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2011年3月

2011年3月31日 (木)

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 第8回(最終回) 後編 神になるのか、神を敬うのか

 ウェイルランの仕掛けた罠。

 それはジャックを人殺しに仕立ててエレンを激怒させ、エレンを亡きものにしようとすることだったのです。
 そのために自堕落な生活を送っていたアルフレッドに、ジャックにお前(アルフレッド)を傷つけさせるよう仕向けろ、と指示。 短剣を手渡します。

 聖堂の構造上の問題に気付き、その解決策をフィリップに説明していたジャックのもとに、アルフレッドの妹マーサがやってきて 「兄さんがまたアリエナに乱暴している」 と告げます。
 おそらく日常茶飯事的に繰り返されていたのでしょう、ジャックはたまらずアルフレッドを探し出し、殴り合いが始まります。
 ウェイルランの因果によってその乱闘中自分をナイフでほんの少し傷つけたアルフレッドは、ことさら大げさに衆人に向かってこのことを見せびらかすのですが、いきなり倒れてしまう。
 そのナイフには、毒が塗ってあったのです。
 ウェイルランのはかりごとに死の間際に気付いたアルフレッド。
 駆け付けたジャックに告白するのです。

 「あいつの罠だ…毒が塗ってあった…神様…くそぉおーーっ! ! !」

 アルフレッドは、絶命します。
 泣き叫ぶ、妹のマーサ。

 アルフレッドの葬儀と並行しながら、モードの息子ヘンリーが挙兵するシーンが映し出されます。
 かたや死を悼む日人々の葬列、かたや簡単に大勢の命が失われる殺戮。
 その戦場で呆然とするスティーヴン王の息子ユースタスに、血に飢えたヘンリーはさわやかに挨拶して(笑)、次の瞬間有無を言わさず斬り捨てる。 「ユースタスか?」「そうだ」「会えてうれしいぞ、とりゃ~」、ですからね(笑)。
 このシーン、すごくあっという間なのですが、戦場で自分の名前を簡単に明かしてしまうところでユースタスの未熟さを、さわやかに挨拶して斬り捨てるところからヘンリーの血気盛んぶりを、一瞬にして象徴的にあらわしているところがすごい。
 息子の死を知らされたスティーヴンのもとに、ヘンリーの祖父であるヘンリー1世の亡霊が、また現れる。 錯乱するスティーヴン。

 アルフレッドの葬儀の場に、州長官になったウィリアムがジャックを捕まえるためにやってきます。 「この聖堂は聖なる土地に建っている。 聖域での逮捕は許されない」 と拒むフィリップですが、ここにしゃしゃり出てきたのがウェイルラン。
 「そーうはいかないぞ院長。
 聖域に関する法は聖域と認められた聖堂にのみ適用される。 知らないのか?
 この聖堂は未完成だから神の法は適用されない。 …捕えろ」

 捕えられたジャック。
 「なにが神の法だ…! 神ではなく、野心のしもべのくせに…!」
 「聖なる野心は神への道だ」
 「だから僕の父を殺したのか…!」

 はからずもここで、ジャックの父親の死に隠されたホワイトシップ号の陰謀の一端が、衆人環視のなかで暴かれていくのです。
 そのやり取りを一方的に打ち切り、ジャックの処刑を執行しようと段取りを決めるウェイルラン、フィリップに憎々しげに言い残します。

 「この聖堂を完成させられるかな?」

 かつてはこの聖堂の神々しさにひれ伏したウェイルランでしたが、ここまで真実を見る目が曇ってしまったとは。
 ウェイルランがここで 「聖なる野心は神への道だ」 と言ったことには注目します。
 ウェイルランは神になるために、自分がこの世で全知全能になろう、としているのでしょうか。
 とすればウェイルランの考えている神は、全知全能であるがゆえに傲慢で、慈悲の心でさえ気まぐれで、信仰心の有無にかかわらず罰を与える存在だ、ということになる気がする。
 エライ聖職者、坊さんのなかには、そんな考えの人が現在でも、いまだにのさばっている気がしますです(笑)。
 だから自分の欲望にも、リミッターがないんでしょうね。

 それにしても、ウェイルランがジャックをハメてエレンを片付けようとしているのは分かるのですが、どうしてのこのこと敵の陣地のなかにやってきたんでしょうね。
 おそらく枢機卿としての自分の地位に酔いしれていたんだろうなー。
 もしくはエレンを殺すことに気を取られていた、というか。
 でなきゃ、状況次第ではこの、キングスブリッジの住人全部に糾弾される可能性が、あるわけですからね。
 彼の頼みのウィリアムだって、キングスブリッジの人たちにとっては、2度も襲撃を加えてきたいわばカタキ役。
 いざとなったら頼りにならんですよ。
 果たして物語はその方向へと、突き進んでいくわけでありますが、見ているときは 「ウェイルラン、不用心すぎ」 と感じましたです。

 すぐさま、ジャックの処刑に関する一方的な裁判が行なわれる。
 アリエナはジャックを弁護するのですが、ウェイルランは言を左右して全く取り合わない。
 ここで注目なのは、アリエナの弁護にいちいち難癖をつけるウェイルランの言葉に、キングスブリッジの民衆が嘲笑を加えている、ということ。
 つまりアリエナとジャックとアルフレッドの三角関係は、キングスブリッジのなかでも結構、下卑た興味の対象だったようなのです。

 それでも殺人の状況証拠としては、かすり傷でアルフレッドが死んだことは、民衆の誰もが知っている。 ウェイルランにとってはそれは誤算でしたでしょうね。 かなりの強引さでジャックの処刑が決まると、民衆も騒ぎ出します。

 「私は証拠を持っている!」

 そこに現れたのが、エレン。
 ウェイルランにとってはまさに思うツボ、飛んで火に入る夏の虫、なのですが、ちょっとまだ早すぎる模様。

 「ここには法の手を逃れている人間が多すぎる!」

 エレンはジャック・シェルブールの件について話を始めるのですが、ウェイルランにとってその話は、ほじくり返されたくない昔の話。 いまはカンケーないですし。
 けれどもフィリップが裁量の決定権を主張し、エレンに話をさせるのです。

 エレンは35年前、ヘンリー1世の息子が船で沈没し死んだことについての真相を語っていくのですが、この記事前編でも書いたようにちょっと聞いただけではよく分からないのが、このときジャック・シェルブールが書き残した手紙のこと。

 エレンの話によるとこの手紙はある修道士が発見した、とのことでしたが、それってレミジウスですよね。 レミジウスは最終回前半で 「自分には脅迫以外に何もできない」 などとエレンに泣きついてたんですよ。

 私はてっきりレミジウスが、ジャック・シェルブールの手紙の所在を知っていたけどそれってもうない、ということなんだろうな、と考えていたんですが、どうもそうじゃなかったみたいです。 録画を見直して気付きました。 レミジウスはその手紙を隠し持っていたんですが、それを公にすれば自分の身が危うい、ということでエレンにその手紙を託した、ということだったんですね。

 なんかだけど、ちょっとワケの分からんままこのシーンを見てました、ワタシ(笑)。
 でもちょっと腑に落ちないながらも、エレンのその告白からの怒涛の展開には、しびれたんですけど。

 エレンの話はそれまでの回で少しずつ明らかになっていたジャック・シェルブールの話に補足を加えるような形だったので、さほど驚きはありませんでした。 ヘンリー1世の息子の船が沈没して死んだ、という事実にウェイルランとリーガンたちハムリー家が関わっていたことはとっくに分かっていたのですが、船を沈めただけでなく直接の殺害に関与していたとは。 そんなところですかね。

 そしてヘンリー1世の息子を助けようとしたジャック・シェルブールが、沈んでいく彼から唯一救い出せたのは、彼がしていた指輪、だったのです。

 その指輪をジャック・シェルブールは、王へあてた手紙の封ロウに使った。

 つまりその指輪は彼が書いた手紙の、証拠としての正当性を証明するものであったのです(なるほどなー)。

 ところがその指輪が今は失われている。

 「それ見たことか」 とほくそ笑むウェイルラン。 でもその指輪は、アルフレッドの妹マーサが持っていたのです。

 あれ?マーサ、その指輪をなんかどっかの石レンガのなかに隠してなかったっけ?って思ったんですが(笑)、マーサはそれを首にぶら下げていたのです。
 う~ん、まっ、いっか(笑)。 あれから10年もたってるし(笑)。

 「私が…子供のころ盗んだの…。

 ジャックは、価値がないって言ってたけど、とてもきれいだったから…。

 ジャックがアルフレッドのことを責めたとき、本当のことを言おうと思ったけど、だんだん怖くなって…。

 隠しておいたの…。

 あなたはアリエナを愛していたから…。

 あなたが身につけていたものを、欲しくて…」

 ここでマーサが、ジャックへの秘めた思いを切々と語る心の痛み。
 報われない恋を、せめて彼が身につけていたものに託す、そんな悲しみ。
 ここだけクローズアップしてもゆうに1回分くらいは話になると思うんですが(20話くらいの話にすれば)、この超特急ドラマ、それを許さない(笑)。

 「そんなものは証拠にならない!」 と憤るウィリアムですが、アリエナは彼を糾弾する。 「ここにいるのはヤバイ」 と敏感に感じ取ったウェイルランは、そそくさと逃げる準備の開始(笑)。
 しかしこのふたりにいいように翻弄されてきたキングスブリッジの民衆たちは、もはや彼らを無事に帰そうとはしないのです。
 「地獄で焼かれろ!」 とウィリアムをなじる民衆。
 ウィリアムは無理やり、首に縄をかけられます。

 「ウェイルランだ…! たくらんだのは…!

 あいつは当時の王子とスティーヴンの贖罪神父だったが、スティーヴンと取引したんだ…!

 『王子が死んだら、スティーヴンが王位を継げる』、と言って…!

 ウェイルランは俺の両親に協力させ、王子の船を沈めて、王子と妃を、殺した…。

 俺の親は領地と爵位を与えられたが、それも自分の権力のためだ! 俺は何もしていない! 神が証人だ! 俺は無実だ!」

 神が証人でも、ウィリアムがキングスブリッジに対して何をやったのかは、ここにいる民衆が証人であります(笑)。
 やはりウィリアムも、悪いのは自分ではなく自分のほかにいる、という視点で、ウェイルランと同様の錯覚に陥っている。
 「死にたくない! 手を離せ!」
 手を離した途端、台から足を滑らせ、縊死してしまう、ウィリアム。
 その自業自得の様子に、それまで騒ぎたてていた民衆も、息をのんで静まり返ります。

 そんな民衆の恐怖の様子を敏感に察したのか、その場を離れようとしていたウェイルランは、民衆に向かって居丈高に金の表紙の聖書を振りかざし、こうのたまうのです。

 「キングスブリッジの者どもよ。
 お前たちは神の怒りを、受けることになる。
 お前たちは嘘つき(ジャック)をかばい、魔女(エレン)や!同性愛者(レミジウス)や盗人(マーサ)をかばった!」

 神への怒りを感じたのか静まり返るその場に、ジャックが声を荒げます。

 「けがれた聖職者め!

 お前の裏切りのせいで、イングランドでは16年間も大勢の血が流された!
 兵士たちが死に、妻たちが嘆き、父を失った子供たちは大人になって戦い、彼らもまた死んだ!
 この町は焼き討ちに遭い、住人達は殺されたが、…僕たちは負けなかった…。
 そして神を讃えるために、かつてだれも建てたことのない聖堂を築き上げた!
 僕たちみんなの力と、神への信仰が、平和な未来を築く。
 ウェイルランお前が何をたくらもうと、キングスブリッジの人々はその平和を実現する」

 金科玉条のように、聖書を振りかざすウェイルラン。
 けれども彼がそれに見合った人物であるとは、もはやだれも思っていません。
 民衆に追いかけられ、建設途中の大聖堂の前にやってきたウェイルラン。

 「ここは聖域だぞ!

 この場所で聖職者に手を出すつもりか!」

 「まだ聖域じゃない!
 …自分でそう言っただろ」

 切り返すジャック。
 ウェイルラン、言い負かされました(笑)。
 聖堂内部に入り、梯子を倒して上層部へ登っていくウェイルラン。 追いかけるジャック。
 上部の、下を見下ろせる渡り廊下部分?に出てきたウェイルラン。 ドアはもう開かない。 行き止まりです。 こんな映画、なんかあったよなあ…(笑)。

 民衆が下から見上げるなか、ほんの少しの段差を伝ってさらに逃げようとするウェイルラン。
 ますますどっかで見たことあるぞ、こんなシーン(笑)。

 しかし自分の首にかけていた数珠が引っかかり、それを取ろうとして足を滑らせ、石の彫刻にすがりつくウェイルラン。
 ジャックは、手を差し伸べます。
 しかしその彫刻。
 ジャックの父親、ジャック・シェルブールがかつて業火に焼かれた、あの表情のままの、あの彫刻だったのです。
 ジャックの父親の恨みが乗り移ったようなその表情を見ながらエレンの予言を思い出すウェイルラン。

 「お前は高みに登るだけのぼり、あえなく堕ちるだろう」

 ウェイルランは意図的に自分の手を離し、落下していくのです。

 ぐしゃっ、という鈍い音。

 ウェイルランは最後に、自らの体を痛めつける究極を実践し、神へと近づいたと思いたがったのでしょうか。
 その場に駆けつけたフィリップが 「汝の罪を赦そう」 と十字を切るのですが、ウェイルランは最後の力を振り絞って、そのフィリップに血へどの唾を吐きかける。
 「許しを請うのはお前のほうだ」「私が神なのだからな」、という意思表示がしたかったように、私には思えます。

 その後ジャックとアリエナは、みなの祝福のなかでようやく結婚。
 物語はさらに14年後にスッ飛びます。

 ジャックもフィリップも、それなりに老けております(笑)。

 建設にひと段落がついたかに見えた大聖堂でしたが、フィリップは説教のなかでこう話すのです。

 「しかし聖堂は完成したわけではない。
 永遠に完成することはない。

 人がけっして完璧な人間になることがないように、聖堂はこれからも永遠に変化し、成長し続ける。

 時に、崩れることもあるだろう。

 それは私たちが神に触れるための、ささやかな努力だ。

 聖堂とは単に、石でできた建物ではなく、祈りをささげるだけの場所でもない。

 終わることのない創造だ。

 この美しき営みが、永遠に続くことを願う」

 そしてこの聖堂に、今まで見たこともない、色つきのガラスが使われていることをフィリップは話すのですが、それはステンドグラスのこと。 この話がフィクションであることから、その聖堂に初めてステンドグラスが使われたかどうかは不明ですが、これはトム(アルフレッドの父親のほう)が 「このガラスで聖堂が建てられるか」 とかつてジャックとアルフレッドに語ったことが結実しているシーンでもある。

 説教が終わり、それぞれの人々が出てきたこの大聖堂。

 うわ、うわ、うわ、こんなに大きいのかぁ~~っ!という感じであります。
 これスゴ。
 CGでしょうけど。
 ケルン大聖堂とか、ノートルダムとか、そこらへんを連想するのですが、そんな大聖堂にも計り知れない年月が建設にかかっているんだなあ、というのが分かります。

 そして鐘の鳴るその大聖堂、徐々に俯瞰していく。
 12世紀の町並みが、再現されています。
 すごいなこのラスト。

 この最後の説教、フィリップは自分が完璧な人間ではないことを、自覚していました。
 でもだからこそ、人は成長できるのだ、という結論を、このドラマでは導き出していた。
 誰もがそのときそのときに、最善の方法を採ることなど、出来ません。
 東電の経営陣もそうでしょう。

 でもだからと言って、最善を目指さなくて、いいわけがない。

 どこかに今の地位に甘んじている部分があれば、「最善」 という意識自体が低下していくことだって、ないとは限らないのです。
 だから人は、常に上を見続けなければならない。
 難しいことですけどね。

 そしてそんな努力の積み重ねの上に、偉大なるモニュメントは完成していく。
 けれどもそれは、けっして完成することはない、とフィリップは言うのです。

 人生も同じですよね。
 ゴールがあったと思うと、その先にまた、ゴールがある。

 なんか細部がブッ飛んでしまったように思えたこの最終回でしたが、改めて検証してみると、そういうことだったかな、なんて納得できました。

 でもまあ、最低20回くらいのドラマとして、見たかったけどなあ…(笑)。

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 に関する当ブログほかの記事

第1回 圧倒的な徹底ぶり
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-237d.html
第2回 骨のあるドラマとはこういうものかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/2-4477.html
第3回 利用される神々http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/3-537a.html
第4回 むせかえる死臭のなかでhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/4-34e0.html
第5回 永遠の一部たるべきものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/5-a7e7.html
第6回 神の意志はあるかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/6-69bf.html
第7回 信仰の本質とは、どこにあるのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/7-1f00.html
第8回(最終回)前編 神とどう向き合うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-46ec.html

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2011年3月29日 (火)

義援金の送りかた、いろいろあるようです

 私オリコカードを使っているんですが、数日前ポイントを還元しようとオリコのHPをのぞいてみたら、なんか東日本大震災の義援金が、ポイントで送れるらしいのです。

 どうせつまらないモノにポイントを還元するくらいなら、ということで、さっそく利用いたしました。 面倒な手続きも要らず非常に便利。
 赤十字のほうへと送られるらしいですし。

 オリコ以外にも、カード会社でこのようなことをやっているかもしれません。 カード会社だけでなくて、そのほかにも、ドコモのポイントも、なんか義援金に変われるみたいですね。 自分のフトコロがちっとも痛まないですから、積極的にポイントを義援金に還元する動きが広まればいいな、と思います。

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「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 第8回(最終回) 前編 神とどう向き合うのか

 ものすごいスピードで駆け抜けた 「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」、最終回はまるで映画を見ているような盛り上がりを見せました。

 ただしここで 「映画のような」 というのは、褒め言葉であると同時に、ちょっとした批判も隠されています。
 つまり怒涛のような盛り上がりで、細部に関する描写が吹っ飛んでしまった格好になっている、という点においてです。

 最終回、物語は10年後の1156年へと飛びます。

 ジャックはキングスブリッジ大聖堂建築の棟梁と呼べる立場になっているようです。 予算のないなかで彼が恐れているのは、戦争の再開。 どうやらスティーヴンとモードの戦いは、まだ続いている模様。

 老いたスティーヴン王(ジャックに比べるとホントに老けた…笑)は息子のユースタスに政治の実権を譲渡しようとしています。 見た感じで言うと、手始めに陳情を聞くことからやらせよう、という感じ。 自分は裏に回って院政を敷く、という魂胆でしょう。
 このスティーヴン王の息子と、モードの息子であるヘンリー(のちにヘンリー2世になる男、でしょう)については、前者が頼りなく、後者が血気盛ん、と比較する描写を、このドラマでは順を追ってさりげなくやっている。 おそらく政権はこれで安定しないだろう、という予想を、見ている側にも植え付けていくのです。

 そのユースタスのもとに陳情にやってきたのは、十字軍から帰ったリチャード。
 ユースタスはリチャードにあっさりと、爵位の回復を約束してしまうのです。
 脇で見ていたスティーヴンは 「お前の好きなようにやれ」 といったんは放任するのですが、そこに口を出したのは、大司教任命を解かれたのちにローマで法王のもとに仕え、枢機卿にまでに身分を回復していた、ウェイルラン(大司教と枢機卿って、どっちがえらいんでしょうね?)。
 爵位を持っているウィリアム・ハムレイの居城であるシャーリング城を攻め落とすのには軍隊がいるけれども、そんなものを貧しいリチャードが持っているはずがない。 けれどそれを国王が用立てする予算なんかないんだよ、ということなんですが。

 いっぽう、ジャックとアリエナの仲も、10年たって結構ぎくしゃくしています。

 その原因は、ジャックが大聖堂の建設にかかりっきりで家庭を顧みない、ということと、アルフレッドとの結婚がなかなか解かれない、ということにあるようです。 100年の恋も10年たてば変質するようであります(笑)。 ここらへん、ふたりは仲良く暮らしましたとさ、めでたしめでたし、になっていないところがいい(悪趣味…笑)。
 トムを連れてのピクニックにも、嵐になるとか言って、大聖堂が心配でそそくさと行ってしまうジャック。 「アルフレッドと結婚したのも、リチャードの爵位回復のために金が欲しかったんだろう」、という捨てゼリフをアリエナに残しながら。

 嵐のなか大聖堂に帰ってきたジャックは、天井から石がこすれた砂が落ちているのを発見する。 アルフレッドの弓状天井を克服するユークリッド幾何学をもってしても、やはり無理なものがあったのか…という感じです。

 それにしてもこの大聖堂。

 CGなんでしょうけど、めちゃくちゃデカイ(笑)。

 彼らがやり遂げようとしている事業の巨大さが、これで手に取るように分かるのです。

 いっぽう嵐のなかトムを連れて帰ってきたアリエナは、傷だらけでずぶ濡れのウィリアムの妻、エリザベスと出会います。
 母親のリーガンを殺して10年、ウィリアムは毎夜母親の亡霊に悩まされ続ける。
 そのとばっちりをもろに食らっていたのが、妻のエリザベスだったのです。

 ウェイルラン枢機卿のもとにある夜、彼を脅迫する文書が届けられます。

 「秘密が暴かれる時がきた。 証拠はある。 ジャック・シェルブールの亡霊より」

 結局これを出したのは、10年前の一件でキングスブリッジ院長の座を追われたレミジウスだったのですが、この過程が、よく分からない。
 レミジウスはジャックの父親でその昔ウェイルランらによって火あぶりにされたフランス人ジャック・シェルブールの手紙の所在を知っていたからこそこの脅迫に及んでいるんだと思うんですよ。
 だけど、脅迫の手紙を出してからエレンのところへ行って自分が同性愛者だったことをウェイルランにいいように利用されてウェイルランに服従しなければいけなかった、などと話しながら、自分にできることは脅迫だけだ、と打ち明けている。

 これってよく分からない。

 それにエレンはその手紙を、いとも簡単に入手したのですが、どうもそこが気になる。

 もともとエレンはその手紙を、隠してたんでしょうかね。 ドラマのなかでそんなことをエレンが匂わせていたことって、あったかなあ(録画消しちゃってて分からない)。 よしんば隠していたとして、どうしてエレンがそのときまで手紙を隠していたのかが、分からないんですよ。
 まずここが、「ちょっと気になる」 第1点。

 リチャードが、爵位回復の吉報を持って、キングスブリッジに帰ってきます。 姉のアリエナと喜び合う弟。
 え?回復したの?と思いました。
 そしたら 「それにはシャイリング城を攻め落とさねばならない」、という条件がついている、と。
 じゃ、まだじゃん、という感じですが(笑)、アリエナには強力な助っ人がついていた。
 エリザベスです。
 もう爵位を手にしたも同然だと確信したアリエナは、ジャックに勝ち誇ったように 「弟が爵位を回復したわ」 と冷たく言うのです。
 自分がアリエナにひどいことを言っていたと反省するジャック。
 フィリップ神父はそんなジャックに、こう諭すのです。

 「トム(アルフレッドの父親のほう)は夢を描き、それを信じる男だったが君は違う。
 特別の才能を持っている。
 君のなかにあるのはただ信じる心ではなく決意だ。
 しかし信じる心も、必要だ。
 信じれば神は助けてくれる。
 アリエナは君のことを信じている。
 君はどうかな?」

 この部分も先週に引き続いて、このドラマのキモとなる部分のような気がするのですが、やはり膨大な話に重要性が流されてしまっている。

 なにものかを信じようとするとき、それは強い力を発揮します。
 けれどもそれを信じつづけようとすることには、強い精神力が必要だ。
 それをこのドラマでは、「決意」 という言葉を使って表現しようとしている。
 「信じつづけようとする意志」 と 「果報」、つまり 「願いが叶う」 ということは、互いを浮揚させようとする、風とグライダーの関係のようなものなんじゃないか、私にはそう思えるのです。

 さてエリザベスはリチャードたちを引き連れてウィリアム不在のシャイリング城に難なく白昼堂々(ドロボーみたいですがな…笑)入城。
 ウィリアムの片腕の男がひとり抵抗してリチャードと一対一の決闘をするのですが、ここでリチャードはその男の片耳を切り落とし(投げ捨てた耳を犬が食うシーンはR指定です)、自分の耳を半分切り落とした男への復讐を遂げ、そのうえで殺す。 これってそのうち、総合テレビでも放送されるんでしょうかね? ちょっと心配になってきた。 過激すぎる。

 妻に裏切られたウィリアムはウェイルランに泣きつきます。
 ウィリアムが母親のリーガンを殺したことなどとっくにお見通しのウェイルラン。
 ウィリアムにしたり顔で行説教するのです。

 「犬を蹴りあげると、いずれ噛みつかれるものだ。 お前の母はそれに気付かず、地獄の炎に堕ちた。
 …」

 「どうして報われないんだ!」

 「そーう。 確かにな。
 報われることの少ないこの世の中に悪がのさばり、我々と悪魔の戦いはいま拮抗している」

 フィリップの説教と対照的に、ウェイルランは 「不幸の原因」「悪いことが起こる原因」 をほかに求め、それを悪魔と断定してそれを滅ぼそうと考える。

 実は世の宗教者が陥りやすいドグマは、ここから発生している、そう私は考えるのです。

 自らのなかに厳然としてある 「悪い心」 を 「悪魔」 という、自分とは違うものだとしてしまうと、結局自分は悪くない、悪魔が悪いのだ、という判断に直結してしまう。

 悪いのは自分であって、悪魔、ではないのです。

 それを自分以外の他のものに求めてしまうことによって、人は異端者や異教者を滅ぼそうとしてしまう。

 ウェイルランの倒錯はここから始まっている。
 自分に鞭打ち痛めつけても、悪は自分の心のただなかにある、という認識をしないがために、彼の願いは真の意味で満たされることはない。
 彼と神との関係は主従的なもので、ウェイルランはひたすら神にへつらうことで願いをかなえようとしている。
 けれどもそこに、神を信じる、という気持ちは、あるんでしょうか。
 私はウェイルランが神を信じているようには、到底見えない。
 信仰というものは、超越的な存在を意識することによって、自らを振り返り、省みる機会を与えてくれるものでもある、と私は思っています。
 それを 「自分の罪を消滅させ願いをなんでも叶えてくれるウチデの小槌」 みたいなとらえ方をするから、宗教のあり方自体が、歪んでゆく。

 ウェイルランはウィリアムに、エレンを罠にかけることに協力しろ、とまた悪だくみを強要するのです。

 いっぽうエレンも、ジャック・シェルブールの手紙を入手し、ウェイルランを罠にかける、と息子のジャックに話すのです。
 つまり罠のかけ合い、です。
 いったいどっちの罠が成功するのか、ドラマ的な期待が膨らんでいきます。

 まーた長くなりそうなので、今日はこの辺にしとうございます。

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 に関する当ブログほかの記事

第1回 圧倒的な徹底ぶり
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-237d.html
第2回 骨のあるドラマとはこういうものかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/2-4477.html
第3回 利用される神々http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/3-537a.html
第4回 むせかえる死臭のなかでhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/4-34e0.html
第5回 永遠の一部たるべきものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/5-a7e7.html
第6回 神の意志はあるかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/6-69bf.html
第7回 信仰の本質とは、どこにあるのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/7-1f00.html
第8回(最終回)前編 神とどう向き合うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-46ec.html
第8回(最終回)後編 神になるのか、神を敬うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-1065.html

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2011年3月28日 (月)

「金八ファイナル」 まだ見てません…

 シリーズ開始当初、同じ3年B組であったことから特別の思い入れもあった、「金八先生」 のファイナルドラマですが、4時間もあるんですか…。 正直通して見るには体力要りそうです。 まだ録画したものを見ておりません。 週末にでも見ますかね。

 このドラマはシリーズを欠かさず見続けました。 だんだん内容が過激になっていって、ドラッグとか引きこもり(あの時点ではずいぶん先取りしていた内容だったと思います)とか、心臓がキリキリもまれるような思いをしたことを覚えています。

 ただその傾向をおかしいとは思わなかった。
 なぜならこのドラマは、「中学生の妊娠」 という衝撃的な内容からスタートし、「校内暴力」 問題を正面から取り扱っていたからです。 「妊娠」 は当時からしても荒唐無稽の感じが強くしたものですが、「校内暴力」 はまさに自分もその時代に生きてましたから、もうドラマを1回見終わるたびにしんどくてしんどくて。

 まあ、確かにシリーズを通してその問題ばかりやっていたわけじゃないですけどね。
 ドラッグのシリーズは、ほとんどがその主人公、風間俊介クン中心で動いていた気はします。

 それにしてもこんな歴史のあるドラマがスペシャル1回でオワリ、というのは甚だ残念でなりません。 「取ってつけた感」 がとても大きい。 1クールだけでもやってもよかったんじゃないでしょうか。 4時間というのは、オッサンにはちょっとキツイ放送時間ですよ。

 「金八先生」 に関しては、2年ほど前に当ブログでも記事にいたしました。 現在と文体も違ってて面食らうかたも多いでしょうが、ご興味があるかたはどうぞ。

中島みゆき 「世情」 と金八先生http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/03/post-f9ab.html

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2011年3月26日 (土)

「恋のから騒ぎ」 最終回 最後は泣けた…

 17年間続いた 「恋のから騒ぎ」 も、最終回。
 震災の影響で延期になり、やるのかやらないのかがなかなか分からず、結局2週間遅れで放送された、という点でも、いかにも 「恋から」 らしい最後だったかな、なんて感じます。

 なぜなら個人的にこの番組を振り返るとき感じるのは、誤解を恐れずに言えば、「どうでもいい」、という製作側のスタンス。
 だから結局この最終回がお蔵入りになったとしても、「それはそれでいいじゃん」 という、作り手の声が聞こえる気がしたのです。

 この、「どうでもいい」 というスタンス。

 毎年決まるMVPにしても実にいい加減な選考基準で、のめり込んで見ようとする視聴者の反感を買うような結果が、比較的多かった気がします(昔は結構納得のMVPだった時期もあるのですが、それは誰が見てもそうだ、というオーラがそのMVPの女の子にあったせいだ、と感じます)。

 「どうでもいいスタンス」 という印象を、また他方で感じる原因となったのが、さんまサンとから騒ぎメンバーとの間に横たわっていた、ある種の大きな溝。

 おそらくさんまサンは、私生活ではプレイボーイであるにもかかわらず、「から騒ぎメンバーには手を出さない」、という不文律を自らに課していたんじゃないのかな、って思うのです。
 見事に一度も、メンバーとの間に浮名が流れませんでしたよね(現役であるか否かにかかわらず)。
 「収録が終わるとそそくさと帰ってしまって冷たい(もしくはカッコイイ)」、というメンバーの声も、最後まで途切れることがなかった。
 さんまサンはかようにメンバーとの間に、絶対的な距離を作っていた。

 番組ではメンバーに対してさんまサンは徹底して冷たく、たとえ思わせぶりな態度をとったとしても、それは完全にフェイクでしかない。
 そこからドライな空気が浮き彫りになって、「どうでもいいスタンス」 という、番組に流れる一種独特な 「突き放し」「はぐらかし」 の雰囲気も醸成された、と思うのです。

 その情緒的な部分を削ぎ落した末に残ったのは、「この番組のトークは戦場だ」 という、さんまサンのプロ意識。

 「お笑いのプロ」 のそんな気迫が 「シロートの(まあ芸能事務所の女の子もいたらしいですが)」 メンバーに呼応し、番組の強烈な緊張感に結びついていた気がします。

 その緊張感は、最終17期生に至るまで健在だったことが、今回の1年振り返りのVTRではからずも気付かされました。
 実を言えば、私今期のメンバーって、体温が低くてあまり好きじゃなかったんですよ。
 なんかひとごとみたいに受け答えする人が多かったし、妙に冷静な感じで、それまであったメンバーへの思い入れが、今期はあまり生まれなかった。
 なのに1年の総集編VTRを見たら、まあ面白いところばかりをつなぎ合わせているためですけど、結構笑えた。
 これってちょっと、意外だったんですよ。

 ところがそのVTR総集編で浮き彫りにされていくのは、五番柳田チャンの冷静沈着トーク。

 彼女の体温の低さが、今期メンバーのいわゆる象徴的役割となっていたことにも気付いたんですが、こうして立て続けに見ると、それが結構笑えるんです。
 これまで当記事で考察してきた(笑)この番組の 「どうでもいいスタンス」 がここで悪いように作用して、ひょっとして彼女がMVPを取ってしまうのか…?って思えてきた(この部分を書きたいがために、相当前説をいたしました…爆)。

 しかし結局、番組最後のMVPを取ったのは、ワタシ的には大本命と思われた、「池袋」 こと佐藤綾香チャン。

 これは今回の選考委員だったマツコ・デラックスサン、西川史子サン(ご存知 「恋から」 卒業メンバー)あたりの力が大きかったような気がする。 滝沢秀明クンは力関係的にあまり意見が言えなかったかも(笑)。
 なにしろマツコサンと西川サン、普段から 「恋から」 をこまめにチェックしてるような感じだった。 だからこそぽっと出のゲストがVTRの印象だけで決めてしまうこれまでの 「いい加減さ」 が、今回鳴りをひそめたのかもしれません。

 それにしても、「こうして振り返ってみたら、今期メンバーも結構面白かったんだ」 と思う間もなく、17年間の傑作場面集が流れた途端、「やっぱり昔のほうが数倍面白かったわ」 という結論に(笑)。

 宝満とかロードオブザリングとか彦六師匠とかジャスミンとか、強烈なキャラが目白押しで。
 ここには出てこなかったけれど、前期メンバーのハイパーチャンなんかも 「恋から」 の歴史に残る強烈キャラでしたよね。 小林麻耶チャンなんか、ものすごくカワイイし。
 槌本姉妹も、揃って強烈でした~。
 「いたいた、コイツ(失礼)いた」 の連続で、特に4期あたりの女の子は、いちばん自分的にものめり込んで見ていた時期だったためか、なんか懐かしさいっぱいで。
 西川史子サンは、「こんなに野暮ったかったんだ~」みたいな(笑)。

 そして番組最後。

 その西川史子サンのコメントで、不覚にもこちらも泣けてしまいました。

 「…いや、寂しいですね、なんか…。

 ホントに寂しいです…(泣いてしまう)。

 これが自分の原点でしたし、なんか今こうやって、後輩って言ったら悪いんですけど、なんか出れたことがすごくいい思い出になるし。 一生ビデオを大事にしていきますんで。 なんかよかったなあと。 私もホント出れてよかったなあと…」

 番組自体が終了してしまうせいか、このところご卒業スペシャルでもからっとした雰囲気が多かった気がするのですが、今回はこの西川サンのコメントに感極まってしまうメンバーも多数いた気がします。

 17年というのはホントに長いし、自分の20代最後の年からやってたわけですけど、自分の社会人としてのキャリアと一緒に見てきた番組だったなあ、と…。

 私も、寂しいです…。

 なんとか復活してくれないもんでしょうかね…。

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「オールナイトニッポンゴールド」 新保友映アナ最終回

 前日の記事で 「オールナイトニッポンゴールド」 金曜日担当のニッポン放送新保友映(しんぼともえ)アナについて書かなかったのですが、新保アナは月-木のこの番組とはちょっと毛色が違っていたために除外してました。
 ちょっと仲間はずれかな、などと考えていたら、なんと昨日25日の放送が最終回だ、ということを番組内で知って。

 この番組、ほかの曜日でミュージシャンとかタレントとかが担当しているのと違って、ニッポン放送の局アナがリスナーからのリクエスト曲を中心にかけまくっている。
 新保アナは現在30歳で(またまた女性の年を云々しております…)私などの年代からひとまわり以上年下なのですが、かける曲は70年代80年代の曲が中心。 リスナーからのリクエストゆえの話ですが、ご本人も結構昔の曲に関して造詣が深いような感じがしていました。 おそらくご本人は小室メロディとかハロプロとか、そんな曲を聞きながら育ってきたんでしょうけど。 下世話な話をすれば、HPなんかを見ると結構カワイイ。 ラジオの人ですからおそらく映りのいい写真ばかりを選んだのかと思ってほかの画像も見ましたが、うーん、私の基準で申しますとじゅうぶんカワイイです(笑)。

 しかし残念なことにご本人はすでにご結婚されている模様(話がだんだん下世話にシフトしとるよーな…笑)。

 それはともかく、その選曲が古めのために、結構お気に入りの番組でして。
 イングランド・ダンとジョン・フォード・コーリーの 「秋風の恋」 http://www.youtube.com/watch?v=mfYoVolZoPEがかかったときは、すっかり忘れていたこの曲、ハチャメチャに懐かしくて涙が出てきたもんです。

 そんな良質のリクエスト番組、いきなり終了とは悲しい…。

 新保アナのコメントもアナウンサーの域を出ないフツーのものが多かったのですが、こういうのがかえってよかった。 昔はよくありましたよ、こういうフツーのリクエスト番組。 どうしてやめちゃうのかな。

 番組のいちばん最後では、それまでフツーにしゃべっていたとばかり思っていた彼女、いきなり号泣モード。
 こっちまで泣けてきました。
 たった1年3カ月の番組だったらしいですが、彼女なりの思い入れがあったのでしょう。
 新保アナはニッポン放送でも朝の番組のアシスタントとか、レギュラーは結構あるのですが、やはり自分の素を出せる、いちばんの番組だったんでしょうね。
 号泣で彼女の話が途切れてしまった時、私の思い入れ度も遅まきながら急激にアップ(やはり遅すぎるって…)。
 こんなに大切な番組だったことを、最後の最後で思い知るとは…。

 結構いまその寂しさに包まれていますが、気温も低くてなんか寂しさに拍車がかかってます。
 今年はいつまでたっても寒いなあ~。
 身も心も寒くさせないでほしいです、番組編成のかた。

 とりあえずこの場を借りて、新保アナにはお礼を申し上げたいですね。
 「ありがとウサギ」!

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2011年3月25日 (金)

「オールナイトニッポンゴールド」 パーソナリティたちの震災への反応

 震災の影響を受けてしばらくやっていなかった 「オールナイトニッポンゴールド」 でしたが、先週の木曜、大竹しのぶサンあたりだったか、再開していました。 先週は当方も仕事がズタズタでちゃんと聴けてなかったのですが、今週もズタズタながらも断片的には聴くことができました。

 いちばん気になっていたのは、月曜担当の吉田拓郎・坂崎幸之助両氏の動向。
 というのも、先週は同番組初の試みでハワイツアーを予定していたため、14日の放送は本来なれば離日前に録音したものが使われるはずだったのです。
 それも震災の放送でお蔵入りとなったはずであります。
 それにしてもこのツアー、額は忘れましたが結構な金額でした。 にもかかわらず予約はあっという間に完売。
 拓郎ファンの還暦あたりの団塊世代は、やっぱり金持ってるなー、という感じで。
 で、21日の今週の放送で、そのあたりの顛末をおふたりが語っていたのですが、まず震災当日拓郎サンは、ツアー客より一足先にハワイ入りするために、奥さんの森下愛子サンと荷造りをしていたらしいのです(奥さんも一緒に行くはずだったのかどうかは分かりません)。
 そしたらあの午後2時46分の大地震。
 それからすぐに旅行会社のツアー担当の人と電話で連絡を取り合い(そのときはまだ電話が通じる状態だったらしい)、その担当の人もいきなり成田への高速が封鎖になってしまって下に降りたけれども、いつになったら空港に着けるのかどうかも分からない状態だ、という。
 結局それからいきなり電話は不通状態になって、テレビで津波の様子を見ていた拓郎サンも、「こりゃ旅行なんか行ってる場合じゃないだろう」 と覚悟を決めたらしいのですが、その日のうちにツアーの中止が決定。

 坂崎サンはラジオの生放送があって246を青山に向かって運転中だったそうなのですが、地震の途端にいきなりの大渋滞。 とてもじゃないが放送局に行けないということでUターン。 帰りもひどい渋滞だったらしいです。

 このおふたりのオールナイト、いつもならば下らない話に終始して普段でも不謹慎極まりない番組なんですが(笑)、この日のおふたりはとても神妙。 いつもギターをかき鳴らして歌ったりしているのに、今日はそんな気分じゃない、と言いつつ、拓郎サンはホイットニー・ヒューストンの 「オールウェイズ・ラヴ・ユー」 を被災地の皆様に届けようと? 「なんて曲だったっけ」 と言いながら 「ア~~イア~~イア~~」 と歌いだしたりして(笑)。

 火曜日担当のゆずも、アリーナツアー?の大幅な内容変更に迫られたようで、電力に配慮した編成に変えて行なうことにしたらしい。

 水曜担当のピストン西沢サンは、これまた普段から不謹慎極まりない放送をしているのですが、「こんな時こそ笑いが必要だ」 と下ネタしりとりをやったりしていました。

 木曜の大竹しのぶサンは、被災地の皆さんにエールを送りながら、ジョン・レノンがカバーした 「スタンド・バイ・ミー」 の訳詞を朗読。 とても単純な曲とばかり考えていたのですが、震災を経た身で聴くと、この歌詞がまた、心にしみるんですよ。

 いろいろといつも通りの放送でない、素のパーソナリティたちの声を聞く気がします(追記 金曜担当の新保友映アナについては次の記事で)。

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2011年3月24日 (木)

「美しい隣人」 についてレビュー続行断念のお報せ

 今期のドラマのなかでは結構楽しみにしていた部類の 「美しい隣人」 ですが、このほどレビュー続行を断念したことを、ご報告させていただきます。
 もともと 「四十九日のレシピ」 との兼ね合いで予約設定を変えたことに気付かず、録画を録り損なったのが発端でしたが、集中再放送の予定があったので(フジテレビにおいて)それを見てから書こう、と考えていたのです。
 ところが今回の大震災。
 集中再放送は当然中止です。
 ほかにもネットで見ることが出来るとかいう話もあるみたいですが、当方アナログ人間のためその視聴方法がよく分かりません。
 ただネットの動画のレベルで見たくない、という心理も働いてますけど。

 いずれにせよどうも、再放送の予定が予約番組表を見ても一向に上がってこないし、なんだかドラマに対する私の熱も下がってしまった気がします。

 いい加減ですが、何卒ご容赦いただきますよう。

 追伸

 「TAROの塔」 ですが、どうやらNHKBS-hiで全4回集中放送するようです。 総合テレビではまだ予定はないようですが、とりあえずその集中放送を録画予約いたしました。 それを視聴次第、感想文をアップいたしたいと考えております。

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「冬のサクラ」 第9回(最終回) このドラマをめぐる構造的な部分について

 大震災の影響で本来10回で終了だったものを、9回と10回(最終回)をあらたにつなぎ合わせ、最終回とした、「冬のサクラ」。

 正直なところを申しますが、やはり2回に分けて見たかった。

 本来2回であるべきものを立て続けに見たおかげで、いちばん感じたのは 「長いなあ…」 ということ。
 そして時間をおかず見たせいで、祐(草彅剛クン)が萌奈美(今井美樹サン)の命を助けてほしい、と衝動的に考え直してしまった部分って、いったい何だったんだろう?と思ってしまったこと、萌奈美の夫航一(高嶋政伸サン)の改悛が、とても性急に思えてしまったことなど、副作用のほうが大きくなってしまった感がある。 一呼吸おいて、登場人物たちの行動を振り返るヒマがあったならば、もっと感情移入できたはずであります。

 そしてこのドラマ、やはり萌奈美の病状に対して、一進一退を続ける語り口が、毎回同じであった、という性格が、2回続けて放送してしまったことで、図らずも露呈されてしまった。 「長いなあ…」 と感じたのは、それが原因でしょう。
 けれどもそんな、内容的にかわりばえしないなかで、2時間チョイのなかで草彅クンは、山形と東京をすごい頻度で往復し続けている。 さっき山形かと思ったら今は東京、みたいな(笑)。 今じゃ大河ドラマでよくこういうことをやっておりますが(笑)、交通手段の発達した現代でも、ここまで行ったり来たりは、さすがにしんどいはず(笑)。 ストーリー的なことも併せて、どうもそれが、バタバタ感を後押ししている。 やはり2回に分けて見たなら、こんなことは感じなかったでしょうね。

 私がちょくちょくのぞいているヤフーの感想欄でも、このドラマの最終回の評判は、あまり芳しくない。
 この感想欄は辛めの(もしくはためにしている)批評が多いのであまり参考にならないのですが、どうしてこう評判が悪いのか、ちょっと考えてみたくもなりました。 本来なればストーリーを細かく追っていきたいところですが、今回私の興味はドラマの構造的なからくりに移ってしまいました。 申し訳ないですが今までのレビューの内容とは一線を画して記事を書き進めます。

 さてその不評の原因は、先に述べた私の感想みたいなものなのかな、と感じますが、それ以外で考えてみますと、草彅剛クンのファンにとっては不満の残る内容だったんだろう、と。

 今回草彅クンの相手を務めたのは、今井美樹サン。
 私は今井美樹サンに対して結構好意的なイメージを持っていたのですが、このブログへいただくコメントからちょっと感じてしまったのは、彼女は山下久美子サンからダンナの布袋サンを奪った、「略奪婚」 のイメージがいまだに強い人なんだな、ということ。
 そして彼女、草彅クンより確か10歳以上年上だったと思う。
 アラフォーどころか、アラフィフ(女性の年を云々して誠に申し訳ないです)。
 「結局不倫讃美でしょ」「子供(琴ちゃん)がいちばん大事じゃないのフツー」 とかいう感想は、そんな今井美樹サンへの反感が心理的に端を発している気がする。

 そんな年上の女性の不倫に付き合わされている草彅クン、今回は性格的にもかなり地味。
 私などは見ていて、こんないかにも東北男児の気質らしい不器用な生き方をしている男を、よくここまで演じられるなあ、と感心していたのですが、つよぽんファンにとっては不満なんでしょうな。
 これに比べると 「冬彦さん」 タイプの高嶋政伸サンのエキセントリックさのほうが、数倍図抜けて見える。

 そしてこのドラマのいちばんの売りが 「難病もの」。
 いかにもメロドラマ然とした視聴者に媚びているような部分が、受け入れられなかったのかな、という気もします。

 最終回で内容的に興醒めした要因のひとつに、愛人に刺されてしまった航一の非常にまれなOHという型の血液が、祐の弟肇(佐藤健クン)の血液と合致した、という部分。
 ドラマでは航一の母親江波杏子サンが 「その昔おばあちゃんも傷ついたことがあった」 みたいな話を琴音(森迫永衣チャン)にする場面とか、航一の父親は山形出身なのだ、と稲葉兄弟に打ち明ける部分で、もう思わせぶりまくり、事実を言っちゃってるも同然だったのですが、この物語の展開のさせ方は、見ていて引いたかな。
 航一にとっては、非常にまれな血液を肇から輸血され、実の父親とのおそらくあったであろう確執もそれで解消されたような部分があった、と思うんですよ、この一連の展開は。
 ただOHという血液の希少性を鑑みたとき、やはり無理やり感は否めない。
 航一の改悛が性急に見えてしまう原因は、結局その血液の希少性にあるんだ、と思うのです。
 その昔、「赤い疑惑」 では、Rhマイナスなんて希少な血液型を百恵チャンと友和サンが共有していたために愛するこのふたりが実は兄妹だった、という衝撃的な展開を演出していたのですが、今じゃこういうのは古すぎるのかなあ…。

 最終回の展開でもうひとつ引っかかったのは、萌奈美が祐の自宅で終末医療の道を選択し、親の死に目に琴ちゃんが会えなかった、という展開。
 うーん、いくら萌奈美が選んだ道とはいえ、悲しい。

 けれども、そんな最愛の娘でさえも、入り込むことが出来なかった、愛のありかた、愛情の形。

 このドラマが最終回で提示した、この最大の部分は、私に大きな共感をもたらしました。

 不倫だろうがなんだろうが、結局は当人たちがどうすることが、いちばんいい方法なのかを考えた末の結論なんですよ、少なくともこのドラマにおいては。
 自分勝手とか娘のことを考えていないとか、そんなことじゃない。
 確かに不倫、という行為は、まわりのみんなを負の方向に巻きこむ行為です。
 それでも、自らの思いに殉じようとするのは、人生の終わりに自分の人生を振り返ったとき、この世で後悔をするような人生を歩んだ、と思いたくないかゆえの判断、なのです。

 それを、最愛の娘を傷つけてしまう、ということと、いかに折衝していくか。
 天秤にかける、と言うと言い方は悪いですが。
 このドラマは、その部分に成功している気がする。
 琴ちゃんは傷つきながらも、母親の気持ちを尊重する道を、選んでいるのです。
 そのことでこの先琴ちゃんは、その自分の判断を間違っていた、と思う時が来るかもしれません。
 でももしそんなことがあっても、いずれは分かる時が来る。
 それは琴ちゃんが年老いて、自分が死ぬ時かもしれませんね。
 自分にとっていちばんいいこととは何なのか、相手にとっていちばんいいこととは何なのか。
 このドラマで不倫に走っているふたりは、絶えずそのことばかりを考えています。
 それを非難することは、誰人にもできない。
 そんな気がします。

 そして、この恋愛が不倫、という形であるからこそ、ふたりは互いのことを 「愛してる」 と口に出して言うことが出来ない。

 このドラマは、その部分において、もっとも成功している。

 祐は萌奈美が死んだ瞬間、「愛していた」 という言葉を叫びながら慟哭します。

 そして萌奈美は、生きているあいだ口にすることが出来なかったその言葉を、祐が萌奈美を騙して撮り続けた桜の開花の写真の裏に、もはや不自由になった両手を使って、書きとめていたのです。 萌奈美が亡くなってしばらくしたあと、肇がそれを偶然見つけ、兄にそれを見せる。 祐は、またしても、慟哭します。

 もう、ただただ、号泣しました、このふたつのシーン。

 いろんな物語的な引っかかりが、それですべて吹っ飛びました。

 このドラマが、もし震災に遭っていなかったら。

 心に残る印象が、もっと強くなったことでしょう。

 けれどもこのドラマにとってもうひとつの不幸は。

 ドラマが終わった瞬間、「JIN-仁-完結編」 の予告が放送されてしまったこと(笑)。

 これまでの感動が、またまた吹っ飛んでしまいました(笑)。

 あまりにも上質で涙にくれたこのドラマの余韻は、このあまりにも巨大な期待を抱かせるドラマの前に、砂に書いたラヴレターの如く、一瞬で消え去ってしまったのでした…。
 と同時に、この 「冬のサクラ」 のメインテーマと、「JIN」 のメインテーマのメロディって似てない?なんて考えてしまった、私なのであります。

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2011年3月21日 (月)

「江~姫たちの戦国~」 第10回 泣け!泣け!泣けました…

 久しぶりにリアルタイムで見た、「姫たちの戦国」。
 母と娘の別れのシーン、泣けました。
 しかしなんか、「泣け!泣け!」 と急かされているような感覚が抜けきらぬまま、泣いていた気がします。
 このすぐあとに見た 「冬のサクラ」 のほうが、同じ 「泣け!泣け!」 でも入り込んで泣いていた気がする。

 まず、柴田勝家(大地康雄サン)がどうして負けちゃったのか、なんか伝わってこない。

 番組冒頭で、野球のゼロ更新のスコアが出てきて、これで一進一退の激しい攻防が繰り広げられたことを一瞬で提示。 これが、本編に入る前です。 これで激戦を思い描ける人の想像力は、計り知れないほど大きい(笑)。

 そして本編、秀吉が岐阜に行っちゃった隙を突いて家臣たちが攻めよう攻めようと勝家に迫り、それに押し切られる形で勝家も了承。 その揚句 「くれぐれも深入りするな」 というリーダーの言葉を家臣たちが無視したような形。
 中国から明智を討つために猛スピードで取って返した秀吉を見くびったことが、主たる敗因のような描写がされてました。

 けれども、それで負けたことの切迫感が、まるで伝わってこない。

 戦闘シーンを割愛するのはここ数年の大河の常套ですが、それを抜かしても、切迫感というものは表現できると思うのですが。
 お父さんが仕事場で頑張っている、という姿を見たことがない人がドラマを作っている感覚なんですよ。
 「負けた…」 と言って家族のもとに帰ってくる勝家が、だからとても白々しい。
 「ちゃんと戦ってないのになんで帰ってきちゃうの?だいたい仕事着も全然汚れてないでしょ!」 という感じ。
 「負ける」、ということを頭のなかでしか考えていない人が作ってる感覚。

 そして、市(鈴木保奈美サン)が、どうして娘たちと別れなきゃならないのか、という理由づけの、これまた説得力がない。

 もともと、どうして負けたのか、という土台から脆弱なことから、戦に負けたことの悲壮感も伝わってこないために、なんかとても事態を軽々しく考えてしまうんですよ。 おそらく3人の娘たちも、事態がそこまで悪い、ということを考えていない。
 これは子供だからだ、という解釈もできます。 裏を返せば、このドラマ自体が、子供(江)の視点から作られている、とも考えられる。

 市は今回、浅井長政と別れたときとおんなじだ、ということを娘たちに語っていた気がするのですが(録画を見返す気にもならない…)、だったら城で死ぬのは柴田勝家だけなんだろうな、と娘たちが考えるのも道理だ、と思うんですよ。
 ところが市は、突然今回は違う、と言い出す。
 自分は勝家とともに死に、そなたたちは生きよ、と言い出すのです。
 3人の娘たちは、そりゃ驚きます。

 市は姫たちがかねてから選んでいた帯を巾着袋にして、そこにそれぞれの娘たちの好みの香を入れ、娘たちに渡します。
 数回前の香を聞くシーンが、この場面の伏線となった、ということですが、伏線の効果があまり出ていない。
 この伏線を効果的に見せるためには、あのシーンのあとに、香に関する母娘愛のエピソードを、少しばかり入れる必要がある。

 3人の娘たちは市の覚悟を聞いても納得できないのですが、見ている側もあまり納得していません。
 市としては、亡き長政とようやく一緒に死ねる瞬間だったようなのですが、それでも運命を共にするのは、勝家だ、と言う。
 この部分に限っては、夫をふたり持った女性の揺れ動く心情をよく表わしていた、と私は考えるのですが、3人の娘を置いて自害することの説得力までには、至っていない。
 「女の道は、生きること」 という、なんか 「篤姫」 で聞いたようなセリフをキーワードとして使用し説得力に変えようとしているために、「じゃあ市は生きないのか?」 という疑念が払拭できないのです。 秀吉のなぐさみものになろうがなんだろうが、生きるべきじゃないのか?自語相違じゃないのか?という感じです。

 ここで市たちの身柄を引き取りに来たのが、石田三成。
 どうも場違いな印象を受ける。
 これは、これまで秀吉を軽く狡猾な男としてしか描写していないために、家来たちの存在感も限りなく軽くなってしまっていることの顕著な効果であります。
 再三このブログで指摘しておりますが、このドラマにおける秀吉の描写は、個人的にはとても不満です。
 今回勝家がどうして負けてしまったかの説得力がない原因の一端も、秀吉のすごさが見えてこないことにある。
 猛スピードで取って返したからって何なのだ?という感じなんですよ。
 こんなツマラン男に、よくみんなついてってるな、としか思えないから、秀吉の家来にも存在感が全く見えてこない。
 お市の方をついにこの手に…イヒヒヒヒ、って、何を見とるんじゃ!、みたいなことをやってましたけどね、今回の秀吉。
 そのコミカルな様子に親しみを感じられたとしたら、三成がこの男についていっている説得力も生まれるんだと思う。

 そしてついに、市と娘たちの別れの場面。

 ここ2回ばかり、三姉妹と勝家の愛情に物語のメインが置かれていたせいか、三姉妹が泣き叫んで母親と別れを告げる場面でも、勝家と別れるのは悲しくないんかい?との思いに至ってしまう。 今回、勝家と別れる悲痛なシーンって、ありましたっけ?
 物語に、一貫性がないんですよ。
 そしてのめり込めないもうひとつの原因。
 もう耳タコだと思いますが、泣き叫んでるのが37歳とか27歳とか24歳とか…。
 スミマセン、女性の年を云々して。
 脳内変換するのに、頭が忙しくて、のめり込めない(笑)。

 それでもやっと、ここで泣き叫んでるのはローティーン?の女の子たちなんだ、と思い直したとき、このシーンにようやく泣けるのです。

 正直申しますが、泣けました、確かに。

 しかしこんな複雑な思いでドラマを見ながら泣いたのは、個人的には初めてでした。

 子役だったら、もっと泣けた…。
 前回もそうでしたが、泣けたのに 「クソッ、不覚だ」 と思ってしまうのって、考えてみれば切ない話であります。

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2011年3月20日 (日)

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 第7回 信仰の本質とは、どこにあるのか

 父親の手がかりを求めて、フランスへとやってきたジャック。
 そこでも仕事しなければ生きていけませんので、やはり大聖堂の建設現場で働いています。
 そこで捨てられたひとつの石の塊。
 夜になると水がしみ出てくるというその石に、ジャックは注目するのです。

 ジャックはこの聖堂の高さに圧倒され、そこの修道院長が読んでいたユークリッド幾何学の本を勉強します。 アルフレッドが目論んだ弓状の天井をしのぐ解決策が、そこで提示されることとなる。

 いっぽうアリエナはジャックが作ったガーゴイルの像を頼りに、フランスの各地を転々として彼を追っていきます。 ただ、行方を聞いても 「どこへ行ったか知らねえな」、と 「港のヨーコヨコハマヨコスカ」 状態(笑)。 でも結構、簡単に探し当てちゃいました。 ドラマのスピード、早いですからね。
 アリエナと再会し、はじめて見た自分の子供に、ジャックは 「トム」 という名前を授けます。 こうして、トムの命が引き継がれ、この子も大聖堂建設に携わることになるのでしょうか。 先読みしすぎですが、感慨深いものがあります。

 ベッドでの語らいのなかで、ジャックはアリエナから、キングスブリッジの大聖堂建設が頓挫したことを知ります。 その大きな原因となったのが、巡礼者に寄付金を落とさせるための、聖アドルファスの遺骨が砕け散ったこと。

 フィリップはその重要性を知っていたからこそ、ねつ造してまでこの遺骨にこだわったのですが、言い方は悪いがこれって、「客寄せパンダ」 の発想。
 つまり目に見える偶像とか奇跡とかを見せなければ、人は動かない、ということですが、もともと宗教自体が目に見えないものを取り扱っているのですから、宗教に携わる者が生活していけるレベルまでになるには、そうした信仰心利用の、本来の宗教のありかたとは違うことをしなきゃならんわけです。

 ジャックはその 「客寄せパンダ」 のために、あの 「小便を漏らす石」 の利用を思いつき、大聖堂再建のために、アリエナとトムとともにキングスブリッジへ戻ることにする。
 そしてイングランドへ帰る道すがら、ジャックは自分の父親の親族と偶然出会い、父親の過去を詳しく知る機会を得るのです。

 いっぽうヒラ社員、じゃなかった(笑)、ただの修道士に降格したフィリップは、ウェイルランから助手の要請を受けます。 巧みに神の意志と自らの慈悲深さをちらつかせながらフィリップを籠絡しようとするウェイルラン。
 しかしフィリップは、聞くわけないですよね。
 フィリップはウェイルランに、こう言い放ちます。

 「あなたは前に言いました。 『政治は物乞いたちの取引と同じだ』 と。
 だが善はけっして、悪に歩み寄らない。
 神の御業はけっして権力や欲望には、呑み込まれない。
 あなたの、道徳を支える壁は、腐っている。
 あなたの聖堂は崩壊し、あなたやあなたを崇拝する者たちは、天井の下敷きとなって潰される。
 私は、あなたの強欲な野心に加担するくらいなら、修道院で一生、ブタにエサをやっているほうがましだ…!」

 ここは物語の特性から言って、結構重要なシーンのように思われます。
 ただそれは、膨大なスピードのなかでかなり薄っぺらく消費されてしまっている。

 このドラマにおいてワルモノの立場のウェイルランは、自らにムチを打ちながら、神に自らの願いを要請しています。
 それはかなり過酷で、皮が剥がれるかと見まごうくらいの強烈さです。

 彼にそこまでさせるものって、いったい何なのでしょう?

 自らに過酷な試練をわざと与えることによって、自らの罪を滅し、自分の願いを叶えてもらおうとしているのでしょうか?

 だとすれば、それはかなりねじ曲がった信仰心であると言わざるを得ません。

 なぜなら信仰というものは、究極的には自分の願いを叶えるためのものではない、そう私は考えるからです。
 超越的な存在に何かを叶えてもらおうと祈り、それが叶うのならば、努力の必要なんて全くない。
 信仰の力は、その自分の願いに対して立ち向かっていく力を与えてくれるものであるべきはずなのです。

 フィリップのここでの言い分は、彼自身が神に対して絶対的な信頼をしていることの証左ではありますが、聖アドルファスの遺骨ねつ造にしてもそうですけど、あまり自分のやっていることへの反省が見られない。 フィリップもウェイルランも、極論すれば同じ盲目にかかっている、私にはそう思えます。 ドラマで信仰心について切り込むのは、ここが限界なのかもしれないです。

 貧しい兵士としてスティーヴン軍に従事することとなったリチャードは、モード側の重臣グロスター伯爵(モードの兄)の首を討ちとります。
 スティーヴンはリチャードに、爵位を復活させることは拒否しましたが、かわりに十字軍としてサラセン人を殺して来い、という 「名誉な」 職務を与えるのです。

 キングスブリッジへと戻ってきたジャックとアリエナ。
 やたらと難癖をつけるレミジウス院長に、ジャックは誇らしげに、フランスから持ち帰った、という 「奇跡の像」 を見せるのです。
 それは明らかにジャックが彫ったものでしたが、赤子のイエスを抱きかかえるマリア像のその眼には、あの 「夜になると水がしみ出る」 石が使われている。
 日が陰っていき、聖堂が山陰に隠れた瞬間。
 マリアの眼からは、涙が流れるのです。
 その場にいた全員が、その 「奇跡」 に跪く。

 「野心がはびこるこの世を嘆いている」

 ジャックが言います。

 レミジウスも、跪き十字を切るしかない。

 ここらへん、まるで水戸黄門の印籠でしたね。
 その話を聞きつけてその場にやってきたウェイルランも、その神々しさにひれ伏してしまう始末。
 「控えおろう!」、ですな。
 キングスブリッジは、聖アドルファスの遺骨があったとき以上に、巡礼者が引きも切らなくなるのです。

 ジャックはアルフレッドのところに、アリエナと離婚してくれるよう頼みに行きます。
 アルフレッドはこのとき、ジャックに思いのたけをぶちまけるのですが、このときのアルフレッドの言葉は、なぜこのろくでなしの男が、人格者的だったトムの息子なのか?という見ている側の不思議な気持ちに応えたものだった気がしてなりません。

 「彼女を愛してた!
 知ってただろう!
 初めて会った時から好きだったんだ。
 今じゃ笑い者だよ!

 お前は父さんも奪った!
 母さんはお前のお袋が殺した!」

 「お産で力尽きたから…」

 「毒を飲まされたんだ!
 俺は呪いをかけられた。
 おかげで使えなくなった(不能になった)。 ここを!
 俺が子供を作れなくなったのをみんな知ってる!

 エレンは天井を崩し、俺の仕事を奪った!
 お前は妻を奪った!
 お前ら親子は、俺からすべてを奪い取ったんだ!」

 つまり被害者意識が強いんですよ。
 それは両親を奪われた、というところが起点となっている。
 悲しみが大きいとき、他人に責任を転嫁することで精神の安定を求めようとする。
 アルフレッドは自らを省みることが、そうすることでできなくなっているのです。

 ウェイルランとリーガンはまた謀略を巡らします。 キングスブリッジを焼き討ちにし、その隙にジャックを殺す。 ウィリアムは再び、同じことを繰り返すことになるのです。
 しかしそれを聞いていたウィリアムの妻、エリザベスはフィリップにそのことを知らせます。 キングスブリッジには壁が張り巡らされ、戦いの準備も万端に整う。 ここらへんの下りは、「七人の侍」 を連想させますね。

 果たしてウィリアムの襲撃は大失敗に終わる。
 そしてジャックを狙っていた暗殺の下手人もリチャードによって殺されるのですが、それは妹ケイトを天井崩落事故によって失っていた、カスバートだったのです。
 穢れた土地に埋葬されたケイトを救おうとした末の、カスバートのこの判断。
 なんとも悲しすぎます。
 これもウェイルランのはかりごとです。

 この大失敗に大激怒したのが、ウィリアムの母親リーガン。

 「なんてバカなの!
 たった20人で襲うなんて!

 あ~あ、おまえは父親と同じくらいマヌケで、2倍腰抜けねウィリアム!

 役立たずのブタに任せとくと、町は破滅よ!」

 ここまでリーガンが息子に対して激怒するとは、またまた意外でした。
 やはり前回考察したように、近親相姦的感情を持っているのも、ただ自分の息子ウィリアムを、道具としてしか見做していないがゆえのことなのでしょう。

 しかしここで、ウィリアムは、これまで自分が抱えていた闇を、すべて解放してしまうのです。 悲劇の始まりです。

 「うるさいっ!」

 そのあまりの剣幕に驚いたリーガンは、ウィリアムに猫なで声で近寄ります。

 「かわいいウィリアム、機嫌を損ねたの…。
 ちょっと癇癪起こしただけよ…。

 教えて…。 あなたがいちばん憎んでるのは?」

 「…あ、ああ…ジャックのやつだ…」

 「ああ…あいつをどうするの…?」

 「生皮を剥いでやる…」

 「素敵だわ…。
 …いちばん愛してるのは…?」

 「…あ、あなた…」

 「…私に何をしてくれる?…」

 ウィリアムの首筋にキスをするリーガン。
 そのときです。
 もう我慢できない、とばかり、リーガンを突き飛ばすウィリアム。 悲鳴を上げるリーガン。

 「うううーーーっ! やめろぉーーーっ!」

 驚いて亭主の顔を見るエリザベス。

 「何を見てるんだお前ーーーっ!」

 エリザベスに向かって突進し、彼女が縫っていた刺繍をはねのけるウィリアム。 リーガンは今までに見せたことのない悲痛な慟哭の声をあげ続けています。

 リーガンの嗚咽が響く中、ウィリアムはエリザベスがもっていた金髪の女の子のぬいぐるみの小さな人形に目を留める。
 それを持ったまま、泣きじゃくるリーガンのもとに行き、母親を後ろから抱きしめ髪をなでるウィリアム。 その髪も、金髪です。

 突然、母親の首を絞めるウィリアム。
 悶え苦しむ、リーガン。
 ウィリアムの手には、人形が握られたままです。
 その人形は、まるでウィリアム自身の子供のころに置き去りにされた、母親の面影の象徴であるかのようです。

 「…どうだ…!」

 手足をばたばたさせるリーガン。
 絞め続けられた顔は紅潮し、不規則に痙攣を始めます。

 そして、やがて、その動きが止まります。

 どこか遠くを見据えたまま、息絶えたリーガン。

 うう。

 吐きそうになりました。

 こんなに胸くそが悪い殺害シーンは、久しぶりに見ました(言葉が汚くてスミマセン)。

 「これは、不幸な事故だ…飲み過ぎて…夜中に出歩いたからだ…!」

 ウィリアムは相棒の男とふたりがかりで母親の亡骸を城壁まで担ぎ出し、まるでゴミのように堀の下に投げ捨てます。

 十字架に磔にされたようなポーズのまま、水底に沈んでいく、リーガン。

 彼女が謀略を紡ぎつづけたゴミのような現世から、まるでアール・ヌーヴォーの絵画のように妖しく美しい黄泉の世界へ旅立つかのような、印象的な最期でした。
 私が連想していたのは、ジョン・エヴァレット・ミレイの 「オフィーリア」 の絵。

 このウィリアムの襲撃をはじめとする一連の謀略を知りながらそれを隠していたレミジウスは、院長の座を追われます。
 そしてフィリップが、再び院長の座に返り咲く。

 「聖堂は、完成するだろう。
 だがお前は、自分のために聖堂を建てる。
 神のためではない。
 私を罪びとと言うがお前だって…!
 ウェイルランと大して変わりはしないぞ…!」

 このレミジウスの、フィリップに対する捨てゼリフ。
 先ほどの私の考察を裏付ける指摘のように思えます。

 そんななか、リチャードは十字軍として出征。
 この十字軍、というのも、異教徒を迫害するドグマ的発想のたまものであります。

 いったい信仰とは、何なのか。

 リーガンを失ったウェイルランは、傷だらけの自分の体をさらしながら、神に問いかけるのです。

 「耐え忍べば、私たちが勝利する日はやってくるのですか?

 私は…あなたに尽くしてきました…。

 …なぜ私を見棄てられるのですか…!」

 次回、最終回です。

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 に関する当ブログほかの記事

第1回 圧倒的な徹底ぶり
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-237d.html
第2回 骨のあるドラマとはこういうものかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/2-4477.html
第3回 利用される神々http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/3-537a.html
第4回 むせかえる死臭のなかでhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/4-34e0.html
第5回 永遠の一部たるべきものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/5-a7e7.html
第6回 神の意志はあるかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/6-69bf.html
第8回(最終回)前編 神とどう向き合うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-46ec.html
第8回(最終回)後編 神になるのか、神を敬うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-1065.html

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「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 第6回 神の意志はあるか

 モードから市場開催の権利を承認してもらうためフィリップは100ポンドをアリエナから借りていたのですが、モードが劣勢になることでそれがフイになってしまう。 そこに今回のウィリアムの襲撃による商品消失。 アリエナはリチャードのバックアップが出来なくなり、絶望に打ちひしがれます。 手下を雇ったり必要経費がなんだかんだとかかって、騎士でいられるのもそんなにたやすいことではないようであります。

 そんなアリエナの絶望を見ていたアルフレッド。
 父親のトムのあとを継ぐ、とフィリップに持ちかけます。
 彼が考えていたのは、トムからソデにされていた、大聖堂天井を石材で弓状にする構造の建築方法。

 これは、トムが 「無理だという言葉は捨てろ」 と教訓していたことの逆効果の意味合いを持っています。

 無理だということに果敢に挑戦することと、無謀なことをやるのとは違う。
 フィリップはアルフレッドの意見に耳を傾けます。
 これが今回後半の悲劇へと、つながっていくことになる。

 フィリップから棟梁として認められたアルフレッドは、アリエナに求婚します。
 経済的な絶望のなかにいたアリエナは、ジャックへの思いを断ち切れないながらも、それを受け入れる。 修道僧としてこの地にとどまっていたジャックはそのことに激高して暴れ、地下牢に閉じ込められます。

 いっぽうモードの敗北が確定しても、ウェイルランとリーガンの目論みは破綻することなく着々と進行中。 カンタベリー大司教を亡きものにしようと、息子のウィリアムの結婚をお膳立てして、カンタベリー大司教を呼び寄せる手はずを整えます。
 ちょっとこれは意外でした。
 なぜならリーガンは息子のウィリアムに対して、近親相姦的な感情を抱いている。
 それなのに息子を誰かに取られることに対してあんまりためらいがないんだなあ、という感じ。
 これは推測ですが、リーガンはそんな息子でさえ、目的のための道具としか考えていないのかもしれません。
 道具だから、倒錯した愛情も向けられる。

 地下牢に閉じ込められたジャックは、母親のエレンに助けられて脱獄。 この牢は、ジャックの父親であったフランス人の男が閉じ込められていた場所でもあったのです。
 そこから抜け出したジャックはアリエナの元へと向かう。

 ジャックとアリエナはその場でベッドを共にするのですが、このときにアリエナは、ジャックの子供を授かってしまったようであります。 でも、弟を爵位につける誓いを破れないアリエナは、ジャックとの仲をあきらめざるを得ない。
 後日アルフレッドと結婚したアリエナは、アルフレッドが不能であったことが原因で彼から不遇な扱いを受けるのですが、そんななかでジャックの子供が出来ていることを悟る。 けれどもそれをアルフレッドに隠し通すことを決意します。

 まあすぐにばれることなんでしょうが、どうなんでしょう。
 当時の服装から言って、お腹が大きくなることをそのまま隠し通せたとも思えます。 それともアルフレッドは、その秘め事を知りつつも鬱々と不満を鬱積していったのでしょうか。 ここらへん、細かい描写がなくてちょっと混乱します。

 リーガンはカンタベリー大司教を呼び出すことに成功、回廊上部から突き落とします。
 うーん、神をも恐れぬ所業…。
 リーガンはその罪におののいたのか、狂気をはらんだ声で、その場で叫び続けます。

 数カ月後。

 いっこうに息子が爵位を与えられないことにいら立ったリーガンは、ウェイルランを脅迫します。

 「私は24年も忍耐強く待ってきたのよ!」

 息子の剣が、ウェイルランの喉元に突き付けられます。

 「地獄で焼かれるぞ」

 地獄に堕ちる、というのは、いずこの時代も世界中どこに行っても、宗教者のおんなじ脅迫文句のようであります(笑)。 けれどもリーガンは眉ひとつ動かさない。

 「バカ言わないで。 息子の罪はあなたが許したでしょ?」

 リーガンは聖職者の言い分など、ただのたわ言としか受け取っていないのです。
 「私を満足させろ」 と言われて股間をさわったり、リーガンは聖職者の暗部の構造を、知悉しているようであります。

 ウェイルランは脅されながら、キングスブリッジの大聖堂中心部の、弓状の天井が閉じたことを祝う席でウィリアムの爵位を報告する、と約束します。

 そしてその当日。

 大司教に昇格したウェイルランが、ウィリアムの爵位を発表します。
 鳴り響く拍手と、打ち鳴らされる床。
 その振動が、石で組み立てられた、弓状の天井を、徐々に崩していくのです。

 そして大音響とともに、その祝いの場を直撃していく巨大な石たち。

 この場面、ちょっと津波を連想させて、恐怖が倍増しました。
 善き者も悪き者も、その場にいたすべての者たちが、その惨劇に言葉を失います。
 79人もの人々が、この事故で死ぬことになるのです。

 この石の崩落によって、その場に居合わせていたカスバートの妹ケイトも、死んでしまう。
 彼女は悔い改め、娼婦となり下がっていた身を恥じ、兄を頼って来ていたのです。

 血だらけになって息絶えた妹を抱えながら、カスバートは神に向かってこう責め立てます。

 「イエス様、なぜです?

 慈悲を求めた妹への答えが、これですか!

 私は命を捧げたのに!

 なぜ妹を殺したんです!

 なぜケイトを…」

 直近、大災害に直面したからでしょうか、このカスバートの言葉は、私の胸をえぐりました。

 この事故には、確かに複合的な要因が積み重なっている。
 言わば、人災のひとつであります。

 けれども、もし神や仏が意志によって救いたもう者を選んでいるのならば、こんな無差別な事故など、起こすはずがない。

 要するに、神に意志なんて、ないんじゃないか。

 そりゃ、思い返してみれば、思い当たるフシなんか、人間誰にだってあります。
 みんな後ろ暗いところを、何かしら抱えているのです。
 だからそのバチがあたったのだ、という理屈は、いくらだってつけられる。

 しかし、そこに神の選別意志など、私は正直感じることができません。
 悪い者はいくらだって生きているじゃないですか。
 死んだあと地獄に行くにしたって、生きている間はのうのうと生きているじゃないですか。

 私はもし超越的な存在があるとすれば、それはどんな試練にも耐えようとする、人間自身の意志なのだ、と感じます。
 神が宿るとすれば、そこだ。

 この事故のショックか、アリエナはその場でジャックの子供を産んでしまいます。
 衝撃を受けるアルフレッド。
 自分がこの事故の責任の一端を担っている、という罪の意識など吹っ飛んで、憤怒だけが彼を支配する。
 彼はアリエナを、家から叩き出すのです。

 ウェイルランはこの一件によって大司教のポストを撤回され、フィリップは一介の修道士に降格。 大聖堂の建設も中止。 キングスブリッジの院長には、フィリップが聖アドルファスの遺骨をねつ造していた事実を暴露したレミジウスに。 ウェイルランと結託している、ワルモノです。

 家を叩き出されたアリエナは、生まれたばかりの赤子を抱きながら、父親のことを調べるためにフランスへと向かったジャックを、追いかけることになるのです。

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 に関する当ブログほかの記事

第1回 圧倒的な徹底ぶり
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-237d.html
第2回 骨のあるドラマとはこういうものかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/2-4477.html
第3回 利用される神々http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/3-537a.html
第4回 むせかえる死臭のなかでhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/4-34e0.html
第5回 永遠の一部たるべきものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/5-a7e7.html
第6回 神の意志はあるかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/6-69bf.html
第7回 信仰の本質とは、どこにあるのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/7-1f00.html
第8回(最終回)前編 神とどう向き合うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-46ec.html
第8回(最終回)後編 神になるのか、神を敬うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-1065.html

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「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 第5回 永遠の一部たるべきもの

 あまりに猛スピードで展開していくこのドラマ、そのなかで私が感じていた物足りなさを、今回はいくぶん解消できた気がします。
 ワルモノサイドのウェイルラン、リーガン、ウィリアムあたりの描写は執拗なのですが(ただどうして彼らが悪者なのかの説明は希薄)、フィリップやトムの精神的な移ろい、葛藤というものがこれまで見えてこなかった。 そこらへんについてこの回は、ちょっとではありますが切り込んでいました。

 まあ、リーガンたちがどうして悪者なのかの説明がない、というのは、この話がある種残酷な童話みたいなスタンスだからなのかもしれません。 「白雪姫」 のばあさんだって、どうして悪者なのか説明してませんもんね(笑)。

 さてあらすじ。

 前回処刑寸前まで行ったフィリップ、処刑場の教誨にやってきた同じ修道僧の弟に助けられます。
 私がウィキで原作の内容を読んだ限りでは、フィリップの弟はトムが授かった赤子の息子(のちのジョナサン)をさらった豚泥棒と同一人物のように思っていたのですが、もしかするとドラマで設定が変わっているのかもしれません。 原作と微妙に設定が変わっているのはほかにもあって、トムの大きな息子のアルフレッドが妹のマーサに対していじめを行なっていたとかいうことが、ドラマではないですね。

 いっぽうウェイルランとリーガンの悪だくみコンビは、モードとスティーヴンの間で政権掌握が揺れ動く状況に、どっちについても自分たちが生き残れる方策を模索しています。 互いに策略の主導権を握ろうとするウェイルランとリーガン。 「何かを頼むなら私を満足させろ」 と高飛車に出るウェイルランの股間をさわるリーガンに、「そーゆー意味じゃなくって」 という展開には笑いました。 ウェイルランの本当の望みは、大司教カンタベリーを亡きものにしろ、ということ。

 互いに人質を擁するウェイルラン(モード側)とリチャード(スティーヴン側)。
 ウェイルランはリチャードに、スティーヴンの息子を人質として渡せばスティーヴンの身柄は保障する、という交換条件を出します。 そんなの受け入れなられない、というリチャード側に、「モードたちはスティーヴンの息子など見たことがないからへーきへーき」 と因果を含ませるウェイルラン。 リチャードは赤の他人の子供をスティーヴンの息子としてモードへと引き渡します。

 戦いに勝利したモードは女帝気取りで、助かったフィリップのキングスブリッジ市場の再開の要請にこたえ、シャイリングの石切り場の権利をウェイルラン側に与えることを約束しながら、両者に100ポンド要求する。
 このモード、どうもいけ好かないです(笑)。 自分が正当な王位後継者だという自意識が過剰なのでしょう。 スティーヴンも鼻もちならない人物ですが、まだ神への恐れによる葛藤があるだけましな気がする。

 フィリップはモードから要求された100ポンドを、アリエナから借りることとします。 アリエナにとってそれは商売をするうえで結構な負担となったのですが。
 フィリップとともに奇跡的な生還を果たしたジャックと再会するアリエナ、エレン。

 スティーヴンはすぐさま反撃を開始、騙されたことを知って激怒するモードは、リチャードが引き渡した子供を殺しますが後の祭り。 戦局はモードに不利に動いていきます。

 モードに渡した100ポンドが無駄になるかもしれない不安のなかで、フィリップは進まぬ聖堂建設にイライラを募らせます。 そんななか、トムはジャックとアルフレッドに、自分の後継を委ねる。

 「もしこのガラスで聖堂が作れると言ったらどうなる」

 「無理だ」 と一笑に付すアルフレッド。

 「無理か…。 その言葉はけっして使うな」

 自分はこの聖堂が出来るまで生きていない、と断言するトム。 そしてジャックもアルフレッドも、生きてはいないだろうと断言します。
 ふたりの青年はその言葉に驚いた様子でしたが、見ている私も驚きました。
 つまりこの大聖堂は、そんじょそこらの簡単な教会とは違う。
 何世代にも引き継がれていく、世代を超えたモニュメントであるのだ。
 ちょうどガルディが設計した、バルセロナのサグラダ・ファミリア教会みたいなものですか。 あそこまで極端ではないにしろ、ゴシック様式の大教会建設には、相当な年月をかけたものが多かったんでしょうね。

 このことは、自分がこの世に生きた足跡を残すものであると同時に、自分の魂を永遠のものにする作業のような気がします。

 人間は、永遠に生きることはできません。
 でも、自分がその、永遠の一部になることは、可能なのです。

 そんな世代を超えた建設にかかる年月のなかでは、無理だと思われることもそのうちにできるようになるかもしれない。
 常識を捨てることは、モノづくりに携わる者たちには必要な能力と言っていいのではないでしょうか。
 トムはそのことを教えたのです。

 けれどもトムの期待をよそに、アルフレッドはジャックへの憎悪を募らせ、それは聖堂建築作業をストップさせるほどの大ゲンカに発展。 いさめるトムとのやり取りの中で、ジャックはこの大聖堂建設のきっかけとなった、先の教会の火事が自分の仕業だったことを話してしまいます。 「出ていけ!」 と怒鳴るトム。

 神の御業だとばかり思っていた火事が、実は不純な動機から発生したものだった。
 自分のこれまでの人生について、トムは考えただろうと推察されます。
 自分がこの世に残すべきものが、はかりごとの上に成り立っていた、虚無に満ちたものだったと考えるのは、つらいことです。
 そんなとき、トムに話しかけてきたのが、いったんは捨てた、実は自分の本当の息子であるジョナサン。

 「本当の母さんは死んだ」 と話すジョナサン。

 「知ってる」 と答えるトム。

 「じゃあ父さんが誰か知ってる?」

 言葉に詰まるトム。 「…誰だろう?」

 「神さま。 みんなの父さんでしょ」 ジョナサンは、無邪気に答えます。

 「ああ、そうだな」 と笑うトム。 そこには、本当の父親は自分だと言い出すことのできない苦悩がにじみ出ていました。
 トムはその後、ジョナサンに本当のことを打ち明けようとするのです。
 このトム、ジョナサンに真実を打ち明けようとしたとき、キングスブリッジを襲撃してきたウィリアムによって、殺されてしまう。
 トムはその直前に、熊と犬とのたたかいの見世物で、熊が殺されてしまうのをかわいそうに思ったジョナサンに対し、「勇敢に戦って死ねるのなら熊も本望だ」 と語りかけていました。 その言葉を実践するかのように、トムはウィリアムの前に立ちはだかります。 しかしあっけなく、ウィリアムの剣は、トムを斬り捨てる。
 とどめを刺そうとするウィリアムに、トムはかすかな仕草で、「(どけ)」 と合図をする。
 ウィリアムが後ろを振り向くと、そこには建築途中の大聖堂が。
 自分のこの世での仕事を見守ったトム。
 ウィリアムは、トムの胸を突き刺します。

 トムの魂は、ここで大聖堂とのかかわりに別れを告げ、次の世代にその思いが引き継がれていくことになるのです。 これまでトムの描写に物足りないものを感じていた私にとって、これらのシーンはまさに必要最小限であるけれども満足のいくものでした。

 話は前後しますが、トムによってキングスブリッジを追い出されたジャックは、フィリップに請うて修道士としてこの地にとどまります。
 このときにフィリップは、ジャックの母親エレンから、自らの信じる神とエレンの信じる神との間に横たわっている、「愛」 というものの有無を指摘される。
 ここでフィリップは、自分の信じている神が教会の論理のなかに埋没していることを、自覚していました。
 ここらへんの下りも、物語が深淵に向かう手助けをしていた気がします。

 ダイジェスト的ながらピンポイントを押さえ始めたドラマは、この先さらに人間の暗部に迫っていきます。

 それにしてもこの回は、アリエナもアルフレッドもジャックも、おしり丸出しでありました(いきなり下卑た話でスミマセン…笑)。 相変わらず、子供には見せられない内容であります(笑)。

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 に関する当ブログほかの記事

第1回 圧倒的な徹底ぶり
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第3回 利用される神々http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/3-537a.html
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2011年3月19日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第9回 見くびって見ていると、足元をすくわれる

 相変わらず浅いドラマが展開している 「姫たちの戦国」。

 今回の全体的な骨格としては、秀吉の度重なる挑発にムカムカしながら、「戦はやめてください」 という娘たちの願いをはねつけることが出来ない柴田勝家(大地康雄サン)、市(鈴木保奈美サン)の説得を聞きいれて義父を戦場へと送り出すことに同意する姉妹たち、そして戦場へと赴く義父への江(上野樹里チャン)の思い、そんなところがメインだった気がします。

 そのメイン部分の説得力、うーんいちおう説明はされているんですが、なんか浅い。
 ホントに、ホームドラマ目線なんですよ。
 政治的な思惑が、全く感じられない。

 女子供が戦が嫌い、だというのは、まあ当時にしたって同様だった、と思うんですよ。
 ただそれに目をつぶっても、ドラマにおいて戦に至るまでの勝家の政治的な判断を一切描写せず、勝家が市と娘たちに平和ボケにされたという視点ばかりで見せていこうとする姿勢が、軽さを感じる最大の原因となっている気がするのです。

 柴田勝家が秀吉の挑発になかなか乗らなかったのは、市の娘三人に 「戦はやめてください」、と強く懇願されていたからだという、こうした作り手の視点。

 度重なる家臣からの報告に 「ぬわんだとぉ~~っ?」 と激高しながら娘たちに睨まれて、「あ、いやいや、なぁ~~んちゃって!今のはナシね」 みたいなギャグタッチ。

 「男ってこんなものだから戦をさせてあげましょうよ」 と娘たちを説得する市の論理の浅さ。

 娘から戦いの了承を得て 「えっ?いいの?(ヤタァ~ッ)」 みたいにふるまう勝家の幼稚ぶり。

 確かに笑える部分もあるのですが、なんか、失笑みたいな笑いなんですよ。 「ハハハ…あ~あ」 みたいな。

 当の挑発する人、秀吉は全く受けないお笑いみたいだし。
 いたずらに嫌悪感をあおっているだけ、としか見えない。
 こんな下卑た男と茶々が今後どうなるのかを考えただけで、虫唾が走る…というか、それを狙ってるんでしょうけど。 狙いすぎてて虫唾が走る。
 現代劇に置き換えたとしても、こんなリアリティのない人物など、いないと思うんですけどね。

 そんななかでこちらの胸に届いたのは、茶々(宮沢りえサン)が市の説得にもかかわらず義父の出陣をゴネる江に 「『己の信じる道を行け』 という伯父上(信長)の言葉は、義父上にも当てはまる」 と諭した言葉。
 こうした浅いドラマが展開するなかで、市が娘たちに諭した 「男とは、もののふとは」 という論理を、かつて信長が語り江が自身の生きる指針としていた言葉を引用し重層的に茶々が推し進めることで、ドラマとしての体裁を保つ一線に、かろうじて踏みとどまっている。

 さらにここでカギとなるのが、勝家の隠れ特技、刺繍。

 口下手だった勝家が戦場で覚えた、という刺繍ですが、いったい勝家は戦場で誰に教わったのか?とかが不明で、いかにも取ってつけたような話がまた興醒めする。
 江が阿弥陀様だと言い張って作成していた作りかけの刺繍も、こりゃ勝家だな、というのがバレバレだ、という点でやはり浅い。

 この時点で先が読めてしまう展開なのですが、戦いに赴く勝家のもとに、息せき切って江が馳せ参じ、義父の姿が縫われた巾着袋を手渡す場面で、不覚にも私、ウルウルしてしまったのです。

 これは、先の茶々による説得の際、江が勝家の出陣を渋る原因として 「あの人は自分が初めて父上と呼べる人なのだ」 と話していたことが伏線にあります。

 江が縫ったその勝家の像は、いかにも10歳程度の娘っ子が作ったような稚拙なもの。
 でもそれが、幼い娘の思いが凝縮されている感じで、いいんですよ。
 予想できた展開でしたが、う~ん弱いよなあ、娘にこういうことされると…(涙)。 クソッ、不覚だ(笑)。

 勝家はそこに市から預かっていた信長の天下布武の印と、茶々と初(水川あさみサン)からのお守りを入れ、「御屋形様と、家族に見守られている」、という構図が出来上がる。

 そして城門を出ていく勝家を、ひとり飛び出して 「義父上ー!義父上ー!」 と呼び続ける、江。

 ここでもウルウルです。
 江が勝家のことを 「義父上」 と直接呼べる、最後の機会だったと、見る側が分かっている故のことなのですが(やや間違っておりました…笑)。

 これらのシーン、確かに江たちを 「いつものごとく」 年端のいかぬ少女として脳内変換をしていなければのめり込めないシーンであることは自明であります。

 ホントしつこいと自分でも思いますが、子役を使っておれば、こんな大損などしなかったでしょうに…。 子役がやってると思いながら見ると、結構ハマるんですよ、これらのシーン。
 ちょっと見くびりながら見ていたので、足元をすくわれる気がしました。
 見せかたがきちんとしておれば、「ホームドラマとしては」 60点くらいの出来だと思うんですけどね(誉めてるのか、ソレ?)。

 いずれにせよ、
 …秀吉だけは何とかならんものでしょうかね。

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2011年3月18日 (金)

「外交官 黒田康作」 最終回 真の国益とは何か

 3.11後に放送された 「外交官 黒田康作」 最終回は、まさしく震災を経たあとの見る側にとって、別角度からとらえざるを得ない側面に満ちていた気がします。

 いわく、国民にとって、真の国益とは何なのか。

 私はこれまで、あんまりのめり込んでこのドラマを見ていませんでした。
 確か第2回でのレビューを最後に当ブログで取り上げることがなかった。

 それはつまり、霜村(香川照之サン)の行動について謎を深めさせ、それを追っていく黒田(織田裕二サン)、というこのドラマの構図自体に、魅力をあまり感じなかったことによります。
 こうした大掛かりな話の裏にはだいたい国のトップに近い人物が何らかのカギを握っていることは分かりますし、薬害訴訟が謎の鍵を握っているだろう、というのはうすうす読めていた気がします。 後出しジャンケンみたいなことを申しておりますけどね。

 柴咲コウサンの上司や萩原聖人クンもドラマ開始当初からあからさまに怪しくて、この人なんかを隠してるな、というのが分かったり、見ていてなんとなく怪しそうな人が特定されてしまう、というのは、「謎を深めさせて見る側を引っ張る」 というドラマの作りかたとしては、ちょっと物足りなさが残ったのです。 霜村自体も悪い人じゃなさそうだったし。
 ここで霜村以外にもどうしたって悪役に見えてこなかったのは、柴咲コウサンや外務副大臣の草刈民代サン、捜査一課の田中哲司サン、外務省職員の田中圭サン。
 謎がどんどん深まっていくわりには、なんか次の展開が読めていくような感覚。

 それでも物語的に読めなかったのは、西島隆弘クン。
 彼の行動がいちばん読めなかった。
 彼をストーキングして殺されてしまう柏田というアンチャンの下りも読めなかったし。
 でもなんだか、それで話が複雑さを増していくのも、かえって見る気を削ぐ、と申しますか(失礼)。

 このように謎解きをメインに展開した結果、最終回の前の回では、黒田と霜村との謎解き会話が延々と続きました。
 ただそこに向かう霜村や萩原聖人クンたちの拳銃片手の過激な行動には、とても性急なものを感じました。 片瀬那奈サンも拳銃を手にしながら、結構躊躇していたようですし。
 構図的に、ドラマを無理に盛り上げようとしているスタッフに、当の登場人物たち(役者ではない)が戸惑っている、という感じを受けたんですよ。 結構躊躇なくやってたのは、萩原クン演じる悠木圭一だけだったかな。
 おそらく、どれだけこの片瀬サンや萩原クンなどの薬害問題の被害者たちが怒りを持っているかが、事前に描写されていれば、ここまで性急な展開に見えなかったはずであります。

 説得を試みる黒田と、元首相の平泉成サンに拳銃を突きつけたままの霜村との間で延々と交わされた謎解き説明シーンが終わった瞬間、霜村はSWATによって射殺されてしまう。

 そしてこれを容認した外務大臣の近藤正臣サンが、真の黒幕、という展開になっていくのです。

 そうなると最終回で黒田がやろうとしていることが、だいたい分かってしまう。

 こうしたドラマの場合、ワルモノの側にも納得するに足る 「一分の理」 が必要だ、と私は考えています。
 最終回で黒田に追い詰められた近藤サンは、薬害による副作用で一部の国民が被害を受けても、アメリカとの間に山積していた外交上の問題をこれでクリアできたのだ、という言い訳に終始していました。
 ところがそれが、具体的に提示されない。 国民の生活(イコール命)がそれでどれほど保障されたのかが、提示されないのです。
 私はドラマを深いものにするために、ここできちんとした具体的な理由を提示すべきだった、と考えます。
 それが抽象的なために、話は深遠さに向かう術を失い、ただ 「正義の味方」 黒田と、「既得権益に走るワルモノ政治家」 近藤サン、という構図ばかりが浮き彫りにされてしまう。
 まあ、ドラマの作り手はこのドラマを 「社会派」 にする気はなかったのでしょう。

 近藤サンはその後、政治家としての自分を恥じる演説をした草刈サンに 「自分が正しいと思うことをやったのだからそれでいい。 それは自分も同じだったが」 という趣旨のことを話すのですが、こうすることでドラマは 「自分が正しいと信じたことを行なう」、という庶民レヴェルの教訓で完結してしまうのです。

 しかしここで行なわれていることは、高度な政治的判断。

 これを日米外交上の駆け引きという天秤にかけ、ただ単に 「日本国民の国益」、というお決まりの文句によってくくろうとするとき、「じゃあ日本国民の国益って何なの?」 と問いたださずにはおれません。
 ドラマはそのところまで切り込まないため、「日本の政治家ってみんなこうだよな、結局選挙に勝って自分の立場を安定することしか考えていない、国民の利益を考えるって言っても、それは口先だけなんだよな」、という感想しか、見る側から引き出すことが出来なくなるのです。

 けれどもそのことによって、私などはかえって 「じゃあ日本国民の本当の利益ってなんなんだろう?」 と考える機会を得た気がするんですよ。

 スーパー堤防の是非は別として、今回のような大災害で、一挙に万人単位の国民が亡くなってしまう、ということに対する防災って、出来ないものなのか。

 今回の大災害では、人命ばかりでなくすべてのものが流され、破壊し尽くされました。
 そのすべてが 「国の財産」 と呼べるものです。
 それを守る手立てというものは、ないものなのか。

 これは 「外交上の観点から国益を守る」 仕事に従事している黒田康作には答えの出せない問題です。
 政治家が私利私欲を捨てて国益を考え抜かなければ、このことに対する根本的な解決はまず無理でしょう。 政治家の仕事の根本は、まさにそこにある。

 いみじくも最終回のドラマのなかで草刈民代サンが述べていたように、そのうちやる、では、100年たってもそれは実現しない。
 大震災への一連の対応が済んだ後すぐにでも、着手しなければならない問題のはずであります。

 ドラマとしては、結局映画のためのつなぎ役にしかなっていなかった気もしてくるのですが、そう考えれば、黒田康作という人物を限りなく謎めいた人物とした演出の意図も読めてきます。 織田裕二サンは、こういう面白みのなさそうな男の役もこなせるんだなあ、と感じました。 個人的にはもっと柴咲コウサンのボケっぷりに呆れ顔になるとかいう場面も欲しかったのですが、結構徹底してニヒルでしたよね。

 それにしても。

 このドラマを含めて、いろんなドラマの最終回を見ることの叶わなかったかたがたにたいしては、こうしてのうのうとドラマを見続けることはとても申し訳ない気持ちになります。
 特に4月から始まる 「JIN完結編」。
 もっと早くに続編が放送されていれば…と思うことしきりです。
 確か当ブログでも以前、「そんな先に続編が放送されるなんて、そのときまで生きていられるかどうか…」 などと冗談めかして書いてしまっていたのですが(追記 「坂の上の雲」 関係の記事でした)、そんな冗談が現実になってしまうかたがたが続出してしまうなんて…。
 とても申し訳なく感じるのです。

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2011年3月15日 (火)

地震の影響、いろいろ出ています

 原発の爆発に伴う放射能の漏出など、不特定多数にわたる健康まで心配されるようになってきた、今回の東北関東大震災の影響。
 計画停電というかつて体験したことのないシフトでも、混乱は増すばかりです。
 東京電力の対応、記者会見の様子など、どうにも要領を得なくてよく分からない。

 でも私は、「想定外」 の事態に対する東京電力という会社自体の耐性がないのだ、という解釈をしています。
 確かに 「しっかりしろよ」 とは思うが、仕方のないことだと諦めるしかない、と思う。
 それだけ今回の地震は未曽有の大災害。
 影響の少なかった立場の人も、総じてそのことを肝に銘じて、一緒に対処していくほかはないのだ、と思うのです。

 ただ 「想定外」。

 「想定外」 の事態に備えるのが、本来のありかたなんじゃないのかな。

 どっかの大臣も何百年に一度の災害に備えてスーパー堤防を作るのはナンセンスだとか事業仕分けでバッサリやってた気がしますが、何百年に一度の大災害が、起こってしまいましたからね。

 門外漢がいい加減な物言いをいたしますが、確かに 「想定外」 の事態に備えて途方もなく高い堤防を作るのは、予算もかかるし景観も損なわれます。
 だいたい今回のような地球最大規模の力学で襲ってくる津波に、どうしたって対応できるものではない気もいたします。
 しかし 「エヴァンゲリオン」 のジオフロントみたいな巨大なバリケードが、出来ないものなんでしょうかね。
 津波が来たらバリケードが港湾地区の前にそびえたつとか。
 …なんか荒唐無稽な話をしている気がしてきた。

 けれどもそれくらいの備えをしないと、人間は海の近くには住めない、という話になってしまいますよね。

 今回のマグニチュード9.0という規模以上に、昔のチリ地震などは9.5とかいう巨大なものだったらしいですが、少なくともその9.5という規模が引き起こす災害に耐えうる設備を作っておかないと、「そんなとこに住んでたのが不運でした、はいおしまい」 という話になってしまうと思うんですよ。

 だけどそんなもんじゃないでしょう。

 今回犠牲となられてしまった少なくとも万単位のかたがたが、「不運でした」 で済まされるはずがない。

 もしスーパー堤防に天文学的な国家予算が必要だ、というのならば、少なくともそんな万単位の人々が助かるような防衛策、というものを、確立しておかねばならないんじゃないでしょうか。

 それとやはり、原子力発電の安全性も、考えておかねばならない喫緊の課題でしょう。
 「想定外」、などと言うが、この設備こそ想定外を想定する必要がある。
 9.5を想定せねばならないのです。
 だいたい、普通の人には、わけが分からないじゃないですか、原子力発電、って。
 そんな危険なものを取り扱っている以上、安全だとか言い切るには、想定以上のことをしなきゃならん、と思うんですよ。
 電気が来なきゃポンプも作動しないとか、なんかすごくマヌケな気がする。 水が入れられないとか、機械構造上の問題をこっちが簡単に考えすぎるのかもしれませんが、手作業で入れらんないの?って思ってしまう。
 だから要するに、ワケの分かんないもの取り扱ってるからこうなるんだよ、みたいに軽ーく結論づけたくなってくる。

 それにしても、今回の地震がいかにすごいのかは、震源から遠かった首都圏(それでもかなり揺れましたが)に住んでいても如実に感じます。
 阪神淡路大震災の時は、こんなことはなかったですね。
 あの時は、同じ日本であんなとてつもない大災害が起こっているのか、というくらい、逼迫した影響がありませんでした。

 今回いちばん感じるのは、モノがことごとくなくなっている、ということ。

 ガソリンスタンドは軒並み休業、スーパーやコンビニには品物がない。
 石油タンクが爆発してましたからね。
 あんなのは、「ウルトラマン」 でしか見たことがなかった気がします。
 石油備蓄を放出する、というニュースが出ていましたから、数日中にはガソリン不足は幾分緩和されるとは思うんですが。
 私の場合、今日は仕事がお休みになってしまいました。
 計画停電で、機能不全に陥ってしまったセクションがあるんですよ。
 だいたい電車も運休する路線が多すぎて、まともに通勤できないですからね。
 こんなにものすごい影響があるなんて、やはり現代日本が直面した、最悪の大災害なんだな、と実感します。

 今回、数日にわたってテレビもラジオもネットもこの話題ばかり。
 知らない間に、気分がふさぎ込みがちになっていた気がします。 心のなかの一部が、津波とともに押し流されて消失してしまった感じで。
 軽いストレス障害なのかもしれません。
 街でげらげら笑っている人を見たりすると、「不謹慎だ」 とか思ったりして。
 けれどもこんな時こそ、明るく前向きにならなきゃいかんような気がします。
 一日一日を一生懸命生きることが、自分にできる精一杯のことだと思うのです。
 とりあえず、いちばん簡単に出来ること。
 節電ですかね。

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――に

目をそらさずに
まっすぐに見つめることは
なんて難しいのだ
なんて難しいのだ。

なんのてらいもなく
自らの力を信じることは
なんて難しいのだ
なんて難しいのだ。

泣きたくなるような日々のなかで
笑って生きる人の
心はなんて強いのだ。

なにもできないと感じながら
虚しさを感じながら
ただひたすらに何かを信じ ただ前を向いて生きる

それは なんて悲壮なのだ

けれどそれは
なんて尊いのだ。

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2011年3月12日 (土)

東北太平洋地震、心よりお見舞い申し上げます。

 初めに、このたびの大地震で被災に遭われたかたがたに、衷心よりお見舞い申し上げます。


 前日、「四十九日のレシピ」 の記事を立ち上げてからたったの5分後。
 長い記事のチェックをしながら、新しいコメントをいただいているのに気づいたので、それに返信しようと考えていた矢先のことです。
 「なんか揺れてるな」 と思って。
 早くやまないかな。
 小さな揺れがあまりに長く続いたので、このまま終息するか、と思ったその瞬間。
 かなり激しい揺れが襲ってきました。

 当方住んでいるのは世田谷なのですが、縦揺れとも横揺れとも違う、四方に分散するめちゃくちゃな揺れだった気がします。 まず目の前のパソコンを手で押さえたのですが、横にある大型ブラウン管テレビの揺れが激しい。 これは重量4、50キロくらいあるシロモノなので、倒れると大ごとです。 パソコンと同時に手で押さえました。
 そんなに片付いているわが部屋ではないのですが、A3のコピー用紙の重たい束が棚から落ちた程度。

 すごい揺れだったのでテレビとラジオを同時につけたのですが、東京がこんなに揺れたのに、テレビでは宮城県のことをやっている。 そっちのほうがすごかったのか…。
 そのうちに津波の映像が放送され始め、お台場で火災が起きている、という映像が流された。
 6メートルなどという津波の予測を聞くと、ちょっと信じ難かったのですが、最初伝わってくるこの映像を見た限りでは、その後の被害の甚大さが予測できない感じでした。 ちょっと見くびっていた、と言わざるを得ません。

 高速が全面通行止め、電車も止まった、というニュースを伝え聞いたので、夜勤に向かう道路(246)の渋滞が予測されます。 見くびっていたことが原因なのですが、30分くらい早く出れば大丈夫だろう、と考えました。

 ところがそれが大きな間違いで。

 246までの道路もほとんど動かず、246もほとんど動かない。

 目の前の多摩川を超えて世田谷を出るまでに、軽く1時間かかってしまいました。

 それからはあっという間に日は暮れて、遅々として進まない道路にイライラしながら、仕事先に電話しようとするのですが、ケータイが全く通じない。
 歩道には、おそらく帰宅すると思われる人々が大勢歩いている。
 そしてところどころ、完全に停電している地域がある。 街灯さえついていないところで、信号だけがついているのが、逆にかなり不気味です。
 マクドナルドも吉野家も閉店。
 結局普段なら1時間程度で着くところへ、4時間半もかかってしまった。

 ところが着いた先も車の遅れのため、仕事自体が始まらない。

 いつもよりも3時間も4時間も遅れて仕事が始まったのですが、当然ヘトヘトです。

 帰りの246上りは混みがちではありましたが渋滞は解消していました。

 帰ってきてテレビで一夜明けた被災地の様子をようやくつぶさに見ることが出来たのですが、かなりひどい。
 当方福島県生まれなので、当然親戚も福島に多いのですが、やっとのことで連絡が取れた限りでは、多少の被害はあるものの、大したことがなくてほっといたしました。

 ただし被害の大きな地域は、根こそぎ町ごと消失した感じで、言葉を失うばかりであります。
 学生時代に三陸沖地震の被災状況を自主学習した経緯もあって、ああいう甚大な津波被害を何度も経てきたのだから、この地域の地震に備える体制というものは現在整っているとばかり考えていたのですが、今回の地震は国内で記録されている限りでは最大級のものであるとのこと。 人間の備えなど話にならないくらいの自然の暴威を感じます。

 いずれにせよ、こんな状態でテレビドラマの感想文など書いている心境にはなれません。 かなり労力を費やした前回の記事も、実に場違いな軽々しいものとなってしまいました。 アップした直後の地震だったとはいえ、状況をわきまえぬ記事になってしまったことは心苦しい限りであります。 お詫び申し上げます。

 あらためて、被災に遭われたかたがたには、心よりのお見舞いを申し上げます。

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2011年3月11日 (金)

「四十九日のレシピ」 第4回(最終回) あの世から見守る人がいる

 泣けました。
 もう、ボロボロでした。
 涙腺が、ぶっ壊れました。
 思い返すと、また泣けてきます。

 この記事も、書き終わるまで丸2日を要しました。 おそらく当ブログ史上最長記事(オープニングの詩を除いては)であります。 前後編に分けようと思いましたが、非常に乱暴ですけどあえてひとまとめにしました。 読んで下さるかたのことを考えず、誠に申し訳ありません。

 この最終回、さまざまな伏線と布石が激しく交差した、世にも稀なる傑作となっていました。 まるで何度見ても色褪せない映画の濃密さであります。 今年見たドラマの中では、早くもダントツのナンバーワン、であります。
 そのすべてを書きたいという衝動に駆られて、ここまで長くなってしまいました。 重ね重ね、お詫びを申し上げます。




 百合子(和久井映見サン)が東京から持ち帰った、オッカ(乙美、風吹ジュンサン)からの絵手紙をもってしても、まだオッカの年表の空白は目立ったまま。 四十九日の前日になってしまいます。

 そんななか、オッカが遺したボーダイなレシピ、…ではなく、トイレットペーパー(笑)が物置から出てくる。 「トイレットペーパーがなくなるのが先か、良平(伊東四朗サン)が死ぬのが先か」(笑)というほどの量。
 その利用先を思いついたイモ(徳永えりチャン)、オッカがボランティアで働いていた 「リボンハウス」 の理事長、桐野聡美(吉行和子サン)を呼び寄せます。

 吉行サンは百合子に、自分たちはテイクオフボード(跳び箱の踏みきり板)だと乙美とよく話していた、と打ち明けます。

 「思いきり走ってきて、板を踏みきって、箱を飛び越えたら、もう過去は思い出さなくていい。
 私たちはあれなんです。

 親が子を支えるように、みんな誰かの踏みきり板になって、次の世代を、前に飛ばしていく…。

 私は独り身なんです。
 誰ともつながっていない人生、そう思う人もいるでしょう。
 でも私は信じているんです。
 私と関わったことを、テイクオフボードにして、きっと誰かが前に進んでいるって」

 これは最終回のこのドラマを感動に導くための水先案内のようなセリフのように思えます。 吉行サン、ちょっとしか出てこないのにかなり重要な役でした。

 誰かのためだけの人生。
 ちょっと考えると、なんか虚しいような気がします。
 「自分」、というものがそこにない気がする。

 でもそうじゃないんだ、と。

 吉行サンのその話を聞く百合子は、オッカの人生の意味をもう一度考える機会を得るのです。

 それでもオッカの年表の空白は埋まらない。

 けれども、それを手伝っているイモ、ブラジル人のハルミ(渡部豪太クン)のテンションはアゲアゲ。 窓掃除用のスプレーで次々と落書きしながら、良平の怖い印象を直すのに、語尾に 「ニャン」 とか 「だべ」 とかつけたらどうかと提案し、良平をうるさがらせます。
 ここでイモが書いていた落書きは、ハートのマークの中に、「ATUTA(熱田)IMOTO(井本)」。 ダーリン熱田と井本がラブラブだ、とはしゃいでいるのですが。
 実はこのなんてことないシーンが、最終回終盤で意味を持ってくることになるのです。

 そのハルミ、四十九日の大宴会を見ることなく、ブラジルへと帰ることとなります。

 お別れの晩餐にと百合子が奮発したすき焼き。
 「すき焼きスキ~大スキ~」 とめちゃくちゃな歌をイモと歌いながら晩餐を終えたハルミは、乙美のお骨に線香をあげお礼を言いながら、良平の前の妻、万里子の遺影のある仏壇へと向かい、「挨拶、いい?」 と百合子に尋ねます。
 「(え?関係ないでしょ?)」 みたいな、ちょっと意外なものを感じながらそれに応じる百合子。
 ところがハルミは、そこに供えられていた、万里子がお腹の中の産まれる子供(ハルミと名付けられるはずだった)のためにさすっていたお守りの白い石をそっと手のひらで包んで、万里江の遺影に向かって、こうつぶやくのです。

 「オカアサン、帰ります…」

 いぶかしげにハルミを見る百合子。

 このシーンを見ていると、まるで百合子の弟として生まれるはずだったハルミが万里子の使いとして、あの世からやってきたかのような錯覚に陥ります。

 このドラマ、とてもリアリティを伴った体温の低い父娘を描きながら、このような実にあり得ないと思われがちな描写を執拗に繰り返している。

 でもそれは、生きている人なら少しは感じることのできるであろう、「亡くなった人たちの、残された家族に対する思い」、そのものなのです。

 それを可視化することによって多少のリアリティが損なわれる危険性もあるのですが、このドラマの作り手は、それを怖がっていない。

 残された父娘は、このドラマで、ことあるごとに亡くなった人と対話している。
 そのことを通じて亡くなった人に対する思いが重層的に描写されているがゆえに、違和感を抱かせることなく、見る側はその非現実的な話に没入することが出来るのです。

 「遠いんだろうなー、ブラジルは」

 酒に酔い潰れて寝たふりをしながら、良平はハルミに最後のお別れを言います。
 この 「ブラジル」、「あの世」 と置き換えてもいいような設定になっている気がする。

 「そうだね」

 「どれくらいかかるんだ?」

 「オトウサン来るなら、迎えにくるよ」

 「とても…行けないな」

 起き上って寂しそうな顔をする良平。

 「オトウサン、ハグ。 お別れ」

 照れくさがってぶっきらぼうに答える良平。

 「元気でな」

 「ちゃんと呼んで。 名前」

 「…元気でな。

 …ハルミ…」

 良平の声が、ちょっとうわずります。

 「サヨナラ、オトウサン」

 後ろから良平をハグするハルミ。
 冥界に息子を送り出すかのような悲痛さで軽く歪む良平の顔。

 まずここで、今回最初の 「泣けました」 です(笑)。
 あ~これが、まだまだ序の口であるとは…。

 黄色いボロのフォルクスワーゲンで帰っていこうとするハルミに、百合子が駆け寄って、謝礼を渡そうとします。 それを拒絶するハルミ。 ブラジルに帰るのにお金がない、と言っていたのに…。

 「引っ込んどれんかったのです」

 「えっどういう意味?もう一回言って」

 「ヤダ」

 ハルミはお金を百合子のポケットに押し込みます。

 「ずっと見てたよ」

 「えっ?」

 「七五三。 振袖。 白無垢。
 きれいな姉さん。
 いつもきれいな百合子」

 「オッカそんな写真も見せてたの?」

 「今もスキスキすき焼き~」

 「…変な歌」

 このやり取り。

 限りなく深読みが出来る、という点で、あり得そうな話でもあるし、あり得なさそうな話でもある。
 つまりオッカがかつて乗っていたフォルクスワーゲンがハルミの愛車、というのは、冥界からの乗物という比喩もできるし、「ずっと見ていた」 というのは、冥界から姉のことをずっと見守っていた、というようにもとれる。 「すき焼き」 に思いを託して、「きれいな姉さん」 を今も大好きだ、と打ち明けているようにも思える。 冥界から百合子の様子を見ていて、「引っ込んでいられなかった」、とこの世にあらわれた、という解釈もできる。

 「そうだったらいいのにな」、の世界なんですよ。
 はっきりと 「そうです!」 と描写してない。

 ハルミはダンナ(宅間孝行サン)の元に戻らないの?と百合子に尋ねます。
 それが死んだ弟の、唯一の心残りなんですね。
 百合子はもはや後戻りできないこと、ダンナの新しい家族の幸せを願っている、というようなことを言うのですが、ハルミは 「キレイゴト?」 と百合子の本当の気持ちを見透かしたように言うのです。
 そしてそんな姉のほほを、両手でそっと包むハルミ。

 「ハルちゃんの手は冷たいねえ…」

 このくだりも、ハルミが冥界の人間だから、という推測も成り立つ。

 「サムクナイ?」

 「寒くないよ」

 「よかった。 それじゃあ、サヨナラだ」

 足早に走り去っていく黄色いフォルクスワーゲン。

 するとなぜか、百合子は何かに気付いたように、それを追いかけてしまうのです。

 「待って!

 …ハルミ…」

 黄色いワーゲンはそのまま、橋の向こうへと消えて行ってしまいます。

 ここで今回2度目の 「泣けました」。
 この百合子の最後の 「ハルミ…」 は、明らかに自分の弟に向けて言っている。
 百合子が見せたそのときの表情は、もう二度と会えない弟へ向けた、それのようでした。
 もう、知らずにこちらは涙が…。
 あ~これも、序二段程度です…(笑)。

 結局オッカの年表は空白の部分を大きく残したまま、四十九日当日を迎えることになってしまいます。
 その外見上の準備が整わないのは、百合も父の良平も、その心構え自体が整っていないことの表れでもある。

 実際に始まってしまった四十九日の大宴会。
 しかし大宴会、などというのは名ばかりで、集まってきた10人足らずの親戚たちは、その四十九日ぽくない雰囲気に、ただただ戸惑うばかり。
 良平もその場をうまく取り仕切ることが出来ずに、そそくさと 「なんか飲みましょう」 などと逃げてしまう始末。
 あげくの果てに出しゃばりオヨネ、じゃなかった(古い…笑)、姉の珠子(水谷八重子サン)からこの常識外れの四十九日についてまたしても歯に衣着せぬ物言いをされ、良平もこれまで姉に抱いてきた不満をぶつけてしまう。

 百合子も静かではありますが、伯母に 「子供が産めずに出戻りしてしまった自分ですが見守ってくれませんか」 と話します。 子供のいない幸せというものを、この家に帰ってきてオッカの生き方に触れて、あらためて感じることができた、とオッカを立てようともするのですが、やはり大宴会、には不似合いな話。 場は、ますますしらけてしまうのです。
 諭された格好の伯母は 「これが大宴会なの? あ~呆れた。 ここの衆は、常識がなさすぎる!」 と松岡外相の如く(これまた古い話で…笑)その場を蹴って退席。

 その険悪な場にやってきたのは、「リボンハウス」 でオッカに世話になった女の子、美佳ちゃん。
 オッカに教えてもらったコロッケサンドを持参し、このコロッケサンドの屋台を始めたい、という夢を語るのです。

 そのコロッケサンド。
 良平がオッカとの最後のやり取りで拒絶した、オッカの最後の弁当だったのですが、良平がまずそれを口にして感動してから、その場にいた親戚たちが 「懐かしいな」 と次々手を出して場がなごんでいく。
 つまりオッカはなにかと言うとそのコロッケサンドをみんなにふるまっていたんだな、というのがこれで分かります。
 良平が持ってきたのは、オッカが作りかけていた、美佳ちゃんの人生を写真とイラストで構成したスクラップブック。
 その絵を空白だらけのオッカの年表に張り出し、自分のことをこの年表に書いてもいいですか?と提案した美佳ちゃん。
 「そんならオレも書けるぞ」 と、我も我もと年表にオッカとの思い出を書き始める親戚たち。
 オッカの年表は、見る間に埋まっていくのです。

 良平や百合子の心構えのなさから失敗しかけたオッカの 「四十九日の大宴会」 は、こうしてオッカ自身の、平凡としか思えなかった人生がまわりの人たちに与えてくれた思い出によって、リボンハウスの人たちも参列し、徐々に盛り上がっていくのです。
 しまいには席を蹴った珠子がムームーで登場して(笑)フラダンスを強要する(笑)。
 出しゃばり珠子の本領発揮と申しましょうか(笑)、とてもミスマッチな雰囲気がその場を支配するのですが、「まあいいか、これも乙美さんへの供養だ」 と違和感を抱きながら、みなが気持ちを切り替えていく、その展開がまた私には共感できました。 「あるよなあ、こういう無理やりなテンションの切り替えって」 という感じ(笑)。

 そんな珠子の気遣いに、オッカの見えない力を感じたのか、万感極まった表情でフラダンスを踊る百合子。
 それを笑顔で見守りながら、大宴会が終わればここともお別れしなければならない、という寂しさが、イモの表情を曇らせていきます。

 大宴会が終わったあと、父娘はオッカの年表に空白が消えていることに呆然とします。

 参加者たちの思い出が、オッカの人生を彩っていたのです。

 珠子も良平の生まれた年の欄に、書き込みをしていました。
 あっという間に画面から消えたのでここでちょっと書いてみます。

 「(1941年の欄に)良平 誕生
 今では想像できないくらい可愛い。
 今日は、呼んでくれて
 ありがとう
 珠子」

 「ありがとう…私も」

 年表の書き込みをいとおしく触りながら、イモがつぶやきます。

 「何も知らなかったし、分からなかったし、『人生最低。カッタルイ』 って思ってたけど、料理に掃除に洗濯物のたたみ方…、乙美先生のレシピが増えていったら、『すごいじゃん。こんなこともできる。あんなことも知ってる、私』 って…。

 今は…。

 前より少し、…自分が好き」

 百合子はテイクオフボードにオッカがなっていたことを実感し、オッカの年表に、額をのせます。

 「これが、オッカの人生…。

 私の…お母さんの人生…」

 またウルウルです。 ああ、十両に突入ですかね…。

 話は前後しますが、その大宴会のさなかに百合子の夫の浩行が来ていました。
 百合子に気付かれずその場を離れた良平。 喪服の浩行は雨に濡れた川辺のコンクリートに額をこすりつけて土下座します。
 前の女とは別れた、経営する塾も失うことになるが、慰謝料もそれで全部まかなう、ゼロからだけれど百合子には戻ってきてほしいと必死の懇願です。

 まあいまさら何だっていう話なので良平も形のうえでは追い返したのですが、大宴会がなんとか成功裏に終わったあと、良平は娘に対して、「お前の好きにしろ」 と突き放し、こう話します。

 「お前の寂しい気持ちはようく分かる。
 でもな、それは、誰も埋められないんだ。
 お前が動かなきゃ、埋められないんだよ」

 それでもかぶりを振る百合子。
 けれども娘が、残された父親のことを気遣っていることが分かったとき、父親は毅然とこう言い放つのです。

 「行け!

 なりふり構わず、追いかけろ!

 俺のことなんか振り向くな。
 振り向いちゃ駄目だ!

 人生は短いぞ。

 今なら間に合う。 イモ、タクシー呼んで。

 行きなさい。

 ここはもう、おまえの家じゃない。

 …父さんは、幸せだ。

 母さんのおかげでこの四十九日間、お前と一緒に…いや、家族と一緒に楽しい時を過ごすことが出来た。
 それだけでじゅうぶん幸せだ」

 「お父さん…。

 ごめんなさい…」

 「なんで謝る? 謝ることなんか、ひとつもないぞ!」

 「…
 …
 どならないでよ!…」

 「怒鳴ってもいないし、怒ってもいない。

 …ホントだぞ」

 泣き笑いしてしまう、百合子。
 娘を安心させようと、笑う父親。

 あ~も~だめだぁ~~っ(笑)。 幕内だぁ~~っ!(笑)

 そしてイモとの別れ。 互いにお礼を言って頭をぶつけてしまいながら、「こんな家族なら私も欲しいって思ったよ」 と笑うイモ。
 家から出てきた良平は、オッカの分厚いレシピを百合子に手渡します。 オッカは良平の分と百合子の分と、2冊のレシピを用意していたのです。
 良平に、「オッカの遺してくれたレシピ、レシピって、処方箋って意味もあったよね」 と語る百合子。

 その処方箋によって、癒されたものがある。
 父娘は明日へと続く道を、再び歩き始めたのです(クサいなあ~…だけどそれがよいのです)。

 イモが呼んだタクシーが到着し、娘を軽くハグする父親。 ハルミのことが頭をよぎったのでしょうか。

 「頑張れ」。

 自分に不似合いなことをしてしまった後悔をちょっとだけのぞかせながら、娘になんとか励ましの言葉を送ろうとする父親。
 でも 「頑張れ」 という言葉は、なんとなく重そうに思える。
 良平は、こう続けます。

 「頑張れよ。

 …

 頑張れ…

 ニャン」

 …もう、泣きながら笑ってしまいました。 こーゆー泣かせ方をしてもいいのか! ルール違反だっ!(笑) …まだまだこれでも中入り、であります。
 百合子も負けじと、照れながら自分の決意を表明します。

 「頑張る…

 ニャン」

 百合子を見送った良平とイモ。

 オッカの人形(ひとがた)と良平の人形を乗せた笹舟を川に流して、私の四十九日のお手伝いは終了、と言うイモ。
 「なんで俺のまで流すんだ、縁起が悪い」 と言う良平にイモは気後れすることなく、ふたりは互いの笹舟を流すのですが、乙美の船はそのまま流れていくのに、良平の船はすぐに沈んでしまいます。

 「おい! サーファー熱田号、いきなり沈んだぞ!」

 そんな良平をじっと見つめるイモ。

 「…ありがとう、良平さん…」

 「うん?」

 振り返る良平。

 そこには、もうイモの姿はありません。
 うう、もうダバダバです。 ようやく 「これより三役」、か?
 
 「イモ?

 井本?

 イモちゃ~~ん!

 お~~い!」

 きょろきょろあたりを見回す良平。 彼岸から、乙美がそれを見つめています。 それに気付く良平。
 なんなんだよ、もう。
 これ以上泣かすな。

 ここで、沈んでしまった良平の船はこの世に残されたものの比喩であると思うのですが、いったいイモは、オッカの化身だったのでしょうか?

 イモが話していた幼いころの思い出や、「人生最低。カッタルイ」 などと考えていたイモがオッカの化身であるとは、あまり考えにくいような気がします。
 でもこのドラマは、限りなくそのことを匂わせている。
 オッカが良平と出会うまでの人生が、なんか謎に包まれているせいであります。

 良平は戻ってきた自分の家で、呆然としたまま乙美の幻影に向かって、しゃべり続けます。 乙美は長ネギを切っている。

 「なあ、変なこと考えちまったよ…」

 「変なこと?」

 「うん。 お前がな、若い姉ちゃんに姿を変えて、帰ってくるんだ。

 四十九日の手伝いをするとか何とか言ってな」

 「そう」

 「ハルミまで来たな。

 懐かしい車に乗って。

 姉の百合子のピンチに黙っていられなかったんだろう」

 「そう…」

 「そんなわけないよな。 変な夢だよ」

 このシーン、回想の場面を除けば、このドラマで初めて壮年期の良平と乙美が語り合うシーンだったと思うんですが。
 ひょっとして良平は、こんな素直な会話なんか、乙美が生きている間はしたことがなかったのかもしれない。

 「あっ、…お前には言っておかなきゃならんことがあった。

 コロッケサンド。 塩バターラーメン。 カボチャの煮物。 あさりの炊き込みごはん。 ちらし寿司…。

 いつだって最高にうまかった。

 ホントだぞ。

 本当に、ありが…」

 居ずまいを正しかけた良平は、乙美の姿がないことに気付きます。

 「おい! 待ってくれ!

 俺はもう掃除もできるし飯も作れる。 洗濯も覚えた。

 今度はきっと楽しくやれる…。

 …

 何度も、俺だけ、置いてかんでくれ!

 乙美…!」

 乙美の姿を探して立ち上がった良平は、そのまま縁側のあたりで、へたり込んでしまいます。
 もう、涙腺、ぶっ壊れました。
 書きながら泣いてます(お恥ずかしい…)。 結びの一番かなあ…。

 すると、ふと良平が見上げた縁側のガラス戸に、イモがガラス掃除用のスプレーで以前に落書きした、ハートマークが書かれているのです。

 そのハートマークの中には、「IMOTO」 の文字。

 しかし良平のほうからそれを見ると、「OTOM I」 になっていたのです。

 ここで以前イモが書いていた落書きを思い出してみますと、「ATUTA  IMOTO」 と書いてあった。
 逆さからこれを読むと、「OTOM I  ATUTA」。
 ああ、そういうことか…。
 ちょっとしたなぞ解きをしながら、崩れ落ちそうになる良平の気持ちを、乙美が救ってくれているかのような、イタズラな落書きです。

 「ありがとな、O・TO・MI」

 同じころ駅のホームでオッカのレシピを見ていた百合子。
 「スキスキすき焼き」 の歌を、幼いころの百合子が歌っていたことが、そこに描かれています。 ひとつまた、謎が解けた。
 旦那さまと幸せに、という願いのこもった絵を見ていくうちに、涙ぐんでくる百合子。
 そのうちに百合子は、キリンを見て笑う百合子の幼い日の絵を、レシピの中から見つけます。

 それは、オッカとの初対面の時、オッカの作ってくれた手作りの弁当をダメにしてしまったあとの出来事を絵にしたものでした。

 初めてオッカの前で、幼い百合子が笑った瞬間。

 オッカはそのときの喜びを、ずっと大切にしていたのです。

 「(オッカ。

 そのときの記憶はもうあいまいだけれど、今なら、そのときのオッカの気持ちなら、分かります。

 今なら、オッカが伝えたかったことが、分かります。

 オッカ。

 あなたは、幸せだったのでしょう?

 私たち家族は、幸せだったのでしょう)」

 涙のダメ押しだ。 朝青龍だ。 反則だ。 ここまで泣かすか。

 電車がきます。

 進行方向のほうを向いて、まっすぐ前を向いて生きよう、という決意の見える、百合子の表情。

 3カ月後。

 自分で作ったコロッケサンドをほおばりながら、釣りをしている良平。

 「お~~い!
 俺はそこそこ楽しくやってるぞ~~っ!」

 魚が釣れます。

 「ほらっ! ホントだぞぉ~~っ!」

 「ホントだぞ」 というのは、良平の口癖のようでありますね。

 そして自宅を個人塾にした浩行のもとで、子供たちと一緒にはしゃぐ百合子。

 「(オッカのレシピは、ささやかな幸せの瞬間で、いっぱいだったから。
 私もそんな、幸せの瞬間を、たくさん見つけていけたら…。

 オッカ。

 …ありがとう)」

 こんな白鵬の怒涛の寄りのような形で寄り切られ、朝青龍のごときダメ押しまで食らうドラマになろうとは、思ってもみませんでした。

 ほとほと、疲れました。
 泣き疲れました。

 けれどもその涙は、「明日を見据えて今日を生きていこう!」 という元気をもらった涙でもあるのです。

 ただしもうこんな、ドラマ好きの精魂を絞り尽くすようなドラマは、しばらくいいような気がいたします(うっ、「JIN」 が控えている…)。
 おしまいに、こんなダラダラと長ったらしい記事を最後までお読みくださったかたには、心より感謝申し上げます。
 今後は、もっともっとコンパクトにまとめないと、…

 正直言って身がもちません(笑)。

「四十九日のレシピ」 に関する当ブログほかの記事

第1回 川へ行きなさい
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-4162.html
第2回 そうか、もう、いないのか… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/2-1710.html
第3回 キャッチボールhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/3-e995.html

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坂上二郎サン、偉大なるフツー人

 坂上二郎サンの訃報を聞いて。
 不思議なほどショックがありませんでした。
 とてもお具合が悪そうでしたし、近頃ほとんどテレビでお見かけしなかったもので。
 ネットには 「誰ソレ?」 などと書き込みをして大きな非難を浴びている人もいたみたいですが、平成の世に育ってきた若者にとっては、確かに馴染みの薄い人でありましょう。
 私もこの訃報を耳にしたとき、「昭和の時代」 がまた遠くなった感覚にとらわれました。
 つまり二郎サンは、「昭和」 というアイコンのなかに収まってしまっている。

 これがドリフの場合になると、今でもくどいくらい彼らの昔の番組はスペシャル企画で繰り返し放送されます。 そのことでドリフは、「平成」 のアイコンに移行することに、奇跡的に成功している。 彼らを知らない若い世代は、あまりいないように感じます。 いかりや長介サンが 「踊る大捜査線」 で印象的な演技をされたのも一役買っている。

 けれどもコント55号の昔の番組は、まったくと言っていいほど取り上げられることがない。
 今の若い世代にとっては、欽ちゃんこと萩本欽一サンが茨城ゴールデンゴールズの監督(もうお辞めになりましたが)で、さほど切れのよくないギャグを飛ばしている、程度の認識しかないように思われます。
 そして当の二郎サンは、「飛びます飛びます」 のギャグだけで知られているような感覚。
 若い人が 「誰ソレ?」 と言いたくなるのも、悔しいが分かる気がするのです。

 テレビ人たちはドリフだけでなく、クレイジーキャッツやてんぷくトリオ、コント55号もやすきよ(西川きよし・横山やすし)もツービートも明石家さんまサンも、テレビで1年に最低1回は彼らの昔の番組の特番を組むべきだ、と感じます。 それが彼らにテレビ界が大いに世話になってきたことへの恩義・礼儀でもあるし、さらに言えば若い世代に彼らのことを伝えていくのは、文化的伝承という意味からもおおいに重要である気さえする。
 コストだってかかるまいに。 お手軽な予算で彼らの足跡を再構成して再放送するだけの話なんですから。 現在の笑いに慣らされた若い世代がどう感じるか、私には興味がある。 ひいき目に見ている可能性も大きいが、少なくとも私は現在のお笑いなんかよりも、はるかに破壊力があったと思うのです。
 スラップスティックで、アナーキー。
 若い世代には、高度経済成長下のお笑いを積極的に追体験して、カルチャーショックを受けてもらいたいものであります。

 話は脱線しました。

 そんなスラップスティックでアナーキーなギャグの一翼を担っていたのがコント55号の萩本欽一サンと坂上二郎サンだったわけですが、私は坂上サン、ガキの頃はあんまりその面白さに気付きませんでした。

 と言うのも、コントにおけるこの人の反応はとてもまともな人の反応そのもので、「飛びます飛びます」 というのもどこが面白いのか分からなかったし、まるっきりフツーの人が、天才的な欽ちゃんの狂気の世界に翻弄されているだけ、といった印象が強かったのです。

 それだけ当時の萩本欽一というコメディアンは、常人の理解を超えたフィールドを闊歩し、クレイジーの孤高を保っていた。
 だからこそこのふたりのコンビは欽ちゃんがますますその活躍範囲を広げ、二郎サンは俳優として生きるしかなくなっていた、そう思えたのです。

 けれども後年になるに従って、その認識は大きく変化しました。
 萩本欽一というコメディアンがいちばんノって見えたのは、ほかならぬ坂上二郎サンを相手にしたときだけだったのです。

 これは 「どこまでやるの?!」 の真屋順子サンにしても同様。
 欽ちゃんは、フツーの人の常識を根本から揺るがしてその狼狽ぶりを引き出すことにおいて、突出した才能があったのです。

 ここでフツーの人が何か狙ったりするとかえって逆効果。
 欽ちゃんの時代の衰退は、「コメディアンというものは自らの身を削って笑いに変えていくために賞味期限が短い」 ということの証左でもある気がいたしますが、二郎サンや真屋順子サン以上のフツーのパートナーを見つけることが出来なかったことが主因なのではないか、そう私は考えているのです。
 欽ちゃんが必要以上に大物になってしまって、それを畏怖するタレントたちが欽ちゃんと絡むと、どうしても欽ちゃんの 「狂気」 が尊大なもののように思われてしまう。 なんかとてもエラソーに思われてしまうんですよ。 そこらへんの構造的な原因が潜んでいる気がします。

 その欽ちゃんの狂気を受け止めることのできた真屋順子サンも、だんだんと狙っている部分が見えてくるようになり、絡みに面白みがなくなってきたと思うのですが、坂上二郎サンの場合後年に至るまでそれがほとんど感じられなかった。
 これは驚異的です。

 それは欽ちゃんの常軌を逸した突っ込みにも 「エヘヘ、エヘヘ」「イヒヒ、イヒヒ」 と笑ってごまかそうとしてしまう、坂上二郎サンの優しい人間性の本質からきているものが大きかったのではないでしょうか。 だからこそその狼狽ぶりが面白かったし、見ているこちら側が、そのフツーさと狂気が互いに中和されて、とても安心感を覚えるのです。

 そこにはやはり、コメディアンどうしの、一種独特のせめぎ合い、ライバル意識みたいなものもあったのだと思う。 その起爆剤がなければ、二郎サンはこうまで徹底して、コントにおいてフツーの反応をしなかったはずである。
 そしてその最大の才能は、フツーの人が狂気に絡まれると、ここまでフツーじゃなくなってしまう、ということの体現だった気がするのです。

 どうすればお客が最大に自分のことを笑ってくれるのか。
 そのことを考え抜いたうえでコントをしなければ、このコンビの持つ緊張感は、一気に消滅したはずだ、と私は思うのです。
 しぜんと、私はコント55号 「復活」 と銘打った番組を、率先して見るようになりました。
 全盛期ほどではなかったが、やはりこのコンビは、すごかった。
 そう申し上げるほかはないです。

 その全盛期。

 私はドリフやコント55号を見ながら、1週間に2度も3度も腹がよじれていたものでした。
 このことは以前にも書いたのですが、腹がよじれるほど笑う、というのは、半ば拷問に近いものがある(笑)。
 お腹が痛くて痛くて、それでもコントは波状的に続いていくため、15分くらいは笑い転げて地獄のような苦しみを味わうことになるのです。 「死ぬ~~、やめてくれ~~」、であります(笑)。

 そんな拷問のような笑いを提供して下さった坂上二郎サン。

 心より、心より、お礼を申し上げます。

 ショックはありませんでしたが、…悲しいです。 欽ちゃんのコメントには、泣けました。

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2011年3月 8日 (火)

「冬のサクラ」 第8回 本当の愛情

 相手にとっていちばんいいことって何なのか。

 今回の 「冬のサクラ」 を見ていて、そんな感情に包まれました。

 自らの命より自らの記憶を選んだ萌奈美(今井美樹サン)。
 そんな彼女、失語症、そして手足の痺れと、病状がさらに深刻さを増していく。
 萌奈美の娘琴音(森迫永衣チャン)はそんな母親にとって、いちばんいいことって何なのだろう?と考えた末、行動に異様なものを感じ始めている父親航一(高嶋政伸サン)のもとで治療をすることではなく、祐(草彅剛クン)がそばにいられるような山形の病院、という環境で最期を迎えさせてあげることを選びます。
 認めたくない気持ちも殺しながら、「祐さんっていい人だね」 と母親に告げる琴音。

 これって娘としてはつらい決断です。
 なぜなら要するに、母親の不倫を認め、さらに言うならば、これまで信頼してきた父親を見限ってしまう行為でもあるからです。

 自分から、父親から、母親を奪い去っていった男に対して、こういう判断をせざるを得ない。
 (話は前後しますが)萌奈美が担ぎ込まれた山形の病院に駆けつけ、「君の気持ちも考えず手術を強行しようとして悪かった、頼むから帰ってきてくれ」 と土下座する父航一に、自らのその決断を話し、琴音は父親と一緒に東京へと帰るのです。
 父親の行動に気持ちは引いているのでしょうが、そんな父親を支えてあげようとする娘の気持ちは、思春期の女の子の成長、とも言えるのですが、その実あまりにも不憫なようにも感じられる。

 そして祐。

 弟の肇(佐藤健クン)から、「まだコクってないの?」 とせっつかれていたんですけど(笑)、今回登場した父親の片岡雄一(篠田三郎サン…すごくいい感じにお年を召しましたねー…もっといろんなドラマで拝見したいです)との出会いの中で、萌奈美に自分の愛してるという気持ちを伝えるのはやめよう、結局萌奈美を苦しめるだけだ、という結論に達するのです。

 いきなり現れた雄一。
 今までにない態度でその父親を、最初は拒絶した祐でしたが、母親が 「雄一さん」 という名前を最後まで口にしていたことを思い出し、母親の仏前に線香を手向けさせてあげるのです。
 これまで分け隔てなく誰にでも優しく接していた(航一には別か)祐が最初、ここまで強い調子で拒絶するのは、いかに自分がこの人のために苦しめられたか、ということを如実に想像させる。
 でもそんな自分の強いこだわりでさえも、母親の気持ちをいちばんに考えるからこそ、思い直し受け入れるのです。

 建設関係で転勤続きのとき、祐の母親百合(吉田日出子サン)と不倫関係に陥り、そのまま転勤で別れてしまった、という経緯を祐に打ち明ける雄一。

 「私にこんなことを言う資格はないが…百合さんは私にとって、かけがえのない人でした。 …ただ…その思いを伝えることはできなかったが…」

 「ご家族がいたからですよね?」
 と訊く祐。

 「うん…。

 でも…心の底から愛しているからこそ、口に出せないこともあるっていうか…。

 言葉にした瞬間に、薄っぺらいものになってしまう気がしてね…」

 そんな自分の実の父親に、母親が最後まであなたの名前だけは覚えていた、と告げる祐。 万感をこめて、祐に礼を言う父親。
 おそらく一晩母親のいた部屋で泊ったのか、母親の仏前にきれいにたたまれた布団の上に、印鑑と預金通帳が置かれているのを、祐は見つけます。
 その金額に、父親も決して楽ではなかったこと、そして自分の息子のことを、いつまでも忘れていなかったことが見てとれる。

 「心の底から愛しているからこそ、口に出せないものがある」。

 何でもかんでも愛情を確かめ合うのが、本当の愛情じゃない、ということを祐は感じたに違いありません。 祐は肇に、自分の思いを伝えないことをケータイで話すのですが、これって肇からせっつかれていたからこそ 「結果報告」 するわけで(笑)。 律儀な兄であります。
 いずれにしても、どんな人たちに対しても最後まで気配りを忘れない。
 地味~だけど、こんなできた人間はおらんですよ、今どき。

 祐は萌奈美に、自分の育った場所を見てほしい、と持ちかけます。
 自らの熱を押してでも、その外出を看護婦さんに希望する萌奈美。

 「どうしてもやりたいことがあるんです。

 だから行きたいんです。

 少しでも、体が動くうちに」

 病状がかなりの深刻さを伴っているからこそ、生きているうちに、相手の言葉を理解できるうちに、やってしまわなければならないことがある。
 翌日萌奈美は、祐に雪の中のリスの巣を見せてもらったり、雪をかぶってしまう祐に大笑いしたり、祐との穏やかなひと時を過ごします。
 ここで小さなプラネタリウムに忍び込んだふたりは、駐在の次郎ちゃん(山崎樹範サン)が、好きだった幼馴染みの千尋(遊井亮子サン)への願掛けで落書きしたふたりの名前が、織姫と彦星に 「逆」 に彫られているのを見て笑います。

 この千尋。

 このドラマではホントに、ほんのわずかしか登場しないのですが、冬に咲くサクラを育てている千尋は、今でも時々祐と顔を合わせています。
 そのときに祐に見せる表情は、千尋が祐に気があることを実に分かりやすく表現している。
 ところが今回のこのシーンで、祐は友人の次郎ちゃんが千尋に恋していたことを知っていた、ということが判明しました。
 つまり次郎ちゃんの気持ちを考えた祐は千尋の気持ちに応えてあげることが出来なかった、という経過が、ここから推測されるのです。

 相手のこと(この場合は次郎ちゃん)を考えすぎる祐の性格の一端も、ここから浮かび上がるのですが、そのことで少なからず傷ついている人(千尋)もいる、ということをここでは読み説くことができる。
 深い構造になっています。

 雪の中に立つ一本桜のもとを再び訪れたふたり。

 「春はまだ先ですね…」

 「でも必ず来ます。
 花を咲かせるときは必ず来る」

 「そうですね…」

 その日まで生きていられるかどうか…という悲しみが、萌奈美を包み込みます。
 そんな萌奈美に、祐はこう話します。

 「萌奈美さん。
 約束しましたよね。

 一緒に、またこの桜を見ようって。

 春になったら、また来ましょう。

 満開の桜を、一緒に見ましょう」

 悲しみを乗り越えて、「はい」 とうなずく萌奈美。

 萌奈美は祐に、半分不自由になった手を使って、肉じゃがを作ります。
 祐から止められながらもそれを押し通し、鬼気迫るような手つきでピーラーや包丁を使う萌奈美。
 「どうしてもやりたいこと」 というのは、実はこのことだったのです。

 かつてこのドラマの最初の部分で、記憶が戻った萌奈美は非常にあわただしく祐のもとを去って行きました。
 そのときに祐と約束して果たせなかったのが、祐の好きな肉じゃがを作ってあげることだったのです。

 「すみません、時間かかっちゃって…」

 「覚えていてくれたんですね」

 「はい。 あのとき作れなかったから」

 「いただきます…」

 ジャガイモをひとつほおばる祐。

 「どうですか…?」

 泣きそうになりながら、言葉を探し続ける祐。

 「う、…うまいです…」

 相好を崩す萌奈美。
 「よかった…!」

 ただ肉じゃがを食べるシーンなんですけど、泣けました。

 「考えたんです。

 私は、祐さんのために何が出来るんだろうって。
 いろいろ考えたんですけど、これくらいしか思いつかなくって…。

 それが、私の人生人生だったんだなあって、…思いました。
 ささやかでしたけど…悪くなかった。

 最後の最後には、祐さんにも、…出会えた。

 これが、私の、祐さんへの、精一杯の気持ちです」

 胸に迫ってくる思いに気圧されそうになりながら、祐は 「…ありがとう…俺、忘れません」 としか言うことが出来ないのです。

 相手のことを、平凡だけれどここまで思ってくれる萌奈美の気持ち。
 相手のために何が自分はできるのか。
 相手にとって、いちばんいいことって何なのか。
 祐はこのときに、もしかすると今回ラストにつながる決断へと至ったのかもしれません。

 祐が千尋のもとに啓翁桜を取りに行っていたそのとき、航一が萌奈美の前に現れます。
 航一は自分が萌奈美を愛していることをそのままずばりと切り出します。
 祐が相手のことを思って胸にしまいこんでいる言葉を、航一は自分の気持ちを優先しているがゆえに、ズバリとその気持ちを伝えるのがいいことだと思い込んでいる。

 「君は僕が君と向き合わないと言ったね。
 でも僕は君に何不自由ない生活を与えてきたじゃないか。
 ちゃんと愛してきたじゃないか!
 ほかにどうしろって言うんだ!
 君にも僕を愛してほしかった。
 僕だけのために生きてほしかった。
 それの何がいけない?
 夫婦なんだ。 当たり前だろ?
 あの男が現れる前までは、なんにもなかったじゃないか!」

 倒錯してます(笑)。 萌奈美は当然反駁します。

 「私は、自分の本当の気持ちに、フタをしてしまっていたの。
 …開ける勇気がなかったの!

 その勇気を、

 …その勇気を、祐さんにもらったんです」

 思いつめた航一。
 メスを片手に、萌奈美を殺そうとするのです。

 そこに飛び込んできた祐。 もみ合いの末、航一を力いっぱいぶん殴る。

 「いい加減にしろよ!
 萌奈美さんは限られた命を、必死に生きようとしてるんだ!
 何で分かってあげないんだよ!」

 「お前に何が分かる ! ! !
 僕は…僕は萌奈美を愛してるんだ!」

 「だったら!
 最後ぐらい!
 萌奈美さんの思う通りに生きさせてあげて下さい!

 あなたが、本当に萌奈美さんを愛してるんなら!」

 呆然とする航一。
 申し訳なさそうに頭を下げる、萌奈美。

 人を愛するということは、自分の感情を押しつけることじゃない。 相手にとっていちばんいいことを考えることだ。
 相手を思う気持ちとは、相手を束縛し独占しようとすることとは違う。
 このドラマの真のテーマが、見えた気がしました。

 突っ伏して悔しがる航一。
 今回の航一は、病院内で愛人の存在を大っぴらにしてしまったりとか、それをなじる母親(江波杏子サン)に食ってかかるとか、どうも社会的地位の存続も危ぶまれるほどの自我崩壊に至っている印象がありましたが、この祐の言葉は、どこまで航一の胸に届いたのでしょうか。

 航一が帰るのを見送ったあと(どこまでも律儀な男です…笑)、祐は部屋で萌奈美が倒れているのを発見。
 病院に運び込まれた萌奈美、心拍数は低下、生命の危機的状況に陥ります。
 このまま帰らぬ人になってしまうかのごとき描写。

 もしそうだとすると、萌奈美の人生最後の記憶は、航一と祐の修羅場、ということになってしまう。
 祐は萌奈美にとってそれがいちばんいいことなのか、考えたんじゃないかな、って思うんですよ。
 そして祐の心をあらたに侵食し始めたのは、記憶がどうなってもいい、萌奈美に生きていてもらいたい、という感情。
 愛する人の死に直面したとき、自分が今まで理性的に保っていた建前が、崩れてしまう瞬間がある。
 この祐の葛藤は、見ていて緊張しました。 祐は航一に、萌奈美の命を助けてもらえるかどうか、頼んでみると肇に言い出すのです。

 萌奈美はひょっとすると、自らの記憶をなくしながら、生きてしまうのかもしれない…、そんな展開になってきました。
 航一が本当の愛情に気付くことが出来るのかも含めて、ますます目が離せなくなってきました。

「冬のサクラ」 に関する当ブログほかの記事

第1回 …大丈夫…
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/1-1d6a.html
第2回 「逢いに行こう」、「なんのために?」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2-96f6.html
第3回 折れた翼で飛び続けることhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/3-cff9.html
第4回 自分の納得する生き方をhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/4-5b32.html
第5回 冷たく乾いた罠http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/5-906b.html
第6回 …間違ってないよ… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/6-7950.html
第7回 翼があることを信じてhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/7-8d77.html

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2011年3月 6日 (日)

「TAROの塔」 第2回 自らが決めるべきもの

 第2回目の 「TAROの塔」 。
 岡本太郎氏(松尾スズキサン)の激烈な青年時代(濱田岳クン)を描きながら、「太陽の塔」 をめぐる建築家の丹下健三氏(小日向文世サン)との見応えあるせめぎ合いが展開していきます。

 太郎氏の青年時代を演じる濱田岳クン、「金八先生」 に出てました。 給食費滞納の話の男の子。 卒業式の答辞も読んでましたっけ。 火野正平サン似の好青年に成長しました。 好演です。

 その青年時代の太郎氏、両親(田辺誠一サン、寺島しのぶサン)についてパリへと渡航、両親と別れてパリでの生活を開始します。 だいたいハタチくらいだろうから、年代的には1930年代。
 パリはそのうちにナチスドイツに占領される、という状況へと突入していくのですが、その前夜の様子の中で、太郎青年がいかにして自らの芸術を自覚するに至ったのかを、ドラマの作り手は簡潔かつ印象的に見せていくのです。

 そこでは創作において自分らしさと世間の評価、というものに直面した者であれば必ずブチ当たるであろう行き詰まりとジレンマが、重苦しく展開していく。
 パリで自分の描く絵にフランス人たちが冷たい視線を投げかける中、行動を共にしていた日本人画家グループの訳知りふうな諦観に、太郎青年は限りない違和感を抱いていく。

 彼らはパリに住んでいるにもかかわらず、日本食をやめることがない。
 何のためにパリにいるのだ?と疑問を投げかける太郎に、「パリには日本人の居場所などないのだ」 と決めつける画学生たち。 「そのなかに入っていけばいいじゃないか」 と言う太郎に 「君はホントに世間知らずのお坊ちゃんなんだな」 と自分たちの絶望を押しつける。

 彼らにとっても、自分の才能を世間に問うて跳ね返された苦い経験則から太郎に向かって忠告していることは確かなのですが、挫折してから自分がどう立ち直るか、どう自分が立ち向かっていくのかが、実は最も大事なことなのです。 人生と同じだ。
 絵を描くことが好きな人はおしなべて、小さいころから 「お前は絵がうまい」 と褒められて絵を描いてきた。
 けれどもそれだけではどうしても越えられない一線というものがあるのです。
 自らが画家として、どういう位置でいたいのかによって、そのハードルの高さは変わってくるのですが、こと世間の最大多数の人に認めてもらいたい、などと考え出すと、努力だけではどうしようもない壁が、最大限に分厚くなってくる。

 太郎は数年パリで暮らすうちに、パリの人々に認められるための処世術みたいなものを身につけます。
 久々に太郎に会いに来た母親のかの子、寺島しのぶサンはそんな太郎を見て感心してしまうのですが、太郎はそんな処世術が、実はパリジャンに 「変わった日本人」 として認識されているにすぎないということを、誰よりも痛感している。
 本当にやりたいことが定まらず、自分をごまかしながら何とかなるとかの子にうそぶく太郎なのですが、ここで太郎がパリジャンの心をつかむ術を会得していた、ということに、ちょっと私は注目しました。
 つまりこれって、後年日本のメディアに登場する際の太郎のタレントとしての才能の原点になっている気がするんですよ。

 変わったものを人は揶揄しながら、注目したがる。

 沢尻エリカチャンみたいなもんかな? ノン! ノン! 限りなく違うか…(笑)。

 とにかく、厚化粧でますますピエロみたいだと太郎に揶揄されたかの子は、太郎の中途半端さを敏感に察知し、太郎に向かって厳しい言葉を投げかけるのです。

 「2、3年であなたの絵がどうにかなるとでも? 太郎! そんな覚悟では、描きたい絵など見つかるわけないわよ!
 ここで生きる人間になって、ここで生きる苦しみや喜びを抱けなければ、…誰の心も打てやしないわよ!」

 フランス人は排他的だと決めつける太郎。 かの子は実にはっきり断言します。

 「それはあなたの絵に魅力がないからよ」

 太郎は自分の苦悩を、かの子にぶつけます。 あなたの息子はこんな絵しか描けない! 誰がこんな絵を評価する?
 ぶちまけられた数枚のキャンパス。 そこには、まるでユトリロ風、まるで○○風、実にうまく描けているけれども平凡な作風の絵が悲しそうに描かれている。

 「太郎…。
 あなたには才能がある…。
 それは私かあげたんだから!」

 「あなたから何も貰ってない!
 貰ったのは孤独だけだ!」

 「それを持ってない人間のほうがよっぽど悲劇だわ!」

 孤独を知らない人間に、何が分かるのか!。
 苦悩しない人間に、いったい何が分かるっていうのか!。

 かの子の言葉は、私の胸をも貫きました。
 すごい。
 極限の、母子の激突です。
 さらにかの子は、芸術に携わる者すべてのためであるかのような言葉を、言い放つのです。

 「…太郎…。

 おまえの絵を最初に認めるのは、おまえしかないんだよ。

 人の評価に自分を委ねてはだめ…!

 …太郎…。

 不遇を恐れてはいけないわ…。

 孤独を恐れては、ほんとうにほしいものに手が届かない」

 かの子は太郎に、おまえはやはり絵に専念すべきだ、と諭すのです。

 「はじめからあてのないことをしてるのだから。

 迷うことを恐れず。

 ひたすら手を動かしながら。

 考えることよ。

 …太郎…」

 そんなかの子、太郎とパリの駅で別れるときに、まるで子供のように太郎の手をいつまでも握って離しません。
 自分には母親はいなかった、と後年回想する太郎。
 そう、かの子は太郎にとって母親ではなく、恋人であり、同じ芸術の戦場の中で戦う同志であったのです。
 後年、秘書であった平野敏子(常盤貴子サン)が、太郎の著作を書くゴーストライターなのでは?とした疑問に、一体化しているのだからそんな指摘に意味はない、と一笑に付す場面がありましたが、夫一平の書いたものを自分の物として考えるかの子と、まるで同じ血が通っているかのような演出がされていました。 秀逸であります。

 そして太郎はパリの教会で、ピカソの絵に衝撃を受け、自分の絵がいかなるものであるべきかを、自ら決定するのです。
 ふらふらと教会の中に入っていく太郎。
 まったく同じアングルで、まるではじかれたように、教会から出てくる太郎。
 この描写にはシビレました。

 そんななか、かの子は、執筆中に仰向けにもんどり返り、亡くなります。

 パリでその知らせを受け取り、ショックのあまり橋から川へと身を投げてしまう、太郎。
 川底から浮き上がっていく太郎の様は、まるで新たな生命の誕生の比喩のような感覚を覚えました。
 折しも太郎に影響を与えていたナチスドイツへの反対組織指導者であったジョルジュ・バタイユが、「生命とは暗闇から生まれ暗闇に帰る」 と指摘していたことのイメージの連鎖でもある。
 太郎が水底から見た、パリの街の灯。
 「江」 のスタッフの人、ちょっと見習って下さいまし(笑)。

 「白いバラより赤いバラ」、とパリで歌われていたシャンソンに自らの情熱を語り表現していたかの子。
 太郎の幼い日に、赤い絵の具を自らの顔に塗ったくっていたかの子。
 太郎も同じように、自らの顔面に赤い絵の具を塗ったくっていきます。
 まるで母親への、レクイエムのように。
 一平はかの子の棺に、赤い花びらを敷き詰めていきます。
 それはちょっと現実離れした風景でしたが、この回を統合的に締めくくる、重要なシーンでもあった気がするのです。 深いです。

 そしていっぽう。

 独特な内面性を有しながらも何食わぬ顔をしている丹下健三氏。
 その水面下でものすごい対抗意識を燃やす人物を、小日向文世サンは見事なまでに演じ切っておられました。 えらいハマリ役な気がする。

 万博のメイン会場の天井をぶち抜き、そこに太陽の塔という、「ベラボーな」 代物を立てようとするプランを持ちこむ岡本太郎氏。
 安全設計上の問題みたいな 「建前」 を一応振りかざしておいて、そんな岡本氏の 「挑戦状」 を受けて立とう、と頭の中を激しく回転させる丹下氏。
 黒電話で互いに連絡を取り合い、とても穏やかなやり取りを互いに交わしながら、建築家と芸術家が互いを食おうとする、見えない火花が交差していく…、この構図がとてつもない。 壮年編も青年時代編に、全く引けを取りません。

 岡本氏は訪ねてきた丹下事務所の青年社員に太陽の塔を見せ、「なんですかこれは…?」 という言葉を引き出す。

 「それだよ!
 それでいいんだよ!
 誰もが、『なんだこれは?』 と驚く。
 感動するものでなければならない!」

 「感動はしていません!」

 「でも驚いたじゃないか」

 「驚きましたが…ただ、これは何か、と思って…」

 「これを芸術だと思うかい?」

 「…ぼくには分かりません…」

 「それでいいんだよ。
 『これは芸術だから』 という分かりかたがいちばんいやらしいんだ。
 芸術に頭を下げるなんて、滑稽なことだよ。
 真の芸術は、芸術であっては、ならない」

 「それでは、真の芸術家は、芸術家であってはならないんですか?」

 「当たり前だ!

 真の人間でなければ、ならない」

 憤った先から、いたずらっぽくにっこり笑う、岡本氏。

 「なんだこれは?」 という衝撃については、私も生前の岡本氏がことあるごとにしゃべっていたのを記憶しています。
 常識をぶち壊す力。
 その力に、丹下健三氏は気圧されながらも、それとがっぷり四つに組もうとするのです。
 今日的な視点から見れば、それは実に前衛的なコラボレーション、と言うことが出来るでしょう。
 ただし時代は40年前。
 「未来とはどうあるべきなのか」、という視点が、成熟し切ってしまった現代よりももっとアグレッシヴであった時代に、ひとりの巨大な芸術家とひとりの巨大な建築家が、ぶつかり合っている、というこの構図に、果てしなく見る者を惹きつけてやまぬ力を感じるのです。

 「壊すんじゃない。
 調和だよ。
 君のモダニズムとぼくのベラボーがぶつかり合うことでお互いが生きてくるんだ。
 引き裂かれる力が強ければ強いほど、逆にお互いが、強く輝くんだよ」

 いったんはそれを拒絶した丹下氏、事務所の青年社員が破棄した設計図を漁って、それを仕上げるように彼に言い渡すのです。

 「私が、ゴミ箱を漁るのは、君たちが棄てたものの中に、大いなる可能性が埋まっているかもしれないからだ。
 …それに気付けなくなるようであれば、私自身に可能性がない、ということだ」

 この貪欲さ。
 アヴァンギャルド、というのは常識的な世間に対する挑戦なのですが、少なくとも当時の世の中には、それを何とか理解しようとする気概があった。
 何でも自由に発想することが出来るように思える現代のほうが、柔軟性においては当時よりも全く不自由である。
 そんなことを強く感じながら、丹下氏と岡本氏の 「食うか食われるか」 の電話のやり取りを見ていました。
 ドラマとしてもかなり深遠な 「人間」 を描くことに成功しています。

 大河ドラマにこのドラマの10分の1でも、爪の垢を煎じて飲ませたいくらいであります。

「TARAの塔」 に関するこのブログほかの記事

第1回 尋常ならざるもの
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/taro-1-d164.html

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2011年3月 5日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第8回 ああ、書きにくい…

 樹里ちゃんファン1様。
 思ったままを書くことをお許しください。

 このドラマの上では、秀吉(岸谷五朗サン)とのパワーバランス、そして横恋慕させ悔しがらせるために市(鈴木保奈美サン)が採った方策、それが柴田勝家(大地康雄サン)への輿入れ。
 そのことにいちばん狼狽していたのが当の勝家なのですが、勝家は 「御屋形様(信長)の妹とその娘たち」 という認識のもとに、ただひたすら滑稽なまでに彼女たちに対してへりくだり続けます。

 その卑屈の権化とも思える大地サンの演技は、江(上野樹里チャン)が一晩行方をくらませてしまったことに対して烈火の如く怒ることへの、いわば前フリだったのですが、ここで柴田勝家を別人の如く怒らせた原因は、江が馬を勝手に持ち出してしまったことで馬番の下人がその責を負わせられることを配慮せよ、というものでした。

 「(江に向かい)分かるか。 上に立つ者は常に下の者に心を配っておかねばならぬのじゃ。 (茶々、初のほうに向きなおり)そなたたちとて同じこと。 みなに支えられておること、断じて忘れてはならん!」

 大地サンのその不動明王のような演技にはシビレました。 この出来事をきっかけとして、それまで柴田勝家に対して反抗的だった茶々、初が、すっかり勝家に手なずけられた格好になるのもむべなるかな、という感じであります。 ドラマとして浅い展開ですけど。

 ただしそこに至るまでの柴田勝家が、ドラマ上 「下々の者に気を配っていたか」、ということには疑問の余地がある。

 いくら御屋形様の妹とその娘たちだからとはいえ、自らの家来衆の前で彼女たちに必要以上にへりくだり続け失態を繰り返してきた柴田勝家は、下の者からどう思われていたのかな、ということなんですよ。 呆れられてはいなかったのでしょうか。

 これは 「男が、武将が威厳を保つ」、ということに対して作り手があまり深く考えていないことの証左だ、と思われます。

 エライ女房に頭が上がらずに酒にむせたりオドオドして声が裏返っちゃったり、娘たちのジコチューぶりを受け流したりすることは、コミカルで見ていて楽しい。 大地サンのアタフタ演技を見ていて、伊丹映画を懐かしく思い出したりしました、確かに。 水川あさみサンが食べ物につられまくっているのも、結構笑えます(大河を見ている感覚の笑い、じゃないですけどね)。
 そうした軽い部分が連続することで、今回クライマックスでの大地サンの激怒演技がとても効果的になってくる。

 けど、あまりにそこに至るまでがコミカルすぎると、勝家自身が、周りで見ている家来に対して一国一城の主としての威厳が保てないだろう、という気にはなるんですよ。
 作り手は柴田勝家の 「豹変」 をどれだけ 「効果的に」 見せるのかに心を砕かれすぎて、どれだけ 「一貫性があり」「説得力を伴って」 見せるのか、という部分をなおざりにしてしまった。

 また前回も指摘したのですが、このドラマでどうにも消化不良に思えるのは、秀吉という人物の行動の説得力であります。

 今回ドラマ冒頭でおね(大竹しのぶサン)と信長の後継を巡ってつまらない会話(失礼)が続くのですが、おねはその揚句に、「言ってることがメチャクチャだ」 と感想を漏らしてしまう。
 「ワケが分からんのはこっちだ」 と言いたくなります。
 ドラマが浅いと、こういうセリフがとても逆効果になってしまうのです。

 結局天下が欲しいのであろう、ということだけは見ていて分かるのですが、そこに秀吉の不気味さが一切感じられないのはつらい。
 ドラマ的に軽ーい男が軽ーく天下取りを考えている、というようにしか見えんのです。

 これは秀吉をバックアップする人間がいないこと、いたとしても(黒田官兵衛など)その人物の重厚さが描かれていないことが原因であります。 どのくらいの軍勢を秀吉が持っているのか、という描写がないことも一因ですが、秀吉が孤立無援に見えてしまう、というのが、秀吉が大した人間に見えてこない、彼の行動にしたたかさが見えてこない最大の原因だと私は思う。

 結果的にとても空洞の大きな物語を見せられている気になってきます。
 コミカルでじゅうぶんお腹がいっぱいになればいいんですけどね。

 いや、このドラマを楽しむには、まずコミカルな部分に笑ってあげなきゃいかん、という気がしてきました。

 楽しみましょう!

 まずは、笑って見てあげましょう!

 秀吉はもう一度、角材につま先をぶつける必要があります(笑…)。

 さすれば、マジメな部分とのコントラストも、味わいが生まれてくるはずであります。
 私はそんな視聴方法が正しい、と感じます。

 …こんなことを書かねばならない情けなさを、ドラマのスタッフは感じてもらいたいものであります。
 このままでは樹里チャンやあさみサン、みんなかわいそうだ…。
 向井理クンが出てくるまで待て、ということなんですかね…。

 今回 「ドラマとしては」 という枕詞を乱発しました。
 もはや史実を云々しながら、見ておりません…。

 頑張れ、「江」!

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2011年3月 3日 (木)

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 第4回 むせかえる死臭の中で

 前回から4年後。

 徹底抗戦を続けるモード軍のいるリンカーン城を、スティーヴン国王軍が包囲しています。 相変わらず飛ばしまくってます(笑)。
 スティーヴン軍の英雄は、元シャイリング領のバーソロミュー伯爵の忘れ形見、キングスブリッジのリチャード。 片耳半分なくなってましたが、半分下はついてました(ストレートな表現で申し訳ない)。 姉アリエナのウール商法のバックアップを受けています。

 ハムリー家のあざのある女リーガンは、そのリチャードに対抗するため息子ウィリアムが爵位を受けるのに邪魔だった自分の夫を殺害します。 このブログにコメントをいただいたかたのトリビアにもありましたが、熱病に罹った自分の夫の治療で、「悪い血を抜く」 という作業をしたリーガンが、失血死を狙ったのです。 コワ…。

 このリーガン、ドラマで直截な表現はしていないものの、自分の息子に対して尋常ではない愛情を注いでいます。 あえて書かせていただきますが、近親相姦の匂いがする。 おそらくその禁断の暗い欲情が、このあざのある女を異常な行為に走らせるのでしょう。 日本のドラマでは確実に倫理規定の埒外に置かれる設定だ。
 リーガンは25になる自分の息子に嫁をめとらせることで爵位を継がせるよりも、自分の夫の死を選んだのです。 怖いな~。

 シャイリングが廃れたのはキングスブリッジの市場が盛況だからだ、というリーガンの認識に応えようと、ワルモノ司教ウェイルランがその市場の閉鎖を交換条件に石切り場の閉鎖を画策します。 悪だくみに悪だくみの掛け算。

 建設中の大聖堂、トムが捨てた子はジョナサンと名づけられ、建設現場のマスコット的存在。 アリエナはジャックと、徐々に恋に落ちていく。 そんななか、スティーヴン国王の市場開催許可書が持ち出され、ウェイルランによって焼却されます。
 交換条件を満たしたウェイルラン。 しかし石切り場を閉鎖することで神の怒りを恐れるリーガンとウィリアム母子。 それを勝手に神の許しをでっちあげて従わせてしまう、ウェイルラン。

 フィリップのもとにやってきたウェイルランは、同じようにフィリップを跪かせ従わせようとするのですが、フィリップは自分はまず神に従うとこれを拒絶。
 自分の威厳でフィリップを屈することのできなかったウェイルランですが、建設中の大聖堂の荘厳さに、思わず畏怖してしまう。

 このときのウェイルランの表情。
 彼の顔から毒々しさが消えていく様は、見ごたえがありました。
 相手を屈服させようとして果たせない自分と、いやがおうでも屈服を強要してくる神。

 そのとき槌音が響いてくる。
 ジャックが石造を彫っていたのです。
 その像を思わず凝視してしまうウェイルラン。
 ジャックの父親が無実の罪で火あぶりにされた際、聖歌を絶唱しながら死んでいったそのままの様が彫られていたのです。

 ジャックは別のシーンで、アリエナに石造を彫るときの様子を語っていました。
 いわく、「石の声が聞こえる」。
 その歌が、自分がどこを彫ればいいのかを教えてくれる。

 これらのシーンは、信仰心というものが、人間に限りなく力を与えてくれることを、つぶさに表現していた気がします。
 願う力。
 信じる力。
 それはいかなるものにも不可侵な、「聖なるもの」 なのではないでしょうか。
 そしてそれを利用しようとする者が、高い聖職者の身分であればある程、いかに罪深いことなのか。

 フィリップは国王に直訴するため建築に詳しいジャックを従わせてキングスブリッジをあとにします。
 フィリップの願いを聞いたスティーヴン国王は、戦場の外壁部分を視察するためにフィリップの着ていた修道士の服をはぎ取って自らが羽織り、フィリップには兵士の格好をさせて敵の矢面に立たせる。

 あまたの死体があふれかえる外壁付近。

 「神の意志は分からん。 (死体の山を見て)これも神の意志か?」
 とフィリップに尋ねるスティーヴン国王。

 敵の矢がフィリップを貫こうとします。
 それを救うジャック。
 ヘンリー前国王の不吉な予言にあった赤い髪をもったジャックの姿におののいたスティーヴン国王は、ジャックを殺すよう部下に命じ、ジャックはあまりにあっけなく、殺されてしまいます。 うわ、主役級だったのに父親の無念も明らかにならないまま死んじゃったのか?と思ったのですが。
 しかし完全に死んだと思われたジャック、その死体処理の様子は、執拗に描写されていくのです。

 戦いが再開した戦場。
 モード軍の最有力者グロスターの兄がリチャードによって捕虜にされるのですが、同時にスティーヴン王も、敵方に捕えられてしまいます。
 容赦ない殺戮と強姦の連続。
 その混乱の中で、フィリップも暴力を受け、意識を失ってしまう。

 ハムリー母子とウェイルラン。
 スティーヴン国王を見限り、モード側につくことを決めます。
 うわ、変わり身、早っ!

 リーガンはその昔、ヘンリー国王の息子を乗せて沈没した船に同行していながら、沈没の際別の船に乗っていたことをモードから問い質されるのですが、狡猾な言い訳でそれをスルー。 スティーヴンの側についた理由も、脅されていたからだとしてまたまたスルー。
 モードはウィリアムを人質にしてグロスター兄とスティーヴンの身柄交換を言い渡します。

 囚われたスティーヴンのところにやってきたウェイルラン。
 スティーヴンに自分の処遇を任す、との言質を取り、スティーヴンに唾を吐きかけてその場を去る。
 あーあ、大した聖職者だ…。
 さらに同じ場に転がっていたフィリップを、バーソロミューを裏切った男としてモードに売り渡す。
 「殉教者ぶるんじゃない」 とフィリップを拷問させ責め立てるウェイルラン、「ならあなたも聖職者ぶるな」 と返されます。
 結局フィリップはバーソロミューを売ったことを認め、処刑されることになる。
 その助命嘆願の資金が必要なため、副院長(こいつが市場の使用許可証をウェイルランに渡した)は大聖堂の建設を中止します。

 同じころ、アリエナはジャックが死んだことを知らされます。
 ジャックの母エレンもこのことを知るのですが、これを神の御意志というのなら、全然うまくいってないじゃない、と報せに来たトムにぶちまける。

 絞首台に運ばれ、首に縄をかけられるフィリップ。
 まるでアウシュビッツの死体処理場のような、膨大な死体の中に棄てられた、ジャック。

 そのときジャックの、目が開くのです。

 今回の 「大聖堂」 は、物語が過去3回と比べると格段に落ち着いてきて把握が出来やすかったです。 その代わり、感じることは前回と同様であまり新鮮味がなかったのですが、戦場のむごさ、というものは表現されていたように感じます。

 邪悪の限りを尽くしていくウェイルランの非道ぶりが殊に目立った今回。 おそらくその報いをこれから受けていくことになるんでしょうが、どんな方法でそれがなされるのでしょうか。

付記

 この回あらすじだけの内容となってしまったことについて、この記事のコメント欄で言及しております。 よろしければ併せてお読みください。

「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」 に関する当ブログほかの記事

第1回 圧倒的な徹底ぶり
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-237d.html
第2回 骨のあるドラマとはこういうものかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/2-4477.html
第3回 利用される神々http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/3-537a.html
第4回 むせかえる死臭のなかでhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/4-34e0.html
第5回 永遠の一部たるべきものhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/5-a7e7.html
第6回 神の意志はあるかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/6-69bf.html
第7回 信仰の本質とは、どこにあるのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/7-1f00.html
第8回(最終回)前編 神とどう向き合うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-46ec.html
第8回(最終回)後編 神になるのか、神を敬うのかhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/8-1065.html

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「四十九日のレシピ」 第3回 キャッチボール

 のっけからナンですが、宅間孝行サンを見てると、大変申し訳ないですけど民主党の岡田幹事長みたいに見えて仕方のない、今日この頃(もちろん、宅間サンのほうがいい男なんですけど)。

 その宅間孝行サン、浮気相手に翻弄される情けないダンナ(浩行)を今回演じ切っておりました。
 けれども当方岡田幹事長の顔がチラチラちらついて、画面を正視できないこともしばしば(笑)。

 その浮気相手の女、亜由美がまた強烈なキャラであり。

 四十九日の大宴会に張り出すため、亡くなったオッカ(風吹ジュンサン)の空白だらけにしか見えない年表を埋めようと、オッカから来ていた膨大な絵葉書を取りに東京へ帰ってきた百合子(和久井映見サン)。 イモ(徳永えりチャン)も一緒です。

 公園で夫の浩行と話し合いをしていたところに、いきなり亜由美が現れます。

 百合子が直近まで住んでいた浩行との一軒家について、あの家の空気は澱んでる、私色にリフォームしろ、と傲慢に指図。
 自分が住んでいるマンションでも、小さな息子のカイトを差し置いて尊大な態度に終始。
 あげくの果てにカイトを家から閉め出しておいて、それを世話した百合子たちに逆ギレ。
 言うこと聞かなきゃおなかの赤ちゃんと一緒に死ぬ、と浩行に脅迫し、浩行の病弱の母親に 「出ていけ!恥知らず!」 とまで憤られる始末。

 見ているこちらの心を逆なでしまくる、とてつもない自分勝手なキャラなのであります。

 だからこそ、そんな女に翻弄されっぱなしの浩行に対して、「こいつは優しいけれどロクでもない馬鹿者だ」 と断じざるを得ない。
 浩行は今回、子供が出来ないで悩んでいる百合子に対して、励ますことに疲れたためにこの女に走った、などと実にもっともな言い訳をしていたのですが、亜由美という女があまりと言えばあまりなキャラなために、そこに説得力が生まれてこないんですよ。

 もうちょっと作り手は、この女に同情すべき点を与えられなかったのでしょうか(それとも次回最終回で、亜由美の同情すべき点を見せてくれるのでしょうか)。 このドラマ、これまでとてもいい流れであっただけに、ちょっと残念な気がいたしました。

 いずれにせよこの回、夫からの同情すべき本心を聞き出すことが出来、お互いに相手を気遣いすぎていたからこそお互いが負担になっていたことが分かった百合子だったのですが、結局彼女は夫のもとを去っていく決断をするのです。

 これは、ここまで夫がダメなやつだと分かってしまった以上、私も致し方ないな、と感じました。
 夫は百合子のことを心から考えているから、きっとこのふたりはよりを戻すだろう、と思っていたんですけどね(次回最終回、どうなるのか分かりませんけど)。
 でも夫の岡田幹事長、もとい(笑)浩行に言いたいですな。
 どちらかを切り捨てることのできない優しさなんて、本当の優しさじゃない。 残酷なだけだ、と。 子供手当を切り捨てるのも、愛情のうちだと(爆)。

 心が逆なでされ続けたこの回。
 そんなささくれ立った印象の中で埋もれてしまいそうになってしまうのですが、この回繰り返し強調されていたのは、「心のキャッチボール」。

 自宅に植えたミカンの木になった青いミカンを百合子に放り投げる浩行の、かつての姿。
 ハルミ(渡部豪太クン)にいきなりサッカーボールを投げつけられる良平(伊東四朗サン)。
 浩行も良平も、妻にきちんと向き合わなかったために、取り返しのつかない後悔の中で生きていく破目になっているのです。

 浩行と会うために公園で待っていた百合子に、イモは浩行の経営する塾の宣伝文句(「夢はかなう」「努力は報われる」)を見ながらこう言います。

 「あ~いやだいやだ。 そーゆう口当たりのいいこと言うからマジメな人は病んじゃうんだよ。
 うまくいかなかったときに、自分のことを責めちゃってさ。
 ホントのこと書いてほしいよ。
 『夢はかなわぬこともある。
 努力は報われぬこともある。
 正義は勝つとは限らない』。

 『だけど、やってみなきゃ分からない。
 さあ、頑張ろう!』」

 いかにも頭が悪そうに思える(失礼)イモのこの言葉、実に真理を突いた言葉に思えます。
 肝心なのは、うまくいかなかったときに、焦らず腐らず落ち込まず、前に一歩踏み出すこと。
 まるで自分の人生の行く先を照らされたような気になった百合子は、思わずイモのことを、オッカみたいだ、と表現するのです。

 いっぽうの良平。

 姉の珠子(水谷八重子サン)に相変わらず痛いところを責め立てられます。

 「あんたがしゃきっとしないから、あんたの世話を言い訳に百合ちゃんここに居座るんだよ。
 百合ちゃんにいてほしいんだろ?
 ひとりになるのが怖いから。
 女房に先立たれた男ってのは悲惨だからねえ。
 おんなじ顔してるよ、万里子さん亡くしたときと。

 死んだ人間への後悔ってのがいちばんたちが悪い。
 男なんてみんな馬鹿だね。
 亡くしてみなきゃ分からないんだから。

 あんた乙美さんに一度でも感謝の言葉かけてあげたことがあったかい?

 『ありがとう』。

 たった5文字のこの言葉どうして生きている間に言ってあげらんなかったのさ?

 その一言でどれほど女が救われるか」

 言葉の暴力だ(笑)。
 いや、言葉のバズーカ砲、というか(笑)。
 このドラマ自体が、この珠子の文句を中心動機として動いているような気さえしてきた(笑)。

 自宅前の川のほとりに座る良平。
 向こう岸に、亡くなった自分のふたりの女房が歩いていく幻覚を見るのです。

 この向こう岸、という感覚。

 仏教的には彼岸と此岸という、あの世とこの世の象徴的なイメージとして多用されるものですが、この短いドラマの舞台も、まさしくあの世とこの世との対話によって構成されている気がする。
 その最大の象徴でありパスポートなのが、オッカの遺したレシピなんだ、そんな気がするのです。

 その向こう岸のオッカ、良平との最後の瞬間に手渡した、ソースのしみのついた弁当箱を差し出し、悲しそうな顔でそれを引っ込め、去って行ってしまう。
 「お、おい、待ってくれ…」
 川に向かって歩き出す良平。
 第1回目で娘の百合子がしたのと同じ行動を、父もとってしまうのです。
 良平のただならぬ気配に気付きあわてて止めようとするハルミ。

 ハルミも、良平にとっては 「万里子との間にできた、生まれてくるはずだった息子」、の象徴でもある。 人と人との因果を感じさせる、仏教的な摂理が構造的にドラマの中に存在している気がします。
 すべてのものは関連し、つながっている。

 カイト、いい大人になれるかな?とつぶやいたイモ、自分もカイトと同じく、親に冷たくされてきた子供だったことを百合子に打ち明けます。 家出して男や風俗を転々としてオッカと出会って、出来ることは増えたけれど、いまだに家族っていうものが分からない、と唇をかみしめるイモ。

 眠り込んでしまったハルミに、酔った勢いで説教する良平。
 珠子に言われたことをそのまま繰り返し、「ありがとう」 が言えなかったばかりに後悔する自分自身を、「バカだ」 と蔑むのです。

 「こんな大バカ野郎は、寂しくて当たり前だ。
 百合子もお前も、オレんところなんていることないんだぞ。
 家族だっていつかは別れる時が来るんだ。
 大事な人はなあ。
 一緒にいる間に大事にしなくちゃいけないんだぞ!」。

 いつの間にか目を開けて、背を向けながらそれを聞いているハルミ。
 彼もお金がないから、ブラジルに帰れない、という思いでいる、「家族の一員」 なのです。

 夫の思いを感じ取りながら、別れる決意をあらためて固めた百合子、東京からオッカの膨大な絵手紙を持って実家に戻ってきます。

 その絵手紙、これでもか、というほど、自分の夫良平のことばかりが書いてある。
 番組HPにその一部?が掲載されています。 コチラ→ http://www.nhk.or.jp/drama/49nichi/recipe/index.html

 「いちばん近くにいる人のことを、毎日ちゃんと見てたんだね」

 夫が優しかったのに、自分はそれに気付けなかった。 今頃気付いても遅いね。 私がダメだったの。 そんな娘に父はこう言います。

 「そんなことはないぞ。

 お前だけがダメだったなんて、
 そんなことは、ない!」

 微笑み続けるオッカの遺影。

 みんな、ダメなところを抱えながら生きているんだ。
 だけど、そのことで落ち込まず、焦らず腐らず、前を向いて生きていくしかない。
 「やってみなきゃ分からない。
 さあ、頑張ろう!」。

 ああ、もう次回が最終回です。

 短すぎ。

 死者の思いやりに浸っていたいけど、そんなぬるま湯にいてはダメだ、だから明日を見据えて頑張ろう!ということでしょうか。

「四十九日のレシピ」 に関する当ブログほかの記事

第1回 川へ行きなさい
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/1-4162.html
第2回 そうか、もう、いないのか… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/2-1710.html

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2011年3月 1日 (火)

「冬のサクラ」 第7回 翼があることを信じて

 石川萌奈美(今井美樹サン)の象徴であるかのような、石川家で飼われている籠のなかの黄色い鳥。
 萌奈美の飛び立ちたい心の象徴であるかのような、稲葉祐(草彅剛クン)の作った、翼を広げた鳥の、ガラスのオブジェ。

 誰もが自分に翼があると思いたがります。

 夢に向かって、大きく自由に羽ばたいていけるものだと考えたがる。

 確かに、自らが持つ 「夢」 の力は偉大です。

 けれども。




 天上を目指すには、自分がその力を信じなければなりません。
 自由に羽ばたける、ということは、なにも願いが簡単に、急に叶う、ということではない。
 自分がその羽ばたける力を信じ、苦しみながら努力を重ねていった末に、人は羽ばたけるのではないでしょうか。




 今回萌奈美は、夫航一(高嶋政伸サン)からこう責め立てられます。

 「稲葉祐の弟(佐藤健クン)が病院を辞めたよ!
 きみとあの男(祐)が、みんなの人生を狂わせてるんだ!
 これ以上あの男に頼っても、苦しめるだけだぞ!」

 夫の手術を拒絶して病院から抜け出していた萌奈美。 祐の力を借りながら、娘の琴音(森迫永衣チャン)に、自らの思いを綴った料理レシピを書き進めていたのですが、航一の愛人理恵(白羽ゆりサン)に騙されて、航一とまた対峙することになったのです。
 そのときの航一の言葉は、萌奈美の気持ちを一気にネガティヴな方向に向けさせることとなるのです。

 この、夫が来る前の理恵との会話で、萌奈美は興味深いことを話していました。

 「(「病気も抱えてるのにすごい勇気だね」、と理恵に言われ)逆かな…。

 病気になったから、一日一日の大切さが身にしみて、もう自分をごまかしたくないって思ったのかも」

 勇気じゃない。 憶病なんだ。
 心を煩わされるような夫との生活から逃げているだけなんだ。
 自分をごまかしたくない、自分の思い通りに人生を全うしたい、というのは、つまり現実の生活から逃げているための、もっともらしい口実なのかも…。

 そんな萌奈美は、その直後に夫から浴びせられる先ほどの言葉に、自分のしていることは結局自分勝手なんだ、そのために周囲が苦しんでいるのは事実だ、と、考え直してしまう。

 そんなシーンが展開していく中で、繰り返し映し出されたのが、籠のなかの黄色い鳥と、翼を広げた鳥の、ガラスのオブジェでした。

 いったい自分は、飛び立てることが出来るんだろうか?

 いや、そもそも自分に、翼なんかあるのだろうか?

 航一の言葉によって周りに迷惑をかけるのをやめようと考えた萌奈美は、泊っているホテルまで会いに来た祐に、「もう会わない」 という決心を胸に秘めながら、「大丈夫…」 と弱々しくも平気なふりを装います。
 でもこのドラマのなかで繰り返し使われてきた魔法の言葉、その 「大丈夫」 の言葉にも、効力が消えかけている。

 なぜなら、「大丈夫」 という言葉を信じなければ、本当に大丈夫にはなっていかないからです。

 確かに 「大丈夫」 という言葉は人に勇気を与えます。

 けれども、そんな有り難い言葉でも、それが通り一遍のスタンダードに陥ってしまって、それさえ言っていれば何とかなる、みたいに、日常的な言葉に堕してしまうと、言葉の持つ力は途端に、意味のないものに帰してしまうのです。

 萌奈美は今回冒頭、出たとばかり思われた自分の家に、いきなり戻ってきて夫の母親(江波杏子サン)や琴音に自分の正直な気持ちを打ち明けようとしていました。
 それはいっぽうで姑の胸にまで届く。

 手術で自分の記憶がなくなってしまうよりは、死を選んでも娘のことを忘れたくない。
 この理屈に姑が理解を示す、という展開は、ちょっと今までのドラマにはないパターンだな、と思いました。 江波サン、なかなか話が分かるじゃありませんか。 まあ嫁をどーでもいいと思っている故の理解、かもしれませんけどね。
 それに姑の気持ちとしては、それまで本当の顔を見せてこなかった自分の息子が初めてその異常な感情を露わにしたことへの戸惑いも、あったんでしょうね。

 いっぽう娘の琴音は、萌奈美の話をきちんと最後まで聞かず、別の場面で航一が萌奈美に異様な執着を示すのを見ることで 「パパもママもダイッキライ」、となってしまうのですが、「余命がもうない」「もうすぐ死んでしまう」  という母親の本当の病状を知り、さらに萌奈美が残したレシピを発見して読むことで、その誤解が完全に氷解する。

 「美味しいお料理で
 あなたが幸せな笑顔に
 なってくれることを祈って」

 そのレシピ本の最初に書かれた言葉です。

 「誕生日によく作った
 琴ちゃんが大好きなビーフシチュー!
 あなたを授けてくれた
 神サマに感謝。」

 「クリスマス
 苺いっぱいのショートケーキ
 一緒に作ったね!
 生クリームを鼻につけた
 琴ちゃんの笑顔が
 忘れられません。」

 「ひな祭りの
 ちらし寿司
 琴ちゃんの成長が
 ママには一番の
 喜びでした。」

 ママの本当の気持ちを知って、レシピを読みながら大粒の涙を流す琴音。

 泣けました。
 ダメだなあ、こういう親子の愛情物は。
 「冬のサクラ」 で、いちばん泣けた。

 そしてレシピ本の最後に書かれた言葉。

 「琴ちゃんをいつも見守っている
 ママより」

 「ママ…」

 それはまるで、天国から届いた母親の声、のようです。
 そして確かに娘は、まだ生きている母親の、自分への本当の愛情を、知ることが出来たのです。
 あ~もうダメ(笑)。
 号泣しました。

 そしてホテルからいなくなった萌奈美。

 祐のもとに、山形の駐在の次郎ちゃん(山崎樹範サン)から、「萌奈美を見かけた」、という電話が届きます。
 あの一本桜のところへ行ったんだ、と確信した祐は、琴音と会ってそのことを告げる。
 そのときに、ちょっとためらいながらも、祐は 「手術をすると記憶がなくなって寝たきりになる可能性がある」 という萌奈美の病状の真実を、琴音に打ち明けます。

 このドラマで特殊なように感じるのは、草彅クン演じるこの稲葉祐という青年が、自分の恋愛感情よりも先に萌奈美にとっていちばんの宝物である琴音を大事に考えている、という側面です。
 それはとりもなおさず萌奈美自身を大切に考えていることの表れなのですが、いみじくも弟の肇から 「まだ告白してないのか」 と呆れられていたように、それは極めてストイックな行為であります。

 これはドラマにとって、ある意味では、とてもリスクの伴う展開の仕方のように思えます。

 なぜなら、ちょっと油断してしまうと、草彅クンのこの役は、なんだかとても地味に思えてきてしまうからです。
 彼が恋愛に傾倒するところを見たいファンのかたにとっては、とても物足りなく思えてくるような危険性を伴っている。
 ややもすれば、熱演している今井美樹サンと高嶋政伸サンのせいで、霞んでしまう印象も持たれかねない。

 けれども私は、こんなバカがつくほど生真面目な青年を草彅クンが演じることの今日的な意義を、もっともっと重要に思いたい。

 確かに何の得にもなりゃしませんよ、こんな生き方。
 自分の好きな人は死ぬという決断をしているし、その好きな人の家庭はぶっ壊しまくってるし。
 弟は失業に追い込むし、自分も根なし草みたいな生活になってしまうし。

 けれどもそんな損得勘定なんか、純粋な恋愛感情の前には何の意味も持たぬのです。

 私はそう、信じたい。

 それをとやかく考えてしまうことの精神の貧困さを、このドラマは気づかせてくれるのです。



 雪に覆われた、一本桜の近くまでやって来た祐。
 果たして、その道の途中でうずくまっている萌奈美を発見します。
 萌奈美を呼ぶ祐。
 それに気付いたときの、萌奈美の嬉しそうな顔。
 またまたウルウルです。

 桜の木の場所まで、萌奈美をおぶっていく祐。

 「あの桜の木を、もう一度見たくて…。

 すみません…。

 私…結局…祐さんに迷惑を…。

 娘にも…つらい思いをさせてしまって…。

 だけど…。

 どうしても…。

 私の思いだけは…伝えたかった…」

 「きっと伝わりますよ…。

 萌奈美さんと琴音ちゃんには、今まで一緒に生きてきた絆があるじゃないですか。
 
 …大丈夫です…」

 琴音の幼い時から今までの記憶をたどっていく萌奈美。

 「…大丈夫…」

 萌奈美は、その言葉を、かみしめます。
 自分のなかで、新鮮味を失い、ただの言葉に堕していた 「大丈夫」 という言葉が、再び力をもった瞬間です。

 「…そうですよね…」

 祐を見つめてほほ笑む萌奈美。

 そこに、大雪に足を取られながら、琴音が息せき切ってやって来ます。
 抱き合うふたり。

 「ママ、ごめんね、ひどいこと言って…。

 病気のことも、ママの気持ちも知らないで…。

 ママのこと、嫌いなんかじゃないよ…。

 大好きだよ…!

 死なないで…!」

 「…琴ちゃん…!」

 それを見ながら、安心したようにほほ笑む祐。
 ここはママにとって、大切な場所…そう琴音に語りかける萌奈美。

 「琴ちゃん…。

 ママは、あと少ししか、あなたのそばにいてあげられない。

 だけど、

 ずっとどこかで見守ってるからね。

 自分の信じた通りに、まっすぐに、生きていってね…。

 それが…。

 ママの、たったひとつの願いだよ…」

 けれどもその矢先に、萌奈美は意識を失ってしまいます。

 病院に運び込まれる萌奈美。

 航一のもとに、その情報が飛び込んできます。

 萌奈美は、自分の人生を、自分の思い通りに全うすることが出来るのでしょうか?

 蛇足ですが、この母娘が抱き合うシーンで、地震情報がありました。
 けれども心をざわつかせるような警告音とかなくて、なんかいつもなら気分が損なわれるのですが、あまり気にならなかったです。
 ニュージーランドも新燃岳も、このところ地球の地殻が騒がしいことも一因かもしれないのですが。
 被災に遭われたかたがたへ、お見舞いを申し上げつつ。

「冬のサクラ」 に関する当ブログほかの記事

第1回 …大丈夫…
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/1-1d6a.html
第2回 「逢いに行こう」、「なんのために?」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2-96f6.html
第3回 折れた翼で飛び続けることhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/3-cff9.html
第4回 自分の納得する生き方をhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/4-5b32.html
第5回 冷たく乾いた罠http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/5-906b.html
第6回 …間違ってないよ… http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/02/6-7950.html

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