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2011年7月

2011年7月31日 (日)

「華和家」「ドン★キ」「陽はまた昇る」 など

 半ば手当たり次第見始めた、夏クールのドラマの数々。 1回または数回レビューを書いたきり放ったままの作品が続出しております。
 それだけちゃんとした感想を書きたい、という衝動に駆られることがないためでありますが、そのうちの何本かは視聴を中止することなく、見続けております。
 でもいったん書いておいてその後を書かないというのはどうもモヤモヤするので、ちょっと簡単な感想を書いてお茶を濁してみます。



「華和家の四姉妹」

 当初勧善懲悪ものなのかと思ったのですが、原作者の柴門ふみサンってそんなタイプの作り手じゃないので、なんかあると思いながら見ていたら、第2回目では長女の吉瀬美智子サンのアイデンティティが崩壊し、そしていきなり第3回目で華和家のお母さん、宮崎美子サンが死んでしまった。
 観月ありさチャンがかなり引っ張って、このドラマをコメディタッチに持っていこうとしているのですが、笑えない状況を笑い飛ばす、という強さを、果たして視聴者側は、持っているのでしょうか。

 見る側は、最初見た印象で(私が勧善懲悪ものなのか、と思ったように)ドラマの方向性を勝手に決めつけ、ドラマがその方向性を鬱に転換すると 「テーマがぶれている」 とか 「観月ありさが痛々しい」 とか、簡単に考えがちです。
 「見ていてどう感じようか迷ってしまう」 という局面に、陥ってしまうからです。

 特に第3回では、遠藤憲一サンの立場が、ちょっとしゃれにならないくらい悲惨すぎる。
 彼は第1回で、結構浮気男チックに描かれていたはずですが、浮気相手に刺されてしまったことで 「そのうちのひとつ」 がばれてしまう。
 そしたら妻の宮崎美子サンから三下り半。
 宮崎サンは突然、パリ旅行に行ってしまうのですが、その旅先で事故に遭遇。
 傷は思ったより浅くて、すぐに帰国します。
 彼は心から反省し、ふたりの誓いの場所へと刺された傷をおしながら 「太陽にほえろ!」 ばりに疾走し続けるのですが、なんともなかったように思われた旅先での傷が突如悪化した妻の死に、間に合わない。

 ここで不自然に思えるのは、遠藤サンがどうして刺された傷口を広げながら妻のもとに行こうとするのか、という点であります。
 彼が数多く行なってきた不貞行為のうちのたったひとつなのに、彼の罪悪感が比肩出来ないほど大きすぎる。
 まるで彼は宮崎サンの容体が急変することを見越しているかのように見えました。
 つまり、お涙頂戴、というように私には見えた。

 新聞とかの告知で母親の死とか書かれていたみたいですけど、その宣伝文句もおかしい。
 宮崎サンの傷はそんなでもないけど、そのうち死にますよ、と言ってるも同然だからです。
 つまり、エンケンサンが無理な疾走をする理由をドラマのなかで説明しきってないから、あらかじめ妻の死を告知してしまおう、という局側の意図を感じてしまうのです。

 こういうことをされると、「方向性がぶれている」 と感じている私のような受け手は、ちょっと引いてしまいます。 どう感じていいのか、分からなくなる。

 ただ私も、このドラマのレビューに関しては全く本質を見極めていないというお叱りを受けてしまいましたので、正確に見ているわけではないかもしれません。 「そうじゃないでしょ」 というお叱りは、甘んじてお受けいたします。



「全開ガール」

 新垣結衣チャンが錦戸亮クンを嫌いになる要因が積み重なっていることは見ていて分かるのですが、可愛くなさに磨きがかかりすぎて、第3回目ではあんまり感情移入できない感じがしてきた。 彼女が打算で動きまくっていることが、だから余計に鼻についてくる。
 そんな結衣チャン、まあそのうち錦戸クンに心を寄せていくんでしょ、どーせ、というスッゲエかわいくない見方をしている自分が嫌になる(笑)。

 このドラマで私が弱いと感じているのは、錦戸クンがそんな、表面上打算ばかりでATフィールド(他人拒絶の自分の殻)全開で(分かった、「ATフィールド全開ガール」 ってことだ!…違うか)可愛くない女の代表みたいな結衣チャンに心を惹かれていく動機がちゃんと描かれていない点。 そのうちにちゃんと動機付けがなされていくんでしょうけど。

 でもこのドラマが冗漫に見えてしまうのって、「本当は気があるのに、冷たい態度をとってしまう」「私とこの人はなんでもありませんっ!」 という構図に対する興味を、私自身が卒業してしまっているからなのかもしれません。 大人がこのドラマについていく吸引力には欠ける気がします(失礼)。



「ブルドクター」

 スイマセン、第3回以降未見です(録画はそのうち見るかも)。



「陽はまた昇る」

 佐藤浩市サン主演ということが最大の売りですが、第2回では早くも話が無理やりだなあ、と感じています。 三浦春馬クンが何度も寮から脱走をするのですが、動機がどうあれレンジャーばりに(笑)こーゆー無理なことをするかな?という感じ。 彼を騙して夜中に呼びつけるカノジョもドン引きですし。 「ためにする」 安易な人格設定って感じがする。
 真矢みきサンが 「だである調」 なのも、宝塚の男役そのままで面白いですけど、スンゴク不自然に見えるし(笑)。 射撃を佐藤サンがわざと外して彼女に花を持たせているのにも気づかないし(笑)。

 ただ個人的にいちばん見る気が削がれたのは、大勢の男どもが風呂場で素っ裸でケツをさらしまくっているところ(爆)。
 男のケツなんか、見たくないです(笑)。



 なんか文句ばかりになってきました。 書いててヤんなってきますね。



「ドン★キホーテ」

 鯖島(外見城田、松田翔太クン)が児童福祉司の仕事をしようとする動機付けに毎回苦慮している印象がありますが、「何も考えずに笑える」 という点ではとてもよくできていると感じます。
 ただ、「何も考えず」 ということに単純にはならない部分もちゃんとある。 第3回ではバーチャルな友人関係に没頭する少年、第4回では扶養能力がないのに娘に固執する父親、簡単に解決できそうもない問題ですが、それを発想の転換で鮮やかに片付けていく、ドラマというもののあり得なさを逆手に取った爽快感が、いつも見終わったときにある。
 よく昔、高倉健サンの映画を観終わった男どもが、映画館から出るとみんな肩で風を切って健サンのマネをしていた、という逸話がありますが、このドラマを見終わったときの自分も、ちょっと松田翔太クンのマネをしているような感じになったりします(爆)。

 このドラマで笑えるのが、松重豊サン。 尺八の音色とともにコワモテを強調する場面では、いつも爆笑してしまいます。
 そして小林聡美サンも、いい味出してます。 なんか鯖島と城田の性格転換に、それとなく気付いているようですよね。



「テンペスト」

 第2回では聞得大王(高岡早紀サン)の術中にはまって完全な傀儡となってしまっている仲間由紀恵サン。 高岡サンのその憎たらしい演技がドラマを完全に引っ張っています。
 ただ第2回の感想は、それだけ。 面白いんですが、ちゃんとしたレビューが書きにくい一例です。 第3回以降はどうなるでしょうか。



 こうして一瞥して見ると、今年の夏ドラマって結構よくできているものが多い気がします。
 ただ記事にしたい!という気のあまり起こらないものも多い。
 ドラマに対する愛が薄れてしまったのかな?と思うこともあるのですが、まあ 「JIN」 で生気を抜かれてしまった面もございますので…(笑)。
 こんないい加減な筆者ですが、今後ともよろしくお願い申し上げる次第でございます(丁寧すぎる…)。

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2011年7月30日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第28回 わめくことより効果的

 どうも設定が変わってから書式がおかしい。 ブログの記事やコメントが書きにくくって仕方ありません。 エンターを押すたびに入力設定が変わってしまう。 改行してスペースを押すとカーソルが上に行っちゃうし。 改行が変にずれてて、インク漏れしたみたいな見てくれになってるし。 ちゃんとまともに届いておりますでしょうか?

 私が今回の大河ドラマを見る方法として採用している 「江」 の再放送。
 先週は地震のために途中中断し、それを今週のレギュラー時間帯でやる、はずが今度は新潟・福島の大豪雨で延長。 その後に始まる予定の第28回分も、どんどん伸びていく。 こと再放送に限って申し上げれば、自然災害にうっちゃられっぱなしの、吹けば飛ぶような将棋の駒みたいな軽い扱いとなっております(災害報道のほうがよほど重要ですが)(あらためて被災地のかたには、お見舞いを申し上げます)(なんか今年は、こんな映像ばかりの気がする)。

 いずれにせよそんな状況のためか、ちょっと平常心で書くことがあたわず、先週分のレビューも感情に任せたままの過激なものになってしまったこと、あらためてお詫び申し上げます。 ちょっと書きなおしたのですが余計に過激になってしまった気がする(ハハ…)。
 今週もちゃんとしたレビューが書けるかどうか甚だ心もとないですが、とりあえず書き進めたく存じます。

 で、その心もとない今回の評価から参りますが(笑)、前回のていたらくからちょっとは持ち直した気がいたしました。
 こういうのがあるからスッパリ視聴を中断できないんだよなあ。 なんかヒョウタンから駒みたいな淡い期待をしている。
 ところどころはやはりダメだよなあ、という出来でしたが、先週みたいに見ていて腹の立つことがありませんでした(でもやっぱり乳母の相変わらずの失言プラス 「とんだ無礼をば…」 にはムカっとしたかな…笑)。

 今週の出来を左右していたのは、秀吉の狂気の様と、それによって切腹させられるに至る秀次役の、北村有起哉サンの演技。
 そして意外なように思われるかもしれませんが、話を結果的に引き締めたのが、江を演じる上野樹里チャンの、これまでにない押さえた怒りの演技だった気がするのです。

 今回の話の中心は、秀次の切腹。
 彼は拾が生まれたあとの秀吉の変節を敏感に感じ取り、関白の仕事を平常心で行なうことができない。 鷹狩りをして大猟だったので昼間っから酒を飲んで酔っ払い、というエピソードは実にこのドラマらしい安易さなのですが、私が注目したのは、この秀次が徳川氏に取り入ろうと画策しようとしていたくだり。
 家康は秀次との接見後、秀忠に向かって 「もし何かあったら秀吉側につくように」 とくぎを刺している。
 そんなことがあったために秀忠は、秀次の 「泊ってけよ」 攻撃に動じることがない(笑)。
 ここで注目だったのが、そんな秀次の、「押しの弱さ」、なのです。
 短歌や書物を愛し、そんなパワーゲームに秀でていない、秀次の特徴をとても簡潔にではあるけれど、描写している。
 政治の舞台で生きる者にとって、「押しの弱さ」 はなんとも致命的です。
 菅サンくらいの鉄面皮がないとやっとれん、つーか(笑)。

 そして秀次は、そんな耽美な世界に生きようとするから、秀吉の蟄居プラス切腹命令に、いとも簡単にしたがってしまう。
 彼は江との最後の接見の際、「わしはいてもよい場所に行きたいのじゃ。 わしがいても許される場所、秀勝のおるところじゃ」 と江に語ります。
 江や完のことを秀勝と語り合いたい、というのはいかにもお涙頂戴ですが、秀勝が 「自分がいてもいい場所」 を求めていた、というのは、一定の説得力を有しています。

 切腹の日、秀次は空を見上げて、「美しいのう…」 とつぶやく。
 芸術を愛する者の、これから自分の思い通りの世界で暮らしていける、という安堵の笑みは、ひとかどの重みを伴っているように感じるのです。
 北村有起哉サンの今回のしわがれ声による演技は、顔の作りとかが全く似てないのに、亡きお父様の北村和夫サンの魂が、まるで息子の役者の魂と共鳴しているように感じられてなりませんでした。 これぞ大河の魅力であります。

 まあそれにしても、話はさかのぼりますが、そこに至るつまり江が幽閉中の秀次に会うまでの筋は、相変わらずのあり得なさ。
 江は利休に続いて秀次をも自分の思い通りに殺そうとする石田三成に対して大きな不信感を抱き(このくだりは説得力がありましたが)三成との押し問答の末、三成の脇差を奪って自分の喉元にあて、「秀次殿に会わせよ」 と迫る。
 ちょっとちょっと、完がいるでしょ~。
 娘のことほっぽってもいーのか?(笑) そんな簡単に死ぬ覚悟をひけらかしていいのか?(笑)
 …てな感じでしたが、まあいつものことなので…(笑)。

 ただ、このときの三成とのやり取りもそうだったんですが、今回の江は、怒りを表現するとき泣いたりわめいたりしないんですよ(秀次には泣いてすがってましたけど)。

 そして江が泣いたりわめいたりしないことで、話全体がヤケに引き締まって見えるのです。

 秀吉は齢を重ねることで、去年の徳川慶喜サンに引き続いて眉毛を剃って?おりますが(笑)、そのことで狂気に拍車がかかっている演出がなされている。
 その秀吉、秀次及び一族郎党皆殺しの残虐行為を行なったあとで、江がいつものように抗議に来てみると、完璧に狂っちゃってる。
 前半のオチャラケバカ殿ぶりはどこへやら、であります。
 それがまた、ドラマをギュッと引き締めている。
 前半があまりにバカだったから(爆)余計に効果的。
 ああ、岸谷サン、あなたの意図がようやく分かりました。

 そしてその秀吉に対して江は三下り半(イヤ、結婚してませんけど…笑)を突きつけるのですが、「じゃあ秀吉の庇護を離れてどーすんの?」 という前後の見境考えてないことは置いといて(笑)、このときの樹里チャンの演技が、もうすべて呆れ果てた、その果ての演技に終始しているのです。
 泣いたりわめいたりするより、よっぽど効果的だ。
 まあ江も、娘もできて大人になったんでしょうが、同じ 「若さの爆発」 という怒りの表現でも、これまでの江の怒りかたには、なんか一工夫があってもよかった気がしてくるのです。

 そんな凄味の増してきた江を一瞥することもなく、秀吉の狂気は突っ走ります。
 「江、秀忠に嫁げ。 もう決めておる」。
 目が尋常じゃない、目が(笑)。

 折しも完が自分を見て 「お父上?」 とあどけなくしゃべるのを聞いてちょっとしたショックを受けていたようにも思える秀忠。 ここらへんの秀忠の心の動きも、なんか押しつけがましくなくて良かったと思います。 江はそんな秀忠に、嫁ぐことになる。

 一部分を見て批判をするのは、誰でもできます。
 でもちゃんと全部見ないときちんとした批判はできない、そんな気もこのドラマを見ているとしてくる。 それだけ、出来不出来にばらつきのある、今年の大河ドラマなのであります。

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2011年7月27日 (水)

「胡桃の部屋」 第1回 置き忘れてきた価値観

 向田邦子サンの小説の、3回目のドラマ化、「胡桃の部屋」。

 向田サンに関しては私、まったくのドシロート。
 ドラマも全く見たことがないし、小説もちっとも読んだことがない。 エッセイはいくつか読んだ覚えがありますが、すでに記憶の彼方(笑)。 「寺内貫太郎一家」 もほんのチョイ見程度で。 ホームドラマというものに、中学生あたりの自分はあんまり興味がなかったのが原因です。

 それでも航空機事故で亡くなったことは当時とても衝撃的で、その追悼記事などを読むうちに、独特の存在感が自分のなかに残っていたものでした。
 あれからもう、30年。
 生きていらっしゃったら、80になります。
 お母様が100歳まで生きたということなので(ウィキによる)、おそらくあの事故がなければまだご存命だったかもしれません。

 過去に2回ドラマ化されたこの小説、1度目はいしだあゆみサン、そして2度目は竹下景子サンが、今回の主人公、三田村桃子を演じたらしい。
 その竹下景子サン、今回はその桃子(竹下サンで桃子、っていうと、見たことないですけどソープ嬢モモコを思い出してしまう…笑)の母親役。 そして桃子を、「ゲゲゲの女房」 で竹下サンと嫁姑の関係だった、松下奈緒サンが演じます。
 桃子の妹には 「鈴木先生」 で麻美チャンをやっていた臼田あさ美チャン、弟に 「仮面ライダーキバ」 の瀬戸康史クン、姉に井川遥サン(なんかもっとぷっくりしてた気がするんですが)。
 桃子の失踪してしまう父親に、蟹江敬三サン。 今回ものすごい存在感です。

 最初のうちは、「向田サンの30年前の作品が、現代でも視聴に耐えうるものなのか」、という興味で見ておりました。
 ドラマの時代的な設定は30年前そのもので、家庭の崩壊とかいろんなことが叫ばれていたけど、まだまだ古い価値観が根強く残っているような時代。 ジョン・レノンが殺された、とかやってましたから、1980年の年末が舞台であります(クリスマスセールとか商店街でやってた)。

 ただ時代設定は1980年でありますが、ところどころに小道具の甘さが散見されるような気もいたしました。 今書いたクリスマスセールののぼりが結構現代風だったり、通り過ぎていく電車がなんとなく今っぽかったり(鉄ちゃんではないけど気になった)。 ファッションとかにはとても気を遣っている感じで、全体的にはまあ許せるレベルではありますが(高飛車だなあ)。

 物語は前述の通りいきなり蟹江サンが失踪してしまうのですが、それが会社から突然の解雇通告を受けたから(今風に言えば、リストラであります)。
 リストラなんて言葉は当時なくて、要するにクビ、ということですが、当時は終身雇用制がほぼ確立していた時代。 リストラが当たり前に行なわれる現代と違って、そのショックはかなりのものがあるに違いありません。 蟹江サンが受けた屈辱は大きく、家にいたたまれなくなって、おでん屋の女(西田尚美サン)のところに転がり込む。 どうも感じから言って、浮気、というのとは違う感覚がします。

 会社で蟹江サンの部下だった男(原田泰三サン)に消息を訊く中で、松下奈緒サンは厳格だった父親がおでん屋のヒモになっている事実を突き止めていくのですが、父の失踪で動揺する家族、父が失踪先で 「肩揉んで~」 とかあらたに受けている屈辱、「オトコにはメンツがある、浮気は男の甲斐性、まあそのうちにもとのさやに収まるでしょう」 みたいな態度の原田泰三サン、そのすべてに、いかにも30年前の価値観が存在していて、展開が古臭く思える。

 展開も古臭いのですが、挿入される音楽も古臭い気がする。
 東南アジアの民族音楽みたいな音楽が、まるで効果音のように、四六時中鳴りまくってるんですよ。
 しつこいくらいに鳴っているその音楽。
 けれどもそれが、私にとっては 「昔のドラマ」 を想起させるひとつのエッセンスになっている。
 昔のドラマって、とにかくBGMがうるさい(笑)。
 ハッピーな時はこの音楽、悲しい時はこの音楽。 「俺たちの旅」 なんか見てると、登場人物が驚いたときにも共通の短い音楽がかかる(笑)。 「赤い疑惑」 なんか、同じメロディでハッピー編と悲痛編がある(笑)。
 同様にこのドラマのなかでも音楽が波状攻撃のように鳴り続けているんですが、その感覚が、最初は 「しつこいなあ」 と思っていたのに、いつの間にか懐かしさに包まれている。

 そして、展開や音楽の使い方が古臭いからこそ、「当時の価値観っていったい何だったんだろう」、という興味が増していくのです。 これはちょっと自分でも、意外な感じがする。

 ドラマとしては、その当時の古臭い価値観が崩壊していく過程を描いているのですが、現代においてまったく崩壊し尽くしてしまったようにも思えるその古い価値観。
 父親が一家の大黒柱で、母親は良妻賢母が求められて、子供はそんな古い親の揺るがない権威に反発しながらも親を尊敬していて、それから、タバコが当たり前のように家のなかで吸われていて。
 「おひさま」 で展開している古い時代よりもなお、時代を感じさせるんですが、実は父も母も娘も息子も、家庭のなかでひとつの役割を演じていることに、かなり懐疑的になっている、本当の自分との間に乖離をかなり感じている、そんなことを強く感じるのです。
 そして自分が生きてきた過去の価値観を、自分自身が忘れていることに、気付かされるのです。

 松下奈緒サンは父親がおでん屋の女に世話になっていることを、話が深刻にならないようにと明るくさらっと家族のみんなにばらしてしまうのですが、そこから竹下景子サン演じる母親が取る行動が、いかにも予測不能。
 これまで通ってきた道なのに、昔の人たちの行動パターンなど読めているはずなのに、それが読めない。

 彼女はショックをまったく表に出さないまま①松下サンに父親の着替えを持たせ、②失踪中続けていた神社参りもやめることなく(「あんた(松下サン)がごちゃごちゃ言うからお賽銭をあげすぎちゃった!」 って、おつりをもらいに行くところは笑いました)、③和装できちんとお化粧をしたまま、おでん屋の彼女のアパートを、下から見上げている。
 この母親の行動に、古い価値観と新しい価値観が彼女のなかでドロドロにせめぎ合っている倒錯感を、私は感じるのです。 行動が予測できないぶん、不気味です。

 そして父親の蟹江サン。

 
 酔っぱらってお土産にお寿司を買ってきて、夜中だというのに子供たちを起こして 「どうだうまいだろう」 と食べさせる。 柱に子供たちの背の高さを几帳面に付け続ける。 子供の劣等感を叱る(このドラマでも松下サンは、背の高いことをネタにされています…笑)。

 ほかのところはどうか分かりませんが、自分の父も昔はこんな感じでした。 この点では 「おひさま」 の寺脇康文サンも一緒なのですが、とにかく昔の父親の存在感、というのはハンパなものではなかった。 オレが家族を支えている、という自負がみなぎっていた。
 だからこそクビになったときに、その価値観が全崩壊するのです。
 おでん屋の女の赤いブラジャーの混じった洗濯物を取り込み、その女の赤い飾りのついたサンダルをつっかけてネギとかジャガイモとかニンジンを買いに行く。
 その屈辱感たるや。
 けれども自分が打ちひしがれているから、そんな屈辱感に浸ることで、自分を慰めているのです(複雑なようだけど、そう私は考えます)。
 これらの演技を余すところなく表現し尽くしている蟹江サンには、つくづく脱帽します。
 原田芳雄サンは身罷ったけれども、まだ日本にはこんな役者さんがいる。 そう感じました。

 全6回。 ちょっと古臭さを感じながらも、当時の価値観を追体験する機会だと思って見続けてみます。

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2011年7月26日 (火)

「それでも、生きてゆく」 第3回 箱のなかに閉じ込めた思い

 「加害者の家族が被害者の家族に会いに行って、楽しそうにしゃべっているのは理解不能」 というコメントを当ブログもいただいたこのドラマですが、「どうして満島チャンは瑛太クンにしきりに会いたがるのか、なぜふたりはいっしょに行動したがるのか」、ということをあらためて考えながら見た、「それでも、生きてゆく」 の第3回目。

 やはりそのかたへのコメントに返信したように、ふたりは互いの傷を共有したがっている、と最初は考えたのですが、見終わってからの感想は、「どうしてこんなことになったのか、ふたりは今のところぼんやりとだが、互いに知りたがっている。 そしてそれをひとりで調べるより、同じ傷を共有している者同士で行動し解明したがっている」、ということでした。

 それは普通では、とてもあり得ないことです。
 互いに忌々しい記憶をまた心の底から引きずり出そう、なんて、誰も積極的に考えようとはしないからです。
 それに、やった側とやられた側と、とても分かりあえるとは、思えない。

 それでも。

 ドラマの存在意義として、とてもあり得ないであろうシチュエーションが、実際出来てしまったらどうなるのか?というシュミレーションへの興味、というものがあります。
 「もしもの世界」、を作り手も、見る側も想像したがる。
 この物語には、そんなシュミレーションの妙を堪能する意義と同時に、被害者も加害者も理解しあえる世界、というものへの作り手の大きな期待が込められている気がするのです。

 いずれにしてもドラマを見ていて思うのは、「当事者にしか分からないこともいっぱいあるというのに、そのことを無視して表面上の事実(報道も含め)だけを見て当事者たちへの憎悪を募らせる傍観者たちの愚」、であります。

 被害者家族とか、加害者家族とか、私たちはその家族が一方的に理想的家族であったとか、逆に家庭崩壊していた家族であったとか、極端な方向でとらえたがる。

 でも、どちらの側の家族であっても、家族どうしの愛情はあったり、時にはいがみ合ったりケンカしたりする、ネガティヴな部分とポジティヴな部分を併せ持った存在であったはずなのです。

 そのことを度外視して、報道は演出して報道したがるから、それを受け取る側の感情も、不当に歪められたものになっていく。

 瑛太クンの母親役の大竹しのぶサンが今回、その昔の傷を満島チャンに(彼女が加害者の妹だと知らずに)打ち明けるところは、そんな傍観者たちによってさらに傷つけられてきた被害者家族の心情を、とても的確に表現していたように思うのです。

 その大竹サン、予想通り満島チャン一家を苦しめる密告者でした。 夏祭りで偶然瑛太クンと一緒の満島チャンと出会った大竹サンでしたが、瑛太クンは巧みに、満島チャンが加害者の妹であることを隠しています。

 膝小僧を擦りむいた満島チャンの傷を手当てしながら、大竹サンは殺された娘の亜季チャンが、「座っても膝小僧が隠れない」 短いスカートをとても欲しがっていたことを思い出します。
 それは転んでも膝を擦りむかないための母親の配慮だったのですが、おかげで亜季チャンの膝は、いつもきれいだった、と言います。 膝をさわると、いつもくすぐったがって笑っていた亜季チャン。
 ある日大竹サンは根負けして、娘の願いを聞いてあげることにする。 亜季チャンは大はしゃぎで、買ったその場からその短いスカートをはいて、電車のなかで、何回も立ったり座ったりしていたらしい。 亜季チャンのうれしい様子が、思い浮かぶようです。 満島チャンも談笑しながら、そのときの様子を思い浮かべている感じ。

 そして殺された当日も、亜季チャンはそのスカートをはいていた。

 楽しい思い出を語っていた大竹サンは急によそよそしくなり、「バスまだかしらね?」 と話をはぐらかしながら、亜季チャンが死んだときのことを話し始めるのです。

 「霊安室の、白いシーツ剥がすと、…そこに亜季がいて――、小さい亜季が、短いスカートはいてました…。
 膝小僧さわっても、亜季はもう、くすぐったがったりしませんでした…」

 大竹サンの回想。

 膝小僧が見えている亜季チャンの遺体、膝には無数の傷と打撲の跡がついています。

 その記憶にあらためて打ちのめされたように、その場にうずくまってしまう大竹サン。
 「ダイジョブですか?」 と訊きながら、大竹サンに触れることができない、満島チャン。
 大竹サンはそれまでの落ち着いた話しぶりが一変し、魂が絞り出されるような悲痛な声で、こう呻きます。

 「怖かったの…。

 怖くて、警察にも訊けなかったの…」

 「何をですか?」

 思わず訊いてしまう満島チャン。

 でも、その問いに大竹サンは答えることをしません。
 クラクションを鳴らしてやってくるバス。
 やおら立ち上がり、財布をまさぐる大竹サン。
 
 「どうして短いスカートはかせちゃったんだろう…」

 上の空でつぶやく大竹サン。
 小銭が、バラバラと落ちます。
 満島チャンはそれを拾い集めるのですが、大竹サンは来たバスに、無表情のまま乗っていってしまう。
 まるで急に別世界の住人にでもなったように。

 どうして子供を、ほっぽったまま出てしまったのか。
 被害者家族、とりわけ母親が事件当時、そのことでどれだけ、世間から心ない中傷を受けたか。
 そのことで母親は心を閉ざし、自分のなかに、もうひとつの逃避場所を作ってしまった。
 だからいくら平静に談笑していても、ちょっとしたきっかけで、もうひとりの自分の精神状態が、露わになってしまう。

 「子供の命、守れなかった親は、生きてる資格なんてないの。
 亜季が死んだら、――母さんも死んだの。
 ――母さん…、死んだの」

 と息子の瑛太クンに話していた大竹サン。

 満島チャンは彼女が短いスカートをしきりに気にしていたことから、大竹サンが 「怖くて訊けなかった」 こととは 「亜季チャンが死の際に姦淫されたのかどうかだ」 と推測します。
 満島チャンに強く促され、事件当時のことを調べようとする瑛太クン。
 法律事務所で知り合った同じ被害者家族、藤村五月(倉科カナチャン)から、その手がかりのヒントをもらうのですが、そのカナチャンから 「15年たっても、悲しみは消えないのか?」 と訊かれた瑛太クンは、こう答える。

 「自分、…逃げてたんで。

 でも分かんないすけど、藤村さんみたいにちゃんと向き合えるっていうか、そういうふうにしていれば、消えはしないかもしれないけど、何か、箱のなかに閉じ込めちゃったりはできるんじゃないかなって…思います」

 検視報告書という手段を瑛太クンは見つけ、警察にも残っていない事件当時の資料を手に入れた瑛太クン、その事実を訊くことを頑強に拒絶しようとする大竹サンに、無理やり読み聞かせます。
 亜季チャンは、即死だった。
 そして姦淫の事実も、なかった。

 「母さんのせいじゃない。

 母さんのせいじゃないんだよ」

 初め逆光で表情がよく分からない大竹サン。
 涙があごを伝って落ちたのがキラリと光ったのが見えたときに、はじめて彼女が泣いていることが分かる、そんな撮りかたをしています。 この見せかたにはうなります。

 その涙は、大竹サンがそれまで箱のなかに閉じ込めていた思いが、優しく溶けていく瞬間のような気がしました。 泣けた。 逃避場所に隠していたもうひとりの、悲しく泣き叫んでいる自分。 その自分との、和解です。

 「お母さんのために調べてくれたの?」

 「…うん…」

 「(ありがとう)」

 声にならない声。 言ったかどうかも分からないかすかな声で、大竹サンはいったんこう言い、「ありがとう洋貴(瑛太クン)」 とあらためて言い直す。
 頑強に事実を拒絶していた過激な感情から、こんな静かな演技への劇的な変化。
 大竹サンの演技は、まるで舞台のそれのよう。
 そして 「もしも」 を演出するシュミレーションの妙、を大竹サンの演技から強く感じることができるのです。

 「…ごめん…」

 瑛太クンも、母親の箱のなかに閉じ込めた思いを見たせいなのか、自分自身の、箱に閉じ込めた思いを、吐露せずにはいられません。

 「おれが。

 オレが、…亜季を置いていったから…。

 亜季は死んで、
 亜季は死んで、

 ごめんなさい…。
 ごめん…」

 水道から蛇口をひねり、顔を無心に洗う瑛太クン。

 「ごめんなさい…!
 ごめんなさい…!」

 彼が箱のなかに閉じ込めた思いは、亜季に対して済まなかった、という思いと、悲しむ母親に対する、心からの謝罪だったのです。
 う~ん、ダメだなあ、泣ける。

 「違うよ洋貴。
 洋貴のせいじゃないよ。
 お母さん洋貴のせいだなんて思ってないよ」

 「謝っても、――
 謝っても、謝れない…」

 「そうじゃないよ。

 亜季はちゃんと分かってる。

 亜季にはちゃんと届いてる。

 お兄ちゃんでしょ。

 お兄ちゃんが泣いてたら、亜季が笑うよ…」

 大竹サンは満島チャン一家への復讐を、やめることにしたのです。

 このシーンに続いて、庭に水をやる、大竹サンのシーン。
 ここも泣けた。
 亜季チャンが 「あのね、お母さん。 ゴリラって、みんなB型なんだよ」 とか、仕入れたばかりの知識を、次々に母親の大竹サンに語っているシーン。 可愛いんだよ、この亜季チャン。 それだけで泣けてくる。

 ところがそれはいつしか大竹サンの回想を離れて、亜季チャンはこんなことをしゃべり出す。 娘の姿を思い出しながら微笑んでいた大竹サンの顔は、にわかにこわばっていく。

 「あのね、お母さん。
 じゃあなんで、亜季は殺されたの?」

 ぎょっとしました。

 「お母さんのせいじゃないでしょ。
 お兄ちゃんのせいじゃないでしょ。
 お父さんのせいじゃないでしょ。

 …じゃあなんで、亜季は殺されたの?」

 自分が閉じ込めていた感情の解決は見た。
 けれどもそれと同時に、「どうしてこうなったのか?」 という感情が、芽生え始める。
 まるで被害者家族の苦しみには、終わりがないのだ、というように。
 大竹サンの心には、どうして娘がこうなったのかを知るために、加害者や加害者家族のことをちゃんと知ろうという気持ちが台頭している。 おそらく息子の恋人だとばかり思っていた満島チャンが加害者家族であることも、大竹サンはこの先知ることになるはずです。

 そしてもうひとり。
 名前も変えて家族からも離れ農場で働いている事件の犯人、風間俊介クンのもとに、彼の過去の名前を知っている女性(安藤サクラサン)が働きにやってくる。
 彼女、風間クンを最初に見かけたとき、ねめ殺してやろうか、みたいな顔をしていた。
 彼に気があるボインボインの(笑)サトエリチャンはどうも初めからそのことに気付いたふうでしたが。

 先が、気になります。

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2011年7月24日 (日)

アナログ放送終了を看取りました

 地上アナログ放送が、国が定めた大上段の予定通り先ほど、終了いたしました。

 その58年にわたる歴史のいちばん最後に見ようと思ったのは、保守的要因もありますけどやはりNHK。 「そのとき、みんなテレビを見ていた」 というアナログ終了告知番組です。

 とても厳密に言いますと、番組としては、その第1部終了のあとに流された、「気象情報」。

 もっと厳密に言いますと、午前11時59分から1分間流された、「おはよう日本」 の鈴木奈穂子アナが 「長いあいだご覧下さりましてありがとうございました」 と 単独で語りかける告知。 人間で(笑)NHKのいちばん最後に登場したのは、鈴木奈穂子アナウンサーだったのでした。

 お辞儀をする鈴木アナが映し出されて12時を回るころ、どーもくん(テレビ型の風貌でギザギザのキバが印象的な茶色いぬいぐるみです)が出てきて 「長いあいだご覧いただきましてありがとうございました」(文面はうろ覚え)との文字が添えられ、その画像がものの5秒くらい出たと思ったら、ブルーバックの画面にアナログ終了のおしらせと地デジのお問い合わせ先の告知画面に。 この画面も24時を回った時点でなくなるそうであります。
 つまりNHKアナログ放送の最後に登場したのは、どーもくん、ということになります(笑)。
 この1分間番組の視聴率、ある意味で楽しみ(んー、この短い告知が1番組としてカウントされるのかどうか…)。

 また厳密に言い換えますと、東北地方の一部地域ではまだアナログ放送も継続中、というわけですが、とりあえずこれで、自分が長い間見てきたアナログ放送というものは、自宅では見ることができなくなったわけであります。
 個人的にはHDDのW録画、というのも、このアナログ放送に頼っていたために、今後はW録画できなくなりました。 新しい録画機材を買ったほうがいいかも。

 いずれにしましても、地デジに変わったところでやってる番組は一緒なわけで、過度な期待をすると幻滅するのですが(笑)、しかし暴動、結局起こりませんでしたね、期待してたんだけど(ウソです)。

 イヤ、文句は腐るほど目にしましたよ。 国の横暴ですからね。
 でも日本人が、暴動を起こすなんてのは、まーずあり得ない、ということが今回すごくよく分かりました(笑)。 出でよ平成の大塩平八郎(あおってどうする)。

 実際の話、特に首都圏ではUHFアンテナ、というものの需要がなかったわけで、それを取り付けることのコストを考えると、地デジチューナー5000円程度、という出費でだけではなかったのですが、結局みんなしぶしぶ従ってしまいましたね。 うちはマンションなので、共同アンテナでUHFを使うとなると許容量を超えてしまうとかで、管理組合でものすごい額の出費を余儀なくされましたよ。 それが管理費にダイレクトに跳ね返ってくる。 たまったもんじゃありません。

 日本で暴動が起こる基準って何なのかな~、と考えている今日この頃であります(笑)。 原発関連の補償を国民負担にするくらいじゃ、暴動なんか起きっこないのかな(笑)。

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2011年7月23日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第27回 修復不能…

 江に物語がシフトすることによって、その当の主人公を今まで真面目に描いてこなかったツケが一気に噴出してきた感のある 「姫たちの戦国」。
 しかも物語は秀頼の誕生によって登場人物どうしの複雑な感情のぶつかり合いが必要になってくる段階なのですが、やはりこれも、これまでの物語全体を覆ってきた思想の薄っぺらさ、人物相関の安易さが露呈して、今回の話を見る限り、もはやどうあっても、この脚本家にこれ以上の物語を紡ぎ出すキャパシティなど残っていないのでは、と思われるほどのていたらくでした(スゲェな、ここまで書くか)。

 しかも毎週土曜の昼下がりの本日再放送では、開始34分で物語のいちばんクライマックスと思える場面で、あの 「緊急地震速報」 の忌まわしいまでの警告音が画面に響き渡り、上野樹里チャンと秀勝との間の子供、完(さだ)の目の前を警告画面が占領。 そのまま物語はニュース速報へとなだれ込み、岩手県に震度5強、という重要ニュースが15分くらい続いてさあ再開か、と思いきや、別の番組に。
 いかにNHKがこのドラマを重要視していないかがよく分かるのですが(笑)、「『江』 は後日あらためて放送したます」 とのテロップが。
 我慢できないので、オヤジのHDDからDVDダビングをして根性で最後まで見ました(そこまでして見る価値あるのか?…笑)(イヤ、ずーっと失望させる出来だったのを、クライマックスで逆転するかどうかが見たかったんですよ)(それで最後まで見た感想が、冒頭の文章であります)。

 まず今回の話の中心に脚本家が見据えたのが、「江が秀勝の死をどのように乗り越えていくのか」、という主題。 このテーマには異論はございませんが、江にそのショックを演じさせるために脚本家が選んだのが、「江が生まれたばかりの赤ん坊を抱くことを拒絶する」、という展開。
 つまり 「秀勝さまと一緒にこの子を抱きたかった」、という江の痛々しいまでの心情をそれで表現させようとしているのですが、見る側は江に毫も(ごうも、少しも、の意)(ちょっと外したかこのギャグ)感情移入してないために、「秀勝との愛の結晶を抱くことができないなんて、なんという女なんだ」 という感想しか導き出せない。
 しかも例の乳母が自分勝手にオイオイ泣き暮れる江に同情して、また大げさに泣きやがる(笑)。 ますます印象が悪くなっていきます。

 見舞いに来た初もそんな江を諌めるのですが見事に跳ね返され、京極竜子に助け船を求める。 ここでの竜子の反応が、また人をおちゃらかしたような心ないものであり。
 彼女のアドバイスの内容はつまり 「最愛の夫が死んだって新しい恋人に優しくされりゃすぐに忘れますわ、オホホホホ」 という、…まあ完全にウケを狙ってのものなんでしょうが、夫を亡くしたばかりの新妻にかける言葉にしては配慮がなさすぎる。 そのウケ狙いの言葉を聞いて初もズッコケるし。 こっちもズッコケましたよ(久々にズッコケさせてもらえたけど、後味非常に悪し)(いくら悲しみを紛らわすために笑わそうとしたのかもしれなくても、人が死んだのに、「時がたてば忘れますよ」 じゃないだろう)。

 今回の 「江」 はおよそこの2名の 「自分勝手女」 のために、これまでの話のなかでも最悪とも思える忌々しさに見る側を包みながら、物語が進行していきます。

 そしてこの、細川ガラシャの励ましにも浮かぬ顔で 「秀勝さまと話したり笑ったりしたいの」「私の気持ちなんか分かるわけないでしょ」  とのたまい続け、その秀勝との子供を一顧だにしないこの 「自分の子供が抱けぬ」 馬鹿女(とても失礼な書き方ですが、そう書かざるを得ません)に茶々がアドバイスをすることで、ようやく馬鹿女は立ち直るきっかけを見い出す。

 茶々は鶴松が死んだときもほかの者の励ましなんかまるで耳に入らなかった、と言い、強引な論理で江をねじ伏せる。

 「江、希望を持つのじゃ。

 なくても持つのじゃ。

 難しいことをせよと申しておる。

 されど、そこからしか、生き直すことはできぬ」

 江の娘、お完も希望なのだ、と江に迫る茶々。
 「この子は、希望ゆえな」 と話していた時任三郎サンの姿が、茶々に重なります。
 まさか 「希望」 というキーワードで、この物語は完結に突っ走っていくのではないか、という大きな危惧を、このとき私は感じました。

 これで江の頑なだった心は溶解し、自分の子をようやく抱く。
 みんなからさんざんアドバイスを受けてそういう流れにいく江を、私はとても甘ちゃんだと感じます。
 自分が慰めてほしくて、拗ねて見せているようにしか、見えないんですよ。
 このドラマがこれで培ってきたうすっぺらな思想が、ここに結実している気すらする。

 このあと茶々に拾(秀頼)が誕生するのですが、秀吉は拾を見て、秀次を追い落とそうという発想を得る。 折しも降り出した雨を見ながら 「嵐の予感がする」 とのたまう江。 それは秀吉の秀次への仕打ち、という嵐なのは火を見るより明らかで、こういう程度の低い比喩をするな!と言いたくなってくる。
 このところの物語の立ち直りは、利休と秀吉の存在感によるものだけの原因だったのか。

 最後は怒りが爆発してしまいましたが、ちょっとここ数回話がよくなりかけたのに、やっぱりこうなるしかないんだろうな、という気がとてもする。 脚本家も所詮この程度の技量だったか、という気がとてもする。

 それを助長しているのが、今回ドラマにおける秀忠の動向。
 彼はいけ好かないという印象しか持っていない江が、夫と死に別れたとか聞いて、しきりに江のことを心配している。 しかもその心配の仕方は、ニヒリズムが入り混じったナルシストタイプのソレ。 次回はその秀忠と、江が結びつけられるらしい。

 どうしてこんな安っぽい恋愛ゲームでしか、ドラマを進行させられないのでしょうか。
 まことに失礼な物言いの連続で申し訳ないのですが、ちょっと腹に据えかねすぎました、今回の出来は。 さんざん苦労して最後まで見たので、いつもよりボルテージが上がってしまったことはご了承ください。

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2011年7月19日 (火)

原田芳雄サン死去…

 このブログのほとんど常連とも思える役者さん、原田芳雄サンが亡くなったそうであります。
 最後に原田サンの姿を見たのは、やはり先だっての、車いすでの舞台あいさつ。
 ずいぶんやせたな…とは思いましたが、あれが最後のあいさつになってしまうとは、ちょっと考えておりませんでした。
 数年前に病気を患ったときも、ちゃんと回復していましたし、そもそも役柄上ですけど、この人は 「タフな男」 というイメージがとても強い。 病気なんか吹っ飛ばすだろう、と軽く考えていたのです。
 だから余計にショック。

 その昔は先にも書いたようにタフな役が多くて、なんかちょっと近寄りがたい人、という感じだったのですが、そのイメージが180度転換したのが、「タモリ倶楽部」 での鉄ちゃんぶりでした。
 鉄道のテーマのときに時々やってきて、酔っぱらいながら鉄道のことについてひとしきり熱く語る。 しかもオヤジギャグ連発(笑)。 この人酔っぱらうと、とても面白くなるんですよ。
 まるでヤーサンが優しいという意外な一面を見せたときに子供がなついてしまうような(たとえは悪いですが…笑)感覚で、一気に原田サンのファンになってしまったのでした。

 その 「タモリ倶楽部」 にご出演していた最後だったのが、おととし(2009年)の6月、映画出演の条件として超高級寝台特急カシオペアに乗ったときのことを語る番組でした。 そのときの当ブログ記事はこちら→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/06/post-a77f.html

 はしゃぎまくって寝台特急なのにもかかわらずずっと酒を飲みながら起きて旅を堪能していた、とうれしそうに語っていた原田サン。 もうタモリサンとの絡みが見られないのかと思うと、すごく、すごくさびしい。 「タモリ倶楽部」 の電車クラブゴールド会員の、会員番号2番(1番はタモサン)。 永久欠番になりそうです。

 近年のドラマでも、とても印象的な役が多くて。

 「不毛地帯」 での大門社長役。 壹岐(唐沢寿明サン)に追い落とされ最終回での悪あがきと、「壹岐君、…退陣や…」 とすべてをあきらめたときのあの演技。 視聴率的に悪かったこのドラマの最後を、あまりの名作に昇華させた瞬間のように思えたものです。 そのときの記事はこちら→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/19-7b99.html (昔はこの程度で、長い記事とか書いてたのか…)

 そしてなんといっても、文化庁芸術祭の大賞を受賞したNHK広島局制作の単発ドラマ、「火の魚」。
 その存在感たるや。
 このような役者さんを失うことは、日本にとって大きな損失である、と言わざるを得ません。
 そのときの記事はこちら→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/post-88d1.html

 その演技について当ブログが書いた最後になってしまったのは、「高校生レストラン」。
 病気のため途中降板したことが、とても残念でした。
 そのときの記事はこちら(本編ではなくコメント欄のほうです)→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/05/3-548e.html

 そのほかにも、「新参者」 でゲスト出演された時の演技とか、ホントにこのブログでは、お世話になりました。 71歳。 惜し過ぎます。

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2011年7月18日 (月)

「テンペスト」 第1回 「琉球ドラマ」 というカテゴリー

 「嵐」 を意味するという、「テンペスト」。
 幕末期(19世紀後半)の沖縄(琉球王朝)を舞台にしたドラマで、主演が仲間由紀恵サン。
 NHKBSプレミアムの 「新選組血風録」 に続く時代劇枠の2作目であります(後記 : 2012年4月から、NHK総合で開始)。

 しかしいい加減にこのドラマ枠を 「大河ドラマ」 と称したほうが、こと今年(2011年)に関しては妥当な気がするんですけどね(「江」 のことです)。
 別に大河ドラマは1年間、などという縛りなんかないし(かつて 「炎立つ」「琉球の風」 という変則的放送がありましたからね)、ワンクールごとに区切ってもこっちのほうがはるかに良質なんだから、いいような気がします。

 ドラマの体裁としては、時代劇、と名付けるにはやはり躊躇がある。
 琉球の大昔の風俗は日本、というカテゴリーではけっしてないし、また清の影響下にあると言っても清でもない。 感覚的に言うと、韓国の時代劇にとても近いものを感じるのです。 しかも 「ソドンヨ」 とか新羅系?のドラマ。
 あえて名づけるならば、「琉球時代劇」 とでも申しますか。

 その独特な国際情勢の狭間に存在しているこのドラマ、ドラマ的にもいきなりCGを多用した無国籍な感覚を冒頭から披露して、見る側の気持ちを別世界へと運んでくれます。
 のちに仲間由紀恵サンが演じることになる孫寧温(真鶴)が生まれる瞬間、建物の龍の飾りが動き出すんですよ。
 そしてまるで 「龍馬伝」 のオープニングみたいにとぐろを巻いて龍が大空を泳ぎ出す。
 「この子は王朝に嵐を巻き起こす龍の子じゃ」、というわけですが、このCG、顔見せだけかと思っていたら、第1回ラストにもまた登場する。

 なんかペ・ヨンジュン氏の 「太王四神記」 でも見てるような感覚になります(笑)。

 そんな独特の印象をさらに強くさせるのは、番組冒頭から繰り広げられる、「多様な言語」 であります。
 中国語をはじめとして英語、フランス語、ドイツ語、いろいろ出てくるのですが、ちょっと感覚的ににわかに理解し難いのは、孫寧温のしゃべり言葉をはじめとした王宮に近い人物たちのしゃべり言葉が、現在の日本語にかなり準拠しているのに対し、民衆の間で交わされている言葉が、「ちゅらさん」 に出てくるような現在の沖縄言葉にとても近い印象を受けること。 「ちゅらさん」 のおばァ(平良とみサン)もなにげな~く出てくるし(笑)。
 沖縄弁というのは、かなり年配の人の言葉は今の県内の若者にも理解できない部分があるほど特殊な言語みたいなのですが、おそらくドラマ用に 「言語の棲み分け」 というものをかなり行なった印象を受けるのです。 まあ、実際に琉球の言語ってどうだったのかな、というのは、気になるところです。

 さらにさらにこのドラマ独特なのが、専門用語の多さ。

 科試(こうし)というのは中国の科挙のようなもので、しかも科挙よりもはるかに難関だったらしい、分かりやすく言うと公務員試験のようなもの。
 そして孫寧温が勤めることとなる王宮のブレーンとも呼べる役人たちは、評定所筆者(ひょうじょうしょひっしゃ)という、舌噛みそうな名前(笑)。
 王宮の、まあいわば大奥が、御内原(うーちばら)。 王宮の財政に不審な部分があるとして王様(尚育王、高橋和也サン)から命を受けた寧温が 「自分は宦官(去勢された役人のこと)だから大丈夫」 と入ってくると、かたせ梨乃サン、高岡早紀サン、若村麻由美サン、八千草薫サン、ほか一名(側室の人)(天城純子サン、とおっしゃるらしい)が次々登場して火花を勝手に散らしまくる場面では、笑いました。 ヤケに難しそうなことを取り扱っているはずなのに、こういう日本版 「大奥」 を意識したようなキャスティング、笑いを取ろうとしているような部分が垣間見えるのはうれしい。

 しかしここに出てくる高岡早紀サン、聞得大君(きこえのおおきみ)という、尚育王の姉で王族神、つまり神官のいちばん偉い人かな?よく韓国時代劇で出てきますよね、エラソーな巫女が(笑)、あんな感じの人なんですが、この人がコワイ(笑)。

 この時代、民間祈祷師?であるユタは公に認められていなかったらしいのですが、この聞得大君、王朝を揺るがす寧温の存在を触れまわったユタをしょっ引いてきて惨殺、それが辰年の女であるという情報を手に入れて、辰年の女性を片っ端から捕まえて拷問死させ、寧温が孫家を出奔した兄(孫嗣勇、金子昇サン)と会うところを嗅ぎつけるとその兄を捕まえてまたもや拷問。 聞得大君は王朝に代々伝わっていた馬天ノロの勾玉を持っておらず、その行方を躍起になって探しているのです。

 この聞得大君の悪辣さはまるで韓国時代劇の悪役そのもの。 韓国時代劇の悪役も、どこからそんな情報を仕入れたんだというくらい察しが良くて残虐で、まあ彼らのおかげで話のテンポも速くなっていいのですが(笑)、高岡早紀サンは今回その役を一手に引き受けるのです。

 もともと寧温は、その出来の悪かった義兄嗣勇が出奔してしまったために女であることを隠し宦官として王宮に入ったのですが、そのことは物語を進めていくうえで結構大事な秘密かな、などと自分は考えておりました。
 そしたらその、高岡早紀サンの悪役らしい素早いお働きによって(笑)、早くも第1回ラストで、「私は実は女です!」 ということになってしまった。
 驚きました。
 まさかいきなり秘密がばれてしまうとは(ということをばらしている当ブログではございますが…笑)。

 ウィキによれば原作本は1800ページにも及ぶ大作、なのにこのドラマは10回の放送らしい。 ということはこのドラマ、「大聖堂」 みたいに話が超スピードでブッ飛びまくるのかもしれません。

 だからかもしれませんが、どうも話が盛りだくさんすぎて、ちょっとストーリーを追ってレビューを書こうという気になれない(「JIN」 のとき精魂使い果たしたので…笑)。

 仲間由紀恵サンの男装の演技は、どうも意識して声を低く作りすぎているような感じで、なんとなく不自然な気もするのですが、その演技力は確かです。 どうも同じ役を舞台でもやっていたらしく、ちょっと不自然なのはその名残なのかもしれません。
 しかしラストで自分が女であるところをばらしてサラシを脱いでいく場面では、さすがに事務所の圧力がかかったのか(笑)、それを逆手に取ったのか(笑)、脱いでいく途中からサラシが強く光り輝き始め(おおっ!)龍が仲間サンのセミヌードを見せまいと立ちはだかります(爆)。
 すごいな、仲間サンのハダカは。 光るのか(笑)。

 …失礼いたしました…。

 第1回目では科試をめぐる話が、やはり惹きつけられた気がします。 特に寧温の父親役、奥田瑛二サン。
 期待のかかった第1子が女だったために嗣勇を養子として迎え入れたはいいものの、記憶力がからきしで結局逃げられてしまったために、娘を宦官として送り出さねばならなくなる父親。
 彼女に3歳まで名前を付けず(というより真鶴という名前は寧温が自分で勝手に名乗った)、厳しくしてきたのも実は自分らが王族の証である 「尚」 氏の末裔であったから。
 寧温が科試の最終試験で王宮の政策に真っ向から異を唱える回答を書いたために、父娘ともども投獄され、尚育王の真実を求める姿勢によってその解答用紙は王の目に触れるところとなり、土壇場で寧温は処刑を免れるのですが、父親は時すでに遅く首をはねられてしまう。
 ここらへんのくだりはまさに韓国時代劇そのもの。
 でもこういう展開、というのは、やはり見ていてぐいぐい引き込まれるものです。

 それにしてもこの話を1話でやっつけてしまうなんて、やはりもったいなさすぎる。

 全40話くらいには平気でなりそうな感じ。

 返す返すも、大河でないことが、残念です…(ですから、「江」 の話です…笑)。


「テンペスト」 に関する当ブログ記事

第1回 「琉球ドラマ」 というカテゴリー http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/07/1-18f9.html
第3-4回 孫寧温の方法論 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/08/3-4-c00d.html
第5回 GACKTサンの演技が見られることの喜び? http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/08/5-gackt-707d.html
最終回まで見て 感想さぁ~ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/10/post-ebca.html

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2011年7月17日 (日)

「それでも、生きてゆく」 第2回 本当のあれが、あれだから

 女児殺害犯人である兄(風間俊介クン)をかばって被害者の兄(瑛太クン)のナイフを阻止した加害者の妹、双葉(満島ひかりチャン)。

 彼女はどういうわけか自分のケータイの連絡先を瑛太クンに強引に手渡し、さらに瑛太クンのところにもう一度やってきます。

 いったい彼女にそうさせるものって何なのかな、と考えながら、今回のドラマを見ていました。

 実に浅いレベルで考えれば、満島チャンが瑛太クンのことが好きになっちゃったから、という単純明快な理由が思いつきます。
 おそらくドラマ的な 「つかみ」 としては、加害者家族の女性と被害者家族の青年の恋愛、というのは宣伝文句になり得る。
 となると今後ドラマの行きつく先には、ふたりの複雑かつ悲しい恋愛模様が待ち受けているのでしょうが、そこに行きつくにはこのドラマは、もっと動機を積み重ねなければならない。

 このドラマの登場人物は、「アレがアレして」 だの 「アレだから」 だの 「ああいうの」 だの、単語がすっと出てこない傾向がとても強い気がします。
 それは、彼らが自分たちにもよく分からない、「本当はどうしたいのか」 という 「行きつく先」 を探しあぐねているがゆえなのではないでしょうか。

 満島チャンは、加害者家族の自分たちのことを分かってもらいたい。
 瑛太クンは、被害者家族の自分たちのことを分かってもらいたい。

 彼らがお互いにシンパシーを感じていき、やがて恋愛感情に発展する(であろう)動機は、まずここから始まっている気がするのです。

 たまたまこのふたりが再び出会った時点で発生していた女児失踪事件。 ふたりがいる場所の、ごく近くで発生しています。
 その失踪事件が今回、ふたりを共通の心情へと引き込む。
 被害者も加害者も、その家族にまで、こうした事件は計り知れないほどの影響をこうむるものです。
 象徴的な効果音として、事件現場の上空をとてもうるさく飛び交う、報道ヘリのローターの音が、満島チャンを、精神的外傷を負った昔に引き戻します。

 あれはホントうるさいですよ、報道ヘリコプター。

 以前私の住んでいる地域を流れる多摩川で溺死事故が起きたのですが、何が起きたんだというほどの異様な爆音が上空からしてくる。 スゲーうるさい。 人のメーワク顧みずの報道姿勢であります。
 まあでも、戦闘機の爆撃音よりはナンボかましです。
 米軍基地周辺のかたがたは、ホント大変だな、と思います。
 そういう迷惑っていうのが、その地域じゃない人には、まるで他人事なんですよね。

 話はそれました。

 満島チャンが再び瑛太クンのもとを訪れた動機のひとつが、「お兄ちゃんはそんなことをする人じゃない」「この事件は冤罪かもしれない」 という弁明であったのですが、瑛太クンはそんな満島チャンの憶測に、心の底から憤ります。

 「なに言ってんの?
 アンタ、何言ってんの?!」

 瑛太クンは弟(田中圭クン)から、事件が起きた年のクリスマスに、加害者家族がクリスマスケーキを買っているのを見た、と聴き及んでいたのです。

 「でしょうね?

 やられたほうは忘れられないけど、やったほうは忘れるんですよね?!

 そしたらさ。
 そしたら、アンタも同じ目に遭わせてやろうか?

 亜季と同じ目に遭わせてやろうか?!」

 瑛太クンは満島チャンの首を思いきり締めにかかる。
 激しく咳き込む満島チャン。
 瑛太クンは、自分が何をしているのかに気付く。
 呆然と首から手を離す瑛太クン。

 でも、満島チャンは殺される覚悟を決めています。
 瑛太クンが満島チャンに向けた殺気など、日本中から浴びせられてきたんだ、と、彼女も自分の傷口を隠すことに、ためらいがない。

 「死にたいって思ったことはないけど、生きたいって思ったこともないし。

 妹とかにも言われるんですよ。
 お姉ちゃん自分で人生選んでないねーって。

 でも私、全然そんなことないんです。

 私、選んだんです。

 自分で選んだ結果が、こういう感じなんです。

 後悔なんかしてません。
 こういう人間の、こういう人生なんです」

 兄の起こした殺人事件によって、自分の人生のハシゴまで外された妹。
 「自分で選んだ人生」 と言いながら、彼女にはそれしか選べる道がなかったのです。

 クリスマスケーキにしても、実はケーキ屋さんの厚情でいただいていたものを、父親(時任三郎サン)に言われて返しに行っていたことが判明。
 表面上のことでは分からないことで、みんな勝手な敵意を作りすぎてるのではないか、そんな作り手の声も聞こえる設定であります。
 そしてその勝手な敵意は、ローター音を迷惑承知で鳴らし続ける報道によって、果てしなく増幅し続ける。

 今回時任サンはいみじくも語っていました、「加害者家族の言葉は、何も伝わらない」――。

 そんな加害者家族の心情が伝わった、被害者家族の瑛太クン。

 怨嗟に憑かれた叫び声をあげ、やり場のない怒りを、地面を殴ることによってしか、晴らすことができません。

 その瑛太クン、かねてから起きていた女児失踪事件が、べつだん大したことない解決を見たことを、ニュースで知ります。
 それを受け取っていた番号から満島チャンのケータイに知らせようとするのですが、満島チャンはそのとき、「もしかして兄が犯人ではないのでは」 としていた自分のかすかな願望が打ち砕かれている最中でした。

 事件現場に咲いていた、毒々しいまでに紅い花。

 それは兄が事件当時持っていた、ひなげしの花の種と、同じ花だったのです。

 その事件現場へとやってきた瑛太クン。

 満島チャンから、「実は自分も、兄に殺されかけたことがある」 と衝撃的な事実を打ち明けられます。

 こりゃ冤罪なし確定か?

 それにしても、兄からそんな目に遭っていながらも、ひたすら兄を信じ、届かない手紙に自分たち家族のことを虚飾して 「帰ってくるのを心待ちにしています。 なんにも心配なんかしなくていいから、まっすぐおうちに帰ってきてください。 待ってるよ。 双葉はちゃんと。 ちゃんと今でも、お兄ちゃんの無実を信じています」 と書き綴る妹。

 ここは泣けました。

 「追伸。

 そこに窓はありますか?

 困った時は 朝日を見ると 良いですよ。

 双葉は いつも そうしています。

 朝日を見ると 生きる希望が 湧いてくるのです。」

 どんなに苦しくても、希望の光さえあればいい。

 その光がなくなった瞬間、双葉は雨に打たれながら、ひなげしの波のなかで、泣き続けるしかないのです。

 そんな彼女を、瑛太クンは夏祭りに誘います。

 事件のせいで、夏祭りでさえキャンセルせざるを得なかった双葉。
 瑛太クンは彼女に、去年のワールドカップ見ながらガッツポーズをしたか?とトートツな質問をします(笑)。

 日本中が歓喜に沸いている瞬間でさえ、それを派手に喜ぶことができない。

 被害者家族も加害者家族も、時がたてばそのうちに笑うことはあるでしょうが、歓喜を爆発させることなど、人生じたいから締め出されてしまうのです。

 「ぼくら…」

 「『ぼくら』…?」

 「このさき、ああいうのって、あるんすかね?」

 「『ああいうの』?」

 「『やった!』 って思って、…こう…、ガッツポーズしたり…」

 「ぼくら」 と瑛太クンが言うのは、満島チャンと自分は本当は同じ思いをしてきた仲間なんだ、ということを受け入れたから。
 ここに流れる、小田和正サンの 「東京の空」。
 わけもなく泣けてくる。

 「♪自分の生きかたで 自分を生きて
 多くの間違いを 繰り返してきた

 がんばっても がんばっても
 うまくいかない

 でも気付かないところで
 だれかがきっと見てる」

 小田サン、どうしてこういう詞が書けるかなあ。
 とてもシンプルなのに、それが歌に乗ると、とてつもない説得力を帯びてくる。
 小田サンの歌声が、やさしく瑛太クンと満島チャンを包み込み始めたとき。

 そんなときにふたりの目の前に現れた、瑛太クンの母親、大竹しのぶサン。

 夏祭りに、何しに来たんでしょうか。
 不気味です(笑)。

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「ブルドクター」 第2回 事件の先に何を見せるのか

 私はあまり1話完結ものの事件ドラマを見ません。
 だからサスペンスドラマも見た記憶がありません。
 特に1時間、正味50分弱のドラマで、被害者加害者のドラマをのめり込ませて見せるのはとても困難が伴うと考えている。

 正直この 「ブルドクター」 も、被害者加害者のドラマをじゅうぶん見せてくれているとは言い難い。
 犯人推理もの、という見せかたも最初から放棄している気がするし。
 つまり、開始10分で、犯人が分かっちゃうんですよ。
 今回も自殺した女性(市川由衣チャン)が他殺なのではないのか、という最初の展開から、「こりゃ他殺だと言ってるも同然」(笑)ですし、石原さとみチャンが捜査の段階で事情聴取した精神科医(山下容莉枝サン)が 「あからさまに怪しい」 し、その場にチラッと登場するその精神科医の息子(載寧龍二サン)がほんのチラッとなのにわがままそうなバカ息子風なのが見え見えで、「こりゃこのバカ息子が犯人だろう」 というのがその段階で分かってしまう。

 作り手はそんなわざとらしいことをしといて、見る側の目をそらすためか、容疑者の最右翼として、法医学教室の准教授、稲垣吾郎クンを配するのですが、これがまた容疑者としてはあり得なさふうで。
 つまり彼は、主演の江角マキ子サンの思想の対極としてこのドラマでは存在しているわけで、そんな彼がドラマ開始2回目で殺人事件の犯人になってしまうことは、まず考えられんのです。
 だからゴローチャンの恋人である石原さとみチャンが、ゴローチャンに疑念の目を持つ展開も、「べつにないっしょ」「さとみチャン、なんでこんなにゴローチャンの浮気にこだわりたがるかなあ」 と感じてしまう。

 となると、まずあり得ないゴローチャンを除くと、バカ息子しか怪しそうなのはドラマに出てきてない。
 これって、「このドラマの主眼は犯人捜しじゃない」 ということを暗に認めているも同然、という感じがするんですよ。

 前回、手塚理美サンが犯人だということを、石原さとみチャンは立ち聞きで知ってしまうという安直な展開がありました。
 今回も市川由衣チャンの自宅の冷蔵庫に大量に買い置きしてあったジュースと、そのバカ息子が同じものを飲んでいた、という事実に志田未来チャン(だったかな?私この人の顔、いまだにちゃんと判別できません)が気付く、という、犯人確定の安易な展開があった。
 このことからも、なんか謎解きのためのさまざまな見せ場を作り手自身が放棄している気さえしてくる。
 作り手に推理ものが作れるかどうかの力量はさておいて、作り手自身に推理ものを作ろう、という気概が見えてこないんですよ。

 では何がこのドラマの主眼なのか、ということですが(まあ推測の上に憶測を重ねてますけどね)、表面上で言えば 「検死をきちんとやらないことで、埋もれてしまっている事件がこの国には多過ぎる」 ということだとは思います。
 ただ個人的にいちばん感じるのは、江角マキコサンちの親子関係の修復なのかな、ということ。
 このドラマ、第1回目で息子(青木綾平クン)と母親である江角サンとの関係はグチャグチャだったのですが、早くも第1回目で関係改善。 なんだ、引きずらないのか、と思ったら、第2回目では息子が 「自分史」 の宿題にお弁当の写真がないことで不満を持ち始め、またまた関係が悪化。
 それでもやはり今回最後では親子が分かりあえてめでたしめでたし、なんですが、また第3回冒頭から関係が悪化するかもしれない(笑)。
 つまり江角サンが、直面するさまざまな事件の本質を掘り当てていくに従って、徐々に部分的ではありながらも改善修復されていく親子の関係、それがこのドラマの主眼なのかな~と、…まあ始まって2回目で確かなことは申せませんが。 どうも市川亀治郎サンも不気味なほど沈黙しているし、この先もっとすごい江角家の展開が待ち受けてるのかもしれません(気がするだのかもしれないだのばかりで申し訳ない)。

 このドラマの説得力を弱いものにしているのは、この石原さとみチャンが、先に書いたように 「実はゴローチャンの恋人だった」 とか、彼女が江角サンの母親(市毛良枝サン)の書道教室に通ってて江角サンの息子とも知り合いだったとか、そういう、ドラマにありがちな 「世間は狭い」 といった描写や、法医学教室の同僚たちが傍観者丸出しの道化役に終始してしまっていること(これは前回レビューでも指摘しました)に原因があります。
 さらに江角サンもさとみチャンも、表面的に見ているととても感情移入できそうもないキャラであることも大きい。
 これってじっくり見ていけば、おふたりともとても共感できる一面を隠し持ってる気がするんですけどね。

 今回、ドラマを上質なものにしていたのは、なんと言っても殺された市川由衣チャンの母親役、日テレ常連(笑)朝加真由美サンでしょう。
 そしてその悲劇を引き立てる小道具が、実は妊娠3カ月だった(それが原因でバカ息子に殺されてしまったのですが)由衣チャンが作っていた、鈴入りの小さな小さなぬいぐるみ。

 紛れもない自殺、として警察が処理しようとしている案件に必死になって楯突き、20万円以上かかるという検死代(これって国庫負担なのか、被害者負担なのかの描写は欲しかった)をものともせず、娘の死の真実を突きとめた母親。
 結果的にこの母親は、娘の妊娠も、娘が恋人に殺されたということも、とても辛い事実ばかり知ることになったのですが、ゴローチャンが最後に、彼女にどうしても言いたかったことがあったのです。

 「母ひとり、娘ひとりの家族だったけど、お母さんからは、どんな母親よりも、いろんなことをしてもらったって。

 それから、」

 「いつか私がママになれたら、手作りのおもちゃや絵本、いっぱい作るんだ。
 私がお母さんに作ってもらったみたいに」

 ゴローチャンの回想。
 由衣チャンが笑いながら、鈴入りのぬいぐるみをゴローチャンに見せています。

 由衣チャンの遺品の入った紙袋をやおらまさぐる朝加真由美サン。
 ビニール袋に入った、小さなライオンのぬいぐるみ。
 泣き崩れる、朝加サン。

 1時間の1話完結ドラマにも関わらず、この場面にはウルウルしました。
 やはりこの小道具と、朝加サンの演技が効いています。

 事件解決後、江角サンはさとみチャンがゴローチャンの恋人であることを早々に感づいていたことを本人にばらしてしまう。
 ここでも、「狭い世界」 を作り手が自ら放棄している気がします。

 殺されたものの思いを感じ取ること…、その表面的な主題のほかに何かが潜んでいる気がする…、それは橋部サンの近作を見てきた私の勝手な思い込みかもしれませんが、何かを期待したくなる、このドラマの成り行きなのです。

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2011年7月16日 (土)

「ドン★キホーテ」 第2回 ワケ分からん…(笑)

 やくざ(鯖島、高橋克実サン)と児童福祉司(城田、松田翔太クン)の人格が入れ替わってしまったこのドラマ。
 前回ラストで元通りになったのかと思ったら、なってなかった(笑)。
 で結局、ふたりはそれぞれの業務をきちんとこなしていこう、というコンセンサスに達したのですが、ヤーサンの人格が入ってしまっている城田の仕事のしかたがハチャメチャで(笑)。
 ふつうヤーサンの人格が入ったらボーリョクに訴えて問題を解決しそーな気がするんですが、城田に入っている鯖島の人格は、問題を解決しようという気そのものがない(笑)。
 今回彼を突き動かしているのは、やくざとしての自分にとってのバイブル、「新宿鮫」 ならぬ 「新宿鯖」 なのです。
 この50巻に達するマンガ本が今回の問題児、引きこもりの男の子(「鈴木先生」 で竹地を演じていた藤原薫クン)の部屋にあったため、城田(中身は鯖島)はそれが読みたくて仕方がない。
 泊まり込みでその男の子に密着すれば一応マジメに仕事はしてるように思われるだろう、という判断なんでしょうけど、なにしろ話の予測がつかないんですよ。
 最終的にもはやこれはなし崩し、という問題解決を見るのですが、なんか、理屈じゃないんだなあ。
 アレがこうしたからこうなって、という、児童相談所の人たちの論理回路を完全に逸脱している。 そしてそこがとてつもなく面白い。

 いきなり隙をついてその男の子の部屋に入り込む。
 そこで 「新宿鯖」 を発見、読めない漢字を男の子に訊きながらずーっと読みふける。
 耐えられなくなった男の子は 「新宿鮫」 の最終巻1冊だけを持ちだして部屋を脱出(たぶん嫌がらせ…笑)。
 「引きこもりが部屋から出ていったから問題解決じゃねえか」 というのは実にその通りで笑っちゃうのですが、最終巻がなくなったことに気付いた城田(中身鯖島)はチョー激怒(笑)。 躍起になって男の子を探しまくります(笑)。
 ようやく見つけた男の子から最終巻を奪い取った城田(中身鯖島)が採った行動が、…正直ワケが分からんもので(爆)。

 彼の興味は最終巻のみですから(笑)、それを奪い取ったら男の子なんかほっぽって、そのまま男の子の家に戻ってしまう。
 鯖島(中身城田)が疑問に感じるように、「そんなのどこで読んでも一緒じゃないですか」 というのは間違いで(笑)、このマンガを読む場所は神聖な場所でなくてはならないらしく(笑)、城田(中身鯖島)は男の子の家に戻ると、父親も母親も兄貴もぜーんぶその家から締め出して(笑)、最終巻を読みふけるのです。

 理解不能(笑)。 ドラマの体裁をなしてない(爆)。

 この一連の行動は、実はこの家庭の問題点を短時間でかなり正確に把握できてしまう、という利点を伴っています。
 食事を全員が自分の部屋で取る。
 父親は仕事にかまけて全部人任せ。
 母親は言いたいことも言えない。
 兄貴は受験に失敗した弟を見下している。

 そんな不平や不満が、城田(中身鯖島)に自らの家を占拠されてしまったことによって、はじめて白日の下にさらされるのです。
 彼らは互いに心ゆくまで思いのたけを自宅玄関先で怒鳴りまくり、その家族は荒療治で再生の方向に向かう。 そして家族全員で、「開けろー!開けろー!」 と自分ちの玄関を叩きまくる(なんじゃコレ?…笑)。
 そこに2階から首を出した城田(中身鯖島)がひと言。
 「うるせぇなあ~、近所迷惑じゃねえか」(笑)。

 最後に城田(中身鯖島)は男の子に、最終巻、主人公?はどうなったのか?生きてんのか死んだのか?と訊きます。
 男の子は生気を取り戻した顔で、「生きてるに決まってんじゃん」。

 あ~あシュールだったぁ(笑)。

 ここで特筆すべきなのは、児童問題という暗い話を取り扱っているのに、話がちっとも暗くならない部分。 しかも城田(中身鯖島)のやる気というものを巧みに回避してるし。 感情のおもむくままにやってたらいつの間にか問題が解決しちゃってた、という構造が、暑さを吹っ飛ばしてくれますねぇ~。 スカッとする。

 話がご都合主義に傾くのは、この手のドラマの陥りやすい傾向なんですが、このドラマはそれを吹っ飛ばすシュールさに満ちている。
 なんか面白くなってまいりました。 ってまだ2話目ですけどね。 笑わせてくれるからいいです。

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「江~姫たちの戦国~」 第26回 まる裸の反戦思想

 江の2番目の夫秀勝とはあっという間に死に別れてしまう、という予備知識があったために(というかお市の方も秀忠を3番目の夫とかネタばらししてたよーな気もします)、今回の前半はヤケに話がつまらなかった気がする、「姫たちの戦国」。

 江と秀勝は、このドラマでは超ラブラブの設定なんですが、いまさらほんのつかの間の仲むつまじい幸せなひと時、というものを、別に見たいとも思わないんですよ。 はやく不幸になれ、とすら思っている(笑)。
 それは見る側(少なくとも私)が、江に一切の感情移入をしていないから。
 こういうナマイキなガキが幸せになっとるというのは、見ていて面白いもんじゃないのんす(笑)。

 実際 「あなたとハッピー」 状態の江は、これまでの人生で得てきた教訓を何ひとつ生かし切ってないのであり。

 「結婚って、こんなにいいものだったとは」 と乳母や当の夫に吹聴しまくる江、その夫に話を振られるのですが、最初の夫佐治一成のことを、まったく忘却の彼方に捨て去っている。
 「あのときはまだ子供だったから」 と言いながら、「一成様は優しかった」 とあらためて思いだす江(遠い目をするな、遠い目を…笑)。

 そして夫の着物をたたもうとして、たたみ役の家来と取り合いになって、その着物を破いてしまうのですが、柴田勝家にこんこんと説教されたことを、すっかりお忘れのご様子。
 馬番役の下男?を差し置いて馬で遠出をしてしまって、その下男の責任問題に発展したことがありましたよね(…だったっけな?…こっちも忘れとる…笑)。
 どんな下働きの男にも責務というものがあるんだ、と勝家は激怒してましたよね。

 いずれのケースでも、秀勝の心の広さによって許されるのですが、これでまた甘やかされて成長していくのかこの女は、という気にもなってきます(笑)。 勝手にやってろ、とゆーか(人の幸せがつまらんとは、私も人間ができていません)。

 いずれにせよ、話が秀勝と江に大幅にシフトすることにおいて、急速にドラマとしての魅力が損なわれる。

 主役を魅力的に描いてこなかったツケを、作り手はここで大枚はたいて払わねばならんのです。

 秀勝は朝鮮出兵に参加しなければならないことを、江に打ち明けるのですが、江はここでまた、「戦は嫌じゃ、人殺しは嫌じゃ」 という持論を振りかざします。
 物語が江中心にシフトしているから、今回の、この江の 「いつものご意見」 というものも、話の中心に陣取らなくてはならなくなる。

 このドラマで展開される反戦思想は、もっとも単純な動機からすると、「人を殺すのも死ぬのを見るのも嫌だ」 という原初的な感情から発生しているものと思われます。

 そして作り手の大きな失敗は、その感情をコーティングするのに、信長が平和を希求していた、という理屈を持ってきている点にある。
 江の戦争反対思想のバックボーンにあるのが、信長のありようなのです。
 しかしそれが、物語構築のうえで誠に説得力を持たない。
 当の信長が実際にやってきたのは、人殺し、人殺し、人殺し。
 「平和のために戦争をする」 という域を出ていないんですよ。
 だから江の反戦思想も、かなりのハンデを負った薄っぺらいものにならざるを得ない。

 出陣の日、江は秀勝の武運長久を、いったん拒絶します。 「私は、どなたも殺してほしくありません」、と。

 ここにきてそれはないだろう、という気がする。

 自分がどのような思想の持ち主であれ、戦いへと向かう夫を応援しないでどうする。
 あまりに江が心配するので出陣をやめるか、と軽口をたたく秀勝に、江は 「そうして下さいませ!」 と言い切るのですが、ここで江の悲痛な気持ちというものを表現しようと作り手がしていても、見る側はそんな江の悲痛な気持ちを、「自分勝手」 なものとしかとらえることができない。

 その構造こそが、このドラマの説得力を壊滅的にしている原因だと私は考えるのです。

 そして旅立つ秀勝が、「そなたを妻にでき、幸せであった」 とまるで今生の別れのようなことを言う。
 「なーんだこれで死亡確定」 という感じじゃないですか(笑)。
 あとから秀勝からの遺言状が届いて、そこに書いてあった、というなら話はもっと自然じゃないのかな~。

 さらに秀勝は苦虫を噛み潰したような江の顔を見て、「そなたらしい顔を見せてくれ」 と懇願し、江は無理に笑顔を作ります。
 「江らしい顔」 って、苦虫を噛み潰したような顔じゃないですかねぇ(スミマセン軽口です…笑)。
 怒りの形相で、「ムキーッ!猿め!許せぬ!」 とか(笑)。

 そんなことを見る側(少なくとも私)が面白がって考えてしまうのは、それまで江のキャラ構築をそんなふうにしかしてこなかった作り手の責任でもあるんですよ(わ~い責任転嫁だ)。

 「人殺しはしてほしくない」 という、戦に向かう者に対しては理不尽とも思える(笑)要求を妻からされたおかげで、秀勝は朝鮮民衆をかばい、味方に斬られてしまいます。
 はぁ~あり得ね。
 その傷がもとで病死してしまう秀勝。
 誰が秀勝を、殺したのか?(一目瞭然)。

 この回ふたたび急速にクローズアップされた江の反戦思想のせいで、話がまたもやいびつさを帯びてきた気がしたのですが、それを救ったのは、秀吉の母なか役の奈良岡朋子サンの死の床での演技。

 「お江よぅ…日吉(秀吉)のこと、許したってくれやなぁ…。

 父上のこと、母上のこと…。

 秀勝を、戦に連れてってまったこと…、許しておくれぇ…わしに免じて、なぁ…。

 (秀吉は)ありゃタワケだわ。

 おおタワケじゃ…。

 ただ、タワケほど可愛いのよぉ…。

 可愛いんじゃあ…」

 そして母の死を知った秀吉、岸谷サンの演技。

 「おっかあが…死んでしもうたわ…。

 妹の旭日、弟の秀長、子の鶴松…。

 それに今度は、おっかあじゃあ…。

 …(涙ぐみながら)泣くのも飽きたわい…。

 こっちへ向かうあいだ、子供のころのことを思い出しておった…。

 貧しくても、満ち足りておった…。

 すぐ近くに…親兄弟の顔があったからじゃ…。

 江…良き子を産め。

 そして、よき家を作れ…」

 秀勝が帰って来なきゃ家どころじゃないとまたムカつくことを(笑)江は秀吉に言うのですが、秀吉は力なく 「だいじょぶだいじょぶ」 みたいに交わしてとぼとぼと仏間を去っていくのです。

 このおふたかたの、寂寞とした演技。
 これだけでこの回の 「姫たちの戦国」 は救われた気がするのです。

 そして、そのおふたりの演技が呼び水となって、江が夫の死を知らされた瞬間産気づき、秀勝の子を産む、という、生と死のタペストリーが効果を得ていく。

 あらためて江の反戦思想の脆弱さが露呈した今回でしたが、結構後半はウルウルしました。 江も下らん…とは申しませんが(笑)薄っぺらい反戦思想をもっと深化させることをしていったらいかがでしょうか。

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2011年7月15日 (金)

「JIN-仁-」(完結編) 主題歌 「いとしき日々よ」 について

 昨日の 「大竹しのぶのオールナイトニッポンGOLD」 で、大竹しのぶサンが 「JIN」 の主題歌である平井堅サンの 「いとしき日々よ」 の歌詞を朗読していました。

 続いてかかったこの曲。

 ナレーションもセリフもSEも入らずにちゃんと聴いたのはこのときが最初だったのですが、もうなんか、咲(綾瀬はるかチャン)の思いや南方(大沢たかおサン)の思いがダイレクトに伝わってきて、仕事中だったにもかかわらず不覚にもウルウルきてしまいました。

 で、以前 「JIN」 のコメント欄にも書いたのですが、最初私はこの曲を、南方の思いを歌ったものだ、と思い込んでいたんですよ。
 だいたい前作の主題歌はMISIAサンで女性の立場から南方への思いを歌ったものだと解釈していて、だからこそ男性の平井堅サンが歌うのは、それに対するアンサーだと思っていたし、「忘れはしない この体が消えても」 という部分を、ドラマ中盤で実際に体が消えてしまった南方のことを歌っているんだと思ったのが大きい。

 ところがこの曲の歌詞を改めてちゃんと読んでみて、「あなたの声は忘れれば忘れるほど(心に)焼き付いていた」 という部分や、「あなたに逢いたくて 届くまで叫び続ける」 という部分を聴いていると、南方の記憶が消し去られてしまった咲が、そのかすかな記憶を10円玉から思いだし、その思いを手紙にしたためて永遠に思いを残そうとした光景が、目に浮かんでしかたない。

 それでこの曲は南方の思いではなく咲の思いなんだ、と考え直していたのですが、昨日の大竹しのぶサンの朗読を聴いていて、「いや、これは、どっちとも取れる」 と、またまた考え直したのです。

 「たとえ時がうつろうと 縫い合わせた絆はけっしてほどけない」 という第1行目。
 これは南方の決意を表している気がする。
 そして2行目 「ああ あなたの声は忘れれば忘れゆくほどに 焼き付いてた」 というのは、先ほども述べたように咲の思い。
 この曲はまるで南方と咲の思いを交互に語らせているような歌詞の構造になっている気がするのです。

 この歌詞を読んでいると、どうも作詞を担当した平井堅サンほか1名(笑)は、制作側から 「JIN」 のプロットを受け取っていた気がする。
 そしてそのプロットって、初めから咲の南方への手紙が想定されている。

 完結編の第1回目でも、公園で頭にニット帽をかぶったまま古ぼけた手紙を読んで涙している南方が、最初のナレーションと共にインサートされていました。

 これはその時点ですでに最終回が撮られていた、と考えにくい映像ですが、作り手がもはやこの時点で、この完結編の結末を、余すところなく完璧に決めていた、何よりの証拠だと思うんですよ。

 この潔さは、あまりにすごい。

 だから物語にブレがないんだなあ。

 結末をどうしようか、どっちにつこうかあっちにつこうか、という迷いがない。

 大竹しのぶサンの朗読を聴いていて、そんなことまで考えてしまいました。

 そしてこの曲が流れ終わったあとで、大竹サンもこのドラマを見ていたことが判明。

 自分の出演してるどーしよーもない時代劇のすぐあとに放送されるこの時代劇(あえて)の大傑作を、大竹サンはどんな思いで見ていたのかな、なんて、つらつらと考えてしまいました。

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2011年7月12日 (火)

「全開ガール」 ガッキーの新たなる挑戦

 新垣結衣チャンが弁護士役…、この子は年齢に似合わずいろんなキャリアの役をよくやるもんだ、という印象がまずした、「全開ガール」。
 彼女に限らず、最近のドラマは 「この子がこんな役、まだ早すぎるだろ」 というキャスティングがあまりに多い気がしています。
 結衣チャンももう23歳、まあ新人弁護士の役くらいならしてもいい年齢なのですが、どうもしっくりこない。
 どうしてそう思ってしまうのか、と考えていたら、このドラマの冒頭で、「私たちは、『ゆとり世代』 の第1期生」 という彼女自身のナレーションが。

 「ゆとり」 というのは現代では差別語の一種であります。 要するに、「この世代は学校でろくな教育を受けてこなかったからおバカの集団だ」 という侮蔑がそこには含まれている。
 週休2日だ、科目も少なくしよう、余暇を楽しんでテレビゲームもTDLも当たり前、チャラチャラとした服を着て、みたいな描写が、このドラマの冒頭でも流れていきます。
 その映像を見ていて、「つまりこの新垣結衣チャンの世代って、気持ちにゆとりがありすぎて、気持ちだけでなく顔付きも大人になりきれてないんじゃないのかな」、などと感じたんですよ。 必要以上に幼すぎる気がする(意見には個人差があります)。
 この世代の若手の多くに 「こんな役は早すぎるだろう」 と感じてしまうのは実にそのせいなんじゃないか、…みたいなー(当該世代の反感を軽減しようとしております…笑)。

 新垣結衣チャンは数年前、その極上な笑顔の魅力で台頭してきた女優さんです。
 けれども彼女が大人になっていくに従って、その魅力だけでは到底生き残れない壁のようなものを、私は感じています。
 彼女がどこまで、これまでのイメージを覆す演技を見せてくれるのか。
 私の興味はこの一点に集中していたのですが、前半30分はもう、ドラマ自体のテンポがあまりに早く、あまり彼女の演技がどうだとか感じるヒマがありませんでした。
 彼女は親が借金で苦しめられてきた影響をもろに受けて、地位と金にいちばんの価値を認めているだけの、せせこましい上昇志向の虜になっています。
 要するに何でもかんでも法律を振りかざし、人の情なんかまるで眼中にない。
 弁護士になるうえで人の心に興味がない、というのは、実はとてつもない欠落である、と私は思うのですが、彼女の眼中にはセレブな生活しかありません。

 司法試験一発合格で就職したばかりの外資系の弁護士事務所が日本からの撤退を表明した瞬間、彼女は転職に走ります。
 しょっぱなからナンですが、この設定って結構甘い気がする。
 彼女が上昇志向の持ち主なら、別に海外を拠点にしたっていーじゃないの、という気がするからです。
 そして彼女が再就職した薬師丸ひろ子サンの法律事務所、第1回終盤ではここをクビになる(なったのかな?スイマセンちょっとよく見てなくて)危機に瀕して、どうして前の外資系のときのようにスッパリここに見切りをつけて再就職先を探さないのか?という疑問にもつながってくる気がするのです。

 この薬師丸サンの事務所に面接に行く途中、ガッキーは電車の中で痴漢に遭うのですが、それが錦戸亮クン。
 完全な濡れ衣でさんざんな目に遭った錦戸クンには前の妻から押し付けられた一人息子のビー太郎(高木星来クン)がおり、薬師丸サンから押し付けられた一人娘(谷花音チャン)と同じ保育園であったために、ガッキーは錦戸クンと絡んでいくことになる。

 「年収も地位もある、子供なんか嫌いな男と結婚したい」 とうそぶくガッキーは、場末の定食屋をしている錦戸クンなんかに、まったく興味がないどころか、嫌悪しまくっています。
 表面上のそんな女を見ていると、錦戸クンのイクメン(育児パパ)仲間の荒川良々サンみたいにムカムカしてくるのがフツーなんですが、結衣チャンにはそんなオーラが感じられない。

 それは彼女が、言われたことはなにがあっても最後までやりとおす、という根性の持ち主であるからです。
 だったら外資系の会社を早々に見切るなよ、と言いたくもなりますが(笑)、彼女の頑張りが、このドラマを嫌気もささずに見続けることができる大きなファクターのような気がする。

 そしてそんな難しそうな役をこなしている結衣チャンに、ワタシ個人としては新しい可能性が広がり出した気が、するのです。

 錦戸クンは 「犬を飼うということ」 に続いて、ビンボーながらも(彼ってキャスティングの側からすると、こんなイメージなのかな~…笑)イクメンに誇りをもちながら生きている気持ちのいいパパの役。
 相変わらずニュートラルを保ちながら、押さえるところは押さえる演技をします。

 その象徴だったのが、自分の側に非がないのに薬師丸サンに謝るシーン。

 ガッキーはキスしてきたのが薬師丸サンの娘のほうだったのだから、あなたの息子には何の落ち度もない、こんなことで謝ってたらアメリカでは間違いなく敗訴する、みたいなことを言います。
 それに対して錦戸クンは、きっぱりとこう答えるのです。

 「ここはアメリカじゃないし、…理由はどうあれ、申し訳ない気持ちがあったら、謝るのは、当然でしょ?」

 「(間髪いれず)私は親切で言ってるんです!…そういう人間は、あとで必ず痛い目に遭うんです」

 結衣チャンからすれば、した手に出て借金とりたてのやくざから痛い目に遭っていた父親のことが念頭にあります。

 「たとえ痛い目に遭っても、…謝らなかったことのほうが、ぼくは後悔します…」

 そう話す錦戸クンの目は、あくまで清らか。
 まるでそれが、自分へのあてつけみたいに感じたような忌々しい顔を、結衣チャンは一瞬見せます。
 そしてあくまでも、冷たい表情を、彼女は貫こうとする。

 「ならご勝手に。

 ただ、そのあおりを食うのはあなたではなく、…あなたの保護下にある、子供だということを覚えていてください!」

 彼女はその時点で、錦戸クンに父親の影を見ているのかもしれませんね。
 だからこそ、自分がこの仕事をクビになるという局面になっても、前の時みたいにすっぱりあきらめて再就職先を探そうとしないのかもしれない(あっ、先に書いた疑問がイッコ解決…笑)。
 そして探さないどころか、飲んだこともない酒を飲んでベロンベロンに酔っぱらって錦戸クンを呼びだし、「キスのひとつもしたことないんじゃ」 と薬師丸サンに言われたことに抵抗するために、錦戸クンにキスまでしてしまう(しかも方言丸出し)(しかも出しかけたゲロ飲み込んで)。
 見ている側はガッキー、そこまでするかという驚きでいっぱいになります。
 確かに状況設定的には少しばかり甘いのですが、ガッキーの冒険に、見ている側としては一定の評価をしたくなってくるのです。

 「ゆとり世代」 に対しても、ガッキーは本気でぶつかることの重要性を説いて、先導役にまわっている気がする。
 月9、初回を見る限りではなかなかおもしろかったです。

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2011年7月11日 (月)

「華和家の四姉妹」 第1回 言いたいことを言えること、言わなくてもいいことを言わないこと

 「JIN」 の後番組にTBSが持ってきたのは、過激なコメディドラマ。
 その激しい落差にはちょっと唖然としたのですが(笑)、主演の観月ありさチャンにとってみれば、こういう 「わが道を行く」 タイプのキャラクターというのはとてもお手のもの、という感じがいたします(「ナースのお仕事」 とか、彼女のそのタイプのドラマって、見たことないんですが)。

 それにしてもこのドラマ、周辺情報の豊富さにちょっと興味の矛先が向かいがちであります、個人的に。

 まずありさチャンが再婚(再々婚?)する相手が、連ドラ版 「ゲゲゲの女房」 で青びょうたんのようなマンガ家を演じていた中村靖日サン。 前の女房と籍を抜かないままありさチャンと結婚してしまったことが結婚式の最中に発覚、ありさチャンに 「グー」 で殴られます(なんかこの人こんなのばっかりだなあ…笑)
 その中村サンの妻が芳本美代子サン、これもプライベートの恨み(ありましたよね確か、不倫騒動)をここで晴らしたような演技で(笑)。

 そしてありさチャンの連れ子が3人いるのですが、そのうちのひとり(一番下の男の子)が、どぉ~もこども店長クンが 「天地人」 に出ていたころを彷彿とさせる。
 そしたらその男の子、その加藤清史郎クンの実の弟ではないですか(加藤憲史郎クン)。

 それから華和家三女の、貫地谷しほりチャンの会社の、セクハラ上司役が神保悟志サンなんですが、ワタシ個人的にこの人、今回華和家の大黒柱役で出ている遠藤憲一サンと、なんかイメージがすごくかぶってるんですよ(笑)。 最初兄弟かと思った(爆)。 どうも混乱する(笑)。

 あとちょっと驚いたのが、女性雑誌 「with」 がいきなり実名で登場したところ。
 華和家長女の吉瀬美智子サンの職場であります。
 「with」 を発行している講談社もそのまま出てくるし。
 つまりこれって、「華和家の四姉妹」 の原作である柴門ふみ氏の連載が、講談社の 「モーニング」 で行なわれていた関係からなんでしょうかね。
 いずれにしてもこれって、発行部数が低迷を続ける出版業界の多角的アプローチ、という側面も感じさせるのです(最近やたらと女性誌って、付録が多くありません? たぶんリーズナブルな値段でウェストポーチとか?雑誌についてくるから、それが受けてるんでしょう)。

 で、肝心の本編のほうですが。

 冒頭のその、結局破談になる結婚式の様子を描写することで、自由奔放すぎる次女のありさチャンと、それに思い切り眉をひそめている他の3姉妹との関係、やり手だけれど浮気癖の強い父親のエンケンサン、おバカなくらい明るくて何も考えてそうにない母親の宮崎美子サン、という華和家の寒々とした実態をあますところなく見せていきます。

 そこに乱入した芳本美代子サン、刃物を振り回すのですが、ありさチャンの前にエンケンサンが立ちふさがる。 そこで見る側は、浮気者だけど娘への情は厚い、という、「外見と内面との齟齬」 という印象をまず小さく植えつけられるのです。

 結局出戻りのありさチャン、子供をダシに使って(笑)時給のいい派遣の仕事をゲットするのですが、そこの会社が三女の貫地谷しほりチャンの職場(狭い世間、というのはよくあるパターン)。

 ここで笑えるのが、ゴージャスな雰囲気をあたりに思いっきり撒き散らして、男どもがありさチャンにいとも簡単にメロメロになっていく様子。
 フツーここまで骨抜きにはならんだろう、と思うのですが、そこはそれ、コメディドラマですから、メーター振り切りでオーゲサに展開する。
 これは観月ありさチャンの年齢、というものを考えると、とても絶妙な笑わせ方のような気がするのです。 これ以上彼女の年齢が行ってしまうと、なかなか笑えないシロモノになってしまう。 逆にあまり若すぎると、イヤミったらしくて面白くもなんともない。

 そんな彼女、「ウナギを食べると体がほてっちゃう」 とか 「酔っぱらってきちゃったぁ」 とか言いながら特上のウナギをキモ吸いつきでオーダー(笑)子供へのお土産分まで頼んじゃうし、高級ワインもジャンジャン持ってこさせるし、職場の男性も完全に手玉に取っています。
 しかも昼休みをとりすぎて上司の神保サンの逆鱗に触れるかと思いきや、顧客を獲得してきて見事にモーマンタイにするし。

 つまりすごく、世渡りが上手なんですよ。
 ここまで自分の武器を上手に使うと、人生楽しいだろうなーというくらいバブリーの幻想の中に、彼女は生きている。
 けれども結婚生活だけは、そううまくはいってないみたい。

 そんな彼女と一緒の職場にいることをひた隠しにしようとする三女のしほりチャンですが、彼女がありさチャンを毛嫌いしているのは、高校時代にカレシを彼女にカラダを使って横取りされた、という恨みを引きずっているため、なのです。

 ところがそれは、そうじゃなかった。

 カレシのほうから頼まれて、ありさチャンは自分がカレシを体を使って奪った、ということにしていたのです。

 すごく世渡り上手で憎たらしいほど要領がよくて、自由奔放なイケイケのお調子者に思えていたありさチャンでしたが、実は内面に、かなり生真面目な部分を隠し持っている。

 そんな彼女は、同じ受付係の女の子(木村文乃サン)にセクハラをしてくる神保サンに向かって、またもや 「グー」 で攻撃(本日2回目)。
 セクハラを受け入れないことで失職の危機に陥っていたその女の子を、自分がそいつを殴って首になることで、救ったのです。

 ここらへんの 「内面と外見の齟齬」 という側面は、見ていてとても心惹かれるものがあるし、第1回目に関しては、勧善懲悪ものという、「水戸黄門チック」 な面白さも兼ね備えていた気もするのです。 いや、水戸黄門じゃないな、「遠山の金さん」 のほうが近いかな。

 受付係の女の子がセクハラを拒絶なんかできない、というのに、ありさチャンはこう反論していました。

 「イヤならイヤって言えばいいじゃん」

 「だって、支店長よ」

 「だから何?」

 「イヤだなんて言えるわけがないじゃない」

 「なぁ~んでぇ~?

 い・や・で・す。

 たった4文字じゃん」

 そんな 「言いたいことを言って何がいけないの?」 という彼女が、妹の大誤解に潜んでいる 「言わなければ誤解が解けないこと」 を言おうとしない。

 この構造にははっとしますね。

 つまり彼女は、別にそんな妹の誤解など、自分の人生にとっては大して問題じゃない、と考えているのです。

 暑くてうだるような夏にこの手のコメディドラマは、正直とても精神の健康上いいような気がします。

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2011年7月 9日 (土)

「ドン★キホーテ」 気楽に笑えるかな

 このドラマの話をする前に、同枠の前ドラマ 「高校生レストラン」 についてちょっと。
 原田芳雄サンが病気のため途中降板という形になって、とても残念でした。
 そのせいかもしれませんが、物語的になかなか奥行きが生まれず、毎回毎回同じ感想になってしまうという悪循環に。 結果3回で当ブログのレビューも終了という形になってしまいました。
 最後まで見てはいたんですが、回数が少ない割に同じ話ばかりだった気がします。 最後は引退する部員の涙のスピーチで、逆金八先生みたいだったし。

 で、同枠の夏ドラマ 「ドン★キホーテ」。
 小難しいドラマばかりの当ブログには合わない気もするのですが(笑)、気楽に見ることができたので、気楽にレビューも書こうかな、と。

 ドラマのひとつのジャンルとして、畑違いの人間がいきなり別の職場に配属され、そこで思いもよらない元の世界での能力が発揮される、というシチュエーション転換ものがあります。
 最近で思い出すのは、詐欺師が会計検査庁の職員になった篠原涼子チャンの 「黄金の豚」 とか。
 このドラマではその状況を 「性格の入れ替わり」 という、古来から(笑)定番のおとぎ話の力を借りて無理やり作り出している。

 性格転換の源流にある作品と言って思い出すのは、「おれがあいつであいつがおれで」、つまり大林信彦監督の出世作 「同級生」(じゃなかった、「転校生」 でした、chie様ご指摘ありがとうございます) の原作であります。
 そしてその 「同級生」(じゃなくって 「転校生」) で尾見としのりクンと性格が入れ替わってしまっていた少女、小林聡美サンが、今回のドラマで主人公の上司役として出演している。
 小林サンはこれが離婚後初出演ドラマなのかな。

 いずれにせよそんなところにも作り手のちょっとしたシャレ心を感じているのですが、そうした 「性格転換」 ドラマというのは、「転校生」 が源流であるためか、男女のあいだで入れ替わるケースが、とても多い。 要するに男と女の生理の違い、というものを主眼に置いたものであるからです。
 近作で思い出すのは、舘ひろしサンと新垣結衣チャンの性格が転換してしまった 「パパとムスメの7日間」。 傑作でした。

 ところが今回の性格転換は、男どうし。

 全開バリバリやくざ役の高橋克実サンと、気弱な児童福祉司の松田翔太クンの性格が、入れ替わってしまうのです。

 ドラマ的な面白さはまさにこの部分に集約していて、立場の逆転による笑いは、とても容易にテンポ良くポンポン出てくる。
 押しが足りなかった城田(松田クン)の性格が鯖島(高橋サン)に変わることによって、それまで児童虐待していたバカ親に一矢報いるところは、見ていて胸がすく感じがします。

 作り手の 「ドラマを見せるための」 目的もまさにそこにあるのですが、実は作り手の言いたいことは、その先にある(また小難しいことを書こうとしてます)。

 外見上は城田になってしまった鯖島の性格が、児童問題解決の方向に、なかなか向こうとしないんですよ。
 それは鯖島が 「子供嫌い」 なため。
 ああだこうだと理屈をつけて議論を難しくしようといる児童相談所の連中に愛想を尽かし、面倒くさがる鯖島(外見は城田)に対して、城田(外見は鯖島)は気弱だった性格もぶっとばして、自分たちは誇りを持ってこの仕事をしているんだ、ということを力説します。
 面倒くさがって問題を先送りしようとすることの暗愚を、作り手は問題にしようとしているのです。 仕事とは何なのか、ということを、直截に訴えてくるものがある。
 なかなか奥が深い気がします。

 しかしその奥の手って、下手をするとドラマの荒唐無稽さに埋没しかねない危うさを持っている。

 いきなりヤーサンの描写がスンゴク古典的だし(笑)、鯖島の子分が松重豊サンとか、もうハマりすぎてて笑いまくりましたけど、姉さん役(鯖島の妻)の内田有紀サンも組の内装もまるでギャグだし、あまりリアリティを演出しちゃうとかえって問題なんでしょうが、同系統のドラマだった 「任侠ヘルパー」 に比べると相当オチャラケている感じ。
 城田の気弱さも実にギャグの領域で、どこまで真摯なテーマとギャグの折り目を付けるのかな、という興味もあります。 それに失敗すると滑りそうな気がします。

 そして話的に弱いな、と感じるのは、このドラマのそもそもの題名である 「ドン・キホーテ」 との関連性が、結構とってつけた感じがすること。
 これを養護施設からも見放された不良娘役の成海璃子チャンが、鯖島と城田のデコボココンビを見て連想するのですが、してみるとドンキホーテが松田クンで、サンチョ・パンサが高橋サン、ということになるのか。 別にどーでもいい気がする(笑)。
 話は違うけど成海璃子チャンって、上野樹里チャンとかぶってる気がする(なんとなく)。

 とりあえずまあ、冒頭に書いたとおりに、休日前の夜を気楽に笑って楽しめるドラマなんじゃないかな、と感じます。 児童虐待の話は重いですけどね。

 ところでラスト、鯖島と城田は、もとに戻ったんでしょーか?

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「江~姫たちの戦国~」 第25回 マジメにやれば、浮かぶ瀬もある

 このところの 「姫たちの戦国」 は、ようやくギアがかみ合ってきたような気がしています。
 ストーリー展開的には相変わらずの遅さで、こりゃもう春日局は出てこないだろう、というペース配分なのですが、このところ見ていてズッコケることが少なくなってきた(笑)。 もっとズッコケさせてほしい気すらする(爆)。

 その原因は、オチャラケの描写が極端に減ってきたことにあります。

 時代背景として秀吉が天下平定を進めていくのに、戦国の混乱期よりもオチャラケ度が低下している、というのは実に不自然なのですが、もしかすると番組初期の批判がかろうじてドラマ自体に影響を与え始めたのか、とも思えます。
 江の乳母は無駄にすっ転ばなくなったし軽口を叩かなくなったし(それだけで私個人のストレスは大幅に軽減されます)、何より秀吉役の岸谷五朗サンが、凄みを帯びてきた。 こうなると序盤でのバカ殿ぶりは、まことに大失敗だった、と断じてもいい気がいたします(脚本が脚本だけに、ああするしかなかったのかもしれません)。 数回前にも指摘しましたが、岸谷サンの演技が凄みを帯びてきたことで、ドラマが一気に締まってきている。

 ドラマが緊張感を保ち続けるから、今回江が秀勝のひらめきで、炭屋に化けて何千人もの厳重な警備をくぐり抜け利休のもとへと潜入してくる、という荒唐無稽さも、さして不自然を感じさせなくなります。
 ドラマを構築する上で、やはり土台がマジメであれば、多少の現実離れした設定は受け入れられるものなんだ、という認識を、今回は新たにしましたね。

 これまでも 「江」 は、根っから少女趣味チック、ドタバタコメディに徹していたため、江が歴史上のあらゆる重要場面に出没するというあり得なさにさらなるものすごい拍車がかかっていた。
 それがここ数回の 「江」 では、出しゃばりオヨネ、じゃなかった(前にもやったかこのギャグ?)出しゃばりお江のブチブチ文句など出る幕じゃない、という大人の世界を描写しているため、秀吉は江がズカズカやってきても 「来たか…」 と存在を意識はするものの、まったく無言で取り合わない。 ここの 「ガキはすっこんでろ」 的オーラが、さらに物語を締めにかかっているんですよ。

 そして作り手は、そんな江の存在を、無なものにしようとしない。

 江は利休の切腹を結局止めることができず、「みんなぁが笑うて暮らせる(ありゃ土佐弁だ)世を」、というどっかで聞いたような(その場でネタバレしとりますがな)重たい願いを受け継ぐのですが、彼女が利休切腹のあとまた秀吉に文句を言いに行ったら、意外なことに 「なんで利休の切腹を止めなかったんじゃ?!」 と泣きつかれるのです。
 江は、言葉を失います。
 ここでやっと、見る側は秀吉の真意というものを分かったような気になってくるのです。
 江が文句を言いに行かなければ、この場面は創出できません。

 ここでようやく江の存在価値がドラマ内で認められたような気がしました。
 とはいうものの、この程度ではとてもじゃないけど主役の役割とは申せませんが。

 ともあれ、このときの天候が、かなりのどしゃ降り。
 言葉を失ったままの江は秀勝の姿を認め、秀勝にすがって泣きじゃります。
 ここらへんの天気も伴った演出は秀逸でした。
 …で、だから今回のサブタイトルが 「愛の嵐」 なわけね…(どーにかならんかこの本編を追い落とすよーなタイトル…笑)。

 岸谷サンの演技は、鶴丸を失ったことで、凄みに拍車がかかってきます。

 作り手は、酔いつぶれて自らの髷を切り落としてしまうという、実にこのドラマでしかあり得ないあり得なさで(なんじゃソレ)彼の狂気を表現します。
 そして、ざんばら頭で三成を激しく責めにかからせる。
 「お前の讒言で利休を死なせたから鶴丸まで死んだのではないか?!」 と。
 三成は狡猾にも国際政治情勢に秀吉の目をそらせ、秀吉はまんまとそれにハマって朝鮮出兵に命をかけるようになってしまう。
 解釈としては特に目新しいことはないのですが、ざんばら頭の秀吉が狂ったように仕掛けるからこそ、このドラマ特有の緊張感が高まっていく気がするのです。

 いっぽう朝鮮出兵の命が届けられた徳川家でも、秀忠は相変わらず父家康に対して冷ややかな態度を崩しません。
 これが現実的にどーなのよ?という議論は置いといて、鶴丸を失った悲しみから狂気に走る秀吉を初めとして、意気消沈する茶々を初が見舞い、その場でおねが茶々に正室の立場もかなぐり捨てて 「新たなお子を」 と励ます、そんな歪みながらも家族至上主義があふれている豊臣家と、この冷え冷えとした徳川家との対比が、ドラマ的に面白いんですよ。

 で、江は結局秀勝との婚儀をまたもや秀吉によって画策されてしまうのですが、ここでも関白を譲った秀次の監視役、という政治的な役割を説明することを怠らない。
 こんなことは最低限のことなんですが、今までこういうことを、このドラマではとても怠ってきたように思えるから、余計に感心してしまう(笑)。

 マジメにやってりゃ、浮かぶ瀬もあるってもんです。

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2011年7月 8日 (金)

「それでも、生きてゆく」 第1回 かなり重たいドラマ…

 「Mother」 の坂元裕二サンの脚本ということで見ようと思ったこのドラマ。 初回を見る限り、かなり重たかったです。
 こうした暗くて重たいものというのは、かつてネアカネクラの区別が流行っていた時代には間違いなく見向きもされなかった類のものですが、う~んやはり現代の感覚から言っても、重苦しい。
 そしてこのドラマのテーマが、加害者の人権を問うものである側面から言っても、見る者は自らの倫理観を否応なしに考え直すことを強要されるわけで、そういう面倒なことが嫌いな視聴者には、あまり見向きもされない気がします。

 話の端緒としては、今から15年前(1996年)、ひとりの女の子が凧あげをしている最中に殺されてしまう、という事件がまず語られます。 これがすべての発端。
 そして現在(2011年)。
 釣り堀を営んでいる柄本明サンと、その息子瑛太クン。
 どうやら妻の大竹しのぶサンと柄本サンは別れたらしく、瑛太クンも頭はボサボサの冴えないひとり者である様子です。 チャーハンにソースをドボドボかける父親を嫌悪する瑛太クン。
 瑛太クンは殺された妹、亜季チャンのことを思い出すたびに、同じシーンが思い浮かびます。
 それは彼女が、「『フランダースの犬』 って、なんのためにあるの?」 と訊いてきたこと。
 ネロってなにもいいことがなくて死んでいく、ネロは生まれないほうがよかったんじゃないの?というわけです。

 う~ん、確かにそう言われればそうだ。

 しかしこのドラマのタイトルは、「それでも、生きてゆく」。

 なるほど、そこがテーマか(分かりやすい…笑)。

 この第1回後半で、瑛太クンは父の死を大竹しのぶサンに知らせに来た時に、「それでもオレは生きていくんだ」 というセリフを投げつけます。
 ここでの瑛太クンの心情は、たぶんに投げやりな気持ちが混じっている。
 このセリフはその意味で、ちっとも前向きな性格ではないのです。
 「それでも、生きてゆく」 のは、小さな幸せを味わうために、不幸のどん底でも生きていくことなんだと思うんですよ。 なにがあろうと負けない、ということが、「それでも、生きてゆく」 の前向きな言葉の意味かと思うのです。
 おそらくその前向きな意味を瑛太クンが悟っていく過程が、このドラマの主眼なのではないか。 そんな気がします。 

 さてソースをドボドボかけていた柄本明サンはいきなり倒れ、胃がんであることが発覚します。
 それをなぜ放っておいたのか問い詰める息子に、父親はこう答えます。

 「亜季に逢えるからな…」

 うっ、いきなり涙腺を刺激します、このセリフ。

 いっぽうその加害者側の家族は、誰かの密告によって引っ越し先を転々とさせられる憂き目に遭っています。 加害者の父親である時任三郎サンは、やはり密告によって職を転々としている。
 加害者の妹である満島ひかりチャンは(序盤ではその事実は伏せられています)は、その密告をしているのが被害者の家族だと考え、それをやめさせようと瑛太クンの釣り堀へとやってくるのです。

 …、とはいうものの、ここで説明した諸々のことは、物語後半にならないと、きちんと説明がされません。
 だから最初はなんで満島チャンが瑛太クンのところに行くのかが、分からない。
 察しのいい視聴者が(もしくは番宣やザ・テレビジョンを先に見てた人が…笑)その事情を分かるわけです。 「アハ!」 映像みたいで小癪な作りです(爆)。

 で、私も前知識だけはいちおうネットで読んでたので、な~んでか分かったのですが、ここでの瑛太クンと満島チャンのファースト・コンタクトの様子が、これがまたわざとらしさ全開で(笑)。
 まるで山田太一サンのドラマ(ずばり言ってしまえば 「ありふれた奇跡」 の仲間由紀恵サンと加瀬亮クンの出会いのシーン)の再現を見ている感じ(笑)。
 坂元サン、山田太一サンへのオマージュじゃないのかな?などと思ってしまいました。

 で、満島チャンはそのわざとらしいコンタクトのあいだに(満島チャンがカップ焼きそばの麺にいきなりソースをかけたとこは笑いました)(自分も生まれて初めてカップ焼きそばを食べたとき同じことした…笑)、柄本サンが病院を抜け出し、加害者の情報を得て、残り少ない自分の命を捨てて加害者に復讐しに行こうとするところを見るに至って、密告をしているのがこの父子ではないことを完全に悟ります。

 ここでの一連の描写の中で浮き彫りになっていくのは、妹が殺されたときにレンタルビデオ屋でエッチなビデオを借りていてヤラシイことを考えていた、という瑛太クンが、その心の傷のままに女性と付き合うことができなくなり、かなり内向的なアブナイ性格に陥っている(笑)ことでした。
 そんな彼も、父親が妹の写真をすべて焼いてしまったために、妹の顔さえ思い出せなくなっている。
 これはかなりつらいことだと想像されるのです。

 加害者に復讐するために包丁を持ったまま電車に乗ろうとして捕まった柄本サン、売り物件のままのかつての自宅に上がり込み、ここで娘の面影をあらためて追体験することで、常軌を逸した復讐心が、表面上穏やかだった仮面を突き破って爆発するところは、息をのむほどの演技でした。 圧巻。

 柄本サンは実は、娘の上げた凧が落下するところを目撃していたのです。
 なのに、あの日は暑かったので、その不安を捨て置いて、パチンコ屋に入ってしまった。
 瑛太クンがヤラシイことを考えていたのと同様、父親も心に大きな後悔の傷跡を、隠し続けていたのです。
 柄本サンは医療少年院の看護師さんから少年Aの情報を探り出し(看護師さんの義憤、という側面も思い至ります)、出所前に少年A(それを瑛太クンは同級生の三崎文哉であることを知っているのですが)が描いた犯行現場の絵を見たことで、奴は反省していない、という確信を抱くのです。

 「奴にとって、それは美しい思い出に過ぎないんだ…。

 (突然亜季のベッドを激しく叩き)なんで!!

 なんで亜季を殺した奴が生きているんだ!!

 亜季はもう帰ってこないんだ大人になれないんだ!!

 なのに!

 なんであいつはたった7年で出てくるんだ!!

 大人になれるんだ!!

 罪も償ってない!
 反省もしてない!

 前科もない、自由だ!!

 どっかの町で、平気な顔して、人にまぎれて暮らしてるんだ…!

 だけど…だけどあいつ、あいつまたやる、
 あいつ、また人を殺す…!」

 柄本サンは息も絶え絶えに、むき出しのままの殺意を息子にぶつけるのです。
 これは被害者家族が一様に抱く、かなり原初なむき出しの感情であるはずです。
 それを多かれ少なかれ、被害者家族は押さえながら生きていかねばならない。
 しかも加害者が少年であった場合、必要以上に彼らは法律によって守られます。
 加害者が成人のとき以上に、被害者家族の苦しみは、行きつく先がない、やり場がない、解消のしようがない。

 柄本サンは瑛太クンに、明日奴の保護司だった男の葬儀があるから、そこにお父さんを連れてってくれ、亜季の仇をとるから、でなきゃ死んでも死にきれないんだ!と激しく懇願し、そのまま人事不省に陥り、亡くなってしまいます。
 その柄本サンの怒りの場面まで見ていた満島チャンはもはやその場にいたたまれなくなり、柄本サンが人事不省に陥る直前で、その場から逃げだしてしまう。

 釣り堀に戻ってきた瑛太クン、父親が娘のために買っていた赤い靴を押し入れから見つけます。
 すると、次から次から出てくる靴の箱。
 女の子の靴から女性の靴。
 父親は、娘のために、死ぬまで靴を買い続けたのです。
 そして色褪せた、赤いランドセル。
 瑛太クンはそこから、おさげ髪の妹の自画像と、凧あげをしているその自分の絵を、2枚見つけます。
 その絵を見て、記憶から失いかけていた妹の顔を、まざまざと思い出すのです。
 呆然とする瑛太クン。
 ここ、泣けました。

 そして父親が 「今日は亜季の誕生日だから」 と買ってきておいた、妹のための半分潰れたケーキ。
 うう、ダメだ、また泣けてきた。
 瑛太クンはそれを見て、妹の誕生日祝いの光景を、さらに記憶の底から蘇らせる。
 瑛太クンは何を思ったのか、2階を駆けあがり、大きな模造紙を広げます。
 瑛太クンは、凧を作ろうとしているのです。
 あ~なんか、ここらへんは泣ける~。
 「妹にほとんど優しくすることがなかった」 と満島チャンに話していた瑛太クンでしたが、思い出すのは、自分が妹に優しくしてあげたときのことばかり。
 「優しい兄ではなかった」 というのは、実は彼が、やさしくしていた思い出を心の奥底に沈めてしまって、悲しみも一緒に沈めてしまったからだったのではないでしょうか。
 蘇ったその妹との思い出は、もうなんか、泣けて仕方がなかったです。
 そして妹の殺害現場にやってきた瑛太クン。
 それまで胸に秘めていたであろう悲しみ、怒りをすべて吐き出すかのように、声にならない思いを叫びながら全力で凧をあげるのです。

 あ~だめ。
 さすが 「Mother」 の脚本家さんだわ。

 そこに、妹の幻影が、現れるんですよ。

 「あー…。

 凧たかいね。

 お兄ちゃんすごい。

 凧たかいね…」

 「亜季…?

 …亜季…」

 その場に崩れ落ち、慟哭する瑛太クン。

 うう…なんとかしてくれ。

 そして死体が浮いていたという沼に入ってそこに浮かび(ここらへんが、ちょっと 「アブナイ」 感じなんですが…笑)、妹を思う兄。

 「亜季…冷たかったか…?

 痛かったか…?

 …待っていろよ…亜季…」

 ぼさぼさだった髪の毛を自らカットする瑛太クン(かなり上手…笑)。
 腹ごしらえに、チャーハンを作る瑛太クン。
 そこにソースが、ドボドボ投入されます。
 つまりそれは、父親の思いを息子が受け取った瞬間。
 復讐を、彼は心に決めたのです。

 その直前に、別れて暮らしている母親の大竹しのぶサンのもとを訪れた瑛太クン。
 大竹サン、自分の 「オールナイトニッポン」 をやってる同じ時間帯のドラマには出ないだろうと思ってたんですけど(笑)、それを裏切るかのようにここのドラマでも、娘の死ですっかり涙を使い果たしたドライな母親役になりきってます。
 彼女はかつての夫の死にも、べつだん驚くこともなく、冷たいそぶりを貫きます。
 そんな母親に、瑛太クンは先ほど述べたセリフを、怒りとともに吐き出すのですが、どうもこの母親、大竹しのぶサン、何食わぬ顔をして実は満島チャン家族の密告者としてすでに復讐しまくりだったりして(また浅知恵だ…)。

 瑛太クンは少年Aの保護司(でんでんサン…なんじゃコリャ)の葬儀に出没、満島チャンとも再会するのですが、そこでかつての少年A(風間俊介クン)を発見、いきなりジャック・バウアーみたいに決まったポーズで(笑)彼を刺し殺しに突進します。
 それを満島チャンが必死になって止める。
 彼女は少年Aの、妹だったのです(ってもうさんざんバラしたも同然なのですが…笑)。

 結構ぎこちない部分も残しながら、終わってから 「…あ~暗かった…」 と感じながら(笑)、やはり続きは気になります。
 風間俊介クンは金八のときから、いっこうに改悛してないようだ(って違うって)。
 「人間って、悲しい生き物だから…」 などと言って、彼には亜季を殺した罪悪感というものが、残っていないようです。
 それともこの事件、とてつもない冤罪だったりして(また浅知恵が…)。

 それにしてもテーマ曲の、小田和正サンの曲、あ~さすがの透明感。
 そして音楽担当の辻井伸行サン、確か盲目のピアニスト。
 ドラマ中でもショパンとかラフマニノフ?とか、実に適宜を得た選曲で。
 このおふたりの音楽が素晴らしい。

 どうも今クールはこのドラマ中心で、まわっていきそうです。

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「ブルドクター」 今後がなんとなく気になるようなならぬような…(笑)

 江角マキコサンがアメリカ帰りの法医学者に扮するドラマ、「ブルドクター」。
 帰国早々警察の捜査に次々と口をはさむのですが、その彼女と対立する刑事役に石原さとみチャン。
 初回を見る限りでは事件ものとしては展開がすぐ読める。
 そして主役周囲(法医学教室、捜査課内部)の人間の体温差がかなり低く、ただの揶揄役の域を出ていない。
 江角サンの思想と対極にある偉そうな人に稲垣吾郎クン、この役割もありがち。
 さらに江角サンにはひとり息子がいるのですが、その子と意思の疎通を図れないことで、何か物語的にこの問題を引きずっていくのかな、と思ったら、第1回目で早々に解決。

 要するに結構ダメドラマの匂いがぷんぷんしているのですが(失礼)、なんか次回も見ようかな、という気にはなっています。
 その原因は、江角サンとさとみチャンのキャラに安定感があって、ちょっと今後このふたりがどう物語を泳いでいくのかに興味があるため。 作り手の興味もまさにこのふたりにしかないような気がする。 江角サンをアメリカから呼び寄せた、とても人格者っぽい小日向文世サンがアル中気味だとか、あんまり興味はございません(笑)。
 江角サンの夫役である市川亀治郎サンも、彼が出てくると一筋縄ではいかない役が多いために、何かあんのかな?という気にもなるのですが(笑)、んー興味ないかな(爆)。

 その江角サンは、「ショムニ」 を彷彿とさせる(と書きながら私このドラマ見ておりません)オレ様キャラで、一部の受け手のかたには、ちょっと食傷気味に映るかもしれません。
 でも結構、やっぱり安定感があるんだよな。
 彼女みたいな突っ張った感じのキャラって、女性が社会進出しだしたひとむかし前まではその象徴的な役割をかなり担っていた気がするのですが、社会進出が当たり前となりつつある現代では、その個性が埋没しがちな傾向にある気がします。

 でもあらためて、彼女みたいな自分を前面に出す女性キャラというものは、同性たちに求められているのかもしれない。

 不景気なうえに大災害によるかつてない危機的状況で、近頃の女性たちは堅実な方向に生きかたをシフトしようとしている気がするんですよ。 結婚相談所が盛況になったりとか。
 そこに江角サンのようなひとむかし前の先進的女性という存在を再びクローズアップさせる意味はあるんじゃないのかな、そんな気がするのです(ややこしいこと考えとるな相変わらず)。

 そしていっぽうの石原さとみチャン。

 若くてキャワイイ彼女が捜査課での腕利きだ、というのは、んまー昨今のテレビドラマでは腐るほどある気がするんですが、はじめ江角サンといきなり衝突するその方法論が、かなりステレオタイプを意図的に、彼女なりに自己演出している気がするんですよ(買いかぶりかもしれませんが)。

 そしてそのさとみチャンが江角サンの考えに触れて自分を変えていく。
 その過程もドラマ的には実にありがちですが、どう変わっていくのかは、なんとなく興味があと引く感じがする。 …よーするにさとみチャンファンなんですけどね、ブッチャケて言えば(爆)。

 まあ今後の展開次第では大いに失望することもありえるドラマですが、ちょっと付き合ってみようかな、という気はいたします。

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2011年7月 6日 (水)

「リバウンド」 第10回(最終回) トンカツケーキ

 大場信子(相武紗季チャン)と今井太一(速水もこみちクン)を、結局どうしたいのか。
 「リバウンド」 最終回は脚本家の遊川和彦サンの心の迷いがそのまま前面に出た気さえするグダグダぶりでした(爆)。

 ただそのグダグダが、とても意図的に行なわれている感じで、「なんかせわしないな」 と感じつつ、見ていてなんか泣ける部分もあったし、「んなんじゃソリャ」 と、ジーパン刑事に半分なりかけた部分もありました(笑)。
 結局それなりに楽しめた。
 この手の軽めのドラマには、こういう、結末を大きな振り子で激しく左右に振って、見る側を翻弄して終わらせる、という方法もありなんだな、と強く感じました。

 その象徴が、大場信子の決断に大きく関わっている実家の 「とんかつ屋」 と、今井太一が親から受け取った財産である 「ケーキ屋」 の融合。

 岐阜と東京にそのふたつの店が存在していてそれを動かせない、ということから、信子は太一との仲をあきらめざるを得ない、という決断に至っている。
 だったらその 「動かせない事実」 を動かしてしまったらどうか。 「第3の道」 を作ってしまったらどうか。
 作り手の事態収拾の発想はそこから出発しています。

 それをドラマでは、実際に 「とんかつケーキ」 として実現させてしまうのですが、
 …
 正直言って 「あり得ねー」(爆)。

 でも、ここで瞳(栗山千明サン)だったか、「なにも甘いケーキにこだわることはない、キッシュのようにしたらどうか」 という提案をすることで、「あ~なるほど!」 と見る側は目からウロコ状態になってしまう。 一気にリアリティを感じてしまうんですよ。
 まさにドラママジック、と言える 「無理やりな融合」 の仕方ではないですか。

 そしてこれが、太一が作り上げた10個目のケーキ。
 「ケーキを10個作る」 というのは、彼の父親が 「アンジュ」 を立ち上げる際に目標にしたケーキの数であり、いったんどん底を経験した太一が、自分の復活の象徴として掲げた目標でもあるのです。
 この 「とんかつケーキ」 が出来たことで、実家の 「とんとん亭」 でも東京の 「アンジュ」 でも、どちらでも信子が働ける、という状況を、作り手は創出したのです。
 そして実家の跡取りに、会社を辞めてまでこの店についてきた研作(勝地涼クン)を配することにし、研作と瞳にシンパシーが生まれつつある描写をすることで、ドラマをゴーインに(笑)収束させた。

 瞳の太一への恋心ですが、やはりこれも瞳のほうからフェードアウトさせる。 こうしないと信子と太一が一緒になれませんからね。

 ここに編集長(若村麻由美サン)を絡ませてきて(笑)「元おデブ日記」 を存続させることとして、有希(西山茉希サン)とのわだかまりの解消も盛り込み、信子のかかりつけの医者であった半海晃サンも信子を見て 「太っていることが罪悪」 という考えを改めることでクリニックを辞めさせ、デブの奥さんをめとる、という、

 …

 よくもまあこんなに全部解決したもんだと(爆)思うほどの、究極のドタバタぶり。

 とてもマジメな視聴者のかたは、このあまりにも無理やりすぎる展開に、ちょっと引いてしまう部分もあるかと思います。

 これをシリアスドラマでやられたら、確かに引きますよ。
 たしかに 「リバウンド」 はそれまで、コメディながらも主張するところは主張していたために、それまでの論調と最終回の無理やり感は、なじめない部分もあります。
 でも、「後悔しながら生きるより、なんとか無理やりでも、夢は持ち続けていたい」、という、作り手の淡い願望が、そこには含まれている。
 作り手は最後に大場信子に、こう語らせています。

 「自分の選んだ道が、これでよかったのかなんて、まだ自信がない。

 将来、いろんなことを後悔する日が来るのかもしれない。

 でも、あたしはこれから、大切な人たちと生きていく。

 愛と勇気と、信じる力で!」

 ドラマという世界では、ことさらテーマに沿った生きかたを登場人物はしなければいけない、という縛りがある気が私はします。

 でも現実の人生って、結構みんな、「そうなりたくなくても、そうならざるを得ない方向に、流されていってしまう」、ということだらけだと思うんですよ。 結局あっちゃこっちゃにぶつかりながら、等身大の自分しか、自分の人生を生きていない。 自分の夢だって、結局自分の思い描いた通りになってないかもしれないけれど、等身大の自分なりの夢の実現の方法が、いっぱいある。

 信子の生きかたも、結局グダグダでシッチャカメッチャカだったけれども、結局そうならざるを得ないところに落ち着いています。
 それをこのさき信子は後悔することになるのかもしれないけれど、

 大切な人と一緒に生きていくからなんとかなるだろう!

 そんな楽観主義が人生を前進させる風と帆の役割をしていくと思うのです。

 最終回の体裁としては、確かにグダグダ。

 でもそこがよかったんじゃないのかな、そんな気がしています。

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2011年7月 5日 (火)

政治が変わる未来

 世間では私と一字違いの男がお騒がせをしているようであります(笑)。
 「まつ」 ではなく 「はし」 のほうの男は、べつだんたいした感想など抱いていないのですが、「まつ」 のほうの男は責任をとって辞任しながらも、自分は何ら悪いことをしたと考えていないご様子であります。

 「はし」 の男は考えるのですが、もう現在の政治には、心底うんざりしております。

 人間偉くなると、多かれ少なかれ、調子に乗るものです。

 謙虚な気持ちを保つってことは、実はかなりの理性を必要とする。
 「実るほど頭を垂れる」 ということは、自己抑制機能が発達してないと、出来ないんですよ。

 だから大臣になると放言が多い、というのは、実にその人が人間らしいという点で、同情すべき部分があります。 みんな威張りたいし、「何もせんで物乞いみたいに権利を主張するな」 とも考えがちだし。

 まあだけど、「まつ」 のほうの男が人間の気持ちというものに思いが至らない 「ま」 ぬけだったということは、シャレになりませんなあ(笑)。
 こういう人しかもう、菅サンの言うことを聞かない、ということなんでしょうけどね、メディアの受け売りですけど。

 「はし」 のほうの男が考えているのは、「この国の政治は、戦後にそのシステムが作られたけれども、もうとっくに終焉の時期を過ぎている」、ということであります。

 大臣の放言だの与党による総理大臣のたらいまわしだの、民主党になってからも全く変わることなし。 同じことやってんじゃないよと言いたくなる。

 そしていっこうに進まぬ定数是正、議員の事業仕分け。

 テレビドラマ 「JIN」 を見ていて感じていたのですが、この国はこの先、明治維新や敗戦に勝るとも劣らないほどの、政治システムの革命が必要なのだ、そう痛感するんですよ、この頃。

 そのいちばんの支柱は、「総理大臣は国民の投票によって決める」。

 まあ、現在の日本が持っている人的なスケール感というのはもう、縮こまりまくってますからね、最初はまずうまくいかんと思いますよ。 ビートたけしサンが立候補したら総理大臣になっちゃいそうな(笑)。

 けれどもタレントとかの人気者が簡単に議員とか知事になれちゃうっていうのは、この国の政治が腐りきっている証拠なんですよ。
 いっぽうでしがらみにがんじがらめにされている政治家に期待しない、という積極的理由を持ちながら、どこかに 「タレントふぜいを代表者にするくらいしかすることがない」、という国民のあきらめ、自虐がそこには含まれている。

 ここには国民の怒りが静かな形で潜行しているのですが、現在の政治システムを根本から変える、となると、もっともっと大々的な国民の怒りというものが必要になってくる気がいたします。 「まつ」 の男の辞任は、結構国民的な非難の大合唱がそうさせた部分があると思うんですが。

 そうなるには、もっともっと政治に腐敗していただかないと、ずーとこのままでしょうね。 「遠い遠い未来のおとぎ話」 ですよね。

 でもさすがに 「JIN」 みたいに今から150年後には、そうなってるかもしれません。

 それを見るにはまた未来の日本に生まれてこなければ…(気の遠い話だ…笑)。

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2011年7月 2日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第24回 ガキは すっこんでろ

 「利休切腹」 とサブタイトルで謳いながら、結局利休は秀吉から切腹を申しつけられただけ、だったのですが、この回の作り手の興味は、実に 「なんで利休は秀吉に切腹させられたのか?」 ということのみに集中していました。

 その語り部にかんしては、なかなか見ごたえがありました。
 しかもこのドラマならではの人物描写をかすかに感じさせながらの見せかた。

 今回も秀吉は相変わらずお茶目な部分を残しているのですが、その場面と、こと利休に対してシリアスになる場面との豹変の仕方が、このドラマでしかできない特徴のように思えるのです。
 これは見るほうが秀吉役の岸谷サンの演技に慣れてしまったのか、岸谷サンの演技自体が 「演じ分け」 を咀嚼できるようになってきたのかは判然としませんが、初期のころに見られた、「ただオチャラケているだけの秀吉」 とは微妙に違う凄味が生じてきている気がするんですよ。

 それはおそらく、茶々に自分の子ができた、という 「父親としての自覚」 みたいな、心境の変化、次なるステージへの進化、ということが大きなファクターとなっていることが推測されます。

 そして朝鮮出兵、という、私が実際の秀吉の行動から見てもハテナ?と思えるような、天下取りからの、形がいびつになりつつある征服欲、権力欲をこの回のドラマでも秀吉は前面に出していくわけですが、要するに利休がここ数回嫌悪感をあらわにしているのは、こうした秀吉の、イケイケドンドンな 「やりすぎ感」 に端を発しているわけです。

 それをこのドラマにおいて端的に象徴させようとしていたのが、ひびの入った竹製の花立て。

 そういうわびさびの究極みたいな精神状態を、キンキラキンの秀吉は、理解できないわけですよ。

 秀吉がキンキラキンのキンキラキン(だいじょぶだあ…笑)なのはよく分かるのですが、私が見ていて岸谷サンなりに作ってるなぁ~と思うのは、秀吉のソックス、じゃなかった、足袋。
 赤とか黄色とか、そのものずばりの原色ですよネ(これをまた、スタッフは大写ししたがるんだこれが)。

 なにしろ今回終盤での秀吉と利休とのやり取りで、秀吉はまず利休にあらためて自分のそばにいてくれ、と頭を下げるのですが、この秀吉の行動には、弟の秀長の死、というものが深く関わっています。
 秀長は死の間際、秀吉に 「イエスマンより苦言を言ってくれる人を重用してくれ」 と、利休のことを擁護しながら暗に三成を批判して、秀吉の腕の中で息絶える。

 秀吉はこのドラマの中では基本的に家族思いの人間ですから、その秀長の遺志を尊重して、いったんは利休に頭を下げるんですよ。 「今後ともわしに言いにくいことを言ってくれ」 と。
 でもこれって結構本意じゃない。
 「自分は弟を思いやるからこそ、弟のためにこうして頭を下げてやってんだ」 という意向が、見え隠れしている。
 だからその場で利休から、また言いにくいことを言われてムカッてしている。
 「『言いたいことを言ってくれ』 と今言ったばかりじゃないか」 と返す利休は、秀吉のその本心を、見抜いているわけです。
 そしてあらためて 「自分は茶頭をやめたい」 という意志を明らかにして、「それはアンタがキライになったからだ」 と、もうそのものズバリを言い切る。
 「自分は嫌いな人間のために茶を立てとうない」、と。

 これは、鶴松の噂に激怒して大虐殺をしているとか、それまでの秀吉の所業を考慮すれば、「切腹覚悟」 の大放言であります。

 秀吉は利休が、切腹を望んでいるとそのとき確かに感じ取ったのでしょう。
 「切腹を申しつける」、と秀吉は、利休に耳打ちするのです。

 このくだりに関してはもう、何も文句のつけどころはございません。
 なかなかきちんとドラマを構築していると感じます。 が。

 私が感じるのは、こうした大人でなければ理解ができぬような、男同士でなければ理解ができぬような、政治的な思惑さえも微妙に絡んだ世界に、またしても江は浅知恵で首を突っ込んでくる、というその苦々しさ、なのです。

 江は今回も、朝鮮特使に対して無礼なことをしまくったうえに利休と反目している秀吉の耳を引っ張り(引っ張ってなかったか?…笑)ずけずけとものを言うのです。
 ガキはすっこんでろ、と言いたくなる。
 どうしてこんな性格描写しかできないのか?
 いや、したくないのか?

 で、相変わらず秀忠に秀勝との仲を揶揄されて、そんないけ好かないヤツとこのあと結婚いたします、みたいな、なんかどっかの学園ドラマみたいなことをやってるんですからね。

 利休と秀吉との関係に精魂を傾けるのは結構です。
 でも、このドラマって、江が主役じゃないんですかね?
 どうしていつまでも、こんな、主人公に感情移入できないことばかりさせるのか。

 やっぱり田渕サン、上野樹里チャンが嫌いなんだな(下らん憶測です)。

 ガキはすっこんでろ、って、実は田渕サンの心の声なのかもしれない。

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2011年7月 1日 (金)

「鈴木先生」 第10回(最終回) 大人と子供の境界線

 鈴木先生(長谷川博己サン)ができちゃった結婚をすることに対して開かれた2A生徒たちの糾弾裁判。 前回からの続きです。 そしてこの裁判がこのドラマのメインメニューとして最終回に配されたことになります。

 とはいえ、1週間というクールダウンの期間を強いられた見る側としては、あらためて考えると 「どーしてこのよーなことをかくもマジメに討論しなければならないのだ?」 という気にさせられる。

 このことのハンデを作り手は回り道して既に考えていた気がします。
 つまり言い出しっぺの丹沢(馬淵有咲チャン)が、「私はもう、どうでもいい」 と言い出すのです。
 丹沢はこの裁判が、実は自分の鈴木先生への恋心が裏切られた、という 「私憤」 によって開廷されたことを、自覚している。
 感情の暴走するままに裁判などという大仰なものをクラス全員に強いてしまったことは、自分の私憤が白日の下にさらされる、という 「恥ずかしさ」、を伴う作業です。
 けれども竹地(藤原薫クン)が丹沢に同情することで、裁判は続行される。 竹地がいちばん 「恥」 というものに直面していたからこそ、かれの言葉は丹沢に受け入れられるのです。

 生徒たちは議論が続く中で、「もういいんじゃないのか」 という自問自答に苦しめられるのですが、小川蘇美(土屋太鳳チャン)の 「今、お腹を開いて血が出ている状態。 ここでやめたら病気は治らない」 という理屈によって、議論は続いていきます。

 そして、このような、一見どーでもいいと思えるようなことを、生徒たちはマジメに議論していくことになるのですが、それを 「どーでもいい」 と思ってしまうことこそが、大きな問題となる場合がある、ということを、物語の語り手はさりげなく問題提起してくるのです。

 議論が白熱するなかで、吉井(下山葵クン)という、ちょっとさえない男の子が発言をするのですが、彼が意見を言うことは、とても珍しいらしい。 ほかの男子どもはそのことをからかおうとし、まともに取り合わずに嘲笑しようとする。

 私はこの場面を見ていて、物事に対して真剣に向き合うかそれをどうでもいいことだと受け流すか、前者を大事にするのが子供であり、後者の方向に流されていってしまうのが大人なんじゃないのかな?ってふと思ったのです。

 いずれにしても、あることを考えることにおいて、「メンド臭え」 と考えてしまうことは、大人にも子供にも共通している傾向です。
 ただ子供は、そう考える機会が少ない。
 でも生きていると、「メンドクセエ」 と、考えることを回避してしまう経験が、静かに降り積もっていくのです。
 そして人は、いろんな考えなければならないことを回避しながら、大人になっていく。

 今回の議題について、「出来ちゃった結婚なんか今どきいっぱいいるだろう、なんでいちいち問題にしなけりゃいけないんだ」 という思考は、思考停止状態のひとつです。

 「思考停止」。

 この裁判を別の教室からモニター監視しながら、現地にいる入江(松本花奈チャン)を遠隔操作していた謹慎中の足子先生(富田靖子サン)が、収束しようとしていた裁判をまた引っ掻き回そうとして、入江に言わせたセリフであります。

 けれども鈴木先生のしでかしたことをなあなあで済ませてしまおう、とするのも思考停止であれば、避妊はどうしてもしなければならない、という結論をごり押ししようとするのも、思考停止なのであります。

 議論において、てこでも動かない結論を持って臨むのは、同じく思考停止といえる。

 「朝まで生テレビ」 などを見ていて私は、政治家や評論家たちが、いかに議論下手なのかをとても痛感することが多いのですが、その原因は、彼らが結論しか話そうとしないところにある、と考えています。

 確かに彼らは、支持者たちの代弁者としてその場に座っている、という立場、というものがある。

 けれども互いに自分たちだけの言い分を通してほかの意見などまるで耳を貸さないのであれば、そこはただ単に意見の表明の場なだけであって、議論などする必要など、これっぽっちもないのです。

 国会が同じように、議論の場としてまったく機能していないのも、この点によるものである。
 大人たちは思考停止した精神状態のまま、世の中はこういうものだ、それが世間の常識だ、それが法律だ、それがルールというものだ、だから黙って従え、と、子供たちにも押しつけてくる。

 そんな大人たちに、子供たちは限りない不信感を募らせていくわけです。

 しかし子供たち、きみたちも実は、「メンドクセエ」 という思考回路によって物事をあいまいなままで看過しようとし、大人になっていくものなのである。

 「鈴木先生」 の最終回で行なわれたディベートは、実はそのせめぎ合いのさなかに漂っています。

 どうでもいいだろ、と思われた事項のなかで、生徒たちは、当のできちゃった結婚をした自分たちの親の数ケースを見ていくことによって、出来ちゃった結婚にもいろんな事情があることを悟っていきます。
 つまり、子供の立場から見ていっしょくたにひっくるめて汚い、と思われたケースでも、個々の問題としてとらえなければならない場合がある、ということに生徒たちは気づいていくのです。

 でもそれは、足子先生と一緒にこれを見ていた神田マリ(工藤綾乃チャン)がいうように、「自分たちの損得で無理に納得してしまおうとする」 ということと、実際紙一重の問題なのです。

 そしてもうひとつ、このドラマをフツーのドラマとは違う、エキセントリックな方向に一気に押し広げたのが、数人の男子生徒と関係を持って、結局竹地とも関係を持っていた河辺(小野花梨チャン)。

 彼女は議論が展開していくなかで、コンドームをつけてセックスするのはとても罪悪感とか嫌な気分がするんだ、そんなモヤモヤをナマですると忘れられるほど気持ちがいいんだ!という、…ほとんど恥じらいというものを宇宙の彼方にブッ飛ばしたような(爆)「あり得ない」 過激な中学生ぶりを発揮して、裁判の場を大混乱に陥れるのです(スゲェ…絶句…笑)(親がよく出演承諾したなコレ)。

 これには鈴木先生も当事者(笑)の竹地も大ショック(爆)。
 隠しておかなければならないことは、いかな中学生でもわきまえていますから、河辺の激白は女友達によって覆い隠されようとするのですが、ドラマ的に、ここまで議論を推し進めないと、問題の最深部にまで到達しないまま、安易な妥協点を物語は選ばざるを得なくなってしまう。

 河辺は子供を育てるのが経済的に大変だなどと考えたりするから金持ちのオジサンと援交したりするんだ、病気なんかこわくない、それで死んでも愛しているからかまわない、自分がその赤ちゃんで病気をもらっても自分だったら許す、そんなことを問題にするほうが間違っている、自分にはそこまでの覚悟があるんだ、という持論を爆発させます。

 この、ナマでするのがいいか悪いか、という議論は(ホントすげえなコレ…笑)、避妊教育の是非の根幹に関わってくる問題であります。

 「避妊をしましょう」 というのは、「セックスするのが許されている」 という状態。
 ここで大きく力を持ってくるのが、竹地がかつて鈴木先生から教わった、「許される」 ということの持つ意味です。

 竹地はそこから、両方が並立する余地があるのではないのか?という問題提起をぶつけて、この混乱の場を乗り越えようとするのです。

 「たとえば、ぼくたちには、つけてするという選択が許されている。
 『つけてしなさい』 でも、『つけてするべきだ』 でもなく、『それが許されている』 という考え方。
 それなら、かちあうことなく、分かり合えます」

 鈴木先生はここを議論の収束ポイントととっさに判断し、個々の考えを一方的に間違っている、とする議論の態度を、生徒たちに問い直していくのです。

 「現代は、多様性の時代と言われている。

 だが、果たしてそうだろうか?

 確かに、さまざまな価値観を自由に選択することが許されてはいる。
 しかしその結果、ひとりひとりが、自分に都合のいい意見に閉じこもり、他人の異なった意見に耳を貸さない。

 個々の胸の中は結局、偏った考えに凝り固まって、貧しくなっているんじゃないだろうか?

 ひとりひとりがたくさんの価値観を胸に抱き、面倒で苦しくても、向き合い、葛藤し、まわりの価値観との共有を一生懸命探れば、ぼくらには別の道が開けてくるはずなんだ」

 頭を柔らかくしろ、ということだと思うんですよ。
 中学生あたりなら、それができる。
 大人になってしまうと、結構凝り固まった考えを修正することは困難を伴います。

 出来ない、と思いこんでしまうこと。

 最初から無理だから、などと思っていては、なにも開けていきません。

 子供には、真実を見極めよう、という意欲が生命のうちからあふれ出ている。

 大人になると、なぜこうも、決めつけたがってしまうんでしょうかね?

 それが、自分がメンド臭い、と思って捨ててきた思考の果てにある 「決めつけ」 だから、余計にタチが悪い。

 いずれにしてもここぞとばかりに持論を展開する鈴木先生に、「あざとい…」 と感じたのも事実ですが(爆)、河辺の引き起こした混乱がなかったら、ドラマはここまで見る側に納得のできる結論を、導き出せなかったでしょうね。

 生徒たちは結論をすぐそこで出さず、処分保留のまま鈴木先生は裁判から釈放されます(なんじゃソレ)。
 結論を出さないまでも、ある程度それですっきりした気分になれた、生徒たちによって。

 足子先生は人事不省に陥り(笑)、窓を開けて 「鈴木のぶぁかやろおおお~~~っ!!」 と雄たけび(あ、雌たけびか)をあげ、車で自宅まで送り届けられます。
 神田マリは、「なんで自分は2Aじゃないの…」 と寂しげな笑みを浮かべる。
 酢豚の件とか小川蘇美の件とか、よく分からない部分もあったのですが、明日からBSジャパンのほうで再放送が開始するので、一応それを追ってみたいと考えております。

 マイティサン、このドラマを御紹介いただき、ありがとうございました。 あらためてお礼申し上げます。

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