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2011年8月

2011年8月28日 (日)

「それでも、生きてゆく」 第8回 嚥下出来ない痛み(続)

おことわり このレビュー、初出時より若干訂正加筆しました。

 真岐を呼びに行った草間五郎。 部屋で倒れている自分の娘を発見します。
 真岐は仰向けになったまま動きません。 五郎が抱き上げようとすると、首のあたりには血がべっとりついている。 この時点から、五郎はすでに、自分を見失う対応しか、取ることが出来なくなっている。 うろたえる五郎の代わりに救急車を呼ぶ駿輔。

 そこに紗歩(安藤サクラサン)が額を押さえながらやってくる。 どうやら文哉が持っていた金槌で殴られたのではなかったようで、かろうじて無事です。
 「あいつは? 三崎文哉だよ」 と文哉の本名を知っている紗歩に、駿輔は驚く。 「またやったんだよ。 痛ってぇ! あいつまたやったのっ!」。 駿輔は、呆然とします。

 思わぬことが矢継ぎ早に起こるショック。 そしてその混乱の中で、重大な事実(真岐の傷害についての真相)が分からないのに文哉の犯行が既成事実化していく過程を、この今回冒頭のシーンでは的確に追っている気がします。

 犯行?現場からいなくなっている文哉。
 彼は自転車を押しながら交番の前を通りかかるのですが、結局自分が名乗り出ることをしない。 「何を言ったって信じてもらえない」 というように文哉は思っているのではないか?と私が感じたくだりです。

 同じ夜、軽トラで草間ファームを目指している深見洋貴と弟の耕平(田中圭サン)。 耕平が洋貴に、マンガの登場人物たちの年齢を列挙して、兄貴のふがいなさを嘆いています。

 「兄ちゃんさぁ。 オレのこと冷たいと思ってる?
 オレだって加害者のこと憎い気持ちあんだよ。
 結婚してなかったらオレだって…。

 オレ来年穴子サンと同い年だしさ」

 「穴子サン?」

 「マスオサンの同僚。
 ちなみに兄ちゃんは銭形警部と同い年。
 ブラックジャックが28歳。
 星一徹が33歳。
 ラオウが30歳。
 30で 『わが生涯に一片の悔いなし』 だよ。
 兄ちゃんなんか悔いありまくりじゃんかよ」

 早い段階で結婚とか所帯を持たないと、リアルに感じる年齢、というものが、齟齬をきたしてしまうことの一端をこのセリフは示しているような気がするのですが、私も41歳を超えたころ、「バカボンパパと同い年か」 とミョーな感慨があったのを覚えています。 私より下の年代になると、「オレFF7のシドの年齢超えた」 とか考えるのかな~(笑)。 もっと下になると、「オレ、ルフィの歳超えちゃった」 とか? それってすぐか。

 バーチャルな物差しで測られる自分の精神年齢、という新しい基準。

 いずれにしても自分の親が自分と同い年のとき何をやっていたか、ということを想像すると、かなり自分が幼い、ということに気付く。 これは新種のモラトリアムのような気がします。

 そんな下らない話を弟がしているときに、洋貴は文哉を発見する。 彼はものすごい勢いで車を止め、ものすごい勢いで車を飛び出し駆け出していきます。
 包丁が、彼の懐から落ちます。
 結局見間違いだったと諦めるのですが、それは見間違いじゃなかった。 文哉はそのとき、自転車を乗り捨て、駅の階段を上っていたのです。

 ここでの洋貴の突発的なキレかたは、彼が尋常ならざる殺意を継続させていることを窺わせます。 この洋貴の思いは、今回ドラマ後半の響子(大竹しのぶサン)の衝動と繋がっている気がする。

 自分が落とした包丁を握りしめ、その形を見て、自分の殺意の形をそのままそこに見る、洋貴。 ちょっと自分のしようとしていることに自分でおののいているような感じに見えました。

 草間ファームにやってきた洋貴たちは、駿輔と合流します。 「文哉は?」 と訊く洋貴に、駿輔は大きく顔をこわばらせる。

 かたや駅のプラットホームでベンチに座る文哉は、いつぞやの因島のチラシを見て、因島に思いを馳せています。 その腕には、おそらく真岐ともみ合った際についたと思われる刺され傷。

 この傷が、真岐のつけたものであることはかなり確実だと思われるのですが、その状況というものがいかにして発生したのかは、この時点では分かりません。
 分かんないんですよ、つまり。
 分かんないのに、事態がどんどん推移していく。

 同じ夜、響子と和解した双葉が、晩ごはんを響子と一緒に食べています。
 双葉のケータイに、電話がかかってきます。
 その相手は、なんと文哉。
 響子は双葉がケータイにしゃべる話しぶりを聞いて、敏感に双葉の電話の相手を察知し、居ても立っても居られないというふうに、席から立ち上がってしまう。 そしてにわかに、顔を曇らせます。

 ここで文哉は 「人を殺した、双葉のせいだ」 ということを話したのですが、そのセリフはこの時点では、口パクで聞えません。 顔面から血の気の引く双葉。 公衆電話の受話器をガシャンと置く、文哉。 文哉の苛立ちが、そのキレかたが、かなり衝動を押さえきれぬ病的なものであることがこれで分かる。 文哉が双葉に電話をしたのも、その感覚的におかしい恨みが、見当違いに双葉に向かっていることの表れだと考えられます。

 双葉の電話が切れるとそこに今度は、響子のほうに耕平から電話が入る。
 響子がしゃべる 「病院」、というキーワードで、双葉は実際に兄がなにをしでかしたのかを、知ることになるのです。

 隆美(風吹ジュンサン)のもとには、駿輔から電話が入る。
 まだ事実関係は分からないが、もし文哉が再犯してしまった場合に備えて、灯里(福田麻由子チャン)を連れてすぐにそこから出る準備をして、と駿輔は隆美に指示します。 双葉とも連絡をとって、隆美に合流させるようにするから、と。
 のちの展開から考えて、ここで駿輔は、また押し寄せるであろう報道陣から家族を守ろうとしたんだ、ということが考えられます。

 そこを通りかかる洋貴と耕平。
 洋貴は駿輔の顔を、「また人の家族を不幸に陥れて。 またやっちまったじゃねーかよ」 という顔で睨みつけて通り過ぎていく。

 ここで洋貴も、「またか」 という思い込みに囚われているようです。 隆美への電話で 「まだ分からないけど」 と話していた駿輔でしたが、つまり駿輔は、事態を冷静に見極めようという判断力をまだ持っている。 けれどもそれに抗うことが出来ない、「またか」「おまえの息子がまたやったんだろう」 という、かつて自分が味わった世間の常軌を逸した反応に似た反応がまた始まるのかもしれないという、限りない不安を抱いていくのです。
 思い込みが真実を押し流してしまう危険性を、ここで読み取ることが出来る気がします。

 次のシーン。
 洋貴と耕平、そしてそれについてきた駿輔が見たのは、病院で五郎が真岐の容体について医師から説明を受けているところ。
 五郎は娘のパジャマとかシャンプーとか、見当違いの反応ばかり示して、自分の娘の危険な状態を受け入れることが出来ません。

 「娘さんには髪の毛を強く引っ張られた痕跡がある。 事件扱いするので警察に連絡しました」 と語る医師。
 娘のパジャマがなくて困ったと、気が動転し続けている五郎を見かねて、駿輔はその場を立ち去ります。
 「どこ行くんスか?」 とそれについていく洋貴。
 駿輔が逃げる、と思ったのでしょうか。

 いっぽう双葉の様子に事態を呑み込んだ響子、双葉にお風呂を勧めています。

 「亜季が死んだときも、お風呂に結局入らなくて、事件後そのままお風呂のことなんか忘れてしまって、体が臭くなって、あなたもそうだったでしょ?」 と話す響子。 双葉はコクリとうなづきます。

 妙な共感。

 そんなつまらないことで、被害者家族も加害者家族も、共通の経験を共有するのです。

 「ご飯とお風呂は、済ませられるうちに済ましたほうが、いいのよ」
 それが響子が習得した、特殊な体験の際の知恵なのです。

 でもその言葉は、やさしい言葉ではない。 双葉を心から思いやっている言葉ではない。
 どことなく厳しさが漂っている。

 それは響子の心のどこかに、さっき洋貴が示した反応のような、加害者家族を責めるようなニュアンスが、とても微量ではあるけれど含まれているからだと思うんですよ。
 そして微量だからこそ双葉は、いたたまれなくてそれを拒絶する気持ちに至らず、響子の勧めに従ってお風呂に入る。

 場面変わって、駿輔と洋貴は、ショッピングセンターのようなところでパジャマを見つくろっています。
 駿輔は、その場から逃げようとしたわけではなかったのです。

 真岐の子供のこととかを話しながら、その言葉の端々に棘がある、洋貴の言動。 駿輔の胸は、小さく傷ついていきます。
 そこで洋貴からもたらされたのが、「序」 で私が指摘した 「あいつはまたやる」、という洋貴の父親の言葉だったのですが、この感情に支配されながら、その後のドラマは展開していくことになる。

 自分が買ったパジャマなどを、直接五郎に渡すのを躊躇した駿輔は、洋貴と耕平にそれを手渡します。 そしてそれを五郎に持って行った洋貴と耕平は、そこでやっと初めましてのあいさつをする。 事件の混乱であいさつが遅れていたのです。

 真岐の娘、悠里チャンが駿輔と遊びたがる。
 その場から消え入りたいのに、という気持ちで、気まずさの頂点にいる駿輔。
 五郎はそのとき洋貴たちに対して、駿輔にもそれとなく聞えるような感じで、「まさか、…まさかオレが雇ったやつが…」 と話をする。

 それは五郎の認識の甘さを露呈する言動ではあるのですが、いっぽうで五郎のような、犯人擁護の立場をとる人全体の認識の甘さを暗に表現している気もする。 犯人が本当に改悛しているかなんて、誰にも分からないじゃないか、と。

 話は飛びますが、このあと、病院に、謝罪のため駆けつけた双葉を見て、五郎はいきなり駿輔に対して激高します。

 それまで押さえていたものが、駿輔にも娘がいるのか、と分かった瞬間爆発してしまった、という構造なのですが、つまり自分が被害者の立場に立たないと、本当に分からないものがあるんだ、ということです。 そして五郎が犯人擁護に動いている気持ちには、どこか性善説を信じているお人好しな部分がある、それは否定できない、ということです。
 これを五郎の認識の甘さ、と言い切ってしまうととても酷なのですが、彼の心情を考えると、そこには日本の司法制度、社会復帰制度を信用している側面もある。 だから五郎のような人たちを責めることはできない。

 話は戻ります。

 五郎と深見兄弟の初対面の場に医師が再び現れる。 医師は五郎に告げます。
 真岐の意識が回復することは非常に困難になった。
 つまり昏睡状態。 生きてはいるけど死んだも同然状態、ということです。

 五郎はトンチンカンな受け答えに終始するのですが、事態を飲み込んだ瞬間、慟哭してその場に座り込んでしまいます。 じいじの泣き声が、待合室に響く。 じいじを心配して駆け寄る、孫の悠里チャン。

 それを見て、洋貴は駿輔のほうを恐る恐る見てしまいます。
 駿輔に、同情しようと思う心。
 しかし洋貴はそれをふっ切るかのように、再び五郎のほうに向きなおるのです。

 真岐の意識がもう戻らなくなった、という事実は響子のもとにも電話されます。

 「またあいつがやってしまった。 もうやりきれない」 という感じで受話器を置き、顔を手で覆う響子。
 洗い髪がまだ乾いていない状態の双葉はその様子を見て、謝罪のために病院へ向かう決心をします。

 そして同じ電話は、隆美のもとにも届く。
 隆美は不安がる灯里に、自らの決心を告げるのです。

 「絶対邪魔させない。 灯里はどこにでもいる普通の15歳の女の子として生きるの。
 …誰が何を言おうと、母さん絶対守るからっ!」

 崩れ落ちそうな隆美を、灯里が後ろから抱き締めます。

 「大丈夫…大丈夫…」
 隆美は自分に言い聞かせるように、娘を気遣うのです。
 隆美にしても、文哉が前の事件を起こしたときの世間の反応に傷つき切っているから、 「守る」 ということが何よりも先に念頭に来てしまう。

 それは駿輔も同じ。

 事件のあった翌日。

 草間ファームに捜査員が実況検分にやってくる事態になるなかで、駿輔はひとり、病院前の駐車場で、前の事件のときの報道陣の殺到する様を思い起こしています。

 洋貴と耕平も、まんじりともせず朝を迎えたようです。
 そこに簡単な食事の差し入れを持ってくる五郎。

 駿輔の分もあるのですが、五郎にしてみればこんな些細なことでも、加害者家族に対して最大限の気配りをしている 「つもり」 なのです。 こういうことを負担に思う心がどこかにあるからこそ、さっき指摘したように爆発してしまうんだと思う。

 そこで真岐が眠っているICUに、事件性があるからと入れない五郎と、操作のためにすぐさま入れてしまう捜査員たちの対比が描かれます。

 それに対して食ってかかる洋貴。

 「どうして家族が入れなくて警察ならいいんだ」 という作り手の疑問が、ここで展開している気がする。

 司法がどうかとか、捜査がどうだとか法律がどうだとか、は分からない。

 けれども家族なんかより捜査のほうが大事なのか。 人間として、人として、それはどうなのか。

 作り手の目は、常にそこに向けられているような気がして、なりません。

 五郎の差し入れを駿輔の車へと持っていく洋貴。
 でも駿輔はそこにいません。
 不安がよぎる洋貴。

 同じころ、駿輔は幹線道路を、ふらふらとさまよい歩いています。
 道の真ん中に行こうとするかのような蛇行ぶりに、何台もの車からクラクションが鳴らされる。
 それはかつて自分が浴びた世間の非難のように、駿輔に襲いかかる。 立ち止まる駿輔。
 それを救ったのは洋貴でした。
 道のはじまでタックルされて倒れ込み、ようやく我に帰ったような顔の駿輔。
 やりきれない気持ちをなんとか表わそうと、身ぶりを加えて話そうとする駿輔。

 「…このまま、…このまま…!

 このまま生きてて、…!…償えるんでしょうか?…!…

 償いきれるんでしょうか?…!…

 …!じ!15年たっても!…

 15年たっても償いきれないのに…!…」

 膝を叩き、号泣する駿輔。

 洋貴は慰めるでもなく、五郎が買ってきた差し入れを駿輔の前に置きます。
 娘があんな目に遭っても、こうしてあなたのことを考えてくれる人がいる。 それを忘れちゃいけない、というふうに。

 洋貴はタックルの際に駿輔が落とした財布を拾います。
 そこには、駿輔の家族4人が写っている写真が入っている。

 笑い顔の駿輔。

 そして突っ伏したままの駿輔。

 洋貴はこのときに何を考えたのか。
 それはのちに、双葉との会話の中で、明らかにされた気がします。

 そして。

 耕平の妻由佳(村川絵梨サン)が深見の釣り船屋に向かうバスを降りています。
 ここからの展開が、実は少々不可解。
 偶然なのか、由佳に深見の釣り堀への道を尋ねてきたのは、文哉。

 どうして文哉は、わざわざ深見の釣り船屋までやってきたんでしょう。
 表向きそれは、双葉を迎えに来たということだったらしいのですが、状況が状況でしょ。
 洋貴とだって、響子とだって、ニアミスする可能性は、じゅうぶん考えられるし。

 私の考えでは、文哉にかなり、想像力が欠如していることのこれは表れなのではないか、ということです。

 行けばこうなる、という展開を想像する力にしてもそうなんですが、そもそも自分が悪いことを深見に対してしたと思ってないから、ふらふらと自分の妹を取り戻しに行こうとしてしまう。 家族の苦しみとか怒りに接してないから、別に深見と再会してもたいしたことない、と、考えすらもしない、というところでしょうか。

 客のフリを装って由佳と共に深見の釣り船屋にシレッとやってきた文哉。

 響子は気づかぬふりをしていったん奥に引き上げますが、引き上げてくるなりかなりの動悸を押さえきれない。

 悲しみと怒りが完全に同化した、まるで今にも心臓が止まってしまうかのようなこの演技。
 大竹サンの怒涛の演技が、ここからまた始まるのです。

 とはいえ、ここでいったんお断りしなければならないのですが、私はなにも大竹サンの演技がすごいからこのドラマを支持しているとか、リアリティがあるからこのドラマがすごいとか言ってるわけでは、一切ない、ということです。

 あまりに演者の演技がすごすぎると、見ている側の一部には必ず引いてしまう人がいらっしゃいます。 そして演技のすごさに気をとられて、ドラマの本質より先にその部分で、傍観者的立場に陥ってしまう。

 役者はあくまで、作り手の意志を表現する傀儡(操り人形)なのです。
 そして役者が傀儡以上の力を発揮するとき、ドラマはさらなる深遠性を持たせるきっかけをつかむ。 それを忘れてはならない。
 そういうことだと私は考えます。

 大竹サンの演技のその前に、先ほどちょっと話をした、双葉が病院にやってくるシーンがはさまれます。

 捜査員に連れられて、病院を出ようとする五郎、悠里チャン、駿輔、洋貴、耕平。
 悠里チャンが落としたものを拾ってあげる駿輔に五郎はお礼を言うなど気配りのあるところを見せるのですが、現れた双葉を見て、駿輔にも自分と同じように娘がいることを知った五郎は、突然豹変するのです。

 「あんたのー、…娘か。

 そうか。 娘か…(頭を下げる双葉)。

 …娘がいるのかぁ……?……!

 (駿輔に突進する五郎)返してくれっ!

 オレの娘返してくれっ!!
 娘返してくれ!!
 娘返してくれよ!!(駿輔をどつく五郎)

 娘返せ! 返せ! 返せっ!」

 捜査員になだめられ、車に乗り込んでいく五郎。

 先ほど書いたように、ここまでのことになってしまったのは、酷ですが五郎自身の認識の甘さにも責任の一端はあります。
 でも、それを誰が責められるでしょうか。
 責める人がいる。
 だから償いをする。
 その構図は、いかなる場合にも発生します。
 このドラマは、責める人たちを、否定もしていないし、償おうとする人たちも、さらに否定してない。
 このドラマが問いかけているものは、償おうとする人の心がどうあるべきなのか、ということなのではないでしょうか。

 「償おうとする人の心がどうあるべきなのか」。

 それは次のシーンで、さらに強く見る側に問いかけられることになります。

 釣り船の利用者名簿になにごともないにように名前を書き入れる文哉。
 雨宮建二。
 文哉の偽名です。
 洋貴にメールをしようとする響子。
 文哉が抱いていた由佳の赤ちゃんがお漏らししてしまい、由佳は赤ちゃんを抱いて奥に引っ込んでしまいます。
 ここでもまた不可解な点がひとつ。
 このあと繰り広げられる修羅場に、由佳が全く出てこないんですよ(笑)。 あんだけのことが展開してるのに。

 普通どおりに竿を探したりしていると、そこに刃物を見つけ、それとなく隠そうとする響子。
 それに気付く文哉。

 「文哉くん…」

 「はい…」
 覚悟を決めたような文哉。

 妹を迎えに来たと話す文哉。
 響子は昨日の事件について、真岐が昏睡状態であることを文哉に告げます。 とりあえず死んでなかった、ということで、文哉は安堵したのでしょうか?

 「かわいそうに…。 お子さんもいるみたいなのに…。

 無念だったと思うわ。 あなたもそう思わない?」

 「分かりません」

 この部分、文哉の想像力の欠如を如実に物語っている気がします。

 「どうして分からない?」
 再び問い直す響子。

 「分かりません」

 「分からなくないでしょ」
 声が上ずり始める響子。

 「わ…分かりません」
 分からないことが分からないことに動揺していく文哉。 その場から逃げようとします。
 追いかける響子。

 「分からないはずないでしょ、あなたがやったんだから…!
 あなたがやったんだから!」
 文哉を引き留める響子。

 「忘れました」

 たぶん文哉は、忘れたと思いたがっている。

 「忘れたんなら、思い出しなさいよ!」

 「無理です。 病気なんです。 そういう病気なんです。 病気って、自分じゃどうしようも出来ないから…」

 ここで文哉が陥ってしまっているのは、病理医学のカウンセリングで自分が根源的な部分で治りようもない病にかかっちゃってる、という思い込みを刷り込まれてしまっている、という落とし穴です。
 そんな文哉の、現実を直視しようとしない姿勢に、響子は思いのたけを込めた、強烈な張り手を、文哉の頬に見舞います。 かなりマジです。
 響子は息も荒く、文哉の手を引っ張り、無理やり自分のお腹に当てさせます。

 「ここよ!

 ここに亜季がいたの!

 アタシのお腹のなかに、亜季が10カ月いたの!」

 文哉をそのまま跪かせる響子。

 「そのあいだに、母親がなにを思うと思う?!

 ひとつだけよ!

 健康に生まれますように!
 健康に生まれますようにって、毎日毎日10ヵ月間、それだけを思うの!!

 亜季はね、女の子なのに生まれたとき3360グラムもあって、『大きくなるね、あなた大きくなるね』 って話しかけてたのっ!

 つかまり立ちできるようになって!台所の!家のね!台所の横の柱に背中付けて!背測って!並んだ傷見ながら、『あー今年はこんなにのびたね、ごはんいっぱい食べたからだね』 って、笑ってたのっ!

 小学校行って、最初は、大きいランドセルが、だんだん小さく見え始めて!『亜季はきっと中学になったら、お母さんの背超しちゃうんじゃない?』 って言ってたの!
 言ってた頃にね!あなたに殺されたのっ!!分かる?!」

 文哉の顔を憎しみで思い切りつかむ響子。 もがきそれを振り払う文哉。 再び逃げようとします。 追いかける響子。

 「分かる?! ああーーっ! あなたが殺したの!!」

 文哉を捕まえ、正面から文哉の顔を見ようとする響子。 文哉は目をそらしたままです。

 「あなたが亜季殺したの!!!

 私、あなたが中学生だったとしても、あなたが心失ったんだとしても、アタシはアンタ許さないっ!!」

 このとき文哉は完全に、常軌を逸してしまいます。

 「うわああーっ!あああーっ!ああーっ!」

 叫ぶ文哉。
 文哉は響子に襲いかかり、首を締め始める。

 書いてても少々きつい…。

 「うううーっ!うううーっ!」
 叫びながら響子の首を絞め続ける文哉。

 「殺しなさい!

 殺せるもんなら殺しなさいっ!

 アタシは死なないからっ!

 あなたが死ぬまで、絶対に死なないからあっ!!」

 泣き出してしまう文哉。
 激しい動きが、止まります。

 そして文哉は、自分が優位に立ついい方法が見つかった、というように、突然むっくりと身を起こして、虚空を見ながらぼそぼそしゃべり始める。

 「…亜季ちゃん、きれいだった…」

 呆然とする響子。

 まるで自分が凌辱されたような表情のまま、固まってしまいます。

 「三日月湖に浮かぶ亜季ちゃん、きれいだった…。

 …それだけはよく覚えているんです…」

 怒りに震える響子の唇。
 フザケンナッ!

 「だからオバサン、…そんな落ち込まないで」

 ここでの文哉の反応は、まるで被害者家族の気持ちを逆なでにした、過去に実際にあった事件をなぞるかのようです。
 犯人への憎しみが沸点を超えてしまうこの心なさ。
 衝動的に、響子はそばにあった木製の椅子を文哉の頭部に振り下ろす。

 鈍い音。

 倒れる文哉。

 「亜季…。 亜季…。

 あああ…」

 うめくような響子の声が、いつまでも耳から離れません。

 この場面、私は涙を流しながらは見ていたんですが、途中からその涙さえも止まってしまうような気持ちの悪さを感じました。 気分が悪い。

 この場面を見てなお、このドラマがいい加減であるとか考える人を、私はあまり信用できない気がいたします。
 つまりここまで気分の悪くなるものを見せなければ、本当に被害者だの加害者だの、殺人事件はどうだの、司法制度がどうだの、なにが悪いだのかにが悪いだの、言う資格なんかないのだ、と。
 それを言う資格を得たいのなら、ちゃんとこのドラマにも目をそらさず向き合うべきだし、全部知ったうえで話をしなければならない。

 まあ私も見ると決めた以上付き合わねばならないのですが。 正直レビューを続けるのもしんどいです。 仕事がなきゃもっとのめり込んで書くのですが(って、もうじゅうぶんのめり込んでますからっ)。

 五郎に罵倒されたあと 「家に戻って」 と駿輔から言い渡された双葉は、洋貴の軽トラに乗っています。
 双葉は兄から 「おまえのせいだ」 と言われて、自分の責任を深く感じている。

 「深見さん、この前言ってたじゃないですか。
 『いつか、心の底からやったー!ってなれる日が、来るんじゃないか』 って。

 なかなか来ないですね。

 来る感じないですね。

 …死にたい…」

 洋貴はしばらく考え、車を急停車させます。

 「別に。

 …別に死ぬのは結構ですけど。

 …

 遠山さんが死んだら、…オレも死ぬと思います」

 「え…。
 なに言ってるんですか。
 私と深見さんは、加害者と…」

 「そんなのもうどうでもいいだろっ!!」

 いきなりキレる洋貴。

 「死ぬとか言うなよっ!!」

 ありったけの思いで双葉を怒鳴りつけるのです。

 「アンタにそんなこと言われたら…オレは…。

 …オレは…」

 ハンドルにもたれかかってしまう洋貴。

 「出来るもんなら、何もかも忘れて。
 出来るもんなら、何もかも投げ出して。

 どこかずっと遠くの。

 誰も知らない。

 僕らのことも、誰も知らないところに、…行きたい…。

 …ふたりだけで…」

 このシーンを単なる告白の場面ととってしまうと、とても感想が浅くなってしまう気がします。
 「双葉が死んだら自分も死ぬ」 というのは、「自分の存在まで無になってしまう」 ということだと思うし、「ふたりでどこかに行ってしまいたい」 というのも、自分たちの存在が許される場所を渇望している表れだと思う。

 そして洋貴は、駿輔が自殺にも等しい行為をしていたのを止めたときも、「死ぬなよ!」 と思った気がするのです。
 笑っていた、写真のなかの駿輔。
 その笑顔が本当のときになるまで、あきらめちゃいけないんだ、と。
 私にはそう感じられるのです。
 洋貴の告白で、今回はエンドマークです。

 ああグッタリだ。

 なんか次回以降、どんだけになるのかと思うと、ますます書く気がしなくなる。

 最後までこの出来の悪いレビューを読んで下さったかたには感謝申し上げます。 「序」 も含めて全部で、10時間近くかかったかな?書きあげるのに。
 もうやんなった。
 ここまで書いといてナンですが、書く気がしなくなりました。
 重すぎます。
 きっと自己満でしょう。
 下らない自己満足に付き合って下さって、ありがとうございました。

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2011年8月27日 (土)

「それでも、生きてゆく」 第8回 嚥下出来ない痛み(序)

 テレビを見ていて、ちょっとそのショックがしばらく続いてしまうことは、今まで何度かありましたが、今回のこのドラマも、その数少ない貴重な経験のひとつになる気がします。
 何しろ話が重たすぎて、ちょっとにわかにはきちんとしたことが書けないような感じなのですが、とりあえずレビューしてみます。

 今回のドラマを見ていて感じたのは、本当はこういうことまで被害者家族は加害者に対してしてもいいんだ、という作り手の強い意志です。
 実際に行なわれる司法的な諸々のこと。
 たとえば裁判の途中で被害者家族は、黙って加害者が裁かれるのを、聴いていなければいけない。
 しかも自分の家族が殺された場面を克明に裁判はなぞっていく。
 それは身を切られるよりも過酷なことであることは、疑いがない。

 でも実際にそいつが自分の家族を殺したことが明白になっているのなら、裁判だろうがなんだろうがそいつに向かって突進していって、自分の言いたいことを洗いざらいぶちまけて相手を罵倒して、殴りかかって首を絞めて、までしてもいい。

 自分の今書いていることは、実に理性を欠いています。 そんなの許されるわけがない。 実際にそんなことを裁判の途中でやろうとしたら、たちまち警備員に取り押さえられて退廷、ですよ。

 これは江戸時代だったら、仇討ちみたいなことが出来たかもしれないけれども、その江戸時代の仇討ちだって、喧嘩両成敗が原則だった。 カタキを討ったほうも、死ななければならなかった(「カムイ伝」 でそんな場面があった記憶があります)。

 でも心情的には 「目には目を、歯には歯を」 というのは、許されるのではないか、という気はどうしてもするのです。

 そうでもしなきゃ被害者家族の鬱憤なんか、晴らせるものではない。

 だけど。

 そのことで解決するのは、その鬱憤だけなんだ。
 そいつを殺して、その殺人者を自分の殺された家族と同じ冥界に送ってもいいのか?
 そいつが死んでも、反省などしなかったら殺し損ではないか。
 浮かばれない命をまたひとつ作ったって、残るのは虚しさだけなのではないか。

 今回作り手は、そのことも同時に強く訴えているような気がして、なりません。

 当事者たちはどちらの側も、悲しみを、痛みを、胸に抱えたまま、生きることを強いられる。
 死ぬまで、それは強いられる。
 いや、生きなければならない。
 安易に死など選んではならない。
 だからこその、「それでも、生きてゆく」 というドラマタイトルなんだ、と思うのです。

 ただ。

 どうもドラマを見ていて、殺人状況の因果関係がちっとも出てこない、というのは、個人的に相変わらず気になっています。
 三崎文哉(風間俊介クン)が亜季チャン(信太真妃チャン)を殺した、というのは、どうも状況的に見て確実になった気がしてはいるのですが、それでもまだ直截的な描写を見てないし、前回ラストで真岐(佐藤江梨子チャン)が重傷を負った、ということに関しても、見ることが出来た数少ない状況から考えると、包丁を持っていたのは真岐だし、髪を強く引っ張られた、という状況も、揉み合ってそうなってしまった可能性は否定しきれない。

 いずれにしても真岐が昏睡状態に陥ってしまったため、真相は闇に葬られてしまった感がある。
 このあと文哉が捕まっていくら弁解しようとも、その言が信用される確率は、とても低い気がしています。

 今回見ていて感じたのは、その乏しい現場状況にもかかわらず、まるで文哉が真岐を殺そうとしたことが、当事者たちの間で既成事実と化してしまっている部分。
 そしてそのことを文哉自身が、最初から弁明など無理、とあきらめてしまっている部分が見えるのも、気になります。
 文哉は妹の双葉(満島ひかりチャン)に電話をかけ、「お前がイヤだっていうからこんなことになったんだ。 双葉のせいで、また人殺した」 と話している。 この時点で文哉は真岐が死んだと思い込んでいます。 文哉を支配しているのは、自分が殺人の当事者ではない、という強い拒絶反応。 それを妹に責任転嫁することで、自分の存在を事件現場から消そうとしているのです。 そこに横たわっているのが、「どうせなにも聞き入れてもらえない」、という強い絶望なのではないか、私はそう考察します。

 そして事実関係が判然としないまま、事件を起こした若者たちを受け入れるというボランティア的なことをしている善良そうな草間五郎(小野武彦サン)までも、ハナから文哉を疑っている。 彼は自分が見た事件現場の状況からそう思い込んでいるんでしょうが、その場に居合わせた文哉の父親、駿輔(時任三郎サン)に対して平静を装おうとすることが、却って自らの判断力を低下させているということに、気付いていない。

 ドラマ中、誰も今回の事件の真相を知らないのに文哉が犯人だと、ほぼ全員が思い込んでいることを象徴する絶対的なキーワードが、洋貴(瑛太クン)からもたらされます。

 それは洋貴の父親(柄本明サン)が亡くなる少し前に話した言葉。

 「あいつ また やる」。

 ――。

 「あいつはまたやる」 という決めつけが、犯人への憎悪をいたずらにかきたたせ、真実を見えなくさせる。

 今回のドラマを支えていた大きな柱が、以上に述べたような点だった気がするのですが、前置きはここまでとして(ゲェ~、コレ前文かよ)物語に沿ってレビューを進めていきたいと存じます。

 つづく。

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「胡桃の部屋」 第5回 けじめをつけようという意志

初めにお断り 文章をコンパクトにまとめられず、またしても長い記事になってしまいました。 申し訳ございません。


 母親の竹下景子サンが父親の蟹江敬三サンの失踪から立ち直って復活したことを喜び、恋人の原田泰造サンの家に近くの公衆電話から電話をかけた松下奈緒サン。
 今ならケータイで済ませられますが、当時は家族に内緒の話とか、都合の悪い話は公衆電話でかけるのが当たり前でした。 夜中じゅう恋人らしき人のところへ公衆電話で電話している若者なんか、よく見かけたものです。

 しかし電話に出てきたのは、原田サンと別居しているはずの女房。 大きなショックを受ける松下サンが電話ボックスから出てくると、竹下サンにけしかけられて(笑)夫の浮気現場に乗り込んだあとの松下サンの姉、井川遥サンとばったり出くわす。

 今回は 「裏切り」 というサブタイトルだったのですが、これは原田サンの裏切りのことかな?と思っていたけれど、実はラストで意外な展開。 こっちのほうが松下サンにとっては 「裏切り」 に見えたんでしょう。
 登場人物ひとりひとりの心のなかを細密に描写し、作り手がそのすべての人に対して平等な同情と共感を持つ深遠さを増していたので、私にとってもこのラストの展開は、「なんじゃこりゃあ」 ものでした。
 いずれにしてもこのドラマ、今回はタイトルの意味も判明し、実に奥の深い味わいのある回になっていた気がするのです。

 姉が帰ってきて、松下家は久しぶりに、父親抜きではありますが一家そろっての食事。

 その場では井川遥サンが浮気現場に乗り込んだあとどうしたのかとかいう話は出てこないのですが、三女の臼田あさ美サンが思わず 「ダンナまた浮気してんの?」 とか口走ってしまったために気まずい雰囲気に。 「浮気じゃなくって、上着?」 と下らんシャレでごまかそうとするあさ美サン(笑)。 「言い訳ばかりで見苦しいから愛想を尽かして帰ってきた、これで満足?」 と自虐的に告白する井川サンのわきで、竹下サンは何事もなかったかのようにたくあんをボリボリかじる。

 「うん、コレよく漬かってるわ」 そしてみんなでボリボリボリボリ(笑)。 なんか高橋留美子サンのマンガにありそーなシチュエーション(笑)。 なるほどー、はっはっは、そしてコマ割りいっぱいにぼりぼりぼりぼりの擬音文字(ありそうでしょ?)。

 その夜一緒に寝た松下サンに、井川サンはその浮気現場の様子を詳しく語ります。 「ルームサービスでも頼んでたんだろうね、(私がドアを開けたとき)バッカみたいにうれしそーな顔しちゃってさあ」 回想での、井川サンの夫、小林正寛サンの、ホントにバッカみたいな浮かれ顔(笑)。 その破顔一笑が見る間に深刻な顔になっていく。 見ているほうもかなり笑えました。 でも今回番組開始からコメディタッチで進行していたドラマは、ここでにわかに暗転します。

 「…行かなきゃよかった。

 …

 ホント悔しかった。

 悔しくて、…悲しくて、…さみしかった…。

 知りたくなかったよ…」

 井川サンは、泣いてしまうのです。

 回想に出てくる井川サンのダンナの浮気相手というのが、また取るに足らなそーな女性で。
 こんなとき現代女性であれば、男に対して当時よりずっと対等な立場に世間常識がなってるから、相手を罵倒したり・呆れかえったり・どう責任をとるのか実利的な考えに至ったり・する気がします。

 けれども当時の女性は、自分が妻として、こんなにも相手に認められていなかったのか、という屈辱感のほうが、よほど大きい(個人的な感想です)。
 女はこんなとき、陰で隠れて、しのび泣きをするしか、ないのです(演歌の世界)(決めつけてます)。

 「浮気現場に行かなきゃよかった」 というのは、「行ってらっしゃい」 と井川サンの背中を押した、母親の竹下サンに向けた恨み言葉でもある。 同時に 「浮気しても隠し通すことが愛情だ」 と言いのけた自分のダンナの言い分を、暗に認めているセリフでもある。 「知らなきゃよかった」、ということですからね。

 「亭主がバカやって、恥かくのは私なのよ! どうせだったら、もう少しマシな女を選んだらどうなの?」

 回想シーンで井川サンがダンナに向けて放ったこのセリフからも、妻としての役割を果たせなかった自分が恥ずかしい、という発想が貫かれている。 
 後日井川サンはダンナを見限って、娘と一緒に松下家へ本格的に出戻ってきます(便宜上松下家と書いております…笑)。

 松下サンは原田泰造サンに、決別の決意をこめた電話をかけます。
 でも泰造サンは、女房と別れる意志が未だに固いようであります。

 いっぽう。

 おでん屋の女西田尚美サンは蟹江サンに昔話。
 自分の息子と最後に別れたときに、笑顔のままの息子のイメージで終わらせたかったために、なにも言わずにそのまま別れてしまった、と悔やんでいる話をしています。

 「(息子に)頭下げて、ちゃあんと泣かれて、…怒られてくればよかった。

 …別れてから10年ずっとそう思ってるよ」

 それは、息子に泣かれて怒られることで、自分の気持ちに一区切りがつけられるから、おでん屋はそう後悔しているのです(要らん解説かな)。

 おでん屋は、けじめをつけたがっている。

 あいまいなままでずっともやもやとした気持ちを引きずるよりは、そのほうがきちんと過去を清算し、明日を見つめられるからです。

 そしてその話を聞く蟹江サンは、その言葉が自分に跳ね返ってくるのを、じっと感じている。 この構造はさすがです。

 いっぽう。

 松下サンの弟である仮面ライダーキバは、自分がオヤジみたいな男になりたかったのにこんな事態になって、まるでレールを外された気分になっていたことを、バイト先の女の子に打ち明けています(ごめん、えーと、キバじゃなくて瀬戸康史クンだ)。

 ここでも彼は、そんな自分の気持ちに踏ん切りをつけようともがいていることが読み取れる。

 このようにこのドラマにおいては、当時の1980年ごろの人々が、自分の身の振りかたについて今よりもずっと、何らかの一貫性を持たせようとする意志の強いことを物語っている気がします。
 当時の人々が囚われているのは、現代の日本人が失ってしまった、「けじめをとらなければならない」 という強迫観念のひとつなのではないでしょうか?
 今の日本は、なんでも先送り先送り。 責任を取らないことにあまり後ろめたさというものを感じない。
 まあ政治がそんなですからね。
 植木等サンの 「無責任」 というのがアンチテーゼのインパクトを持ったのは、やはり世の中全体がマジメだった当時だからこそ。 世の中全体が無責任になってしまった(意見には個人差があります)今となっては、このドラマの人々がどうしてこうけじめをつけたがるのか、不思議に思われる傾向が、あるかもしれません。

 話変わって。

 松下サンは原田サンと会い、別れる意向を明らかにしています。

 松下サン 「私も軽率でした。 もうお会いできません」

 原田サン 「きちんとけじめをつけたら連絡します。 それまで、待ってもらえますか」

 松下サン 「お約束できませんっ」

 ここでの松下サンの心情を考えると、相手がどうこう、というレベルで行動してない、という気がとてもする。
 相手に妻子がいるのに付き合おうだなんてあり得ない、という当時の世間常識がベースにはなっていると思うのですが、松下サンは自分がそういう男性に恋してしまった自らの行動規範を、自己総括している傾向がある。 自分のアイデンティティが、原田サンと恋愛を続けていくことを、許さないのです。
 それは確かに悲しみを潜伏させ増幅させる行為である。
 けれども 「不倫は文化だから」 とか 「世のなかなんでもありだから」 などと言って自己抑制のリミッターを外しがちな現代の、時代の雰囲気とは相反するものを、そこに感じるのです(あーもー話がどうしてもそっちに…)。

 まあありていに言えば、とてもつつましく見えるんですよ、ここでの松下サンが。
 そしてワキがしっかりしている感じが、とてもするんですよ。

 そしてある日、竹下サンはおでん屋の女の家に、いきなりやってくる。

 ホンチャンの女房が持つ強大なフォースに恐れを抱きながら 「あたしとアンタは住む世界が違うんだって威張りに来たのか」 と窮鼠猫を噛むみたいにおでん屋はにわかに先制攻撃を開始するのですが、「いいえ、三田村をよろしくと、頭を下げに来たんです」 と航空母艦は動じず波状攻撃を開始します(「ゲゲゲの女房」 の軍隊比喩みたいになってきた)。

 「馬鹿みたいに生真面目で融通が効かなくて、女房を喜ばせることがひとつも言えない不器用な人。
 威張っているくせに気が小さくて、頭を下げる勇気もない人。
 …でも優しい人なの。

 …どうか、支えになってやってください」

 「私がいちばんあの人を理解している」 みたいなものの言い方をされて、おでん屋はカチンときまくり我を忘れて迎撃します。

 「腹立ってんでしょ? 悔しくてたまんないんでしょ? アンタ言ってたじゃない、『婚姻届の紙切れが、鉄の板みたいに硬い』 って。

 罵ったらいいじゃない!

 ほっぺたのひとつやふたつ、ひっぱたいたらいいじゃないよ!」

 これはおでん屋が息子にしてほしいことと繋がっている感情です。 おでん屋は、裁かれたがっている(おことわり 西田サンを 「おでん屋」 と呼ぶことを継続中)。
 航空母艦は悠然と左舷後方に展開中(なんなんだ)。

 「あの日、あなたは訊いたわよね。 『主人が浮気でもしたらどうするのか』って。

 …

 殺したいほど憎いわよ。

 …!

 相手の女も、一緒に死んでくれればいいって、何度も思うの。

 …

 でも結局最後に思うのはね、どこにいてもいいから元気でいてほしい、幸せに暮らしてほしい。

 きれいごとなんかじゃなくて、心の底からホントにそう思うのよ」

 おでん屋は航空母艦に対し、蟹江サンがこの部屋にもどってくるとき、「ただいま」 と言ったことがない、と言って嘆きます。 だから自分は、あの人がいきなりまたいなくなるんじゃないかという不安から離れられないのだ、と。
 それに対して航空母艦はこう言い放ちます。

 「そう…。

 それじゃあなたのほうがふしあわせね。

 私はもう、誰の帰りも待たずに生きていけるから」

 これは竹下サンが竹下サンなりに辿り着いた、彼女の決意なのです。

 夫を待ち、「お帰り」 と言わなければならない妻という責務からの解放。

 いったん相手を見限ると、女性というのはかなり冷たい、と私などは感じるのですが(笑)、そこにはやはりその人なりの身を切られるような苦しみが存在すると考えたい。
 んー、ないのかな、かなり冷たくされたことありますからね、「もう自分の心のなかにはあなたはいない」 みたいな(なにを告白しとる)。 いいですよね、女性は引きずらなくて(個人差はあると思いたいですが)。

 一戦終えて、おでん屋の女のアパートを出てきた航空母艦いや竹下サン、偶然蟹江サンと出くわします。

 確か蟹江サンが家を出てから初めての邂逅。

 竹下サンの心が、一瞬揺らぎます。

 しかしそこに立っていたのは、買い物かごを下げて女もののサンダルをはいた、自分が知っていると思い込んでいたはずの亭主ではない、ヒモ男。
 竹下サンは見切ったような悟ったような表情になり、覚悟を決めたように一礼すると、まるで復讐するかのごとき無表情で、完全無視したまま、「元亭主」 のそばを通り過ぎていく。 蟹江サンのドテラに、かすかに竹下サンの和服のショールが触れていきます。

 それは竹下サンの、旅立ち。

 振り返ってかつての女房の後ろ姿を見送る蟹江サン。

 脱力したように、買い物かごが手から滑り落ち、膝からがくんと崩れ落ちて、苦悶の表情を浮かべたままその場に突っ伏します。

 いや、すごいシーンでした。 これが向田ドラマか。

 これは要するに、女房からの三下り半。
 「どうぞご勝手に、もう重荷は背負わなくていいんですよ、さようなら」 みたいなもんですからね。 あーあ、コエ~、女って(じょーだんです)。

 そして。

 原田サンは松下サンに再び会いに来ます。
 松下サンはあらためて原田サンを拒絶するのですが、そこでまた、原田サンを信じているいないの問題ではない、という態度を明確にします。 松下サンの判断基準に、相手はやっぱりいない。 自分がどうあるべきか、が優先されているように思える。
 そんな松下サンに、原田サンはイライラをぶつけます。

 「なんでそんな冷静でいられるんです?
 怒ってもいいし、責めてもいい。 でもこのままこんなふうに終わられるのだけは僕は嫌だ。
 女房が意志表示をしてくれて、僕は却ってよかったと思っている。
 きちんと話し合って必ず早いうちにけじめをつけます。
 だから…」

 「もうやめてください!」

 もうこれ以上掻き回さないで、と怒りをぶつけその場を離れようとする松下サンを、原田サンは抱きしめる。

 「もっとそういうことを言えばいいんだ…!
 もっと僕に気持ちをぶつけてください…!
 なんでひとりで苦しもうとするんですか?
 人間なんてみんな弱いんだから…!」

 松下サンの手が、心の迷いを一瞬示すのですが、その思いを松下サンは振り切ります。
 逃げるように自宅へ戻ってきた松下サン。
 井川サンと小林サンが、玄関先で痴話ゲンカをしています(笑)。
 平謝りのダンナに、井川サンは取りつく島もない。
 あ~あ、あっちもこっちも…(笑)。
 トリプル浮気話だ(や、性格は若干統一性を欠いていますが)。

 原田サンのうちには相変わらず奥さんが居座っています。
 そりゃ1年も家を開けたのはこの奥さんの落ち度です。
 けれどもこの奥さんも、結局居場所がなくて、ダンナのもとに戻ってきている。
 同情すべき人物です。
 こうなるともう、男としてはメンド臭い松下サンより、出戻り女房にアドバンテージを感じながら暮らすほうがいいのではないか、という打算が生じてくる気がいたします(笑)。
 そして父親と母親の仲たがいを敏感に感じた娘が、原田サンと奥さんの手を、つなぎ合わせます。
 まさに子はかすがいの黒飴(どうもオチャラケてるなあ)(大目に見てください)。

 さて。

 おでん屋との決闘を終えた竹下サンが自宅に戻って、買ってきた胡桃を開けています。

 胡桃割りの道具を不器用に使う弟の仕草ににぎわう家族。 竹下サンは 「今日お父さんに会ってきた」 とやおら切り出します。 夫の姿に幻滅したような口ぶりの竹下サン、「使わぬ部屋の、扉を開けたのねえ…お父さんは」 とつぶやく。

 「『胡桃割る 胡桃のなかに 使わぬ部屋』。

 …

 胡桃のなかには、実がぎっしり詰まってると思ってたけど、割ってみたら、空っぽの部分があった。
 人の心の中にも、自分でさえ知らない、部屋があるのかもしれない…」

 この部分、急に説明的な感じがしたんですが、昔のドラマ化のときはいしだあゆみサン(今回松下サンが演じている桃子)がこの俳句をつぶやき、その解釈など説明は一切入らなかったらしい。

 今回のこの場面。

 「胡桃を割る」、ということは現在以上に、当時でもあまりすることがなかった、非日常の光景です。
 そんな非日常のなかで、母親が急に、人生の本質を見つめたかのようなシビアな言葉を発する。
 そのこと自体が、「使わぬ部屋」 の重層的なイメージを喚起する、という点で秀逸だったように思えます。

 竹下サンは夫がいなくても、子供たちが自分のことを考えてくれるだけで、それだけで幸せなんだ、という割り切りかたをしようとしています。

 「あんたたちも、一生懸命生きて、幸せになんなさいよ」。

 普段気恥かしくて言えないようなことが、この使わぬ部屋の中で、素直に発せられる。
 まるでそれは、30年前の別世界から届けられた、肉親のメッセージのような気さえしてくるのです。
 一生懸命生きて家庭を作ったら、自分のように子供から大切に思われるような幸せをつかむことが出来るのよ――。

 涙ぐむ、松下サン。

 後日、松下サンの目の前に、父親の蟹江サンが現れます。
 その姿はこざっぱりとしていて、表情もどことなくふっ切ったような感じ。
 父親は娘に、「家を出て死ぬつもりだった」 と打ち明けます。 松下サンはもう一度一緒に暮らそうと翻意を促すのですが、父親の決意は固い。

 「やっちまったことを、なかったことには出来ん」。

 ここでもけじめをつけたがる人がひとり。
 でも蟹江サンは、それまでの生活が荷が重かったことを告白し、一生懸命のステージから、降りようとしている。 けじめ、というものが半ば形式化している感じに見える。

 松下サンはそんな父親に対して、決別の言葉を口にするのです。

 「お父さんは、ホントに使わぬ部屋を開けたんだね。
 その部屋には、私たちはいないんだね。

 弱虫…!

 私、一生お父さんのこと許さないよ。 ずっと憎むよ。 一生恨み続けるよ!」

 「…すまん…」

 「…
 …
 …
 さよなら、…お父さん」

 娘から絶縁を言い渡された父親。

 その情けなさを想像すると、胸が潰れそうになりますが、自分だったら回避行動をとりたくもなる気もします。
 蟹江サンにとってそれは、新しいおでん屋との生活。
 おでん屋の女の部屋に、蟹江サンは初めて、「ただいま」 と言って戻ってくるのです。

 このことは一種、娘に見放された屈辱を、ニュートラルな自分でいられることの喜びで、ごまかそうとしている部分が垣間見える。
 実際昔の蒸発した男どもは、そうして自分を慰めていたのではないか、という妙なリアリティを、そこに感じることが出来るのです。

 松下サンは原田泰造サンに対して、「父のように家族を置いて、自分だけ新しい部屋の扉を開けるわけにはいかない、その部屋は、あなたにも開けられたくない」 とあらためて拒絶し、ふたりの思い出の品であるお守りを、原田サンに返す。
 原田サンの表情からは、さっき私が書いたような打算が見え隠れしているような気がしました。 なんとなく、松下サンに拒絶されても控えがあるか~みたいな。 松下サンがその場から去り、深いため息をつく原田サン。 う~ん、原田サン、うまいな、演技。

 そして、半年後。

 松下家の人々はそれぞれ新しい道に向かって、歩き始めています。
 ありゃ、この回で最終回か?と思った次の瞬間、意外な展開が。

 化粧を着て着飾った竹下サンが、別れたはずの蟹江サンと、つれこみ旅館(ラブホテルじゃなかったっスね)に入るところを、松下サンは目撃してしまいます。
 これをドラマによくある偶然と解釈しなければ、ふたりはスンゴイ頻度で、逢瀬を重ねていたことになる(爆)。

 どうなるんだ次回。
 最終回です。

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2011年8月26日 (金)

「大竹しのぶのオールナイトニッポンGOLD」 ゲスト明石家さんまサン

 聴取率調査、いわゆる 「スペシャルウィーク」 の目玉として今回大竹しのぶサンが繰り出したのは、前夫の明石家さんまサンをゲストにする、という方法。
 しのぶサンがこれをスタッフに提案したところかなり 「あり得ねー」 雰囲気が支配したらしいのですが(笑)、以前27時間テレビとかでもご一緒にご出演なさったらしいですね。 彼女にとってはそんなにハードルが高いことじゃなかったらしい。

 仕事中だったので全部聞くことはできなかったのですが、聞いた限りでちょっと感想を書きます。

 しのぶサンのハードルは高くないのかもしれなかったですが、やっぱりさんまサンと会うことには、一定の緊張感を強いられることは事実のようです。 それはさんまサンにしても同様。 登場時から、どことなくどう話したらいいのか、という距離感がつかめない珍しいさんまサンを聞くことが出来た気がします。

 それは簡単に言ってしまえば、かつて所帯を一緒にしていた者どうしのニュートラル感、生活感、ということが低めのテンションに現れているのでしょうが、結局このおふたりは、その結婚生活においても、互いの距離感がつかみきれないままだったのかなーなんて、聞いていて感じました。

 その最も象徴的な要因に思えたのは、おふたりが互いのことを呼ぶ呼び名に苦慮していた、ということです。

 さんまサンはしのぶサンのことを 「オカアサン」 とたまに呼ぶ程度だったらしいのですが、しのぶサンはそのことに対して 「私はあなたのお母さんじゃない」 と返したことがあったらしい。
 しのぶサンは一度もさんまサンを本名の高文サンとか明石家サンとか(笑)呼称で呼ぶことはなかったとのこと、「ねえ」 とか 「あのー」 とか。

 そんな不器用な距離感のおふたりだったのですが、面白かったのは、おふたりとも子供サンに対する愛情だけは突出している、という点です。
 そのことで印象的だった話。
 さんまサンがここまで具体的には初めて告白することなんやけど、と断りながら話したのは、息子さんの二千翔クンがぜんそく気味だったのを、みずから気功で治した、という話。
 以前鶴瓶サンとテレパシー送信みたいな遊びをしたときに、鶴瓶サンが送った 「河」 という漢字のイメージをキャッチして自分でも気味が悪かった、と話すさんまサン、その能力に秀でている部分があることは言えると思うのですが、教えてもらったとかなんかで覚えた気功を、ぜんそく気味だった二千翔クンに試したらしいんですよ。 まわりからはものすごい非難の嵐だったそうなのですが(たぶんしのぶサンのお母さんの江すてるサンだろーと思います…笑)。

 結局その治療は一晩かかって、終わったときにはさんまサンもヘトヘトになって気を使い果たしたらしいのですが、それ以来息子さんのぜんそくがピタッと収まった、と。 フシギ話ですよね。

 まあ、そりゃにわか覚えのいかがわしい方法を試すということは一般常識から言ってハテナ、と思う部分もありますよ。 でもそこから感じるのは、やはりさんまサンの子供に対する愛情なんですね。
 娘サンのIMALUチャンに対しても芸能界に出た以上は頑張ってほしいらしいですが、もう一切ほったらかしらしい。 娘のボーイフレンドとかにはかなり神経質なのに、あえて芸能界での活動をバックアップしていない、というのも、かえってさんまサンの娘に対する大きな愛情を感じるのです。

 そんなふたりの関係を一言で表せば、番組内でも当人同士がおっしゃってましたが、「二千翔といまるの父親、母親」。

 このおふたりの関係って、今がベストな距離感だ、という気は、とてもしたんですよ、放送を聞いていて。

 結婚という形態ではあまりに近すぎて嫌になっちゃうけれども、お互いが子供を媒介として、普通の異性とは違う感情を、お互いに対して保ったままでいる。

 こんな奇妙な結びつきが、外から見ていていいな~と思えるのは、やっぱりおふたりの人間的な魅力が大きいからなんでしょうね(ベタな結論だ…)。

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ネット接続できなくなった~(現在復旧)

 夜勤から帰ってくると真っ先にパソコンの電源をつける、というのが私の習慣なのですが、今朝はネットが、全くつながらない。
 いきなりなんたらの設定とか画面に現れて、「いまさら何だ?」 と思いながら設定し直したらこのありさまです(因果関係不明)。
 それから読んでもまったく分からないヘルプとか(あのヘルプって、ヘルプになっていないと思うことしきり)再起動させたりとか試してみるのですが全く埒が明かない。
 そのうち眠くなってきて 「もういーや」 と寝てしまったのですが、ひと眠りのあと再び目覚めて、買ったときからほぼ、ほっぽったままのパソコンマニュアルを見ながらいろいろやってたら、やっと開通(祝)。
 結局なにが原因だったのかよく分からないままです。

 ネットがつながらなくなってすぐさま感じたのは、いわれのない疎外感(爆)。

 普段は道行く人がみんなケータイの画面を見ていることに眉をひそめて 「ちゃんと前見て歩け」 とか 「自転車こぎながらケータイ見てんじゃねーよ」 とか思ってたのですが(笑)、つながってないと不安なんですね、よーやく分かりました(笑)。

 それにしてもパソコンから要求されることにいちいち答えていて、アップデートとか設定のし直しとかすると、取り返しのつかなくなることが最近多くて閉口しています。

 そのいちばんの被害は、文字入力の設定が変わっちゃってること。
 いちいちエンターボタンを押すと、直接入力に代わってしまって(これが結構な頻度で発生する)、その都度ツールボタンからプロパティを開いて全角かな入力に変えたりしてる。 メンド臭いったらありゃしません。

 ここでちょっと告白すれば、私は未だに50音入力をしとるんですが(哄笑が聞こえる…笑)、もういい加減にアルファベット入力に変えようかな~なんて。
 だってほかのパソコンとか、みんなアルファベット入力なんだもん(笑)。
 私の場合は平成の始まったころくらいからのワープロのときからの習慣が抜けきらないのでありまして、もう20年来50音入力だからいまさらいいか~、とは思うのですが。
 メンド臭いことに抗えない、自分なのであります。

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2011年8月23日 (火)

「江~姫たちの戦国~」 第32回 揚げ足取りをしたくなる構造

 秀吉が亡くなって、呆然とする江。
 「そりゃお前と殿下が本当の親子だったからだろう、私とオヤジなんかに比べりゃずっと」 と江に言う秀忠。
 ドタバタコメディのようだった秀吉と江の回想シーンがここで一瞬流れるのですが、確かに 「家族○人大騒動!」 みたいな  「大家族モノ」 のノリです。
 「大家族モノ」 では、母ちゃんとかすごく口が悪くて(マトモに見たことないのですが)こいつ愛情なんてあるのかと思いながら、ちょっとした出来事で不器用な愛情を表現する。 それと同じようなことをしたかったのかな、なんて。

 話的には相変わらずグダグダで、家康暗殺の噂がたっているから息子秀忠と家康が一緒にいるのはまずい、明日中に秀忠と江は内密のうちに江戸に出立せよ、というのが、とっかかりの話です。
 どうしていきなり明日なのか?(笑) 数日のうちに、でよかろうものを。
 まるでその噂を今日聞いてきたみたいです。 でなきゃこんなに切迫する命令なんか出ない。 準備に大慌ての草刈正雄サン。

 その一日で江は、江戸は遠いからいろんな人にあいさつしておきたい、と秀忠に申し出る。
 秀忠は江の乳母に 「江は口が軽いからお前が監視役でついていけ」 と話すのですが、口が軽いのは乳母のほうじゃねーか、とテレビに向かってツッコミ(笑)。
 だいたい一日のうちにそんなにいろんなところをまわれるのか?という観点も抜けている。

 内密ということを江が隠し通せるはずもなく…という話の作り方もわざとらしいのですが、乳母がこたびはちゃんと監視役を務めているにもかかわらず、細川ガラシャの前でも都合の悪くもないことに 「なんのことやら…」 と要らぬ思わせぶりをする江。 ガラシャは内密の話をすぐに察してしまい、十字を切ると、江も乳母もワケが分からないまま手を合わせる始末(ここは面白いギャグでした)。

 ガラシャとの対面であらためて作り手が強調したのは、このドラマにおける江の魅力についてでした。

 「お江様には、人は心を開きます。
 あなた様が、ご自分を隠さず、臆さず開かれるからでしょう。
 その力は、お江様だけのもの。
 どうかこれからも、お江様らしく、いらして下さりませ。

 『おのれの信じる道を行く』。

 お江様が教えて下された言葉です(以下略)」

 つまり惻隠の情とか一歩下がってとか、日本人の美徳を破壊しまくっている江の生きかた(笑)。
 このドラマでの江に感情移入しにくい原因もまさにこの点にある気がするのですが、このアンチテーゼが見る側に受け入れられないのは、作り手の力量不足、なんでしょうね。
 ただ、作り手が江に対してそこに魅力を見い出そうとしていることだけは、伝わっては来るのです。

 さらに江は秀吉が亡くなったことで悲観に暮れる龍子と対面。
 龍子は秀勝が亡くなったとき、「はじめからいなかったと思えば」 とか江にアドバイスをしたことを、悔やんでいます。
 あの心ない場面は、この場面への布石だったのか(笑)。
 引っ張りすぎだって(笑)。
 あれで確実に、龍子への視聴者の反感が強まったとゆーのに(笑)。

 さらに江は淀と対面(一日のうちにここまで出来るものか…)。

 江は江戸出立の話を、淀に軽々しくも話してしまいます。

 ん~まあ、いいんですが(笑)。

 ここでの注目点は、秀吉が亡くなったことで、淀の心に 「自分が秀頼の父親にもならなくてはならぬ」 という心境の変化が表れていること。 目下の私の注目点のひとつは、このドラマにおいて江と淀の関係は、ポジティヴなままなのかネガティヴな方向に転嫁するのか、ということですが、この後江が接見した北政所(スゲー大勢と会いまくってるな…笑)が 「自分と淀とは進む道が変わるやもしれぬ」 と危惧を抱くことと相俟って、ネガティヴ志向が期待できる(悪趣味?)。

 ここで淀は、江の拒否するのにもかかわらず、娘の完を呼んでしまいます。
 完は江を 「叔母上」 と呼び、マインドコントロールが進んでいることを如実に示します(笑)。
 かなしい。
 この展開についても賛否が分かれるところだと思いますが、ここで江は娘に対して 「叔母」 に徹し、さらにここまで娘を育ててくれたことを淀に感謝する。

 このときの樹里チャンの表情には、「とてもこの人が完の母親とは思えぬ」 という未熟さが露呈していたと感じるのですが、それは置いといて、江が淀にこのことを感謝する、というくだりは、江の成長をわずかながら物語っているようにも感じました。

 そしてこの強行スケジュールをこなして帰ってきた江を待ち構えていた秀忠。
 いきなり三成に会う、という。
 そしてこのドラマのお約束として、この場に江も立ち会うことになるのです。
 一日のうちにどんだけだ?つー気もしますが、とにかくこの会見の席で秀忠は、三成に対してかなり忌憚ない自分の心情を述べます。
 それに三成も、結構呼応して正直なところを話している。

 この秀忠と三成の会見は、正直なところ底が浅い気は、どうしてもします。
 それはふたりが、胸襟を開けて話をすれば分かりあえる、という作り手の人間に対する信頼度の高さが、話を浅くしてしまっている、という気がするのですが、ここで秀忠も三成も、自分の弱さを相手に対して打ち明けることで、作り手がふたりのあいだに、ある種の連帯感というものを生み出す機会にしようとしている気がする(気がする話ばかりですが)。

 秀忠は秀忠なりに、三成は三成なりに、その方法は稚拙かもしれませんが、互いに自分の生き方を模索しようとしている。
 秀忠はこの会見後江に、三成が秀頼と淀を守ろうとしている頑なさが危険だ、みたいなことを言います。
 秀忠は三成の胸中を探ったと共に、複雑な感情を抱いている自分の父家康のことを、案じている部分もある。
 それはニヒルな物言いで、完全に隠れてしまっているのですが。

 この、三成と秀忠の会見からのやり取りは、結構奥が深い気は、いたしました。

 ただそのことを感じることを阻害する、このドラマには揚げ足を取りたくなるような展開が、あまりに多過ぎる。 深くドラマを見ようとすれば出来るのに、ドラマがそのことを拒絶したがっている、そんな気もするのです。

 そして江戸に着いた江と秀忠。

 加賀まりこサンが秀忠の乳母として、登場です。

 向井理クンの足裏マッサージをするという喜悦に浸りながら(爆)、いきなり姑?ぶりをいかんなく発揮させる加賀サン。 江をいじめてください。 期待してます(悪趣味だ…)。

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2011年8月21日 (日)

「全開ガール」 第6回 小さな決意

 あまりのめり込んで見ているわけではない、「全開ガール」。
 話的に最終回まで見えてしまうし、いちいち細かいところまで、すぐ先の展開が読めてしまう感じはとてもする。
 要するに 「話が古い」、ということになるのかもしれませんが、それでもなんか、このドラマには見続けたいと思うなにかがあるような気がしています。

 そこで私が今クールリタイアしてしまった 「ブルドクター」 と、ちょっと比較してみます(下らん比較ですが)。
 「ブルドクター」 の場合も、主役級のふたり(江角マキコサン、石原さとみチャン)のふたりは、「全開ガール」 の主役である新垣結衣チャンと同じく、かなり突っ張った部分が前面に出ているキャラクターです。
 ところが 「ブルドクター」 のほうは、その突っ張ったキャラクターを、作り手が肯定しているような部分がある。
 女性の社会進出をよしとして、女たちよ、大志を抱けみたいなスタンスが、物語の底辺にずっと存在しているように見えるのです。

 それに比べて、「全開ガール」 の新垣結衣チャンは、そういう社会での勝ち組である弁護士の、そのまた最先端を行こうとする貪欲さにあふれていながら、作り手はけっして、そのことを肯定していない。

 それは新垣結衣チャンの弁護士事務所のボスである薬師丸ひろ子サンに関しても同じことが言えていると思う。
 仕事が出来るとか社会で大きな役割を果たしているとか、そんなことが人間にとっていちばん大切なことじゃない、という思想が、結衣チャンや薬師丸サンのありかたから、物語全体に感じられるのです(オーゲサな話になってきた)。
 それに対して 「ブルドクター」 の主役ふたりは、仕事が出来るとか社会で大きな役割を果たしていることが、ある種のゴールになってしまっている。 そこでは自分の子供との関係も、愛情が基本ではなく、いかにして子供と上手に付き合うか、というマニュアル的なレベルでしか、話が展開していかない(江角サンちの場合)。 まあ話を途中までしか見てなくてここまで批評するのはアンフェアですが。

 「華和家の四姉妹」 に関しても同様のことを私は感じてしまうのですが、観月ありさチャンと子供たちの関係は、まだ何か、奇妙な一体感を保っているように思える。 母親が妹の彼氏と一夜を共にして子供たちをほったらかしにしてしまっても、彼女が全力で子供たちに接しているところが見えるから、まだ救いがあるように思えるのです。

 「全開ガール」 の薬師丸ひろ子サンはこの回、娘の 「生活発表会」 というお遊戯会みたいなイベントに、多忙のため出ることができません。 それを新垣結衣チャンに完全丸投げしているのですが、それでちゃんとしているつもりでいる。
 ここまでならば 「ブルドクター」 とあまりレベルが変わらないのですが、「全開ガール」 の作り手は、薬師丸サンに対して錦戸亮クンが進言させることで、彼女の 「自分はじゅうぶん子供にしてやっている」 という気持ちを、否定しにかかる。

 そしてこのドラマは、そのことを前面に押し出すために、薬師丸サンの娘ひなたチャン(谷桃音チャン)の悲しみを、この回おそらくドラマが始まってから初めて、描写していくのです。

 ひなたチャンはかなりクールな性格の女の子で、ガキのクセして髪はキメまくりだわ(笑)チャラチャラした服は着てるわ、まるでチビギャル、といった感じなんですが(ハハ…)、母親が構ってくれなくても母親の事情というものを察して、「別に」、みたいにふるまっている。
 だからお遊戯会に母親が来れないことも先まわりしてあきらめ、ヒロインのお姫様役でなくて魔女役を買って出、母親にはお姫様役をやる、とウソをつく。
 そして仕事のトラブルでお盆も一緒にいることが出来なくなった母親にとうとう我慢できなくなり、彼女は魔女の衣装を泣きながら切り刻むことになるのですが、彼女が 「川の字」 になって眠ることを夢見ている、というくだりもあったせいか、このひなたチャンの演技には、オッサンはちょっと泣けました。

 けれども前述のとおり錦戸クンの働きによって、お遊戯会のとき母親の薬師丸サンは多忙を縫ってやってくる。

 ここでの薬師丸サンの心の動きも、ドラマとしては重層構造を作り込んでいて、ちょっと感心しました。
 つまり薬師丸サンの事務所のやり手弁護士である男(平山浩行サン)のフライングにわだかまりが生じていた状態だったのに、それを乗り越えて彼を会議の代役として出席させ、娘のお遊戯会に来る時間を作ったのです。 「仲間を信頼する」、というハードルを、彼女も乗り越えているんですよ。

 母親が来たことを知ったひなたチャンは、自分が母親についていたウソが恥ずかしくて、お芝居が始まる直前に逃げ出してしまいます。
 ひなたチャンを見つけだした錦戸クンは、「ウソをついたことは謝れば分かってくれる。 言えない役でもなんでも、精一杯やっているとこを見せんのが大事なんだよ。 それで、お母さんにしっかり伝えろ。 ちゃあんと逃げずに向き合って」 と説得をする。
 「でも、魔女の服破いちゃったし」 と話すひなたチャンに、ガッキーが 「大丈夫」 と、自分がその服を直しておいたことを告げるのです。 ひなたチャンは以前よりアップリケがたくさんついたその魔女の服を着て、舞台に上がります(このアップリケのソースがガッキーの日常着、というのもミソ)。

 そんな生意気そ~なガキの(笑)、…小さな決意。

 「ブルドクター」 は確かに法医学がドラマのメインであり、子供との関係をここまで掘り下げて描くことは、物理的に無理なのでしょうが、仕事が出来るよりも大切なものがある、という思想がないからこそ、「ブルドクター」 を続けて見たい、という気になってこないのかもしれない。 これは私だけの感じ方かもしれませんが。

 「全開ガール」 にしても、冒頭に書いたとおり、話がすごくありがちなことは確かです。
 でもガッキーも、最終回にはひなたチャンのようにその鉄面皮を、脱ぎ捨てることになる。 それは確実に言えていると思うのです。
 頑なな女の子が、自分の強がりを脱ぎ捨てる瞬間。
 そんなベタな瞬間が見たくて、私もこのドラマを見続けているのかもしれません。

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2011年8月20日 (土)

「テンペスト」 第5回 GACKTサンの演技が見られることの喜び?

 お盆休みでやっとリアルタイムで見た、「テンペスト」。
 なんか話が飛び飛びなような感じがして、前番組の 「江」 より内容が散漫なように思えました。
 で、今日の再放送をあらためて見たのですが、いったん咀嚼してから見たせいか、とても優れた内容だったんだ、と思い直し。

 この第5回の内容でどこが飛び飛びだと感じたのか、というと、まず徐丁垓(GACKTサン)がいきなり琉球の国相になってしまった点。 今回その部分に注目して見ていたのですが、やはりきちんとした説明がドラマのなかでなされていない、と感じました。

 徐丁垓が琉球の政治に関わらせよ、と申し出たのは、ドラマを見ている限り孫寧温(仲間由紀恵サン)に対してのみ。 自らが宦官であったことから、寧温が本当は女で、宦官を騙っていたことを最初から見抜いていたのです。
 そのことをネタに寧温に、琉球王朝に取り入るよう恫喝をするのですが、次のシーンで寧温はそのことを悲観して、たぶん世話になっているおばァ(平良とみサン)の家で自刃しようとする。
 それを止めに入ったのが義理の兄の孫嗣勇(金子昇サン)。
 「首里天加那志(琉球の国王、高橋和也サン)が亡くなったからって後追いするな」 と言いながら、「首里天加那志が突然みまかられた」 と次の瞬間に話す自語相違で、ここも気になったのですが、とにかくここで徐丁垓は 「まさか国王が死ぬとはな」 と高笑い。 「これで清は自分を頼らざるを得なくなった」 と聞得大君改め真牛(もうし、高岡早紀サン)に喜々としてべらべらしゃべる。
 そしたらすぐあとのシーンで、あらたな国王の前に徐丁垓がすっくと立って、「自分は琉球の国相になった」 と宣言するのです。
 う~ん、これは徐丁垓が清国に働きかけて、自分を琉球の要職につかせるよう根回しをした、としか考えられない。
 「まさか国王が死ぬとは」 と言っていたから、別に国王に徐丁垓が毒を盛った、とも考えにくいし。

 あとトートツなように思えたのが、徐丁垓が孫嗣勇と寧温によって殺されてしまうところ。
 なんでいきなり?と思ったのですが、ドラマをちゃんと見返すと、孫嗣勇が寧温を手篭めにしてしまった、と気付いてしまうシーンがあったのがまずきっかけで、そのことから孫嗣勇が徐丁垓を呼び出して彼を殺そうと画策。 その際に徐丁垓は、寧温もおびき出そうと、寧温に対して文を送っていたんですな。 だからその場にいきなり寧温が現れた。
 どうも食事をとりながら見ていたので、見落としていたようであります。 これらのシーンはちょっと目を離したすきに終わってしまう類のもので、やはりドラマというものは片時たりとも目を離すのは禁物だ、と思えてなりません。
 まあもっとも、このドラマ自体がヤタラメッタラ急ぎ足であることも事実なんですが。

 その、ヤタラメッタラ急ぎ足のドラマのなかで、徐丁垓も国相になったはいいけど、この回に早くも暗殺されてしまいます。
 いや、もったいないです。
 GACKTサンの演技は、数年前の 「風林火山」 の上杉謙信役とは打って変わって、今回はピカレスクを地で行くほどの悪役。 舌がチョロチョロ蛇のように出てくるのは、あれはCGだったようですが、ともかく蛇のようなしつこさとちょっとイっちゃってるような異常さを完全に表現している。
 その演技は異端、とは呼べるものの、こういう特殊な役者サンは、その演技を見ること自体が貴重なのではないか?と思えるほどであります。

 それにしてもアソコがない(下品な表現で失礼)宦官が、その舌のテクニックで寧温を手篭めにしてしまうとは、どんなだ?つー気もしますが(笑)、孫嗣勇と対峙したときも、なんちゃって酔拳みたいな(笑)ポーズをとって、しかも寧温まで呼び出すとは、この男(じゃないか)どこまで自分の腕に自信があるのか?という感じであります。
 ところがこの徐丁垓、孫寧温のブレーンパスターを食らって(笑)あえなく断崖絶壁に孫寧温とともに宙づり。
 寧温の命綱となったのは、初代の聞得大君が持っていたという馬天ノロの勾玉。 それをつなぐ糸がまるで芥川龍之介の 「蜘蛛の糸」 さながら、曇天から細長く繋がるのです。
 寧温は水からのかんざしでもって自分にすがりつく徐丁垓をひと突き。 徐丁垓は波打ち際の岩場に、落下していくのです。

 もっとGACKTサンの演技を見ていたかったなー。

 しかしこの徐丁垓、自分が殺された時のことも、ちゃんと考えていたようです。 喜舎場朝薫(塚本高史サン)に寧温が薩摩の朝倉雅博(谷原章介サン)と通じていることをほのめかし、たぶん寧温が女であることも、バラしたように思われます。
 それを知った朝薫、おそらくその私憤も手伝ってか、徐丁垓を殺害した寧温を、裁判にかけるのです。

 番組HPなどによると、寧温はこのあと女として生きていくことにもなるようですし、話は二転三転していくものと思われますが、もしかすると朝薫は、私憤ではなく他の目的で寧温を裁判にかけたのかもしれません。

 いずれにしても一瞬も目が離せない、高度なドラマであることは確かなようです。 デカルトの方法論序説をめぐっての徐丁垓と寧温との対話も、深い思索が必要な場面のように思えました。 ただその結論は、寧温が偽である、という、ただ単に寧温が女であることの暴露ではあったのですが(笑)。

 しかしアヘン情報のリークと言い禁書であるデカルトの本で寧温を釣る方法と言い、かなり狡猾な方法で琉球の国相にまでなった徐丁垓、ホントにあっけなかったです。


「テンペスト」 に関する当ブログ記事

第1回 「琉球ドラマ」 というカテゴリー 
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/07/1-18f9.html
第3-4回 孫寧温の方法論 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/08/3-4-c00d.html
第5回 GACKTサンの演技が見られることの喜び? http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/08/5-gackt-707d.html
最終回まで見て 感想さぁ~ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/10/post-ebca.html

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2011年8月19日 (金)

「それでも、生きてゆく」 第7回 高揚していく殺意

おことわり この記事、初出時より若干加筆いたしました。

 出演者などのテロップが番組冒頭に来るパターンの演出。 「流れ星」 でも見かけた手法ですが、これからドラマ後半に大きな出来事が起こるという緊張感を強いられます。
 前回この手法がとられた時は、大竹しのぶサンの衝撃の告白がメインだったのですが、今回は三崎文哉(風間俊介クン)が人を手にかけてしまう?という衝撃の展開。
 いきおい物語全体が、文哉の殺意が高揚していくさまに引っ張られて、見る側の理性を失わせます。

 今回のドラマ全編に流れていたのは、ショパンの 「雨だれ」。
 この曲は、導入部はとても優しいメロディなのですが、にわかに黒雲が現れ、雨だれは土砂降りの雨となっていく。 そして最後は導入部の主題である優しい雨だれに戻っていってエンディングを迎える、という構造になっています。 黒雲が現れる直前の、わざととも思える不協和音が、不穏な予感をかきたたせます。
 そしてこの中間部分の土砂降りと共に、ドラマ自体も不穏な空気に包まれていく。

 その助走とも言えたのが、文哉と一時期関係を持っていた少年院時代の看護師、東雪恵(酒井若菜サン)の告白。
 彼女が語る、少年院出所後の文哉の様子は、偶然来ていた耕平(田中圭サン)も含めた、深見洋貴(瑛太クン)響子(大竹しのぶサン)親子3人の心情を、残酷なほどに切り刻んでいきます。

 文哉は、反省していない。

 このことはその後やってきた双葉(満島ひかりチャン)によっても、あらためて響子にもたらされるのですが、洋貴はその告白がきっかけで、文哉に対するどうしようもない殺意が、ふたたび押さえきれなくなっていくのです。

 それは洋貴にとって、妹亜季(信太真妃チャン)の復讐のための、言わば憎しみの殺意。 後先考えない、制御不能の衝動的な殺意です。

 ただし三崎文哉の過去と現在がメインであった今回、丹念に描かれたのは、文哉の殺意というものが、「自分の救済」 を目的にしたものだった、という解釈。 私にはそう思えました。

 ルーベンスの絵に異様な反応を見せる少年院時代の文哉に、雪恵はこの絵が 「フランダースの犬」 に出てくる絵だから覚えていた、ということを話します。
 「フランダースの犬」 といえば、亜季チャンが生前、洋貴に(母親の響子にもだったかな)話していた内容が、思い返されます。

 「『フランダースの犬』 って、なんのためにあるの?」

 なにもいいことがないこの話の存在意義を問う亜季チャンが、文哉にも 「生まれてこなければよかったのに」 と話した、というのです。
 もちろん亜季チャンは、ネロが生まれてこなければよかったのに、と言ったつもりだったのでしょうが、それまで自分のなかにあった闇に、亜季チャンが土足で入ってきたように、文哉には思えたのではないでしょうか。

 彼を蹂躙している闇というのは、雪恵の看護師の同僚が話していた、家庭環境にその原型を見る気がします。

 「先生の診断では、父親が家庭に無関心だったうえ、もともと厳しかった母親が突然事故死したことが大きなトラウマを残したんじゃないかって」。

 いずれにせよ彼にとって触れられたくない闇が、彼を 「死にたい」 という精神状態にときどき追い込むことは言えている気がします。
 雪恵が見つけた彼の日記には、こう書かれていた。

 「また頭の中の井戸を覗き込んでみた。 水は入っていなかった。 渇いている。 水を入れたい。 すごく困る。 死にたい」

 同じ日記にときどき描かれる、金魚の絵。
 文哉にとって、人間というのは、水槽のなかにいる尾ひれのついたかわいそうな金魚で、それを掌ですくって壊してしまいたい衝動にかられる対象物でしかなかった。
 この見解は雪恵によるものですが、これについては別の解釈も成り立つような気もします。
 彼にとって美しくないものを、殺すことで昇華させる。
 言わばそれは、自分の救済であるとともに、相手の救済でもある。
 残ったのは、湖の絵のように、美しい世界。

 日記のなかに書かれた文哉の見た夢の中で、雪恵は金槌で、殴り殺されていました。
 しかし夢のなかの雪恵は、撲殺されながらも、ギョーザを作ることをやめようとしなかった。
 殺す、ということがすでに、文哉のなかでひとつの単純目的化している表れではないか?と感じます。
 彼は相手を、殺しているんじゃないんですよ。
 少なくとも殺す、ということがどういうことか理解できていたら、雪恵は夢のなかでも、死ぬはずです。

 殺すということは、相手の家族が傷つく、ということ。

 殺すということは、自分の家族も傷つける、ということ。

 彼にはその認識が、決定的に欠けている。

 「またいつかしてしまうと思う。
 またいつかしてしまうと思う。
 生まれてきてはいけなかった。

 人間は悲しい。
 どうして生まれたのか分からないまま生まれてきて、どうして生きてるのか分からないまま生きて、なにも分からないまま、なにも分からないまま死んでいく。

 殺す僕がいる。
 殺す僕は、僕の子供を殺すだろう。
 僕は見ているだけ。
 殺す僕を。
 僕の子供を殺すのを見ているだけ。

 それでも僕は生きている」

 この言葉の通り、文哉は出所後同棲を始めた雪恵とのあいだにできた子供を、わざと流産させています。

 彼の目には、殺す自分と、殺される相手しか、見えていない。

 これはとくに女児殺人事件、というものを一瞥したときに、共通している犯人側の認識のように思えます。
 この部分を見ていて、少なくともこのドラマの作り手は、「ある特殊なケース」 として、この女児殺害事件を取り扱おうとしているのではない、と感じました。
 女児誘拐殺害、というパターンを踏んでいく犯人が陥っているのは、たいていがゆきすぎた女児愛(ロリータコンプレックス)によるものだと私は思うのですが、このドラマでは早い段階で、その可能性を否定してします。
 けれどもそれは生々しさを削ぎ落した結果であって、そこまで描写してしまうと、犯人役の文哉に同情する余地が全くなくなってしまう。 犯人に対する強烈な憎しみを喚起することは、ことこのドラマでは避けなければいけないことなのではないか、と感じるのです。
 もちろんそのことで、このドラマが 「ある特殊なケース」 として成立してしまう部分はある。
 けれども作り手は、「殺人者が、極めて狭量な視野でもって殺人を犯す」、ということを最後の一線と定め、物語の普遍性をつなぎ止めている、そんな気がするのです。
 そして法律的な裁きを受けた人間が、実はその根源的な部分の病理を正常な状態にできていない、という今回のこのドラマのあり方自体から、法治国家が行なうことのできる 「更生」 というものの限界を読み解くことが出来る。

 作り手は、そんな物語を作ることで、「裁きを受ける」 ということ、「償いをする」 ということが、今の日本ではきちんと行われていないのではないか、という問題提起をしているように、私には思えてなりません。

 このドラマは、とてもあり得ないことの連続です。
 被害者家族と加害者家族がここまで頻繁に会い、しかもそのうちのふたりが、恋愛感情にも似た動機を持っている。 このドラマに批判があるのは理解できます。

 けれども、あり得ないとか、ためにする設定とか、そうやってこのドラマを拒絶する人たちは、物事を相手の視点に立って全体的な視野でもって考えようと、あまりしたくないのではないかと私には思えるのです。
 もちろん殺人事件に対して自分の考えうる限りの情報でもって自分は判断し、深く考えようとしていないなんてことはない、とその人たちは否定するかもしれません。
 ただやはり、自分が手にすることのできる情報は偏っているのでは?と疑うべきだし、全貌について見極めない限りその感想は浅いものだと言わざるを得ないし、何より当事者たちの気持ちになって考える、ということを、被害者(家族)のみならず加害者(家族)の立場になって考えることも重要なのではないか?と思えるのです。

 そしてそんな問題提起をしていることに、このドラマの存在意義がある。
 洋貴と双葉の恋愛に気をとられていては、その本質はなかなか見えてこないのだと、私は考えます。 センセーショナルな話の進め方に気をとられていては、このドラマの真に言いたいことは、伝わってこない気がする。 リアリティとか、役者の演技とかに感心して、このドラマにのめりこむ方法も確かにあるが、それはこのドラマが提起する問題の大きさの、いわば周辺的な話でしかない。

 文哉が女児殺害の犯人だったということを知って、真岐(佐藤江梨子サン)は自分の娘悠里(原涼子チャン)をあからさまに文哉から引き離し始めます。
 そして悠里チャンが自分の目が離れたすきにいなくなってしまったことに動転し、文哉をまっ先に疑う。 文哉の部屋にずかずか入ってきた真岐が見たものは、あの湖の絵。

 「なんなの? アンタ」

 侮蔑したような、真岐の視線。
 文哉の殺意の導火線に、火が付きます。

 悠里チャンを連れ出して遊んでいたのは、紗歩(安藤サクラサン)。 そこに現れた文哉。 手には金槌を持っています。

 「ぅわっ…っくりしたっ! なんスか? つか、なに持ってんっスか? アブナイですよっ。 離しましょうよ、ソレっ」

 文哉の殺意を感じた紗歩、悠里チャンに向かって叫びます。

 「悠里ちゃんお母さんとこ戻りな! いいから早く戻りな! 早くっ!」

 紗歩、結構マトモです(笑)。 突進する文哉を、紗歩は止めようとするのですが、次の瞬間鈍い音。 悠里チャンと遊んでいたバドミントンの羽根が、地面に転がります。 紗歩、大丈夫か?

 これらの描写のなかで、文哉の父親駿輔(時任三郎サン)、洋貴と耕平、それぞれが文哉の居場所である千葉の果樹園を突き止め、現場に向かっていくのですが、ああもどかしい。

 文哉は足を擦りむいて痛がっている悠里チャンを、呆然と眺めています。
 その姿は、この子を撲殺しても、痛がるだけだ、という想像力を、文哉に働かせたようです。

 「痛ぁい、健ちゃん(文哉)」

 「じゃあ…」 言葉を飲み込む文哉。 「…お母さんとこ、帰ろうか」

 ショパンの 「雨だれ」 のなか豪雨が、収まったようです。

 彼は金槌を持った手を、もう片方の手で、無理やり引き剥がそうとする。 彼の右手には、彼とは別人格の殺人者が、まるで棲んでいるかのようです。
 金槌を捨て去った文哉の眼前には、家路をたどる半べその少女(悠里チャン)が、夕陽の直線に照らされながら美しい光景として広がる。
 あの青い青い、湖の絵と、まるで対をなすかのような、暖かい光の景色です。

 同じころ、双葉は響子に 「兄は反省していません」 と謝っています。
 しかしこの 「反省」。
 「反省」 って、いったい何なんでしょうか?

 医療少年院で、文哉は担当の医師から 「治った」 と診断を受けていた。 それは文哉が 「人を殺すことはいけないことだから」 という認識を持ったからそういう診断がなされたのだと思うのですが、それを回想のなかで、文哉は雪恵に、とても機械的な口調で話していました。
 また少年院を出たときに、保護観察司の高田(でんでんサン)は 「これからは、まっとうに働いて、まっとうに生きろ。 それが被害者への償いなんだから」 という内容のことを文哉に話していた。

 これって、殺人を犯した少年に対して、司法やその後のアフターケアがあまりにもずさんな見方で接している、と言えないでしょうか?
 実際のところはどうかは分かりません。
 ただし実際に行なわれていることは、ドラマ的な誇張があるにしろ、これと同じなのではないか?という作り手の声が、ここで聞こえてくるような気がするのです。

 少年は、法律的に隔離され、優遇され、実際の償いの意味も学ばないまま、社会にまた復帰する。

 「償い」 って、なんでしょうか?
 「反省」 し、「償う」 ことで、話は終わるんでしょうか?
 私はやはり、少年は過去の過ちに対して、きちんと向き合わねばならないと感じます。
 それは被害者家族の前で、きちんと謝ることがまず第一歩。
 被害者家族は、そりゃ犯人のツラなんか、見たくもないですよ。
 けれども犯人は、まずその意志を鮮明にしなければならない。
 会いたくないと突っぱねられても、そうしなくてはならない。
 しかし彼が、いったいどこまで反省しているのか?
 それは他人が見ても、けっして分かるものではない、って思うんですよ。
 でも犯人は、表面上だけではなく、心からの反省をしなければならない。
 それはやはり、被害者家族が判断する問題なのではないか、と思いますね。
 つらいでしょうけどもね。
 被害者家族に拒絶されたら、もう話はそこまでです。
 つまり殺人事件って、被害者家族が犯人や加害者家族からのアプローチをシャットアウトすることによって、実質的な解決、となってしまうと思うんですよ。

 そこまでのことを、今の法治国家はすることが出来ない。

 でもそこまでしなければ、本当の解決なんて、呼べないのではないか?
 「反省」 だ 「償い」 だ、って、どこまでいっても軽々しいものにしかなりえないんじゃないか?って思うのです。

 いったんやんだ 「雨だれ」。
 また、その雨足が、強くなっていきます。

 文哉と一緒に帰って来たと思われる悠里チャン。 真岐はあからさまに自分の娘の体を調べます。

 「悠里になにしたの?
 なにしたの!?

 平気な顔して!
 子供殺した人が、平気な顔して、なんなの!?
 なんで生きてられんの?
 ねえ。
 あなたが殺した子供にも、母親がいたのよ?
 大事に。 大事に育てた、母親がいたのよ?

 あなたにだっていたでしょ?
 母親がいたでしょ?

 分かんないの!?

 そういうの奪ってさ、どうして平気なの?

 アンタみたいな人間、生まれてこなければよかったのよ。

 アンタなんか生まれてこなければ」

 じりじりと真岐に近づいていく文哉。
 真岐の手には、包丁が握られています。

 そして果樹園へとたどり着いた駿輔。
 果樹園のオーナー、草間五郎(小野武彦サン)が文哉を呼びに行くと、彼がそこに見たものは…。

 このシーンで、真岐の文哉に対して投げかけられた罵倒の言葉は、そのまま、「事情を完全に知らない我々傍観者たち」 の感情そのものであると言えるのではないでしょうか。
 「生まれてこないほうがよかった」 というのは、文哉にとって禁断の扉を開く、カギのように思えます。

 次週が待たれます。

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2011年8月18日 (木)

「胡桃の部屋」 第4回 愛情の足し算、孤独の引き算

 このドラマのエンディング曲、阿部芙蓉美サンの 「町」 という曲。 全体的な感じが森田童子サンの一連の曲に似ているんですよ。 ピアノ主体としたアレンジや、その囁くような歌い方。
 それが30年前の時代の空気をじんわり蘇らせてくれるのですが、私もこのドラマを見ているときは、なんとなく現代的な、イケイケドンドンみたいな感覚が押さえつけられて大人しくなってしまうようなところがある。

 やっぱり30年前の人たちにも、それぞれの恋愛模様があって、それは不倫とか失踪とか、今じゃ当たり前とは言わないけれども罪悪感がぐっと減ったように思える出来事にも遭遇する(まあドラマですからそれが頻繁に起こってますけど)。 前回指摘したように、そういう場面に遭遇するごとに、30年前の人たちの感情は今よりずっとウェットに展開するのですが、それって自分が打ちのめされると、それを紛らわすはけ口というものが、ないことに起因している気がしてきます。

 たとえばケータイとかパソコンとか。

 24時間開いてるコンビニも(確かほとんど)ないし、ネットカフェだってマンガ喫茶だってない。 24時間レストランって、当時あったかなぁ? ともかく社会全体が、24時間稼働してないんですよ。

 そうすると、人が離れたりくっついたりするときに発生するエネルギーが、もろに精神状態を直撃してしまう。 寄り道のしようがないから、誰かを好きになればとてもうれしいし、誰かに裏切られれば、生きていく気力も失うほどに傷つく。 ノーガード状態です。
 愛情が自分の精神状態に、直接足し算されていくのに、孤独は逆に、倍加されて引き算されていく。

 今回冒頭で松下奈緒サンが、原田泰造サンに恋することで生きる気力がわいてくるという構造はまさにそんな感じなんですが、片方で成就されつつある恋がある、ということは、片方で傷ついていく出戻り女房、という存在も生む。 男が出戻り女房のほうになびけば、松下サンのほうが、傷ついていく。

 蟹江サンとおでん屋の女(西田尚美サン)の関係にしてもそうで、このふたりが幸せになれば、蟹江サンの女房の竹下景子サンが傷ついて、生きる気力を無くしていく。 蟹江サンが離れれば、おでん屋の女が傷つく。
 ただ蟹江サンは自分の幸せを願うような精神状態ではありませんので、いくらおでん屋から逃げていても、簡単に家に戻って幸せを取り戻すことが出来ないんですよ。 だから愛情の足し算引き算の公式からひとり外れて、彷徨するしかなくなる。

 彼らに共通しているのは、「家」 に対する郷愁です。
 つまり彼らは、「ただいま」 と言える場所を、追い求めている。
 そしてその 「ただいま」 に、「お帰り」 と言ってくれる人を、必要としている。

 「女房とは別れます」 なんて言ってそれを実行した男が皆無なように(爆)原田泰造サンも、その舌の根が乾かぬうちに、戻ってきた女房子供とじゃれあってるし。
 つまり 「お帰り」 という家族が待っていることに、何より弱いんですな。

 おでん屋の女も、「不器用ですから」(by高倉健サン) を地で行く蟹江サンが、「ただいま」 と言って戻ってくる部屋にいてくれることを、望んでいる。
 彼女は蟹江サンがいなくなって、大雨の降る中を、傘もささずに探し回り続けます。
 こーゆーシチュエーションになるともう、「さびしい自分」 というものに、酔ってしまう気もするのですが(笑)。
 とにかく彼女は歩道橋の下かなんかにうずくまっている蟹江サンを見つける(奇跡的?)。

 「…なにしてんのよー。

 ほら、帰ろう…。

 いいのよー分かってるから。

 うち来るわけにいかないと思ってんでしょ。

 私の気持ち、答えらんなくて、悪いと思ってんでしょ?

 いいのよー。 分かってる。 それでもいいの。

 お腹、すいたでしょ。

 タマゴ、取ってあるよ。

 うち帰って食べよう」

 タマゴというのは、「こうやって食べるとおいしい」 と言って、おでんの具のなかのタマゴをおでんつゆにかき混ぜて食べていた、彼女の方法。 彼女を捨てた前の亭主がその食べ方に渋い顔をし、前の亭主とのあいだにいた息子が、その食べ方が好きだった。
 言わばそれは、彼女の 「家」 の、「家庭の味」 なのです。
 そんな家庭というものを捨てた自分にも、許される撹拌タマゴがある。
 そう考えたとき、蟹江サンは、号泣するのです。

 そして同じころ、「女房とは別れる」、という言葉のままに、その土砂降りの雨を避けて入ったホテルで、松下サンは原田サンに抱かれます。
 自分の弱い部分をさらけ出してきた相手に抱かれるのですから、それは松下サンにとって、見栄なんかに縛られない、等身大の恋であるはずです。
 それが成就した充足感のなか(結局それはその直後、破れてしまうことになるのですが)、自宅へ戻ってくる松下サン、玄関先でちょっと気を引き締めるような、幸せな表情を隠そうとするようなそぶりをします。
 つまりそれは、抜け殻になったような母親の前で、きちんと自分の役割を演じていこう、という決意の表れ。
 ところが帰ってみると、竹下景子サンはいつもの母親に戻っている。 台所の様子で、それがすぐさま分かります。
 竹下サンも、母親としての役割を全うしよう、と決意したのです。
 その舞台が台所、というのが、やはり女の戦場、という昔の気質を示している気がするのですが、娘の帰って来たのに気付いた母親は、笑って娘にさりげなく言うのです。

 「お帰り」。

 松下サンはさまざまな気持ちがこもったように、「ただいま、。…お母さん」 とつぶやきます。

 このシーン、別に泣かせようとしているシーンではない気がするのですが、なんかホロっと来ました。
 それぞれの家族が、それぞれの役割を担いながら、生きている。
 そして帰って来たときに 「ただいま」「お帰り」 と言える状況を、自分の小さな努力で作っている。
 仲たがいもすることがあるかもしれないけれど、みんな、帰ってくる場所が必要なのです(そう言えば今回は、「寺内貫太郎一家」 も真っ青な三姉妹の大ゲンカがありました)(それを止めたのが、母親の竹下サン。 バケツの水を三人にぶっかけるという荒療治で、あのあと畳干さなきゃならなかったのでは?と心配に…)。

 その母親を無気力から救ったのは、松下サンの上にいる姉の井川遥サンへのアドバイスだった気がします。
 夫に浮気されている井川サン。
 浮気現場のホテル前で、乗り込もうとしたけれど足がすくんで動けない。
 妹の松下サンにアドバイスを受けようと自宅に電話したけれど、出てきたのは母親の竹下サンだったのです。

 「行きなさい…。

 あきらめちゃダメよ。
 行って、ちゃんと話しあってきなさい。
 アンタはまだ遅くないんだから。 しっかり目を見て、気持ちをぶつけなさい。

 その代わり終わったら、必ずうちに来なさいよ。
 何時になってもいいから、アンタひとりでもいいし必ず顔見せに来て。
 うちでごはん食べなさい。
 待ってるから」

 こういうことを言ってくれる母親というのは、実にありがたいものです。
 竹下サンはこの時点で、「家を守る母親」 というものを再度自覚した、と思われるのですが、ここまではっきりと応援してくれるわけではないにしろ、実際の母親は、普段からいくつもの小さな応援を、家族に対して送っているのです。
 それが届く届かないは問題じゃない。
 「そこにいけば、自分を待っていてくれる人がいる」。
 そんなことが、いかに自分の人生にとって、大きな励みとなるか。
 母親は、存在しているだけで、有り難い。
 母は偉大です(ベタですが)。

 愛情の足し算や、孤独の引き算も、何もかも受け入れてくれるのが家族。
 お互いにその関係は、奇妙に映るときもあるのですが、支え合って生きていることだけは、確かなようです。

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2011年8月15日 (月)

「華和家の四姉妹」 第6回まで見て、このドラマに対する私の見解

 「華和家の四姉妹」 について書いた、当ブログ第1回目の記事へのアクセスがあまりに多いので、ちょっとその後まともな記事を1回しか書いていないことも併せて、このドラマに対する私の見解を書きたくなってまいりました。 ただし批判になってしまいます。 その点をご了承のうえ、お読みくださいませ。

 このドラマを見ていて不思議なのは、宮崎美子サン演じる、華和家の母親が亡くなった影、というものがとても希薄である、ということです。 昨日の第6回放送分ではようやく主演の観月ありさチャンが、天国の母親にケータイをかけて号泣する、という場面を挿入して、やっと家族の悲しみを垣間見ることが出来たのですが、いずれにしても四姉妹の会話の端々に母親の話が出るにせよ、彼女たちがやってることは母親がいてもいなくても全く変わらない、というペース。 男とのすったもんだが収まらない。

 そして最大の疑問は、華和家の父親である遠藤憲一サンが行方をくらましてしまって、ここ数回全く出てこない、ということ。 どうなってんのかな?

 それと見ていてとてもイライラするのは、男どもが全員ロクでもないキャラなこと。 自分勝手すぎる。

 都合のいい展開とかあり得ない偶然とか、そんなものも相俟っているのですが、オトコの自分から見てもこういう男というのは何せ許せない。 女(三女)と同棲までしておきながら、その女の姉(次女)に恋したり、仕事の重要事をほっぽってもと妻(次女)の密会現場に急行したり、浮気ばかりしているカノジョを信じまくっているうえに酔って別の女(四女)にキスしてきたことをチャラにしてくれとか。 打ちひしがれている四女に眠り薬を仕込んでレイプしようとしている犯罪者までいましたよね。 お前らなんなんだ?女の気持ちをもっと考えろ、と言いたくなる。 世の中って、こんな男多いんですか? いや、モテル男の生態は分からんので…(笑)。

 いっぽうこのドラマの主演である観月ありさチャンも、四姉妹の中ではいちばんドライで判断能力に優れているかのような描写がなされていますが、彼女のやり方だって100%正しい、というわけではけっしてない。 子供をほっぽって妹の同棲相手と一晩何もなかったにせよ一緒にいるとか、自分で疑われるようなことをしておいて、相手が信じてくれるのを期待しているというのは、間違っている。

 そのほかの三姉妹に関しても、けっしてほめられたもんじゃないのですが、ありさチャンを含めてこの四姉妹全員のそれらの行動が、母親が亡くなって間もないのに、やまない、というのがいちばん見ていて不思議なのです。 自重とかしないのかな? 母が亡くなったばかりなので…とか。

 それともこんな事態を引き起こした父親に対する復讐で、皆さんお盛んなのでしょうか?

 私には、よく分かりませんです。

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2011年8月14日 (日)

「江~姫たちの戦国~」 第31回 秀吉に翻弄されまくりだった江の人生

 前回の 「いとしき人よ」 ではレビューも書く気が失せて、たいしたこともなにも書かなかったのですが、コメントを下さるかたがたの怒りで(笑)記事としては、結局充実したものとなってしまいました。 本編よりコメントのほうを読んでいただきたいくらいであります。

 ただ、今回の 「姫たちの戦国」 は江が話の中心でなかったために、だいぶ持ち直した、という気がいたします。 物語の主人公が話の中心に居座ると途端に魅力がなくなってしまう、ということは、結構作り手は恥ずべきなのでは?と感じるのですが。

 前回の無理やりの権化みたいな話によってようやく夫婦になった江と秀忠なのですが、「互いに本音を言い、相手におもねらない」 という互いの共通項で、互いのシンパシーを結び付ける、という奇妙な関係を作り出した、という点は斬新さを感じました。 この奇妙な結びつきを演出するのに、あんな無理やりな火事などを使う必要はないと思うのですが。

 それにしてもいくら本当の夫婦になったからとはいえ、そこから秀忠との第1子が生まれるのがチョー早い(笑)。 なんだ、やるこたやってんじゃん、というのがなんとも…。
 そして生まれるのも早くて、生まれた子供が、千姫(つまりここでまた、1年くらいの月日がたってしまった、ということになる)。 秀忠は子煩悩なところを見せ、意外な側面でもって夫婦のきずなが深まった、と思う間もなく、千姫を秀頼の嫁にと、秀吉からブッキングされてしまう。 話がすごくピンポイントです。 どうにも江のことになると、話なんか全くない、というのが作り手の開き直りにも似た感情なのではないか、と思われてしまう。

 江を取り巻く話の杜撰さが今回もまたしても暗雲のように立ち込め始めたのを救ったのは、やはり江以外の登場人物によってでした。

 その筆頭が秀吉役の、岸谷五朗サンだったのですが、まず私の目を奪ったのは、死ぬ間際の大花見大会での、サブちゃんの 「風雪ながれ旅」 も真っ青な、圧倒的な桜吹雪。
 それを縁側で見上げる秀吉。 喀血します。
 その桜吹雪の淡い桃色と、喀血の赤のコントラスト。
 語るに落ちるドラマの中で、どうしてこういう、名作レベルの映像が流れてくるのか。
 不思議です。

 そして人事不省に陥った秀吉を、さまざまな人たちが見舞います。
 龍子の反応にしてもそうなのですが、死の間際に何もかもを清算していくこの演出方法は、それまでの物語のグダグダさを救ってあまりある。 今までの借金を棒引きにしてしまう効果を伴っている気がするのです。
 それでも淀(茶々)との最後の語らいに関しては、ちょっと消化不足。 あれほどまでに回数を費やした恋愛関係の清算としては、極めて不十分だった気がいたします。

 そして、瀕死の状態にもかかわらず、絶対に会おうとしなかった江が、秀吉に会いに来る。

 ここらへんは実際にはちょっとありえない感じだったのですが、もう史実なんかどーでもいいし(笑)。

 で、あり得るあり得ないの話はもう不問といたしまして、この江と秀吉との最後の対峙の場面が、このドラマの光と影を、如実に投影している、そう感じられたんですよ。

 「わしは、夢を見ておるのかのう…」 とつぶやく秀吉に、江はこう恨み言を並べ立てます。

 「夢など見させてたまるものですか。 人の夢を、次から次へと奪ってきたくせに…。

 …

 私から、浅井の父を奪い、大切な、母を奪い、柴田の父を奪い、そして、姉上(茶々)までをも奪い、最初の夫、一成さまとは無理やり離縁させ、秀勝さまを異国での戦に駆り出し、命を奪い、利休様を、殺し、秀次さまと、そのお身内を殺し、娘の完を奪い取り、千姫をも手にしようとしている…。

 この世に、これほど憎い相手はございませぬ」

 ここで展開される江の恨み言は、まさしくこのドラマを貫いてきた、江という人物の人生を一瞬で解明したセリフのように感じました。

 つまり、江の人生というのは、生まれたときからトータルで、秀吉という男に牛耳られてきた、という脚本家の見解、です。

 この見解を間違っているとは申しません。
 ただ、そういう見方をし出したら、江を主人公として、ドラマなど成り立たないではないか、ということは、申し上げたいのです。

 この見解に対して脚本家は、その戦国時代のしきたりにあらがう女性として、江を位置づけた。
 しかしそうしてしまうことで、江の人生は恨みつらみばかりの、きわめて不幸な人生と、ならざるを得なくなった。
 結局人生を呪い続ける女性の物語などに、視聴者が感情移入できるはずがないのです。

 それでも同時に、このシーンでは、まだこのドラマが完全に死んではいないことを、指し示していたようにも思える。
 つまり、そんな恨みつらみばかりの対象である秀吉に対して、江は 「死んでもらっては困る」 という反応を示すんですよ。
 つまり江にとって、秀吉というのは、自分が生きていくうえでの意欲を持続させるカタキだった、ということが、ドラマ的に興味深い解釈だと思えてくるのです。 まあその意欲って、とてもネガティヴな感情なんですが。

 そんな江に、秀吉は 「そなたのおかげで、面白かったぞ」 と力なく答える。
 「そんな言葉に騙されません」 とまた憎まれ口を叩きながら、江は秀吉の存在が自分にとっていかなるものかを悟ったように、涙をぽろぽろ流します。 それを見られまいと、顔を秀吉からそむけ、立ち去ろうとする江。

 その江に、秀吉は 「こたびこそは、徳川の家で、幸せになってくれ」 と、泣かせるセリフを言うんですよ。 これしきじゃこっちも泣きませんが(ハハ…)。
 でもこの構図は、要するに江にとっては身を切られるよりもつらい仕打ちを受けてきた一連のことが、実は幸せになってもらいたい、という秀吉の一念から発生したものであった、という、逆転を表現しようとしていることは明白です(こざかしい…笑)。

 「…これにて、さらばじゃ、…江」

 これまでの人生で、ヒステリー女の江をからかうことで面白かった、とする側面と、なんだかんだあったけど、おまえを不幸にするつもりでやっていたわけではない、という側面を如実に表した、江と秀吉との最後の対峙だった、そう感じるんですよ。

 そして圧巻だったのが、こと切れる秀吉を抱きよせながらの、北政所(おね、大竹しのぶサン)の演技。

 「お前さまと一緒になって、どれくらいになりますか…」

 「…さてのう…」

 「思い出しますねえ。 土間に、むしろ一枚敷いての婚礼…。
 思い思われて、一緒になったのに、お前さまは、すぐにどこかに行ってしまわれて…。

 あれから、一日たりとて、心の休まるときはありませんでした…」

 若き日の秀吉とおねの後ろ姿。

 秀吉が、こと切れます。
 秀吉が死んだことに気付くおね。

 「…大きな口ばっかり叩いて…!…

 でもいつも本当のことにして…。

 お前さま…。

 お前さま…あ…」

 倒れこんでいく秀吉。
 号泣する、おね。

 こんなどうしようもないドラマを、どうしてここまで昇華できるのか、大竹しのぶサンには、もうなんつーか、讃える言葉が見つかりません(ほめてるんですよ、コレ)。 「それでも、生きてゆく」 に引き続いて、今年の我が国のドラマのMVPは、もうこの人に決定、という感じであります。

 秀吉の死を知らされた、江。

 「猿が…死んでしもうた…」

 あくまで江は秀吉のこと 「猿」 ですけど(笑)、ここでの 「猿」 には、これまでの侮蔑のニュアンスが含まれていない。 自分のヒステリーに付き合ってくれた、「同志」 としてのニュアンス、そんな気がするのです。 つまり 「猿」 は、自分でもあった、という自虐もそこはかとなく感じる。

 どうしてここまで深いドラマが作れるのに、前回のような下らない設定などするんだろう、という気もいたしますが、それはそれ、やはりこの脚本家が、江に対して愛情を抱いていない、という証左なのでありましょう。

 江の人生をミスリードしてきた(笑)「猿」 という存在、まさに自分自身の一部とも言える人物がなくなって、この先どういう話を創作してくるのか、また興味がわいてきた橋本なのであります(どぉ~もカワイクナイ書き方だ)。

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「第43回 思い出のメロディー」 何事もなかったあの時代

 西田敏行サンのメッセージで始まった、今年の 「思い出のメロディー」。 第1部だけ、見ました。
 今年は東日本大震災があった、そんな影を色濃く落としたものとなるのは必定だったのですが、1曲目の欧陽菲菲サンの 「雨の御堂筋」 や、小柳ルミ子サンの 「瀬戸の花嫁」、菅原洋一サンの 「忘れな草をあなたに」 は、1971年(昭和46年)の曲。 私が小学校に上がった年です。

 町がそのままなくなってしまった、というほどの津波によって自分の故郷が、もうそのまま再現されることはないのだろう、と語る千昌夫サンの言葉は、とてつもなく重い。

 ふるさとが、もうない。

 その喪失感というものは、私も体験しています。 福島の祖母が亡くなったあとしばらくして、住む者がなくなった祖母の家は、取り壊されてしまったからです。
 私にとってその場所は、とても大切な場所でした。
 今福島には、先祖のお墓しかありません。
 自分に帰るところがない、というのは、とても虚しいものがあります。
 そんな人たちが、今年は何万、という単位で、いや、全国に散らばっている、その土地が故郷の人々も合わせれば、もっとになりますが、今年はそんな人々が続出したことになります。

 そんな今から1971年を振り返ると、あの頃は何事もない時代だった、と懐かしく思えて仕方ありません。

 たとえばあさま山荘事件があったり、三菱重工爆破事件があったり、オイルショックがあったり、公害があったり、赤潮があったり、小学生の身にも分かる問題は、さまざまありました。
 でもそんなのも、阪神淡路大震災や今回の大震災に比べれば、とても比べ物にならない気がしてならないのです。

 思えば大正時代の、関東大震災以来、新潟地震とかもあったけれども、巨大地震がこういう短いサイクルで起こる、ということはありませんでした。 阪神淡路から、16年でしょ。 その間にもプレ巨大地震は発生しているし。 「活発期に入った」、とも聞きます。 そのことを考えれば、1970~80年代くらいは、とても平和だったと思えて仕方ないのです。 こんな巨大な悲しみが日本を覆うことなんか、なかった。

 それにしても近頃は、メッセージをストレートに伝える歌詞を持つ曲が、とても多いですよね。
 でも私などが本当に癒されるのは、平和だったあの時代の、なんてことはない歌詞のメロディなのです。
 「忘れな草をあなたに」 は、「赤い疑惑」 で百恵チャンと友和サンが一緒に歌ってた。 確か最終回、百恵チャン演じる大島幸子がもうじき死ぬというとき、湖に浮かんだボートの上で、です。 ちょっと記憶違いかもしれませんが、2番をはじめに歌って、1番を歌ってた。
 あの頃はアナログで、画面が二重になって映る、「ゴースト」 と呼ばれる現象も日常的にありました。 何か思いつけばそのまま世界に発信できる便利なシステムなんかなくて、自分の言ったことが取り返しのつかなくなることなんか、仲間うちという範囲でしか、発生しなかった。

 あの頃の、他愛のない歌のほうが、心に響いていたのはなぜなんでしょう。

 最近の、メッセージがナマのままの歌のほうが、スカスカで虚ろに響いてしまうのは、なぜなんでしょう。

 普遍的なことを歌うのに、普遍的な事柄だけを列挙しても、心に残っていかない気がするんですよ。 詩を書いていても、同じなんですが。
 情景が浮かばない、ということに、結局なるんでしょうけどね。

 歌を共有できた時代。

 あの頃の歌を懐かしく思ってしまうのは、何事もなかったということに加えて、そんな、「マス(大衆)」 という存在を個人個人が実感することが出来た懐かしさ、というものも、含まれているのかもしれません。

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2011年8月13日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第30回 すごいフィクション

 江と秀忠の結婚生活 「どっちが勝つか」 みたいな意地の張り合いを終結させる方法として作り手が使ったのが、すごいフィクションでした。
 亡き前夫の秀勝のラブレターと脇差、娘の完から取り上げた(笑)赤い風車を後生大事に持っている江。
 自分では 「あんたなんかに興味なし」 と口では言ってても、夫としてのなんつーか、プライドというのはちょっと憚られるなんかが傷ついて(テキトーだなオレも)いる秀忠なのですが、そこからの話がすごい。

 この意地の張り合い合戦、1年を経過しちゃうんですよ。

 そして物語は1年後にスッ飛び(笑)、ふたりの居場所が火事になる。
 そしたら秀忠が、その江の未練たらたらのアイテムを命がけで火の中をくぐり抜けて取ってくる。
 感動した江は秀忠にこれまでの非礼を詫び、ようやくふたりは夫婦になれました、というお話。

 ただしこの際、江は業火もものともしないヒーローを見るようなキンキラキンの目つきにいきなりなってるわけではなく、相変わらずの往生際の悪さで嫌味を言いまくる。

 そりゃ単純にそのことで江が心を入れ替える、という話はあまりにもイージーだと思うのですが、それ以前にうちが火事になるとか、イージーさを先取りしてしまってるから、見たあとスッキリ、みたいな話に、語り部が持っていけないのです。

 火の中をくぐり抜けたり、巨大なセットを燃やしたり、すごく周辺の頑張りが見えるだけに、その頑張りがとても虚しいものに思えてくる。 どうしてこんな話をこれほどマジメに、取り組まなければならないのか、世のはかなさのほうに目が行ってしまう。

 社会って、仕事って、不条理ですよね。

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「テンペスト」 第3-4回 孫寧温の方法論

 琉球王朝の財政を傾かせる主因となっていた、聞得大君加那志(きこえおおきみがなし、高岡早紀サン)の存在。 彼女は王宮の王族神で、王様の首里天加那志(しゅりてんがなし、高橋和也サン)の姉でもある。
 女でありながら宦官として王宮に入った孫寧温(仲間由紀恵サン)はその弱みをこの聞得大君に握られて、このドラマの第2回では、完全にその傀儡になり果てていました。

 そこで展開するドラマはまるで韓国時代劇を見ているような感覚で、聞得大君役の高岡サンはもう悪役そのもの。 ここまであからさまな悪役というのも 「水戸黄門」 以来見たことがない、というほどの徹底ぶりでした。
 それにいたぶられる仲間サンもものすごい屈辱感を容赦なく演出していて、それはそれで面白かったのですが、どうもレビューに起こしてしまうと物足りない構成のような気がしました。

 これが韓国時代劇なら聞得大君の悪辣ぶりが20回も30回も続くんでしょうが(イヤもっとか…笑)、このドラマは全10回。 そんなに悠長なことはやっていられません。

 確かに悪役の非道を引っ張って引っ張って、憎悪を最大限にまで膨らませる、という韓国ドラマの方法は見ていてとても引き込まれるのですが、見る側にも一定の高揚感、というものが必要なのです。 韓国ドラマにはそのパワーがある。

 これはファナティックになれるかなりきれぬか、という国民性の違いだ、と私は考えています。

 ドラマというものに一定の距離を置こうとする日本人は、そういう高揚感に包まれる途上で、我に返ってしまう、冷静になってしまう、という習性がある。
 日本人がドラマを構築する上で、悪役の非道ぶりをこれでもか、というほど描写しきれないのは、自分たちが仮想敵を作ることに長けていない現れなのではないか、と私は考えます(現在進行中の韓国や中国に対するネットにおけるあからさまなネガティヴイメージの増幅は、そのいっぽうで日本人が実は仮想敵国を求めている証拠のようにも思えるのですが)。
 そして悪者にも一分の理、というものを求めてしまうのも、全体の利益を総括的に考えてしまう、同国民の国民性のせいではないか、とも思える。

 だからこそ第2回の韓国ドラマ的な流れに対してレビューに起こすほどのパッションがわいてこない、話の組み立ての弱々しさが露呈していた気も、一面ではするのです。

 けれどもこのドラマ、第3回で、傀儡となり下がっていた孫寧温が、聞得大君に対して早くも反旗を翻す。
 私が驚いたのは、その方法論でした。

 寧温は聞得大君がキリシタンである、という驚天動地のでっちあげを行なって、彼女を王宮から追放するんですよ。
 唖然としました。
 ゴーインすぎ(笑)。
 だって相手は、琉球王国の王族神ですよ?
 言わば教祖様が本当はほかの宗教の信者だった、ってことなんですからね。
 これはつまり、方便だ、何かほかに寧温には真意があるに違いない、…そう思いながら見ていたら、まったくその気配がなし、首里天加那志(あ、ただの語呂合わせです…笑)。

 ここでの寧温の真意を探るとすれば、まず寧温は 「自分の信念のためなら、どんな手段を使ってもそれを押し通す」 という印象を、周囲に与えたがっている、ということになりましょうか。

 つまりこのことで聞得大君に対しても、自分に対する反撃の意欲を、壊滅的ほどではないにしろ、寧温は半減させたがっている。 相手は何をしてくるか分からない、という印象を敵に持たせることで、敵方の戦闘意欲を減退させるのです。
 これはこの壮大なでっち上げに加担させた王妃(若村麻由美サン)に対しても同様の圧迫感を与えるということになる。

 もうひとつ、このでっちあげをあまりに荒唐無稽なものにすることで、聞得大君の評定での申し開きを完全に封じ込めた、という側面もあります。
 聞得大君は案の定、評定の場で孫寧温が女であることを大々的にばらすのですが、彼女がキリシタンであるというでっちあげがあまりにも衝撃的なものであるがゆえに、彼女のその暴露が、まったくその場の人たちに耳を貸されない、という効果となって現れる。
 たぶん寧温の本当の目的はそこだったのでしょうが、結果的に周囲への自らの存在感も印象づけることとなった、そんな気がします。

 そしてその寧温が今回目を付けた、財政の問題点。
 それは琉球が、清国から薩摩への、アヘンの輸入の中継となっていることによる問題なのです。

 寧温は王宮の帳簿を閲覧するという越権行為をわざと演出してみせ、その現場にやってきて横槍を入れる人物によって渦中の人物を特定する。
 そして料理場を調べる、という名目を触れまわることで、大勢頭部(おおせとべ、かたせ梨乃サン)の表情の変化を見逃さない。
 捜査が進展する中で、寧温は一緒にそれを探っていた同僚の喜舎場朝薫(塚本高史サン)とともに評定所筆者(要するに高級官僚、というところかな)の職を追われるのですが、それは首里天加那志の策略のひとつでした。
 この首里天加那志、王様としてはすぐれもので、姉の追放にも容赦がなかったうえに今回のこのフェイント攻撃。 なかなか頼もしい。
 それはともかく、評定所筆者を追われる身となった寧温は、あまりすごすごと引き下がらないんですよ。
 自分の首を切った上の連中にも、自分の言いたいことを言わねば気が収まらない、というところを見せるんですよ。

 「教えてください。
 役人は人に何を与えられますか。
 百姓は食べ物を与え、商人は人々の暮らしを豊かにする品々を与えます。
 役人は人に何を与えられますか?

 それは、道しかありません。

 役人は、人々に道を示すことでしか何かを与えることはできないのです。
 琉球王朝500年の歩みは、そういう役人の道の上に成り立っています!

 この人事が、その道ですか?
 ご自分の歩む道と、胸を張って言えますか?」

 左遷先でふさぎ込む朝薫に対しても、「あきらめたら何も変わらない。 本当の道は、あきらめたときに断たれるんだ」 とまったくめげたところを見せない。
 そして王様の命をあらためて受けた寧温は、徐丁垓(GACKTサン)の証言も得て、阿片密売の黒幕を突きとめていくのです。

 ところで話は変わりますが、ちょっと気になったのは、その寧温の調査中に、薩摩の役人朝倉雅博(谷原章介サン)がアヘンのことを 「腫瘍の痛みを鎮静化し、不眠も頭痛も治す万能薬として売られている」 と話していた部分。
 その常習性中毒性に関しては当時も周知されていたのでしょうが、やはりその万能薬としての効能のほうを、当時は重用されていた部分もあるのではないか?と感じました。
 日本の戦後でも、たとえば芸能人なんかはヒロポンを打って舞台に出ていたとか、よく聞き及びます。 私が好きなビートルズだって、クスリとは縁が切れない関係でした。
 それがいいとは申しませんが、やはり麻薬の問題性が大きくクローズアップされたのは、歴史的に見て極めて最近だ、と言っていい気がします。
 その視点から寧温のやっていることを俯瞰してみると、極めて狭量な正義でもって、悪く言えば杓子定規みたいな正義感を振りかざしているように、見えてこなくもない。
 寧温の行動がヒーロー(ヒロイン?)チックに見えてくるのも、現代的な視点からこのドラマを見ているからなんだろうな、という気は、したのです。

 黒幕の目星がついた寧温たちは、王様によって王宮に糾明奉行として呼び戻され、大勢頭部をわざと襲わせて大勢頭部の口を割らせます。
 この一連の寧温の行動も、実に有無を言わせぬ強引なやり口。 真実究明のためなら嘘も辞さない、という強引さ、です。

 結果ワルモノたちは全員捕縛。 主導者が 「おのれ寧温、末代まで呪ってやる」 とか言うのですが、「宦官は子孫が出来ませんから」 と一蹴され、「ぐぬぬ…」 となる。 流れが速すぎる気もしますが、やはり見ていて爽快でしたね。

 ここで注目だったのは、この大勢頭部役のかたせ梨乃サンが、裏金はすべて下働きの女官たちに配っていた、というくだり。
 第4回では彼女が若い女の子が里帰りするときにお金を持たせてあげていた、というシーンをドラマ中にそっと描写していたのですが、それってかたせサンが下働きの女の子たちを自由に操る策略のひとつ?なんて考えてたら、実は本当に、その裏金で面倒を見ていた、ということだったのです。
 盗人にも一分の理、という日本ドラマの方法論が、ここで生きてくる。
 こうすることで、ドラマに数倍の厚みが生まれるのです。

 さらにダメ押しが、大勢頭部が流刑になった場所が、彼女の生まれ故郷だった、という点。
 「ずいぶん甘い裁きだ」 と感想を述べる彼女に、寧温は、それが王妃の助言によるものであったことを告白。
 王妃は暇を申し出る大勢頭部に向かって、「私は記憶力が弱いのでお前のことはもう忘れた」 と言っていた矢先だったので、この話がとても効果的にたたみこまれる感じになる。
 彼女は王妃の慈悲に、涙するのです。

 なかなか見せます、このドラマ。

「テンペスト」 に関する当ブログ記事

第1回 「琉球ドラマ」 というカテゴリー 
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/07/1-18f9.html
第3-4回 孫寧温の方法論 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/08/3-4-c00d.html
第5回 GACKTサンの演技が見られることの喜び? http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/08/5-gackt-707d.html
最終回まで見て 感想さぁ~ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/10/post-ebca.html

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2011年8月12日 (金)

「それでも、生きてゆく」 第6回 逃げること、立ち向かうこと

初めにお断り ちょっと文章を、直しました。 さらに最後にいろいろ書きくわえました。

 老人ホームのおばあちゃんのところに来ていた双葉(満島ひかりチャン)の前に再び現れた、文哉(風間俊介クン)。
 「双葉いるなら買ってくればよかったよ」 と、彼は双葉が子供のころ好きだったリンゴ飴の話をします。 「好きだったっけ?」 と答えながら、涙ぐんでしまう双葉。

 この涙。
 自分が好きだったかどうかも思い出せないことをしっかり覚えている兄の優しさと、そんな昔のことを忘れてしまった自分、忘れざるを得なかった自分の悲しさとが、ないまぜになった涙のように思えます。

 双葉は涙を振り払って、笑顔で言うのです。
 「お兄ちゃん、お帰り」。
 でも文哉は凍りついたようにその笑顔を見ている。

 双葉は兄が、自分の犯した罪と向き合おうとしてここにやってきたのだ、と思っている。
 でも文哉の頭には、そんな考えはない。
 逆光のなかで凍りつく文哉の表情は、この回の暗雲を予感させる導入となるのです。

 双葉は再会した兄に、根掘り葉掘りいろんなことを訊くのですが、文哉は答えようとしません。 彼はただ、リンゴ飴が好きだった昔のままの妹を、双葉に見ようとしているにすぎない。 自分とお兄ちゃんが違う母親から生まれたことを最近知った、と話す双葉。 文哉はおそらく何かに幻滅して、「もう帰るわ」 とその場を立ち去ろうとします。
 「双葉も、一緒に行く!」
 悲しそうに兄を追いかける双葉。
 彼女にも、行き場がないのです。
 小田サンのテーマ曲が、またもやその悲しみに追い打ちをかけるように、流れる。 どうもイカンなあ。 この曲は。 泣ける。

 彼は自分たちの本当の母親が生まれた瀬戸内海の因島(いんのしま)の近くで生きていきたい、という話を妹にします。 彼はお母さんのお墓のある場所も知っているし、お墓も移したいと考えているらしい。 たぶん因島に移そう、というのでしょう。 「双葉も来るか?」 と言い出す文哉。 そのためにお金も貯めているようなのですが、そのお金に、手をつけようとしている者がいる。 前回文哉にさんざん脅された、紗歩(安藤サクラサン)です。

 紗歩はボーイフレンドのためにその金を下ろそうと画策するのですが、文哉は誕生日をそのまま通帳の暗証番号に、してなかった。 それはそれとして、暗証番号がおそらく違っていたためにその金が下せなかったのは分かるのですが、どういうわけかそれで簡単に、彼女は警察につかまってしまう。 話が早すぎるって気がしましたけど(そこんとこ分かるかた、いらっしゃいませんか?)。

 話は前後します。

 響子(大竹しのぶサン)と洋貴(瑛太クン)の前に姿を現した、隆美(風吹ジュンサン)。
 隆美がそこにやってきた理由は、双葉が失踪してしまったから。 表向き、謝罪をしに来たというスタンスではありませんでした。
 ただどうなのかなあ。
 やってきた以上は、どうあったってちゃんと話をしなければならないわけだし。
 ただ隆美にとって誤算だったのは、響子がそこで洋貴と一緒に暮らし始めていることを知らなかったことなのかもしれない。

 突然の再会で、隆美も響子もとてもぎこちないやり取りが続きます。
 話さなきゃならない、話したくない。
 出来るならやり過ごしたい、でもきちっと済ませておきたい。
 どう接したらいいのか分からない相手に、その会話は逆に、とてもコミカルさを帯びたものになっていく。

 響子は熱いお茶を出したらいいのか麦茶にしたらいいのかで混乱し、お茶菓子に以前駿輔(時任三郎サン)が持ってきたものをそのまま出してしまう洋貴のチョー無神経さに怒り(そうとも知らずに 「もっといいのないの?」 とか関係者の前で話すとか…笑)、楽しみにしているドラマの再放送についてべらべらしゃべり、結局洋貴の常備食である(笑)そうめんをゆでるというワケの分からない対応に終始します。
 ネギを切ろうとして、包丁をじっと見つめてしまう響子。
 物騒なオーラを感じて、「オレが切るよ」 と包丁を取り上げる洋貴。
 笑ってはいけない、被害者家族の殺意というものを描写していながら、なんとなく可笑しい。

 結局その場にやってきた駿輔ともども、一同はそうめんをすすることになるのですが、この構図も、なんとなく妙な可笑しみがある。 これらの、響子の一連の可笑しみを伴った強引な行動は、「話なんかあらためて聞きたくないのよ」 という強い意志と、なんとか平静にその場を取り繕いたい意志とのぶつかり合いが生み出す喜劇なのです。
 響子は三崎夫妻が話を切り出そうとするたびに、話をはぐらかそうとするのですが、その会話はいつの間にか、響子の元夫だった柄本明サンの話へとシフトしていきます。
 響子の三崎駿輔に対する憎悪の原点とも呼べる、自分の元夫が絡んだ話題。
 それが響子を、ますます変な言動へと走らせるのです。

 ただし、「その話題」 から、逃げ出せるはずもない。
 駿輔が 「息子が、娘さんの命を奪った事件…」 と言った途端、響子は亀の話を始めます。
 娘が死んで誰も世話をしなくなった亀が、風邪をひいた。
 その亀を川に放しに行ったとき、川の水が冷たくて、娘が死んだときの手も冷たかったことを、思い出した。

 「冷たくて、冷たくて…」

 包丁でなくとも深見夫妻を切り刻む(笑…っていいのかな)、響子の言葉のナイフ。
 三崎夫妻はたまらず、何度もひたすらに謝り続けます。

 「だからっ! そうじゃなくってっっ!」

 響子はそれまでの完全に常軌を逸していた一連の行動の結論を出したかのような、狂ったような叫びをあげてこぶしを振り上げます。
 でもそのこぶしは、加害者家族に振り下ろされることがない。

 「スイカ切りましょうか…」

 何事もなかったかのように話題をすりかえる響子。
 その切り替えの強引さに、三崎夫妻は翻弄される。 気まずさは、頂点に達します。

 厨房で、スイカを静かに乱暴に切る響子。
 やり場のない怒りを、スイカにぶつければ、スイカはたぶん理性のない切られ方をしたことでしょう。
 でもそういうみっともないことは、出来ない。
 怒りをマックスまで振り切ってしまうには、邪魔な理性というものが、人間には、存在しているのです。

 三崎夫妻が帰ったあと、厨房で響子は洋貴に、どうして叩かなかったのかを打ち明けます。
 夫が昔、三崎家を通った時に店屋物の丼が置かれていたことがあって、「あっちはあっちで、いろんなことがあるんだなあ」 としゃべっていたことを思い出したから、と母親は息子に話します。
 向こうの事情なんかどうだっていいじゃん、というスタンスの洋貴。 自分も双葉の首を締めにかかってましたからね。
 ただその双葉がいなくなったことを、洋貴は気にかかって仕方がない。
 洋貴は双葉に電話をかけるのですが、ちっともつながりません。
 その矢先に、五月(倉科カナチャン)から電話が来る。
 文哉と少年院時代付き合っていたのでは、という看護師の東雪恵(酒井若菜チャン)(カナチャンと若菜チャンは 「Mother」 では姉妹役でしたね)の写真を入手した、メールで送る、とのこと。
 そこに写っていたのは、伏し目がちで暗そうな女性の姿です。

 洋貴と五月は雪恵の手がかりを求めて、雪恵の母親のもとへと向かうのですが、かなり強引にその母親から、洋貴は雪恵の居場所を聞くことに成功します。
 いきなり洋貴が強引になったのは、自分の母親の気持ちに触れたからでしょうね。
 五月はそんな洋貴の強引さに感心し、さらに行動を共にしようとするのですが、彼はそれをよしとしません。

 「私、おんなじ境遇だから、深見さん(洋貴)の悲しみが分かります。
 半分に分けあえます。
 遠山さん(双葉)は、…あの人は、深見さんの悲しみを2倍にする人です」

 五月も強引に、雪恵を待ち伏せする時間を勝手に決めてその場を立ち去ります。

 そんなとき、洋貴のケータイに双葉から電話が入る。
 彼女は文哉について、因島へ行く決心をしている模様です。
 着ている服がいつのもバアチャン服と違う(笑)。
 双葉は洋貴をカラオケ屋に誘い、先に入ってひとりでスパゲティとか食べてる。
 そしてその、「彼女にしてはいいほうの部類」 に入る白い服に、スパゲティのケチャップをつけてしまう。
 入ってきた洋貴にそのことをさっそく指摘され、双葉は執拗にそのシミを取ろうとするのですが、正直逆効果ですよね(笑)。 シミ、広がっちゃうでしょ。
 ただ双葉もそのことは分かっているはずなんだと思うんですよ。 彼女は文哉と一緒にその場から逃げてしまうことの後ろめたさも手伝ってそのシミに執着しながら、洋貴のツッコミに答え続けるのです。
 その内容が、どーでもいいようでいて、結構興味深い。

 双葉が石川さゆりとか歌ってたと聞いて、「天城越え」 ですか?と訊く洋貴(笑)。 違う、「ウイスキーはお好きでしょ?」 だと答える双葉(笑)。
 情念タイプの女性だと洋貴は双葉のことをとらえていたと思うんですよ、ここ。 そしたら彼女は、ウイスキーを傾けながら男性に媚を売るようなタイプの曲を歌ってた(小雪サンのCMイメージも重なってるかと)。 「そんなのひとりで歌ってたんですか?」 って、この曲の性格を考えれば、「だいぶ面白い人だと思います」 という洋貴の感想は、とても当を得ている。

 それから彼女は、坂本冬美の 「また君に恋してる」 を歌ってた、と言う。
 「お酒の歌ばかりじゃないっスか」 と洋貴は双葉に突っ込むのですが、厳密に言うとこの歌、お酒の歌じゃないっスよね(笑)。 確か 「いいちこ」 だか 「二階堂」 かなんかの焼酎のCMの歌だった。 的場浩司サンが怖い顔してこっちに走ってくる、みたいな(笑)。
 その間違ったツッコミに双葉は 「ああ、そうっスね」 と同調してしまう(笑)。

 つまり、ふたりともこの曲をテレビのコマーシャルがきっかけで知っている、ということなんですよね。
 ふたりともよく、テレビを見ている、ということになるんでしょうけど、どうも私の個人的な感想を言わせていただくと、あまりふたりとも真剣にテレビなんか見てない気は、どうしてもするのです。 世間の動向に対してかれらは、結構無頓着というか、意識的に距離を置こうとしている気がするんですよ。 だから本編なんかより、コマーシャルのほうが印象に残ってたりする…、そんな気がします。

 洋貴はウーロン茶を頼もうとするのですが、注文の際に双葉は、ジンジャーエールを2つ、頼んでしまう。 これは洋貴が、双葉の両親が自分たちに会いに来たことや、双葉のことを家族も自分も心配しているということを、立てつづけにしゃべったことからくる、動揺だと思います。
 洋貴は金魚の折り紙がそこに置いてあるのを見て、雪恵の写真に写っていた金魚の折り紙と同じであることに気付き、双葉が文哉と会っていたということを瞬時に悟ります(相変わらず鋭すぎ)。
 洋貴のただならぬ顔を見て、双葉もウソをつき続けられないと察したのか、「昨日兄に会った」 と告白します(こっちも鋭すぎる)。

 「文哉今どこにいるんスか?」 詰問する洋貴。 「深見さん、ちょっと目が怖いです」 とまたやらかくスルーしようとする双葉。 「どこにいるんスか? なんで隠すんスか?」 と声が大きくなる洋貴。

 「…文哉反省してましたか?」

 固まったまま洋貴を凝視する双葉。
 おそらくその問いは、双葉も兄に会ったら確かめようと思っていたことに違いないのです(断定しております)。 「そうだ、そのことを訊くのを忘れていた」 という顔の双葉(感想には個人差があります)。

 双葉は、兄に動物園に連れてってもらった、と話します。

 「それで?」 語気が強くなる洋貴。 「そんなことはどうでもいい。 居場所は訊いたのか?」 という怒りを含んだニュアンスです。

 「『それで?』 って…。
 …まあ、…そういう感じです」

 「『そういう感じ』 って…?」

 「『じゃあ』 って…」

 「じゃあ」 だけで別れた、ということか。 双葉がなにも話す気がないと見た洋貴。

 「そうっスか…」

 「そうです」

 いきなり、頼みもしないジンジャーエールを、怒りを含んで完全にやけっぱちで飲み干す洋貴。

 「分かりました。 自分で探します。 すいませんでした」
 洋貴の目は、双葉と決別したかのような決意に染まっています。

 「何がですか?」
 訊くのが怖いけれど、訊かなければならない、という感じの双葉。

 「もともと、立場、違うし、僕とあなた。

 そういう関係じゃないし僕とあなたは。

 …
 …
 はい」

 無理やりピリオドを打とうとするかのような、「シャンシャン」 という感じの、洋貴の 「はい」 なのです。

 「あっ、はい」

 洋貴の決別の意志を汲み取ったかのように、目にいっぱい涙をためていく、双葉。

 お金を無造作に置き、その場を出ていこうとする洋貴。
 双葉は、すんでのところで洋貴のいつも羽織っているジャケットの裾をつかみます。

 「あのう!

 …いや、ちょっと、
 
 …あのう…!」

 洋貴と袂を分かつことが、身を切られるような痛みを伴うことを、じゅうぶん理解している双葉。 でも、自分の意志が、言葉となって、出てこないのです。
 「ぼくは…」 しばらく言いよどんだあと、洋貴は、達観したような笑みを浮かべて、こう言い残して部屋を出ていきます。

 「お疲れっス」

 ひとり残された双葉。

 「ああ…」 と、短いうめきのようなつぶやきを口にします。

 このカラオケボックスでのシーンには、ちょっとうなりました。
 要するに、セリフだけでは、何が何だか、まったく分からない。
 ト書きだけで進行していくような感覚なのです。
 これには、かなりのホンに対する咀嚼能力を要求される。

 ふたりの間には、やはり断ち切りがたい気まずさ、というものが、重たく横たわっているのです。
 だから雰囲気だけで、相手の気持ちを察してしまおうとする。
 自然、言葉は意味を持たないものになっていきます。
 見る側も自然と、当事者たちの感情に引き込まれていく感覚に陥ります。

 そして。

 「反省しているのか?」「被害者家族に償う気はないのか?」 ということを、やはり自分も、ちゃんと訊かなければならない、という決意を秘めて、双葉は因島に行こうとする兄との待ち合わせの場所に来ています。

 双葉はやってきた文哉に、「洋貴に会ってあげて」 と頼むのですが、文哉の反応は、私にとってはとても胸の痛むものでした。

 「なんで? なんで双葉が洋貴のこと?

 「反省って?

 「なんでお兄ちゃんが反省するんだ?

 「なんでそんなこと言うんだよ。
 たったふたりの兄妹なのに。

 「亜季ちゃんは天国に行ったんだ。

 「生まれてこないほうがよかったから」

 ――。

 双葉は文哉にかなり強い調子で反省を迫るのですが、文哉は暴力的に妹の腕を払いのけ続け、停めてあった軽トラに乗り込んでいくのです。

 「お兄ちゃん! お兄ちゃん…!

 亜季ちゃんは、生きたかったんだよ!
 生まれてこないほうがよかったわけないじゃない!
 お兄ちゃんっ!
 もうっ!

 悲しんでる人たちがいるんだよ! ねえっ!
 15年間毎日毎日悲しみ続けている人たちがいるんだよ!
 悲しくて悲しくて、泣きすぎて涙も出なくなった人たちがいるんだよ!(文哉、双葉を地面に叩きつけ、軽トラに乗り込む)

 なんで!
 なんで!(軽トラに突進する双葉)
 お兄ちゃん!(軽トラを激しく叩く双葉)
 なんで!(軽トラの窓ガラスを突き破ろうかという双葉)
 ねえっ!
 なんで!
 お兄ちゃん!(走り去ってしまう、軽トラ)
 …
 もうっ!(座り込んだまま、ありったけの怒りで、地面を激しく踏みつける、双葉)」

 はたから見てしまえば、恥も外聞もなく白昼堂々街中で何を兄妹ゲンカしてるのか?というレベルのものすごいやり取りだったんですが、ここで強烈な印象を残したのは、自分が亜季チャンを粛清させた理由にばかりこだわって、人としてどう思うのか、世間に対してどう顔向けできるのか、世間の誹謗中傷をなんだと思ってるのか、とにかくそれにフタをして、ただひたすら逃げようとしている、ひとりの 「少年A」 のままの、男の姿です。

 その夜。

 洋貴と五月は雪恵の仕事の終わるのを、ひたすら待っています。

 そのとき洋貴が、五月に対して話したこと。
 それはそれまで逃げていた自分と対決しなければならない葛藤を、ある種汚い言葉も使いながら、ありのままに打ち明けた言葉でした。

 「ぼくといて恥ずかしくないですか?

 …

 藤村さん(五月)ぼくのこと、勘違いしてます。

 ぼくは別にあのう、頑張ったこともないですし、誰かのために何かをしたこともありません。
 この年まで就職もしないで父親に食わせてもらって、…外歩くのが、まぶしくって。

 死にたいって思いながらマンガ読んで、
 死にたいって思いながらコンビニに着ていく服選んで、
 死にたいって思いながら、ションベンしてクソして…。

 あの山のなかの家で、ずっとへばりついてた。

 ナメクジみたいな人間なんです。

 …

 妹の復讐するとか言いながら何もできなくて、
 復讐復讐って言いながら、相変わらずグラビアとかちょっと見たり、
 復讐って言いながら、目ヤニつけたまんま夜になってまた、ションベンして、クソして…!

 ナメクジみたいに、ベタベタベタベタ、地べた這いずりまわってるんです」

 そんな洋貴に、五月は 「自分の人生を取り戻そうとしているから、加害者のことを探すんでしょ?」 ときっぱり言い切る。

 「別に、恥ずかしいことじゃないと思いますけど」

 そんな五月の言葉を聞き、洋貴はどう答えればいいか、分からない。

 「『はい』 って(言えばいいと思います)」

 洋貴はしばらく考え、その決意を表情に漲らせながら、「はい」 と答えます。

 ここでの洋貴は逃げている文哉と、鮮やかな好対照になっている気がします。

 それは、実情を話せば、そんなにカッコイイものじゃない。

 そうありたい自分と、結局そうなってしまっている自分とのあいだには、やはり多かれ少なかれ、乖離というものが存在している。

 でも、「遅くとも、せぬよりはまし」、なのです。

 人は自分の姿に絶望しながら、自分の無気力に打ちのめされながら、ただ上を向いて、前を向いて、生きなければならない。

 そんな姿勢こそが、実はいちばんの、人生のありかただと私は思うのです。
 見た目負けていても不幸でも、それはその人にとって、不幸じゃない。
 向上する心を失ったとき、はじめて人は、不幸だと思える。

 説教臭くなってまいりました。

 なにしろいくらカッコ悪くても、全然カンケーないのです。

 いっぽう因島に行こうとしていた文哉は、草間五郎(小野武彦サン)の農場に、帰ってきています。 双葉の必死の懇願が、彼を押しとどめた気がします。
 そこでは紗歩が五郎に促されて、現金持ち出しを謝らせようとしていたのですが、ん~なんつーか、謝らせる以前に、もう即刻解雇だと思いますけどね、こんな問題のある従業員は。
 しかし紗歩は全く悪びれる様子がなく、文哉が少女殺しの殺人犯だということを、オッパイ星人…じゃなかった(笑)サトエリに、ばらしてしまうのです。 憎たらしいなコイツ。 盗人猛々しいとはこのことだ。 ある意味少女殺しよりも悪質。
 ただ紗歩のこんな攻撃も、因島に行こうとしている文哉には、まったくダメージなんかないと思うんですが。

 そして仕事が終わった雪恵の前に立ちふさがった洋貴と五月とキーボー(あっ違う)。
 雪恵はほんの一瞬を突いてその場から逃走するのですがあえなく洋貴につかまってしまう。
 彼女が逃げたいと思うほど後ろめたいことって、なんなのか。

 今回も長~いレビューになってしまいました。 最後まで読んで下さったかたには、厚く御礼申し上げます。 ところどころオチャラケた表現を混ぜておりますが、深刻さを軽減しようとしているこのドラマにならったものであることをお断りいたしたいと思います。

 心を切り刻まれた人たちも、四六時中、深刻なことを考えているわけではない。
 なぜならその人たちも、世間の人たちのなかで、生きていかなければならないからです。
 暗い顔をしていては、社会ではつまはじきにされてしまうからです。
 でも普通に生活していても、心のどこかは、いまだ修復がなされないまま。
 そんな偏った心が、なんとなくトンチンカンな対応をとってしまう人間を、作りあげる。

 それは深刻さを軽減しようとするこのドラマの方策であると同時に、紛れもない悲しみを秘めたものであることに、見る側は気づかないといけない気がするのです。

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「胡桃の部屋」 第3回 前しか見えてない自分

 リストラされ生きる気力を無くした男(蟹江敬三サン)を、最初は仕方ないかみたいな感覚でかくまっていた、おでん屋の女(西田尚美サン)。
 その失踪した父親の娘(松下奈緒サン)の相談に、成り行きで乗っている、自分は女房に逃げられた男(原田泰造サン)。
 おでん屋の女はその失踪した男に、女房に逃げられた男はその父親の娘に、シンパシーを感じていることに今回気付きます。

 原田サンは松下サンの相談に乗っているとき、松下サンを 「前しか見てないんじゃ疲れるから、もっとよそ見をしたほうがいい」 という内容のアドバイスをします。
 これって、このドラマに出てくる人たちほぼ全員に言えてるような気がしました。

 松下サンの母親の竹下景子サンは、夫に逃げられて過食症気味になり、半分おかしくなってるような感じ。 訪問販売の洗剤を呆れるほど買いまくり、何かあると暴れ出す。 自分がこんな境遇にいることを、認めたくないのです。

 松下サンの姉の井川遥サンにしても同じ。
 彼女は夫が浮気していると知り、やはり自らのアイデンティティが崩壊している。
 万引きをしたことを認めようとせずあくまで松下サンに対してもしらを切り、結局お買い上げをしたと思われるその万引きした缶詰を見て、慟哭する。

 このふたりに共通しているのは、パートナーに裏切られて、確かに相手を責める部分も見せてはいるんですが、まるで自分が家庭のなかの妻の役割を果たせなかったと考えて、自分を責めているような部分がある、ということです。
 だからなのか、現代的感覚からこのドラマを覗いていると、ドラマ全体が、とてもウェットな感情に支配されているような感覚に陥る。

 「責任」 ということに対して当時の人たちのほうが現代人より強い呪縛にとらわれているからこそ、「そんなに思いつめなくても…」 いいようなことに思いつめるウェットさが、そこに存在している。

 それを象徴しているのが、先の原田サンの 「前しか見えてない」 発言のように思われるのです。
 もっともその強い呪縛こそが、当時の大人たちを 「大人」 たらしめている大きな要因では、あるのですが。

 その 「大人への階段」 を登り損なった人間として、おでん屋の西田サンが配されている。 私にはそんな気がするのですが、現代だったら、別にちょっとくらい失敗したって、家族とか家庭とかいうものに対する神話が崩れちゃっているようなところがあるから、「まあいいか」 って考えてしまいそうですけど、おでん屋はそうはいかない。
 彼女はハスッパに構えながら、家族の情愛に、とても飢えているのです。
 だから蟹江サンの持つ、家庭人としての揺るぎなさに、とても惹かれてしまう。
 蟹江サン、家庭を捨てたけれども、やっぱり、揺るぎないんですよ、「責任」 を全うしようとする男の生きかたが。

 サンドイッチマンをしている蟹江サンの目の前に、原田サンが現れたとき、蟹江サンは即座に 「そこに立つな、邪魔になる」 と制します。
 人間捨てましたみたいな場末の仕事をしていても、仕事に対する責任感を全うしようとする。
 これが、昔の男なのです。
 いくら落ちぶれていても、「責任」 に対する遂行意欲というものが、ハンパではない。

 だからこそそんな自分のありかたにひとたび疑問を持ったとき、「自分は歯車のひとつだった」 とか 「おまえに何が分かる」 とか、幼稚な子供のように逃げるしか、術がなくなるんですよ。
 「自分は死んだと思っていいと伝えてくれ」 とすねたようなことを言う蟹江サンに、原田サンは 「ずいぶん勝手だ。 生きてるほうはどうすりゃいいんですか」 と捨てゼリフを残して去っていくのですが、この反応って、結構現代人っぽい。
 原田サンは女房子供にちょっと頭を下げりゃそれで済むと思っている。 そんなこだわりなんか軽いもんだと考えているのです。
 そんな新人類的な(死語だ…笑)新しい倫理感覚を持ち合わせている原田サンに、松下サンは惹かれていく。
 原田サンも女房子供に逃げられた身だから、「逃げた女房に未練はない」 とばかり松下サンに心を寄せていく。
 ところが今回ラスト、その逃げた女房が帰ってくる。 女房・イズ・バック!(オチャラケてますな)。

 おでん屋は(おでん屋おでん屋って…笑)おでん屋をやってるだけでは生活が苦しいので化粧品のセールスレディになります。
 そしてそのおでん屋は竹下景子サンのところに化粧品を売りに来る、というかなり大それた計画を実行する(なんか私も、暑さで参っているようです…書き方がおかしい)。

 「夫婦なんか紙切れ一枚じゃないっスか」 と話すおでん屋に(だから…笑)、竹下景子サンは彼女が夫をヒモにしているとも気付かないまま、凛として、こう言い放ちます。

 「その紙切れが、鉄の板みたいに硬いのよ」

 けれどもそのあとに、こう弱々しく付け足します。

 「…そう信じたいじゃないの。 …女なんだから」

 この部分は、当時の揺るぎない常識と、それが揺らいでいる現実とのギャップを如実に語っている場面のような気がしました。
 竹下サンは彼女が何者かを、鋭く察知します。
 おでん屋は(しつこいね私も)そそくさとその場を緊急撤収。
 女房の思いを知ったおでん屋は(…)蟹江サンに 「男が出来たから出てって」 とうそぶきます。 けれども去っていく蟹江サンを、おでん屋は(もうおでん屋で統一いたします…ウソ)泣いてすがって引きとめる。

 信じていたものが崩壊するとき、人には何も残っていない。

 自分のしてきたことはいったい何だったのか、人は行く先を見失います。

 けれど、まあいいやって思えるのが、現代のような気がしています。

 当時は家というものをみんな信じていたから、帰る場所がなくなった、触角を失くしたアリのように、あてどもなく激しく彷徨い続けてしまう。

 「あたしの人生いったい何だったのよ!」 と暴れる竹下サン。
 「行かないで!お願い、行かないでよ…」 と泣いてすがりつくおでん屋(西田サン、ゴメンナサイ)。

 両方とも、とても哀しい。

 このドラマの方法論の根底には、家庭というものに対する神話が残っていた時代の空気が、大きなルールとして存在している。
 これを古臭い、と見ることは間違っています。
 ブレヒトの 「例外と原則」 の根底に、常人では理解できないルールが存在していたように、このドラマでも現代人にはなかなか理解の出来ない理屈となりつつあるルールが、存在している(いきなりブレヒトか…)。

 常識が不条理となる過程を、実は当時から生きている我々のような世代は、体験している途上なのかもしれません。

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2011年8月 7日 (日)

「それでも、生きてゆく」 第5回 時間を、止まらせるもの(続)

 先の記事では、総論に落ち着いてしまった感があるのですが、やっぱり、ちょっとストーリーを追っかけながら、あらためて感想を再構築したいと思います。

 文哉(風間俊介クン)を探す洋貴(瑛太クン)を手伝おうとする五月(倉科カナチャン)。
 彼女も同じ被害者家族なのですが、彼女の場合、犯人はその場で自殺してしまっている。
 この五月のケースも、このドラマが 「被害者家族のやり場のない思い」 というものを立体的に表現できている要因だと感じます。

 いっぽうひと気のない暗がりに、自分の過去を知る紗歩(安藤サクラサン…この人、奥田瑛二サンと安藤和津サンの娘サンらしいですね)を連れていく文哉。
 文哉に対してあからさまな敵意と侮蔑の感情で嘲笑うように接してきた紗歩はその不気味さに、すっかり打ちのめされてしまいます。
 文哉は 「もし自分を昔の名前で呼んだら、夜のところに置いていくから」 と無表情に言い放つ。

 同時に展開していた看護師失踪との関連性で、もしや文哉が紗歩を殺すのではと思ったのですが、彼は自分の過去の汚名をかさに、恫喝をしたに過ぎなかった。
 しかし彼が言っていた 「夜のところ」。
 この暗闇は、彼を未だに呪縛しているかのようです。

 同じ夜、五月と話している洋貴のところにやってきた双葉(満島ひかりチャン)。
 その時点で彼女は、自分が母親(風吹ジュンサン)の本当の子供ではないことを知らされたばかり、野茂のモノマネをしてからの(笑)来訪です。
 みんなでそうめんを食べながらの会話中、双葉が加害者の妹であることはそれとなく五月に隠されるのですが、そうとも知らない五月はふたりが付き合ってるのか?と尋ねます。 同時にそうめんを吹いてしまうふたり(笑)。

 前も書きましたが、こういう、ちょっとした場所でこのドラマは、重苦しさを緩和してくれる。 双葉はショックのなかにいるはずなのに、野茂のものまねをして、そうめんを吹いて。
 彼女がそうすることでショックを受け流そうとするのが、見ていて健気なのです。

 その晩、洋貴の家に泊まる五月と双葉。
 「私もあなたと同じ気持ち」 と五月は、双葉につぶやきます。
 つまりこれって、どうも下世話ですけど、ふたりとも洋貴に心を寄せている、ということなんでしょうかね。 翌朝五月は、ネックレスを忘れて帰っていくのですが、これもそのことから考えると、わざとっぽい気がしてきます。

 同じころ、ふたりの靴が玄関先に並んでいるのを見る洋貴。
 きちんと揃えて置いてある五月の白い靴と、バラバラに置かれている双葉のスニーカー。
 ふたりの性格の違い、今まで暮らしてきた人生の違いがこの一瞬で如実に分かる。
 それを見て、ちょっとクスッと笑って、双葉のスニーカーを直す洋貴。
 幼なじみの双葉に対して、洋貴は兄のような感情を抱いていることが分かります。 そして洋貴は、そんな屈託ない時代に、出来ることなら戻りたがっている。 さらに洋貴は、共通の傷を負っている双葉に、連帯感を抱きつつある。
 それもまた、一瞬で分かる気がします。

 このドラマ、一瞬々々の情報量が多過ぎるんですよ。
 この時点で、ドラマ開始から、たった3分34秒。
 私がちゃんとしたレビューをメンド臭く思う原因が、ここにあります(爆)。

 翌朝、超朝寝坊をした双葉。 五月はとっくに帰ってしまっています。
 そりゃ自分が母親の本当の子供ではないことが分かって、頼ろうとした男に思いを寄せているもうひとりのライバルが出現、とあっては、眠れないのも道理かもしれません。
 そしてその場にやってきたのが、双葉の父親、駿輔(時任三郎サン)。 きちんと正装して、ちゃんとした謝罪をするのも兼ねているようです。

 お母さん(大竹しのぶサン)に謝罪したい。 日向夏という手がかりで、息子を必ず見つけ出し、うちに連れ帰って必ず償わせる、と話す駿輔。
 そんな文哉の父親に、文哉が少年院で描いた絵を見せる、洋貴。
 彼はまだ反省していない。
 その絵を持つ俊介の手が、かすかに震えます。

 食堂で眠りこけてしまっている双葉。
 雰囲気を察して洋貴は、駿輔と双葉をその場に置いたまま、ゴミ出しへと出ていく。
 父親と娘の会話を聞いてしまう洋貴。
 あの距離では聞こえるはずもない気がするのですが、このドラマの登場人物は皆、察しがいい上に地獄耳(爆)。 本当の母親、という話は洋貴に筒抜けだったようです。
 結局父親に連れられて、家へと戻っていく双葉。
 洋貴は母親に駿輔の意向を伝えに、弟耕平(田中圭サン)一家のもとへやってくる。

 耕平は洋貴が裏で母親とコソコソ何かしようとすることが、気に入らなくて仕方ない様子です。
 響子は洋貴を自分の部屋に連れて来て、いきなり肩揉みを強要(笑)。 洋貴は肩を揉みながら、加害者の父親が母さんに会いたがっていると伝えます。
 「フフ、やればできるじゃないの」 という響子、それは息子の肩揉みに対する評価なのですが、同時に今までなにも行動を起こしてこなかった向こうの父親に対する評価でもある気がします。
 洋貴の話を聞いてなかったと言いながら、あらためて言おうとする洋貴を制して 「会いたくないわ」 とにべもなく答える響子。 聞えてたんですよね。 つまりこれは彼女が、息をひそめて暮らそうとしていた向こうの家族をどれだけ不愉快に思っていたか、ということのような気がします。

 会いたくないという母親に、会ったほうがいいんじゃないかという息子。

 「言いたいことがあるなら言ったほうがいいと思うし、もし殴りたいんなら殴ったほうがいいと思うし、会って話せば、何かきっかけになるかも知んないし」

 「な何のきっかけ?」

 「なんて言うか、もう1回母さんの時間を動かすってなんて言うかその」

 洋貴が加害者家族に頻繁に会う、という動機もここにある気がします。 言いたいことを言いたい。 腹が立ったのなら殴ったほうがいい。 何より、現在の司法制度ではまったく救済がなされていない、モヤモヤしたままの思い、あいまいなままに強要されてしまっている自分の心的外傷をなんとか解決できるきっかけになるかもしれない。
 それを洋貴は、「もう1回母さんの時間を動かす」 という表現で言おうとしている。 「オレは母さんに幸せになってほしいから」 と話す洋貴。

 そこに弟の耕平が入ってきて、兄をどつきます。
 彼は自分が母さんを幸せにしていると、思い込みたがってる。
 そんな彼にとって兄は、いっぽうで同じ家族としての情愛を持っていながら、過去の傷を蘇らせる疫病神みたいな感覚なのではないか、と私は思います。
 耕平にとって過去は、消し去りたい忌まわしい記憶。 それを忘れることこそが、母さんの幸せであると考えているのです。 さえない父親から受け継いだ釣り船屋をやって過去の思いに未だに翻弄されている兄が 「母さんの幸せを考えて」 などと言うのが、だから弟には我慢がならない。

 同じころ、文哉の描いた絵が忘れられず、ひとり物思いにふける駿輔。 やってきた隆美に、「オレたち別れたほうがいいのかも」 と切り出します。 駿輔はこれから文哉を探してうちにつれ戻すということが、どれだけ隆美にとって精神的苦痛なのかに、思いが至っている。
 隆美はそれに対して 「ずるいなあ」 と言いながら、自分は一度も後悔したことはないんだから、と駿輔の気持ちを笑い飛ばす。
 ただ双葉は自分の手を握ってくれたけれども、文哉は一度も私の手を握ってくれなかった、と。
 隆美のなかでは、やはり文哉に対して心を閉ざしている部分がある。 フタをしたいという気持ちがある。
 ただあらかじめネタばらししてしまいますが、この回ラストで、そんな隆美は、洋貴たちに会いに来るのです。
 隆美にとっても、止まった時間を動かしたい、という意志があるのかもしれません。

 日は変わって、文哉の少年院時代の看護師に会いにいった洋貴と五月(ひろきとさつきって、なんか演歌歌手みたいで語呂がいいっスね…笑)。 その帰りに洋貴は五月から、双葉の写真が入った大きな封筒を受け取ります。
 五月は双葉が誰なのかを、調べたのです。

 「どうして、妹さんを殺した犯人の家族なんかと一緒にいるんですか?」

 洋貴はそれに答えることができません。
 その夜、洋貴の釣り船屋にまたもや双葉がやってくる。
 カメラは先ほど洋貴が直していたスニーカーを映し、双葉が来たことを知らせるのですが、今回のドラマではもう1回、靴の部分を映したショットがあった。 興味深い符合のような気がします。

 眠りこけている洋貴に、双葉はそっと手を伸ばします。
 指と指とが触れた瞬間、静電気でも走ったのか(笑)びくっと起きてしまう洋貴。

 これって、双葉が洋貴に対して、好意を持ち始めている、という証でしょうか。
 起きてしまった洋貴と、双葉はフランクな会話を続けます。
 この会話がすごく自然で、ふたりとも演技してない感じがいいんですよ。

 仕事の話から 「お金が入るのなら服を買ったほうがいい」 と提案される双葉。
 そのときようやく私も気付いたのですが、双葉の服って、すごくすごく地味(笑)。
 まるでおばあちゃんが着ているような服なのです。
 話題は 「じゃあ自分が変われるとしたらどう変わりたいか?」 という話に移っていく。

 洋貴は 「カラオケ行かない?」 といきなり言いだし、双葉を一瞬動揺させます。
 「とか、人に言ってみたいです」
 ちょっと肩透かしを食らったような双葉。 双葉は大風呂敷を広げておいて、「(自分は)スプーン曲げられるようになりたいです」 と答えます(笑)。
 「なんじゃソレ」 みたいな受け答えの洋貴にツッコミを入れたがる双葉。
 少し途切れた、そんなどことなくひょうきんな会話のあと、洋貴はぼそっと、こうつぶやきます。

 「そのうち、…うまく行きますよ」

 双葉は黙ってラーメンを食べ続けます。

 「さすがにスプーンは無理だと思いますけど…。

 つらいこと、いろいろあると思うけど。

 そのうち、…うまく行きますよ」

 思いついたように話す双葉。

 「アレ? …母とかの話とか、聞いてました?
 ああ…なんか、今日は優しいなあと思ってたら、…そうか…」

 彼女はやはり、被害者家族に許されることを、そしてさらに、洋貴に優しくされることを、望んでいるんだと感じました。
 ラーメンを弄びながら、そんな自分の気持ちがなんだか哀れになったのか、涙がこみ上げてきてしまう、双葉。

 「なんか、ラーメン久しぶりに食べるから」

 自分の気持ちをごまかそうとする双葉。

 「いつも、これぐらいっスよ」

 いつもラーメンくらいしか作ってない、という洋貴の言葉なんでしょうが(この前もそうめんだったし…笑)、「優しくしようなんて考えてない、いつも自分はこんな調子なんだ」 という気持ちも含まれている気がします。

 「いつもこれぐらいだったらいいな」

 「じゃあ、…いつも、…これぐらいの感じにしますね」

 なにがこれぐらいなんだか(笑)、ぎこちない会話がふいに途切れます。
 「もう一回言ってくれませんか?」
 と沈黙を破る双葉。
 洋貴は双葉の手に、自分の手を伸ばそうとします、が、その手は触れられることがない。

 「うまく行きますよ、遠山さん…。

 頑張ってるから」

 涙がぽろぽろ出てしまう双葉。

 「恐縮っス」

 「頑張っても頑張ってもうまくいかない、でも気付かないところで、誰かがきっと見てる」 という小田サンの歌が、ここで大きな作用を及ぼしている気がします。

 人は誰かに、「あなたはよくやってる、頑張ってるよ」 と言われたくて仕方ない。

 そんな励ましの言葉が、自分をまた、頑張らせる浮揚力になるのです。

 このドラマ、被害者家族と加害者家族が必要以上にくっつきたがってる、という思いにとらわれていては、このシーンでのふたりの心情に、共感することはできないのではないか?そう、私は思います。

 けれどもそんな思いの接近も、洋貴が五月から受け取っていた、あの大きな封筒を双葉が見てしまったせいで、また離れていくことになってしまうのです。
 「ありがとうございました。
 わたしは
 もう じゅうぶんです」
 という置手紙を残して。

 双葉は家に居づらいのか、なかなか遠山家へ戻ってきません。 彼女は祖母が入っている老人ホームを頼ってくる。
 「双葉、なんか疲れちゃったよ…」
 表面上、彼女はショックを受けているようになかなか見えてきません。
 でも自分が母親の本当の子供でない、ということ、そして母親が文哉を拒絶しているということは、彼女にとって大きな心労となっているようです。

 いっぽう洋貴は、響子がいなくなったことを耕平の電話で知ります。
 警察に捜索願を出そうとした矢先、響子は帰ってきます。

 「お話したいことがあります」

 ここから大竹サン(響子)の長い独白が始まるのですが、先の記事で書き記したことを省略しながら書かせていただきます。

 事件現場での亜季の最後の足取りをたどってきた響子は、「この道は危ないからこっちを通りなさい」 と自分が娘に言っていた道との分かれ道にさしかかったとき、そこに自分の人生の落とし穴が見えた、と言います。
 自分がそっちの道を通りなさいと娘に言っていなければ、娘はその道で殺人犯に会うこともなかった。

 「あれから15年たって、今の私は人から見たら、ずいぶんと落ち着いているように見えるかもしれません。

 でも、ホントは違うんです。

 私、みんな、私と同じ目に遭えばいいのにと思って、ずっと、生きてきました。

 優しくされると、『あなたに何が分かるの?』 って、思いました(決まりの悪そうな段田サンの顔)。

 子供連れた母親見ると、疎ましく思いました(また、バツの悪そうな耕平の妻の顔)。

 『前向きに生きよう』 って言われると、死にたくなりました(ショックを受ける耕平)。

 ごめんなさい。
 私はずうっと、そういう人間です。

 『あーダメだダメだ、人、愛そう。 前向き、なろう』。

 そう思った5分後に、『みんな死ねばいいのに』 と思ってました。

 ごめんなさい。

 母親から子供取ったら、母親じゃなくなるんじゃなくて、人じゃなくなるのかもしれません…。

 森のなか歩きながら、『今日私はこのまま死ぬんだろう』 って、ひとごとみたいに思ってました。
 森の向こうで、地面が青く光っているのが見えて、

 『ああ、あれか。
 あれか。
 あそこで。

 あそこで亜季は』 って思ったら、

 …私走り出してました。

 『あーごめんね亜季。

 ごめんね亜季、ずっと来なくてごめんね。

 待ってたね、ずっと、たくさん、待ってたね』 って。

 そこで、亜季の夢を見たら、消えていこうって思いました…。

 でも夢に出てきたのは、…あの少年でした。

 私、『亜季がなにしたの?亜季がね、亜季が、どんな悪いことをしたの?』って、訊いたけど、少年はなにも答えてくれなくて、ただ私を見返してました…っ。

 …そのとき、気付きました。

 『ああ、この子、この子私と同じ人間だ』 って…。
 『人やめてしまった人だ』 って…。

 『ああ、目覚まさなくちゃ』 って思いました。
 このまま死んだら、亜季が悲しむ。亜季に嫌われる。

 そう思えたら、はじめて、生きようかなって思いました。
 亜季の分まで、生きようかなって」

 ここから先の記事であらかじめ書いていた 「私が言いたいことはただひとつ、『亜季を返して』 ってことだけ」 というくだりに突入していくのですが、大竹サンのこの卒倒するほどの長ゼリフ、これはもう、ただただ圧倒されるほかはない。 現在の日本で最も、最高レベルと評したいほどの女優の演技、でした。 それを目の当たりにしていた瑛太クンはまるでホントに泣いているかのようでしたし、段田サンは完全に生気を抜かれたような表情。

 そして結局響子は耕平の家を出て、洋貴の釣り船屋で洋貴と生活することになるのですが、そこに現れたのが、隆美。 最初にその靴を映してからの登場です。
 おそらく同じころ、老人ホームの祖母の部屋で眠っていた双葉のところにやってきたのは、なんと文哉。
 まるで双葉の見ている夢であるかのように、彼は妹に対して話しかけます。

 「双葉。
 お兄ちゃんと一緒に行こうか」

 当事者たちの時間を止めてしまうのは、マスメディアによって必要以上に拡大されたさまざまな人々の渦巻く思いと、それに翻弄されることによってなのですが、その止まった時間を、当事者たちが再び、動かそうとしている。
 それが当事者たちにとって、生きていく、ということに他ならないから。
 それははたから見ればウサン臭いのかもしれません。 ドラマ的に、禁断の愛とかレッテルを張ることで、その思いを貶めることもできる。
 だが、そんなことじゃないのです。
 人は人の身になって、何かを考えることができる。
 そのことをこのドラマは、あらためて訴えようとしてるんじゃないか、
 私にはそう思えてならないのです。

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2011年8月 6日 (土)

「江~姫たちの戦国~」 第29回 なんと申してよいものやら

 はぁ…。
 今回はスカでした。

 この回のもっとも中心だと思われるのが、江が秀忠への嫁入りをするのに娘の完を連れていけない、ということに対するロジック(作り手の言い訳とも申します)であります。

 まずこのドラマでは、「完は亡くなった秀勝との間に生まれた豊臣の子、置いていくのが道理である」 という秀吉、石田三成の論理を前提として提示する。
 それに対して江も淀(茶々)も、最初 「あり得ない」 と反駁するのですが、かようにドラマ上前提となる秀吉らの論理に対して反発するベクトルを提示するならば、結局江が完を置いていった、という歴史的事実に沿うように、ドラマの作り手は江と淀を納得させねばならないのです。

 ちょっと分かりにくい話で恐縮なのですが、つまり江も淀も、「完を置いていくのが道理」 というふうに最初から思ってしまっては、今回のドラマ自体が成り立たないっていうことです(笑)。

 だから江や淀に反駁させるのなら、彼女らにも見ている側にも納得のいく理由を提示する必要に、作り手は迫られるわけなのです。

 ドラマで提示されたその納得させるロジックは、「今は戦国の世だから、豊臣と徳川がいつ反目しあうのかも分からない。 もしそうなったとき完は、豊臣の子として徳川に敵とみなされる」 というもの。

 江を諭す淀のその論理には、自分たちの母親(市)が伯父上(織田信長)を裏切ったことで息がつまる毎日を我らも強いられた、という体験に基づく内容も含まれていました。

 けれどもこの淀の論理には、整合性があまり見られない。

 息がつまる生活なんか、このドラマのなかではしてなかったじゃないの、ということなんですよ。

 初はお菓子ばっかり食べてるしアイドルオタクだし、江は自分勝手にホイホイ失踪しちゃうし、このふたりは犬も食わぬケンカばかりしてるし。

 そしてそんなノーテンキな戦国時代を生きてきたのに、いまさら 「戦国の世の習わし」 を持ちだすか、っていうことなんですよ。

 江に関しても、このドラマでは秀勝が亡くなってしまったことで、江は稚児の完を抱くことができない、という母親放棄の経過を描写している。
 いまさら完を連れていけないからと不満を訴えるのは、完をたとえ一時期でも自分の意志で抱かなかった母親が、また自分勝手を言っている、というように見えてしまう。

 三姉妹を戦国の世でも生き生きと明るく生かせたかった、とする作り手の思いには賛同いたしますが、だからこそ今回の淀のロジックに説得力を伴うことができなかった、ということは、作り手は認識すべきであります。

 そしてこのドラマの最大の弱点は、そんな脆弱なロジックを、セリフだけで片付けようとしてしまう点にある。

 話が行き当たりばったりだから、セリフだけで見る側をねじ伏せることしか出来ないのがその理由です。

 この回の全体的な印象を思い返してみると、ほとんど部屋のなかで、誰かと誰かがしゃべっているシーンばかり。

 そんな動きの少ない低予算チックなドラマのなかでは、セリフに頼るしかないっていうのは、同情したくもなってきます。

 でも登場人物の来歴にまるで一貫性がないこのドラマでは、とてもそれが小手先に見えてしまう。

 結局リアリティのないグダグダな話に、外見上は見えてしまう。

 かなりキツイ物言いになってしまいました。
 このドラマはいろんな角度から批判されているのですが、その批判の構造にまで思いが至ってしまった今回。
 唯一私の琴線に響いたのが、この子役の完チャンだったのです。
 「ははうえー」 というセリフが、いつまでも鳴り響いています。
 けれども完を思って輿のなかで泣いている江に、感情移入ができない。

 考えてみればドラマをドラマたらしめているいちばんの立役者が子役、というのも、情けない話であります。

 そして秀忠のところへとやってきた江。
 初夜のやり取りは、見ていてこんにゃく問答みたいで、面白かったです(なんやソレ)。

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2011年8月 5日 (金)

「それでも、生きてゆく」 第5回 時間を、止まらせるもの(序)

 私事で恐縮ですが、ここ数日、このドラマの主題歌である小田和正サンの 「東京の空」 のフレーズが頭から離れなくて、ほとほと困っています(笑)。
 車の運転中も、不意にひとり歌いたくなってくる。

 ただちょっとうろ覚えで歌っていたせいで、ちょっと間違えてた(笑)。

 「自分の生きかたで 自分を生きて」 というところを 「自分の生きかたで 自分を傷つけて」 と歌ってました(笑)。

 ただ詐称詩人の(爆)私といたしましては、「自分の生きかたで、ほかならぬ自分が苦しんでいる、自分が傷ついている」 としたほうが、ちょっとしっくりくるのです。

 そして 「頑張っても 頑張っても うまくいかない」 のところではもう泣きたくなり(笑)、「でも気付かないところで誰かがきっと見てる」 のところでは、「いや、そんなことはない」 とかなり頑迷に否定(爆)。

 思春期の頃はそれこそ自意識過剰で、「誰かに見られてる」 という恐怖心でさいなまれたものなのですが、大人になったある段階で、「他人は実は、自分のことなんかそんな見ちゃいない」「他人は他人に対して、恐るべきほど無関心だ」 と感じて以来、人の目を気にすることがすっぱりなくなっていました。

 けれども最近は、「他人は自分のダメな部分を、想像以上によく見ている」 と強く感じることが、とても多い。
 仕事を一般人の間でやっていると、私自身の仕事の仕方についてなにかしら文句をつけたい一般人というのが、かなり多いということを、とても感じるのです。
 クレームというものをつけたがっている日本人。
 それは他人がかなり傍若無人に自分の平静な気持ちをかき乱している、という意識によるものなのでしょうか。

 このドラマに出てくる被害者家族は、身内を殺されることでかなり傍若無人に自らの人生自体をかき乱し尽くされているわけですが(おっと本題だ…笑)、妹を殺された瑛太クンと田中圭サン、娘を殺された大竹しのぶサン、互いに視野が、とても狭いと個人的に感じます。

 瑛太クンは異性と付き合うことをあきらめてしまったようで、人間関係、というか、他人との距離をはかるのがとても不器用という感じがするし、田中圭サンは自分が母さんを幸せにしている、と思い込んでいる。
 大竹しのぶサンはいきなり姿をくらまして田中圭サンをはじめとした養い先の家族をさんざん心配させといて(コメントを下さるかたのご指摘がなければ、大竹サンと段田サンが夫婦だと勘違いしたままだったと思います…笑)(rabi様、この場を借りてあらためてお礼申し上げます)、「娘の殺された現場に行った」 と長々と打ち明け話を始めるし(笑)。
 亡くなってしまった父親役の柄本明サンにしてもそうだったのですが、この被害者家族は、あることについて考え始めると、まわりが見えなくなる傾向がとても強い気がする。

 まあ人間だれしもがそんなものですけど、この瑛太クンたちに関しては(満島ひかりチャンの加害者家族に関しても同様なことが言えるのですが)、殺人事件というものに巻き込まれたことで、世間全体から翻弄され、考えるということを無理に狭められている部分が、かなり大きいよう私には思えるのです。

 「ディズニーランドに行ったことがある」 という今回の、満島チャンの妹役の福田麻由子チャンの告白がその象徴的な部分を物語っています。
 つまり世間全体から、「それはしちゃいかんだろ」 という知ったかぶったような謗りを、被害者家族も加害者家族も、一身にその身に受けてしまうからこそ、彼らは考えを狭量にせざるを得なくなってくるのです。

 大竹サンはそんな部分を、こんなふうに段田サンらに語っていました。

 「昔、亜季が…殺されたとき、いろんな人がいろんなこと、言いました。

 時代のこととか、教育のこととか、何か…少年の心の闇だとか、少年法だとか…。

 理由を解明すべきだとか言っていろんなことを言いました。

 何を言ってもいまさら時間は戻らないって言いました。

 私、何言ってるか、分かりませんでした。

 分からないから、なんだかよく分からないから、私が。 私がほっといたから亜季は。 亜季は死んだんだって思うようにしました。

 私が道変えたから、私がスカートはかせたから、亜季は死んだんだって…。

 そうやって、少年のことは、考えずに、来ました。

 だけど…。 だけど…。

 そうじゃないの。
 そうじゃないの。

 私は誰かじゃないから。

 私は。 私は新聞の記者の人じゃないから私は、偉い大学の先生じゃないから私は、ただの母親だから、理由なんかどうでもいいの。

 私は、私はただのお母さんだから、私が言いたいことは、…ひとつしかないの。

 私が言いたいことはずうっと、ひとつしかないの。

 ないの。

 あ…『亜季を返して』 って…。

 『亜季を返して』 って。

 『亜季を返せ』 って。

 私が言いたいことは、ひとつしかなかったの…。

 私、あの少年に会いに行きます。

 会って、亜季を返してもらいます」

 田中圭サンが 「返してもらうって(そんなの無理に決まってんじゃん)」 と言うのですが、大竹サンが返してほしいのは、娘本人ではない。

 大竹サンが返してほしいのは、亜季が死んだときから、止まったままの時間なのだと私は思うのです。

 口さがない人から受ける数多くの、数多くの言葉によって、止まってしまった時間。

 大竹サンはずいぶん長く打ち明け話をしたあとでやっと 「この家を出て瑛太クンと一緒に暮らす」 という本題を段田サンらに話します(長い前フリだった…笑)。

 重苦しい時間が過ぎていって、瑛太クンが父親から受け継いだ釣り堀へとやってきた大竹サン。
 食事は交代で作ろうと言い出して、息子を大いに落胆させます(笑)。

 「作ってくれんじゃないの?」

 「いい年して何言ってんのよ?」

 「え…。 そのために引き取ったんですけど」

 笑いました、ここ。
 このドラマのあまりの重たさを緩和しているのが、こんなちょっとした笑わせポイントなんですが、その重責を担っているのは(笑)おもに瑛太クンと満島チャンのコミカルなやり取り。

 それについても書こうと思ったのですが、
 もうヘロヘロなので、もし書きたくなったら、後日書くとします(マジかよ…笑)。

 つづく。 たぶん。 つづかなかったら、ゴメンナサイ。

 追記 続きを書きました。 併せてお読みいただけたら、幸いです。→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/08/5-32f5-1.html

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2011年8月 4日 (木)

「胡桃の部屋」 第2回 「役割分担」 という足かせ

 父親(蟹江敬三サン)の失踪で自分が父親の代わりをしなければ、と思い至った娘(松下奈緒サン)。
 父が連帯保証人していたことから肩代わりしていた毎月8万円の借金返済も自分の給料から捻出することを決め、会社のレクリエーション行事にも参加せずクリスマスケーキも小さいのを買って、とりあえず気分だけは父がいたときのままで過ごしていこう、と頑張ります。

 それにしても気になってしまうのは、ちょこちょこ出てくる当時の時代考証の甘さ(笑)。
 先週も指摘したのですが、クリスマスのポップ広告とか、郵便ポストの形とか、間違い探しでもするみたいにこのドラマを見てしまいます(笑)。 どうも揚げ足取りみたいでいかんなあ。

 で、やはり現代と決定的に違う、と思ってしまうのは、パソコンやケータイのあるなしなんじゃないか?なんてことなのです(ドラマの内容と乖離していく…)。

 商店街のポップ広告も、当時はおそらくすべてがアナログで進行していたと思うんですよ。
 なのにドラマに出てくるのぼりの文字とか見ていると、「これってパソコンにあらかじめあるようなフォントを使ってるよなあ」 と感じてしまったりする。
 松下サンは当時としては珍しい?キャリアガールの地位にいるのですが、出版社の企画を上司の徳井優サンに提出するのも完全な手書き。
 これが異常にラフな感覚で(笑)これがまた、気になってしまう。
 この企画書に、ポスト・イット風なメモが大量に張られている。
 ポスト・イットは当時なかったよなあと思ったんですが、今見返したらセロテープで張ってある感じでした(気にしすぎだっつーの…笑)。

 それに原田泰造サンだったか、懐から神社のお守りを取り出そうとする仕草を見て、ケータイを取り出すのか?とか一瞬思ってしまったり(爆)、なんか違う方向でドラマを見すぎている感じであります(ヤレヤレ)。

 同じ松下サンが出てくる昭和のドラマでも、「ゲゲゲの女房」 を見ているときは、こんなあらさがしの視聴姿勢にはちっともならなかった。
 なんでなのかと考えましたが、思うに 「ゲゲゲ」 のほうは、舞台は確かに昭和だったけど、ある種のパラレルワールド風な感覚が、どこかに潜んでいた気がするのです。
 マンガ家、という特殊な職業の夫。
 しかもその夫には、片腕がない。
 そして水木家を支配していたのは、当時の常識からかけ離れたおおらかな価値観。
 「まあ、なんとかなーわね!」 というおそるべきまでの楽観主義(笑)が、夫の茂にも妻の布美枝にもどっしりと根をおろしていた。

 それが全くないのが、今回のこのドラマ。
 リアリティ、という点ではこちらのほうが数倍まさっているのですが、まさっているがゆえに、細部に関わる当時の描写が余計に気になってしまう。
 このことは結構、興味深いです。

 「ゲゲゲの女房」 は当時を描きながら、実は逆に当時の価値観に対して大きなアンチテーゼを提示していたのですが、「胡桃の部屋」 は当時の価値観を最初から崩壊させてみせ、崩壊してしまった側から当時の価値観を見つめ直そう、見直していこう、という作り手の姿勢が感じられる。

 夫は会社から戦力外通知され家庭から逃げ出す、ということで、自分にとって本当に大事なものは何だったのかを考える機会を得ているし、妻(竹下景子サン)は夫が無責任に失踪してしまったことで、家庭を守る、ということに対して大きな疑念を抱かざるを得ない。

 妻は気丈に、何もなかったかの如く普通に振る舞い、夫のことを気遣いつつも、「悪いのは全部お父さん」 ときっぱり断定しなければ気が収まらない。
 いつも通り家を守って、畳の雑巾がけをしていても、そんなあまりにも当たり前に思われたことに対する疑念が、ある瞬間、怒りへと転化するのです。

 イライラが募っていき、雑巾を窓ガラスに投げつけてしまう竹下サン。
 窓ガラスが割れてもいいくらいの勢いなのですが、当然雑巾の1枚くらいでは、窓ガラスが割れることはありません。

 いっそ割れてしまったほうが、よかったのかもしれない。

 その後この家も一家の大黒柱がいないまま正月を迎えることになるのですが、まるで夫がいたときと同じ正月を粛々とこなしているうちに、竹下サンの精神状態は、いっぱいいっぱいになってしまう。
 彼女はおせちを狂ったようにかき込み、ゲエゲエ戻してしまうのです。
 おそらくあのとき窓ガラスが割れていれば、ここまで竹下サンの気持ちが追い詰められることもなかったでしょう。
 慌てる子供たち。
 水を飲んで少し落ち着いた竹下サンは、しかしうめくように吐き捨てるのです。

 「情けない…。

 子供たちに気つかわして…!

 娘に借金払わして、…そうまでしてうち出なきゃいけない理由なんてどこにあるっていうんですよ…!」

 竹下サンは包丁を持ち出して、「そんなに合わせる顔がないんなら私が死んであげますよ!」 と暴れます。

 いっぽう、夫の蟹江敬三サンも、実はおでん屋の女(西田尚美サン)と最初から懇意だったわけではなく、町でぼんやりと座りこんでいたところを、西田サンに拾われた格好だったようです。
 彼も身元の分かるものをすべて川に捨て去り、死のうとしていたらしい。
 そして西田サンのところに身を寄せながら、彼は死のうとしていた自分が生きながらえていることに、自分で自分に罰を与えるかのように、場末の路地でサンドイッチマンとして、自らを晒している。

 つまり、いったん妻としての役割、夫としての役割を放棄してしまうと、もう死ぬしかないくらいの極端な気持ちに、当時は簡単になってしまっていたんですよ。
 またここで 「当時の価値観」 という耳タコの(笑)解説しなきゃならんのですが。

 現代の家族って、どちらかというとあんまり家に対する呪縛とかないから、感覚的に言うと、夫としての役割、妻としての役割、子供としての役割、という役割分担があいまいで、当時と比べればも問題が起きても 「まあ、なんとかなーわね」 という感覚なんじゃないかな、と思う。
 まあ今だって泣いたりわめいたりもしますけどね、ひどい時は。
 けれども当時は、その役割分担があまりにも当たり前だから、それが本当に必要なものであるという認識が、薄れてしまっている。
 でも失って初めて、それが必要だということに、気付かされるのです。

 おでん屋の西田サンも、斜に構えて突っ張ってますけど(突っ張ってるという表現も、古いなぁ…笑)、実はそんな役割分担という面倒なことに潜む、家族の情愛というものをうすうす感じている。
 そして蟹江サンを追い詰めているそんな家族の古めかしい絆というものに、「何が家族よ。 笑っちゃう」 と言いつつ、自分がその情愛を思慕していることを認めようとしない。
 おそらく西田サンは、そんな蟹江サンの、家族に犠牲にされながらも家族に対する情愛のクセを残している実直な部分に、惹かれ始めているんですが。

 それにしても、このドラマの短いタイトルバックに出てくる、水のなかに落ちた胡桃が割れてシナプスが絡み合ってるような映像の意味が、いまだにつかめていません。
 ここに映る胡桃は、まるで脳みそのようです。
 おそらくシナプスっぽいCGも、そんな脳神経細胞の比喩なのだと思うのですが。

 今回、セピア色が支配する画面のなかで、松下サンと原田サンが会話する喫茶店のなかの水槽だけが、やけに青かった。
 なんか水、という点で、タイトルバックと関連性があるのかな、なんて、まーた要らんことを考えております(笑)。

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2011年8月 1日 (月)

「それでも、生きてゆく」 第4回 触れようとしない意志、触れようとする覚悟

 密告することで、娘を殺した犯人の家族の居住先を転々とさせる、という復讐を行なってきた大竹しのぶサン。
 息子(瑛太クン)の尽力によってその復讐劇は終わったのですが、自分が転居させたその加害者家族の居住先にやってきて、家族(時任三郎サン、風吹ジュンサン、福田麻由子チャン)に出くわします。
 そのとき福田麻由子チャンが着ていたゴリラの絵の入ったTシャツを見て、同じTシャツを着ていた満島ひかりチャンが、加害者家族のひとりであったことを大竹サンは知るのです。
 このことを知るのは時間の問題、などと前回のレビューで書いてしまいましたが、坂元サンのドラマに出てくる人たちはみな一様にすごくカンがいい、ということを忘れていた(笑)。

 それはそれといたしまして(笑)、被害者家族の大竹サンを、加害者家族の住むところへ向かわせたものは、やはり 「真実が知りたい」、という欲求だと思うのです。
 「どうして亜季は殺されたの?」 と亜季チャンの幻影に問いかけられた大竹サン、自分が復讐ばかりに汲々とすることで、今まで自分がわざと目をそらせてきたことに気付かされたんだ、と思うのです。

 大竹サンは瑛太クンと行動を共にしている満島チャンを、最初瑛太クンの恋人もしくはガールフレンドとばかり思っていたんでしょうが、ゴリラのTシャツに気付いてしまった大竹サンは、もはや満島チャンと、従来通り話すことができません。
 検視調書、亜季チャンが姦淫されていなかったことを読んだのか?と冷たく満島チャンに訊く大竹サン。
 大竹サンに自分の正体を知られていないとばかり思っている満島チャンは、「よかったですね」 と思わず他人事を装ってしゃべってしまいます。
 それを聞いてキッと満島チャンを睨み返し、「何がよかったの?」 と努めて平静を装いながら尋ねる大竹サン。
 「双葉ちゃんでしょ?」
 大竹サンは、小さいころの彼女を、覚えていたのです。
 顔から血の気が引いていくような表情の満島チャン。
 「さっきお宅へ行ってお父さんとお母さんに会ってきたわ。 ――会いたくなかったな」
 いたたまれなくなって、その場を立ち去る満島チャン。

 被害者家族は、やはり加害者家族が罪の意識にさいなまれながら暮らしていないと、自分のなかにしまいこんでした報復の心が頭をもたげるものだ、と思います。
 「姦淫されてなくてよかっただとぉ~?フザケンナ!」 という感じですよね、確かに。
 そして大竹サンの心を逆なでしたのが、再会した際に時任サンが相変わらずつけていた、という、高級そうな腕時計。
 満島チャンがその場を去ったあと、大竹サンは瑛太クンに、事件前の思い出を語ります。
 当時、時任サンは町が誘致した時計工場の課長さんで、とても羽振りが良かったのですが、柄本明サン(大竹サンの当時の夫、瑛太クンの父親)が酔っぱらって時任サンに話しかけたとき、蔑むような感じで 「がんばってくださいよ」 と肩を叩かれた、と。
 時任サンがいまだに身につけていたというその腕時計は、大竹サンにとって夫の柄本サンが侮辱された象徴的なアイテムなのです。

 そのことを語る大竹サン、回想シーンなど一切入らないのですが、そのときの状況がまざまざと目に浮かぶような、見事な語り口。

 うなります。

 そのせいか、その思い出話に聞き入る瑛太クンも、父親が侮辱されていた、という怒りが、しっかりと潜在的に刷り込まれていくのです。
 この大竹サンの独白場面は、今回の物語を動かすキモでしたね。

 「あのとき――あの子もそういう顔してた」

 大竹サン、柄本サンの肩を叩いていた時任サンを、事件の犯人である文哉(風間俊介クン)も同じような顔で蔑むように見ていた、というのです。
 文哉が父親に抱いていた思いと殺人との関連性の糸が、ちょっと垣間見えた気がしました。

 この回想のくだりで、大竹サンは少女時代の満島チャンが、殺された亜季チャンに、野茂選手のトルネード投法を真似して喜ばれていたことを語ります。 その様子をなんとなく面白がりながら真似しようとして瑛太クンに話を伝えようとする大竹サン。
 ここ笑っちゃいましたが、亜季チャンが喜んでいた、という記憶が、大竹サンを面白がらせちゃうんだと思うんですよ。
 同様に、夫だった柄本サンの話をするときの大竹サンも、とてもうれしそうなのです。
 「もともと骨壷みたいな顔だったじゃない」 とか(笑)、最初のデートで書道展、あり得ない、とか(笑)。

 その柄本サンの最期、文哉を探そうとしていた、という様子を瑛太クンから聞き、それまで亜季チャンの写真を全部燃やしてしまうという暴挙に心を閉ざしたままだった夫の骨壷に向かって、「御苦労さまでした…」 とねぎらう大竹サン。
 瑛太クンはこのとき、父親の気持ちにリンクしているような気が、私にはしました。 いわれのない一体感。 その一体感が、瑛太クンをこのあとの行動に駆り立てている。

 瑛太クンはその後、満島チャンから父親の時任サンの話を聞きます。
 時任サンは文哉に一度偶然遭っていたのですが、事件当時生まれてなかった福田麻由子チャンをはじめとする家族のことを考えて、声をかけられなかった、うちに引き戻すことができなかったらしい。
 時任サンにとってそれは家族を守るために、自分の息子を捨てたのだ、という、父親としての、家長としての紛れもない意志だった。
 けれども満島チャンもそのことに反駁したように、瑛太クンにも、時任サンが事件から逃げている、フタをしようとしている、というように映ったようです。
 満島チャンは被害者家族に何回か会おうとしたがダメだった、と語る父親に、何回じゃなくて何十回、何百回と会おうとしなければダメなんじゃないのか?と反駁していた。

 時任サンがそのことから逃げてしまったのは、家族の幸せを壊したくない、という思いからですが、それを象徴していたのは、福田麻由子チャンが作っていたカレーライス。
 カレーライスなんて、いちばん基本的な家庭料理のひとつです。
 誰にでも安価で作れる。
 それまで羽振りのよかった時任サンにとってみれば、「なんだこんなの、料理じゃない」 みたいに蔑んでしまいそうな、庶民的料理。
 それが、事件後の時任サンにとって、いちばん壊したくなかった幸せの象徴になっている。
 時任サンが被害者家族に対して積極的になりきれてなかったことが、このカレーライスひとつで、とても共感できるのです。

 瑛太クンはしかし、そんな時任サンに対して、何らかの行動を起こしたくなってくる。
 彼は時任サンの仕事用のワンボックスカーに文哉が置いていったと思われる日向夏(果物の名前、分かりました~…笑)を置いて、彼を事件当時の自分の住居跡へと向かわせます。
 ここで時任サンは、草ぼうぼうの住居跡で、何かを探そうとしていた。
 いったい何を探していたのかとても気になりますが、そこに現れたのが、瑛太クン。

 事件当時のその場所からほど近い喫茶店で、ふたりはおそらく初めて、きちんと向き合います。
 時任サンの言葉の端々にいちいち突っかかる瑛太クン。 当然です。
 瑛太クンの知りたいことはただひとつ。
 「なぜ亜季は殺されなければいけなかったのか?」

 なんとなく臆病な時任サンの反応に、瑛太クンの語調は、次第に荒くなっていきます。
 そんなとき、事件当時の近所の知り合いだったおばさんが、ふたりの会話に割って入ってきてしまう。

 おばさんは瑛太クンの怒りを通り越して、時任サンを激しく責め立てます。
 その話から、時任サンが昔エラソーな人だったというのは、周知の事実だったことが分かります。
 瑛太クンはその怒りのすごさに却って我に返ってしまい、おばさんを止めに入る。
 そのとき時任サンは、意を決してその場で土下座します。
 「やめてください」
 瑛太クンは時任サンの前にしゃがんで、まるで父親が以前に侮辱された仕返しみたいな感じで、冷たく言い放つのです。

 事件のあった町の商店街を歩きながら、瑛太クンは時任サンに、お宅の息子、殺してもいいですか?と切り出します。
 土下座されたくらいでは収まらない被害者家族の怒りが、物静かに時任サンを狼狽させる。

 「あのう…。
 文哉、殺してもいいですか?
 まあ、どこにいるか分かんないし仕事あるしマンガも読みますけど(?…笑)たぶん、殺す時が来たら、たぶん殺すと思います。 あなたが文哉捜す気ないみたいだし。

 僕の死んだ父は、ちょっとダメなところのある父でしたけど、でも最後はなんていうか、覚悟してました。

 たぶん、どう生きるか、ずっと考えてて、どう死ぬかずっと考えてて、最後は覚悟しました。
 すごく悲しいこととか、恐ろしいこととか理不尽なこととか…そんな逃げ出したくなるようなことと、最後は向き合う覚悟をしました。

 僕は、そんな父を、最後の最後に尊敬しました…」

 家族を大切にしようとして、目の前の問題にあえて触れようとしない心。
 真実を探ろうとして、不幸をあえて飲み込もうとする覚悟。
 どちらが正しい、ということは、一概には言えない気がします。
 ただし被害者家族の知りたい気持ちから、加害者家族は、逃げることはできない、そんな気もするのです。

 時任サンは、自分の息子を探して、一緒に住むと決意します。
 それを風吹ジュンサンや福田麻由子チャンの前で話そうとするのですが、そこで作られようとしていた料理が、カレーライス。
 幸せの象徴でもあるカレーライスを守ろうとするためか、風吹サンは頑強にその考えを拒絶しようとします。
 でも麻由子チャンは、「家族なんだから、受け入れてもいい」、という考えです。
 おそらく麻由子チャンの意識的には、そんなにそれが大変なことだとは、考えていない。
 「家族は大事」、というちょっとした浅い道徳観で、受け入れてもいいとしている気がします。

 けれども風吹サンが頑強に拒むのには、それ以上の理由があった。

 文哉は、自分の産んだ子供ではない、というのです。
 「それって、…じゃアタシは?」 という疑念が、満島チャンのなかで当然湧き起こります。

 泣き崩れる風吹サン。

 それを見て、すべてを悟ったように、何もなかったことを無理に装おうとします。

 「あっ、違う違う。 いいよいいよ」

 カレーを運ぶ会話に没頭しようとする満島チャンのこのセリフ、「今のことは聞かなかったことにするから」、というダブルミーニングでもある。

 「参っちったな、へへっ。

 あ、火、点けなきゃ」

 彼女はそのあと家からいなくなります。
 娘を探しに飛び出す時任サン。
 そのとき彼女は、道端で、小さいころから再び長い間することのなかった、野茂選手の投球フォームのマネをしています。

 「野茂できた」

 あまりにショックなことがあると、それを箱のなかに、閉じ込めてしまう。
 彼女のひょうひょうとした、人を食ったような態度は、加害者家族っぽくない、ということでは、ないのです。
 ひょうひょうと、悲しみを、ショックを、受け流さなければ、生きてゆけないのです。

 当の文哉は、自分の過去を知る安藤サクラサンを軽トラに乗せている。 荷台には、スコップ。
 折しも瑛太クンが連絡を取ろうとしていた、当時の看護師の知り合いの看護師。
 行方不明になっているらしい。
 これって文哉が、自分の意に沿わない人間を、次々殺してまわっている、ということなのか?

 満島チャンの幼いころの兄の記憶が、蘇ります。

 「お兄ちゃんと双葉は同じだよ。 夜を見たんだ。

 同じ夜を見たんだ」

 そこにはどんな闇が、広がっていたのでしょうか。

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