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2011年2月

2011年2月27日 (日)

「江~姫たちの戦国~」 第7回 負のスパイラル

 このブログにあるまじきネガティヴな論調にならざるを得ない今年の大河ドラマ。
 これは10歳程度の娘なんだ、という脳内変換にも疲れてきました。
 でも結構、どこが悪いのかを考えるのは楽しいですな、意地悪みたいですけど。
 いいとこ見つけようと思うんですけどね。

 さて毎回歴史の大舞台にあらわれるタイムスクープハンター、江(上野樹里チャン)であります。
 今回は織田家の跡取りを決める清洲会議に潜入。

 …とにかくまあ、清洲会議に江を飛び入りさせることで、脚本家のかたが何を考えていらっしゃるのかをまず考えてみようかな、と。

 つまり、
 「なんで織田家の跡取りをあんた(秀吉)が決めなきゃならないの?」
 ということを江を使って訊き出したいということなのかな、と。

 ただそこに至るまでが、また説得力に欠ける。

 江がたまたま清洲にいたのはいいとして、この清洲会議、ドラマでは出席者がわずか4人。
 仮にも天下人だった人物の家督の後継者選びにしては少なすぎる気がします(蛇足ですが、織田家のふたりの後継候補、共に 「ギルティ 悪魔と契約した女」 で菅野美穂チャンに復讐されてしまう極悪人でしたよね…笑)。

 いや、そもそもなんで織田家の後継者をほかの諸大名が決めようとするのか、ということ自体が分からない。
 織田家のことは織田家が決めればいいでしょうに。
 ドラマではそこらへんの説明が希薄なように思えるのです。

 その清洲会議の場で、信長の長男の嫡男、三法師を担ぎ出そうと、秀吉は意気揚々とふすまを開けるのですが。
 …そこには聞き耳を立てていた江が。

 「れれっ? ゲゲッ、さ、三の姫様!」

 摩訶不思議な 「姫たちの戦国」 ワールドに突入であります。

 このシーンを振り返ると、脚本家のかたはそんな意外性からくる面白さを表現したくて仕方がないように思えてきます。

 もしも歴史のその場に、江姫がいたら。
 そりゃ面白いでしょうけど。

 まずそのことでずいぶんセキュリティが甘いなあ、と見る側に思わせてしまい、たった4人しかいないという設定も相俟って、会議自体の重みが消失する。
 次に、三法師が控えているのが次の次の間(正確には廊下)で、その間に江がいる、という間取り自体にも無理がある。

 あり得ない、という感想を視聴者に持たれてしまったら、途端にドラマ自体の説得力は、低下します。
 でもいくらリアリティがなくてあり得なくても、その人物の人間を描き切っていたりすれば、ドラマというものはその魅力を失うことがありません。

 このドラマは何べんも指摘しているように、10歳程度の江を子役を使わず24歳だかの樹里チャンに演じさせることで、見る側の無用な混乱を最大限に引き出してしまっている。
 まずそれが、このドラマ失敗の大前提にあります。
 だからまず、主役の江に感情移入がとてもしにくい。

 江が10歳そこそこで結婚だのいろんな経験を積んでしまうことから、子役を使わないというのは、ある意味仕方のない決断でもあります。
 でもそんなことを言い出したら、そもそも24歳だかの樹里チャンを江役に抜擢する、ということ自体に無理があるのです。 江の人生をトータルに考えたら、半年くらいは14歳くらいの子役を使い、残り半年は28歳くらいの女優を使う、という方法が適当な気がする(ほかの茶々、初に関しても同様)。 主役をひとりの役者、とこだわってしまうから、こんな根本的な失敗が生まれるんだと思うのです。

 主役に感情移入が出来なければ、ほかの人にその思いを託すことも可能なのですが、それが出来た信長役の豊川悦司サンが、ドラマから退場してしまった。

 またいっぽうで、そんな感情移入しにくい主人公であれば、極力表舞台に出さない、という手法もありえます。
 歴史上のこともある程度江自身の人格形成に寄与させながらも、幼少時のエピソードはいくらでも作れる気がするのです。

 けれどもこのドラマでは、歴史上の重要事に、あまりに江が関わりすぎる。
 10歳程度の小娘が何をしゃしゃり出ているのだ、という見る側の反感は、キャスティングの年齢の祖語という大前提があるからこそ、余計に生まれやすい。

 「こうすればもっとよくなる」、なんて指摘しなければならないのは、なんか情けないものがあるのですが。 どうもキャスティングからなにから、すべてが負の連鎖に陥っている気がしてならないんですよ、このドラマ。

 とにかく三法師を担ぎあげる秀吉に、江はこう言い放ちます。

 「なぜそのような大事、そなたが決めるのじゃ!」

 それまで江にビビりまくっていた秀吉でしたが、ここは江のその詰問に動じることなく、「それがしではない。 御屋形様(信長)の御遺志と思うがゆえにございます」 と開き直る。

 このシーンを荒唐無稽にしないためか、作り手は今回、三法師とそれを世話するおね(大竹しのぶサン)、なか(奈良岡朋子サン)と江をあらかじめいったん引き合わせます。
 そしてその場に入ってくる秀吉が、信長の姪御である江に恐れをなす様を見せ、「御屋形様の御威光で年端の行かぬ江に頭が上がらない秀吉」、の構図を見せておく。 これで江が秀吉になあなあの口を聞いてもいい下地が出来ます。

 そのうえでこの清洲会議で、江の詰問に対して 「年端の行かぬ小娘のことなど聞いとりゃしませんよ」、とする秀吉のしたたかさを強調し、さらに小娘の詰問くらいでは動じない歴史の重みを表現しようとしている。

 ここで脚本家のかたは、「どうして秀吉が織田家の跡取りを決めなきゃいけないのか?」 という自分の疑問点をあえて江に託し、そのうえで、「そんな疑問など為政者たちにとってはとるに足らぬことなのだ」、という思いも、少しではあるが込めているような気がする。

 ところで私が江以上に見ていてしっくりこないものを感じるのは、岸谷五朗サンが味付けしている、秀吉の造形。
 信長亡き後、ドラマを引っ張っていかなければならない役どころのような気がするのですが。

 千宗易(石坂浩二サン)がいみじくも指摘したように、このドラマでの秀吉は笑っていたと思ったらいきなり泣き出したり、コロッコロ気持ちが変わっていきます。

 それを強調して表現しようとするのはいいのですが、オチャラケモードからマジメモードに豹変するときのチェンジの仕方がどうも、しっくりいっていない気がする。
 マジメモードのときの秀吉が、なんかまだ人を小馬鹿にしているような軽さがあるんですよ。
 それが秀吉のしたたかさを見る側にアピールできない主たる原因のひとつかもしれません。
 マジメなときはもっとマジメに、何を考えているか分からない不気味さを演じられれば、もっとよくなる気はするのですが(また 「こうすればもっとよくなる」、か…)。

 ともあれこういう中途半端なカリカチュアを見せられることで、「あり得ない」 のスパイラルに陥っている視聴者は、ますます嫌悪感を募らせてしまうのです。

 今年の秀吉は 「天地人」 の笹野高史サンが演じた秀吉と 「悪役チック」、という立場において似通ったものを感じるのですが、笹野サンの場合はオチャラケモードとマジメモードの境目が、まだきちんとしていた気がする。 そちらのほうが効果的だと思うんですよ。

 リアリティが感じられない登場人物たちのなかでひとり異彩を放っていたのは、秀吉の母なかを演じた、奈良岡朋子サンでした。

 百姓がきれいなべべを着せられてそれに嫌気がさしている、という構図はこれまでの大河で幾度となく表現されてきたなかの姿なのですが、このスタンダードさがかえって新鮮に感じる。
 このドラマの意図を読み取れる役者さんの演技だな、と感心いたしました。
 私が感情移入できたのは、この奈良岡朋子サンくらいでした。

 そしてもうひとつ。

 今回の話のメインは、清洲会議で秀吉に敗れた柴田勝家(大地康雄サン)のもとに、市(鈴木保奈美サン)が嫁ぐことを決める、という話。

 「なんで好きでもない人のもとに嫁ぐのか?」 と市に詰問する江の気持ちは、個人的には理解できます。
 いくら戦国時代であろうと、政略結婚に対して納得できない思いは10歳程度の娘ならある、とする脚本の方向性は分かるのです。
 けれども演じているのは、24歳の樹里チャン。
 またまた脳内変換、しなければならぬのですが、「当時の常識も弁えないでなにを言っとるか」、と見る側に思われてしまう危険性は拭い去れるものではありません。
 演じている役者さんたちは大変だろうな~と、つまらぬ部分で同情してしまう。

 このドラマでいちばんその難しい部分に苦慮しているように見えてしまうのは、初役の水川あさみサン。

 今回ドラマ冒頭でも、光秀を擁護する江に 「伯父上の仇なのじゃぞ!」 と憤ってしまうシーンがあったのですが、なぜ信長を仇だとしていたのに信長の肩をもってしまうのか、という性格上一貫していない部分が感じられてしまう。 それを聞いていた市も、「そなたにも伯父上を気遣う気持ちがあったのじゃな」 と意外そうな感想を漏らすのですが、あり得なさに辟易している視聴者は、「やれやれまた性格破綻か」 というように見てしまうのです。

 けれどもこのシーン、茶々(宮沢りえサン)と違って、「信長が父浅井長政の仇である」 とする認識が、初の場合ちょっと又聞きの世界、という要因が絡んでいる、そう私は考えるんですよ。

 だからこそこのくらいの年齢の娘なら、状況によって判断も変質してくるだろう、と思われる。
 けれども演じているのは、27歳のあさみサン。
 却って開き直って演じているかに見える37歳の宮沢りえサンのほうが潔い気さえしてくる(女性の歳を羅列して申し訳ないです)。
 演じる側としては、難しいだろうな、とつくづく思ってしまうのです。

 ともあれ、そんな江に 「政略結婚とは女の生き方。 女も武将の気持ちでそれに臨んでいるのだ」 という心構えを説いた市。 10歳程度の江は、それを今回学んだことになります。 凛とした市の姿は、清々しくさえある。

 ところがそのパワーバランスの場に引きずり出された柴田勝家、市と会うなりしどろもどろ。 吃音の連続です。

 こうすることで分かりやすいし面白い、という意図は、こと物語的にリアリティの欠如した大河ドラマにおいては禁則ではないか、と思われます。 血みどろの闘争を繰り広げてきた戦国武将の重みを、真っ向から否定する所業であるからです。 勝家のしどろもどろの表現は、必要最小限でよい。

 これは次回、江に対して毅然たる態度をとるであろう勝家との対比を狙ったものであろうかと思われますが、やはり威厳は大事だ。
 こんなしどろもどろの男が、なぜたった4人の清洲会議に出席していたのか、というドラマ自体の説得力にも関わってくるからです。

 ただ私がこのドラマを楽しんでいるのは、大方のかたがたが嫌悪感を抱くであろう、このドラマ全体に流れるスイーツ感。
 スイーツドラマってものを、あんまり見たことがないので新鮮なのかもしれません(笑)。
 「のだめ戦国時代」、みたいな感覚で見ている。
 樹里チャンも、もっとはっちゃければいいなと思いながら見ています。

 …すっごくおかしなハマりかただな、という自覚は、しております(笑)。

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「TAROの塔」 第1回 尋常ならざるもの

 岡本太郎生誕100年企画のNHK土曜ドラマ、「TAROの塔」。
 芸術家の岡本太郎氏の人生を描きます。

 岡本氏の人生においてのいちばんのピークと考えられるのは、言わずもがな1970年の大阪万国博覧会(通称万博)を通じた活動でしょう。
 第1回ではそのプロデューサー就任に至るまでの動きと、幼少時の様子が交互に描写される。

 私自身疲れ果てているためだったのかもしれませんが、ちょっと途中ウトウトしました。 もしかすると退屈だったのかもしれません。

 ただ如実に感じたのは、芸術の道を進もうとするものたちの、そのアブノーマルさ。

 壮年期の岡本太郎氏を演じる松尾スズキサンは、そっくりさん大会に出てくるレベルで風貌が瓜二つ。 岡本氏独特の身ぶり手ぶりなどもちゃんと真似ている。
 岡本氏は生前、テレビなどにも積極的に登場していただけあって、私も未だにその異様な雰囲気を覚えていますが、こういうメディアシンボルのような人物を演じることはかなり困難を伴う気がいたします。 あまりに似すぎると、ホントにものまね大賞みたいになってしまう。

 松尾スズキサンのそっくりさん演技は、岡本氏本人のエキセントリックさに比べれば幾分押さえた印象。 目を剥いた狂気さもそれで控えられてはいますが、反面、テレビに出るということで結構自己演出気味のように感じられた実物よりも、もっと内面的な部分に、却って迫っている気がします。

 その岡本氏のエキセントリックの源流は、やはり母親の岡本かの子氏と父親の岡本一平氏のアブノーマルぶりにあるのですが、両氏を演じた寺島しのぶサン、田辺誠一サンがやはり強烈。
 特に寺島しのぶサン、「龍馬伝」 での乙女姉やんから一転、ドギツイメイクで隈取りのごときアイライン、内面の狂気を前面に打ち出しています。

 ここで描写される岡本かの子氏は、自ら芸術の炎のなかに身を投じた誇り高き才女。
 かなり芸術かぶれの自意識過剰な人物として寺島サンは演じておられるのですが、それは自らに過酷な鞭を打つ所業であることも、同時にさりげなく表現されている。 ホントにすごい女優サンであります。

 芸術家というものは、他人の評価との限りなき死闘を宿命づけられる側面があります。 自らがいくらよしと思っても、世間から評価を受けなければ、その芸術作品は、ただのゴミ。 独りよがりの烙印を押され、初めからなにもなかったかの如く消え去る。
 寺島しのぶサンの演技は、その脅迫観念と虚しさを余すところなく表現していた気がします。
 この思考回路が、太郎氏に受け継がれていく様子が、ドラマを見ているとよく理解できる。

 岡本一平氏のほうもそれには負けますが破天荒であることに変わりはない。
 新聞の風刺漫画で稼いだ金をすべて飲んでしまうということはよくありそうな話ですが(でもないか)、妻の愛人(成宮寛貴クン)を容認し一緒に住んでくれなど、「よう分からん」(笑)。
 それはかの子の芸術にとってプラスになる、と踏んでいるためだと思われますが、「芸術家はフツーのことをしていてはイケナイ」、という意識も多分にある気がするのです。
 それはいかにして自分をアピールすることが出来るか、という必要に常に迫られている苦しい副作用、でもあります。
 一平は、太郎に 「芸術家とは、生きて地獄を見る人のことだ」 と教えます。

 尋常ならざる環境で育った太郎氏は、太陽をつかもうとするひとり遊びに興じ、さらに単語を繰り返す癖がもともと備わっている。
 その言葉は最初、自分をかまってくれない母親かの子を呼ぶ 「おかあさん」 というものだったのですが、父親から教わった 「いやだ」 というフランス語、「ノン」 という言葉を、そのうち太郎少年は頻繁に使うようになってくる。 世間の常識や固定観念に対して抗うことを、太郎少年は 「ノン」 という言葉で体現していくのです。

 はじめ杓子定規のようなことしか教えない学校に行くことに対し、太郎少年はノンを突き付け、生活に困窮し川で死のうとする(その川が、かつてかの子が 「悠久の時」 と呼んでいた多摩川だったのかどうかは分からないのですが)母親に対してノンを突き付ける。 そして、母親を奪おうとする、その川に対しても。

 そんな少年時代を経た岡本太郎氏、万博が掲げた 「人類の進歩と調和」 というテーマに噛みつく。

 そのプロデューサー就任の席で、岡本氏はこうぶち上げるのです。

 「はじめに。

 私はこの万博のテーマに、反対である」

 どよめく会場。

 「『人類の進歩と調和』 なんてくそくらえだ。

 人類は進歩なんかしていない。

 確かに、宇宙へ行く科学技術は発達したが、肝心の宇宙を感じる精神が失われているじゃないか。

 それに、調和と言ったって、日本の常識と言えばお互いが譲り合うということだろう。

 少しだけ自分を殺して、譲り合うことで慣れ合うだけの調和なんて、卑しい!」

 それじゃどうしてプロデューサーなんか引き受けたんだ、という記者の質問。

 「危険だからだ!

 人間は生きる瞬間瞬間で、自分の進むべき道を選ぶ。
 そのとき私は、いつだって、まずいと判断するほう、危険なほうに賭けることにしている。
 極端な言い方をすれば、おのれを滅びに導く、…というより、自分を死に直面させる方法、黒い道を選ぶということだ。

 無難な道を選ぶくらいなら、私は、生きる死を選ぶ。

 それが私の生きかたの筋だ!」

 怒号の飛び交う会場。

 現代的な視点から見れば、この岡本氏の姿勢は 「そういう人もいるんだ」 という、「何でもありの世の中だから」、という観点から受け入れやすい傾向にある気がする。
 けれども1970年当時の日本は、今よりもずっとつつましやかな常識が支配していた時代。
 そんな時代にいくら学生運動などで反万博の空気が存在していたとは言え、頭の固い世間に向かって 「自分」 というものを堂々と宣言できることのできた岡本氏は、やはり巨人的な存在感を感じざるを得ない。
 現代だからこそ、この就任式での岡本氏のメッセージは、ストレートに見る側に伝わってくる気がするのです。

 それ以上に、岡本氏の掲げる芸術が、前衛である、ということも世間との壁を高くしている気がします。

 前衛というものは、究極的にそれを受け止める側をふるいにかけまくります。

 それは見る側に挑戦してくるものであるがゆえに、ある種の人々にとっては、不快感を撒き散らす以外の何物でもない。
 母親のかの子が感じていた世間の評価に対するギャップなどとは比較にならないほどの逆風が吹く可能性のほうが、はるかに高いのです。

 オノ・ヨーコを見てごらんなさい。
 彼女の芸術に対して嫌悪感をもっている人の、なんと多いことか(ジョン・レノンの名声と遺産を利用し食いつぶしているような印象をもっている人も多いが、お門違いも甚だしい。 彼女はもともと大金持ちで、前衛芸術家としての名声もあった)。

 前衛芸術というものは、人に不快感を与えてナンボのものだという側面が存在している。

 岡本太郎氏はたまたま、時代のアイコンになってしまったからいいものの(彼のタレント性も大きく寄与していることはあるのですが)、前衛芸術家が直面する風当たりというものは、並大抵の精神力では持ちこたえられんのです。

 その逆風に対峙し跳ね返すほどのバイタリティが、このドラマからは満ち溢れている。
 日本が元気がないとされる現代だからこそ、人生は強気でいかねばならない、と叱咤する、岡本氏のメッセージは重要な気がするのです。

「TARAの塔」 に関するこのブログほかの記事
第2回 自ら決めるべきものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/taro-2-e7b4.html

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2011年2月26日 (土)

マクドナルドが40周年

 マクドナルドが40周年とかで、ビッグマックを200円で売ってたりしてます(3月3日まで)。

 私がマクドナルドのハンバーガーを生まれて初めて食べたのは、近所の二子玉川にマックのお店が出来た、たぶん昭和50年、51年くらいのことだったと記憶しています(どっちだったかなー。 たぶん51年)。 つまり1976年。 35年前(ふ~)。 親がハンバーガーとマックシェイクを買ってきました。

 当時のマクドナルド二子玉川店は現在の改札に近い場所よりももっと玉川高島屋寄り、富士銀行(現在のみずほ銀行)の間向かい側でした(つい最近までそこだった気がしますが、もう移動してから何年もたつ気もする)。

 生まれて初めて食べたハンバーガーの味は、「なんじゃコレ? うまい!」。

 今じゃハンバーガーなど最もシンプルで値段も100円、うまくもなんともない気さえします。
 あの当時のほうが数倍、おいしかったんじゃないでしょうか? ことハンバーガーに限って言えば、ずいぶん味が落ちた気がするんですよ。
 単純に気のせいですかね?

 まずバンズ、というものを食べた最初だった気がしますし、なにしろ本当にびっくりしたのは、今にして思えば、あのピクルス。 食べたことない味だったなあ。 何かの木の実のスライスだとばかり思っておりました。 キュウリの酢漬け、ですよね。

 パン、と言えばそれまで、あんドーナツだとかチョココロネ(コロネ?ただのチョコパンだった気もする)みたいな菓子パンしか食べたことのなかった(あとは卵サンドイッチとか)ガキンチョが、あのピクルスの酸っぱさと牛肉パテの絡み合いを食べたのですから、これはまさに驚天動地の世界、と言いますか。

 それと衝撃的だったのが、マックシェイク。

 それまでアイスというものは固いものだと決まっていたのに、ソフトクリームみたいにやらかくて。 けどソフトクリームみたいになめらかじゃない。 変に独特のざらざらした食感。
 やはりそれまで食べてきたどんなアイスとも違う味がして。
 しかもそれを、ストローで吸って、半分飲むみたいな感覚で食すんですよ。 そんなアイスの食事方法なんて、それまでしたことがなかった。
 あまりにうまくてクラクラしました。 量はハンパじゃなかったですけどね(いまみたいにSサイズとかなかったから)。
 当時は、今と比べると格段にシェイクのドロドロは固かった気がします。
 吸うのがキツくて(笑)。 口の中の感覚がなくなってしまった記憶があります。

 それにしても、ハンバーガーにしてもそうですけど、フィレオフィッシュとか、当時のほうが格段にうまかった気がするんですよねー。 シェイクもあの独特の味がなくなってしまった気がするし。

 舌が肥えただけなんでしょうかね。

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2011年2月25日 (金)

「四十九日のレシピ」 第2回 そうか、もう、いないのか…

 「オッカ。 もう一度話せるのなら、訊きたいことがあります。

 あなたは、幸せでしたか?」

 百合子(和久井映見サン)の生みの母であった万里子(笛木優子サン)が、百合子の弟になるはずだった子をお腹に宿していたとき、ヒールグッズのようにお腹をそれでさすっていた、白い石。
 その石を握りしめたまま、出戻りしてきた実家の2階の窓から外を眺め、3週間前に亡くなったばかりの継母、オッカ(風吹ジュンサン)を想う、百合子。
 そこにいきなり現れる、小麦色の陽気な青年。
 えっ? ここは2階…。

 「百合子ーーっ!」

 百合子は、いきなり抱きしめられます。

 「キャーーーッ!」

 思わずその青年を突き飛ばしてしまう百合子。
 青年は頭から(?)、落ちていきます…(チーン…笑)。

 しみじみモードからいきなりギャグタッチになる。 第1回目の逆を行くパターン。 してやられました。
 青年の名前はパウロ・ジ・アラウジョ・ドス・サントス。 日系ブラジル人、らしい。
 イモ(徳永えりチャン)が四十九日の宴会のために力仕事担当で助っ人を頼んだとのこと。
 「イケメンだし、いいでしょ、ユリッチ!」
 サントスにウィンクされて黒ネコのジジ君(「魔女の宅急便」)みたいにヒクッ!となってしまう百合子(笑)。
 まあオッカの知り合いだったら…ということで、良平(伊東四朗サン)もOKサインを出してしまうのです。
 実にあり得ない展開なのに、強引に見る側に飲み込ませてしまう。
 それなのに、どうしてこう、押しつけがましくないのか、ちょっと解析が出来てません。

 良平によってサントスの覚えにくい名前は 「ハルミ」 と命名されるのですが、その 「ハルミ」 という名前は、先ほどの万里子が身ごもっていた子供の名前だったようです。
 その回想シーンと現在の状況から、万里子はおそらくその子の出産でこの世を去り、その子も亡くなっているだろう、ということが推測されます。
 必要以上の説明をしない、つまり重要部分の説明ゼリフが一切ない。
 そんな粋な部分が、このドラマの大きな魅力となっているのですが。

 この回はハルミのサンバモードに触発されたように、良平も百合子も、なんか明るい雰囲気。 良平はオッカのレシピを見ながらはたきをかけて、「オーレ!」。 百合子はハルミにそそのかされて、試着室で 「これ似合う?」 状態。

 この父娘、根は暗いものがあると思うんですよ。 第1回の記事でも書きましたが、ふたりとも体温が低い、ごく普通の庶民。
 だからそんなふたりのギャグっぽいシーンは、実はなんとなく無理やりかな、という気もしながら見ていたんです。 ドラマを見る立場としては、ちょっと興醒めの危険性も感じさせる。

 でも、それは違ってた。

 ネクラなふたりだからこそ、はしゃぐシーンにはそこはかとないシラ~っとした空気がわずかながら漂います。
 けれども、ドラマを見終わってから思い返すと、それはオッカを亡くした悲しみを振り切るための、父娘のちょっとした反動だった、という気がしてくるのです。
 確かにネクラだからこそ、ちょっとふざけてみたい、という願望も、その底辺にはあるんでしょうけど。

 イモが持ってきた、オッカが壮大な構想で書いたと思われる 「自分史」 の分厚い原稿。
 期待に胸ふくらませて良平も百合子もそのページをめくるのですが、自分が生まれたことと良平と結婚したことのふたつしか書いてない(笑)。
 大いに失望した一同。 「しっかり書かんか」 とオッカの遺影に語りかける良平。 この間合い、伊東サンのコメディアンとしてのうまさを感じました。

 そんなことから、四十九日の宴会にオッカの一生を書いて展示しよう、という話になる。

 ところがオッカの歴史を語るのに、写真もなにもあまりにないことで、その企画は挫折しかけるのです。
 オッカの歴史の最後、「平成22年」 の項。
 「熱田乙美 没」
 と書きかけて、マジックペンの手が止まってしまう良平。
 結局 「没」 の字の 「又」 の部分だけが、書かれることなく放っておかれることになります。
 妻の死を認めることのできない気持ち。
 このシーンは見る側に、棘のように心に引っかかります。
 ここだけでもウルウルものなのですが。

 さてまた舞台のようなセリフ回しで登場した良平の姉、珠子(水谷八重子サン)。
 百合子に歯に衣着せぬ小言をまたまた言いまくります。
 この、「舞台のようなセリフ回し」、というのが、憎々しさをさらに引き立てるエッセンスになっている。 実にうまい。
 そんな珠子、良平とオッカの馴れ初めに力を貸した、と自慢げに話すのです。
 そこで珠子の口から、良平がオッカとの再婚話に乗り気ではなかったことが語られ、良平が当時、亡くなった妻の万里子のことをいつまでも忘れられなかった、という強い愛情を、ここで強烈に見る側に印象づけさせる。
 だからこそいま、亡くなったオッカに対しても、同じ気持ちを良平は抱くだろう、という、いわば布石の役割です。

 「旦那は葬儀の日に涙も流さない。
 娘は娘で四十九日の前に出戻って帰ってくる。
 これじゃあ乙美さん、浮かばれないよ」

 そんな珠子の小言が心に深く突き刺さった父娘。

 あの白い石を持ったまま川辺にたたずむ百合子のもとに、良平がやってきます。

 「小学校に上がってからも、これを握ってないと眠れなかった。
 …すぐそばにオッカがいたのにね。

 オッカはそんな私を見て、どう思ったんだろう?」

 「乙美はいつもここに来て、花束流して、手を合わせてたよ。
 川はあの世とこの世の境目だと言って。
 お前の成長をそうやって、万里子に報告していた、らしい…」

 ここでオッカがそれをしているシーンが流されます。
 川の向こうには、身ごもったままの万里子の姿。
 母親というものが分からない、と人知れず悩んでいた、オッカ。

 「真っ白だったね、オッカの年表。

 …子供を産まなかった女の人の人生は、生んだ人より余白が多いのかな?

 そんなことないよね?

 オッカは幸せだったんだよね?」

 それに答えない父。
 不幸なわけない。
 そう答えられない悲しさ。

 悲しい沈黙が、流れていきます。

 そして川を眺める、万里子とオッカ、そして百合子のショット。
 これは、百合子の心象風景なのでしょうか?

 百合子が自分に会いに来た夫(宅間孝行サン)にきっぱりと別れを告げたその晩。
 良平が乙美との思い出の品であるシンデレラの絵を百合子に見せます。

 ここから良平の回想です。

 33年前、珠子の言いつけで夏祭りの夜、乙美の豚まんじゅうの屋台に呼ばれた良平。
 相変わらず伊東サンの扮装ぶりには笑えるのですが。
 珠子の手前もあってか良平はその豚まんを実においしそうにほおばります。
 子供の百合子も、一緒にほおばる。

 しばらくして、良平の家にやってきた乙美。
 自分との見合い話を良平が断った理由を訊きたかったらしいのですが。
 そんな自分に嫌気がさしたのか、シンデレラの絵を娘さんに、とだけ差し出して、その場を後にしようとします。 なぜか気になって、それを追いかける良平。

 乙美はあのお祭りの日、どうやら良平に食べさせるために(?)肉まんの屋台を出したようなのですが、夏祭りに肉まんなんておかしかった、と反省します。 「あとの祭りだ」 と食えないギャグをぼそっと言う良平(笑)。

 「珠子さんからお見合いの話をいただいたとき、天にも昇る心地がしました。 『あ~、豚まんの君だ!』 って」

 豚という言葉に気分を害する良平。 慌てて謝る乙美。

 「あの、ポニーテールの可愛いお嬢さん。
 自分が子供が産めなくても、母親になれたら、どんなにうれしいだろうって。

 こんな私ですけど、夢があるんです。

 私がこしらえたものを、おいしそーうに食べてくれる人。
 そんな人と家族になれたら、私は一生、幸せなんです。

 熱田さんはあのとき、私が作った豚まんを、『おいしい』 って言って食べてくれました。
 その記憶だけで、一生幸せで、一生信じて、ついていけるって」

 夜のバス停。
 停留所に座る良平と乙美。
 ボンネットバスが、向こうからやってきます。

 なんだかネコバス(「となりのトトロ」)でも出てきそうな雰囲気で、ハッとしました。

 さっきのハルミのウィンクに百合子がヒクッ!となったときも、「なんかオソノさんのウィンクにヒクッとなったジジみたいだ」 と感じたのですが、これって宮崎アニメのオマージュなのかな?なんて。

 とにかくバスが来て、乗り込んでいく乙美を見送りながらそのシンデレラの絵のなかに、「ふろく」 と書かれたシンデレラの着せ替えの切り抜き絵を見た瞬間、良平は電流が走ったように決断するのです。

 「今度娘と動物園行かないか?」

 閉まるバスの扉。
 振り返る乙美。
 走り出すバスを、良平は追いかけます。

 「だから、動物園だ!

 ほら、パンダを見ないか、パンダ!…いや…パンダはいないけども!

 お~~い、聞こえるか!?

 動物園だ! 動物園!

 返事待ってるぞーっ!」

 あまりにおかしくて見ていて笑っちゃったのですが、なんかじわじわと、ウルウルしてしまうのです。


 そんな良平の思い出話にしんみりしてしまう、百合子とイモ。

 「母さんが幸せだったかどうか、俺には分からん…。

 だが、子供を産まなかったからと言って、母さんの人生が真っ白だったなんてことが、あるか?

 …そんなことはない。

 そんなことは絶対ないぞ、百合子。

 父さんは、そう思う」

 これは子供が産めなくて体外受精までした百合子にとっても、とても身につまされる父親の言葉なのです。

 その直後、百合子はイモから、駅のホームに置き去りにされていたミカンが入った紙袋を手渡されます。
 夫との先ほどの別れの話、百合子は駅のホームにたたずむ夫を遠巻きに見ながら、ケータイで話し合ったのですが、その現場をイモが見ていたのです(イモ、ストーカーチック…笑)。 そしてその紙袋のミカンは、結婚当初から百合子と夫が育ててきたミカンの木になったもの。 ようやく甘いミカンが出来た、という夫の報告だったのでしょうか。 このふたり、よりを戻す可能性が限りなく大きい気がします。

 同じころ。

 「又」 の字だけ書けなかった 「没」 の字を、良平が書いています。

 そこに落ちる、一粒の涙。

 「私の作ったものを、おいしそうに食べてくれる人となら、一生私は幸せだ」 と話していた、乙美。
 夏祭りの日に豚まんじゅうなんて一生懸命作ってしまう、おっちょこちょいの乙美。
 シンデレラの絵や白い石で、乙美の在りし日の姿がまた、走馬灯のように思い出されたんだと思うのです。

 「そっか…。

 死んじまったか…。

 そうかー…」

 その場に突っ伏して、号泣してしまう良平。
 葬儀の時も泣けなかったのは、この日のための涙だったのでしょう。
 泣けました。
 かなりひどく、泣けました。
 あ~書きながら、また泣いてます(笑)。
 …ずいぶん久しぶりだなー、この状態。

 突っ伏したまま寝込んでしまった良平。
 よそいき姿の百合子に起こされます。
 オッカとの大事な品を取りに行こうと、東京へいったん戻ることにしたのです。

 「おい、上着は持ったか? 夜は冷えるからな!」

 ぶっきらぼうな父の言葉。
 娘を気遣いながら、そんな不機嫌な調子でしか言えない家族の屈折した思いが、また一瞬で表現される。

 このドラマ、全4回ということは、これでもう半分ですか~。

 こういう良質のドラマは、もうちょっと長くやってほしいものです。

「四十九日のレシピ」 に関する当ブログほかの記事

第1回 川へ行きなさいhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-4162.html

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2011年2月23日 (水)

「美しい隣人」 第7回 主体と客体の遊離

 「地獄の快気祝い」(笑)の経過を描写したあと、マイヤー沙希(仲間由紀恵サン)が絵里子(檀れいサン)に 「自分があなたの夫慎二(渡部篤郎サン)の浮気相手だ」 と名乗るまで、たたみかけるような緊張感で疾走した感のある、「美しい隣人」、第7回。

 ドラマに引き込まれるいちばんの原因は、それまでほぼ完ぺきだと思われていた妻が夫に浮気されて普通じゃなくなっている、檀れいサンのその 「自己喪失」 の演技によることは確かだと思われます。

 そして単なる怨恨ではなく、自分が不幸に見舞われたからこそそんな完璧な家庭が崩壊していくところを見たかった、という限りない暗黒を演じ切っている仲間由紀恵サンの演技も、ともに化学反応を起こしている。
 すごいドラマになってきました。

 そして今回は、クセモノ役者の印象が強い渡部篤郎サンも、ようやくドラマに大きな化学反応をプラスしてきたような気がした。
 ここまでくると、次回への期待もいやがおうにも高まっていく気がします。

 そのなかで唯一、なんの実にも毒にもならない存在なのが、左右田一平サン演じる、慎二の父親で草笛光子サンの夫(笑)。

 この人を見ていると限りなくほっとするのですが(笑)、まったくウラオモテのなさそうなこの 「平凡の権化」 とも呼べるこのジイジにも、「妻が入院中にやめたと言っていたタバコをやめられないでいた」、という実に恐るべきフツーの秘密があったのです(笑)。

 かように今回のこのドラマ、「表と裏の顔」、というテーマで統一されている気がしました。

 そんなジイジからタバコをもらって、「地獄の快気祝い」 の会場から抜け出した慎二。
 頭の中は混乱の極致、「具合が悪い」、とかろうじて言い訳が出来る程度。
 快気祝いのあと家族が出払ったところに、ひとり自宅にいる慎二のもとに電話が来る。
 沙希です。
 隣家に呼ばれ、「一体何を考えてるんだキミ…!」 と怒鳴り込んだはいいものの、いきなりキャミソール姿の沙希が着替え中(笑)。 クールダウンを強制的に強いられます(笑)。

 そんな沙希、どうしてこんなことをするのか、という理由を語り出します。

 「ここに引っ越してきてすぐ、となりに、とっても、きれいでかわいい人がいるのが分かったの。

 ただきれいでかわいいだけの人なら、いっぱいいるけど、彼女まるで、…
 からだじゅうのどこ切っても、幸せな蜜があふれ出そうな…。

 幸せって人を輝かせるものなのね…。

 眩しくて、羨ましくて、私、クラクラした。

 …私、

 彼女になりたかったの」

 慎二だけではないと思いますが、こんなことをする沙希は、やはり理解不能。
 慎二は思わず叫んでしまいます。

 「人が、幸せだったら、なんだっていうの?!」

 沙希はこう答えます。

 「不幸を味わえば分かる。

 …本当の不幸をね」

 いっぽう絵里子はもはや夫のことが、完全に信じられなくなっている模様。
 会社の電話にさえ疑心暗鬼の表情を向ける。
 そんなどす黒いオーラが、檀れいサンから出ているのが分かるくらいの演技力であります。
 そのくぐもったオーラに息子の駿クンが、敏感に反応しているのがとてもよく分かる。
 牛乳を園児服にこぼしてしまったことを必要以上にきつく叱る絵里子。
 駿クンは泣いてしまい、慎二も絵里子をたしなめるのですが、もはや絵里子は、そのことに反省とか後悔をする心の余裕すらない。

 夫との話し合いをするために駿クンを両親の家に預けようとしたときも、駿クンは言うことをきかない。
 母親の心の余裕のなさを、やはり感じ取っているのでしょう。
 まわりに幼稚園児や母親たちがたくさんいるのに、構わず駿クンを激しく叱ってしまう絵里子。
 哀れなほどに、完全に、自分を見失っているのが分かるのです。

 その直前に交わした友人の真由美(三浦理恵子サン)との会話で、絵里子は自分がおっとり系のかわいらしい女だと思われていることを、はからずも知るのです。 自覚症状なしか…(笑)。

 「私って、そんなふうに見えてるんだ…」

 自分が他人からどう思われているか、ということは、結構自分では分かっている気になっています。

 ところが人にいざ自分の印象を訊いてみたりすると、そんなところが不快に思われてるんだ、とか、すごく意外だったりする。

 夫の浮気でモヤモヤしていることもあるから、余計にこの真由美の言葉は絵里子にとってショックだったに違いありません。
 夫との話し合いでも、絵里子は今までの自分が否定されていくような慎二の言動に、心を逆なでされていくのです。

 「ママもさ、もっと、世間知ったほうがいいな。 ま、外に出てないから仕方ないけど」

 絵里子は大阪の慎二のマンションで女ものの櫛に長い髪の毛が残っていたことを、いわば最後の切り札としてとっておいたのですが、却ってこれが逆効果。
 夫が完全にシラを切る対抗策に出てしまったため、その切り札を使わなければならなくなるのですが、これって心理的な負担がとても大きい気がする。
 ここまで夫がシラを切ってしまったら、もう相手に対する信用度は地に落ちますからねえ…。
 最初に使えば、傷は浅くて済む気がしました。
 ことここに至っては、慎二も頭を下げるしかなくなる。
 夫も自分が嘘をつきとおそうとしたことが、妻に筒抜けだったということで、相当自己嫌悪に陥りますよ。

 「もう、終わったんだ…。

 ゴメン、傷つけて…」

 絵里子は憔悴し切った表情から、何かの興味がもたげたかのように、慎二に向かって顔を上げていきます。

 「どんな人…?

 それって、どんな人…?

 (嗚咽して)あたしと全然違う…?

 訊いちゃいけない…?

 あたし訊く権利があるでしょ…?!

 私は何…。

 ねえ私はもう要らないの?!」

 「そういうんじゃないんだ」

 「じゃあどういうのよ!」

 「落ち着け! ママらしくないぞ」

 「あたしらしくないって、…『あたしらしい』 って何よー!」

 慎二の胸を平手で(彼女にとってはいちばん強い調子で)ぶち、絵里子は泣き崩れてしまうのです。 

 自分が考えていた自分(主体)と、他人から見えていた自分(客体)の落差に打ちのめされていたがゆえに、他人や夫が勝手に自分のことを分かったような気になって定義づけるのがとても耐えられない。
 絵里子の自我崩壊のからくりは、見る側の心を震撼させるのです。

 そんな修羅場にかかってきた電話。
 駿クンが両親の家で、帰りたいとぐずっているから今から帰らせる、という電話です。
 結局両親の家から帰ってきた駿クンは、絵里子を素通りして、確信犯的にその場に居合わせた沙希(修羅場も隣からすべて観察済み)の胸に真っ先に飛び込んでしまう。

 これは母親にとっては、かなりのショックですよ。

 しかも自我崩壊したその矢先の出来事ですからなおさらです。

 「あらあら、ママを間違えちゃったのねー」 と、なんということもなく口に出すバアバ。

 「駿! いらっしゃいっ  ! ! 駿 ! !」

 ものすごい剣幕で駿クンを家に連れ戻してしまう、絵里子。

 そんな絵里子に、さらなる試練が待ち受けているのです。
 ズタズタだな、こりゃ…。

 離婚調停中の夫(高知東生サン)から絵里子の隣の家に住んでいる理由をばらしてしまうぞと言われ、沙希はある決心をするのです。

 それは、絵里子に自分が慎二の浮気相手だ、と打ち明けること。

 散らかり放題の絵里子の家に半ば強引に上がり込んだ沙希。

 「まだ気付かないの…?」

 夫の浮気相手がまだ分からないでいる絵里子に、沙希はこう問いかけるのです。
 そのときの沙希の表情は、絵里子を面白がって睥睨している、というよりも、絵里子のあまりの純粋さに、あまりのお人よし加減に、ちょっと、ほんのちょっと哀れさを催したような表情に、私には見えました。
 沙希のその言葉に、少し驚いたような感じで、顔を上げる絵里子。

 「ご主人の浮気相手、私なのよ」

 「え…?」

 「櫛があったでしょ。 …あたしの」

 画面が少しずつ傾いでいきます。

 「ごめんなさい。 心苦しくて、あたし…、黙ってるのもつらいしね」

 ぼんやりしたような表情の絵里子。
 まるで告白のしがいがない、というように問いかける沙希。

 「分かってる…?
 あたしだ、って言ったのよ。
 このあたしが、ご主人の…」

 「嘘…!」

 「嘘じゃないの残念ながら。 残酷な現実ってあるのよ」

 ここで、かつて絵里子が沙希の浮気を容認した回想シーンが挿入されます。
 あんなこと言っちゃったから?
 言わなければよかった、あんなこと…。
 どうして認めちゃったんだろう?
 絵里子の気持ちが、渦のようにぐるぐる転回しているのが見えるかのようです。
 ついに気持ちが爆発してしまう絵里子。

 「なぜそれを私に言うの…?

 …ひどいじゃない… ! !

 なぜわざわざ言うの?!」

 「なぜ?
 …そうね、なぜかしら」

 あくまで冷静を装おうとしている沙希。

 「友達だと思ってたのに…!」

 歪みまくる絵里子の顔。
 沙希は思わず、笑ってしまうのです。 うう、なんだこれ。

 「…笑ってるの…?」

 「(こみ上げる笑いを押さえながら)ごめんなさいね。

 あたし、なんかこういうとき笑いたくなっちゃうの。

 じゃあ、帰るね。 用事が済んだから。

 お大事に」

 「お大事に」 じゃないでしょ!という感じですが(笑)。

 「あ、分かった。

 わざわざ言いに来た理由が。

 その顔を見たかったからだわ」

 第7回、以上。

 ここでの沙希の表情を見ていると、人間的な感情に行きつ戻りつしながら、残酷さをわざと絵里子に対してアピールさせているように私には思えました。
 それはけっして、絵里子に対する復讐の気持ちなんかじゃない気がする。
 自分のなかの、ある思いに対してその残虐な気持ちが向けられている気がする。
 勘違いかもしれませんけどね。
 純粋に残酷な気持ちを発散させるのであれば、ハリウッド映画みたいに単純なワルモノキャラにすると思うんですけど、ここでの沙希は、その思いに対して、どことなく迷いを生じているような気が、するのです。

 それにしても、人にはいろんな面がある、ということが重層的に表現されていたように感じた、今回の 「美しい隣人」。
 加速度的にドラマが終わりに向けて白熱してきた印象が、とても強くするのです。

「美しい隣人」 に関する当ブログほかの記事

第1回 勝手な先読み、という恐怖増幅の方法
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/1-f59a.html
第2回 鏡の中と現実の浮遊感http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2-50e1.html
第3回 隔離された 「傷つく構造」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/3-31ec.html
第4回 「あたりまえ」 の崩壊http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/4-1a05.html
第5回 傷つける言葉http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/5-76e0.html
第6回 信じようとする意志の 「脆弱性」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/6-1e2a.html

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2011年2月22日 (火)

「冬のサクラ」 第6回 …間違ってないよ…

 ちょっと蓄積されていたパソコンの学習機能その他がリセットされてしまって、文字変換機能も初期状態に戻ってしまったため、かなりいつもより手間がかかりつつの記事作成となってしまいました。
 それにつられて、というわけではないですが、ドラマを見ているかたなら必要のない説明もあえてちょっとだけしながら書きすすめました。

 萌奈美(今井美樹サン)の夫で脳医学の権威である石川総合病院院長の航一(高嶋政伸サン) が語った、「手術によって記憶がなくなる可能性は低い」、という診断。
 この診断によって萌奈美は手術を受ける決断をし、祐(草彅剛クン)は萌奈美と二度と会わない、と苦渋の決断をしています。
 ところがそれは航一が萌奈美を意のままにしようとするための嘘だった、ということが判明することで、ドラマは今回、大きく動き出すのです。

 まずそのことを知ったのが、祐の弟肇(佐藤健クン)。
 同時に兄が院長夫人である萌奈美にちょっかいを出しているということで、同じ病院内に研修医として勤務していた肇の立場は悪くなっていきます。

 今回のひとつの見どころは、この肇の葛藤。

 肇は兄祐の献身的なバックアップによって、ほとんど親がいない状態にもかかわらず研修医にまでなることができているのですが、性格的にはかなりとっぽい部分があります。
 だからこそ、病院内で立場が悪くなっていくことに、そのとっぽさからくる怒りを止めることができない。
 肇は萌奈美を諦めきれない兄に、オレの苦労を知ってるのかよ、とばかりつらく当たってしまうのですが、もともと彼は兄の献身的な世話に心から感謝しているために、そんなことで怒ってしまう自分自身も、同時に許せないのです。

 というよりも、そっちの罪悪感のほうがよほど大きい。

 兄貴が自分のことをすべて捨ててまで自分をここまでにしてくれたのに、どうしてこれっぽちのことでこんなに腹を立ててしまうんだ、なんて自分はちっぽけなんだ!というやるせない自分への怒りです。
 そこにはひょっとすると、医者のはしくれにまでなった自分にさえ、こんなごくごく普通である兄を、どうしても越えられない、という心理的なジレンマも、隠されている気がします。

 いずれにせよそこまでこちらに感じさせてしまう佐藤健クンの演技は、いつもながら感心します。

 そしてその肇をちゃんと理解し、口は悪いけど陰でしっかり支えているあまりにもできすぎた肇の恋人が、向井安奈(加藤ローサチャン)なのです。
 兄をなじったあといたたまれなくなって部屋を出て行ってしまった肇を、いったん追おうとして、祐にちょっと気遣いを見せる安奈チャン。
 「行ってやってくれ」、と祐に頼まれ、あらためて肇を追っていくのです。
 こんななにげないところで、彼女が肇だけでなく、しっかり祐の気持さえ考えていることが分かる。 おいしい役どころであります。

 肇を追っていった安奈チャンが 「風邪ひくよ」 と首にかけたのが、肇が憎んでいた、つい最近亡くなったばかりの母親が肇のために編んでいた、青いマフラー。
 この青いマフラー、何かと言うと肇は首に巻いているのですが、今回終盤で、また重要なアイテムとして登場します。
 マフラーと毛糸の上着を肇に着せて、後ろから肇を抱きしめる安奈チャン。

 「肇ちゃんの気持ちわかるよー。 今までどんだけ頑張ってきてるか知ってるからね。
 頑張ってー、いいお医者さんになることが、お兄さんへの恩返しだって、思ってんだよね」

 「けど結局オレも自分が大事なんだよ」

 「そんなの当たり前じゃん。 誰だってそうだよ」

 「みんなじゃねえよ…。
 …兄ちゃんは違う」

 「…そうだね」

 何ともできすぎた彼女じゃありませんか。 彼女の大きさに安心したかのように、どうしてよりによって院長夫人の奥さんなんかに兄貴は惚れちゃったんだろう、と素直な心情を吐露する肇に、安奈チャンはこう言うのです。

 「しょうがないよー出会っちゃったんだから。
 人との出会いってさー、すごいっていうか、怖いっていうか、自分の力じゃどうしようもないのに、人生変えちゃったりするからね。

 …私はー、肇ちゃんと出会えてよかったよ」

 肇の肩に頬を乗せる安奈チャン。
 できすぎてて腹が立ってきた(笑)。

 萌奈美の本当の病状が分かり、明日院長に直接会って確かめる、という決意を弟に語る兄。
 その昔、受験のために弟をおぶって奔走した兄の姿が思い出話として弟によって語られ、お前には立派な医者になってもらいたいけれど、やはり萌奈美さんのことはどうしてもほっておけないんだ、ごめん、と頭を下げる兄。
 それには答えず、風邪気味だった自分に生姜湯を出してくれた兄にただ感謝の言葉だけ言って、おやすみと隣の部屋へ戻る弟。

 翌日祐は弟に語った決意どおり、航一と直接会うのですが、一方的に話を打ち切られ、警備員を呼び出されてつまみだされます。
 祐はその時、心からの本音を航一にぶつけることになります。

 「萌奈美さんの命は、あなたのもんじゃない!」

 記憶をあえて除去し、妻をペットのように手なずけて意のままにしようとしていた航一にとってみれば、この祐の告発は紛れもない真実であるがゆえに、航一は怒りの形相を崩すことができない。
 その直後、航一は院内を歩いていた肇に正面から近づき、静かな口調ながらもありったけの悪意を込めた脅迫を行なうのです。

 「さっき君のお兄さんが院長室に乗り込んできたよ。
 彼に妙な入れ知恵をしたのは君かな?
 …美しい兄弟愛、か…。
 君も知ってのとおり、医療の世界は狭い。
 この病院を辞めても、すぐに他で働けるほど、甘いもんじゃない。
 下らん感傷で、自分の大切な道を、見失うなよ」

 そして兄が萌奈美に向けていったん書いてゴミ箱に捨てた手紙を安奈チャンから渡され、兄がどれだけ自分の気持ちを抑えつけ苦しみながら萌奈美に向き合っていたのかを思い知らされた弟。
 さらにダメ押し気味に、安奈チャンはその日病院の屋上で出会った萌奈美から、祐に感謝していることを伝えてほしい、と頼まれたことを肇に話します。

 「自分の思い通りの人生を送ってほしい」 と萌奈美に願っていた兄。

 それは肇自身が、まさに自分の思い通りに生きろ、と支援を受け続けてきたことと同じ、兄の気持ちなのです。

 そして本当の病状はなにも知らずに、祐への気持を振り切ろうとしている、萌奈美の感謝の言葉。

 自分の保身なんか、それに比べれば、本当にちっぽけだ。

 でも、やっぱり医療の世界でも、生きていたい。

 肇はその場で、どこにぶつけていいかわからない気持ちを、叫ぶのです。

 「あ~~、くそっ…。

 クソッ ! ! もう!」

 肇は何かを決意したように、安奈のほうに向き直ります。

 「安奈。
 オレに 『間違ってない』 って、言ってくれる?」

 安奈チャンはできすぎた彼女ですから(笑)、逆らうはずもありません(笑)。

 「肇ちゃんは間違ってないよ!」

 思わず、安奈を抱きしめてしまう肇。 そして小さく言います。

 「サンキュ」

 泣けました、ここ。

 迷いながら、みんな生きています。

 そんな自分に、慰めやいたわりではなく、本心から 「君は間違ってないよ!」 と言われることが、どんなに心強いか。

 そんな気持ちに、これまで頑張ってきた自分の心のタガが、ふっと緩んでしまう。

 だからこそこのシーンに泣けるんだと思うのです。

 ともあれ、肇は兄を全面バックアップすることを、この時決断したのです。

 セキュリティが厳しくなっている石川総合病院に入ろうとする兄。 警備員は、絶対に祐を病院に入れようとしません。
 そこに現れ、首に巻いていた青いマフラーを兄にかける弟。
 兄を先導し、萌奈美の病室を指さすのです。
 そこを離れようとする弟に、兄は巻いていた青いマフラーを、巻いて返す。

 「肇。 …ありがとう」

 「…おう」

 マフラーというのは、「冬のソナタ」 でもキーアイテムのひとつとなっていましたが、ここでは肇にとって憎んでいた母親の思いを感じることのできる受信機みたいな役割を果たしながら、この回では兄弟の絆を象徴するアイテムに昇華していった気がします。

 祐は萌奈美と再会し、本当の病状を萌奈美に知っている限り洗いざらいしゃべります。
 そしてここを今すぐ出ましょう、と萌奈美を促すのです。

 逃げようとするふたりの行く手に、まるでラスボスのように登場する(笑)航一。

 「明日になれば、すべて解決するんだよ」

 これは萌奈美の問題が解決する、という言葉ではありません。 問題が解決するのは、航一のほうだけなのです。
 萌奈美はそのことをもうすでに察知してしまっている。
 航一の言うことなど信用しない、と萌奈美はその場で断言するのです。

 「私がなぜ、自分の命をあきらめてまで、手術を受けないことを選んだのか、あなた、分かりますか?
 琴音(娘)を、忘れたくなかったからです!
 私にとって生きることは、いちばん大切なことは、あの子の母親でいることなんです!

 あなたは、私のいちばん大切なものを、勝手に奪い去ろうとしたんです…。

 結婚して、幸せな家庭を作ることが、私のたったひとつの夢でした。
 だけど、あなたは最後まで、私と心から向き合おうとしなかった…!

 私が何を思い、何を感じ、何を大切に生きてきたのか、何ひとつわかってくれようとしなかった…。

 だけど…、最後は…、

 私は、私でありたいんです…。

 自分の信じたように生きて、
 死んでいきたいんです」

 祐に守られながら、その場を去っていく萌奈美。
 ところがタクシーに乗り込もうとするふたりを、娘の琴音(森迫永衣チャン)が見てしまう。
 今回は、ここまでです。

 萌奈美のセリフやその決断に感情移入しながらも、「じゃあそんなに大事な娘のことはいいんだろうか?」 という思いがぬぐい去れなかった展開での、ラストの琴音の登場でした。

 人は何かに殉じようとするとき、犠牲にしなければならないものがどうしても生じてくる気がします。

 萌奈美が最も大切なものを自分の記憶、と位置付けたときに、自分の命の尊さは、つまりもう、二の次になっている。

 自分の記憶がいちばん大事、という結論に達してしまった萌奈美の考えは、そのことによって裏切ってしまう人たちが発生することを直接意味しています。

 自分がいちばんいい、と思えることが、ほかの人を傷つけていく。 正しいと思ったことが、まわりから見れば間違っている。

 程度はさまざまですが、人生って、そんなことの繰り返しのような気がします。

 人を傷つけながら、人生というものは回り、転がり、めぐっていくものなのかもしれません。

「冬のサクラ」 に関する当ブログほかの記事

第1回 …大丈夫…
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/1-1d6a.html
第2回 「逢いに行こう」、「なんのために?」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2-96f6.html
第3回 折れた翼で飛び続けることhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/3-cff9.html
第4回 自分の納得する生き方をhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/4-5b32.html
第5回 冷たく乾いた罠http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/5-906b.html

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2011年2月20日 (日)

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 第3回 利用される神々

 まず前回の訂正から。

 石工職人トムが捨てた息子を拾った元泥棒の聖職者をウィキではフランシス、と書いたのですが、それは原作の話で、今回彼は、ブラザー・ジョニーと呼ばれていました。 フィリップの弟、という原作の設定もないようです。

 それと、アリエナの弟リチャードは耳を切り取られた、と書いたのですが、今回なぜか元通りになっていたような…。 生えてくるわけないし(笑)。 私の勘違いだったのでしょう。

 それにしても、この猛スピードで飛ばしまくるドラマ、第3回目で幾分小康状態になったせいか、なんとかついていけるようになったのですが、これだけ細部にこだわっているのにこの速さで駆け抜けるのは、どうしてももったいない気がして仕方がありません。
 これだけお金がかかってそうなんだからもうちょっとゆっくりやっても、なんて、…やっぱりビンボー症だからそう考えてしまうんでしょうかね。



 第3回のあらすじを追っていきます。

 国王ヘンリー一世の娘であるモードに加担したとして謀反人の罪を着せられ、ウィンチェスター城で処刑されるバーソロミュー元伯爵。
 まずここでの処刑がまるでお祭りの縁日の一行事のように行なわれていくことに、中世の常識の現代の倫理観とのあまりの違いに、卒倒しそうになります。

 バーソロミュー処刑の言わば前座として泥棒をした男が両手を切り落とされるのを面白がって見る群衆。
 怒って野次を飛ばす者、ゲラゲラ嗤う者。
 手が切り落とされ、飛び散る血しぶきに 「血がかかっちゃったよ」 と顔をしかめながら鬱憤が晴れたような人々。
 そしてバーソロミューが現れると、その下品な反応は最高潮に達するのです。

 これは当時、処刑というものが見世物感覚で、民衆の不満のはけ口だったことを一瞬で表わしています。
 その群集のただなかにいたバーソロミューの娘アリエナ、息子のリチャード。
 「早くやっちまえ」 の野次が飛び交う中、アリエナは毅然と、主催者であるスティーヴン国王に慈悲を請うのです。
 静まり返る群衆。

 アリエナは結局、仇であるスティーヴン王の軍に弟を騎士として迎え入れてもらうことにする。 かつて自分の領地だったシャイリングを再び取り戻すため、断頭台の父親と目と目で心を通わせながらの、苦渋の決断です。
 それを見届け、断頭台の露と消える、父親のバーソロミュー。

 馬と鎧を用意したら軍隊に入れるかどうか判断してやる、とスティーヴン国王が言い渡したことで、アリエナたちは資金が必要となるのですが、バーソロミューが金貨50枚を託した、と話していた教会の神父は、自分だけうまい飯にありつきながら、そのうちの40枚をすでに浪費。 それだけじゃ足りないので、アリエナは羊毛の売買をすることで、少しずつお金を貯めようとするのです。

 ただここでアリエナが皮算用していた利益の生み出し方法なんですが、ちょっと諸費用の計算が抜けてるような気がしました(笑)。 市場へ行くまでの食事代とかどうするの?みたいな。

 いっぽうキングスブリッジのフィリップ院長の大聖堂建設を阻止しようとするワルモノ司教・ウェイルランは、ヘンリー一世の出てくる悪夢にうなされるスティーヴン王に取り入り、シャイリング領の石切り場をフィリップたちに使えなくするのです。
 その石切り場を取り仕切っていたのが、ハムリー家の長男、ウィリアム。
 ジャックが手っ取り早くその権利を得ようと、ウィリアムの雇っていた用心棒と決闘するのですが、あえなく敗北。
 フィリップは労働のときに歌われる聖歌に目をつけ、夜明け前に石切り場へ労働者と聖職者を大挙ひきつれて採石を強行。 止めようとするウィリアムの前に十字架を突き付けます。
 のぼってきた朝日にその十字架は光り輝き、まるで奇蹟のようにウィリアムを圧倒していく。
 ドラキュラか、と思いましたけど(笑)。
 いずれにせよそれは、フィリップの巧みな奇蹟の演出です。
 ひざまずき、神の奇蹟に人々がひれ伏していきます。

 ウェイルランとハムリー家の策謀にもかかわらず、国王が大聖堂の建設現場を視察に来る、という日までに、その建設が順調に進んでいることをアピールすることに成功したフィリップたち。
 ジャックが決闘で骨折した左手の傷を押しながら完成させた聖アドルファスの像の前で、スティーヴン国王は悪夢でヘンリー前国王からさんざん脅され聞かされていた予言が目の前で繰り広げられる幻覚に襲われ、錯乱し口から泡を吹いて倒れます。

 すごい駆け足での説明でしたが、ドラマ自体がすごい駆け足なのでご了承いただきたい(笑)。

 この回で大きくクローズアップされていたように思うのは、聖職者たちの抱える闇、だった気がします。

 バーソロミューの金貨50枚をネコババした神父。

 預かっていたはずだと主張するアリエナたちに、「嘘だ。 謀反人の言うことなど誰が信用するか」 と言ってきかない。 逆上したアリエナたちに鼻を削ぎ落とすと剣を突き付けられ、「聖職者を傷つけるのは罪だぞ!」 と護身に走る。

 スティーヴン国王の悪夢を利用しようとするウェイルラン。

 モード一派が自分に反抗しているのに滅ぶことがない、神はどうして自分に味方しないのだ、と詰問するスティーヴンに、「神はあなた以外の誰かに怒っておられるのではないでしょうか」 と、フィリップの大聖堂建設に国王の目を向けさせる。

 自分が神に仕える身だと自覚しているならば、金になど目がくらむはずがありません。
 また、神の御宣託を伝えるべき立場の聖職者が、自らの都合によって勝手に神の名を拝借することは、あってはならないのは自明です。

 これは当時の教会が、権力に結びつくことで必然的に陥っていた腐敗の一端なのだということを、比較的分かりやすく表現しています。

 けれどもそれ以上に私が問題だと感じたのは、フィリップが神の奇蹟を自己演出して、石切り場の利用を可能にさせた、というくだり。

 これは大聖堂を建てる、という公益的な立場から方便として採られた、言わば 「よい嘘」、であります。

 けれども結果的によいことをしているのは理解できますが、それが演出によるものだとしたら、それでも果たして 「よい」 のでしょうか?

 神のような超越的な存在は、目に見えない存在です。

 信仰は言わば、その見えないものを信じる、という点で共通している。

 宗教の陥るドグマは、実はそんな不確実なものを起源としているがゆえに発生するメカニズムを有している。

 人が宗教を信じる、信仰をする、という姿勢自体は、自然発生的なものであると私も考えます。

 けれどもそれをつかさどる、いわゆる僧侶、聖職者、と敬られる立場の人間が、もしその人々の純粋な信仰心というものを利用しているのだとしたら、どうなのか。

 今回のフィリップのように、目に見える奇跡を、人々は期待している側面があります。

 なぜならいくら信仰をしても、なかなかその成果は目に見えてこないからです。 スティーヴン王がそのことで苦悶していましたよね。

 個人的な宗教観を持ち出して大変恐縮ですが、私は信仰というものは、人としてのありようを提示し自覚させてもらうものであって、神仏に望みをかなえてもらうことも確かに大事ですが、それが本道ではないんじゃないか、そう考えています。

 そんな立場から今回の話を考えると、いくら良いことのためとはいえ、公益性が最も求められる場合とはいえ、そのために神々を利用するフィリップの姿勢には、疑問を感じます。
 これでは人々を思い通りにするための道具みたいじゃないですか、神々が。
 神ってそんな実利的な存在でいいのかな、と思うのです。

 いずれにしても、そんなことまで考えさせてくれるこのドラマは、やはり奥が深いと思われます。

 ネコババ神父やウェイルランレベルの 「聖職者の堕落」 はよくお話で目にする気がするのですが、フィリップのような賛否が分かれそうな信仰の実利的利用をしている聖職者、という存在は、あまり見たことがない。

 それは我々が、信仰心について真剣に考える機会というものを避けているゆえに、なかなか正面切って取り上げられない、ひとつの表れでもあるような気が、するのです。

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 に関する当ブログほかの記事

第1回 圧倒的な徹底ぶり
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-237d.html
第2回 骨のあるドラマとはこういうものかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/2-4477.html
第3回 利用される神々http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/3-537a.html
第4回 むせかえる死臭のなかでhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/4-34e0.html
第5回 永遠の一部たるべきものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/5-a7e7.html
第6回 神の意志はあるかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/6-69bf.html
第7回 信仰の本質とは、どこにあるのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/7-1f00.html
第8回(最終回)前編 神とどう向き合うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-46ec.html
第8回(最終回)後編 神になるのか、神を敬うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-1065.html

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2011年2月19日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第6回 「分からない」 の先にあるもの

 三日天下中の明智光秀(市村正親サン)に江(上野樹里チャン)が接見するとか、あいも変わらず超のつくあり得なさをさらけ出している 「江~姫たちの戦国~」。
 しかも江が光秀に会うまでのドラマ(野武士にわざと捕まって光秀のところへ連れていかせるなど)にも、リアリティが極度にない。
 歴史好きにもドラマ好きにも、スポイルされてしまった感のあるこのドラマ。
 「泣けた」「ハマりつつある」 と書いて四面楚歌に陥っている当ブログ筆者でありますが、確かに、どこをどうほめればいいんだ?という感じであります。 「天地人」 以下の展開を示しつつあるドラマだと、残念ながら認めざるを得ません。

 ただし何も感じないか、と言うとそうでもない。

 史実をないがしろにするという姿勢もさることながら、現代的な常識をあてはめて当時の人々の本心を描き出そう、とするスタンスは、確かに見ていて実にしらけます。
 けれども戦国時代の戦に慣れ切ってしまった人々にとっても、やはり倫理的人間としての情はあったのではないか、とする脚本家の心理も理解が出来るのです(そこが甘い、と言われても私はこの言を曲げません)。
 女たちは戦なんて嫌だったとか、信長にも平和を望んでいる気持ちがあったとか、そんなことは当たり前だろ、でもやってきたことはどーよ、と問われた時、このドラマはそれに応えうる深遠さに達していません。 思慮が足らない現代の女性が勝手にいいように解釈している、と取られても仕方のない内容であります。
 でも。

 「人として何が大切なのか」、という根本は、いつの時代も変わることがない、ノーテンキに私はそう考えたいと思うのです。

 このドラマは現代的な 「愛」 や 「平和」 を標榜していると考えるのですが、当の現代を生きる我々にとって、今の時代、愛だの平和だの言いだすと、なんかとても安っぽく聞こえる。

 いつからそうなってしまったんでしょう。

 愛とか平和をノンキに声高に表明しているだけではだめだ、という昨今の国際情勢が、そうさせてしまったのでしょうか。

 確かに愛と平和は、前世紀の(一見そう思われてしまうほどの)ノーテンキな無抵抗主義の遺物であります。

 それは、愛するものを守る、という現代の防衛発想とは、対極の位置に存在している。

 敵が攻めてきても、相手を殺すのも嫌だ、だから抵抗せず殺されてしまいましょう、という理屈なのですから。

 けれども私は、同じ 「愛するものを守る」 のであれば、攻めてきた相手を殺すのではなく、愛する者の上に覆いかぶさって、そして死んでいこう、と考えるのです。

 それは実にバカなことのように思える。

 けれども、殺す相手の側にも守るべき愛するものがある、と考えたとき、私は理屈を考えるひまもなく防衛のために相手を殺そう、とは、したくない。

 そんな理屈を言っているヒマがあれば自分たちが殺される前に敵を殺さなければ仕方がない、それがいちばん適切かつ理にかなった防衛なのだ、という理論が力を得ている現代に、私はちょっと異議を申し立てたい。
 愛と平和をノーテンキなカテゴリに入れるのは、ちょっと待ってもらいたい、と。

 愛と平和は、実は防衛をしようとすること以上に、覚悟がいることなのだと思うのです。

 そんなことを考えながらこのドラマを見ていても、このドラマで江が戦が嫌だ、みたいに言っていたり、信長が平和を望んでいた、などと軽々しく語るのは、やっぱりノーテンキなことにしか思えてこない。

 それは作り手の力量が不足しているためにそう思われてしまうのですが、私はちょっと、別の部分でその物足りなさを補完しているのです。

 それは、このドラマの登場人物が、よく 「分からない」 という言葉を連発すること。

 この説得力皆無のドラマのなかにあって、いったん見くびり出してこのドラマを見出してしまうと、この 「分からない」 というセリフが横行していること自体に、失望感が募ってくる。

 けれども登場人物たちは、ただ単に 「分からない」 とだけ言っているわけではない、と思うのです。

 たとえば徳川家康(北大路欣也サン)は伊賀越えの最中、江から 「なぜ光秀どのは信長さまを討ったのでしょう」 と訊かれ、「それは分かりませぬ。 おそらくほかのだれにも」 と答えます。

 ここでの家康の場合、本能寺の変が起きた直後のことなので、あの時代の情報伝達の遅さを考えれば、情勢が混沌とし、真相が分からなかったのはある意味当たり前、という解釈が可能です。
 「分からない」 のいちばん下辺にある理屈、と言っていい。

 そして江が光秀と接見したとき。
 光秀が江に 「なぜ謀反など起こしたのですか」 と訊かれ、やはり 「分かりませぬ。 今に至るも、分かりませぬ」 と答えます。

 ここで光秀は、後世にさまざまな解釈をもって迎えられることとなる謀反の原因をいちいちあげつらうのですが、そのどれもに本人自身がしっくりいかないものを感じている。

 江は 「信長さまは天下統一したあと太平をもたらすつもりだったのに、光秀どのはほかならぬ武力でそれを打ち砕いた」、と光秀に直訴します。

 これはいかにも底の浅い、小娘の理屈であります。

 じゃ信長は武力を使わなかったのか?という理屈であります。

 光秀はそれに対して、なんの反応も示さない。

 小娘の理屈だと分かっているからだと思われます。

 光秀は代わりに、「森蘭丸(瀬戸康史クン)から信長が光秀を買っていた、という本心を綴った手紙が先ほど届いたばかりだった」、と切り出します。
 この話の持っていきかたも、ドラマ的にはちょっと陳腐な気がする。
 「その信長さまの本心が分かっていたら謀反など起こさなかったのでは?」 とたたみかける江に、光秀はやはり、「分からない」 と答えます。

 「すべては天が決める。 私はそれに従っただけなのやもしれませぬ」

 成り行きでそうなっちゃった、みたいな言い分であります。
 それが運命だったんだから仕方ない、みたいな。

 けれども。

 さまざまな要因が積もり重なった末にそれを決断し、実行に移しても、実は全くお門違いだったりする場合がある。
 自分なりの大義名分をしっかりお膳立てしてそのことに及んだのに、まったく誰の賛同も得られない。
 いったん四面楚歌に陥ってしまうと、もうこれって、どんなに自分が考えても無駄なんだな、って思えてしまうのです。
 そうなると、もうすべては運を天に任せるより仕方ないのかな、なんて投げやりになっちゃったりするのではないでしょうか。

 光秀のこのセリフの奥低には、そんな思いが込められている気がするのです。

 それにしてもこのドラマ、江のセリフのひとつひとつをまともに取っていると、実に底が浅く思えてくる。
 そしてその小娘につきあおうとする戦国の諸大名が、実に愚かしく思えてくる。
 このドラマはそんな構造を見る側に提示してしまうため、見ている側のテンションをスパイラル的に低下させる構造を有している。
 結果、とても残念なドラマ、という評価を下さざるを得なくなってくる。

 そのスパイラルを助長するのが、今回の最後の 「分からない」。

 命からがら母親のお市(鈴木保奈美サン)らと再会を果たした江。
 愛する伯父上を討った相手なのに、光秀を憎むことが出来ない、という江に、市は 「憎むべきは人ではない。 戦じゃ。 戦をもたらす世のありようなのじゃ」 と言って聞かせます。 このセリフも背景もなしにいきなり出てくる感が否めず、安っぽく聞こえる。
 それに対して江はやはり 「私には、難しいことは分かりません」 と答える。

 光秀に対して難しいことを言っていたのにこのくらいのことも分からんのか、という点において、この脚本は破綻をきたしています。
 ただここは、母親のもとに戻ってようやく甘えることが出来た江の気持ちの一端を、私は感じたいと思います。 無理やりですけどね。

 「でも…。

 …

 もう私は、どなたにも死んでほしくありません…!」

 母親のもとで緊張感から解放され、「分からない」 と甘えながらも、本心を言わなければおさまらない、江の気持ち。
 「人が死ぬのは嫌だ」 というそのセリフがまた浅いものであるがゆえに、見る側にそんな江の気持ちが、届いてこない。
 このドラマの構造的欠陥を露呈する象徴のごとき、最後の 「分からない」 のセリフなのです。
 気持ちは分かる。
 「人が死ぬのは嫌だ」 という人の根本的な感情を表明しているのも分かる。
 けれどもそれがこちらの胸を打つまでに伝わってこないのは、ドラマの構造的な浅さがそうさせている。
 そんな気がするのです。

 私がそれでもウルウルしてしまったのは、江と初(水川あさみサン)との再会シーン。

 初は城から逃げだすとき、江の持ち物を選んで持っていこうとしていた茶々(宮沢りえサン)に、「私の嫌いなものを選べばいいんだ」 と憎まれ口を叩いてその選択を買って出ていました。
 そんな初が、帰って来た江に向かって、「私への土産はどうした」 と責め立てながら、江に抱きついていちばん顕著な喜びの表現をするのです。
 ウルウルきました。

 けれどもそのそばから、下女たちが帰ってきてなんだかんだとつまらない作り話(ドラマのなかでは作り話じゃないんですが、もともと江が家康に同行していたなどという作り話を創作していたために却ってその事情説明が余計鼻につくのです)をするために、感動が台無し。

 このドラマ、視聴する側である自分のなかで取捨選択しなければならない事象が多すぎて、感動する場所を見つけるのがとても難しい。

 評判が悪いのもうなづけるのですが、私はまだまだ、つきあっていく気力があります(笑)。

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2011年2月17日 (木)

「美しい隣人」 第6回 信じようとする意志の 「脆弱性」

 人は 「信じたい」、といつも願っている気がします。
 誰かを信じたい。
 何かを信じていたい。
 そして信じられるものが出来ることで、人はそれにすがって生きていく。
 「自分には、信じることのできるものがある」 と、安心したがっているのかもしれません。

 けれどもそんな安心感は、とても儚くて脆い。

 なにかちょっとしたきっかけで、人の信じようとする気持は雲散霧消してしまう。

 そして信じていたものに対して、まるで手のひらを返すように、ネガティヴな気持ちだけが増殖し続けていくのです。

 絵里子(檀れいサン)の場合それは夫慎二(渡部篤郎サン)に浮気されたことが原因ですので、私が今述べたような 「ちょっとしたきっかけ」 とはほど遠い。
 けれども夫の浮気を確信したとき、絵里子は夫に対して、強いネガティヴな感情を押さえることが出来なくなるのです。

 浮気を知らされてモヤモヤした状態のまま、息子の駿クンと一緒に夫の赴任先の大阪に行った絵里子。
 夫に対してこれまで接してきたようにはなかなかなることが出来ず、夫のマンションのシンクで長い髪を発見してからのち、それまでまるで優しい女神のようだった彼女の表情が、完全に怒りに凍りついたようになってしまうのです。
 その表情はまるで、マイヤー沙希(仲間由紀恵サン)が乗り移ったかのよう。

 大阪で一晩泊ったあとの家族3人での朝食時にはすでに、絵里子のところだけ、空気が違う。
 絵里子はかたく凍りついた表情のまま、友人の加奈(鈴木紗羽サン)に会いに行ってもいいかと夫に尋ねます。

 「今日?」

 「ええ」

 絵里子の曇ったオーラにちょっと気圧されたかのように、取り繕おうとほんの少しおどけたような感じで、慎二は絵里子に訊き返します。

 「へぇ~。 …最近会ったんじゃなかったっけ?」

 「会ったけど?」

 数秒、音声が完全に消えます。
 場が凍りつく瞬間。

 この間(ま)。

 このドラマを見ていて、それまでとてもかわいくて模範的な主婦で人付き合いも完璧なように思っていた檀れいサンが、まるで豹変したかのような演技には、正直言って震撼しました。
 この人、私が考えているよりもずっと、奥の深い引き出しをもっている。
 個人的には、私この人に初めて色気というものを見た気がしました。

 いっぽうの仲間由紀恵サン。

 ヤンクミ以上の過激さで、夫の高知東生サンに暴力をふるう回想シーン。

 それはいつぞやの、夫の土下座シーンのすぐ後の展開です。

 このシーン、それまでは、夫が浮気したから土下座したかのような感覚で、私もそんな感じで受け取っていたのですが、実はそれは、息子の隼人クンが溺れて亡くなった直後の話だったのです。
 アンタが仕事でそばにいなかったから溺れ死んだのだ、という沙希に、夫は 「仕方ないじゃないか」  とちょっと反駁するのですが。

 「仕方なくない!(平手打ち)

 あんたが…あんたが悪いんじゃない!

 アタシが悪いって言うの?

 …

 父親っていうのはね、いつだって、子供や家族を守る責任があるの。

 あの日だって、今日だって、
 そんなに仕事が大事?

 家族より大事なの?

 アタシは、こんなにつらいのに!

 …よく仕事できるね。

 …それでも父親?

 父親かって訊いてんのよ ! ! ! 」

 隼人がいなかったら、こんな家族、もうおしまいよ、生きているのがつらい、殺してよ、と突っ伏して声を殺して泣く沙希。 蒼ざめた顔で沙希を見てしまう夫。

 「殺そうと思ったね今。

 殺そうと思っただろ ! ! !

 (夫を壁に叩きつけて再度平手打ち、腹部を激しく蹴り上げ)
 殺そうと思っただろ ! ! ! なあ ! ! ! ! ! 」

 夫の頭を壁に何度も打ちすえる沙希。 ものすごい逆ギレ演技です。 この人の演技も、かなり役者としてのエキセントリックな高みに到達している気がする。 人気だけじゃないです、この人の実力は。

 隼人クンの笑っていない写真が、沙希を見つめています。

 ここで 「あの日だって、今日だって」 と沙希が言ったことはちょっと引っかかります。 「今日」 というのは、おそらく隼人クンが亡くなった当日だったからなのでしょうが、「あの日」 とは?

 ただ私が感じたのは、沙希が自らの責任を棚にあげていること。
 そして、親というものにはそれだけの責任があるんだ、と沙希が思い込んでいる、その原点って何だろう?ということ。
 はからずもこの回、リオ(南圭介クン)と沙希との語らいのなかで、ふたりとも自分の親に対してあまりいい感情をもっていないことが判明しました。
 リオがこの回またまたいなくなった駿クンを必死で探す絵里子に、ちゃんと自分の知っていることを話さなかった、というのも、ここに原因がある気がする。

 高知サンとの住居を引き払ったのち、沙希はネットカフェで隼人クンの着ていた服に囲まれて、その匂いのなかに溺れていました。
 けれども今の沙希は、そんな隼人クンの服を、洗濯機で洗濯している。
 これは、隼人クンの代わり(駿クン)を見つけた、ということを意味しているのでしょうか?
 離婚協議でも、夫と離婚しないのも、隼人クンを忘れないためだ、などと言っている沙希なのですが、夫はそんな沙希の言うことを信用しない。

 「そういう人間じゃないよ、きみは」

 つまり、そういうことなんでしょうね(どういうことだ?…笑)。
 隼人のことなんかそんなに考えてなかったくせに、という意味でしょうね。

 けれども沙希は夫のその言葉に、まるで悪魔のような笑みを満面に浮かべるのです。

 「フフッ…ホントのことを言ってるんだけどな」

 背筋が寒くなりました、仲間サンのこの氷の微笑。

 さてベッドでの情事のあと、沙希は慎二に、自分はけっして遊びや軽い気持ちであなたと付き合っているんじゃない、ということは信じてほしい、と口にします。
 慎二はそれに対して、きみでなければこんなことにはならなかったと思う、と話します。
 これって、不実な自分を正当化させようとしていることじゃないでしょうか。
 慎二は絵里子の心を裏切っている。
 ありていな言い方ですけど、絵里子の夫を信じようとする心を、逆に利用しているんだと思うんですよ。 ごくごく普通に考えれば、夫を信じている健気な絵里子がかわいそう。
 何かを信じようとするのって、砂上の楼閣みたいなんだよなあ、と感じます。

 話は前後しまくりますが(笑)大阪で友人の加奈と再会した絵里子は、自分の気持ちを加奈にぶつけます。

 「やっぱり…やっぱり許せない!」

 加奈はまくしたてる絵里子を制しながら、相手は大阪の女でしょ?ダンナはもうすぐ東京に戻ってくるのだからそれまで静観すべきだと絵里子に忠告します。

 これってちょっと納得いかない。
 だって加奈は沙希が夫の浮気相手だ、ということをうすうす気付いているんでしょうに。

 いずれにしても感情的な絵里子をなだめようとした加奈の気持ちも分かります。
 加奈を見てると、ひとごととは思えない。
 前回真由美(三浦理恵子サン)に慎二の浮気をばらしてしまったことにしてもそうなのですが、自分でよかれ、と思ってしていることが、結果的に人を傷つけることの繰り返しじゃないでしょうか、彼女は。
 謗られても仕方ないところはあるのですが、私は加奈の気持ちがとてもよく分かります。
 よかれと思ってやっていることの裏に、ちょっとだけ、自分でも気付かないところで、自分が優位に立ちたいと思う心が潜んでいる(気がする)。
 私も全く同じ誤解を受けることが、ときどきあるのです。
 たぶん人間としてなってないんでしょうね(自己嫌悪)。

 ともあれ、加奈は絵里子に向かって、こう言うのです。

 「どこまでも、信じる人が強いのよ」

 …

 ここで冒頭の話に戻りますが、人や何かを信じようとする心は、かなりの脆弱性を伴っています。

 思い通りに相手が反応してくれないとき、自分の常識基準とちょっとずれが生じるとき、信じようとする心は簡単に瓦解する。

 なにがあろうと信じ抜く、ということは、実は果てしなく茨の道、なのです。

 話は全く別次元にスッ飛びますが(笑)、離婚してしまう人たちも、おそらくその茨の道が耐えられないんだ、と思うのです。
 そのことをとやかく言う資格など私にはさらさらありません。
 けれども信じ抜くことは大変だ、ということは、このことからもお分かりいただけるかな、と思います。
 いったん信じられなくなると、相手が息をしてるのも嫌になったりしますからねえ…。

 さてドラマは、美津子(草笛光子サン)の快気祝いの席で、慎二と沙希が会ってしまう、というところで次回です。
 いちばんの興味深いシーンが予告で流れていたのに、それが次の回のラストシーンだった、というのはよくある 「釣り」 の手法であります(笑)。
 いずれにせよここでいちばんショックを受けていたのは、紛れもなく慎二。
 慎二の頭の中は、混乱と混沌とカオス(全部おんなじ意味か)で渦巻いていることでありましょう。
 どうなる次回。

「美しい隣人」 に関する当ブログほかの記事

第1回 勝手な先読み、という恐怖増幅の方法
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/1-f59a.html
第2回 鏡の中と現実の浮遊感http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2-50e1.html
第3回 隔離された 「傷つく構造」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/3-31ec.html
第4回 「あたりまえ」 の崩壊http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/4-1a05.html
第5回 傷つける言葉http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/5-76e0.html

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2011年2月16日 (水)

「四十九日のレシピ」 第1回 川へ行きなさい

 こんな寒い冬に、心が冷え切ってしまうようなドラマばかりの今クールのなかで、やっと心が温まるようなドラマがやってきました。 「四十九日のレシピ」。

 主演は和久井映見サン、父親に伊東四朗サン。 伊東サンの妻でドラマでは冒頭からすでに亡くなっている設定なのが、風吹ジュンサン、通称オッカ(乙美母さんの略)。

 このドラマ、「龍馬伝」 と同じパッケージングの匂いがします。
 プログレッシヴカメラ、っていうんですか?画像の質感が 「龍馬伝」 のそれにきわめて近い。
 そして音声。
 ヤケにオフで(遠巻きに)録っているんですよ。
 だからなのか、雑音がとても大きい。 郊外の音声とか。
 役者さんの声が、それで生活者としてのリアリティを伴って聞こえてくるし、そこに流れている空気感も、それで伝わってくる気がする。
 ただその反面、役者さんの声がとても聴きづらい感じはしましたけど。
 次回からは字幕設定でこの番組、予約録画いたします。

 それだけ、セリフのひとつひとつに意味がこもっているんですよ、このドラマ。
 しかも、インサートされるほんのちょっとしたシーンにも、深い意味があることの連続で、この神経質とも思える細やかな演出の方法は 「流れ星」 のそれを彷彿とさせる。
 ドラマ好きの琴線をけたたましく(笑)鳴り響かせっぱなしにする演出なのです。

 このドラマ、最初の1分間でハマってしまいました。

 和久井映見サン(百合子)が子供だった33年前のシーン。
 動物園で、伊東四朗サンが百合子に、継母となるオッカを紹介します。

 ここでの伊東サンの33年前の扮装(笑)にまずドン引き(笑)。
 「なんじゃこりゃ?」
 ここでドラマを見る側のテンションは、一気に降下します。
 ところが。

 オッカは百合子に、手作りの料理がたくさん詰まった重箱を開けようとするのですが、それを百合子は手で払いのけて、ダメにしてしまうのです。
 泥のついた、小さな小さなごはんのボール。
 そこにはノリで、顔が描かれている。

 それを見た瞬間、私はもう、涙で画面が見られなくなりました。

 見る側のテンションを下げるというフェイント技をはじめにかけておいて見くびらせておいて、一気に継母の気持ちに没入させる。 ルール違反とも思える、この確信犯的手法。

 ドラマはそんな百合子が、夫(宅間孝行サン)の浮気によって家を出る様子、そして妻オッカを亡くした伊東四朗サンが生きる気力をなくしている様子を、丁寧に、しかもしつこくなく、しかも見る側の想像力をかき立てるような短いヒントの連続で描写していく。

 そこで百合子に、食べ物をダメにしたことへの後悔を語らせてオッカの紹介もあまりにもさりげなく済ませ、家を出る百合子の嫁いだ先には病気で伏せっている義母がいることで百合子の心残りとしてさりげなく表現し、いっぽう散らかり放題の家のなかでくたびれたステテコ姿のまま、薬を一気に飲んで死のうとする伊東サン、すぐにもどして 「死ぬこともできやしない」 と嘆かせ、布袋についた血のような跡で不吉なものを予感させる。

 この描写が、あっという間に行なわれていくことがすごい。

 画像や音声の特殊性も相俟って、まるで映画でも見ているような世界に、見る側はひきずりこまれていくのです。

 そんな閉塞感あふれる暗い描写のなかに、ひとりの常軌を逸するほどの明るい女の子井本幸恵通称イモ(徳永えりチャン)が、伊東家に乱入してくる(笑)。
 それはまさに、バラエティ番組もヨネスケサンも敵わないほどの乱入ぶり(笑)。

 イモトアヤ…もとい(笑)イモはオッカと一緒にボランティアをしていたらしく、オッカのことを先生、と呼んでいます。
 オッカに自分の死後四十九日まで、夫の面倒を見てほしいと25万円で委託されたらしく、オッカの遺した膨大なイラスト入りの生活のレシピに沿って、伊東サンと、実家に戻ってきた和久井サンの面倒を見ていくことになるのです。 伊東サンをダーリン、和久井サンをユリッチと、オッカが呼んでいた呼称で図々しく呼び始めるイモト。
 当然の如くダーリンもユリッチも(笑)イモに反発するのですが、ふたりともイモとはあまりにもかけ離れた、ごく普通のごく一般のテンション低めの小市民。
 このコントラストがすごく興味深いのです。
 イモトアヤ…なんて書いてしまいましたが、イモを演じる徳永えりチャンは、そうさな~(伊東サンの口癖…笑)東原亜希チャンと西原亜希チャン(東と西で一字違いか…笑)を足して2で割ったようなキャラクター(分からんか…笑)。

 第1回目では、オッカが遺した塩バターラーメンのレシピをこのイモが作って父娘に食べさせることで、精神的にどん底状態の父娘が亡きオッカを思い、立ち直るきっかけをつかんでいくまでを描写していました。

 ヨネスケのばんごはん以上にあり得なさそうなこの話、イモが経済的に困窮気味の状態だったことも説得力を握るカギですが、いちばんの説得力の要因は、オッカが遺した膨大なイラスト入りのレシピ。 このレシピを貫いているオッカの家族への愛情で、物語は優しく包まれている。

 わたなべさちよサンの描くそのレシピは、そうですねー、感覚的には宮崎駿サンが描く水彩による絵コンテの影響を感じます。 見ていてとても、ほっとする。

 そんなレシピには、茶がらを畳の掃除に使うとか、鏡を磨くのにはレモンがいいとか、まあどこかで聞いたような 「おばあちゃんの知恵袋」 的な知識が満載。 あっそうか、伊東家だ(笑)。

 いずれにしてもそのレシピは、オッカが自分の死んだあとも自分の愛した家族を見守っていこう、とする限りなく強い意志が感じられるのです。
 そんな強い意志を感じさせながら、生前のオッカの回想シーンを見ると、オッカはとても楽天的で、しかもおっちょこちょいだったりする。
 先ほどの血の跡のようなしみのついた布袋ですが、実はこれも、オッカが釣りに行く伊東サンへ持たせようとした弁当箱から、ソースがはみ出てついてしまっていた跡だったのです。
 そんな失敗を怒って弁当を拒絶したまま釣りに出た伊東サン。
 その日にオッカは、帰らぬ人となってしまうのです。

 塩バターラーメンにしても、正月に実家に帰った百合子に食べさせようとオッカが作ったのですが、なんだかんだとそれを手つかずのまま帰ってしまった経緯が、百合子にはある。

 そんな、置き去りにされた、オッカの好意。

 そしてそれを悔いる、父と娘。

 ドラマを見ていると自然と涙が次から次からぽろぽろ流れていました。
 こんなに大量に泣いたのは、今クール初めてであります。

 そんなオッカ。
 「迷ったら、川へ行くといいよ。 答えが見つかるから」 と百合子に話していた回想シーンが、数回流れます。

 私の家の目の前にも、多摩川があります。
 私自身も若い時は、悩んだりした時はこの川のほとりに座ってずうーっと川の流れるのを見ていたことがある。
 でも、答えなんか見つかりゃしないのです。
 百合子もオッカの言葉を信じて、実家近くの川にやってくるのですが。

 「ないじゃない。 答えなんか」

 オッカ、また楽天的に適当なことを言って…という失望と怒りが、百合子の表情に浮かびます。
 いつの間にか百合子は、川のなかに膝あたりまでつかっている。
 そこを通りかかった伊東サンとイモは百合子が死のうとしていると勘違いをし、必死になって止めに入ります。
 伊東サンの持っていたクーラーバッグには、オッカのレシピにもあった生シラスが。
 そんな父親の思い。
 百合子はただ、自宅から投げ捨てたケータイを探していたと弁明していましたが、どうなのかなあ。
 そのケータイは、イモが持っていました。
 夫からの電話が鳴り響くそのケータイ。
 百合子はそれを取ろうとするのですが、伊東サンは 「出るな!」 と一喝する。
 伊東サンはダンナに会いに行き、ダンナがお腹の大きな女性と談笑しているところを、見てしまっていたのです。
 「(嫁いだ先の)家へ帰れ」 と言って聞かなかった父。
 そんな父は、娘が出戻ってきたことを、認めたのです。

 この父娘の関係。

 怒鳴ってもいないのに怒鳴るな、と娘から言われるような父親の大声、必要以上に父親を拒絶する娘、そんな関係がとてもよく表現されていたがために、この、父娘がお互いを気遣う心というものに、とても感情移入が出来るのです。

 父親が娘のダンナに会いに行った時の様子も秀逸。
 結婚当初プレートナンバーに妻(百合子)の誕生日を指定した、などというのろけ話があらかじめ挿入されていたために、「12-13」 というその番号と、その車(ベンツ)のなかに乗っている子供用のおもちゃを見る父親の表情が、悲しい。
 それを一瞬で見せてしまうんですよ、このドラマ。 一気にいろんなことが分かってしまう。
 先ほどもほめちぎりましたけど、もーこういうのに弱いんだなあ。

 また、伊東サンの姉役、水谷八重子サンの器用にもうならせるものがあります。

 しぜんな話しぶりばかりが強調されるこのドラマのなかで、水谷サンだけはまるで舞台でしゃべっているようなセリフ回し。
 それが却って、杓子定規的なこの姉の性格を強く印象づける役割を果たしている。
 彼女は百合子に向かって、言いにくいことを立て板に水で小言しまくるのですが、見ていて実にうまいなあと思いましたし、実に適宜を得た配役だと感心しました。

 次回、またまたへんなキャラのオニーサンが出てきたりするようですが、イモの特殊さを瞬時に納得させられてしまったこのドラマ、あまり心配する必要はないのかもしれません。

 いいドラマが、始まりました。

 なお、第1回目は2月20日、15時30分から、NHK総合で再放送されるそうです。
 見逃した方はお忘れなく。

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2011年2月15日 (火)

「冬のサクラ」 第5回 冷たく乾いた罠

 このドラマ、第1回目を見たときは山形の美しい雪景色に心を奪われ、「冬のソナタ」 との共通項を感じたものでしたが、物語の舞台が東京主体になってしまって、とても乾いたドラマになっている気がします。
 山形でのロケをもっと見たいですね。

 山形は今、雪は積もっていないんでしょうか?
 前回祐(草彅剛クン)と萌奈美(今井美樹サン)が偶然遭った山形でのロケでは、雪が半分なくなっているような感じでしたよね。

 第1回での感想でも書かせていただいたのですが、このドラマと引き合いに出される韓国ドラマ 「冬のソナタ」 全編に漂っていたのは、人々の心を凍らせる圧倒的な雪と、室内で繰り広げられる、寒いからこそ心を寄せて温め合おうとする人々の心が織りなすコントラストの妙だった気がするのです。

 別にこのドラマに 「冬のソナタ」 と同じものを求めてはいませんが、カラカラに乾いた東京の冬景色と、祐や萌奈美が直面する問題でささくれてしまいそうになる展開が、見ていてとても痛々しい。
 萌奈美が冬のサクラに心魅かれ、もう一度あの、まるで祐の存在感と一体化しているかのような一本桜を見たいと願う気持ちが、だからこそとても分かる気がするのです。

 「冬のソナタ」 では、ペ・ヨンジュンサンと恋敵になってしまう今は亡き(もういないのか…涙)パク・ヨンハサンが、自分の性格の悪さに自分自身が苦しめられる、という展開を示していました。
 それはやはり、あの圧倒的に真っ白な雪の景色のなかで、自らの嫉妬心が汚く見えてしまったことも大きな要因となっていたのではないでしょうか。
 「冬のサクラ」 も、いつかまた山形の圧倒的な雪景色の中に物語が溶け込んでいってほしいと、私は願っています。

 萌奈美の夫航一(高嶋政伸サン)は萌奈美の病状について、やはりおおかたの医師と同じ判断をしている、と思うんですよ。 萌奈美が手術をしても記憶をなくす可能性というものは、限りなく高い。
 しかも病気が判明してからずいぶん時間が経過してますから、その確率は日ごとに高まっていると考えられる。

 けれどもそれを承知の上で、航一は萌奈美に手術をさせようとする。
 愛してもいないようなのに、なぜなんでしょう?

 私が考えているのは、前回の感想文で書いたとおり、コレクターとしての感覚が航一にはあるからだ、ということです。 愛していないわけではない、と私は思う。
 航一はじっくり観察用ボックスに萌奈美を閉じ込めて、萌奈美をいたぶってそれを楽しもうとしている。
 それは、かなり歪んでいますけど、愛情の一種だろうと思うのです。

 航一は果てしなく感情的になって萌奈美をどやしつけたりしますけど、次の瞬間猫なで声を出したりしますよね。
 あれって自分に置き換えてみると、個人的にはペットに対する飼い主の行動ととても似通ったものを感じる(笑)。

 そんなペットから、「私の人生はあなたのものじゃない」 などと言われたら、なんだとペットのクセに!と、はらわたが煮えくりかえることでしょう。

 その感覚からいくと、萌奈美が手術で記憶をなくしてしまうことは、航一にとって願ったり叶ったりなのではないでしょうか。
 これで完全にペットとして、観察用標本として、萌奈美を自分のものにすることができる。
 そのために自分の脳外科医としての技術を最大に宣伝材料にして、手術成功の確率の高さをアピールし、猫なで声でかなんとか萌奈美を懐柔しようとする。

 これは航一の、冷たい心から発生した、からからに乾き切った、罠なのです。

 そんな航一にとって、祐の存在は実に不愉快。
 ペットが自分以外のものを愛しちゃいかんのですよ。
 しかも祐は、脳外科医としては国内最高レベルだと評価されている自分と比較するには、あまりにも取るに足らない存在。
 おそらく自分のプライドをも根本的に破壊させるような存在なわけです。

 航一は祐が同居させてもらっている肇(佐藤健クン)のアパートをやおら突き止めていきなり訪れ、お前なんかとコソコソ逢って家族を裏切るような女なんか、死んでもいいくらいのことを祐に言い放ちます。

 「私にとって大事なのは、娘だけなんでね」

 娘が悲しむのを見るのは忍びないから、記憶をなくそうがなんだろうが萌奈美を生かしてやる。 だがそれには、きみの協力が必要だ。 萌奈美から手を引け。

 祐は前回、会食の席であからさまにネチネチ攻撃されたり、金を投げつけられたりと、常軌を逸した航一の性向を目の当たりにし、記憶が戻ることを怖がっていた萌奈美の本心を理解出来ていた。
 だのに今回、祐は言いたい放題の航一からのこの要求を飲み、萌奈美とはもう二度と会わない、と決断するのです(いきなりラストのネタバレですが)。
 それは祐が萌奈美の娘(森迫永衣チャン)と会ってしまったことが最大のきっかけですが、それは、萌奈美が自分の人生でかけがえのないものを見失わずにこれからも生きていってほしい、と祐が心から考えた末の結論なのです。

 これはもちろん、航一がどれほどの医師であるのか、という情報も肇から仕入れたうえでの判断です。 この情報が祐の判断にもたらした力は大きい(この情報の信憑性、次回は大きく揺らぐようです)。

 萌奈美は航一の仕掛けてきた罠にはまり、生きられるものなら生きたい、と前回ラストに出した 「手術はしない」 という結論が、根本から揺らいでいます。
 迷うのが人間。
 いったんその結論を宣言した祐に向かって、萌奈美は素直にその心情を吐露するのです。
 そんな萌奈美を精一杯後ろからさりげなく支えようとする、草彅クンの演技。 こんな穏やかな笑顔が作れる男の役者は、あまり見た記憶がないです。
 萌奈美はそんな祐の存在を、心強い、と表現します。

 「なんだか愛おしいです、
 自分の生きてきた、この世界が…」

 萌奈美は東京タワーからの下界を見ながら、祐にこうつぶやきます。

 この世界は素晴らしい…。

 自分が死ぬ、という現実に直面したとき、やはりこの世のすべてのものがそう感じられるのだと思う。
 どんなに汚い現実でも、どんなにうまくいかないことだらけでも。
 そのすべてをひっくるめて、この世は輝きに満ちている、そう思える気がするのです。
 確かこのドラマの以前の感想文にも書きましたけどね。

 「なんか普通に生活してると、自分が抱えているものを、ふと忘れてしまう瞬間があるんですよね。

 こういうなんでもない毎日が、これからもずうっと続いていくような気がして。

 自分がいなくなるっていうことが、現実味がない、っていうか。

 だけどすぐに、
 『ああ、違うんだ…。
 一年後には、自分はここにいないかもしれないんだ』 って、思い出すんです…。

 声を出して笑ったり、
 幸せとか、楽しいとか思える瞬間って、
 すごくかけがえのないものなんだなって。
 …いまさら気付きました」

 そんな萌奈美の手を握る、祐。

 肇との語らいのなかで、性格悪いかもしれないけど、院長の腕を信用しろ、と言われていた祐は、逡巡の末、萌奈美に手術を勧め、航一に萌奈美とはもう二度と会わない、と言いに行くのです(鍋焼きうどんと金メダルの話、またまた兄弟のほっこり話に心が温かくなりました)。

 萌奈美は東京タワーで、祐の決意に気付く由もなく、病気が治ったらまた祐さんとあの大きな一本桜を見に行きたい、と無邪気に話します。
 萌奈美の後ろ姿をいつまでも見送ったまま、こぶしをかたく握りしめる祐。

 自分はただ、あの人のために何かがしたい。

 祐の恋愛感情は、実はそんな奉仕精神があまりにも巨き過ぎて、ちゃんとその感情に向き合いでもしない限り、ストイックの影に隠れて見えなくなってしまう恋愛感情だと私は考えています。
 そんな祐が、航一の仕掛けた罠にはまったまま、自分を押し殺していく過程は、心が痛みます。 心はカサカサ、お肌はガサガサ(笑)。
 東京には雪が降りましたけど、このドラマは乾燥注意報が発令されたまま、なのであります(笑)。

「冬のサクラ」 に関する当ブログほかの記事

第1回 …大丈夫…
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/1-1d6a.html
第2回 「逢いに行こう」、「なんのために?」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2-96f6.html
第3回 折れた翼で飛び続けることhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/3-cff9.html
第4回 自分の納得する生き方をhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/4-5b32.html

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東京地方の積雪、その顛末

 東京では久しぶりの積雪。
 夕方、夜勤に向かう車を走らせながら、降っていた雨にみぞれが混じってんなあと思っていたら、あれよあれよという間に大粒の雪になっていく。
 まずいなあ…と思っていると、ますますその勢いが加速して、まるで吹雪いているような状態に。 ワイパーでかき分けられていく雪の層が、見る間に大きな塊になっていきます。
 246はそのせいか、いつもよりもかなりの渋滞気味で、到着時刻も結構ぎりぎりになってしまいました。 雪が降ると東京の人間は、速度を出すことを極端に避けようとするんですよね。

 いったん小康状態になったものの、仕事中も雪はやむことがなく、幹線道路にさえ積雪が認められるまでに。 こりゃますますシャレにならなくなってきた…と、いつもなら鼻で笑いながら思うのですが、結構深刻さを増していくのです。
 なにしろチェーンなんかあるはずもなく、スタッドレスタイヤだって履いているわけでもない。
 車はちょっとでもアクセルを強く踏めば空回り気味なのがはっきりと認識でき、お尻を振っている感じになる。 ちょっとでもブレーキを強く踏めば、タイヤがロック気味になる。
 道行く車は必然的に、2~30キロ台で走らざるを得なくなってくるのです。

 先週の金曜夜から土曜日にかけても同じ雪でしたが、結局はそう大したこともなかった。 けれど車通りは極端に減ったんですね。 おそらく3連休で 「大雪」、などという予報が数日前から気象予報で喧伝されていたため、誰もが車で外出するのをやめたんじゃないかと。

 ところが昨日は、これほどまでの大雪にもかかわらず、車通りがとても多い。
 チャレンジャーだなーみんな、などと思ってしまいましたが(笑)、私が当日朝にニュースで見た予報では雨でしたし、内陸では雪になる、くらいの予報でしかありませんでしたので、たぶんそれで外に出てしまっていた車が多かったんじゃないでしょうか。

 雪の勢いは衰えることなく、ちょっとした上り坂では立ち往生する車が続出。
 雪の多い地方のかたからすれば失笑ものの現象が続発します。
 なんか、「事故」 の看板を掲げた警察の車両を、2度ほど見かけました。

 そのうちに雪は、雨混じりへとなっていくのですが、車の走行中、途端に気になる、ゴリゴリという音。
 すわ、タイヤでもパンクしたか、と思ったのですが、その原因はすぐに判明。
 みなさんチェーンを装着しているんですよ。
 それで道路が削れてる(そう感じました)。

 帰りの246ではほぼ小雨になっていたので、その異音がさらに激しくなり、道路はズタズタでガタガタの状態です。 246、こんなんで今日以降、ちゃんと走行できるんだろうか(後記 不思議なほどもと通りでした、翌日は。 つまりチェーンの形状に道路の表面上の雪が踏み固められていた、ということだったんでしょうか)。

 で、荏田を過ぎたあたりからいきなりの大渋滞。
 事故渋滞だと、発生直後は完全に止まってしまうというパターンなのですが、そうでもないのでなんの渋滞だろう?救急車も通ったからやっぱり事故かな?などと思っていたら、なんとそれは、チェーンを外す車があっちこっちにところ構わず駐車しているために起こっていた渋滞だったのです。
 こんなところでそんなことしてんな!と思ったのですが、確かにチェーン脱着のスペースなんて246にはありません。 仕方がない。
 やっとのことで渋滞を抜けるとやはり、対向車線にもちょうど上り坂のてっぺん付近で立ち往生しているトラックが数台。 見ると対向車線のほうが余程、雪が積もったままです。 チェーンを巻いていたのか、それともただ単ににっちもさっちもいかなくなったのか。 完全に道を塞いでいる格好でしたね。

 神奈川の246はちょっとした山をいくつも越えるような感覚の、高低差が比較的ある道路であります。 こういうところで積雪が多すぎるとこうなってしまうんですね。
 幹線道路だから積雪もなくて結構楽だろう、と思っていたのですが、甘かった…。

 雪国と、常時カラカラ地方の雪に対する抵抗力はかくも落差が激しいのですが、心配なのは今日以降、この雪が残って凍結してしまうこと。 そっちのほうが怖かったりする(後記 不思議なほど残っている雪がなくて、こちらも一安心)。

 いずれにせよ何事もなくてよかったです。 今日のところは。

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2011年2月13日 (日)

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 第2回 骨があるドラマとはこういうものか

 第2回目になっても相変わらず話は錯綜しまくり、あらすじ追っていくだけで精一杯の感がある、「大聖堂」。
 ちょっと見ていて分からなかったのは、フィリップ院長に頼まれ大聖堂建設の資金を国王(暫定?)に共に陳情しに行ったウェイルラン司教が、国王から建設を許可されてから、フィリップ院長につらく当たる場面。 どうもフィリップが裏取引をしたのにウェイルランが腹を立てたようだったのですが。 これはのちほど解説します。

 もうひとつ個人的に混乱するのが、そのフィリップたちが陳情しに行った、ヘンリー1世亡きあとに国王となっていると思われるスティーヴン。
 これが、パーシー・ハムリーとその妻リーガン(顔にあざがある女性)の息子ウィリアムと、ちょっと顔の区別がつきにくくて、ぼんやり見ていたら、なんで国王がアリエナを犯しに来るのだ?などとカンチガイしてしまいました。 ぼけっとしてらんない(笑)。

 大まかな話は理解出来る(気がしているだけ?…笑)のですが、細かい話が一回見たくらいではにわかに理解が出来ない。
 これがこのドラマの最大の欠点でありますが、そんな短距離ランナーの如く駆け足で盛り込み過ぎな話の中でとても感じるのは、「こんなことをしたら視聴者の反発を食らうのではないか?」 という躊躇が、全く見られない、という点であります。

 これはある意味で、過剰な描写を怖がって骨抜きにされた現在の我が国の大河ドラマの姿勢とは、対極にある姿勢だと言っていい。

 「江~姫たちの戦国~」 を擁護していながらその二枚舌はなんだ、と罵られそうですが、私はただ 「いいこと探し」 をしているだけであります(弁解)。 それにあのドラマは、一回一回ごとに独自のテーマがきちんと設定されている。 浅い内容だとは思いますが、私はその点を買っているのです。

 けれども 「大聖堂」 を見て比較してしまうと、「江」 は完全に見劣りがする。 比較すること自体が間違っている、とさえ感じます。
 その大きな原因が、「過剰な描写を怖がっていない」、という一点に集約されるのです。

 大きな点では、まずキリスト教の暗部を描くことに躊躇がない。

 耳を切る、などという残虐シーンも同様。

 セックスシーンやレイプシーンも、直截な表現はないまでも、実にお下品である。

 極めつけは、魔女裁判にかけられたエレンが、ウェイルランの目の前でやおら座り込み服をたくしあげて、放尿。

 こんなことを現在の日本のテレビドラマでやったら、まず間違いなく視聴者は大騒ぎし大問題に発展し、最悪の場合即時打ち切りでしょう。

 でもドラマというものは、このような野獣派的描写をすることにおいて、人間の怒りや憎しみ、悲しみを極限まで表現することが、可能となるのです。

 確かにこのような表現ばかり毎日見せつけられたら辟易しますが、人間の暗部を極限まで見つめることは、決して無意味なことではない、そう感じるのです。

 さてあらすじ。

 第2回目では、石工職人のトムが息子と娘、そしてエレンとその息子ジャックを引き連れて立ち寄ったフィリップの修道院で、自らが捨てた亡き妻の形見である赤ん坊(男の子)と再会することがひとつの話の発端となっています。
 ドラマではその赤ん坊を連れ去った男は、トムの娘を襲って大怪我を負わせた泥棒と同一人物という設定のようですが、原作ではどうもフィリップの弟らしい(ウィキによると名前はフランシス…ドラマ上ではブラザー・ジョニー)。
 赤ん坊は当然ですがトムよりもその泥棒男に懐いているわけであり、トムはその子を捨てたことを後悔していたこともあって、この子がいる、このキングスブリッジ修道院で働きたい、と強く願うのです。 でもすでに、フィリップ院長からは雇う金がない、と断られている。

 その経過を見ていたエレンの息子ジャック。
 建物を燃やしちまえば再建の仕事が出来るだろう、という判断のもと、修道院に放火します。
 この大火災、今回のひとつの大きな見せ場、と言っていいでしょう。

 その修道院に古くから伝わっていた聖人アドルファスの頭蓋骨を持ち出そうと火の中をくぐり抜けるフィリップ。 しかし焼け落ちてきた木材によってそれは粉々になってしまう。

 私が注目したのは、この遺骨をめぐる、フィリップと賄いのオジサン?との語らい。

 このオジサン、奇蹟を呼ぶというこの聖アドルファスの遺骨に何年も祈ってきたがまったく祈りが叶ったことはなかった、と言って、砕けちゃったんなら納骨堂に行ってほかのガイコツと取り換えればいい、と実に不謹慎なことをフィリップに進言するのです。 「信じる心が大切だ」 と言うフィリップ。 「だからだ」 と言うそのオジサン。

 「それは嘘ではない。 信仰の種だ。 それは人々を神の栄光に導くための、足がかりとなる」

 何かにすがろうとする人の気持ちを利用して、信仰というものは存在している。
 けれどもそれが叶うか叶わないか、ということは、祈る人にとってさして問題ではないのだ。
 重要なのは、何かにすがることで、心の安寧が得られることだ。 失った自信を取り戻すことが出来ることだ。

 実に信仰の本質を突いているやり取りのような気がしました。

 寝る場所と食事を提供してもらうことで、この修道院の再建を名乗り出たトム。
 トムの進言によって、フィリップはウェイルラン司教に、修道院再建のための資金を要請しに行くのです。
 それには国王の許可が必要だ、と言うウェイルラン。

 ここで、冒頭で私が分からなかった、と書いたことの解説をいたしますが、ウィキの原作あらすじを読みながらなので、もしかすると違っているかもしれません。

 第1回で謀反の罪で降伏したバーソロミュー伯の領地にある採石場の石と森林の木材が、聖堂を作るためには不可欠なのですが、それをバーソロミューを降伏させたハムリー夫妻も狙っていた。 
 ところがウェイルランも、自分の城を建てるために、その採石場と森林を狙っていたんですな。
 フィリップはハムリーの妻リーガン(あざのある女)と、市場などの交換条件を出してその採石場と森林の一部を手に入れようとしたのですが、リーガンのほうが一枚上手で、結局採石場の採石の権利だけが修道院に与えられた、ということだったらしいのです。
 勝手に裏取引をして大きく損をしてしまったフィリップ。 自分の城がそれでできなくなっちゃったために、ウェイルランはフィリップを罵るのです。
 こんなのちょっと見ただけで理解しろ、っていうほうが無理な気がしますが。

 とにかく修道院再建の許可は下りたわけです。

 いっぽうハムリー夫妻の息子ウィリアムは、バーソロミューの娘アリエナと息子リチャードの居場所を突き止め、いきなり現れてアリエナをリチャードの目の前で強姦。 リチャードは片耳を切り取られます。
 先にも述べましたが、このシーン、R16という感じ。 とても過激で正視に耐えられないものでしたが、昔はこれくらい日本のドラマでもやってた気がする…。 どうも過激な表現の免疫がなくなってしまったようですな。
 アリエナとリチャードは隙を見て逃げ出し、父バーソロミューが監禁されている牢に辿り着き、父に向かって家の再興を誓います。
 ここらへん、話をはしょりまくってる気がするな…。

 修道院再建の話と並行して、ウェイルランのもとに届いていたのは、エレンが魔女である、という告発。
 エレンは自分が魔女である、という話は、あながちウソではない、とトムたちに告白します。
 18年前難破した、ヘンリー1世の世継ぎを乗せた船に乗っていたフランス人を匿ったエレンは当時修道女。 それを牧師に相談したところ裏切りに遭い、聖杯を盗んだという無実の罪を着せられ、そのフランス人の男は火あぶりの刑になるのです。
 そのフランス人との間にできた赤ん坊(ジャック)を抱いたエレンは逆上。
 その裁判を起こした当時の修道院院長ら(この中にウェイルランもいたのでしょう)に向かって不吉な予言を連発し、お尋ねものになっていた、というのです。

 この回想部分だけでもゆうに1、2話くらいのボリュームがありそうなんですが(笑)、回想で済ませるためにあっという間。

 そこにウェイルランの手のものが急襲、エレンは魔女裁判にかけられることになるのです。
 ウェイルランの証言によってエレンは魔女の烙印を押されるのですが、フランシスから受け取ったナイフで自らの手にかけられていた縄を断ち切ると、彼女はテーブルの上に上がってウェイルランの目の前にしゃがみ、涙を流しながら、放尿するのです。 ざわめき、顔をそむけるその場の聖職者たち。

 「くたばっちまえ司教…!」

 ナイフをウェイルランの肩に刺し、その場を逃げていくエレン。

 なんとサベージな表現でしょうか。
 そのときのエレンが流した涙。
 その怒り。
 その悲痛。

 今のNHK大河じゃ、こんなことは絶対できるはずがない。
 昔はやってましたよ。
 確かに。
 身の毛のよだつことを。
 史実とは違うかもしれませんが、裏切り者のガイコツに金箔を塗って、てっぺんを斬って盃にして、とか。
 じっさいに体を地面に埋めて、首の部分だけを台の上に乗せたようにする、とか。
 刀をわざとボロボロにして、ノコギリのようにして首を斬り落とす、とか…。
 いつからお行儀のいい大河が定番になってしまったんでしょうね。

 いずれにしても、大聖堂の再建は、始まりました。
 エライ猛スピードですけど。

 なお、あらすじについては分からないなりに正確を期そうとしておりますが、もし内容が違う、という場合は遠慮なくお申し付けください。

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 に関する当ブログほかの記事

第1回 圧倒的な徹底ぶり
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-237d.html
第2回 骨のあるドラマとはこういうものかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/2-4477.html
第3回 利用される神々http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/3-537a.html
第4回 むせかえる死臭のなかでhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/4-34e0.html
第5回 永遠の一部たるべきものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/5-a7e7.html
第6回 神の意志はあるかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/6-69bf.html
第7回 信仰の本質とは、どこにあるのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/7-1f00.html
第8回(最終回)前編 神とどう向き合うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-46ec.html
第8回(最終回)後編 神になるのか、神を敬うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-1065.html

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2011年2月12日 (土)

「あしたのジョー 本日公開!徹底解剖スペシャル!」 観に行かないけど、番組には泣けた…

 実写映画化する、という話を最初に聞いたときは、「何でもかんでも映画にすりゃいいってもんじゃない」 という反発心のほうが強かった、「あしたのジョー」。
 ただ、その反発を受けて立とう、という製作者の心意気だけは感じたものです。

 それほどこのマンガの信奉者は多い。 しかもそれぞれにかなりの思い入れがある。

 そんな人たちの存在を考えたら、まずその企画発想の段階から軽い気持ちで発案できません。 並大抵の覚悟では出来ません。
 少しでも安易なものは、絶対作れないに決まっている。 それに敢えて挑戦しよう、というその意気は讃えられるべき、だと思うのです。

 かく言う私もこのマンガを100回以上は読んだであろうという 「あしたのジョー」 の自称オーソリティなのですが(笑)。

 中学高校時代の教科書にはジョーの落書きだらけ(あとビートルズとか…笑)、私は今でも相当うまくジョーの顔をそらで描くことが出来ます。 今のちばてつやサンよりうまいという自信がある(笑)。
 そんなオーソリティのプライドも邪魔してか、今回の映画宣伝番組を見ていくら感動しても、映画館にまで足を運ぶ気にはなれません(大変失礼)。 以前にコメント返信でも書かせていただきましたが、そのうちテレビでやるだろうから、そん時ゃ見るかな、という感じかな。

 …いや、それ以前に、映画館で映画を観る、というもののコストパフォーマンスについてけない、というビンボー状態、というのがかなり大きい(爆)。 プライベートな時間もテレビドラマ見るのと感想文書くのと、あと寝るのに忙しくてヒマもないし。
 くそー、いつになったらカネと時間に余裕が出来るんだぁぁ~~っ!
 1日24時間じゃ足らん。
 圧倒的に足らん~~っ ! !

 …つい個人的な怒りが爆発してしまいました。 大変失礼いたしました。

 とにかく。

 そんな原作ファンの怒りや見くびりや危惧などの逆風を跳ね返すに足る凄味を、この宣伝番組では如実に感じることができました。 かなりキテます。 この映画。 見直しました。 宣伝に乗せられてる気もしますが。

 番組でも、この実写映画化に批判的だった人たちに映画のさわりの部分を見せてその考えを変えさせる、などということをやっていましたが、まさにその 「見くびり」 と 「見直し」 のギャップが、観客動員力へ直結する最大のファクターであるのです。

 それにしてもこの宣伝番組でも、「あしたのジョー」 を知らない世代が多いことには、ある種のショックを受けました。 最近のどこぞのアンケートでも、好きなボクシングマンガで 「はじめの一歩」 に抜かれる始末。
 時代の流れで仕方のない面もありますが、このマンガ、冒頭からたぶん、ウルフ金串戦あたりまでの画風は、ちょっと古臭くてドヤ街や少年院の匂いがこっちまでただよってくるような画風で、とっつきにくい面もあるのかもしれません(このことについて語り出すとまた長くなりそうなのでやめときます)。 しかしジョーは、こちらの想像を超えてカッコよくなり続けますので、ぜひ若い世代にも読んでいただきたい。

 話は戻りますが、ボクシング映画を作る上で最も大前提となるのは、主役たちボクサーの体をそれらしく見せることにあります。
 今回映画版でのジョー役の山下智久クンは、結局体脂肪4~5%まで絞って、それだけでもすごい。
 問題は、力石徹役の伊勢谷友介サン。

 原作をご存知の方なら常識ですが、力石はフェザー級からライト級の体重をジョーのいるバンタム級まで落とす、という極限を超えた減量をする。
 これをですよ、伊勢谷サンはCGの力も借りず、やりきったんですよ。
 ただでさえ絞り切った体にさらに4日間の絶食状態を敢行し、計量日の撮影当日の伊勢谷サンは、ほぼ朦朧状態。
 ガウンを脱いだその体は、あばらが浮き出て肋骨が飛び出ているのです。
 「撮影が午後までずれ込んだら、ぶっ殺してやる」 という気分だったらしい。
 さすがにその体のままで試合の撮影は行なわれなかったようですが、この主役ふたりの体を作る作業、いや死闘は、見ているだけで胸が熱くなってくる。
 やはりやる以上は、本物を作りたい、という作り手の気概が、こちらの胸を打つのです。

 そして丹下段平役の香川照之サン。
 不勉強で全く知らなかったのですが、ご本人は30年来のボクシングファンで、ご趣味程度でしょうが実際にもやられているらしい。
 そのキャリアが結実したのがこの映画となったわけで、監督そっちのけで演技指導したり、トレーニングに助言したりと八面六臂の活躍。 キャンペーンでもものすごいバイタリティで、このところこの人の出るドラマは見ないことがない、というくらいお目にかかっていますが、あらためて生命力旺盛なかたなんだなあ、と認識を新たにいたしました。

 「ボクシングの魅力はやっぱりまあ、…心が立とうと思っても体が立てない、ってことじゃないですかね、一番は。
 人間というのは心でさ、ほぼできると思ってるんだけど、あんな、1万人とかの客の前でさ、3カ月4カ月物も食べないでずーっと練習してきた奴が30秒とかで大の字になっている辱めの姿を見せるんだよ。 大の大人が。
 その勝者と敗者との違いが、ほかのスポーツと違ってあまりにも如実に出るっていうのがぼくは好きだね」

 ドヤ街のセットもここまでやるか、というくらいの感覚で、いったんまっすぐ建てた昭和40年代の木造の建物を重機で微妙に歪ませていく。 建物を定規で引いて描く 「巨人の星」 の川崎のぼるサンでは、この必要がない(笑)。 フリーハンドのちばてつやサンだからこそ、こんな歪みの表現が必要となる、そんな気がしました。 こだわってるなあ。 CGの威力もこういうところでこそ発揮できる気がします。

 しかし、人と人との肉体同士のぶつかり合い、これはCGでは表現し尽くすことはできません。
 「ピンポン」 も作ったこの映画の監督、曽利文彦監督は、どれだけすごいCGをもってきても、人間の力の前では無力だ、ということを感じながらの撮影だったようです。
 この最後の表現力を人間に託した、ということが、なんともアナログ世代には嬉しいことなんですよね。

 本物の迫力を撮る、という点でネックになったのは、主演の山Pのやさしさ。
 人の顔をちゃんと殴れない山下クンを、トレーナーの梅津正彦サンが奮い立たせようと、本気のパンチをボディにお見舞いする。
 その瞬間、人が変わったように激しいパンチを繰り出し始める山P。
 その闘志は力石戦でもとどまるところがなく、誤って伊勢谷サンのフックをもらってしまって軽い脳しんとうを起こしながらも、撮影を続行させるほどの意気込み。

 こういうの、いかにも狙って大げさに見せてる宣伝番組のいやらしさが鼻につく、などと冷めた見方が出来ないんですよ、ワタシ。

 ひとりの男が、ひとりの人間が、見栄もうわべだけの優しさも剥ぎとって、自分の限界を超えようと努力する姿に、オッサンはただただ泣けるのです。 「江~姫たちの戦国~」 でも泣けたなどと書いた矢先からナミダの押し売りみたいですけどね。
 人は 「どうして自分が」 と思うような目に遭いながら、涙を隠して、ただひたすらに、前を向いてがむしゃらに生き続けるいきものなのです。
 そんな悲壮さを、上野樹里チャン演じる江や、ジョーを演じる山P、力石を演じる伊勢谷サンに感じることが出来るのです。 いずこも私の泣ける原因は一緒です。

 撮影を終えて男泣きする、香川照之サン、伊勢谷友介サン。

 「この年で初めて、ボクシング映画に出させていただいて、…えー、…これをやるためにボクシングを見てきたんだな、という気がするくらい、懸けることができました。
 この時点での僕の、最高作品だと思います」(香川サン)

 「もちろんトレーニングもきつかったんですけど、…なんか、もらったものがあまりにも大きくて…。
 そういう現場になんか居させてもらったことが、ホントにうれしくて…」(伊勢谷サン)

 「失敗しても倒れても、諦めたらおしまいだよっていう…。
 何度も立ち上がるってことじゃないですか、ぼくはそう受け止めたので…」

 山下クンの最後の言葉は、何度もダウンしながら、這いずり立ち上がってきた矢吹丈の本質を、かなり深いところまで突いていると感じます。
 興行的にどうあれ、この映画は生半可な気持ちで作られたものでは絶対にない、そのことだけは確実に断言できる。 「本気」、それは興行成績ではけっして分析できない、この映画の持つ本質なのだと思う。

 「あしたのジョー」 ファンのかたも、「こんなところに違和感がある」 などと思わず、作り手の 「必死」 を讃えてあげましょうよ。 私はそう思います。

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2011年2月10日 (木)

「江~姫たちの戦国~」 第5回 無神論者にはキツイ?本能寺

 大河ドラマで何百回となく繰り返されてきた(冗談)本能寺の変。
 今回の 「江」 では、結構オカルトチックなエピソードが目白押し。

 まず市(鈴木保奈美サン)が信長(豊川悦司サン)からもらっていた天下布武の印がカッ!という音とともに割れ、千宗易(石坂浩二サン)が手にした、信長が好んだという茶碗にひびが入る。
 信長は今際の際に江(上野樹里チャン)の生霊に遭遇、江は信長の死の瞬間がばっと跳ね起き目が覚める。
 極めつけは家康(北大路欣也サン)らと逃亡中(このこと自体もアリエナチックな話ですが)信長の霊のサポートを受けて、窮地を脱する。

 こういう話に引いてしまう人にとっては、なんとも拷問とも思える展開の(爆)本能寺の変、だったのでございます。 ではまた来週。

 …

 ところが私は、今回の話、結構感動いたしました(また歴史も知らんで、とバカにされそうだ…)。

 どうしてこれほどまでにオカルトチックな話に私が感動してしまうのか、と申しますと、やはり自らの体験が物を申しているのでございましょう。

 このブログを立ち上げて第2番目の記事でもすでに書いておるのですが、私はジョン・レノンが死ぬ数日前に予感がしたことと、死んだ瞬間にガバッと跳ね起きた体験をもっているのです。
 そのために、これらのエピソードについて全く違和感なく入り込めたのです。

 自分がのめり込みまくっている人物の死を、まるでテレパシーのように察知することって、確かにあるんだよなあ、という考えの持ち主であれば、今回の話にドン引きする術をもたなくなります。
 少なくとも自らに近しい人が亡くなったときに、そうした体験をした人ならば、今回の話には、人と人とのつながりが持つ人知を超えた 「想い」、というものに、心を動かされると思うのです。

 ただしそうした観点から見ても、ちょっと無理があるかなあ、と思うのは、今際の際に信長が江の生霊と出会うこと。
 でもこれって、大河ドラマの常套ですから(笑)。
 「天地人」 では、上杉謙信と会ってましたよね、信長(笑)。
 そのほかにも、確か武田信玄とも会ってたよーな気もするし、毛利元就とも、会ってませんでしたっけ?(笑)
 本能寺の信長さんは、火に巻かれながら、かくもいろんな人と会うのに忙しいのであります(爆)。
 会うワキャねーだろ!とツッコミを入れるのは、こと大河に関しては、見る側はしちゃいかんのです(笑)。
 こうすることで、その年の主役を引き立てるのが、大河ドラマのルール、お約束、なんですよ。
 本能寺、大爆発しなくてよかったですけど(あれは確か、「天…」…笑)。

 ドラマ的には、相変わらず江を含めた浅井三姉妹を年端もいかぬ小娘、として見なければ成立しない展開を示しております(しつこいですが家康も)。
 こと今回に限っては、その脳内補正は必要不可欠だった気がする。

 冒頭で馬の稽古をする江、そしてそれをちゃかす初(水川あさみサン)。
 ふたりとも幼女レベルのやり取りであります。 これは脳内補正が絶対不可欠のシーンであります。
 馬をウマく(笑)乗りこなせない江は、落馬して 「むぎゅ~…」(笑)。
 初にはやされて、「むきゃ~っ!」(笑)。
 私はここらへんの取るに足らない姉妹のやり取りを、「のだめ」 のスピンオフとゆーかパラレルワールド感覚で見ております。 そんな見方でもしないと、「なにをいい大人が学芸会をやっとるのだ」、という感想しかわいてこない(笑)。
 初が 「母上は江ばっかりひいきして!」 とプンプンするのも、末っ子を甘やかしてしまうことっていずこの時代も一緒かなあ、なんて考えてしまう。 

 実は 「江」 という物語は、序盤ではそんな幼い日の他愛もないやり取りに主眼を置いているんじゃないか…そんな気がしてきました。

 これから敵対関係へと突入していく茶々、それを取り持っていく初、そのふたりの姉との、他愛なく懐かしい日々。 それこそが作り手の主眼のような気がする。
 それを、現代の尺度で話を作ることに無理がある、と毛嫌いする人も、確かにおるのですが。

 そのうえで、やはり庶民と違って江たちには歴史上のことは深くかかわってきますから、どうしても必要最小限の史実は描かねばならない。 作り手はそこで、江と信長の精神的なつながりを描きたいと考えているようなのですが。
 そのバランスに脚本の田渕久美子サンは苦慮しなければならない。 難しい部分があると思います。

 私がふつう大河において嫌悪感を抱くのは、どちらかというと登場人物の負の部分を不当にきれいごとで済ませようとする部分や、逆に不当に特定の人物をワルモノにしようとする部分。
 でもそれにしたって、物語がそれで面白くなればよしとしちゃうことだってあるのです。

 今回、物語はテンポ良く、信長と明智光秀(市村正親サン)との確執を描いていき、本能寺へと突入していきます。
 信長が森蘭丸(仮面ラ…もとい瀬戸康史クン)になぜ光秀につらく当たるのか、と訊かれ、自分の後継者と思っているからだ、と答えるところは、なんかどこかで見たような感じでしたけど、その真意を光秀が曲解していく構図、そして右手の震えが信長討伐の考えがよぎった瞬間はたりと止まる光秀の描写、ここらへんには引きこまれるものがあります。
 いずれにせよ、
 「敵は、本能寺にあり」
 「是非に及ばず」
 「人間50年」
 この決まり文句が違和感なく繰り出される背景には、ふたりを演じた豊川悦司サンと市村正親サンの演技の凄味が大きく関与している。 正統なる大河ファンは、こういうところにシビレたりするのです。

 ところがこのドラマは、ひび割れの前兆というジャブを繰り出しながら、信長が最後のふすまを開けた瞬間、先にも示した通り、オカルトチックな話に突入していくのです。 正統なる大河ファンは、ここでがっくりきたことでありましょう(笑)。

 森蘭丸にすべてを託し(ここでの瀬戸クンの演技、迫真でした~)、最後のふすまを開けた瞬間、信長はそこに江が立っているのを見るのです。

 「江ではないか…。

 そうか…。

 別れを言いに来てくれたか…。

 江よ…。

 わしは思うまま、存分に生きたぞ…」

 江は光輝いたまま、信長を見て笑っているのみ。 信長が話しかけると、ほほ笑んだまま後ろを向いて、去ってしまうのです。

 「人間50年…。

 潮時かもしれんな…」

 ここ、やはり子役のほうがしっくりきます(しつこいな~いー加減…でも本心)。 大人の樹里チャンじゃ、「配下の裏切りという地獄の中にいる信長が純粋無垢な神々しい少女をそこに見る」 という必然性、その説得力が弱くなる。

 このシーン、江の歴史上の重要度を知っているかたがたからすれば、実に不必要なシーンと言っていいでしょう。
 ところがそれは、今回ラストのシーンと密接につながっている(そんなことはどーでもいい、という議論は置いときます…笑)。
 光秀の謀反を知った家康は、そこに居合わせていた江(ああ~、あり得ない…笑)を引き連れて逃亡を図るのですが、そのとき江は、馬に乗せられる。
 これで冒頭での馬の稽古とつながったわけですが、ここでぬかるみを越せない江を山賊が取り囲む。
 そのとき後ろから、江を呼ぶ声がするのです。
 信長です(ことここに至れば、もはやあり得ない、という話は聞く耳持ちません…笑)。

 「生きよ、江…!」

 振り返り、驚く江。

 「(伯父上…!)」

 「手綱をもて。 行くぞ」

 手綱をもつ江の手にそっと手を添える信長。 賊たちが、まるで何かの気に圧倒されたかのように、まわりから引いていきます。
 ぬかるみを軽々と飛び越える、江を乗せた馬。

 「前に進め。

 そちは生きよ」

 「そちは、

 生きよ…」

 何かを悟ったように、江の表情が険しくなっていきます。

 それは信長が、自分の命を江にバトンタッチした瞬間。

 そこに追いついてくる家康。

 その瞬間、信長の姿は消えています。

 江をこれから見守る役目になっていく家康との、バトンタッチの瞬間でもあります。

 「伯父上は、亡くなりました…」

 「なんですって?」

 「今は前へ…。

 前へ進むのみにございます…!」

 泣きながら決意を叫ぶ江。

 ここ、わけもなく泣けました。

 シャーマンじゃあるまいし、そんなバカな話があってたまるか、と思われてしまったかたには、これで今年の大河とはオサラバ~、というシーンだったことでしょう(笑)。 あり得ない話の上に、「あなたの知らない世界」 がダメ押しの如く存在しているのですから。

 ただ私が泣けた理由を書かせていただくと、こういうアリエナシーンを史実という問題を真っ向から拒絶しながら作り手が繰り出した背景。

 誰かが亡くなると、夢枕にその人が立つ、という話は、よく聞く話であります。
 それは霊視的に言うと、その本人の霊魂がじっさいにそこに来ていることではない、という話らしい(オカルトチックな話で申し訳ない)。

 つまり、何らかのその人とのつながりが引き起こす、超常現象なのだと私は解釈しています。
 今回信長が見た江の生霊も、江が見た信長の魂も、「人を思う気持ち」、というものが発生源になっているのです。

 近しい人が亡くなるのは、実に悲しいことですが、その人の意志を風に感じながら、自分がバトンを受け継ぐように生きていく。 そんな悲壮さで、人生の一部分は動いていくものだと私は考えるのです。
 そのことがこのシーンには、如実に描写されていた気がする。
 私を泣かせるのは、そんな悲壮な決意を抱きながら生きていかねばならない、人の世の習わしに対して、だったんだと、ちょっと的外れかもしれませんがそんな解説をしたいと思うのです。

 これは精神的霊魂的な話を中心として史実などを全く無視した、歴史ドラマとしてはあるまじき暴挙ともとれる再構成、であります。
 こんなのは大河じゃない、そんな意見も重々理解できる。

 でも私は、今までに見慣れてきた大河とはまた別の角度で展開していくこのドラマに、ちょっとハマりつつあります。 橋本はまた下らないドラマを擁護している、と思われても仕方ない。 でも感動して泣けたんだから、仕方ないかなあ…。

 でもやはり子役でなければならない、という意見もいっぽうでは曲げられませんけどね。
 子役のほうが、「子供はユーレイを見やすい」 という話に信憑性が増す気がするんですよ。

 私の話は、以上です。

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2011年2月 9日 (水)

「美しい隣人」 第5回 傷つける言葉

 いきなり送りつけられてきた、息子の死んだようにも思える寝顔を写したメール。
 絵里子(檀れいサン)は狂ったように、駿クンを探し回ります(結局隣の家で寝ていたのですが)。
 1年前のトラウマが深く心をえぐったままであるがために、その心情は痛いほど分かります。
 そして息子を探し回る絵里子の影は、いつしか沙希(仲間由紀恵サン)の影になっている。
 1年前のフラッシュバックです。

 ここで溺れてしまった息子の隼人クンを発見するまでの沙希の行動について、ちょっと不審な点もないわけではないです。
 沙希は隼人クンと似た男の子たちを片っ端から見つけては確認していくのですが、男の子たちが着ている服がみんな違う。
 ふつう4、5歳くらいの母親であれば、自分の子供がその日どんな服を着ているかどうかくらい、見分けると思うんですが。
 パニックで分からなかったのかな。

 いずれにせよ、沙希が自分の息子を手にかけたわけではない、というのが、ここで判明した気がします、少なくとも表面上は。 …私、ちょっと沙希が隼人クンを溺れさせたんじゃないか、なんて疑ってたんですけどね(相変わらず推理が当たりません…笑)。

 今回の話の大きな柱となっているのが、沙希が越してくる前に絵里子の隣家の住人だった、加奈(鈴木紗羽サン)とそのダンナ(小林正寛サン)。 ドラマにありがちなパターンですが、大阪でこの夫婦は、絵里子の夫慎二(渡部篤郎サン)が沙希を伴ってタクシーに乗り込むところを見てしまいます。 あいた口がふさがらない状態のふたり(笑)。
 この夫婦が大阪からホタル会のためにちょっとだけ戻ってくることで、物語はさらに混迷の度を増していくのです。

 いっぽう慎二は、自分に言い寄ってくる会社の部下亜美(藤井美菜サン)をいきつけのバー 「ネスト」 で一刀両断したことで、亜美の悪意に火が注がれる展開になってしまいます(余談ですが、このバーの名前。 「巣」、という意味ですよね。 私などは反射的にクモの巣を連想してしまうのですが、そのバーに吸い寄せられるように沙希の姿を求めて入っていく慎二の姿は、まるでクモの巣にかかりにいく羽虫のよう。 今回確か絵里子の家の玄関だかの灯りに、蛾がとまっている場面がありましたが、「吸い寄せられてしまうもの」 のイメージの連鎖のような気がしました)。

 ある日絵里子の家にかかってくる、無言電話。 最初駿クンが出てしまったために、何も言えなくなったと思うんですよ、これって。
 再びかかってきたその電話の主は、絵里子を確認してから一言。

 「死んで」。

 絵里子の衝撃は、表現し尽くしがたいものがあります。

 これは沙希ではなく、亜美からの電話だった、というのは考えさせられるものがあります。
 絵里子という女性(翻って、それは檀れいサンを快く思わないかたたちの、彼女へのイメージと大いにダブるようなところがあると感じるのですが)、自分ではまったく普通に人と接しているのに、何か反発を受けてしまいそうな、鼻につく完璧さ、というものがあるように思うのです。
 そんな反発って、結局彼女に対する嫉妬としか思えないんですけどね。

 自分ではまったく悪意などないつもりなのに、他人から 「死ね」 と思われるほど憎まれている…。

 確かに、自分ではそのつもりがなくても、人を傷つけることって、知らない間にやってしまうことが多いです。

 それでも、軽口を叩きたくなるのが人間だし、場をわきまえる、などという判断って、結構難しかったりするんですけどね。
 「死ね」 という言葉には、本当に他人を精神的にダメにしてしまうほどの威力が込められている。
 なにかのきっかけで、誰も見ていないところで、「死んじまえ!」 なんて言ってしまったり思ってしまったりすることって、軽い気持ちですけど常套句みたいに出てしまうことが私にもありますよ、そりゃ。
 でも、他人に面と向かって(この場合は電話ですけど)こう言ってしまうのは、実はその人の魂を殺してしまうことと同じなんだ、と私は思います。
 ブログやってて、そんな局面が何度かあったものですから(「死ね」 と送りつけられてきたことはさすがにないですけど)、絵里子のそのときの気持ちが、すっっっっごくよく分かるのです。 本当に、血の気がサアーッと引きますよ。 言われてごらんなさい(言われたくない!…笑)。

 それを苦悩に歪んだ表情で沙希に話す絵里子なのですが、沙希は自分のダンナの女に同じことを言われた、と話して、絵里子の疑心暗鬼を助長させる精神的追い込みに利用するのです。
 こうして、絵里子の悩みの相談に乗っているふりをしながら逆のことをしている沙希、自分以外にもこの女を憎く思っている女がいるんだ、と内心、ほくそ笑んでいるのかもしれません。

 絵里子はそんな精神的大ダメージのために、ホタル会へ行くことも拒絶、駿クンを沙希がホタル会に連れていくことをしぶしぶ了承するのですが、そのことで夫の慎二と夫婦ゲンカに発展してしまうのです。
 沙希さんもついているしホタル会のほかのみんなもいるし、と言う絵里子に慎二は、それでもひとりで外に出すことには慎重になるべきだ、と咎める。 なんだかんだ言って夫の側も、自分の息子が行方不明になったことに対して、深い傷が残ったままのようです。
 そんなこと分かっているわよ!と声を荒げてしまう絵里子なのですが、それはこのところ三浦理恵子サンのこととか駿クンがよそよそしいこととか、そして 「死ね」 攻撃で相当参っているからこその感情の爆発なのです。
 歯車が、どんどん狂っていく感じが、ドラマを見ていてとてもしてくる。

 そしてホタル会にやってきた加奈サンと旦那。
 駿クンを伴ってやってきた沙希を見て、絵里子さんのダンナと連れ添っていた人なんじゃないか?という疑念を募らせます。

 加奈の今回の行動は、絵里子を励まし、沙希のことを本当に信用してもいいのか?と忠告したりといういいこともきちんと行なっていながら、真由美(三浦理恵子サン)に、絵里子さんの力になってあげて、と言いながら、絵里子さんのダンナが女を連れていた、ということを打ち明けたほか、悪い側面もある。

 人はどんなに完璧でいたいと思い、良かれと思うことだけをしたい、と考えても、結果的にそれが裏目に出てしまうことがあります。
 加奈の今回の行動は、そんな人としての思いが凝縮された、濃い役割を果たしていた気がする。
 結局仲直りした真由美から、ダンナが浮気していることが、絵里子に伝わってしまうのです。 この構成は、見事だなあと感じます。

 精神的な波状攻撃を受け続けた末の、ダンナの浮気。

 絵里子は打ちひしがれて、夜、ホタルの池にやってきます。

 「…きれい…」

 人間関係のドロドロに疲れ果てていた絵里子は、ホタルの純粋さに心打たれたのだと思います。 かがんでそのホタルのはかなく点滅する光を見ながら、さめざめと泣く、絵里子。
 泣けました…。

 私が、何をしたっていうんだろう…。

 私、何か間違っているの?

 どうしてこんなに、うまくいかないことだらけなんだろう…。

 どうして私のことを裏切るの?

 そんな感情が、その背中からにじみ出ているのです。
 背中で演技するなんて、相当なもんだと思いますよ。

 けれどもそんな背中に、近づいていく手がある。

 沙希です。

 何食わぬ顔をして、「心配だからついてきた」 と言う沙希。
 絵里子は、そんな沙希に、涙ながらに思わずこう話してしまうのです。

 「沙希さん…私の友達だよね?

 …
 (沙希の手を握り)私を裏切ったりしないよね?」

 そんな絵里子に、沙希は 「私を疑っているの?」 と反応してしまう。
 ふつう、「どうしたの?」 とか、反応すると思うんですよ、ここは。
 これは、沙希が絵里子のことより、自分のこと中心で思考が回転している表れだと感じます。

 「私…誰も信じられなくなってるの…」

 そんな絵里子の手を上から握り返し、沙希はまるでナイフのような反応を示すのです。

 「…もし私が、絵里子さんを裏切ったらね。

 …

 殺しちゃってもいいから」

 手を離す絵里子。

 「殺すだなんて…」

 「本気よ」

 絵里子は自分が悲しみに駆られて、ぶしつけなことを沙希に言ったことを後悔してしまう。

 「ごめんね…

 …

 信じてるから…」

 ちょっとした言葉で、人が傷つくのを自分が痛いくらい知ってしまったからこそ、絵里子は沙希に謝ってしまうのです。

 絵里子の悲しみが大きくクローズアップされたために、どうして沙希はここまで絵里子を追いつめにゃいかんのだ、という感じが強くした、今回の 「美しい隣人」。
 次回はついに慎二と沙希が、絵里子の前で会ってしまうようですね。

 目が離せません。

「美しい隣人」 に関する当ブログほかの記事

第1回 勝手な先読み、という恐怖増幅の方法
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/1-f59a.html
第2回 鏡の中と現実の浮遊感http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2-50e1.html
第3回 隔離された 「傷つく構造」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/3-31ec.html
第4回 「あたりまえ」 の崩壊http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/4-1a05.html

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仕事の 「貴賎」、って存在している

 久々にテレビ以外の話です。

 仕事をしていると、エラソーな人によく遭います。

 その人はどんだけ自分がエライのか知りませんけど、たぶん自分の仕事のほうが上級だと思っているのでしょう。
 下請の人間など、自分たちの意のままに切ったり頼んだりできる、と思っている。
 仕事に貴賎などない、などとよく言いますけど、この国じゃ確実に存在していますね。

 仕事によって他人を見下す人間を、私は逆に蔑みたいと思います。 下らない人間だなあ、と思います。

 すべての人が、支えたり支えられたりして、生きているのです。 自分は、誇りを持ってこの仕事をしようと頑張っています。

 ブログという場があるので鬱憤を晴らさせてもらってますけど、誤解を恐れずあえて書かせていただきます。 もちろん大部分のかたがたは、そんな偏った意識などないと但し書きさせていただいたうえでの発言です。

 …

 「下働きの人間は、あんたらの奴隷じゃない!」

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2011年2月 7日 (月)

「冬のサクラ」 第4回 自分の納得する生きかたを

 「冬のサクラ」 には、2種類の笑いがあるような気がします。
 ひとつは加藤ローサチャンの引き起こす佐藤健クンとの掛け合い漫才的な笑い。
 そしてもうひとつは、今井美樹サンのダンナ役の高嶋政伸サンの、理解不能すぎる偏執ぶりが引き起こす笑い。
 私の場合はお化け屋敷でいったんびっくりして、却って笑ってしまう、みたいなものに似た感覚で高嶋サンを見ています。 これ、まともに取ったら結構キツイものがありますよ。 今井美樹サン演じる萌奈美のように、精神崩壊寸前?まで行ってしまいます。

 ただ同じカテゴリーと思われる 「ずっとあなたが好きだった」 の冬彦サンと比べると、高嶋サン演じる航一は、どちらかというと映画 「コレクター」 のテレンス・スタンプに似たものを感じます。
 冬彦サンは 「ぼくのものでなきゃヤダヤダヤダ~」 という幼児性を前面に出したものだったですが、航一はカゴのなかに閉じ込めてじっくり観察することによって快感を得ているような感覚。 「きみはぼくの言う通りにすればいいんだ」 という航一のセリフを聞いたとき、そんなことを考えました。

 今回の話は、冒頭からローサチャンと健クンの漫才がさく裂(笑)。

 萌奈美に1日限りのデートのあとフラレて(笑)、またまた丸子橋のたもとから肇(佐藤健クン)に電話をかける祐(草彅剛クン)。
 「今兄ちゃん東京いんの?」 と訊く肇のケータイを取り上げて、「材料買いすぎたんで一緒に鍋食べましょう、来てくださいね、絶対ですよ」 とゴーインに勧誘(笑)、電話ブチッ。
 「なに勝手に切ってんだよ」
 「こういうときはね、会って話を聞いてあげたほうがいいって」
 「そりゃそうだけどさ」
 「とゆことで肇ちゃん、買い出しヨロシク」
 「はあっ?」
 加藤ローサチャンの軽ーいノリも見事ですが、ポンポンセリフを交差させることで笑いを誘発する佐藤健クンの芝居も見事。 この人は、コメディでもなんでも出来ますなあ。

 鍋に鼻水入りそうになりながら(笑)、祐の話を聞いてボロボロ泣いてしまうローサチャンなのでありますが、「もう兄ちゃんにはなにもやることがねえ」 という肇(相変わらず、冷静サイドの視聴者の代弁者であります)に反発して、「たく分かってないね~。 誰かが、一緒に苦しんでくれるだけで、それで救われることだって、あるんだよ」 と祐に助け船を出す。

 実はこのローサチャンの言葉が、今回の話を貫くキーワードになっている気がするのです。

 祐はガラス作りの仕事も辞めて、いきなり東京へ行く決心をするのですが、実に思い切ったことをするもんだと感じます。
 けれども、記憶を失ってしまった時の萌奈美が、記憶をなくす前のことを思い出すたびに苦しんでいたことを祐は知っている。
 「何か、オレにできることは、まだあると思うんだ」
 孤立無援のなかで彼女の心が折れそうになっているのならば、オレが彼女を、陰であっても支えてあげたい、という感情、でしょうか。
 その気持ちは今回ラストで、萌奈美に伝わることになる。

 萌奈美は今回、手術を受けて記憶を失うか、手術しないで死を選ぶのか、その二者択一にひとり、悩み続けます。
 ドラマを見ながら簡単に考えると、そりゃ手術をして命があったほうがいいじゃん、たとえ記憶をなくしても、と思うのですが。

 しかしよくよく考えてみると、自分が今まで生きてきた記憶を失ってしまう、というのは、まるで自分自身の人生そのものを否定してしまう所業のような気がしてくる。

 私は時々、認知症などで過去のことを忘れていってしまう人のことを考えるのですが、自分が大切にしている思い出をなくすことって、自分に置き換えてみると、なんか耐えられないものがあるのです。
 そりゃ忘れてしまいたい思い出のほうが多いですけどね、人生なんて。
 でも自分の大切な人や大切な場所の思い出が消えてしまうというのは、なんかすごく嫌。
 嫌な思い出さえも乗り越えてきたのが、自分の人生ですから、記憶が消えてしまう、ということは、自分が自分の人生をなくしてしまうことと同義のような気がするのです。

 ドラマでは萌奈美の過去の記憶をトータルにフラッシュバックする術をもちませんから、そこで萌奈美がなぜ手術についてこんなに逡巡するのか、という説得力が弱くなってしまうきらいがあるように感じます。

 で、このドラマでは、萌奈美が記憶を忘れたくない、という気持ちを高めていく最大の原因を、祐とのことを忘れたくない、ということに求めているのです。

 萌奈美は自分の命が助かることよりも、自分の記憶、つまり自分の人生を保存することを、選んだのです。

 自分の納得する生きかたを選んだ萌奈美に、賛否両論はあるでしょう。
 萌奈美の人生は、萌奈美だけのものじゃない。
 娘もいるしあんなだけど(笑)ダンナもいる。
 それは突き詰めて考えれば、自分勝手なんだよ、ということですよね。

 だけども萌奈美の背中を押しているのは、今まで抑圧され続けてきた、醜く歪んだ仮面の生活なのです。

 この我慢がピークに達してしまったのが、山形での会食。

 猫なで声で山形行きを強引に勧めた揚句、萌奈美と祐がばったり会ってしまったところに、いきなり現れるんですよ、このダンナ(笑)。 「バア~~っ!」、という感じですよね。
 萌奈美は祐への思いを振り切ろうと逃げているのに、前触れなく萌奈美の目の前に突然現れたもんだから、「なんなんだアンタはっ?」 と思わずテレビに向かって言ってしまいました(笑)。 笑えます。
 「…なんで…?」
 顔から血の気の引いていく萌奈美。
 そりゃ血の気も引きます(笑)。

 で、とてーもとてーもさりげなーく憎々しげに、航一は祐にお礼をしたい、と高級レストランでの食事に誘うのです。

 そこでの席でも実に慇懃無礼に、祐を追いつめにかかる。
 この、祐に対する憎しみを浮沈させがら会話を進めていく高嶋サン、実に難しい演技だと、見ていて感じました。
 「ご苦労されているんですねぇぇ…」
 「しかし、経・営・者、というのも、なかなか大変でしてねぇぇ…」
 「たまにはあなたのようなかたとお話するのも、勉強になりますよぉー。 住んでる世界が、まっっっっったく違うと言いますかねぇぇ…」
 「もう二度とお会いできないのが、残念だ…」

 そんなネチネチ攻撃を仕掛ける航一の横で、萌奈美は頭痛がひどくなっていく。 ちらちらと、萌奈美の状態が気になっていく祐。
 「やめてくだ…」
 立ち上がって航一を諭そうとした瞬間、萌奈美はその場に倒れてしまいます。
 航一より先に萌奈美のそばに寄り添った祐を航一は突き飛ばし、仮面を脱ぎ棄て、祐に牙をむくのです。
 「帰れ…。 もう礼は済んだ…。 きみに用はない。 きみなんかにできることは何もない。 …帰れ ! ! !」
 その二面性を目の当たりにした祐、驚いた、というよりも、やっぱりな、という顔をしています。
 そして、自分にも何かできるんじゃないか、という思いを、ここで完全否定されている。

 萌奈美が入った病院は、山形で以前世話になった病院。
 そこで航一は、萌奈美の病状について初めて知らされるのです(知ってたと思ったんですがねぇぇ…。 単なるフリだったんですかねぇぇ…。 …イカン、航一の話しかたがうつった)。
 病院の窓から祐が心配そうに病室を眺めるのを発見した航一はそこへと急行、一万円札を紙屑のようにして投げつけながら(蛇足ですが、お札をこのようにしては、確か法律に触れる気がするんですが…)、祐をドツキまくります。
 「消えろ。 二度と現れるな。 目障りだ」
 祐はくしゃくしゃになって投げ捨てられた紙幣を拾い集めて、航一に突き返す。
 けれども航一は、意識の戻った萌奈美に、あの男はカネを受け取った、と話すのです。
 祐の電話番号の入った萌奈美のケータイを 「病院の中だから」 とニコニコ没収して、病室を出ていく航一。

 その瞬間、萌奈美のなかで、何かがブチ切れた。

 ブチ切れた音がしました(錯覚)。

 祐の電話番号を調べようと104に電話するのですが、祐は家の電話を置いてない模様。
 萌奈美は祐のケータイの番号を必死で思い出そうとするのですが、う~ん、自分にも無理ですよね、ケータイの番号を覚える、とか。 メモリに入れちゃったら、それきりですもんね。

 いっぽう祐は、弟にヘルプコール(ちょっと話は前後しますが)。
 「自分が、どうしようもなく無力に感じるとき、どうしたらいい?」

 「そうだなあ…。
 オレなんか研修医だし、毎日無力感の嵐だけど、んーそんなときは、ありがとうって言ってくれた患者さんの笑顔とか、無理矢理でも思い出すかな。
 そんで自分に言い聞かす。
 こんなオレでも、いないよりはマシだ、って。
 ちったぁ誰かの力になっているはずだ、って」

 兄貴が弱音を吐くのを初めて聞いた、という弟。
 ローサチャンもいみじくも申しておりましたが、なんだかんだ言ってお互いのことをとても大事に思っている、よく出来た兄弟じゃないですか。

 弟のアドバイスを受けた祐は、翼の折れてしまったガラスの鳥のオブジェを作りなおしたものを、ナースステーションに置いていく。
 それを見かけた萌奈美は、それがついさっきここに置かれた、と聞き、病院の中を祐を探して駆け回る。
 病院入り口から立ち去ろうとする祐を見かけた萌奈美は、祐を呼び止めます。

 「祐さん!」

 駆け寄る祐。

 「これ、見つけて…」

 鳥のオブジェを病室には置かせてもらえないから、無理を言ってナースステーションに置かせてもらった、という祐。
 萌奈美は、祐の胸に、顔を埋めてしまうのです。

 「夫が…。
 本当に、すみませんでした…」

 萌奈美の背中に片手を乗せ、抱きよせてしまう祐。

 「大丈夫ですよ、大丈夫です…」

 ここ数日の心の迷いを打ち明ける萌奈美。

 「私祐さんに、大丈夫ですって言いましたよね。
 …
 でもホントは、…そんなに強くない…。

 …怖いんです。

 自分がこの世から消えてしまうことも、
 すべてを忘れてしまうことも、
 叫びたいくらい…!
 怖くて、怖くて、たまらない…。

 私ひとりじゃ、もうどうしたらいいか…」

 オブジェを握りしめる萌奈美。
 祐は、その手を握りしめます。

 「たったひとつ…。

 この世にたったひとつ、大切にしたいものがあるとしたら、その大切なもののために生きたいって、…オレは思います」

 祐は、自分が東京に来ることを告白します。

 「きっと萌奈美さんは、これからもいろんなとこで頑張っちゃうんだろうけど、

 …泣きたいときは、

 オレが引き受けますから…。

 あなたが、どんな道を選んだとしても…」

 「誰かが一緒に苦しんでくれるだけで、それで救われることだってあるんだよ」 というローサチャンの冒頭のセリフが、ここに結実している気がする。
 萌奈美の顔に、決心の色が窺えます。

 「…ありがとう…」

 まるで鳥が自分の巣に戻ってきた安らぎを感じたかのように、泣きながら笑顔を見せる、萌奈美。

 先に書いたように、萌奈美の下した結論は、自分の人生を納得するための方法であって、自分勝手の謗りも免れないものです。
 けれどももし自分が二者択一を迫られたら、やはり自分も、記憶が残るほうを選ぶのかな、なんて漠然と考えたりします。
 それは多分、記憶を失って自分が橋本某かという人間でなくなることが、残された自分の家族にとっても必ずしもそれは幸せなことではない、そんな気がするためです。
 う~ん、難しいですけどね。

 いったい人にとって、自らの記憶って、どういう意味があるんでしょうね?

「冬のサクラ」 に関する当ブログほかの記事

第1回 …大丈夫…
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/1-1d6a.html
第2回 「逢いに行こう」、「なんのために?」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2-96f6.html
第3回 折れた翼で飛び続けることhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/3-cff9.html

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2011年2月 6日 (日)

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 第1回 圧倒的な徹底ぶり

 NHKBSハイビジョンが来たる3月をもって終了する(BS2と統合という形での解消)ため、その最終的な目玉となりそうな海外ドラマ、「大聖堂」 が始まりました。 ドイツ・カナダ・イギリスの3カ国製作、製作総指揮には 「エイリアン」「ブレードランナー」 などの巨匠、リドリー・スコットほか。 原作はケン・フォレット、不勉強でしたが世界的な大ベストセラーらしいです。

 この制作陣を見てもかなり力が入ってる、と感じさせるのですが、じっさいドラマ第1回目を見てさらに圧倒させられるのは、12世紀のイギリス中世の様子が、これ以上ないほど再現されていること。

 ビートルズの熱心なマニアであるわりにイギリスの歴史にはとんと疎い私ですが、ドラマ好きの観点から見ても、「いちいち金かかっとんな~」、という感じです。 細かい部分に至るまで、手を抜いている感じが全くしない。 よく中世の話は映画にもなってますけど、映画以上にこだわっている印象が、とてもするのです。
 ドラマ開始早々、まるで自分が中世の世界に迷い込んでしまった錯覚さえ覚える。

 その錯覚にさらに大きく関与しているのが、ドラマのなかに大きく流れる、当時の教会の持つ巨大な影響力。

 権力は腐敗する、の言葉通り、教会は当時の権力に深く関与し、陰謀の巣窟となり下がっている。
 しかしいっぽうで、人々の行動規範に 「神のご照覧」 という部分で道徳的制御をもたらす良い面もある。
 登場人物が入り乱れ、私が日本人だからかにわかに判別がつきにくいイングランド系の人々の顔に、誰が誰やらなにがなにやら、みたいな感じでどんどん進行していくドラマのなかで、中世のキリスト教の巨大な影響だけは如実に感じることが出来るのです。

 なにがなにやら、という物語のなかで私が唯一知っている俳優さんは、ドナルド・サザーランド。
 今じゃ 「24」 のジャック・バウアー、キーファー・サザーランドのオトーサン、という認識のほうが先なんでしょうけど、私にとっては 「SFボディ・スナッチャー」 とか、B級(以下?)のSF映画の常連さん(笑)。
 あとの俳優さんは、全く知らない人ばかり(だと思うのですが…)。
 ヒロインのひとりであろうと思われる黒髪のアリエナ(ヘイリー・アトウェル)が、その昔のジェラルディン・チャップリン(「ドクトル・ジバゴ」 のころかな~)もしくはマリエル・ヘミングウェイを彷彿とさせる感じで、美人とは言い難いですけど、印象に残る顔立ちをしています。
 女性受けしそうな青年役では、森で暮らしていたエレンの息子ジャック役のエディ・レッドメイン。 ほぼしゃべりませんが、結構イケメンです。

 この青年も含めて、数人の男性が、そのあまり美人とは言い難いアリエナに恋していく。 まあいいんですけど(笑)。

 NHKが作るドラマのHPもかなり不親切で、人物相関図くらいは載せてほしいくらい、複雑な人物の交差が繰り広げられていくのですが、まず話のとっかかりとなるのが、1120年に国王ヘンリー1世の息子を乗せた船が難破して、世継ぎがいなくなってしまう、という出来事。
 そこには教会が絡んだ権力操作の疑いが濃厚に存在している。
 けれどもその事実は、教会によってもみ消されていくのです。

 そしてその18年後。

 そのカギを握っていると思われる、難破した船に同乗していたフランス人の男性との子供、ジャックを連れたエレンは、森で暮らしているのです。
 そこを通りかかったのが、石工の建築職人であるトムとその一家。
 物とりに家畜の豚を盗まれ(ここが12世紀らしい)娘がそのときに重傷を負ってしまうのですが、それをエレンたちは助けます。

 まずこの、エレンたちが登場する様子が、黒装束に身をまとって、いかにも 「魔女然」 としている。
 トムの息子はエレンを魔女だと信じ込んで嫌悪するのですが、そんな様子を描写することで、また当時の教会の影響力を感じることができる。 自分たちと違うものたちを排除しようとする、その昔の因習性のあまりの高さも、そこから感じ取ることができるわけです。

 そしてエレンの親切を拒絶したトム一家たちは、ほどなく母親が出産後に死んでしまう、という悲劇に見舞われます。
 その出産シーンと同時に、ヘンリー1世の娘であるモードが、新たな世継ぎを生むシーンが描写されます。
 ふたりとも、男の子。
 こうした話の作りかたは、結構ドラマでよく見る常套でもあるのですが、話の複雑さ重厚さに圧倒されているせいか気にならない(笑)。
 ヘンリー1世は、その祝賀の席で急死してしまいます。 ここにも何かしら、陰謀の匂いが…。

 いっぽうで祝福される命がありながら、産まれたばかりのトムの息子は、自分も求職中、母親がいなければお乳があげられない、という理由で、母親の墓の前に置き去りにされるのです。

 これも、中世当時の事情を強く見る側に思い知らされる話であります。
 出産時に亡くなる母親と、乳幼児の死亡。
 それは現代とは違って、あまりの頻度で起こっていた日常茶飯事に過ぎないのです。
 トムはいったん捨てたわが子を、思い直してまた取り戻しに行くのですが、妻の墓の上にはすでにその子の姿はなく…。

 トムはドナルド・サザーランド扮するモード側のバーソロミュー伯爵に雇われるのですが、モード側の不穏な動きを知らされたウィリアムたちによる襲撃に遭い、バーソロミューは降伏。 あ~ここらへん、説明するのも大変だー。 原作のあらすじをウィキで読みながらこの記事も書き進めているのですが、どうもだいぶ話がはしょられまくっている感じです。

 この話の経過のなかで、トムは純粋な信仰の発露としての殿堂である、大聖堂を作りたい、という意志を明確にしていくわけですが、これでこのドラマの方向性がはっきり見えました。

 いったい純粋な信仰、とは何なのか。
 権力と結託し腐敗していく、聖職者の罪とはいったい何なのか。
 純粋な信仰の発露である大聖堂を、トムは作ることが出来るのか。

 ここで重要になってくるのは、そんな教会のワルモノ・ウェイルランと、心ならずも裏取引をして院長になってしまった心清い修道士フィリップ。 彼の葛藤が、この先ドラマのテーマに深くかかわってくるだろうと思われます。

 あ~ワケ分からん、と思いながらも(笑)、ある程度のディティールを把握しとけばいいだろう、と思いながら見た、この 「大聖堂」 第1回目。
 全8回という長さ自体にも、ちょっと無理なものを感じたのですが、とにかく駆け足。
 それでもこのドラマには、有無を言わさず語り続けるパワーを感じます。
 今後、大いに注目であります。
 (敬称略)

 補足

 書き忘れましたが、ドラマのタイトルバックが、油絵と思われる絵のアニメーション状態。
 ラフな絵ではあるのですが、もうこの最初の時点からして、「カネかかりすぎ」、というのがひと目で分かる。 オッソロシイドラマ、であります。

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 に関する当ブログほかの記事

第1回 圧倒的な徹底ぶり
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-237d.html
第2回 骨のあるドラマとはこういうものかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/2-4477.html
第3回 利用される神々http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/3-537a.html
第4回 むせかえる死臭のなかでhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/4-34e0.html
第5回 永遠の一部たるべきものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/5-a7e7.html
第6回 神の意志はあるかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/6-69bf.html
第7回 信仰の本質とは、どこにあるのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/7-1f00.html
第8回(最終回)前編 神とどう向き合うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-46ec.html
第8回(最終回)後編 神になるのか、神を敬うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-1065.html

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2011年2月 4日 (金)

「江~姫たちの戦国~」 第4回 自らを由とする生き方

 舞台は天正9年、相変わらず9歳くらいの上野樹里チャンを、脳内補正をかけながら見進めなければならない 「姫たちの戦国」 であります(ついでにりりしい青年の北大路欣也サンも…笑)。

 で、その脳内補正ですが、実際に上野樹里チャンと信長役の豊川悦司サンが立って演技する場面を見ていてふと思ったのですが。

 ヤケに樹里チャン、小さく見えるなあ、と。

 ウィキで調べましたら、豊川悦司サンは186㎝。 かなりの大柄で、樹里チャンとは20㎝近い差が実際にもあるのですが、画面ではそれ以上に差があるように見える。 つまり樹里チャンが、9歳くらいの背丈に見えるのです。
 これはカメラの位置による見せかた、という気もしますが、ひょっとしてCG補正でもしとるんじゃないか?と見紛うほどのような気もする。 まあそんな手の込んだことは作り手もしないだろうとは思いますけど(笑)。

 この、両者立ちっぱなしという所作に対する疑問も上がるこのドラマ、「みんなの感想」 ではもはや坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という域に達している感がいたします。

 ただ私は、そんなにこのドラマがひどいとは思いません(また世論に楯突いとるなぁ…笑)。

 冒頭に書いたとおり、このドラマの序盤を見るにあたって見る側が心しなければならないのは、樹里チャンが7歳から10歳くらいの役をやっている、ということであります。
 ここに子役を立てなかったというのは大失敗、としつこいくらいに私もこのブログでは書いておるのですが、「この子はまだ幼女である」 という思い込みを、視聴するうえで強いられるのは正直メンド臭い(笑)。
 だいたい今回も、10歳くらいの小娘がのたまうのにはかなり無理がある難解なことを、江は信長に対してズケズケ進言している(それはのちほど)。
 見ている側の混乱は、このことでまたかなり募ります。
 ますます子役を立てるべきだった、という感が、個人的には強くなっています。

 つまり、小難しいことを言っても、子役であれば、まあ理屈を言いたくなる年なんだよな、と納得がいく。
 けれども樹里チャンは外見上いい年をした大人ですから、10歳くらいの小娘がこんな難しいことを考えるか?と見る側は思ってしまうのです(10歳くらい、という認識がなければ、逆に分別もなく何をズケズケもの申しているのか、と思えてしまう)。

 でも、いずれにせよ私は 「子役じゃないけど、10歳くらいって理屈を言いたくなる年なんだよな」、という解釈で今回の話を納得しようとしています。

 そのうえで、「江」 というドラマは、よく出来た話である、と評価をしたいのです。
 その要因のひとつが、「匂い」 による演出。

 今回冒頭、市(鈴木保奈美サン)と浅井三姉妹は、香を聞いています。

 そこで茶々(宮沢りえサン)は自分の父親浅井長政(時任三郎サン)の好んだ香の匂いを聞き分け、初(水川あさみサン)もそれに同調する。
 父親の記憶自体がない江は、どうもその匂いにピンとこない。

 結局江は(そのシーンとは別のシーンで)信長が好んだ東大寺という香を自らの匂いだと認識するに至るのですが、「匂いが人に与える作用」、というものに着目したかつてないアングルによる解釈を、個人的には見た気がするのです。

 茶々は自分の父親の匂いをかすかに覚えている。
 初は年下なので、その記憶があいまいで、後出しジャンケンのように、その匂いが好きと同調する。
 江はそれに対して、信長の好んだ香りに惹かれていく。

 匂いというものは、人の記憶に密接にかかわり合うかなり重要なアイテムであります。

 誠に個人的な話をしてしまいますが。

 私も数年前に、子供のころ田舎に里帰りしたときに嗅いだ、冷蔵庫の匂いに似た匂いを、あるきっかけで嗅いだ事があったのですが、今はもうない故郷のことを強烈に思いだして、猛烈な慟哭の衝動に駆られたのを覚えています。

 おそらく江にとって、東大寺の香りは、この先信長を思い出す強烈なアイテムになっていくに違いない。
 そう考えると、このドラマがなにを表現したがっているのか、とても理解できるような気になってくるのです(錯覚?…笑)。

 私が思うに、このドラマは史実を追うことに主眼がありません。
 人々が戦の世の中で、何をよすがにして生きていたのか、何が見えなかったのか、に主眼がある気がする(今んところ)。

 今回その東大寺、という香は、正倉院に伝わるムチャクチャ貴重な古代の香木を削った、誠に恐れ多いシロモノだった、というオチだったのですが、そこで江が、幼いながらも信長と通じる天下を統べる気概の持ち主だ、ということが表現される。
 そしてその信長と江との共通性を、「匂い」、という、当時の記録媒体が紙しかないなかでの、個人の 「記憶装置」 に委ねていく。
 そんなところにこのドラマの特長がある気がします。

 けれどもこれが大人の樹里チャンだから、その作り手の表現の仕方に鼻につくものが感じられてしまう。
 しつこくてナンですが、子役でやるべきだぁ~。

 そして今回の話でもうひとつ重要だと思えたエピソード。
 馬揃えの話です。

 この行事を信長は、自らの権勢を内外に誇示する道具として活用するのですが、それは現代の感覚から見ると、まるで仮装行列。
 明智光秀(市村正親サン)はかなりの仏頂面で、この行列に加わっている。
 江たちの後見人である織田信包(小林隆サン)はあまり考えなしでニコニコしながらそれに加わっている。
 のちに江たちの父親となる柴田勝家(大地康雄サン)は、「武士(もののふ)がこんなことをしてハズカシイ」 という顔で、行列に加わっている。
 そしてそれを眺める市と浅井三姉妹。
 初は森三兄弟をまるでアイドルみたいな感覚でキャーキャー言いまくる。
 信長は芝居がかったクサさ全開で、「この世の春じゃ!皆々の春じゃ!」 とブチ上げる。

 目の肥えた現代人からすれば、こんなものはただのパフォーマンスで下らんまやかしだとすぐに分かるために、またそれが 「下らんドラマ」 という評価に容易に直結してしまう話である気がします。

 しかし作り手が見据えているのは、もっと先だと私は感じる。

 信長はこの回、自分が神である、という態度を明確にしていきます。

 けれどもこのドラマでの信長は、そのこと自体に自分の真意を置いていない。

 神だと言い出した自分に対して、それをあがめるのも自由、無視するのも自由、という立場なように見える。

 自由、という言葉は確か福沢諭吉が作ったとか(違うかな~、これも大河?の誤った知識かもしれません)、この時代にはありませんでした。
 けれどもこのドラマにおける信長のスタンスは、まさに 「自らを由(よし)とする」 自由の立場を強調しているように、私には思えます。

 信長は自らの権勢を誇ることによって、世の中を平定しようとしている。

 「江」 というドラマでも結局、「戦のない世の中を作るため」、などという、ありきたりな表現までしか、その理由はやはり到達できていません。 その浅さは私も感じます。

 けれどもその先には、自らの思うがままに人生を謳歌せよ、という信長の、万人に対する意向が読み取れる。 仮装行列を見てスイーツ並みに狂喜するのも自由、人々の心を却って蹂躙するかのごとき神や仏の教えから解き放たれるのも自由。
 それをトヨエツサンは、端的に江に対してだけ、自らの真意を語っていくのです。

 「神仏の教えとは所詮人間が作りし物。 どれもこれも妄想、迷信、絵空事にすぎぬからじゃ…真なる神があるとすれば、それは…この、織田信長をおいて他にはない」

 先ほど書いたように、この回での江は、自らを神と名乗り始めた信長に対して、私の知ってる信長さまとは違う、という観点から、反駁を強めていく。
 そしてそれを信長にズケズケ直言するのですが。

 「神も仏も信じぬと言われた伯父上が、今度はご自分が神だと言われる…そんなの、おかしいと思います!
 …人は、己の望むままに、神になどなれません。
 どんなに伯父上がお偉くても、それだけは無理にございます!
 恐れ多いというお心が、伯父上には、ないのですか?
 己を信じるということと、己が神になることは、違うと思います!」

 ここで江が10歳程度でこんな小難しいことを言うかどうか、やはりそれは見る側の判断に任されている気がします。
 そしてそれを誤解させやすい要因が、10歳程度の江に子役を立てない、ということである、スンゴイしつこいですけど(笑)、私はそう考えるのです。

 この江の歯に衣着せぬ直言は、ほかならぬ伯父上の教えによるものである、と江は話します。
 それに対して信長は、こう答える。

 「…そうであったな。
 その言葉に偽りはない。
 己を信じて、思うがままを話し、思うまま生きればよい。
 
 己の信じる道を行け、江!

 思うているより時は早い。
 人生は短いぞ」

 あ、ここだったか、このセリフ(笑)。 第2回目のレビューの題名で、早くも使ってしまっていた(笑)。 「江!」 って、GO!英語かよ!みたいな(笑)。
 いずれにせよ、自らを由とする生き方を、自分の人生を最大限に駆使しながら駆け抜けていった信長の人物像が、ここから浮き彫りにされる気がするのです。

 その後、市は自らと娘3人の処遇を話し合うために、信長に呼ばれます。 茶々と天皇家との政略結婚を進めようとする信長に、市は反発する。 戦をやめるために戦ってきたと、そうのたまう信長。

 「世の中が大きく変わるときには、多くの血が流されるものじゃ」

 そんな信長に、市はこう反論します。

 「それは都合のよい理屈にございます」

 それに信長は、こう答える。

 「そのようなことはどうでもよい。 誰かがやらねばならなかった。 そしてわしは、それをやっただけのことだ。

 …

 ただ、憎まれ恐れられる者は、ひとりでよい。
 しかる後、太平の世が来れば、それでよい」

 「…太平の世…。
 …それが、世の春、皆々の春でございますか…!」

 それに得心のいってしまう市、なのですが、ここで 「太平の世」 に刮目してしまう市に注目してしまうと、ドラマが薄っぺらくなってしまう気がします。
 平和のための戦争かよ、やれやれ、みたいな(笑)。

 ここで信長は、補足説明として、権勢の衰えた帝への畏怖を復活させるために、茶々を嫁がせるのだ、という理屈を述べるのですが、個人的にはこっちの理由のほうをメインにとらえたいですね(笑)。 単なる思い込みたがりですけど。 だって誤解を恐れず言えば 「戦のない世を作るため」、なんて安っぽ過ぎるじゃないですか(意見には個人差があります)。
 最高権力の天皇の復権を視野に入れた政略結婚だからこそ、市は信長の真意をようやく理解し、このときの会話で初めて兄と通じたような気になった、そう思うのです。

 けれども同時に、市はその信長の申し入れを、いったん保留する。

 「私は兄上様の道具でも、人形でもございません。
 ただ、
 …己自身でしかと定めたのち、お側に戻りたいと思います」

 政略結婚は、この時代の、いわば常識であります。
 けれども女性たちは、常識だからとハイハイそれに従っていたわけではない。
 その時代なりの、「女」 としての誇りを保ちながら、それに従っていた、そんな作り手の思いが、このシーンからうかがわれる気がしました(ベタかもしれませんが)。

 そしてそんな信長の思いは、江に繊細に伝わっていく。

 市と一緒に呼び出されていたのに、信長に反発して行かなかった江なのですが、その思いが母親を通じて微妙に伝わっていた江は、そのことを後悔する。
 いったん突き返した東大寺の香は、要らぬなら捨ててもよい、という信長の意向で江に戻ってきたのですが、これから本能寺で非業の死を遂げてしまう信長との繋がりを示す、USBみたいな感覚なんですよ、その香は。 ここらへんはうまいなあ、と感じます。

 ただ見ていて気になるのは、このドラマ、結構セリフに頼り過ぎているきらいがある。
 無言の仕草にもっと多くのものを感じたい、そんな要望もないことはないです。

 いずれにしてもよくできた話だとは感じます。 見方を誤らなければ(笑)。 樹里チャンをおぼこ娘だと思って見よ!とか、北大路欣也サンは青年だ!とかヘンな制約が多すぎるんですよ、このドラマ(爆)。

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2011年2月 3日 (木)

「大竹しのぶのオールナイトニッポンGOLD」 懐かしい深夜放送の匂いがする

 ニッポン放送をキー局に全国ネットを展開している平日月金午後10時からの 「オールナイトニッポンGOLD」。
 去年まで毎週木曜日を担当していた所ジョージサンが降板し、果たしてだれがあとにくるのだろう?と思っていたら、新年早々一発目が泉谷しげるサン。 ゲッ、この人でやるというのは、編集とかとても大変なんじゃなかろうか?と心配していたら、それは一回限りのことで、次の週から大竹しのぶサンが新レギュラーとして登場したのでした。

 これには泉谷しげるサンよりもびっくり。
 この人、話題がもつのかなあ?という感じだったのですが。

 2回目以降はリスナーからのメールなどを大量に紹介している感じで、とりあえずその杞憂はなくなりました。
 ただ私の想像していた以上に、この人はしゃべりたがり。
 もっといろんなことをしゃべりたくてたまらない、というふうなのです。
 これはちょっと、意外でした。

 大竹しのぶサンのしゃべりは、かなりはにかみながらも、天然のボケも入りながらなので、くすくす笑ってしまうようなところがあります。 癒される、という表現は最近使われすぎなのであまり使いたくないのですが、カテゴリー的にはまさにその感覚です。

 番組の進行的には、先に書いたように大量のリスナーからのメールを当てにしている感じで、所々にしのぶサンの選んだ曲がかかります。 洋楽が多いのですが、レディ・ガガとかリンキン・パークとか、最近の洋楽もおしなべて聴いている感じですね、大竹サンは。 ときには、その洋楽の訳詞を朗読したりする。 曲に対する理解度が深まって、これはいい企画ですね。

 この 「歌詞の朗読」、というものは、この番組の大きな特長であります。 さすがに女優さんだけあって、彼女の朗読には聴き入ってしまう。
 特に私が感銘を受けたのは、さだまさしサンの 「防人の歌」 の朗読。
 これはさだサンが昔やっていた長崎のチャリティコンサートでも大竹しのぶサンがゲスト出演して朗読したものだったらしいのですが、発売当時は右寄りだとか左寄りだとか、ヘンな部分で物議を醸しだしすぎて、ちゃんと聴かれることがなかったように個人的には思っていた曲であります。
 大竹サンの朗読によってこの歌は、曲に透徹している万物の事象に対する深い洞察と、真摯な姿勢が、よりストレートに感じられるようになっていました。 白眉。

 この番組をトータルで聴いていて感じるのは、そんなあまりにもオーソドックスすぎる手作り感覚が、まるで昔の深夜のラジオ番組を聞いているように錯覚させてしまうところです。

 これには彼女のはにかんだようなしゃべりかたも一枚かんでいる(同じニッポン放送で日曜夜の番組をやっている長澤まさみチャンとしゃべりかたが似ている、などという指摘もリスナーから受けていましたが、確かにそんな気もします)。
 リスナー(少なくとも私)は彼女のピロートークのようなまったりとしたしゃべりかたに、まるで隠れ家に帰ってきたような感覚を受けるのです。 内緒話を聞いているような感覚もある。 仲間うち感覚、なのです。
 そこに、昔よくやっていたラジオ番組のような懐かしさが、さらに 「癒し」 に後追いをかける。 「オールナイトニッポン」 の2部(午前3時から5時まで)のノリなんですよ。

 個人的にはハマっております。 大竹しのぶサンのまったりがイライラする、というかたでなければ(笑)お勧めしたいと存じます。

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2011年2月 2日 (水)

「美しい隣人」 第4回 「あたりまえ」 の崩壊

 自分の人生に対して、人はこれでいいと思いながら生きています。
 そのいっぽうで、他人からの反応を見ながら、「もしかして、自分はこれでいいと思っているけれど、本当にいいんだろうか?」 と不安になるときがあります。
 自分の場合はそれに、「オレはこのままじゃいけない」 という気持ちがあるために、容易にその不安が膨張したりする。
 「美しい隣人」 第4回で沙希(仲間由紀恵サン)は、絵里子(檀れいサン)のそんなアイデンティティを崩壊させようと、初めて直接けしかけてくるのです。

 「もしかして絵里子さん、嫌いなんじゃない?」

 「え?」

 「真由美さん(三浦理恵子サン)のこともお母様(草笛光子サン)のことも、…本当は、嫌いなんじゃない?」

 檀れいサンの場合、私以上に完璧なので、初めはまともに、それにとりあおうともしません。 却ってそんなことを言い出す仲間サンに、ちょっと警戒モードになる。

 これはきわめて正常な反応であります。

 今回仲間サンは檀れいサンとの会話のなかで、義母に対するネガティヴ発言を引き出そうとするのですが、檀れいサンの反応は至ってまとも。 「入院中ってこともあるけど、気難しいとこもあるかなぁ。 …でもそれって当然よね、診断なかなかつかなかったし、不安だったと思うの」。
 他人と付き合っていくのに、多少の軋轢は覚悟の上です。 檀れいサンはそれをあたりまえと思っているし、ほとんどの人は他人に対して、一方的にいい部分ばかりを見ていない。 悪い部分の批評眼というものも、必ず持ち合わせています。
 それが人付き合いをしていくうえで、とても 「あたりまえ」 のことなのです。

 「ショック?」

 「そりゃそうよ」

 「ホントのことだから?」

 「ちょっと待って」

 「今まで自覚してなかっただけ。
 深層心理、ってやつ。
 …
 罪悪感、感じる?」

 「罪悪感っていうか、…嫌ってるはずがない」

 そんな檀れいサンに、仲間サンは義理の母とかご近所のママ友だからとかいうことがなければ、付き合いたくない人たちなんじゃないか、とたたみかけるのです。

 確かに付き合っていかねばならない人たち、に囲まれながら、誰もが生きています。
 けれどもそこから生まれるネガティヴなものを含めた感情が、人としての生業なんじゃないでしょうか。
 沙希はそのことをこっちに置きながら話をしている。
 そして自分は絵里子のことが本当に好きだという、ありもしない仮面をかぶりながら、話をしている。

 「こうなったら、自覚したほうがいいと思う」

 「自覚って、そういうふうに思ったら付き合えないじゃない」

 「いいえ、付き合うの。
 大人でしょ?」

 「…演技する、ってこと?」

 「そうとも言う」

 沙希も演技しながら付き合うだろうというのですが、自分はそんな義理で付き合う人がいない、と告白します。 絵里子は沙希のめくるめく話に、頭が混乱してくる。

 「嫌いな人がいるって、認める?」

 「認めたくないけど…

 …

 そんな気もしてきた」

 健常な精神状態ならば、檀れいサンは一笑に付すこともできるのでしょうが、三浦恵理子サンや草笛サンとの(仲間サンによって仕掛けられた)軋轢に少しばかり参っているため、仲間サンの誘導尋問の世界に引きずり込まれているのです。

 「それに私、全然自由じゃないってことも」

 「自由が幸せとは限らないじゃない」

 「え?」

 「みんな分かってないのに、束縛が嫌だなんて。

 …

 束縛の多い生活って、幸せなのよ…。

 …

 羨ましい、…絵里子さんが」

 自由が多いからこそ、余計なことを考える。
 仲間サンが陥っているのは、溺れ死んだ息子のことだけを考えながら生きている生活です。
 離婚の申し出をしてきた高知東生サンとの会話のなかで、彼女はその生活が、「今まででいちばん幸せ」 と話をしていました。
 でも実は、彼女はそう思おうとしているだけなのではないでしょうか。
 自由であるからこそ、息子がいたときの束縛の多かった昔を思い出してばかりになってしまう。
 そしてそれを埋めるために、絵里子の息子駿クンに、すり替えられた幻を追い求めてしまう。
 今回スイミングで駿クンのいじめ役として登場したヒロクン、沙希はこの子に死んだ息子隼人と似ているものを感じていたようなのですが、沙希はこの子を脅迫してスイミングをやめさせ、駿クンを手なずけていくのです。
 ニセモノの愛情によって、自分が今、いちばん幸せである、と錯覚したがっているように思えます。

 このドラマが単なるサスペンスホラーになっていかないのは、仲間サン演じる沙希の復讐劇のなかに、彼女自身の葛藤がきちんと描かれているせいなのではないでしょうか。
 もちろんその全貌はなかなか正体を現しません。
 それは一面では、退屈に思えるときもある。 展開のスピードが、もどかしくなる時もあります。
 けれどもこんな、悲しい演技をし続ける仲間サンの行く末がどうなっていくのか、私個人の興味は膨らんでいるのです。

「美しい隣人」 に関する当ブログほかの記事

第1回 勝手な先読み、という恐怖増幅の方法
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/1-f59a.html
第2回 鏡の中と現実の浮遊感http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2-50e1.html
第3回 隔離された 「傷つく構造」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/3-31ec.html

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2011年2月 1日 (火)

「谷村新司 まぁるい日曜日」 ジェットコースター、その話題は…

 ちょっとこんな話を告げ口みたいにするのは気が引けるのですが。

 先月1月30日深夜のニッポン放送、「谷村新司のまぁるい日曜日」。
 ジェットコースターが怖いのに女の前でカッコつけて乗ってみせたとかいう投書が来ておりまして。
 その日の午後、東京ドームシティのアトラクションで男性が振り落とされて死亡、というニュースがあったばかりだったので、「この話題、いいのかな…」 と思いながら耳をそばだててしまいました。
 案の定、谷村サンの話は恐れていた方向に…。

 この放送は0時の時報をまたぎながら勝手に進行していく感じなので、事前に収録されたものであることは明白だったのですが、内容によってはカットするなり、放送局側の配慮が欲しかったところです。
 いずれにしても、ちょっとあまりにも間が悪いこの話題、谷村サンの話は 「こうした行動をとってしまう男って、バカな生き物ですよねー」 という話になっていき。

 谷村サンは若いころ、メキシコだったっけな、旅をしたことがあったらしいのですが、そこで現地の遊園地に現地の女性と一緒に行き、やはりカッコつけの習性が手伝って、ホントは大嫌いなのにジェットコースターに乗ってしまった、という話をしていきます。

 そしたらその遊園地のジェットコースター、年間何人か振り落とされる事故があるいわくつきのものだった、という方向に話が進んでいく。
 あ~こりゃますます間の悪い話だ、ニッポン放送はなぜここで曲を入れるとか差し替えをしないのか?と思っていたら。

 極めつけに谷村サン、「後楽園のジェットコースターなんかも乗れません」 とか話してしまった(内容はうろ覚えで不正確ですが)。
 後楽園、というのは紛れもなく現東京ドームシティ。

 これはまずいでしょ…。
 谷村サンは笑い話のつもりで話し続けるのですが、谷村サンに非はありません。
 日曜深夜の番組だから、内容に放送局のチェックは入らないのかな~。
 それにしてもあまりにも間が悪すぎる。
 どうしてあの事故が起こったまさにその晩に、こんな話題が放送されてしまったのでしょうか…。

 私が必要以上に神経過敏になっているのかもしれません。 ただちょっと、一リスナーとしては、考えてほしかったなー、というのは感じます。

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「徹子の部屋」 小沢昭一・加藤武・永六輔3氏のジジブリ

 「徹子の部屋」 が今年35周年、ということで、スペシャル的なことが行なわれているようです。
 35年前、と言いますと、1976年。 昭和51年であります。
 誠に個人的なことで恐縮ですが、この年私は小学6年。 生涯でいちばんよかった年だったです、今んところ(笑)。 やることなすこと不思議なほどうまく行って、人生の運をあそこで使い果たした気がしてなりません(笑)。

 それはともかく(笑)、その 「徹子の部屋」 特別バージョンとして、小沢昭一サン、加藤武サン、永六輔サンが揃ってご出演。
 小沢昭一サン・加藤武サンは共に81歳。 小沢サンのほうがちょっぴり誕生日が先らしい。
 そして永六輔サンは77歳。

 この中で私が最も注目したのは、テレビにめったに出ることのない永六輔サン。

 ラジオではTBSラジオの 「永六輔その新世界」 などにご出演されているので、いちばん声を聞く機会は多いのですが、最近夜勤生活になってから、その機会が激減しまして。
 で、ここ数年永サン、とても滑舌が悪くなってすっごく暗かったんですが、最近久しぶりに聞いたらやたら明るくなってて。 どうしてかなーと思ってたんですよ。

 そしたらこの番組でそれが判明(ご存知のかたからすれば誠に不勉強で申し訳ないのですが)。
 パーキンソン病だったらしいのです。
 「人の名前がついている病気というのは要するにわけが分からない病気」 みたいなことを番組でも話していらっしゃいましたが、原因が分かったことですっきりした部分が大きかったようです。 リハビリで病院の先生から 「上を向いて歩かなきゃいけません、歌にもあるでしょう」 って、それはオレが作った歌だ、なんて笑わせてましたけど。
 いずれにせよその症状なのか、今回のゲストのなかではいちばん年下なのにもかかわらず、失礼ながらいちばん老人みたいな仕草が顕著だった気がします。

 特徴的だったのが、口を大きく開けたり閉じたりする仕草。 ラジオじゃ分かりませんけど、外山恵理チャンやはぶ三太郎サンなんかも、如実に感じながら放送をされているんだろうなー、なんて考えながら拝見しました。
 ご本人もお辛いんだろうなーというのは感じました。 とても涙脆くなって。 番組内でも亡くなった奥様のお話の際とか、いきなり泣き出して。

 でもちょっと前までのあの暗さはまったくなくなって、とても前向き。
 人間ここまで変われるものなのか、と思うほどです。

 そんな永サン、最近乗ってらしたタクシーが追突される、という事故に遭遇してしまうのですが、そのタクシーを停めて永サンを乗せていたのが、小沢昭一サン。
 永サンはその際失神してしまうほどだったのですが、救急車に乗せられながらも、パーキンソン病特有の症状なのか、のどが渇いてしまう。 自動販売機前でもいいから停めてくれと救急隊員と押し問答をしたらしい(笑)。

 さてその永サンを車に乗せた小沢昭一サンなのですが、やはりTBSラジオの 「小沢昭一的こころ」 で耳慣れてはいましたが、お顔を拝見するのは久しぶり。

 ラジオではホントに変わらずトボケぶりを発揮し続けている小沢サンなのですが、こうして御三方が一緒にご出演される気恥しさも手伝ったのか、なんとなくテンションが低め。
 テンション低くして笑いを誘おうとする魂胆なのかもしれませんでしたが、私が個人的に感じたのは、なんとなく世の中全般に対する興味が薄れかけてるかな、という印象でした。

 それを感じたのは、過去の番組の写真での黒柳サンのセーラー服姿に、セーラー服が好きなんだこの人は、などと加藤サンあたりからけしかけられていた気がするのですが、年取った黒柳サンには興味がない、みたいな、ウケ狙いとも思える反応を示したこと。
 後編になるとエンジンがかかったのか、当意即妙な受け答えが出るようにはなりましたが、やはりこれは私の個人的な感想なのかな~。 そりゃお若いころに比べれば、人間誰だって元気はなくなるものですよね。

 その元気がいちばんあるようにお見受けしたのが、加藤武サン。

 声もいちばん大きくて、黒柳サンに対する受け答えも実にしゃきっとしている。
 お芝居の旅公演をされているそうで、それがやはり若さを保つ秘訣になっているのかな、なんて感じました。
 加藤武サンのその様子を拝見して、人間人生に対して、もっと強気でいなきゃならん、もっと声をあげなきゃならん、と感じます。 ウジウジしとっては、心ばかりが老人になってしまう。 そりゃ無理をしていつも元気はつらつとすることはなかなか大変なことですが、体がいくら老いても、心だけは青年のまま、いつまでもいたいものだと思うのです。 自分らしさを保ちながらも。
 老いをほかの御二方からちょっと感じただけに、加藤武サンのこのピンとした姿勢には、学ぶべきものが多かった。

 そんな御三方とのトークのなかで、必然的にその方向に行ってしまったのですが、黒柳サンの死に対する考え方には、ちょっと考えさせられるものがありました。

 黒柳サン 「私この頃思うんですけど、死んでみたことがないから分かんないけど、死んでみたらさ、どんなのかって分かるじゃないそのとき初めて。 あ、こういうんだって。
 だからね、死んで、みるのも一回くらい、ね(笑)。
 一回くらいって一回でおしまいですけど、…でもそうすると向こうでさ、みんなに会ったりなんかするかもしれないじゃない。 だから、そう思ってたら全然、怖いとかそんなふうに思わないでね、まあ生きるだけ生きたら、あとは、一回も味わったことのない体験をするのも、悪くないってね」

 永サン 「先が素晴らしいところだっていうのは、みんな知ってるんです、あっちの世の中が。 …誰も帰ってきた人いないでしょ? それほど向こうはいいんですよ」

 黒柳サン 「私くらいの年頃になると、なんでしょ、毎日のように同じくらいのかたが亡くなって、あっちがいっぱいになってると思うのよ。 だからあっちは広いんだと思うのよ私、ギュウギュウ詰めじゃないと思う。 だけども必ず会えるんだとも思うの」

 こんな話をしている間も、永サンは泣いてしまっていたのですが、この話は黒柳サンが奥様を亡くした永サンを慰めるためにした話だということもありますが、このトークはこれまでテレビの創成期からテレビというメディアを牽引してきた人々による、人生の終末論なのです。

 その考えは多分に楽観的な見方もあるかもしれない。
 それでも、自分の人生があと何年、という終点から遡るような年代に突入している人々の言葉として、とても重たいものがあります。

 私はまだそんなことを考える年代ではありませんが、詩人(自称)の習性なのか(笑)、死んだあとの世界のことを、よく考えます。

 いろんなことを考えますが、仏教的な 「輪廻」 という 「生まれ変わる」 という思想を信じつつも、いちばん確かなのは、自分が過去世の自分の記憶を全く失った状態で生まれてきている、という事実です。
 過去世の自分の性癖とか生まれ来る状況とか、因果関係は確かにあるかもしれないけれど、過去世の記憶がない、ということは、自分があの世から生まれ変わるときに、自分は過去世の記憶もふり捨てて生まれてきた、ということですよね。
 私は今生きている人生の記憶が消えてしまうのはとても悲しいものがあるのですが、そんな自分自身が、過去世の記憶を捨て去ってこの世に生まれてきている。
 それって、もう忘れてもいい、と思えるくらいの年月が、たったということなのでしょうか。

 いずれにせよ過去世の記憶がない、ということは、この世の自分は、この世では自分ひとりしかいないわけです。

 そんなたった一度きりの、橋本某という人生だからこそ、大事に生きていかなきゃならん、そう考えるのです。

 かなり抹香臭い話になってしまいました。 ドン引きされたかたには、心よりお詫び申し上げます。
 「徹子の部屋」 に今回ご出演された御三方も、黒柳徹子サンご自身も、失礼を顧みず申し上げさせていただければ、ご老人であります。
 そんなかたがたの老境に差し掛かった時点での人生の生きかた、そして自分自身の老後というものをちょっと考えてしまった、今回の 「徹子の部屋」 なのであります。

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