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2011年8月 4日 (木)

「胡桃の部屋」 第2回 「役割分担」 という足かせ

 父親(蟹江敬三サン)の失踪で自分が父親の代わりをしなければ、と思い至った娘(松下奈緒サン)。
 父が連帯保証人していたことから肩代わりしていた毎月8万円の借金返済も自分の給料から捻出することを決め、会社のレクリエーション行事にも参加せずクリスマスケーキも小さいのを買って、とりあえず気分だけは父がいたときのままで過ごしていこう、と頑張ります。

 それにしても気になってしまうのは、ちょこちょこ出てくる当時の時代考証の甘さ(笑)。
 先週も指摘したのですが、クリスマスのポップ広告とか、郵便ポストの形とか、間違い探しでもするみたいにこのドラマを見てしまいます(笑)。 どうも揚げ足取りみたいでいかんなあ。

 で、やはり現代と決定的に違う、と思ってしまうのは、パソコンやケータイのあるなしなんじゃないか?なんてことなのです(ドラマの内容と乖離していく…)。

 商店街のポップ広告も、当時はおそらくすべてがアナログで進行していたと思うんですよ。
 なのにドラマに出てくるのぼりの文字とか見ていると、「これってパソコンにあらかじめあるようなフォントを使ってるよなあ」 と感じてしまったりする。
 松下サンは当時としては珍しい?キャリアガールの地位にいるのですが、出版社の企画を上司の徳井優サンに提出するのも完全な手書き。
 これが異常にラフな感覚で(笑)これがまた、気になってしまう。
 この企画書に、ポスト・イット風なメモが大量に張られている。
 ポスト・イットは当時なかったよなあと思ったんですが、今見返したらセロテープで張ってある感じでした(気にしすぎだっつーの…笑)。

 それに原田泰造サンだったか、懐から神社のお守りを取り出そうとする仕草を見て、ケータイを取り出すのか?とか一瞬思ってしまったり(爆)、なんか違う方向でドラマを見すぎている感じであります(ヤレヤレ)。

 同じ松下サンが出てくる昭和のドラマでも、「ゲゲゲの女房」 を見ているときは、こんなあらさがしの視聴姿勢にはちっともならなかった。
 なんでなのかと考えましたが、思うに 「ゲゲゲ」 のほうは、舞台は確かに昭和だったけど、ある種のパラレルワールド風な感覚が、どこかに潜んでいた気がするのです。
 マンガ家、という特殊な職業の夫。
 しかもその夫には、片腕がない。
 そして水木家を支配していたのは、当時の常識からかけ離れたおおらかな価値観。
 「まあ、なんとかなーわね!」 というおそるべきまでの楽観主義(笑)が、夫の茂にも妻の布美枝にもどっしりと根をおろしていた。

 それが全くないのが、今回のこのドラマ。
 リアリティ、という点ではこちらのほうが数倍まさっているのですが、まさっているがゆえに、細部に関わる当時の描写が余計に気になってしまう。
 このことは結構、興味深いです。

 「ゲゲゲの女房」 は当時を描きながら、実は逆に当時の価値観に対して大きなアンチテーゼを提示していたのですが、「胡桃の部屋」 は当時の価値観を最初から崩壊させてみせ、崩壊してしまった側から当時の価値観を見つめ直そう、見直していこう、という作り手の姿勢が感じられる。

 夫は会社から戦力外通知され家庭から逃げ出す、ということで、自分にとって本当に大事なものは何だったのかを考える機会を得ているし、妻(竹下景子サン)は夫が無責任に失踪してしまったことで、家庭を守る、ということに対して大きな疑念を抱かざるを得ない。

 妻は気丈に、何もなかったかの如く普通に振る舞い、夫のことを気遣いつつも、「悪いのは全部お父さん」 ときっぱり断定しなければ気が収まらない。
 いつも通り家を守って、畳の雑巾がけをしていても、そんなあまりにも当たり前に思われたことに対する疑念が、ある瞬間、怒りへと転化するのです。

 イライラが募っていき、雑巾を窓ガラスに投げつけてしまう竹下サン。
 窓ガラスが割れてもいいくらいの勢いなのですが、当然雑巾の1枚くらいでは、窓ガラスが割れることはありません。

 いっそ割れてしまったほうが、よかったのかもしれない。

 その後この家も一家の大黒柱がいないまま正月を迎えることになるのですが、まるで夫がいたときと同じ正月を粛々とこなしているうちに、竹下サンの精神状態は、いっぱいいっぱいになってしまう。
 彼女はおせちを狂ったようにかき込み、ゲエゲエ戻してしまうのです。
 おそらくあのとき窓ガラスが割れていれば、ここまで竹下サンの気持ちが追い詰められることもなかったでしょう。
 慌てる子供たち。
 水を飲んで少し落ち着いた竹下サンは、しかしうめくように吐き捨てるのです。

 「情けない…。

 子供たちに気つかわして…!

 娘に借金払わして、…そうまでしてうち出なきゃいけない理由なんてどこにあるっていうんですよ…!」

 竹下サンは包丁を持ち出して、「そんなに合わせる顔がないんなら私が死んであげますよ!」 と暴れます。

 いっぽう、夫の蟹江敬三サンも、実はおでん屋の女(西田尚美サン)と最初から懇意だったわけではなく、町でぼんやりと座りこんでいたところを、西田サンに拾われた格好だったようです。
 彼も身元の分かるものをすべて川に捨て去り、死のうとしていたらしい。
 そして西田サンのところに身を寄せながら、彼は死のうとしていた自分が生きながらえていることに、自分で自分に罰を与えるかのように、場末の路地でサンドイッチマンとして、自らを晒している。

 つまり、いったん妻としての役割、夫としての役割を放棄してしまうと、もう死ぬしかないくらいの極端な気持ちに、当時は簡単になってしまっていたんですよ。
 またここで 「当時の価値観」 という耳タコの(笑)解説しなきゃならんのですが。

 現代の家族って、どちらかというとあんまり家に対する呪縛とかないから、感覚的に言うと、夫としての役割、妻としての役割、子供としての役割、という役割分担があいまいで、当時と比べればも問題が起きても 「まあ、なんとかなーわね」 という感覚なんじゃないかな、と思う。
 まあ今だって泣いたりわめいたりもしますけどね、ひどい時は。
 けれども当時は、その役割分担があまりにも当たり前だから、それが本当に必要なものであるという認識が、薄れてしまっている。
 でも失って初めて、それが必要だということに、気付かされるのです。

 おでん屋の西田サンも、斜に構えて突っ張ってますけど(突っ張ってるという表現も、古いなぁ…笑)、実はそんな役割分担という面倒なことに潜む、家族の情愛というものをうすうす感じている。
 そして蟹江サンを追い詰めているそんな家族の古めかしい絆というものに、「何が家族よ。 笑っちゃう」 と言いつつ、自分がその情愛を思慕していることを認めようとしない。
 おそらく西田サンは、そんな蟹江サンの、家族に犠牲にされながらも家族に対する情愛のクセを残している実直な部分に、惹かれ始めているんですが。

 それにしても、このドラマの短いタイトルバックに出てくる、水のなかに落ちた胡桃が割れてシナプスが絡み合ってるような映像の意味が、いまだにつかめていません。
 ここに映る胡桃は、まるで脳みそのようです。
 おそらくシナプスっぽいCGも、そんな脳神経細胞の比喩なのだと思うのですが。

 今回、セピア色が支配する画面のなかで、松下サンと原田サンが会話する喫茶店のなかの水槽だけが、やけに青かった。
 なんか水、という点で、タイトルバックと関連性があるのかな、なんて、まーた要らんことを考えております(笑)。

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