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2011年10月

2011年10月29日 (土)

「ランナウェイ~愛する君のために」 善と悪の居場所

 脱獄ドラマ、「ランナウェイ~愛する君のために」。

 まず題材が脱獄、逃走劇、という時点で背徳の匂いがぷんぷんして、良識のあるかたがたは敬遠される内容のように思われます。 なんかタイトルもダサいんだよなあ(特に副題)。
 ただ私の場合、昔のアメリカドラマ 「逃亡者」 の遠ーい思い出が懐かしくて(ほぼストーリーの記憶なし、なんですが)「今さら脱獄劇をやろうとするドラマスタッフの気概、というものはどんなものか」 という動機で、ちょっと見てみようかな、と思いました。

 さしずめ逃亡者のリチャード・キンブル(映画版じゃハリソン・フォード)は市原隼人クン、追いかけるフィリップ・ジェラード警部(映画では地球調査員・宇宙人ジョーンズ、じゃなかった、トミー・リー・ジョーンズ)は嶋田久作サン、と言ったところでしょうか。 フィリップつながりで(なんやソレ)「仮面ライダーW」 のフィリップクン(菅田将暉クン)が脱獄犯の一員(運び屋で投獄)で出ています(カンケーないって)。

 初回2時間の長丁場を見ての感想を申し上げれば、「設定その他展開はかなり強引だが、熱い思いは伝わってくる」「結構あっという間だった」。

 こういうのは、昔からある 「スクール・ウォーズ」 とか最近の 「ROOKIES」 とかのヤンキー絡みの系統と言っていい気がしますが、「若者の勢いを体感するドラマ」、としてひとつのジャンルなような気がする。
 そんなヤンキー系のカテゴリーで 「逃亡者」 をやるとこうなる、という感じ。
 追いつ追われつのスピードに、あり得なさすぎと思いながらもその疾走感に身をゆだねる。
 感覚的に 「ダイ・ハード」 でも見ているときのような 「鑑賞上ある種の理屈をわきに置いちゃう」 という態度が必要なのかもしれないです。

 逃走メンバーは市原クンを中心として、「運び屋」 としてハメられた菅田クン、「テンペスト」 での高級官僚からガラッと変わって、暴力団から足を洗おうとしてほかの組員の殺人の身代わりで刑務所に入った塚本高史サン、ホストで客の踏み倒した借金絡みで(ちょっと不注意でよく罪名が飲み込めてないのですが)覚せい剤使用を押し着せられて刑務所入りしたKAT-TUNの上田竜也クン。
 市原クンも恋人の不可抗力による殺人の身代わりをしているし、4人とも、本当は自分が罪を犯してない、もしくは同情される余地があるという点で、共通しています。
 これが見ている者の4人に対する心情を、共感させる方向に導いている。

 その市原クンの恋人役に福田沙紀チャン。
 「IS」 でのイケパラ役(?)から一転して、刑務所入りした市原クンを健気に待ち続ける役です。 この子は主役級より、こういうポジションのほうが合ってる気がする。
 そのふたりの間に生まれた女の子が、篠川桃音チャン。 「ゲゲゲの女房」 での、何代目かの藍子チャン役で、「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム」 って踊っていた、あの純朴な演技をしていた女の子です。 近頃の子役は 「すごい」 演技をする子が多いのですが、この子の演技はあくまで癒し系。 こーゆーフツーなのが、お父さんはいいですなあ。

 で、彼らは脱獄後、菅田クンが運び屋として全国に隠した合計2億円をまず回収しよう、という目的で動こうとする、のですが、なかなか動けない。
 そこで市原クンたちの逃亡を手助けする重要な役割を演じるのが、熊田聖亜チャンという女の子。
 市原クンたちが逃亡中偶然入り込んだ家で虐待を受けていたため、母親と内縁の夫(ガチだな…笑)から逃げて東京の父親のもとに行こうとする、ちょっとハスッパなしゃべりをする女の子です。
 この子の演技がまたすごいんだな。
 ハスッパなのはちょっと気になるけど、今どきの子役ってどうしてこうも演技がすごいのが多いのか。
 これね。
 世の中不景気で、親が子供を道具に使ってる感じがして、ならないんですよ。 その傾向の表れなんじゃないかって。 親の必死さが、子役たちの演技のすごさに直結している感覚。

 ともかく市原クンは娘の桃音チャンがあと3カ月の命、ということを知り、脱獄を決意する。 ほかの3人も、それぞれ割の合わない刑に服役していることを、なんとかしようと思って、脱獄する。

 まあ、話的にはいかにもあり得ないことが多過ぎるのですが、もともと脱獄をする、という時点であり得ないドラマ(笑)。 多少のことには目をつぶる用意が、こちらには出来ています(笑)。

 ただその 「あり得ないこと」 を挙げれば。

 刑務囚の竜雷太サンが彼らの脱獄を最初指導し、すんでのところで自分を犠牲にして4人を逃がすのですが、まずその方法からして荒唐無稽。 でもこのくらいあり得ないと、実際に囚人たちはみんなこぞって脱獄しそーな気もするし(笑)。 脱獄指南になってない、という点では反社会性のそしりをすりぬけている。
 そして上田クンが、「脱獄なう」 とか、ツイッターをしまくるんですよ。 足がつくだろっ(笑)。 こういうマヌケなことをよくするよ、つーか。 でもそれで上田クンの、チャラ男のあぶなっかしさ演出しているし。
 そして九州を脱出するとき、検問をすりぬけるために熊田聖亜チャンが一芝居打つのですが、これもあそこまで市原クンがキョドってしまったら、いくら温厚な警官でも、見逃すはずはない、と感じます。
 まあ、そこらへんのことは、みんな不問です。

 で、そのあり得なさを前提にして見ていると、不思議と4人を応援したくなってくる。

 それはこのドラマに流れる、「本当に悪い奴って誰なのか、本当にいい奴って誰なのか」 という問題提起の論調が、見ている側につねに突き付けられているからです。

 それをはからずもあぶり出していた出来事が、彼らが脱獄の際に刑務所慰問をしていたギター侍、波田陽区クンのギャグだった気がする。

 脱獄の争乱のなかで、一方的に刑務官から 「今日は中止」 と言い渡された波田クン、「まだ終わってないですよ」 と言ったら 「うるさい一発屋!」 とそのコワモテ刑務官から一喝され、怒りを込めて歌い出す。

 「♪けーいーむかんはいっつも、マジメな顔して働きます、ってい~んじゃな~い?
 でもこの刑務官の顔がいちばん、犯罪者みたいですから~~~っ! 残念!」

 大笑いしました。
 久しぶりに 「残念!」 で笑ったぞ(ああそれ…)。

 そのほかにも、熊田聖亜チャンを虐待していた内縁の夫(ガチ)、彼はいたいけな女の子に暴力をふるい煙草の火を押し付け、その時点でもう人間じゃねえ、という感じですが、さらに自分で拘束を解いて反撃しようとするもあっけなく返り討ちにされて、かなり卑屈に命乞いする。
 人間じゃないうえに、誇りすらない。
 なんなんだよ。
 動物ですらない。

 こういうロクでもない刑務官とか虐待男とか見ていると、やってることは違法だけれども、市原クンたちのほうがよほどまともだ、という気がしてくる。
 善と悪の居場所が、齟齬をきたしているこの違和感。
 このドラマの吸引力は、そこにあります。

 第1回終盤、九州脱出を前にして、彼らは途方に暮れてしまいます。
 そのとき、市原クンは絶対にあきらめない、とみんなに訴える。

 「オレはあきらめない。
 助けるんだ。娘を。
 一度も抱っこしたことがない。
 手を握ったことも。
 まだ、五つなのに。
 心臓病で、手術しなきゃ、あと3カ月の命だって言われている…。
 あと1年我慢すれば、親子3人、仲良く暮らせるはずだったのに…。

 オレだってホントは迷ってる。
 脱獄なんかしてホントに良かったのかって。
 だけど、オレが行かなきゃ娘は助からないんだ…。
 どうしても助けたいんだ…!
 なにがなんでも助けたい…!
 助けたい…。

 だから、オレはあきらめない。
 なにがなんでも、娘を助ける。
 人にどう思われようが関係ない。
 娘が助かるなら、なんだってする…!」

 泣き叫ぶようなこのセリフの、あまりの強引さ。
 そしてそれを感動に結びつける、あまりの強引さ。
 このドラマは、その強引さですべてを、見ている側に、納得させるのです。

 なにがベストなのかは分からない。
 でも思いだけは負けない。

 とりあえず市原クンの目的は、菅田クンが隠している、というその2億円の山分け分です。 それがあれば娘の手術への足がかりが開ける。
 その金にしたって、菅田クンの話をどこまで信用していいのか、まったく不透明、このうえない話であります。 どこでどう事情が変わっているかもしれない。
 でも一切のモヤモヤは吹き飛ばして、いくしかない。
 このドラマはそのパワーだけで、すべてを押し切ろうとしている。

 そして市原クンはとりあえず、竜雷太サンの頼みごとを叶えるために、娘の井上和香サンのもとへと向かう。
 井上サンはもう、事件を起こして服役なんかしている父親なんか完全に見限っているのですが、市原クンが持ってきた、父親のお守りの中に入っていた、自分が小さいころに描いた父親の絵を見て、父親と和解するのです(かなり話をはしょってますけど)。

 市原クンの熱い思いが、完全に崩壊していた親子関係を、ひとつ修復することが出来た。
 彼らの脱獄に、ひとつの成果が生まれたのです。
 ここは泣けましたね。

 そして市原クンのことを見守ろうとしている、元刑事役の渡哲也サン。

 この渡サンの存在感って言ったら。

 渡サンが見たくて、次回も見ちゃいそうであります。

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「カーネーション」 第4週 人は、品格と誇りを持てて初めて、夢や希望も持てるようになる

 このドラマ、先が読める展開、というものをわざと作っているような気がします。

 たとえば今週、糸子(尾野真千子サン)にとって運命の出会いとなるべき洋装のキャリア・ウーマン、根岸良子(財前直見サン)の登場に際して。
 彼女はミシンの実演販売をするために小原呉服店のそばにある木之元電キ店にやってくるのですが、未来からやって来たかのようなその登場の段階ですでに、この女性に糸子は飛びつかんばかりになるだろう、というのが見えて仕方ない。

 けれども糸子は不況のため桝谷パッチ店をクビになって職探し中。 その場になかなか現れません。

 ようやく糸子が、疲れた足を引きずって帰ってきたのが、実演販売が終わるほんの15分前。

 木之元電キ店の人ごみに気付いた糸子。
 見ている側はもう、「早よ!早よ!」 とたまらなくなる(笑)。
 そして人ごみをかき分けていく糸子、ミシンと、それを華麗に使いこなす根岸に、案の定、目がくぎ付けになるのです。

 この快感。

 そして糸子の父善作(小林薫サン)が、「娘に洋裁を教えたってや」、と頼みに根岸のいる心斎橋を訪ねるシーン。
 ここでも善作の考えていることは、見る側におおよそ見当がついている。 桝谷パッチ店の大将(トミーズ雅サン)から糸子の才覚について褒めちぎられている伏線があるからです。
 作り手はそれを見越しているかのように見る側をじらし続け、善作が土下座に至るまでのシーンの効果を、最大限にまで膨らませている気がするのです。

 さらに。

 善作が土下座のすえ小原呉服店まで連れてきた根岸の存在もまた、見ている側はもうすでにお見通しの状態。
 根岸は 「謡(うたい)が習いたい」 と今週冒頭の段階から希望しており、善作はその、謡の教室を開いている。 糸子が帰ってきて2階から謡が聞こえている、という時点で、見る側はもう、分かっちゃってるわけですよ。 善作が根岸を連れてきたんだな、というのが。

 そのときの糸子は、幼なじみの勘助(尾上寛之サン)が工場をクビになったことを聞き及んで、自分と同じや、と思い冷やかしに行ったらもうすでに和菓子屋に再就職していた、と知って面白くない(笑)。 ふてくされた表情のまま家に帰ってくると、母の千代(麻生祐未サン)もボケ気味で(笑)なかなか根岸が来ていることを切り出さないから、見ている側はもう、やきもきしてくる(笑)。

 そしてようやく、根岸が洋裁を教えに来てくれた、という事実が発覚したときの、糸子の喜びよう!

 この 「先が読めてしまう展開をわざと作っている感覚」。

 これって、「歌舞伎」 に似てるんじゃないかって。

 歌舞伎の表現手法でも、物語世界にある一定のパターンというものがあって、観客はその先がどうなるのか、ある程度分かる作りになっている。
 だから観客は必要以上に展開にやきもきし、そして事態がようやく成就した時点で、役者は目をむいて見得を切り、観客たちはそのカタルシスと引き換えに熱狂し、「○○屋!」 と声援を送りたくなるのです。

 糸子がミシンと根岸に釘付けになるのも、善作が腹をくくって土下座するのも、すべて歌舞伎役者が舞台で見得を切るのと、同様の効果をあげているように思えるんですよ。
 ドラマの観客は、熱狂するしか、なくなるわけです。

 私がそう感じたのは、今週の話のなかで、さりげなく(でもないか)歌舞伎役者がドラマに登場していたからです。

 蛇足になりますが、この歌舞伎の色男を演じた、小泉孝太郎クン。
 私は関西人じゃないですけど、彼の関西弁、あまりうまくないように思えた。

 けどそれも、東京人の根岸にも色目を使うプレイボーイの、中途半端な東京へのあこがれがそうしたんだ、みたいに感じます(考えすぎか?…笑)。 つまり関西弁の中途半端さも、計算ずくのような感じ(よく取り過ぎかな)。
 しかも昭和初期のチャラ男、という点で、どっかの歌舞伎役者を揶揄してるような意地悪な感想も導き出される(ハハ…)。

 彼は吉田奈津(栗山千明サン)を食い物にしようとしていたわけですが(笑)それを知っていた糸子は、のちに小泉クンをガン睨みしてビビらせる(爆)。
 それにしてもこの、吉田奈津が小泉クンとデートしていたとき、目の覚めるような洋装だったことも、のちの糸子の洋装シーンの伏線になっている。 吉田奈津への対抗意識も、糸子に洋装を決意させた小さな小さな導火線になっているって、思えてきませんかね?

 で、今週のあらすじですが(これから本題かよ)。

 不況のために桝谷パッチ店をクビになってしまった糸子。 要するに昭和の世界大恐慌のあおり、なんですが。
 しかし話は全く暗い方向に傾きません(笑)。
 おとうちゃんからは 「お前を働かせたのは、実はうちがお金に困っているからだった、お前のおかげで妹たちが女学校に行けてる、だから早く新しい職を見つけ」 とミもフタもない事実を打ち明けられ(爆)、糸子を励ましに来た桝谷パッチ店の職人山口(中村大輝サン)からは 「オレよりお前のほうが仕事できんのにお前が首になったんは、お前が女だからじゃ」 とワケの分からん励まし方をされたり(笑)、その山口との仲をおかあちゃんには要らん詮索されるし(爆)、糸子はブンむくれの連続なんですが、こっちは爆笑の連続で。

 呉服屋のために作っていた作務衣風アッパッパも夏が過ぎれば売れなくなると考えた糸子、ますます気ばかりが焦っていきます(rabi様、ここでした…笑)。

 そんななか、ヒールの音をさせながら(舗装されてないのでそれなりに、ですが)、根岸良子が登場。 その派手な洋装に、前時代の人々は子供も大人もビックリ。
 顔見せ興行ですな。
 この、いかにも的な登場の仕方も、歌舞伎的に思える。
 もう糸子の運命は、この女性によって決まったも同然、と思える。

 ここで木之元(甲本雅裕サン)についてきた善作が、根岸良子と簡単な会話をするのですが、それで今週の話の形はほぼ決定してしまっている。

 職を見つけられずとぼとぼと帰って来た糸子は、聞きなれたミシンのカタカタいう音が、人だかりの向こうからしているのに気付き、人混みをかき分け、岸にたどり着いた小船のような笑顔を見せる。
 うーん、絶対何かが始まる…。

 糸子はもう、就職活動そっちのけで、根岸のいるスティンガーミシンのミシン教室に通い詰めるようになります。

 蛇足ですがこの 「スティンガーミシン」、「シンガーミシン」 のことなんでしょうけど、「スティンガー」 というのが針、という意味なので、なかなか洒落た改名になってますよね。

 けれどもせっかく通い始めたミシン教室、ミシンを買った人しかミシンに触らせてもらえず、まずミシンの使い方を覚える、という初歩的なものでしかない。
 パッチ屋で3年もの間ミシンを使いこなしてきた糸子にとってこれは、まるで子供だましを見ているような感覚。
 早く自分がミシンなど使いこなせるところを見せつけてやりたい、そしてこんな初歩的なことなんかより、もっと難しいことを教えてほしい。
 そんな糸子の気分と、見ている側は同化してしまう。
 ここでも 「見る側をやきもきさせる」、という効果が表れている気がします。

 ただ根岸の側からすれば、商売のためにやっているのですから、これはもういたし方のないことで。

 心斎橋で偶然遭ったおばあちゃん、貞子(十朱幸代サン)に 「ミシンくらい買うちゃる」 と言われ、糸子は意を決して、お父ちゃんにすべてを話して許しを得ようとします。
 しかし帰ってくるなり糸子のその様子はハルおばあちゃん(正司照枝サン)に筒抜けで(爆)、「機嫌が悪いからあとにしとき!」 と言われるけれども 「機嫌のええ時なんかないやん!」 とツッコむ糸子(爆×2)。

 「親に隠れて、なに、コソコソやっとるんじゃお前はーーっ! ワシをコケにしくさって! ナメとるのかこのボケがああーーっ!」

 だんじり男、大爆発であります(笑)。

 けれどもその晩、寝床でしくしく、糸子の泣く声が、いつまでたっても善作の耳から離れません。

 このくだりも、実は善作にとって大きな心変わりのきっかけとなっている気がいたします。

 絶望のなか、またやってくる、だんじりの季節。

 自分の悩みなんかちっぽけなものなんだ、と糸子が気分をリセットするための、大きなきっかけとなっているこの祭り。

 泰蔵(須賀貴匡サン)も大工方を卒業して、毎年のだんじり祭りは、過ぎゆく年を見送っていきます。
 大人になっていく糸子。
 悲しみだって、確実に大人サイズになって、人生の前に立ちふさがっているはずなのに。

 そんななか、善作は桝谷パッチ店の大将と出会います。
 ここ、注意深く見てたんですけど、どうも初対面、という感じがしない。
 先週 「もしかしてパッチ店に勤めるとき、善作は大将に糸子を厳しく鍛えてくれと頼んだかもしれない」 と書いたのですが、どうもこの場面を見ているだけでは、判然としません。
 ともあれ大将は、善作に糸子のことを、こう話すのです。

 「わしがこんなこと言えた義理ちゃいまんねんけど、糸ちゃんみたいな娘がいてたら、ごっつい羨ましいですわ。

 あら女にしとくのはもったいない。
 腕もある。 頭もある。 先も読める。

 糸ちゃんがわしの娘やったら、さっさと店、任せますわ」

 善作は、木之元を強引にねじ伏せて(笑)、心斎橋の根岸のいる店にまで案内させます。
 そして喫茶店で生まれて初めてのコーヒーを飲み、時代の移り変わりをここでも感じ取った善作は、待ち合わせてやってきた根岸に、「うちの娘に洋裁を教えてやってくれ」 と頼み込むのです。

 「情けない話、呉服屋ちゅう商売はもう、先ありませんわ。

 世間の言う通りこれからは、洋服の時代です。

 糸子はゆうたら、行き当たりばったりの、勢いと、馬力だけの娘です。

 せやけど、洋服作りたいちゅうのだけは、あれが10(とお)の歳から、1日として変わりません。

 ミシンかて、覚えたい一心で、パッチ屋に勤めて3年、きっちり、一人前になりよった。

 正直、呉服屋の主人としては、意地張りたいこともあります。

 けど、もうそろそろ、降参ですわ。

 これからわしは、あいつの、洋服作るっちゅう夢を、助ける側に回らなあかん、と思うようになりました。

 せやけど、岸和田にも心斎橋にも、先生のようなかたはおらん。

 いや、おったら、とうの昔に糸子が飛びついちゃるはずです。

 どないしても、先生やないと教われんことがある。

 あいつはあいつなりに思とるんです。

 親としてあいつにできることはひとつ。

 家財一式売り払うてでも、先生の教えを、あいつに与えちゃる。

 それですわ…。 いや、それしかないんですわ、先生!」

 椅子から立ち上がり、床に座り込む善作。

 土下座をしようとする善作を、根岸は慌てて遮ります。

 根岸は謡を教わることを交換条件に、糸子に洋裁を教えることになったのですが、その事実は先にも述べたように、呉服屋の2階から謡が聞こえてくるまで分かりません。
 でも善作が酔っぱらって帰ってきたことなどから、もう見ている側にはそれがスケスケに透けて見える(なんか書き方がヤラシイぞ)。

 そして大きな喜びのなか、糸子は根岸から個人教授を受けることになるのですが、その第一歩が、糸子自身が洋服を着てみて、ヒールのある靴を履いて、通りを歩くことなのです。

 これは実に、こちらをはっとさせる話だったように感じます。

 当時は和装があまりにも一般的。 洋装なんて、今の感覚でいえば、へそ出しルックで水着みたいなかっこうで、歩くくらいのインパクトですかね(よう分からん…笑)。
 そして洋服を作りたいと言っても、当の糸子が洋服を着てみないことには、その感覚が分からない。 アッパッパをいくら縫っても、糸子がそれを着ているのを見たことないし。

 胴長短足に見える、と、実際に洋服を着てみてかなりがっかりする糸子なのですが、それはウエストの位置が下すぎるせい。 現代人が見ればその原因が一目で分かることも、糸子にはにわかに分からないのです。
 これには 「ああ、この話は昭和初期の話なんだなあ」、というのをあらためて気付かされた、というか。

 そして実際に、洋服と靴で通りに出た糸子。 かなり恥ずかしがります。

 「先生…どんな顔して歩いたらええか分かりません…」

 「あなたの好きな花は何?」

 「花ですか? …カーネーションです」

 「どうして?」

 「『あの花は、根性ある』 ておばあちゃんが」

 「根性?」

 「『ほかの洋花と違うて、カーネーションは、簡単にしおれへん。

 カビ生えるまで咲いてる』 て、感心してました」

 「(笑って)まあいいわ。 カーネーションね。 じゃあ、カーネーションになったつもりで歩くの」

 「カーネーションですか?」

 「そう。

 カーネーションの花、堂々と咲いているでしょ?」

 「堂々と…」

 「恥ずかしがって咲かないカーネーション、見たことある?」

 「そらないですけど…」

 「ただ無心に咲く。 それでいいの」

 「(力なく)はぁ…」

 「(立ち止まり糸子のほうを向き)糸子さん!

 私はいま、あなたにいちばん大切なことを教えてるの!

 …堂々としなさい。

 洋服を着て、胸を張って歩くということを、あなたの使命だと思いなさい」

 言葉を飲み込み、ゆっくりとうなずく糸子。

 決意のまなざしを、前へと向けるのです。

 「洋服を着て、胸を張って歩く心斎橋は、全然ちゃう街みたいに思えました。

 まず、今まで目の合うたことのない人らと目が合います。
 それから、やたらと鏡が気になります。
 それから、よう人に話しかけられます。

 それから…(喫茶店に入り、ぐったりする糸子)…くたびれます」

 気疲れがするという糸子に、根岸先生は 「そりゃ時代の先頭で旗を振って歩いているようなもんだもの、私だって緊張してるのよ」 と答えます。
 へそ出しルックで歩いてるギャルたちにその意識があるかどうかは分かりませんが(爆)、当時は洋服やら、もう奇抜以外のなにものでもない。 その反骨精神というか、開拓者としての気概は、今の比ではなかったと思うのです。

 そして人に見られている、というその緊張感が、女をさらに、美しくしていく。

 男の私にはあまりない視点、ですかね。

 女が女として生きていくために、おしゃれというものはとても必要不可欠なんだなあ、なんて、男の私はぼんやり考えるだけです(ハハ…)。

 「本当にいい洋服は、着る人に品格と誇りを与えてくれる。
 人は、品格と誇りを持てて初めて、夢や希望も、持てるようになる…いい? あなたが志している仕事には、そんな大切な役割があるのよ…」

 この根岸先生の言葉、糸子の未来をずっと見守ってくれる言葉のように感じました。
 そして糸子というグライダーが飛び続けるための、カタパルトのような言葉だと、思いました。

 それでも。

 その直後に偶然出会った泰蔵に、糸子はやっぱり恥ずかしがって、根岸先生の影に隠れてしまう。
 いくら結婚したとはいえ、まだ糸子は泰蔵にあこがれていたのです。 妻の八重子(田丸麻紀サン)と懇意にしているのも、ただファッション情報だけが目的ではないようです。
 根岸先生は素早くそれを察知し、糸子を前へと押しやる。
 糸子は躊躇するのですが、意を決して、泰蔵の前を堂々と通り過ぎ、会釈をしていくのです。
 あっけにとられたような、見とれたような、泰蔵の表情。
 それは糸子が、幼い日のあこがれから旅立った瞬間のように、私には思えました。

 そして時間的に余裕のない厳しい訓練が数日続き、ハルおばあちゃんの根岸先生への誤解も解け、最後の晩には木之元や勘助らも交えて、にぎやかな晩餐が開かれます。
 その翌日、根岸先生を見送る糸子。

 「頑張りなさい」

 「はい…」 涙ぐむ糸子。

 「さようなら」

 車に乗り込む根岸先生。

 「さいなら…」

 走り出す車。

 「さいなら…!

 根岸先生、ありがとうございました!…」

 すごくシンプルな別れの場面なのに、なんか泣けて仕方がなかった。

 どうしてだろう。

 おそらく、根岸先生が小原家に滞在していた数日間は、小原家や周辺の人たちにとっても、だんじり祭りと同じような感覚だったのではないかな、と考えてます。
 カツレツを作るのに八重子が呼ばれたり、普段機嫌のいいことがないおとうちゃんがにぎやかだったり。
 糸子にとっては、東京に行かなければよう教わることのできない貴重なレクチャーを、受けたわけですし。
 いわゆる糸子たちにとって、これは祭りと同じ、非日常の出来事だったのです。
 それが終わってしまうことへの寂寞とした思い。
 それが私を泣かせる原因だと、個人的には感じるのです。

 そして根岸先生が帰った小原家は、やはり火が消えたようになる。

 善作はその寂しさを紛らわせるためか、木之元電キ店から中古のラジオを購入します。
 そのラジオが、小原家の全員を癒してくれる、かなり強力な道具となる。
 ただ糸子は、一般的ではない洋服をここ岸和田で作ることの限界にすぐさまブチ当たり、おとうちゃんのアイディアだった冬用のアッパッパの売れ行きも芳しくなく、ラジオから流れる 「もろびとこぞりて」 の 「主は来ませり」 を 「どないかせな~どないかせな~」 と替え歌で歌う始末(爆)。 この主人公のモデルとなった人はクリスチャンだったらしいですが、まだ洗礼は受けとらんみたいです(笑)。

 そのラジオから流れてきた、デパート火災のニュース。

 いわゆる白木屋デパート火事のニュースです。

 この惨事で和服から洋服への変革がなされていくというのは、まあ年の功だからか知ってましたが、「これがチャンスだ」「うちと同じことを考えている人がほかにいませんように」 と色めき立つ糸子。 「簡単にしおれない」 カーネーションの、本領発揮です。

 そしてこちらも週のラストで、またじりじりしして来週を迎えそうです。

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2011年10月26日 (水)

「南極大陸」 第2回 感動の押し売り…?

 ドラマは南極へ向かう観測船 「宗谷」 の過酷な航海編。
 いきなり船体がドバシャーンと傾くので、隊員たちは防御のしようがない(笑)。
 いきなり天候の変化に見舞われた、ということですが、こんなことが本当にあるのか?と思ってネットをいろいろ見てまわりましたら、どうも実際にあるらしい?(ネット情報だから不確実)。
 隊員同士のいざこざも船体の一部が破損して海水流入も、実際にあったことらしい。
 だからこのことに関して、見ているときは 「ウソっぽい」 とか思ったのですが、まああったんなら仕方がない、ということにしときます(…なんだ、生意気だぞこの書き方)。

 しかしですよ。

 実際にあったこととはいえ、もうちょっと説得力は出せないものなのかな、という気は、するんですよ。
 いきなりみんな投げ出されるような大波に遭遇して投げ出されたら、隊員たちに 「こんないきなり来るもんなのかよ…」「びっくりしたなもう」「冗談言ってる場合か」 と言わせるとか(三波伸介サンの流行語はこの時点では流行ってなかったかな…笑)。

 それと番組冒頭じゃ、なんかことさら画面を揺らしてるし。 「♪ここは船酔い避けられぬぅぅ~宗谷の中で~ございますぅぅ~」 みたいな(笑)。
 なんか、わざとらしいんだよなあ。

 この、「わざとらしさ」 というものが、どうにも見ていて抜けきれない。

 暴風にあって船内は大パニックなんですが、「すげえなあコレ、撮影大変だったろうなァ」 とは思うけれど、「ここまでハッチャカメッチャカになるもんなんだろうか」 と思ってしまう。

 そして大ピンチになるときまってその場所に駆けつける、木村拓哉クン。
 こういうことするから、アンチ木村クンファンの格好の餌食になってしまうんですよ。 「キムタクのためのドラマか」、って。
 ここは木村クンが助ける、ここはほかの誰かがどうにかする、みたいな役割分担があってもいい。 そのほうがリアルでしょ。

 しかも隊員たちが地獄を見ているその最中、通信員の妻は分娩室で出産の激痛と闘ってるし。 そんなタイミングよく、夫婦で闘うか?みたいな。

 つまり、こちらを感動させよう感動させよう、というのが、透けて見えるんですよ。 失礼ながら。
 そしてもしそれが本当のことならば、どうしてもっと、説得力を持たせないのか、という気になってくる。

 しかしですよ。

 そんな感覚で見てたら、ちっとも楽しめないじゃないですか(笑)。
 だからある程度の疑問点や木村クンの違和感などはかなぐり捨てて、見る以上は見るしかないのです。

 そしてそのモヤモヤを振り払った末に見えてくるのは、「どうして男たちは、ここまで南極観測に命を賭けようとするのか」、ということなのです。 しかも好きこのんで越冬までしようとする。

 まあ未知なる大陸に思いを馳せるのは男のロマンだ、と言われりゃそこまでの話なんですが。

 まずドラマ内で説明されていたのは、寺島進サンが言っていた、「働く期間が長くなりゃ給金も上がるだろう」 という発想。 これはいかにも現代人にもよく分かる発想です。
 そして 「無理だ」 と決めつけられることに対する反駁。
 これは、「無理なことはなるたけしない」 という温室的な育ち方をしている現代人にとって、理解し難い思考であることは確かです。
 現代人は、あらゆる意味で、安全な道を選ぼうとする。
 お金が貯まりゃ貯蓄しようとするのが当たり前で、老後が心配だからいろいろ今のうちに手を打っておこうとする。
 会社経営にしたって、社員なんか雇ったら負担が大き過ぎるから派遣や臨時で賄おうとする。 サービス残業をさせてまで、利益を確保しようとセコイマネをする。 海外に生産拠点を置いて経費を節減しようとする。 競争に敗れたら傷の浅いうちにすぐさま撤退する。 何でもかんでも安全牌ですよ。 会社経営なんて。

 でもあの時代、戦争で何もかもを失って間もなくだったからこそ、人は自らの人生を100かゼロかに賭ける気概(悪く言えばヤケッパチ)に満ちていた。
 そのなかで男たちは、自分の夢に生きる人生を選び、そして家庭を持つ者は夫として、父としての自覚を胸に、無理難題に挑もうとするのです。

 そんな男たちが 「無理だ」 と言われたら、ますます燃え上がるのに決まっとるじゃないですか。

 今回その、男たちのモチベーション(動機)をもっともよくあらわしていたのは、越冬隊結成を渋っていた柴田恭兵サンが、いざ南極大陸を目の前に見たときに、「おおおおおーーーっ!!」 と突き上げてくる叫びを、押さえられなかった部分であります。

 すべてはやはり、この感動のため、なのです。 男たちにとっては。

 そしてもうひとつ個人的に感じるのは、男たちが 「越冬隊」 というその 「形式」 に陶酔している部分がある、ということです。

 つまり、軍隊に近いとも思われるその役割分担も含め、「越冬隊」 というのが、日本軍の玉砕覚悟の 「決死隊」 と、精神的に通じている部分がある。

 彼らは要するに、「男としての勲章」 を欲しがっている。
 自分が男として生きた証を、欲しているのです。
 これは戦争の記憶も未だ生々しい戦後の空気から必然的に生まれているエイトスのような気がする。

 先に書いたように、どうにもこのドラマ、脚本が大味という印象は否めない。

 けれどもどうして男たちがここまで冒険にこだわるのか、それを探りながら見ていくのも、ドラマを深く理解するよすがになる気がするのです。

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2011年10月25日 (火)

「江~姫たちの戦国~」 第41回 三面記事大河

 とうとう大阪冬の陣に突入した、「姫たちの戦国」。
 この回を見ていて感じたのは、事態がその方向にいやおうなしに巻き込まれ吸い込まれていく、蟻地獄のような緊迫感だった気がします。 つまり見ごたえ自体はあった。
 ただし見終わって感じたのは、「なんか江だけ蚊帳の外…」。
 ほとんどドラマのなかにいる意味がない。
 で、サブタイトルをあらためて見れば、「姉妹激突!」。
 どこが?(笑)
 まあいつもの 「サブタイトル詐欺」 ですが(笑)。
 憤って 「江と敵味方に分かれて戦う日が来ようとは…」 などと見得を切っているのは淀だけで、江はただ、秀忠に促されて、秀頼に手紙を書いただけ。 そしてみんなの名をつぶやいて、ただ神仏に祈るのみ。 つまり江のほうに、「激突!」 する意志なんか、これっぽっちもないのです。

 そして見ていていかにもアンリアルだったのが、秀忠の心情の推移。

 かれはいきなりいつもの寝ころびポーズで 「親父が死ねばなあ…」 などと江にのたまう。
 どこの世界に 「親が死ねばいい」 などと、自分の女房につぶやく阿呆がいるでしょうか(ここにいた)。
 もしこれを 「このドラマのなかの秀忠」(いちいち断り書き)が本心で言っているのであれば、彼は自分の持っている権力の本質もつかめていないし、さらに親を本気で追い落とそうという気力すらない。
 「『死ねばいい』 なんて真に受けないで、これはほんのジョークなのよ」、という田渕女史の言葉が聞こえてきそうですが…。

 まあそれはいいとして(どんどん不問にしとります)、問題なのは、先に述べたように、江と共に秀頼に文まで出して豊臣と徳川の二大政党政治みたいなことを確約しておいて、結局は父親の思惑にさしたる抵抗もなく、ただ成り行き任せで大阪城攻めに加わってしまう、秀忠の無責任さ。
 事態がここまで悪化するに至って、まだ豊臣との共存を考えている大アマなその態度です。

 つまり秀忠は、この期に及んでまだ、事態を大逆転させる気満々、ということになるのですが、考えてもごらんなさい、敵味方30万くらいの人間が動いとるんですよ。 虎穴に入って虎児を得ようとしてるんでしょうかね。 アンリアルすぎる。

 今回、家康の鐘つきイチャモン問題から三田村サン(役名なんだったっけ)更迭の経緯、さらに秀忠からの文を頼りにしながら徳川との全面対決に苦渋の決断をする秀頼の話は、とても見ごたえがありました。
 つまり話が江と秀忠を離れると、途端にリアリティが戻ってくる。

 しかしながら、事態悪化に手をこまねいてなにもできない江を象徴的存在としながら、このドラマで作り手はさらに、淀の方の乳母を道化役として配した。
 淀の乳母は家康に直談判しに行くと淀に宣言し、頼もしいところを見せるのですが、大野治長(息子とか言ってたかな?)にいさめられて途端に弱腰。 「なんか、行く気なくなっちゃった…」 とか(違ったっけな?…笑)。 家康との会見では完全に気が動転しちゃって、「おのぼりさん状態」。 「借りてきた猫」 が、「ガキの使い」 に甘んじる。
 しかもこの会見、初が 「自分が行く」 とかそもそも言ってなかったかなぁ?(見返して確認する気力、当方になし…笑)。
 淀は淀で、もう我慢の限界、とばかり、戦だ戦だと秀頼を困らせる(まあ従来のパターンなんですが)。 これによって秀頼の存在感が、ますます光り輝いてくる。
 ついでに言えば(ついでかよ)、グレる竹千代を 「そのほうが頼もしい」 などと持ち上げて、どっちが次代の将軍になるか分からぬなどと江から言われてただ狼狽するだけの福(春日局)。 出てきたと思ったらまたそそくさと退場します。 どうしてこう、上っ面だけの登場しかさせてもらえないのか、富田靖子サン。

 つまりこのドラマの女たちは、歴史上の役割に於いて、全員が役立たずでオジャマ虫。
 女性を貶めるためのドラマ、ここに極まれりの印象を免れない。
 田渕女史、女なんですかね、本当に(大変失礼いたしました)。

 それと気になったのが(揚げ足とりばかりで申し訳ない)、いちいちストップモーションになって、画面が白黒になる演出。

 三面記事かっての(笑)。

 まあそれは、演出家のかたが(「山河燃ゆ」 の伊勢田サンなのに…)半ばヤケクソでやってるんじゃなかろーかと、好意的に取らせていただきます。

 当記事冒頭の言い分を繰り返しますが、この回は事態が泥沼化していく空気をよく描いて、とても全体的に緊張感みなぎる回でした。
 しかし内容が良ければ良いほど、江を取り巻く周囲の空気のウソ寒さが身にしみる。

 この物語の主人公は、「江」、ですぞ!

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2011年10月23日 (日)

「妖怪人間ベム」 第1回 人間とは何なのか

 私どもの世代では第1作のホラーアニメとしての認知度が高い、「妖怪人間ベム」。
 これを実写化したのが今回のドラマですが、この話を最初に伝え聞いたとき、「何でもかんでも実写化すりゃいいってもんじゃない」 と思ったのは確かです。
 しかもアニメでは恰幅のいい壮年だったベムが、今回KAT-TUNの亀梨和也クン。
 は?てなもんで。
 でも私KAT-TUNファンなので(笑)(ん?笑をつける意味は?)、ラジオの亀梨クンの番組が終わっちゃった寂しさも手伝って(笑)見てみようかということに。

 見終わっての正直な感想を述べさせていただくと、「なかなかよく出来てるけど、まあこんなもんかも」 というところでしょうか。
 途中までは、「人間になりたい」 というベムとかベロ(鈴木福クン)の願いと、「人間なんてロクなもんじゃない」 と反駁するベラ(杏サン)の意見の食い違いを見ながら、「そんなに彼らが意識する人間って、いったいどれだけのもんなんだ」 という思いが湧いてならなかった。
 ところが、今回非道な行為に及ぶ光石研サンが、実はベム達の出生のカギを握っているある教授のなれの果ての姿?をした男(柄本明サン)に操られていた、という展開に至って、その気持ちは急速にしぼんでいったのです。

 このドラマの原作アニメ、さまざまな人間たちが登場します。
 中にはベム達がいたく幻滅する悪人もいれば、人間の良さをベム達に教えてくれる善人たちもいる。
 でも総じてこのアニメは、「人間たちになりたいって言っても、その人間たちが醜いんじゃないのか」「醜いのはその外見ではなく、その中身が問題なのだ」 という思想に支配されていたと思うのです(ずいぶん大昔のアニメで、私もあまり深い部分まで理解して見てなかったと思うのですが)。

 アニメの悪人たちは、ただひたすら、本人たちが悪かった。
 これを誰かのせいにしてしまうと、この話のコアとなる部分が、急速にしぼんでしまうと私は思う。
 確かに光石サンの起こした所業は、途中からどんどん常軌を逸していく。
 これを柄本サンのせいにしてしまうと、作り手は人間たちの醜さに焦点を当てる必要が、なくなってしまうんですよ。

 この原作アニメは、太平洋戦争が終結してから、わずか23年後の作品です。
 だからこそ、まだ作り手には、「人間が持つ本質的な醜さ」 を実感できる素養が残されていた。
 戦争が人間を醜くさせ、敵を殺すことが正当化され、「自分とは考えの違うものを侮蔑する」 という時勢に巻き込まれていたからこそ、人はおのれのしてきた所業を見つめ直すという機運に恵まれていた。
 さらに当時、まだらい病(ハンセン病)患者が隔離されていたことも、「いったい醜いとはどういうことなのか」、ということを考える機会が、世の中にとてもあった、ということを示している。

 このドラマが現代にリメイクされる、ということの意味も、実はそこにあるのではないでしょうか?

 人は他人を侮蔑することに対してあまり躊躇がなくなり、自分と違うものに対して攻撃の手を緩めなくなってきている。
 ネットを見れば、そのような人間蔑視の論調ばかり。
 そんななかで暮らしていると、ますます思考は内向きになり、よそ者に対して寛容ではなくなってきてしまう。

 ドラマ前半で展開した、村人たちが手のひらを返したようにベム達を迫害する場面も、実はネット社会では大手を振って闊歩している島国根性と、なんら変わることはない。
 大昔の話じゃないんですよ。

 どうして人間は、自分たちの価値を、自ら下げたがるのか。

 どうして他人が他人が、と気にしすぎ、自分が自分がと主張したがるのか。

 醜くなっているのは、紛れもない人間自身なんだと思うんですよ。

 それをどうして柄本ハカセのせいにするのか。

 もちろん醜いばかりが人間じゃありません。
 作り手は柄本サンに人間の醜悪な部分を一手に集約させ、そしてベム達に関わり、いったんは誤解した、北村一輝サンに人間の善なる部分を集約させるのかもしれません。
 だからこのドラマ、次回以降もたぶん見るんじゃないかな、と思います。

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「カーネーション」 第3週 その気になったら、勉強することは山ほどあるんや

 このドラマを見ていてとても感じるのは、「視聴者に媚びることを一切しない」、という点です。

 たとえば今週、糸子(尾野真千子サン)は父善作(小林薫サン)のためにアッパッパを縫うのですが、桝谷パッチ店のおかみさんからもらった生地を板に張って乾かす。
 おそらくノリをつけて生地を整えたんだと思うのですが、これがなんなのかの説明が、まったくない。
 そしてようやく出来上がったアッパッパを、善作は見るなり妻の千代(麻生祐未サン)に 「ほかしとけ」 とにべもない反応。
 「ほかす」 という意味が分からない私にとっては、「はて、これはどっかにほっておけ、ということなのか、それとももっと冷たく、捨てろ、という意味なのか」、と考えてしまうわけですよ。
 で、「ほかしとけ」 と善作が言ってまわりがどういう反応をするのかに、自然と意識が行く。
 考えてみると赤ん坊が言葉を覚えるのに、その言葉によってまわりがどう反応するのか、ということを観察しながら、人は言葉を覚えていくんだなあ、ということがあらためて実感できる。
 結局 「ほかす」 というのは 「捨てる」 という意味だったのですが、ドラマではその説明を一切しない。
 そして糸子は拒絶されたアッパッパをどうにかして父親に着させようと、「次の手」 を考えるわけですが、今週分を最後まで見た時点では、それがいったいどういう手だったのか、判然としない。
 これは、おそらく糸子に次に降りかかった事件によって、その説明はなされないままだろうと思います。

 つまり、「そこは見ている人が想像してくれ」、というスタンスが、ドラマ全体に貫かれているわけです。

 これを 「説明不足だ」 と言って憤ることは、実に無粋と言える気がする。

 分からなかったら、自分で調べる。

 幼いころの読書でも、人はみんな、そういうことを繰り返してきたはずです。

 そして分からなかった部分は、「世の中そんなものなのか」、と納得するしかない。

 みんなそうやって、成長してきたはずなのです。

 糸子は今週、念願の桝谷パッチ店でようやく働き始める。
 しかし外からのお客さんだったときと、いちばん下っ端として働くのとでは待遇が天と地ほど違う。 ミシンにしたって10年もしないと触れない、と言われ、糸子は絶望します。

 優しかった職人たちもまるで手のひらを返したように、冷たくなる。
 それはおかみさんにしても同じで、先週パッチ店に来なくなった糸子を心配して、大将のトミーズ雅サンと一緒に小原呉服店までやってきて、「チラッ!」(爆)なんてやってたことを考えると、人格破綻でもしてんのか、と思われるほど。

 でも見る側は、おかみさんが先週やっていたことを思い返して、「ああこれは、人生修業させようとしてんだなあ」、ということを気付かねばいけない。

 善作が糸子の職場入りに際して、「勉強や」 とくどいくらいに話していたことも、実は 「糸子に厳しくしたってや」 とパッチ店の人々に話していたことの裏返しなのではないか、と見る側が想像しなければならない。

 糸子が風邪をひいて職場に出てきたとき、職人のひとりが 「風邪をうつされたほうが迷惑や。 お前なんかいないほうが仕事がはかどる」 みたいなことを言って糸子を帰らせる場面があったのですが、そのときそれを聞いていたもうひとりの職人が、「いくら本当のことでもあれは言っちゃダメだ」 と糸子が帰ったあとにたしなめていた。
 これも、糸子が足手まとい、という事実も示しながらも、職人たちが糸子を鍛えている、という事情の裏返しなのではないか、と、見る側が気付かねばならないのです。

 風邪なのにこうして出てきてやってんだ、みたいな気分だったのでしょう、糸子はその職人の言葉に、完全にやる気をなくします。

 けれども糸子は、風邪の熱に浮かされながら、おばあちゃん(正司照枝サン)の気遣いで布団をぎょうさんかぶせられ(笑)、その寝床で母千代の、妹への叱責を聞くのです。

 「ええなあ糸子姉ちゃんは。
 糸子姉ちゃんばっかし新しい着物着れるし、好きなことさしてもらえるんやさかい。
 『学校やめたい』 ちゅうたらやめさしてもうて、『働きたい』 ちゅうたら働かしてもうて」

 「そない羨ましいんやったら、あんたも姉ちゃん見習うたらよろし」

 「えっ?」

 「こないなとこでお母ちゃんにグジュグジュ言わんと、自分でお父ちゃんに、『着物買うてください』 って、頭下げといで」

 「そんなこと、うち、ようせん」

 「好きなことするちゅうんはな、見てるほど楽とちゃうんやで。
 女は余計や。
 大変なんや。

 姉ちゃんは偉いやん。 やりたいことあったら、ぜぇんぶ自分でどないかしよる。

 どんだけしんどうても音ぇあげへん。

 ええなあ思うんやったら、なんぼでもまねしい。
 けどまねでけんと、文句だけ言うんはあきません!」

 どんな励ましよりも、どんな善作の百万べんの 「勉強や」 いう言葉よりも、糸子の胸に染みわたる言葉。
 書き起こしをしていて気付いたのですが、このくだりのやり取りは、実に 「声に出して言いたい日本語」 みたいな美しさに包まれています。
 すごいなあコレ。
 文学作品だ。

 この母の言葉は糸子を根底から揺り動かす。
 風邪などすっかり吹き飛んで(ここにおばあちゃんの布団攻撃もさりげなく噛んでいることにも注目します)、糸子はいまさらながら、父親の 「勉強や」 という言葉に感じ入ったと父親をほめるのです。

 「なに初めて聞いたような顔して言うとんねん」

 「そやけど、ほんまに初めて聞いたような気ぃするわ」

 「はぁぁ~~~??
 なー言ってんだぁぁ~~オメェはぁぁ~~~?」

 爆笑しました。

 それから糸子は、意地悪みたいに職人から言われ続けてきたひとつひとつの仕事が、すべて意味のあることだと気付いていく。

 「その気になったら、勉強できることは山ほどあるんや。

 よし!

 うちにはもうこんだけ知恵ついた。

 知恵っちゅうのは、増えていくばっかしのもんやし、10年ちゅうのは、減っていくばっかしのもんやし。

 今日で…。

 16日目や…。

 あと9年と、…349日。

 大丈夫や。

 うちはちゃんと、ミシンに近づいてる」

 そんなポジティヴシンキングのできるようになった糸子に、大将は仕事が終わったあとならミシンを使うてもええで、と言ってくれるのです。
 そのときも糸子は、ミシンをまるで恋人のように、磨きまくっていた。
 本当にこの子はミシンが好きなんだ、というのが、とてもよく分かる場面。
 初めてミシンを使えるようになったその晩。
 糸子はキレがないから今日は眺めるだけ、と、ミシンに向かってしゃべり続け、頬を寄せる。 

 「よろしゅうなあ…」

 ミシンにあいさつをする糸子。
 そんな様子に、見ている側の気持ちは、感情移入する術を見つけるのです。

 相変わらず昼の職場では厳しく鍛えられる糸子。
 そこに糸子の祖父、清三郎(宝田明サン)がやってきて、買収作業の末(笑)糸子を職場から連れ出す。
 清三郎は職場のキツさを見かねて、糸子に 「おじいちゃんの工場に来ればミシンなんてなんぼでも使わせてあげる、うちで働かへんか」 と持ち出すのですが、糸子はきっぱり、それを断ります。

 「おおきにおじいちゃん。

 そやけど…ええわ」

 「なんでや?」

 「なんでやろな。

 …うちな、勉強になるほうがええねん」

 「勉強?」

 「うん。 おじいちゃんうちに甘いさかいな、うちすぐ甘えてまうと思うねん。

 そしたら勉強になれへんやろ?

 けど、今の店は、だぁれもうちに甘ないよって、いっつも怒られんように必死やねん。

 しんどいけどな、けど、必死でやらんとあかんほうが、勉強になると思うねん。

 精一杯勉強して、一人前なったら、おじいちゃんとこ行くわ」

 涙ぐむ清三郎。

 「お前…お前誰に似たんや?」

 「ん?」

 「親がどっちも、あんなにアホやのに…誰に似てそんな偉いこと言うねん、まったく…」

 「う~ん…(考えこみ)おじいちゃん!」

 「そんな…口まで、上手うなって…」

 ホロっときながら笑わせる。
 うまいよなあ、このドラマ。
 親がどっちもアホなんて、よう見とるわ、このじいちゃん(笑)。
 でもどっちもアホなりにすごいし(?)、糸子にとってかけがえのない存在になっていることは、見ていてよく分かる。
 「しんどくないと勉強にならん」 という糸子の言葉は、ホントにその通りだと思います。

 そしてドラマに、もうひとり仲間入りします。 泰蔵(須賀貴匡サン)の妻、八重子(田丸麻紀サン)です。 このふたりの結婚に、糸子の幼なじみの吉田奈津(栗山千明サン)は大ショックで大騒ぎするのですが(笑)、ただすれ違うだけで泰蔵は奈津の存在すら気にかけてない、という糸子の指摘にあえなく撃沈してました(爆)。
 八重子はファッションに興味のある女性で、糸子に洋服への夢をもう一度思い出させます。

 「そやった…。
 うち、洋服作りたいんやった…。
 忘れちゃった…」

 って、2年以上も勉強に心を奪われとったのか!(爆)

 そして先に書いたように、糸子は善作のアッパッパを縫うのですが、結局糸子の作戦?千代のボケ?それとも意図的?が功を奏して、善作は糸子のアッパッパを着て通りを得意げに闊歩する(笑)。

 このアッパッパ、糸子が 「着物風に」 と配慮を巡らせているのが大きな効果を得ている気がします。 出来上がったそのアッパッパは、まるで作務衣のよう。 その動きやすく着ていて涼しい、という機能性にも、善作は心を奪われたようです。

 この作務衣風アッパッパが評判を呼んで、小原呉服店ではそれを売り出すようになるのですが、その製作作業に糸子は追われるようになる。
 そんなある日、パッチ店の大将が困った顔をしながら糸子に、「店、やめてくれへんか?」 と切り出す。
 えっ、もしかして、自分とこのミシンを使ってほかの店(小原呉服店)の商品を糸子が作っていたからかな?とか、すごく気になって番組HPをのぞいたら、不況のためにやめさせざるを得なくなったらしい。

 ただこのドラマ、私は1週間分1時間半を一気に見るのですが、15分の続きものとして見ても、結構先が気になる構成になっている気がするんですよ。
 いずれにしても1週間分1時間半のドラマ、見ていてまったくダレない、というのはやはり凄い。 映画を1本見たような気分になります。
 番組HPを見て気付いたのですが、毎週の副題も、花言葉から引用している様子。
 トータルパッケージもよくできている。

 このドラマ、ますます傑作だと思えてまいりました。

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2011年10月22日 (土)

「11人もいる!」 クドカンの実力が未だに分からない…

 「うぬぼれ刑事」 に続く、クドカン作品の視聴なのですが。

 正直言って、この人の実力、というものが、いまだに私、よく分かりません。

 この人のいわゆる代表作、というものを一切見ていないせいでもあるのですが、だから近作を見て、この人のパワーはこんなものなのか、それともパワーが衰えてきたのか、という基準が分からない。

 「うぬぼれ刑事」「11人もいる!」 を見た私の印象から言うと、この人の作るドラマというのは、常に登場人物が、自分を含めた誰かのツッコミ役になっている、ということでしょうか。

 つまりボケとツッコミの立場の逆転が瞬時にして起こるために、見ている側は極めて忙しく頭を回転させる必要が生じる。

 そしてそれは、ドラマの登場人物すべてが、コアな部分でふざけている、という印象に常に直結する。

 ところがそのめまぐるしい展開のなかで、ほんの一瞬、作り手の本音が見えてくる部分がある。
 基本的にふざけまくっているドラマからそうした真面目なメッセージが発せられるところに見る側は驚き、感心する。
 そんな構造なのかな~、と漠然と考えております。

 で、手前勝手に論じたその論理でクドカンドラマ、というものの近作2本を見た印象から言うと、
 ん~、別にそんなに評判ほどすごくはない、確かに面白いけど、ということになります(これは世間の評判と実際との比較の印象を述べたものなので、誤解のなきよう)。

 「11人もいる!」 というタイトルは、萩尾望都サンのマンガのパロディであることはすぐ分かるのですが、要するに10人の大家族の話。 そこに広末涼子チャンが(チャンっていうお年頃でもないか…)子供たちの亡くなった母親の役で、ユーレイとして出てくるために、「11人もいる」。 こうしたシチュエーションって、なんか昔に赤塚不二夫サンのマンガで見た気がするんですが、なんだったかな~。 あ、「もーれつア太郎」 だ。

 第1回を見る限り、ドラマ的な面白さは、やはりこのヒロスエに絞られる気がします。
 ヒロスエ、このドラマの主役の大家族の母ちゃん(継母)役が光浦靖子サンなためか、なんかとてつもなく美人に見える(光浦サンゴメン)。
 彼女は大家族のうち自分が産んでいないいちばん末っ子の加藤清史郎クンにだけ姿が見える。 加藤清史郎クンはつまり、光浦サンが産んだ、唯一の子供ということになります。
 その清史郎クンにだけ見えるヒロスエは自由奔放、大酒飲み。
 元ストリッパーのときの栄光にすがっていたくて、ストリッパーの衣装で出てくるもんだから、清史郎クンは鼻血ブー状態(爆)。 「オッパイ揉ませろ」 としつこい(ハハ…)。

 ここでオッパイを揉みたがっている清史郎クンの成長ぶりにも唖然としたのですが(爆)、7歳児がオッパイとは何事か、と思ってウィキを見たら、もう清史郎クンも、10歳なんですな。 子役のありかたには最近、どうもモヤモヤとしたものを感じざるを得ないのですが、かつての売れっ子子役だった神木隆之介クンが、このドラマの主役。 清史郎クンも隆之介クンも、どうやらグレないで役者として頑張っているようで、お父さんはホッとします。

 それでですね。
 清史郎クンにだけ見えるヒロスエが、私が考えたクドカンドラマのセオリーをきちんとこなしていて、うまいなーと感じるんですよ。
 つまり自分のなかでボケツッコミをくるくる逆転させながら、ほろりとさせるところではちゃんとほろりとさせる。

 彼女のダンナ、要するにこの大家族の一家の長、それが田辺誠一サンなんですが、彼はカメラマン。
 彼女は生前、自分のストリッパー時代の写真を田辺サンに撮られていて、それが大のお気に入りだったため、家族と一緒の写真を、撮ってこなかった。
 それを死んでから後悔し、子供たちとの思い出をちゃんと残したかった、と言って、涙ぐむのです。 「いいと思うよ。 きれいだもん」 とフォローする清史郎クン。 「アリガト。 優しいじゃん」 と清史郎クンの肩にもたれかかるヒロスエ。

 それまでおふざけ気味で展開してきたドラマが、ここで一気にメロモードとなるのですが、こちらもほろりとしたくなった瞬間(笑)、清史郎クンの手があやしい動きをはじめ(笑)、ヒロスエのオッパイを揉もうとし始める(笑)。 「ちょ、今(はそのタイミング)じゃねーだろっ!」 とその手をぱしっ!とするヒロスエ。

 ここらへんがクドカンドラマを象徴する、感心する部分かと感じました。
 そしてそれが演じ切れているのが、ヒロスエだったかな、という気が。

 でもヒロスエだけじゃなくって、光浦サンも押さえながらも突っ込むところは突っ込むいい味出していた気がするし、「ゲゲゲの女房」 で水木サンの亡くなってしまう弟役で印象的だった、星野源サンの演技も話をよく咀嚼していた気がします。

 途中、神木クンが気の利いたいいことを言ったりするのですが、それをタテ文字でスーパー表示して、「俺たちの旅」 のオマージュを感じさせるところもあったし。

 また、いきなり残ったカレーの復活方法とかの調理方法を光浦サンが実演し始めたり、飽きさせない作りにはなっております。

 田辺サンが働かないからうちはビンボーなのだ、という深夜の家族会議の場面も、笑えた笑えた。

 ただ、大家族という平和的な題材を取り扱ったせいか、全体的な話がおとなしめに進行していく感触というのはありました。

 しかしその静寂を破ったのが、ほかならぬ神木隆之介クン。

 家計が苦しい我が家を助けようと彼が通っていたバイト先が、なんとゲイバー(ゲゲッ)。

 隆チャン、君はそこまで…(いや、いいんだ…笑)。

 それにしても、オッパイ揉もうとしてる清史郎クンといい、「君たちはっ!…君たちはっ!…」(爆)。

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2011年10月21日 (金)

「家政婦のミタ」 第2回 直接ぶつかれ

 「人を殺せと言われれば、本当に殺しかねない」――。
 そんな家政婦三田(松嶋菜々子サン)に、ドラマ開始第2回で早くもそのシチュエーションがやってきます。
 依頼者は阿須田家の次男、海斗(綾部守人クン)。
 勉強オタクのクールなキャラです。
 彼は自分を困らせるクラスのいじめっ子をこらしめてやりたいと思い、三田に 「お灸をすえて」 と頼むのですが、このことがきっかけで叔母のうらら(相武紗季チャン)を巻き込み、ますます窮地に立たされ、ついには三田に、「あいつが生きていたら将来きっと多くの犠牲者が出る(とは言ってませんでしたかね?…笑)、あいつを殺して」 と依頼してしまうのです。

 はたして三田はそれを実行(笑)。
 すんでのところで海斗がその場に現れてそれを阻止。
 まあ遂行してしまったら話は第2回で終わってしまいます(んなことないか…笑)。

 そのときにそのいじめっ子が言った言葉。

 「オレのやってることとオマエのやってることと、どこが違ぇんだよ!」

 まあ大筋に於いておんなじだとは思いましたが(笑)、オメーがそれを言う資格はねえ!とは感じました。

 三田に絞められた首を押さえてゼイゼイ言いながら、「逃げんな」 と挑発してくるいじめっ子。
 海斗は 「どうしたらいい?」 と三田に尋ねます。
 が、三田がその回答を用意しているはずがないと思った(笑)。 案の定、三田は 「それはあなたが考えることだ」 と海斗を突き放す。

 三田は阿須田家の人々の命令にはあくまで従います。
 今回も、「お手玉して」 という次女の頼みに、自分のカバンから複数個のお手玉を取り出し(常備してるのか?…笑)ジャギングを始めるし(分かりやすいCG…爆)。
 でも、主体的な考えなど、一切持っていない。
 相手の質問には、「アンパンマンのキャラクターは?」 とか 「いじめとは何なのか?」 とか、知識的なことには答えるが、相手の感情を絡めた質問には、「それはあなたが決めることです」 というスタンスを崩さないのです。

 海斗は自分でその答えを見つけなければならないという局面に立たされ、結局その場でそのいじめっ子に立ち向かっていく。

 いじめっ子は応戦するのですが、海斗はやられてもやられても立ち向かっていく。

 人を殺すということに、人が死ぬということに、海斗は母の死から、ここでまた直接、立ち会うことになった。
 だからこそ、「人を傷つけるのはよくない」 という結論に立ち至ったのです。
 いじめっ子はとうとう、 「なんなんだお前ら!」 と恐れをなして、その場から逃げ去っていく。

 「逃げんな」 と言っといて自分が逃げんなよ(笑)。

 要するに、そういうことなんですよ、いじめっ子のほうに 「お前がどうこう言う資格がない」、というのは。

 人は自分の思い通りにさせるために、あまり直接相手にぶつかろうとはしない。
 まず外壁から攻めて行ったり、まわりにそう仕向けておいて、自分の言い分を通そうとしたりする。
 でもそれは、自分が逃げている、ということなんじゃないのか。

 直接ぶつかる、ということが必ずしも得策ではない、ということは、実はそっちのほうが真実なんですけどね。
 直接自分の気持ちをぶつけても、そのあとなんとなくその相手とは気まずさが残ったり、妙にすがすがしい関係になっちゃったり(笑)。
 人はみんな、どことなく釈然としない気持ちを抱きながら、折れるところは折れながら、あいまいな部分は残しながら、人付き合いをしていくのがベストなのかな、とも思うんですよ。

 でも、「ただ逃げ回っているだけ」 よりはナンボかマシだ。

 曖昧に付き合おうが、相手と向き合っていることに、変わりはないのだから。

 このことで海斗をめぐるいじめ問題が、解決したとはあまり思えません。
 でも、海斗は 「学校なんかもう明日から行かない、塾にだけは行く」 という 「逃げ」 の態度を、転換させることが出来たのです。 海斗は翌朝、学校に行く決意をする。
 「行ってらっしゃいませ」 と機械的に玄関で送り出そうとする三田に、海斗は 「行ってきます!」 と明るく答えます。

 この物語のキモは、そこにある。

 表層的に問題が解決したかどうかではないんですよ。 生きるための、前に進むための態度を、このドラマでは問題にしているのです。
 実際的な問題に目を向ければ、今回海斗がやったことは殺人教唆であり、三田がやったことは殺人未遂。
 でもこのドラマは、そこも問題にしていない。

 いっぽう、海斗と同様に、自分の問題から逃げているのが、阿須田家の父親、恵一(長谷川博己サン)。
 妻が自殺だったことを、家族に話さない、という逃げの姿勢を選択します。
 それは彼が、浮気をしていたことの後ろめたさから発生しているのですが、彼は妻が自殺してるのに、まだ浮気相手とよりを戻そうとしている。
 彼の問題が、次回はクローズアップされていくことになりそうです。

 それにしても、見ていて思ったんですが、相武紗季チャンが演じている、何かっつーと問題をこじらせる叔母。
 今回も海斗のいじめを聞いて海斗のクラスに乗り込み、「いじめはやめよう」 とスンゲー 「そのあとどーなるか」 に神経が行ってない説教(爆)を始めるんですよ。
 それはいじめっ子に反発を買い、彼女は 「帰れ」 コールにさらされることになる。

 ここなんですけどね。

 紗季チャンが主演していた前作 「リバウンド」 での構図と、まったく逆であることが、とても興味深かったんですよ。

 前作では彼女が主演であるためか、ブー子(彼女)の言い分は常に相手にストレートに届き、彼女はいつも自分の感情を相手に伝えることが出来ていた。

 それが今回は、まったく逆。

 ここではうららの、海斗のクラスメートへの説教が、時と場合を選ばない場違いなものでしかないためめに、相手にまったく届くことがないのです。

 ドラマ的な構造では、紗季チャンは 「波風立てて物語を面白くする」 という道化役になり下がってはいます。
 ただ、いじめっ子の言を借りれば、「相武紗季チャンがやってることと、松嶋菜々子サンがやってることと、どこが違ぇんだよ」 みたいにも個人的には感じる。
 問題を荒立てることで問題解決の糸口をつかむ、という点で、このふたりの役割は、とても似通っているのです。 この構造は、興味深い。

 また、三田の素姓に関してなんですが。

 どうもなんかを作り手は用意しているような気がしてきた。

 先ほど 「三田は感情的な質問には答えない、主体的な考えなど一切ない」 と書いたのですが、海斗がいじめっ子に立ち向かっていったあとに、三田は 「大変よくできました」 みたいなことを言うんですよ。
 これは三田が垣間見せた、三田自身の感情である気がするのです。
 また彼女の素姓を訊いた長谷川博己サンに、家政婦紹介所の白川由美サンは 「彼女は笑わないのではなく、笑えなくなったのだ」、と答えています。
 これは作り手が、三田の素姓を何か用意しているフラグなんじゃないのかな。

 、と思うんですが。

 いずれにせよこのドラマ、全10回くらいに落ち着くんでしょうけど、どうやってこの先、話を膨らませていくのかなあ。
 「リバウンド」 のときも感じてはいたんですが。

 でもまあ、見ていて面白いドラマであることは確かです。

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2011年10月20日 (木)

「深夜食堂2」 30分、を前提とした話作り

 TBSで深夜にひっそりと放送していた 「深夜食堂」 については、その評判を伝え聞いておりました。 その続編をやる、というので、どんなものかと見てみることに。

 話的には 「人間交差点」 みたいな感じで、深夜営業している小さな食堂に集う人々の人間模様を描く、という話。 マスターの小林薫サンは、特段何の役割も果たしていないんですが、「深夜に寂しい人々が立ち寄れる場所を提供している」、ということにおいて大きな意味を持っています。

 このドラマ、30分番組なんですが、話を見る限り、1時間ではちょっとくどい気がする。
 そして1時間ではなく30分ドラマだからこそ、様々な場面カットがなされます。
 そのカットの方法が、実に見る側の想像力を働かせる。

 今どき、何でもかんでも説明しなければ分からない、という愚鈍な説明を強いられているドラマというのが多過ぎる気がするのですが、このドラマはあえて説明を最小限に抑えています。
 だから見る側は 「もっともっと」 と無粋にこのドラマに要求しようとしないし、ドラマもハナからそんな気がない。

 今回の話は、高校時代に問題を起こして自分の所属していた野球部が甲子園に行けなくなってしまった、という経歴を持つ松重豊サンと、そのきっかけを作った安田成美サン、同じ野球部の友人だった光石研サンを中心とした話。
 松重サンはそれがきっかけでやくざに身を落とし、光石サンはそれをしょっぴく側の刑事。

 安田サンはほかの男性と結婚しているのですが、余命いくばくもない。
 光石サンが松重サンを、安田サンのいる病院へと引っ張ってくるのですが、光石サンは本当は安田サンのことが好きだった。 それを、安田サンの命が長くないことを知って、当時安田サンが付き合っていた松重サンを、連れてきたわけです。

 病室には安田サンの子供が書いたと思われる母親の絵などが張られている。 この状況から、いろんなことが瞬時に読み取れます。
 彼女はダンナのことはさておいて、自分の正直な思いを結構洗いざらい松重サンに語り尽くします。
 おそらく彼女も、自分が長くないことを悟っていることが、ここから窺われるのです。

 松重サンの安田サンとの思い出が、赤いウィンナー。
 先を6本に切って炒めた、「タコさんウィンナー」 です。
 それを松重サンは、小林サンの食堂でいつも頼んでいる。
 彼女はそれを食べたい、と頼み、足元がおぼつかない安田サンを車いすに乗せ、バリアフリーが行き届いていない深夜食堂に、松重サンの子分がスロープを設置して、彼女は深夜食堂に入っていく。

 ここで場面はカットアウト。

 次の瞬間、喪服姿の松重サンと光石サンが、赤いウィンナー炒めを前にして、献杯をする。 カウンターにはお清め塩。

 ここでドラマは終わるのです。

 それだけで、見ている側には余韻がものすごく残る。 30分でしか表現できない話、ですよね。 こういうドラマがあってもいいととても感じます。

 このドラマ、時間的に深夜遅くまで残業して、もしくは飲んで帰って来た人が、ちょっと見るのにとてもいい長さのドラマでもあります。 おそらく作り手も、それを狙っている。

 そしてその余韻を心に抱いたまま、そのドラマを見た人が寝床につく。

 私は外食などほとんどしない類の人間ですが、このドラマを見ることで、「こういう行きつけの店を持って人間関係を形成するのも、人生の寄り道としては意味があるんじゃないだろうか」、という気になってきます。

 そして行きつけの店に行った気分にだけなって(笑)、またひと眠りしようと思います。

 夜勤をやってると、仕事が終わった時間って、飲み屋とかやってないんで(爆)。
 朝っぱらから、寂しく晩酌です(ハハ…)。

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2011年10月19日 (水)

「江~姫たちの戦国~」 第40回 出し惜しみなのかもともとないのか

 江と竹千代との関係、家康と秀忠との関係、ふたつの親と子の話を中心に展開した、今回の 「江」。
 見終わって、「ダメなところもあったけど、いいところもあったかな?」 という、どっちつかずの感想を持ちました。
 良くも悪くも、このドラマの特徴が如実に出ていたような気がするのです。

 ダメなところと言えば、いかにもという感じで進行していく親と子のすれ違い。
 話に工夫がなさすぎるんですよ。
 竹千代が疱瘡にかかったことを福(春日局)に向かって責め立てる江。 「わが子だからこそ病気の時はそばについていてやりたい」 と言い出しても、言ってることは立派だけれども、じゃ実際に何か行動したのか、と言えば、ドラマではなにも描写してない。

 そして竹千代は、完璧に福の飼い犬状態。 何かというと 「福がいなきゃボクちゃん死んじゃう」 というひ弱さ。 デフォルメも大事だけれども、ここまでひどすぎると、福の養育責任というものが著しく問われて当然だと思えるのです。 けど、誰もそれをしようとしない。 放って置いた末に問題視、ということの間抜けさに、ドラマの登場人物のだれもが気付いていないことに、見ていてイライラしてくる。

 そのうちに次男の国松のほうが御世継ぎにはふさわしい、という話が家中に巻き起り始め、焦った福は家康のもとに直訴に。
 この、福の真意というものが、見ていていっこうに見えてこない、というのも、見ていてイライラする主因のひとつになっている(主因が複数あるというのも…)。 ただ竹千代の乳母であることのプライドがこのような越権行為とも呼べる直訴をさせてるんでしょうかね?

 ドラマ語りのうえでのひとつの手法に、「その当人の真意がどこにあるのかをその場で見せるのではなく、のちになって判明させる」、という 「出し惜しみ」 という引っ張りかたがあります。
 けれどもことこのドラマにおいてその手法は、逆効果も甚だしい。

 だけど。

 「その当人の真意」 って、この脚本家先生は用意してんのかな?という気にもなってくるから、見ていてますます混乱するのです。 私みたいに考えすぎるややこしい視聴者は、取り越し苦労をしているだけなのかな?という気にもなってくる。

 で、竹千代が自分の考えを出すことが出来ず退場したそのすぐあとで、聡明な国松が江のところにやってきて、江はその国松を猫かわいがり。 竹千代の気持ちは、ますます江から離れていきます。

 どうしてこういう分かりやすすぎることをするんでしょうかね?

 少なくとも竹千代は退場したばかりなのだから、江は国松に対してもっと神経を持って接しなくてはならないと思うんですよ。 まだそばにいるかもしれない、と考えるべきなんですよ。 そんな神経が江にないから、まるで竹千代に見せつけるがごとき国松の溺愛ぶりになってしまう。
 この場面以降でも、もっとあからさまに、竹千代は自分の母江の、国松への溺愛ぶりを目の当たりにすることになる。
 江は、自分に神経がなさすぎるのに、それに全く気付かず、竹千代にも母親であろうとする。 どうしてこういう浅い話を作ろうとするんでしょうね。
 私が見ていてがっかりするのは、やはり脚本家先生の目が、江中心でまわっていないことがとても見えること。
 お江与(江)が国松を溺愛、なんて、今までの大河で腐るほど見てきた気がするんですが、ことこのドラマの主役は江。
 どうして江の視点に立った、視聴者も納得できる、江のための言い訳を考えてやらず、定説通りに話を進めようとするんでしょう。

 また、家康と秀忠は、おおばの局の命を懸けた(笑)計略によって初めて酒の席を設けるのですが、ここで展開されるのも、結局は心を通わせることが叶いませんでした、という話。
 ここで私が気になったのは、家康が豊臣と徳川が並び立つことが世間的に通用する話ではない、という論理を展開しても、その根拠というものが見ている側にも伝わってこない、という部分。

 これも脚本家先生は、あとで家康の、その真意をご用意されているのかもしれないのですが、この部分はドラマ的に、秀忠との対峙の際に、出し惜しみせずもっと突っ込んだ議論がなされるべきだと考えるのです。
 そのさらなる高度な議論の末に、秀忠に 「やはりオヤジ殿とは意見が合わぬ」 と結論づけさせるほうが、ドラマ的に見ていてとてもしっくりくる気がする。

 確かに親子の間の会話など、話半分で終わって誤解を招く場合が結構ある。
 けれどもこの場面は、単に家康の真意が分からなくて結局親子が分かりあえなかった、という話とは違う気がする。
 家康の真意がつかめなければ、見ている側は話を先に進められないのです。
 家康はこれから、かなり言いがかりとも言える方法で豊臣を追い詰めていく。
 それを 「何考えてんだこの人は」 という印象のまま見せ続け、ドラマを進行させていくことは、得策ではないように感じるのです。

 家康は福の直訴がきっかけで、大々的に 「次の世継ぎは竹千代」 と宣言します。
 表向き、家中の動揺を鎮めるため、と言いながら、家康にそれ以上の思惑がうかがわれてこない。 見ていてとても、消化不良が残る。

 結論的に江と竹千代、家康と秀忠との擦れ違いを描写するうえで、このドラマはとても工夫が感じられなさすぎる、というように、私には思えるのです。

 しかしいっぽうで、この回はよかった点もある。

 おおばの局が病に倒れ、それを家康、江、秀忠の3人が入れ替わり立ち替わり見舞いをする場面です。

 おおばの局はこの回、福を媒介とした江と竹千代の関係が悪化していくことに、心を痛めていた。 でも彼女は、それをなかなか言い出さなかった。
 またツマラン話の引き延ばしをしているのかと思ったのですが、いきなり倒れることで(笑)見ている側のモヤモヤした気持ちは一気に解消に。

 つまり、なぜ自分が竹千代と江(秀忠含む)の関係悪化を今まで忠告もせずに来たか、ということについて、ほかならぬ自分も、家康と秀忠の関係悪化を形成した張本人だったからだ、と打ち明けるのです。

 なるほどな、と思いました。

 ここでおおばの局は江に、「親だったら自分の子をあきらめてはなりませぬ」 と引退前の最期の忠告をするのです。
 ここらへんは見ていて心を動かされました(感動、と書かないところが自分でも意地悪だなーと感じます…笑)。

 同時にここでは、おおばの局が事態を傍観していたことの真意が、きちんと用意されていたのです。

 いったいこの脚本家先生、出し惜しみをしてるのかもともとなにも用意してないのか(爆)。

 まあおおばの局の最後の願いも、家康と秀忠との酒の席では破綻し、江と竹千代も、結局仲良くなることはできず。

 とりあえずいいところと悪いところがタペストリーのように(笑)展開した、今回の 「江」。
 あと何回ですか?
 まだ大阪夏冬の陣が残ってるけど、大丈夫ですかね?
 豊臣滅亡したら、一気に最終回かな?(笑)

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2011年10月18日 (火)

「南極大陸」 第1回 夢の力

 木村拓哉クン主演、TBS開局60年記念作品、「南極大陸」。
 スケールからなにから、力入れまくり、という感じですが、この話を最初に伝え聞いたときに感じたのは、「どうしてフジテレビが30年くらい前に手垢をつけた題材をやろうとするのか?」 ということでした。

 タロジロの物語と言えば、私どもの年代にはあまりにもスタンダードな、高倉健サン主演の映画、「南極物語」。
 別にそれが、たいしてヒットもしなかった映画だったら二番煎じも意味があると思う。
 けれどもこの映画、スンゴイ空前の大ヒット映画で。
 「北の国から」 の純クンも、この映画を見ながら童貞喪失したほどの作品(違ったっけな?…笑)(ちなみに 「北の国から」、第1シリーズBSフジで絶賛再放送中)。

 若い世代のかたにはピンと来ないかもしれませんが、おそらくその呪縛が、われわれ 「南極物語」 を見た世代にとってはドラマのあいだじゅうそこらを徘徊するような気がする。
 ただ個人的には、細部の話はちょっと記憶の彼方(相変わらずい~かげんだ)。

 この映画を見ていて当時そこはかとなく感じていたことは、高倉健サンが南極観測隊の隊員になっていることの 「場違いな雰囲気」 でした(メインの感想ではありません)。
 高倉健サンって、南極に行くような人かなあ?とか(笑)。
 もちろん健サンはゴルゴ13となって、砂漠をも歩き続けるような役もやってましたけど(笑)。

 このドラマを見始めていちばん最初に感じたのも、実はそのことで。

 なんか、「木村クンって、南極に行くような人かなあ?」 って感じたんですよ。

 もちろん木村クンは戦艦ヤマトに乗って銀河の彼方イスカンダルまで行ってしまうような冒険家ですから(笑)、別にこれは個人的な感想なんですが(ドラマ内でこの、「戦艦大和」 つながりがありましたね)。

 ただどうにも、木村クンだけが 「場違いなところにいる」、という気持ちが離れない。

 さまざまに検討を重ねてまいりました結果、それは彼が、カッコよすぎるというところからきているのではないか?という結論に達したのであります(美濃部サンか?…笑)。

 カッコよすぎるから、彼が子供たちに好かれている、というのもどうも嘘っぽく見えてくるし、だから子供たちが偽善者みたいに見えてくる(失礼)。
 カッコよすぎるから、彼が南極観測の国際会議で熱弁をふるっても、「若造がカッコつけて粋がってる」 ように見えてくる(失礼)。

 ドラマ的な効果を狙うのであれば、一見怖そうに思える人が子供たちに好かれていれば、視聴者たちはどうしてなのかと惹きつけられるし、貧相そうな顔の人が国際会議で熱弁を振るえば、敗戦国日本のみじめさが引き立つような気がする。
 木村クンを主役に据えることで、このドラマはそうした効果をあきらめているように、思えてくるのです。

 木村クンは使い方によって、とても効果を発揮する演じ手のような気がします。
 「MR. BRAIN」 とか、エンタテイメント性の濃いドラマではその力を存分に発揮する。
 けれども彼の演技の幅は、そんなに広くない。
 これは本人の意図的に、木村クンがその役である前に木村拓哉であろうとしていることの表れだ、と私は以前から何度もこのブログで指摘してまいったのですが、だからこそ 「キムタクは何をやってもキムタク」、と言われる危険性を、常に孕んでいる。

 ただその 「キムタクカラー」 は今回ずいぶん押さえられている気もしましたけどね。
 まわりの役者さんたちがすごすぎるので、自分色をあまり出せないのかもしれませんが。
 でもそれでも、彼は頑張って、自分らしさを出そうとしている。

 最初のほうではそんな木村クンの演技が気になったせいか、南極に行く必然性というものが、あまり説得力を持たないように思われました。
 けれども考え直してみたんですよ。
 必然性を感じないって、それは木村クンの演技のせいじゃなくって、自分が夢というものを失っているからなんじゃないかって。

 子供たちが少ないこずかいを持ち寄って、南極観測への寄付に詰めかけ、大の大人たちも観測船 「宗谷」 の完成に自分の仕事そっちのけ?で駆けつけ、技術者たちが当時の最先端の技術を提供する。

 その演出方法には、ちょっとクサイという印象もありましたが(「華麗なる一族」 を連想させるシーンもあった)自分のなかには、当時の人々のように、「冒険に夢を馳せる」 という気持ちが果たしてあるのか?と感じたんですよ。

 確かに 「はやぶさ」 とか現代でも夢のある話は存在しているのですが、少なくとも自分は、やけに傍観者的。
 それに寄付金を出そうとか、仕事をほっぽり出して何かをしようとなんて、けっして思わない。
 なぜならほかの人がやってくれるから、なんですよ。

 その構図は、今年の東北東関東の大震災によって崩れつつありますけど、それは 「紛れもない自分たちが当事者なのだ」 という気持ちが、募金もさせるしボランティアもさせるんだと思う。
 翻って国民が熱狂するような夢は、現在あまりにも冷笑されすぎてはいないか。

 おそらく南極観測隊の活動が国民から脚光を浴びていたのは、その初期だけだったようにも思われます。
 私が物心ついたとき(1970年代前半)は、もうすでに熱狂も醒めて、「紅白歌合戦」 のときにメッセージをくれる人たち、 程度の認識だった気がします。
 出来てしまうと、もうそれが当たり前になってしまう。
 困難を伴うからこそ、人々は熱狂する。
 夢が持つ力に、人々は突き動かされる。

 この物語は、戦後のどん底の時代からなんとか這い上がろうとした人々の気概を描いている。
 それは自分の傍観者的な態度、冷笑主義にあらためて突きつけられたものであると同時に、このドラマを見るということは、自己確認の作業でもあるような気がするのです。

 そんな夢のために駆り出された、南極観測隊の移動のためのそりを引く犬たち。
 ドラマではその犬たちがいろんな場所から提供され、訓練に励みます。
 犬たちが思うように動かなくなったときに、リキという犬がそれをリードしようと群れに向かって突進する。
 それに反応して走りだす犬たち。

 私はそれを見ていて、なぜか知らないあいだに、涙がこぼれて仕方ありませんでした。

 「南極物語」 の映画を見ているから、私にはこの犬たちが、タロ、ジロを除いてみんな死ぬことが分かっている。 だから泣けたのだと思うのですが、「人々の夢のために死んでいく犬」、なんて構図って、現代じゃ許されるのかな?みたいにも思う。 たぶん犬たちを見棄てて帰ってきたら、非難轟々ですよ、いまじゃ。

 でもその当時はまだ、そりゃ非難も隊員たちの苦悩もあったと思うのですが、「誰かのため、何かために命を捨てる」 ということへの美徳が、まだ日本人に存在していたように思う。
 爆弾三勇士の話をはじめとして、玉砕という言葉に人々が心を奪われたのは、「どう生きることが価値があるのか」、という考えに、現代との間に大きな違いがあったことの表れなような気がする。 「どう死ぬのか」 ということにまだ考えの重点があった。

 私が泣けたのは、人間の思惑によって翻弄されている犬たちの、あまりの健気さに対してだった気がします。

 人間のためにそりを曳き続け、やむをえない事情があったにせよ、人間のために死んでゆく。

 そしてそのなかで生きていた犬を奇跡と称して、人間たちは感動する。

 感動さえも道具にしてしまうことに対しての嫌悪。

 犬たちは精一杯生きたんだ、という擁護の言葉にも、私は偽善的なものを感じるのです。
 納得しようとしているのは、人間だけ。

 でもそんな話を見ていくうちに、精一杯生きねばならない、という気になってくるのも、確かなのです。
 精一杯生きる。 自分の不幸を嘆かずに。

 心ならずも死んでいった犬たちは、やはり最後まで精一杯生きたということに、偽りはない。
 その、精一杯生きた瞬間瞬間が、もっとも価値があるのだ。
 一生懸命になっている人や、犬たちの姿を見て、自分の生き方をもう一度問い直す。
 このドラマの真の姿は、そこに存在しているのだと思います。
 そして木村クンも、その輪のなかに、確かに存在している。
 誰もかれもが一生懸命だ。
 そのことを傍観者的な態度であげつらうことは、間違っている。
 まずは自分の人生を見つめよ。

 本編の内容をほとんど書かず、話がきわめて抽象的になってしまいましたが、このドラマを見た感想だけを書いてしまいました。

 ただプロジェクト立ち上げから出航までも苦難の道のりでしたが、南極観測の本当の修羅場はこれから。

 民放の意地を賭けた 「民放の大河ドラマ」 に、期待したいと思います。

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2011年10月16日 (日)

「カーネーション」 第2週 自分という存在は自分の気力が作り上げる

 この朝ドラは、かなりの傑作の部類に入る、と開始早々断言したくなってまいりました。
 でもなあ。
 いままでいくらほめてる朝ドラでも、いろんな要因で途中で見なくなっちゃうことが多過ぎるので、いい加減な奴のタワゴトと話半分で受け取ってもらっても結構でございます。

 主人公が夢を持つ。
 そしてそれを親から反対される。
 けれどもその困難を主人公は乗り越え、親が聞きいれる。

 そんなお話をドラマでは腐るほど見てまいりましたが、このドラマの取った方向は、「そうしなければ父も娘も自分というものが保てない」、という厳然たる必然性を伴っているように思えてなりませんでした。 必然性のレベルが違う。 すごいなあと思うことしきりなのであります。

 女学生になった糸子(尾野真千子サン)の日常が、今週冒頭では描写されます。
 女学校にも裁縫の時間はあるけれど、裁縫好きの糸子はとっくにそのレベルを大きく超え、ほかの授業が時間の無駄に思えて仕方ない。

 そんな糸子が実家の呉服屋の集金の際に見つけたパッチ屋(モモヒキ屋、着物の修繕屋、みたいな感じですかね?)。
 そこにあったミシンに、糸子の目はくぎ付けになります。
 鼻を店の窓ガラスにこすりつけ、「ほぁ~~~」 と間抜けな声を上げる糸子(笑)。

 ペダルを踏み、車輪のようなリングが回転し、ダダダダダと猛スピードで生地を縫っていくその機械を見て、糸子は幼いころからの憧れだっただんじりを連想する。
 職人がこの、手動式ミシンを縫う様は、まさに魅惑的なパフォーマンス。 芸術性をも感じさせるほどの演出です。

 「走っちゃあた…。
 キレが走っちゃあた…。
 あの速さ…。
 あのコマ…。

 だんじりや…!

 見つけてしもた。 …だんじりや!

 あれはうちが乗れる、だんじりなんや!」

 ここで作り手は、画面で実際にミシンのだんじりを操る大工方の糸子を再現して見せた。
 この見せかたには、うなります。 糸子にとって舞踏会参加に続く、第2の衝撃的出来事です。

 それからというものの、糸子は自分が布を縫う速度の遅さに、ほとほと辟易するようになる(笑)。
 つまりこの時点で、糸子が好きなのは裁縫そのもの、ではなく、自分のイメージする洋服を作ることだ、という提示がされている。 自分の作りたいものを作る、というその速度に、手縫いが追い付いていない、のです。

 当然糸子はそのパッチ屋に足しげく通うようになる。
 そのうちにパッチ屋の主人(トミーズ雅サン)に見初められ、そのパッチ屋で職人さんたちの手伝いをするようになるのです。
 ここでどうしても指摘しておかなければならないことがあります。
 トミーズ雅サン、顔デカすぎ!(爆)
 なんか私この人久しぶりに見たんですが、以前より肥大化している気がする(笑)。

 そのパッチ屋の手伝いをするようになって、糸子は働くことの楽しさを実感するようになります。

 「働くっちゅうんは、なんてオモロイことなんでしょうか。

 うちがイッコ働いたら、まわりはイッコ喜ぶ。

 ほんで、そのたびにうちは、イッコ大人になれるような気ぃがします」

 家事を手伝うようになり、糸子はひとり満足していく。

 「どないしよう。 うちどんどん大人になってるやん」(笑)「うちはもう、ごっつい大人や…」。

 大人になりたい糸子の気持ちが、仕事をするということの喜びと合致した瞬間。
 現代のモラトリアム社会に対する強烈なパンチのような気もいたします。

 この糸子のパッチ屋通いは糸子の伯父によって善作に知れることとなるのですが、これを機に女学校をやめてパッチ屋で働きたい、と言い出した糸子の願いを、善作はかなり強い調子で反対します。 これは呉服屋の娘がパッチ屋で働く、ということもさることながら、自分が苦労して女学校へ行かせていることの誇りも傷つけられた格好であり、呉服屋が繁盛してないように言われることへの怒りもある。

 善蔵の反対のしようは暴力むき出し。

 けれども顔に傷をつけられながらも、足蹴にされながらも、糸子はあきらめない。

 「怖かった。

 けど言えました。

 一回ゆえたら、二回ゆえる。

 二回ゆえたら、三回ゆえる」

 一度足を踏み出せば、あとは野となれ山となれだ。 あとは惰性で、どうとでもなる(笑)。
 これも現代に向けての強烈なメッセージのような気がする。

 いっぽう、その糸子の父善作は、岸和田の大地主、神宮司源蔵(石田太郎サン)との大商いに、自分の呉服屋の命運を賭けています。
 源蔵の息子が洋式の結婚式をすることでいったん商売の機会を逃してしまっていた善作でしたが、源蔵の娘が結婚、ということになって、その衣装を任されることになるのです。

 大地主の源蔵は吉田屋から、善作の商いについての悪評を聞き及んでいます。 それでも昔のよしみや、娘4人も養わねばならない事情を察し、善作に大商いをさせてやろうと考えている。
 この源蔵の心遣いが見ていて癒される。
 善作は、その源蔵の意気に触れ、男泣きしてなんとしてでもこの仕事を全うしようと考えます。

 しかし質のいい反物は、現金払いでなければ出来ない、仕入れ先から言われ、善作は窮します(chie様、ご指摘ありがとうございます。 訂正削除させていただきました)。

 ここでは善作の商売があまり評判のいいものではない、という事情も裏に隠されている気がする。
 善作の呉服屋が繁盛していて、信用もあるのならば、仕入れ先はいくら不景気でもその信用に免じて現金払いなどということも言い出さないんじゃないのかな。
 しかも顧客が大地主だと知れば、そのことだけでも仕入れ先の信用は増すだろうに、善作は顧客が誰なのかも仕入れ先に言わない。
 善作の商売が下手くそなことが、ここからもうかがえるのです。

 結局善作は、いつもの手段として女房の千代(麻生祐未サン)を裕福な実家へ金借りに出させるのですが、先方の千代の父親清三郎(宝田明サン)は善作に直接来させろ、という。

 善作は千代には精一杯粋がるのですが、糸子をワンクッション役として同行させることにする。
 そして内心ビクビクながらも娘の前では威厳を保とうとしたまま、善作は妻の実家に足を踏み入れる。

 「金は…貸せん。

 なんでか分かるか?」

 「これまでの、借金のことでしたら…」

 清三郎は、馬鹿にしたような、自分の娘の掠奪者に復讐するような笑い声を上げます。

 「せやからオマエは、小物やっちゅうねん」

 清三郎はもう呉服屋の時代やない、オマエんとこみたいな商売しとったら、もって5年や。 うちの工場に人手がいるから、オマエひとりで行け。 オマエにはもう、任せられん、と実に冷静な、善作がぐうの音も出ない話をするのです。

 話が進むたびに、生気を抜かれていくような表情になっていく善作。

 清三郎の妻貞子(十朱幸代サン)が 「千代らぁをここに住まわせい事ですか。 そらぁ、楽しなりそうやなあ…」 と千代の母親らしいおっとりぶりで、善作の気持ちをますます疎外しにかかります。

 糸子たちと鬼遊びに興じる清三郎。 それを見てのんきそうに笑い続ける貞子。
 善作は、ふぬけになったようにそれを眺めます。

 ここの描写。

 精一杯自分では頑張った気になって、ひとかどの店も持ち、大家族も養っている。
 そんな自分が、実は虚像だったということを、善作が思い知らされている場面だと私は受け取りました。
 いっぱしの存在である自分だからこそ、女房にも娘にも、母親にも大きな顔をすることが出来ていた。 威張ることが出来ていた。
 そんな自分が、実は見栄が作り上げた虚構だった。

 実際冷静になって考えてみれば、善作は女房の実家からその時点まで逃げ続け、集金も 「苦手やから」 という理由で糸子に押しつけ続け、資金繰りに困れば女房に頼りきりで、いやなことからことごとく逃げ回っている。
 しかもそのくせ、パッチ屋で働きたいという糸子に対して、店先にもかかわらず茶碗を投げつけたり、自分の呉服屋のイメージが悪くなるとか、一切考えてないフシがある。
 これでは商売もたちいかなくなる、というのは自明の理なような気がします。

 そんな自分の小ささを、清三郎は一刀両断に切り捨てたのです。
 善作にとっては、自らの存在意義が粉砕されたも同然です。

 だんじりの山車を見ながら、善作は自分もいずれはこのだんじりのてっぺんに登ってみたかった、と泰蔵(須賀貴匡サン)に話し、 「自分には、根性が足らんかったのう…」 とつぶやく。
 善作の心のなかを、善作の人生全体を、むなしく風が吹き抜けていることが分かるシーンです。

 善作は大地主の源蔵に、花嫁衣装を断念したことを告げに行きます。
 源蔵は善作に、それでも親身になって忠告する。

 「そらぁ分かる…。 けどなあ。
 やめるんやったら、早いうちやでぇ。
 商売つうんはいったんつまづいたらどん底まで、あっちゅう間や。
 手ぇつけられんとこまで落ちたら、遅いで」

 このドラマ、怖い。

 いっぽう、糸子はパッチ屋に勤められない鬱憤がたまったまま、幼なじみの勘助(尾上寛之サン)がいじめられているのを助けようとし、逆にコテンパンにやっつけられてしまう。
 勘助はヘタレですが、糸子が腹を蹴られて動けなくなってしまったところを見て逆上し、自分をいじめていた連中に逆襲し、追っ払う。

 第1週で幼かったころの糸子が、勘助の友達のアニキとケンカして、対等に渡り合ったこととの、ものすごい対比がここにはある。
 糸子には、それがかなりのショックなのです。
 その幼い日に善作に張り倒されても泣かなかった糸子が、勘助に連れられて傷だらけのまま家に帰って来たときに、思いっきりおばあちゃん(正司照枝サン)にそのショックを吐き出すのです。

 「(腹を蹴られて)そんなに痛いんけ?」

 「痛ない。 …悔しいんや…!」

 「はぁ?」

 「勘助に助けられてしもうた…」

 「それがなにが悔しい?」

 「勘助に助けられるようになったらもうしまいや…!」

 「あほか。 なにがしまいやねん」

 「あんなヘタレかて、男やっちゅうだけで、うちより強なってまいよった」

 「ヘタレが強うなったんや。 結構なこっちゃないか?」

 「結構なことない。 なんも結構なことないわ!

 知らん間に、男だけがどんどん強うなっていきよって、うちおいてけぼりや…」

 階段の影から、いつの間にか善作が、糸子の泣くのを覗いています。

 「あんたは女子や。 女子には女子のやることがあるらしの。 あんたはほれ! 裁縫。 裁縫したらええわい!」

 「お父ちゃんがアカンちゅうんじゃ! アッパッパ縫うたらアカンち…!」

 突っ伏して泣いてしまう糸子。

 「ほなら、ほかのもん縫うたらええやん…」

 「イヤや…!!

 うちアッパッパが縫いたいんや…!!

 桝谷パッチ店で働きたいんや…!!

 ミシンはうちのだんじりなんや…!」

 「なんや、うちのだんじりて…?」

 「うちは、だんじりにも乗られへん…。
 ドレスも着られへん…。
 ミシンも使えんで…勘助にまで負けてしもうたんや…!
 もうしまいや…」

 泣きじゃくる糸子。

 おばあちゃんが、糸子の頬を両手で触り、糸子を慰めます。

 いたたまれない表情の善作。

 この三者三様の描写が、すごすぎる。

 糸子にとっての存在意義が次々抹消されていくなかで、糸子は初めて、あたり憚らず泣いてしまう。
 それを見た父親の善作は、同じく自分の存在意義を、見失っている。
 この父娘共通の境涯が、見ている側にとてつもなく共感を強いてくるのです。
 そしてその底辺に、特別孫を可愛がってるわけではない、ただの普通のおばあちゃんが、孫のかなしみの受け皿になっている。
 この構造。
 泣ける、というよりも、凄みを感じるのです。

 そして善作は、糸子のパッチ屋勤めを容認する。

 このドラマを1週間分1時間半通して見て感じたのは、善作が先週の糸子同様、週の半ばで一気に意気消沈してしまう場面のダイナミズム。
 それまで威勢のよかった善作がすっかり気力を無くして、布団にくるまってしまうことが、「自分を見失ったとき」 をよくあらわしているな、ということでした。

 自分という存在は、自分の気力が作り上げるものなんだ。
 糸子にとってその原動力は、ドレスが作りたい、という衝動であり、善作にとってそれは、一家の大黒柱であり続けること。
 いくらそれが有名無実化しても、見栄に彩られた空っぽの自分だとしても、自分というものを見失えば、人は自分の置かれた環境のなかでの自分の役割の意味も失い、社会的に生きることが出来なくなる。
 そしていったん自分が無気力になってしまえば、どん底にまで行きつくのは、あっという間なのだ。

 善作が糸子の希望を聞き入れることに、これだけの必然性が伴っていることに、私はちょっと、感動してしまいました。
 まだ先は長いですが、なんか頑張ってみようという気が起きてきた、「カーネーション」 なのです。

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2011年10月15日 (土)

「塚原卜伝」 第2回 錯綜する思惑と 「か~るいボクちゃん」(笑)

 「旅は何が起きるか分からぬほうが面白いから」 と中尾彬サンの好意を断り、紹介状もなしに徒手空拳で(刀は持ってるか…)京入りした新右衛門(のちの塚原卜伝、堺雅人サン)。
 「腕が鳴るぞぉ~~っ!」 と意気揚々たるものですが、次のシーンで 「腕ではなく腹が鳴った…」 とグウグウ鳴る腹を押さえる(笑)。

 「なんのあてもないなんて、だから中尾サンの申し出を断るべきじゃなかったのです」 とブチブチ文句を言う供の左門(平岳大サン)。 「当てもなく都に上るなど、潮路も知らず船出するようなもんですよ」 と痛いところをつかれ、渋面の新右衛門。

 ところがこの導入部、新右衛門が次に対戦する相手の評判 「海内無双の剣士」 の、ひそかな呼び水になっている。 「海」 つながり、つーか(こじつけかな?)。

 同時に 「あてもない旅」 にもかかわらず、冒頭部分で京入りしたばかりの新右衛門たちが助けた武家の娘が、京ことみサン(シャレか?…笑)。 ここから新右衛門は鹿島流の名を上げる鉱脈をはからずも探し当てる。

 で、その京サンの父親が風間杜夫サンで、大内家の家臣。 そこに納品する商人の娘が有森也実サン。 さりげなく 「ゲゲゲ」 ファミリーが固めております。
 その大内家が細川家と対抗して将軍足利義尹(本田博太郎サン)の前で御前試合をするというので、それに新右衛門は駆り出されることになるのです。

 この冒頭部分だけで、結構いろんな情報(裏情報も含め)が詰まっている。
 しかもこのドラマの標榜するスタンス、というものを、さりげなく打ち出している。
 「飄々と、勝負の世界を描写する」、というスタンスです。
 そこにはご都合主義(ぐーぜん大内の家臣の娘を助けたとか)も存在し、しかもギャグ的要素も織り交ぜる。

 このギャグ的要素のなかに絶妙(でもないか?…笑)に組み込まれているのが、新右衛門を演じる堺雅人サンの、「なんとな~く軽い」、「か~るい卜伝、ボクちゃん」 なのです(笑)。

 このボクちゃん(笑)、風間サンからの御前試合の申し入れにも、ふたつ返事で 「い~ですよ」(笑)。 同時に風間サンお抱えの草の者の尾行を新右衛門がそれとなく見破ったことも描写し、ボクちゃんの 「飄々たる手練者」 を表現していくのですが。

 どぉ~もこの、なんつーか(笑)。

 ボクちゃんは 「勝てば鹿島の名が上がるなァ! 天下一っ! 天下一っ!」 と左門とふざけ合う。 なんかもう、自分は勝つに決まってるとばかり思っている感じで、しかもノリが軽い(爆)。
 新右衛門の反応が軽すぎて、「すごい自信家だなこの男」 と思うと同時に、御前試合の重大さが、伝わってこんのです(笑)。

 かえって物語の語り部が神経を注いでいるのは、どちらかというと風間杜夫サンが演じる、平賀丹後守の虚々実々の思惑。 この男、ただものではない、ということを作り手は強調しようとしている。
 そしてそのただものではない男が、東国の田舎剣法だと思っていた鹿島流の認識を改める場面を挿入することで、か~るいボクちゃんのすごさがまた際立っていく。

 しかしそれにしても。
 大内と細川が復権に肩入れしたとはいえ、足利といえば将軍でしょ。 御前試合ともなると、すごい大イベントじゃないっスか?(笑)
 しかも義尹役の本田博太郎サン、白塗りにお歯黒だし(カンケーないか…笑)。
 いずれにしても御前試合の重大性をもっとアピールしてもよかったのでは?

 ともかくまあ。
 その試合が近づくにつれ、新右衛門は自分の体がヤケに重いことに気付きます。 相手は「海内無双の剣士」 で20回負けなし、しかも真剣勝負を所望している。 緊張が、知らず知らずのうちに、新右衛門を蝕んでいたのです。
 鹿島の海を懐かしむ新右衛門。 自分の原点を、見つめ直そうとしているのです。

 このシーンを見ていて、500年も前の人物が、やはり故郷を懐かしむ、ということに、ある種の感慨を禁じ得ませんでした。

 自分にとっての懐かしい場所は、自分の原点。

 昔はいまなんかと比べ物にならないくらい風流な時代だっただろうに、やはりそれでも、京の汗ばむ重苦しい空気のなかで、思い出す自分の故郷がある。

 そこに遭遇した、風流踊り。 無病息災を願って行なわれる都踊りの輪に、新右衛門は故郷鹿島の祭りを思い出し、加わります。

 「のう左門。 俺はいつの間にか思い詰めていたようじゃ。
 勝とう。 勝たねばならぬ。
 試合が決まってからそのことばかり考えておった。
 だが、思い詰めては心が固くなる。 心が固くなっては、身が締まらぬ。

 ただのびやかに、おのれの剣を振るえばそれでよいのじゃ」

 思い詰めるな。

 のびのびと自然に振る舞えばよい。

 これは現代にも通じる人生訓になりえる重みを持っています。
 だけどボクちゃんが言うと、これがか~るくなっちゃうんだな~(笑)。

 そして試合当日。 新右衛門は鞍馬流を操る相手の男の剣の重さにひるみ、丹後守の部下との腕試しの際に相手が使っていた、「剣を後ろ手に持ってどちらの手でもってそれを使ってくるか分からなくする」 という方法を使ったり、ちょっと悪あがきをします。

 この 「どちらの腕に刀を持って攻撃してくるか分からなくする」、というのは、白土三平氏のマンガによると(笑)相当相手が嫌がることなようでして、それを 「カムイ伝」 の抜け忍カムイが発展させた技が、変移抜刀霞切り(懐かしい…オッサンだオレも…笑)。

 この試合。

 前回(第1回)から共通して、スローモーションでやっている部分は、やはり実際にもゆっくりと演技してるんだろうな、というのが分かって、ちょっと興醒めの部分もありました。
 ただこの、相手の技に対して自分がこう仕掛けていく、という駆け引き。
 そして劣勢に立たされた側の主君、大内と細川の表情の変化。
 それらがとてもよく描けていた。
 こういうのに、男の子はシビレルのです。

 「虚実に惑わされるな。

 風を思え。

 天を思え。

 地を思え――」

 風流踊りがフラッシュバックします。
 鹿島の海が、フラッシュバックします。

 「ただ心を、のびやかに――」

 新右衛門の構えが変わります。
 新右衛門はまったく力を抜いたままの状態で、相手の重い剣をさばき、舞を舞うように相手を翻弄する(まあもうちょっと華麗にやってもいいよーな気もいたしましたが…笑)。
 無念無想の境地のまま、新右衛門は勝負に勝つのです。

 うーん、欲を言えばキリがないが、なかなかよかったぞぉ~っ。

 ここで立ち会った者たちの表情を克明に追うことで、ドラマ的なカタルシスは最高潮に達するのです。 使い古された方法ではあるが、ドラマを魅力的に見せる王道だと感じます。

 ところがこの勝利の余韻も消えぬうちに、京ことみサンが父親の風間杜夫サンに向けて、負けた者の恨みがぶり返してくること、そして新右衛門が勝利に驕ってしまうことの危惧を打ち明けるのです。 次回に向けた興味が、これでまた持続することになる。

 か~るいボクちゃんのおかげで話がいたずらに重たくなることはないのですが、その分却って気楽に見ることができ、しかも勝負の面白さもひき立っている。

 佳作レベルの常道を目指した肩の凝らないドラマ、と言える気がします。

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2011年10月13日 (木)

「家政婦のミタ」 第1回 本当は怖いおとぎ話

 「リバウンド」 から1クールおいて、また遊川和彦サンの新作。 ペースが速いな、というのが第一印象。
 まずどんな話なのか、というカテゴリー分類しようとすると(レッテル貼りたがる悲しい性ですが)、まずはホラーがベース、なのでしょう。 けれどもなんとなくブラックジョークの匂いもする。 同じ遊川サンの作品で論じれば、真面目人間に周囲がドン引きして笑わせる、というパターンは、「曲げられない女」 っぽくもあるし。 鉄面皮の女が結局周囲をよりよい方向に導く、という逆説的な部分は、「女王の教室」 を想起させるし。

 「家政婦のミタ」 というのは 「家政婦は見た!」 からの引用なのでしょうが、私の場合 「コピーはミタ」 を連想しました(ビルがスローモーションで崩れていくCM、バックには阿川泰子サンの歌う 「グッドバイ」。 この1980年代のCM、すごく好きでしたけど、三田工業のその後を暗示しているようでしたね)。

 主演の家政婦、三田を演じるのが、松嶋菜々子サン。 個人的には 「利家とまつ」 以来かなぁ。
 今年38歳ですか。 ますますお美しい、とゆーか、一切無表情。
 これまでの松嶋サンのイメージからは完全に乖離した役柄、という気がいたします。
 感情を一切表に出さないせいか、演技力なくてもOK、という気もいたしますが。
 でも無表情だから、男の私としてはそこに、ある種のエロチシズムも感じる。 やはり、美しい、です。
 そしてそのスレンダーな長身を、ドラマは無造作にアピールする。 彼女が演じる家政婦の内的な独特の感情が、そこに存在してくる気がするのです。

 いま述べたように、このドラマのいちばんの特徴は、この、人間的感情一切ゼロかつ仕事を完璧にこなす、三田という家政婦。
 きっちり時間通りに行動し、瞬時にその家庭の料理の味をマスターし、重いものを難なく持ち上げ、しかも熱いものを持っても熱がらない、やけどもしてない様子。
 この最後の様子からすると、「この人ロボットか?」 というほどなのですが、このドラマはそんな、SF的なものを目指してない、と感じるんですよ。 「実はロボットだった」、なんてオチ、あり得そうもない。

 おそらくでも、この家政婦は 「女王の教室」 の天海祐希サンがそうだったように、最後までほぼ、人間としての感情など出さないままだと予想されます。

 その予測から考察いたしますれば、このドラマは 「現実にありうる話」 を目指していない。

 「おとぎ話」 を目指している。 そう考えられるのです。

 ドラマ冒頭から、この家政婦が入る阿須田家の様子が描写されるのですが、この家は母親が亡くなってようやく四十九日を迎えています。
 優柔不断で子供たちに強いことも言えない、威厳もない父親(長谷川博己サン)、母親代わりに家事をやろうとするけど全く出来てない長女(忽那汐里チャン)、何かと食ってかかるのが見ていてうざったい長男(中川大志クン)、クールで勉強オタクっぽい次男(綾部守人クン)、母親を病的にまで恋しがっている次女(本田望結チャン)が構成員。
 散らかり放題の薄暗い家のなかで、家族全員が、見ていて何か、イラっと感を助長する誇張が行なわれている気がする。
 その 「オーゲサ」 なウザったさが、「現実とは少し違う、少し不思議(SF、by藤子F不二雄サン)な感覚を見る側に誘うのです。

 私が 「このドラマはおとぎ話だな」 と感じたのは、この三田という家政婦を紹介した紹介所の所長、白川由美サンが長谷川博己サンにかけた一本の電話。

 白川サンは、その三田という家政婦のコミュニケーション能力を心配しながらもその完璧な能力をアピールし、三田が 「誰かを殺せと言われれば、殺してしまうだろう」 という物騒なことを言って電話を切るのです。
 これってなんだか、「童話」 みたいじゃないですか?
 現実にはありえない。

 三田は完璧に仕事をこなし、その果てに、白川サンが危惧したように、亡くなった母親に異常に会いたがる次女に頼まれ、一緒に入水しようとする。
 ここでふたりが死んじゃったら第1回で話は終わりですから(爆)周到に長男によって助けられるのですが、遊川サンはその程度の話で 「あー怖かった」 と済ませるような作り手ではないのです(笑)。

 ここでそのクライマックスの状況を導き出す役として、ドラマではその亡くなった母親の妹、として、「リバウンド」 での演技も記憶に新しい相武紗季チャンを配します。
 彼女は忽那汐里チャンの学校の教師でもある。
 教師のクセして彼女は極度のKY思考で何かって言えば阿須田家をメチャクチャにする。
 彼女の存在自体もまた、戯画的でおとぎ話っぽさを助長していますが、彼女が次女の誕生日に死んだお母さんに会わせてあげる、などと安請け合いをしたものだから、阿須田家はまた修羅場になっていくのです。

 で、その相武紗季チャンが火種を撒いて 「はいちゃー」 と行っちゃったもんだから、その後の阿須田家はそれまで母親が亡くなったモヤモヤをみんなが吐き出してしまう、という事態に。
 感情的になった長女が、母親が死んでからそのままだった母親の持ち物を全部捨てて!と三田に頼みます。
 三田は、極めて機械的に母親の持ち物を片っ端から庭に投げ捨て、それに火をつける。

 目の前で跡形もなく燃えていく母親の遺品。

 その燃え盛る火を前にして、子供たちはその思いのたけを叫びまくる。
 長女は自分が母親役になれないことの苦悩をさらけ出し、クールな次男もほめてくれる人がいなくなったことの悲しみをぶちまけ、次女は自分が言ったひどいことでお母さんが死んじゃった、という、彼女が異常に母親に会いたがっていた理由も告白した。

 でもこの状況を客観的に見ると、これってかなり、近所メーワクな話であります。
 だいたい三田、可燃性の燃料(灯油かな?)を撒いてから火をつけてるし。
 こーゆーのは、ダイオキシン規制条例に反します(笑)。
 しかも宵の口でしょうけど、庭先で家族が入れ替わり立ち替わり大声で叫びまくってるし(火が燃えてると、原初的欲求が突き上げるものです…笑)。 迷惑防止条例違反であります(笑)。

 まあお隣のイヤーミなオバサンが抗議してましたけどね。 ホントだったらこの人ひとりしか出てこない程度で済むわけがない。
 それが、おとぎ話っぽいんですよ。

 ここで三田はそのイヤーミなオバサンに水をぶっかけるのですが、オバサンの抗議で火を消して、と長谷川博己サンに言われたため、延焼を防ぐ、という目的のためにやった、と三田はまた、機械的に話してました。
 ただちょっとここで、三田の感情が垣間見えた気もする。
 いや、でもあり得ないか(う~ん…)。

 この、杓子定規ばかりのことをしている三田が作り出す笑い、というものも、ドラマには存在しています。

 AKBの48人の名前をすべて言えるというのもご愛嬌ですが(笑)、先の相武紗季チャンが目論んだ 「死んだお母さんに会わせてあげる」 というのってどーゆーことなのか探りを入れろ、と長谷川博己サンから頼まれて、妻の父親である平泉成サン演じる頑固オヤジに極めて事務的にべらべらと内情をしゃべっちゃったり、あまりにそのしゃべりっぷりが機械みたいで笑えた笑えた。

 そして物語が展開していくうえで、溺れて亡くなった、という母親が、実は自殺だった、ということが、徐々に明らかになっていく。

 忽那汐里チャンのケータイに残された母親からの最後のメッセージ。
 そして浮気をしてそーな、長谷川博己サン。

 このドラマにリアルを求めると、ちょっと否定的な感想しか導き出されない気がいたしますが、松嶋サンの強烈なキャラクターに惹かれて、次回以降も見てしまうような気がいたします。

 先にも書きましたが、おそらくその、けっして開くことはないであろう彼女の胸の内を、さまよいながらも探りたくなっている心境であります。

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2011年10月10日 (月)

「ルパン三世」 声優陣交代…にいろいろ思う

【まんたんウェブ】 放送40周年を迎えた人気アニメ「ルパン三世」の声優陣が16年ぶりに変更されることが9日、関係者への取材で明らかになった。ルパンの永遠のライバル・銭形警部を「山ちゃん」の愛称で知られる人気声優の山寺宏一さんが担当するほか、石川五ェ門役を浪川大輔さん、峰不二子役を沢城みゆきさんが務める。なお、ルパン役の栗田貫一さん、次元大介役の小林清志さんは続投。12月に放送される1年10カ月ぶりの新作スペシャル「血の刻印~永遠のMermaid~」(日本テレビ系)で新たな“ルパン一味”が船出を飾る。

 というニュースには、第1シリーズからずっとフォローしているファンとしては特別な感慨があります。 確かリアルタイムで見ていた記憶があるなあ。 裏番組がカルピス劇場で、「ハイジ」 でもやってたかな?と思って調べてみたら、「アンデルセン物語」 と 「ムーミン(セカンドシーズン)」 だった。 道理で、あのアニメはあんまりマジメに見てなかった記憶がある。 ただいつもひとりで見ていた記憶しかなくて、当時はファミリー向けのアニメじゃなかったことがうかがわれます(当時私は6歳のガキだったんですが…笑)。

 最近のテレビスペシャルでは、さすがに銭形役の納谷五朗サンが、もうフガフガで。
 御歳81ともなれば致し方ない部分もあります。 御病気されてからますますヨレヨレ感が増した。 「ルパーーン!」 じゃなくて 「ル~~ファ~~ン」 みたいな感じ。
 そしてやはり悲しかったのは、不二子役の増山江威子サンの声が、とても出しにくそうにしていらっしゃったこと。 やはりご高齢ともなると、安定した声量が出せなくなるものなのかな、という気がいたします。 ただしやはり個人差はあるとは感じる。 ヘプバーンやメーテルの声をやっていらっしゃってた池田昌子サンなんかは、ちょっと不安定ながらも、なんとか昔の声が出せるような気がするし、タラちゃんの声をやってる貴家堂子サンはまったく変わってない気がするし(あれは特殊な声だからかな)。

 納谷サンと増山サンのアニメ界への貢献度を考えると、これはもう感謝というレベルでしか語れない気がする。 私の世代にとってはそんな、ガキの頃から見ていたアニメーションにおいて、これらのかたがたからとても大きな情操教育を受け続けた気がして、ならないのです。
 言ってみれば、そのかたがた全員に、勲章を与えたい心境。 野沢雅子サンしかり、永井一郎サンしかり、大山のぶ代サンしかり、大平透サンしかり、こないだ亡くなった滝口順平サンしかり(キリない…)。

 声優さんともなると、ボイストレーニングなどはやはりやると思うのですが、それでも声に張りがなくなっていくことは避けられないことなのかもしれません(さっき述べたように、個人差はあると思うのですが)。 つくづく 「若々しい声を保つ」、ということの重要性、難しさを感じます。

 見る側は無責任に、「あのキャラにはこの声」、そしていったんハマったならば、「その声でなきゃイヤ」 みたいな決めつけを行なう。 しかしそれがいかにガキっぽい発想であるか。

 その声を出す主体者としての声優は、どこまでもスーパーマンでいられるはずがない、ということに思いを致す必要が、やはりあると感じるのです。
 自分だって歳を取りゃ、変わってくんですよ。 いやおうなく。
 自分じゃイヤだと思っても、シワは当然として、それ以上になんか顔は変にごつごつしてくるし、声だって女性はどんどん低くなっていく傾向にあるし、男性は妙にダミ声になったりかすれがちになったり。 白髪はまだしも、髪質だってサラサラヘアーにならなくなってくる。 男の場合はハゲてきたりするし。

 まあ若いころは自分もそうだったですが、「お前だっていずれはそうなるんだ」、みたいに言われても、まったく意に介しませんでしたけどね。

 でも、マリア・カラスがそうだったように、人によってその輝かしい表現力が持続できるのは、ほんの一瞬のことなのかもしれません。 私もギターを持って結構がなりまくる人間ですが、「若いころの声が出せなくなった」、というのはとても感じる。 まあカラスとは比べ物にならないレベルの話ですけど。

 話は変わりますが、あらたに銭形をやる山寺宏一サン。
 私にとっては 「エヴァンゲリオン」 の加持役がもっとも印象的ですが、ドナルドダックとか、まあなにしろいろんな声が出せる、という意味で、「器用」 という評価もついてまわる人のような気がしています。
 確かに実力は常に伴ってはいるのですが、今回の交代劇でも、「便利に使われている、利用されちゃってる」 と感じるのは、私だけですかね。 すごく多才な人だからって、安易に年輩の声優陣たちの巨大な遺産をしょいこませるのは酷なような気もします(個人的な意見です)。

 次元役の小林清志サンは続投だそうですが、テレビでナレーションの声をやってるときとは違って、近年の次元の声は、やはりなんとなく元気がない気がする。 思いっきり現役でいる、ということも大きな力ですが、それが次元役であまり生かされてないような不思議な気がしています。

 ルパンの栗田貫一サンに関しては、もう山田康雄サンのものまねから、徐々に自分流にシフトしている感覚がするのですが、山田サンの演技力に比べるとどうしても 「聞き劣り」 の感は否めない。 これは資質の問題なんだと思います。

 そして肝心の 「ルパン三世」 というアニメ本体の話なんですが。

 その声優陣たちの変容が、見ているうえで限りなく邪魔になるという側面は、どうしても存在している。
 けれどもそれを取っ払ってみたとき、作品本体の方向性として、「こういう007みたいなお色気ありダンディズムありのアクションエンタテイメントでいいのか」 という疑問が払拭できない。

 「ルパン三世」 にとっていちばんの不幸だったのは(逆説な物言いをいたしますが)宮崎駿氏によって 「アニメーションメディアとしての傑作」 が作られてしまったことにある、と私は感じています。
 「アルバトロスの翼」「さらば愛しきルパンよ」「カリオストロの城」 における、宮崎イズム一色の一連の作品は、実はそのほかの 「ルパン」 に比べて、かなり異色な部類なのです。
 それはテレビの第1シリーズ後半での流れをくむものなのですが、そういう細かいことはいいとして、問題は、これらの作品を 「ルパン三世」 のファンたちは未だに待ち続けている、という構図が出来上がってしまったことにある。 まあここまでブランクがありすぎると、もう待ってる人もおらんだろうと思うのですが(笑)。

 でも、テレビのスペシャルシリーズを欠かさず見る人たちにとって、いつも念頭にあるのはこの、宮崎駿氏の作品なのです。 それ以上のものを期待して見ている。 かく言う私もそのひとりであります。
 そしていくら絵がうまくて話がしっかりしていても、宮崎駿という牙城を誰ひとりとして切り崩せない、という虚しさは、いつもついてまわる。

 さらに厄介なのは、この 「宮崎ルパン」 をはじめとして、かなりの作品が、原作者のモンキー・パンチ氏の画風から逸脱している、という点であります。 「ルパン対クローン」 の画風は発表当時、かなり原作に忠実だという話を聞いたことがあるのですが、いまから考えると決してそんなことはない。 いちばん原作に画風が忠実なのは、テレビの第3シリーズ、だったかな?ルパンがピンクのジャケットのやつ。
 だからルパンの顔は、そのシリーズとかスペシャル版によっていちいちコロコロ変わるのです(変装上手だからな…ってそんな問題か?…笑)。

 それらの要因がごちゃまぜになって、「ルパン」 の新作をテレビで見る私みたいな者たちは、いちいち複雑な気持ちで見なければならなくなる、ということになるのです。

 声優陣が一部交代して、その複雑な思いには今後ますます拍車がかかっていくでしょうが、それ以前に作品の質を上げていかなければ、そのうちわれわれだってみんな死んでいくし、シリーズ自体は永遠には続かなくなるでしょうね。
 って、そこまでの需要を自分が考える必要もないか…(笑)。
 50年後もまだ 「サザエさん」 とか 「ドラえもん」 とかが放送されているのかなあ…。
 いずれは終わるときもくるでしょうが。

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「江~姫たちの戦国~」 第39回 もう回数がないわ!急がなきゃ!

 今回の 「江」 はまさに、この題名の通り。
 話が2年後3年後に、スッ飛ぶスッ飛ぶ。
 秀頼はあっという間に17とか19とか(えーと…笑)。
 竹千代もあっという間に成長。
 竹千代の弟、国松もあっという間に生まれ、あっという間に剣の稽古。 いつの間にやら姫ももうひとり生まれてるし(笑)。

 あっけにとられました、正直。

 なんじゃコリャ(笑)。

 例えて言えば、夏休みの間なんにもせずのんべんだらりと過ごしてきた小学生が、休みの最終日になって母親から 「宿題はどうしたの?」 と言われ、猛スピードでそれをなんとか収拾しようとしている様に酷似しています(爆)。
 その小学生に責任があることは言うまでもないのですが、母親もその責を免れない。 という論理からいけば、脚本家に責任があることは言うまでもないが、NHKにそのおおもとの責任がある、ということになりましょうかね(ハハ…)。

 コメント欄を通じて当ブログでも再三申し上げてきたことですが、秀吉と茶々の恋愛話に、そもそも時間を割きすぎなのです、このドラマ。 それがメインの話だけではなく、そのことを描き始めたときから換算して、正味20回はやっていたと記憶している。

 この原因は、脚本家自身が、全体的な話の構想を、統括的な予定表として作成していなかったことに尽きる、と感じる。

 江の人生をトータルで考えれば、そして彼女の人生と歴史とのうねりの交わりを考慮すれば、秀吉亡き後(1598年)から豊臣滅亡(1615年)までの17年ほどの話にウェイトがおかれるべきです。
 そしてさらに言えば、豊臣滅亡から江の子竹千代が三代将軍家光としてその座につく(1623年)までの8年間を第2部的な動向として描くのが適当と思われます。

 話的な面白さでいけば、江と淀との関係の変容こそが大河ドラマの話としては適当であり、さらにわが子家光と春日局との確執が描かれるのが適当と思われる。

 しかるにこのドラマは、7歳児から大の大人を登場させてきたにもかかわらず、そのへんの話をうろちょろし続け、信長との交流に力を注ぎ、秀吉との猿蟹合戦に神経を費やし、あげくの果てに主役をほっぽり出して秀吉茶々の恋愛話ですからね。

 このドラマを見ていて強く感じるのは、脚本家先生が好きな人物に関してはしつこいくらいに掘り下げるのに、興味のない人物に関しては一切描こうとしない、という点です。

 脚本家先生がご執心なのは、信長であり、秀吉であり、秀忠である。
 そしてその 「興味のないこと」 の筆頭に来ているのが、江、であり、江が産んだ子供たち、なのではないか。
 ダメドラマになるのは必定。 「江」 というメインタイトルなのに、「江」 を描いていない。

 今回も江をめぐる話以外はそれなりに面白い。
 ところが江と来たら、またしてもブンむくれて、衆人環視のなか国松に授乳し(呆れた…)、竹千代なんか徳川にくれてやったから私の子じゃないくらいのことを平然と…いや失礼(笑)竹千代を奪われた怒りを家康に直接ぶつける。 「お前の産んだ子供は徳川の子じゃ」 と言う家康に、「いいえ、私の産んだ子供は竹千代以外はみんな私の子供です」 と言い張る江には、失笑を通り越しました(…)。 「やれやれ、どいつもこいつも」 と呆れる家康。 その呆れぶりは、すなわち視聴者が見ている呆れぶりと繋がるのです。

 まあそういう話にするのはいいのですが、その話こそメインにすべきじゃないんでしょうかね。 もっと腰を据えて。

 これが1年後、2年後、3年後のブツ切りの話として出てくるから、見る側は呆気にとられるしかなくなるのです。
 で、連想したのが、「夏休み最終日にウンウンうなって宿題をしている子供」(笑)。

 今回冒頭、おおばの局が 「御台所」 という地位をことさら強調する話をし出す。
 つまり、「あなた様は徳川最初のファースト・レディなんですよ」 という話。 「ファーストレデーだろーがわが子も抱けないなんてイーミなーいじゃーん」 と返す江。
 万事がそういう発想から出発してるんですよ、このドラマ。 セレブだのイケメン萌えだのファーストレディだの。 みんなワイドショー的発想じゃないですか。 バブリーだとか言われる源流ですな。

 同時に冒頭、またしても竹千代を隔離する福(春日局)とのちょっとしたやり取りもある。
 コメントをいただいた方からのご指摘にもありましたが、「どうしていつも竹千代は病気がちなのじゃ」 と、福の養育責任を追及してもしかるべき場面なのです、ここは。 それを 「またか」 みたいな呆れようで江は済ませてしまう。
 この話をもっとメインに据えるべきなんじゃないでしょうかね。
 でももう無理です。
 今回を入れて、あと7回ですから(笑)。

 つまり女どうしの確執なんて、この脚本家のかたは書きたくなくて仕方ないのです。
 脚本家のかたが書きたいのは、イケメン向井理クンのカッコイイ秀忠像。
 今回もイケメン秀忠は、伏見入りして豊臣擁護の姿勢を打ち出していくのですが、父親のやることには相変わらず冷静なアナライザーで、的確な解説に終始する。

 そして今回のメインは、成長した秀頼が民衆から大いに受け入れられている模様と、その当人の実力が底知れぬものを秘めていることを家康が実感する、というくだり。
 秀頼に家臣が家康との接見の際に針を仕込ませようとするのですが、秀頼は 「その必要なし」 と柱にそれを突き刺す。
 その針を回収した家康が同じように自分の手元にあった台にそれを突き刺そうとするのですが、それは虚しく転がり、家康は手のひらに、小さなけがをする。
 ここらへんのドラマ的な面白さは、確かにございました。 イチャモンをつけようと思えばつけられますけどね(だいたい目立つところに針を突き刺すなよ、とか…笑)。
 そして家康との接見に応じた秀頼の演技が、ヤケに激情的すぎるのもちょっと気になったけど(笑)、「ただものではない」 と家康に認識を改めさせるほどのものだったことも、ドラマ的には面白い。

 ただその裏で進行していく三姉妹の話は(裏なのか?)、初が夫の京極高次を失う話から、ようやく淀と江との間を取り持つネゴシエイターとしての役割を演じ出すところとか、いかにもやっつけ仕事的。
 もっと丁寧に出来るでしょう、というより、丁寧にやるべきなんじゃないでしょうかね。
 江と淀との関係修復とか、話をいくらでも膨らませることが出来るでしょうに。
 というより、「江」 が主役のドラマなのですから、今まで大河で繰り返されてきたことをやるより、そっちがメインになるべきなのではないでしょうか。

 しかも秀頼との間に千を差し置いて、側室があてがわれ、その側室との間にいつの間にか子まで出来ちゃってる。
 なんじゃソリャ。
 はしょりすぎでしょ、だいたい千姫が出てこないし。 まさか芦田愛菜チャンを使うわけにもいかないでしょうけど、どうして側室に子が出来たといって千の悲しむ姿をやらないのか、甚だ理解に苦しみます。 どうも次回は出てくるみたいですけど、大人になった千が。 ポッキー娘らしいですが。

 つまり話が飛びすぎて、いきなり大人になった千を出すわけにいかない、というのが実際のところなのではないか、と思われます。
 でも秀頼も急にワイルドな大人になってるしなァ(爆)。 その推測は違ってるかも。

 それを総括しながら、「江をめぐる内と外にも、淀をめぐる内と外にも、問題が降り積もっていったのでございます」 みたいなナレーションで事を済ませようとすることに、「宿題が出来なくて結局問題を解いたようなふりをしてテキトーなことを書き殴ってる小学生」 というものを、私などは連想するのでございます(爆)。

 話の細部にわたってツッコミを入れようと思ったのですが、なんか飽きてきた(ハハ…)。 面白いですけど。

 面白いんですよ、結局、このドラマ。

 ツッコミどころが多過ぎて(爆)。

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2011年10月 8日 (土)

「カーネーション」 第1週 なんで女はそんなオモロないねん

 2回までの当ブログレビューコメント欄で、「なんかひねりがない」 みたいに書いていたこのドラマ、実はとんでもないドラマになる可能性がありそうな気がしてまいりました。

 最初私がこのドラマを見て感じたのは、「画面に高級感がある」、ということでした。 「龍馬伝」 に通じるような、映画みたいな画面。 そこに大正時代の岸和田を再現する、というNHKの受信料使いまくりの(笑)大道具小道具屋さんの本領見せつけ。

 そこに登場した主人公の小原糸子(子役時代、二宮星チャン)は、私に言わせれば、元気いっぱいの 「朝ドラによくあるパターン」 タイプの女の子。 ヘタレなくせして威張ってばかりいる父親(小林薫サン)の言い付けで、家業の呉服屋の集金にひとかたならぬ実力を発揮する(笑)。

 「まあよくある話だよな」、と思っていたのもつかの間、この物語は週の半ばで大転換をするのです。

 元気いっぱい糸子は、度重なる集金の成功でさらに調子に乗り始め、ダンゴ泥棒を懲らしめたお礼まいりをその子のアニキから受ける。

 「待ったらんかい! お前か、小原糸子っちゅうんは。 わいの弟が、えらい世話になったらしいな」
 「は? 知らんがな。 どれがオマエの弟やねん」
 「なめとったら承知せんど!」
 「あ?」
 「…顔、貸してもらおか」
 「すまんな。 うちは忙しいんや」
 「女やからて、大目には見んど」
 「あ~? 別に女やからて逃げるんちゃうわボケぇ! 上等や。 受けちゃらあ。 どこいなと案内しぃや」

 「あ?」 とか、どこのヤーサンやねんと思いましたが(爆)、清原サンでも出てきそーな岸和田の流儀か、とも…あ、いや、知りませんけど。

 ともかく売られたケンカは買うのが男、じゃなかった、見せてやりたい肝っ玉、じゃなかった、ガンと一発しびれる涙、じゃなかった(ひつこい)、糸子は女の子にも関わらずそのアニキと互角に渡り合い(笑)、ついに死闘は川のなかに突入(スゲ…)。
 そのタイマンの最中に、集金したお金が流されてしまい、糸子はケンカも忘れてそれを追っかける。 かなり危険な撮影に思えました。 とゆーより、この子たち役者根性ありすぎる。

 結局糸子はあこがれの大工方(だんじり祭りで巨大神輿の屋根に上って指揮を執る人です)、泰蔵(須賀貴匡サン)に助けられるのですが、父親善作(小林サン)にこっぴどく叱られるのです。

 「そんなしょうもないケンカ、なんで買うた?」
 「女…女やからて、なめられたなかった…」

 平手が飛ぶ。 すっ飛ぶ糸子。

 「分かったか! これが男の力じゃ! おまえに出せんのか! 出せへんやろが! おまえはどうあがいたかて女なんじゃ。 女が、男と張り合うてどないすんじゃい!」

 この場面、糸子はずぶ濡れにはなっていますが、泣いてない。
 却って泰造の弟で、いつも糸子のいじめ役の勘助(吉岡竜輝クン)のほうが泣いちゃってる(笑)。
 ここ、糸子が泣かないからこそ、糸子のショックが浮き彫りになる構造だと思ったんですよ。

 この日を境に、糸子は意気消沈します。

 ドラマ的に、「女のクセに」 とか 「女は黙って大人しくしてりゃいいんじゃ」 というエピソードは、ドラマ冒頭部分から事あるごとに挿入されていて、個人的に 「またこの論調か」「昔は女が虐げられていて、主人公がそれに反発して、あ~見飽きたパターンだ」 と感じていたんですが、この糸子の消沈ぶりは、それまで糸子の騒々しさに包まれていた画面が、一気に色を失うほどのインパクト。
 それが糸子の感じていた、「女に生まれた窮屈感」 をあらたに浮き彫りにしていく、という展開を示していくのです。
 私が感じていた、いちばん印象的だったその場面は、集金のご褒美のお菓子をほおばりながら、「お前が男だったらオレの商売も一緒にやれたのに」 と言う父親に、糸子がしゃべっていたセリフでした。

 「女かてできるで。 女かて、商売人になれる」
 「アホぬかせ。 女はな、ええとこ嫁に行って、婿はんにあんじょう仕える。 それが一番じゃい」

 「なんでや…?
 …なんで女はそんなオモロないねん」

 女が面白くない。
 女が虐げられる昔話はぎょうさん見てまいりましたが(アカンな、大阪弁になっとる…笑)、「女がオモロない」 というセリフは、印象的でしたね。

 そしてそのタイマンの前に、用意周到に挿入されていた、糸子が出会った異人たちのパーティが、意気消沈した糸子の前で、にわかにその光を増していくのです。

 糸子の母千代(麻生祐未サン)の家は裕福な家庭で、正月に糸子たちはそこにお年賀に行くのですが、糸子はそこで、外人たちが着飾ったパーティに遭遇していました。
 これが糸子の人生を大きく動かしていく出来事となっていくのですが、「女に生まれたことに敢然と立ち向かっていく」 のではなく、「女でも、いや、女だからこそできるものを見つけていく」、という生き方を、もうその時点で糸子は選んだことになる。
 この選択肢の自然さ。
 もし前者の生き方を主人公が選んだら、ドラマは一気に荒唐無稽の域に突入する、と思うんですよ。

 私がもうひとつ注目したのは、糸子の母親千代の描き方。
 彼女は金持ちの家の娘らしくとてもおっとりとしていて、しかも糸子たちが修身の時間に習う、昔の慣習のなかに染まりきった、自分というものがあまりない女性。
 作り手が彼女になまじ、「自分」 というものの存在をちらつかせないのが、見ていてとても興味があります。
 こういう場合、特に女性の脚本家などは、「こんな女性が虐げられていた時代でも、女には女の考えがあったのよ」 と言いたげに、その匂いをまとわせるのが常なのですが、千代の場合、その匂いすらまったくない。
 ただ妻として、嫁として、母としての役割を、ボケ気味ながらもこなしている。
 でも実は、「ただそうしている」 だけなのに、実家から呉服屋の運転資金を借りたりして、小原家の家計を成立させている張本人だったりする。

 糸子の精神の根底にあるのは、自分が見てきた父親と母親の、表面上とは全く逆のその役割だったのではないでしょうか。

 「われらの父は、一家の長として、家族を率い、外でいろいろな仕事をして働いています。
 母は、主婦として、うちにいて、父を助け、家を整え、われらの世話をしています。
 男子と女子が人の務めを全うすれば、家も栄え国も栄えます」

 修身の教科書に書いてあることを、糸子の父善作も、母千代も、表面上は取り繕っている。
 けれども父親は実際は商売下手で、母親が家計を本当は支えている。 女の自分も、集金に駆り出されて、本当は家の存続に大きな役割を果たしている。
 その建前と実際とのギャップを感じていたからこそ、糸子は 「女はこうあるべき」 という建前に本能的に嫌悪感を抱いていた、と思えるのです。

 糸子が先に述べた生き方を選ぶまで、ドラマでは 「だったら女はどうしたらいいか」、という問いを何度も投げかけていくのですが、その答えを登場人物たちに答えさせません。
 糸子は泰蔵の計らいもあってだんじりに乗せてもらうのですが、「気が済んだか」 という泰蔵の問いに、答えない。
 先に書いた修身の教科書を読まされて、教師から 「小原さんは女子の務めが出来そうですか?」 と訊かれたときも、やはり答えないのです。

 さらに糸子の友人?(笑)である奈津(高須瑠香チャン)のおばトメ子(西川かの子サン)が夫のDVで(大正時代にDVもへったくれもないですが)帰って来たときにも、「なんで仲よう出来ないのか?」 と訊く奈津に、トメ子はその答えが見つからない。

 こういう、 「答えの見つからない問い」 をたたみかけているからこそ、先に述べた糸子の選択が、ますますリアルさを増していく。

 このドラマの脚本家、渡辺あやサンは、「ジョゼと虎と魚たち」「火の魚」 でその実力は実証済み。 「火の魚」 で組んだ尾野真千子サンとは、再タッグです。

 ひょっとすると、大傑作になる可能性もある気が、してまいりました。

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「塚原卜伝」 第1回 再来年大河のプロトタイプかも

 NHKBSプレミアムの 「裏大河」 新シリーズ 「塚原卜伝」 が始まりました。 全7回。

 原作は津本陽サンの 「塚原卜伝十二番勝負」。 私などは塚原卜伝、というと、「ナベブタで防御をする人」 くらいの認識しかないのですが(爆)、原作はかなりフィクションを交えながらこの謎多き人物を痛快に描いている模様です。

 そして脚本は、「ゲゲゲの女房」 の山本むつみサン。 この人の時代劇を見るのはこれが初めてで、お手並み拝見、といったところです。

 主役の塚原卜伝を演じるのは堺雅人サン。 この人は 「いっつも笑ってる人」、という印象が強いですが(笑)今回の卜伝も、なんか意味もなくニコニコしております(ハハ…)。

 初回を見たトータルな感想を申しますと、鹿島神宮の神官の家に生まれて鹿島中古流という剣術を身に付けた、という卜伝をめぐる人間関係が、ちょっと錯綜して分かりにくかったかな、という印象。 状況説明がセリフだけによってなされている弱さ、というものを感じました。

 その分かりにくさの根底にあるものは、鹿島神宮と鹿島中古流との関連性、つまり神宮が神官たちをパラディン(聖騎士、要するに神宮の護衛)として積極的に養成しているのか、神官たちが自発的に神宮を護衛しようとしているのか、という関係がいまいちよく分からない、という点。

 さらにもう一点加えれば、この鹿島中古流、という流儀が持つ特徴、というものを描いていない、という点。
 このドラマは若き日の塚原卜伝が鹿島の剣を全国を巡って広めていこう、という動機から出発しているので、当然斬り合い果たし合い、といった他流との激突を描かなければならないのですが、そうした物語に必要不可欠なのは、「その試合をどう面白く分かりやすく見せるか」、という点に絞られる、と感じます。 戦略的にどうなのか。 他流との相性はどうなのか。

 回国巡りという表現で始まった卜伝の旅。
 最初は盗賊集団との闘い、そして2度目は牧元鬼という蛙飛びとかを操る輪島功一サンみたいな(笑)自己流の剣の達人との勝負を行なうのですが、鹿島中古流の特徴というものを見る側が把握してないから、「そうきたらどうするのか」、という戦術の勝手な先読みとか、見る側がこの手の話を見るときに面白く感じるファクターが潰えてしまう、という物語の弱点につながる。

 私が見てきたこの手のドラマで、いちばんその弱点が浮き彫りになっていたのは、大河ドラマ 「武蔵MUSASHI」 でした。 「塚原卜伝」 はそれに比べればかなりいい線いっているのですが、やはり 「武者修行モノ」 の面白ポイントは押さえられていない、とは感じました。
 まあその 「武蔵MUSASHI」 の原作本である吉川英治サンの 「宮本武蔵」 のあまりの面白さに傾倒しすぎたきらいって、確かに自分の場合あるんですけどね。 だからその点少々辛口になってしまうのはご容赦くださいませ。

 そしてその牧元鬼との試合で最も興醒めしたのは、試合のいちばんのポイントとなる部分で両者が空中高く飛ぶのですが、その画面処理の方法。

 いきなり 「ウルトラマン」 時代の特撮を見せられた感じになりましたよ、あたしゃ(爆)。

 確かにワイヤーアクションとかスローモーション時に実際にゆっくり演技してんだろうな~というのが分かる点とか、気になる部分はありましたが、試合のいちばんのキモになる部分がああいう画像処理されるとねぇ…。

 まあそれはいいとして(ここまで書いといてそれもどーかとは思いますが…笑)、もっとも気になったのは、堺雅人サン演じる塚原卜伝が、軽~いんですよ(ハハ…)。
 先に書いたとおり、この人の場合ニコニコしてるけど決めるときゃ決める、みたいな「新選組!」「篤姫」 の演技を踏襲していることは確かなんですが、その落差に少なくとも私は今回違和感を抱いた、と言いますか…。
 「これはつまり、堺サンが若さを強調してるためだ」、と自分で納得しようと思いましたけどね。

 ただここまで苦言を呈してまいりましたが、その軽さが物語に弾みをつけている印象はあります。 鹿島神宮と中古流の関係にしたって、「神宮に賊が入った」 というエピソードがあったから、まったく描いてないわけじゃない。 ただどっちが主体で護衛を行なっているのかが分からないだけで。

 そして 「試合の駆け引きの面白さ」、という点にしても、卜伝の師匠である永島敏行サンとの試合でも、堺サンの 「次はこうする」 という心理をいちいち描いていてそこはとても面白かった。

 だからなんにもやってないわけじゃないんですよ。

 牧元鬼という得体の知れない剣の達人のキャスティングでも、ジャッキー・ウーという台湾のタレントさんを使っているらしいです。 この人歌手で俳優で司会業もして、台湾の明石家さんまとも呼ばれる人らしい。 そういう得体の知れない人を起用するとこなんか、結構考えてるなー、というのは感じます。

 堺サンの回国修行のお伴をするのは、平岳大サン。 なんとなくこの人も、卜伝との関係がよく分かんない(どうも注意力散漫ですなあ)。 結構ひょうきんそうな役柄なんですが。

 のちの北条早雲となる人で、牧元鬼との試合に立ち会ったのが中尾彬サン。 もう、カツラが、黒と白のストライプで(爆)、完全にマンガ、であります(ハハ…)。

 そう、なんか、全体的に 「マンガ」 のノリなんですよ。
 だけど 「マンガ」 っていっても侮っちゃいけません。 マンガだって、決めるときゃ決める。
 ただマンガの場合、詰めの甘さ、というものが往々にして見られることが多いのです。
 このドラマはその点で、そんなマンガの傾向と似通ったものを感じる。

 このドラマ、回数が短いという弊害が、前回の 「テンペスト」 と合わせてまたも露呈している気がする。 神宮のことだって、中古流のことだって、もっと丁寧にやろうと思えばできる気がするんですよ。
 回数が少ない場合、どこを取捨選択すればいいのかは、脚本家の腕だと感じるのですが、山本むつみサンは 「ゲゲゲの女房」 の場合、それをじゅうぶんに表現できる場が、与えられてた、って感じます。 朝ドラで1週間分1時間半、ですからね。
 それを今回は、絞って表現しなければならない。
 山本サンは再来年の綾瀬はるかチャンの大河ドラマの脚本家でもあります。
 その題材、大河50回弱の尺がじゅうぶんなのか物足りないのかは分かりませんが、もしかするとそのプロトタイプを、「塚原卜伝」 では見ることになるのかも、知れません。

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2011年10月 7日 (金)

KAT-TUNファンとしてニッポン放送に一言

 ラジオ秋の番組改編で、ニッポン放送のKAT-TUNの番組が大きく追いやられてしまって。 オッサンKAT-TUNファンとしては、スンゲームカツイテマス。

 代わりに始まった番組が、AKB48のラジオドラマ劇場。 初回だけ聞いて、もう金輪際この時間帯は聞くことがないだろう、ということで、いまはTBSラジオにダイヤルを合わせてます。 ちなみにこの時間帯、TBSラジオでは 「こじつけリクエストしりとり」 みたいなことをやってる(笑)。 ただのしりとりによるリクエストじゃなくって、「この曲と言えばこの曲」、というほぼこじつけの理由によって毎日リクエスト曲がリレーされていく感じ。 つまらんけど(笑)こっちのほうがマシ。

 それにしてもAKBファンには申し訳ないけれど、ラジオドラマのどこが面白いの?と思われてなりません。
 ちなみに 「AKB48のオールナイトニッポン」 は夜勤の仕事がてら時々聞いてますけどね。 出てくるマイナーなメンバーの素姓が分かったりしてそっちはそれなりに楽しいですが(メジャーなメンバーも誰ひとりとして分からんですが)。
 けれどもこっちの、たかだか10分程度のラジオドラマにそのマイナーなメンバーが出てきても、誰が誰やら分かんないし、そもそも女の子しか出てこないラジオドラマってツマラン。
 この企画考えたの誰なの? バカじゃね?(暴言平にご容赦)。

 と、ここまで書いてきてワケの分からないかたもおありでしょうから、ちょっと詳細な状況説明をいたします。

 そもそも私が夜勤を始めてから、この時間帯って昼休み的な時間なんですよ。 それでこの時間帯にラジオのニッポン放送がやってるKAT-TUNの番組も、最初は 「ただかかってるから聞いてる」 みたいな感じで聞いてたんですけどね。

 だけどなんか結構ハマってきて(ハハ…)、この番組に関してこのブログで記事を書こうと思いたちまして(その記事はこちら→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/08/k-6aa3.html)。
 しばらく大した反応もなかったのですが、ある日いきなりこの記事にアクセスが集まり出して、コメント欄が爆発(笑)。
 おそらくKAT-TUNファン中心のブログに私の記事が紹介されたからなんだと思うのですが、それ以来私のKAT-TUNに対する興味は倍増し(笑)、以来オッサンながらもKAT-TUNファン、という図式が出来上がったのでございます(笑)。
 ただラジオに出てこないメンバーのことは未だによく知りませんが(こないだドラマ 「ラストマネー」 で初めて中丸クンを見た気がする…笑。 上田竜也クンに関しては全く知らない)。

 いまじゃ番組で流されまくってるから彼らのシングル曲はすべてよく知ってますし、それらの曲も結構好きなんだな(ビートルズ好きオヤジがKAT-TUNのシングル曲をいいと思うなんて、自分でも意外だ…)。
 最新曲 「RUN FOR YOU」 も最初 「なんかダセーサビだな」 と思ってたんですが、何度も聞くうちによくなってきて(ハハハ…)。 単純そうなメロディなんですが、リズムの乗せ方がちょっと変わってるんですよ。 話が長くなりそうなので曲の解説はやめますが(爆)。

 ところで 「改編で追いやられた」、とは書いたんですが、番組が完全になくなったわけではなくて。

 亀梨クンが金曜日だけやってた20分番組 「亀梨和也のKスバイKス」 のほうは終了してしまったんですが、月-木でやってた10分の帯番組 「KAT-TUNスタイル」 が、亀梨クンの後番組として確か今晩から再スタート、という感じで。

 「KAT-TUNスタイル」、確かに最近の企画だった 「妄想未来日記」 とかつまらなかったのですが(コウキとジュンノも戸惑いがちにやってたよーな…)、盛り下がると尻バットとか面白かったのになー。 まあ今晩から始まる番組内容には期待したいですが。

 亀梨クンの番組が終わっちゃったのは残念ですよ。 アポなしテレフォンとか、コウキとジュンノの番組でもやってたんですが、亀梨クンのバージョンでは、電話に出てくる女の子の反応も微妙に違ってたりして、それが興味深かった。
 亀梨クンは結構声色とか使うのが好きっぽいんですが(確かアポなし電話で出てきた小学生くらい?の女の子が、その違うキャラが好きとか言ってたときから加速した感はあるのですが)、全体的にはワイワイ型のコウキとジュンノの番組より、かなり亀梨クン自身の大人っぽさが前面に出ていた番組だった気がします。 彼はずいぶんしっかりとした考えの持ち主だ。

 その思慮深そうな彼が今度の秋ドラマで 「妖怪人間ベム」 をやるのってよく分からんのですが(爆)、どうも亀梨クンはドラマに恵まれてないような感じがする。 とりあえずファンのよしみで初回は見てやろうとは思うのですが。

 いずれにしても安易なAKB人気便乗のニッポン放送の姿勢には、苦言を呈したいですな。 繰り返しますが、つまらんよ、女の子だけのラジオドラマなんて。

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2011年10月 4日 (火)

「カーネーション」 第1-2回 NHKのセット力

 毎回毎回リタイアしているNHKの朝ドラ。 何度も何度も書いてますけど、どんなに良質のドラマでも、1週間分1時間半の話を見続けるのは、私みたいな怠け者の場合大変にきつい。 「ゲゲゲの女房」 がいかに、優れた朝ドラであったか。 まあ15分ずつ見るのがいちばんいいんでしょうけど。

 で、また恒例行事のように初回を見た感想を書きたかったのですが、どうもいいこと浮かばなかったので、2回目まで見た感想を書かせていただきます。

 まず目を引いたのは、「龍馬伝」 みたいな画質だなあ、ということ。
 画質に高級感が満ち溢れているんですよ。
 そして舞台が大正時代の大阪岸和田。
 この町のセットがまた、とてつもなくグレードが高いと思わせる。
 話はだんじり祭りから始まるのですが、目を引いたのは、電線。
 この時代、電線くらいとっくにあったんでしょうけど、その電線の数の多さと、電信柱のレトロ感あふれる作り。
 居並ぶ日本家屋は、その内部に至るまで再現率が異常に高い。
 受信料使いまくっとんなー、というのが正直な感想です。

 そして次に目を引いたのが、主人公の女の子。

 率直に申し上げて誠に申し訳ないのですが、この女の子の器量がよろしくない。
 これって、すごいことですよ。
 まあ主演の尾野真千子サンが登場するまで短い間なんでしょうが。
 器量が悪いから、インパクトがかなり大きい。
 その女の子が、男まさりに暴れまくる、のは朝ドラの常套、のような気もしますが。
 その子はいくら問題を起こしても屁の河童。
 でもその子が最も怖がるのが、小林薫サン演じる父親。
 2回までを見た限りでは、やはりなんと言ってもこの女の子の存在感に、皆が気圧されている感覚がする。 そしてこのカミナリ親父の小林サン。

 そこに 「大阪発ドラマ」 常連の正司照枝サンが祖母役、「JIN」 での母親役も記憶に新しい麻生祐未サンが、この子の母親役。

 ただひたすら、「まっとうな時代もの」 を作ろう、という気概が画面からあふれ出ているドラマとお見受けしたのですが、ドラマ的な仕掛けとかカラクリとかは、これからお手並み拝見、といったところでしょうか。

 また1週間分を見た時点での感想も、書きたくなったら書きますのでよろしく。

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「江~姫たちの戦国~」 第38回 淀と江との分かれ道

 冒頭、江の何度目かの出産シーン。 離れの部屋でおおばの局は 「おのこおのこ」 と一心不乱に祈り、脇で秀忠は寝転がって戯画を鑑賞中。
 ここで私のあまりよろしくない記憶でも気付くのですが、おおばの局は前回だったか、いや違う、その前だったか、江の出産のときにまた姫が生まれたとき、ずいぶん遅いご登場で 「またこたびも姫であったか…」 とか話していたはず。
 統一感なし、というのはこのドラマの常なんですが。

 しかも秀忠は寝転がって見ているマンガが 「世界の珍獣・想像上の動物大百科」(笑)。
 「ほら、ここ、突っ込んで突っ込んで」 と脚本家のかたが言ってるのでツッコミますが(爆)、もうじき人間の子供が生まれるとゆーのに、縁起の悪いことで…(面白いなあ)。

 そして赤子の泣き声。

 江の乳母がやってきて、厳しい表情。
 「またダメか…」 と落胆する秀忠とおおばサン。
 しかしそのあとに乳母が放った言葉が、大河ドラマの威厳を根底から覆す名ゼリフでした(スゲー皮肉)。

 「つくべきものが、つくべきところに、ついておいででございましたあぁっ…!」

 これを見て笑えない自分の精神年齢の高さを恨みたい(爆)。 つくづくオコチャマにできてるんですねぇ、脚本家様(羨ましい…)。

 あと今回クサすところはですねえ(この揚げ足取りがまた悪趣味ですが面白い)、二代将軍を断った秀忠が、熱海の温泉旅館に江と共に行くんですよ。 意味不明(いや、意味はちゃんとある…爆)。
 湯あたりするほど向井理クンを湯につからせるし(笑)。
 田渕サン、どんだけ向井クンのハダカを見ていたいんだよ!って感じで(いや~ツッコミどころがあるって、快感だなぁ…笑)。

 ところが今回の 「江」 は、それ以外では結構(ヨレヨレながらも)「見せる」 場面があった気がします。

 その筆頭は、「徳川の一員」 としての自覚を促されながら、自分の持っている薄っぺらい反戦思想とその自覚とを融合させていく、江の変心。

 江は生まれたばかりの竹千代を福(のちの春日局)に奪われ、その不平と福の乳母解任を要求する文書を家康にしたためるのですが(まあいつもの文句ブチブチバージョンですが)、久々に江戸に戻った家康にそのことを問い詰めようとすると、家康は別方面から江をねじ伏せにかかるのです。

 「そなたは、竹千代がかわいいか」

 「無論です」

 「わしもじゃ。 …よって、竹千代に悪いようにはせん」

 ここ、ト書きを眺めているだけではまったく何も伝わってまいらないのですが(すごいなソレ)、このときの家康の様子は、にこやかに笑いながらも、ドスの利いた有無を言わさぬ音声を崩すことがない。 江は、二の句が継げません。
 北大路サンの本領発揮、というところですが、この北大路サンの演技によって、このドラマはだいぶ救われている。 今回はそれが前面に出ていた気がするのです。

 そしてその場で、家康は息子秀忠に、征夷大将軍を継げ、と命じる。
 秀忠もその場にいた江も、それはすなわち豊臣を追い詰め、その天下を否定する所業であることが簡単に分かるのですが、家康はあくまで、豊臣秀頼が大人になるまでの暫定的なものだ、という建前を曲げることがない。

 江はこの場で 「家康さまは天下を取るおつもりなのですか」 とまた言いにくいことを言ってはいるのですが、その言が重要性を帯びることはことこのドラマの上ではありえない。 江の言動は、いつまでたっても 「ものの道理が分からないオンナがエラソーに口出ししている」 という域を出ないのです。

 それはいいとして、その思慮の浅い息子の嫁の言い分に、家康は 「いい加減に徳川の嫁になってはくれぬか」 と凄みを利かせながら頼むのです。

 「そなたは秀忠に嫁いだと共に、徳川という家に嫁いだのじゃ。
 いま、徳川の主はこの家康。
 わしの考えに従うことじゃ」

 これも字面だけ眺めていると大したことのないセリフのように見えますが、この論理に抗うだけの重みのある人生を、このドラマでの江は送っていない。
 この家康の命令を、秀忠は敢然と断るのですが、家康はそんな秀忠の翻意を促す人物として、江を想定している。
 つまり江の薄っぺらい反戦思想を、逆に利用しようとしている、ということなのです。

 この、江のこのドラマにおける甘ちょろい性格設定の弱点を逆手にとった家康の思惑には、ちょっとうなりましたね。

 江は熱海の温泉旅行の際(ハハ…)、「天下太平の道を築くにはもう有名無実化している豊臣の平定を待つのではなく、わが夫秀忠が二代将軍の座に就くことが近道なのだ」 という結論に達します。 そしてそれを秀忠に進言する。 秀忠は湯あたりしながら、江のその進言にぼーっとした頭のままうなづくのです(なんじゃソリャ)。

 秀忠はいったん断った二代将軍の話を受け入れます。
 しかし家康の思惑は、またその若造の先を行っている。
 二代将軍としての地位すら、秀忠を人間的に鍛えるステージとして、用意しているにすぎないのです。

 そしてドラマ的なダイナミズムを堪能したのは、その、「江の変心」 による淀の反応。

 「江は何をしておったのじゃ!

 秀忠殿も、なぜ将軍となることを断らぬ!

 わたくしが甘かった…。

 これから徳川殿を…いや、家康を信じることは断じてない…!

 合戦になろうと、天下人の座を取り戻すのじゃ!」

 この淀の怒りは、まあ私くらいの歳になると何度も映画やドラマで見てきた類のものなのですが、やはりこうなってもらわないと、面白くない、と言いますか(笑)。

 そして蛇足になってしまいますが、今回登場の福(春日局)役、富田靖子サン。

 光秀の家臣とか秀吉の恨みとか、まあいろいろ出てきてややこしかったですけど、そのパラノイアチックな演技は、ドラマをピリッとさせる気はいたしました。

 ただそのことで、江がますます(ドラマにおける)自分の居場所をなくしてしまうような気は、いたしました。

 なぜなら家康に面と向かって言い返すこともできず、福の恨みストーリーにもただ呆気にとられているだけ。
 江ってもっと、火を吐くような女じゃなかったのかな?という気はいたします。
 「自分は信長の姪である」 という、このドラマの中だけの最強の自負が、江には備わっていたんじゃないだろうか、って。

 それにしてもその竹千代も、次回はもう5歳児くらいになってる感じでした、予告編では。

 飛ばすよなあ、こっちも。 茶々と秀吉の恋愛に、時間裂きすぎだっつーの(耳タコ…)。

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2011年10月 1日 (土)

「テンペスト」 最終回まで見て 感想さぁ~

 本放送から2週間も過ぎたレビューでございます。

 琉球の歴史にはとんと疎い私なので、ドラマの体裁だけを見つめながらレビューしていきます、あらためてよろしく。

 まず最初に正直な感想を述べさせていただきますが、「ドラマ飛ばし過ぎ」(笑)。

 この内容なら、20話くらいにしてもよかった気がします。
 10話に圧縮した結果、説明不足の部分が続出、の感は否めない。

 まず物語のとっかかりである、馬天ノロの勾玉。

 もともと孫嗣志(奥田瑛二サン)が第一尚氏の王族の証として持ってたらしく、それを琉球王朝の主席巫女である聞得大君/真牛(きこえおおきみ/もうし、高岡早紀サン)が持っていないことで、聞得大君は物語の序盤、それを躍起になって探し求める。

 ここでは、聞得大君がその馬天ノロの勾玉を持ってるとロクでもないことになるから、孫嗣志の娘である孫寧温/真鶴(仲間由紀恵サン)が譲り受け、隠し持ってる、という構図のように思えるのですが、どうも最終回を見る限りそうでもなかったらしい。
 それを論じるために、ちょっと状況説明いたします。

 最終回、琉球は沖縄県となり、琉球王朝は事実上滅びます。

 第二尚氏の尚泰王(染谷将太クン)の側室まで登りつめ、世継ぎを産むまでのことをしながら、失脚し、島流しにされていた真鶴はひと気のない首里城をその息子、孫明(石黒英雄サン)と一緒に訪れ、形ばかりの即位式を行なう。
 第一尚氏の血を受け継ぐ自分と、第二尚氏の尚泰王との間に生まれたこの息子が、第三尚氏の初代の王である、という儀式です。
 そこに、こちらも寧温によって失脚されていた、真牛が現れる(蛇足ですが、真の鶴と真の牛、という名前のコントラストが面白かったのですが、ドラマ的にあまり生かされてなかったような気がします)。

 真鶴はそのとき、その勾玉を、あっさり真牛に渡しちゃうんですよ。
 自分と尚泰王との間に生まれた第三尚氏の王族である自分の息子を守ってほしい、ということで。

 じゃあ一体、孫氏がこの勾玉を隠し持っていた意味って、なんだったんだろう?って、思っちゃうんですよね。

 聞得大君はその勾玉を手にすると、CG使いまくりのスーパーウルトラZで今日もアイアイアイアイースパーキング!とばかり(なんだソレ)空中を飛んで行ってしまうのですが(私にはそう見えた…笑)、そんなパワーが使えんなら最初から聞得大君に渡しときゃよかったじゃないの?と感じてしまう。 そのほうが琉球王朝のためになったのに、ということです。

 しかしこの部分。

 もともと聞得大君が権勢をふるっていた物語の最初の部分で、このオンナは威張りまくり国家予算使いまくりで、ロクでもない人物だったから、馬天ノロの勾玉の所有者たりえなかった、という解釈もできる。

 結局聞得大君が孫寧温に駆逐され、場末の娼婦(ジュリ)にまで身を持ち崩し、どん底の苦汁をなめたからこそ、勾玉を持つ資格が備わった、とも言えるし、その勾玉の意志としては、「琉球以後」 の沖縄県人たちの精神的な支柱となろう、という意味で、権力的にはほぼ無意味な 「第三尚氏」 の守護神となったのではないか、と。 勾玉は、そうすることで民衆の守護を真牛に申し出たんですな(シャレか)。

 これが、ドラマを見てると、なかなかそこまでの感想に至らない。
 あれよあれよという間に話が展開していって、なんだCG使いまくりだよなあとか、いまさら滅んだ首里城の中に入って形だけの王位継承の儀を行なっても、茶番だよなあ、なんて感じてしまう。 そういう感想に、うずもれちゃうんですよ、勾玉の真意が。

 それと。

 物語は、孫寧温/真鶴という主人公を女でありながら、表向き男(宦官)として王宮にのぼらせるのですが、結果的にそれが作り手の意図かどうかは分からないが、孫寧温/真鶴の立ち位置の不明瞭さに結びついている。

 つまり、彼女は琉球の政情を安定させようとしているのか、民衆のために働こうとしているのか、孫氏の復興のために動いているのか、という立ち位置です。

 そのどれもだ、という解釈は成立するのですが、その微妙な立場が、やはり短い時間では描写しきれないきらいがあったように思えてならない。
 おそらく物語の性格から言って、「孫氏の復興」 という寧温の目的は、早々に潰えている気がする。 でもその優先順位というものを、明確にドラマの中では、打ち出していない気がします。 だから寧温の兄、孫嗣勇(金子昇サン)との確執が表立ってこない。 最終回の嗣勇の豹変ぶりを、聞得大君のマインドコントロール下にあった、という説明しかドラマはできなくなってくるのです。
 結局孫氏による第三尚氏の即位、という表面上無意味なことに思える 「孫氏の再興」 をやってのけちゃってるから、それまで寧温が王宮で頑張ってきたことが、途端にむなしくも思えてくるし。

 時間をかけて出来ないがゆえに感じる、さまざまな掘り下げ不足。

 でもそれは結果的に、「沖縄県の人たちって、おおらかだからな、その県民性が琉球王朝でも跋扈していたんだろう」、って気になってくる(あくまで私個人の感想です)。 ところどころいーかげんでも、なんくるないさぁ。 みたいな。

 そのおおらかさでドラマを思い返してみると、尚泰王のもうひとりの側室(正室だったかなぁ?正室って、出てきましたっけ?)の真美那(上原多香子チャン)と真鶴とのやり取りは微妙にコメディチックだったし、寧温は結構いろんな場面でボケてたよーな気がするし(笑)。
 話が深刻に傾くのを、回避しているのが見えるんですよ。
 でも仲間由紀恵サンって、とても根が真面目そうなかたでいらっしゃるから、あまり笑いを誘導できないんですよね(ハハ…)。 「えっ今の、わらわそーとしてた?」 なんて(笑)。

 そしてそのおおらかさは、やはり馬天ノロの勾玉(完全に擬人化しておりますが…笑)にしてもおんなじで。
 勾玉は結局、琉球王朝が滅びようがどうしようがカンケーなかったんですね(すごいなソレ)。 この島の人々を守る、というのか勾玉の真意で。

 聞得大君のマインドコントロール下に陥り、世継ぎ誕生の祝いの場で、寧温を失脚にまで追い込んだ義兄の孫嗣勇。
 砂浜でひとり、そのことを後悔する嗣勇ですが、そこにいきなり、とうの昔に亡くなっていた父親、孫嗣志が現れる。 彼は父親の幻影と、結構突っ込んだ話をし出すのです。

 どうしてここまで突っ込んだ話が出来たか、というと、孫嗣勇がその砂浜で、自刃していたからなんですね。 だから父親の霊が彼を迎えに来た。
 その設定にもおおらかさを感じる。
 彼岸と此岸の区別があいまいな、沖縄県独特の風土を、私などは感じるんですよ。

 そこで孫嗣勇は、マインドコントロールの手先みたいにたびたび彼の前に現れていた自分の父が、実は息子を止めようとして現れていたことを知るのです。 自分の妹である真鶴を陥れてはならない、と。

 それを息子は、「父親が孫氏の再興を願って自分の前に現れている」 と勘違いし、結局妹を、失脚させてしまっていた。

 「どーしてそーゆー紛らわしいことをするんですくわ~」 と息子は父に向かって突っ込むと、父は 「聞得大君に言葉をしゃべるのを封じ込められていた、いや~悪りぃ悪りぃ」 って言うんですね。
 「なんじゃソリャ」 と笑っちゃいましたけど、そこがまた、沖縄独特のおおらかな県民性、みたいに、私は感じましたよ。

 そのとき、父は息子に向かって、こう言うのです。

 「いつか、すべては波に洗われ、水に流される。

 人の思いも、潮の満ち引きだ。

 そろそろ夜が明ける。

 我々は、去る時だ」

 ここで孫嗣志は孫嗣勇を連れて砂浜を去っていくのですが、そこに残されたのが、孫嗣勇の亡骸。 見ているものはここで、ようやく孫嗣勇が死んだことを悟るのですが、それはさておき、孫嗣志が話していたことは、「どんなに四肢をもぎ取られるようなつらい目に遭ったとしても、それは歴史から見れば、ほんの一瞬なんだ」 という諦観が含まれていた気がする。 人の噂も365日(えーと、違いますよね…笑)、どんなに説明不足で納得できないドラマでも、すぐに忘れてしまうさぁ、という作り手の声が聞こえたよーな(違いますかね、やっぱり…笑)。

 でも、そこにもやっぱり、おおらかさを感じた、というのが正直な感想です。

 場面変わって、聞得大君がスパーキング!と共に飛んで行ってしまったあと(爆)、寧温/真鶴が息子の孫明に向けて語った言葉。

 「『人、天地の間(かん)に生くるは、白駒(はっく)の郤(げき)を過ぐるが如し』。

 『人間がこの天地の間で生を受けるのは、ちょうど白い馬が戸の隙間を過ぎるように、ほんのつかの間にすぎない』。

 だけど、人が過ぎても、国土は残る。

 国土があれば、またそこに人が生まれ、意志が生まれる。

 また、
 どこからでも新しい国は作れる。

 この国の神は…

 …人の魂は、不滅です。

 太陽が、
 西に入りて、
 東に上がるように――」

 つまりこの 「おおらかさ」 の根底を流れるものに、「国土」 に対する大いなる信頼、というものが隠されている気がするのです。
 大地があれば、肥沃な土地があれば、人はそこに存在するのがどんな形態を持つ国であろうが生きてゆく。
 それが清国であろうが、薩摩であろうが、ヤマトンチュであろうが、アメリカであろうが。

 琉球、そして沖縄がたどってきた道は、そんな逞しさのうえに裏打ちされた、「おおらかさ」 なのではないだろうか、と私は考えるのです。

 ところどころにダイジェスト版のごとき説明不足が見られたこのドラマは、その 「おおらかさ」 によって許される余地を残しているドラマのように、私には思えたのです。


「テンペスト」 に関する当ブログ記事

第1回 「琉球ドラマ」 というカテゴリー 
http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/07/1-18f9.html
第3-4回 孫寧温の方法論 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/08/3-4-c00d.html
第5回 GACKTサンの演技が見られることの喜び? http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/08/5-gackt-707d.html
最終回まで見て 感想さぁ~ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2011/10/post-ebca.html

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