「JIN-仁-」(完結編) 第11回(最終回) 奇跡との闘い!
ここ数日、当ブログの 「JIN」 の記事へのアクセスがやたら多く、しかもそのほとんどが第1部最終回の記事へのアクセス。 「JIN(仁)」「最終回」「ネタバレ」 という検索ワードを入力した場合、特にグーグル、ヤフーのウェブ項目でのファーストページに、当ブログの昔のその記事が閲覧されるようで、アクセスされたかたのまず全員が、完璧に肩透かしを食らった形となってしまっているはずであります。
私のせいではないのですが、お詫び申し上げたいと存じます。 「なんだ昔の最終回のほうかよ」 と思われて 「もう来ない」 と思われたかたにはこの思いは届きませんが、今度はこの記事が先の検索サイトの上位に来るように、今からとりあえず頑張って記事を書こうかな、と思います(ま、肩肘張らず…)。
ふと気付いたのですが、このドラマの最終的な落とし所は、この 「届く思い」 だった気がします。
そしてこれこそが本当の正真正銘、「JIN-仁-」 というドラマの、当ブログにおける 「最終回」「ネタバレ」 記事となります。
総論から申し上げれば、このドラマは見ながらさまざまなことを考えさせてくれた、という点で、続編に至るまでまさに傑作だった、ということです。
もしかするとこれほどのドラマ、というのは10年に一度、くらいの割合でしか巡り合えないレベルかもしれません。
確かに優れたドラマというものは、年間に1、2本は必ずある。
けれどもここまで、自分の人生の意味を根本から考えさせるドラマ、というものは、そうそうあるものではない気がします。
それはただ単に現時点での自分の人生を振り返らせるものではない。
タイムスリップものが持つ荒唐無稽さから手を離れて、「時代」 という観点から、先祖から連綿と命を受け継いできた自分、というものを見つめ直す機会を与えてくれている、ということが、とても斬新なのであり、秀逸なのです。
話は少し飛躍いたします。
私は仏教的な循環する生命観(輪廻思想)の持ち主ですが、いずれの時代でも、「自分はこういう時代に生まれたい」 という意志を持ってすべての人間はその時代、その場所、に生まれくるものだと思っています(たぶん前世で日本人であった人は、やはり同じ日本に生まれたいと思う人が多い気がします)。
たとえば私は1965年生まれで、私が生きている時代はテレビ文化が爛熟した末にパソコンなどによるソーシャルネットワークの開花、という流れを見据えています。
私の親の世代は戦争をぎりぎり体験し、戦後のどん底から奇跡的な経済発展、という時代の流れを見据えている。
私より下の世代は、ケータイもパソコンも当たり前の、これまでの時代とは全く異質のコミュニケーションの流れの、さらに先を見据えている。
私はやはり、1965年という段階で生まれてきてよかったと、いまさらながら素直に思えるのです。
おそらく戦争で亡くなったかたがたが多い時代であっても、そのかたがたはその時代に生まれたいと思って、生まれてきた。 モボモガを体験したいとか明治大正の文豪と同じ空気を吸いたいとか。
戦争で悲惨な目に遭うのは、それは本意ではないから、おそらくそれは予測がつかない突発的な出来事なのでしょう。
今回のような大震災で命を落としてしまうことも、これも本意なことではありません。
だからただ単に、時代の空気をあの世から眺めながら、「ああこの時代はいいなあ」 と思ったからこそ、自分はこの時代のこの世、日本のこの場所に生まれてくるのだ、と思う。
だからこそ、移ろいゆく世に、変わってしまう風景に、心を痛めたりもする。
やや話がオカルト的に傾いている気がいたしますが、そんな、「この時代を生きたい」 と思う人々の、取るに足らぬように思えるちいさな生業が寄せ集まって、歴史は形成されていくものなんだ、という気が、このドラマを見ているととても強く感じるのです。
そんな立場でこの世を見渡すと、取るに足らぬような一生、というものはあり得ない。
自分の人生に無力感を抱くことはままあることです。
けれども無意味な一生というものは、誰にとっても存在しないのです。
それを無意味にするか意味のあるものにするかはやはり、自分の心ひとつにかかっている。
誰もがもがきながら苦しみながら、時代に爪を立てて、何者かの足跡を残そうとします。
その 「闘い」 こそが、歴史を形成していく、奇跡を生み出していく。
結局、「JIN」 というドラマの、真のテーマは、そこにあったのではないか、そう思われてなりません。
タイムパラドックスとか胎児形奇形腫とかすべての真相は、実はほんの瑣末なことに過ぎない。
最終回ではそんな、なぞなぞの答えを知りたがる人々のために、作り手は山本耕史サンによる特別講座を開講までしました(笑)。
実はこのスタイルをとることによって、このドラマの言わんとすべきことは、こんな 「謎がどうなったのか」、などという野次馬的な興味ではないことを、作り手ははからずも強調した。
「○○との闘い!」 という題名を、当ブログのこのドラマでの記事では、執拗に繰り返してきました(途中くじけそ~になりましたけど…笑)。
それは、いかな有名人であっても、市井のひとりひとりであっても、「闘っている」 という事実だけは一緒なのだ、という作り手の意志を、いちばん言わんとしていることを、つねに感じてきたからなのです。
そのことを毎回感じることができたからこそ、このドラマは(すくなくとも私にとって)ほかの傑作ドラマとは決定的に違う、特別な傑作となり得たのだと思います(やっぱ肩肘張って論じとるな)。
冒頭、咲(綾瀬はるかチャン)と野風(中谷美紀サン)が、南方(大沢たかおサン)の脳腫瘍を治す方法が、ひとつだけある、と話をしています。
それは南方を未来(みらい)に送り返すことなのですが、当然ながらその方法の糸口すら分かりません。
しかし咲はその方法すら分からないのに、南方が当然、未来に帰るものだと信じている部分がある。 「先生はもてるすべての医療技術をわたくしどもに教えようとしている。それだけでじゅうぶんでございます」 とここで野風に語っているところからも分かります。
続編でとても顕著に思えたのは、咲が南方に対して、こうした一歩引いた立場を常に崩そうとしないところでした。
最初それははるかチャンと大沢サンの仲を邪魔しようとする所属事務所の圧力だと思ったのですが(爆)、咲が南方とちょっぴり距離を置いていたのは、実は募る思いを必死に押し殺していたためだった、ということが、ラストで判明します。
実際に事務所の圧力のなかで恋を秘めざるを得なかったのかもしれませんが(下世話だなあ…笑)、かえってそれがドラマにもよい効果をもたらしたのではないか、と…。
まあそのラストの話は置いといて、時代は幕府軍と新政府軍との、最終的な戦いの局面にさしかかっています。 徳川慶喜はこのドラマに出てきませんでしたが、結局彼が勝手に謹慎してしまったため、彰義隊は退路を断たれて 「キューソネコカミ」 でバーサク状態(FF知らない人、すみません…笑)。
恭太郎(小出恵介サン)は勝(小日向文世サン)からフランス行きを打診されるのですが、いっぽうで血気にはやる彰義隊からの誘いも受け、考え抜いた末に徳川家臣の旗本としての本分を全うしようと、彰義隊に合流することを決意するのです。
そのなかで南方は松本良順(奥田達士サン)から自分に何かあれば医学所を指導していただきたい、と依頼を受けます。 「そんな非常時に、自分はいちばん間違っちゃう気がするんですけど」 と現代人ぽく二の足を踏む南方に、「ではその間違った道をお指図ください」 と良順は言い切る。 このシーンはのちに、彰義隊と新政府軍との戦闘の際に敵味方の別なく、また東洋西洋医学の別なく治療が行なわれることの、ひとつの布石となっています。
新門辰五郎(中村敦夫サン…いやーほんのチョイ役だったぁ…)は 「しがらみによって誰もが行動しているが、でっけえ目で見ればそれが正しいかどうかは分からねえからなあ」 と喝破する。 南方の存在は、その別を超越していることを、辰五郎も見抜いています。
そのとき彰義隊が官軍の錦の腕章を奪い取る事件が発生。 「おさまりのつかねえ彰義隊の連中がこうやって官軍に嫌がらせするのが流行っている」 と言う辰五郎に、「江戸時代も終わるんだなあ…」 という感慨を抱く南方。
このときの南方の感慨って、よく考えてみると結構奇妙であります。
なぜなら江戸時代の人々は、自分たちが江戸時代という時代を生きているとは思わなかったはずで(笑)、よくドラマとかで見かけるのは 「徳川の世」 という表現ですよね。
江戸といえば当時の首都、ということなので、感覚的に言ってしまうと、今の時代を 「東京時代」 と言ってるよ~なもんかな?と…(笑)。
同じように 「幕末」、なんて言いますけど、別に世紀末じゃあるまいし(笑)、龍馬も西郷も勝海舟も大村益次郎も、自分たちが幕末を駆け抜けてる、なんて自覚はしてなかったかと…(爆)。
まあいずれにしたって、徳川幕府の執政が終わる、ということは重大問題に変わりはないです。 今でいえば国会解散、じゃなくって、国会そのものが消えてなくなる、くらいのインパクト…かな?(笑) 政党なんてものがなくなって、総理大臣は国民投票で決めて、くらいの感じかな?
ともあれ、南方は結局、死に至る病にさいなまれながら、江戸時代に送り込まれた意味も分からないまま、「まあ、人生ってそんなものか…」 とひとりごとを漏らしています。
人生って意味のないことの繰り返しのように、思える時があります。
でもそれで、無力感を覚えていてはいけません。
純朴な人々が笑い、行き交う江戸の町。
そんな、その時代では当たり前の光景が、とてもいとおしく思えてくる南方。
自分がここで出来る最後のことは、何なのか。
南方は思いを巡らせます。
南方の病状はさらに悪化していきます。
手の震えがひどくなり、咲が作る揚げ出し豆腐の椀も落としてしまう始末。
そのとき南方は咲の姿が、野風とダブっている幻覚を見ます。
これってラストへの、ひとつの伏線だったのでしょうか。
ちょっと、よく分かりません。
南方は絶望的な自分の病状に直面しながらも、せめて笑って、このことを乗り切っていくつもりだ、と咲に決意を語ります。
「こんなときに無理に笑わないでください!先生は、助かりたくはないのですか?」 と詰問する咲なのですが、「出来ないことを考えて嘆くより、出来ることをやって笑っていたい」、と南方は答えるのです。
最終回前半を貫いたのは、この南方の笑顔でした。
どんな時でも、彼は無理にでも、笑い続けた。 笑顔を作り続けた。
龍馬(内野聖陽サン)が最後に残してくれた笑顔が、南方を照らし続けているように、です。
それは時に無責任な笑いだったかもしれません。
何の意味もない笑いだったかもしれません。
でも、しかめっ面で生きていくよりは、ずっといい。
近頃、車を運転していると、世のなか荒んできたような気がしています。
ヤケにイライラしている車が多い。
それは震災の影響から、ままならないことがあまりにも多いせいなのだと感じます。
みんな、我慢しながら生きています。
ちょっとの辛抱も積もり重なれば、世の中はどんより曇ってしまう。
でも、しかめっ面しながら不幸を享受するより(文法間違っとる…)笑い飛ばしながら不幸を味わうのも一興かなあ。
南方の笑いは、大災害に荒んだ自分の気持ちさえ、振り返らせる力を持っていました。
南方は自分にできる最後のことを考え抜いた結果、自らを献体することを決意し、仁友堂の面々に語ります。
自分が死んだあと、解剖をして後学のためにせよ、ということであります。
このくだりは韓国ドラマ 「ホジュン」 で、主人公ホジュンの医術の師匠が、弟子ホジュンに託した遺言と重なります。
韓国ドラマではそれこそ、感情出まくりの紅涙を絞るショッキングなシーンとして非常に強い印象を残したのですが、「JIN」 での描写は実に平静で日本的。
動揺する仁友堂のメンバーのなかでひとり、咲は南方の笑顔の決心を自分に乗り移らせたような表情で優しく微笑み、「はい。 …はい…!」 と南方の決意を受け入れるのです。
南方の余命を賭けた最後の闘いが、始まります。 南方は持てる限りの脳腫瘍に関する知識を、仁友堂の面々に魂を刻みつけるようにして教えていくのです。
病状が悪化し倒れた南方のもとに、勝が見舞いにやってくる。
恭太郎のフランス行きを決意させてやってくれ、という話です。
けれども恭太郎は、すでに彰義隊に入る決意を固めている。
栄(麻生祐未サン)との最後の晩餐に恭太郎は、「咲を橘にもう一度戻してやってほしい」、と栄に頼みます。
栄は 「帰ってくるなと言った覚えはない。あの子が勝手に戻ってこないだけ」 と答えるのですが、「許すと言われなければ戻ってきづらいでしょう」 とそれとなく彼は母親を誘導します。
許すという言葉を持たない武家の厳しさ。
そこにひとつのかけ橋を与えている恭太郎の最後の覚悟というものが、見る側に伝わってくるのです。
床で眠りにつく母親を見ながら、「行ってまいります」 と手をつき挨拶をする、恭太郎。
翌朝彰義隊と新政府軍との戦闘が激化するなか、橘の家に辿り着いた南方、咲、佐分利(桐谷健太サン)。
門の前で呆然とたたずむ栄に出くわします。
その手のなかにあった恭太郎の書状には、龍馬を死に追いやったことへの深い後悔の念が刻まれており、取るに足らない自分が生きていくことの 「恥」 が綿々と記されている。
咲は戦闘状態の上野へ向かおうとします。
「行ってはなりませぬ!」
厳しく咲を止めようとする栄。
「徳川さまと一緒にという恭太郎の気持ちは、おまえにも分かるでしょう!」 と。
ところが咲はきっぱりこう答えるのです。
「兄上は生きねばなりませぬ。
尊いお方を死に追いやったというならこそ、傷つこうと、泥にまみれようと、這いつくばって生きねばなりませぬ!」
生きるということは、一面においては失敗の連続、恥かきの連続です。
けれどもそれを乗り越えようとするのが、人生の本来の意味なのだ。
いかに見苦しかろうとも。
そんな見解を、私もこのブログでは幾度となく繰り返してきました。
だからですが、咲のこの言葉はとても、わが意を得たり、という気がいたしました。
どうも自分の感情とリンクしすぎるなぁ、このドラマ。
栄は咲にすがりつき、絞り出すように懇願します。
「行かないでおくれ、咲…!
後生です…!
いかないでおくれお前まで…!」
栄の、母親としての気持ちは、恭太郎を行かせることなど、到底容認できないのです。
なのに、武家のしきたりが、それを許すことをしない。
だからこそ自分の娘までも、死地に赴かせることなど出来ない。
世のなかの状況によって抑圧される感情、というものが存在します。
けれども原始的な感情、というものは、どんな世であっても、止めることなど出来ない。
それは親、としての感情、子、としての感情です。
抑圧されつつも、それを突き破らざるを得ない、母親の愛情。
それが描写され尽くしているから、もう、この場面、ただ泣ける。
咲は必ず兄を連れて戻る、と力強く栄に約束します。
そんな娘の手を握る、栄。
咲の手はしかし、その上から母親の手を握り返すのです。
今まで守ってもらってきた母を、今度は私が守るばん。
このシーンは、そんな咲の気持ちの象徴であるかのようです。
そして咲は、その場から駆け出す。
佐分利が体の自由がままならない南方を制して、それを追いかけていく。
「恥をさらそうが、生きることこそが善…
…これからは、そのような世が、くるのでしょうか…?
わたくしたちが信じてきた道は間違いだったのでしょうか…?」
その場に残された栄は、涙を流しながら南方にそう訴えかけるのです。
残念ながら 「死ぬことが誉である」 という生きかたは、このあと日本が壊滅的な敗戦を迎えるまで続くことになります。
南方は栄の問いかけに、こう答えます。
「そうは思いませんけど…恭太郎さんは、ひとつだけ大間違いをしていると思います…。
恭太郎さんの誇るべきことは…」
ここで南方が言いたかった 「誇り」 とは、何だったのでしょうか。
そのあと南方は、再び出会った恭太郎に向かって、「あなたが守ろうとしたのは徳川じゃない、橘の家だったんだ」 と語っています。
このとき南方は、言ってみればお家大事のその時代に合った納得のさせ方を、恭太郎にさせてるわけですよね。
けれどもそれは単に武家制度の形式をただ借りているわけではない。
母を思う心、妹を思う心があるからこそ、それを守ろうとすることに誇りが生まれるのです。 家族の絆を守ろうとしたことが、恭太郎の誇るべきことだったのだ、…私はそう感じます。
そして上野へとやってきた咲と佐分利。
スンゴイ激戦状態。
ムボーすぎ(笑)。
あり得ねー(笑)。
そこで咲たちは恭太郎と出くわすのですが、またこれがあり得ねー(笑)。
その瞬間、流れ弾が咲の左腕に命中します。
だからムボーだってゆーのに…(笑)。
恭太郎は咲のもとに駆けつけます。
「死ぬのなら南方先生に断ってからやろ!『助けてもろた命ですけど捨ててええですか』って!」
恭太郎を関西弁で恫喝する佐分利(笑)。
恭太郎は意を決し、咲をおぶって南方の待つ救護所へと向かうのです。
ところが咲のこのくらいの鉄砲傷など、南方にかかればチョチョイのチョイだ、と当初は思われたのですが、傷口から菌が入り重篤な感染症へと発展してしまう。
敵味方の区別もなく行なわれる南方たちの治療に文句をつけにやってくる勝。
「医者は意の道を歩くのみ。
収まらぬものを収めるのが、政の道であろう」
そこにやってくる東洋医学側の多紀(相島一之サン)。 敵味方ばかりでなく、その救護所は西洋東洋の医学の区別なく、治療の行なわれる場となっていきます。
それにしても多紀の、「収まらぬものを収めるのがまつりごと」、とはけだし名言であります。
きょうび政治は 「収まるもんも収まらなくする」 繰り返し(爆)。
「夢を見ているようでございます…」
西洋医学と東洋医学の融合…。
その光景を見ながら、咲は限りない感動を覚えていきます。
これはのちのドラマで、変わってしまった現代の光景を生み出す、ひとつの契機となっている光景なのです。
「互いに手と手を携えて生きていく」、という、咲の言わんとしていることに、深く感銘を受ける恭太郎。
このことが恭太郎ののちの人生に、大きな影響を与えることになるのですが、それはまたのちの話。
その間にも南方の病状は、やはり悪化していく。
手が震えて咲の傷の執刀も出来ないありさまです。
そんな自分の状態に絶望する南方。
そのときいつもの頭痛と共に、南方の思考に語りかけてくるものがある。
龍馬です。
「口八丁、手八丁ぜよ、先生――。
手ぇが動かんかったら、口を動かせばええ」
南方は龍馬の教えに従って、現場で治療の口頭での指導に専念します。
しかし、兵士たちは傷が治ると次々と戦線復帰していく。
それでも南方は、「棄てに行くための命を延々と拾い続け」 るという、一見とても馬鹿馬鹿しく思えるような治療をし続けます。
ほかの医師たちも、西洋東洋の区別なく、その作業をやめない。
なぜなら、人の命を救うことが、医師の役目だから。
「それが、おれたち医者の、誇りだったから――」。
そんな必死の南方を見ながら、咲は自分の傷口が悪化していくことを、言い出せません。
しかし自分も怪我人の治療に復帰し無理がたたったことでまた倒れ、その病状が南方の知るところとなる。
化膿したその傷口は、緑色をしています。
緑膿菌と呼ばれるその細菌、ペニシリンでは治療不能。
南方はできうる限りのことをしようとはするのですが、かなり絶望的な状態であることは、認識せざるを得ないのです。
治療にはホスミシンという薬が有効。 しかしこの薬を南方が作り出すことは不可能です。 ペニシリンの場合、未来(みき、中谷美紀サン、二役)と以前実験的に作ってみたことがあったから出来ただけでした。
この 「ホスミシン」、という薬。
この薬がこの物語を終息させる、大きなカギとなる薬となってきます。
特効薬がないなりに進められる咲の治療ですが、病状は悪化の一途。
南方の病状も進行しているせいで、物語のツートップが共に重病、という異常事態にドラマは直面していきます。
そんななか山田(田口浩正サン)が橘家を訪れ、咲を見舞うよう恭太郎と栄に勧めます。
栄はそれを拒絶。
自分が見舞いに行けば咲は余命が短いことを悟る。 咲の気力を維持するためにも自分は見舞いに行かぬ、というわけです。
「あの子にお伝え下さりませ。
約束通り、おのれの足で戻ってきなさい、と…」
最終回、栄の役割はとても大きなものに感じました。
凜っ!凜っ!って感じで。
やー麻生祐未サン、ええなぁ、この栄役。
栄のスピンオフドラマが見たくなって…あ、いやいや(笑)。
顔色が極端に悪くなっている咲。
震える手で咲の脈を調べている、こちらも具合の悪そうな南方。
眠りながらうなされ、やがて咲の表情は柔らかくなり、涙が頬をつたいます。
呼びかける南方の声に驚いたように振り向く君に…じゃなかった(笑)、目を見開く咲。
「夢を…見ておりまして…。
熱に浮かされ、ふと、目が覚めると…
先生が、どこにもおられぬのです…。
わたくしは、仁友堂を探すのですけれど、
先生は…どこにもおられず…
それで、未来にお戻りになったんだと思って、
ああ…よかったと…思ったところ…
目覚めると…先生のお顔が見えて…」
「よかった…?」
「お戻りになれば、…先生の癌は、…治せるではないですか…」
ああ~もう、ここ(笑)。
いなくなったことを喜ぶ、なんて、なんていじらしい恋なんですかっ!
つまりずっと一緒にいなきゃダメ、なんていう自分勝手な部分など、これっぽっちもないんですよ。 南方の命が助かることだけを願っている。
この部分、もし南方が150年後に帰ってしまう、とすると、南方が現代から見た咲はもうすでに死んでいる、ということになります。 さらには老いさらばえた自分の姿を、南方は未来で知るかもしれない(これはその後現実となってしまうのですが)。 それってもし自分だったら、かなりイヤ。
そういう思いさえ葬り去って、自分の思いをすべて犠牲にして、成り立っている 「南方への思い」。
なんて健気なんだよっ!
南方は、思わず咲を、抱きしめてしまうのです。
それは完結編が始まってからずーっとモヤモヤしていた、南方と咲との遠かった距離が、一気に縮まった瞬間。
触れたくても触れられなかった(手術前で手を殺菌消毒してなかった、とゆーこともありましたが…笑)咲と南方が、時代の壁を越えて、触れあえた瞬間。
泣けました。
なんとかしてくれぇ~~っ!(笑)
抱き合いつつ南方は彰義隊のことを咲に話しながら、「かけがえのないものがなくなってしまったら、一緒に消えてしまうのも幸せなのかと」 と、彰義隊の人々と自分の気持ちをダブらせます。
自分も、かけがえのない咲がいなくなったら、一緒に消えてくなくなりたい…。
南方は咲の肉体的な質感を、まるで確かめるかのように、さらに固く咲を抱きしめます。
咲もその南方の存在を確かめられた、という喜びなのか、目にいっぱい涙をためながら、南方を優しく叱咤するのです。
「…医者が、…そのようなことを言って、…どうするのですか…」
咲の手が、南方の背中を、伝っていきます。
よかったねや~~っ(笑)。
その瞬間。
南方の脳裏に、タイムスリップ直前の光景がよみがえる。
「あのとき、…!
あのときの、ホスミシンだったんじゃ…?」
南方は咲の感染症の特効薬である、あのホスミシンを、タイムスリップ直前に自分のポケットのなかに入れていたことを、思い出したのです。
「咲さんっ!
ちょっと待ってて下さい!
すぐ!すぐ戻ってきます!
絶対に治します…!」
なにが起きたのか分からない表情の咲。
「?…はい…」
「じゃ、行ってきますね…」
「はい…」
ほどけていく手と手。
思えばこれが、南方と咲との、永遠の別れになってしまったのです(また泣けてきた)。
しかしその白いユニフォーム、いったいどこに行ったんだ?
もうその時点でタイムスリップしてから6年もたっていたため、おそらくその白衣の行方は不明。
橘家、仁友堂、関わりのある人間がみんな総出で、ホスミシンの小さな瓶を探しまくります(途方もない捜索作業…笑)。
そしてそれを探し求めた末、恭太郎と共に、タイムスリップした場所へとやってきた南方。
そこにまたもや、龍馬の声が響いてきます。
「咲さんを助けたければ、戻るでよ、あん世界へ」。
つまりですよ。
私が考える限りでは、南方が江戸時代にタイムスリップした本当の意味って、「咲を助けるため」、だったんですよ。
これは要するにニワトリとタマゴの論理。 その歪みというものがどこで発生したかを考え出すとキリがないのですが、とにかくタイムパラドックスという説明のつかないメビウスの論理をそのまま、ドラマ 「JIN」 の最大の謎の答えにあてはめた、という点で、なかなか 「やるなあ」 というレベルの解決の仕方だと、個人的には思われるのです。
そしてそのガイド役を、胎児形腫瘍の形を借りて、坂本龍馬の命を南方の脳のただなかに転生させた、という、この解決方法。
考えてみればおそらく第1部のころから、この答えはちゃんと用意されていたように、私には思えます。
それが、話が詰め込まれ過ぎたのか局側の事情だったのか、第1部の最終回はとても不自然な場面が散見された。
龍馬が川を下って酒池肉林の地に辿り着いた後(笑)に生還してきた、という話も不自然だったし、未来(みき)が大学みたいなところで教鞭をとっているシーンも、とても唐突の感があった。
だいたい第1部最終回で1時間15分程度、なんてのも不自然なまとめ方でしたよねぇ。
おそらく2時間くらいの枠はあったんじゃないでしょうかねぇ(また浅知恵だ)。
「入口と出口は違う」。
龍馬の声に導かれて、南方は現代への出口(錦糸堀付近)を発見。
その穴に、意を決して飛び込む南方。
彼は再び時空のひずみのなかに巻き込まれます。
官軍の残党狩りを巻いてきた恭太郎がその場に辿り着くと、そこにはもう、南方の姿は見当たらないのです。
これも龍馬が死んでいなければ、解決の糸口がなかった、ということになる。
そして咲が危機に陥らなければ、南方が現代に帰るその必要性も生まれてこなかったことになる。
物語的な辻褄は、一応合っているのです。
バック・トゥ・ザ・フューチャー。
南方は未来へと戻ってくるのですが、この描写の仕方が実に用意周到と言えるものであり。
ほぼすべて第1部のVTRをそのまま流すことで成立しているんですよ。
このことからも、作り手には最初(第1回目)から謎の答えが用意されていた、と思えてきますね。
南方の顔面に相当の擦過傷があるというのは、現代に戻るタイムスリップのときにできた傷だったんですね、しかし。
いずれにせよ着物姿のまま、錦糸町付近の公園で倒れていた南方は緊急搬送され、現代を生きているもうひとりの南方によって胎児形腫瘍も摘出されます。 それはあまりにも、あっけなく。 南方の脳腫瘍など、現代医療では軽い病気だったのです。
その摘出の瞬間。
傷だらけのほうの南方は、夢を見ます。
「ほいたらのう、先生…」
南方と談笑していた龍馬は、いきなり海に向かって一直線に歩き始める。
極めて上機嫌な南方は、笑いながら 「龍馬さん、どこへ行くんですか?」 と尋ねます。
これは、南方が龍馬から受け継いだ 「笑い」 という精神を、ことさら龍馬に感謝するための笑い、だったような気がします。
ずんずん腰まで海水につかってしまった龍馬は、振り返ります。
「先生はいつか、わしらのことを忘れるぜよ!
…けんど…悲しまんでえい。
わしらはずうっと、先生と共におるぜよ!
…見えんでも…
…聞こえんでも…
…おるぜよ。
いつの日にも、先生と共に!」
龍馬は、ピストルを打つまねをします。
心臓を押さえる南方。
龍馬は、満面の笑みで、再び海のほうへ振り返り、また前へと進んでいく。
「龍馬さん!
どこへ行くんですか!
ちょっと龍馬さんっ!」
なんか、泣けてきます。
「いつかは自分は忘れ去られてしまうかもしれないが、そっちがいくら忘れていても、自分の志は、いつもお前たちと一緒にある」。
これは言わば、龍馬という偶像を追い続けてきた私たちに対する、当の龍馬自身の心の声を、かなり代弁しているセリフのような気がする。
そして龍馬だけでなく、すべての人々の先祖たちの、声でもある気がする。
お前が今そこにいるのは、自分たちが命を受け継いできたからだ。
それをお前がすっかり忘れていても、その肉体がある限り、それが確かな証拠なのだ。
大事に生きろ。
お前が生きていくことで、自分たちもともに生き続けていけるんだ。
乗り越えていけ。
そして南方のここでの狼狽は、まるで親たちから追い出される巣のなかのヒナのような、蜜月時代との決別を意味している気がします。
私はこのドラマを見終わって、不思議と 「もっと見たかった」 という未練がなく、「ここまででじゅうぶん」 という気持ちが強いことを感じているのですが、それはこのドラマ全体から、「ここまではお膳立てをした。あとは自分たちの力で飛び立っていけ」、という作り手の強い意志を感じ取ったからにほかなりません。
脳の腫瘍摘出手術を終えた南方は、ホスミシンと前回自分が現代から持ち出した医療器具を盗み出し、ホルマリン漬けになった龍馬の意志(胎児型奇形腫)を持ち出して、またあの入り口から過去に戻ろうとします。 すべては咲を助けるため、です。
しかしそれに現代のほうの南方(表現が難しーなー…笑)が気付いてしまい、戻ろうとした自分ではなく、現代にもともといたほうの南方が、またもや過去に送られてしまう。
こうなると、もう無限のループが同じことを繰り返す、という、手塚治虫氏の 「火の鳥」 異形編のような展開になってしまいます。
絶望に打ちひしがれる南方。
しかし。
気がつくと、どうも南方がかつていたような現代とは、ちょっと違う現代になっています。
病院内には 「東洋内科」 というセクションがあり、医療費はなんと全額免除になっている。 未来(みき)がいた病室も、別の人が入っている。
何より胎児型奇形腫なんてものは初めから存在しなくなっているし、南方も着物ではなく普通の格好で公園に倒れていた、というのです。
つまり現代にもともといたほうの南方が誤って過去に送り込まれてしまったときから、歴史の歯車が狂ってしまった、ということになる。
南方は野口(山本耕史サン)に 「こういう小説を書こうと思ってるんだけど」 という話をして、タイムトラベルの理屈を探ろうとします。 野口がメンド臭そうに言うには、パラレルワールドの地層のなかでいったんループ状になってしまったその当事者(南方)が、Aの世界からBの世界へ、Bの世界からCの世界へ、無限に移動し続ける、ということらしい。
頭のなかの胎児は、バニシングツインという、もともとふたつあった受精卵の子供がいつの間にか吸収され、ひとりのほうが消えてしまう、という現象によって説明ができるのではないか、と野口は考えます。 それを頭のなかに抱え込んだまま成長して、それが癌化した、という設定。
龍馬の声が聞こえた、というのは、臓器移植をしたあとに、そのクランケがドナーと同じような性格や好みになるという現象と似たものではないか、と推測します。 つまり南方は龍馬の血を都合二度、浴びてしまったせいで、龍馬の性格がまるで入り込んでくるような感覚に陥ったのではないか、ということです。
先にも述べたように、これは実に単純明快に謎解きのシーンなのですが、ここでの野口の推理は、単なる推理の域を出ていません。
パラレルワールドの理屈は結局、南方を無力感に追いやることになる。
もし野口の説が真実であれば、自分はこの6年間、「この世界」 では何もしてこなかったことになるからです。
南方は意を決して、あのあと咲がどうなったのか、調べることにします。
すると、医学の歴史書には仁友堂の名前とペニシリンを先駆的に生み出していた業績などが確かに書かれてはいるのですが、そこに南方仁と咲の名が、いくら探しても出てこないのです。
山田や佐分利のその後の姿を見ていっぽうでは喜び、ほっとする南方。
けれども自分がそこにいない、ということは、やはりこの世界において自分は何も残していない。
咲のその後が心配な南方は、自らの記憶をたどって、橘家のあった場所へと急ぐのです。
すると、その場所には、なんと 「橘醫院」 の看板が。
そしてそこに帰ってきたのは、なんと、未来(みき)。
え?
…んなんじゃこりゃあああっ!(またジーパン刑事化してます)
まあネタバレブログなのでいまさら隠す必要はないですが(笑)、未来(みき)はこの世界では、どうやら野風とルロンの子供、安寿の子孫らしい。 野風とルロンはその後亡くなってしまったそうであり、安寿を咲が引き取って育てた、ということだったらしいのです。
要するに咲は、あのあと助かっていた。
それもホスミシンのおかげだったのですが、それは未来(みらい)から南方が持ってきたものではなく、恭太郎が単に拾った薬をたまたま処方したら助かった、というおとぎ話のような話に、すり変わっていました。
咲はその後この地で女医として開業した。
これはつまり、栄があのあと咲を橘の家に再び迎え入れた、ということなんですよね。
彼女は小児科、産婦人科を中心として活動したのですが、医学書に載るほどのことでもなかったらしい。
恭太郎は 「互いが助け合う」 という 「船中九策」 の坂本龍馬の思想に賛同し、健康保険制度の尽力に人生を捧げた。
咲はその後、かなり長生きしたようです。
それでもその話のなかでも、徹底的にその存在が過去から抹消されている南方仁。
未来(みき)は結局、存在することになったけれども、彼女は医師をあきらめ、医学史の教師として予備校で教えている。 これで第1部ラストとの整合が図れたわけですが、南方とのつながりは、きれいさっぱり消えている。
自分の思う人の命が助かることが、その人が天寿を全うできることが、このドラマのゴールである、とすれば、実にこの結末しかあり得ない、という展開です。
咲がかつて語っていた、「この時代の人間が強い意志を持って、未来を変えたいと願ったことだとしたら、それはもはや、修正されるべき歴史ではなく、ただの歴史なのではないでしょうか」、という内容の理屈が、ここでひときわ輝きを増してくる気がする。
その時代の人々によって変えられた歴史は、その時代の人たちのもの、なのです。
ここではパラレルワールドの理屈が、一応否定されている気がします。
咲の言葉を素直に受け止めれば、歴史は常に一本道、引き返すことは…じゃなかった(「篤姫」…笑)一本道である、ということじゃないのかな?
このドラマにおいて、見えないもうひとりの主役が、厳然と絶えず南方に付きまとってきました。
それは、「神」 の存在。
歴史をつかさどる 「修正力」 として、南方はいつも彼に苦しめられてきた。
でも南方がこうして目の当たりにしているのは、「その時代」 に生きてきた人々が、自ら変えようとしてきた、歴史の結果、なのです。
しかしどうしても、嚥下出来ないさびしい思いが見る側にはわだかまる。
作り手はそこに、思いもかけぬプレゼントを用意していました。
咲からの、時空を超えた、150年後の南方への手紙、であります。
それが未来(みき)から南方に手渡されるには、南方の好物だった揚げ出し豆腐が、どうしても言質として必要でした。
別れ際に、いきなり 「揚げ出し豆腐はお好きですか?」 と南方に尋ねてくる未来。
「はぁ?」 という感じですが、これがラストの扉を開くカギとなったのです。
南方がその人だ、という確信をそれで得た未来(みき)。
南方に、古ぼけた一通の書状を手渡します。
「○○先生へ
先生、お元気でいらっしゃいますでしょうか。
可笑しな書き出しでございますこと、深くお詫び申し上げます。
実は感染症から一命をとりとめたあと、どうしても先生の名が思い出せず、(仁友堂のほかの)先生方に確かめたところ、仁友堂にはそのような先生などおいでにならず、『ここは、わたくしたちが興した治療所だ』 と言われました。
何かがおかしい…。
そう思いながらも、わたくしもまた、次第にそのように思うようになりました。
『夢でも見ていたのであろう』、と…。
なれど、ある日のこと、見たこともない、奇妙な銅の丸い板を見つけたのでございます(象山から南方が託されたお守り袋に入った10円硬貨)。
その板を見ているうちに、わたくしはおぼろげに、思い出しました…。
ここには、『先生』 と呼ばれたお方がいたことを。
そのお方は、揚げ出し豆腐がお好きであったこと。
涙脆いお方であったこと。
神のごとき手を持ち、なれど、けっして神などではなく、迷い傷つき、お心を砕かれ、ひたすら懸命に治療に当たられる、
…『仁』 をお持ちの、人であったこと。
わたくしはそのお方に、この世で、いちばん美しい夕陽をいただきましたこと、思い出しました。
もう名も、お顔も、思い出せぬそのお方に、
…恋をしておりましたことを。
なれど、きっとこのままでは、わたくしは、いつかすべてを忘れてしまう。
この涙のわけまで失ってしまう。
なぜか耳に残っている、『修正力』 という言葉。
わたくしは、この思い出を亡きものにされてしまう気がいたしました。
ならば、と、筆を執った次第にございます。
わたくしがこの出来事にあらがうすべはひとつ。
この 『思い』 を記すことでございます。
○○先生…。
あらためて、ここに書き留めさせていただきます。
橘咲は、
先生を、お慕い申しておりました
橘咲」
…。
言わずもがなですが、ここは泣く場面であります(笑)。
その昔には、「愛している」 という言葉がなかった、ということを、どこかで読んだ気がする。
人々は相手が恋愛対象として好きだ、といった場合、「お慕いしている」「御大切に思う」 という言葉を使っていた、と。
この言葉は咲にとって、全身全霊を賭けた、「思い」 の告白なのです。
現代人の特徴としていみじくも咲から指摘された 「男のクセに涙脆い」 南方は(笑)涙にくれながら、咲の手紙に向かって、まるで咲がそこにいるかのような表情のまま、こう答えるのです。
「私もですよ、…咲さん…。
私も…
お慕い申しておりました…」
もどかしくも、あまりにも切ない、時空を超えたやり取り。
手紙を書き終えた咲は、虚空に向かって微笑みかけます。
その先には、南方が、やはりそれに応えようと、ひたすら笑顔を、作り続けるのです。
この笑顔は、最終回前半で南方が無理に作ろうとした笑顔と、同質のものではあるのですが、そこにはかすかに、「思いが届いた」、という幸せの意味が、含まれている。
南方は、あらためて独白します。
「(この思いをいつまでも忘れまい、と思った。
けれど、オレの記憶もまた、すべて、時の狭間に消えていくのかもしれない。
歴史の修正力によって。
…
それでも、オレはもう忘れることはないだろう。
この日の美しさを…。
当たり前のこの世界は、誰もが闘い、もがき苦しみ、命を落とし、勝ち取ってきた、無数の奇跡で編みあげられていることを…。
オレは忘れないだろう。
そして、さらなる光を与えよう。
今度は、オレが未来(みらい)のために…
…この手で)」
ラスト。
未来(みき)が、南方の病院に搬送されてきます。
脳幹部に食い込む厄介な脳腫瘍におかされている未来(みき)。
南方が、その手術の執刀を、自ら名乗り出るのです。
エンドマーク。
「オレが未来(みらい)のために、さらなる光を与えよう」 という南方の独白は、ここで本当のダブルミーニングになっている。
未来(みらい)であり、未来(みき)である。
やられました、最後まで。
ここから始まる物語があることは、容易に想像できるじゃないですか。
最後の南方の独白に、自分のブログの 「JIN」 に関する記事の題名と奇妙なリンクを感じながら、ドラマは終わりました。
総論を冒頭に書いてしまったのでいまさら書き足すことはなにもありませんが、正直なところこの完結編、最初のうちは第1部との表現方法の違いに、戸惑いを覚えることも多かった。
でもあらためてトータルで思い返せば、卒倒するようなプロットの構築による壮大で巨大な城が、そこにはそびえていた。 「JIN」 という 「城」 が。
作りすぎているがゆえに、それが実際に映像になるときには、「神の存在」 の強調し過ぎなど気になる点も生まれなかったわけではありません。
けれども結局抹香臭くなることもかなり回避され、のぼりつめた頂上には、作り手の確かな主張が、生きるうえにおける大きなテーマが、厳然と存在していたのです。
冒頭に書いたように、ここまでのドラマというのは、そんなにめったにお目にかかれるもんじゃない。
アナログ放送で最後まで放送された最後の作品となった今クールのドラマたちですが(まあ私なんかはデジタルで見ていたわけですが)、まさにアナログ放送の最後を飾るにふさわしい作品だった気がします。
今後も優れたドラマというのは出てくると思いますが、このドラマはあえて別格におきたいくらいの作品でした。
このようなパフォーマンスを見ることができたことには、スタッフ出演者のかたがたすべてに、ひたすら感謝、であります(ほかに思いつきませんねぇ…)。
そして最後に、この果てしなく続く記事をお読みくださった方々にも、ひたすら感謝申し上げます。
…肩肘張らず、などと書いておきながら、張りまくりもいいとこだったな(笑)。
当ブログ 「JIN」 についてのほかの記事
第1部
第1回 荒唐無稽との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---1-e9ae.html
第2回 建前との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---2-f3b1.html
第3回 自分の病との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/10/jin---3-3290.html
第4回 女としての闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/---4-542b.html
第5回 梅毒との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---5-9dba.html
第6回 リアルとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---6-25d6.html
第7回 明日のための闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---7-87b0.html
第8回 自分の器との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/11/jin---8-e9a7.html
第9回 心意気どうしの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---9-8cf0.html
第10回 ああもう、どうなっちゃうの?との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---10-670a.html
第11回(最終回)続編あるかどうかとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---7290.html
番外 続編の可能性を、もう一度考えるhttp://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/12/jin---a138.html
完結編
第1回 いますべきこととの闘い!① http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-577a.html
第1回 いますべきこととの闘い!② http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-7d0d.html
第1回 いますべきこととの闘い!③ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-c8e9.html
第1回 いますべきこととの闘い!④ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---1-6f3f.html
第2回 自分の願いとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/jin---2-4ed0.html
第3回 人を思う気持ちとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/05/jin---3-ab26.html
第4回 自分の血との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/05/jin---4-5d43.html
第5回 無力感との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/05/jin-5-f4e1.html
第6回 坂本龍馬との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/05/jin---6-619d.html
第7回 永遠に生きるための闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/06/jin---7-16d1.html
第8回 産みの苦しみとの闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/06/jin---8-b4b9.html
第9回 歴史の必然との闘い!http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/06/jin---9-0cc9.html
第10回 闘い続けることの闘い!① http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/06/jin---10-8668.html
第10回 闘い続けることの闘い!② http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/06/jin---10-6c2a.html
第10回 闘い続けることの闘い!③ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/06/jin---10-4d00.html
最近のコメント