 思い出のメロディー」 良かったこと悪かったこと

 松下奈緒サンが司会を務めるということで見る気になったNHK 「思い出のメロディー」 ですが、そのつながりで熊倉一雄サンもご登場、「ゲゲゲの鬼太郎」 の歌を披露してくれました。 熊倉サン、もうずいぶんお歳だと思うのですが、お元気そのものでとても感動いたしました。
 ただどうもワタクシ、「ゲゲゲ」 中毒もここに極まれり、という感じで、「ゲゲゲ」 関連のテレビは見なければ気が済まず、書店にも 「ゲゲゲ」 のマンガばかりが目立つように感じてしまうほどの今日この頃なのであります。 実際鬼太郎、いや水木しげる氏自体のリバイバルブームが始まっているようにさえ思えます。

 ところで音楽番組の司会は初めてではないかと思われる松下サンでしたが、万事そつなく、ピアノ演奏まで披露。 コメントのひとつひとつもとても落ち着いていて、貫禄さえ感じさせる。 これは巷間噂されるように、今年の 「紅白歌合戦」 の紅組司会の可能性は非常に高くなった気がいたします。 仲間由紀恵サンで連戦連敗中の紅組に勝利をもたらしてくれそうな気も…って気が早すぎるか(笑)。 まああの投票方式を改めない限り紅組は永久に勝てない気がしますがね。

 それにしても今回うれしかったのは、自分らの年代にとってあまりに懐かしい曲が、たくさん聴けたこと。

 特にニューヨーク在住の八神純子サンが駆け付け、「みずいろの雨」「パープル・タウン」 をメドレーで聴かせてくれたことには感激しました。 向こうでも音楽活動を続けていらっしゃるのかもしれないですが、声量が全く落ちておらず、みずみずしいばかり。 「みずいろの雨」 は、最初の 「アー」 のところが特に女性の恨みなどの情念が凝縮された部分だと昔から思っておるのですが、全く昔のまんま。 しかも、年齢を重ねたことで、昔は少々イモネーチャンチックだったのですが(失礼)、とてもしっとりとして魅力的な大人の女性に変身しておりました。 つくづく、ニューヨークに拠点を移したことがもったいないと思う。 日本で活動を続けていれば、間違いなく(?)矢野顕子サンクラスの地位を築けたはずです。 そんな忸怩たる思いは30年前から感じていたのですが、今日久々にその感覚が甦りました。

 ただこういう番組でつくづく残念に思うのは、歌手の皆さんが昔どおりにきちんと歌ってくれないこと。 八神サンは別ですよ。

 中村雅俊サンなどは、昔の朴訥とした歌い方が、好きだったんですよ。
 今の歌い方は個性を出すためなのでしょうが、癖がありすぎる。 個人的な好みは分かれると思うので失礼かとは存じますが、昔の歌は昔の通り、レコードの通り歌ってほしい。 布施明サンも、やけにまのびした 「シクラメンのかほり」 を歌っておいででした。 本人も歌い飽きたのかと存じますが、昔の歌は昔の通り以下同文。

 企画自体としては小椋佳サンつながりで、今回中村サンは小椋サンと 「俺たちの旅」 をデュエット、続いて布施サンが 「シクラメン」 を歌いました。 この試みはとっても刺激的で良かったのですが、肝心の歌がどうも。 いずみたくサン生誕80周年の企画として中村サンは 「ふれあい」 も歌ったのですが、やはり癖がある歌い方で。 これらの曲すべてに相当な思い入れのある自分としては、残念で仕方なかったです。

 同じくチェリッシュの 「白いギター」。 私この曲、ムチャクチャ好きなんですが。
 松崎サン(男性のほう)は相当昔から、ヤケに歌唱力の向上を強調した歌い方をしておるので気になってはいたのですが、今回見た限りでは、ちゃんと松井サン(女性のほう)を引き立てる歌い方に軌道修正しつつある印象を受けました。 もともと松崎サンは松井サンの引き立て役。 出しゃばってしまうとチェリッシュとしての存在価値がなくなってしまう。 でもやはり、相当譜面を無視した崩した音符の長さで歌ってました。

 「戦争を知らない子供たち」 も、曲にゆかりのある大阪万博公園で歌われたのですが、この企画の良さとは裏腹に、やはり杉田二郎サンの歌はビブラートが極端すぎる歌い方。 これってもう、こっちも聞き慣れてしまった感もあるのですが(笑)。

 歌い飽きてる、っていうのは、とても分かるし、自分が昔とは違って歌うまくなったんだということを誇示したいというのも、分かるんですけどね。 聞いてる側の 『思い出』 に忠実であってほしい、それは聴き手のわがままでもありますが、それは一面では真実でもあることを、歌手の方々には自覚してもらいたいのです。

 それにしてもやはり圧巻だったのは、「シクラメンのかほり」 に始まって、「舟唄」(八代亜紀サン)「襟裳岬」(森進一サン)と続いた、「大晦日連想曲」(笑)が次々と歌われたこと。 一気に大晦日の雰囲気に持って行かれました(笑)。 森サンの 「襟裳岬」 は崩した歌い方ではあるのですが、それ自体が森サンの味になってしまっているから、比較的許せる。 難しいもんですが、ね。

 元歌に忠実だったのは千賀かほるサン 「真夜中のギター」、今陽子サン(ピンキー)の 「恋の季節」。 来年引退される、という二葉あき子サンの 「岸壁の母」 にはただただ脱帽。 歌手ということのプライドの高さを、とても感じるのです。

 実は今日はわが住む街二子玉川の花火大会だったのですが、それをベランダから見ながらの視聴となりました。 そのせいで家族が集まった中での 「思い出のメロディー」。 やっぱりこういうスタイルが、この手の番組を見るのにはベストの視聴方法ですネ。

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「ゲゲゲの女房」 第21週 「鬼太郎が見た玉砕」 と比較して

 「ゲゲゲの女房」 第21週は、終戦の季節に合わせたかのように、茂(向井理クン)の戦時中の体験をメインにした話が展開されました。

 それに先立って、同じNHKが3年前に放送した 「鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~」 を、NHKBSハイビジョンで、再放送していました。
 確か3年前にも見たような記憶があるのですが、どおーもこの、水木サンの戦争体験は、アッチャコッチャで見ているような感じがする(笑)。 特に 「ビッグコミックゴールド」(現在廃刊)なんかに連載されていた水木サンのエッセイ風の読み切りものなどでは、なにかっていうと 「ばちーん」 というビンタを食らわす軍曹殿の話やトペトロの話などが何度も出てきて、私の中では原風景のひとつになっているよーな気が…(肝心の 「総員玉砕せよ!」 はまだ未読なのですが…笑)。

 そんなわけであらためてこの 「鬼太郎が見た玉砕」 の再放送を見たのですが、これが 「ゲゲゲの女房」 と比較すると、かなり興味深い。

 まず今週繰り広げられた 「ゲゲゲ」 の話とこのドラマのベースとなっている時代は、まったく一緒。 昭和47年(1972年)水木サンがラバウル島に行った翌年あたりの南国フィーバー海物語…じゃなくって(そんなのないか)南国熱冷めやらぬ状態から始まります。
 南国熱に浮かされる向井クンの演技も結構エキセントリックなものがありましたが、いっぽうで水木しげるを演じていた香川照之サンの演技は、さらにねちっこく変人っぽく、まさしく 「岩崎弥太郎風」 水木しげる(笑)。 実に濃い~です(笑)。 この記事の前の記事でも書きましたが、こういう濃いい~茂サンは、朝ドラだったらあまり見たくない(笑)。
 布美枝(こちらのドラマの役名は水木布枝となっておりました)は田畑智子サン。 こちらでは脇役であるために、「ゲゲゲ」 以上に出しゃばらない役どころになっています。

 「鬼太郎が見た玉砕」 では、モノクロームの鬼太郎とねずみ男、目玉おやじがナビゲーターとして登場します。 「鬼太郎 幸せ探しの旅~100年後の遠野物語~」 ではCGだったのですが、やはり鬼太郎の漫画に触れて育ってきた身としては、このペン画が動く感覚のほうが、よりリアルに感じられます。
 それに、3年前ということで、目玉おやじの声をやっていらした今は亡き田の中勇サンもしっかりご出演。 なんだかそれだけで、うれしくなってしまうのです。 もちろん鬼太郎、ねずみ男は初代の野沢雅子サン、大塚周夫サン。

 この、「鬼太郎が見た玉砕」、戦争の話がメインだけあって兵隊たちもオールスターキャスト。 榎木孝明サン、石橋蓮司サン、塩見三省サン、嶋田久作サンといった面々が、惜しげもなく出てきます。 それに対して 「ゲゲゲ」 のほうは、そうしてしまうと向井クンの主役としての存在感がぼやけてしまうためでしょう(製作費の関係もあるか)、失礼ながらあまり見たことのない方々がご出演されていました。 ただこちらの役者さんも、結構存在感が光っていた気がします。

 「鬼太郎が見た玉砕」 で語られる戦争は、あくまで悲惨さを前面に押し出した演出の連続です。
 特に前述の 「ビンタ軍曹」 塩見三省サンのビンタは、マンガで見るのとドラマで見るとでは、その不条理性が全く違う。 マンガだとどことなくユーモラスにさえ感じるのですが、さしたる正当な理由もなくビンタばかりしたがる人間、というのは、やはり現実にいると思うと、どうにも理解が困難です。 それを、天皇の御為に戦争をしているのだからダラケちゃいかん、というような思考回路でやっているのですから、ここから戦争が人心にもたらす異常を、やはり感じざるを得なくなる。

 そんな軍曹殿も、進退きわまって手榴弾で自決してしまいます。

 上半身が吹っ飛び、下半身だけとなったその瞬間を、このドラマでは水木サンの漫画で代用していましたが、そのほかにも累々と横たわる屍はまさしく、「海ゆかば」 の世界。 そのひとりひとりが、どれも悲惨な死にかたをしているのです。

 この玉砕が、血気盛んな若き将校の一途な思い込みから行なわれていることの愚かさを、「鬼太郎が見た玉砕」 では滔々と語っていきます。
 その状況下で玉砕命令に従わずに別行動をとった人たちがいたため、大本営に打電された 「総員玉砕」 は結果的に虚偽の報告となり、資料的にも抹殺された玉砕であったらしい。 「玉砕」 と 「無駄死に」 との違いは果たして何なのか。 そのことによって浮かばれない人々の死とは一体何なのか。 このドラマはそんな問いかけに満ちていました。

 それに対して 「ゲゲゲの女房」 のほうは、あくまでも布美枝(松下奈緒サン)を中心とした村井家の中で語られる戦争です。

 「ゲゲゲ」 サイドの話でもっとも私が心を揺さぶられたのは、茂が断崖まで追い詰められ、絶体絶命の危機に陥った時、イカル(竹下景子サン)がその悪夢によって夜中に飛び起き、イトツ(風間杜夫サン)を叩き起こして、「しげさん、生きて戻れえーっ!」「茂、死んだらいけんぞ!」 とふたりで叫び続けるシーンでした。 ちょっと不意打ち気味だったせいか、涙が止まりませんでした。 いきなり水曜日あたりで、泣かせるかなあ(笑)。

 しかしこの場面は、死ぬことが誉れであった当時の常識から考えると、ちょっとドキッとするようなシーンであることは確かです。
 でもだからこそ、この両親の叫びには、こちらの心をわしづかみにする親の情というものを感じるのです。
 「ゲゲゲ」 のほうがはるかに語り口がソフトなのにも関わらず、戦争の悲惨さというものは、別角度からでもじゅうぶん伝わってくる。

 「鬼太郎が見た玉砕」 やそのもととなった 「総員玉砕せよ!」、「ゲゲゲの女房」 における各兵士たちの描かれる状況というものは、微妙に違っています。 「ゲゲゲ」 に出てきた軍医殿などは、別の軍医殿だったのかもしれませんが、「鬼太郎が見た玉砕」 の中では自決していました。 それでも、お国のために死ぬことが誉れであった当時、本当のことを言い出せないで死んでいった者たちの無念は、変わることがない。

 「本当のことを言い出せない」 つながりで今週 「ゲゲゲ」 で並行して語られたのは、藍子(菊池和澄チャン)がクラスメイトからの 「鬼太郎のアニメに自分を出してほしい」 という無理なお願いを聞いてしまった話。

 このクラスメイト、「いかにも」 って感じで藍子チャンに接近して恩着せがましい事をしてくるのですが、やっぱりその見返りが目的だった。
 いったん有名になってしまうと、自分の目的のために近付いてくる人のなんと多いことか。 砂糖に群がるアリと一緒です。
 そんな人の世のあさましさを、このドラマでは茂が南国に移住しよう、と熱心に家族に説いて回る話と抱き合わせて展開する。
 おそらく茂も、自分が有名になってしまってからというものの、そういうアリのような人々と付き合うことに、半ばうんざりしていたのではないでしょうか。
 茂は、ただ食っていければいい、みんなが笑って暮らせればいい、たらふく寝れればいい(笑)という人間として基本的なことを望んでいるからこそ、南国に住みたがる。 茂の人生観と南国は、それほど合致しているのです。

 だからこそ、人としての純粋な気持ちに正直な次女の喜子チャン(松本春姫チャン)だけが、茂の移住計画を最初聞いたときに 「行こう行こう!」 と賛成する。
 それにしても話は寄り道しますが、この喜子チャン、なかなか天真爛漫で、いいキャラですなあ。 ホントに素が明るそうですよ。 限りなく癒されます。
 で、藍子チャンはこの移住計画には初め難色を示していたんですが、さっきのクラスメイトに 「約束を破った、うそつき」 と言われたことで、人の世の生きにくさを感じてからは、賛成に転じる。

 相変わらず子供の悩みにチョー鈍感な布美枝(笑)に代わって今週活躍したのは、イカルでした。

 このオバアチャン(竹下サンをおばあちゃんと呼ぶのには、さすがに私にも抵抗があります…)、町内会の老人クラブの誘いも颯爽とはねつけ(「あなたにおばあちゃんと呼ばれる筋合いはないっ!」…笑)、布美枝のヘルシーなトーフ料理にも難癖をつけ(「あんた、やっぱりウナギ食べなさい!」…笑)、といった趣のスーパーオバアチャンなのですが、藍子チャンの悩みに、気づきそうでなかなか気づいてくれない。 モーやきもきしてたんですが(笑)、藍子チャンがそのクラスメイトの誕生日用に布美枝から預かっていた手作りのプレゼントを捨てようとしていたところを発見して、イカルは藍子チャンの胸の内をやっと知るのです。

 「『千万人といえども我ゆかん!』 だわ。
 『人がなんと言おうと、自分が間違っとらんならそれでええ』 ゆうことだわね。

 言いたいもんには言わせとけばええ。

 これはずいぶん前の話だけど、戦争のときにはばかばかしいことがようけあったもんだわ。
 食べてくだけでも大変だのに、竹やりの訓練だバケツリレーだって、やたらと集められて。
 おばあちゃん、そげなこと馬鹿らしいと思っとったけんね、知らーん顔して参加せんだったわ。
 そげしたら隣組の組長さんが怒鳴り込んできて。
 『竹やりで戦争には勝てません!』 って言って、追い返した! ハハハハ!
 悪口言う人もおったけど、そんなもん相手にしても仕方ない。
 竹やりでは戦争に勝てんことくらい、誰が考えてもわかることだけんね。
 あんたはもうほっときなさい。

 あ、なんか言われたら、こげん言い返したらええわ。
 『名字帯刀御免の家柄ですけん!』
 …わかった?」

 んー。 わかりませんけど(笑)。

 ともあれ、おばあちゃんに諭されて、布美枝に事の真相を話した藍子チャンに、布美枝は 「藍子の内気なのは、お母ちゃんと一緒だ」 と優しく言います。 そして、「お父ちゃんがええことを言っとった」、と父親の話を始める。 いくら子供のことに気づいてやれなくても、父親と母親の立場から見たこういうフォローがあるのは、実に的確なような気がします。 その布美枝の回想したお父ちゃんの話は、次の通り。

 「がっくりしとっても、生きていけんからなあ。
 ないものを嘆いてもはじまらん。
 工夫して、人に負けんだけの仕事ができれば、両腕だろうが片腕だろうが関係ないけん。

 弱いとこは、誰にでもある。
 くよくよ考えるより、前に進む、強い意志が大事なんだ。

 おれはな、お母ちゃん。
 幸運だったと思っとるよ。
 腕一本なくしただけで、生きて帰れたんだからな」

 そんな時に現れたのが、ゼタの社長、深沢(村上弘明サン)。 ゼタの幕引きを考えていた深沢は、茂の 「総員玉砕せよ!」 にかける意気込みを聞いて、その考えを改めます。

 「まだまだ…」

 そう、まっすぐ前を向いて生きることは、まだまだできる。
 その夜布美枝は、鬼気迫る形相で 「総員玉砕せよ!」 を描き続ける茂を目にする。
 今できることのすべてをこの瞬間に賭ける。
 そこにしか、人生、前に進む方法はないのです。

 「鬼太郎が見た玉砕」 が描こうとしたものは、戦争の悲惨さと愚かしさがメインだった気がしますが、「ゲゲゲの女房」 では、そのあとに生き続ける者に対するメッセージが強く感じられる出来となった気がするのです。

当ブログ 「ゲゲゲの女房」 に関するほかの記事
第1回 NHKのやる気を感じさせます
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-nhk-c7ac.html
第2週まで見てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-5cbd.html
第4週まで見てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/4-a685.html
第5週 ほんとうのスタートは、ここからhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-9d37.html
第6週 人事を尽くして天命を待つhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-3192.html
第7週 時代に流されていく人たちhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/7-6a9d.html
第8週 笑って生きよう、たとえ貧しくともhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/8-82ce.html
第9週 「生きるため」 と 「プライド」 の狭間http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/9-476d.html
第10週 ビンボー神の出るタイミングhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/10-8426.html
第11週 まあ…なんとかなーわね!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/11-e5c0.html
第12週 冷たい風に吹かれてhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/12-2a16.html
第13週 自分のいるべき場所http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/13-f9bf.html
第14週 自分の名前と自分の存在http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/14-30e2.html
第15週 夢をあきらめないで… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/15-19ee.html
第16週 性急に見える成功、ですが… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/16-7865.html
第17週 村井家ビフォー・アフター?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/17-d98c.html
第18週 「悪魔くん」 成功の裏で描かれるものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/18-6ede.html
第19週 漠然とした願いと覚悟との狭間http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/08/19-7dcb.html
第20週 見えないもの、見えなくなるものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/08/20-0c48.html

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2010年8月20日 (金)

「ゲゲゲの女房」 クランクアップのニュース、ああもう終わりなの…

 「ゲゲゲの女房」 の撮影が18日、クランクアップを迎えたようです。
 (クランクアップ会見の模様はこちらhttp://www.nhk.or.jp/pr-movie/index.html?id=0383)
 最終回が9月25日放送、ということは、もうひと月を残すのみとなってしまったんですなあ。 どうにもさびしくてなりません。
 当ブログ、普段こういうことは記事にすらしないのですが、このところ記事を書こうと思うようなドラマが全くなく、あまりに手持ちブタサなので(ブサタだろ…笑)、ちょっこし 「ゲゲゲの女房」 とは何なのか、過去記事と重複するところもありますが、書いてみようかな、と思います。

 このドラマの最大の特徴は、主人公の布美枝(松下奈緒サン…ワタクシ事ですが、なんかワードがスンナリ変換できないなあ…こないだのココログの障害となんか関係あるのかな…)が、朝ドラヒロインが常時装備している 「自分が目指すものへの飽くなき上昇志向」 を全く持ち合わせていない、ということ。

 彼女の生き方はただ夫を支え、子供たちを育て、陰の主役に徹することなのです。
 考えてみれば世の中の 「女房」 たちは、大部分がそんな範疇に入っている気がします。 たまたま夫が超有名になってしまっただけのことで、布美枝の生き方は、その市井の人々と、全く違わない生き方をしているといえます。 確かに自分のやりたいことをやっている主婦もいらっしゃいますけどね。

 このドラマが居心地のいい理由は、実はそこにある。
 女性たちは布美枝を見て自分もこんな生き方をしなければ、と強迫観念を抱くこともなく、男性たちはあまりしゃしゃり出てこないこんな女房に安らぎを感じる。
 特に男性側の視点で言わせていただくと、女房が趣味に夢中になっていたりやたらと交友関係が広いというのにも、嫉妬を抱いたりするものなのです(笑)。

 そしてもうひとつ。
 布美枝の夫で超有名マンガ家水木しげるを演じる向井理クンが、実年齢とは大きくかけ離れているも関わらず、かえってそれが毎日見るのにはよかった、ということが挙げられます。

 こないだNHKBSハイビジョンだったか、「鬼太郎の見た玉砕」 をやっていたのですが、そこでの水木サンを演じたのは、あの 「岩崎弥太郎」、香川照之サン。 実年齢的には、向井クンよりもずっと近くて適役のような気がする。
 でももし香川サンが 「ゲゲゲの女房」 で水木しげる役をやっていたとすると、毎日こんな濃い水木サンは、見たくない気がするんですよ(笑)。
 向井クンのしげる役は、あくまでサワヤカ。
 そんな彼が亭主関白ぶりを発揮するのにも、ある種の面白さが醸し出される気がするのです。
 しかもこの茂、完全に家庭ほっぽりタイプの人間なのに、毎週おいしいところをかっさらっていく(笑)。 ガチガチの仕事人間に描いていないのが、また憎らしいじゃないですか(笑)。

 そのほかにも、わき役にも手抜きがない、様々な伏線が張り巡らされている、小道具にも神経が行き届いている、等々の要因が、それこそ数え切れないほどあるのは、このドラマに関しては 「当然レベル」。
 しかもそれが、大上段に構えたすごさじゃなくて、当たり前の仕事を当たり前にやっている。
 もしこれが変に身構えた大作ドラマだったら、ちょっと物足りなく思うかもしれない。 朝ドラだからしっくりいっている気がする。 要するに、良くも悪くも、脚本が素晴らしく 「朝ドラ向け」 なのです。

 次回作はどんなドラマであれ、これ以上のものを見せてくれないと、視聴者はそっぽを向く気がしてなりません。 しかし、「ゲゲゲ」 の持っているハードルは、あくまで高い。
 「ゲゲゲの女房」 というドラマは、昔はごく普通にあったホームドラマを現代によみがえらせた、そんな意外性も当たった大きな要因のような気がするんですよ。
 ここ数年の朝ドラは、ヒロインの持つ職種や環境で変化を持たせようとしてきた。
 けれどもその内容は、どんなに状況が変わっても似たり寄ったり。 ヒロインに新人を起用することの弊害が、ここにも表れている気はするんですけどね。 だから 「芋たこなんきん」 のようなドラマが、妙に面白かったりする。 「ゲゲゲ」 も、ピッチャーがしばらく投げたことのなかったコースにストライクを決めた、という爽快感がある。

 あーあ、「ゲゲゲの女房」 が終わったら書こうかな、なんて思ったことを、書いてしまいました(笑)。
 それというのも、見たいドラマに飢えているせいであります(笑)。 「ジョーカー」 とか、評判が良くなってきたので見たいと思っても、最初から見ないとついていけませんし。 「うぬぼれ刑事」 は正直なんだかな~という感じになってきましたし。 あとはNHK土曜ドラマで今度始まる、藤原紀香サンのドラマに期待しているんですが、競馬のドラマなのかな?なんだかよくわかりません(笑)。

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2010年8月16日 (月)

「龍馬伝」 第33回 ふたつの隠し事

 西郷(高橋克実サン)の、長州への協力に対する承諾をとりつけた龍馬(福山雅治サン)。
 その同盟の証としての軍艦と銃を仕入れるために長崎グラバー邸に赴き、グラバー(ティム・ウェラードサン)に話を持ちかけるのですが、資金の出どころが分からない話に、グラバーは乗ってこない。
 ここで龍馬は、この話に長州が絡んでいることをグラバーに説明していません。
 龍馬がグラバーに最初持ちかけたのは、「薩摩が軍艦と銃を買いたがっている」 という話。
 グラバーはその場に薩摩の人間がいないことを疑問視し、また以前のように何の後ろ盾もない突飛な話を龍馬がしている、と判断したのでしょう。 当然です。
 グラバーは龍馬に、こう言い放ちます。
 「侍は商人を甘く見ている」、と。

 西郷が龍馬たちに具体的な支援をしなかったのは、西郷が幕府に薩長同盟の計画が露見することを極度に恐れたゆえのことだった、とこのドラマでは説明しています。
 つまり、ことは慎重なうえにも慎重に、隠密のうちに運ばなければならない大事なのです。

 その隠し事に迫ろうとする要注意人物として、このドラマではお元(蒼井優サン)を配している。 けれどこのお元にも、彼女がかくれキリシタンである、という公儀への隠し事を抱えさせることで、ドラマとしての緊迫感を演出することに成功しています。

 そしてこの回のクライマックスに向けてのお膳立てとして、カネのために身受けされた芸者の悲哀を描写し、キリシタンであることがバレて奉行所につきだされていく女を龍馬が止めようとする、というところをお元が目撃するシーンを挿入している。 お元がこのあと、龍馬に交換条件を持ち出すのは、ここで龍馬がかくれキリシタンに対して、理解してくれる器量を有していることを、お元自身が敏感に察知したからこそなのです。

 龍馬はふたたび単身グラバーのもとへ乗り込み、グラバーの説得に成功するのですが、この二度目の依頼での龍馬の切り札は、長州の桂(谷原章介サン)からの書状。 つまり、最初の申し出の時に伏せておいた長州の名前を、ここで明らかにせねばならないのです。

 このことはひとつの賭けです。

 グラバーがもし、この申し出に乗ってこなければ、長州が薩摩と手を結ぼうとしていることは、公になってしまう可能性が高い。
 龍馬は次のような手段で、グラバーを説得にかかるのです。

 「グラバーさんは、日本はお好きですろうか?」

 自分は商売のために日本に来ただけだ、と言うグラバーに、「金が稼げればいいのか」 と過激なことを言いつつ、龍馬はそれも良し、と認め、「商売は風向きを読まんといかん。 日本の風向きを自分で決められたら、大もうけできるがぜよ」 と煽ってくるのです。
 龍馬は最初、グラバーに日本への愛着があるかどうかを試そうとしてグラバーの本心を探り、その後すかさずこの話をビジネスオンリーの話に切り替えている。

 ここで大浦慶(余貴美子サン)も一枚絡ませろ、という話にすることで、グラバーに焦りの要素を継ぎ足しているのも興味深いです。 長州から用意された金は15万両。 長州と薩摩が連合することで、徳川幕府との軍事力の差を逆転させ、薩長主体の日本の新しい経済システムを根本から牛耳ることができれば、グラバーにとっても長期的に、こんなにおいしい話はないだろう、という理屈も読み取ることができますね。

 「わしはの、もう何ちゃあ隠し事はしちゃあせん。 もう全部、全部!話してしもうたがじゃき!」

 グラバーは龍馬に、これでいくらあんたはもうかるんだ、と訊くのですが、一銭も要らんという話に、グラバーは驚愕する。

 「わしらは日本を守りたいだけながじゃき。 …私心があっては、志とは言わんきにのう」

 この話、龍馬たち亀山社中は最初は損をしておいて、ここからひろがっていく儲けのほうに目を向けている、ということも頭に入れておく必要があるように感じます。 いずれにせよ、カッコよすぎですがな!(笑)

 龍馬が長州とグラバーとの交渉の仲立ちを任せたのは、長次郎(大泉洋サン)と惣之丞(要潤サン)。 ここでふたりの海軍操練所時代の知識が、大いにものを言うことになる。 すなわちグラバーの相手への見くびりによる、安くてボロイ船を高値で売ろうとする魂胆の見破りです。 長次郎の手腕はここで最大限に生かされるのですが、英語に堪能だった惣之丞の存在も、さりげなくも大変重要なものとなっている。 ここらへんの話は、実に面白かったです。

 長次郎はこの交渉ごとに自分が大きな力を発揮できたことを大いに喜び、妻の徳(酒井若菜サン)に手紙で報告するのですが、これが次回へのちょっとした布石になっている。 次回に期待です。

 そして、この交渉の場を探ろうとするお元を龍馬は発見。
 お元は先ほど書いたように、交換条件を出して、自分がかくれキリシタンであることを内密にしてほしい、と、半ば脅してくる(笑)。 龍馬はグラバー邸への二度目の訪問の際、お元がグラバー邸内の装飾品に施されたキリスト像を拝んでいるところを、発見してしまっていたのです。

 「いかんのお…。
 侍を見くびっては、いかんぜよ。
 おまんがその戸から出る前に、わしの刀が、おまんに届いてしまうきにのう」

 商人も侍も、甘く見てはいかんですのう(笑)。
 しかし福山龍馬は、そんな女性を敵に回すようなことは、せんのです(笑)。

 「世の中には、いろんな人間がおるがじゃ。
 耶蘇を信じたいゆう者がおってもえいろう。
 けんど、見つかったらむごい仕打ちを受けるいうががわかっちょって、どういて異国の神様を拝むがぜよ。 耶蘇いうがは、そればあえいもんか?」

 この龍馬の問いに、お元はこう答えるのです。

 「うちの、すべてですけん。
 この世の苦しみは、神が与えてくれんしゃった試練やけん。
 その苦しみば乗り越えれば、天国に行けるとです」

 どういて公儀の隠密などして小銭をためたがるのか、と訊く龍馬に、お元は感情を爆発させます。

 「なんが悪かと?
 芸子はみんな、親に売られた女ばい!
 はようお金ばためて、一日でも早ようこっから抜け出したかってみんな思うとるとよ!

 …うちが逃げ出したかとは…こん国です。

 …ここにおったって、よかことなんか、なにもなか…」

 この日本という国に嫌気がさして、天国に行けば幸せが待っていると考えている女性を据えることで、このドラマは龍馬のやろうとしていることに、さらに意義を持たせようとしている。 「わしはこの国を変えようと思うちゅうがじゃ。 おまんが逃げ出したいと思うような世の中は、のうなるがぜよ」 と言う龍馬に、お元はこう尋ねるのです。

 「坂本さんが作りたかとは、みんなが笑うて暮らせる国?」

 「…そうじゃ…!」

 自信満々に言う龍馬に、お元はキツーイ一発(笑)。

 「お目出たかお方…」

 このはぐらかしかたも、粋ですなあ。

 グラバーとの交渉はついに成功。 喜びに沸く人々のなかで、なんとも重厚な、ゆったりとした音楽が流れ続けます。 この対比の妙、実にシビレました。 派手派手しいBGMでなく、静かにこの状況をかみしめる桂や龍馬の姿を映し出すことで、見る側に一層深い思いを提供してくれるのです。
 そしてそのゆったりとしたチェロの響きが、次回予告にまでかぶってくる。 ドラマを見ることの喜びが、じわじわと伝わってくる出来でした。 次回は長次郎が、なにか問題を起こしそうな雰囲気。 視聴率が低下し始めたころから格段にドラマが面白くなっていることに一種の皮肉を感じながら、このドラマを見ておるのです。

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2010年8月15日 (日)

「チューボーですよ!」 枡田絵理奈アナ、それを言っちゃあ…(笑)

 8月14日 「チューボーですよ!」 ゲストは、有吉弘行サン。
 毒舌によって復活した人ですが、当然のごとく、堺巨匠からその毒舌を要求されるのです。
 有吉サン、「小ボケジジイ」 とか、「大御所ヅラしたバカヤロー」 とか、「西遊記の話でも聞かせてよ、それくらいしか興味ないから」 とか、強要されつつキョーレツな毒舌(笑)。

 ここでどーしても気になってくるのが、「あるある」 で堺サンにタメ口をきいて嫌われた、という、あの人の存在。 ここまで巨匠をけなしておいて、ただで済むのかなという気もするのですが(笑)。
 でもここまでものすごい毒舌だと、堺巨匠も身構えるせいか、丁々発止で過激に応戦してくる。 やはり同じ横柄な口のききかたでも、時と場合というものがある、ということなんでしょうね。

 ところで今回有吉サン以上にハラハラしたのが、枡田絵理奈アナ。

 試食の際にネガティブなことを言ってゲストの評価を下げさせる、というのが枡田アナの、この番組におけるひとつの味となっているのですが、今回のメニュー五目あんかけ焼きそばのあんを作る際に、とてーも過激な一言が炸裂(笑)してしまいました。

 堺巨匠にとっていつも鬼門である 「とろみ付け」 の段階で、「これ火つけたままでいいのか?」 と訊かれ、わきの仕事をしながら無言(笑)。
 「アンタ意外と働かないのね」 と有吉サンから突っ込まれると、「巨匠は、何年とろみつけてるんですかもう」 と、言ってはならない爆弾発言(笑)。

 確かに(笑)。

 まあ巨匠の肩を持てば、とろみ付けというのは毎日やってないとコツがうまいことつかめないシロモノではありますよね。 それでもこの番組を開始してからもう15年にもなるというのに、未だにとろみ付けのコツがつかめないのにいらついている枡田アナの、本音が飛び出してしまった、というのが正直なところかと(笑)。

 「えっ…」 と一瞬巨匠は絶句(笑)。
 「テメェは何年これをやってんだって言ってますよ」 と有吉サン(笑)、うーん、的確な追い打ちだ(笑)。

 「すんごいなぁおい…なんかあったのかウチで?」
 「ないですけど、いや、いまさらそこ訊くかな?と…」(笑)

 「そうだなあ…」 と堺巨匠もミョーに納得(笑)。

 いや、笑いました。

 その枡田アナのキツーイ一発が効いてしまったのか、いつもよりとろみが強めに効いてしまったようでした(笑)。 星ひとつ(笑)。 枡田アナの試食の際のネガティブ発言にも相当影響された、今回の有吉サンの星でした(笑)。

 枡田アナ、やっぱりこの人は相当いいキャラ持ってますね。

枡田絵理奈アナに関する当ブログほかの記事

「チューボーですよ!」 2009.4.12 枡田絵理奈アナ、誰かに似てる…
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/04/post-6b09.html
「チューボーですよ!」 2009.4.26 気まずい雰囲気… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/04/post-2537.html
「チューボーですよ!」 2009.5.3 枡田絵理奈アナの実力が分かってきたhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/05/post-6d87.html
「チューボーですよ!」 2009.5.24 枡田絵理奈アナ、このコは相当できるhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/05/post-4ff2.html
「チューボーですよ!」 2009.6.7 枡田絵理奈アナ、堺巨匠を籠絡かhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/06/post-43ce.html
「チューボーですよ!」 2009.6.14 枡田絵理奈アナ、やらかしちゃいましたねhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/06/post-0b93.html
「チューボーですよ!」 2009.6.21 ニュートラルな貴乃花親方http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/06/post-e5ce.html
「チューボーですよ!」 2009.6.28 優木まおみチャンと小林麻耶アナの接点http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/06/post-602e.html
「チューボーですよ!」 2009.8.6 枡田絵理奈アナの、ビックリ特技http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/08/post-3076.html
「チューボーですよ!」 2009.9.6 錦戸亮クン、お初にお目にかかりますhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/09/post-2edd.html
枡田絵理奈アナ、ニュースも読むんだhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/09/post-3d96.html
「チューボーですよ!」 2010.8.15 枡田絵理奈アナ、それを言っちゃあ…(笑) http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/08/post-90ec.html
「チューボーですよ!」 2010.9.5 枡田絵理奈アナ、究極の挑発!(笑) http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/09/post-3c0d.html

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「歸國」 過去からの怒りに満ちた告発

 倉本聰サンの脚本によるスペシャルドラマ、「歸國」。
 もともと富良野塾の舞台の演目として、個人的にはずいぶん前から知っていたような気がするのですが、どうもウィキにその記述がないですね。
 その、自分が知っていたこの劇の内容は、先の大戦で死んだ日本兵たちが現代の日本に帰って来て、その様子にすっかり落胆してもといた場所に帰っていく、というもの。 現代社会に対する強烈な皮肉を含んだ劇、という印象でした。

 もともと舞台用だったと思われるこの作品、TBSの誇る巨匠、鴨下信一サンの演出で今回ドラマ化されたわけですが、やはり舞台演劇っぽい部分がそこかしこに見受けられました。 それでも、その特殊空間的な演出は、鴨下サンの得意とするところ。 さすがと思わせる作品に仕上がっていたと思います。

 ただ文明批判を含んだこの作品、やはり説教臭くなるのは否めない。
 要するに、倉本というオジーサンが 「最近の若者は、最近の日本は」 と愚痴をこぼしているかのような受け取られかたをされる恐れも、多分に含んでいるのです。
 説教臭くなれば途端に、リアリティは喪失されていく。
 もともとこのドラマはリアリティから逸脱した設定ではあるのですが、ほんとうにリアリティを奪ってしまうのは、ほかならぬこの 「説教臭さ」 なのです。

 例えば、チェロとピアノの演奏パートナーだった小栗旬クンと堀北真希チャン。
 小栗旬クンは、65年ぶりに日本に戻ってきた英霊です。
 堀北真希チャンは現代では年老いて、八千草薫サンが同一人物を演じています。
 恋人同士でもあったこのふたりを結び付けていたのは、小栗クンが戦地から送った宮沢賢治の童話集。
 本当に伝えたい言葉をその本の活字の横に丸印をつけてひそかに託し、検閲を通過させ、愛の告白をした小栗クン。 スパイ映画によくある方法ですね。
 この隠されたメッセージを若き日の堀北真希チャンは読み解き、八千草薫サンになってしまうまで(ヘンな説明だなァ…)結婚もせず、音楽教師として一生を貫いてきたのです。

 彼女は目を悪くしており、小栗クンが帰ってきたことを鋭くなった勘によって察知する。
 そして、自分ももう先が長くないから、いっしょに連れてって、と懇願するのです。
 このシチュエイションには、結構泣けるものがあります。
 しかし彼女に、今時の子供たちは歌を歌わなくなった、自分が教えていてもみんなケータイのメールに夢中で誰も授業についてこない、という話をさせた途端、みんながみんなそうじゃないだろう、ためにする話をしているな、と、見ている側が急速に醒めてしまう。

 ここらへんのリアリティの保ち方は実に微妙な匙加減でどうにでもなるレベルであり、こんな説教臭さにところどころ陥りそうになりながらも、きちんとドラマを見せ続けることには、確かに成功していた気はします。 倉本サンも、そのコントロールは大変だったろうなーと感じます。

 このドラマの主役は特になく、群像劇、といった趣なのですが、強いて挙げれば主役的扱いは、ビートたけしサン。

 私はこの人、演技力よりも存在感で見せる役者だと感じているのですが、相変わらずその重厚な存在感はすごい。 並みいる演技派の俳優たちのなかで、ひとり異色を放っていました。
 たけしサンは自分の妹で浅草六区のダンサーであった小池栄子サンのなれの果ての姿と対面する。
 彼女はストリッパーまで落ちぶれながら、女手ひとつで息子を育て上げたのですが、現在は見向きもされず、病院のベッドで植物状態のまま、現代の医療技術で生かされ続けている。 ベッドに横たわっているのは、ピチピチだったダンサーの片鱗もない、しわくちゃのおばあさん。

 この延命装置を外してしまうのが、唯一彼女の声が聴け、そして自らももうすぐ死んでしまう少女。 そして母親の死の一報を聞いて何事もなかったかのようにふるまおうとする息子石坂浩二サンを、たけしサンは殺してしまう。

 この展開はいかにも舞台的で、舞台を見ていたならばその語り口に引き込まれながら見てしまうところなのでしょうが、テレビドラマになるとこの展開は、視聴者によって冷静に見られてしまうきらいが、どうしても出てくる。 そして冷静に見てしまうと、どうしても賛否両論になるであろうシーンなのです。 でも、見る側はそこから、倉本サンの安楽死に対する見解を見てとるべきだし、個々人が安楽死について考える機会を持つことこそが、意義のあることだろうと考えるのです。
 ただこのドラマではこんな、舞台的な大げさな話が見る者への感動の伝わりかたを鈍くさせてしまう、そんな場面も散見しました。
 それにしてもたけしサンと石坂サンか…。 その昔、「世界まるごとHOWマッチ」 のレギュラー回答者でしたね。

 そしてこのドラマの凄いところは、凄い役者が数多く出ている、というのに、顔もススだらけ、始終夜中の設定なので、誰が誰だかよく分からない、という点。 要するに、役者の力量が最大限に試されるわけです。

 その中での例外がたけしサンだったわけですが、この没個性の設定のなかでもっとも印象的だったのは、話が結構中心的に回っていた小栗旬クンでした。
 ただ彼の話に時間が割かれていたことがその理由でもあるので、彼を抜きにして考えると、検閲官で首をくくって死んだARATAサンの演技が、やはり凄味がありました。 「チェイス」 でもそうでしたが、この人は今後、大注目の役者ですね。

 ARATAサンは英霊にはなりきれず、靖国神社(靖国神社全面協力、というのもすごかったなあ…まあ倉本サンの思想的信条と合致したからこその協力だったのでしょうが)で永遠にウロウロしていたわけですが、もうひとりここ日本で永遠にさまよい続け、帰ってきた英霊たちのナビゲーターをしている男がいます。 生瀬勝久サンです。
 彼が誘導したためにたけしサンが石坂サンを突き殺してしまったみたいな面はあるのですが、これが原因となってたけしサンは英霊の仲間から逸脱してしまう。 それを狙っていた恨みの強さみたいなものも、どこかで感じる奥の深い演技でした。

 そして部隊長を演じた、長渕剛サン。
 久々のテレビドラマだったわけですが、やはりたけしサンと同じように、存在感で見せてきますネ。
 私はこの人を見ていると、いつも三島由紀夫を連想するのです。
 もともと軟弱者の代表みたいなフォークシンガーだったのに、劣等感を武器に変えて肉体改造に取り掛かり、驚天動地のメタモルフォーゼを敢行した。 その長渕サンが 「YAMATO」 とか今回のドラマとかにかかわってくると、どうしても三島由紀夫の影がちらついて仕方なくなる。 まあ、思い違いでしょうが。

 それにしても、です。

 このドラマの主題が現代社会に対する強烈な批判である、という側面は、実は一握りのロクでもない人たちに向けて発信されているメッセージなのだということを表しています。
 それ以外の大多数の人々は、日々を一生懸命生きているし、常識だってある。
 それに、昔が一方的によかったか、というと、そうでもないのでは?とも思われてくる面もあります。 それは心がすさんでいるかいないか、その比較においてなんですけど。

 それでも、そもそも国を憂う、とは一体どういうことなのか、このドラマはその根本的な意味を考えさせてくれます。

 国を憂う、というのは、なにも英霊たちだけが感じることではない気がする。
 坂本龍馬だって、今の日本を見れば、「わしが作りたかったのは、こんな国ではないぜよ!」 と言うかもしれないし、日本の風景を愛でてそれを短歌や俳句なんかに残してきた平安貴族、松尾芭蕉などの歌人俳人だって、「こんな日本に誰がした?」 と思うような気がするんですよ。

 それは、自分が生きてきたその地に対する、強い愛着の気持ちから発生する気がします。
 すなわち、「ふるさとへの強い思い」 です。

 私たちにとって重要なのは、自分たちがこの時代に限定されて生きているわけではないことを自覚することではないでしょうか。 先達たちの足跡の上に、自分たちは生きている。 お盆と終戦の日が重なるこの時期は、そのことを自覚する最高の機会のような気がして、ならないのです。

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2010年8月14日 (土)

「ゲゲゲの女房」 第20週 見えないもの、見えなくなるもの

 前週から月日は飛んで、昭和47年(1973年)。 改築に次ぐ改築で、まるで忍者屋敷のようなってしまった(笑)村井家の様子が、冒頭からコミカルに描写されます。
 しかしながら、この迷路のようになってしまった村井宅の構造自体が、村井家が陥ってしまった歪み、閉塞感を結果的に象徴している。 これは興味深い部分である気がします。

 その歪み、閉塞感というのは、多忙極まる茂(向井理クン)を中心とした、家族間のコミュニケーション力の低下が大きな原因となっていることは明らかです。 小学4年になった藍子(菊池和澄チャン)が学校で 「鬼太郎」 の作者の娘であることがばれ、好奇の目で見られたりからかわれたりすることが、その源泉になっている。

 それにしても、現代急速に発達してきた 「個人情報秘匿」 という概念そのものがなかったような当時のありかたには、若い世代ほど違和感を抱くのではないでしょうか。 私は藍子チャンよりイッコ下ですが、当時は学級の連絡網など当然の常識でした。 何かあったときにリレー式で電話をかける表が作成され、クラス全員に配られるんですよ。
 布美枝が夫の職業欄にそれまで 「自営業」 と書いていたのを 「マンガ家」 と書きなおしたとしても、どうしてそう変えたのかとか、布美枝の側には大した意識など働いていない気がする。 ただ布美枝の意識のなかでは、「お父ちゃんの職業に誇りを持っている」、ということが、「マンガ家」 とあえて書いてしまった動機になっている。 藍子チャンにもそのことに誇りを持ってもらいたい、そういう気持ちが働いているのです。

 「お父ちゃんは一生懸命マンガ描いとるんだよ。 何にも恥ずかしいことしてない。 なして隠さんといけんの?」

 これを現代の価値観から見ると、布美枝がとても子供の気持ちを考えていない鈍感な親のように思えてくる。 でも、そうじゃないんです。

 何か嫌なことでもあったの?と訊く布美枝に、藍子チャンは 「別にない…」 と答えてしまいます。
 小さいころからずっと手のかからなかった子どもだった藍子チャンは、自分の父親の多忙さを、まさに目の前で見続けて育ってきている。 父親が会社に行って家にいない、というのとは大違いなのです。 父親の姿を見ているからこそ、藍子チャンは親に気を遣ってほんとうのことを口に出せない。

 村井家の家訓みたいな感じで、「寝ている子は起こさない」 という世間から見れば常識はずれのように思える決まりごと。
 これはもともと茂が子供時代、どんなことをしても朝起きてこない子どもで、遅刻の常習犯だったことが大きな原因なのですが、藍子チャンの担任の先生の指摘で、見る側は藍子チャンが、結構遅刻を実際にしていたことを知るのです。

 実際に遅刻していたとなると途端に目くじらを立てる向きもあるのでしょうが、考えてみれば、なにをするのにも桁外れ規格外の行動ばかりしていた茂が、ここまでの人物になっているのです。 子供時代にどんな問題があろうが、そんなことはたいしたことではない、という村井夫婦のスタンスに、反論できる余地などまったくない、そう私には思えてなりません(問題なのは、子供がいい大人になってから問題を抱えているケースのほうでしょう)。

 茂の幼い頃の話をリアルに見せるために、作り手は調布に同居するようになった茂の両親を狂言回しとして利用します。
 茂の父親イトツ(風間杜夫サン)は布美枝に、こう話すのです。

 「おかしな子どもだったが、そげやって、人と違うことをやっとったことが、マンガを描く仕事に、つながったのかもしれんよ。
 あいつのマンガはよーう描けちょる。
 子供はぁ…。 そのうちなんとかなーわ、あ?ハハハハハ…」

 そんななか、藍子の担任の先生(堀内敬子サン)が家庭訪問に来るのですが、このときの水木プロの描写は、抱腹絶倒ものでした。
 スガチャン(柄本佑サン)がいきなり倒れ込んで来て、「奥さん…ぼくもう、ダメですっ…3日間ひたすら、点々を打ち続けて、…奥さんの顔まで、点描画に見えてきた…」 ガクッ(笑)。
 「救急車!」 と叫ぶ先生に、「大丈夫です、よくあることですから…」 と冷静にとりなす布美枝(笑)。
 目覚まし時計と共に編集者がやって来て、「先生ぃ~っ、出来てますかぁ~っ? 出来てないぃぃ~っ! これは落ちる、落ちますよぉぉ~っ! 先生ぃ~っ、お願いしますよぉぉっ…」 水木サン 「アンタ、背後霊じゃあるまいし、後ろに立たんでくださいっ!」(笑) スガチャン 「あああ~点々で目が回るぅぅ~っ!」(笑)。
 「なかなか個性的なご家庭ですね…」 と総評に入る担任の先生、いや、実にコメディの王道であります(笑)。

 しかしこの際、布美枝は藍子チャンが、行ってもいない高尾山に行ったという作文を書いていたことを知って、ショックを受けるのです。
 布美枝はそのことを藍子に問い詰めるのですが、ここで問い詰める、という方法は得策ではなかったですかね。 藍子チャンからは、当然のように反駁を食らいましたからね。 じゃあほんとうに高尾山に行こうか、というのがベストだと思ったのですが、このドラマはちゃんと、あとで素敵な解決策を残していてくれました。

 布美枝が子供のことにもっと目を配らなければならないとか、家の中で何もしてないとか、そんなふうに見るのは、前にも書きましたが、舅姑根性です。 そのことを明確にするために作り手がこの週再登場させたのは、布美枝の弟で婿養子に行った、貴司(星野源サン)でした。

 ミシンの販売員をやっていた貴司は、布美枝の長年使っていたミシンを見て、とても手入れが行き届いているミシンだ、と感心します。

 「姉ちゃんは、よーうがんばっとるよ。
 このミシン、使い込まれてよーう手入れされとる。
 これは、家族のために働いとるミシンだわ。
 姉ちゃんが家族のことを思って使っとるミシンだわ」

 この週の初めに、善子チャン(松本春姫チャン) のために作っていた、鬼太郎のぬいぐるみと、そのチャンチャンコ。
 袖を膨らませるかどうかを訊いていた、藍子チャンの服。
 さりげないことではあるのですが、布美枝が家の中のことをきちんとこなしている象徴が、このミシンだったのです。

 朝ドラヒロイン特有の、大きな夢とか野心とかが一切ない人物として、布美枝はちょっと、特別な存在です。 だからこそ、基本的な家事をこなしていることの尊さを、見ている側はこのミシンで感じるのです。

 高尾山の問題は、茂が富士山のふもとに別荘を購入する、という話で、発展的に解消します。
 布美枝の運転で一家4人がやってきたその別荘。
 わわっ、「北の国から」 だぁぁ~っっ!(笑)。 ボロッボロ(笑)。 屋根も赤いし(笑)。
 次の瞬間、純のイヤそーな顔、蛍の不安な顔をパブロフの犬みたいに思い出してしまいました(笑)。

 なにも考えていなかったような茂が、ちゃんと家族のことを考えている。
 この肩透かし感が、またこのドラマ独特の、安心感につながっている気がしてなりません。

 「父ちゃん、妖怪見たことあるの?」 と訊く藍子チャンに、電気のないロウソクの明かりのもと、茂はちっともたじろがず、こう言って聞かせるのです。

 「んー、ないなあ。
 お父ちゃんもはっきりと見たことはない。
 けど気配を感じたことは何べんもあるぞ」

 茂は戦争中にジャングルの中でぬりかべに遭った話や、天狗倒しの話をしながら、こう続けます。

 「昔の人は、いろんな妖怪の気配を感じて、それを言い伝えに残してくれとる。
 お父ちゃんはみんなが分かりやすいように、それをマンガや絵に描いとるんだ。
 目に見えるものしか信じない、というのはお父ちゃん間違っとると思うなあ」

 「見えるけど、おるんですね」 と布美枝。

 「ああ。
 お化けも妖怪も、見えんけどおる。
 人間はそういう不思議なものたちに囲まれたなかで、生きとるんだぞ」

 そして大きな物音を怖がる藍子チャンを見て、「それ見ろ! 怖がっとるのはお化けや妖怪を信じとる証拠だ!」 と指摘する。 なるほどです。

 見えなくなるものは、人の心も一緒です。
 忙しい、というのは 「心を亡くす」 と書く、などとよく言いますが、一生懸命になるあまりに、忙しさの中で何かが見えなくなってくる。 今まで見えていたものが見えなくなってくる。
 その見えないものに恐れおののいていては、その問題を解決することはできない。
 肝心なのは、それを恐れずに、仲間なんだくらいの気持ちで、不安や恐怖と付き合っていくことなのだ。
 週の終わりに、またとてつもなく深遠なテーマが隠されていたことに、あらためて驚きます。

 それにしても、藍子チャン役の菊池和澄チャン、布美枝の少女時代もそうでしたが、内気でネガティブな役をやらせると、とてもいいものを持っていますよね。 再来週まで出番があるようなので、楽しみに見守っていきたいと思います。

当ブログ 「ゲゲゲの女房」 に関するほかの記事
第1回 NHKのやる気を感じさせます
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-nhk-c7ac.html
第2週まで見てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-5cbd.html
第4週まで見てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/4-a685.html
第5週 ほんとうのスタートは、ここからhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-9d37.html
第6週 人事を尽くして天命を待つhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-3192.html
第7週 時代に流されていく人たちhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/7-6a9d.html
第8週 笑って生きよう、たとえ貧しくともhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/8-82ce.html
第9週 「生きるため」 と 「プライド」 の狭間http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/9-476d.html
第10週 ビンボー神の出るタイミングhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/10-8426.html
第11週 まあ…なんとかなーわね!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/11-e5c0.html
第12週 冷たい風に吹かれてhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/12-2a16.html
第13週 自分のいるべき場所http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/13-f9bf.html
第14週 自分の名前と自分の存在http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/14-30e2.html
第15週 夢をあきらめないで… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/15-19ee.html
第16週 性急に見える成功、ですが… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/16-7865.html
第17週 村井家ビフォー・アフター?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/17-d98c.html
第18週 「悪魔くん」 成功の裏で描かれるものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/18-6ede.html
第19週 漠然とした願いと覚悟との狭間http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/08/19-7dcb.html

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「A-Studio」 向井理クン マネージャーの大きな存在感

 鶴瓶サンとは 「家族に乾杯」 に続いての共演だと思う、向井理クン。
 そのせいか向井クンもリラックスした感じでしたし、鶴瓶サンの向井クンについての最後のひとり語りも、結構的確だった気がします。 向井クンの目にも涙、ちょっと意外でした。

 「ゲゲゲの女房」 で大きくブレークした感のある向井クンですが、登場の際の会場の反応もどよめきが大きく、その旬ぶりを伝えてくれます。

 番組ではやはり学生時代の友達とか、いつものパターンで向井クンの過去や素顔などを明かしていくのですが、それに対する向井クンの反応は、まあゲストには多いパターンなんですが、ヤバい話が出てくるのを、極度に恐れているような印象(笑)。 「この番組はもう、凄い好きなので、だけど、不安と期待がもう、ドロドロしてるんですよ、なにされるんだろうなっていうような」(笑)

 若気の至りでいろいろやらかしたのかな、と思いつつ見ていましたが、特に大した話が出るわけでもなく、中学時代のサッカー部の友達、岡田クンをいじりまくったとか、その程度の話。
 そんなもんかと思っていましたが、デビューしたての頃のマネージャーサンの話を聞いて、そのとっぽさをちょっと垣間見ることができました。

 芸能界には悪いイメージしかなくてもともと入る気などさらさらなかったらしいのですが、素人モデルの雑誌にたまたま出た時の写真を見た田島未来サンという現在の女性マネージャーが、向井クンを熱心にスカウト、仕事を始めた当初は芸能界の厳しさを向井クンに教え、その偏見を完全に覆したらしいのです。

 「(遅刻をすると)メチャクチャ怒られましたねー。 まあ当たり前ですけど。
 最初の年は毎日のように怒られてましたね、今考えたらホントに申し訳ないというか、考えられない行動ばかりしてましたけど」

 どんなドラマを見るかと聞かれて、「どうぶつ奇想天外」 と答えたとか(TBSのスタッフだからいいと思ったらしいです…笑)、ファッション雑誌に連れていくと、「服装に興味はない」 と言ったりとか(笑)。 田島サンは自分の培ってきた人脈をことごとく潰していく向井クンを、それはきつく叱ったらしいです。

 そんな田島マネージャー、朝ドラの仕事を以前一回断っていたのですが、再び朝ドラの仕事がやってきたとき、すぐに承知したらしいです。
 それは、「ゲゲゲの女房」 という題名が、気に入ったからだった、という話。

 「この人はすべてのカンがいいのね」 という鶴瓶サンに、向井クンも同意。

 「台本読むのも人一倍遅いですし、原作本読むのも遅いんですけど、もうその感覚はすごいです、信頼してるのでぼくも。 そこがブレると、ぼくもブレるんです。 だからそういうときはちょっと困るんですけどあんまりないです」

 なるほどなー、という感じでした。
 「のだめカンタービレ」 にしても題名がいいですし(笑)、このドラマは彼を生かすことができる、そう考える田島マネージャーのアンテナは、やはり鋭いようです。 その入れ込みようには田島サンの旦那も嫉妬するほどなのですが、向井クンに会ってそれも氷解したらしい。

 それにしても、「ゲゲゲ」 に準主役で出演しながら、同じような髪形で 「新参者」 に出演するなど、どうしてこういうことをするのかな、などと考えていた私でしたが、田島マネージャーの意図としては、向井クンを水木しげる役で固めてしまいたくはない、という思惑が働いているのだろうな、という気がしてきたんですよ。 「an-an」 でヌードになった向井クンでしたが、この仕事をとる時も、今後の活動方針を考えたら絶対やったほうがいい、と田島サンは向井クンをこんこんと説得したらしいです。 そしてその 「an-an」、歴代3位くらいの売り上げになったとか。 当てましたね(笑)。

 このトークを受けた、鶴瓶サンの番組最後のひとりしゃべり。

 「去年でしたか、田島が向井にメールを送ったらしいですよ。 人気がこう(上向いて)きて、テングになってるんじゃないかと。 いう思いがあったから、ダメよ、というのを、オブラートに包んでメールを送ったらしいですね。
 すると彼は、ダイジョブやと。 心配せんといてくれ。 しかし、たまにはそないして、自分の鼻を、へし折ってほしいって。 ゆうメールを送ってきてるんですね。
 マネージャーと、俳優とか、こういう芸能界の人っていうたら、どういう関わりなんか、皆さん分からないだろうけど、ホントにこう(ビッタリ)なんですよ、ばっちり登っていく人間は、こう(マネージャーと一体)なんですね。
 もうひとつ、田島サンが芸能界入れいうたから芸能界入ったと。 田島サンが違う仕事なら私は違う仕事やってたと。
 これはね、ホントに、マネージャー冥利に尽きるなあ思いました。
 出会いは感動であり出会いは必然であるいう言葉あるんですけど、まあ、まさにこれですよね」

 これを舞台裏で聞いていた向井クンは、涙を浮かべていました。 どんなにか向井クンにとって、このマネージャーの存在が大きいのかを、強く感じましたね。 涙をぬぐいながらテレ笑いをする向井クン、私が女だったら、たぶんほっとかないでしょう(笑)。

 それにしても、大学では遺伝子操作のテーマで英語の論文を書き、賞まで取ったということなのに、卒業後はバーの店長をやったりとか、彼をそこまで冒険させるものは、やはり放任主義だったお母様の影響と、頑固(意固地?…笑)なお父様の影響があるのかな、そんなことも感じた、今回の 「A-Studio」 でした。

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「色つきの悪夢」 薄れゆく戦争への認識、その移り変わり

 第二次世界大戦の記録フィルムにデジタル彩色を施した映像を、NHKで放送していました。
 このカラー映像自体はすでに見たことがあったのですが、今回趣向が変えられていたのは、この映像を若手俳優・タレントたちに見せてその感想を語らせるところ。
 その顔触れは、斎藤工サン(「チェイス」 では金持ちのボンボン、「ゲゲゲの女房」 で小峰を演じてましたね)、溝端淳平サン(「新参者」 で、阿部寛サンの助手をやっとりました)、中尾明慶クン(「ROOKIES」 が出世作でしょうが、私は 「金八先生」 からのイメージが抜けません)、中山エミリチャン、倉科カナチャン(言わずと知れた、「ウェルかめ」 ですね)。

 この中でいちばん考えがしっかりしているな、と思ったのは、斎藤工サン。
 中国や韓国に行った時に、戦争について無知であることの怖さを感じた、とか、高校時代の終わりに日本に侵略された側から撮られた戦争の記録を見せられショックを受けたとか、彼なりの戦争に対する認識を深めている点では、ただショックを受けているようにしか見えなかった(失礼)倉科カナチャンなんかよりも、ちょっとはましかな、と。
 でも倉科カナチャンにしても、こういう機会を与えられたことは、決して無駄ではない気はするんですよ。 戦争の悲惨さ、というものはやはり、日本人として、人間として、どうしても知らなくてはならないことだと思っていますので。
 溝端淳平クンにしても、一方から見た正義ではない、被害者と加害者の壁を取り払った、彼なりのバランスを探しているような真摯さを感じましたし、こういう記録に触れることの重要さは、とても感じます。

 しかも、中尾明慶クンが感じていたように、もともと白黒の記録映画をカラーで見ることは、現代のクリアな映像が当たり前として育ってきた世代にとっては、より身近に65年前の戦争を感じられる契機となったようです。
 なるほど、私どもの世代(1965年生まれです)にとっては、子供時代、ニュース映像というのはフィルム映像なのが普通でした。 それがビデオ映像になったのは、昭和50年代半ば(1980年前後)だったような気がします。 私どもの世代にとっては、戦争の記録フィルムの粗い映像も、白黒であったとはいえ、ビデオ映像が普通な世代よりもまだ現実味があったんでしょうね。 昭和45年(1970年)ごろまでは、白黒のテレビもまだまだ一般的でしたから、白黒に対する抵抗感もなかったでしょうし。

 それにしても、戦争についてどう考えるのか、という日本人の気持ちは、時代の流れの中で、徐々に変質してきたように思えるのです。

 特に今年の広島・長崎の体験談、みたいな特集をNHKラジオで聴いていて(NHK総合でも連動してやっていたようです)、その悲惨な体験に悲しみを新たにしながらも、なんだかヤケに情緒的な方向ばかりに話が行っている気がしてならなかった。
 原爆が投下されてからの家族の絆を切々と語る投書。 その被爆者たちの、目をそむけたくなる凄惨な状態。 そのひとつひとつが、こんなことは絶対体験したくない、戦争なんか絶対に嫌だ、と思わせるにじゅうぶんの内容なのです。 この部分に異を唱えるものでないことは、これを読んでいるかたにはご理解いただきたい。
 そのうえで申し上げるのですが、にもかかわらずそこには、どうして自分たちがそんな目に遭ったのか、という視点が欠けている。

 それは、戦争を実体験として語る人々が、当時子供だったことが大きな原因として挙げられます。
 当時のことを大人の視点からトータルに回想し、伝えられることのできる人は、少なくとも終戦当時15歳以上、現在80歳以上の人でなくてはならない、そう私は考えます。 そんな高齢の方々から戦争の体験について聞くことのできる機会は、もうすでに風前の灯レベルにまで先細っているのです。

 戦争が終わってしばらくのあいだ、戦争に対する認識というものは、一億総ざんげ、と表現されたように、自分たちが間違っていたのだ、という自虐的な心情に支配されていたような気がします。 そしてその反動として、「真相はこうだ」「悪いのはやつらだ」 という、戦犯の責任を追及するような吊るし上げが同時に行われていく。

 「安らかに眠ってください 過ちは二度と繰り返しませぬから」 という広島原爆の碑文に書かれている文言は、そんな流れの中で自然とわき上がっている言葉のように思えます。 とにもかくにも、当時の日本人の心情としては、「戦争はもうこりごりだ。 絶対にもう嫌だ」 というものが、いちばん正直なところではなかったかと思うのです。 安保闘争も、この厭戦の大きな心情のうえに、成り立っている。 共産主義との思想と簡単に結びつきやすかったのも、大きな特徴のような気がします。

 その、日本人の先の戦争に対する意識が最初の変質を始めたのが、「戦争を知らない子供たち」 が流行った1971年ごろだったのではないでしょうか。
 この曲は今日ではその意義が大きく見直されている気がしますが、当時としては、「戦争を知らないけどそれがどーした」、という、結構開き直りの混じった、戦前戦中派の人々からしてみれば、チャラチャラした曲だった気がしてならないのです。 「髪の毛が長い」 という言葉がこの曲の中に出てきますが、男が髪の毛を伸ばす、という行為が、当時どれだけ常識にもとる行為だったか。

 正確に言えば、戦後20年の昭和40年(1965年)、戦後生まれの世代が成人を迎えて発言権を持ち始めたころから、戦争に対する思想は変質を始めている。
 戦争というものを自分たちの生き方のアンチテーゼとして距離を持ったとらえ方をしようとする動きです。 「戦争を知らない子供たち」 は、いわばその象徴です。

 それから10年後の昭和50年(1975年)、戦後30年くらいになってくると、70年安保のゆきすぎた過激ぶりに嫌気をさした人々が、急速に 「シラケ世代」 として戦争から大きく距離をとるようになってくる。
 私もこの時期、小学校で日本史のお勉強をするようになるのですが、肝心の授業では昭和史などオマケみたいなもので、実際に戦争の悲惨さを体験したのは、社会科の副読本であったりとか、テレビドラマの戦争ものだったりしたものです。

 文部省の昭和史隔離政策が功を奏して、私が二十歳になった昭和60年(1985年)、戦後40年くらいになってくると、アメリカと日本が戦争したことも知らないような人たちがテレビでぼちぼち取り上げられるようになってきました。 そしてその後は、戦後の自虐史観に対する反動などが起こって、先ほどの 「過ちは二度と繰り返しませぬから」 という言葉にも、「過ちとはなんだ、正しいと思うことを自分たちはやってきたんじゃないか」、という考えが台頭するようになってきた。 中国や北朝鮮、韓国がいつまでたっても日本に謝罪や賠償を求め続けることへのいらだちも、そこには混じっている気がする。 それは、先ほどの共産思想とは逆に、右翼思想と安易につながりやすい傾向を持っています。

 私はつくづく思うのですが、戦争が起こす悲惨さ、残酷さというものは、どうにも隠しようがない事実です。
 きれいな戦争、などあり得ようがない。
 第二次世界大戦、大東亜戦争は、「映像によって残された」、人類史上最も悲惨な戦争、と呼ばねばなりません。
 実は、これは結構重要な気がします。
 為政者や名将校がいくら理路整然と立派な大義名分を掲げていても、最下層でバタバタ死んでゆく兵士たちのやっていることは、血みどろの殺し合いだ。
 そこには、人間として考えられない歪んだ行動も、必然的に行なわれてしまうものなのだ。
 それが先の大戦では、たまたま大量に、記録として残された。
 けれども人類の有史以来、そんな残虐な行為など、戦争では当然のように行なわれ続けてきたのではないのか。

 相手を憎むことの愚かさ。

 相手を理解しようとしないことの愚かさ。

 相手をいためつけ殺しても成立する自分たちの正義がある、という大いなる錯覚。

 時代がいくら変わろうとも、我々はそのことを学び続ける必要が、あるのではないでしょうか。

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2010年8月12日 (木)

「ジブリ 創作のヒミツ 宮崎駿と新人監督 葛藤の400日」 見ました

 ここ数年、ジブリ映画が公開されると決まって放送される気のする、NHKのドキュメント。 なんだか四六時中、NHKのカメラはスタジオジブリに常駐している気さえするのですが(笑)、NHKのカメラにさらされながら、そこから見えてくるのは、宮崎駿氏の心象風景そのもののような気がするのです。

 私も 「ルパン三世ファーストシーズン」 からの宮崎駿フォロワー(もちろん無意識レベルですが)としては、今回 「借りぐらしのアリエッティ」 という映画の監督に抜擢した米林宏昌サンに託す宮崎サンの思いというものは、なんとなく伝わってきます。
 NHKの見立てとしては(つまり番組での解説では)それは今年69歳という老境に差し掛かり、後継者の不在に悩む宮崎監督、という構図なのですが、私の見立てはちょっと違う。
 宮崎サンにとっては、ジブリの後継者などどうでもいいように、私には思われるのです。
 宮崎サンが見据えているのは、自らが大事に守ってきた日本のアニメーションの将来なのではないでしょうか。

 近年CGによるアニメーションがますます進化していき、もはや表現できないものはない、というレベルにまで達しています。
 宮崎サンのアニメは、それとは対極の位置にある。
 宮崎サンのアニメは、エンピツ一本で作り出すことのできる、ペラペラマンガの延長線上にいつも存在している、と私は考えています。
 そしてジブリのアニメの良さは、まずはなんと言っても話の面白さ。
 ストーリーもさることながら、キャラクターに人を惹きつけてやまない魅力がある。
 そしてそれを最も効果的に見せることのできる、細かい心情を表す動きの演出。 そしてアニメでしか表現できない、大胆でダイナミックな大きい動きの演出。
 ジブリのアニメをジブリのアニメたらしめているのは、実にこれらの点に集約されている。

 そして今回、宮崎監督に抜擢された米林監督、通称 「麻呂」 サンの演出は、「キャラの細かい心情を表現する」 という点においては、番組を見る限り及第点レベルに達しており、ジブリイズムを継承する監督の誕生、という感を強くしました。

 麻呂サンに対する宮崎サンの介入は一切なし。
 これはかつて 「耳をすませば」 で監督に抜擢した近藤喜文サンが、この映画の心労がたたったこともあってか、公開2年後に47歳の若さで亡くなってしまう、という苦い経験が、宮崎サンの胸に棘のように残っていることが原因です。 近藤喜文サンについて宮崎サンが語るのを直接見たのは、個人的には初めてでした。

 「彼はあれが終わってから、急に老けこんじゃいましたよ。
 急に老けこんで、急に死んじゃったんですね、47で。
 だから登ってったんじゃなくて、終わりを渡しちゃったような気がして…。
 …残念ですね…」

 真面目なことを話しながらテレ笑いのように笑うのが宮崎サンの癖なのですが、笑った直後に感慨が襲ったかのように押し黙り、絞り出すように 「残念ですね」 と語っておいででした。 私もちょっと、もらい泣き。

 それからというものの、宮崎サンが監督に推す人間は米林サンまで出てこなかったわけですが、ジブリのほかのスタッフの様子を見ていると、それがなんとなく納得できるような気がするのです。

 ジブリのスタッフたちは、米林サンが監督に推され、最初の絵コンテを宮崎サンにチェックしてもらわなかったことで、ことさら驚きの声をあげる。
 これはいかに彼らが、宮崎サンのゴーサインが出なければ先に進めないかを、如実に語っているシーンのような気がしました。
 そしてあるシーンのラッシュで、そのシーンがよくないことがなんとなく分かっていながら、試写のあとスタッフの誰もが押し黙ってしまう場面。 指示待ちの人間ばかりだから、ここからサジェッションに発展しない。
 テレビカメラはこんなジブリのスタッフの様子を、残酷なまでに忠実にさらけ出してしまう。

 そんななかで麻呂サンは、もぞもぞと口ごもりながらも、自分の仕事を身も心もボロボロになりながら、完遂していく。
 肝心の映画をまだ見ていないもんですから、先に挙げた 「キャラの細かい心情を演出する」 という点では及第なような気がするのですが、キャラの魅力とかはどうなのかなー。 ネットで散見する 「アリエッティ」 の感想を見ると、麻呂サンの見せていた性格的な弱々しさがそのまま作品に反映しちゃっているような、そんな危惧もおぼえますが。
 でも試写を見た宮崎監督の目には、涙が。
 そして試写が終わったや否や、麻呂サンの手を高く持ち上げ、彼はやり抜きました、という評価をした、宮崎サン。
 宮崎サンの不安やいら立ち、葛藤を見てきたこともあってか、この場面には私もジーンときて涙が出てきました。

 「アリエッティ」、見に行こうかな。

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「いきものがかり吉岡聖恵のオールナイトニッポン」 ブッ飛んでます

 ニッポン放送水曜深夜25時(木曜午前1時)から放送されている、「いきものがかり吉岡聖恵(きよえ)のオールナイトニッポン」。 近ごろ夜勤をやっている関係上よく聞くのですが、これがなかなかのブッ飛び加減でとても面白い。
 ただしここで 「聴く」 ではなく 「聞く」 と書いたように、実際あまり真面目に聴いているわけではありません。
 それでも、いきものがかりのヴォーカルである吉岡聖恵チャンがここまでのハチャメチャキャラだったというのはとても意外で、その意外性というのが、かつての中島みゆき嬢の 「オールナイト」 を連想させるのです。 この意外性という点に、私はとても魅力を感じる。

 それにしても 「オールナイトニッポン」、もうン十年も御無沙汰だったせいか、そのラインナップには、ちょっとめまいを覚えるほど。 月曜日、かつてのみゆき嬢の枠が城田優クン、「天地人」 で真田幸村をやってた人ですね、火曜日がはんにゃ、水曜が聖恵チャンで木曜日がナイナイ(今は岡村クンが休養のため矢部クンが単独でやっております)、金曜日がAKB48で土曜日がオードリー。 私の世代でも時の流れを感じるのですが、かつての 「オールナイト」 のリスナーで現在聴いていない人は全員、そんな思いをするのではないでしょうか。

 その中で私が積極的に聴きたいな、と思うのは、聖恵チャンのオールナイトなのです。
 ま、「ゲゲゲの女房」 の主題歌を歌ってるとか、小田和正サンの 「クリスマスの約束」 で 「帰りたくなったよ」 を聴いていいなーと思ったとか、その程度の興味だったのですが、この番組で見せる聖恵チャンのキャラは百花繚乱、多重人格のごとき(笑)豹変ぶりで、もう若くない私には、ちょっとついていけないところがある(笑)。

 特に午前2時ごろから始まる 「ホトケのきよえ」 のコーナー。
 いきなり聖恵チャンが 「ホトケのきよえ」 になり(笑)、裏声のまんまでしゃべりだすんですよ。
 コンセプト的には、「ゲゲゲの鬼太郎」 の目玉おやじ、という感じかな~。 目玉おやじよりはカワイイ感じですけど。 私のイメージとしては、「電脳コイル」 の 「オヤジ」 がしゃべっている、みたいな感じ(笑)。
 この 「ホトケ」 さまがリスナーのざんげ話を聞いてそれを浄化させていく、という、発想的には昔からあるパターンのもの(笑)。

 ところがこの目玉おやじ、いきなりブチ切れるんですよ(笑)。

 その人格交代キャラは聖恵チャンの関係者らしくて(笑)、聖恵チャンの昔話をブチ切れながらまくし立てる(笑)。
 なんか、最初聴いた時は、とても異様な世界に入ってしまった感覚に襲われました(笑)が、今では 「ホトケのきよえ」 チャンの可愛いキャラとブチ切れキャラの落差が快感になってきました(笑)。

 フリートークの部分も結構面白くて、昨日(今日か)は友人の結婚式に行って隣席の男性から横柄な態度をとられたが、聖恵チャンがいきものがかりのメンバーだと知った途端態度がコロッと変わったとか、「キミがいる」 のシングルが売られているかどうかの確認に行ってたとか、まあちゃんと聞いているわけではないので内容は不正確ですが、その話の組み立て方がうまいんですよ。 学生時代に放送部だったらしいのですが、その経験が生きているような印象を受けます。

 そしてエンディングは毎回(ほぼ)、私のお気に入りの 「帰りたくなったよ」。 聖恵チャンにとっても特別な歌のようですね。

 それにしても彼女が、ここまでのブッ飛びキャラだったとは…。
 意外な一面に、毎回驚かされ続けております。

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2010年8月10日 (火)

新しいクロレッツ、味が30分続く衝撃

 久々にテレビ以外の話題です。 ちょっと短めに。

 昨日クロレッツを買ったのですが、あの、ガムのクロレッツ。
 もともと2.5倍、味が持続するというのはこのガムの売りだったわけですが、「さわやかさ続く!30分」 とか書いてある。 「改良されたのかな」 と思って試してみたら、

 …これがほんとに、甘さが30分継続するんですよ!

 なんだコレ(笑)。

 感動的ですらありますね、コレ。 味が長続きする、ってだけで、ガムをもう5倍くらいまとめて買った気がします。

 それでかえって困ったのは、アゴがくたびれる(笑)ということ。
 それ以上に、同じガムを30分も続けて噛んでいる、という経験、というもの自体がそもそもないわけですよ。 そりゃ惰性で噛んでいる場合もありますけど。
 つまり、まだ味が残っているのに、出さなければいけない状況も、多々あるわけです。
 得意先との話の最中なのにガムを噛んでいるとは何事か!みたいな(笑)。
 途中で食事しなければならなくなったりするケースもあると思いますし。
 惰性で噛んでいる場合なら、何の躊躇もなくゴミ箱行きですが、もったいないから一度包み紙に戻して…(笑)…みたいなことも、あり得てくる。

 これってこれまでのガムをめぐる我々の常識を、完全に覆すほどの(オーゲサ…)価値観の逆転ではないでしょうか?

 これを食べたら、もうほかのメーカーのガムなんか、噛んでられません(笑)。 あっちゅーまに味がなくなってしまう感覚です。 一度お試しあれ。 ガム本体のわきに、「さわやかさ続く!30分」 と書いてあるのがそうです。

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2010年8月 9日 (月)

「龍馬伝」 第32回 「覚悟を決めろ、西郷」

 長州との和合の地である下関を素通りして京に行ってしまった西郷吉之助(高橋克実サン)。 西郷を追って、龍馬(福山雅治サン)と中岡慎太郎(上川隆也サン)も京入りします。

 ただし脱藩浪人であるふたりとも、京に入るのは相当な危険を伴っている。 その危険の象徴的存在が新選組、そしてその頭目、近藤勇(原田泰造サン)なのです。
 龍馬が狙われるのは、彼が薩長同盟に奔走しているからではなく(世間に知られとりませんからね)、この 「脱藩浪士」「もと土佐勤王党」 というファクターでしかない。 そこに作り手は、もうひとつの要因を絡ませてくる。
 それは近藤をお龍(真木よう子サン)目当てで寺田屋にやって来させ、寺田屋にやってきた龍馬とひと悶着を起こす、という展開です。

 これもあり得ないと言えばあり得ない話なのですが、このエピソードは見ている側から言わせていただければ、実に緊迫感があって面白かったです。
 龍馬はいったん、お登勢(草刈民代サン)に諭されて寺田屋をあとにしようとするのですが、お龍が近藤につかまっていると知り、お登勢の止めるのも聞かず、近藤の部屋を急襲、お龍との三角関係勃発、…と思いきや(笑)、西郷の遠縁である薩摩人を騙って近藤に接近。 お龍を巧みにその場から排除して、最初のうちはおべっかを使いながら、だんだんと近藤のトサカを刺激する本題に入っていく。

 「新選組は、幕府に盾突く者を片っ端から捕えちょっそうでごわんどなあ。
 ただ命じられたまんまに動っとは、イノシシを追う犬と、同じでごわんど。
 そん剣の腕は、日本のために役立てるべきじゃごわはんか?」

 おだてられ、調子に乗っていた近藤の顔に、殺気が漂ってくる。
 刀を抜こうとする近藤に龍馬は刀の柄でみぞおちに一発、近藤を気絶させるのです。

 その場に飛び込んできたお龍に、龍馬はこう吐き捨てます。

 「もし亀弥太が斬られちょった直後じゃったら、わしはこの男を斬っちょったかもしれん。
 けんど、それをやったら…
 わしも同じじゃゆうことになる!」

 その後起きてきた近藤は、「あの男はどこへ行った?」 と当然ながらお登勢に詰め寄るのですが、お登勢の嘘を瞬時で見破り、龍馬が岡田以蔵を逃がしてやった男だと、驚異の記憶力で思い出すのです。
 この一連の近藤の描写は、近藤の切れる男ぶりを見る側に強烈に印象付ける気がしてなりません。 凄みがじゅうぶん、伝わってくる。

 ところで今回、龍馬を狙う本命の男が登場します(笑)。
 その男は龍馬が風呂に入っているところを急襲(笑)、裸の龍馬にいきなり抱きつき、風呂の外でまきを燃やすお龍との三角関係勃発、…と思いきや(笑)、その男はなんと、千葉重太郎(渡辺いっけいサン)。

 「佐那と夫婦になってほしい」 と頼みにわざわざ京までやってきた、…とよく考えてみればどーやって龍馬が京にいると分かるのだ?という話なのですが(笑)、ここでの重太郎サンの登場は、お龍に自分の龍馬へ対する恋心を自覚させる契機となり、さらに近藤に、龍馬が北辰一刀流の使い手であることを知らしめる、という意義を、作り手は持たせているのです。 そしてとどめに、重太郎に龍馬が抱えている志を思い知らせることで、見る側にも龍馬がいかに大変なことを成し遂げようとしているのかを強く印象付ける意図もある。
 佐那との結婚依頼を龍馬が断るところを、ふすま越しに耳をダンボにして聞いているお龍(笑)。 キャワイイです(笑)。
 龍馬と並んで寝ていたところを近藤に急襲(今日は、急襲が多いなあ…笑)され、バッと起きてそれと対峙する、重太郎。 カッチョイイです(笑)。
 相手がすごい剣の達人だと知って、喜悦の表情を見せる近藤。 うーん、病的です(笑)。

 「ひとりのおなごを幸せにするために生まれてきやはったんやないのよ。
 あのお人が幸せにしたいのは、世の中すべてのお人なのよ」

 お登勢にこう語らせることで、重太郎は龍馬が佐奈だけのものにはなりえない人物だということを痛感する。
 でも、結局お龍とは、いっしょになっちゃうんですけどね(笑)。

 この一連のエピソードも実に面白かったですが、西郷との面談のシーンも、シビレましたねー。

 最初、京の薩摩藩邸に来た龍馬と中岡は門前払い。
 憤る中岡に、龍馬は 「会わないのにはわけがある」 と、すごすご引き返す。
 この龍馬の押したり引いたりの感覚が、素晴らしいんですよ。
 ここは引くべきだ、そう思ったら、深入りはしない。

 案の定後日西郷に呼ばれた龍馬と中岡は、のっけから西郷に土下座の謝罪を受ける。
 船に幕府の間者が侵入していたため、ここ数日様子を見ていた、とのことですが、登場早々に土下座する西郷の潔さは、あっぱれですね。 それはけっして卑屈なものではなく、かえって人物の大きさを実感させるのです。

 ただここまでの西郷の行動には、どうも気遅れというものが、見え隠れする。

 もし幕府の間者が下関を素通りした原因だったとすれば、中岡に言質を持たせてもよかったし、薩長同盟に動いている龍馬たちとの接触を拒むとか、神経質にならなくてもいい気がする。

 龍馬は恐らく、その西郷の弱気を察知したと思うんですよ。
 言葉だけの説得によって西郷を動かそうとする中岡に対して、龍馬は 「軍艦と銃の手土産を長州に持っていったらどうか」、と提案するのです。 ここで今回冒頭、高杉(伊勢谷友介サン)が、その調達ができなかったと桂(谷原章介サン)に謝る場面が生きてくる。

 「もう言葉だけじゃ、長州は信用してくれんがじゃ。
 薩摩の覚悟を示さんといかんぜよ!」

 龍馬はまたもや、西郷を強く叩きにかかっている。

 西郷はここで強く響くかと思いきや、「じゃっどん、そいをやってしもたら、幕府に戦を仕掛くっくと、同じこつごわんどな…」 と、また弱気を見せる。

 それに対して龍馬はきっぱりとこう言い切るのです。

 「そうじゃ。
 もう、後戻りは、出来ん」

 西郷はようやく、龍馬の提案をのむのですが、中岡と喜ぶ龍馬を見ながら、ようやく龍馬が歴史を動かし始めた、という興奮を感じましたです。
 ますます面白くなってまいりました。 ただその感想文を書くのは、ますます骨が折れます…。

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2010年8月 8日 (日)

リーマンショック以降につくられた 「ハゲタカ」

 中国資本による日本企業買収、という新たなテーゼを提供しようとした、映画版の 「ハゲタカ」。
 ところが制作中にリーマン・ショックが経済の動向を大きく変えてしまい、大幅なシナリオの書き直しを余儀なくされた、という話であります。
 それも、(あっ、ネタバレです)そのリーマンショックの仕掛け人を鷲津(大森南朋サン)にしてしまう、という、大胆なお話に(笑)。
 その結果、今回の鷲津サンは 「腐ったアメリカを買い叩け!」 となるのですが(笑)、テレビシリーズで逆のことを見せつけられ続けてきた側としては、ちょっと胸のすく思い、というか。

 いずれにせよ、中国が共産主義から当の昔に脱却しているのに、相変わらず共産党が政治的主導権を握っている、という 「完全管理型資本主義」 みたいな不自然さというものは、この続編からもぷんぷん匂ってくるのです。

 ブルーウォールという中国政府が裏で管轄している投資ファンド会社が、日本のアカマ自動車という一流メーカーを買収しにかかるのですが、テレビシリーズと違っているのは、アカマ自動車は経営不振に陥ってはいるというものの、いかにも分かりやすい原因、というものがない。 テレビシリーズでは企業の私物化とか別分野に手を出して失敗とか、実に分かりやすい原因というものがあったのですが。

 このアカマ自動車の社長が、遠藤憲一サン。
 どうもいかんですなあ。
 なんか遠藤サンって、この手の社会派ドラマに数多くご出演され過ぎているおかげで、「アレ?『ハゲタカ』 でもどこかのエライ人じゃなかったっけなー、アカマにヘッドハンティングされたのかなぁ?」 などと一瞬混乱(笑)。 あ、あれは 「外事警察」 だった(笑)。

 そのアカマの役員として迎えられているのが、柴田恭兵サン。
 ブルーウォールの尖兵を務める劉一華(玉山鉄二サン)と戦うために、南の島でのんびりしている鷲津にホワイトナイトの要請をするのです。
 って南の島って、あ、あれは 「チェイス」 のARATAサンだったか(笑)。

 今回の映画のほとんど主役、とも思えるのが、この玉山鉄二サン。
 柴田サンは大幅に出番をなくし、大森サンも玉山サンの添え物みたいな感じだったよーな気が…。
 ところがこの玉山サン、素性がいっこうによく分からないのです。 私の頭が足りないせいでもあるんですけどね。
 映画ではその素性がきちんと説明されてはいたんですが、やっぱりその彼がどんないきさつであーなっちゃったのか、というのがきちんと見えてこない。 テレビシリーズで5回くらいでやったら、そこらへんの説明もついたんだろうなー、とは思いました。

 映画化された 「ハゲタカ」 でも一貫していたのは、日本企業や資本主義にとってもっとも大事なこととは何なのか、という視点でした。
 柴田サンが遠藤サンに力説していたのは、「企業は夢や希望を担う」、という視点です。
 鷲津の行動から見えてくるものはもっと屈折しているのですが、やはり資本主義にとって最も大事なものは何なのか、という点に、行動が集約されている。 鷲津のやりかたは常に逆療治、ショック療法なのです。

 そして玉山サンが企業買収で使った手口には、さらに屈折した形で、資本主義の問題点をえぐり出している気がする。
 玉山サンはアカマの派遣社員をやっていた守山(高良健吾サン)をスケープゴートにして、アカマの経営陣を揺さぶりにかかるのですが、この期間労働工という雇用のありかたには、かつての共産主義による資本主義攻撃のスローガン、「搾取」 という問題が象徴化されている気がするのです。
 玉山サンはそれを、「生ぬるい地獄」 と表現するのですが、これは実に言い得て妙です。
 労働者階級は、いくら時代が変わろうとも、経営者にいいようにこき使われ、懇親会とか飲み会とかの名目で、生ぬるく飼いならされている。
 いったい労働者にとって、労働価値の等価交換という課題は克服されているのでしょうか?
 映画のなかでは劉一華にあおられた守山がデモ組織を誘導していくのですが、たいていの会社に対する不満は、飲み屋での愚痴とか、仕事自体の改善要求、という部分で矛が収まってしまう。
 経営コンサルタントが法外な報酬を得ていることと、末端の労働者が働く対価と、天地ほどの隔たりがある、ということを、この映画では玉山サンがあぶり出しているのです。
 その問題を克服しようとした共産主義がさらに屈折した資本主義を生み出そうとしている。
 エライ皮肉な気がします。
 中国社会も、そのひずみが徐々に顕在化しつつある段階に突入しているのではないでしょうか。 劉一華がひとり、口封じのように消されてしまっても、その歪みは隠し通せるものではなくなってきている。

 いずれにせよ、投資家たちが目先の利益に固執して、ギャンブルみたいな投資に汲々としているようでは、健全な資本主義など育っていかない、そんな思いを強くした、今回の2009年版 「ハゲタカ」 なのでありました。

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2010年8月 7日 (土)

「うぬぼれ刑事」 第5回 ディティール崩壊していくドラマ?

 毎回同じ展開…だと思いきや、変化球を投げてきた(笑)、「うぬぼれ刑事」 第5回。
 今回のマドンナ役は、薬師丸ひろ子サン。
 ドラマでは薬師丸サンを、神々しいばかりにピカピカにライトアップさせるのですが(笑)。

 私が見ていてすごいと思うのは、このドラマ、回を重ねていくごとに、だんだん話がグダグダになっていくところ(笑)。
 つまり、長瀬クンがマドンナ役を好きになるという理由、きっかけが、回を追うごとにムチャクチャになっていくんですよ(笑)。
 今回は前述の通り、薬師丸サンに後光が差していた、という理由(笑)。
 クドカンサンは、いったいこのドラマをどこに向かわせようとしてるんでしょうか?
 物語全体の世界がディティール崩壊していくというのは、「ハリー・ポッター」 のような…いや違うか…(笑)…子供向けの童話によくあるような、もしくは巨匠の大失敗作によくあるパターン…(笑)…。

 いずれにせよテンポが速く、こちらも身構えていないとワケが分からなくなるような、話の展開。 漫然と見ていると、うぬぼれ4の話から、はじき飛ばされる(笑)。 こちらのメンタルを試すような強烈な身勝手さを、このドラマには感じるのです。 しかもこれらのギャグに嫌悪感を抱き始めたら、即終了、という危険な賭けも感じる。 うぬぼれ4もさることながら、森下愛子サンの一言もセリフのないチョー過激なママの存在などは、視聴者を大きなふるいにかけ取捨選択する傲慢さも感じる。 私はこのママには、とてもハマっておりますが(笑)。

 「おふざけ」 というものがどこまで視聴者に受け入れられるのか。

 残念ながら今のせちがらい世の中には、このようなおふざけは失望と怒りによってしか受け入れられないような感じがします(特に視聴率の推移を見ていると)。 しかも黄金のワンパターンだし(笑)。

 そのワンパターンの象徴であるラストの婚約指輪と逮捕状の選択(この、白いスーツの長瀬クンに至るまでのストーリーが、今回は特にハチャメチャだった気がします…いきなり薬師丸サンに自首させてたし)。
 このワンパターンを今回突き崩し、薬師丸サンは婚約指輪を受け取ろうとするのですが、「これを受け取ろうとするあなたの笑顔は曇っていたっ!」 とか長瀬クンにしゃべらせて(笑)、長瀬クンのほうからこの選択を拒絶させてしまう。

 確かにですね。

 薬師丸サン、光輝かせるには失礼ながらちょっとお歳を召していらっしゃるんですが(私と同学年なんですけど)(重ねて言えば、同年代としてファンであります)、低音でしゃべる彼女は、今までに見たことのないくらい色っぽかったであります(また下世話な感想で、申し訳アリマセン)。

 それにしても話が、ハチャメチャだったなー(笑)。 これを楽しめる側の人間で、そしてノーテンキな精神状態で、よかったです、…今の自分が(笑)。

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「ゲゲゲの女房」 第19週 漠然とした願いと覚悟との狭間

 「ゲゲゲの鬼太郎」 という題名の誕生秘話を織り込み、「鬼太郎ブームがやって来た」 などという副題がついていながら、「ゲゲゲの女房」 第19週の話のメインは、布美枝(松下奈緒サン)の妹で上京中のいずみ(朝倉えりかチャン)と、茂(向井理クン)のアシスタント倉田(窪田正孝サン)とのラヴ・ストーリー。 現代よりもだいぶ奥手の、まさしく 「前世紀の遺物」 的な(笑)秘められたスローモーションの恋愛が展開していくのです。 この奥ゆかしさが、なんと言っても心地よい。 そしてそこから見えるものは。

 いずみチャンは、当時の女性としては相当進んだ感覚。
 厳格な父親(大杉漣サン)と真っ向から対立していたのも記憶に新しいですが、布美枝の出産に伴う手伝いが大きなチャンスとばかり調布に居ついたままなのです。

 彼女は、自分が東京で、何かできるかもしれない、という、漠然とした夢を描いている。
 だからおつかいで出向いた少年ランドの編集部の様子に目を輝かせ、加納(桜田聖子サン)のビジネスレディぶりにも大いに触発される。

 そんないずみチャンに実家からお見合いの話が舞い込むのですが、布美枝は厳格な父親にあまり逆らうことなく育ってきたからなのでしょう、いずみチャンがどんな思いで東京に出てきているか、そして彼女が誰を好きになっているかにあまり頓着せず、見合いの話をいずみチャンに勧めるのです。
 そんな布美枝に、いずみチャンは激しく反発します。

 「女の人だって今は、布美姉ちゃんみたいに旦那さまあてにして生きていく人ばかりじゃないけんね!」

 ここでのいずみチャンのキツーイ一発は、小太りの編集者北村(加治將樹サン)とかサエないスガチャン(柄本佑サン)とか(笑)名前をあげて、いずみチャンの本命を言い当てられずにいる布美枝へのいらだちも混じったんだと思うんですよ(笑)。 言ったそばから 「あっ…」 と気付いて、言ってはならないひとことを言ってしまったことを後悔するいずみチャン。
 布美枝も 「痛いところを突かれた」 という感じで、なんとも言えない複雑な表情をするのです。
 松下サンの顔の演技って、この前も指摘した気がするのですが、ちょっとハッとさせられる時があります。

 布美枝はいずみチャンに改めて、こっちで何がしたいのか話してほしい、と尋ねるのですが、いずみチャンにも、自分がいったい何がしたいのか分からない。
 というより、倉田クンが自分のことをどう考えてるのかが分からない(笑)。 「仕事探そうかな」 などと言っておいて、結局それかい!(笑)と言いたくなりますが、漠然としたビジネスレディの願望よりも、恋愛問題のほうがよりリアルだった時代なのですから、仕方ありません(笑)。

 いずみチャンの 「後悔の一言」 は、懐かしい中森(中村靖日サン)が村井宅を訪ねて来た時に打ち明けた話で、その氷解のきっかけをつかむのですが。

 その昔、夜中にトイレを借りようと降りていくと、夫婦揃ってカリカリとマンガを描いているのを見た、「あの頃の、先の見えない泥沼のような苦しさ、あれを乗り切ったのは、奥さんが一緒にいたからこそですよ」 と語る中森の言葉に、中途半端ではない苦労が成功に至るまではあったのだ、という認識を強くするいずみチャンなのでした。

 あの一言を謝るいずみチャンに、けれども布美枝はこう答えるのです。

 「ここでやっていくしか、なかったんだもん。
 それに、悪いことばかりじゃなかったけん。
 いつもとなりで、茂さんが仕事しとった。
 ペンの音が聞こえてきて、マンガ描いとる背中が見えて。
 あのころは、いっしょにがんばっとるような気がしたなぁ…。
 けど…。
 今は時々、お父ちゃんの背中が見えんくなるときがある」

 貧しかった昔を懐かしがる布美枝の現在の疎外感。
 貧しかったときのほうが、肩を寄せ合って生きていた、という、そのときなりの喜びがあった。
 貧乏時代を2カ月にもわたって見せられていた側としては、この布美枝の孤独感が、強く身に迫ってくるのです。 ちょっと鼻に、ツンと来ます。

 いっぽう倉田クンのほうは、スガチャンからいずみチャンへの恋心を打ち明けられて、はじめて自分がいずみチャンを好きだということに気付く極度の恋愛鈍感症(笑)。
 ここらへんの描写、倉田クンがあまりにもマンガ家として独り立ちすることにばかり目を向けているような感じで、見ている側にも倉田クンのいずみチャンへの恋心にちょっと気付きにくい、というほどの演出方法。 これがいいんです。

 マンガの新人賞へ応募する原稿をいずみチャンに大急ぎで郵送してもらったお礼に、「何かお金では買えない物」 をいずみチャンから要求される倉田クンなのでしたが、それを自分がマンガ新人賞の大賞に選ばれることと決めた倉田クンは、思った通りの作品ができないと、焦って茂に相談します。

 「一生懸命なのはええが、焦ったらいかんなあ。
 じっくりやんなさい。
 促成栽培では、すぐに枯れてしまうぞ。
 本を読んだり資料を調べたり、もっと勉強せんとな。
 早こと世に出ても、すぐに消えてしまっては、なんにもならんぞ。
 どんなに好きでも、マンガを描き続けるというのは苦しいもんだ。
 脳みそが空っぽになるまで考えて、スカスカになってもまだひねり出さねばならん。
 今のうちに勉強しとかんと、すぐに脳みその貯金がなくなるぞ。
 近道を探したらいけん。
 近道行ったら、その先は、…行き止まりだ」

 まあ実際の話、倉田サンのモデルである池上遼一サンは、どちらかというとオリジナルストーリーを得意とするマンガ家ではなく、原作者とタッグを組んで最高の価値を生み出すマンガ家として、その後に君臨していくわけですが。
 それに、現在は池上サンはチョーうまいマンガ家であるのですが、やはりデビュー当時は、比べ物にならないくらい、絵が稚拙だった気がします。 出世作 「男組」 の最初の方などは、同じ人が描いたとは思えない感じがするのです。
 やはり、この人は、努力の人です。
 努力して努力していった結果、あそこまでの絵師に上りつめた。

 話戻ってその矢先、ゼタの合併話破綻の夢破れた深沢(村上弘明サン)が、よろよろと口から血を流しながら村井家を訪ねてくる。
 結局相手の会社が欲しかったのは、ゼタの抱える有名マンガ家だけ。
 利益至上主義の編集方針と、深沢の人材発掘養成の方針とはそりが合わず合併は決裂、加納も深沢のもとを去っていくのです。

 深沢を見捨てたかのような加納の行動に、いずみチャンは 「冷たい人なんだね」 とごくフツーの反応をするのですが、布美枝の見立ては、ちょっと違う。

 「仕事をして生きていく人だけん、きっと、大事なものを捨ててでも、やりたいことがあったんだわ」

 「私には分からんわ」

 「私にも、よう分からん。
 けど、それだけの覚悟をして、仕事をしておられたんじゃないのかな。
 郁子さんも、深沢さんのこと、お好きだったんじゃないだろうか。
 おふたりとも、つらい思いされただろうな」

 そんな深沢や加納の覚悟や、倉田の覚悟、茂の変わらぬ努力をほめたたえる布美枝を見ながら、いずみチャンも自分の漠然とした夢に、覚悟というものがなかったことを、実感していく。
 今週の 「ゲゲゲ」 の底流には、この 「覚悟」 というキーワードがあった気がします。
 そしてこの覚悟を学んだいずみチャンは、安来に帰る決心をするのです。

 倉田クンのいずみチャンへの 「お金では買えない」 お返しは、いずみチャンが安来へ帰るその日、手渡されます。
 それは倉田クンが描いた、いずみチャンのポートレイト。
 おそらく倉田クンはいずみチャンの写真など持っていなかったでしょうから、想像で描いたんだと思うんですよ。
 それが、満面の笑顔の、いずみチャンの顔。

 「いつまでも、こないして、笑うてくれたらええな」

 涙をためながら、あふれる思いを胸にしまい込んだまま、精一杯笑顔になろうとするいずみチャン。

 「だんだん…」

 あまりにも、プラトニック。
 こういう純愛のストーリーは、私久々に見ました。
 別に 「愛」 っていうのは、世界の中心で叫ばなくてもね(笑)。

 その倉田クンもマンガ新人賞の大賞を射止め、小峰クンもまた旅に出るという。 残るはいちばん頼りないスガチャン(笑)、そこにやってくるのがイトツ(風間杜夫サン)とイカル(竹下景子サン)。 時の移り変わりを予感させながら、来週は藍子チャンが布美枝の少女時代を演じた菊池和澄チャンになるようです。
 とここでちょっと解せなかったのは、藍子チャン役の女の子、今週だけだったんですか?ということ。 一週だけで交代なら、先週までの篠川桃音チャンでよかったのに、という感じですけど。

 いずれにせよ親をわが家に招き寄せることができるというのは、子どもにとって結構勲章のような気がするものです。 イトツもイカルも、ビンボー時代は放っといたくせに今頃なんだ、と思われる向きもございましょうが。
 ただこの夫婦、そーとーキョーレツな個性の持ち主(笑)。
 村井三兄弟はそろって戦々恐々としておりましたが、それにしてもオニーサン(大倉孝二サン)、まだ風呂ないんですかぁ?(笑)

当ブログ 「ゲゲゲの女房」 に関するほかの記事
第1回 NHKのやる気を感じさせます
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-nhk-c7ac.html
第2週まで見てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/2-5cbd.html
第4週まで見てhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/4-a685.html
第5週 ほんとうのスタートは、ここからhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/5-9d37.html
第6週 人事を尽くして天命を待つhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/6-3192.html
第7週 時代に流されていく人たちhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/7-6a9d.html
第8週 笑って生きよう、たとえ貧しくともhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/8-82ce.html
第9週 「生きるため」 と 「プライド」 の狭間http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/9-476d.html
第10週 ビンボー神の出るタイミングhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/10-8426.html
第11週 まあ…なんとかなーわね!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/11-e5c0.html
第12週 冷たい風に吹かれてhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/12-2a16.html
第13週 自分のいるべき場所http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/13-f9bf.html
第14週 自分の名前と自分の存在http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/14-30e2.html
第15週 夢をあきらめないで… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/15-19ee.html
第16週 性急に見える成功、ですが… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/16-7865.html
第17週 村井家ビフォー・アフター?http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/17-d98c.html
第18週 「悪魔くん」 成功の裏で描かれるものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/18-6ede.html

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「チューボーですよ!」 内田裕也サン、ロケンロールしてます

 ちょっと1週間前の古い話になってしまいますが、「チューボーですよ!」 7月31日分で内田裕也サンが出てましたね。 堺巨匠とは少なからず接点はあるのですが、裕也サンがこの手の番組に出るというのはとても意外でした。

 若い人にとってはなんやこのジーサン、という印象しかないのでしょうが、私なんかの年代でも、…そーです(笑)。
 それでも私なんかにとっては、やはりこのお方は、1966年のビートルズ来日の際、武道館公演で彼らの前座をやった、というだけで特別な存在なわけです。 まあ、単独の出演ではなくて、尾藤イサオサンなんかと 「ウエルカム・ビートルズ」(みたいなタイトルだったと思います)というしょぼい歌(失礼…笑)を歌ったとか、その程度ですけど、やはりビートルズの前座を務めた、というだけですごい。 ドリフもやってましたけど。

 堺サンからもその話題を振られて、その前座をやったというつてで、1972年にニューヨークのダコタ・ハウスでジョン・レノンとオノ・ヨーコサンと対談という運びになった、という、まあ私にとってはよく知っている話に話題が移ります。
 ただそれはちょっとだけで、堺サンがすぐ話をぶんどります(笑)。 「ジョンが亡くなったときダコタ・ハウスに行ってお悔やみをオノ・ヨーコサンに言いたいと守衛に言ったら、勘弁してくれ、オマエみたいのが日に4000人も来ている、と言われた」 と冗談ともつかない話で笑わせます。 ホントかな?(笑)

 レイ・チャールズをぶん殴ったという話は違うらしかったですが(笑)、そこでチャック・ベリーとトラブった、という話に(笑)。

 「チャック・ベリーってかたは変わったかたで、日本のバンドのオールスターでやりたいって言うんで、1ヶ月間ばっちり練習して、やってたわけですよ。 そうして来て、始めようとしたら 『ピアノは要らねえ』 って言い出したんで」

 「それぼく見てます。 日本人のピアニストを、途中で帰したの」

 「それでオレがキレてねえ、ダダーって追いかけていって、『閉めろ!』 って言ってバターンと閉めたんですよ。 (手に取っていた包丁を見て)あっ包丁ヤバいな…(笑)。
 『ミスター・チャック・ベリー、あなたを尊敬している。 だけど日本のロック・ミュージシャンが一生懸命あなたのためにやったんだろう、それをね、オーディエンスの前で帰れとは何だ』 で(チャック・ベリーが)ギターを持って逃げようとするから、『(安岡)力也とめろ!』 っつって(笑)」

 チャック・ベリーが逃げようとした、というところを想像するだけで相当笑えるのですが、力也サンがバンドのメンバーだったというのも、そりゃGS(グループサウンズ)には在籍してましたけど、なんか用心棒みたいで笑えます。

 矢沢永吉サンとハワイで対談したという話も、想像しただけですごい。
 ふたりして 「ヨロシク」 と言いあってたんでしょーか(笑)。
 そこに子供を連れた母親がやって来て、「写真を撮ってくれ」 と頼まれたんですが、プライベートだからと断って、そのかわり子供の手を握って…と言いつつ、枡田絵理奈アナの手をしっかり握りしめる裕也サン。
 アッいーいなっと(笑)。
 隅に置けませんなこの歳で(笑)。
 こういうことをされてもちっとも嫌がらず、「わっスゴーイ」 とひたすら感心する枡田アナの反応、まあ今に始まったことじゃないですけど、「何でも許してもらえそう」 な雰囲気が、オッサンにはたまらんです(久々に下世話な反応…笑)。

 それにしても、「テレビでは歌わない」 などと言っておきながら、裕也サン、その因縁のチャック・ベリーの(笑)「ジョニー・B・グッド」 を堺サンが歌い出そうとすると割って入ってくる(笑)。
 堺サン、お約束の職人芸的ズッコケですが(笑)、裕也サンが歌っているところ、ずいーぶん久しぶりに見た気がします。 いや、軽く流してはいるんですが、声はよく出ているし、スイング感もばっちりで、声がしゃがれている堺サンなんかより、よっぽど毎日声帯を鍛えいるな、という感覚がしました。 確かジョン・レノンより、裕也サンは年上。 70超えてここまで声が出るのはすごいです。 地下鉄をよく利用し、階段も2段飛び、などと言っていましたが、ロケンローラーとしてのプロ意識がなくては、ここまでのパフォーマンスはできないな、と実感しました。

 かまやつひろしサンの紹介で夫婦になり、今は別居状態(でしたよね?)の樹木希林サンとの関係も、距離を置くのがいいみたいで。

 「裕也サンと家庭っていうのは、やっぱりぼくは、そんなに密着しないほうが、寂しいだろうけど、いいと思いますよ。 そのほうが、自分の世界で歩いていけて、いいんですよね、きっとね」 と語る堺サンに裕也サン、
 「ありがとうございます。 あちら(希林サン)にも、テレビを通じてメッセージを送りたいと思います」 と言ってカラカラ笑う。

 こういう関係っていうのも、ひとつの生き方としていいもんだな、なんて感じます。 フツー歳をとるとお互いに寂しくなっちゃうもんですけどね。 ロケンローラーは、これでいーんです(笑)。

 事業仕訳を見物しに来たりとか、はたから見ているといまだにアブナイ過激なジーサン、という印象ばかりが先行してしまうのですが、こうしてバラエティでの言動を見ているととてもまともなように思えた、内田裕也サンなのでした。

 でも、「ヨロシク!」 なんていうジーサンも、身内にいたら結構ウザったかったりして(笑)。

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2010年8月 4日 (水)

「天使のわけまえ」 第5回(最終回) 喜びも悲しみも、食事とともにある

 「別れのロールキャベツ」 という副題がついた、「天使のわけまえ」 最終回。

 くるみ(観月ありさサン)の金を持ち逃げしたかつての恋人、カズクン(細川茂樹サン)が再び目の前に現れ、持ち逃げした金を全額返して 「結婚しよう」 と言い出す展開に、「別れのロールキャベツ」 とはどういうことなのか、ちょっと題名を引きずりながら最初のうちは見ていたわけです。

 康太(野村周平クン)の反応は、散々周囲に迷惑をかけ続けた自分の父親を許せない、というもの。
 カズクンの申し入れに迷うくるみを見た西原亜希サンは、「こういう男は懲りないものだ」 と怒って出ていってしまい、ともさかりえサンは 「いいじゃない。 憎むより信じて好きになるほうが」 とエールを送る。
 それらの周囲の反応は、結構ベタで予想できる範囲のものなのです。

 それにしても、カズクンに気持ちが傾いているのに、それで 「別れの」 とは、よーするに結果的にくるみはカズクンを振ってしまうのだろーか、ロールキャベツはいつ出るのだ(笑)、などという興味で見ておったのですが。

 やっぱりこのドラマ、最終的にはとても気持ちがあたたかくなる(前にも書きましたが、この暑苦しい時期に心温まるのはあんまり歓迎できませんけど…笑)、やっぱり最後には知らず知らずに涙が出てくるような、いい話のドラマでした。 こんなさりげなくいいドラマというのは、今の時代貴重だと思えてなりません。

 父親を拒絶し続ける康太にくるみが話した、カズクンとの最初の出会いの話。
 のちに病死してしまうカズクンの前の奥サンへの見舞のもなかがきっかけだった、ということで、ここでも食べ物を仲介役に配しています。
 くるみと康太の心が通じ合うその日の夕飯のメニューが、ロールキャベツなのですが…?

 康太を押しつけられて、最初は感じ悪かった、と話すくるみでしたが、こう打ち明けます。

 「でもね、康太がいてくれて、助かったこと、たくさんあった。
 あなたにこうやって、毎日ご飯作らなきゃならなかったでしょ?
 だから私…頑張れたような気がする」

 人のために食事を作ることの大切さを、ここではとても、説教臭くなく表現している気がします。 「これからもよろしくね」 というくるみの言葉に、なにか力なく、「うん…」 とだけうなずく康太。

 そんなくるみと父親との結婚に賛成してくれた康太なのでしたが、自分は要らない人間なのだと、前の母親の実家に帰ろうとしてしまうのです。
 それを仕方ないと諦めるカズクンに平手打ち、高速バスで九州へと向かおうとする康太を、カズクンの手を引っ張りながら、くるみは走って追いかけ止めようとする。
 そこにフラッシュバックで、自分が子供のころ、逃げた母親を追いかけて行ったくるみの幼い姿がインサートされ、くるみに引っ張られていた手を振りほどいて一緒に康太を追いかけ止めようとするカズクンの姿も描写される。

 ここらへんのさりげない見せ方が、実に効果的なのです。
 こんななにげないシーンの連続が、この普通のドラマを良質のものに昇華させている。

 そして追いついたくるみは、「そんなに行きたきゃ、自分の父親と一緒に行きなさい!」 と、康太とカズクンをふたりとも九州へと送りだしてしまう。
 このくるみの判断は、賛否両論分かれそうな気がします。
 けれども人というのは、いつでも最良の判断を下せるものでは、ないのです。
 息せき切って追いついたところに康太から 「オレなんていないほうがいいんだよ」 と言われてしまったら、父親と一緒にいるのがふたりにとっていちばんいいのだ、という判断をしてしまっても仕方ない気がします。
 まず自分のことよりも他人の幸せのほうを考えてしまう、くるみの性向、性癖が、そこで優先してしまう、というか。

 結局ふたりを見送ってしまい、ひとりぼっち自分の部屋へ帰ってきたくるみを待っていたのは、その日が誕生日だった康太のためにくるみが作っておいた手巻き寿司と、康太へのバースデイケーキ。

 ここでこのドラマは、みんなのために作ったその料理をひとりで食べながらさめざめと泣くくるみの姿を、ロングショットで延々と映し続けるのです。

 参りました、これ。

 泣けるんですよ、ひたすら。

 このドラマの、ベストシーンですね。

 続けて流れる翌日のシーン、まったく同じアングルで、すっかりかたづいたテーブルを前にしてぼんやり座り続けるくるみの姿。
 だいぶ、確信犯的にこのシーンを作っています。

 打ちひしがれるくるみのもとに届いたのは、おじいちゃん(大滝秀治サン)から届いた食材と、亡きおばあちゃんの料理レシピ。
 さらに、街を歩く傷心のくるみに、街ゆく知り合いが、次々声をかける。
 自分が料理で切り開いていった人脈が、思わぬところでくるみを励まし続けるのです。
 この構図も、相当すごい。

 そして、おじいちゃんからの相変わらず不躾な(笑)ケータイに出ながら、くるみの目の前に現れたのは、カズクンと康太。 ラストシーンです。
 ここであの、河口恭吾サンのテーマ曲。 名曲です。

 なんだかもう、号泣というほどではないですが、ただひたすら、気持ちが優しくなるような感覚に襲われ、知らず知らずに泣けました。 何の変哲もないラストシーンだったかもしれませんが、これがいいんです。

 テーマ曲に合わせて、3人で談笑しながらの食卓が映し出されます。
 喜びも悲しみも、食卓の料理とともにある、そんな一貫したこのドラマのテーマを見せられているようでした。 理屈を感じさせず、いいドラマだった、と実感させることのもの凄さを、このドラマで知った気がします。 観月サンの演技も抑え気味で最高。 この人のこれからの女優としてのありかたを提示していたようにも思えます。
 それと、イッセー尾形サン。
 最終回は最小限の描写ながら、自分が捨てた家族のもとへと向かう姿を見せていました。 このさりげなさも最高。
 大滝秀治サンの演技もシビレまくりましたし。

 もうちょっと長く、見ていたかったなー。

当ブログ 「天使のわけまえ」 に関するほかの記事

第1回 手作りの料理が幸せを運ぶ
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/1-32da.html
第2回 さりげなさに包まれたドラマhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/2-061f.html
第3回 気まずい食卓http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/3-d0ef.html
第4回 逃げる人たちhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/4-0f49.html

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「今夜も生でさだまさし-北の国から2010旭川-」 よかったです

 「今夜も生でさだまさし」 は毎回録画してでも見ているのですが、今回の北海道旭川編は、特によかったような気がします。

 まずなんと言っても、北海道に番組が来ればコレ、という、「北の国から」のテーマ曲。

 なんか、久々に聴いたのですが、泣けました。

 「北の国から」 というテレビドラマは、私が高校生のころだったかに始まって、当時はこの番組を見て、自分は将来必ず北海道に住むんだ、と思うほどに入れ込んだドラマとなりました。

 さだサンがこの曲を歌うそばから、構成作家の井上サンが富良野の景色をデジカメで撮ったものをカンペのようにペラペラめくっていたのですが、富良野は、やはり、富良野のままなのでした。

 それを見たとき、なんとも言えず、涙があふれて仕方がなかったのです。

 あまりにゆっくりめくっていたために曲の途中でさだサンが井上サンに 「曲が終わっちゃうぞ」 とせかすあたりでは泣きながら笑ったり。

 そのデジカメの景色を見ながら、純は、蛍は、五郎は、今頃どうしてるんだろう、と思えて仕方なかった。 ロケ地の模様も映っていたと思いますが、まるで彼らがひょっこり出てきそうな感覚。 こんな感覚を呼び覚ますことを強要してくるドラマも、「北の国から」 だけだ、と強く感じるのです。
 このドラマの新作がないということに、大きな空虚感を抱きます。

 とは言うものの、「北の国から」 は聴き飽きた、別の北海道の曲を作ってくれ、というハガキが紹介されたり、地元のタクシーの運転手にも、電車の発車メロディに使われているために、一日に何度この曲を聴くことか…と愚痴られたり、とかく風当たりは強いようです(笑)。 ここで笑わせてしまう、というのも、まっさんの大きな持ち味ですよね。

 いつになく面白い内容のハガキも多く、80歳だったかな?ご高齢の方からのハガキも数多く採り上げられたり。
 そのなかで最後のハガキでしたか、「レジ袋をもっとくれ」 という要請を拒否すると 「客に逆らうなんて許せない」 と怒られる、というスーパーの店員さんの話に対しての、まっさんのコメントが良かった。

 「ちょっと相手との力関係で優位に立つと徹底的にやっつけてしまうという人がずいぶん増えましたね。
 政治見ててもそう思います。
 これはね、いじめです。
 こういうことを政治もやってる、それからあの、4年間に4人も総理が替わる国でしょ。
 替わりすぎっていうかね、こらえ性がない、国民にこらえ性がない。
 だからね、例えば1年で、なに変えられる?
 あなたが例えば町内会長になったと思えばいいよ、町内1年で変えられないよ。
 国1年で変えられないよ、それはね、ミスも出るしいろんなことがあるのにね、本気で変えようと思うんならなんであと4年我慢しないかな。
 それでもさ、たかが1回2回の選挙で世の中が変わるなら誰も苦労しませんよ。
 何年も何年も政治やってきたんだったら、自分の都合のいいことばっかり言わないでさ、みんなで育てるとかさ、我慢する時は我慢するで考えないと。
 こういう国民だから、…ああいう目先のことばっかり、…国民の意見が大事なんて、こんな国民の意見聞いてたらこの国終わるわ!」

 「相手徹底的にやっつけてると、子供たち見てますよー。
 社会に全部出てます大人の力関係、商売でもそう。
 もう上から押し付けで弱い立場の人間はもう、これ(聞かないと)仕事もらえないと思うから無理やりさあ(聞くしかない)。
 それで、レストレーションで人だけいなくなって会社が黒字になりましたって、みんなが生きてけなきゃ、何のために仕事してんだか、分かんないもんねえ」

 政治的な信条は別として、強いものばかりがヤケに威張り腐り、弱いものはますます卑屈になっていくしかない、という風潮は、確かに近年強くなってきたように感じるんですよ。 政治だけじゃなく、全体がね。
 こんな貧しい精神の国では、この国は終わる、というまっさんの意見には、一部を除いて大方賛同いたします。

 「北の国から」 が終わるしかなかったのも、こういう精神性豊かなものを大事にしていこうという風潮がなくなった、ひとつの現われかな、なんて、…少々ゴーインなテーマの結び付けでしたか(笑)。

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2010年8月 3日 (火)

ジョンとヨーコの出会った意義について、節目の年に考える

 ネットサーフィンでビートルズの話などを読んでいると、オノ・ヨーコ(敬称略)に対する悪意に満ちた中傷が未だに後を絶たないのには閉口する。
 ただ、確かに彼女の存在というものは、ノーマルなビートルズファンにとっても、とても不可解な存在ではあるのだ。
 おそらくその原因は、彼女の極めてまれな個性による。
 私も小学生の頃、青盤に記載されていたビートルズの年表を読みながら、その魔女のようなヨーコの奇妙な風貌に、どうしてジョンはこの女性に参ってしまったのか?と不思議でならなかったことを白状する。

 なぜ彼女は、こうまで嫌われなければならないのか?

 私がガキの頃に感じてしまったように、まずやはり、どうしても彼女は、美人であるとは言い難い。
 人間の根源的な好き嫌いを左右する要因である 「見た目」 において、すでにヨーコは、不快感をまき散らしているのだ。
 これはあくまで、ガキのような判断基準で、という意味であるので誤解しないでいただきたい。
 ただその出発点からして、彼女には大きなケチがついて回っていることを、ここで明言しておきたいのだ。
 ジョンはヨーコがブスであることを人から指摘されることを、とても嫌がっていた。
 つまり、ジョンにとって風貌がどうだとかは、まったく判断基準のなかになかった、というのは明白だ。
 この出発点において我々とジョンとのあいだには、かなり大きな価値観の隔たりがある、というのは、とても重要なポイントであると私は考える。

 次に、彼女の標榜する 「芸術」 が、常人には理解しがたいコンセプチュアル・アートであることが、大きな要因だ。

 たいがいの人々はこの時点で、オノ・ヨーコという人間を理解しようと思わなくなってしまう。
 結果的にヨーコを理解する手段をシャット・アウトしてしまった人々が考えることは、なぜヨーコがジョンに近づいたのか?という下世話な興味でしかない。
 つまり、世界的に超有名なビートルズの一員であるジョン・レノンを利用して芸術家として有名になろうとした、という勘繰りである。
 特にビートルズを好きである、という一定の感情を持っている人々にとっては(つまりそんなマニアックでなくてもビートルズの音楽に愛着のある人ならば)、この推測は、「仮定でありながら腹の立つ話」 である。

 話はそれるが、私はここで世間全般にはびこるこの 「仮定話に憤る」 思考方法に、ちょっと異議を唱えたい。

 例えば 「もしそれが事実だとすれば、とても許せません」 という言い回しを、よくテレビなどで耳にする。
 でもその思考方法って、かなりおかしい。
 あくまでそれは推定なのであり、確定した事実でないのに、こちらで勝手にそれを推理推測し、識者やコメンテーターの立てた仮定の話に憤る。
 どうですかね? ちょっと変だ、と感じませんか?

 ジョンとヨーコの馴れ初めを細かく検証すれば、ヨーコにはジョンに近づく理由など、まったくなかったということが明白になるだろう。
 ジョンがヨーコに何かを感じ、ジョンのほうからヨーコに接近していったことは事実だ。
 そして自分のことを好きだと言うジョンに、ヨーコがそこで何を感じたのかは全く分からないが、ヨーコの中にジョンに対する恋愛感情が湧いたとしても、まったく不思議ではない。

 ヨーコを憎む人たちの考えるように、その時にヨーコはジョンを利用してやろう、と思ったかもしれない。
 だがやはりそれは、我々の想像、「勝手に仮定したこと」 でしかないのだ。

 ただ確かにヨーコには、自分のパートナーに、芸術的に刺激をもたらしてくれる相手を選ぶ傾向があるようにも思われる。 前衛音楽家の一柳慧氏などと最初に夫婦になったのは、ジョンを選んだヨーコの心理状態の、ヒントとなる要因があるように思われてならないのだ。

 ではジョンはなぜ、ヨーコの前衛芸術に共感を寄せたのか。

 それは偶然だったにせよ、ジョンの感性とヨーコの感性のベクトルが同じだった、というほかはない。
 ジョンはその当時、トップスターであることにつくづく嫌気がさし、かといって自分が何者であるかの確信もない、根なし草のような状況だった。
 加えてあの、「キリスト教発言」。
 「ビートルズはキリストより人気がある」 と発言したことが大問題となり、ジョンに対するバッシングの嵐が吹きまくっていた時期だ。
 そんな時にジョンがインディカ・ギャラリーで見たヨーコの芸術作品には、人生に対する 「YES」 という肯定的なコンセプトにあふれていた。

 ジョンがヨーコの作品に共感を持つもうひとつの要因は、彼が美術学校に通っていたことも遠因となっている気がする。
 美術に対して体系的に学んでいたであろうジョンは、前衛芸術が世間的に浴びるバッシング、というものもそれとなく学習していたに違いない。

 前衛芸術、というものは、とかく 「理解不能」 のレッテルを張られやすい。
 私も高校時代に前衛絵画を試してみたことがあるのだが、そのときの周囲の反応と言ったら。
 「何をこの絵は言いたいの?」 とか、「どうして絵が上手なのにこんな絵を描くのか?」 とか、とにかく好き勝手に言われ放題。
 人から理解されずにバッシングを受ける前衛芸術というもののハードルの高さをつくづく実感した。

 私にはその体験があるので、ヨーコに対してはとても共感できる部分がある。
 ジョンも、いっしょだったと思うのだ。
 キリストに対する自分の真意が理解されずバッシングを受ける自分と、自分の行なっている芸術自体が世間から認知されず(前衛芸術家集団フルクサスの活動などで一定の評価を得てはいたものの)バッシングを受けているであろうこの女性とが結びつき、大きな共感を持つことができたのだと捉えることはできないだろうか。

 ヨーコがポップ・ミュージックへの興味を持っていた、ということも、注目に値する。

 もともと生い立ちから音楽に囲まれて育ち、先述の一柳慧氏と最初の結婚をしたり、同じく前衛音楽家のジョン・ケージ氏とも邂逅し、自分の芸術の中に音楽というカテゴリーを築いていたヨーコであるのだが、どうやらジョンとの出会いでポップ・ミュージックへの興味というものも開花したらしい。

 そして彼女の作るポップ・ミュージックは、ジョンもうならせるほどのメロディ・メーカーとしての才能を見せつけるに至るわけだが、彼女に対するマイナスのイメージが強すぎて、現在のところ一部の人を除いて正当に評価されていない、というのが私の考えだ。

 実際、ジョンと出会ったころのヨーコの歌、というのは完全なる前衛で、奇声や嬌声を張り上げ続ける、という、ビートルズの音楽を聴くような人にとっては全くの管轄外(笑)。
 言葉は悪いのだがあえて表現すれば、それは 「キ○○○」 的精神状態を白日のもとにさらけ出すような、人間の原初的衝動を表現する行為であるのだ。 人間の極限状態のひとつを奇声によって表現しようともしている。
 ジョン・レノンはその彼女に、歪んだギター・サウンドで挑み続ける。
 ここにはジャズをも超えた即興性があり、要するに、理解不能なのだが(笑)、ただひたすら、凄い。

 ジョンという人間がこの、音楽のもたらす心地よさとは正反対の分野に足を踏み入れた、ということは、実はビートルズ全体の歴史にとっても、極めて重要なことのように思えてならない。
 彼らがただ耳触りのよい名曲ばかりを製造し続けていたとしたら、ここまで今日、広範囲の人々に影響を与え続けるミュージシャンにはならなかっただろう。 彼らの曲に対して賛否両論がわきあがることもなく、例えて言えば社会面より三面記事に出るような、広範囲の人々の関心を呼ぶようなグループには、けっしてならなかっただろう。

 ところで、前衛性を脱却したあとのヨーコの作る歌には、子守歌、という要素が大きく絡んでいる気がしてならない。
 子守唄は時に悲しく、時におどろおどろしく恐ろしく、そしてあくまで優しい。
 歌唱力という側面から見れば、そりゃうまいとは言い難い部分もあるのだが、彼女の作る歌のメロディラインを、注意して聴いてほしいものだ。 子守唄に通じる単純さ、物悲しさが実感できるはずだ。

 そして彼女の芸術には、人を困惑させ怒らせて相手に自分の精神状態のなんたるかを自覚させる、という側面も存在する。

 例えば、「キス・キス・キス」 というジョンの生前最後のアルバムに収められた2曲目。

 この曲を家族がいるなかで聴こう、などと思う者は、おそらく世界中探しても容易にいないであろう。

 なにしろ曲のあいだじゅう、日本語で 「抱いて」 と言いまくり(笑)、曲の最後にはオーガズムに達してしまう(つまりイっちゃう)、という、なんともはや、常識を覆す過激極まりない曲なのだ。
 これがジョンの名曲のあいだに、しかも2曲目に入っているという、この凄さ。

 ここでヨーコは、ジョンへの愛を、周りになに憚ることなく世界中に大宣言しているのだ。
 あなたたちは不快でしょうけど、私のジョンへの愛は確かなことなのよ。
 だってこれは、とてもパーソナルな、ジョンへのメッセージなんだから。
 愛は時には、他人にはウザったいものでしょ。
 そんなヨーコの声を実感することが、この曲を正しく鑑賞する方法なのだ。
 この曲を聴いて不快になることも、もちろん正しい。
 だがそれは、あなた自身の良識の限界を、そこまでと認めていることと同じなのだ。
 ヨーコの芸術には、そこまでの意図が確実に隠されている。

 そしてジョンの残りの人生は、確実にヨーコによって蹂躙された。

 そのことを指して 「ジョンはヨーコと出会うべきじゃなかった」、という持論を展開するかたもおられるのだが、私はそうは思わない。
 実にミもフタもない言いかたをすれば、そう生きることが、ジョン・レノンがジョン・レノン自信の人生を選び、歩んだ、ということになるのだ、という気がしてならないのだ。

 私はジョンの曲作りをトータルで見ていて、ジョンのポップ・ミュージックに対する興味は 「ラバー・ソウル」 あたりで燃え尽きてしまっているように思えてならない。 「イン・マイ・ライフ」「ノーウェジアン・ウッド」「ひとりぼっちのあいつ」 という傑作を生み出したアルバムのあと、「リヴォルヴァー」 ではなにか、奇抜なことをやってやろうというジョンの意向ばかりが目立つ気がするのだ。
 確かにジョンのメロディ・メーカーとしての腕は鈍ることがなかったのだが、肝心な 「名曲を生み出そうという意欲」 というものを失って、何か行き詰っているような印象がある。

 そこに現れたのが、ヨーコである。
 ジョンのポップ・ミュージックに対する興味はヨーコのベクトルに引きずられて、ポールのメロディ・メーカーとしての腕に対抗する哲学性、抒情性を兼ね備えていったと考えられる。 そしてジョンとポールの力の拮抗が、ビートルズをまたさらに巨大な存在へと押し上げていく原動力となっていくのだ。
 このままジョンが 「イン・マイ・ライフ」 のような歌を量産すればもっとよかったのかもしれないが、ジョンの精神性はこの時期、ビートルズでいることへの疑問やバッシングに対する迷いで大きく転換しようとしていた。 「イン・マイ・ライフ」 にとどまることを、ジョンはよしとしなかったのだ。

 以上のことから私は、ジョンとヨーコが出会ったことの意義を再確認し、ふたりの出会いはけっして悪いことではなかったのだ、という結論を導き出したい。
 いずれにせよ、ジョンはファンのために人生を歩んでいたわけじゃない。
 ジョンは、ジョン自身のために、人生を歩んでいたのだ。
 誤解を恐れずに言わせていただければ、そのことに思いが至らないファンは、やはりジョン・レノンの真のファンとは言い難い、そう私は思うのである。

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2010年8月 2日 (月)

「龍馬伝」 第31回 西郷の思惑、桂の思惑

 薩長同盟のために奔走する龍馬(福山雅治サン)たち。
 操船術以外に何のとりえも持たない彼らが、いかにして薩長を動かしていったのか、このドラマでの説明はあくまで単純。

 いわく、「日本を守りたい」。

 あまりに単純過ぎて、ウラに何かある、ほんとうは自分にとってこれだけの得があるから人というのは動くのだ、などという穿った見方をするのが好きな人には、あまりにもウソ臭く聞こえるに違いありません。 しかし。

 今回の 「龍馬伝」 では、長州を説得するに当たって重要と思われる高杉に会いに行った先の大宰府で、龍馬は中岡慎太郎(上川隆也サン)と再会します。 土佐勤王党の時以来の知り合いだったらしいんですが、上川サンはこのドラマ初登場、トートツ感は否めない(笑)。
 とりあえず、この、のちに龍馬とともに暗殺されてしまう中岡という男、ドラマの作り手は武市の志を受け継ぐものとして表現しています。

 「わしは、あのおかたに出会うて、目えが醒めた。
 武市さんのように、一切の私心なく、天下のために働きたいがじゃ」

 このドラマでは、龍馬の行動の裏には武市の存在とその無念がある、という解釈をしているのですが、その血が中岡にも共通して流れている、という表現をすることによって、龍馬と中岡の絆を一瞬で結び付ける演出の方法を取っている。 うなります。

 そして中岡が世話をしていた三条実美(池内万作サン)の後ろ盾を得て、龍馬と陸奥(平岡裕太サン)は長州へと向かう。
 まるでわらしべ長者のような信頼の得かたによって、龍馬は一介の脱藩浪士にもかかわらず、長州と薩摩の仲介人へとなっていくのです。
 龍馬が桂(谷原章介サン)と旧知の仲だった、というのも大きい。 事実かどうかは知りませんけどね。 ドラマではこのファクターも、いきなり龍馬の荒唐無稽な提案を桂が受け入れるための布石になっている。 なにしろ、長州と手を組む、という西郷(高橋克実サン)の確約もないんですからね。 にもかかわらず、三条の推薦状によって、桂は西郷が来るのを待つことになる。

 桂にとっては、龍馬の言うことなど鼻にも掛けない選択というものも、あったはずなんですよ。
 けれども、長州側にもここでは、ウラの思惑が絡んでいたことは確かなのです。 もし薩摩が味方になってくれれば、幕府との力関係は逆転しますし。
 それに、西郷を待つことだけなら、なんのリスクもありませんからね。

 しかし待てども待てども、西郷はやってこない。
 じりじりする龍馬は桂に、こう尋ねられます。

 「坂本君。 長州と薩摩の盟約を成し遂げたら、きみは薩摩に取り立てられるんか?」

 「いや…そんな約束はないがじゃ…」

 「じゃあ何のためにきみはこんなことをしちょるんじゃ。 ぼくらを結び付けて、きみに何の得があるんか?」

 「桂さんらあに日本を守ってもらわんと、この国の将来はないがじゃ。
 わしの望みはのう、桂さん。
 日本が独立して、西洋諸国と肩を並べられる国になることながじゃ。
 そのためには…。
 それを成し遂げるためには…。
 わしは、…命は惜しまん」

 その言葉に目を丸くする桂。
 幕府だ長州だ薩摩だ、というレベルでこの数日、西郷を待っていた桂には、まるで龍馬の言葉が一段上からの言葉に響いたことでしょう。
 龍馬の言葉には、一切のウラがない。
 ただ日本を守りたい、という純粋な気持ちに、見る側は心打たれるのです。
 これをひねくれて見るような人に、少なくとも私は、なりたくない。

 しかしですね。
 そのそばから、龍馬は 「自分の家族を黒船に乗せて世界を見て回る」 という実に無邪気な本音を桂に語るのです。
 龍馬に何か思惑があったとすれば、そんな無邪気な夢なのだ。
 作り手はそのことを、さりげなく龍馬の父親(児玉清サン)の死の回から、仕込んでおったのです。

 西郷の説得に予想以上に難航していた中岡も、ようやく殿のお許しを得て、長州軍のいる下関へと向かうことになる。

 ここで西郷の思惑というものも、幕府に協力していては薩摩の経済も逼迫する、という点に集約して龍馬が長州藩士らに解説していたのですが、薩摩の島津公がどうして同盟を渋り、またどうしてお許しになったのか、という説明も、ちょっと欲しかったかなあ。
 まあ、「篤姫」 でやったからいーか、という発想ですかね(笑)。

 ところが下関に向かったはずの薩摩の船は、行き先を京まで変更してしまう。
 おそらく間者が船に忍び込んだことと関係があるのでしょうが、そのことで龍馬は、桂からの信頼を一挙に失ってしまうのです。
 一朝一夕に大きな仕事は成し遂げられない、という見本のような感じで、見ていてとても引き込まれます。

 このドラマにおいて作り手が取捨選択している部分を見極めることによって、作り手が何を強調したいのかが見えてくる。 「龍馬伝」 の楽しみ方には、そんな方法もあると思うのです。

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2010年8月 1日 (日)

「鉄の骨」 第5回(最終回) 業界の構造、ドラマの構造

 最初にお断りします。
 毎回ストーリーを追うのがこのブログの常となっておりますが、ちょっと今回は、別のことを書きたいので極力控えました。 あしからずご了承ください。

 談合問題に果敢に切り込もうとした、今回のこのドラマ。
 最終回まで見た率直な感想を述べさせていただければ、談合の是非についての積極的に評価できる解答は残念ながら紋切り型で、ハッとさせるようなものはありませんでした。

 結局各社がガチンコ勝負で健全で自由な競争がなされるのがいちばん望ましい入札のありかたなのだ、という、このドラマの結論。
 そして業界自体に、政界とのつながりとか、切っても切り離せないような全体構造的な問題が横たわっていて、その体質が容易に改善されうるものではない、という現状の問題もこのドラマでは描き出していましたが、だからこそドラマ全体には、簡単に嚥下できない重々しさが絶えずつきまとっていた。

 ちょっと別角度から論理を展開しますが、談合がなくならないのは、公共事業の削減という話から出発しているのではないでしょうか。
 つまり公共事業をやめろという社会的な要請が、まず不必要な建設工事が濫発されている、といったイメージから出発している点を、見逃してはならない気がするのです。

 確かにハコモノだとか、無駄なダム工事とか、利用者の極端に少ない道路とかをつくっているという現状は糾弾すべき問題でしょう。
 ただ同時に、どのような理想のもとでその構造物をつくっていくのか、という視点も、忘れてはならない気がする。
 つまり、東京スカイツリーとか、海ほたるとか、それが出来上がっていくことによって、人々がそれに元気づけられたり、地域が活性化したり、建設工事というのは本来、社会をより便利にし、人々に希望を与えるものでなくてはならない。
 言ってみればその夢を与えるものこそが、公共工事でなくてはならない。
 それが今では、ただ単に官庁と業界が癒着し、談合の温床となっていることこそに、真の問題が潜んでいるのではないでしょうか。

 要するに談合、という問題は、「それを否定しながら結果的に望んでいる」 という霞が関のありかたに、いちばん深い病根が張っているような気がしてならんのです。

 そしてもうひとつ、日本という社会全体が成熟期を過ぎてその需要も低下しつつあるというのに建設業界はその絶対数が多過ぎる、もっと淘汰されなければならない、という問題もここには含まれている気がする。
 そんな時に従来通りのぬるま湯のような談合体質でぬくぬくしてもらってはその淘汰もままならない。 そんなことをしているから、社会を便利にする、人々に希望を与える、という建設業本来の存在価値から、ますます遠ざかっていくのではないか。
 厳しい言いかたをすれば、そんな側面も感じるのです。

 このドラマを見ている限り、積算のカンニング竹山クンの、「官庁の要求に従っていたら何週間準備しても足りない」、という話でその一端を垣間見ることはできたのですが、それ以外には特にこれといった言及はなかった。 私はこのカンニング竹山クンの話にいちばん問題が隠されている、とドラマを見ていて感じたんですけどね。
 結局冒頭に述べたような、紋切り型の潔癖な結論しか、導き出すことができない。

 業界と官庁の構造的な問題に切り込むことができないから、このドラマは 「ハゲタカ」 のような社会派ドラマになりきることができなかったように感じます。
 つまり、主役の小池徹平クンの恋愛問題に、いたずらに時間をかけたがる。

 小池徹平クンはこのドラマにおいて、いかにも頼りなさげなペーペーの、しかも自分の信念を曲げることのできない男を演じ切っておりました。 私が見ていて、この役は彼にしかできないだろうなー、というある種の逆転のキャスティングの妙を感じたものです。
 ただし彼の恋人は、談合問題を頭ごなしにいたずらに嫌悪する、社民党のみずぽタンみたいな潔癖症女(失礼)。 彼女にもっとブレーキの 「遊び」 みたいな部分があれば、小池クンはもっと安らげたはずです。
 しかも輪をかけてイメージが悪いのは、彼女が大手銀行に勤めている、という設定。
 銀行というのはですねー(スミマセン、悪いイメージしかないです、弱小企業を経営するものにとっては)、不良債権処理などで自分たちが国民の税金によって倒産せずに保護されとるというのに、会社が金を借りようとすると、あーだこーだと難癖をつけて、容易に貸そうとしない。
 そんな連中が談合について知ったようなことをぬかしているのには、正直言ってムカつきまくります。
 このドラマにおいても、メインバンクが渋っているから、一谷組社長の笹野高史サンが困っとったじゃないですか。 それが原因で笹野サンは、中村敦夫サンの談合要求に屈しているという側面を、忘れてはならない。

 正直なところ、ドラマの構造としては小池クンの恋愛などどーでもよかったのですが(笑)、まあ、最後のけじめのつけ方など、よかったですよ、無責任な言いかたですけどね。 あそこで小池クンが検察に協力して中村サンを葬り去ってしまうとは…。 ついでに陣内サンまで葬り去ってしまうとは…(笑)。

 ドラマの体裁としては、社会派をあきらめたわりには、なかなかよくできていたと思います。 ここまで切り込んで欲しかった、ということは、言い出せばきりがありませんので。

当ブログ 「鉄の骨」 に関するほかの記事

第1回 建設業界って、こんな魑魅魍魎?
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/1-a472.html
第2回 結局下が一番損をするhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/2-d7b7.html
第3回 仲間意識に麻痺していく小池徹平クンhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/3-c642.html
第4回 談合の先にあるものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/07/4-8822.html

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