« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

2012年3月25日 (日)

「カーネーション」 第25週 最後まで笑おう 最後まで輝こう

 やはり、空恐ろしいまでの不敵なドラマでした。

 老年期の糸子をやるという意味が、週を追うごとにこちらの胸に迫ってきます。

 もはや、夏木マリサンの演技をどうこう論じること自体が、辛気臭いと思える。

 このドラマは、尾野真千子サンの表現力によって異世界へと高く高く飛翔したのちに、再び脚本家、渡辺あやサンのもとへと舞い戻ってきた印象がしました。

 と同時に感じたのは、今週のこのドラマは、「辛気臭い世の中」 に対する、渡辺あやサンの挑戦状だったのではないか、という点であります。

 今週中盤、個人情報による壁に、糸子は直面することになります。
 以前だったら何の問題もなく、旧友(奈津)の住所くらい聞けたのに、それが出来ない。
 そして、病院でのファッションショーに患者を加える、ということについて問題視する婦長の壁にも、糸子は直面する。
 この婦長の意見というのは、現代ますます顕著な形となって人間社会に根付きつつある 「常識」 に変貌しています。 今週のドラマの舞台だった、今から10年ばかり前のころよりもまた一段と。

 いわく、病人をそんな場に駆り出すとは、なんと非常識なのか。
 何かあったら責任が取れるのか。

 以前の社会は、確かに人にとってけっしてやさしい世の中ではありませんでした。
 今じゃ放送できないような言葉で人は人をけなしていたりした。
 確かにがさつで、弱い者にとっては生きづらい世の中でした。
 それが人にやさしい世の中に変化していったのは、やはり 「いじめ」 という問題が大きくクローズアップされたがため。
 人々は弱者に対するいたわりの気持ちを大切にしようと、社会で行なわれるさまざまなハラスメントに対して、「NO」 を突きつけ始めたのです。

 しかしその結果、社会はどこかで、過保護な反応ばかりする、神経質な世界になってしまったのではないか。

 今週のこのドラマに批判的な反応をする人々に対する、これは渡辺あやサンの強烈な一撃である。
 私にはそう思えるのです。

 たとえば今週、末期がん患者の女性(中村優子サン)がこのドラマには出てきます。
 その人に対して糸子は面と向かって 「末期がん」 と何度も口にする。
 これに対して、ある種の視聴者は、「無神経にそんなことを言っていいのか」 と過剰反応をする。
 しかしこれは、本人に告知がなされているかなされていないか、ということが、とても大事な前提となっているように思われるのです。

 今週のドラマを見ている限り、本人がそれを知っていることを言い出すまで、その事実は明らかにされてなかった気がします。
 婦長さんが糸子に 「この患者は末期がん」 と告げた時も、それを本人が知っているかどうかは伏せられていた。 私もここは見ていて、ハテナと感じました。 個人情報があるから奈津の住所は教えられない、と話していた婦長が、軽々しく患者の個人情報を教えているではないか、と。

 それはでも、ドラマとしての不備なのか。
 違うと思います。

 個人情報を頑なに守り続けている婦長が言うことなのだから、もう本人には告知してある、と視聴者が判断しなければならないのです。

 そんな器用なことができるか、と思ってしまいがちですが、実は私のように、「ハテ?婦長はなんで患者の重要情報を軽々しく部外者の糸子に教えているのか?」 と感じてしまうこと自体、自分も現代人の過剰反応に毒されている証拠だ、と感じるのです。

 これが10年前、15年前だったら、私はたぶん、そんなことをまったく気にしないで、このドラマを見ることが出来たと感じる。

 人にとって優しい社会、であったほうがいいに決まってます、何事も。

 でもそのことで、がさつに生きてきた昔の人々の心を否定したり、拒絶したりすることは、間違っている。
 昔は今よりずっと人にとって優しくない社会だったかもしれないが、みんなそれに揉まれて強くなった。
 人にやさしくすることが、人の心を却って弱々しくしてはいないか。

 たった10年程度の昔の話なのに、このドラマは確実にそこを突いてきている、と私は感じるのです。

 そのメッセージ性は、主役がオノマチサンではなく夏木マリサンだからこそ、却ってストレートにこちらが感じることができる。 さすがに88歳の女性をオノマチサンが演じることには無理がある、と思いますが、もし夏木サンがしていた特殊メイクでオノマチサンが88歳の糸子を演じたとしたら、彼女のパーソナルな表現力が前面に出てしまって、作り手のメッセージは却って埋もれてしまったかもしれない。

 そしてそのうえで、今週のこのドラマは、今際の際まで自分がいかにして生きねばならないか、を押しつけがましくなく、そして感動的に語っていくのです。






 月曜放送分。

 平成13年(2001年)7月。
 このドラマ、結局阪神淡路大震災を取り上げませんでしたね。 意図的だったのかな。

 すっかり糸子(88歳)のやり手のマネージャーとなったピンクの電話の都子チャンが、ずけずけと何もかも取り仕切っています。 都子チャンの殺し文句は、「ぜ~んぶ先生が入れた仕事なんですからね」(笑)。 そのセリフの通り、88歳になるというのに、糸子は自分の人生でかつてないほどの忙しさに見舞われています。 講演会、インタビュー、オペラ鑑賞、果ては相撲観戦。

 「年取るんも、85くらいまでは嫌やったけど、それ越えたら、なんや、そんなんものうなってしもてなあ(笑)。
 それよりなんにしろ、死んでしもたら出来んこっちゃろ? 今まで興味なかったことでもとりあえずやっとかな思うし、一生懸命やるやんか、ほしたら楽しいでなあ(笑)。
 ほんで何でもかんでも手ぇ出すさかい、今度は忙しいて、死ぬヒマもなくなってしもてアーッハッハッハ」(笑) とインタビュアーに答える夏木糸子、首のあたりに特殊メイクが入ってます(笑)。 人間、首筋にいちばん老いが見える、と申しますからね。

 そんな糸子、膝とヘルペスの治療のため、岸和田中央病院に通っています。
 「じっとしてたら痛みが忘れられへんさかい、ついなんやかんやしてしまうんです」 と、同じセリフを担当医師に言い続けてます(笑)。
 これ、なんかネタみたいになってましたけど、このたびぎっくり腰をしてしまった自分にはよ~お分かります(笑)。 仕事をしている時って、結構シャンとするもんなんですよね。 で、仕事が終わったら、またジイサマみたいな歩き方してる(爆)。

 病院での待合フロアで、糸子はそこの事務長である香川(蟷螂襲サン)に話しかけられます。
 そして無理やり引っ張り込まれた院長室で、イケメンと評判の院長龍村(辰巳琢郎サン)と共に、病院で行なわれる患者向けのイベントで、ファッションショーをしてもらえないかと依頼を受けるのです。 なんでも香川の母親が、昔オハラ洋装店でやっていたファッションショーの客だったらしい。 そして子供時代の香川は、「女っちゅうのはよっぽどこういうのが好きなんやな」 と思ったというのです。

 実は今週のこの話が持ち上がったとき、私も 「なんや病人たちのファッションショーかいな」 と、なんかありがちなストーリーに、ちょっと興味がわかなかったんですよ。

 けれども、男の自分には分からないのですが、女性たちにとってファッションショー、というのは、「きれいに見られたい自分、きれいに見せたい自分」 の大いなる啓発の場、なんですね。
 昨今では美人コンテスト、というものの存在自体を否定する向きも一部である。
 女性をランク付けして一等賞を決めるなんてどういう了見か、というわけですね。
 だけど、自分をほかの人よりもよく見せたい、というのは、女性の根源的な欲求なのではないか、と私は思うのです。
 香川事務長のこの発言は、私にそのことをあらためて気付かせてくれました。 それで、「ただのファッションショーか」 という思いが、だいぶ払拭されたといってよい。

 院長と事務長のたっての願いは、多忙な糸子を気遣っての恐る恐るの依頼でしたが、糸子はいともあっさりとそれを受諾。 だから仕事が増えるっちゅーねん(笑)。
 開催日は3カ月後の10月。 急やな。 だから仕事が増えるっちゅーねん(笑)。

 そしてその場で、糸子は龍村院長から、幼なじみの奈津がこの病院に入院していることを聞き及びます。
 少なからずショックを受ける糸子。
 なにしろ自分も88歳、同級生の奈津もその年齢のはずです。
 88歳で互いに生きている身であることは、実に驚愕すべき話なのではないでしょうか。

 杖をつきつき、奈津の病室を訪ねる糸子。
 4人部屋の表札に 「桜井奈津」 とあります。
 4人部屋、ということは、「奈津を幸せにする」 と意気込んでいたラサール石井サンがパッとしなかったことを推測させる。 そして名字が桜井、ということは、まだふたりは夫婦なのだろう、という推測を生じさせます。

 糸子もそんな憶測が頭の中をめぐっているような複雑な表情で、病室をのぞきます。
 逆光の中でひとり凛とした姿勢で本を読んでいる女性。
 老いてはいますが、紛れもなく、あの気位の高い、奈津(江波杏子サン)です。

 糸子の視線に気付いたのか、奈津は顔を上げます。
 そして糸子を一瞥。 ぶっきらぼうに一言。

 「なんや。 …なんか用け」。

 うーん。

 江波杏子サン。

 すごすぎるぞ。 いっぺんで奈津だと分かる。





 火曜日放送分。

 談話室で糸子は、奈津から 「あれから」 のことを聞いています。
 結局旦那と共に越した四国で旦那と死に別れ、10年ほど前に岸和田に帰ってきたと。
 ということは、いまだに 「桜井」 の姓を名乗っているのは、結局やはり、旦那に死ぬまで愛されたんだろうな、ということは伝わってきます。
 四国の広い家を掃除するのが嫌になった、と話していましたが、やはり旦那が死んでからは、いろいろとあったんだろうな、と。
 栗山千明サンが演じていた頃の奈津は、玉枝の奪還作業ののちに安岡の美容室に勤め出してからは、結構殊勝な物腰になっていた、と思うのですが、それも旦那が死んでからの苦労で生来の性格が戻ってきてしまった、と推測すべきところでしょうか。
 確か旦那と結婚した時、奈津は30を超えていたと思います。
 当時は30超えると高齢出産だったのかな、分かりませんけど、結局子供も授からなかったみたいです(このあと糸子が 「身寄りもない」 としゃべってましたね)。
 子供がなかったから、旦那が亡くなって肩身が狭くなった、ということも考えられる。

 奈津の気位の高い性格が戻っている、というのには、メディアに露出する機会が多くなっていた糸子に対する、ちょっとした対抗心が隠されている、という推測も成り立ちます。 いきなり糸子に向かって 「なんか用け?」 と突っかかったのも、年老いた糸子の顔を既に雑誌とかでよう知っていたからではないか、という推測を、このあと糸子もしてましたし。
 いずれにしても必要最小限のことしか見せないこのドラマの、「裏を読ませる」 という真骨頂を久々に感じるのです。

 「なんで連絡せえへんねん?」 と詰問する糸子に、「へっ、なんで連絡せなあかんねん」 と毒づく奈津。 「ほな、いま、ひとりで暮らしてんけ?」「まあな」。 やはり子供はいないのでしょう。 「どこが悪いんよ? なあ? なんで入院してんよ?」「関係ないやろ」。 相変わらずのとりつく島のなさです。

 「あんた、変わらんなあ」。 糸子は思わず、席を蹴ってしまいます。 「ふんっ! こっちのセリフや!」。
 そんな糸子の後ろ姿を、懐かしげに眺める奈津。

 商店街を帰ってくる糸子。
 バブルがはじけたあとの岸和田商店街の様子をつぶさに描写していきます。
 金券ショップもあっさりと潰れたのですが、そこの兄ちゃん、篠山真(中山卓也サン)はオハラ洋装店の従業員になっていました。
 真は景気の悪い話を事務的にしてくるのですが、それと同時に、糸子が始めたシルバー世代へのプレタも参入者続出による競争で芳しくないことが明かされます。

 「(いつまでたっても、いくつんなっても、商売ちゅうんは、甘ないもんです…)」。

 そして毎朝新聞からの取材で、男やもめと食事をする会が、88人にも膨れ上がっていることも分かります。 毎朝新聞て、モックンのいた新聞社かいな(告知 : 「運命の人」、随時視聴中、そのうちレビューを書きたい予定…ハハ…)。
 若いころはサルやらブタやらエライ言われようやった、と述懐する糸子、「あいつにこの写真(糸子が中心になって大勢の男たちと写っている記念写真)見せたれんもんかいな」 と悔しがるのですが、奈津のことでしょうかね。

 そして寝床で、幼い日、若き日の奈津を思い出す糸子。 散々悪態をつきまくっていた奈津ばかりが思い出されます(笑)。

 「(ほんでも、生きてるうちに、お互いまだ、ボケもせんと、会えたんやさかい…奇跡やでなぁ…)」。

 ひとり考える糸子ですが、「奇跡」 という今週の副題、実はこの、糸子と奈津との再会だけではありませんでした。

 別の日、奈津の病室をうれしそうにのぞく糸子。 奈津がそれに気付くと、「あ~忙し忙し」 と、憎まれを聞いて立ち去る。 さりげなくいい場面だった気がします。

 龍村院長から、糸子は看護婦長の相川(山田スミ子サン)を紹介されます。
 この総婦長、糸子とファッションショーにかける意気込みについて最初から齟齬を見せるのですが、総婦長が色をなした糸子の意気込み、というのは、ファッションモデルに患者も加えさせてもらいたい、というものでした。
 妙な雰囲気に、院長の龍村はそそくさとその場を離れます(笑)。
 総婦長は香川事務長に、糸子の目の前でこれ見よがしにヒソヒソ話(笑)。 「事件は現場で起きてるんだ」、じゃなかった(笑)、「現場に全部しわ寄せがくる」 とか(ようありますなァ、そんなことはどの世界でも)。

 そして相川総婦長は言下に糸子の提案を拒絶。 「患者さんに妙なことをさせて、もしものことがあったら困りますよって。 それは無理です。 お断りします」

 糸子はこう反論します。

 「お宅らは、医療の力を信じて、毎日仕事してはるやろ?

 うちは、洋服の力を信じて、仕事してきましたんや。

 洋服には、ものすごい力があるんですわ。
 ほんまにええ服には、人を慰めることも、勇気づけることも、元気づけることもでける。

 うちは、自分の洋服で、お宅らの力になりたいだけや。

 患者さんに、ええ服を着て、ライト浴びて歩いて欲しい。
 それを、ほかの患者さんらに見て欲しい。

 医療とは、なんの関係もないと思うかもしれへん。
 けど、ほんなことが、人に与える力を、うちはよ~お知ってるんです。

 半分、いや3分の1でも、いやひとりでもええわ。

 希望する患者さんを、参加させちゃあってください。 この通りや」

 このことについては冒頭でお話ししました。
 確かに患者にファッションモデルをやらせる、というのは、見方によっては無謀な提案です。
 たとえ健常者であったとしても、自分がいくらやりたいと思っても、そういう場に出るということで心臓に荷重がかかることは想像に難くない。 しかし。
 「何かがあってからでは困る」、というのは、正しい危機管理意識なのですが、それがいっぽうで 「事なかれ主義」 を併発する。
 人間は、いついかなる時でも、リスクと向き合いながら生きている、と私は考えるのです。
 ぎっくり腰が怖くて仕事なんかようでけん、ちゅうことです(それとこれとは話が…い~や同じだ…笑)。
 出たい、という意志があるならば、それは紛れもなく自分の意志なのであり、他人がとやかく言うことじゃない。
 自分の意志でやることは、自分が責任を負うべきだ。
 何か問題があったから他人のせいにするなんて、いさぎ悪すぎる。

 この糸子の、総婦長への説得の言葉は、実はこのあと、補足がついてきます。
 またそれが、深いんだなァ。





 水曜放送分。

 そうめんをすすりながら、相川総婦長のこわもてぶりを話題にしているオハラ洋装店の人々。 すっかりズケズケものを言う女になってしまったピンクの電話に比べて、図体のでかい浩二が、16年前?よりもかなり小心者に拍車がかかってしまった印象があります。 今週の彼のセリフ、ほとんど聞き取れなかった。

 例によって奈津の病室をのぞき込む糸子。 診察中なのか、奈津がいないことに、いたくがっかりしてその場を離れます。
 考えてみれば、糸子が 「患者も参加させて」 と言い出したのには、奈津にそのファッションショーに参加させて元気づけさせよう、という狙いがあったからですが、憎まれ口を叩きながらのその行動は、心を再び閉ざし気味になってしまったように思える奈津に対する、大きなデモンストレーションのようにも思えます。

 その奈津、待合ロビーで患者の参加を呼び掛けるファッションショーのビラを眺めています。
 点滴を持ったまま歩く奈津。 それを糸子が目ざとく見つけ、杖をつきながら追い抜いていく。 奈津も負けていません(笑)。 ふたりは小競り合いをしながら、病院の廊下を歩いていきます(笑)。 いきなりストップして満面の笑みになる奈津。 急ブレーキをかけた奈津に、糸子は激突してしまいます(ハハ…)。 その視線の先には、龍村院長(笑)。
 そう言えば龍村院長は、結構なイケメン(笑)。 奈津が面食いなのは、泰蔵の昔から、変わらんっちゅうことでした(笑)。 知らぬは龍村ばかりなり(笑)。

 そして龍村に引率されてやってきた院長室で、事務長と総婦長との打ち合わせ。 モデル希望の患者たちのうち、病状が重い患者を優先させようとする糸子に、相川総婦長は色をなして反駁します。 糸子はそれに対して笑みていわく。

 「せやけど、考えてみてください。

 病気の重い人らが、10月のショーに出てみたいと、夢を今持った。

 その夢を、病気が重いからちゅう理由で、奪う。

 そら…ひどないか?」

 総婦長それに答えていわく。

 「いや…ひどいやらひどないやら…そんなことうちらが論ずべきことやありません。
 病院は、患者さんが治療に専念する場所です。
 我々の仕事は、その環境を守ることです。
 我々が、責任を放棄せなあかんようなイベントなんてできません」

 糸子は総婦長の責任感を受け止めます。 「せらせや…」。

 糸子の考えたことは、重度の症状の人ほど、苦しみが深い。 苦しみが深いからこそ、自分が輝きたい、という気持ちは強いであろう、という判断からだった、と思います。
 でもそれが出来ないのが、現代。
 患者の体は患者だけのもんやない、という考え方もあるでしょう。
 家族のなかでも意見が分かれるべき性格のことに対して、安易に結論が出せない。
 軽々しい気持ちなのか、かなりの覚悟からきているのか。
 その人ひとりの判断の高低の問題もあります。

 ただ、そんなふうに、ものごとを難しく考えすぎなのではないか、という気も、いっぽうではします。
 人の生死に関して、重々しく考えすぎなのではないか、と。

 重々しく考えることが間違っているとは申しません。
 人ひとりの生死なのですから。

 でも、行くも戻るも出来なくなってしまうほど重苦しく考えすぎてしまう、というのも、違う気がする。

 患者の参加者は、結局軽い症状の人たちだけになります。 糸子は参加希望者の中に奈津の名前がなかったことに、納得しながらもちょっとがっかりします。 それでも一縷の可能性を信じたのか、糸子は自分と奈津とがお揃いの紅白のドレスを着てステージに立つ夢を見ます。 奈津は白。 糸子は赤。 糸子にはそのときの観客の拍手が聞こえている。

 たぶんその可能性は、とても低い。
 でも夢見ることで、日々は明るくなっていくものです。
 この発想は、とても学ぶべきものが多い気がいたします。

 「揃いの、赤と白…。 正月のあの漫才師みたいな感じですか?」 浩二の言葉に、糸子は妄想を打ち砕かれたような怪訝な顔をします(笑)。 いくよくるよかぁ?(笑)

 それにしても、糸子にはいつも 「赤」 のイメージが付きまとっていたのですが、それに対して奈津は、「白」、だったんですねー。 ふたりの花嫁衣装がやはり赤と白でしたしね(糸子は大遅刻で、結局奈津の白い花嫁衣装を借りたんでしたっけ)。

 「(また、鼻で笑うやろか…。
 せやけど、長い長い腐れ縁の果てに…ほんなことがあったかて、ええやないか…)」

 糸子はデザイン画に色を入れながら、また同じ妄想を呼び戻すのです。

 88くらいになると、もう糸子のまわりに同年輩の人間が、よう出てきません。
 奈津が桜井のところに嫁に行ってからというもの、奈津の代役を務めたのは、北村だったのではないでしょうか。
 その北村もあの世に逝ってしまい、糸子にとって生きる張りというものは、北村の写真に向かって毒づくくらいしかなかった気がする。
 互いに意地を張れる存在がいる、ということ。
 その貴重さ、その大切さを噛みしめているからこそ、糸子は可能性のとても低い妄想に、自分を遊ばせたがると思うのです。

 8月。 モデル希望者との顔合わせです。
 糸子は彼女らに、「今日からとにかく、美しくなってもらいたい」、という要望を出します。
 難しそうだと苦笑し合うモデルたちに、糸子は言います。

 「そらそうです。 このショーは、みなさんがキラキラ輝いてはじめて初めて、見る価値が出るんです。
 絶対、自分は輝くんやと信じて、努力してください。
 自分が輝くことが、人に与える力を、信じてください」

 輝く力。
 自分が輝こうとする力。

 ファッションショーは、そんな 「女性たち」 の、内面的な希求を実現するための場なのだ、ということが、とても分かるセリフです。

 その場に居合わせた、ひとりの気色の変わった女性。
 ニット帽をかぶり、参加者ではないように見えます。

 この女性。

 ニット帽をかぶっているその姿は、同じ渡辺あやサン脚本のドラマ 「火の魚」 を見た人ならば気付くと思うのですが、末期がんの患者を演じた尾野真千子サンの、最後のシーンでの姿と、かなりダブるんですよ。

 おそらくこれって、渡辺あやサンなりの、尾野サンへの感謝の表わしかただ、と感じたんですね、私には。
 まあここで尾野サンを出すわけにもいかなかった。
 だからと言ってはなんですが、同じカテゴリに属すと思われる、中村優子サンをこの末期がん患者に仕立て上げたのではなかろうか、と。
 なにしろ尾野サンも中村サンも、河瀬直美監督が絡んでいる。 ついでに言えば、河瀬直美監督作品で、心斎橋百貨店の支配人だった國村準サンと、オノマチサンは共演してます(全部ウィキ頼りの考察であります…笑)。

 そしてこの中村サン、このあと尾野サンに勝るとも劣らぬ演技力を、発揮していくのであります。

 顔合わせから採寸が終わり、奈津とのツーショットのデザイン画をうれしそうに眺め続ける糸子は、いそいそと奈津のいる病室に向かいます。 ダメもとで、ショーに出ることを打診しようとしたと思われます。

 ところが。

 奈津のベッドは、もぬけの殻。 表札も外されている。

 糸子の顔から、さっと血の気が引いていきます。

 デザイン画が、糸子の手から、はらりとこぼれ落ちていきます。

 外された表札を、すがりつくようにして見る糸子。 動悸が激しくなっていきます。

 西日が糸子を、まぶしく照らしていく。





 木曜放送分。

 通りがかった看護婦に、奈津のことを慌てて尋ねる糸子。

 無事でした。

 奈津はおととい、退院していたのです。

 「はぁぁ…。 よかったぁぁ…。 …もう、死んだかと思た!」

 生きた心地がしなかった、という表情の糸子。 笑っていいのやら悪いのやら…(笑)。

 それにしても気になるのは、退院してどこに奈津が行ったのか、ということです。
 真が 「孤独死」 なんて口走ったものだから、糸子は居ても立ってもいられなくなるのですが(笑)、浩二が病院に問い合わせる、ということでいったんその場は収まります。

 しかし。

 「個人情報だから」 という理由で、奈津の住所を浩二は聞き出すことができません。
 個人情報保護法というのは、これもウィキ頼みですが、この2年後に施行されてます。 だからこのドラマの話は時期尚早かとも考えられるのですが、法律の施行前から、その機運はかなり高まっていた記憶がある。 なんかいろいろ問題が起きてた気がしますよね。

 糸子は龍村院長に頼んでなんとか聞き出せそうになるのですが、そこに出てきたのが総婦長。 龍村院長はあっちゅー間にその場から逃げ出して、物陰からそれを眺めます(笑)。

 「あたりまえですっ!」
 「なんでや?! 教えてくれてもええやろっ! ケチっ!」

 ハハ…。 そらケチですわなァ(笑)。

 「なんとでもゆうてくださいっ! アカンもんはあきませんっ!」

 「怖ぁ…」 物陰で戦々恐々としている院長(笑)。 感心しとる場合かっ(爆)。

 「(なんや。 個人情報て。

 たかが奈津の住所が、小難しいもんになりよって。

 はぁぁ…。

 世の中なんでも小難しなって、さっぱり分からん)」

 待合ロビーで現世を憂う糸子の前を、ルーズソックスをはいた女子高生が通り過ぎていきます。

 「(あの靴下は、何をどないしたいんや?)」(笑)。

 離れた席に座ってケータイをいじくっている、ガングロヤマンバ風のへそ出しルックのギャル。 それを見て糸子は、ギョッとします(笑)。

 「(この子の服は、いったいなんてゆうてんや?)」(笑)。

 戦後の若者ファッションを俯瞰いたしまして(笑)いちばん突出して奇態だったと思われるのは、私もこのガングロヤマンバだったと感じます。 糸子でなくとも、「何をどないしたいんや?」 と思ってしまう。

 世の中が、あまりにも 「なんでもあり」 という方向に傾いてしまうと、「自分を見せたい」 という欲求がますます肥大化していく、と感じます。 そしてそれは 「美」 という観点を大きく離れ、ただ目立ちたがりのゴクラクチョウみたいな方向に行かざるを得ない。

 それはカンチガイの上に植え付けられた 「単なる無秩序としての自由」 の行きついた先であり、思想などはもとより存在せず、だらしなさの発露にすぎない。

 個人情報規制の機運をこれと同列に論じることは間違っているかもしれないが、「なんでもあり」 という精神構造が、従来人道的な自制によって制御され続けてきた個人情報の取り扱いを、とりとめのない悪用化の方向へと導いていく、というからくりにおいて、その性格は類似しているように感じられてなりません(いきなり難解な文章になってきたぞ)。

 まあ要するに、「なんでもあり」 という考えが、人々に個人情報もいくらでも悪用しようとさせるし、ギャルどもにただ奇異にしか映らないファッションに走らせるし、ということであります。 それを同等に論じようとしているこのドラマは、やはり凄いと思われるのです。

 そしてその、崩壊し尽くしてしまったように思われる秩序の中で、だんじり祭りだけは、糸子に深い安心感を与える契機となっている。
 だんじりだけはどんな世になっても変わることがない。
 この精神的支柱さえしっかりしておれば、どないに商店街がさびれゆこうとも、人心が荒廃しようとも、「ゴロっと熱い」 情熱を糸子は感じることができるのです。

 けれども祭りに集まる人々の顔触れは、やはり変わっていきます。
 なんか、アラーキーみたいな人がいた気がしたけど…?(笑)、ジョニーや白川ナナコはまだまだ健在。 アホボンたちもそれなりに成長しているようです。 三姉妹もずいぶんと、今のイメージに近くなってまいりましたね。 里香とチェッカーズ君は、結局別々の家庭を持ってしまったようです。
 ひい孫たちに囲まれながら、糸子はその親である理恵などの孫に気遣われる描写があるのですが、それはこのあとの布石となっていきます。

 ファッションショーの打ち合わせが続くなか、相川総婦長は患者たちが生き生きとしていく姿を見て、最初の 「まあ適当に楽しませていただく」、という考えを、ちょっと修正しつつあるような様子を見せていきます。
 糸子は糸子で、奈津とのツーショットのデザイン画をまだ後生大事に帯同して、その低い可能性に賭けつつ、楽しそうに参加者たちの個性を引き出す作業に没頭しています。
 そしてそれを楽しげに眺めるだけの、ニット帽の女性。





 金曜放送分。

 直子のつてでやってきたと思われる、ちょっとゲイっぽい振りつけ担当のオニーサンの厳しい指導に、「患者さんにストレスを与えないでください」 と総婦長は声を荒げるのですが、糸子はぴしゃりとそれをたしなめます。 それはまさに湯婆婆そのもの(笑)。

 「総婦長! 歩きかたはショーの基本や!

 歩きかたがおかしかったら、恥かくんは本人なんや」

 ショーの練習の会合が終わったあと、看護婦に付き添われてひとり退出する、ニット帽の女性。 糸子はそれを一瞥します。
 入れ替わりで入ってきた総婦長。 モデルをひとり、追加してほしいと言います。 それがあの、ニット帽の女性です。 吉沢加奈子。 末期のがん患者だ、ということを、総婦長は糸子に告げます。

 この部分で私が感じたことは、冒頭に申し上げました。 ちょっと気を抜くと、「個人情報教えてもええんかいな」、と思ってしまう場面です。
 ここでの総婦長と糸子のやり取りは、ちょっと興味惹かれます。

 「せやけど、ここだけの話…。

 そないゆうてる今の医学かて、なんぼのもんかは知りません」

 「はぁ?」 思わず訊き返す糸子。

 「いや、正直、知れてます。

 ま、もちろん、毎日現場に立って、その場その場で、やれるだけのことはやってはいます。

 けど、やればやるほど、つくづく、『知れてんな』 と思いますわ。

 そもそも、人間の病気には、ほんまに医学しかないんか。

 ま、とりあえず、ないことにして、うちらは必死で、患者を治療に専念させてるわけですけど、ほんまのところは、どうか知りません。

 医学のほかにかて、もしかしたら、あるんかも知れん。

 ま、ないかも知れませんけど」

 医学の無力さを嘆く総婦長に、糸子はこう返すのです。

 「まぁ…。 服かて知れてます。

 力を信じたいし、信じてる。

 けど、おっしゃる通り、やればやるほど、知れてるっちゅうことは、毎度突き付けられます。

 ほんでも…。

 ご縁をもろたんや。

 …おおきに」

 「…よろしく、お願いします…」

 いくら必死になっても必死になっても、その限界というものは、だからこそ却って明確に、見えてくる。
 逆の立場で言えば、ひと様からなにがしか、勇気をもらった、と言っても、それで励まされた、と言っても、その感動って一瞬である場合が多い。 明日の朝にはケロッと忘れてたりする。
 でもだから、人のために何かをしてあげる行為、というものが、無意味なのか。
 そうじゃないですよね。
 肝心なのは、それが継続される、ということなんじゃないでしょうか。
 人によっては、ある人との出会いが、たとえただの一度だけだと言っても、とてもその人の人生に大きな影響を及ぼすことがある。
 でもそれは、かなり相性が良かったり、電流が流れるような衝撃的なことだったりする場合なわけで。
 そんなケースはまれですから、たいていの場合は、人を元気づける行為、人を励ます行為、というのは、継続して初めて意味を持ってくるものだ、と思うのです。
 ここでの総婦長と糸子のやり取りは、そんな無力感とそれに対抗する決意を端的に描写していて、秀逸でした。

 そして加奈子と初めて話をする場を、糸子は持ちます。

 「お宅、いっつもデイルームの隅っこに座って、見てたやろ?」

 「はい…」

 「さすがの総婦長さんも、ほだされたらしいで。 特別にひとり、入れてくださいちゅわれてな」

 「…うれしい…」

 「ほんなに、出たかったん?」

 「…はい…」

 「なんで?」

 「はい…。 あの…。 子供が2人、いてるんです。
 その子らに見せちゃりたいと思たんです。

 私は、病気になってしもてから、自分の、哀れな姿しか、あの子らに見せちゃれてないんです。

 こない痩せてしもて、髪も無くなってしもた。

 もちろん私もつらいです。

 でも…」

 加奈子はそこまでしゃべると、急にこみ上げてきます。

 「母親が…。

 母親が、そないなっていくのを見てる、…あの子らの気持ちを思たら、たまらへんのです…。

 主人に連れられて…病室に入ってくる時の…いっつも…、おびえるような顔が、…かわいそうで…つらあて…。

 …幸せにしちゃりたいのに…。

 …悲しませることしか出けへんで…」

 嗚咽を続ける加奈子。 声が詰まってしまいます。

 その肩を抱きかかえる糸子。 寄りかかる加奈子の肩を優しくさすります。 号泣する加奈子。

 「…よしよし。 …よう分かった。

 よう分かった…。

 よっしゃ!

 ほな、今度はうちの話しよか…」

 うなづく加奈子。

 「うちは、今、88や。

 あんた、そら、88歳も、たいがいなもんなんやで!(笑)

 …体はあちこち弱るしなぁ…。

 杖ないと、歩けんし。

 いつ死んだかてもう、おかしない年やよって、いつ会うても娘らの顔には、まず、『心配。大丈夫なんか、お母ちゃん?』 て書いちゃある。

 ほんでもなあ。

 85、越えたあたりかいな。

 ごっついええこと、気付いたんや。

 教えちゃろか?」

 いたずらっぽく加奈子をのぞき込む糸子。 うなづく加奈子。

 「年取るっちゅうことはな、奇跡を見せる資格がつく、っちゅうことなんや」

 「…奇跡?」

 「そうや。 たとえば、若い子ぉらが元気に走り回ってたかて、なぁんもびっくりせえへんけど、100歳が走り回ってたら、こら、ほんなけで奇跡やろ?

 うちもな、88なっていまだに、仕事も遊びも、やりたい放題や。

 好き勝手やってるだけやのに、人がえらい喜ぶんや。

 老いることが、怖い人間なんていてへん。

 年取ったら、ヨボヨボなって、病気なって、孤独になる。

 けど、そのうちももう、大したことせんでも、ウナギ食べたり、酒飲んだりするだけで、人の役に立てるんや、ええ立場やろ? フフフ…。

 …

 ほんでな。

 あんたかて、そうなんやで」

 驚いた表情の加奈子。

 「え?」

 「笑うてみ。 ニィ~ッって」

 加奈子はぎこちなく、そしてしっかりと笑い顔を作っていきます。

 「ほれ! そんでもう、奇跡や!

 末期がん患者が、笑たんや。

 みんな、末期がんなんかになったら、もう二度と笑われへん思てんのに。

 あんたが笑うだけで、ごっつい奇跡を、人に見せられる。

 あんたが、ピッカピカに、おしゃれして、ステージを、幸せそうに歩く。

 それだけで、どんなけの人を、勇気づけられるか。 希望を与えられるか」

 加奈子は糸子の言葉に、泣きそうな表情になっていきます。

 「今、自分が、そういう資格、…いや、こらもう、役目やな。 役目を持ってるっちゅうことを、よーう、考えてみ」

 「はい…」

 「あんたの出番は、トリや。

 髪は、このごろ、ウィッグのええのんがなんぼでもあるよって、また相談しよう。

 …あんたが、奇跡に、なるんやで…!」

 糸子は、残り少ない人生を、絶望を振り切りながら生きている自分を、目の前の加奈子に投影させながら、そのつらさを同苦したように、声を振り絞って加奈子を励ますのです。

 あ~もう、泣けました。 参ったなぁ。

 泣けるんだけれども、ただいたずらに感傷的じゃないんだなぁ。
 これは迫りくる死への、挑戦状なんですよ。
 加奈子にとってもそうなのですが、これって88歳の糸子にとってもかなりの切実な問題だからであり。
 88年も生きたら、もうあとはい~や、というのも確かにあるかもしれません。
 でも、いかに長く生きようとも、いかに人生が短くとも、死に臨んで、気持ちが後ろ向きになることだけは、なんとしても避けたい。

 笑おう。 人生の最後まで。

 輝こう。 人生を終えるそのときまで。

 そんな前向きな決意が、私を泣かせるのです。





 土曜日放送分。

 ファッションショー当日。

 加奈子の病室をのぞきこんだ、加奈子の夫と、ふたりの小さな息子たち。 加奈子が話していたように、子供たちの表情は、おびえたように暗い。
 けれどもその日、加奈子は糸子に教わった、満面の笑みで子供たちをベッドから迎えるのです。
 「おはよ!」
 子供たちは安心したように、自分の母親に駆け寄ります。 「ママ!今日頑張ってな」「頑張ってな!」
 「うん! 見ててーママ、メッチャきれいになるから!」
 うれしそうにそれを見守る夫。

 ショーのディレクター的な役割をしているのは、里香です。 里香の案内で、糸子は美人に生まれ変わった参加者たちに、感嘆の声を上げます。 「へぇ~みんな、上手いこと化けたな!」。

 そしてショーに臨む参加者たちを前に、糸子は語りかけます。

 「ごっついべっぴんがようさん仕上がりました。 あとはよろしいか、みなさん。 胸を張って。 今、ホールに続々と集まってきてるお客さんらは、何を見に来てるか分かりますか?

 『幸せ』 です。

 女が、きれいにして、おしゃれして、楽しそうに歩く。
 その幸せを見に来てるんです。

 見る人に、幸せを分け与えよう思たら、まず自分が、いちばん幸せな気持ちで歩かなあきません――」

 このアドバイスは、糸子が初めて洋服を着て、岸和田の街を歩いたときに、根岸先生に教わったことを踏襲している気がします。

 「糸子さん!

 私はいま、あなたにいちばん大切なことを教えてるの!

 …堂々としなさい。

 洋服を着て、胸を張って歩くということを、あなたの使命だと思いなさい」

 …もう、思い出せないほどの、遠い昔の出来事です。

 糸子は、堂々と自分を見せることを第一に、各参加者たちにアドバイスしていきますが、最後にボブヘアのウィッグをつけた加奈子のところへ来たとき、いきなり破顔一笑します。 思わず両手を口に当てて、泣きだしてしまいそうになる加奈子。 糸子はそれを、笑ってたしなめます。

 「…まだや…!

 …今からや。 まだ泣いたあかん!」

 スミマセン。 もうここで私は泣いてしまいました(笑)。

 糸子は花びらを敷きつめた籠を加奈子に手渡します。 「あんたは、このショーの大事なトリや。 ほかの子ぉらは、幸せ見せなあかんけど、あんたは、まだ一段、ごっついもんを見せる役目があるんやったな。 なんやった…?」

 「奇跡…」

 「せや!

 …あんたが、奇跡になるんや。

 ほんで、見てる人らに、奇跡を分けるんやで! …ええな?」

 「…はい…!」

 ショーが始まります。 BGMは、「銀座カンカン娘」 です。 このドラマを見ていた人なら即座に分かる、戦後オハラ洋装店のファッションショーで直子が芋けんぴをかじりながらレコードをかけていた、あの曲です。 小憎らしい演出だぁ…(泣)。
 ナレーターは、糸子が務めます。

 進行していくショー。

 おなかに子供がいる女性、ご主人を亡くされたばかりの女性。 いろんな人生を歩んできた女性が、晴れの日のスポットライトを浴びていきます。

 バックステージを見つめる糸子。 加奈子が満面の笑みで応えます。 ところが、ステージを食い入るように見つめている、加奈子のふたりの息子が目に入った途端、糸子はあふれ来る感情を抑えられなくなってしまう。
 ステージに笑顔をたたえて現れる加奈子。 けれども、ナレーターの声が、聞こえてきません。
 ざわつく客席。
 そんな時。

 糸子の様子に気付いた相川総婦長が、糸子のもとに駆け寄るのです。
 そしてマイクを持ち、ナレーターの代役を急きょ務めることになる。
 このショーの趣旨を完全に理解した総婦長の、とっさの機転です。

 『私は3か月前に、…(一瞬言い澱む総婦長)末期がんと診断されました。

 でも決めました。

 私は幸せになります。

 大好きなパパ。 大好きなみーちゃんゆーちゃん、優しい先生がた。 看護婦さんたち。 見ててね。

 私は今も、これからも、絶対に幸せです!』。

 涙を堪えながら、顔いっぱいの笑顔をふりまき続ける、加奈子。 その姿に、夫も、糸子も、感極まって泣いてしまいます。
 そして籠の中の花びらを、加奈子はその笑顔と一緒に、客席にふりまき続けます。
 人生が輝く瞬間。
 笑顔を与えることで、幸せを与えることで、その人自身の笑顔が光り輝いていく。 その人自身が幸せを享受していく。
 ステージにのぼる子供たち。
 子供たちを抱き寄せる加奈子。

 『ありがとうございます。 ありがとうございます。 皆さんにも、きっと奇跡が起こりますように!』。

 相川総婦長の言った言葉は、加奈子があらかじめ書いた原稿だったのでしょうか。 それとも総婦長が思わず口にしてしまった言葉だったのでしょうか。 それは判然としませんが、感動的なシーンを締めくくる言葉としては、最高のものだったと感じます。

 そしてそれを、遠くから見つめていた、ひとりの女性。

 それは、奈津でした。

 硬い表情のままだった奈津。 いったい何を思っていたのでしょうか。 おそらくそれは、次週、最終週へと持ち越される話になるように感じます。 ないかな?

 帰ろうとする奈津を、龍村院長が呼び止めます。 「ハーブティでもいかがですか?」。 思えば今週のキーアイテムは、ハーブティでしたなぁ。

 「(こら、天からのご褒美やろか…)」

 病院の廊下を、杖をつきながらだんじりのごとく突進していく糸子(笑)。 「待っとれ…!」 …って、果たし合いか?(爆) 糸子は、奈津に再び会うことが出来たのです。

 2002年1月。 糸子のナレーションで、イヴサンローランが引退したことが告げられます。 なんや、もう10年も前の話やったかな。 ついこないだだったよーな気がしたが…。

 そこでの彼のスピーチは、このドラマと精神的に不思議と符合するものでした。

 「うぬぼれるようですが、私は昔から信じ続けてきました。 今も信じています。 ファッションは女性をきれいに見せるだけでなく、女性を安心させ、自信と、自分を表現する勇気を与えるものです」。

 思えば、ディオールの後継者として、糸子が常に隠れたライヴァルとして認識してきたこの男。

 彼もまた、立派なこのドラマの、役者のひとりであったと言えましょう。

 一度も会ったことのないこの男に 「お疲れさん」 と話しかけながら、献杯(?)をする糸子。
 「(うちは、もうちょい、頑張るよってな)」。

 その、「もうちょい」 が、近づいてきています。




 私を悶絶させ続けたこのドラマも、いよいよ次週が最終回。

 あと1週ですから、とりあえず頑張りますが、もうこういう大傑作は、ご勘弁願いたいものであります(爆)。 最後のひと月での失速感は否めませんが、それでもなお、朝ドラ最高傑作と私が考える 「ゲゲゲの女房」 を、この時点で凌駕しております。

 とは言うものの、「ゲゲゲ」 もよかったでよ(ハハ…)。 あのドラマは、最後まで揺るぎない王道だったけど、こっちのドラマは最後まで、危なっかしくもかなり挑発的な作りでした。 あっちが聖子チャンだとすると、こっちは明菜チャン。 視聴者を過激に挑発し続けたこのドラマ。 まったく、とんだドラマを、NHKは、渡辺あやサンは、作り上げたものです。

| | コメント (26) | トラックバック (0)

2012年3月17日 (土)

「カーネーション」 第24週 だんじりが、また動きだした

 先週あんなけ失望した、「カーネーション」。
 正直なところ、このドラマのレビューを熱く語ることはもうない、と思いました。

 しかし今週のこのドラマを見て、「やはり 『カーネーション』 は 『カーネーション』 なのだ」、という思いを新たにしました。
 尾野真千子サンの糸子は確かに良かった。 良すぎた。
 けれども私は良くも悪くも健忘症気味であります(笑)。
 「あれはあれ、これはこれ」 と割り切りながら見ることにいたしました。
 ものごとが自分の思い通りにならなかったからと言って、それをいつまでも引きずるのは辛気臭い。 辛気臭いのは、寿命を縮めます(笑)。

 前回のコメント欄にも書きましたが、たしかに尾野糸子編は、テレビドラマとしての出来としては、150%、出来すぎの部類に入っていました。
 そして夏木糸子編の第1週目は、どうひいき目に見ても85%程度の出来でしかなかった。
 でも、今週は95点くらいだと素直に思う。 生意気な書きかたで大変恐縮ですが。

 そのうえでまずは夏木糸子編のどこがまずいのか、悪いことを先に書いてみようと思います。
 ほめるのはそのあとです(ほんとカワイクナイねぇ…笑)。




 まず時代背景。
 昭和60年、61年あたりは、まさにバブルの絶頂期であります。
 先週も指摘しましたが、ドラマでは好景気に日本中が浮かれていて、その時代の人々の気持ちに、現代の私たち視聴者が感情移入しにくい、ということが挙げられると思う。

 特にアホボンふたりは人間としてかなり浅い。

 それに乗っかってやってきたアラレちゃんメガネの男もそうなのですが、要するにこの3人は、オハラ三姉妹のネームバリューにあやかって、小原糸子をシニアの星に仕立て上げようとしているにすぎない、と私にはどうしても思えてならないのです。
 小原糸子の志なんか二の次。 要するに儲け話にただ乗っかっているだけ。
 このアラレちゃんメガネの男が今週、いみじくも糸子に向かって面と向かってゆうてました。
 「岸和田のオバチャンが服作ってます~で売れるはずがない」、と。
 彼らの考えの根本だと思うんですよ、そこは。
 コシノ三姉妹の母親でなかったら、小篠綾子サンには岸和田の人以外にだれが振り向くのか。

 だけれども、それが世間っちゅうもんです。

 ここんところ、実はとても、夏木糸子編を見るうえでの分岐点になる気がする。

 つまり、「小篠綾子サンはコシノ三姉妹の母親だからこれだけ周囲がちやほやして、70歳を過ぎても自分のブランドを立ち上げることができて、最後までみんなから慕われたんだろう」、という目で見てしまうと、老年期の糸子編を視聴する意味自体が喪失してしまう、と私は感じるのです。

 でも、作り手が目指しているのは、「恵まれているから出来るのではない、その気があるから出来るのだ」、という、老年期の生きかただ、と思うんですよ。

 小篠綾子サンの場合はたまたまそこにステージがあった。 自分が輝くためのステージが。

 でも、そんなステージなんかなくても、日々生きていくうえで 「いよいよこれからなのだ、今日は昨日とは全く別の日なのだ」、という意気込みで生きていくこと自体に、価値があるのではないか。

 このドラマはそっちをより強く主張しようとしている。
 私にはそう思えるのです。

 このアラレちゃんメガネの男、今週半ばから、かなりキツイ仕事の鬼になっていきます。
 その方法は確かにバブル時代のそれやけど、男一匹仕事をやる以上、その意気込みに関しては好況だろうが不況だろうが関係ない、という作り手の主張が提示されていく。

 そして時代背景その2。

 優子の娘里香がツッパリ娘になっちゃったのも、要するにこれも、世の中が豊かな証拠、なんですよ。

 もしくは親が豊かな証拠。 または親が甘やかしている証拠。
 当時は 「ツッパリ」 というのが一種の流行みたいになってましたが、世の中が好景気だからこんなタワケたこともできたんじゃないでしょうかね?
 今なんか就職氷河期が長いから、こんなことしてらんないでしょう。 就職できなくなっちゃう。

 里香は糸子と一緒に暮らすことでそこらへんの自分の 「甘え」 に気付き、やがては更生していくのですが、あらためて振り返れば、アホボンたちにしても里香にしても、「景気がいいから許されている」、という緩い部分がある。
 景気が悪すぎてギスギスしている現代人から見れば、そんな彼らのノーテンキぶりがちょっとムカムカしてしまう。
 夏木糸子批判の周辺部分には、そうした構造が隠されているような気がするのです。

 そしてその、肝心の夏木マリサンなのですが。

 私が夏木サンの演技を見ていて、上手い下手とかいう次元ではなく感じるのは、「怒りの演技がとげとげしいのではないか」、という点です。

 それは夏木サンの演技を差し引いた、脚本自体にも感じることです。 少なくとも私は脚本にもそれを感じます。

 つまりセリフ自体が、かなり乱暴なんですよ。

 今までの尾野真千子サンが演じた糸子も、その乱暴さについては一緒だったと思う。

 ではなんで、尾野サンの時はとげとげしさを感じず、夏木サンの怒りの演技がきついと思うのか。

 それは、尾野サンが大阪人の機微というものを、自分なりに咀嚼して演技していたからだ、と思うんですよ。

 大阪の人間は、たとえキツイ物言いをしていても、どこかで相手に突っ込んでほしい、というような 「待ちの姿勢」 というものがある。 言いっぱなしではキツすぎるから、「はいここはツッコミを入れるところですよ~」 というボールを、相手に投げるようなところがあるように思うんですよ。

 尾野サンの演技にはそれがあった。 夏木サンの演技は、ボールを思いきり投げ込んでしまってツッコミを返せなくするようなところがある。
 関西人の機微、というものは、やはり一朝一夕には理解できないものなのかな、そう感じます(関西人でもないのによく言うよ…)。

 そして夏木編批判理由の最後に挙げたいのは、見る側が 「老い」 というものに真摯に向き合おうとしていない、という点です。

 確かに 「作品の質」 という点だけでこのドラマを見てしまうと、極上の尾野真千子編だけでいいと思われます。
 でも本当に大事なのは、「みんな年を取る」、ということなのです。
 このドラマではかなり早い時期から、少女時代の尾野真千子サンが岸和田の商店街を歩くときに、こう独白させています。

 「あっこのおじいちゃんかて、ちょっと前は、あっこまで年寄りちゃうかった。

 あっこのおねえちゃんは、よう見たら、…もうおばちゃんや。

 …うちらが大人になった分だけ、

 大人も歳とっていくんやな…」

 今度はその糸子が、紛れもなくその側に、いるのです。

 それは少女時代の糸子が想像していたよりもはるかに大変なこと。

 若者に年寄りの状態を体感させようというと、重い荷物をしょわせたり、目も耳もよく聞こえなくさせたりしますけど、実際になってみないことには、どうにも実感できないことは、否定できない。

 私自身の話をしてしまいますが、こないだ47になって、このところ 「前はこんなことなかったのに…」 と思うことがよくある。
 やたら疲れが取れないし、どうにもしんどい、と思うことが多くなってきている。

 これが60、70になったらもっともっとひどくなるんだろうな、ということは感じます。
 この、「老化」 という現象。
 これは、普段からあまりにもよく言われることであるがゆえに、なんかかえってピンとこない。 なってみないと分からない。

 その、なってみないと分からないことをドラマではやっているために、特に若い人ほど共感が得にくい気が、やはりする。
 「なんで夏木マリはあんなこれ見よがしみたいな痛がり方をするのか、どうしてナレーションをゆっくりしゃべってんのか」、という感じ方ですね。

 これは、「自分もやがてはそうなるのだ」、という目で見なければならない。
 夏木マリサンの演技の問題ではないのです。

 ある時は痛がりながら動いて、ある時はひょいひょい動いたりする、という批判もネットで見かけました。
 でも、みんなそんなもんなんですよ。
 まだらなんです。
 気持ちと体力のせめぎ合い、騙し合いで、年寄りというものは行動しているのです。

 そこを理解しないと。

 で。

 夏木糸子編のダメな部分を列挙していく、と言いながら、それに対する反論なども書いてしまいました。 ひとりボケツッコミみたいですな(笑)。

 ここまでが前フリです(あ~またかよ…)。

 おそらく今週のレビューは、先週よりは熱のこもったものになりそうです。





 月曜放送分。

 アホボンコンビが連れてきたアラレちゃんメガネの男は、商社マンの高山守(藤間宇宙サン)。
 呉服屋のアホボン栄之助の言うことは相変わらず聞いていてむずがゆくなるような歯の浮いたお世辞にしかよう聞こえんのですが、糸子はそれにいたくご満悦の表情です。
 ここらへんの構図が、やはり浮ついているように思えてしまうのは仕方ない、と感じます。
 この話に乗ってくる生地屋のアホボン譲(ゆずる)も同様だし、高山もそう。
 譲があらためて語り出す、おふくろが死んでから自分でもどないかせないかん思たという話も、いかにも取ってつけたようなお涙頂戴の域を出ていない。

 けれどもこいつらの軽さって、結構狙った演出のように思えるんですよ、あらためて見ると。
 作り手の論旨の重点は、おそらく 「こんな浮ついた話のなかでも、何かしら意味があることはどこかにあるものだ」、ということのように思える。

 それが、譲が得意げに語った、「攻撃は最大の防御」 という言葉です。
 糸子はその言葉を、いたく気に入ります。
 そしてこのどうしようもなく頼りなさげに見える連中が、自分のことを頼りにしてくれている、という気持ちが、糸子の心の、どこか奥のほうに、引っかかったままになる。
 表面だけを見ていると、「調子のいい連中にそそのかされていい気になっている主人公」 という図式しか見えてこないのですが、そんな唾棄すべき状況から、この物語、今度はこのあとくじけようとする糸子に、「蜘蛛の糸」 を垂らしてくるのです。

 とはいうものの、糸子は自分のブランドを立ち上げる、という今回の話を、いったん断ります。 オーダーメイド職人としてのプライドが、既製品のブランドを許さないのです。
 それを意地だとしみじみ、そして実に重々しく述懐する糸子に、アホボン3人組は一様に首をひねります。
 つまり、この3人は、これまでの 「カーネーション」 で繰り広げられてきた 「譲れない大切なもの」 を、頭から真っ向に否定する存在、なのです。

 「ええ~?」 ヘンな顔をする高山。
 「なんや?」 思わず訊いてしまう糸子。
 「見せなくてい~んじゃないですかぁ~意地なんか」
 「ああ?」 びっくりする糸子。 譲がたたみかけます。
 「そうですよ~そんなん先生見せてるつもりでもだ~れも見てませんてぇ~、なァ?」
 高山 「見せませんね全く」 栄之助 「ほんなもんちゃっちゃと捨ててしもて、僕らと新しいブランドこさえましょ」(笑)。

 糸子がこのあと大魔神と化すのはとーぜんの成り行きでして…(笑)。

 「お前ら、うちの、この、50年の意地、分からへんけっ?!」
 「(3人揃って首振って)分かりません~」(爆)。

 鮮やかなぶち壊しだ(笑)。 これでこそこのドラマだ。

 糸子はいったんこいつらにほだされて取ったウナギの出前をキャンセルしようとするのですが、時すでに遅し?(笑)。 こいつらはちゃっかりと特上のウナギを呼ばれまして(笑)、そのあと糸子にお手玉爆弾で追っ払われます(笑)。
 糸子はウナギとこのごろの男どもを引っ掛けて 「ヌルヌルしよってからにどないもとどめっちゅうもんが刺されへんで!」 と腹の虫がおさまらないのですが、いったん帰ったと思われた彼ら、ハートマークのラブレターをピンクの電話の都子チャンに託して、「でも、信じてます♡」 というメッセージを糸子に送るのです。 ほんまどこまでヌルヌルしてんや(笑)。
 糸子は忌々しげにそれをくちゃくちゃにしてゴミ箱に捨てるのですが。

 「(ほんでも…。

 うちのデザインが、外でそんなけ通用したちゅうこと。

 若い子ぉらが、あない熱心に商売に誘ってくれたこと。

 …じぃんわりとうれして…。

 気持ちにも張りが出るっちゅうもんです)」

 と、くしゃくしゃにしたメッセージカードを、また拾うのです。

 にしても、この独白シーンで、糸子はん、まだ足踏み式ミシン使うてましたで(笑)。
 とっくに電動式にした思てましたけどな。

 この経緯を、直子の電話で報告する糸子。
 直子はアホボンたちの目のつけどころに感心したようです。
 しかしプレタをやることの大変さを身に沁みて分かっている直子は、糸子に 「やめときや」 と釘を刺します。 ちょっと鼻っ柱が折れたような格好の糸子は、憤然と 「わかっとるわ!」 と言い返すのですが。

 夕食時。
 テレビでは中森明菜チャンが 「ミ・アモーレ」 を歌っているのですが、今週このあと本人がご登場…ちゃうちゃう、でもここですでにサブリミナルが行なわれてたか…(笑)。
 後片付けを里香に任せた糸子、里香に気難しい言葉を吐いたことを、ちょっと自嘲します。

 「(はぁ…難しいなあ、年寄りっちゅうもんは…)」。

 ここらへん、なんですよね。 深さが出せるかどうかの分かれ目って。
 つまりさっき述べた、「大阪人気質」 なんですが。
 糸子は 「今日(の後片付け)はおばあちゃんの順番でしょ?」 という里香に、「たまには 『私が代わるで』(ニカッ)くらい言わんかいな」 と突っ込む。
 大阪人はここで、相手に気の利いたリアクションを求めている、と思うんですよ。
 でも夏木サンの場合、ツンケン言い過ぎて、そこに可愛げが出てこない。
 もちろんここで尾野サンがこのセリフを言ったとしても、里香はよう反応できません。 里香は東京人ですから。
 でも夏木サンの言いっぷりで、糸子の気の強さが余計に際立ってしまう。
 …申し訳ないです、勝手な論理で。

 糸子は手すりにつかまり、階段をのぼりながら、考えます。

 「(ほんまは、年寄りかて、機嫌ようしてたい。

 せやけど、体が、それを許さん。

 痛い膝。 痛い腰…)。

 重たい体やなぁ…」

 思わずつぶやいてしまう糸子。

 次の瞬間、手すりから手が滑ってしまいます。

 階段から転げ落ちる音。 駆けつける里香。 呻き続ける糸子。

 「おばあちゃん…! 大丈夫?! 救急車呼ぶからね!!」

 それまで出来ていたことができなくなる、というのが 「老い」 というものです。 注意していても、やってしまうのが、「老い」 ということなのです。





 火曜日放送分。

 商店街を駆け抜けてくる優子。
 オハラ洋装店の入り口には、「臨時休業」 の張り紙が。
 里香と出くわす優子ですが、里香は仏頂面でなにも答えません。
 そこに従業員の浩二(小笹将継サン)におぶわれて、直子と一緒に糸子が帰ってきます。 足には包帯。 骨折です。
 「なんでこない遅くなったんや?」 と優子をなじる直子、ふたりはまたきょうだいゲンカを始めるのですが、糸子にたしなめられます。
 1階には大きな介護用ベッド。 優子と直子が入れたらしい。 介護用というのが気に入らない感じの糸子ですが、そこに都子チャンが、「向かいの兄ちゃんから」 と言って、見舞いのお花を持ってきます。 金券ショップの兄ちゃん、ええとこあるな。

 糸子はまわりが止めるのも聞かずに、不慣れな松葉づえをついて、金券ショップの兄ちゃんにひと言、お礼を言いに行きます。
 誠意には誠意で応える。
 商店街の昔からの人々をすべて失ってしまった糸子にとって、新しい顔のひとりひとりが大切なんだ、と感じましたね。 向こうが素っ気ないからようつきあわん、では、世界が広がっていかない。
 なんで金券ショップの兄ちゃんが見舞いの花を贈ってきたか、と言えば、糸子がもともと開店当初から、何かと気を遣ってきたからであり。
 何かを人にしてあげれば、その分自分に帰ってくるものがある。
 ちょっとしたシーンだったのですが、その大切さというものを感じましたね。

 「(はぁぁ…。 情けない…。

 歳をとるっちゅうことは、当たり前に出けるはずのことが、出けへん。

 …その情けなさに耐えること。

 しかも、いま出けてることも、これから先、どんどん出けへんようになっていく。

 …その、怖さに耐えること。

 たったひとりで…)」。

 夜、ベッドの上でひとり考える糸子。

 糸子の脳裏には、あんなけ騒がしくて華やかだった昔のまぶしい光景が、浮かんでいます。 晩酌をしながら笑う善作、千代や静子たち、ハルおばあちゃん。

 「(なんでやろ。 この家で、いろんなもんを、生んで増やして、育ててきたつもりやのに、結局、ひとりになってしもた…)」。

 ケンカをする幼い日の優子と直子。 布団をかぶせてそれを叱る、若き日の糸子。
 そしてかつての小原洋裁店の、多忙極まりない様子。

 回想シーンはもう、すっかり入れないものだ、と思っていました。
 それがこのドラマの潔さなのだ、と。

 ところがこの回想シーン、現在の糸子の孤独を、これ以上ないというふうに、揺さぶりまくるのです。
 効いた。

 家族が余すところなく、家に全員いる時代。
 どんな家庭にも、そんな時代があるものです(例外はありますけど)。
 子供たちは誰も塾にも行かず、ましてや友達と夜遊びして帰ってこないこともない。
 とりわけ子供たちが手のかかる時代は、目の回るような忙しさではあるのですが、それがそのまま、家族というものの喜びに直結している。
 そのうちに、ひとりいなくなり、ふたりいなくなる。
 ある者は亡くなり、ある者は巣立っていく。
 そしてある時、死んでゆくのも自分ひとりなんだ、ということに否応なく気付いていく。
 その寂しさ。
 それが老いた者の、孤独の本質だと思われるのです。
 ましてや今の糸子は、怪我をして自分の体力の限界を痛すぎるほど感じている。

 この回想シーンで、すべてはこの、老いた糸子の孤独を表現するためのお膳立てに過ぎなかった、みたいなことまで感じる。

 年老いた糸子は、暗がりで、逝ってしまった人々の写真額を眺めます。

 「(どっかで、なんか間違えたんやろか…。

 それとも、そもそも人間が、そうゆうもんなんやろか…)」。

 北村の写真が、目に入ります。

 「(…ここで泣いたら、あいつの思うつぼじょ…)」。

 糸子は、ぐっと唇をかみしめます。 「…うちは泣かへん…。 泣かへんで」。

 北村に対して糸子は、死んでも対抗心を燃やしているように思えます。
 でもそれは、意地を張っているわけじゃない、と私は思う。
 北村に対して毒づくことで、自分を奮い立たせようとしているのです。
 そしてそれで、北村と一緒に生きている、という、寂しさを紛らわすための一助になっている。
 これはかなりひねくれた、北村への愛情だと感じる。

 そこにそろそろとやってきたのは、里香です。
 「お母さんたちのいびきがうるさくて眠れない」。
 糸子は、そばで寝てくれる者がいる、という気やすさに、微笑みます。 「お休み」。

 「おばあちゃん」

 「…うん?」

 里香は、つぶやくように話します。

 「私が、いるから」。

 糸子は自分の孤独を見透かされたような表情をします。

 「いるから。 …ずっと」。

 糸子は孫の言葉に、思わずこみ上げてきてしまいます。
 嗚咽を押さえようとする糸子。
 でも、その小さな息遣いは、里香の耳には届いているはずです。

 泣けました。 夏木糸子に泣かされるとは(ハハ…)。 でも、これでこそ 「カーネーション」 です。

 翌朝。

 介護用ベッドで食事を取りながら、糸子はNHK連続テレビ小説 「いちばん太鼓」 を見ています。
 これ、すごく奇妙な光景でしたね。
 こういう場面って、過去の朝の連ドラにあったかなぁ?
 朝の連ドラの主人公が、別の朝の連ドラを見てるなんて(笑)。
 私、あまり詳しくないんで分かんないんですが、私の見た範囲では、こういうことってなかった気がする。
 かなり奇妙で、ニヤニヤしてしまうようなシーンでした。
 ただこの画面、アナログ放送のクセしてゴースト(二重映り)とかがない(笑)。

 そこに優子と直子がやってきます。 話がある、昼の再放送見たらええやろ?と糸子にテレビを消させるのですが、伝え聞いたエピソードだと、この親子、自分たちの話が朝の連ドラになればいいよねなんてしゃべっていたらしい(笑)。 そんなエピソードを想起させる場面でした。

 ただここで娘たちが切り出したのは、糸子の引退を勧める話。
 糸子はその話のとっかかり部分から、すでに相当、腹に据えかねたような表情をします。
 糸子は、娘たちが自分を当てにして経理やら代理やらいろいろ頼みごとをすることを楯にとって、それを拒絶します。
 しかし。

 優子 「ああ。 この際やからゆうけど、あれはうちらが、あえてやってたことや。
 お母ちゃんが仕事好きなの知ってるよって、お母ちゃんの負担になりすぎへんなようなことをちょっとずつ頼むようにしてきたんやし」
 直子 「なんも自分らのためとちゃう。 お母ちゃんのためや」
 優子 「せやけどあんな仕事、ほんまはどないでもなんねん」

 糸子が先週自負していた、「まだまだあの子ぉらは頼りない。 自分はまだまだ頼りにされてる」 という思い込みは、そのプライドは、その時点でズタズタにされるのです。
 この容赦ない話の運び。
 やはり 「カーネーション」 です。

 娘らは東京に来い、そのほうがうちらも助かる、岸和田でひとりにしてるよりよっぽどマシや、とまで言い募ります。 糸子はかなり、呼吸困難になるほど、怒りがこみ上げています。

 「帰れ」。

 糸子は怒りを激しく押さえながら、ようやく一言言い返します。

 「帰れ、帰れ! あんたらさっさと!」

 監視役みたいにしてすでにそこに座っていた里香が、糸子の怒りを見越して、席を立ちます。

 「うちに仕事辞め! 引退して、ゆっくりせい! あんたら、うち、殺す気かっ!」

 里香が持ってきたのは、お手玉爆弾(笑)。 糸子はそれを受け取ると、鬼は外!とばかり、娘たちのほうも見んと、それを投げつけます。 「帰り! 帰り! ほれっ! さっさと!」。

 娘たちはほうほうのていでその場を去っていきます。

 再び朝ドラを見始める糸子。

 「(ほんでも、確かに、今のうちは、自分で投げたおじゃみ(お手玉)も、自分でよう拾わん…)」。

 糸子はそれを拾って歩く里香を、優しい目で見守ります。
 「…そんなことせんでええ」。

 そして再び、テレビのほうを向き直ります。

 「こんなとこ居てんでええ…。 あんたは、東京帰りや。 はよ」。

 はしごを外されたような表情の里香。

 糸子は、ともすれば甘えてしまいそうになる孫に対して、あえて冷たい言葉を投げかけ、しずかに決意するのです。

 「(うちは、立ち上がらなあかん)」。

 …

 うーん。

 ようやく 「カーネーション」 らしさが戻って来たぞ。
 どうして里香というキャラクターをクローズアップさせたのかも、ようやく納得できてきた。
 里香をもってくることで、糸子の孤独感が増幅するんですよ。
 いくらなんでも、孫に頼るわけにはいかない。
 それが糸子の決意に、最終的な拍車をかけているんですよ。
 なにも娘たちに軽く扱われたから、意地を見せようとしてプレタを立ち上げる決意をしたわけじゃない。
 確かに高齢者たちのプレタを目指そうとしたことはあったかもしれないけれど、このドラマでは、その決意の最後の一石を、里香の存在に帰している。





 水曜放送分。

 くしゃくしゃになったハートのメッセージカードを、じっと見つめている糸子。
 悩みまくった末に、糸子はアホボンの一員、譲のところへ電話をかけます。
 出てきたのは譲の父親(佐川満男サン)。 「攻撃は最大のなんちゃら、というのを聞きたくて…」 と、糸子は照れ隠しに言うのです。
 譲からの折り返しの電話を待ちわびる糸子。
 夜も更けて、ようやく譲から、「夜分遅なって、すみませ~ん」 と相変わらずの間の抜けた声で電話がかかってきます。
 糸子はおずおずと、「うち、やるわ」 と話します。 「自分のブランド、始めるわ!」。

 早速行動を開始したアホボントリオ(いっしょくたになっとる…)。
 いきなり骨折して動けない状態の糸子を見て驚きます。
 糸子は構わず、半年後の7月20日を発表の日にちと決め、プロジェクトを精力的に開始しようとするのです。
 高山のアパレル商社マンとしての能力が、ここで頼もしく発揮され始めます。
 だんじりが、再び動き出したのです。

 また例によって小競り合いをしながらやってきた優子と直子。
 娘たちに糸子は、言って聞かせます。

 「だんじりはな、その…重たいやろ。
 重たいもんが走り出したら、止まらんのやな、これが。
 そら、誰がなんちゅうたかて、止まらん。
 まわりはまあ、余計な心配せんと、はぁ~ちゅうて見といたらええ」

 優子と直子は、自分たちの経験をまた持ち出して、お母ちゃんにプレタは絶対無理や、と断言するのですが、糸子は 「もう決めてしもた!」 とにべもない。

 「まあ…心配かけるけどやな。 かんにんな。

 うちはやっぱし、こうゆうふうにしか生きられへん。

 そら、どんなけ大変な仕事か、うちかて、よう知ってる。
 せやさかい、もう初めてしもてから、まあ落ち着かんし、ヒヤヒヤもソワソワもしてるわ。

 けど、ひっさしぶりになんしゅうかこう、…オモロイんや。

 ほんま、オモロイ。

 夜、寝るのが惜しゅうて、朝、起きるんが楽しみでな。
 こんなん、いつぶりやろか、フフ…」

 そう言えば、壮年期に入った糸子が、聡子のことに手を焼きながら、いつまでも夜遅くまでミシンを手繰り、朝、泥のように寝ていた時期がありました。
 あの時からずっと、糸子のなかには、この時のことが無意識のうちに準備されていたのでしょうか。

 優子は子供でも見るような目つきで、自分の会社の庇護のもとでやればいい、と提案してきます。 糸子はそれに対して、プレタを始める以上はあんたらかて敵や、という態度を見せるのです。

 「ほんな、敵に塩送るような真似したあかんで。 うちかて、あんたらみたいな商売敵からほんな情け受けたない。

 この、今のうちのおもろさはな、自分の身銭切ってこそなんや。 自分の体で、崖っぷち立たんことには、絶対ここまでオモロないよってな。

 …
 うちはオモロないと嫌や!

 オモロイん諦めて、生きてなんかおれるかいな!」

 「そのほうがオモロイ」。

 これは善作が糸子に残した、もっとも基本的な人生訓です。
 それはでも、なんでんかんでんオモロければいい、という性格のものでもない。
 ミシンを買うために、陳列棚に合った商品を全部売っぱらった善作の、背水の陣という精神が、この糸子の中に生きている。

 けれどもそのツッパリは、その後もろくも挫けてしまうのですが(笑)。

 優子は帰り際、里香にお礼を言います。
 たまたまだったかもしれないが、あんたがいたことでホントに助かった、と。
 里香は一瞬表情を緩ませますが、また厳しい表情に戻ります。
 「おばあちゃんだって、あんたが自分のために高校に戻らずにいるなんて、絶対望んでない」。
 母親の最後のひと言が、里香の心にいつまでも残ります。

 翌朝、里香は早速糸子にインタホンで起こされます。 みそ汁は煮込むな。 基本ですな(笑)。 口うるさい糸子の復活です。 朝ドラを見ながら、「ここで終わりかいな!」(笑)。
 自分が後年そのヒロインになろうとは…(笑)。

 「(さあ、だんじりは走り出しました。 もう止まりません)」。





 木曜放送分。

 消息不明(死亡?)の昌子と松田恵。 その回想が冒頭で流されます。 どないなったんでしょうなァ。 相変わらず不親切このうえない作りを踏襲しております。
 糸子に文句ばっかり言っていたこのふたり、それに比べれば、現在小原の店にいる浩二とピンクの電話の都子チャンは、まあ店が忙しくないのもありますが、かなりのんびりタイプ。
 そのふたりに、これから忙しくなる覚悟をしてくれ、と糸子は言うのですが、まずアラレちゃんの容赦ないレクチャーに音をあげたのが都子チャン。
 アラレちゃんはあまりに飲み込みが悪いピンクの電話に、舌打ちをしてしまうのですが、それに過敏に反応したのが都子チャンのほう。 アゴの肉をブルブルふるわせて、瞬間湯沸かし器のように激怒しまくります(笑)。
 「舌打ちはいかんな」 ととりなす糸子ですが、「舌打ちはあんたの専売特許やろ」 ゆいたくなります(笑)。

 それに比べて浩二のほうは、巨漢、ちゃうちゃう、神経細そうなクセして結構辛抱強かったりしてます。
 プレタの立ち上げの大変さが、まるで都子チャンに集中してるみたい(笑)。

 アラレちゃんとピンクの電話の攻防戦が次第に険悪なムードを高揚させていくに従って(笑)譲や栄之助を加えたチームイトコも、かなり個々の成長が促されていくような描写が続いていきます。
 それを陰で支えていく里香。 カレーライスを作ったりしながら、チェッカーズとの仲を深めたりしています(はしょってんなあ)。 カレーライスと言えば糸子が初めて食べたのは、玉枝の作ったそれでしたが、箸で食べてたころと比べて、だいぶ様変わりしたようです。 「誰でも作れるて」 というのも、時代ですよね。

 そんな忙しさが極まっていくなかで、糸子は不意にめまいがして、倒れてしまいます。

 「(調子乗って無理しすぎる…。

 うちの人生、何べんそんで怒られてきたことか)」。

 私がそれで真っ先に思い出したのは、結婚式の日に動けなくなった糸子を担いで爆走し、「このブタ!」 と罵倒しまくった奈津でした。
 この奈津、来週江波杏子サンになって、登場するらしいですね、予告では。
 楽しみだぁ~。

 担ぎ込まれた寝床で、糸子は悶絶しながら、里香に 「お母ちゃんらにゆうたらあかんで」 と口止めします。
 その翌朝、お父ちゃんらの遺影を見ながらひとり思う糸子。

 「(相変わらずアホやなァ、ちゅうて見てんやろ)…その通りや…」。

 そして。

 イトコブランドの宣伝に際して、高山が言ってきたのが、オハラ三姉妹のネームバリューを最大限に活用しない手はない、という、さっき述べたあれでした。 糸子は娘たちに啖呵を切ったこともあって、乗り気ではありません。

 「そんな甘っちょろいこと言ってる場合じゃないですよ!
 先生。 いま全国で、どれだけの人がオハライトコを知ってます?
 『岸和田の洋裁屋のオバチャンが作った服です~』。 そんな地味な話に誰が耳貸すんですか?
 オハライトコにはどんな価値があるのか。 そこにもう乗っけられるだけのものは乗っけていかないとダメなんです!」

 「ん~~~っ、むう~~っ、ムキ~~っ!」

 地団太を踏む糸子ですが、この資本主義社会のシステムには負けた…(笑)。

 「隆ちゃん(都子チャン)、コイツ、腹立つ!」

 都子チャンは涼しい顔です。 「知りませ~ん。 うちはちゃ~んと耐え抜きましたよって、先生も耐えてくださ~い」(笑)。





 金曜放送分。

 「(はぁぁ…。 ほんな、ブサイクな…)」。

 自分じゃ到底頼めないからと、高山に全権委譲した糸子。 苦虫を潰した顔をしながら、北村の写真額に語りかけます。

 「(あんたぁも、欲かいちゃ損してたけどなぁ…。

 うちも、格好つけちゃあ恥かいてるわ)」。

 自分の志とかプライドとか、あっさりと周囲の状況に押し流されてしまう。
 プライドで飯は食えん、と申しますが、「売れるために自分を曲げる」、というのは、どんな仕事でも付きまとうものです。
 画家が何かのシリーズ物を出すときは、それが売れるから仕方なく自分を殺して描いている。
 マンガ家も、アラレちゃんを描いた人はやはりコメディを要求される。 「ドラゴンボール」 も最初コメディでしたよね。
 自分の思い通りに傲慢に仕事を進められる人なんて、実はこの世にほとんどいない、と言っていいのではないでしょうか。 売れる売れないのはざまで、みんな生きている。
 自分の思い通りに生きたい人は、まず採算を度外視して、まるで道楽みたいにしてその仕事をしなければならない。

 いずれにしてもロンドンにいる聡子まで引っ張り出し、オハラ三姉妹を勢揃いさせる、ということは、実に宣伝効果が抜群の手法だったと言っていいでしょう。
 「あんなけ仲が悪いのに」 とかドラマでしゃべらせていいのか?って、もう優子と直子の喧嘩はこのドラマの定番ですからね(笑)。

 里香は招待状の住所を書いたりして下支えしながらも、ある夜、数種の薬(サプリメント?)をつらそうに飲んでいる糸子を見つけてしまいます。
 出来の悪い縫製を許す高山を烈火のごとく叱責し、自分でやらなあかん、とばかりミシンを漕ぎ続ける糸子。 膝が痛くてやはりとてもつらそうです。
 ある夜、ミシンのイスから立ち上がろうとして倒れ込んでしまう糸子を見て、里香はとうとう、「やめて」 と涙ながらに訴えてしまいます。

 「見たくない。 おばあちゃんが苦しんでるところ…」

 糸子はひっくり返りながらも、笑ってしまいます。

 「ほうか…。 あんたには、うちが、苦しんでるよう見えるんけ。

 そら、誤解や。

 うちはな、苦しんでなんかない。

 夢中なだけや。

 人間、ほんまに、夢中な時は、苦しそうな顔になるもんなんや。

 運動の選手とかかて見てみい。 みんな、試合中は苦しそうやろ。

 フフフ…。 おおきに…。 おおきに。 心配要らんで」。

 糸子は孫の頭を、優しく撫ぜるのです。

 昭和61年7月。

 聡子のロンドンの店の黒人スタッフ、ミッキーが金券ショップの兄ちゃんに、色目を使ってます(笑)。 聡子がロンドンから、帰ってきたのです。
 そしてオハラの母娘は、揃ってテレビのワイドショーに出ることに。
 「(人生、何が起こるか分かりません。

 お父ちゃん。

 お母ちゃん。

 勝さん。

 おばあちゃん。

 うち…)」。

 仏壇に手を合わせる糸子。

 「ワイドショー出てきます」(笑)。

 そしてテレビ局。

 緊張気味の糸子の前を、中森明菜チャンが通り過ぎていきます(そりゃ、当人じゃありませんが、これって脚本家サンの意向なのかな?…笑…スタッフの意向なのかな?)(とにかく明菜チャンへのラブコール、と見ました、ワタシ…笑)(孤高の存在の明菜チャンは、いかにもこのドラマと合ってますね…)。

 そしてスリートップの行進(笑)。 そして本番。 そして神戸…ちゃうちゃう(このギャグ使い過ぎかなァ)。 糸子は3人の娘を、緞帳から見守ります。

 優子 「えー実は、小原家には、優子、直子、聡子のほかに、もうひとりのオハラがいるんです」 直子 「人生の師であり、仕事の大先輩。 母親というより父親という感じの人」 聡子 「ほんまに怖い。 子供のころからとにかく怖い。 けど、大好きです」。

 3人 「せーの。 お母ちゃ~~ん!」。

 「はーい」。

 このような場がなければ、娘たちから自分が、このような改まった紹介をされる機会はなかったでしょう。 あらためて娘たちが自分のことをどう思っているか、有り難いなあ、という表情で聞いていた糸子が、娘たちに呼ばれて、出ていきます。

 「小原糸子でございます。 よろしゅうお願いいたします」。

 それは、72歳にして初めてスポットライトを浴びた、ひとりの女性の姿です。
 確かに小篠綾子サン、という人は、コシノ三姉妹という存在がなければこういう場に立つことはなかったように思えます。
 でも冒頭に書いたとおり、状況的に恵まれているからそう出来るのではなく、その気があるからそう出来るのだ、ということを、私たちは学ばなければならない、と感じる。
 他人が恵まれていることをうらやんでも進歩はありません。
 人生の表舞台は、なにもテレビに出ることであるわけでもない。
 一生懸命に生きている人ならば、目に見えないスポットライトは、いつも当たっているのだ、と私は思うのです。





 土曜日放送分。

 昭和61年7月20日。

 オハライトコブランドの発表会です。

 カメラの砲列。 新聞社の注目度もかなり高いことがうかがわれます。
 糸子の晴れの日を見届けた格好の里香。 母親の優子に、帰って高校に行くことを告げます。
 クタクタの様子のアホボントリオ。
 彼らも彼らなりに、成長したようです。
 バブル期がどうだとかばかり私も書いてまいりましたが、実はこの手の発表会とかパーティとか、その規模は、現在なんかに比べればはるかに大きかったのではないか、ということは指摘せねばなりません。 今は不況で、動員もなにもチョボチョボですからね。 その点ではいかなアホボンといえども、その仕事量はハンパではなかった、と思われるのです。

 「ほかのよほどでかいネタに押されない限り、これは新聞に大きく載りますよ」 と景気をつける高山に、まんざらでもない表情の糸子。
 ところが…。

 翌日の新聞を飾ったのは、「中村冬蔵、人間国宝に」(爆)。

 いや~、私も以前の記事で、「ひょっとしてこの人、人間国宝になるのではないか、作り手はそこまで考えているのではないか」 と書いていたのですが、まさかこのタイミングだったとは…(笑)。
 とにかくこの記事に押されて、オハライトコブランドの記事は片隅に追いやられ…(笑)。

 「クッソぉぉ~~っ…。 春太郎おおおおーーーっ!」(爆)。

 糸子の雄叫び(雌叫び?)が、岸和田を駆け巡ります。

 そして、里香との別れの日。

 「行くか?

 悪いけどうちは見送り行かんよってな。 忙しいさかい」

 「うん」

 糸子は通り一遍の型どおりのあいさつをして、そそくさとその場から離れようとします。
 孫と離れるのが、やはりどこかつらいのです。

 「おばあちゃん!」

 里香が糸子を呼びとめます。 「ありがとう…ございました…! また来ます…!」

 「うん。 …ほなな!」

 糸子は里香に顔を見せずに行ってしまう。
 里香は泣きながら、糸子がいなくなったほうを向いて、深々とお辞儀をするのです。

 そしてその夜。

 里香がいなくなった食卓。
 がらんとした空気の中で、糸子はひとり、夕食を食べ終わります。
 そこに里香から電話が入る。 「今度のだんじり祭りに行くから」 とだけ告げて、電話は切れます。
 そっけない孫の電話に笑いながら、またひとりぼっちを噛みしめる、糸子。

 「(東京へ…帰ってしもたから、なんや。

 …あっちへ、逝ってしもたから、なんや…)」

 亡くなった人たちの写真を見守る糸子。

 「(寂しいんは、うちがほんなけ、相手を好きなせいやないか…)」

 糸子はまるで強がるようにニコニコ笑いを顔じゅうに作りながら、あらためてひとりごちするのです。

 「うちの人生、フフフ…。 もう…好きな人だらけで、困るっちゅうこっちゃないか…ヘヘヘヘヘ…」。

 作り笑いしながらも、涙がこみ上げてしまう糸子。 目頭を恥ずかしそうに押さえます。 泣けました…。

 「ああ~…。 結構な話や…。 フフフ…」。

 そしてまた目に入る、北村の写真。

 「いや! あんたんこと違うや!」。

 いかにも憎々しげに吐き捨てる糸子。
 さっきも書きましたが、それが糸子の、糸子なりの、かなりねじくれた愛情だ、と思うのです。
 そこにはやはり、「ツッコミ待ち」、という大阪人の機微は入らないのかもしれないが、強がることで強調される悲しみ、というものもある、と思うのです。
 糸子はやはり、この純然たる 「ケンカ相手」 には、いつまでも生きていてほしかった。

 そこにチャイムが鳴ります。 金券ショップの兄ちゃんが、たい焼きを持ってきてくれたのです。
 糸子は呼ばれながらも、兄ちゃんに食事をふるまいます。 ハルおばあちゃんから連綿と続いてきた、イワシの煮付けをおかずに出しながら。
 生きていくということは、新しい人と会うこと。 その人と仲良くすること。 知り合いが、どんどん増えていくこと。
 どんなけ糸子が有名どころになっていったとしても、この物語がいちばん大事にしているのは、ここだ、と思うんですよ。

 そしてだんじり祭り。

 オハラの店は、娘たちの連れてくる孫たちやアホボンたち(笑)、糸子のコミュニティの人々で、またにぎやかになっています。 木岡や木之元のおっちゃんたちがいなくなっても、年に一度のだんじり祭りは、糸子の寂しさを忘れさせてくれる、大事なイベントなのです。
 すっかりナチュラルに戻った里香。 ママの作る服よか聡子おばちゃんのセンスのほうがいいなどと憎まれを聞きますが、素直ないい子に戻ったようです。
 里香はだんじりを見て、あらためてつぶやきます。 「怖いだけかと思っていたけど、こんなにカッコよかったんだ…」。
 それはそのまま、里香の糸子評につながっている気がする。

 そして里香の、チェッカーズ君(笑)との小さな恋は、静かに深く潜行しているようなのであります(笑)。





 まああと2週間ですから、このままのペースで書くだろうとは思いますが、次回作 「梅ちゃん先生」 では、かような過酷なレビューはもう勘弁してもらいたいものなのです(正直言えば、早々にリタイアさせてもらいたい…笑)。
 それにしてもあの壮大な、極上のディナー(尾野糸子編)を前菜にしてしまう、このドラマの不敵さ。
 どっちがメインやねん、という突っ込みは確かにあります。
 回想シーンがこれだけ効果的である、というのも、確かに回想の質が良すぎるからなのではあるのですが、そこから糸子の老年期の寂しさを演出したこのドラマの孤高を、私は讃えたいのです。

 つまり、このドラマは、徹頭徹尾、見る側に優しくない。

 だんじりのような強引さを、里香が感じていたように、「怖いばかりだ」 と思う向きもあるでしょう。
 でもその潔さでもって、見ている者を振り回しながらも、深く胸に残る作品として成立させている気がするのです。

| | コメント (22) | トラックバック (1)

2012年3月11日 (日)

「カーネーション」 第23週 そのあとの世界

 昭和60年10月早朝。

 竹の子族みたいななりのギャルが、岸和田商店街を歩いていきます。
 真っ赤な口紅。 ガムをくちゃくちゃ噛んでいます。 それは優子の次女、里香(15歳、小島藤子サン)。

 そしてすっかり様変わりしてしまった、オハラ洋装店。 里香はそこに入っていきます。

 ショートカットの女が、寝床で寝ています。 72歳になった糸子です。
 里香が、それを起こします。

 「ばあちゃん。 朝」。

 「ん…ん~、んん」。

 糸子は寝床でグーパーと、屈伸運動をして、やおら起きあがります。

 「(歳をとりました…)」。

 寝床を片付ける、72歳の糸子。

 「よっこらせ…」(笑)。

 なんだなんだ、面白そうだぞ(笑)。



 …と先週書いてしまった、夏木マリサンの糸子誕生シーンでしたが。

 今週1週間分を見た正直なところを忌憚なく申し上げます。

 極上のドラマから、フツー(よりちょっとは上)のドラマになってしまった、と感じます。

 私の場合、毎週1週間分1時間30分をまとめて見ているこのドラマ。 今週は途中数か所、寝てしまったことを白状します。 今までこんなことはなかった。
 毎週毎週、疲労のなかで見ている条件は同じなわけですから、話が緩慢になっていたとどうしても判断せざるを得ない。 今週、いつものように、話がスッ飛んでいかないんですよ。 展開が遅い。 一休みしているだんじり、という感覚でした。 もしかするとこのだんじり、来週からまた動き出すのかもしれないけれど。

 そして緩慢なわりに話が比較的緻密さを維持しているために、肝心な場面を見逃してしまうこととなり。
 余計についていけなくなり。
 結局もう一度見る羽目になりました。

 ただ、一方的な感情でこれを責め立てる、という気になれない、というのも、また偽らざる感想なのです。 どうにも奥歯にものの挟まったような書きかたで恐縮なのですが。

 つまり、小篠綾子という人の人生を描くうえで、どうしてもこの老年期の話は必要不可欠なものだ、と私も思うからです。

 小篠綾子サンは、70歳を超えて、自分のブランドを立ち上げる、という大仕事を成し遂げた。
 それがどんなに大変なことか、先日の 「NHKアーカイブス」 での小篠サンの特集番組で、私も刷り込まれました。 膝が痛くて言うことを聞かない、そんな体力的にも精神的にもきつかった彼女が、プライベートブランド立ち上げでどれだけ苦労したか。
 それが分かるからこそ、老年期描写の必然性を感じるのです。

 物語としても、「明日は明日の風が吹く!」 とスカーレット・オハラみたいに、彼女が若いまま、将来に希望をつなぐ作りで終わらせるという方法もあり得るのですが、この超高齢化社会において、それだけではどうにも浅い。
 その老年期の生き方を描くことには、とても重大な意味があると思われるのです。
 自分の人生をどのように締めくくるのか、というのは、誰にとっても避けることのできない課題です。
 このドラマを見ているのが若い世代であればある程、その重要性は遠い先の話なのではないでしょうか。

 そんなこのドラマでもっとも誤算だったと思われるのが、先週まで糸子を演じた、尾野真千子サンの演技が、あまりにも素晴らしすぎた、ということ。

 彼女の演技が何もかもを飲み込み、彼女なしでは小原糸子は成立しない、とまで見る者に強いインパクトを与えてしまった。

 さらにその脇役たち。

 その完成度があまりに高すぎた。

 これは尾野サンをはじめとした、出演者のひとりひとりが、脚本の咀嚼能力に非常に長けていた、ということの証左なのかもしれない。 または切磋琢磨の結果なのかもしれない。 千代、昌子、松田恵、、八重子、ほっしゃん。、そして三浦組合長…。

 今週繰り広げられた糸子の老年期の話が必要不可欠であればある程、尾野サンたちの熱演が誤算となっていく。 これは大きな皮肉です。
 なぜなら役者たちは、自分に与えられた役を、ただひたすらに持てる力以上のものを出して演じていくしかないからです。 彼らを責めるわけにもいかないし、それを誤算だ、というのも尾野サンたちに失礼にあたる。

 だからかもしれないが、夏木編のこのドラマでは、三姉妹を除外して、脇役たちを一斉に粛清しにかかった。

 必然的に残るは夏木マリサンのみ。

 夏木糸子だけが、尾野糸子との比較にさらされるという結果になっています。

 あとはみんな死んじゃってる(もしくは消息不明)。 だから、比較のしようがない。
 夏木サンはとてもよくやっていると思うけれど、相手が悪すぎる、と思うんですよ。 尾野真千子と比べられたんじゃあ。 結果、視聴者からの批判の矢面に立たされて、とても気の毒だと感じる。

 ただ老年期の描写を不可欠だと判断した以上、これは避けられないことでして。

 夏木サンの演技に尾野サンの演技をオーバーラップさせながら見るのは、とても間違った視聴方法だと思います。
 けれども、そういう見方も視聴者心理としては致し方なし、とも思えます(どうもどっちつかずの論調だな…笑)。

 私が夏木サンの演技を見ていて感じるのは。

 尾野サンが 「岸和田弁については目をつぶって」 とおっしゃっていたからあえてそこは突っ込みませんが(だって関西人じゃないから分かんないモン…笑)、尾野糸子が枯れるとこうなるかな、という気はとてもします。
 お上品に見えるのかもしれないが、でもそれは、尾野糸子が舌打ちしたりゴロ寝したり、あまりにも朝ドラヒロインとして品がないことをやり続けていたからそう感じるのであり(笑)。
 そしていちばん感じるのは、尾野サンより夏木サンの演じ方のほうが、より本物の小篠綾子サンに近いのではないか、ということ。
 夏木サンは実際の小篠綾子サンと懇意だった、と聞いています。
 そんな夏木サンが演じる糸子は、やはり先日見た 「NHKアーカイブス」 での小篠綾子サンご本人と強くダブる。

 老年期の糸子をドラマのクオリティを下げない、というレベルでもし人選すれば、以前コメント欄に書いた記憶があるのですが、倍賞千恵子サンあたりがいいんじゃないか、と感じます。 骨格が尾野サンと似てるし。 でもそれでも力不足の感がある。 ずいぶん失礼なことを書いていらっしゃいますね、アータ(夏木サンにも倍賞サンにも、ただひたすら申し訳ないです)。 でもそれだけ、尾野サンの演技レベルはすごい、と感じるのです。 彼女は若き日の大竹しのぶサンみたいな感覚がする。

 そして糸子と三人の娘以外、誰もいなくなったこのドラマ。

 すごいですよね、考えてみれば、作り手のこの決断。 全員いなくなっちゃったんですよ。 昌子も、松田恵も、北村も、八重子も、千代も、木岡夫妻も、木之元夫妻も。 みんな死んだの?

 でもドラマを見る限り、みんな死んじゃったんでしょうね。 消息不明気味なのが、奈津だけかな。 分からんなー。 でも木岡木之元、ご夫妻とも全滅ですか…? んんんー、…すごいバッサリいっちゃったもんだ…。

 でもですよ。

 そこから見えるものも、あるんですよ。

 つまり昭和48年の糸子は、その後12年間で、自分の人生を彩った、すべての人々と、死に別れてしまった、ということなのです(死んだ、と断定…笑)。
 昭和60年の糸子は、そんな寂寞とした状況下にある。
 ただその状況下にありながら、彼女はそれを、失ったと考えていない。
 それは先週の、尾野糸子の北村との最後の語らいで既に宣言されているからです。

 「無くす無くすって何無くすんや?

 …うちは無くさへん。

 相手が死んだだけで、なぁんも無くさへん。

 …決めたもん勝ちや。

 ヘタレはヘタレで泣いとれ。

 うちは宝抱えて生きていくよって」。

 つまり夏木糸子には、死んだ人の数だけ、宝が増えていっている。
 だからこそ夏木糸子は、彼らの写真を飾って、毎日彼らに、語りかけている。

 でも、よく考えてみれば、寂しくないわけないじゃないですか。

 昌子と松田恵の代わりに、オハラ洋装店には、新しい男女がふたり、勤めています。
 けれども彼らに対する描写は、今週を見る限りことのほか少ない。
 つまり、何十年も付き合ってきたような 「絆」 の深さ、というものが喪失してるんですよ。

 また糸子は、生きているか死んでいるか分からない周防にも、このような集まりがあることを願いながら、男やもめの食事会とか、ほかにもいろんなコミュニティを自ら中心となって立ち上げている。
 それも糸子の中にある、寂しさを紛らわすための、ひとつひとつの道具となっている気がするのです。

 つまり糸子は、宝を抱えて生きているのかもしれないけれど、寂しくないはずがない。

 優子のグレた娘である里香を、突き放しながらも一緒に暮らしていくのは、自らの寂しさを紛らわせるための一助としている側面も、見逃せないのです。

 さらにですよ。

 今週に入ってからの、この商店街の描写。

 やたらとよそよそしくなっていませんかね?

 木岡の下駄屋があったところには不動産屋が入っていて、それもこないだまでお好み焼屋が入っていた、という(まさか 「てっぱん」 じゃあるまいな?…んなアホな…笑)。 金券ショップなるものがオハラの真向かいに出来て、そこに勤める若者も、なんとなく他人行儀。
 まあドラマが進行していくに従って、それらの新しい人々ともある程度のコミュニケーションがとれるようにはなります。
 しかしそれって、かつての木岡や木之元とのような、密接なかかわりじゃない。

 つまり、世の中全体が、もう自分の居場所を失っている、といういやおうなしの時の流れを、毎日糸子に見せつけているように、私には思えたのです。

 これは脚本家の渡辺あやサンの、老後に対する絶望観を表明しているのではないか、という気が私にはする。
 つまり50だ60だくらいじゃ、70歳に自分が直面している別世界ぶりは想像できやしない、という絶望です。
 ただみんな死んじゃってる、みたいなのは極端だけれども、極端にしたいくらいの絶望を、渡辺サンは描写したがってる。
 私の70になる母親だって、かなり同年代の友人が多いほうですが、全員死んでるわけじゃない。
 まあ昭和60年と言えば今から四半世紀以上前ですから、寿命は今より短かったのかもしれませんが。

 とにかく、このドラマのステージが、もう絶望的になるくらい、刷新されちゃってるわけですよ。

 そして、尾野編でのエピソードを、繰り返しなぞろうとするのですが、期待したようなリンクの仕方をしていかない。

 孫の里香が買ってきてくれたクリスマスケーキ。
 クリスマスケーキと言えば善作がひっくり返してしまったあのエピソードが思い出されるのですが、果たしてその1ピースのクリスマスケーキは、里香を逆恨みした不良どもの襲来によって、同じようにひっくり返ってしまいます。
 それを糸子は構わず食べていくのですが、回想(シーン)もそこによう入らんし、「大丈夫、食べれるて」 とかハルおばあちゃんのセリフをなぞったりもしない。
 見ている側は、ちょっとはぐらかされたような気分になるのです。

 そのいちいちが、もう昔は昔。 今とちゃうねん、という諦観が表現されているような気がしてならない。

 つまり、同じ小原糸子の話をしていることはしているのですが、すべてが違うステージで展開している、ということを、いちいち感じるんですよ。
 極端に言えば、先週とは別の話をしている、という感覚(けっして全部がそうでもないんですけどね)。

 というわけで、ここまでが前フリです(ウソっ!…笑)。
 ここから、今週の話を振り返っていきましょう(マジかよ…)。

 とはいうものの、あまり先週までのような詳細なレビューを書こう、という気が失せております。
 ご了承頂きたいです。





 月曜放送分。

 里香は東京の優子のもとを家出して、糸子のもとへと転がりこんでいたわけですが、電話で娘の人生がこれで決まってしまうみたいなもの言いをしてくる優子に、糸子は 「はぁ? アホか!」 と一喝します。

 「決まらん! たかが3年で、人生なんぞ決まってたまるけ!」

 娘3人はそれぞれファッションデザイナーとして成功。 それでも会計のこととかどこぞの会長との付き合いの代理とか、母親を頼ってばかりです。

 糸子は朝寝坊をする里香を叩き起こします。 そしてかつての娘たちがいた部屋の窓から、外を眺めます。
 そこは改装しまくっていたオハラ洋装店のなかで、唯一昔どおりの様相でした。 いわばそこだけ、時が止まっているような感覚。
 そんな昔どおりの部屋で、まるで娘たちを叩き起こしたように、孫を起こす糸子。
 だんじり祭りに来なくなったからそないになったんや、と里香をたしなめます。 「カンケーないし」 とうそぶく里香、茶髪にメイクもバッチリで、まるで 「積み木くずし」 であります。 このメイク、今週のドラマが進行していくに従って、急速にナチュラルに戻っていきます。

 「(昔は走って抜けた商店街も、今は、ゆっくり歩くようになりました。

 ほんでも、だんじりは、今も昔も、なんも変わらん早さで、この道を突っ切っていく)」。

 72歳の糸子は、よそよそしさが漂っている、無機質な商店街を振り返ります。

 「うれしいような、……切ないような……」。

 冒頭で膝を痛がっていた糸子。 ゆっくりと、商店街を歩いていきます。
 この場面を見ていて、私は 「やはり糸子は寂寞たる気持ちを抱いたまま生きている」、と感じました。



 火曜放送分(早っ…笑)。

 東京の直子のファッションショーに里香を連れてきた糸子。 しかし里香はそんな場にも関わらず、ジャージ姿のまま。 直子はそれを見て、自分がセーラー服を頑として着ていた昔を引き合いに出して、ジャージと決めたら、絶対に中途半端に脱いだらあかんで、と直言するのですが、不良娘には何を言っても無駄であります。 ただ直子の仕事ぶりを見て、その不良娘は何かを感じた模様。

 糸子は夕方だというのに、デズニーランド(笑)に里香を引っ張り出します。 規則正しい生活をさせることで、夜中に出歩く里香の行動を改善させようとしているのです。
 健全な精神は、健全な睡眠時間に宿る(笑)。

 世はまさに、バブル状態。 それを見ることなく逝ってしまった北村を、糸子は揶揄するのですが、従業員のひとりであるピンクの電話の都子チャンが、キタムラって言えばえらいやないですかぁ~と反応します。
 ん?
 キタムラって、もしかしてあの安売り服屋のこと? いや、あれは埼玉が発祥の地らしいから、違うな…。

 そして、着物のコミュニティに来ていた、かつて金糸の商売で助けてやった河瀬商店の孫、譲(川岡大次郎サン)と、その知り合いの呉服屋のボンボン吉岡栄之助(茂山逸平サン)。
 糸子はこの呉服屋のボンボン栄之助から、反物を買いすぎちゃったのでなんとかしてほしい、という依頼を受けます。
 そんなアーパーな願い事をしてくる精神状態は、かなりバブル期を象徴しているように思える。 商売のイロハというものを知らないからこその物言いでもあるんですけどね。 まず人にものを頼むには、具体的でなければならないのは当たり前です。
 栄之助はその場に土下座。
 「カーネーション」 では恒例の風景です。



 水曜放送分(ホントに早いな…笑)。

 ところがこの土下座。
 里香に見られたりして恥ずかしい行為のはずなのですが、栄之助のそれはまったく軽い。 「土下座すればなんとかなるやろ」 みたいな性格を脱しきれていないように思えてならない。

 「頼みゃなんとかなる」、というのは、バブル時代の根本的なビジネス態度のように感じるんですよ。 つまり相手に断る理由が、バブル時代はあまりなかった。
 今なんか、いくら土下座したってダメなものはダメですよ。
 ただ、今回のケースでは糸子は完全に門前払いしましたが、「言うても来んで。 アホボンやさかい」 と、再び来ることを見越している。

 ここで今までのこの物語と違うように思うのは、世の中全体が浮かれていて、当時の人々の気持ちに現在の私たちが感情移入をできる素地が、あまりなくなっていることです。
 それと比較して糸子が栄之助を完全に門前払いしているその態度も、なんか必要以上に見る側が厳しく感じてしまう。
 糸子の態度は、おそらくバブルのその時期も、カツカツの現代でも、変わらない、と思うんですよ。
 なのに、「夏木マリが糸子をそんなわからず屋に演じている」、という単純な置換を、見る側が行なってしまう。
 夏木批判の根本は、そんなところにあると私は感じる。

 ただその演技の 「間」、そして 「緩急」、感情の加減が、オノマチサンに比べてしまうとどうしても見劣りしてしまうのは、正直に申し上げれば感じるんですよ、いっぽうで。
 でもそれをですよ、「糸子の老い」、という点で捕えることはできないだろうか。
 夏木糸子を鑑賞する手立てはそんなとこじゃないか、という気はするんです。

 かつて自分と同じ時代を生きた人々の写真額を里香に磨かせる糸子。 「小原家の家訓は、『働かざる者食うべからず』」 と言って憚らない糸子です。 これってかなり基本的な教育だと思いますね。 ニートに対する一番の薬だ。
 里香はしぶしぶ写真額を磨くのですが、ふと泰蔵兄ちゃんの遺影に目をとめます。 糸子はあんな男前はおらんかったで、と自慢します。 なんで死んだのかを訊く里香。 糸子はそれまでのうれしそうな様子を一変させ、「…戦争や…」 と答えます。
 「ふ~ん…。 もったいない」。

 糸子は泰蔵ばかりでなく、横のヘタレも磨いといてやってや、と言い残してその場を離れます。 里香は北村の写真を取るのかな、と思ったのですが、しっかり勘助の写真を選んだようです。 泰蔵も勘助も、なんとなく報われたように感じるそのシーン。 けれどもその度合いは、けっして強いものではありません。 もはや時の流れの中で、淡く消え去ろうとしている。 ただ孫の世代の里香だけには、ほんの少しだけ糸子の思いは伝承した。

 「タテタテヨコヨコ」、というパッチ屋での窓ふきの修業が糸子によって里香に伝えられるのも、その由来までは伝わらない。 どんな思いがそこに込められているか、ということが伝わっていかないもどかしさばかりを、見る側は感じることとなります。
 これは先ほど指摘した、クリスマスケーキの場面でもまったく同様。 そしてそれがいきおい、夏木編批判のファクターとなっていく気がしてならないのです。

 自分はお母ちゃんにほっぽっとかれ通しだったのにちゃんと育った。 けど自分はよっぽど里香に愛情注いでいる。 せやのにどうしてグレるんや、と電話で糸子に愚痴る優子ですが、愛情注ぎ過ぎてるからそうなってる、というのも見る側にはすぐに分かります。
 いわば原因がすぐ読める、この物語の特徴のひとつであるのですが、それも夏木編批判のファクターになっている。 いったん批判的に見出すと、何もかもが批判の材料になってしまう、という好例だと感じる。

 糸子は里香がジャージを着ているのをやめたら迎えに来てもええ、と電話で優子に答えます。 ジャージが里香の、反抗心の象徴だからだ、と察しているからです。

 「(言葉がのうても、服はいろんなことが分かる。

 昔、うちにそない教えてくれた人がいました。

 ジャージーはジャージーで、いろいろゆうてるわけです)」。

 ジャージ姿で金券ショップのにーちゃんを睨みつける里香。 にーちゃんは目をそらします。

 「(『うちはヤンキーです』 やら)」

 不動産屋のキンキラキンの二人組が里香をヒソヒソ噂します。

 「(『気安う話しかけんといてください』 やら」)」

 薄っぺらカバンのツッパリ女子高生(死語だ…笑)と目が合う里香。

 「(『ケンカやったらいつでも買わしてもらいます』 やら)」

 ツッパリねーちゃんが凄みます。 「おまえ、どこのモンじゃ?」(定番じゃのう…笑)。

 そしてチェッカーズみたいなにーちゃんにおぶわれて帰ってくる、里香。
 ここらへんのたたみかけは、「カーネーション」 の体裁そのままです。
 どうやらボコボコにやられたらしい里香。
 このにーちゃんは、のちにクリスマスケーキがダメになる遠因を作っていきます。




 木曜放送分。

 里香を心配する糸子をどやしつける直子のシーン。 ここらへんの流れは、オノマチサンであればドッカンドッカンの笑いを取る場面だと感じます。 けれど夏木サンは、大阪流の笑いの 「間」 というものに長けていない。 大変だけど頑張ってください、というほかないけど、もうクランクアップしたんだっけ(笑)。
 …「オノマチサンだったら」、という発想自体を、断ち切らねばなりません(笑)。

 譲と栄之助が、また糸子のもとを訪れています。 糸子は譲のひい爺さんが金糸の布をさばけんかったときに手伝ったのは、一生懸命やってもやむにやまれぬ事情があったからだ、と説明します。 さらに戦争中は洋服なんて容易に売れる時代でもなかった、と。 今はほっといても物が売れる時代なんやから、まず知恵を絞ることから始めないかん、と栄之助を叱咤します。

 「僕も僕なりに、知恵絞ってきました」、と言って、三色に染めた反物を見せる栄之助。
 「だからなんやねん?」 という話ですが、栄之助の知恵はまさにここまで(笑)。
 「お前どんなけ商売なめてんじゃ! 帰れ! このアホボンが!」。

 バブル期を象徴するかのごとき甘さなのですが、そのバブル期を象徴するグッズがまた登場。 金箔カステラです。 譲が持ってきた土産だったのですが、こいつらどこまでバブルに染まっとんのか、つー感じですな。
 その金満ぶりに呆れかえる糸子ですが、食べてみると結構おいしかったりする。

 寝込んでいる里香にそれをもってくる糸子。 悲しそうにそれを食べる里香の頭をなで、こう言います。

 「あんたな、ゆわなあかんで。

 自分が痛いんやらしんどいんやら、あるんやったら、ゆわなあかん。

 誰かてほんなん、自分ひとりで我慢なんかでけへんのや。

 ゆうたかてかめへんねん」。

 涙をポロっと流す里香。

 金券ショップのにーちゃんにも金箔カステラをもってくる糸子ですが、いかにも無味乾燥そうだった今どきの若者のにーちゃんも、里香を心配している模様。
 つまり人間関係がいかに紙風船のようになろうとも、やさしい心というものはどんな人にも宿っている。 失うばかりだと嘆くのではなく、どんどん若い人とも交流をもっていく。 それが人生の醍醐味ではないか、という作り手の主張が、こんなちょっとしたシーンに込められている気がしました。

 夜中に寝ている里香の窓に、何かをぶつけてくる音がします。 チェッカーズのにーちゃんです。 どうやら里香が気に入っている模様。 リーゼントのにーちゃんを引き連れて、遊びに行こう、と誘いますが、里香は断ります。 朝っぱらからばあちゃんの仕事をしなければならないからです。 どうも里香は、筋金入りの不良ではないようです。

 そして先ほど書いた、男やもめの食事会のシーンです。 さっき書いたので割愛します(笑)。
 傷口にメイクを塗るのがしんどいのか、もはや里香は、あのどぎついメイクをしていないことに注目です。




 金曜放送分。

 性懲りもなくまたやってきたアホボンコンビ。
 今度は 「オハライトコプロジェクト」 という企画書をもってきます。 ワープロで作ったんやろな、コレ(笑)。 要するにオハラ三姉妹の母親のネームバリューを利用しようという、また現在の感覚から言うと浅はかなプロジェクトと言えるものなのですが、シニアに向けたファッション、という点が斬新と言えば斬新。 糸子はでもそれより、アホボンたちの仕事の姿勢を評価しているように見えます。 「ちょっと、時間くれるか。 考えさせてもらうよって」。

 メイクをすっかり落とした里香。 チェッカーズのにーちゃんが彼女と歩くところを、前に里香をボコボコにしたねーちゃんの取り巻きのひとりが、恨めしげに見ています。 報復必至(笑)。

 「クリスマスデートをしよう」 と誘われていた里香、茶髪のままのをおさげ髪にまとめて、こっそりオハラの店を抜け出します。
 その夜、1ピースのクリスマスケーキをもってきた里香。 チェッカーズとデートしたんでしょうか? とにかく1ピースだけのそのケーキを、糸子ばあちゃんにプレゼントするのです。
 「私はもう食べてきたから」 と言う里香。 糸子は写真額の人々に、それを見せびらかして、それを食べようとしたとき、「パラリラパラリラパラリラ」。 バイクが止まる音がします。
 ガラスの割れる音。 「ひゃあっ!」 オハラ洋装店のショウウィンドウが割れたのです。
 「なめちゃあたらいてまうど!」「東京帰れ、ブサイク!」。 里香は思わず店の外に出ます。
 崩れていくケーキ。
 不動産屋のキンキラキンコンビが心配して出てきます。 ここらへんの描写も、「人情はすたれてへん」 という性格を感じる。
 キンキラキンに促されて糸子ばあちゃんのもとに戻ってくる里香。
 糸子は崩れたケーキを、構わず拾い集めてボソボソ食べるのです。
 ここでもちょっとしたもどかしさを感じた、とさっき書きました。
 糸子は里香に、話し始めます。

 「あんなあ里香。

 ここが、あんたの観念どこやな。

 あんたが決め。

 東京帰るか、そのジャージー脱ぐか」。




 土曜日放送分。

 「服っちゅうんはな里香。

 着て歩くことで、それにふさわしい物事を引き寄せて回るんや。

 あんたのその、頭とジャージーが、やっぱり見事にこの結果を連れてきたっちゅうこっちゃ。

 分かるやろ?

 世間様と無関係でおられる人間なんか、ひとりもいてへんねや。

 自分は、世間に、どない見えたらこんな目に遭わんで済むか、よう考え。

 分からんかったら、うちに置いとかれへん。 東京帰り」

 「そんな格好してるからあんな連中に目ぇつけられるんや」 ちゅうことですが、糸子のこのお説教に説得力をもたせているのは、「服とはそういうものだ」、という人生の重みが加わっているからです。
 「言葉がのうても服でいろんなことが分かる」 というのは、今週の隠れテーマなような気がします。
 服だけでなくてやはり言葉でも同じことが言えると思う。
 汚い言葉ばかりのブログには、それなりの読者しかついていきません。
 下卑た論調の掲示板は、見下げ果てたヤツしか集まらない。

 翌朝。

 タンクトップに半袖シャツで登場した里香に、糸子は仰天します。 そらクリスマスシーズンやさかい、真夏のファッションにはたまげますわな。 糸子は頑として優子から贈られてきた服を着ない里香に、聡子や直子のお下がりをとりあえず着させます。 一気に東北のおぼこ娘になった風情の里香(笑)。 アホボンコンビも驚いていましたが、里香の変身ぶりにはオッサンの胸もキュンであります(笑)。

 そこに聡子の年代物のジャージが含まれていたため、どうもジャージを脱いだということにならず、糸子は優子に 「まだ来な」 とくぎを刺すのですが(笑)。

 糸子は里香に、「優子のなにが気に食わへんねん?」 とあらためて訊きます。
 里香は、「分かんない」、と返事します。

 「なんか、半年ぐらい前から急に、ママが買ってきた服も、ママが選んだ高校も、絶対いやだって思うようになって…。
 ママの顔見るのも、ママの声聞くのも、思い出すのも嫌!」

 「…そない嫌いか?」

 糸子の問いに、里香は自分の冷たさも嫌になったように涙を浮かべ、かぶりを振るのです。

 「…嫌いじゃないけど、…どうしても嫌になった。

 …
 冷たくしたらかわいそうだって分かっているのに、優しく出来ない。 …どうしても…!」

 泣き出してしまう里香。
 親がかわいそうだというのは親にしてみれば不遜ですけど、子供は親の優しさが分かっているからこそ、反抗することで自らをも傷つけていくんだと思うのです。
 里香の背中をさする糸子。

 「はぁ…そら分からんけど、そら、あんたが大人になろうとしてるんやなぁ…」

 いくら厳しくても、やはりおばあちゃんには、なんでも話せてしまうものです。 そういうはけ口って、核家族になってなくなったもののひとつでしょうね。

 ところで里香の変貌ぶりに驚いていたアホボンコンビですが、そのときに糸子から新しいスーツのデザインを提示されていたわけで。
 それを18万で売ったらバカ売れした、と、今度はアラレちゃん眼鏡をかけたビジネスマン風の男を連れて来て、「先生のブランドを作らせてもらえないでしょうか?」 と打診してくる。

 18万てなんぼなんでもボリ過ぎや、と思うのですが(笑)、これもバブル期のアホぶりを強調させる話かと。
 今週の 「カーネーション」 は、この 「バブル期」 の時代の軽佻浮薄な空気がこれでもか、とばかり展開していた気がする。
 それが夏木編の批判と結びついてしまっている構造も、私は感じるのです。




 いずれにしても、先週までの話を頭から切り離して改めて見直すと、なかなか良くできていることは確かです。
 ただもう、先週までの熱を込めて、私もレビューを続けるのはつらい気がする。
 今週は夏木糸子の印象がレビューの半分を占めてしまったわけですが、それでもボリュームはだいぶ減りました。
 来週はその話題もできないわけですから、さらに分量が減るのではないか、と考えています。
 振り返ることはしたくない。
 けれども尾野糸子編は、やはり極上のディナーでした。 奇跡の連続でした。
 夏木糸子編をやることには、意味が必ずある。
 でも思い入れは、確実に減退しているのが、正直なところなのです。

| | コメント (19) | トラックバック (0)

2012年3月 8日 (木)

「坂崎幸之助・吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」 拓郎が 「情熱」 を無くした頃

 「坂崎幸之助・吉田拓郎のANNG」 のコーナーである、「驚き桃の木半世紀」(正式な書きかた分からず)。
 50年前から毎週1年ずつ(不定期)、どんな出来事があったのか、どんなヒット曲があったのかを振り返りながら、拓郎サンや坂崎サン(THE ALFEE含む)の人生を本人の証言で綴っていく、というコーナーです。

 個人的には、いろんな出来事の裏話が聞けて、とても貴重だと思うし、興味深い話の連続です。 当時のニュースに対してどう思ったのか、ヒット曲をどう感じていたのかを直接拓郎サンや坂崎サンの口から聞けるのも、企画を立体化させている気がする。
 このコーナーの本を出してくれ、というリスナーからの要望がある、と聞きますが、それだけの価値があると私も思う。 もし出たら買いますね、やっぱり。

 ただそれと反比例して、そもそも昔を振り返る、ということ自体が拓郎サンの嫌そうな作業のような気がするんですよ。
 けれども、「ヤッコ」 と呼ばれる(笑)プロデューサーが次から次へと繰り出しては消えていくあまたのコーナーのなかでは、大ヒットと呼べる企画であります。 今では番組のほとんどの時間がこれに費やされているほど。
 それというのも、やはり過去を振り返る作業を拓郎サンが面白がっているからこれだけ存続しているのでしょう。 ちょっとここらへんは意外です。 実は拓郎サン自身も、自分の人生を振り返ってトータルで考えたがっているのかもしれない、そんな気がするのです。

 しかし、ここ数週の拓郎サンの歯切れが、急に悪くなっているのには、また違う意味で瞠目してしまう。
 コーナーが存続するか、という興味ではなく、当時の拓郎サンがなにを考えていたのか、という意味で。

 ここ数週やっているのは、1984年から85年の動向であります。
 つまり、「ONE LAST NIGHT IN つま恋」 という、我々拓郎ファンの間では 「拓郎、これで引退か?」 と騒がれていたライヴをめぐる時期のこと。

 84年あたりからアルフィーが 「メリーアン」 で苦節ウン十年(笑)ようやく大ブレイクした頃と、拓郎サンの消沈していく時期とが、どうもちょうどリンクしている。 そのコントラストが、番組を聞いているととてもよく分かるのです。

 ここ数週交わされる坂崎サンとのやり取りの中で、拓郎サンが坂崎サンに頻繁に突っ込むのは、「お前ら本当にオリコン(ヒットチャート)にこだわるな」 ということです。
 しかし坂崎サンとしても、原稿で用意されたチャート成績を読み上げているだけで、突っ込まれても困る、という感覚。 このところ番組の内々で流行中の(笑)「天狗」 という表現を使って、「もうすでに天狗になってたのかな、いやまだこのころは天狗じゃないな」 などと、拓郎サンの攻撃をかわし続けます。

 ただTHE ALFEEとしても、もうずいぶんと長い間、シングルトップ10入りを継続しているわけでしょう? だからまったくこだわりがないか、と言えばそうでもない気はするんですよ。
 しかし不思議なグループですよね、ALFEEって。
 もうメンバー全員、還暦の声がそろそろ聞こえているっていうのに、いまだにアイドルチックな売れ方をしている。
 拓郎サンはALFEEのツアーパンフレットの写真にも難癖をつけ続けるんですが、ともかくそれが、とてもツクリモノっぽいらしい(どういう表現だったか忘れましたが)。 アイドルみたいに自分たちを見せたがっている、というんですな。
 シングル曲トップ10入り、という快挙も、なんか瞬発力だけでこなしている印象が、私にはとても強いのですが(ファンのかたゴメンナサイ)、これはALFEEだけでなくて、まあみんなそうですけどね、最近は。 ただそういう売れ方ってやはり、アイドルみたいな感覚なんですよ。

 拓郎サンは彼らの 「お笑い」 としての才能はいたく認めているのですが(笑)、けっしてALFEEの音楽性を認めているわけじゃない。
 そんな彼らが世間にウケ始めた、1984年という時代のなかで、拓郎サンは自らの音楽性がもはや時代遅れになっているのではないか、という疑心暗鬼にさいなまれるようになっていくのです。 それがラジオを聞いていると、よく分かる。
 自分がいいと思わないALFEEの音楽が受けている、ということが、拓郎サンのテンションに密接に関わっている、というのは、とても興味深い。

 と同時に、当時のヒット曲に対しても、拓郎サンの興味が急速に薄れていっているのが分かるのです。

 当時は明菜チャンが 「ミ・アモーレ」 でレコ大を獲ったり、チェッカーズが大人気だったり、C-C-Bとかが売れたり、世がバブル全盛期に突入していた時代。
 ここでまた印象的なのが、当時ベストテン番組の常連にまで成長したアルフィー(確か当時はカタカナでアルフィーだった気がする)の一員である坂崎サンが、当時のミュージック・シーンをとても懐かしがるんですよ。
 つまり当時の売れ筋と歌番組でよく一緒だった、ということなんですが、拓郎サンはその、懐かしがる坂崎サンに対して、とても冷ややか。 キョンキョンとか坂崎サンが 「大好きだった~」 と懐かしがっても、「あっそう、オレにはカンケーないね」 みたいな。

 当時のミュージック・シーンは、コンピュータによる打ち込みが一般化してきた時代で、音楽がにわかに陳腐になり出したな、と私も感じていました。 私も日本の歌謡曲から距離を置き始めた時期だったかな~。 いや、もっと前からかな。 1980年ごろからすっかり、拓郎サンとか中島みゆきサンとか、どっぷりでしたよ。 高校1年の時分です。 なにしろ自分が共感できる歌い手に、飢えてましたね。 世間の流行り歌が、みんなチャラチャラしてきて耐えられなかった。

 まあ別に、私にはビートルズという基本はありましたけどね、いつの時代にも。

 私のことは別にいいとして、拓郎サンが当時の歌謡曲に対して興味を失っていく過程で浮き彫りになってくるのは、先ほども述べた 「もう自分の時代ではないのではないか、自分は時代遅れになっているのではないか、自分の役割は終わったのではないか」、というかなり深刻な危惧です。

 それと並行しながらここ数週の拓郎サンが打ち明けているのは、「自分はその年齢その年齢、という区切りでものを考えたがる」、という性癖です。
 30になったらもうこんなことはできないだろう、とか、40になってこんなことやっていられない、だとか。
 当時の拓郎サンは38、9で40歳の一歩手前。
 ここでさらに拓郎サンの意識に大きく作用したのが、1980年に40歳で射殺され、その人生を終えた、ジョン・レノンの存在だった気がします。
 まあラジオを聞いていてビートルズフリークの自分の個人的な感じ方ですけどね。
 その40歳を手前にして、オールドタイマーとしての自分を強く自覚することによって、当時の拓郎サンはどんどん仕事に対する情熱を失っていった。
 当時のミュージック・シーンがバブルに浮かれて中身がスカスカになっていたことも、その絶望に拍車をかけたのではないか、と感じる。
 坂崎サンが原稿を読まされているとはいえ、ヒットチャート何位とかにこだわることにとても強い拒絶姿勢をあらわにするのも、拓郎サンがこの頃味わっていた絶望と無関係ではない気がするんですよ。

 チャートで何位だなんて、関係ない。
 売れてようが売れてまいが関係ない。
 要は、ひとりの人の心に、その歌が届くかどうかだ。

 拓郎サンの音楽に対する情熱の低下を象徴するように、当時発売された 「ふざけんなよ」 とか 「風を見たか」 とか、自分が出したシングル盤に関して、拓郎サンの記憶は全くなし。

 これってすごくありませんかね?

 当時の音楽の 「コンピューター打ち込み」 に対してとても否定的な見解をしていた拓郎サンなのに、この曲って結構、打ち込みが入っている気がする(カンチガイだったら申し訳ないです)。
 そのこと自体が、拓郎サンが自分を見失っている証左のような気がするんですよ。
 私もこれらの曲を当時聞いたときは、一種の 「投げやり感」 が漂っているように思ったものですが、本人がこの曲をまったく覚えていない、と証言したのには、少なからずショックを受けました。 だってその前の時代では、アイドル歌手に提供した比較的どうでもいい(失礼)曲まで、手持ちのギターですぐに弾いてしまうんですよ。 つまりコードを覚えている、っていうこと。

 これって私にとって、かなりショックでした。
 そのちょっと前までは、「情熱」 とか、「FOREVER YOUNG」 とか、相当傑作のアルバムを作っていて、「王様たちのハイキング」 では問答無用に最強のバンドを引き連れてツアーをしていたのに。

 「やりたいことはやり尽くしてしまった」、という境地にも、当時の拓郎サンは達してしまっていたようです。
 そこに40前、そして音楽環境の劣化。
 当時サザンの桑田サンが、「吉田拓郎の唄」 という、拓郎サンをコケにしまくりながら叱咤激励するような歌を作っていたことを思い出します。
 桑田サンがその歌で歌っていた内容は失礼すぎるほど大侮辱の歌でしたが、、拓郎フリークならばかなり同意のできる内容でした。 時代を引っ張ってきた男だからこそ、それに呑まれることなく、これからも俺たちを引っ張ってくれよ!という気持ちのこもった歌でした。 と同時に、自分はそんなふうにならないぞ、というミュージシャンとしての決意の歌でもあったけど。

 その桑田サンの歌で言えば、「過去を振り返る」 ということ自体が拓郎に似合わない、という感覚で、私も今日まで参ったわけであります。

 でもあの引退騒ぎから現在までの拓郎サンの生きかたは、そんなこだわりから脱却するための旅だったような気がしてならない。
 自分も結構、若い時のこだわりというものを捨て去っている気がいたします。
 こだわることで見えるものもあるけれども、こだわらないことで広がる世界もある。

 かように、さまざまな感慨をも聞く側から引き出してくれる、この番組なのであります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月 4日 (日)

「カーネーション」 第22週 失うことを怖がらないで

 尾野真千子サンが小原糸子役の最終週。
 私だけの感覚かもしれませんが、物語はまるで、小原糸子役を全うできなかった尾野真千子サンの役者としてのプライドに語りかけるかのごとき、脚本の渡辺あやサンの尾野サンへの強いメッセージが内に込められていたような気がいたします。

 いわく。

 失うことを嘆くな。

 失うことを怖がるやつは、泣いて生きていけばいい。

 それがこのドラマのヒロイン、小原糸子の姿勢なんだ。

 その姿勢に、どうぞ学んでください。

 小原糸子という役を失うんじゃないのです。

 尾野サンが生きている限り、自らと共に、いつまでもあるのです。

 こういう、私だけの感じ方かもしれない方法で、このドラマを評価し続けるのは適当ではないかもしれないのですが、どうにもこういう、ものごとの道理の深い部分まで感じさせてくれるこのドラマの作りに、私は今週も感動するのです。

 そして尾野糸子の退場は、とりもなおさず、小原千代役の麻生祐未サンの退場でもある。

 麻生サンが夏木マリサンの母親役をやる、というのはあまりにも荒唐無稽ですからね。

 物語は糸子役を退場していく尾野サンの部分で強いメッセージを発揮しながら、千代役を退場していく麻生サンの部分で思い切り泣かせる。

 空恐ろしいまでの、ドラマの構造でした。

 そして今週の、最後の数分に出てきた夏木マリサンの印象ですが。

 交代理由のひとつとして制作者が挙げた、「声の表現」 とはこういうものか、という気はとてもしました。 尾野真千子サンも結構声が低いほうですが、夏木マリサンはそれよりももっと低い。 尾野真千子サンの声のトーンが低くなるとこうなるのではないか、と思った、正直に。
 そしてさっそく笑わせる。 「主役交代でどうなってしまうのか」、という視聴者たちの疑心暗鬼が渦巻くような静けさの中で、鮮やかなバトンタッチが見られた、という気がいたします。
 ただ予告編を見ていると、「スタパ」 で尾野サンが話していた通り、岸和田弁のトーンが微妙に変わっているような気はやはりしました。 でもそこを突っ込まないで、という尾野サンの意志を尊重しながら、来週以降、あと4週間のこのドラマを見ていきたいと思うのです。

 早速レビューを開始します。





 月曜放送分。

 昭和45年4月。

 直子の結婚式です。

 まるで直子のデザインする服のような原色同士のぶつかり合いの結婚式会場で、モンキーダンスを踊りまくる原口先生(笑)。 「のってけのってけ」 もやってました(笑)。

 世はまさにサイケの全盛期。 直子の奇抜なファッションに世間がようやく追いついたような格好です。 そんな直子の結婚式もおおいに新聞記事ネタになるのですが、その見出しのフォント(字体)が、またヤケに現代的であり。

 このドラマでは時々、こういう現代とのねじれ現象みたいなことを、平気でやるところがあります。
 私が気になっていたのは、商店街のいちばん奥に見える店のフォント。 あんなけ丸ゴシック体みたいな字体って、当時なかったような気がするんですよ。
 そして昭和45年ごろのスポーツ新聞の見出しと言えば、モノクロは当たり前(うちで取ってたスポニチの場合)。
 しかもドラマで出てきた字体を見ると、まるで一面トップ、という感じですが、当時芸能その他が一面トップに出ることなど、まずなかったと記憶しています(記憶違いならばご容赦を)。
 一面の見出しが、確か赤っぽいオレンジ色になったのは、ワータシの記憶が確かならば王選手がベーブ・ルースの記録を抜いたあたり、昭和52、3年だったんじゃないかと思う。 写真はもちろん白黒ですよ。 紙面の3分の1くらいを見出しが占めるようになるのは、そのもっとあと。

 これって、このドラマのスタッフが、けっしてリアリティを重視しているわけではないことを示しているような気がするのです。

 ここで当時の紙面を忠実になぞったとしましょう。
 その場合、このドラマはコシノ三姉妹とそのお母ちゃんのことを忠実に再現しているように視聴者に思われてしまう、そんな危険性があるような気がする。
 一見パラレルワールドみたいな世界を提示することで、「事実に忠実な物語」 という印象をぼやけさせるという製作側の意図がある気がする。

 …まあ、「カーネーション」 びいきの単なるこじつけかもしれませんが。

 …あ~こんなとこで時間使ってられへんで!(笑)

 直子が原宿にオープンさせたブティックで行なわれた結婚式の二次会では、吉村と小沢というフェノメノンのふたりが、疲れて眠りこけてしまった糸子に話しかけています。 糸子はこのふたりからも、「お母ちゃん」 と慕われている模様です。
 ふたりともそれなりに出世しているようですが、それ以上の出世を見せつけているのが、斎藤源太。 パリコレに日本人として初めて参加することになったといいます。

 それにあからさまにライバル心を燃やすのが、やはり直子。 「けったくそ悪い…『お前は結婚パーティでよろこんどれ、おらはパリコレでよろこんどるぞ』 ちゅうてゆわれてるみたいや…。 …よろこべるか! あんなジャガイモに先越されて! は~腹立つ!

 …まあ、けどな。 見とけよ。 うちかていつか絶対パリコレやったるからな!」

 …なんか、糸子がもうひとりおるようです(笑)。

 直子の経営は、見た目ハデやけど無駄遣いだらけの日本政府、国家予算そのもの(笑)。 糸子は 「あのウスラボケ…」 と苦い顔をしながら夫の大輔に、あんじょうよろしゅう頼むのです。

 「(サイケ。 ヒッピー。 モッズルック。
 …この頃のモードは、もうおしゃれっちゅうより、仮装です)」。

 直子のブティックを見ながらそう思う糸子のこの感慨は、今週後半のちょっとしたカギになっていきます。

 そこにやってきたのは、スガシカオかミシェル・ポルナレフか?みたいな格好の、ジョニーという芸能人。 事務所に履かされるシークレットブーツを嘆いています(笑)。
 そして糸子は、白川ナナコ、という新進女優の悩み話を親身になって聞いています。

 いったいこのふたり、誰がモデルなのか?というのは、気になるところです。
 ジョニーという名前からみて、ジュリー、つまり沢田研二サンかな?とも思うのですが、背が低いわけでもなし、当時はまだタイガースだったはずです。
 白川ナナコのほうは分からんなぁ…。
 とにかく芸能人との接点が、糸子にも生まれていた、ということだけは、そこから如実に分かるのです。
 夏木マリサンも 「綾子お母ちゃん」 にはお世話になっていた、と聞きます。
 ひょっとすると新進女優、という肩書はカムフラージュで、彼女は夏木マリサンのことかもしれないですね(まあ誰でもええがな)。 でもそう考えると、遠い将来に糸子になる女性を、糸子が励ましている、というすごく入り組んだ設定で、面白い気がするのです。

 「お母ちゃん。 私、間違ってないかしら?」 泣きながら尋ねる白川ナナコ。

 「何も間違うてへん。 自信持ってやり。
 いざっちゅうときはな、いつでも岸和田来たら、うちで雇ちゃるさかい。 なあ」

 「ありがとう、ありがとうお母ちゃん!(糸子にすがりついて泣くナナコ)」

 「大丈夫、大丈夫や。 なあ」。

 そこにやってきたジョニー。 「誰キミ?」「白川ナナコ」「ナナコ…お母ちゃんとナナコ…じゃあね」
 ポーズを取って去っていくジョニー。 なんなんだ(笑)。 ワケが分からん(爆)。
 そして、「なんやヘンなもん見てもうた」 とばかり、渋い顔をする糸子(ハラ痛てぇ…)。

 そしてオハラ洋装店。
 糸子が持ってきた、直子の店の出納帳に、一瞥しただけで呆れかえりポイントを次々見つける、松田恵。 さすがに経理担当者だけのことはある。
 そして月に一回、優子の店と直子の店から、売れ残りがオハラの店に届くのですが、それを売りさばく聡子の商才が、徐々に上がっていることをドラマは追っていきます。
 東京には東京の厳しさがあるのかもしれないが、岸和田には岸和田の厳しさっちゅうもんがある、とその売れ残りを思いきりダンピングする糸子ですが、聡子はそれを高値で売ってしまうのです。
 つまり聡子は、客を見てその好みと経済力を把握しているからこそ、そないな商売ができる。 糸子は洋服屋の奥の深さを、またまた勉強するのです。 自分の娘から。

 住み込みの風潮がなくなってきたことを描写しながら、その残りひとりの住み込みとなった縫い子を絡ませて、小原家の食卓は、テレビに出てきたジョニーを見るのです。

 「みんな! 今年はお花見に行ったかい? …僕は行ったよ」 一言言うたびにキャーキャー。 黄色い歓声。
 こいつヘン(笑)。 絶対ヘン(爆)。 観客もみんなヘン(ハハ…)。

 そこにやってきた、北村。 喪服を着てものすごく暗い顔をしています。
 オハラの家の中に入ろうとせず、「死んだど」 とだけ糸子にしゃべって、誰が死んだのかも言わずに去る。
 北村、オマエも何なんだよ(笑)。

 とにかく、直子のヘンにどぎついデザインの服が流行っていくのを、月曜日のドラマは丹念に追いながら、世の中がなんとなく、「ヘン」 な感覚に包まれていき、そして北村の、ヘンな訪問で話を締める。 「ヘン」 で統一された、このトータル感覚。 つくづくすごいドラマだよなあ。

 それにしても誰が死んだのか、毎日15分ずつ見ている人は、イライラしたでしょうねぇ。




 火曜放送分。

 組合の寄り合いでは、心斎橋に店を構えている優子も女性経営者たちの仲間入りをしています。 その寄り合いがはけたあと、糸子は三浦組合長に、誰か死んだのか、探りを入れます。 北村が気になる言葉を吐いてから1週間後のことです。

 三浦は呆れた調子で、「北村のやつが自分で話すゆうてたから任せたのに」 と、その死んだ人が誰なのかをしゃべります。
 死んだのは、周防の妻だったのです。
 糸子はそれを聞いて、少なからず動揺します。
 なんや2年前に支払いが完済してから、周防とは完全に縁が切れていたらしい。

 「…は…せやけど、北村は、なんでそれをうちにようゆわんかったんでしょうね?」

 「え? 分からんか?」

 「あ?」

 三浦は今度は糸子の鈍さに、呆れます(笑)。

 そして夜。
 糸子は寝床で、周防のことを思い出しています。

 「(何回思い出したやろ。

 …一緒におった時間より、思い出してる時間のほうが、ずっと多なってしもた…)」。

 すべてがモノクロの中にうずもれてしまっている、周防との記憶。

 「ヘンな相手や――」

 糸子は、ひとりごちします。

 そしてそのモノクロの記憶は、北村が糸子から受け取った、桜の枝の色が、ほのかにピンク色に染まっていくと、にわかに色を鮮明に加えていくのです。

 周防に抱かれる、糸子の記憶。

 人生の中で、一瞬とも思えた、自分が恋に胸を焦がしたときめきの時(たぶん勝との場合、ほとんど義務感だったでしょうね)。

 おそらくこれを回想している糸子は、56、7歳になっているはずです。 回想する尾野サンの顔を、カメラはそれこそ大大クローズアップするのですが、クローズアップすればするほど、尾野サンの肌つやの良さは、まるで赤子のように思えてくる。
 ここで糸子が、57歳の肌と、ごつごつした顔の造作をしていたならば、この回想場面はもっと、意味のあるものになったろう、と私はつらつら考えるのです。

 なぜなら、年老いてしまった自分が、大昔の大恋愛を思い出すとき、それはもう、すでに手の届かないものであるように、気持ちから思い込んでしまうからです。
 そんなものはいくら今したくても、歳だから、と。

 そのことに思いをいたすのは、限りなく切ない。

 しかしこの場面。

 糸子の記憶をモノクロにすることで、それに近いものを演出しようとしている。
 そして若さを失った糸子が、実は 「失う」 ということに対して、そこまで感傷的になっていない、というのが、「ヘンな相手や」 という独白によって、既に宣言されているのです。

 このひとりごちは、実は今週、尾野サンが北村に向けて放った糸子としての最後の言葉と、深くリンクしている、そう思えるのです。

 聡子の経営的な器量について、喫茶店 「太鼓」 で昌子や松田と話し合う糸子。
 松田の見立てではまだまだ、ということで、婿でも取るか?という話になっていきます。
 ええ男を取ろう、と、糸子と昌子のダブルオバチャンはもう既に獲らぬタヌキで 「ひゃあ~~~っ!」 と盛り上がっております(笑)。 しかしあの子、よういろんな男の子を連れて来よるなあ…と思い返す糸子。

 「…あれはまあ、聡ちゃんの彼氏の時もあれば、同級生の時もありますし、」 と昌子がいちいちリストアップしますが、ただひとり分からんのが、スキンヘッドでヒゲを生やした、アロハシャツの男(笑)。 誰やねん?(笑)

 「…ご飯たかりに来ただけの子ぉの時もあります」 と昌子。 あ、…そ~ゆ~ことね(笑)。

 「はぁぁ…。 あの子、アホやさかいなぁ。 なんでも連れて来よんやな」

 糸子は聡子が連れてきた男の子のひとりを、また思い出しています。 チョーつまんないねづっちみたいなヤツです(笑)。 「この子はなんやろ?…まあ、ええか。 おもろいし」。
 そうかぁ?(笑)

 「(はぁ~せやけど、うちの引き際はどないなったんや…。

 聡子があの調子やったら、まだまだ先やでこら)」

 オハラ洋装店の看板を見上げる糸子。
 見ると、店には八重子が来ています。

 糸子は八重子から、義母の玉枝が、あと半年の命や、ということを聞きます。

 「…ほうか…」

 糸子は聞いたその場で、泣いてしまいます。

 入院した玉枝のために、弁当をこさえる糸子と千代。
 玉枝の病室にそれを持参して現れる糸子ですが、やっぱりここで、病室の扉が今風になっている気がする。
 細かいところ見すぎですけどね(笑)。 昔は病室の扉って、こういう、開けたら自動で閉まるような作りじゃなかった気がするんですよ。
 これも、玉枝を思いきり老けたメイクにしているのをカムフラージュするためのひとつの方法かな、なんて贔屓目に見たりして。 かばいすぎやろこのドラマ(笑)。

 そして思いっきり明るく、玉枝と接する糸子。

 「(うちは、おばちゃんの残りの日ぃを、なるべく明るくしたいと思いました。

 …穏やかで、幸せでおってほしい…。

 …せやのに…)」

 見舞いが日課になっていた糸子。 ある日、元気のない玉枝を心配します。

 「おばちゃん。 どないしたん?」

 玉枝は、つぶやくように話し始めます。

 「昨日な…。

 待合のテレビ見ててな…。

 戦争のことやってたんや。

 戦争中に、日本軍が、戦地でなにしたかっちゅう話、やっててな。

 (糸子に向きなおる玉枝)糸ちゃん…。 うちはなぁ…。
 勘助は、よっぽど酷い目に遭わされたと思てたんや。
 あの子はやられて、ほんであないになってしもたんやて。

 けど、ちゃうかったんや…。

 …あの子は、やったんやな…。

 …あの子が、…やったんや…」

 また自虐史観がどうのこうの言われそうな話でしたが。

 しかしですよ。

 戦争で兵隊として召集された以上、「敵を殺せ」 というのは、至上命令なんですよ、どんなに言い繕おうとも。
 憎しみのほうが自制心を上回ってしまう場合はあるかもしれない。
 でも。
 「相手には殺されるだけの理由があるのだ」 と考えること自体が間違っている、と私は言い続けなければなりません。
 これについてはここで安易に言及できないだけの問題が孕まれているので、ちょっと今はスルーいたしますが。

 いずれにしても、「人を殺す」 ということが、国家からの命令であれ、それを遂行しなければならない時の精神的負担は、そんなに軽いものではない、とだけは言えるのではないか、と私は思います。

 もしテレビゲームをやる時みたいに、それこそ爽快感さえ味わいながら人を殺すようになったら、人間はおしまいだ、と。

 まあ自分がハマってた、ゾンビものとかモンスターものならいいのか、つー話でもあるんですが。

 そして、玉枝のその言葉を聞いた糸子は、思わず声を押し殺して、嗚咽してしまいます。
 これってなぜなのか。

 私なりの考察を加えさせてもらいますと。
 糸子の感情を揺り動かしている主因は、おそらく勘助が、どないな思いをして酷いことをしたんやろ、ということに思いが至ったからだ、と考えます。
 糸子自身も玉枝にそのとき言われるまで、そのことを考えたこともなかった。
 自分が弟みたいに思っていた、ヘタレの勘助が、どないな思いをして、人を酷い目に遭わしたんやろ。
 ヘタレだからこそ、余計につらかったに違いない。
 それも分からんと、自分は傷心の勘助にサエを会わせてしもたりしてしまった。
 あんなけ大騒ぎして、失恋を勘助に思い知らせた相手を。

 そして糸子が嗚咽したもうひとつの意味。
 それは、玉枝への心からの謝罪、という意味です。
 ちょっと過去のレビューを振り返ってみたのですが、糸子は玉枝に、傷心の勘助をサエに会わせたことへの謝罪を、はっきりしていません。
 奈津を救出するために玉枝の力を借りようとした時も、ただ 「助けてやってくれへんやろか?」 です。
 このことが結果的に、玉枝とのわだかまりを解消した要因にはなっていたのですが。

 勘助の思いを知ることによって、玉枝への心からの詫びの気持ちが生まれた。
 しかしこのドラマらしく、糸子は 「かんにんな」 のひと言が、玉枝に向かって言えません。
 ただ嗚咽することで、その気持ちを押し殺すしかないのです。
 その気持ちは、玉枝に伝わったのだと思う。
 玉枝は、嗚咽する糸子の髪を、そっと撫ぜるのです。

 泣けました…って、こんな冷静な解説したら、泣けんがな。





 水曜放送分。

 昭和47年3月。 糸子、おそらく還暦の一歩手前です。
 前回から2年が経過していることから、もう玉枝も出て来ぃひんやろ思てたら、子供たちの 「たのしいひなまつり」 の歌に手拍子を合わせています。 まだ生きとるがな(笑)。 年寄りっちゅうのは、病気の進行が遅いらしい。 このドラマらしい、はぐらかしかたなのであります。
 玉枝は、向こうで待ってる人が大勢いるから、なにももう怖くない、と吹聴しています。
 糸子はそれ笑てええかどうか分からん、とツッコミを入れているのですが、ここのくだりは今週の流れを見たとき、結構重要か、と。
 その話はのちほどいたしますが、宣告を受けた期限を超えた日々って、天からの授かりもののような気は、するのです。
 日々、生かしてもらっている。
 病気でもしないとなかなかそう思えないのが人の浅はかさですが、考えてみればすべてのことは、有り難いなあって感じる。
 目が見える。 口が聞ける。 音が聞こえる。 感じることができる。 おいしいものが食べられる。
 ああまた、説教臭くなってきた(笑)。

 そして。

 それから半年後、昭和47年の秋口のある朝、玉枝は息を引き取るのです。

 このドラマで人が亡くなったシーンが映し出された、初めてのシーンでした。

 色調がかなり押さえられた、薄墨色のような朝。

 ひと回り小さくなったように思える玉枝が、北まくらで眠っています。
 手を合わせる糸子。
 見守る八重子。

 「…ホッとした…」
 
 八重子はそう、つぶやきます。
 いつ死ぬのかいつ死ぬのか、という強迫観念から解放された、ということでしょうね。

 「…うん…」 答える糸子。

 死の床に眠る玉枝に、にわかに強い朝の光が差し込んできます。
 勘助と、泰蔵の遺影。
 彼らが迎えに来た、ということを強く思わせる場面です。
 朝の光に、ほのかに頬を染めたように思える、玉枝の表情。
 人はこうして、還っていくのです。

 昭和47年11月。

 原宿の直子のブティックに、源太が凱旋しています。 そこに現れたのが聡子。 優子の店と直子の店を交互に手伝わされて、だいぶ力が付いてきた、と松田が太鼓判を押し始めています。
 ただ糸子も、聡子に色気は見せ始めているとはいうものの、看板を譲るということにそれほどのこだわりはなくなっている模様です。

 その年の暮れ。 糸子はクリスマスケーキを一足先に食べてしまって、それを聡子にたしなめられています。 善作のあの一件で、クリスマスケーキは早よ食べたほうがええ、という意識が…あるわけないか(笑)。
 すごく蛇足ですがこのクリスマスケーキ(ほんま蛇足やな)、善作がヘチャムクレにしたものとはだいぶ見てくれが違ってました。 背が高い。 昭和初期のクリスマスケーキは、もっとひしゃげてました。 ただ昭和47年のクリスマスケーキは、最近ようやく見られるようなしっかりとした作りではなくて、需要が増大するから粗製乱造になっていた頃の、どことなくおざなりな作り。 こういうとこのリアリティというもんは、徹底しとるんやなぁ。

 で、ケーキを食べながら糸子は、聡子に店を継ぐかどうかをそれとなく打診します。 聡子は 「ふ~ん」「はぁ~」 と相変わらずの気の抜けたような返事で(笑)。 糸子はそれを了解したとひとり合点して、勝手に三浦やらにその報告をしてしまいます。

 しかし。

 大みそか、紅白を見ながら優子や直子に報告する糸子に、聡子はおずおずと、口を開くのです。

 「けどなぁ…。 うちなぁ…。

 えっとなぁ…。

 ロンドン行こか思てんねん」

 「なんやて?」

 旅行ではなく、仕事をしに行きたいという聡子に、糸子は色をなします。 そんな糸子に、聡子はあらためて向き直ります。

 「あんなあお母ちゃん。 …かんにん…。 家をロンドンに行かせてください。

 …

 うち、岸和田おったら、一生姉ちゃんの手伝い役で終わってまうと思うねん。
 姉ちゃんの売れ残り送ってもうて、そんで、どないか商売して、そんなんもええ加減あかんて思うしな。

 せやさかい、誰もいてへん、お母ちゃんにも、姉ちゃんらも頼られへん、どっか別んとこで一からひとりでやりたいんや」

 糸子の先を制して、これに異を唱え出したのは、優子と直子の姉ふたりです。
 英語もできひんやんか、アンタみたいな危なっかしいのが、アンタはここの店継ぎ、と機関銃のようにまくしたてられ、聡子は孤立無援になってしまいます。 確かにムボーですが…(笑)。

 糸子はそんな聡子がかわいそうになってしまい(笑)、「いや…行かしちゃろ」 と口走ってしまいます。 「あかんてお母ちゃん」「無理やで」 と反対する姉たち。 「あんたらは黙っとき!」 外野をシャットアウトする糸子。

 「この子はうちの店の子や。 あんたらが口出すことちゃう!」

 糸子は直子に向き直ります。

 「あんたの好きにし。 ロンドン、行き」。

 厳しい顔のまま、お茶をすする糸子。 今度は 「ロンドンに負けたぁ…」 というところなのでしょうが(笑)、胸を借りて泣ける玉枝は、もうおりません。 なにしろ糸子自身が、看板を譲るということに、以前ほどの頓着がない。 けれども気分が悪いことには、変わりないのです。

 それにしてもこのちょっとした修羅場を見ている千代。
 ニコニコ笑ったままです。
 実はこのシーンと並行しながら、千代が食べたばかりの年越しそばをもう一度作ろうとする、気になるシーンがありました。
 千代のぼけはこのあと、今週ラストの大きなカギとなっていきます。





 木曜放送分。

 昭和48年1月。 ロンドン行きを勝手に許してしまった糸子が、「太鼓」 で昌子と松田から、責め立てられています(笑)。
 ここで垣間見えたのは、糸子が聡子のことを、まだまだ見くびっている、という点です。
 ダメやったら戻ってくればええだけの話なんやし、と、まるで駄目になんのが既成事実みたいにしゃべっている。
 その考えは昌子によって言下に否定されます。 でもやっぱり、「もし、万が一」 成功したら、という論調です(笑)。

 でも追い詰められた糸子は、こう言うのです。

 「そら…そん時やろ。

 うちがでけるとこまでやって、…あとは、…うちが畳むがな。

 …それしかないやろ」

 この時点で、糸子はお父ちゃんから譲り受けた小原の店を、自分の代で店じまいする、という決断にはじめて立たされたのです。

 「(うちの大事な看板は、結局みんな、要らんらしい)」。

 また優子に断られた時のさびしい思いが去来しているかのような糸子。
 大きなため息をつきます。

 泉州繊維組合。
 聡子が店を継ぐという話はなかったことに、と報告に来た糸子に、三浦は今の今まで、その席に周防が座っとった、と言いにくそうにしゃべります。 飛び跳ねる糸子。
 糸子は扉のほうを見ながら、今の今までいたんなら、どうしてすれ違わなかったのだろう、というような表情をしています。
 どうやら周防は、長崎に帰るらしい。
 子供らも独立し、女房も死に、生まれ故郷に一軒家を買って、畑仕事でもしたい言うとった、としゃべる三浦の言葉に、次第に泣きそうな表情になっていく糸子。

 「…寂しないですやろか…?」

 糸子は声を振り絞って、そう呻きます。

 「そんな独りで…! また新しいとこで…!」

 涙がこぼれる糸子。 「さびしいない、…かも、…しれんけどや…」 とりなす三浦。

 「も、もう心配しちゃんな。 あいつが自分で選んだ道や…。

 …

 泣いちゃることない。 …ない!」

 「太鼓」。
 聡子が北村に呼ばれてます。 ホットケーキをもう二人分食べない聡子。 もう昔の自分とは違う、という意思表示に、北村も木之元のおっちゃんも、なんやさびしそうな表情を隠せません。

 危なっかしい聡子のロンドン行きを心配する北村に、聡子は 「うちこんなんやけど日本でもどないかなってるしな、ロンドンでもどないかなると思うねん。 犬がどこでも暮らせんのといっしょや」 と屈託がありません。
 しかしほんまや(笑)。 ミョーな説得力ある(笑)。

 物思いにふける北村に、聡子はうちがいなくなってもおばあちゃんがごはん食べさしてくれるよって、などと慰めを言うのですが、北村は思い詰めたように、聡子に訊くのです。

 「……オマエのオカンのよう。

 …
 好きな花、なんや?」

 真っ赤なカーネーションの花束。

 それが飾られた向こうで、糸子と北村が、差しつ差されつしています。 オハラの店です。

 北村から、優子と共に東京に進出する、という話を聞かされ、と同時に優子が離婚したがっている、という話を聞かされた糸子。 熱燗とっくりの首、つまんで、「もう一杯いかが」 なんて、妙に、色っぽいね…ちゃうちゃう(あのー…)、「ふーん。 …ふーん…」 と、また鈍さ全開であります(笑)。 北村が優子をモノにしようとしてる、とカンチガイしているのです(三浦から北村の思いを教えてもらわなかったんでしょうね)。

 「なんや、ちゃうんけ? …よかったぁ~~」(笑)。
 そんなニブチン大明神の糸子に、北村はついにしびれを切らして、自分の思いの丈を吐き出すのです。

 「この花はよ…! この花は……。

 ……オマエに買うてきてんど!」。

 笑い転げていた糸子、やおら起きあがります。 「えっ…?」。 忌々しげにお猪口を無造作に置く北村。 糸子は北村の真剣に、ただ怒られて気まずいみたいな感じで 「おおきに」 と無造作にお礼を言います。 どうやら、まだ気付いてないみたい(?)。

 「お前…長崎に行けへんけ?」

 「…いけへんわ。 いくかいな」 言いにくそうに返事する糸子。

 北村は突然 「ほなわい!」 と居ずまいを正します。 驚く糸子。 ついに告白か?

 「…わいと東京行けへんけ?」(ダメだ…笑)。

 ただそれは、「わいと結婚せえへんけ?」 ではない、ギリギリの告白。 でもそれに対して 「何しに?」(笑)。 ニブい糸子は、無神経な質問をするのです。

 「…仕事や。 決まってるやんけ」。 ああ~もう北村(爆)。

 糸子は散々考え込んで、「おおきに。 そらおおきに」 ととりあえずみたいな礼をします。

 「ちょっと時間くれるか。
 考えさしてもらいます」。

 簡単にノーを言わない糸子に、なんとなく心の動きを感じるのですが、それは商売上の話でしょう。 それより何より、結局糸子は今回も、北村の気持ちに気付いてないようです(ナミダ…)。





 金曜放送分。

 昭和48年3月。

 朝。 赤いレザーコート、帽子をかぶった聡子が、イギリスへと旅立とうとしています。
 見送りに出ているのは、木岡夫妻、木之元、昌子、松田、八重子などです。
 それにしても木岡のおっちゃんだけが、リアルに歳を取っていきます(笑)。

 泣きじゃくっているのは、千代ただひとり。
 「おばあちゃん、これが聡子の顔やで、忘れんといてな!」
 聡子のこのセリフは、千代がぼけ始めているという前フリがあったからこそなのですが、千代はこれが今生の別れであるかのように号泣しながら聡子に言うのです。 「分かった。 忘れへん!」。 直子との、「長生きする。 まかしとき!」 という約束さえも反古にされそうな、千代の記憶の欠落。 別れの時が、近づいていることを、見る側に強く感じさせるのです。

 「聡子…! 行っちょいで!」

 ひときわ大きく、千代の声が、聡子に届きます。

 心斎橋の店で、糸子が優子に、北村から聞いた、東京進出の話と、離婚の話を切り出しています。 心配するやろ思てな、という優子に、「そのための親やろ?」 とやんわり言う糸子。
 優子は母親に、東京行きは悪い話ではない、と言うのですが。

 「なあ、あんたらな。

 東京東京て、なんでそんな東京行きたいねん?」

 優子によれば、なんでも東京が中心だから、という理由です。 優子は目標、全国50店!とどこかの薬屋さんみたいなことをぶちあげるのですが、糸子にはそれがオモロイ話とは、どうも思えないらしい。

 夜。 八重子がお酒を呼ばれています。 お銚子またつけよか?と言う千代に、糸子は昌子を付き添いに行かせます。 どうも台所が危なっかしいらしい。

 八重子は、安岡美容室をそろそろ畳む、という話を糸子に切り出します。 どうやら息子の太郎が心配して、うちとこ来ぃ、とゆうているそうです。

 「ほうか…寂しいなあ…」

 ため息交じりの糸子に、八重子は、糸ちゃんはまだまだやで、とハッパをかけます。 糸子は昌子に内緒の、東京進出の話を切り出しますが、お銚子をつけてきた昌子は、「先生の好きなようにしてもらいたい」 と、どうやらお見通しだったようです。 「決めたらええんとちゃいます?」 と昌子。 しかし糸子の顔はどうも晴れません。

 「いや…正直よう分かれへんねん。
 東京に出るんと、岸和田に残るんと、自分はどないしたいのか。
 どっちのほうが、オモロイ思てんのか。
 その肝心なとこが、自分でもよう分かれへんねん。

 情けないこっちゃ」

 東京のほうがオモロイちゃいますか?と言う昌子に、糸子は答えます。

 「いや…あらなあ。
 なんちゅうか、新しいゲームが始まってしもてんや。

 優子の話やら聞いちゃったらな、なんや、そんな気がしてくるんや。

 戦争と同じくらいたいそうな、ようさんでやるゲームが。

 それがな、えらいオモロイらしい」

 「やっぱりオモロイんやないですか!」 と昌子が言うと、糸子はまたゴロ寝怪獣になっていきます(笑)。

 「あ~、しんどいやろ、ゲームて。

 敵ばあっかしおって、頭ばあっかしのぼせて。

 うちはな、洋服こさえられたら…ほんでよかったんや。

 それがいつの間にか、洋服もゲームになってしもた。

 うちに、洋裁を教えてくれた根岸先生っちゅう先生がな、こないゆうたんや。

 『ほんまにええ服は、人に、品格と誇りを与えてくれる。 人は品格と誇りを持って、初めて希望が持てる』。

 今は、モードの力ごっつい強いやろ。

 去年最高によかった服が、今年はもうあかん。

 どんなけええ生地で丁寧にこさえたかて、モードが台風みたいに、ぜぇんぶなぎ倒してまいよんねん。

 人に希望を与えて、簡単にそれを奪う。

 そんなこと、ずぅっと繰り返してきた気ぃがするんや…」

 今週、根岸先生が出てた週の、このブログの記事にやたらとアクセスが集中してたんですが、このセリフのせいだったのか(笑)。
 ともかく、「仮装みたいや」 と糸子が感慨を述べていた最近のファッションが、モード(流行)という名で使い捨てされていくのを、糸子はこころよく思っていなかったのです。 これは娘たちに対する、強烈なアンチテーゼと言ってよい。

 根岸先生から教わった、品格と誇り。 糸子を見てると、誇りはあるけれども、品格はどーよ?と言いたくなる気もいたしますが、人間、そないに全部きちっとできるもんちゃうと私は思います。
 だれしも自分を、どこかの棚に載せながら、生きているものです。
 できることとできないこと。
 そうなりたい自分と、なれずにいる自分。
 ある点では合格点を出し、ある点では落第。
 それが人ってもんじゃないでしょうか。
 だからと言って出来ないことをあきらめるんとちゃいますよ。

 この糸子のセリフは、自分が優子や直子の住む世界にいつの間にか毒されてしまっていたことへの反省も、多少は含まれているような気がします。 だからこそ、その言葉は重みをもつのですが、八重子がこれにいきなり激しく反駁するのです。 それはトートツと言っていいほどに(笑)。

 「何をゆうてんのや糸ちゃんいまさら! はぁ~、情けないわもうっ! うちは情けないわッッ!」

 と、その場をそれこそ台風のように去って行くのです。
 ボー然とする残された者たち(笑)。

 「…なんでうち怒られてん?」(笑)。

 それから10分ほどして、八重子台風が再び上陸してきます(笑)。 ドスドスドス。 心の準備をしてなかったゴロ寝怪獣、ちゃうちゃう、糸子は慌てます(笑)。

 「うちの…宝物や!」

 半泣きの八重子が突き出したのは、安岡美容室の初代の制服と、開店の日に店の前で撮った写真。

 「ボロボロやったうちに、うちと、お母さんと、奈っちゃんに、希望と誇りをくれた、大事な大事な宝物や!

 うちは、…うちはこれのおかげで、生きてこれたんやで!」

 「(ひっぱたかれたみたいでした。

 昔の自分に、ひっぱたかれたみたいでした)」。

 いつの間にか、大量消費の片棒を担いでいたように思っていた自分の仕事。
 でも、あの頃の自分は、ただお客さんにええ気分を味わってもらおうと、それだけで突っ走っていた。
 それこそ、「私を見て」、という気持ちで、自分の服をアピールしようと懸命だった。
 「そっちのほうがオモロイで」、と言っていた父善作。
 いつの間にか、「オモロイ」 ということだけが価値観の中心に座ってしまい、その服をお客さんが着て幸せになってくれることばかりを優先して考えていた自分を失っていた。

 「お客さんがごっつうれしそうに笑てくれたよって、ほんまに、必ず、必ず、似合うように作っちゃろと思いました」

 これは糸子の最初の客、駒子に対して糸子が考えたことです。
 結局駒子から代金を受け取ることさえようせんと、父親の逆鱗に触れてしまっていたわけですが。
 おそらく今の糸子をひっぱたいたのは、そのときの糸子です(笑)。





 土曜日放送分。 ついにオノマチサンのオーラスです。

 クレジットタイトルでは、夏木マリサンはしまいから3番目に。 そして、…ん?小原善作、小林薫? (写真)となってないぞ?
 微妙な期待をもたせながらの、尾野真千子サン最終回なのです。

 昭和48年9月14日。 「起きや~!」 と娘たちを叩き起こす糸子。 だんじり祭りでみな帰省しているのです。 この日ばかりは、まるで大昔に帰ったような朝なのです。
 だんじり祭りはテレビの紹介で、かなり有名な祭りに昇格してきたようです。

 木岡や木之元のおっちゃんらはもう現役ではないので、善ちゃんに報告に来てからはそのまま飲み出します。 善ちゃんここ?いや、まだ写真のみの登場やな。
 北村もいつの間にか呼ばれています。
 八重子の息子である三郎にまで赤ん坊が出来て、糸子ならずとも、もう誰が誰の子ぉやら分かりません。
 ただちょっとだけ登場する、優子の次女、里香だけは、この後の夏木マリ編で大きくなって出てきます。

 祭りには、ジョニーや白川ナナコが再登場。 いちいちこんなとこまで細かくパッケージングするんやな、このドラマ(笑)。
 そのジョニーが見たくて、サエの店の子ぉらがオハラの宴席に加わります。 祭りの規模が拡大したことで松田も呼ばれ、三浦までその席に加わっています。 松田はジョニーにキャーキャーする子ぉらにどつかれて飛んでゆく(爆)。

 さらに原口先生や斎藤源太らまで登場。 まるでオノマチサンのオーラスをことほぐかのような登場人物大集結になってまいりました。
 それにしても善作の家は、やたらと有名人ばかりの、岸和田では随一の集合場所になったものです。

 そこにいないのが千代。 心配した糸子は千代を探しに行くのですが、ついに徘徊癖まで出て来たんか…。
 そこに松田が千代を伴って歩いてきます。 「はぁ…。 ようさんお客さんいてんのに、お父ちゃんおらんよって、どこ行ってしもたんやろ…」。 そんな千代に、糸子は思わず声を荒げてしまいます。
 「お母ちゃんっ! お父ちゃんもうとっくになあ!」
 それを制したのが松田です。 「先生。 …(千代に)お父ちゃん、どこぞにあいさつしてくるちゅうてましたで」。 松田は善作に会うたことないんですが。
 昌子に連れられて家へと戻る千代を見送ったあと、松田は糸子に話します。

 「怒ったったらあきません。 うちの母もああでした。 適当に、話合わせといちゃったら、ええんです」。 母親を思い出したような松田の表情。 いろんな悲しみを抱えながら、それを他人には出さずに、人というものは生きているものなのですね。
 しかしそんな感慨も、サエの 「冬蔵がいてたで!」 のひと言でブッ飛ぶのが、このドラマであります。 それまで感慨深げだった松田は一転、「ええっ、どこ?どこどこどこどこ? はぁぁ~~! いゃ~~っ! きゃ~~っ!」 と狭い路地を爆走していきます(ワロタ…)。
 ボー然とそれを見送る糸子(ハハ…)。

 夜。 お囃子の音を、直子が国際電話で、ロンドンの聡子に聞かせています。 受話器から漏れるのは、聡子の嗚咽です。
 どんなけこの祭りが、ここの人たちの心の柱になっているかがよく分かります。
 この部分だけで、こちらも泣けて来てしまう。

 そして2階から、それを見下ろしている糸子。 奥では北村が手酌しています。

 「極楽やな、この世の…」

 感慨にふける糸子。 ああ、もうオノマチサンの演技も、見収めか…。

 「………ゆうてくれちゃった話な」。 長い沈黙のあと、糸子が口を開きます。

 「うん?」

 「うちを東京の会社に誘てくれた話」

 「ああ…」

 「…断ってええか?」

 「長崎行くんか?」

 「行かへんわ! しつこいな」。 北村を睨みつける糸子。

 「…考えたんやけどな。

 やっぱし、うちの土俵は東京ちゃう。 ここや。

 極楽も地獄も、ぜぇんぶこの窓から見てきた。

 うちの宝はぜぇんぶここにある」

 北村はやおら立ち上がります。 「オバハン分かっちゃあるけ?」

 「はぁ?」

 「お前もうたいがい歳やど」

 「うっさいなあ。 人のことゆわれへんやろ?」

 「ほうよ。 お互い、この先無くしてばっかしじゃ。

 オマエがゆうちゃあった宝かて、どうせ一個ずつ消えていく。
 人かてみんな死んでいくんじゃ。

 お前ここにいちゃあったら、ひとりでそれに耐えていかなあかんねんど」

 階下で酒を酌み交わす人々の姿。

 「…しんどいど…ほなもん…」

 そんな北村に、糸子はしばらく考え込み、思い出したようにフッ、と笑うのです。

 「はっ…ヘタレが」。

 ヘタレという言葉は、勘助にしか糸子は使ったことがありません。 もしかすると糸子は、勘助と同じような匂いを、この性格もまったく似ていない北村に感じ取っていたのかもしれません。 人生をヘタクソに生きる、という点において。

 「はぁ?」 ヘタレと言われて、北村はちょっとムッとした様子です。 糸子は構わず言葉を継ぎます。

 「ほんなもん分かれへんやろ?」

 「なにがじゃ?」
 それに答える糸子のセリフは、かなり重要だと感じます。

 「そもそもやな。

 無くす無くすって何無くすんや?

 …うちは無くさへん。

 相手が死んだだけで、なぁんも無くさへん」

 「…はぁ?」

 「…決めたもん勝ちや」 勝ち誇ったような糸子。

 「なにゆうてんねん」 苦笑する北村。

 「ヘタレはヘタレで泣いとれ。

 うちは宝抱えて生きていくよって」。

 決意に満ちたような、糸子の顔。
 そして再び、盛り上がる階下。

 それを見守る千代は、人いきれのなか、縁側付近に、ある人の姿を認めるのです。
 ああもう、これ書いているだけで泣けてきた(笑)。

 善作です。

 ダメだ。 もう泣ける。

 大騒ぎの声が途切れます。

 善作が、その様子を見ながら、ひとりうれしそうに、酒を飲んでいるのです。

 静かに流れだすBGM。

 千代はよろよろとした足取りで縁側までたどり着きます。
 そしてお銚子をつぐ仕草をします。 手には何も持っていません。 善作はそれに合わせて、お猪口を差し出すのです。

 そして空の杯を、うまそうに飲み干す、善作。

 千代は、満面の笑みでそれを見守ります。

 相手が死んだだけで、なにも無くしたわけではない。

 これはこのドラマが、常日頃から、異界の人々との対話を、仏壇を通じてしてきたことの、いわばひとつの結論だと強く感じます。

 失うことがつらい人間は、泣いていればいい。

 でも違うんや、と。

 失っているのとちゃう。 全部自分のなかで、生きてるんや、と。

 冒頭にも書きましたが、これはオノマチサンへ向けた、脚本家のメッセージも多分に含まれている気がする。

 ミシンに手をかける糸子。

 年代物のこのミシンひとつで、自分は生きてきた。 これからも一緒や…。

 オノマチサンの、ラストシーンです。

 そして。

 昭和60年10月早朝。

 竹の子族みたいななりのギャルが、岸和田商店街を歩いていきます。
 真っ赤な口紅。 ガムをくちゃくちゃ噛んでいます。 誰だこのヤンキーの姉ちゃん?

 そしてすっかり様変わりしてしまった、オハラ洋装店。 ただショウウィンドウの体裁は一緒なので、おそらく改築したのでしょう。

 ショートカットの女が、寝床で寝ています。 ヤンキーの姉ちゃんが、それを起こします。

 「ばあちゃん。 朝」。

 それは優子の次女、里香(15歳)。

 「ん…ん~、んん」。

 寝床から起きたのは、72歳になった糸子です。

 「(おはようございます)」。

 驚くほど、「声のトーンが低くなったオノマチサン」、というイメージでした。

 「(歳をとりました…)」。

 ホントのことなのですが、それはまるで冗談のようで、なんか、笑ってしまいます。
 寝床を片付ける、72歳の糸子。

 「よっこらせ…」(笑)。

 なんだなんだ、面白そうだぞ(笑)。








 三姉妹はそのままのキャスティングなんでしょうが、その他の人々は、いったいどのようになっているのか。 その興味も尽きません。
 やってくれるよなあ、このドラマ。

| | コメント (29) | トラックバック (0)

2012年3月 1日 (木)

「スタジオパークからこんにちは」 尾野真千子サンの思い、糸子の思い

 周防役の綾野剛サンの 「スタジオパーク」、また国会中継で流れたようですね。 これで2度目だ。 なんか間が悪いなあ。 政治家たちの顔がまた一段と憎たらしく見えますよ(爆)。
 いったいいつになったらやるのかって、もう出番ないでしょ、綾野サン、「カーネーション」 で。 放送されるタイミングを永久に失ったよーな気が…(追記 国会に潰されることがなければ、3月8日に放送されるようです)。 

 それはそれとして、昨日の 「スタジオパークからこんにちは」 のゲストが、「カーネーション」 ヒロイン糸子役の尾野真千子サン。
 昨日は東京にも大雪が降って、前半はその情報が画面の一部を占拠するような形になってしまい、なんかつくづく、「カーネーション」 ってちゃんとした形で視聴者のもとに届かないなあ、なんて感じています。 「紅白」 でも尾野真千子サンとコシノジュンコサンの絡みが見たかったのに。

 しかしこの 「スタパ」 が、結構見どころがあって。

 感想どうしようかなーなんて思いながら見出したのですが、途中から 「コリャ書かねばイカン」、なんて。

 まず登場時。 尾野サン、いきなり後ろ姿で足踏み式のミシンを操っています。
 そしてしゃべりは、結構関西弁混じりでサバサバとした、糸子そのままの印象。
 これがちょっと意外でして。

 というのも、数年前にドラマ 「火の魚」 の番宣で今は亡き原田芳雄サンが 「土曜スタパ」 にお出になったときの、VTR出演された尾野サンの印象が強烈に残っていたんですよ。
 「結構この人、ナイーヴな人なんだな」、と。
 とち子という 「火の魚」 の役柄そのままの人だな、と。
 原田芳雄サンが尾野サンのことを褒めていらっしゃったことを、今でも記憶しています。

 今回の 「スタパ」 でも、ご自分の性格を 「人見知りするタイプ」、と話していらっしゃいましたが、その感覚から申し上げると、「糸子のイメージを崩してはいけない」、という意識が働いていた、と感じる。 服装も、なんか糸子が自分で縫ったような感じのもので。 これも、「今日は糸子として出てきている」 という意思の表れでしょうね。
 役柄の糸子がそのような、人見知りをするタイプではない、ということを思ってからは、共演者のかたがたなどにも、積極的にあいさつに行ったりした、と話してました。 だいぶ頑張ったんでしょうね。

 ご出演されたドラマの経歴の中で、件の綾野剛サンと芦田愛菜チャンをいじめまくった 「Mother」 については軽~くスルーされて 「名前をなくした女神」 のほうばかりが話題になっていましたが、注目だったのは、放送当時17歳だった 「余命半年」 というNHKのドラマ(1998年)。 VTRの紹介に 「え~、みせんとってよ~」 とイヤそ~な顔をしていたのですが、見てみるとこれが、ウワ、メチャカワイイ。 空手をやってる少女の役で、役柄が糸子そのまんま。 チビ糸子を見ているような感覚でした。 「あんなぁ、あたしじゃりン子チエと違うんやでぇ」 ってセリフを復唱しながら 「もう見せないで」 と謙遜してました。

 そして 「カーネーション」 のダイジェスト。 なんかいろんなシーンがこちらも思い浮かんで、かなりのダイジェストにもかかわらずちょっとこっちも目がウルウルしてしまいました(私もだいぶこのドラマのレビューに心血を注いでおりますんで…)。

 そのダイジェストの感想を訊かれた尾野サン。
 「う~ん、楽しかったなあ、と思って…見てました…アハハ」。

 ちょっとこのあたりから、尾野サンが糸子に寄せる思いが、ちょっと垣間見えた気がしたんですよ。
 いろんなつらいことがあったけれども、みんな楽しい思い出、みたいな。
 このドラマに出ていたこと自体が夢のような瞬間の連続だったなあ、みたいな。

 「なんかひとつのことに没頭してましたけど、そのなかでいろんなことがありすぎて、…なんかすごい、…んー宝物になったんだと思います」。

 そんなさばさばとした対応に終始していた尾野サンに変化が見られたのは、スタッフから 「尾野サンを一言で表すと」 という証言を聞かされていたとき。

 最初は 「オッサン」 とか 「糸子そのまま」 とか 「狂犬」 とか、まあけなし言葉だらけだったのですが、「人を巻き込むのがうまい」「明るさと強さをもった人」「尾野さんの姿勢を見ていると、自分も頑張ろうと思った」 などというスタッフの話を聞いているうちに、尾野サンは両手を頬に当て始め、「え~うれしい…」 とつぶやく。
 「ちょっと、ウルウル?」「しないです」 そんなもん、みたいに応対していたのですが、鼻が赤くなり始め(ちょっと 「カーネーション」 のレビューのときみたいな細かさが自分も入り始めてます…笑)、ウルウル、ちょっとし始める。 かなり涙を我慢している、という感じなんですよ。

 そして両手で火照った顔をあおぎ始める。 それでも別の話が進んでいくに従って、涙が出てきてしまうんですよ。 そしてちょっと、むせるのです。 そしてあけすけに苦笑いする。

 この動作のいちいちが、「ちょっと」、というのがまた、ん~、なんつーか(なんなんだ)。

 まあこのときは演技じゃないと思うのですが、つくづくこの人、こちらをグッと来させる涙の流し方をいたしますね。 「カーネーション」 での涙の演技は、そのどれもが別のもので、「この人どんだけ泣きのバリエーションがあるんだ」、と感じたのですが。

 そして果ては、男性アナウンサーからハンカチをもらって涙を拭いたりするのです。
 こみ上げてくるものを抑えられない、という感じです。

 その、ドラマへの思いがどないな質であるものなんかを私が想像してしまったのは、次の場面です。

 それは、糸子の母親千代役の、麻生祐未サンのコメント。

 「これからも、気を落とさずに、…糸子が終わったら病気しないで、…いろんなたくさん、面白い顔を、みんなに見せてください…んー。 みんな、ホント、大好きだから」。

 そしてペコっと一礼。 「ありがとうございます」。

 どうも細部を読みまくる癖がついちゃってるのか、「気を落とさずに」、というのが気になるんですよ(笑)。

 つまり尾野サンとしては、最後まで糸子を演じたかったんだろうな、というのが、ここから読み取れるのです。 そしてその思いを、麻生祐未サンは知っていた。 「みんな、ホント、大好きだから」 というのも、尾野サンを慰めているように感じる。

 …あ~なんか、ゴシップ週刊誌みたいやな(笑)。

 この麻生サンのコメントを見た尾野サンは、「もう!」 と小さく言いながら、また両手を頬に当てるのです。 また感無量な様子。 もう涙を隠そうとしません。

 そして、尾野サンが主役交代について自分の考えを述べたのが、このような言葉でした。

 「そうですね、いや、じっさい私も寂しいですね。 あの、8ヶ月間撮影で、大阪にいたので。
 やはりその、バトンタッチすることは、正直すごく寂しかったです。
 あたしが、死ぬまでやりたい、という気持ちはホントにたくさんあるんですけど。
 でも、…私の力では、まだまだ、その、おばあちゃんをやる、力はまだないんですよね。
 どう考えても、…んー、たぶん見てる人たちが、それこそ、混乱してしまう、と、思うんです。
 でもそのときに、あたしすごく尊敬してるんです、夏木マリさんていう人を。 すごく好きで。
 あのかたが、やってくれるって聞いたときに、すごくうれしくて。
 で、確かに夏木マリさんてこう、方言が、関東のかたで、岸和田、関西弁はぜんぜん、なんですけども、でも、…すごく、気持ちを伝えてくれる、役者さんていうのを私すごく尊敬してるかたで。
 この人にやっていただけるなら、私は何にも言うことはないと、なんか、…安心して、なんか、バトンを渡せましたね。

 …きっとその、方言という面では、きっと、今までずっと見てたかたは、『あれ、ちょっと変わった?』 って思ってしまうところもあると思うんですけども、でも、それが芝居ではなくって、私たちが伝えたいのはやっぱり気持ちであって。 その気持ちが、たぶん、全国に、伝わるんじゃないかなと、私は、安心してます」

 そして演じ終えた感想を訊かれて。

 「うーん。 なんだろう…。

 とにかく、宝です、ホントに。

 何度も、何度も言うようですけど、私のなかで、…糸子、『カーネーション』 っていうのは、自分の中ではずうっと、宝物で。

 それは、箱の中にしまっておく宝物ではなくて、これからもずっと受け継がれていく、みんなの心の中で生きていく、宝物、だと思ってますね、今は」

 そしてニュース解説に移るときに流れた、「ふたりの糸子のうた」。

 尾野サンにとってお気に入りだった、というこの歌のシーン。 うれしそうに一緒に歌ってました。 クソッ、またやられたぞ(笑)。 MLACT様、私もやられてしまいました(爆)。 同棲してるやつが羨ましい?(なんだソレ)。

 そんな尾野サン、尾野サンとしてドラマの男性陣の誰がいちばん好きか、という問いに、「北村!」(笑)。

 ほっしゃん。が尾野サンのことを散々やなヤツとこき下ろしていた過日の 「スタパ」 とは一転。 そのときVTR出演していたときは、尾野サンはいたずらっぽい目つきでほっしゃん。を挑発していたのですが。
 まあ、勘助もいい、とも尾野サンはおっしゃってました。

 尾野サンが糸子でいられるのも、あと1日?2日?

 土曜日放送分のどこから夏木マリサンに代わるのかな?

 でも、「安心してバトンタッチした」 と尾野サンがおっしゃるのだから、ちょっと不安もある夏木マリ編、私もその思いを汲みながら見ていきたいなァ、と感じました。

| | コメント (15) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »