« 「ゲゲゲの女房」 第26週(最終週) 陰で支えてくれる人たちの 「見えない力」 | トップページ | 「てっぱん」 第1回 名作の後番組は、ハードルきついですよね »

2010年9月27日 (月)

「龍馬伝」 第39回 「日本を守るための戦」、その中心にあるものは

 第四部の開始です。 タイトルバックの龍馬は、モノクロっぽい画面。 もうじきに、歴史の中に消え去ってしまう、そんな感慨を抱かせる演出であります。

 冒頭の明治時代の弥太郎(香川照之サン)、ますます龍馬に対して嫉妬の炎を燃やしております。 龍馬の取材を続ける土佐新聞の記者に、「こんな書き方をしたら、ただ龍馬がカッコイイだけじゃろうが!」 と、なんか 「龍馬伝」 批判者たちの代表みたいなことを言っとります(笑)。

 今回の 「龍馬伝」 で強調されていたのは、この 「弥太郎の嫉妬心」。

 もともとこの設定自体からしてフィクションなのですから、「龍馬伝」 は、坂本龍馬の伝記に名を借りて人間の悲喜劇を描こうとしたものである、という認識を持たねばなりません。

 そしてもうひとつ、龍馬の伝記に名を借りてこのドラマの作り手が表現しようとしているのが、「戦争と平和のせめぎあい」 だと感じます。
 嫉妬の炎に包まれて黒焦げになってしまいそうな弥太郎が、お元(蒼井優チャン)に向かって言い放つ言葉。

 「どういて龍馬ながじゃあっ!

 あいつはわしに言うたがじゃぞ。
 『喧嘩では世の中変わらん』 と!
 『憎しみからは何ちゃあ生まれん』 と!
 それやに、戦に行ったがじゃぞ!
 あいつは嘘つきじゃ!
 大嘘つきじゃ!」

 これは、「龍馬伝」 批判者の代弁でもあります。

 ここでお元は、「人は誰だって嘘つきですばい!…ばってん、坂本さんのそん嘘は、みんなが笑うて暮らせる国にするための嘘…」 と弥太郎に反駁するのですが、それは作り手が考えている、 「平和を唱えていた龍馬が戦をすること」 の本当の理由にはなっていない。 もちろんそれはお元なりの、お元の次元で展開される 「龍馬が戦に加わった理由」 なのですが。 しかし、セリフだけで、ドラマを見てはいけません。

 龍馬が懐にしまいこんでいたのは、「大政奉還」 という考えだったのですが、この考えは木戸(谷原章介サン)にやはり 「あの裏書きを書いたんは、きみじゃ。 そのきみが、戦をするなとは…ハハ…。 こげなおかしな話があろうか。 そもそも、戦もせんで、どうやって幕府を倒すつもりじゃ?」 と訊かれて打ち出したものです。
 しかしその 「大政奉還」 という理論は龍馬の行動規範の奥低にあるとはいえ、理論自体に 「平和を唱えていた龍馬が戦をすること」 の本当の理由があるとも思えない。 「大政奉還」 は、「理屈」 の次元の話なのです。

 私が今回の話を見ていていちばん感じたのは、「何かを守ることの尊さ」 を龍馬が大切にしていたからこそこの戦に加わり、そして長州軍(奇兵隊)や高杉(伊勢谷友介サン)の生き方に突き動かされたからこそ、自分の大切なものを守る、ということに確信を新たにしていった、という過程です。

 再三指摘していることですが、このドラマにおける龍馬のもっとも中心部分にある危惧は、「日本人同士が喧嘩をしている間に、外国に軍事的にも経済的にも侵略されてしまう」 というものである、と私は考えています。

 だからこそ日本という国を守りたい、自分と同じ日本人たちが自分たちのアイデンティティを見失うようなことがあってはならない、という行動規範によって動いている。 百姓や大工など、庶民の軍隊である奇兵隊のあり方に、龍馬はそんな自分の思いが、ここにこそ具現化していると感じたに違いない。
 また労咳(結核)を患い、自らの命が短いことを知ったからこそ、残り少ないその命を、自分の育った藩を守ることに殉じようとした、高杉晋作の思い。 戦場で、砲弾が飛び交う中ひとり着流しで三味線を持って悠々と渡る姿は、「ちょっとアブナすぎ…」(笑)とも思いましたが、高杉の 「いつ死んでもいい」 との思いは、伝わってくるのです。 それに龍馬も感銘を受けた、という構図は、ドラマの組み立て上、納得できる話なのです。

 それにしても弥太郎の描写は、最終章に入って傲慢の度をますます強めています(笑)。
 歯が汚いとか身なりが汚い以上に、三菱サンの神経を逆なでしそうな描写であります(笑)。
 龍馬の描写より、私にはこっちのほうが、よほど気になってしまうんですけどねえ…。

« 「ゲゲゲの女房」 第26週(最終週) 陰で支えてくれる人たちの 「見えない力」 | トップページ | 「てっぱん」 第1回 名作の後番組は、ハードルきついですよね »

テレビ」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。毎週感想を読ませて頂きながら、私と同じ、こんな解釈があるんだと楽しませて頂いています。
龍馬伝は台詞があっさりしているうえに、役者さんの感性や、演技に頼っているところが多々あり、見る人によって受け取り方が随分違うように思います。一番多いのは、龍馬が急に倒幕や戦いに参加するのはおかしい。すぐにぶれる。という感想でしょうか。でも、私が思うに、龍馬の願いは初めから「身分差別のない世の中を作ることと、日本を守ること」だったと思います。そんな龍馬が大人になり世の中の仕組みを変える覚悟を決めた時、権力維持のために外国の手を借りる、権力の象徴のような幕府を倒したいと考えることは必然のような気がするのです。戦いに関してはリウさんのおっしゃる通り。ただ、寺田屋騒動で喧嘩を仕掛けられた龍馬は、戦い無く志を遂げる難しさを肌で感じたのか、それが「できるだけ喧嘩をせんと」の言葉になったのではと思いました。他にも龍馬は霧島の誓いとともにキーワードとなる言葉を言っています。「戦いは始まってしまった。この舞台から降りるわけにわいかない。これで道が開ける。」どれも龍馬の思いを凝縮した言葉だと思うのですが、リウさんの指摘通り、説明不足もありきちんと受け手に伝わってないような気がします。それがすごく残念です。
龍馬伝は毎回私たちにメッセージを送ってくれます。それをきちんと受け取ることができたか、自分の感性を試されているような気がしますが、そこがこのドラマを見る楽しみなのでしょう。-それが視聴率があまり良くない原因でしょうか。-
残すところあとわずか。龍馬伝の製作者達が私達に一番伝えたい事は何か。しっかり受け止めたいと思っております。リウさんが最後に何を感じるのかもとても楽しみにしております。

may様
こちらこそはじめまして。 読みごたえのあるコメント、ありがとうございます。 当ブログへのリピーターでいらっしゃる様子、痛み入ります。

NHKの出している 「龍馬伝」 のノベライズによると、龍馬が参戦をした理由については結構納得できるレベルで説明されていたらしいです。 それを第三部の終了、という時点でちゃんと描かず大幅にカットし、第四部冒頭できちんとその答えを出した、という感じなのでしょうか(よく分からないですけど)。 何しろ今回の説明で、前回の説明不足はきちんと解消した気がいたします。

may様のご推察、私なんかより奥が深いです(笑)。 「力によって動くものもある」 と龍馬が考えるようになったのは寺田屋騒動がきっかけだったのでは、というご指摘は、まさに目からウロコです。

そう言えば、木戸でしたか、「権力をいったん持ってしまうと、なかなか手放そうとしない」 というようなことを話してましたよね。 それを聞いていて、現代も全くおんなじだよなあ、なんて感じてしまいました。 仕分け作業とか言って、真っ先にやらねばならないのは、オマエたち国会議員の数だろう、なんて思いますけど(笑)、優遇されすぎの議員年金はどーなったのだ?なんて思いますけど(笑)、自分たちが困るようなことはちっとも積極的でない、これはいつの世でも、権力者の常なんでしょう。

私たちはそれを、陰でブーブー言っていても、いざ根本から世の中を変えよう、などとは思わない。

龍馬は、違います。

そして彼は、世の中を変えようとしているが故に、ぶれてるとかギャーギャー騒いでるだけとか言われても、自分がなさねばならないと感じたことを、やっているのです。 傍観者がしたり顔で、龍馬に実際会ったこともないくせに、こんなのは龍馬を冒涜してるだとか、言えた義理ではないと考えます(あーまたまた、「龍馬伝」 批判者への怒りが…笑)。 福山クンは、やらねばならぬことを、やっているにすぎないんじゃないでしょうか。 mayサンのおっしゃる通り、このドラマを見て何を感じるかで、その人のグレードが分かる気がしてならないのです。

 リーンです。ここに出没します。

 今回は視点を変えて、私がもし『龍馬伝』を書いたらどう書くか、でいってみようと思います。

 1、幼少期はカットし、おとなになってから回想形式で場面を挟む。

 2、もうひとり主人公を設定する。ただし、岩崎弥太郎ではなく、NHKが4人のヒロインを今回設定したように3、4人交代でつくる。たとえば、武市半平太、近藤長次郎、中岡慎太郎、陸奥宗光、あるいは幕府側から徳川慶喜や、『竜馬がゆく』のように架空の人物をつくる。

 3、第一話は近江屋の最後からスタートさせ、最終話とリンクさせる。

 4、ナレーションは龍馬と同時代に生きた女性の誰かにする。架空も可。

 5、龍馬は、実は隠れた読書家で勉強もできたが、実家の環境が特殊なために幼い頃は周囲と打ち解けられず、やがて勉強もしなくなった。

 ざっと、こんな感じです。

 may様や、リウ様の今回の感想を読んで、龍馬の“ぶれている”正体を見た気がいたします。このドラマを見ただけでは、龍馬が目指すところの精神的支柱が感じられないのかもしれません。
 私は龍馬のぶれに関してまったく気にしてきませんでした。有名な話がありますよね。

 龍馬が刀を習っているので、ある男が刀を持っていた。次に龍馬に会ったらピストルを持っていた。それに習いピストルを持つようになった。喜んで使っていたが、次に龍馬に会ったら万国公法を持って
「これからは万国公法の時代ぜよ」
 といわれて面食らった。

 ひどく簡単にかきました。まあ、伝説ですよね。この話が象徴するように坂本龍馬は

 もともと、ぶれている。

 少なくとも他人からはぶれているように見られる危険性を内在した人物である。これを、わかった上で視聴するものだとの前提があり、今回のドラマを見る人はそこをすでにわかったうえで楽しんでいると思っていました。どうやら、そんな前提は世間的ではないのですね。ドラマのストーリーとしての流れと、龍馬の足跡を混同した意見がYAHOOなどで見受けられますが、予備知識なしに『龍馬伝』を見るのは、製作者の意図を読み取れないのでしょう。

 福田靖氏が岩崎弥太郎を語り部に持ってくる今回の手法は、とても興味深く、詳細を新聞の記事で見かけたときにこのドラマを視聴して完走しようとすぐに決めました。その理由は、龍馬が他人から抱かれる思想的なブレと、何者にも寄らないことからくる天性のお尋ね者的四面楚歌を描くのはこの方法がもっとも適しているからです。
 もしかしたら、龍馬自身も自分がぶれていると思ったかも知れず、しかし自分のブレよりも外国列強から日の本を守るなら自分の思想に統一感など無くてもかまわないと思ったかもしれない。主人公がブレを内在した人物だから、他人から龍馬を俯瞰させる方法が一番龍馬の得体の知れなさを解きほぐしてくれるに違いない。
 このドラマの製作スタッフは派手な音楽を多用し、映像にやや色味がかった処理をし、プログレッシブカメラを自在に動かした絵を使うので、そちらに気をとられてストーリーの主題を見逃すおそれがあります。いろいろ箸をつつきたくなる場面は多いですが、スタッフの心意気を感じられる出来に仕上がっていると思います。

 私が書いた『龍馬伝』のプロットは、目新しいものはありません。基本的に福田式脚本がいいじゃないか、といっているだけのものですが、「竜馬がゆく」から脱却する方法の考えのひとつとして使えないかな、と思っています。ただ、1と5は私の人生観が少し投影されています。弥太郎の嫉妬と腹立ち紛れの演技に若干辟易しているところで、善悪併せ呑む演出が欲しかったな、と思わないでもないです。薄っぺらに人間が見えてしまうし、幕末は怒りを爆発させているようでありながら、そのじつ和歌を詠むような余裕もある面白みが含まれる人間が生きた時代です。半平太だって書画をよくしたじゃないですか。“漢(おとこ)”、つまり脱藩以降の龍馬を描くには幼少期をカットしないと絶対無理です。あと、福山龍馬の描き方は木村拓哉主演の『CHENGE』を彷彿とさせます。木村を起用しようとした痕跡が脚本に残っていると感じられます。真相はいかに。

 坂本龍馬を描くことは、戦争と平和、思想の変遷とほら吹き、明るさと孤独、相反するものを噛み砕くことを強いられます。ただひとついえるのは、坂本龍馬は33年で生涯を閉じざるを得なかった男です。面白き未完成だったのではないか。偉人になる、いやなろうともしなかったむちゃくちゃな暴れん坊かもしれない。そんな余裕ある見方も必要かもしれません。

 

リーン様
ご無沙汰だと思っていたら、かくも読みごたえのあるコメントをお寄せいただき、少々ボー然としております(あまりに興味深いお話なので…)。

リーン様のコメントにじゅうぶんお答えできるかどうか不安ですが、とりあえず述べさせていただきます。

まず 「私なら 『龍馬伝』 をこうする」、という案、正直、面白いっス!(笑)

ただそうなると、1年(今年は 「坂の上の雲」 の続編があるからもっと短いですが)では収まりきれないような気がいたします(笑)。 私は第四部で、後藤象二郎の回想にしたいものです(笑)。 「いいトコ取り」 だと言われる象二郎が、どのように自らを弁明していくか…こりゃ、相当屈折した大河になりそうだ(笑)。

幼少期に関しては、結構 「龍馬伝」 では龍馬の性格形成に関してかなり執拗にやっていた印象があります。 私はこの語り方が、方法としては最善なような気がいたします。 やはり、「人なつっこくて、なおかつ情けない子供」 として幼少の龍馬をとらえた作り手の解釈には、唸りました。 坂本龍馬の人生を俯瞰してみて、「人たらし」 と呼ばれたその原点には何があるのか、ということを考えた場合、「龍馬伝」 の解釈の仕方は優れた部類に入るのではないでしょうか。

「龍馬の考えにブレがある」、というのは、「龍馬伝」 批判者の論理の大きな柱となっています。 これについては当ブログでも散々書いてきたと思うのですが、「ぶれてない人間など、いやしない」 という考え方で論破できる話である、と私は考えています。 「万国公法」 の逸話は私も知っておりましたが、その真偽はともかくとして、「龍馬はもともとぶれている」 というリーン様のお考えには、賛同いたします。 人間、一本筋の通った生き方をするのは、相当な困難を必要とするのです。
その点で龍馬は私の目から見ると、「相当アソビの部分が大きいおおらかさを兼ね備えている」 と思うのですが、「龍馬伝」 では一度思い込んだら自分の生命を擲ってまでそのことに没頭するかのごとき 「生真面目さ」 に満ちております。 作り手が龍馬をヒーロー的存在に祭り上げるために、「日本を外国から守る」 とか 「世の中の仕組みを変えちゃる」 とか、とても純粋な志を持った男に仕立て上げている気がするのです。 だのに、「遊びの部分が大きいおおらかさ」 という性格を無理に生真面目な龍馬の中に同居させるために、キャラクターに統一性がないと、批判者たちに判断されてしまうのです(分かりにくい話でスミマセン)。 人間が常に同じことばかりを考えている、というこの批判者たちは、その点において非常に浅い人間観察しかできていない、そう考えられる(「龍馬伝」 批判者の方々にはキッツイ話で申し訳ないです)。

弥太郎の描写がますますエキセントリックになっている旨は、この記事の中にも表現したと思うのですが、単純に考えてここまで唯我独尊を貫き通しながら事業を成功させる経営者など、実に稀です。 やはり倍賞美津子サンに、ケツをひっぱたいてもらわないことには…(笑)。 個人的には、どうしてこんなゴーマンな男が成功できたのか、それくらいは説明してくれてもいい気はするのですが(笑)。 …これからするのかなあ?(笑)

リーン様の龍馬の性格に関するご推察は、まさしくその通りです。 「龍馬伝」 批判者の頭の中は、「坂本龍馬はこうでなくてはならない」 という考えが、凝り固まりすぎている。 自らの知識に縛られている印象も見受けられます。 リーン様のおっしゃるように、もっと余裕を持ってこの男を見るべきだし、自分の中にある思い入れが、実は虚像なのかもしれない、という自己問答をすべきなのではないか、そう考えられるのです。

リウ様
お返事ありがとうございました。リウ様のお怒りよくわかります。私も一度だけ「みんなの感想」を読んで驚きました。演出、脚本については、大友dが「大河ドラマは作らない。現代人から見た偉人は描かない。」と言っているので、賛否両論覚悟の確信犯で、有る程度仕方ないと思うのですが。福山さん個人に対するコメントには悪意さえ感じて、言論の自由と言葉の暴力は紙一重なんだと思いました。
福山さんの演技の技術は決して高くありません。でも、「龍馬伝」の「龍馬」の魅力である、「素直で、真っすぐなしなやかな強さ」、「周りの人を温かくする空気感」を自然に表現されているのを見て、これもありかなと思いました。でもこれって演技ではなく、本人の持つ資質のような気もしますが。
福山さんは不思議な俳優さんです。私が見た3本のドラマの役柄は、キャラに重なる部分が無く、それなりに演じ分けられていたのですが、全て「福山にしか見えない。」といわれていました。キムタクが何を演じてもキムタクキャラになるのと少し違います。普通は役者が役柄に近ずくのに、役柄が役者に溶け込む感じでしょうか。福山さんのイメージが幅広いのか、本人のパワーが大きいのかわかりませんが、俳優さんにとっては少し不利な気がします。

リウ様とリーン様の「龍馬のブレについてのお話」も興味深く読ませて頂きました。「龍馬伝」の龍馬は、志よりもっと大切な事、「大切な人は自分が守る。人の命は地球よりも重い。」があるからややっこしいのですね。お母さんを死なせてしまったトラウマで、「命を使い切る」に繋がるのでしょうが、この為に無謀な友達救出を何度も繰り返し、「龍馬伝」批判者の集中砲火を浴びましたからね。製作者は、積重なった無念を龍馬の転機のきっかけにしているのですが。
理想を追うだけでは世の中を変えられないと知った龍馬は、無血革命を目指しつつも、実現段階においてかなり現実的になって行きます。もともと思考や行動に制約のない人ですから、次々と奇策を考え実行していく。これをブレとしたら、リーン様のおっしゃる通り、龍馬はもともとブレていて、ブレこそが龍馬の最大の魅力であり、幕末の奇跡を起こした要因だと思うのですが。龍馬暴れん坊説、私も賛成です。弥太郎も「皆あいつに振り回された」と言っていましたからね。
弥太郎も武市も龍馬よりはるかに優秀だった。でも常識から抜け出す事はできなかった。だから龍馬に憧れ、嫉妬するのでしょう。高杉がソウルメイトなのは、彼もまた制約のない人だったからなのでしょうか。
「龍馬伝」を通して、私は歴史ファンや龍馬信者のパワーの凄さを知りました。龍馬ファンでも福山ファンでもない私は、ドラマは楽しければokなのですが。知識があるとそれが邪魔をして、素直に楽しめないこともあるんですね。明日は龍馬と象二郎との対決です。憎しみ合っている二人がどう折り合いをつけて手を結んでいくのか。何も知らない私はとっても楽しみです。リウ様の感想も楽しみにしております。

may様
再コメント、ありがとうございます。

「みんなの感想」 欄は、挑発とも受け取れる面白半分の批判も多いので、それにいちいち過敏に反応していては身がもたない、という部分もありますが(笑)。

彼らの怒りの内容を見ていると、「批判をする人間は賛同者を得ることによって自己陶酔にかかり、過激になり、そのことで作品をますます軽く見くびり、しまいには揶揄する傾向にある」 という、人の情のはかなさを感じます。

「揶揄する」 に至ってはもうすでに、読むに値しない下衆な論理にその者はとらわれている。 自分がどれほどの人間であるか、振り返ってみるべきだと感じます(彼らの挑発に乗っている私も、同じステージに立ってしまっていますけど…)。 may様のように、冷静にこのドラマを分析している賢明なかたが世の大勢を占めるようになってくれると、世の中も捨てたものではないと思えるのですが。

私が福山サンの演技を(ちゃんと)見たのは、これが初めてかな。 喜怒哀楽が、ちょっと極端すぎるかな、などとは感じますが、これも意図あってのことなのだ、という目で見ております。 一生懸命さが伝わってくればそれでよし、です。 このドラマでしか福山サンの演技に触れたことがなくてこんなことを書くのは僭越ですが、彼が最大限のポテンシャルを出していることは、とても感じるのです。

何をやっても同じになってしまう、という批判は、木村クンに限らずよく聞かれる批判です。
でも、役者が役によって全く別の演技ができる、というのは、実はその人が器用であるかどうか、という、視野の狭い評価基準でしかないように、私には思われるのです。
確かに全く違う人間を演じることができる、というのは、実に分かりやすい評価が出来ますし、驚きの目を持ってその役者を見ることができます。
でも器用なのと演技が上手いのとでは、どこか次元が違う気がする。 要するに人の心を打つのは、その人の演技に 「情念」 が宿っているかどうかなのだ、という気がするんですよ。 名優であるかどうかの分かれ道は、決して器用によるものではなく、どんな役どころでも一貫して、自分を表現できるかどうか、にかかっているのではないでしょうか。 一生懸命さはそれに通じる道でもあると思います。

「龍馬がぶれている」 ということを受け入れられる人は、自分自身をきちんと振り返ることができる人なのだと感じます。 人間いつでも、聖人君子で清廉潔白なわけではない。 感情の振幅というものを受け入れることのできる度量があってこそ初めて、見えてくるものがある気がいたします。

http://mousoutaiga.blog35.fc2.com/?mode=m&no=452

龍馬伝に批判的な人達の中で、一番なるほどなあ、と思わせてくれた方がいるので紹介します。
龍馬伝はドラマのクオリティが高くて面白いだけに、そのメッセージ性、視聴者への洗脳という意味では結構危険なドラマだと思います...

龍馬様
ご紹介いただいたブログ、拝見しました。

龍馬サン、そのハンドルネームからして、相当な龍馬信奉者のようですネ。

「視聴者への洗脳という意味では結構危険なドラマ」、とおっしゃる龍馬様のお気持ちは理解できます。

確かに 「龍馬伝」 は、偏った人物描写によって構築されている物語であります。

それでも、「事実に基づいて人が作り出す物語」 は、かなり太古の昔から、すべての人物の真実を描き出そう、というものは、とてもまれなことのように思うのです(話がオーゲサで申し訳ないのですが…)。

だいたい 「三国志」 にしたって、曹操が一方的に悪人として描かれていますが、実際そういうことはないわけでしょう。 「忠臣蔵」 にしても、吉良上野介が、ホントに一方的に悪いんでしょうか?

つまり、事実に基づく物語、というものは、古来の昔から事実誤認を引き起こす 「民衆への洗脳作業」 がついて回る、とても罪づくりなものなのだ、という認識を、まずされたらよろしいのではないでしょうか。

「龍馬伝」 を見て、ああ徳川慶喜は、こんなにワルイヤツなんだ、と認識をしたかたが、もし何かの機会にモックンの 「徳川慶喜」 を見たら、あまりの描かれ方の違いに、愕然とすることでしょう。
逆に言えば、「ありゃ嘘じゃねーか!」 と憤るよりも、その違いを愉しみ、それを機にその人物に対する興味を増していくことも、ドラマを見る大きな意義のような気がするのです。

ドラマの質、という問題から言って、すべての人々にそれなりの理由があった、という描き方をするのは、最上の方法であることは自明の理です。

そして私も、心の本当のところでは、そのようなすべての登場人物に対する深い洞察がなされたドラマを、待望しています。

龍馬様も、「洗脳」 などと大げさにお考えにならず、また作り手の意図を悪い方向に考えずに、ドラマをご覧になったらいいのではと、僭越ながらご提案させていただきます。

この記事に書いたように、「龍馬伝」 はもともと、龍馬と弥太郎の対立構図、というあり得ない話から出発しているのです。

そのなかで取捨選択されていく要因は何なのか、自らの知識を総動員しながら見ていくのも、ひとつの楽しみなのではないか、と考えるのです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/521783/49577158

この記事へのトラックバック一覧です: 「龍馬伝」 第39回 「日本を守るための戦」、その中心にあるものは:

« 「ゲゲゲの女房」 第26週(最終週) 陰で支えてくれる人たちの 「見えない力」 | トップページ | 「てっぱん」 第1回 名作の後番組は、ハードルきついですよね »

2018年11月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

無料ブログはココログ