« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

2011年4月

2011年4月30日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第15回 分からなければ、訊けばいい

 佐治と一方的に離縁され、秀吉への怒りが沸点に達しつつある江。
 こんなに憎い相手なのに、どうしてみんなが秀吉に従っているのか、江は疑問を抱きます。

 …って、それまでどうしてその疑問が浮かばなかったのか、甚だ疑問であります(笑)。

 この回は秀吉を演じている人にとっても、今までのドタバタバカ殿ぶりを一気に挽回する大いなるチャンスでもある。
 けれどもそれは、今までのあまりにもオチャラケた秀吉の、全否定につながるのです。
 案の定この回の秀吉は、それまでのオコチャマぶりがなりをひそめざるを得ない。
 でもいきなり殊勝になっても、見ている側の失望は、もはや埋められるレベルではなくなっている。
 秀吉像を思い切り破壊しよう、という演じ手の目論みは、その点で大いなる失敗であると言わざるを得ません。

 そして秀吉の本性を知ろうとする江、という構図を作り手が考えたとき、作り手は江を芸能レポーターよろしく、インタビュアーにするしか手段が思いつかない。
 江は子供だからそんなことも許される、と思っているのでしょうが、それではドラマに、なんの奥行きも生まれないのです。

 秀吉の本性、というテーマで物語を構築しよう、と語り部が考える場合、語り部はまず、さまざまな事象から秀吉の本性を浮き彫りにしようとするのが、まあ普通の方法論ではないでしょうか。 当事者たちに 「なんでなの?」 と訊いてまわるのは、語り部としてはサイテーの手段だ、と考えるはずです。
 それをこの作り手はやっちゃってる。 しかもしまいには、「本人に訊くのがいちばんではないか!」 って(笑)。
 逆に考えれば、すごいことやってるなーとつくづく感心します。

 まあ、江の立場を借りて作り手が 「なんでなの?」 と歴史上の人物たちに訊いてまわっているようにしか見えないんですが。

 このような、いわゆる 「禁じ手」 を堂々と見せるその手法にちょっとばかり新鮮味を感じながら(笑)、物語は奥行きを見い出せないまま、江にひとつの結論を導かせようとするのです。

 いわく、「猿はウソにまみれているが、そのなかに真実がある。 そこに人は、動かされるのだ」、と。

 導かれたこの結論には、ひとかどの説得力があります。

 けれどもそれが、それまでの稚拙な物語の運びから、飛躍的に哲学的になりすぎている。
 「禅問答か?」 みたいな難解なものを感じてしまうのです。

 それはひとえに、これまでの秀吉の行動に、見る側がいっぺんの感情移入もさせられなかったことの弊害である。

 しおらしく江を抱きしめて 「すまぬことをしたのう…」 と泣いていても、江の背中で白眼をむいて舌を出している秀吉が、どうしても連想されてしまうからです。

 このドラマは、「物語を浅くしてしまうのはいかなる要因によるものなのか」 ということを見る側に勉強させてくれる、という点で、とても興味深いドラマに仕上がっている。

 いえ、皮肉ではありません。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011年4月29日 (金)

「リバウンド」 第1回 食べる幸せ、よく見られたい願望

 「曲げられない女」 のスタッフが作った 「やせられない女」 ドラマ、「リバウンド」。
 このドラマを見ようと思ったきっかけはやはりそれで、「曲げられない女」 と同じ遊川和彦サン脚本だからというのが大きいのですが、主演の相武紗季チャンの 「太ったバージョン」 特殊メイクが、言わば 「客寄せパンダ」 の役割なんですけど、ちょっと興味あったかな。

 ドラマの体裁としては、「曲げられない女」 よりもさらにギャグタッチの度合いが大きい。
 だから登場人物たちの演技がかなりわざとらしいし、そこを引いて見てしまう人にはそりが合わない、「見る人をかなり選ぶドラマ」 と言っていいでしょう。

 私はこのドラマのスラップスティックタッチを見ていて、なんかどっかで見た気がしてならなかったのですが、これって今年の大河ドラマ 「江~姫たちの戦国~」 のタッチ、そのままなんですよ。
 下手をすると滑ってしまう危険なギャグを繰り出している、という点がとても似ている。 役者さんたちはみんな 「狙って」 コミカルに演じているわけですから、ここで笑えないと、かなり悲惨。
 それでもギャグドラマとして見ようとするなら、許せる確率はとても上がるものです。
 「江」 にとって不幸なのは、「江」 は大河ドラマである、という認識で見ようとする人がやっぱり普通である、ということ。

 ただし主演の相武紗季チャンが演じる大場信子には、「曲げられない女」 の菅野美穂チャンが演じたオギワラと比べてですが、いまのところ共感する部分が乏しい。
 オギワラは超マジメであるがゆえに人の曲がった部分も許すことが出来ない。 それはマジメに演じられるがゆえに信念が感じられたし、であるがゆえに可笑しかったし、そこに説得力も生まれていました。
 大場信子は幼いころに食べたケーキがきっかけで人生の早い段階から太り続け、太ったがゆえに自らの生き方にも、相当それが色濃く反映されている。 「デブは人を笑わせてナンボ」、という考え方もそのひとつで、信子はとにかく明るい。 けれどもそれは人に媚びている内容の明るさであるために、それが周囲の人間にとっては、とても暑苦しく見える。

 信子は恋人(勝地涼クン)にフラれたことがきっかけで一大決心、30キロ以上の巨大な肉塊落とし(ありていに言えばダイエット…笑)を敢行し、相武紗季チャンになるわけです(いやその…笑)。

 一気に大量のダイエットをすることが体にとってどれほどよくないのか、という議論は置いといて、ここで面白いのは、相武紗季チャンになったにもかかわらず、歩き方は柔道部みたいなガニ股歩きが抜けないし、暑苦しい明るい性格もそのまんま、という点。
 相武紗季チャンはそれを、とても面白がって演じているのが分かります。
 ただそれは、わざとらしさと紙一重の場所に位置している危険性は絶えず付きまとう。

 同時に、相武紗季チャンの相手としてドラマで配置されている速水もこみちクンの演技も、「俺様」 キャラでかなりのカリカチュアが加えられている感じです。
 このふたりの演技のワザトラシさに、見る側がついていけるかどうか。

 見る側を引きとめておくには、このわざとらしさに真剣な本音が見え隠れすることを見せる必要があります。

 もこみちクンの場合、両親の愛情の完璧さを越えられない苛立ちで、自分中心の俺様キャラになっていました。 腕の立つパティシエだった父親と、それを愛情で支えていた母親。 そのふたりが不慮の事故で同時に亡くなってしまい、そのケーキ屋を継いだ息子は、そのふたりの愛の結晶であったショートケーキを、どうしても作ることが出来ない。
 ショートケーキというのは、ケーキ職人にとって基本中の基本ですよね。
 それを作ることのできない苛立ち、というものはいかばかりか、と感じます。

 そして幼いころに、そのもこみちクンの父親が作ったショートケーキを食べたことがきっかけで、信子は野ブタになっていくのですが(笑)、ダイエットに成功して就職に成功した女性雑誌 「EDEN」 の記事を書くためにもこみちクンのケーキ屋を取材し、大昔に大感動したその味が全く息子に引き継がれていないことを感じ取ってしまう。
 父親の名声で存続していたそのケーキ屋の記事で、自分の偽らざる感想をそのまま書いてしまった信子。
 結局その記事がきっかけで、「王様の耳はロバの耳」 とばかりそのケーキ屋の評判はガタ落ち。
 その責任を取らされて、もこみちクンの新作ケーキ作りに付き合わされ、毎日試食を重ねるうちに、信子は再び元の体型に戻ってしまいます。
 そもそもケーキ作りの才能がないように見えるもこみちクン。
 大量のケーキを一口ずつ食べながら信子の頭のなかの鐘は、むなしく 「カ~ン」 と鳴り続けます。 これがかなり笑える。

 「太っている人は編集部にいる資格なし」 の 「EDEN」。
 信子はコルセットをギュウギュウ絞ったり首にスカーフを巻いたりしてなんとか自分が太ったことを隠し通そうとするのですが、その様子も結構可笑しい。
 けれどもそれが隠し通せるはずもなく、鬼の編集長(若村麻由美サン)にそれがばれて即刻クビ(註:法的には即刻クビというのはあり得ず、1か月の猶予期間があります…笑)。

 信子はもこみちクンが新作ケーキに挫折し自分の身の上話から自分はこの仕事に向いてないとふてくされまくるのを見て、呆れ果てて 「逃げてないで自分の本当に納得できるケーキを作りなさいよ」 と吐き捨てます。
 ここは信子の真剣な本音が聞けるこのドラマのキモだった気がするのですが、あまりこちらを納得させる論理がなかった気がする。
 ただ見え隠れするのは、信子がブーツを履きたかったり、人前で水着になりたかったり、同窓会に行きたかったり、信子にとって痩せることは、「自分がよく見られたい」「人からちやほやされたい」、という願望の結果だった、ということです。 でもまあ、私をリバウンドさせておいてふてくされてる場合?っていうレベルの話でしかない。

 そんなデブでもまったく構わない、という人生のパートナーが目の前に現れれば、その人にとっては自分が痩せていようがデブでいようがまったくどうでもよくなるんですけどね。

 信子は相武紗季時代に(笑)こんにゃく系のダイエット型食事ばかりとってましたよね。
 それって本人にとって、ずいぶん不幸なのかもしれないな、なんて思いながら見てました。
 だって食べたいものを食べるのって、人生の醍醐味じゃないですか。
 いくら食べても太らない、という人ってだからとても羨ましいですね。
 私は中肉中背ですが、やっぱりちょっと食べすぎたかなーと思うと、体重増えるタイプなんで。
 そんな羨ましい体質の人物も、このドラマでは信子の友人、として栗山千明サンを配している。

 食べることの幸せをとるか、他人からよく見られたい願望をとるか。
 やはりそれは、人それぞれ、ってことですかね。
 ただ自分の食欲に忠実すぎるのも、なんかだらしない、つー感じもしますが(笑)。

 信子がもこみちクンに吐き捨てようとした本音も、「逃げてりゃいーじゃないの」 と言うわりには、自分も岐阜の実家に逃げ帰ってしまうし。 それに信子は、自分が太っていることを、ただひたすら隠そうとしている。
 信子の真剣な本音は、まだまだこの段階から爆発することはないみたいです。
 主人公に共感できる機会を、これで逃しているような気もする。

 なかなか一筋縄ではいかないドラマのような気もしますが、とりあえずしばらく付き合ってみます(最近こればっかりだなあ…)。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年4月28日 (木)

「田中好子さん追悼特番 ありがとうスーちゃん永遠のキャンディーズ」 TBSと共にあったキャンディーズ

 TBSで先日亡くなったスーちゃんの追悼特番が放送されました。
 この番組を見ていて、つくづくキャンディーズは、TBSと共にあったことを実感します。

 ただキャンディーズというと、そもそもNHKの 「歌謡グランドショー」 という番組がきっかけでスクールメイツのなかから抜擢され、確かNHKのディレクターに 「食べてしまいたいほど可愛い」 ということでキャンディーズと命名されたいきさつをもっており(本人たちは 「トリコロール」 とか 「バイオレット」 という名前を考えていたらしいのですが)(うろ覚えで書いてますけど)、NHKとの関わりも深い。
 「レッツゴーヤング」 も準レギュラーみたいな感じで出ていたと思うのですが、当時私は、NHKのアイドル番組などちゃんちゃらおかしくて見てられるか、というスタンスの小学生でして(笑)。

 数年前にNHKで放送された 「わが青春のキャンディーズ」 を見て、あらためてNHKにも卒倒しそうなほどのアーカイヴが存在していることが判明したのですが、私がキャンディーズと出会ったきっかけはやはり何と言っても 「8時だョ!全員集合」。

 TBSにはNHKを凌駕する、そんな膨大なアーカイヴが、やはりあったのです。

 しかもそれらの映像は、当時の常識のフィルム映像ではなくビデオ映像。
 「解散コンサート」 であるファイナルカーニバルの映像も、NHK 「わが青春のキャンディーズ」 では確か有志が所蔵していたフィルム映像でしたが、TBSのほうは、当時解散の数日後に放送されたビデオ映像。 やっぱりきめ細やかさが違う。

 私も33年前その番組を見ていましたが、まさにその映像でした。

 これって市販されてるのかな? ホントに久しぶりに見ました。 もしあったら買いたいな。 確かフィルム映像のほうは市販されてると思うんですが。 私の見た解散コンサートは、やはりTBSのこれ、ですからね。

 今日流されたのはその解散コンサートのほんの一部分だったのですが、確か33年前、「つばさ」 の前にミキちゃん作の 「あこがれ」 という歌も、3人で一緒に歌っていたと思う。 それはライヴ盤でも割愛されていて、今あらためて見てみたい映像のひとつだったのですが、今日はそれは流れませんでした。 う~ん、やっぱり欲しいな。 完全版が。

 それにしてもこの、「全員集合」 から、「ザ・ベストテン」。 そしてこの 「解散コンサート」。 TBSと共に、私はキャンディーズを見ていたと言ってもいいですね。

 番組ではさらに、テレビ朝日(当時はまだ、NETだったと記憶しています)の 「見ごろ!食べごろ!笑いごろ!」 の映像も流されました。
 こちらはドリフとのコントに比べると相当過激なものばかり。 いや、こっちも見ていたなあ。

 「電線音頭」 というのは、私の記憶が確かならばまず桂三枝サンが流行らせたものを伊東四朗サンらが横取りしたみたいな印象があるのですが、「見ごろ食べごろ」 ではこたつの上に乗って踊るために、当時のPTAからは目の敵にされていた記憶があります。
 スーちゃんもこの電線音頭をはじめとしてかなりエキセントリックなお笑いにチャレンジしていて、若さゆえの過ちが全開(笑)。 私がキャンディーズにシンパシーを感じたのは、こんななりふり構わぬ彼女たちの底抜けの明るさだったのです。
 このレベルには現代のモーニング娘。もAKB48も誰も敵わない。 これだけは確実に言える。

 「見ごろ食べごろ」 ではバレーボールに青春を賭けるキャンディーズの主演ドラマなんかも、確かやっていた気がします。 「悲しきためいき」 という曲が主題歌で、いい曲だったけどシングルカットされなかった。

 日テレでは不思議なほど、彼女たちを見ませんでしたね。 フジテレビでも、「夜のヒットスタジオ」 なんかに出ていた程度かな?
 やっぱりキャンディーズといえば、TBSだ。
 だから今日の追悼特番は、視聴率稼ぎも当然ありましょうが、ある意味TBSがやらねばならない必然性というものも、同時に感じるのです。
 やってくれてありがとう。
 そしてこのキャンディーズの膨大なアーカイヴを、余すところなく公開される(もしくはDVDボックスとかにする)ことが、同時に望まれるのです。

 番組後半では、キャンディーズ以降のスーちゃんの歩みを紹介していましたが、彼女が福祉活動をこんなにしているとは、ほとんど知りませんでした。
 そして最後は、ファイナルカーニバルのラストナンバー、「つばさ」。
 ランちゃん作のこの曲ですが、まるで旅立っていくスーちゃんのための曲に思えてきてしまう。
 どうしてこんなつらい思い出ばかりが、この名曲にはついて回るのだろう。

 33年前の解散コンサートのとき、私は13歳。
 コンサートに行けない代わりに、その時間帯に私も一緒にビートルズの歌を歌いまくってました。
 当時の私の毎日の日課は、ビートルズのレコードに合わせて、彼らと一緒にがなりまくること(今は主に弾き語りオンリーですが)。
 彼女たちが最後の熱唱をしているのならば、自分も一緒に同じ 「歌う」 という行為をしていたい。
 そう考え、コンサートが始まったであろう6時過ぎくらいから、9時くらいまで、キャンディーズ、ではなくビートルズをいつになく熱唱しまくりました(中1-中2ですからそういう意味不明の行動はご理解いただきたい…笑)。
 そしたら数日、声が潰れまして(笑)。
 生まれて初めての経験だったので、キャンディーズ解散のショックと相俟って、数日間はずいぶん落ち込んだものです。

 春休みでしたので、その日の深夜(4月5日1時から3時)に放送されたラジオのニッポン放送のコンサート特番も、全身全霊で聴きました。
 そしたらなんと、キャンディーズのメンバーが電話でそのラジオ番組に出演して。
 「えっ、コンサートが本当の最後じゃないの?」 と思いましたが、電話に出てきた彼女たちは、もうすでにキャンディーズではなく、伊藤蘭、田中好子、藤村美樹に戻っている、そう強く感じたものです。
 強烈な喪失感。
 それが今また、再び私を襲ってこようとは。

 最後の言葉で 「息苦しくなってきました…」 と話していたスーちゃん。
 息も絶え絶えに、どうしてスーちゃんはここまでして、これを残そうとしたんでしょうか。
 夫の小達サンがどうしてそれを録音したのかを、番組終盤で語ってくれていました。

 「もし万が一が来たときはどういう思いで僕らはやればいいのかと話したんですね。 (彼女は)『本当に幸せな人生を歩めた』 と言ってました。 『誰よりも友に恵まれて、環境に恵まれて、(キャンディーズを)やめたあとからも、みんなが自分を可愛がってくれた。 だからひとりでも多くの人に、お礼が言いたい』 っていうことを言うんですね。 『よし、じゃあ声を録ろう』 って言って録ったのが、あのテープだったんですね」

 この最後のメッセージは、何度聞いても涙が出てきます。
 ランちゃんが弔辞で話したように、私もスーちゃんには、さよならは言いません。

 お礼を言うのは、こっちのほうです。

 ほんとうに、
 ありがとう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

「ベイビー・ユーアー・ア・リッチマン」 この 「捨て曲」 の楽しさ

 久々に 「誰も読まない」 ビートルズの記事。 語調が違うけれど、紛れもなくいつもと同一人物が書いています。

 ビートルズ中期のサイケデリックスタイルを完全に体現しているアルバム 「マジカル・ミステリー・ツアー」 のなかの一曲 「ベイビー・ユーアー・ア・リッチマン」。 ラストの 「愛こそはすべて」、そしてその前にはポールの強力な 「ペニー・レイン」、このふたつの超有名曲の狭間に位置された、言ってみれば 「どうでもいい曲」「捨て曲」 である。

 もともとアニメ映画 「イエロー・サブマリン」 のなかの一曲として意図されていた曲で、ビートルズはこのアニメを当初バカにしきっていたから、どうでもいい曲が出来ると 「イエロー・サブマリン」 に入れようなどと軽口を叩いていたくらいで、この曲もそのカテゴリーに漏れない。

 …あーあなんか、入門編みたいなこと書いてるなあ。
 私のビートルズ論は、そんな初歩的なことなど初めっから無視しまくり、ビートルズを濃く理解している人だけ読め、みたいなスタンスなのに。

 とにかく、この曲が人気投票の上位に来ることなどほぼないし、ビートルズ当人たちにとってもさほど重要視してはいない曲だと言っていいだろう。
 だが私はこの曲を聴くたびに、ビートルズの遊び心を如実に感じられて、それこそ幾度聴いても聴き飽きない魅力を感じるのだ。

 特にリマスターされたヴァージョンは音のモヤモヤがすっきり取れて(USBの音を基準にモノを申しております…失礼)ひとつひとつの楽器の音像が浮かび上がってくるかのよう。 これに比べると 「イエロー・サブマリン・ソングトラック」 に収録された、リマスタリング&リミキシングヴァージョン、それまで結構お気に入りだったが、もうしょぼく聴こえてどうしようもない。

 「イエロー・サブマリン・ソングトラック」 収録のこの曲は、リズム隊を中央に配する、という現代常識にのっとった位置配置の変更を行なっている。 それ以外はポールの弾くピアノが右側、ジョンの弾くクラヴィオライン及びジョージのギターが右、ほぼ原曲と同じ。
 ところがこの配置変更によって、リズム隊のリンゴのドラムがヴォーカルと重なってしまってその力強い響きがかき消されてしまっているのだ。 何でもかんでもドラムを中央にすりゃいいってもんじゃない、というのが、ここからよく分かる。
 だいたい当時のドラムは1トラックにしか納められていないので、太鼓ごとにマイクを置く今の主流とは違って全然アナログの世界。 中央に置くことによって、とても窮屈な感じがしてくる。

 それから 「ソングトラック」 のリミキシングでダメなのは、それぞれのヴォーカル、楽器のダイナミズムを消し去ってしまっている、という点だ。 と言うより、USBの音が単にいいっていうことなのだろうか。 USBの音はまるで自然なエコー(意図的とはとても思えない)がかかっている感じ。 楽器やヴォーカルに、ツヤがあるのだ。

 さてこの曲自体の魅力であるが、私の個人的な意見を申し上げさせていただくと、それはひとえに 「ミュートの音と、そしてそれが解放された時の音との緩急」 に尽きる。

 ギターを弾く時ひとつのテクニックとして、弦を弾くほうの手の腹の部分で押さえながら弾く、という方法がある。
 これが 「ミュート奏法」 というものであるが、こうすることで音はジャーンと伸びることなく、ジャ、ジャ、という細かい途切れたような音になる。
 そして押さえていた手の腹を離せばまた、ジャーンという音を鳴らすことになるのであるが、この曲の面白さは 「ジャ、ジャ」 というミュートの音と 「ジャーン」 という解放音との繰り返しにある、と私は思うのだ。
 この方法を、ポールのベースとジョージのギターが、同時に行なっている、というのがとても面白い。
 ここでのポールのベースは、おそらくリッケンバッカー。 これがポールのトレードマークでもあるヴァイオリンベース、ホフナーベースだったとしたら、ここまでミュート奏法の効果が生まれたとは考えにくい。 ホフナーベースは、音像がぼやけているのだ。 いっぽうジョージのギターもミュートでこもり気味で低音弦中心の弾き方、とても面白い音を出している。

 そしてそのミュートが解放される瞬間、ポールのピアノもフォルテシモになる。 この快感。 そこにリンゴのドラミングが激しく絡んでくる。 最高。

 この、「出したり引っこめたり」 の快感がこの曲を支配していることは間違いないが、そんな行きつ戻りつしているサウンドのバックで鳴りつづけるとても印象的な音がある。
 ジョンの弾くクラヴィオラインだ。
 この音がこの曲のサイケデリック的なきらびやかさを前面に押し出す役割を担っているのは自明だ。
 そこではまるでシタールの響きをそのまま表現したかのような 「なんちゃってシタール」 を弾いて遊んでいる、ジョンの姿が思い浮かぶかのようである。 後半はその響きに、狂気が絡んでくるのも驚異的だ。

 リンゴのドラミングも、「ストロベリー・フィールズ・パターン」 とでも呼べるような8ビートと16ビートの混在する叩きまくりで、オカズつけまくりのこの時期のリンゴを象徴している素晴らしいパフォーマンス。

 そして申し訳程度に挿入されている、ハンドクラッピング。 それに独特のエコーがかけられていて、なんかデジタル的。 そんなところまで神経が配られているのが感動する。

 してみるとこの曲の最大の魅力は、4人の繰り出す楽器のアンサンブルの素晴らしさにある、という非常に単純な結論に辿り着いてしまう(笑)。

 曲自体は前半はジョン、サビの部分はポール、といういわゆる 「合体型」 であるが、最初 「ベイビーベイビーベイービ」 という歌詞だったポールのパートを 「ベイビー、アンタは金持ちだ」 と改変した(おそらく)ジョンのセンスには恐れ入る。 そうすることでこの曲は、巨大な皮肉を内包したステージに、ランクアップしたのだ。

 「どうでもいい曲」 をここまでのものに昇華してしまっていた当時のビートルズの底力、おそらく私もその魅力にリマスターされたUSBの音に触れて気付かされたのであるが、実際ミュートを織り交ぜながらこの曲を弾いてみると、かなり楽しい。 音楽をやることの楽しさ、というものをまだ謳歌していた時代のビートルズを、そこに感じることが出来るのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月27日 (水)

「アスコーマーチ!~県立明日香工業高校行進曲~」第1回 「こんなところ」 に来たくなかった

 「大切なことはすべて君が教えてくれた」 で戸田恵梨香チャンの恋人を横取りしてしまうという敵役を演じた武井咲(えみ)チャンの主演ドラマ、「アスコーマーチ!」。

 「大切なこと…」 は開始1分でリタイアしたので肝心の咲チャンが演じているところを全く見ていないのですが、このコ、ラジオのニッポン放送で日曜夜、「ラジオ空想科学研究所」 のパーソナリティ(福田沙紀チャンからバトンタッチ)で出演中なのを仕事中によく聞いておりまして。 耳が悪いせいで 「たけいゆみ」 とばかり思っていたので、「大切なこと…」 に出演中、と聞いて 「たけいえみ」 と一字違いか…などと大カンチガイをしていました。 字も咲と書いて 「えみ」 と読ませるし。 結構名前からご本人に辿り着くのがシチメンド臭いタイプなんですな。
 そんなこんなで彼女に対する興味が、ちょっと膨らんでいたところだったのです。

 その咲チャンを初めてテレビでじっくり見ましたが、中越典子サンの目鼻立ちをはっきりした感じ、かな。 ドラマでは基本的にアップで髪を束ねているので、前髪を垂らしたところもじっくり見てみたい感じがします(数回ドラマでも見せておりましたが)。
 演技力に関しては、特に可もなく不可もなく、という感じかな。 でもこの先、大化けしそうな可能性は感じる。

 それはそうとして、今回どうしてこのようなドラマを見ようかと思ったのか、ですが、咲チャンへの興味がトップでもありますが、なんか 「工業高校」 舞台って面白そう、と思ったことが原因。

 志望校に落ちておじいちゃん(笹野高史サン)の勧めもあり工業高校へ入学した直(咲チャン)、99.9%男子のなかでもまれていくストーリーですが、表面上の展開はとてもオーソドックス。
 要するに落ちこぼれ組が跋扈している感じで、直はこども店長よろしく、「わしはこんなところに来とうなかった」 状態。 何かっていうと周りの工具やら油やらをぶっ散らばす不注意娘ぶりなのですが、それを片付ける際にある男の子のはんだごてを廃棄ゴミのカゴに一緒に入れてしまいます。
 その男の子、玉木誠(賀来賢人クン)の家は貧しいネジ工場で、そのはんだごては彼がおやじさん(長谷川初範サン)から譲り受けたもの。
 なんだかんだあって直は、彼のはんだごてを廃棄物置き場から探し出す、というのが第1回の主たるストーリーでした。

 ここからも分かるように、すっごく予定調和の(笑)どうってことはないドラマなのですが、私がこうしたドラマでものすごく共感するのは、「自分は本当はこんなところに来たくなかったんだ」 という言い訳をしている登場人物なのです。
 それってまるで、自分のようだから。

 そしてそんな鬱々とした気持ちを抱き続けている主人公の直に対して、やはりドラマでは、「自分はこの道で生きていきたいからここにいる」 という対称的人物として、この誠という男の子を配している。

 こういう人物配置って、結構ツボです、私の場合。

 世の中は、究極的にやる気のある人間とそうでない人間のふたつに分かれています。
 そしてその間に、「やる気はないけどやらざるを得ない人間」「仕方なくやっている人間」 が混在している。

 テレビドラマの場合、たいてい大部分の人々がやる気のある人間であり、物事の目的に向かって物語は進行していく。
 けれども現実問題として、「やる気のない人間」 がさまざまな団体行動の足を引っ張り、さらにその中間層にある人間が、組織の性格を決定づけていく。

 でも、どのような人間であれ、自分のやっていることに誇りを抱くまでになるには、かなりの努力が必要となる気がします。

 工業高校というのは、自分が落ちこぼれだと卑下した瞬間から、単なる腰掛けになる。
 けれども目的を持って入ってくる者にとっては、輝かしいファーストステージなのです。
 彼らは普通高校よりもかなりずば抜けた就職率を誇っている。
 それは彼らの即戦力としてのスキルが、高い需要があることの表れでもあるのです。
 それって、何の目的もなくただみんなが行ってるから高校に行く、という普通の生徒たちよりも、数倍も価値がある、ということ。
 彼らには、その大いなるチャンスが、目の前に与えられているのです。

 このドラマ第1回目では直の友人たちの男友達が、「目的もなく親の金で遊んでいる人種」 のステレオタイプ的な存在として登場します。
 ドラマとしては非常にベタな展開。
 けれどもそんな 「ボンボン」 みたいな究極的な形でなくとも(ポッポチャンは国民にとって悲劇なことにこのタイプでしたが)、自分がひとかどの給料をもらって社会的な立場も確立している、という自負を持っている人たちが、こうした 「町工場」 で働く人たちや、下働きの人たち、下請けの人たちに対して畏敬の念を抱くケースは、あまりない。
 もちろん卑下、なんて考えていなくとも、どこかで 「かわいそうだな」 とか考えている。

 でも自分の仕事に誇りを持っている人間は、どんな下働きの人間であろうと、讃えられるものだと私は思うのです。
 「誇り」 を持っていない人間は、どんなに下働きだろうが、どんなに偉かろうが、みんな一緒。

 直は第1回で、そのことにちょっとずつ気付き始めたようです。
 人は、どんなところでも、それに一生懸命になっている人がいる、ということを自覚しなければならない。
 たとえ自分が来たくなかった、という場所でも。
 それが成長、というものです。
 「やる気のない人間など、この世には必要がない」、ということは、人生早い段階から学ぶ必要があると感じます。

 話としては前述のとおりかなりありがちですが、直の同級のほかの男の子たちも含めて、動向が気になります。 毎回レビュー、というわけにはいかない気もしますが、ちょっと注目していきたいと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月25日 (月)

ランちゃんの弔辞

 スーちゃんの告別式。

 私は何年かぶりで、ワイドショーを見ました。

 久々に見た、ミキちゃん。

 年相応に、おきれいでいらっしゃるようです。

 そしてランちゃんの弔辞。





 信じたくない。





 悪夢のなかにまだいるような気がします。




 あれから涙も出なかったのですが、落ち着いてきたのか、今日はワイドショーを見ながら、ボロボロ泣いてました。
 つくづく涙というものは、あまりにも悲しいと出ないものなんだと感じます。




 いまだに信じられません。




 スーちゃん、あなたはもう、本当にいないのですか?

| | コメント (5) | トラックバック (0)

「JIN-仁-」(完結編) 第2回 自分の願いとの闘い!

 今回の 「JIN」 は、話が1話で完結せず、謎が深まっていくような構造みたいですね。
 そのスタンスを理解しておかないと、「ちょっと第1部とは違う」 なんて違和感をもちながら見てしまうことになりそうです。
 歴史上の人物は大挙して登場するし、話が大きくなりすぎて 「いいのかな~西郷さんや和宮さまをこんなふうに治しちゃって」 みたいに感じないこともない。
 そんな大物の話に飲み込まれて、第1部並みの細かい心理描写が出来ていないようにも感じます(それでも、フツーのドラマに比べればぜんぜんOK)。
 まあでも、物語が第1部とまったく同じではつまらないし、だいいち話が完結しませんからね。
 「ER」 並みにシーズン14とか15とか、それくらい見ていたいことは確かなんですが、ここはスケール感がアップした 「JIN」 を堪能していきたいと思うのです。

 「仁術」 を地で行く南方の 「仁友堂」 経営。 財政は、火の車であります。
 咲(綾瀬はるかチャン)がその逼迫状況を、自らの着物やかんざしを質に入れることでなんとか補っている。 「ゲゲゲの女房」 の布美枝ばりです。 南方も、咲のやりくりを心苦しく考えている。
 そんななか、皇女和宮(黒川智花チャン)の脚気治療のために、アンドーナツを献上せよ、という話が西洋医学館の松本良順(奥田達士サン)からもたらされる。 それがなれば仁友堂の経営状態もかなり良くなるのですが、和宮、という名前の大きさに、またしても南方は躊躇してしまうのです。

 しかし南方をここで動かすのは、皇室から幕府へと嫁いだ和宮の、「別世界に来た者同士」 の共感、そして偶然出会った野風(中谷美紀サン)も同じ、花魁の世界から別世界に舞い降り、自分には両親も故郷もない、というその境遇への共感でした。
 そしてその背後には、野風がどうしても、未来(ミキ、中谷美紀サン、二役)とダブってしまう、という南方の断ち切れぬ思いがある。

 それにしてもこの野風。

 身寄りがないところを南方が仁友堂へと誘ったのですが、やはり佐分利(桐谷健太サン)たちにも奇異な目で見られるし、なかなか普通の市井の生活をするわけにはいかないようです。 野風が本当に、心を落ち着かすことのできる場所は、いったいどこにあるのでしょうか。

 アンドーナツ献上を南方が決めたことで、南方をこころよく思わない医学館の多紀(相島一之サン)は福田(佐藤二朗サン)にそれを阻止するよう命じます。
 果たして和宮は、アンドーナツを食べてその場に倒れ、毒を盛ったとして南方らは捕えられ、牢獄に入れられることとなる。

 ここが今回の謎のツボなんですが。

 ドラマを見る限り、福田がアンドーナツに細工をしている直接的な描写がない。
 そして和宮は、アンドーナツと一緒にお茶を飲んでいるから、もしかするとそっちにも原因がある可能性も捨て切れない。
 つまり真犯人が誰であるか、この時点で断定できないのです。
 医学館の多紀は、第1部では西洋医学館の松本良順と対立していました。 ここらへんの力関係も怪しいのですが、その抗争のために将軍の御台所の命を危険にさらすことまでするのかどうか。

 いずれにしてもこの、ヒ素を盛られた和宮の緊急手術が、第2回のもっとも面白かった部分でした。
 当時の常識では考えられない腸内洗浄、という方法(胃洗浄、ですね、「通りすがり様、ご指摘ありがとうございます)。 これを南方ではなく大奥の医師である松本良順が行なっていくのですが、皇族で御台所の胃のなかのものを吐き出させていくその描写、恐れ多い気もしますが相変わらず容赦がない。

 しかしその洗浄が成功したにもかかわらず、「わざわざこんな状態にしてそれを治し自分の名を上げようとしている」 とした和宮お付きの年寄(伊藤かずえサン)によって、南方と咲は牢屋行き。 咲はまともな場所のようですが、南方が放り込まれたのは、大牢という、およそ医師が入れられる牢獄とはほど遠いもの。

 そこに待っていたのは宇梶剛士サン。 「あしたのジョー」 のマンモス西よろしく、ふんぞり返って 「つる」 と呼ばれる賄賂を要求してきます。 もちろん財政的に逼迫している南方に手持ちの金などあるはずもなく、咲の苦労も知っているから、持っていてもやるもんか、というスタンス。
 南方は半殺しの憂き目にあうのですが、半殺しどころではなく、この牢にいる連中は南方を本当に殺そうとしている。 

 ここで南方(大沢たかおサン)が現代に戻りそうになる描写がなされます。

 それは咲が、南方を未来(みらい)に戻してくださいと神仏に頼んだゆえの効果であるようです。

 第2回冒頭で咲は、南方が 「ひょっとして急にいなくなるかもしれないし」 と自分の存在の危うさを口走ってしまうと、神社にお参りして、南方がずっとこの時代にとどまってくれるように祈っていました。

 けれど南方の運命が危機にさらされたとき、咲はそんな自分の願いを捨て去ろうとするのです。

 「口では分かっているようなことを言いながら、わたくしはずっと、心の底では望んでおりました。
 先生がお戻りになる日など、来なければよい。
 出来るなら、ずっとここにいてほしい。

 もしや、そんなわたくしを哀れと思い、願いをお聞き届けくださったのでしょうか。

 なれば、どうか、もう一度だけ、哀れと思うてくださいませ。

 どうか、先生をお助け下さい!

 今すぐに、…今すぐに、先生を未来にお戻しくださいませ!」

 いっぽう南方も、元の世界の家族や友人に会うこともなく、未来(ミキ)がどうなったのかも分からないまま、「ここ(江戸時代)で死んでもいいかと訊かれれば、『いい』 とは言い切ることはできない」 と考えていました。 「『それでもいい』 と言い切れる日など、来るのだろうか? そんな日はたぶん、永遠に来ない」――と。

 しかし大牢に入れられ、囚人たちに口をふさがれて、意識が薄れていく中で見たその現代の風景の幻覚を、南方は拒絶するのです。 「現代に戻らない」、と。

 それは南方が和宮と接見するのに、咲が質屋から買ってきた着物を、宇梶サンにぶんどられたことが大きい。

 「でも、ここで戻ってしまったら、どうなるんだろう?

 咲さんがどうなったかを未来(みらい)から知ることは、…きっとできない。

 あの不器用な優しさに応えることはできない。

 あの笑顔を見ることはできない。

 それでもいつか、新しい日々のなかで、…『それでよかった』 と言い切れる日が、来るんだろうか?

 そんな日など…

 そんな日など…。

 絶対に来ないと思うんなら…」

 南方は自分の口をふさぐ囚人の手を、思い切り噛むのです。

 自分の願うことよりも、相手にとって大事なものがある。 大切なものがある。 相手のことを思うことが、自分にとっていちばん大事なことだったりする。
 この第2回は、そんな自らの思いとの葛藤が、描かれていた気がします。

 それにしても、第1回で現代に戻っている南方を映したようなシーンがあったことを見ても、江戸時代と現代との間に微妙な 「揺らぎ」 が生じつつある気がします。 完結編では、この 「揺らぎ」 が物語を左右していくような気がする。

 南方を吟味するのは、どうも医学館側の人間らしい。 状況は、いまだ絶望的であります。

当ブログ 「JIN」 についてのほかの記事
第1部

第1回 荒唐無稽との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---1-e9ae.html
第2回 建前との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---2-f3b1.html
第3回 自分の病との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---3-3290.html
第4回 女としての闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/---4-542b.html
第5回 梅毒との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---5-9dba.html
第6回 リアルとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---6-25d6.html
第7回 明日のための闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---7-87b0.html
第8回 自分の器との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---8-e9a7.html
第9回 心意気どうしの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---9-8cf0.html
第10回 ああもう、どうなっちゃうの?との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---10-670a.html
第11回(最終回)続編あるかどうかとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---7290.html
番外 続編の可能性を、もう一度考えるhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---a138.html

完結編
第1回 いますべきこととの闘い!① http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-577a.html
第1回 いますべきこととの闘い!② http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-7d0d.html
第1回 いますべきこととの闘い!③ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-c8e9.html
第1回 いますべきこととの闘い!④ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-6f3f.html

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011年4月24日 (日)

「新選組血風録」 第3回 ちょっと感想をリタイアします…と思ったけど撤回

 芹沢鴨(豊原功補サン)粛清を描いた、今回の 「新選組血風録」。

 芹沢のかこった女お梅(井上和香サン)との心情的な共感や、武士として己の居場所をどう荘厳するか、というテーマに重点が置かれ、相変わらず見応えがあったと言っていい気がします。

 ただ私の 「耳が遠い」 という身体的なハンデが作用しているのかもしれませんが、肝心な場面でセリフが聞き取れないことが、とても多かった。 4、5か所以上あった気がする。
 とても肝心なセリフなので録画したものを何回もリピートするのですが、やはり聞き取り不能。
 BGMの音も大き過ぎるんですけどね。

 したがって今回は、ちょっと感想をリタイアいたします。
 あしからずご了承ください。

(ここから追記です)

 …と思いましたが、撤回いたします。
 大変申し訳ございません。 行き当たりばったりで。

 第3回の 「血風録」 を見ていて、「新選組」 という集団の本質とはいったいどこにあったんだろうな、ということは感じました。

 芹沢が商人を脅したりして軍資金を調達するのには、その商人が長州に加担している、という理由がある。
 それはとても立派な大義名分であり、近藤(宅間孝行サン)もそのことに関しては不問に付しています。 ドラマでは隊の法度にそのことを絡め、「金策に走る者は切腹だが、その金策が隊のためになっているのならいい」 という理屈で問題をかわそうとしている。

 ただ芹沢のやったことは暴力団まがいの手口で、けっして品がいいとは言えません。
 そのことに対して隊を預かっている会津藩の松平容保(林泰文サン)が難色を示し芹沢粛清をそれとなく暗示させたために、近藤らはそれを実行に移すのですが、芹沢側の新見(細見大輔サン)に関するよからぬ情報をリークして座敷で切腹させたり、芹沢を酔っぱらわせて数人で(最後は土方、永井大サンとのさしの勝負でしたが)急襲、という手段を取っている。
 この方法もあまり品があるとは言えない。

 結果、隊の局長は近藤ひとりとなるわけですが、「新選組」 という名の披露の際に近藤は、隊員たちに向かって芹沢一派粛清を自分たちがやったことにせず、いもしない誰かに責任転嫁させている。

 こうした、主人公たちをいたずらに善人に仕立て上げずにきちんと描写していく姿勢には、とても感服します。
 このことで、見ている側も考えることが、より深くなっていくからです。

 私の場合は、この経過を見ていて、新選組というのは単なる人斬り集団ではなく、ひとかどの志のもとに自分たちの後ろ暗い部分を正当化させていった、という点で歪んだヒーローなんだな、ということを感じました。
 おそらくそれって、「新選組!」 を見ていたときにも感じていたのですが、あのときは近藤が香取慎吾クンだったせいか、それともそのスタンスで1年間視聴者を引っ張っていくのは難しいと作り手が判断したのか、その暗部に関する描写にはとても作り手の逡巡が見えていた気がするのです。
 でもそうすることでかえって、「新選組!」 という物語は深くなっていたんですけどね。

 芹沢と近藤は、突き詰めて考えれば同じ穴のムジナ、だと思います。 ただ近藤の場合、もっと儒教的な規律を重んじただけ、まだ救いようがある。 人間として共感できる部分を、そこで形成させている。 芹沢は芹沢で、ただのならず者、不届き者でもない。 そのことを今回このドラマでは、「オレは一度死んだ人間だ」 というセリフとそれに付随するセリフ(ここが要するに、よく聞き取れなかったのです)によって、芹沢のくぐってきた暗黒の世界を描写し、ドラマをさらに見応えあるものとして完成させている気がするのです。

 以上、筆者の気まぐれによって追記いたしました。
 いい加減な人間なので、平にご容赦いただきたいと存じます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月23日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第14回 過去の大河ドラマとの絶縁

 いま、NHKBSプレミアムで、大河ドラマ50作記念的な特集として 「よみがえる大河ドラマ デジタルリマスター版」 という番組を、ここ数週にわたって放送しています。
 画像が鮮明になり、ノイズも除去された感じでとても見やすくなったこれらのドラマ。 1作につき1話、みたいなペースで時代を追っています。

 この番組が開始されたとき、「江~姫たちの戦国~」 の代わりにこっちを放送すりゃいいだろう、というネタフリのために見出したのですが、

 かなり退屈で。
 睡魔と闘うのが精いっぱい。

 これってどうしてなんだろう、と考えたわけですよ。

 まずやはり感じるのは、いくら画像が鮮明になっても、いまのハイビジョンに慣らされた身としては、画像にかなりの見劣りがする、ということ。
 これは大昔の映画(黒澤映画みたいな)と比べても画質の悪さは際立っています。 解像度が低すぎる。

 そして役者たちの表情がその画像の悪さのせいで見づらく、なかなか感情移入させてくれない。
 さらに1話だけしか放送されないせいもあるのですが、物語に入って行けない(今日放送された 「樅の木は残った」 は総集編でしたが)。
 見続けているのであれば、互いの登場人物がどのような共通言語(つまり結びつきの質)で繋がっているかが把握できているために、物語にスッと入っていけるのですが。

 この、共通言語、という点においては、もうひとつ当時と現代との表現方法の違い、ということも如実に感じさせてしまいます。
 なんかドラマが冗漫に見えてしまうんですが、それって重厚さの裏返しに存在する弱点のように思える。

 そして役者たちに、同時代性がない。

 ドラマを見る側の心理として、その役者の今が見たい、という同時進行性を求める傾向って、どこかしらにあると思うんですよ。 自分たちと同じ時代を生きている俳優たちの今を見て、一緒に生きていると共感したがる部分、と言いますか。

 だから大昔の映画を見るとき、役者に思い入れがあるとかそんな部分から入っていくことは難しい。
 まず、作品の質、という部分からのめり込めるかどうかが決まる、と思うのです。

 それらの点で、大昔の大河ドラマを見るとき、そのハードルは非常に高くなる。
 退屈で途中で寝てしまう、というのには、そんな原因があると思われます。

 「江」 には、そのようなハードルが全くない。

 つまり同時代性という点でも、上野樹里チャンら出演者が、「今頑張っている」 というのが見えますし、続けて見てるから登場人物たちの結びつきの質も把握している。

 なにより内容が、非常に理解しやすい。 寝ちゃうことなくす~っと見ることが出来るんですよ。

 なのに、どうしてこうもドラマが浅いのか、と思わざるを得ないのです。

 ハイビジョンになって、俳優たちはちょっとした些細な表情でも、ちゃんと視聴者に分かってもらえる、とても恵まれた環境にあることは自明です。

 なのに、どうして物語に奥行きが生まれてこないのか。

 そりゃ脚本でしょう、というのは簡単に言うことが出来るのですが、この脚本は、これまで49作の大河ドラマの大河ドラマたる言語を完全に遺棄しにかかっているように思われてならないのです。

 それはアクビものの重厚さをきっぱり否定している、という点。

 登場人物たちの思惑には、あまり複雑さがありません。 動機は常に、ひとつかふたつ。
 そしてコントに、かなりの神経が使われている点。
 そのコントの埒外に存在しているのは、茶々と千宗易のみ。
 それ以外の出演者は、このドラマをいかに滑稽に見せるかに、心を砕いている。

 これは過去の重苦しい大河ドラマを真っ向から否定する所業であります。 ケンカを売っている、と言ってもいい。
 その点において、このドラマは凄い。

 14回目の内容ですが、江を佐治に嫁がせたはいいものの、結局秀吉は佐治の主君的な立場である織田信雄に戦を仕掛ける。 さらに秀吉は自分の思い通りにならない江が恋しくなり、あっという間に佐治と離縁させ出戻らせた、というそれだけの話。
 これを45分(正確には42分半)やるんですから、コントを大部分導入しなければ成立しないのでしょうが、それを強引に敢行してしまうのだから凄い。

 そのなかでホロっときたのは、江が初からの手紙を読むシーン。 互いに敵味方となってしまい、敵方に届くかどうか分からない、というのに初が書いた文が、江に届いたのです。
 こより状に折られた手紙の先端を初が誤って破いてしまったために、手紙の上部はギザギザ。 なのにあの意地っ張りの初から身の安全を心配する手紙が届いたことに、江は涙するのです。 このシーンには、心が少しばかり動かされました。

 ところが初から、もう一度手紙が届く。
 江が読んでみると、茶々が重い病気にかかった、という内容。
 とるものもとりあえず佐治が江を戻らせるのですが、その手紙は、実は秀吉が書いたニセモノ。 江はまんまと秀吉のもとへと戻らされたうえに、秀吉の養女になってしまったために秀吉から横柄な口をきかれるようになってしまうのです。

 ここで疑問なのは、初からのニセモノの手紙を、どうして江が簡単に信用してしまったのか、という点です。 だいたい本物の初からの手紙を見たばかりというのに、何で江は区別がつかないのか。

 しかしそれは、「敵方に簡単に届くかどうか分からない」 とされていた初の手紙が、簡単に江のもとへ届いてしまっていた、ということがある種のヒントになっている気がします。
 つまり秀吉の力によって、初の手紙は江へと届くことが可能になった、ということです。
 だからこそ秀吉は初の手紙を初が書いたようにそっくりに書くこともできただろうし、初がしたようにこより状に文を折り曲げることもできた。

 侍女(江の乳母らしいのですが、もうどっちゃでもよろしい)がそれの片棒を担いでいた、という見方もできる。
 この侍女、茶々が病気だというのに出来たばかりの大阪城に登城してその威容、豪華絢爛さにただただ感心するばかり。 「なに考えてんだ」 と思ったけど、そう考えれば侍女の心なさも理解できる。

 でもその種明かしは、いちいちドラマのなかでしたほうがいいと思われるんですよ。
 でなきゃ、「江って姉からの手紙の判別もできないかなりのマヌケ者」「侍女は茶々の病状なんかどうだっていいかなりのうつけ者」 で終わってしまう。

 まあ視聴者がどう思おうと、作り手はあまり気になさらないらしいですな。

 おそらく今から50年後、「よみがえる大河ドラマ」 みたいな今回の番組がもし作られたとしたら、同時性も俳優に対する思い入れもない後世の人々はこの 「大河ドラマ」 を見て、「なんじゃコリャ」 としか思わないんでしょうな。
 それとも今後大河ドラマはこんな軽い路線になっていって、エポックメイキングの作品だった、と評価されることになるんでしょうかね。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2011年4月22日 (金)

スーちゃんのこと

 この先、こうした喪失感というもので、壮年にさしかかった人生って彩られていくんでしょうか。 先の記事にも書いたとおり、今回のことで自分のなかの一部分が、確実に死んだ気がするのです。

 ひとつの時代の終わり、そして次々と欠けていく心。
 自分が夢中になっていた人がやがて死に絶え、自分の大切な人が死に絶えていって、この世にだんだん未練がなくなっていって、やがては自分も死んでいくのでしょうか。

 そして自分が死んだあと、おそらくあの世でも、あの世の住人は次々と生まれ変わっていくのでしょう。
 これって突飛な発想ですけど、自分のなかには 「どうして自分は、前世の記憶を捨ててこの世に再び生まれたのか」、というものすごい疑問があるんですよ。 「前世」、というものがある、と仮定したうえでの話ですけどね。
 で、おそらくあの世の未練がなくなったから、この世にもう一度生まれたい、と思ったんだろう、と。
 でもその際に、どうしてもひとつくぐり抜けなければならない試練がある。
 前世の記憶をなくしてしまうことです。
 たとえば私にとって、ビートルズや山口百恵、キャンディーズの記憶、というものは何物にも代えがたいものです。
 それって捨てられるのかな、もし将来自分が死んだあと、あの世からまた生まれ変わりたいと思ったとき(ややこしい話でスミマセン)。

 でも、おそらく生まれ変わっても自分がビートルズが聴ける環境のところに生まれたい、と思うはずだし、山口百恵やキャンディーズにしても同じで、絶対もう一度巡り合いたい、と思う。
 この世に生まれてくる人って、みんなどこかにそんな思惑があって生まれてきてる、と思うんですよ。 自分が何かに夢中になるものにはすべて、前世からのそんなつながりが、どこかにあるんじゃないか、って。

 スーちゃんとカンケーない話を長々として申し訳ないです。
 ただそれだけ、今回のことではダメージが大きい。
 仕事中でもぼんやりとしてしまいそうですが、少なくとも仕事の間は心をそちらにシフトしなければなりませんので、ちょっとこのブログの場でだけ、情けない泣きごとに浸ってみたいと思ったのです。

 昨日のブログ記事で、「死ぬ時は自分が勝ったと思いながら死にたいものだ」 とか、縁起でもないことを書いてしまったのは、虫が知らせたのかななんて考えています。
 このところ、なんかスーちゃんの作ったキャンディーズ時代の曲、「午前零時の湘南道路」 とか、頭のなかで鳴ってて。
 湘南地方で今、働いてるんですけどね。
 ジョン・レノンのときほどじゃないですけど、どうも虫の知らせというものを感じ取る能力が、自分にもまだわずかに残っているようであります。

 そういえば、1978.4.4の後楽園でのファイナルカーニバルで、「午前零時の湘南道路」、スーちゃん歌詞間違えてたっけ…。

 スーちゃんのことを思うとき、いつも考えるのは、「スーちゃんにとってキャンディーズというのは、大切な思い出であると同時に、苦い思い出の場でもあったんじゃないだろうか」、ということです。

 周知の通り(って若い世代の方はご存知ないでしょうけど)キャンディーズは、はじめスーちゃんがメインヴォーカルでデビューしました。
 それで何曲か出して泣かず飛ばずで、結局 「年下の男の子」 でランちゃんがメインを取ることによって、今風に言えばブレイクしたわけです。

 これってスーちゃんにとっては、結構心の傷になったんじゃないのかな、って。

 ここでのキャンディーズの強みは、メンバー間の絆が強かった、ということ。 メインヴォーカルの交代、という黒っぽい歴史は、3人の仲のよさで自然昇華されていった気がします。
 ただ同時に見えてくるのは、やはりビジネスライクな冷たい芸能界の側面。 芸能界の厳しさ、という括りで表現してもいいのですが、「売れるためには何でもあり」 というプロダクション側の姿勢に、メンバーの中でいちばん若かったスーちゃんは、ランちゃんミキちゃんに比べて大人の世界を理解したくなかったんじゃないかな、って思うのです。

 キャン解散後の3人を見ていると、これは私の個人的な印象なのですが、ランちゃんなどに比べるとスーちゃんは、あまりキャンディーズ時代のことについて語りたがらないように見えていました。
 もちろんいつまでも光を失わない青春の輝き、という箱の中に納めているような部分も、スーちゃんの言動からはじゅうぶん感じていたんですけどね。

 時代的な感覚からいけば、当時フォークソングから派生したニュー・ミュージックの台頭という時勢の中で、スーちゃんの声質は、多少歌謡曲っぽさが抜けなかった。

 それは彼女が民謡を歌うことから始めているせいだと私は勝手に考察しておるのですが、彼女の歌い方は民謡のそれっぽく、鼻に抜けるような感じがする。 スーちゃんメイン時代の曲のウケが悪かったのは、そんなどことなく古臭いスーちゃんの歌い方が、時代的に遅れているようにとらえられたせいなのではないか、そう私は実に勝手に考えています。

 そしてその歌い方と同時に、スーちゃんの作詞作曲のスタンスも、どことなく歌謡曲っぽい。

 キャンディーズは活動の後半で、そのニューミュージックの影響を受けたような自作自演、という方向性を打ち出していくのですが、スーちゃんの方向性はマイナーコード中心の歌謡曲路線。 ミキちゃんが音楽性に関してはいちばん先進的で、ファンキーさも取り入れたものであるのに対して、ランちゃんはどちらかというと童謡的(「みんなのうた」 みたいな感じ)、で、スーちゃんは歌謡曲的、でした。

 歌詞の内容も 「午前零時…」「いけない人」 に共通しているのは、不良に恋する女の子、危ない関係。
 結構ありがち、ですよネ(笑)。
 少女的な憧れを歌にしたものが、結構多い気がするんですよ。
 メンバーでいちばん若かった、ということも関係してるんでしょうけど。

 そんな彼女の最高傑作は、「ファイナルカーニバルプラスワン」 に納められたラストナンバー、「土曜日の夜」 だと私は思っています。

 このナンバー、ジャジーな雰囲気でそれまでの歌謡曲然とした古臭さから、完全に脱却している。
 この曲を聴くたびに私は、「キャンディーズが解散せずにこのまま活動し続けていたら、音楽性においてもかなり成長したのではないか」、と感じられてならないのです。




 スーちゃんの最後のドラマ、「てのひらのメモ」。

 途中まで見たんですよ、実は。

 なんか寝ちゃって。

 それきり録画したものを消してしまったのが、いまにして思えば最大の痛恨事です。

 そのときの印象を思い返すと、確かに何となく元気がなかった気がする。

 こうなったら、もう一度見たい。




 どうしてなんだよ。

 なんでだよ。

 もう一度書きます。

 私のなかの一部分も、あなたと一緒に死にました。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

田中好子サン、スーちゃんが…(そんな…)

嘘だろう…!

 昨夜10時45分頃、ラジオで一報を聞いたときは、まるで悪夢のなかにいるようでした。 思わず口を突いたのがこのひと言。

 …信じられません。

 この衝撃は、言葉では言い表せません。

どうしてなんだよ!

 仕事中にも関わらず、しばらく呆然。

 それ以来、お腹のなかにとても重い鉛が居座ってしまったようです。

 キャンディーズは、私の青春でした。

 もちろん当時は移り気でしたから、いろんなアイドルにうつつを抜かしたものです。

 でも私にとって山口百恵とキャンディーズは、まさに双璧。

 気持ちの整理がつきません。

 私の人生の一部までもが、終わってしまったように感じます。

 すみません。

 ちょっと、書きたいことが山ほどあるのですが、のちほどあらためて書きたいと思います。

 とりあえず、2年前に書いた記事のリンクをつけておきたいと思います。

キャンディーズ解散から31年http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/04/post-6f3c.html

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2011年4月21日 (木)

「JIN-仁-」(完結編) 第1回④ いますべきこととの闘い!

 第1回2時間を4分割し、前回③つまり1時間00分から1時間30分までの出来事を 「第1回目のキモ」 と表現いたしましたが、クライマックスはやはり最後の30分にあったと思うのです。

 あまりにもダラダラと書き続けたこのレビューですが、4分割したことで結果的に気づいたことがあります。
 スタイル的に変則ですが、30分ごとに結構起承転結になっている。
 その 「転」 の部分で南方は京都行きをします。 ここでの出来事特に佐久間象山との出会いは南方にとって、かなり意識改革の機会だったんじゃないでしょうか。

 と同時に、前作で私が感じていたこのドラマの強力な素晴らしい点、「登場人物たちの行動に、動機付けをこれでもかというほどしつこく繰り返す」 という点が、ちょっと薄まっているかな、とも感じるのです。
 これはおそらく、歴史的な出来事を大きく絡めたことのひとつの弊害か、とも思われます。
 ただ第1回目に関して言えば、それは現在の震災後の日本にあまりにも、卒倒するほどリンクしていたために、かえって大きな効果につながった。 もしかするとこれが作り手の、完結編における表現方法の大きな転換なのではないか、とも思えるのですが、まだ始まったばかり。 まあ、歴史の出来事に翻弄されて話が無理っぽくならないことを、願うばかりであります。 杞憂かな。

 さて始まった西郷吉之助の虫垂炎手術。

 前作から2年もたっているためか、南方らの術式はとてもスムーズで、ここでも前作に感じていた 「江戸時代に現代の手術をしようとするからとても危なっかしく見える面白さ」 というものがなくなっている。 つまり物語は、前作でやろうとしていたものを転換し更なる方向へ突き進もうとしていることが、ここからも分かるのです。
 ただし本当にスムーズに終わるはずもない(笑)。
 オペの最中に長州藩の生き残りが乱入、薩摩藩士との間で刃傷沙汰が繰り広げられる。
 時代劇ではよく目にする光景ですが、実際に目にしてしまうと腰が抜けてしまうもの。 南方も動転して、手術続行不能となるのですが、ここで山田の平手打ちが炸裂。 山田も2年たって、かりんとうを盗み食い?しながらも成長しているようであります(笑)。

 手術は無事終了。
 しかし西郷の手術で最後のペニシリンを使ってしまったおかげで、避難所の人々の救えた命も、救えなくなってしまいます。 少女の死に苦渋の表情を浮かべる南方でしたが、惨状はそこで終息ではない。
 「――それから数日間、オレは患者を見送り続けた――」
 ひとりではどうすることもできない地獄の底しれなさに、「オレは何のために来たんだろう?何をするために、ここへ…この時代へ…」 と南方は無力感にさいなまれる。
 そんな南方に、龍馬は久坂の辞世の句を読ませ、南方とともにただ前に向かって生きていこうとするのです。

 「(辞世の句の意味は)故郷を思う私の声は、誰にも届くことはなかった…そんなとこじゃが、わしゃ久坂の声を、聴いてしもうた。

 のうしぇんしぇい。

 死んでいった者たちに報いる方法は、ひとつしかないち思わんかい。

 もっぺん、生まれてきたい――。

 そう思える国にすることじゃき。

 そう、思わんかい?」

 ちょっと思い違いがあったので②を訂正いたしましたが、南方はここで、龍馬に 「あなたは暗殺される」、と言おうとして激しい頭痛に襲われ、その思いを伝えることができません。
 「戻るでよ、あん世界へ」
 ホータイの男と胎児形奇形腫。
 第1部の最大の謎がここでフラッシュバックします。
 う~ん、早くその謎の正体が知りたい…。

 龍馬に暗殺のことを告げられなかった南方は、自分の大切な人を見送り続けなければならないのか、という絶望感のなか、京から帰ったら栄が亡くなっていた、という悪夢を見てしまいます。
 江戸に戻るととるものもとりあえず栄のもとへと猛ダッシュの南方。
 ①で書きましたが、栄は助かっていました。 南方のチョーよろこびよう(笑)。 思わず顔をほころばせる栄に、どうやらツンデレ好きらしい私は胸キュンであります(笑)。

 意地でも食べなかったあんドーナツを栄が食べたのには、喜市の説得があったようです。

 「(「もう生きていたくないのです」 と話す栄に)奥方さま、おいらもそうでした。
 おっかさんが死んだとき、おいらも、コロリから助からなきゃよかったって思いました。

 だけど、おいらあれからいいこと、いっぱいありました!

 変わったことだって、いっぱいあります!

 ペニシリンが出来て、治る病も増えて、今度は、脚気に効く、お菓子が出来て!

 南方先生が来て、江戸は、すごく変わりました!

 だから、これからも、きっと変わります!

 …

 奥方さまがお笑いになる日が、必ず来ます!」

 喜市はおそらく南方からの受け売りで、「神さまはのりこえられる試練しかあたえない」 と栄に叫ぶのです。
 喜市チャンのこのセリフは、まるで震災後の我々に向けて放たれているかのようで、ちょっと空恐ろしくもある。 これ、ホントに震災前に作られたんですかね? だとするとこのドラマの作り手は、①でも書きましたが、「極限状況に陥った人々がどのように行動するのか」 を、まさに考えに考え抜いてドラマを構築している。
 感嘆するしか、無能な私にはなす術がありません。

 「でも、笑えないんです。

 死んだら、ダメなんです!

 生きてなきゃ、笑えないんです!」

 この場面での喜市チャンのセリフ、泣けるところなのですが、泣くのを忘れていました。

 なぜなら本当にそうだよなあ、と感じたから。

 感情に流されてはいけない、と自分がいまだに思っている部分だから。

 喜市の言葉に、開くことのなかった障子が、そろそろと開きます。
 這いつくばって障子戸を開けた栄。

 「…いただきますね…」

 栄は敬うような手つきでアンドーナツを手にし、一口食べて、「…おいしい…」 と喜市に笑いかけるのです。

 その回想を語り終えた栄は、「私はあの子に救われました」 と南方に話すのですが、南方も 「私もです」 と思わず漏らすのです。
 救える者を救うことに、意味がないなんてことはない。
 生きていれば、笑える日は必ず来る。
 ずっと雨なんてことは、絶対にない。
 人生は不幸だらけだ、と昨日加藤諦三先生がラジオでおっしゃっていました(「広瀬香美のオールナイトニッポンゴールド」)。
 だから不幸だからって嘆くことはない、という意味なのですが、じっさい人生って、かなりの割合で不幸だらけだと感じます。
 でも、ちょっとの割合でも、笑える瞬間のために、みんな生きている。
 うまいものを食べた、美しい風景を見た、友達と会って楽しかった、仕事で何かを達成した。
 そんな瞬間のために、みんな生きているのです。

 橘家の門を出た南方のもとに、咲がやってきます。
 橘家に気兼ねがある咲。
 あまりにも久しぶりだったと思うのですが、偶然栄と、咲は出くわしてしまいます。
 踵を返そうとする咲。
 栄は咲の後ろ姿に、毅然と言い放ちます。

 「負けは許しませんよ、咲!

 お前は戦のような人生を歩むのでしょう。
 けれど、選んだのはお前です。
 橘の家に泥を塗っても、その道を選んだのです。
 ならば、

 …勝ちなさい!

 橘の家のために!

 同じような生き方を選ぶ、世の女子(おなご)たちのためにも!

 道を開きなさい!

 母はここで見ております。

 …くじけることは許しませんよ!

 …楽しみにしています……咲!」

 なんか、もう、来ました(何がって…分かりますよね)。

 もしご先祖様があの世から自分たちを見守っている、とするならば、おそらく 「そのみずからの魂を成長させよ」 という目で私たちを見ている気がします。 けっして甘やかそうとしてはいない気がする。 つらいことがいっぱいあっても、それを受け止めて自分の精神を成長させることこそが、人生の本当の意味なのだ、と。 途中でどんな不慮の出来事が起きるかも分からない。 でも、それを乗り越えることが、人生の本当の意味なのだ、と。
 栄のその態度は、なんか私にそんなことを考えさせるのです。

 死んでしまったら無意味だろう、とかそういうことでもない。
 そこから逃げ、目をそむけることが、本当の不幸な気がします。
 死に立ち向かい、それを精神的に乗り越えれば、たとえ肉体が死んだとしても、その人の人生はそこで、勝ったも同然だと思う。
 死は、敗北なんかじゃない。
 「自分は勝った」 と思いながら、死んでいきたいものであります。

 話がずれ続けております(笑)。 エンギでもない話ですが、この覚悟は人生にとって、とても重要だと考えます。

 あ~ここまで考えさせてくれるとは。
 やはりこのドラマは、タダモノではない。

 南方は大火のなか持ち帰った、佐久間象山のお守り袋に、「平成二十二年」 の十円玉が入っていたことに気付きます。 第1部の時は偽造硬貨なのではないかと取り沙汰されたいわくつきの硬貨ですけど、平成二十三年になってしまった今では珍しくもなんともないのですが(笑)。

 また、謎が深まります(笑)。 なんなんだよ~もう(笑)。

 これが神が仕組んだことなのであれば、心のままに生きよう――。

 南方は、覚悟を決めます。

 しかし物語はアンドーナツをめぐり、南方の思いもよらなかった方向へ…。

 …どうなるんだ、まったく!(笑)

 …やっと4日間にわたるレビューが、終わりました。
 気長に付き合って下さったかたには、感謝いたします。
 引き延ばし過ぎですよね、さすがに(笑)。

当ブログ 「JIN」 についてのほかの記事
第1部

第1回 荒唐無稽との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---1-e9ae.html
第2回 建前との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---2-f3b1.html
第3回 自分の病との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---3-3290.html
第4回 女としての闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/---4-542b.html
第5回 梅毒との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---5-9dba.html
第6回 リアルとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---6-25d6.html
第7回 明日のための闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---7-87b0.html
第8回 自分の器との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---8-e9a7.html
第9回 心意気どうしの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---9-8cf0.html
第10回 ああもう、どうなっちゃうの?との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---10-670a.html
第11回(最終回)続編あるかどうかとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---7290.html
番外 続編の可能性を、もう一度考えるhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---a138.html

完結編
第1回 いますべきこととの闘い!① http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-577a.html
第1回 いますべきこととの闘い!② http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-7d0d.html
第1回 いますべきこととの闘い!③ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-c8e9.html

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2011年4月20日 (水)

「JIN-仁-」(完結編) 第1回③ いますべきこととの闘い!

 「お前は未来から来たか? …わしは、行ったクチだ…」

 佐久間象山は、南方に自分は10歳のとき木の上から落ち未来へ行ったことを告白します。
 そこでさまざまなことを知ろうと夢中になるうちにまた病院の階段から落ち、気がつけば元の時代の同じ場所に立っていた。 夢かと思ったが頭の包帯はそれを否定していた。 象山はその包帯で、首から下げたお守りを作っていたのです。

 「わしはそのとき見た世界に少しでも近づこうと、あらゆることを学び、考え広めようとしてきた。 …理解されないことも多かったが。
 …わしはお前が羨ましい。 …(点滴を見上げ)わしにはこんなものは作れぬ。 お前には、山のような知識と技があるのだろう…。 未来を見越し、この国を救うこともできる…」

 南方は、思わず不安を象山に漏らしてしまいます。

 「でも、それは許されることでしょうか?
 私ごときが歴史に関わってしまうなんて…」

 しかし象山は、毅然と言い放つのです。

 「それこそが神の意志だとは思わんのか…?
 歴史を変えるために、自分が送り込まれたのだとは?」

 「あなたと違って、私は平凡な…」

 「お前は歴史を変えてしまうことを恐れてる…!
 裏を返せばそれは、自分が歴史を変えてしまえるかもしれないと思っとるからだろう…!
 …相当な自信家だ…!」

 「違います!…私は…」

 「つべこべ言わずに救ええッ!」

 象山は瀕死の状態なのにいきなり激高(笑)、包帯のお守りを南方に投げつけ、南方をどやしまくるのです(スゲ…笑)。 京都の街を焼け野原にした大火が眼前に迫っているのに、彼を運ぼうとした者たちをもどやしつけ、自分はここで死ぬ、と覚悟を決めての激高です。 こんだけ元気がありゃ、逃げられるでしょ~、というのはあえて目をつぶります(笑)。

 「もし! お前のやったことが! 意に沿わぬことであったら! 神は、容赦なくお前のやったことを取り消す! 神は…それほど甘くはないっ!

 ならば…救えっ!

 その心のままに、救ええーーっ!

 救ええーーっ!」

 火に巻かれる中、南方は象山のお守りだけを手にして、その場からからくも脱出します。
 南方の耳にいつまでも残る、その象山の断末魔の叫び。

 この象山。
 100年先を見越した先見の明をもった思想家であったと同時に、ヤタラメッタラ自信家で気性の激しい性格、まわりからかなり疎まれていたらしい(笑)。 ウィキで調べながら笑ってしまったのですが、「JIN」 での象山は、まさしくそのまんま(笑)。 熱血あふれすぎて、他人の言ってる事などお構いなし(笑)。 死の間際でさえこうだったのですから、元気なときはもっとすごかったんでしょう(笑)。

 そして象山のような先見の明のある人物は、まさに時空を超えて神が遣わす存在なのではないか、という気もいっぽうではしてくる。
 ひとたびそれまでの常識を覆す人物が出てくると、みな常識はずれなその人物を攻撃したりします。 でもその人物は、歴史が進むにつれてどんどん評価を高めていく。
 どんなに謗られても自分の信じた道を貫くのは、大変なことです。
 でも未来のため、人類のためを思う思想に、けっしてためらいがあってはならない。

 ところでこの象山の今際の際の言葉は、龍馬の暗殺を知らせようとして南方に起こった頭痛と相まって、妙な説得力を伴います。 この物語におけるタイムスリップの論理としては、歴史というのは一本道で(「女の道は一本道」 というセリフも過去に別のドラマでありましたが…)もし間違ってその時空を飛び越えてしまった者がいたとしても必ずどこかで修正されてしまう、というスタンスのように感じます。
 かつて喜市の母親が南方の手によっていったん命を取りとめたのに、結局別の理由で死んでしまったことも同じ理屈ですよね。 今回はその理屈を、より大きな形で発展させ表現している。
 南方はペニシリンなどという大勢の人々を救う神への敵対行為とも呼べることをやって大勢の人々の運命を変えているようにも思えるのですが(それは今回の脚気治療にしても同じ)、「神が容赦なく南方の行為を取り消す」 のは、南方がしている重大な敵対行為に見合うだけの大きなどんでん返しを、神(この場合は作り手、と言ってもいい)がこの先に用意している、という壮大な予告のようにも思えてくるのです。

 ここで南方のナレーションです。

 「再び、京の町に出ると、
 …世界は変わっていた。

 世界は、変わっていたんだ…」

 焼け出され、苦痛に喘ぐ人々。 この世の地獄です。
 これには参りました。
 すでにこのブログでも指摘し、多くのかたがたも感じていることと同じですが。
 ある意味で、正視することを拒絶してしまいそうな映像でした。
 あまりにも時宜を得過ぎています。
 その場所が河原であることも、きちんと状況考証をしている証拠ですよね。 大火が起こってしまえば、いちばん安全なのは、川のほとりなのです。

 その避難民のなか、泣き叫ぶ子供を治療しようとする南方を、山田純庵(田口浩正サン)が 「ひとり助ければ我も我もと押し寄せましょう」 と止めに入ります。 けれども象山の叫びが耳から離れない南方は、「できるだけのことはしましょう!」 とそれを振り切り、地獄のなかで治療を開始するのです。
 もはや神だの歴史だののことなど、南方の頭からは消え去っています。 色分けされたリボンを手につけることで治療優先者を判別するトリアージが、ここで大きな力を発揮していく。 これも江戸時代どころか、近年まで全くなかった概念ですよね。

 「今、自分にできることをやり遂げる」。

 自分の最善を尽くすことが、人間として唯一、しなければならないことなのです。
 最悪の状況のとき、最善を尽くすことが出来る、それが人間だ。
 そんな文句を、どこかで聞いたことがあります。
 いろんなことに怖がっていては、何も始まらない。
 一歩踏み出せば、また一歩は自然と出るものなのです。

 ぶすぶすと燃え残るがれきのなか、敵も味方も死に、骸がそこらじゅうに転がっているなかで、龍馬は長州藩士の東修介(佐藤隆太サン)を助け出します。
 龍馬は東を南方のもとに運んで来て治療を頼むのですが、その男が長州藩のものであることが分かった途端、まわりの患者からは次々に非難の声が上がります。

 まるで東電社員のようなこの状況。 名前も東だし。 まるで未来を見越したようなこの設定。 東はいたたまれず、その場を立ち去ろうとします。
 龍馬は 「おまんにはやり残したことはないがかえ!」 と東を叱責。
 「ひとつだけ…」 と答える東。
 この東、佐藤隆太サンがやってるからおそらく重要な役なんでしょう。 「ひとつだけやり残したことがある」 というのは、その点で気になります。

 治療を終えたその場に、新選組が急襲。 龍馬が拳銃を発砲し、囮になって逃げていきます。
 あまりにも多い患者の前に、ペニシリンも底を尽きかけてくる。
 山田が最後のペニシリンの瓶を抱えて治療の場に戻ってくると、南方は新選組の隊員たちと話をしています。 「こんな者どもとは比べ物にならない」 重要な人物の治療を頼まれている模様。 南方が拒絶するのにもかかわらず、隊員たちは南方をその場から連れ去ります。

 その人物とは、薩摩の西郷吉之助(藤本隆宏サン)。
 「坂の上の雲」 で広瀬中将を演じた人です。
 「坂の上の雲」 と言えば、話はそれますけどまだ第2部の最後まで見てない(笑)。 広瀬が戦死するところを、まだ見てないんですよ。 つくづくナマケモノでありんす。 「TAROの塔」 もまだだし。 ゴールデンウィークを利用しようかな(笑)。

 西郷がかかっているのは、虫垂炎。 どうも悪化すれば死んでしまうような重い状態らしい。
 これもウィキで調べたのですが、蛤御門の変のとき、西郷は実際に被弾し怪我を負っていたとのこと。
 ここで南方が西郷の治療を引き受ける場面では、?と感じました。
 なぜならいくら歴史に疎くても、西郷は明治の西南戦争の時に死んだことくらいは南方だって分かっているんじゃないか、そう思ったからです。
 だったら自分が関わらなくとも、歴史の必然でこの虫垂炎は治る。

 けれどもこれは、史実とずらして西郷を重篤な状態にすることで、神が南方に西郷の治療をさせたがっている、そう解釈もできる。 のちに南方も、そんなふうに自分を納得させていました。 いちいち神が出てきてうるさいくらいですが、ここで物語の成り行きを考えると、「目の前にあることをやり遂げる」、という方向で推移していくことで、南方が西郷の治療を承諾するのもありえるかな、と。
 南方は、腹を切って手術をすることを西郷に勧めます。
 ハラキリなど、当時の常識から言って言語道断。 薩摩の武士たちは、一斉にいきり立ちます。 西郷はそれを制し、「ハラキリで軍の士気を低下させる」 という理由で、南方の提案を断る。 自分のことより軍の指揮を優先する西郷の思考回路が、のちの西南戦争に結びつく。 うなります。

 しかし再び、象山の 「救え!」 という叫びを思い出した南方は、低くうなるようにうめきます。

 「……切らせろ……!」

 踵を返す南方。

 「オレに腹を切らせろ…!」

 「気でも狂うたのか!」 と激高する薩摩藩士たちに、南方はこう返す。

 「オレが治していたのは、あんたたちが焼け出した人たちだ…!
 あんたたちからすりゃあ、どうなろうと構わない人たちだ…!
 でもオレからすれば、あんたたちこそそうだ!
 勝手に戦って街を焼け野原にしたあんたたちを助けるヒマがあれば、オレは焼け出された子供を助けたい…!

 …でも今ここで、西郷さん、あなたを見殺しにすれば、オレはあなたたちと同じになる。

 命を差別する者になってしまう!」

 西郷の前で土下座をする南方。

 「だからどうか、助けさせてください!

 わたしのために、あなたを助けさせてください!」

 西郷は意を決し、周囲の藩士たちに 「おいがもし助からんでも、先生に手出しをすることはならん」 とくぎを刺します。 西郷は南方に、自分の腹を切らせることを許したのです。
 南方は山田に、ペニシリンをもってこさせるのですが、「先生が必要とおっしゃられるのなら」 と山田は最後のペニシリンの瓶を抱えて出る。 山田の南方を信頼するこの判断にも、熱いものが感じられます。

 やっぱり30分が限度か…(笑)。 これでようやっと、1時間半分のレビュー終了です。

 いずれにせよ、この③の部分が、いちばん 「JIN」 1回目のキモとなる部分ではなかったか、と感じます。
 「自分が今なすべきことをせよ」。
 私も今回いろんなことを震災で感じましたが、そうするしかない、と考えています。
 非現実的な話ですが、日本人ひとり1円出せば、1億円はすぐに集まる。
 それと同じようにひとりひとりのちょっとした努力が、大きな力になっていくんだ、と感じるのです。
 悲しむ時間は必要です。
 しかしひととおり泣いたら、そこからまた、人は歩き出さねばならない。

 次回レビュー、おそらく第1回最終回です(なんじゃソレ)。 私もけりをつけます(笑)。

当ブログ 「JIN」 についてのほかの記事
第1部

第1回 荒唐無稽との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---1-e9ae.html
第2回 建前との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---2-f3b1.html
第3回 自分の病との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---3-3290.html
第4回 女としての闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/---4-542b.html
第5回 梅毒との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---5-9dba.html
第6回 リアルとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---6-25d6.html
第7回 明日のための闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---7-87b0.html
第8回 自分の器との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---8-e9a7.html
第9回 心意気どうしの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---9-8cf0.html
第10回 ああもう、どうなっちゃうの?との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---10-670a.html
第11回(最終回)続編あるかどうかとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---7290.html
番外 続編の可能性を、もう一度考えるhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---a138.html

完結編
第1回 いますべきこととの闘い!① http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-577a.html
第1回 いますべきこととの闘い!② http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-7d0d.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月19日 (火)

「JIN-仁-」(完結編) 第1回② いますべきこととの闘い!

 喜市が試作した新商品を試食してほしい、という策略で栄にドーナツを食べさせようとした南方たちでしたが、それとなく目をそらしてしまう恭太郎の様子を敏感に察し、一口食べただけでそれ以上食べることを拒絶する栄。
 この麻生祐未サンの演技は絶品でした。
 いままで食べたことのない味に酔いしれそうになりながら、武家の奥方の面目を保とうとする。 そして喜市に 「大変おいしゅうございました」 と岸朝子サン張りの気配りをすることも忘れない。
 なんてことないシーンでしたけど、細かくて深いんだよなあ、いちいち。
 置かれたままのドーナツのあま~い誘惑に、全身全霊でそれを拒絶する栄。 ある意味地獄であります。

 そして、自分の死んだ母親(戸田菜穂サン)のことを思い出して唇を噛む喜市に、南方がねぎらいの言葉をかけるのですが、喜市は健気に、「明日もあさっても、食べてくれるまで持っていく」 と決心するのです。

 その帰り道、南方をいきなり後ろから拳銃が狙います。
 「ホールドアップや、しぇんしぇい!」
 龍馬です。 久しぶりの再会を喜ぶ南方。

 海軍操練所時代の龍馬、ということは、龍馬は江戸を離れて京都に行っていた、ということになりますよね。 第1部のあと、南方と龍馬には惜別のシーンがあったのでしょう。 してみると、第1部の時代は龍馬にとって、千葉道場時代、ということになるんですかね。
 千葉道場時代は資料が少ないのか、作り手も龍馬を自由に動かすことが出来たんでしょうが、この完結編はそういうわけにはいかないようですね。 この時点で相当歴史的な出来事がこの完結編では絡んでくる、そんな気がしました。 じっさい南方に龍馬が語り出したのは、池田屋事件とその影響が、龍馬にもひたひたと関わり始めている事実。

 龍馬が南方に会いに来た本当の目的は、佐久間象山(市川正親サン)の命を救ってほしい、ということ。 打ち首になってさらされた佐久間象山は実はニセモノで、本物は瀕死の重傷を負って京都のある場所にかくまわれている。 南方しぇんしぇいでなければ助けられん、というわけです。
 ここで注目なのは、南方がこの、比較的有名な人物である佐久間象山の名前を、知らないことです。 南方が知っているのは、龍馬が暗殺されることくらい。
 つまり南方は、歴史を自分がどこまで改変してしまっていいのか、という基準を、持ち合わせていない、ということなのです。 だからこそ、しなくてもいいレベルの逡巡まで、無用にしてしまう。 これをやっちゃったら歴史が変わる、とか、自分のすることによって未来がどんどん改変されていくことの恐怖に、だからこそ南方は怯えている。

 ただ今回特に強調されていたように思うのは、「神の意志にそむくかどうかで、自分の行動もおのずと決定される」、という登場人物たちのセリフです。
 たとえば、南方が龍馬に 「あなたはこのさき暗殺される」 と告げようとした瞬間、また例の原因不明の頭痛が襲ってくる。 これは神が、南方にそうさせることを許していない、ということ、なのでしょうか?
 ということはですよ。
 歴史をつかさどる神は自ら、決定範囲外のことを南方に許していないことになる。
 つまり未来は、神の見えざる手(経済学的な意味じゃなくってですよ)によって既に決定されている。
 南方がこの先、そうせざるを得ない場面に遭遇するたび、それはあらかじめ神によって決定されている試練、なのかもしれないのです。

 それを踏まえて今回の龍馬の南方への佐久間象山治療の申し入れを考えると、佐久間象山は実際の歴史によればそのときすでに斬首させられていたみたいなのですが、実は生きのびている。 けれども結局は南方の治療もむなしく、蛤御門の変による大火によって死んでしまう。
 でも象山を生きのびさせることで、歴史の神は南方に、彼もまた未来をのぞいた人間であったことを教え、「自分の意のままに人々を救え!」 ということを教え、南方の今後の指針とさせていくのです。 それが神の意志。 そうすることで南方に、未来を打開していく力を与えている、とも考えられます。

 南方は龍馬からの申し入れに、影響力の強い人を助けることで、また歴史が変わってしまうのではないか、というおそれを、咲にこぼします。
 すると咲は、以前に南方から言われた言葉をそのまま、南方へと返すのです。

 「先生は、医者なのでございましょう?
 黙って見ているだけというのは、違うのではないでしょうか?」

 南方は腐りやすいペニシリンを、乾燥させて京都まで持っていくことを考えます。 ヤマサの職員も総出で(笑)携帯用ペニシリンの製造に着手。
 いっぽう咲は、ドーナツにあんをまぶすことを思いつき、小豆を煮てあんこの製造に着手(笑)。
 アンドーナツか…。
 私が幼稚園くらいの頃(1970年あたり)、なんかおやつはいつもアンドーナツだった気がする(笑)。 懐かしいです。
 あれは母親が脚気防止のために与えていたのか…(ウソ)。

 その食べたアンドーナツさえおそらく戻してしまったであろう(汚い話でスミマセン)蒸気船の激しい揺れに耐えながら、南方は龍馬と京都へ向かいます。
 そのとき南方は、治安の激しく悪い京都の情勢を聞きながら、龍馬が歴史の渦に巻き込まれ始めていることを悟ります。
 龍馬は、大いなる海のような大局的史観に立って、自らの思いを語り続けます。

 「まっこと、いまのこん国は、兄弟ゲンカばぁ~っかりしちゅう。

 海の向こうには、とんでもない敵がこじゃんとおるちゅうに、この国はどうなるがぜよ」

 これは去年の 「龍馬伝」 で、結構じかに触れてきた気のする龍馬の思いなのですが、ここでこうして改めて内野龍馬から同じ思いを語られると、それが一瞬で咀嚼できる自分に気付きます。
 それは、震災を経ていまだに物事の根本を見据えていない今の政府や、政争にばかり走ろうとする野党の 「100年先を見据えていない視点」 にイライラさせられているからかもしれません。 同じ穴のムジナでしょうが。 あらためて龍馬の、大局に立った視点が懐かしい。

 京都はそんなドロドロとしたまつりごとをめぐる動きがとても活発化している。
 ただしいまと違うのは、そんなドロドロのなかに、日本のためを思って志を掲げている若者たちが多数いた、ということです。
 そのうちのひとりが、久坂玄瑞(林泰文サン)。 この時点で、24歳くらい。 第1部でも、ペニシリンの時にちょっと出てきてました。 なんか忘れてんなあ(笑)。 いや、おぼろげながら覚えてますけど。 ペニシリンに対する誤解は、すっかり解けたようです。 龍馬に対して 「お前は間違えるな」 と意味深なセリフを残して、南方たちを自分たち長州藩が作った検問所?みたいな場所の通行を許可するのです。

 好戦派を諭している立場の久坂。 彼は心ならずも蛤御門へと向けて突っ走っていくことになります。 「お前は間違えるな」 は、そんな意味合いのものだったのでしょう。

 いっぽう瀕死の佐久間象山のもとへとやってきた南方ら一行。

 南方は象山が首からかけていたお守りのような小袋を見て愕然とします。 それは現代の医療用のガーゼ。 南方は佐久間に話を聞くために、治療に全力を注ぐのです。

 ついに始まってしまった戦闘。 龍馬は久坂のもとへと駆け抜けていきます。 いっぽう佐久間象山は心肺停止。
 久坂のもとに駆け付けた龍馬。 「逆賊の汚名を着せられたまんまで、おまんはそれでええのかえ!」 とつかみかかる龍馬に久坂は 「攘夷だのくそくらえだ!」 と本音をぶつけます。
 「ここで死んでどうするんですか! あなたにはやり残したことがないんですか!」
 いっぽう必死の形相で心肺マッサージを続ける南方。
 象山の意識が戻ります。

 「…わしを…呼び戻したのはお前か…」

 まるで蘇った死者のような市村サンの演技。 ぞっとした~(笑)。

 点滴の様子を見た象山。 すぐさま南方が何者であるか悟ります。 人払いをする象山。

 「攘夷など本気で信じとる奴がいたら、阿呆じゃ! 長州は阿呆の集まりじゃあ!」
 激高する久坂。 だったらなぜここまで突っ走ったんだ、と問う龍馬に、久坂は激白します。

 「わしはこの国をひとつにしたかっただけじゃ!
 日本は外敵に狙われておる。 外国に真に立ち向かうためには、まずこの国がひとつにならなければならぬ! でなければ太刀打ちなど出来ぬ。
 …だが、この国にはその考えはない!
 長州や、土佐は、別の国の人間だと思っている!
 それを乗り越え、ひとつにできるものが、尊王であり、攘夷であると思った…!
 ひとつでありえるきっかけであればよかったのだ!」

 龍馬を振り切り、切腹をしてしまう久坂。

 「坂本…お前は間違えるな…。
 この国の未来を…」

 「久坂ああーーっ!」

 逃げ惑う群衆。

 やはり震災を経験してしまったからでしょうか、久坂の言葉はいちいちこちらの胸を打ちました。 久坂の言った 「外敵」 を 「天災、人災」 と置き換えてもいいのではないでしょうか。 この蛤御門の変をきっかけとして京都が見舞われることになる大火、その光景が震災後の光景と重なり続けます。

 うう、これでやっと1時間、第1回目の半分であります。

 力尽きた…(笑)。

 このくだりを見ても分かるのですが、「JIN」 の完結編は、第1部と比べて格段に、歴史的な大事件が絡んでくることは必定のようであります。
 その点からいけば、第1部はまさしく、プロローグでしかなかったような気さえしてくる。
 南方が歴史的な出来事に立ち向かうための、準備期間だった気がしてくるのです。

 そう考えると、野風と未来(ミキ)のことなども含めて、内容がずいぶんてんこ盛りのような気がします。

 後半の感想文は、また明日以降とさせていただきます…。 気力がなくてスミマセン。

当ブログ 「JIN」 についてのほかの記事
第1部

第1回 荒唐無稽との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---1-e9ae.html
第2回 建前との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---2-f3b1.html
第3回 自分の病との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---3-3290.html
第4回 女としての闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/---4-542b.html
第5回 梅毒との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---5-9dba.html
第6回 リアルとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---6-25d6.html
第7回 明日のための闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---7-87b0.html
第8回 自分の器との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---8-e9a7.html
第9回 心意気どうしの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---9-8cf0.html
第10回 ああもう、どうなっちゃうの?との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---10-670a.html
第11回(最終回)続編あるかどうかとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---7290.html
番外 続編の可能性を、もう一度考えるhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---a138.html

完結編
第1回 いますべきこととの闘い!① http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-577a.html

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年4月18日 (月)

「JIN-仁-」(完結編) 第1回① いますべきこととの闘い!

 おそらく大震災前から出来ていたと思われるプロット。
 しかしこのドラマはまるでそれを見越していたかのように、「極限状況に置かれた人間がいかにすべきか」 を考え抜いていました。
 正直なところ、「前作を超えるのはどうなのかな」 という不安もありました。
 けれどもドラマは開始直後から、その不安を見事に粛清していくのです。
 そしてそのうえでさらに、3.11を経験した見る側に、ひたすらに強く訴えかけてくる。

 「いま自分がなすべきことをせよ」、と。

 ドラマは南方仁(大沢たかおサン)が現代に戻れぬまま、素直に2年が経過した時点から始まります。
 まずさまざまな登場人物が現れるたびに、懐かしさがこみあげてくる。 内野聖陽サンの龍馬を見た時なんか、わけもなくウルウル(笑)。
 なんですかね、この感覚(笑)。
 のめり込み過ぎると、こういう現象が起こるんだなあ。

 内野龍馬の特徴は、あくまで泥臭いこと。
 福山雅治サンがやっていた龍馬は、あくまでスマート。
 福山龍馬に慣らされていたんでしょうか、内野龍馬に最初は懐かしさもこみあげつつ、「ちょっとウザったいな」(笑)と思ったりもして。
 でも両者に共通しているのは、「とても人なつっこい」、という点であります。
 その人なつっこさで他者を煙たがらせ、いなくなればなったでその人なつっこさが恋しくなる。
 坂本龍馬という男の不思議な魅力は、現代的解釈によるとその点で透徹しているように思われるのです。

 その龍馬、このドラマではまだ、海軍操練所の段階らしい。
 そこから蛤御門の変へと否応なしに龍馬は巻き込まれていくわけですが、時代は龍馬を、さらにグローバルな問題意識へと駆り立てる方向へと突き進んでいる感じであります。

 海軍操練所、と言いますと勝海舟(小日向文世サン)とまだ絡んでいることになって、なんか 「龍馬伝」 を見ていた身としては、「暗殺されるのまだまだ先だなあ」、という感じなのですが、それよりなにより、勝と言えば武田鉄矢サン、というイメージが、まだ払拭できない(笑)。
 だけどこの 「JIN」 前作でも、武田サンは緒方洪庵として出演し、その洪庵はすでに亡くなっているんですよね。 あ~混乱する(笑)。
 これも2年ほど前までは、「篤姫」 での北大路欣也サンが、勝海舟のイメージだったんですけどねぇ。
 小日向サンはこのおふたかたに比べれば、残念ながらパンチ力不足なのですが、あまりドラマに絡んでこないからあんまりインパクトありすぎなのも却って問題かな、なんて(笑)。

 うっ、なかなか本編に突入することが出来ない(笑)。 またいたずらに、長くなりそうだ…。

 物語冒頭、大沢たかおサンのナレーションによって、見る側は一気に 「JIN」 の世界に呼び戻されます。
 「ぼくたちは当たり前だと思っている。
 思い立てば地球の裏側に行けることを。
 いつでも思いを伝えることが出来ることを。
 平凡だが、満ち足りた日々が続くであろうことを。
 昼も夜も忘れてしまったような世界を。
 けれど、それはすべて与えられたものだ。
 誰もが歴史のなかで闘い、もがき苦しみ、命を落とし、生き抜き、勝ち取ってきた結晶だ。
 だから僕たちは、さらなる光を与えなくてはならない。

 ――僕たちは、この手で」

 もうこのモノローグによって、このドラマのすべては語られている、と言っていい気がします。
 このナレーションの間、幕末と現代の風景が交互に映し出され、「両者は、つながっている」 という、このドラマ前作から私が感じてきたことが繰り返される。
 我々は過去と比べると、海抜的に数センチから数メートル上に暮らしている、と言います。
 つまり過去の土壌の上に土を盛り、埋め立て、舗装し、そこを地面の基準としている。
 だからちょっと数メートル掘り起こせば、江戸時代の割れた茶碗とかが出てくる可能性もある。
 もっと掘り返せば縄文土器が出てくるかもしれない(笑)。
 つまり現代は、物理的にも精神的にも、過去の積み重ねのうえに、成り立っている世界なのです。
 どんなフツーの人でも、そのなかで闘ってきた。
 フツーの小さな闘いが、いまを作り上げているのです。

 そのナレーションの間、未来(中谷美紀サン)と思われる人物が、こちらを振り返ります。
 そして古ぼけた手紙らしきものを読んでいる、南方仁?と思しき人物。 彼の目には涙が溜まっている。
 これがこのドラマ完結編の行く末を大きく暗示している気がします。 先が見たくて仕方なくなってくる。

 まだ冒頭か(笑)。 どんだけ長くなるんだこの記事…(笑)。

 先と言えば咲(綾瀬はるかチャン)ですが(笑)、彼女は結納の場から飛び出してしまったために橘家とは絶縁状態、南方の営む診療所 「仁友堂」 で働いています。
 その咲、なんかよそよそしいのですが、スワ大沢たかおサンと不仲なのか?と現実とごちゃまぜの感想を抱くのもつかの間(笑)、彼女は自分の母親栄(えい、麻生祐未サン)が脚気で重篤な状態であることを南方にひた隠しにして、南方が橘の家で骨休めしたら、という誘いを断ります(「ドタキャン」 談義は笑えました)。
 その橘家はそのドタキャンで恭太郎(小出恵介サン)は出仕差し控え、窮地に陥っています。

 脚気というのはビタミンB1の欠乏によっておこる病気で、南方にとっては原因が分かっているからなんてことはない話。 橘家を訪れた南方は栄の病状を知り、食事療法を勧めるのですが、栄は 「もう、生きていたくもございませぬゆえ。 生きていたとして、これより先、私にどのような望みがあるのでございましょうか」 とそれを敢然拒否。
 この栄の弱々しくも凛とした態度は、まさしく武家の女性そのもので、見ているこっちも身が引き締まるような毅然さなのです。

 その態度ひとつによって、その時代に生きている者の価値観を余すところなく表現できてしまう。
 別に心情をべらべら吐露せずとも、現代的な解釈で表現せずとも(どこぞのドラマを揶揄してますけども)「女の生き方」 は描写可能なのです。
 「JIN」 の世界は、この栄だけでなく、人物のひとりひとりにまで、その世に生きた者の価値観を見る側に納得させるだけの力にあふれている。
 この栄、第1回後半では咲や喜市(伊澤柾樹クン)の尽力があって回復するのですが、夢見が悪くて栄の病状を心配し、京都から帰ったときに真っ先に駆け込んで彼女の手を握り涙を流して嬉しがる南方に、ちょっとその毅然さがほころびます。
 それってまるで、なんか南方に恋しちゃったような感覚(笑)。
 お武家の奥方がいきなり手を握られるなんて、まさに青天の霹靂でございましょう(笑)。
 これってツンデレ?(笑)
 私は一気に咲より母親の栄のほうに感情移入してしまいました(やっぱりオレって、ツンデレ好きなんだろうか…笑)。 いや、栄のほうが、歳も近いですし(笑)。

 話が終わらないぞ(爆)。
 まだ17分ではないか(笑)。

 「これは、母の私への罰なのです。 橘家に泥を塗った私を、死をもって戒めようとしているのです。 ならば私は、黙って受けるしかございませぬ」

 そう語る咲。
 南方は、「咲さんは、医者でもある。 医者ならば、黙って見ているだけ、っていうのは、違うんじゃないですか?」 と咲を諭します。 それがちっとも、押しつけがましくない。 大上段に構えて、説教がましいことをしない。 これがこのドラマの、すごいところであります。
 咲は栄がかりんとう好きであることを思い出します。 南方はそれにインスパイアされて、玄米や豆乳を混ぜ込んだドーナツを作ることを思いつくのです。
 「男子厨房に入るべからず」 という時代を生きる咲にとって、ドーナツを作る南方は、やはり特異に見えるようです。 それをいぶかしがる咲に、南方は未来(ミキ)と一緒に料理した過去(いや未来、ミライか)を思い出す。
 野風(中谷美紀サン、二役)を救ったことで消えた未来(こっちはふたたびミキ、あ~ややこし)の写真が南方の脳裏をよぎります。
 未来(ミキ)、どうなっちゃったんでしょうね。
 現代を生きていることは冒頭で提示されたと思うのですが、おそらく南方との接点がなくなってしまったんじゃないでしょうかね、写真自体がなくなった、ということは。
 南方は野風が元気なら、それでいい、と咲に語るのですが、そのとき野風のその後が描写されます。

 野風は花魁をやめたはよかったのですが、横浜で始めた私塾が、やはりもと花魁であることから風評被害があとを絶たず、経営も成り立たなくなっている模様。 必ずしも幸せである、とは言い難い様子なのです。 「あちきは…でありんす」 などと口をついてしまうようではそれも無理からぬことかと(笑)。
 ただし未来(ミキ)が未来(ミライ)で教鞭をとっているようなので、私塾経営はこのあと野風の子孫のなりわいになりそうな感じがするのですが。

 「んなんじゃこりゃああっ!」 って、ジーパン刑事みたいに驚く佐分利(桐谷健太サン)たち、完成したドーナツの味に感動しまくり(笑)。
 ただしそれをどうやって栄に食べさせるのか。

 ここでいったんCMなのですが、やっと30分、第1回目4分の1までこぎつけた…(笑)。
 ちょっと今日はここまでにいたしとう存じます。 夜勤なのに寝てる時間がない…。

 それにしても今回このドラマのCMなんですが、震災後の空気をきちんと読んでいるCMが特に前半は多くて感心しました。 普通録画を見ながらだとスッ飛ばしまくるのですが、見入ってしまうCMが多かった。 東芝さん、サントリーさん、いいCMをありがとう。

当ブログ 「JIN」 についてのほかの記事
第1部
第1回 荒唐無稽との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---1-e9ae.html
第2回 建前との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---2-f3b1.html
第3回 自分の病との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---3-3290.html
第4回 女としての闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/---4-542b.html
第5回 梅毒との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---5-9dba.html
第6回 リアルとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---6-25d6.html
第7回 明日のための闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---7-87b0.html
第8回 自分の器との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---8-e9a7.html
第9回 心意気どうしの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---9-8cf0.html
第10回 ああもう、どうなっちゃうの?との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---10-670a.html
第11回(最終回)続編あるかどうかとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---7290.html
番外 続編の可能性を、もう一度考えるhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---a138.html

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2011年4月17日 (日)

「新選組血風録」 第2回 切腹が名誉である、ということの説得力

 今年の 「真」 大河ドラマの称号を個人的にほしいままにしている 「新選組血風録」 第2回。
 第1回目の力の入れように比べれば、パワーダウンした感は否めません。
 第1回目は、"山内容堂"近藤正臣サンの演技の深さによる強烈な存在感によって、物語全体がこれ以上ないほどの緊張感に支配されていた気がします。
 同じ役者でも、ただ飲んだくれたまま釈迦来迎図を見て苦悩していただけの山内容堂とは、ずいぶん差があるなあ、やはり役者が光るのは原作やホンがいいかどうかなんだな、ということを感じながらの視聴でした。

 ただ司馬サンの原作によれば、この 「新選組血風録」 というのは短編集であり、近藤や土方など大物以外の隊員たちにスポットを当てた内容であることから、本来の筋としては、第1回目のスケール感あふれる作りより、今回のほうがより原作のニュアンスに近いんだろうな、ということは感じました。

 その今回の主役は、新選組の隊服・隊旗を考案した、新入りの迫田清太郎(久保山知洋サン)。
 幼馴染の佐代(水崎綾女チャン)の借金返済のために隊の給金をせっせと貢ぎます。
 ところが借金は膨らむ利息でまるで焼け石に水。
 迫田は出くわした借金取りを斬りつけてしまいます。
 そのために隊の法度により、迫田は切腹。
 表面上の話は、まあそんなところであります。

 この借金取りの取り立ては、今日の悪徳貸金業者とまるで同じ手口。
 時代による価値観の違いなど全くないのですが、こと切腹、となると現代の価値観では容易に理解の出来ないものが含まれてくる。

 これは去年の大河ドラマ 「龍馬伝」 でもたびたび(だったかな)切腹の場面があり、そのたびに当時の武士にとって切腹は名誉の死だったということが語られていたのですが、なんかわざとらしさが付きまとっていた気がするのです。
 それに比べて今回の 「血風録」 では、同じ説明がなされていたのに、なんか押しつけがましくない。
 それってどうしてなのかな?などと考えてしまいました。

 実際に顔付き合わせて比較はできないので確かなことは申せませんが、自分の記憶の限りで物申しますと、「龍馬伝」 では 「切腹が名誉である」 ということを、ヤケに強調していた気がする。
 それは全体的にギャーギャーうるさかったこのドラマの印象からどうしても、そう思い返してしまうからかもしれませんが、「血風録」 では迫田の切腹の際にナレーションでただ一言だけ。
 「切腹が名誉である」 ということは、その場に居合わせた隊員たちの様子、そしてほかならぬ迫田の様子から、じゅうぶんに伝わってくるのです。
 こういう、「空気」 だけで見る側を屈服させてしまう 「説得力」 が、このドラマにはある。

 そしてこのドラマでは、そのエピソードを芹沢(豊原功補サン)と近藤(宅間孝行サン)土方(永井大サン)との力のせめぎ合いに絡めることに成功している。
 今回の迫田中心の、表面上の話の裏には、芹沢を牽制しようと土方が提案した、隊の法度が大きなカギを握っています。
 迫田は言わば土方寄りの人間であったのですが、問題を起こしたことで、土方は芹沢方に見せしめのために、迫田をその法度で処分しなければ、ならなくなるわけです。
 切腹の直前、沖田(辻本祐樹クン)が出来たばかりの隊服・隊旗を迫田に広げて見せ、迫田はこの世に自分がなしたこと、残したものを見届けて、笑って死んでいく。

 この、迫田の話自体がどうやらフィクションらしいのですが、こうした話の構築の仕方には、うなります。

 芹沢がその法度を土方らから提示されたときの、その反応の仕方も実に興味深かった。

 彼は自分が隊の規律を乱していることをじゅうぶん承知で、それに後ろめたさも感じている。
 そして同時に自分が大物であることを、何かにつけて誇示したがっている。
 ただのチンピラだったら、近藤も土方も、芹沢の扱いに苦慮することなんか、ないのです。
 そのパワーゲームが、見ていてとても面白いのです。

 しかもこのドラマ、借金取りに苦しむ町人を描写することによって、隊のなかだけではない、重層的な江戸末期の構造を表現してしまっている。

 私はこのドラマを見ていて、去年の 「龍馬伝」 における新選組の描写がいかに一面的であるかをあらためて思い知らされたような気がします。
 「龍馬伝」 の新選組はただの暗殺集団で、しかもマヌケ。
 安易な善悪の取り決めが、話をいかに 「大衆演劇ふう」 に堕してしまうのか。
 それぞれの人間、それぞれの集団には、それぞれのちゃんとした生きる指針というものがあるのです。

 いずれにせよこのドラマが、どこぞのオコチャマ大河のすぐあとに放送されている、ということに、限りない皮肉を感じている、今日この頃であります。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年4月16日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第13回 ふぃ~ん、ぎゃぽ!

 ↑まともにタイトルをつけるのもおっくうになるほどの 「姫たちの戦国」 なのですが(笑)、なんか記事を書きたくなってくる不思議な魅力があります(魅力なのか?…笑)。

 ただし今回は、感心した場面はなし。

 12歳にして最初の政略結婚へと駆り出される江(上野樹里チャン)、逡巡の末に秀吉からのその話を受諾するのですが、その理由が浅い。
 構造的には、戦を避けるためとか織田家を守るためとか、そうした表面上のことを配しておいて、それよりも深い理由があった、と語り部はいったんそこで話を終わって見る側をじらす作戦に入るのですが、江が結婚を受諾したのには、実は茶々(宮沢りえサン)を秀吉の魔の手から守ろうとする真意があったのだ!なんと健気なことか、さあ泣け!というワケだったのです(のっけから容赦なくネタバレしますが)。

 この展開、いったん話を打ち切ってじらされた割には想定内の話であり、ちっとも意外性がない。
 ここ数回ドラマに大きな妙味を加えていた宗易(石坂浩二サン)からも大したアプローチがなく、物語に深みが生まれてこない。
 おね(大竹しのぶサン)が、江が佐治家に嫁いでいたあと、「実は…」 と茶々に江の真意を話すことも、そうでもしなきゃ話があまりにも浅いまんまだからそうするしかないわけで。
 だからその真意を知った茶々が涙を流すのも、かなりわざとらしくなってくる。
 結局 「自分はいいことをしたんだ、ふぃ~ん」 と鼻の穴を大きくしたまま輿入れしてしまう江の得意げな表情だけが、ドラマの浅さをなぞっていくだけなのです。

 だから 「江も12歳程度だから、この程度の浅い理由で輿入れしちゃってもいいのかな」、なんて気になってくる。 実際そうだったんでしょうけどね。
 けど理由づけを浅くしてしまうことで、ドラマがやっぱり、締まらなくなってくるのです。

 大竹しのぶサンも、なんか見ていてどのようにこのドラマでのおねを演じたらいいのか、ちょっと戸惑っている感じがします。

 でもこれって見ていて面白い(変なドラマの楽しみ方だ…笑)。

 あれほどの実力じゅうぶんの大女優が、役柄を戸惑いながら演じている。
 そんな場面に、少なくとも私は出くわしたことがないのです。
 秀吉の耳元で大声を張り上げたり、秀吉に正義のパンチをぶちかましたり(!)、部分的には結構過激なクセして、逆にトータルではやたらと暗い女性、というおね像を、大竹サンは作ろうとしている。
 実に分裂的であります。
 この大竹サンの、「江」 におけるおね像の解釈の仕方が、見ていてとても興味深いのです。

 秀吉に関しては、もうすでにこんなもんなんだろうという感じでただ笑って見ていりゃ済む話なのですが、その秀吉のスーパーエキセントリックシアターぶりに、大竹おねは分裂的な性格で対抗しようとしている。
 すっごく変な見かたですけどね。

 そしてますます混乱するのは、江が嫁いできた佐治家の一成(平岳大サン)。
 こないだチラッと出てきた江の後々の夫となる子が子役だったのに、なんなんだ(笑)。
 もう年齢設定が、メチャクチャをかなり通り過ぎてます(笑)。
 ワンダーランドだなあ…(笑)。
 実際の年齢がどうだとか、そんなことはもうこの際どうでもいいんですよ。
 何でいきなり家忠を子役で出してくるか、っていう話なんですよ。
 混乱しすぎて、頭がクラクラします。

 そんなクラクラ状態の中、嫁いできた江が侍女から見せられたのは、男女のまぐわい大公開図(笑)。
 江は 「ぎゃぽ!」 と口から泡を吹いて直立不動のままその場に倒れ込んでいきます…って、ちょっと私の文章に演出が入っておりますが(笑)、おそらく脚本家のかたのイメージは、そんな少女マンガのそれ、そのままだったんだと強く感じます(笑)。

 …面白いなあ、このドラマ(嗜虐的…笑)。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「犬を飼うということ~スカイと我が家の180日~」 第1回 要らない人間、要らない犬

 関ジャニ∞・NEWSの錦戸亮クン、KAT-TUNの田口淳之介クンが出演するテレ朝深夜ドラマ、「犬を飼うということ」。 要するに一部で揶揄される、ジャニタレドラマ、ということになるんでしょうか。

 私は何度もこのブログで書いているように、ジャニーズタレントに関して批判的な立場をとっておりません。 その演技力に疑問符がつくことはありますけどね。 でもアイドルというものは演技力云々の前に、ティーンエイジャーに夢を与える存在でなければならない、と考えるのです。 ジャニーズ事務所の存在意義というものは、実はそこにあると思っています。 若い女の子は、夢を持たなければならないのです。 ジャニーズの男の子たちはそんな女の子、女性たちに対してひとつの理想形を提示し続ける存在だ、と考えるのです。

 このドラマにしても、内容から言ってゴールデンの時間帯にぶつけてくるのは、ちょっと質的にキツイ気がする。 でも夜11時台ということで肩肘張らずに見ていられるし、だからこそ内容が良ければ、思わぬ拾い物をした気になる。
 このドラマはその点で、「思わぬ拾い物」 であります。

 ほめる前に問題点を挙げちゃいますけど(笑)、まずこのドラマ、捨てられている犬をある 「中流以下」 の家族の一員である女の子が拾うのですが、その拾われた犬。
 ポメラニアンなんですよ。
 まずそこにリアリティがない。
 こんなかわいい犬が捨てられるとか放っとかれるとか、ちょっとありえない気がします。

 そしてその女の子が犬の殺処理施設に運ばれたその犬を助け出そうとするくだりで、出てきた職員らしき男性、杉本哲太サンらの対応の仕方がおかしい。
 事務的な処理とかいう前に、不確定要素で動きすぎてる、と言いますか。
 杉本哲太サンは女の子に向かって、犬を捨てるということがいかなることであるのかをかなり厳しい調子でぶちまけるのですが、その前にその犬が自分が飼っていた犬だと言い張る女の子に事実確認をするのが筋でしょう。

 しかしそれでも。

 杉本哲太サンの怒りはとても正論で、新鮮味はないかもしれませんが、実際その通りなんだから文句のつけようがない。
 犬を捨てようとする人間は、全員このシーンを見るべきだとも思いました。
 炭酸ガスで殺されて、そのまま焼却される。
 ポツンと焼却炉の前に置かれた焼香台。
 ドッグフードがお供えしてある。
 彼の言う通り、犬にだって感情があるんです。
 うれしい、かなしい、腹が立つ、さびしがる。
 そんな犬を捨てる権利なんか、誰にだってない。

 私がこのドラマを見ていて感心したのは、ここでの杉本哲太サンのセリフが、そのまま女の子の父親である錦戸亮クンの仕事、リストラ勧告と内容がダブってくる点でした。

 「ならここにいる犬全部引き取れるか面倒見るか?

 この子だけ助かればいいのか?」

 錦戸亮クンは泉谷しげるサンのリストラをやめられないか、と上司(吹越満サン)に直訴し、こう言われます。

 「なに言ってんの? 本人の同意も取ったんでしょ?

 じゃお前、この人たち全員面倒見るか。

 それとも、この人だけ助かればいいんですか?」

 こういうダブルミーニング、ドラマ好きの琴線を刺激します(笑)。
 ここで殺処分のための焼却炉を 「ドリームボックス」 と名付けていることも明かされるのですが、それは女の子の家で長年の間ハワイ旅行のために貯めている貯金箱の名前と偶然一致する。 ちょっと貯めてはそれ以上に持ち出すためにちっとも貯まっていかないその貯金箱。 それはきちっとマジメにハワイ旅行に行くことを考えていない親たちの 「どうでもよさ」 から発生しているのですが、この焼却炉も、犬たちの命なんか 「どうでもいい」 と考えている人たちによって成立している。
 深いですね。

 そしてこのドラマでもうひとり、とても印象的な役をこなしている人がいます。

 お初です。

 いやそうじゃなくって(笑)水川あさみサンです。
 大河ドラマ 「江」 のお初役でかなりケチがついている彼女ですが、ここでの役どころはふたりの子供を持つ 「年相応」 な役柄。 犬を拾って来る女の子、そしてその少し上のお兄ちゃんの母親です。

 ダンナが錦戸亮クンで奥さんが水川あさみサン、と言いますとかなり理想的なカップルのように思われますが、この家庭は結構経済的に火の車。 錦戸亮クンはリストラ勧告員としてストレスに耐えかね出社拒否気味、長男は頭が悪いクセにナマイキ(笑)、長女はなんか何考えてるのか分かんない気味で、彼女はひとり家事から子育てからパートからこなして少々気分的に荒れ気味。

 電気代の督促状(東電にもムカツク今日この頃…笑)も来るなかで彼女は、同窓会の葉書にも欠席の返事。 会費の4000円を払うこと以外に、美容院代衣装代、というものが余計にかかることがネックとなっている。 「女ってメンドクセ」 と指摘するお兄ちゃんは実に的確なのですが(笑)、ぎりぎりの生活を強いられている女性の心理状態を、水川サンはあまりしつこくなく、そして危なっかしく、演じているのです。
 だから彼女がいつ切れてしまうのか、見ている側はハラハラしてくる。

 彼女は学校をさぼって犬を連れてきた長女と、会社をさぼって長女と合流し、長女をかばうダンナに向かって、ついにキレてしまいます。
 ダンナはそんな彼女に対して、いろいろお金のことで君に苦労をかけてて悪いと思っている、会費の4000円のことだって…と、とても思いやりのある言葉を言ってくれるのですが。

 「…アンタ、…なんーにも分かってない!」

 彼女は夫の思いやりの言葉に一瞬、言葉を失って怒りの矛先も見失うのですが、彼女がイライラしているのは、そんな夫の、「場違いな優しさ」、なのです。
 彼女は夫が優しすぎて自分をリードしてくれないことに、いらついている。
 彼女はそのとき、自分へねぎらってくれたことに対して、ある部分ではとてもうれしいのです。
 だから彼女は、怒りながらも泣きそうになっている。

 このときの水川サンの演技。

 初とは大違い、と言いますか…(笑)。

 そしてそんな、ちょっと頼りないダンナを、錦戸亮クンはやはり、きちんと演じているように私には感じられます。
 もうひとりのジャニーズ、田口淳之介クンは、水川あさみサンの同窓会を取り仕切っている、いわゆる 「勝ち組」 の男。 どうやら水川サンに学生時代、恋をしていたようです。

 …田口淳之介クン、こんな顔してたんだ~。

 いや、「KAT-TUNスタイル」 で田中聖(こうき)クンとラジオに出てるのを月-木で聞いているのですが、どんな顔しているのか、ちっとも知らなかったんですよ(笑)。
 田中クンは田中クンで、最近被災地に単身プライベートで支援に行ったとか、とても感心することをしているのに、ラジオでもちっともそのことをしゃべらないし、人間出来てるなコイツ、という感じなのですが、田口クンはラジオではちょっととっぽい感じの田中クンと比べると、なんとなく優男、という感じだなあ、と思っていたんですよ。
 テレビで初めて見た(…)田口クンはイメージ通りで、ちょっと笑えました(失礼…)。 「アポなしテレフォン」 で 「田口と田中どっちが好き?」 というファンへの質問でも圧倒的に田中クンに軍配が上がるのですが、やっぱり女の子って、不良っぽい男の子にあこがれるのかな~、なんて。 私は田口クンの優しい気味の感じも好きですけどね。 何の話をしとるんだ(笑)。

 ともかく女性が男性に持つ願望である 「不良っぽさ」、それを水川あさみサンも、錦戸亮クンに求めている、と思うんですよ(半ばゴーインな理論展開…笑)。
 だから彼女は、夫にあたりさわりのない優しさよりも、力強く引っ張ってほしい、と感じている。

 そしてこのドラマの語り部は、このポメラニアンを連れてきた女の子(久家心チャン)。
 どことなく、さとう珠緒サンを子供にした、っていう感じの女の子です。
 そして 「スカイツリー」 と名付けられたポメラニアン、このコもキャワイイ、です(ポメラニアンが捨てられるはずはない、という冒頭に書いた引っかかりはありますが)(ポメラニアンって、結構鳴き声がうるさいって言いますけどね)。

 まあ最初に書いたように、肩肘張らずに、見ていくつもりです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011年4月11日 (月)

「松任谷由実のオールナイトニッポンTV4」 マツコサンとユーミンの相性?

 ニューアルバムが発売されるたびにやってるように思われる、「松任谷由実のオールナイトニッポンTV」。 先週はラジオでも同時多発的に(放送日は異なりますが)「松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD」 を単発でやってました。

 そのラジオのほうでも多数のゲストを迎えてトークを繰り広げてきたユーミンですが、テレビのゲストと比べれば若干地味。 仕事中で途切れ途切れでしか聞けなかった弱みはありますが、テレビのほうを見て、「この人は実はテレビ向きだよなあ」 と思うことしきりであります。

 ラジオでリスナーからメールを募集していたお題は 「あなたが自分を大人と思った瞬間」。 くしくも毎週この日に 「GOLD」 を担当しているゆずも、同じような新コーナーを作っているんですよ。
 なんかみんな、「自分は大人なのか?」 という強迫観念みたいなものを持っているんでしょうかね。
 かく言う私も、精神年齢は13くらいからずっと変わってませんね(幼すぎ…)。
 モラトリアムなんぞというカッコよさなどとっくに通り越して、ここまで来ると腐ったキンカンのようであります(笑)。

 ニューアルバムでは、そんなモラトリアムから脱却したかに見えるユーミンの落ち着きぶりなのですが、「オールナイトニッポンTV」 にゲスト出演したマツコ・デラックスサンは、まだその途上にいらっしゃるようです。

 その前に軽いジャブ(笑)。

 ユーミン、いきなり 「自分のおへそって見える?」 とストレートな質問(笑)。
 マツコサン 「…かろうじてまだ…でも~、あの状況にあるものをへそと言うのか果たして(笑)あたしはもうそういう状況のへそしか見たことがないから(笑)ほら、へそのごまみたいなこというでしょ?あたしごまに到達するまで結構…(笑)」
 ユーミン 「ま、そんな話はどうでもいいんだけどね」
 マツコサン 「…どうでもいいのっ?」(笑)

 そんなマツコサンにユーミンは 「子孫を残す気ないでしょ?」 とまたズケっとものを聞くのですが、意外にもマツコサンは。

 マツコサン 「う~んあのね、諦めていたというか、ハナから別に、もうこうだから、それはないものだと思ってたんだけど、…いま38なんだけど、やっぱりさあ、あたし女性じゃないから、年齢関係ないんだけど、ちょっと40近くになってくると、『このままでいいんだろうか?』 みたいな」

 そしてさらに、こんなことを言い出すのです。

 マツコサン 「でもー、あたしもしもうちょっと早くに生まれてて、自分がある程度の年齢になって、子供が欲しいなーと思った時に、もし友人として目の前にユーミンがいたら、『ちょっとあたしの子供産んでみる気なあい?』 みたいな」

 ユーミン 「私ねえ、マツコとかねぇ、ミッツとかねぇ、結婚してもいいと思ってるんだよ」

 マツコサン、絶句(笑)。

 マツコサン 「たぶんねえ、日本中のゲイにアンケート取ったらね、『結婚してもいいと思う女ランキング』 取ったらね、間違いなくトップに来ると思う」

 ユーミン 「ホント?うれしいなぁ!同胞、と無理やり巻き込んでもしょうがないけど、ジェンダーを超えた世界では、『結婚』 という概念じたいが違う、と思わない?」

 マツコサン 「これをね、ユーミンに言ったらすごい失礼かもしれないけど、ある程度の年齢にいった女性って、あたしもう、ゲイ、に近くなっていくと思うの」

 このやり取りは面白いなあ、と感じました。

 ユーミンは結構、昔のラジオ番組でも、リスナーの女性からの、恋愛の悩み相談をとても受けていた覚えがあるのですが、昔風の言葉で言うと 「姐御肌」。 ユーミンがここでちょっと触れた 「ジェンダーを超えた世界」 って、ユーミンを言い表わしているとても象徴的な言葉のように思えるのです。

 そこからふたりの話は、世田谷区にそんなジェンダーを超えたコロニーを作らない?(笑)みたいな話になっていって。

 そんなリアリティのない話をしていくふたり、ユーミンは鋭く 「マツコごっこしてるでしょ、今?」 と問いかけます。

 マツコサン 「うん…。 いやもちろんこれがもうリアリティなんだけども、全然取り繕ったりとかしてないんだけど、どっかで、自分の、女装とかいろんなデコレーションでつけたものが、本来なかった状態っていうのが、もはやもう、思い出せなくなっていて、かといってじゃあ今の状態が、ものすごい、ホントに素のままでやってるかって言ったら、目の前にユーミンがいるし」

 自分が世間一般に存在している常識から外れた状態にいるとき、「なにが本来の自分であるのか?」 ということを確固とするのは、とても大変なことなんじゃないか、と感じます。
 でも 「あたしはあたし」 と、そこは開き直るしかない。
 ユーミンもおそらく自分の倫理基準とか常識が世の中とちょっとずつずれていることを、感じていたと思うんですよ。 「結婚に対する概念が違う」、というユーミンの言葉に、それが窺えるのです。

 そんなアイデンティティを模索している間柄だからこそ、ふたりの相性はいいのではないか。

 そんなことを考えたり、したわけです。 

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2011年4月10日 (日)

「おひさま」 第1週 まっとうに生きるということ

 「おひさま」 に出てくる登場人物たちは、とても 「まっとうな」 生き方をしている、と感じます。

 物語のもっとも初期の時代である昭和7年時点で、父親の良一(寺脇康文サン)は年齢設定からいくとおそらく40歳になっていないと思うのですが、現代の男どもと比べると父親としての威厳がすでに屹立していて、亭主関白を貫きながらも、ただひたすらいい夫、いい父親であろうと努めている。

 食事のときに笑いながら食べるな、と子供たちを叱りつけたり、そうした躾が当たり前の時代だったことも確かにあります。
 それでも彼には、大人、とはこういうものである、というしっかりした理念がもう自然と、備わっている感じなのです。
 だから妻が病気で長野に引っ越してきた、といっても少しも愚痴や文句をこぼさない。
 けれどもやはり、妻の病状の悪化に、人知れず泣いている。
 大っぴらに泣くことをしてないんですよ。
 感情をとても押さえていて、妻の死でも動じることなく、つまらないダジャレを言って子供たちを笑わせようとする。
 現代の男どもは私も含めて、それに比べるともう、感情丸出しで、ちょっと恥ずかしくなるほどです。
 この父親はとても、「まっとう」 だなあ、と感じます。

 いっぽう母親の紘子(原田知世サン)は、おそらくインテリの育ち方をしていると思われます。
 彼女が子供たちに言い聞かせる遺言的な言葉の数々はそれゆえに、時に抽象的の域を出ない。
 それでも彼女は、そんな難しくて抽象的なことを言っても子供たちに通じるわけがない、なんて、考えていないんですよ。
 彼女なりに噛み砕きながら、なんとか自分の子供たちの心のなかに自分の魂を、母親としての思いを宿らせようと、心をこめて語り続けている。
 そのことで、彼女自身が生き続けよう、としているんですね。
 原田知世サンはこう言っては失礼ですが近年になくとてもきれいで、命が消えゆく人のはかなさを、とても上手に演じていたと感じます。
 髪形のせいもあるんじゃないのかな、って考えています。
 デビュー当時の髪形に、ちょっと昭和レトロの味付けをした、という感じなんですけど、この手の髪形が彼女にはいちばん似合ってる気がしますね。 そんな懐かしさを感じるからこそ、少なくとも私個人の、この母親に対する思い入れが増している気がする。

 彼女の病状についてこの物語では、心臓病であること以外全く詳しい部分を語ろうとしません。
 この物語は、彼女がどうやって、昭和初期の時代を全うして生きたのか、という点のほうに、より深き重点を置いている。
 そこではドラマチックな荒唐無稽な話が展開するわけでなく、死を迎えつつある人の最期の日々が、実に淡々と展開されるわけです。

 でもそのことで、ドラマが退屈になるか、というと、まったくそんなことがない。
 この点は見ていて、とても不思議に思いました。
 泣ける場面では素直に泣けるし、笑える場面では素直に笑える。

 これは同じ岡田惠和サンの脚本である 「ちゅらさん」 を見ていたときも感じていたのですが、話があまり突飛じゃないんですよ、いつも。
 突飛じゃないのに、なんか引き込まれていく。
 そして登場人物たちの素直さに、自分の素直な部分が共鳴して、素直に泣き笑い出来てしまう。

 そんな、実直に生きているヒロインの父親と母親なのですが、「まっとう」 であるがゆえに、感情の入りまくった闘病記にならない代わりに、個人的にはとても心に残った地味なシーンがありました。

 いったん重篤な状態になって病院に担ぎ込まれた妻が、死期を悟ったのか 「家に戻りたい」 と夫に頼み、夫はリヤカーで妻を家まで運んでいく。
 そのとき妻は、「最後にわがまま言って、ごめんなさい」 と夫に謝ります。
 夫はリヤカーを引きながら、こう答えるのです。

 「なに言ってんだよ。
 君はずっとわがままだ。
 出合った時からずっと」

 「まあ、ひどい…」 と妻は笑ってしまうのですが、このひと言にこめて夫は、妻にありったけの愚痴をこぼしているのです。
 ここからうかがえるのは、インテリだった妻が出会った時は今よりずっと高慢だったか、それとも出会った時から病弱でなにかと迷惑をかけ続けたか、です。
 いずれにしても夫のつつましやかな愛情がそのひと言にはとてもこもっているし、とてもそれが、押しつけがましくない。
 まっとうだなあ。

 ヒロインの陽子(子供時代、八木優希チャン)も実に素直ないい子なんですが、その陽子が安曇野の尋常小学校で友達になったユキ(荒川ちかチャン)のキャラクター構築も、ちっともひねくれた部分がない。
 彼女はとても勉強が出来る女の子だったのですが、家の事情で突然学校をやめさせられ、奉公に出ることになります。
 彼女はその運命を受け入れ、陽子を含めてクラスメイトの誰にもそれを打ち明けることなく、運動会で一等賞をとったときの喜びを胸に、旅立っていくのです。
 いまと違って、昔は一等賞をとると賞品がもらえたのですが、その賞品が鉛筆とノート。
 彼女が翌日からいなくなることをただひとり知っている夏子先生(伊藤歩サン)が、万感の思いでそれを彼女に手渡します。
 勉強が出来ることの喜び。
 そのことを陽子に教えて、ユキは陽子のもとから去っていくのです。
 前作 「スクール !!」 でかわいくないガキの役をやってたせいかもしれませんが(笑)、荒川ちかチャンの押さえた健気な演技にも泣けましたね。
 当時はこんなことが当たり前で、みんなそれを運命として、受け入れていく。
 現代的な視点から見ると、とても理不尽なんですけどね。
 なんか、こういうところでむやみに自分の権利とかを振りかざすのではなく、静かに自分の思いを主張していくほうが、とてもまっとうな気がするんですよ。

 第1週後半では、そんな母親の死が間近に迫っていることで子供たちが感じる不安、悲しみがとてもよく描写されていたと思います。
 私がすごいなあ、と感心したのは、母親が病院に担ぎ込まれたあとに、陽子が見上げる、とてもとても細い、蒼ざめた月。
 子供ごころの不安を、そのワンカットがとても象徴的にあらわしている気がしました。
 母親に強く言われて2日がかりの常念岳登山へと向かった陽子。
 こうした子供の体力無視みたいな(笑)強行軍遠足も、ちょっとカルチャーショックっぽかったですけどね。
 その頂上で雲の上の太陽を見ながら、母親が亡くなったことを感じとる陽子。 「おかあさーん!」 と叫ぶのですが、もう涙がぽろぽろ出ました。

 そんな感動的なシーンも、現代編で聞き手役の斉藤由貴サンがオイオイ泣いているシーンに切り替わり、なんかはぐらかされたような感覚(笑)。 斉藤サン、結構リスクある役だなあ(笑)。 第1回目の感想でも書いたのですが、斉藤サンのテンション、結構視聴者の反感買いそうで危険です(笑)。

 で、話は昭和13年(1938年)へと移行します。

 完全な母親代わりの陽子(井上真央チャン)、朝起きてこない次男の兄を蹴飛ばして知らん顔をするなど結構過激ですが(笑)、母親の言いつけどおり、いつも笑うことを心がけている。
 表情がくるくる変わってとてもいいですね。
 来週も、期待であります。

「おひさま」 に関する当ブログほかの記事

第1回 情緒に訴える形のドラマhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/1-4227.html

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2011年4月 9日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第12回 急ブレーキ、そして急発進…

 いやいや、笑わせてもらいました、「姫たちの戦国」。
 ドカーンドカーンの大爆笑シーンの連続で。
 大河ドラマを見てここまで笑ったのは、記憶にないです。

 って、そんな感想、…大河ドラマでいいんでしょうかね?(笑)

 ところがこの大河ドラマ、そんなスラップスティックな疾走をし続けた末に、いきなり立ち止まる。

 いきなりシーンとしてしまったシーン(シャレか?)のなかで、作り手が訴えたいことをその場面に凝縮させ、見る側を 「お笑い」 のスパイラルのなかから強引に引っぱり出し、説得力を増そうとするのです。

 しかし個人的には、急ブレーキがキツすぎて、感動を受け入れる体勢に至らない。
 その結果残っているのは、茶々(宮沢りえサン)と千宗易(石坂浩二サン)のうまさのみ。
 この部分は後述いたしますが、たしかにうなるものがあります。

 そしてこのドラマのこのドラマたる所以ですが、そんな感動的なシーンを、またぶっ壊しにかかる。
 ドッカンドッカンの大爆笑シーンがこのあとまた連発され、物語は再び急発進を開始する。
 その結果感動は置き去りにされ、結局見終わったあとに何も残らないし、すごく浅い感想ばかりになってしまう。
 もったいないなと思うのですが、

 んー、まっ、いっか。
 笑かしていただいたんで。

 冒頭。
 「これからは食べ物がおいしくなる季節…」 と目がキンキラキンの初(水川あさみサン)なのですが、これが今回の話のまさに助走部分。
 そこに秀吉がいままでの三姉妹の着物をみんな捨ててしまって新しい着物をあつらえた、という話が舞い込んでくる。
 母親(鈴木保奈美サン)との思い出の着物をなんと思っているのか!と立腹した茶々はその着物を拒絶し、食事も拒絶する。
 それにふたりの妹も同調していくのですが、その様子がまず笑える。

 三姉妹のなかでいちばん懐柔されやすいのが初(笑)。
 新しい着物も自分ばっかりちゃっかりと着て、「どーうじゃ?」 とご満悦(笑)。
 江(上野樹里チャン)は 「ムキーッ!」 とその着物を脱がそうと食ってかかるのですが、「ひょっとして秀吉は自分に気があるんじゃないのか?」 と大カンチガイをする初は意に介してない(笑)。
 その初の勘違いに間髪いれず、「あり、得ま、せん」 とワルツで否定する江(笑)。
 もうこっちは、失笑の連続であります。

 けれどもそのギャグ攻勢も、あまりにも連発してくると、なんだかこっちが敵の(敵って…笑)術中にはまってしまうから恐ろしい(笑)。

 ハンガーストライキに突入した三姉妹(笑)。
 夜中に初のお腹がグーグー鳴り続けます(爆)。
 いやいやながらその絶食に付き合っている初が、もう可笑しくて可笑しくて。
 「(お腹を鳴らせて)はしたない」 と妹に言われた初、「腹のやったことじゃ!私は知らぬ」 とゴーインな言い訳(笑)。
 翌朝、髪結いをする三姉妹のところにいーい匂いが漂ってくる。
 その匂いに思いっきり誘導されて(笑)初が夢遊病者のようにふーらふらと廊下を歩いていくと、その先にはハマグリやらキジやらが、七輪の上でジュ~ジュ~音を立てている(腹いてえ…笑)。 三成たちが、それを内輪でパタパタあおいでるんですよ(笑)。 これって秀吉の策略。
 そして三成が家来に合図をすると、そこに追い打ちをかけるように味噌ダレがジュワ~っと…(爆)。 これはもう、匂いの拷問のワンダーランドや!(○麻呂か…?)

 個人的にこのシーン、「あしたのジョー」 で無理な減量苦を続けるジョーに、段平のおっちゃんがウナギのかば焼きやらなんやらを焼き下からうちわであおってジョーに減量を思いとどまらせようとするシーンが二重写しになって、もう腹が痛くなるくらい笑いました。 これ、完全にあのシーンのパロディですよね?

 しかし。

 ヨダレを流し続ける(笑)初と江を尻目に、そんな三成に対して、茶々は毅然とこう言い放つのです。

 「三成と申したな。

 命じられたら、そなたはなんでもするのか?」

 三成は冷や水をかけられたように、その言葉に大きなショックを受けます。
 いまのいままで大爆笑していた自分も、同様であります(笑)。
 これが先に述べた、「急ブレーキ」、であります。

 その後またしても秀吉の策略によって、三姉妹は宗易の茶室へと招かれるのですが、強情を張り続け、秀吉に復讐したいと言う茶々に対して、宗易は諌めるようにこう言うのです。

 「お茶々様には、出来まへんな。

 あなた様は、羽柴様を憎んでおられる。
 いちいち歯向かい嫌やと言う。
 けどそれは、相手と同じ場所、おんなじ高さに立ってるいうことや。

 もひとつ上に行くには、相手を受け入れ、いっそ呑み込んでしまわななりまへん。

 敵より、大きゅう、太うなるんです。

 せやないと、倒す、殺すなど到底出来まへんわ。

 いまはこらえて、静かに、爪をとぐときと違いますやろか」

 このシーンの茶々の表情には、ワンステージ上に上がる変化が刻々と現れ、宗易の表情には、子供っぽい意地よりももっと実を選びなはれ、それが大人の流儀というものだ、という感情が横溢している。 必要以上に厳しいことを話す宗易ですが、その表情にはさらに、権力に対する侮蔑の念も見てとれるのです。
 宮沢りえサンと石坂浩二サンのこのシーンでの演技には、そんな深みを感じることができる。 ドラマ的な醍醐味は、実にここにあると言っていいでしょう。

 ところがここから、また先ほど述べたように、ドタバタシーンの連続。
 その場面を見ていた秀吉がアホみたいな感動の仕方をするし、その秀吉、茶々にすっかりほれ込んで障子に穴をあけてのぞき見しようとすると、ことごとく江の邪魔を受けたり。
 でもなんか、秀吉のギャグシーンには、慣れてしまったせいか(笑)疾走感を感じられるようになってきた気がする(ホントかよ?)。 相変わらず感情移入を完全に拒絶する秀吉の人物像なのでありますが。

 ドラマの組み立て方からすれば、これって前回の構造とまったく同じであります。
 ドラマのキモの部分を、千宗易から茶々がレクチャーを受ける、という構造、その部分だけがシリアスシーンだった、ということにおいてです。
 それに、振り返ってこうやって書いてみると、宗易のお説教も、「相手のレベルに合わせて怒ってちゃダメよ」 という、まるで奥様どうしの昼下がりのお茶飲み話みたいな(奥様方には大変失礼いたします)ものでしかない気がしてくる。

 それでも、このチェンジオブペース、快感と言えないわけでもない。

 大河ドラマファンの神経を逆なでし続けるこの作品でありますが、もうすでに本物のファンはこのドラマから離れていることでありましょうし、いっそのことこの調子で大河ドラマなんぞぶち壊し続けていただきたいものであります(ヤケ?…笑)。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011年4月 6日 (水)

「新選組血風録」 第1回 今年の大河ドラマは、こっちです

 NHKBSプレミアムの開始記念的なドラマ、「新選組血風録」 が始まりました。 全12回。

 忌憚なく述べさせていただきますが、今年の大河ドラマは、こっちですね。
 いまやってる大河ドラマは、フツーのドラマであります。
 「大河ドラマ」 という表題が冒頭に流れるたびに、「これって冗談のつもりだろ」 としか思えない。
 少なくとも視聴者のほうが、NHKなんかよりもずっと、「大河」 という言葉に、重みを感じている。
 それはやはり、これまでの日曜午後8時からのドラマが、すべて 「大河」 という括りで放送されてきたゆえであります。
 その認識からいけば、今年やってる 「フツーのドラマ」 も、「大河ドラマ」 の系列のなかに好むと好まざるとにかかわらず入ってしまう。
 でもまあ、感覚的にいけば、徳川家康も徳川家定も(「篤姫」 で相当評価は変わりましたが)、同じ徳川将軍だという点で変わりない、みたいなことと同じかな~(笑)。

 この 「新選組血風録」、原作が司馬遼太郎サンだからこその物語の重厚さも確かにあると思うんですが、なんか司馬ブランドならなんでもよし、みたいには考えたくない面もあるんですよ、個人的には。
 でもこのドラマを見ていると、どうして司馬ブランドに物語としての説得力がここまであるのか、とても理解出来てしまうのです。

 それは登場人物の心理状態が、さまざまな要因の上に成り立っていることを、感じさせてくれる点に尽きます。

 今回の主役は、近藤勇(宅間孝行サン)が20両で買ってきた、という名刀 「虎徹」。 そんな安物の虎徹などないはずで、壬生の近藤派の隊員たちも、近藤の反対勢力である芹沢鴨(豊原功補サン)グループもみんなバカにしている。

 芹沢は仲間うちにはせせら笑っておいて、実際に試し斬りをしていた近藤の前に現れたときは、近藤より腕の立つところをさりげなく見せつけたうえに、「さすが虎徹」 とその切れ味を讃え、近藤の肩を持つ。

 でもこれって、こうすることで問題児だと思われている自分の存在感をアピールしているし、自分の心の広さもアピールしているし、そのうえでさりげなく壬生浪士隊のなかで同じ局長である近藤よりも自分が優位である、ということをアピールしている。
 ちょっとしたシーンなのですが、そこまで深読みが可能である、という点で、今年の 「フツーのドラマ」 よりよほど 「大河」 の名にふさわしい、のです。

 そしてそのニセモノ虎徹を本物だと信じて疑わない近藤の様子を描写することによって、近藤の人となりをかなり深い部分まで透徹させている。

 もっとも表面上の評価として、「近藤には目利きの才能がない」、ということが言えると思うのですが、おそらく近藤も、最初20両で買ってしまった時には、「いい買い物をしたな~」、と思ったんじゃないですかね。
 それが下っ端の連中からも 「それってニセモノ」 って言われることで、「スゲー恥ずかしい!」 みたいな気持ちになったと思うんです(笑)。 局長として示しがつかないし。
 けれどその、ニセモノの虎徹を眺めながら、のんきに 「名刀だ」 と嘆じることで、「近藤サンって憎めないよなあ」 という隊員たちの気持ちを引き出すことに成功している。
 そしてこれが意図的なのかどうなのか、というレベルで展開するからこそ、ドラマとしての奥が深くなるのです。
 沖田総司(辻本祐樹クン、「金八」 の信太ダァ~)なんかは、鴻池屋(近藤正臣サン)から頂いた本物の虎徹をやっぱり持って出かけた近藤を、「やっぱカワイイ!」 みたいな感覚で見ているし。

 そしてその鴻池屋。
 この人物の商人魂こもった存在感が、また見ていてうならせる。

 芹沢が鴻池屋から脅し取った200両を会津藩の松平容保が肩代わりし、それを近藤が鴻池屋へと持っていくのですが、鴻池屋は 「あてらも商人ですさかい利子をいだだかんことには…」 と眉ひとつ動かさずに言い切る。
 近藤はニセモノ虎徹を差し出して、「これでご容赦を」、と切り出すのですが、一瞬でその価値を見切った鴻池屋。
 「近藤さん(あんたも近藤だろ…笑)。 刀は武士の命と聞いております。 そんな大事なものは、受け取れまへん」
 「ならば…」 と腹を切ろうとする近藤。
 「ここでお腹でも召されるおつもりでございましょうか。 ますます迷惑でございますなあ」
 鴻池屋は、 利子はもう要らない、と近藤に言うのです。

 「"ますます"迷惑」 と言うことで、実は 「あんたの虎徹はニセモノで」 と暗に語っているところが深い。
 そして 「あなたのようなお方が壬生浪士のなかにいたとは」 と持ち上げておきながら、実は近藤をけん制しコントロールしようとしているし、今後何かと相手を利用しようとする可能性も探っている。

 ドラマを見ていて引き込まれるのは、実はこうした、何重にも用意された心理状態の細かいあやであるし、「大河ドラマ」 と名のつく歴代のドラマには、その複雑で深い 「人間」 の活写が行なわれてきたのです。

 だからこそ、「今年の大河ドラマは、こっちである」、という結論です、ワタシの場合。

 それにしても。

 やはり 「新選組」 が題材、となると、数年前の大河ドラマ、「新選組!」 の影がちらついてなりません。

 このドラマにおける主役である土方歳三を見ていても、ここで演じている永井大クンよりも、山本耕史サンを思い出してしまうし(永井大クンは、その風貌からいくとどちらかというと近藤勇っぽい気はします)、山南敬助を見ていると堺雅人サンを思い出してしまうし、永倉新八を見ているとぐっさんを思い出すし、沖田総司は藤原竜也クン、芹沢鴨は佐藤浩市サン、斉藤一はオダギリジョーサン、井上源三郎は小林隆サン。

 つくづく、「新選組!」 のキャストはドンピシャ!だったことを思い知ります。 今回の 「血風録」 の役者さんたちは総じてそれに比べればパンチは足りないのですが、物語がしっかりしているので、これもありだ、と感じさせる。 特に芹沢鴨の豊原功補サンはいいですな。

 で、やはり近藤勇に関しては、「新選組!」 の香取慎吾クンと宅間孝行サンとでは、イメージが全く違う。
 それでもこのふたつのドラマでの近藤勇像は、結構接近しているものがある気がします。
 ここで描かれる近藤象って、両方とも結構、「のほほんタイプ」 なんですよ。
 剣の腕は立つんでしょうが、かなり突っ込みどころが満載の性格をしている。
 けれどもそれを周囲が、悪意を持って突っ込んでない。
 それは近藤が持つ、一種の 「頼りがいがあるところ」 によるものが大きい気がします。
 「血風録」 第1回では、「どうしてこの男にみんながついていっているのか」、という説得力にあふれていました。
 あ~ 「どうしてそうするのか」、というこの説得力。
 今年の大河ドラマで、もっとも足りない部分だ…。

 エンディングテーマは、吉田拓郎サンの新曲 「慕情」。 こないだの 「オールナイトニッポンゴールド」 で、「近年にない傑作だ」 と自画自賛しておりました(笑)。 ご本人もスカパー!で時代劇ばかり見ているそうで、番組でもよく 「ドラマ全く見ない男」 坂崎サンに 「坂本龍馬って分かってネーダロなにした人か」 とか、よく突っ込んでおります(笑)。

 日曜8時のドラマと、差し替えしませんかね?コレ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年4月 5日 (火)

原発関連、分かんないのに意見いたします

 東日本大震災をめぐって伝わってくることについて、私は難しいことはよく分からないし、ニュースも仕事明けの時間にNHKしか見ない部外者的な知識しかないのですが、なんか意見したくなってきます。
 無知なくせにこういう、ブログのような世間に対する 「拡声器」 みたいな手段を使って意見表明するのは甚だ心苦しくはありますが、感じたままを書かせていただきます。

 東電とか国とか、公式に発表される放射能汚染の情報って、危険なのか危険じゃないのか、さっぱり分かりません。

 健康な人が1年間に浴びる放射能の基準値の何倍何十倍何百倍何千倍何万倍…、みたいな表現の仕方をいったんしておいて怖がらせておいて、でも害はない、と言う。

 害がないなら知らせる必要もないでしょうに。

 その結果風評被害たるものを引き起こしておいて、またそれが問題だとか言ってる。
 自分から火をつけといて、火をつけられた者の心構えのなさを批判している放火犯みたい。

 迷走してるのだけは分かりますけどね。

 それからこれは、これから先の話で時期尚早ですけど、こんだけ国民に迷惑をかけといて、東電はそれらすべてに対して損害賠償責任があると思うんですよ。

 そしたらどうも、国がそれを負担するみたいな話を伝え聞く。

 それって結局、国庫からやるってことでしょうから、要するに国民の税金なわけですよね。

 そんなヌルイことをやってるから、東電の対応にもどことなく余裕があるんじゃないでしょうかね。 断腸の思いみたいな顔して会見してますけど、厳しいことを言えばこれってこれまで自分たちの原発に対して想定以上の安全管理をしてなかった怠慢を、棚に上げている。 原発が壊れることに対するリスクの大きさを考えれば、必要以上のことをして初めて 「絶対安全だ」 ということになるんじゃないですかね。 これまでのことすべてが、「怠慢」、ですよ。

 要するに、株式会社とか言ってるけど、東電って国の機関だっていう意識が抜けてない現れなんでしょうね。 「公共料金」、っていいますけどね、電気代とかガス代とか。 彼らもその感覚で、「お役所仕事」 しているにすぎないんじゃないでしょうかね。 「俺らは国から言われてやってんだ」 みたいな。

 で結局、国も東電も、電気料金上げたり税金上げたりすりゃ済むと思ってる。

 「節電のお願い」 とか言って、「こっちは電気を持ってんだ」「欲しがるだけ欲しがっといて」「あとはアンタラがなんとかして」 みたいな無責任さ、高飛車さを、どうしても感じてしまう。

 それなのに社員の給料?上げられてもねえ…。

 報道にしても、問題がないなら報じなきゃいいと思うんですよ。

 連中の大本営発表をうのみにして、「問題がある」 と報道すれば視聴率が上がる、部数が上がると思っているから、「問題がある」 と報道する。

 もし報道の問題意識が正常であれば、「害がないならその基準値とはいったい何のために存在しているのか」、という視点が、何よりもいちばん先頭に立たなきゃならん、と思います。

 まあ、いまさら言ってもね…。

 これは冒頭にも書いたとおり、無知な人間のたわ言かもしれないです。

 でもなんか、問題の根本がいつもずれて伝わってくることに、私は少々苛立ちを感じているのです。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2011年4月 4日 (月)

「おひさま」 第1回 情緒に訴える形のドラマ

 朝ドラ50年の節目的な作品、「おひさま」。
 ただし大河ドラマも50作目であんなですから(あんなって…)過大な期待は禁物かと。
 半年にわたるこのドラマの最初のシーンを見てそんなことを思いました。
 テンパりすぎているフツーの一主婦の斉藤由貴サンが、「そうだ、吾輩は安曇野行こう」 と買い物もそこそこに小型車を駆って長野県安曇野へ。 ソバ畑に見とれて脱輪。 ふと立ち寄った 「何でも屋」 の若尾文子サンからそばをふるまわれ、若尾文子サンの昔話が始まる、という導入部分。
 「でも長いわよ~」…って、そりゃ長いでしょうね、半年あるんですから(笑)。
 その本編までに向かう部分で、「居心地の悪さ」 を感じてしまう。

 そして物語は一気に、昭和7年(1932年)へ。

 母親である原田知世サンの病気療養のために、この安曇野へと越してきた一家。
 その風景は、オート三輪とリヤカーの違いこそあれ、「となりのトトロ」 の導入部分みたいな感覚です。 日本人の原風景のような田舎の風景が、そこには広がっています。
 ただし母親の原田知世サンの命は、そう長くない。

 そんな母親は、このドラマの主人公となる娘に向かって、「お前の名前、陽子の陽は、太陽の陽。 おひさまのようにみんなを明るくしていきなさい」 と、遺言の覚悟が込められた話をするのです。 娘は母親がもうすぐ死ぬなんてことを、夢にも思っていません。

 「おひさまはねえ、誰の力も借りないで、自分の力だけで輝いているでしょ?

 そして、みんなを、世界を明るく照らすことが出来るのよ。

 だからね、陽子。

 どんなにつらいことがあっても、…笑うの。

 笑うのを忘れないで」

 陽子は早速、家族に向かって 「あたしがいるから大丈夫。 なにしろあたしは、太陽の陽子ですから」 と得意になって話すのです。

 それは 「どんなにつらいことがあっても笑って生きていく」、ということがどれほど難しいことであるか全く理解していない子供の、軽い気持ちの 「安全宣言」 の域を出ていません。
 けれどもそんな陽子を見守る父母のまなざしは、どこまでも温かい。

 このくだりを見ていて、このドラマはさまざまな伏線や布石を駆使するような、ドラマオタクをうならせる作りではないな、と感じました。
 安曇野のあまりにも懐かしい自然も相俟って、このドラマは見る側の情緒に、ひたすら訴えかけるドラマなんだろうな、と感じました。
 仕掛けがあるとすれば、それはこのヒロインが駆け抜けた時代。
 戦争や経済成長を経てきた昭和の時代そのものが、ドラマの大きなエッセンスになっていくんでしょう。

 まあまだ始まって15分。 この先分かりませんけどね。

 ところでこのドラマ、テーマ曲の流れる時間が、とても短い。 普通月曜日だとなおさらスタッフロールとかがあって長引くはずなんですが。
 けれどもそれは、意図的に短くしたらしいです。
 なんか個人的に、大昔のドラマを見ている感覚に襲われました。
 大昔のドラマって、テーマ曲が短くて印象的なのが多かったですよね。

 ちょっとした不安な部分も残しながらですが、朝ドラ毎回恒例、出来うる限りしばらくの間付き合っていきたいと思います。

 ところで今日の 「スタジオパークからこんにちは」 には、その父親役の寺脇康文サンもご出演していました。 司会進行も、NHKを退職してフリーになった住吉美紀アナから、「ニュース9」 担当だった青山祐子アナにバトンタッチ。 青山アナ、カミカミでしたけど(笑)。

 寺脇サン、井上真央チャンから 「チチ、チチ」 と呼ばれているらしい(笑)。 父親ですから 「チチ」(笑)。 悟空の嫁さんじゃありません(笑)。 VTR出演した真央チャン、やっぱり 「チチ~」 と寺脇さんを呼んでました。 寺脇サンによれば、真央チャンには役者になるために生まれてきた、みたいなオーラがあるみたいです(具体的に、なんて言ってたかな?)。

 真央チャンの出番はまだ先みたいですが、楽しみですね。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2011年4月 3日 (日)

「タモリ倶楽部」 空耳アワード2011 前編だけのレビューですが…

 テレビ界におけるひとつの財産、とも言っていい 「タモリ倶楽部」 の「空耳アワー」。 その年間ナンバーワンを決める 「空耳アワード」 の季節がまたやってまいりました。
 今回はソラミミストの安斎肇サンが進行役で張り切り過ぎて少々ウザい(笑)うえに、マキシマムザホルモンという男女ふたりがまたリアクション大げさでウザい(笑)。 漫才師だとばかり思っていたのですが(失礼)ハードコアのバンドとのこと。 なんか、確か今週の国内音楽チャートの1位をとってましたよ、オドロキ。
 その他のメンバーは例年の如く、松たか子サン、マーティ・フリードマンサン、近田春夫サン、NIGOサン。 このところサプライズゲストがいないかな~。

 最近の 「空耳」 を見ていて思うのは、「なんか無理やりが多い」、ということ。 今回のエントリーでもしょっぱなの 「ブラック・ミュージック部門」 マイケルの 「ビリー・ジーン」 で 「all day although in around」 を 「ここです 女風呂 家の裏」 ってちょっと無理っぽい(笑)。 でも女性が旅館に来たら風呂場に案内されて、フツーの家の中を通り抜けて行って、家の裏に女風呂があった、というビデオのシチュエーションで笑わせる。 昔 「鶴光のオールナイト」 でやってた空耳の元祖的コーナーで個人的に感じていた 「無理やり感」 なんですが、「無理やり」 を嗤うことの粋、というものもあることは確かなのです。

 「ヘイ・ママ」 ブラック・アイド・ピーズは足で歩幅を図って1キロ歩いて 「1キロちてーん」(笑)。 手間かかってます。

 「恋のハプニング」 チャカ・カーン、ふたりの医師がひとりの患者を交互に浣腸して 「あっちーから突っ込んで~、こっちから突っ込んで~」(笑)。 「恋のハプニング」 という題名も可笑しい、と松たか子サン。 安斎サン 「チャカ・カーンで松さんが発言するとは」(笑)
 これが大賞だ、と思ったんですけどねー。

 「ステイン・アライヴ」 ビー・ジーズ、ブラック・ミュージックじゃないだろーとテレビに突っ込んで見ていたら、マーティサンが同じ指摘をしてて笑いました。 ディスコに行こうと友達を誘いまくってたけどひとり風邪気味で、「井上徹は寝ておけ」(笑)。

 「クレイジー」 ニーヨ、ノリノリのラッパー風の男が無線機を前にして 「ハムサイコー」(笑)。

 「フライン・ハイ」 マーヴィン・ゲイ、ドミノ倒し世界一に挑戦中、次々倒れていくいろんな飲み物の紙パック、紅茶のパックで止まってしまい 「牛乳、豆乳、あ~紅茶で」(笑)。

 「ロック部門」。

 「アイ・ドント・ワント・トゥ・レット・ユー・ゴー」 ウィーザー、年配の男性が耳かきをしていてふとそのにおいをかいでしかめっ面し 「耳垢チョー臭い」(笑)。

 「ディス・ギフト」 マッドハニー、ストリートファイト中の男が頭突きしたら血がピュー、「わ~硬ぇスゲ~」(笑)。

 「ドント・ドリーム、イッツ・オーヴァー」 クラウデッド・ハウス、医者に拒絶され、宅配業者に拒絶され、埠頭で船員に訊く亀甲縛りの男性、「縄とれまっか?」(笑)。

 ここで有名人からの投稿コーナー。
 くるりの岸田繁サン、「イン・マイ・タイム・オブ・ライフ」 レッド・ツェッペリン、行列の出来ている自分の店に出前から戻ってきたすし屋の店員、ひとりひとりに声かけながら 「お待ちーで、お待ちーで、お待ちーで、お待ちーで、お待ちーで、お待ちーで、お待ち!あっ!おっ!ハマチ!厚かった!」。 これ、結構すごいレベルだと思います。

 美容師の佐伯チズサンの投稿で、「シー・ドライヴス・ミー・クレイジー」 マイケル・ジャクソン、どっかをのぞいていたのが 「福山雅治」。 VTRにご本人登場してました。 ましゃのやりそーなことだ(笑)。 松たか子サン 「大河が終わって解き放たれたんですね」(笑)。

 そしてゲストのマキシマムザホルモンダイスケはんの投稿で 「ディス・タイム・ユー・アー・…(省略)」 アーソニスツ・ゲット・オール・ザ・ガールズ、リアクションタレントオーディションで水をぶっかけられるダイスケはん、「ダイスケはんはシャワーだ!ジャー!バスタオル取ろうか?ギャー!」(笑)。 ハードコアのデスメタなのでどうとでも取れると言っちゃナンですが(笑)。

 空耳役者さんコーナーで 「ビトゥウィーン・ザ・ハマー」 ジューダス・プリースト、「道にはぐれたヤンキー!」(笑)。 「ワトゥーン65」 レイ・バレード、ゴムヘビの露店を開いているアンチャンが可愛い蛇のイラスト入りのTシャツを着てたのをお客さんに指摘されて 「ヘビ可愛いやろ?ヘビ、あっこれ?うはははは、可愛いやろ」(笑)。 これも大賞近かった気がするなー。

 赤川二郎サンの本のイラストなどを手掛けたというイラストレーターの人も空耳の役者サンで、このほど本格的に役者に転向、などというニュースも驚いた、と言うより 「もったいない…」 という感じだったですが、その人が出た空耳がビリー・ジョエルの 「アップタウンガール」 Perfumeみたいな女の子3人ユニットのひとりがいなくなってマネージャーがその子の扮装で出てきて 「おっちゃんが~、血迷ったんか~」(笑)。 これも可笑しかったな~。 「ファック・ザ・システム」 システム・オブ・ア・ダウン、ひとケタ台続出のテストの点数にブチ切れた教師がテスト返却のときに答案用紙をばらまいて 「はーいみんなバカです!はーいみんなバカです!」(笑)。 これも笑いました。

 「ビッグネーム部門」。

 「今宵は君と」 ジェフ・ベック・グループ。 デブ型とやせ型がシーソーに乗って見事に釣り合わず、「おまーえあっち行けぇ~!」(笑)。

 「フラッシュのテーマ」 クイーン。 毎日○○行為をしていた男、金曜日のネタはパソコン(「金曜日、パソコン!」…スミマセン下ネタで…笑)。

 「コールド・モーメンツ」 ポール・ウェラー、小便小僧、風にあおられて 「小便リターン」(笑)。 スミマセン、下ネタ多くて…。

 「旧友」 サイモン&ガーファンクル、遠景から交差点にパンして 「坊さんの乱闘」(笑)。 タモリサン 「宗派間の闘争なんだろうねぇ…」(笑)。 「タイトルが 『旧友』 ということは、仲良かったんだろうね」 などと話しておりましたが、このタイトルってちょっと誤訳気味でして…(笑)。 「年老いた友人どうし」、みたいな意味かなあ。

 前編だけをお届けしましたが、いかがでしたでしょうか。 なんか書きくたびれたのでもうやめます(根性ないな…笑)。 後半書く気力ないです。 ご要望がもしございましたら、後半も頑張って書きたいなと存じます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「江~姫たちの戦国~」 第11回 茶々の 「発想の転換」

 4時間もある 「金八ファイナル」 は長過ぎでどうにも見る気がせず(笑)、「江」 再放送を見てお茶を濁そう、などと考えていたら、お茶ならぬ茶々(宮沢りえサン)の気持ちの推移が結構興味深くて、またまたレビューを書く気になってしまいました。
 前にも書きましたが、このドラマ、見くびって見ているとたまにいいシーンがある。 作り手の視点には賛否が別れましょうが、こういう見方も面白いかな、と感じさせるのです。

 見くびってしまうのは物語全体が現代目線で、当時の時代の空気(エイトス)を尊重してないと感じることによるものが大なのですが、象徴的なネガティヴファクターは、確かに今回も目白押しでした。

 まず戦い敗れて人質となった立場である三姉妹が敵方の将である秀吉に対してあまりにもエラソーなところ。
 まあ若いと命知らずですけどね(笑)。
 もっと年齢がいけば、戦国の世の習わしを少しでも体得しているんでしょう。
 そう見ている側が思えないのは、やはり 「子役を使っていない」 弊害のひとつなんでしょう。

 初(水川あさみサン)のお菓子好きも相変わらずで、どんなわだかまりもこれさえあれば懐柔されそうなほど。 これもいい年をした女性が演じるから、反感をもたれやすいのかもしれません。

 あと侍女が 「ウケ狙い」 ですっ転び続ける。
 やめたほうがいいと思います、あれは。
 前回お市(鈴木保奈美サン)が生きるか死ぬかのシリアスな場面でも、すっ転んでいた気がする。
 見る気が大幅に削がれます。
 痛い思いをして、すっ転び損ですよ(笑…)。

 今回は家康(北大路欣也サン)さえも 「ツマランお笑い」 に駆り出されていました。
 織田信雄(山崎裕太サン)も呉越同舟で 「気分が落ち着く薬」 をブーッと吹き出すギャグを余儀なくされてるし。
 現代的な軽さが強調されるドラマのなかで、寒いギャグは逆効果なだけだと感じます。

 秀吉も相変わらずで。

 いきなりお市の死をわざとらしく嘆きまくっているし、同情すべき点が全くないのに、おね(大竹しのぶサン)や京極竜子(鈴木紗羽サン)は 「憎めない」 などと持ち上げてるし。
 「憎めない」 という部分が、見ていて全く見当たらないんですよ。
 これ、もう、書き飽きました。

 逆に言えば、だからこそ三姉妹の秀吉に対する対応にも納得がいく。
 「なにが憎めないのか意味不明」 と三姉妹が考えるのは、とても道理なのです。

 そしてお市が死してなおナレーションを続けたい、というその執念(笑)。

 これって過去の大河にも何例かあるんですけどね。
 個人的にいちばん印象的だったのは、「武田信玄」 の母親(若尾文子サンだったか)。  「わが子晴信をあの世から見守り」 とかやってましたよね。

 ただしです。
 なにがしかの生霊であるとか亡霊であるとか(今回は信長も一瞬出てきました)、オカルトだとかあり得ないとかいうのは、まさしく 「現代的視点」。
 当時はもっと死者との距離が近かった気がするんですよ。 魑魅魍魎が生きていける時代でしたからね。

 そんななかで今回私が感動したのは、茶々が 「母上のことを思って泣くのは今日を限りにしよう」 とふたりの妹に語るシーン。

 それまで秀吉に保護されたこの三姉妹は、おねと竜子の言動を理解不能としながらも、すぐさま駆けつけたこのふたりの気持ちに、家庭的な温かさを感じている(初をのぞいて)。 側室の竜子が正室のおねと仲が良い、という意外な側面も、それはおねが百姓同然の身の上から成り上がっているゆえに生まれる 「気さくさ」 によるものかもしれません。
 茶々にとってそれは、それまでの価値の逆転のような要因だったのではないのでしょうか。 

 そして千宗易(石坂浩二サン)のお茶を飲み、茶々は母親を亡くした悲しみから離れて、安らぎを感じる。
 そんな宗易がまた、意外なことを三姉妹に話すのです。
 「自分も幼いころに母を亡くしたが、今はそれでよかったのだと思っている」、と。
 母親の死によって学べることもあるからだ、というのがその理由ですが、これも茶々にとって発想の転換を気付かせる要因となっている。
 それでもやっぱり母が死んだのは悲しい、と言い張る初に、宗易はこう諭します。

 「ほんまやな。 そらそうや。
 そやけど、…もーうおられまへん…。

 そやったら、それを生かす道を探しなはれ。

 それもまた、亡くなられたお母上の、教え…お心に叶うことちゃいますやろか。

 …ありがたいこっちゃ」

 母の死を有り難いと思う。
 それが母親を、生かす道なのだ。

 茶々、のちの淀殿は個人的にこれまで、いたずらに誇りが高いせいで、わがままで気が強くて臆病で愚かで、子供が出来たら親バカで、みたいな感覚を持っていたんですよ。 「天地人」 では深キョンが淀の役をやってましたけど、イメージ的には全くあんな感じ(笑)。
 けれどもこのドラマの彼女は違います。
 その生い立ちからかなりテンパって生きてきたように感じる茶々ですが、けっして我が強いだけの思慮の浅さで生涯を行動してきたわけではない、という解釈が、私にとっては目新しい。
 その価値観を思想人宗易から教唆された、という話も、話としては面白い。

 「そもそも命を奪われておっても仕方のない我らなのじゃ。
 そう思えば有り難いことではないか。

 母上は、御自ら死を選ばれたのじゃ。
 そのこと、しかと胸にたたみ生きてまいろう」

 今日を限りに母を思って泣くことをやめようと考える茶々に、初は江(上野樹里チャン)が母との別れのとき、どうして止めなかったのだ、と責め立てます。 初はそのことばかりが気がかりで、でもそのときまで、口に出して言うことが出来なかった。

 前回展開されたそのときの市と江とのやり取りですが、見ていてなんか引っかかるものがありました。
 江はそのとき、「私が死んだら、母上と逢えますか」 と市に訊き、市は 「ああ、いちばんに逢えるぞ」 と答えていた。 「では、そのときを、楽しみにいたしまする」 と母親に別れを告げる江。
 どうして母親が死んでしまうことを既成事実としてすでに受け入れておるのだ江は?とそのとき感じたんですよ。

 「それは違うぞ、初…」

 茶々は初が江をなじるのを止めます。

 「あの言葉で…江の言葉で…母上は救われたのじゃ…。

 思い残すことなく、この世を去られたのじゃ…。

 私は、江に礼を言いたいと思っておった…」

 武将の妻として、天下人の妹として、死を全うしようとするひとりの女性を受け入れる、というのは、年端のいかぬ娘であれば余計に難しいことです。
 だからこそこのとき、茶々は初を諭しながら涙を流している。
 それまで何度も泣いていたと思われる初ですが、やはりそこで自分の思いが押さえきれなくなり泣きじゃくってしまいます。

 「そなたもつらい思いをしたのじゃな…。

 江もな…」

 江もまた、茶々の言葉でまた、歯止めをかけていた思いが涙となってあふれてしまう。

 三姉妹は、また抱き合って、泣き崩れてしまいます。

 そして母親が残した言葉と形見を抱いたまま、三姉妹は 「今日を限りに母を思って泣くのはやめよう」、と誓うのです。

 結構来ましたね、このシーンは。

 ここで茶々が、発想を転換している、というところもうなります。 秀吉を受け入れる土台が、ここでできている。

 ところがそのあとの展開が、秀吉の策略を受けた、先ほど書いた家康と信雄のギャグシーンとか、次女がすっ転ぶとことか…。
 そしてそれを詰問しに行った茶々に、秀吉が惚れてしまうシーン。
 秀吉の好奇な目をいち早く察した江は、それに気付かぬ鈍感な姉をその場から引っ張り出し(笑)、通せんぼをします。

 ここも子役でないから、江の反応がとても見ていてガキっぽく思える。

 どうも、いいところも、あるんですけどねえ…。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

「連続テレビ小説50年!~日本の朝を彩るヒロインたち~」 朝ドラって、ホントに見てないなぁ…

 震災の影響で1週間遅れ、ようやく来週から始まる 「おひさま」 の番宣も兼ねた、NHK総合のスペシャル。 朝ドラ50年の歴史を 「おひさま」 ヒロインの井上真央チャンと有働アナが振り返っていきます。

 しかし50年、自分が生まれる前からやっとる、というのに、ほとんど片手で数えるほどしか見たことなし。
 断片的に見ているやつは結構あるんですが。
 いかに半年(もしくは1年)月-土で見ることが困難か、うかがい知れます。

 私の場合、本当に腰を落ち着けてきちんと見たのは、「おしん」「はっさい先生」「ちりとてちん」「ゲゲゲの女房」 くらいなもの。 「てっぱん」 もあれだけ 「感動した」、と擁護する記事を書いたというのに、そのテンションの高まりにそれ以降の展開に期待できなくなり、あえなく挫折(録画はたまりにたまったままになっておりますが)(いつか見なければ…でもさすがにキツすぎる)。

 ちょっとしばらく個人的な昔話をさせていただきます。 番組内容についてはのちほど。

 私が朝ドラを初めて意識したのは、やはり 「鳩子の海」('74-'75年)でしたね。
 「ニッポンよ~ニッポン、我ら~の~ニッポン、まだま~だ~あ~るぞ、時間はあるぞ、ドドンがドン」 という斉藤こず恵チャンの歌だけが印象的だったのですが。
 斉藤こず恵チャン、当時は西城秀樹サンとラジオの文化放送で日曜日に番組をやってまして(「ヒデキとこず恵の楽しいデート」、だったっけな)、そのブッ飛びぶりが可笑しくて可笑しくて。 子供が好きそーな下ネタ全開でヒデキが言葉を失ったり、あんまり面白いのでカッパブックスだかの番組本を買ったんですけどねー、当時。 どこ行っちゃったかな。
 確か挿入歌で桜田淳子チャンの 「白い風よ」 というのもあった気がします。 阿久悠サン作詞の一連のシングル曲よりよっぽど好きだったなー(あれは 「鳩子の海」 じゃなくて、次の作品、大竹しのぶサンのデビュー作、「水色の時」 だったようですね)。

 その次に記憶に残っているのが浅茅陽子サンの 「雲のじゅうたん」('76年)。
 当時小学校に通ってて物理的に見れなかったのになぜ記憶に残っているのか、ちょっと調べて分かりました。 夏休みだったんですね、それらの作品が放送されていた期間が。
 友里千賀子サンの「おていちゃん」('78年)、熊谷真美サン・田中裕子サンの 「サザエさん」 もの、「マー姉ちゃん」('79年)、星野知子サンの 「なっちゃんの写真館」('80年)、記憶に残っているのは、いずれも4-9月期の朝ドラばかりでした。

 「おしん」('83-'84年)をなぜ欠かさず見ることが出来たか、というと、当時自分は大学生でした。 大学生というのは、ヒマなもんですから(笑)。 確かこのころにはVHSビデオもあったですし。
 「はっさい先生」('87年)はハマったかな~。 若村麻由美サン、当時好きでした~。
 藤田朋子サンの 「ノンちゃんの夢」('88年)。 なんかヒロインのやってることがメチャクチャで 「何考えとんじゃ」 とツッコミを入れながら見ていた記憶があります(笑)。 「なんちゃあない」 なんてしゃべってたから、高知出身の役だったのかな。 藤田サンの役は出版社の女性記者だったんですが、作家先生の原稿をうっかり燃やしてしまった時に、ちょっと呆れ果てました。 確かそれ以来、朝ドラを見る習慣そのものが、なくなってしまったよーな…。

 それを久しぶりに見たのが、「ちゅらさん」('01年)。 まあ全編通して、ではありませんでしたけどね。 えりぃ(国仲涼子サン)のまっすぐな恋心に、何度泣かされたか。
 そして田辺聖子サン原作の 「芋たこなんきん」('06年)。 確かこのころからBS2(先ごろ放送終了いたしましたね…)の午後7時30分からも再放送するようになって、それで仕事後に見る機会が増えたのですが、それまで私が勝手に抱いていた 「元気過ぎるヒロイン」 が出てこず、藤山直美サンのまったりとした雰囲気が好きで、これも全編ではありませんがよく見てました。

 ホントに久しぶりにハマったのが、貫地谷しほりチャン の落語モノ、「ちりとてちん」('07年)。 これは朝ドラ最高傑作だなーと、朝ドラほとんど見てない癖に(笑)勝手に決めつけとります。 井上真央チャンも、しっかり欠かさず見ていたようであります。

 で、やっとこさこの 「朝ドラ50年」 の番組の内容に移りますが、まず第1作目の 「娘と私」('61年)。 父(北沢彪サン)と娘(北林早苗サン、当時村田貞枝サン)って、両方知りません…。 わずかばかりのVTRが登場。

 2作目 「あしたの風」('62年)ヒロイン渡辺富美子サン…この人も知りません…。

 3作目「あかつき」('63年)ヒロインの荒木道子サンで、ようやく知ってる人が出た…。 この人、「ふぞろいの林檎たち」 で時任三郎サンの母親役やってましたよね。 原作者の武者小路実篤サンがドラマ出演していた珍しいシーンも。

 4作目 「うず潮」('64年)ヒロインの林美智子サンは、「北の国から」 で正吉の母親という印象的な役をやってましたっけ。 相手役の渡辺文雄サンも、鬼籍に入られてからずいぶんたつ気がします。

 5作目 「たまゆら」('65年)では笠智衆サンが主人公。 初めてのテレビドラマだったらしい。

 そして私もその名を知っている第6作目 「おはなはん」('66年)。 ドラマを全く見ない、というアルフィーの坂崎サンも、最後にちゃんと見たドラマだったというほどの人気を誇る(なんだソレ…笑)。
 樫山文江サンがヒロインですが、現在の樫山サンも登場。 ウワ、久しぶりに拝見いたしました。 「見物人で家が揺れた」 など、当時の熱狂ぶりが伝わるお話をされていました。 おはなはんの結婚式で祝電がNHKに大量に届いた、という裏話も。

 …なんかいちいち書いていくとキリがなさすぎるので、スッ飛ばします。
 懐かしかったのは、第12作目の 「藍より青く」('72年)での父親役、高松英郎サン。 ガンコ親父をよくやってましたよね。 個人的には 「柔道一直線」 かな。

 13作 「北の家族」('73年)ヒロイン、高橋洋子サン、うわ~、なんか結構好みの顔だった記憶がある。 最近、まったく見かけませんね。

 そして、「鳩子の海」。

 藤田美保子サン、懐かしいなー。 「Gメン'75」 に出てましたよね。

 「水色の時」 の大竹しのぶサン、「青春の門」 より先かぁ~。

 16作 「おはようさん」('75年)秋野暢子サン、そっか~、「赤い運命」 で百恵チャンの敵役の前が、これだったか~。
 してみると、朝ドラヒロインが敵役なんて、当時としてはずいぶんチャレンジしたんだなあ。

 「雲のじゅうたん」 浅茅陽子サン、うーん、中島みゆきサンに似てる…。 中条静夫サンも印象的でした。 中条サン、亡くなるのが早すぎた気がいたします。

 「マー姉ちゃん」 では益田喜頓サンが懐かしかったー。 田中裕子サン、ムチャカワイイ。

 「鮎のうた」('79年)では吉永小百合サンも山咲千里サンの母親役で出てたんだ~。 知らなかった。

 「虹を織る」('80年)紺野美沙子サン!カッ、カワイイ…。 好きだったなー。 宝塚が舞台で、ラインダンスもやっていたとは…。

 そして 「おしん」。 現在の小林綾子サンが、最上川(信濃川だったっけな)での別れのロケ現場にやってきます。 マユゲ剃ってますね(笑)。 ロケ現場で地元の人たちからふるまわれたすいとんを食べて当時を思い返していました。 その場所にはちゃんと 「ここがあの場所」 的な立て看板もあって。 よく見たら中国語とか韓国語とか、さすがに世界中で放送されただけのことはある国際的な看板になっとりました。
 朝ドラ史上最高の盛り上がりを見せただけあって、今回 「おしん」 にはいちばん時間が割かれていた気がします。

 「はね駒(こんま)」('86年)。 斉藤由貴チャン、好きだったです~(何人好きなんだか…)。 当時はゲジ眉が全盛。 斉藤サンは今回の 「おひさま」 で井上真央チャンと共演こそしないものの出演されるそうで、ゲストで登場。 やっぱりマユ剃ってます。 どうしてこうみんなマユ剃ってるのかな~。 小林綾子サンも斉藤由貴サンも、その眉が素敵なのに。 当時は誰もかれもゲジ眉で辟易してましたけどね。 似合う人は似合うんです。

 「チョッちゃん」('87年)。 古村比呂サンも、ゲジ眉でしたなー。

 「純ちゃんの応援歌」('88年)山口智子サン、ダンナの唐沢寿明サンと、そうか、このドラマがきっかけだったっけ。

 「君の名は」('91年)。 鈴木京香サンのテレビデビュー作。 このドラマはずいぶん放送当時、ケチがつき続けたドラマだった記憶があります。 鈴木京香サンもこれ1作で消えてしまうか、と思われましたが、その後の人気は周知のとおりですね。

 「ひらり」('92年)。 石田ひかりサン。 ウワこれ、もう20年になりますか。

 平成に入ってからの朝ドラヒロイン、番組でもいろんな人が出てまいりましたが、朝ドラが終わってからが、本当の始まり、という気は強くいたしましたね。 どうやって自分の立ち位置を知り、自分というものを出していけるのか。 そして世の趨勢にどうやって乗れるのか。 そのふたつをきちんと手にした人だけが、女優として大きく羽ばたけるんだな、と思いますね。 「このコどうして最近見ないんだろう」 という人が、結構おりましたよ。 頑張ってほしいものです。

 このほど放送が終了した 「てっぱん」 ヒロインの瀧本美織チャンも出てました。 このコも、これからだ。 私はこのコは、しっかりとした演技力を持ってると思いますよ。

 そして番組最後には、歴代の朝ドラヒロインに 「あなたにとって連続テレビ小説とは何ですか?」 という質問。

 紺野美沙子サンは素朴な文字で 「恩師」。 小林綾子サンは達筆な字で 「温故知新、人と絆の総合芸術」。 石田ひかりサンは斜め文字で 「キラキラといつまでも輝いてくれる大切な想い出」。 三倉茉奈サンはアンバランスな字で(笑)「故郷」、佳奈サンはデカイ字で(笑)「出会い」。 戸田菜穂サンはとても普通の字で 「初めての自信をもらいました! !」。 国仲涼子サンは 「顔! !☺」。 比嘉愛未サンは 「原点♡」。 榮倉奈々チャンは 「始まり」。 斉藤由貴サンは 「もうひとつの人生」。 瀧本美織チャンは 「家族」。
 そして樫山文枝サン、「おひさま」 という文字をまるで井上真央チャンに贈るように。
 書いた内容と文字にそれぞれの人柄が出ている気がしましたが、やはりそれぞれの役者人生にとって、いちばんの中心部分となっている気がしますね。

 そして 「おひさま」 の内容紹介。

 原田知世サンが井上真央チャンの幼いころの母親役で出るようですが、なんか髪形がデビュー当時に戻ったみたいで好印象。 戦争の暗い影がドラマにどう影響するのか、それでも 「おひさま」 のように明るく生きていく井上真央チャンの演技がどのようなものであるか、注目です。
 私は井上真央チャンの演技に、「そつがなさすぎる」 印象がいつもあるのですが、彼女がどうはじけてくれるのかを期待しています。

| | コメント (9) | トラックバック (1)

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »