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2011年2月 4日 (金)

「江~姫たちの戦国~」 第4回 自らを由とする生き方

 舞台は天正9年、相変わらず9歳くらいの上野樹里チャンを、脳内補正をかけながら見進めなければならない 「姫たちの戦国」 であります(ついでにりりしい青年の北大路欣也サンも…笑)。

 で、その脳内補正ですが、実際に上野樹里チャンと信長役の豊川悦司サンが立って演技する場面を見ていてふと思ったのですが。

 ヤケに樹里チャン、小さく見えるなあ、と。

 ウィキで調べましたら、豊川悦司サンは186㎝。 かなりの大柄で、樹里チャンとは20㎝近い差が実際にもあるのですが、画面ではそれ以上に差があるように見える。 つまり樹里チャンが、9歳くらいの背丈に見えるのです。
 これはカメラの位置による見せかた、という気もしますが、ひょっとしてCG補正でもしとるんじゃないか?と見紛うほどのような気もする。 まあそんな手の込んだことは作り手もしないだろうとは思いますけど(笑)。

 この、両者立ちっぱなしという所作に対する疑問も上がるこのドラマ、「みんなの感想」 ではもはや坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という域に達している感がいたします。

 ただ私は、そんなにこのドラマがひどいとは思いません(また世論に楯突いとるなぁ…笑)。

 冒頭に書いたとおり、このドラマの序盤を見るにあたって見る側が心しなければならないのは、樹里チャンが7歳から10歳くらいの役をやっている、ということであります。
 ここに子役を立てなかったというのは大失敗、としつこいくらいに私もこのブログでは書いておるのですが、「この子はまだ幼女である」 という思い込みを、視聴するうえで強いられるのは正直メンド臭い(笑)。
 だいたい今回も、10歳くらいの小娘がのたまうのにはかなり無理がある難解なことを、江は信長に対してズケズケ進言している(それはのちほど)。
 見ている側の混乱は、このことでまたかなり募ります。
 ますます子役を立てるべきだった、という感が、個人的には強くなっています。

 つまり、小難しいことを言っても、子役であれば、まあ理屈を言いたくなる年なんだよな、と納得がいく。
 けれども樹里チャンは外見上いい年をした大人ですから、10歳くらいの小娘がこんな難しいことを考えるか?と見る側は思ってしまうのです(10歳くらい、という認識がなければ、逆に分別もなく何をズケズケもの申しているのか、と思えてしまう)。

 でも、いずれにせよ私は 「子役じゃないけど、10歳くらいって理屈を言いたくなる年なんだよな」、という解釈で今回の話を納得しようとしています。

 そのうえで、「江」 というドラマは、よく出来た話である、と評価をしたいのです。
 その要因のひとつが、「匂い」 による演出。

 今回冒頭、市(鈴木保奈美サン)と浅井三姉妹は、香を聞いています。

 そこで茶々(宮沢りえサン)は自分の父親浅井長政(時任三郎サン)の好んだ香の匂いを聞き分け、初(水川あさみサン)もそれに同調する。
 父親の記憶自体がない江は、どうもその匂いにピンとこない。

 結局江は(そのシーンとは別のシーンで)信長が好んだ東大寺という香を自らの匂いだと認識するに至るのですが、「匂いが人に与える作用」、というものに着目したかつてないアングルによる解釈を、個人的には見た気がするのです。

 茶々は自分の父親の匂いをかすかに覚えている。
 初は年下なので、その記憶があいまいで、後出しジャンケンのように、その匂いが好きと同調する。
 江はそれに対して、信長の好んだ香りに惹かれていく。

 匂いというものは、人の記憶に密接にかかわり合うかなり重要なアイテムであります。

 誠に個人的な話をしてしまいますが。

 私も数年前に、子供のころ田舎に里帰りしたときに嗅いだ、冷蔵庫の匂いに似た匂いを、あるきっかけで嗅いだ事があったのですが、今はもうない故郷のことを強烈に思いだして、猛烈な慟哭の衝動に駆られたのを覚えています。

 おそらく江にとって、東大寺の香りは、この先信長を思い出す強烈なアイテムになっていくに違いない。
 そう考えると、このドラマがなにを表現したがっているのか、とても理解できるような気になってくるのです(錯覚?…笑)。

 私が思うに、このドラマは史実を追うことに主眼がありません。
 人々が戦の世の中で、何をよすがにして生きていたのか、何が見えなかったのか、に主眼がある気がする(今んところ)。

 今回その東大寺、という香は、正倉院に伝わるムチャクチャ貴重な古代の香木を削った、誠に恐れ多いシロモノだった、というオチだったのですが、そこで江が、幼いながらも信長と通じる天下を統べる気概の持ち主だ、ということが表現される。
 そしてその信長と江との共通性を、「匂い」、という、当時の記録媒体が紙しかないなかでの、個人の 「記憶装置」 に委ねていく。
 そんなところにこのドラマの特長がある気がします。

 けれどもこれが大人の樹里チャンだから、その作り手の表現の仕方に鼻につくものが感じられてしまう。
 しつこくてナンですが、子役でやるべきだぁ~。

 そして今回の話でもうひとつ重要だと思えたエピソード。
 馬揃えの話です。

 この行事を信長は、自らの権勢を内外に誇示する道具として活用するのですが、それは現代の感覚から見ると、まるで仮装行列。
 明智光秀(市村正親サン)はかなりの仏頂面で、この行列に加わっている。
 江たちの後見人である織田信包(小林隆サン)はあまり考えなしでニコニコしながらそれに加わっている。
 のちに江たちの父親となる柴田勝家(大地康雄サン)は、「武士(もののふ)がこんなことをしてハズカシイ」 という顔で、行列に加わっている。
 そしてそれを眺める市と浅井三姉妹。
 初は森三兄弟をまるでアイドルみたいな感覚でキャーキャー言いまくる。
 信長は芝居がかったクサさ全開で、「この世の春じゃ!皆々の春じゃ!」 とブチ上げる。

 目の肥えた現代人からすれば、こんなものはただのパフォーマンスで下らんまやかしだとすぐに分かるために、またそれが 「下らんドラマ」 という評価に容易に直結してしまう話である気がします。

 しかし作り手が見据えているのは、もっと先だと私は感じる。

 信長はこの回、自分が神である、という態度を明確にしていきます。

 けれどもこのドラマでの信長は、そのこと自体に自分の真意を置いていない。

 神だと言い出した自分に対して、それをあがめるのも自由、無視するのも自由、という立場なように見える。

 自由、という言葉は確か福沢諭吉が作ったとか(違うかな~、これも大河?の誤った知識かもしれません)、この時代にはありませんでした。
 けれどもこのドラマにおける信長のスタンスは、まさに 「自らを由(よし)とする」 自由の立場を強調しているように、私には思えます。

 信長は自らの権勢を誇ることによって、世の中を平定しようとしている。

 「江」 というドラマでも結局、「戦のない世の中を作るため」、などという、ありきたりな表現までしか、その理由はやはり到達できていません。 その浅さは私も感じます。

 けれどもその先には、自らの思うがままに人生を謳歌せよ、という信長の、万人に対する意向が読み取れる。 仮装行列を見てスイーツ並みに狂喜するのも自由、人々の心を却って蹂躙するかのごとき神や仏の教えから解き放たれるのも自由。
 それをトヨエツサンは、端的に江に対してだけ、自らの真意を語っていくのです。

 「神仏の教えとは所詮人間が作りし物。 どれもこれも妄想、迷信、絵空事にすぎぬからじゃ…真なる神があるとすれば、それは…この、織田信長をおいて他にはない」

 先ほど書いたように、この回での江は、自らを神と名乗り始めた信長に対して、私の知ってる信長さまとは違う、という観点から、反駁を強めていく。
 そしてそれを信長にズケズケ直言するのですが。

 「神も仏も信じぬと言われた伯父上が、今度はご自分が神だと言われる…そんなの、おかしいと思います!
 …人は、己の望むままに、神になどなれません。
 どんなに伯父上がお偉くても、それだけは無理にございます!
 恐れ多いというお心が、伯父上には、ないのですか?
 己を信じるということと、己が神になることは、違うと思います!」

 ここで江が10歳程度でこんな小難しいことを言うかどうか、やはりそれは見る側の判断に任されている気がします。
 そしてそれを誤解させやすい要因が、10歳程度の江に子役を立てない、ということである、スンゴイしつこいですけど(笑)、私はそう考えるのです。

 この江の歯に衣着せぬ直言は、ほかならぬ伯父上の教えによるものである、と江は話します。
 それに対して信長は、こう答える。

 「…そうであったな。
 その言葉に偽りはない。
 己を信じて、思うがままを話し、思うまま生きればよい。
 
 己の信じる道を行け、江!

 思うているより時は早い。
 人生は短いぞ」

 あ、ここだったか、このセリフ(笑)。 第2回目のレビューの題名で、早くも使ってしまっていた(笑)。 「江!」 って、GO!英語かよ!みたいな(笑)。
 いずれにせよ、自らを由とする生き方を、自分の人生を最大限に駆使しながら駆け抜けていった信長の人物像が、ここから浮き彫りにされる気がするのです。

 その後、市は自らと娘3人の処遇を話し合うために、信長に呼ばれます。 茶々と天皇家との政略結婚を進めようとする信長に、市は反発する。 戦をやめるために戦ってきたと、そうのたまう信長。

 「世の中が大きく変わるときには、多くの血が流されるものじゃ」

 そんな信長に、市はこう反論します。

 「それは都合のよい理屈にございます」

 それに信長は、こう答える。

 「そのようなことはどうでもよい。 誰かがやらねばならなかった。 そしてわしは、それをやっただけのことだ。

 …

 ただ、憎まれ恐れられる者は、ひとりでよい。
 しかる後、太平の世が来れば、それでよい」

 「…太平の世…。
 …それが、世の春、皆々の春でございますか…!」

 それに得心のいってしまう市、なのですが、ここで 「太平の世」 に刮目してしまう市に注目してしまうと、ドラマが薄っぺらくなってしまう気がします。
 平和のための戦争かよ、やれやれ、みたいな(笑)。

 ここで信長は、補足説明として、権勢の衰えた帝への畏怖を復活させるために、茶々を嫁がせるのだ、という理屈を述べるのですが、個人的にはこっちの理由のほうをメインにとらえたいですね(笑)。 単なる思い込みたがりですけど。 だって誤解を恐れず言えば 「戦のない世を作るため」、なんて安っぽ過ぎるじゃないですか(意見には個人差があります)。
 最高権力の天皇の復権を視野に入れた政略結婚だからこそ、市は信長の真意をようやく理解し、このときの会話で初めて兄と通じたような気になった、そう思うのです。

 けれども同時に、市はその信長の申し入れを、いったん保留する。

 「私は兄上様の道具でも、人形でもございません。
 ただ、
 …己自身でしかと定めたのち、お側に戻りたいと思います」

 政略結婚は、この時代の、いわば常識であります。
 けれども女性たちは、常識だからとハイハイそれに従っていたわけではない。
 その時代なりの、「女」 としての誇りを保ちながら、それに従っていた、そんな作り手の思いが、このシーンからうかがわれる気がしました(ベタかもしれませんが)。

 そしてそんな信長の思いは、江に繊細に伝わっていく。

 市と一緒に呼び出されていたのに、信長に反発して行かなかった江なのですが、その思いが母親を通じて微妙に伝わっていた江は、そのことを後悔する。
 いったん突き返した東大寺の香は、要らぬなら捨ててもよい、という信長の意向で江に戻ってきたのですが、これから本能寺で非業の死を遂げてしまう信長との繋がりを示す、USBみたいな感覚なんですよ、その香は。 ここらへんはうまいなあ、と感じます。

 ただ見ていて気になるのは、このドラマ、結構セリフに頼り過ぎているきらいがある。
 無言の仕草にもっと多くのものを感じたい、そんな要望もないことはないです。

 いずれにしてもよくできた話だとは感じます。 見方を誤らなければ(笑)。 樹里チャンをおぼこ娘だと思って見よ!とか、北大路欣也サンは青年だ!とかヘンな制約が多すぎるんですよ、このドラマ(爆)。

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