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2011年8月19日 (金)

「それでも、生きてゆく」 第7回 高揚していく殺意

おことわり この記事、初出時より若干加筆いたしました。

 出演者などのテロップが番組冒頭に来るパターンの演出。 「流れ星」 でも見かけた手法ですが、これからドラマ後半に大きな出来事が起こるという緊張感を強いられます。
 前回この手法がとられた時は、大竹しのぶサンの衝撃の告白がメインだったのですが、今回は三崎文哉(風間俊介クン)が人を手にかけてしまう?という衝撃の展開。
 いきおい物語全体が、文哉の殺意が高揚していくさまに引っ張られて、見る側の理性を失わせます。

 今回のドラマ全編に流れていたのは、ショパンの 「雨だれ」。
 この曲は、導入部はとても優しいメロディなのですが、にわかに黒雲が現れ、雨だれは土砂降りの雨となっていく。 そして最後は導入部の主題である優しい雨だれに戻っていってエンディングを迎える、という構造になっています。 黒雲が現れる直前の、わざととも思える不協和音が、不穏な予感をかきたたせます。
 そしてこの中間部分の土砂降りと共に、ドラマ自体も不穏な空気に包まれていく。

 その助走とも言えたのが、文哉と一時期関係を持っていた少年院時代の看護師、東雪恵(酒井若菜サン)の告白。
 彼女が語る、少年院出所後の文哉の様子は、偶然来ていた耕平(田中圭サン)も含めた、深見洋貴(瑛太クン)響子(大竹しのぶサン)親子3人の心情を、残酷なほどに切り刻んでいきます。

 文哉は、反省していない。

 このことはその後やってきた双葉(満島ひかりチャン)によっても、あらためて響子にもたらされるのですが、洋貴はその告白がきっかけで、文哉に対するどうしようもない殺意が、ふたたび押さえきれなくなっていくのです。

 それは洋貴にとって、妹亜季(信太真妃チャン)の復讐のための、言わば憎しみの殺意。 後先考えない、制御不能の衝動的な殺意です。

 ただし三崎文哉の過去と現在がメインであった今回、丹念に描かれたのは、文哉の殺意というものが、「自分の救済」 を目的にしたものだった、という解釈。 私にはそう思えました。

 ルーベンスの絵に異様な反応を見せる少年院時代の文哉に、雪恵はこの絵が 「フランダースの犬」 に出てくる絵だから覚えていた、ということを話します。
 「フランダースの犬」 といえば、亜季チャンが生前、洋貴に(母親の響子にもだったかな)話していた内容が、思い返されます。

 「『フランダースの犬』 って、なんのためにあるの?」

 なにもいいことがないこの話の存在意義を問う亜季チャンが、文哉にも 「生まれてこなければよかったのに」 と話した、というのです。
 もちろん亜季チャンは、ネロが生まれてこなければよかったのに、と言ったつもりだったのでしょうが、それまで自分のなかにあった闇に、亜季チャンが土足で入ってきたように、文哉には思えたのではないでしょうか。

 彼を蹂躙している闇というのは、雪恵の看護師の同僚が話していた、家庭環境にその原型を見る気がします。

 「先生の診断では、父親が家庭に無関心だったうえ、もともと厳しかった母親が突然事故死したことが大きなトラウマを残したんじゃないかって」。

 いずれにせよ彼にとって触れられたくない闇が、彼を 「死にたい」 という精神状態にときどき追い込むことは言えている気がします。
 雪恵が見つけた彼の日記には、こう書かれていた。

 「また頭の中の井戸を覗き込んでみた。 水は入っていなかった。 渇いている。 水を入れたい。 すごく困る。 死にたい」

 同じ日記にときどき描かれる、金魚の絵。
 文哉にとって、人間というのは、水槽のなかにいる尾ひれのついたかわいそうな金魚で、それを掌ですくって壊してしまいたい衝動にかられる対象物でしかなかった。
 この見解は雪恵によるものですが、これについては別の解釈も成り立つような気もします。
 彼にとって美しくないものを、殺すことで昇華させる。
 言わばそれは、自分の救済であるとともに、相手の救済でもある。
 残ったのは、湖の絵のように、美しい世界。

 日記のなかに書かれた文哉の見た夢の中で、雪恵は金槌で、殴り殺されていました。
 しかし夢のなかの雪恵は、撲殺されながらも、ギョーザを作ることをやめようとしなかった。
 殺す、ということがすでに、文哉のなかでひとつの単純目的化している表れではないか?と感じます。
 彼は相手を、殺しているんじゃないんですよ。
 少なくとも殺す、ということがどういうことか理解できていたら、雪恵は夢のなかでも、死ぬはずです。

 殺すということは、相手の家族が傷つく、ということ。

 殺すということは、自分の家族も傷つける、ということ。

 彼にはその認識が、決定的に欠けている。

 「またいつかしてしまうと思う。
 またいつかしてしまうと思う。
 生まれてきてはいけなかった。

 人間は悲しい。
 どうして生まれたのか分からないまま生まれてきて、どうして生きてるのか分からないまま生きて、なにも分からないまま、なにも分からないまま死んでいく。

 殺す僕がいる。
 殺す僕は、僕の子供を殺すだろう。
 僕は見ているだけ。
 殺す僕を。
 僕の子供を殺すのを見ているだけ。

 それでも僕は生きている」

 この言葉の通り、文哉は出所後同棲を始めた雪恵とのあいだにできた子供を、わざと流産させています。

 彼の目には、殺す自分と、殺される相手しか、見えていない。

 これはとくに女児殺人事件、というものを一瞥したときに、共通している犯人側の認識のように思えます。
 この部分を見ていて、少なくともこのドラマの作り手は、「ある特殊なケース」 として、この女児殺害事件を取り扱おうとしているのではない、と感じました。
 女児誘拐殺害、というパターンを踏んでいく犯人が陥っているのは、たいていがゆきすぎた女児愛(ロリータコンプレックス)によるものだと私は思うのですが、このドラマでは早い段階で、その可能性を否定してします。
 けれどもそれは生々しさを削ぎ落した結果であって、そこまで描写してしまうと、犯人役の文哉に同情する余地が全くなくなってしまう。 犯人に対する強烈な憎しみを喚起することは、ことこのドラマでは避けなければいけないことなのではないか、と感じるのです。
 もちろんそのことで、このドラマが 「ある特殊なケース」 として成立してしまう部分はある。
 けれども作り手は、「殺人者が、極めて狭量な視野でもって殺人を犯す」、ということを最後の一線と定め、物語の普遍性をつなぎ止めている、そんな気がするのです。
 そして法律的な裁きを受けた人間が、実はその根源的な部分の病理を正常な状態にできていない、という今回のこのドラマのあり方自体から、法治国家が行なうことのできる 「更生」 というものの限界を読み解くことが出来る。

 作り手は、そんな物語を作ることで、「裁きを受ける」 ということ、「償いをする」 ということが、今の日本ではきちんと行われていないのではないか、という問題提起をしているように、私には思えてなりません。

 このドラマは、とてもあり得ないことの連続です。
 被害者家族と加害者家族がここまで頻繁に会い、しかもそのうちのふたりが、恋愛感情にも似た動機を持っている。 このドラマに批判があるのは理解できます。

 けれども、あり得ないとか、ためにする設定とか、そうやってこのドラマを拒絶する人たちは、物事を相手の視点に立って全体的な視野でもって考えようと、あまりしたくないのではないかと私には思えるのです。
 もちろん殺人事件に対して自分の考えうる限りの情報でもって自分は判断し、深く考えようとしていないなんてことはない、とその人たちは否定するかもしれません。
 ただやはり、自分が手にすることのできる情報は偏っているのでは?と疑うべきだし、全貌について見極めない限りその感想は浅いものだと言わざるを得ないし、何より当事者たちの気持ちになって考える、ということを、被害者(家族)のみならず加害者(家族)の立場になって考えることも重要なのではないか?と思えるのです。

 そしてそんな問題提起をしていることに、このドラマの存在意義がある。
 洋貴と双葉の恋愛に気をとられていては、その本質はなかなか見えてこないのだと、私は考えます。 センセーショナルな話の進め方に気をとられていては、このドラマの真に言いたいことは、伝わってこない気がする。 リアリティとか、役者の演技とかに感心して、このドラマにのめりこむ方法も確かにあるが、それはこのドラマが提起する問題の大きさの、いわば周辺的な話でしかない。

 文哉が女児殺害の犯人だったということを知って、真岐(佐藤江梨子サン)は自分の娘悠里(原涼子チャン)をあからさまに文哉から引き離し始めます。
 そして悠里チャンが自分の目が離れたすきにいなくなってしまったことに動転し、文哉をまっ先に疑う。 文哉の部屋にずかずか入ってきた真岐が見たものは、あの湖の絵。

 「なんなの? アンタ」

 侮蔑したような、真岐の視線。
 文哉の殺意の導火線に、火が付きます。

 悠里チャンを連れ出して遊んでいたのは、紗歩(安藤サクラサン)。 そこに現れた文哉。 手には金槌を持っています。

 「ぅわっ…っくりしたっ! なんスか? つか、なに持ってんっスか? アブナイですよっ。 離しましょうよ、ソレっ」

 文哉の殺意を感じた紗歩、悠里チャンに向かって叫びます。

 「悠里ちゃんお母さんとこ戻りな! いいから早く戻りな! 早くっ!」

 紗歩、結構マトモです(笑)。 突進する文哉を、紗歩は止めようとするのですが、次の瞬間鈍い音。 悠里チャンと遊んでいたバドミントンの羽根が、地面に転がります。 紗歩、大丈夫か?

 これらの描写のなかで、文哉の父親駿輔(時任三郎サン)、洋貴と耕平、それぞれが文哉の居場所である千葉の果樹園を突き止め、現場に向かっていくのですが、ああもどかしい。

 文哉は足を擦りむいて痛がっている悠里チャンを、呆然と眺めています。
 その姿は、この子を撲殺しても、痛がるだけだ、という想像力を、文哉に働かせたようです。

 「痛ぁい、健ちゃん(文哉)」

 「じゃあ…」 言葉を飲み込む文哉。 「…お母さんとこ、帰ろうか」

 ショパンの 「雨だれ」 のなか豪雨が、収まったようです。

 彼は金槌を持った手を、もう片方の手で、無理やり引き剥がそうとする。 彼の右手には、彼とは別人格の殺人者が、まるで棲んでいるかのようです。
 金槌を捨て去った文哉の眼前には、家路をたどる半べその少女(悠里チャン)が、夕陽の直線に照らされながら美しい光景として広がる。
 あの青い青い、湖の絵と、まるで対をなすかのような、暖かい光の景色です。

 同じころ、双葉は響子に 「兄は反省していません」 と謝っています。
 しかしこの 「反省」。
 「反省」 って、いったい何なんでしょうか?

 医療少年院で、文哉は担当の医師から 「治った」 と診断を受けていた。 それは文哉が 「人を殺すことはいけないことだから」 という認識を持ったからそういう診断がなされたのだと思うのですが、それを回想のなかで、文哉は雪恵に、とても機械的な口調で話していました。
 また少年院を出たときに、保護観察司の高田(でんでんサン)は 「これからは、まっとうに働いて、まっとうに生きろ。 それが被害者への償いなんだから」 という内容のことを文哉に話していた。

 これって、殺人を犯した少年に対して、司法やその後のアフターケアがあまりにもずさんな見方で接している、と言えないでしょうか?
 実際のところはどうかは分かりません。
 ただし実際に行なわれていることは、ドラマ的な誇張があるにしろ、これと同じなのではないか?という作り手の声が、ここで聞こえてくるような気がするのです。

 少年は、法律的に隔離され、優遇され、実際の償いの意味も学ばないまま、社会にまた復帰する。

 「償い」 って、なんでしょうか?
 「反省」 し、「償う」 ことで、話は終わるんでしょうか?
 私はやはり、少年は過去の過ちに対して、きちんと向き合わねばならないと感じます。
 それは被害者家族の前で、きちんと謝ることがまず第一歩。
 被害者家族は、そりゃ犯人のツラなんか、見たくもないですよ。
 けれども犯人は、まずその意志を鮮明にしなければならない。
 会いたくないと突っぱねられても、そうしなくてはならない。
 しかし彼が、いったいどこまで反省しているのか?
 それは他人が見ても、けっして分かるものではない、って思うんですよ。
 でも犯人は、表面上だけではなく、心からの反省をしなければならない。
 それはやはり、被害者家族が判断する問題なのではないか、と思いますね。
 つらいでしょうけどもね。
 被害者家族に拒絶されたら、もう話はそこまでです。
 つまり殺人事件って、被害者家族が犯人や加害者家族からのアプローチをシャットアウトすることによって、実質的な解決、となってしまうと思うんですよ。

 そこまでのことを、今の法治国家はすることが出来ない。

 でもそこまでしなければ、本当の解決なんて、呼べないのではないか?
 「反省」 だ 「償い」 だ、って、どこまでいっても軽々しいものにしかなりえないんじゃないか?って思うのです。

 いったんやんだ 「雨だれ」。
 また、その雨足が、強くなっていきます。

 文哉と一緒に帰って来たと思われる悠里チャン。 真岐はあからさまに自分の娘の体を調べます。

 「悠里になにしたの?
 なにしたの!?

 平気な顔して!
 子供殺した人が、平気な顔して、なんなの!?
 なんで生きてられんの?
 ねえ。
 あなたが殺した子供にも、母親がいたのよ?
 大事に。 大事に育てた、母親がいたのよ?

 あなたにだっていたでしょ?
 母親がいたでしょ?

 分かんないの!?

 そういうの奪ってさ、どうして平気なの?

 アンタみたいな人間、生まれてこなければよかったのよ。

 アンタなんか生まれてこなければ」

 じりじりと真岐に近づいていく文哉。
 真岐の手には、包丁が握られています。

 そして果樹園へとたどり着いた駿輔。
 果樹園のオーナー、草間五郎(小野武彦サン)が文哉を呼びに行くと、彼がそこに見たものは…。

 このシーンで、真岐の文哉に対して投げかけられた罵倒の言葉は、そのまま、「事情を完全に知らない我々傍観者たち」 の感情そのものであると言えるのではないでしょうか。
 「生まれてこないほうがよかった」 というのは、文哉にとって禁断の扉を開く、カギのように思えます。

 次週が待たれます。

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コメント

「生まれてこないほうがよかった」
確かにこの言葉がトリガーになって、文哉による殺人が引き起こされてますよね。

この言葉は、彼にとってどういう意味合いを持っているのか?
これがキーになる言葉だと思うのですが、私はドラマを見ている途中で、いったい、このドラマは何を言おうとしているのか、どこへ向かおうとしているのか、わからなくなってきていました。

私は文哉は殺人鬼というか、人を殺したいという衝動から本当に逃れることができない人間ではと思いながら見ていたので、この回を見ていて、やっぱりそうだったと思いましたが、このことがドラマを展開する上でどうなっていくのかが、よく見えてこないのです。
法治国家である日本における「更生」のあり方を問うているのでしょうか?

リウさまの解釈はとても深いですね。
なかなか軽々しくコメントできる内容ではないのですが。

今の日本には、沈滞した空気が蔓延していて「生まれてこないほうがよかった」と思っている人々が多いのではないでしょうか。

そういう人たちへ向けてのメッセージが発せられるのかもと思いつつ、ドラマを見続けています。

流れてた曲は、ショパンの「雨だれ」だったんですね。リウさまの細かいチェックに感謝です。

rabi様
このようなコメントしづらい記事にコメントを寄せて下さり、ありがとうございます。

自分も書いていて、「ここまで書いていいのかな」 と思いながら書いていたのですが、さすがに反応がなくて、もうこのドラマについて書くのは控えようかな、と思っていた矢先のrabi様のコメントだったので、ちょっと励まされました。 重ねてお礼申し上げます。

こういうセンセーショナルな方向にドラマが行ってしまうと、rabi様のように戸惑いを感じる方も多いのではないかと思うのですが、私が感じたのは、やはり現在の司法や社会復帰制度の抱える限界というものでしたね。 少年を裁く側は、少年が通りいっぺんに 「反省しました」「人を殺すのはよくないことだから」 と言えばそれで解決したと考えている。 そうじゃないんじゃないのか?と。

と同時に今回は、「亜季チャンを殺したのはやはり文哉だったか」 ということをほぼ認めざるを得なくなる回だったとも思います。

この記事を書くにあたって念頭にあったのは、このドラマを拒絶する人たち。

ドラマというものの効能がどこまであるのか私にも分かりませんが、少なくともこのドラマは、いい加減な気持ちで作られているものではないことは、その人たちには感じてほしい気がするのです。

このところ、「江」以外への反応が少ないですよね?
どうしてなのか不明ですけれど。
でも、みなさん、きっと読まれてると思いますよ〜。

>現在の司法や社会復帰制度の抱える限界
裁判員制度の導入もありましたが、こういう犯罪に対する罰のあり方にも限界は確かにあると思います。人の内面までは、誰も見通すことはできないですものね。

リウ様のコメントとはちょっとズレてしまいますが、ドラマというものよりも、TVというものに対する興味がだんだん失われてきているのではないかと感じています。
コンテンツのレベルが下がっているというか
バラエティばかりで(予算の問題もあるのでしょうけれど)、優れたコンテンツの割合が低くなってしまっている今のTV業界に問題があるのではと思います。
その中から、こういう優れた作品を選んで視聴するというのも、ひとつの能力だと思うのですけれど、そういうことをすることさえ放棄している人たちには考えさせられます。

rabi様
レス下さり、ありがとうございます。 ちょっと私も書きたいことがあるのですが、これから仕事ですので、仕事から帰ったらまたあらためて返信いたします。

rabi様
あらためてレスいたします。 すごく飛躍した話になってしまいます。

テレビに対する距離をつかめない人、というのは、特に最近多いような気がしています。
昔だって恣意的な人心操作みたいなものはあったと思うんですよ。 力道山が外人のプロレスラーをなぎ倒すとか、今だったら 「あいつホントは朝鮮人だぜ」 とかいう話に絶対なると思うし、巨人が強かったのも、昔っからよその優秀な選手をあまりフェアでない方法で獲得してきたのも一部の原因ではあります。 美空ひばりだって暴力団と懇意だったし。 それを昔の人はどうとらえていたか、というと、「そういうこともあるじゃないの、まあまあ」 みたいな鷹揚な感覚で人の事情を理解できる素養があった。

けれども今は、なんでも納得のいかないことには、ブーブー文句たれるのが正義だと思い込んでいる。 それを間違っているとは申しませんが、それだからテレビとの鷹揚な距離をつかむことが出来ないのではないか、そんな気が私はするのです。

「イヤなら見なけりゃいいじゃないか」、というタレントの言い分に楯突く気分は、そんなところから発生している気がします。

「イヤなら見なけりゃいい」、というのは、私のテレビ視聴の原則であります。

だから自分じゃ質のいい番組ばかりを見ているつもりでいる(ハハ…)。 もっと質のいい番組を探せばいくらでもあるけど、私の頭がついていかないか、つまんないので見ない。

テレビが韓流に傾いているとか考える人は、テレビの影響力を強大だ、と考えていらっしゃるんでしょうね。 そりゃ視聴率が30パーだ40パーだという時代には影響力もあったかもしれませんが、今じゃ10パーで普通。 10人に1人しか見てないのに、影響力なんてあるのかな、と思うんですよ。 テレビに影響力があるなんて、幻想だと思う。 テレビというのは、昔から基本的に下らない、と私は考えています。 下らないから面白い、という部分もあるし。

ちょっと炎上覚悟の話になってしまいましたが、炎上、という風潮自体もなんか危ないものを感じます。 ひとの異なる意見を抹殺しようとするなんて。 モノ言えば唇寒し、なんて、まるで監視社会みたいだとも思うし。 ネットで発言する以上責任というものは発生すると、私も考えておりますが、ネットでひとりひとりの意見は小さくても、膨大な数にのぼればそれは強大な力になる、と同時に、暴力にもなるのだ、という自覚も必要なのではないか?と私には思えてなりません。

ここまで危ない部分に切り込むつもりはなかったのですが、でもこれを危ない、と私が考えてしまうのも、なんか変な気がする。 例えはヘンかもしれませんが、まるで太平洋戦争のときに戦争に対してネガティヴな発言をすれば 「非国民」 と大合唱が起きた時代を追体験しているような気がして、ならないのです。

ドラマの内容とあまりにかけ離れたレスをしてしまったこと、深くお詫びいたします。

丁寧に人の感情を描いてきたドラマでしたが、ここにきて一挙に動きましたね。
文哉のある種「耽美な」苦悩をクッキリ描いたことで、被害者・加害者家族が若干霞んでしまった気がします。

それでも大竹さんが双葉に
「あなたたちは幸せになろうと思っていいのよ」とまで言えるようになったことは救いです。

脚本上、そういう流れが必要だったんでしょうが
サトエリ、元々好意を持っていたはずなのに
幼女殺人犯だと知ったとたんに
ああいうシーンで
「アンタみたいな人間、生まれてこなければよかったのよ」
なんて言うかなあw
「うちの娘には一切近寄らないで」もしくは
「ここを辞めてほしい」がリアルなセリフのような気もします。

次回予告を読んでしまったので
ドキドキは半減ですが(爆)木曜が楽しみです。
確実に再犯ですからね。
彼には治療が必要です。

もし大竹さんが持ち前の母性で
加害者をも受け止めて許そうとする流れになるのなら
それだと…サカキバラ事件でハンマーで殴り殺された女児のお母さんと一緒になってしまう…(お母さんの著書を読んだことがありますが、熱心な宗教信者のようでした)
(あっ!ヤバイ!炎上する!?
違うストーリーを期待します。

マイティ様
コメント下さり、ありがとうございます。

「人は人の命を奪ってはいけない」、というのは人間の根本的な感情か、と私は考えるのですが、それと真逆のことをしてきたのが、人類の歴史といっていい気がします(のっけからオーゲサだ…)。

いわゆる殺意、というものも、そもそも人間は人間である前に動物だ、というところから発生しているという認識を私は持っています。

そして普通に生きていても、殺すとまではいかないまでも、相手の気持ちを、心を殺してしまう体験を、おおかたの人は持っているのではないでしょうか。

つまり、その体験によって、人は他人を肉体的にも精神的にも傷つけることには、ある種の回避欲求が生じる。

その回避傾向が壊れたまま是正されていない、というのが文哉だと思うのですが、彼の直情径行を下支えしているのが、その 「耽美な」 動機であろうか、と考えます。 彼は人を殺すことが美しいと考えているから、殺意の欲望にあらがえない。

サトエリチャンに関しては、おそらく「三日月湖殺人事件」 の犯人について、ワイドショーなんかで憎悪を最大限にまで膨らませていた人のひとりなんでしょう。 少年ということで守られることに対して憎悪に近い感情を犯人に抱く、というのは、あり得ないことではない気がします。
しかも彼女は、母親。
母性の本能的な部分で、かつての憎悪が、自分が顔などを知りたいと思っていた犯人が目の前にいることによって、はけ口になってしまう。
さらにそんな犯人に自分が好意を寄せていた、ということにも、我慢がならない。
「アンタなんか生まれてこなければよかったのよ」 というのは、罵倒セリフの最後の部分ですよね。
人は人を攻撃していると、次第にそれがエスカレートしていく。
「そこまで言うか」 みたいなことを、言っちゃうと思います。

今回文哉の描写にレビューのほとんどを集中させたので大竹サンが双葉を許す部分は割愛したのですが、「人を許す」、ということは、自分の怒りとか悲しみを、心の奥底に閉じ込めてしまう行為でもある、と私は思います。 わだかまりは一生消えないのかもしれません。 ただ相手を許さない、という頑なな気持ちでいることも、実は何の解決にもならない、かえってそっちのほうが苦しい、という気もする。

宗教というものが人を許す、という態度を奨励するならば、それはたぶん間違っていないという気がします。 マイティサンが引っかかってしまうのは、情操操作(マインドコントロール)下に陥ってしまった状態で犯人を許してしまうことに対する危惧なんだと思うのですが、「目には目を、歯には歯を」「やられたらやり返せ」「聖戦だ」 などとあおってしまう教えよりは、よほどいいと思います。 宗教が殺人を肯定することによって、冒頭に述べた殺意の回避傾向というものが駆逐され、殺人を誉だと思ってしまうような人間を排出するより、ずっとましなのではないでしょうか。 スイマセン、私がマイティサンのご意見に炎上してしまいました

まあ、宗教を信じてそれで人を許してしまうのなら心は平穏だとは思いますが、実は人を許すのって、かなりの葛藤が必要な気はいたします。 大竹サンの場合、満島チャンは加害者本人じゃないから、許せたのかもしれないし(最初からどうしてこういう簡単なコメが出来ないかなあ…)。

すっごく長い返信になってしまい、まことに申し訳ありません。

リウ様、おひさしぶりです^^
リウ様のレビューと皆さんのコメントはずっと楽しませてもらってましたが、コメントはすっかりごぶさたしてしまいました。すみません☆
文哉はまた罪を犯してしまったのですね…。
いや~…、してほしくなかった。してほしくなかったなぁ~・・・
今回のドラマの後、予告を見ながら、そう独り言を呟いてしまいました。
私は坂元さんには、できれば、再犯の文哉を描いてほしくはなかったです。
“見ている僕”と“殺す僕”との間で揺れ動き葛藤する文哉を見せてほしかった。
固く金槌を握り締めた手の指を一本一本全身で震えながら、もう片方の手で開いていく文哉のように、同じ苦しむ姿なら再犯という形ではなく、そちらの、苦しむ文哉の心を一緒に感じさせてほしかった。
“病気”ならば、なおのこと。
テレビという存在に対しては、私はリウ様とは真逆の見方をしていて、その影響力はとてつもなく大きいものだと感じています。
だからこそ、静かに怒っている?感じです。
フツフツというか、ザワザワというか、胸の奥から何かが押し出されるような気持ちの悪さがあり、後味が悪い…です。
今夜どんな展開になるのか、楽しみというかなんというか…^^;

リウ様

返信しようと、コメントを一度書いたのですが、どうも違う方向へ拡散してしまうので、やめてしまいました。ごめんなさい。

私もほとりん様と同様,TVの影響はかなりのものだと思います。そして良い番組、悪い番組を取捨選択する能力が養われていないというか、むしろ失われている現在の状況を憂いています。
もちろん、視聴者の側の問題もあるのですが、情報発信する側のレベルの低下による部分も大きいような気がしています。

それにしても、第8回の放送も見応えありました。
ただ、こういう人間の本質的な深い部分を考えさせる番組は一般受けしないのが残念至極です。
TVに期待されているのは娯楽なのでしょうから・・・。
今後の展開というか、最後はどこに向かうのかが心配です。
リウ様のコメントUPをお待ちしております。

ほとりん様
コメント下さり、ありがとうございます。 インターネットに接続することが出来ず、復旧に手間取り返信が遅れてしまいました。 ゴメンナサイ。

テレビの影響力に関してはrabi様のコメント返信時に譲りますが、文哉がなぜ同じ過ちを犯してしまうのか、ということについてちょっと。

まだ昨日の最新放送分を見ていないのでいい加減なことは言えないのですが、「文哉が再犯してほしくなかった」 というのはほとりん様のかなり常識的な部分、そして優しい部分がそう考えさせるのだと思います。

私は却って、どうして文哉がそうせざるを得ないのか、という原因のほうに目が行ってしまう。
そこから作り手が、何を訴えたいのかのほうが気になるんですね。

普通の人なら躊躇してしまうことを文哉が15年前にしてしまったとすれば、彼は普通の人の常識をいったん越えてしまったわけです。

彼の殺人衝動を 「どうして我慢できないのか」 といら立つお気持ちはとても分かるのですが、彼が殺人について人とは違うとらえ方をしている、ということを見逃してはならない、そんな気がいたします。

だからこそ、殺人者にとって罪を償う、という感覚がどうあるべきか、このドラマは見る側に問いかけている気がする。

普通の人が理解できない文哉が、自分の犯した罪をどう考えれば、彼がほんとうに 「反省した」 ということになるのか。

それは現在の司法制度が解決できない問題のように思える。
ほとりん様が抱くざわざわした気持ちの悪いものは、そこに端を発しているのかも、知れないですね(勝手な憶測でスミマセン)。

rabi様
再コメント下さり、ありがとうございます。 私の方向違いの返信にレスして下さり、重ねて感謝申し上げます。 さらにちょっとネット接続の調子がおかしく返信遅れましたこと、お詫びいたします。

私が現在のテレビについて 「影響力がない」 としたのは、単に割合の問題です。 昔は視聴率が高かったうえに、一台のテレビを何人もの人が同時に見ていたけれど、今は一人一台。 私がいかに 「JIN」 について熱く語ろうとしても、私の家族で 「JIN」 を見ている者は皆無(オフクロは 「マルモ」 を見ておりまして芦田愛菜チャンにハマっているようですが、本当の傑作 「Mother」 は見てない)。 20パーを上回った作品でさえこうですからね。 つまりそういうことだと考えるんですよ。

ただテレビとマジメに向き合おうとしているかたがたは、かなり多くていらっしゃる気がいたします。
韓流に批判が出るのも、みんなまじめにテレビを見ている、いや見ようとしているからだと感じる。
それだけそんな方々にとっては、テレビというのは巨大な権威のひとつであり、テレビの向いている方向について監視をしようとする良識をお持ちなのだと思うのです。

そして問題なのは、そんなテレビの側が、自分たちは強大な権力を有している、ということに驕りたかぶっている部分がある、ということです。

私たちはそんなテレビ局の部分に敏感に反応したがるのですが、同時にそっぽを大勢の人から向かれつつある。

先のレスと重複しますが、下らない番組なんて、昔からありました。 下らないばかりでなく、昔はかなり過激だった。 ドリフの番組なんて、食べ物は粗末に扱うわ、暴力は当たり前だわ。 欽ちゃんなんか、二郎サンを後ろから飛び蹴りしてましたよ(こんなことやったら今じゃ大問題だ)(あれで二郎サンの寿命が縮まったんだとか?)。
でも、だから下らなくても一生懸命のエンターテイメントとして成立していたという側面はあるんですよ。 暴力反対とかいう立場じゃ、マトモにドリフも55号も見ることはできません。

さらに下らない昔の番組を探そうと思えばいくらでも出来るのですが(下らない番組ばかり、思えば私も見てました…笑)、それはともかく、昔はニュースだってただ事実を読むだけ。 今じゃ玉石混交のコメンテーターがああだこうだ。
テレビの影響力を重視してしまうと、こういう人たちはみんな不要、ということになります。
でもいろんな下らない意見があってこその世間だし、それを影響力と結び付けてしまうと、すなわちテレビ局の驕り、という問題と、直結してしまう。 「くだらないことテレビで言ってんなよ」 という感情は、テレビが権威だと思うからこその発想なのです。

ややこしいことを長々と書いてしまって、重ね重ね申し訳ありません。

テレビとは、利口に付き合っていかないとな、という至極簡単な結論になってしまうのですが(爆)、子供たちに対してだけは、それはきちんと躾けなければならない一点のような気がしてなりません。

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  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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