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2012年4月 1日 (日)

「カーネーション」 第26週(最終週) 赤いカーネーション

 ちょっとですねー。

 泣きすぎて、目が腫れぼったいです。

 1週間分1時間半、ほぼずっと涙がとめどもなく流れていました(オーゲサ)。 テーマ曲が流れている時もずっと。

 どうやらこの物語は、主人公が亡くなるまでやり通すらしい…。
 そのことが分かっているからこその、この物語が終わってしまう、という、とてつもない惜別の感情。 小原糸子という巨大な存在の、長い人生が終わってしまう、という、限りない寂寞の感情。
 それが1週間分のドラマを見ているあいだ、とめどもなくあふれていたのです。

 いや、「巨大な存在」、などと書きましたが、親はいつでも、子供にとって巨大な存在であります。 そうでなくてはなりません。

 その親が死ぬ、ということ。

 「前触れがある」 ことをフラグが立つ、などとネットの世界では申しますが、90歳を超えたとなるともう、小原糸子はいつ死んでもおかしくないわけであり。 今週の話、フラグが立ってて、立ちまくってて当然なのであります。

 そしてこの、世にも不敵な物語は、おそらく糸子を最終週のどこで死なせようが自在なのです。 そのタイミングは、常に作り手の掌中にある。

 きっちり額面通り最終回で死なせるようなことはすまい。 そう思えて仕方ない。

 作り手の暴君ぶりを見てきた視聴者にとって、糸子の死がいつ来るのか、というのは、まるで膨らみ続ける風船を手にしているようなものなのであり、それが最終週の、いわれもない緊張感に拍車をかけていました。

 そして作り手は、こちらの危惧、期待、思惑通りに、最後まで 「やらかした」 のです。

 やはり夏木糸子編は、絶対必要でした。
 おそらくこの最終週のこのドラマを見て批判を加える人は、かなり過去に拘泥されるタイプなのではないか、と推察いたします。 彼らが重要視するのは、途中降板を余儀なくされた尾野真千子の無念であり、その理不尽を実行してしまうNHKなど世間の醜さだと思う。

 さらにこのかたがたは、ドラマ的なリアリティの齟齬にも敏感なのではないでしょうか。

 もともと尾野真千子サンが降板したのは、尾野サンが老年期の糸子を演じられない、という局側の判断があったのですが、最終週では尾野サンが夏木サンに交代した糸子の年齢に、オハラ三姉妹が限りなく近い(いや、越えてた?)。
 だのに彼女たちは特殊メイクもなにもせず、交代もしないでそのままの役者で押し切って出演。
 したがって、90を超えた糸子と比較して、かなり若々しいのです。 違和感があるのはどうしてもぬぐえない。
 だったら尾野サンにも老年期(少なくともオハライトコブランドを立ち上げた時点)まで出来たのではないか、とは容易に思いが行くのですが、

 …さてどうなんでしょうね。

 ドラマを見るうえで、裏で展開するいろいろを考えるのは、確かに興味をそそる話ではありますが。
 判官びいきで夏木糸子を受け入れられないまま見ていても、不快なだけだと思うんですよ。 尾野糸子がよかった、などと考えながら見ても、アラが見えるだけだ、と思うんですよ。 とても損な視聴の仕方だと思いますね。 確かに的確な批評眼による視聴の仕方かもしれませんけど。

 いずれにしても私の個人的な考えを申し上げれば、この夏木糸子編をひっくるめて、「カーネーション」 というドラマはNHK朝ドラ史上、最高傑作であります。
 そう、断じさせていただきたい。

 このドラマの欠点は、朝の忙しい時間帯に片手間に見るドラマとしての機能を、著しく欠いていたことです。

 ほんの一瞬で、すべてが語られることが多過ぎて、それを見逃すと、とてつもなく的外れな感想を抱いてしまうことがままあったのです(ただ片手間に見ていても、ちゃんと笑えてちゃんと泣けましたけど)。

 そしてもうひとつの欠点は、公共放送の朝に流すドラマとして、あまりにも内容的に挑戦的過ぎた。

 父親は問答無用で主人公をぶっ飛ばす、主人公は不倫をしてしまう、主人公の娘たちが仲のとても悪いことを露呈しまくる、あげくの果てに問答無用で主役の交代(同時に関係者をほぼ全員ぶっ殺す…笑)。

 それでもそうすることで、「優しさに神経質になりすぎているこの国」 に対して、このドラマの作り手は強烈なアンチテーゼを提示した、と思われてなりません。

 弱者をいたわることが、弱者にとって本当にいいことなのか。
 人に優しい社会というのが、人にとって本当にいいことなのか。

 「ヘタレは泣いとれ」、と主人公はこのドラマで言い切りました。
 それはけっして、ヘタレ(社会的弱者)を貶める言葉ではない。
 ヘタレよ、前を見よ、歯をくいしばれ、いよいよこれからだ、という気概で生きるのだ、というメッセージが、そこにはあったと思われるのです。

 主人公は、自分の生まれ育った大阪岸和田の地で毎年行なわれる 「だんじり祭り」 を、自分の拠りどころ、精神的支柱とした。

 「だんじり」 だけは、いつの世になっても変わらない。

 物語が始まった大正の幼少時から、小原糸子は 「だんじり」 に心酔し続け、そのだんじりと同じ強引さで自らの人生を荒っぽく引っ張り続けた。
 その初回のだんじりと、最終回のだんじりとのあいだには、途方もない時が、流れているのです。 だんじりが、このドラマをほかのあらゆるドラマと決定的に分け隔てする要因であることは疑いがない。 「ミシンは、うちのだんじりなんや」 と主人公に叫ばせた、このドラマの作り手の発想に、私は讃嘆を惜しみません。

 そしてドラマは、そのだんじりの性格を力強く受け継ぎました。

 見る側に媚びない。

 先の分かる展開をわざわざ作っておいて、それを押し通す。

 つまらない小細工を拒絶する。

 かなり不親切な物語の切りかたをする。 「あとはそっちで想像して」、とばかり。

 これらは当ブログにおいて、このドラマを評した数々の特徴です。

 最終週に至るまで、その性格にブレはありませんでした。 尾野→夏木の交代劇は、まったくその最たるものだった、と言っていい気がします。
 そしてこのドラマの収斂の仕方は、すべてを必然と帰した。
 恐るべきドラマでした。





 月曜放送分。

 平成17(2005)年4月。

 91歳の糸子は孝枝(ピンクの電話の都子チャン)と一緒に、2階の部屋の整理をしています。 貞子おばあちゃんの 「神戸箱」。 「ピアノこうて」 の 「こより」。 自分が手がけた服のデザイン画。 すべてのものを糸子はなんの惜しげもなく捨てるのです。 この冷酷なまでの糸子の思い切りの良さに、まず驚かされます。

 そして片付いた2階をぶち抜いてひと部屋にし、そこにだんじりを見に来た人たちが集えるサロンを作るらしい。 年に一回のためにそんなことせんでも、と電話口で呆れる優子に、孝枝は優子のものをそちらに送ると話しています。 新しい部屋の設計を担当するのは、今は糸子の歳と同じ91人にまで膨れ上がった 「糸子のボーイフレンド」、男やもめ会のなかのひとり。

 この、やもめ会の人数が、歳の数だけ増えている、というのにはちょっと注目です。
 もともとこのやもめを囲んだ食事会は、「周防がもし生きていたなら、このような集まりで自らの気持ちを慰める機会を持ってもらいたい」、という糸子の意向で始まっています。
 その人数が歳を経るごとに多くなっている、ということは、糸子が周防に寄せる思いも、年を追うごとに強くなっている、と見るべきではないか、という気がする。
 その糸子の思いは、今週半ばに、悲しい結末を迎えることになります。

 糸子は毎朝新聞の例の女性記者に、2階の改装に臨んだ心境を語っています。

 「まあうちかてまだ、人生がどないなもんかよう分かってませんけど、たったひとつ、自信持って言えることがあるんです。

 うちが何かをして、それが成功した時っちゅうんは、必ず自分やのうて、相手のためを思てした時なんです。

 欲かいて、自分のためにした時は、ぜぇんぶ失敗しました。 そら見事にヘヘヘヘヘ」

 女性記者は、「与うるは受くるより幸いなり」 という聖書の言葉を引いて、それをひと言で言い当てます。 糸子はその言葉に激しく同意する。

 小篠綾子サンは実際クリスチャンだったらしいですが、ここでこの聖書の言葉を 「なにソレ?」 とか女性記者に訊き返している構図は面白かったですね。
 このドラマにおいて糸子は、常に仏壇に手を合わせて亡くなった人々に語りかけていた。
 こういうことってクリスチャンには、あまり機会がないように思えます。 異界の人々との対話って。
 クリスチャンであった人をわざわざ仏教徒に設定し直して先祖をクローズアップする手法をこのドラマで取っていたことには、大きな意味を感じます。

 後日、結局その女性記者のその言葉が見出しとなった自分のインタビュー記事を尻目に、糸子は出前を注文したウナギが来ないことにイライラして駄々をこねています。 記事を読みながら 「こんなに立派なことを言っといてなんと俗っぽいことを」、と呆れる孝枝に、糸子は 「こんなん(記事のようなこと)、人一倍欲深い人間やないとゆわんで」 とどこ吹く風です。 「あーもー。 うなぎー。 まだかいなー。 はよー」(笑)。

 「言ってることとやってることが違う」、というのは、人の常のように思います。
 みな、自分をよく見せたい。 口では偉そうなことを言ってても、それはなかなかそう出けへん。 私だって、ブログでは家族がかけがえのないものだとか言っていながら実際は仏頂面してたりしますからね。
 この糸子の子供っぽい態度にはそんなことを感じるのですが、同時に糸子が語った言葉には、さらに含蓄があります。

 「はじめから欲ないような人は、こんなこと(「受くるは与えうるより幸いなり」)考えんでええんや。 欲深いからこそ、散々痛い目に遭うたあげくに、たどりつくんやないか」

 周防のことは痛い目だったのかな、なんてこのとき、ちょっと考えたりしました。 糸子の周防への愛が、相手のことを思っていた 「相手に与える愛」 だった、というのなら、結局テーラー周防がそこそこ繁盛したことを幸せだと解釈してもいいだろうし、逆にそれが不倫とか自分本位な愛だったのだとすれば、弾劾集会まで開かれて散々な目に遭うた、ということやろし…。

 イカン、まだ開始6分だぞ。 また限りなく長くなりそうだ…。

 ここで先週のラストの回想シーンです。 「待っとれ…!」 と岸和田中央病院の廊下を突進する糸子。 その先には、イケメン院長龍村とにこやかに向き合っている奈津がいます。 糸子の顔を見ると、奈津はあからさまに不機嫌な顔になるのですが(笑)、糸子は構わず、喜々として彼女と記念写真を撮るのでした。

 「(あれから4年。 うちには、ふたつ手柄があります)」

 ひとつは、オハライトコ名義で紳士物のラインを立ち上げたこと。 もうひとつは、その奈津を老人ホームに入れることに成功したことでした。
 龍村の口添えで、渋る奈津をホームに入れたことは、糸子にとっては目の届くところに奈津を置いたという点で安心感があったろうし、少なくとも身寄りもなくひとりさびしく暮らしている奈津にとってホームのほうがいい、という判断もあったのでしょう。 奈津のその後の様子は、そのままこの物語の最終シーンへと、つながっていきます。

 朝。

 また今日も目覚めることが出来た、という喜びに浸るかのような、糸子の表情。
 ラジオ体操を腰を痛がりながらやり、「スミレの花咲く頃」 を鼻歌交じりに朝食をひとり、作ります。 「スミレの花咲く頃」 は、終戦直後に 「この曲が歌えるようになった!」 と、小原家の人々が喜々として歌ってましたよね。
 糸子はそんな、老人のひとり暮らしの侘しさと、曲がりなりにも顔を突き合わせてうまく付き合っているように見えます。

 そしてやはり、仏壇に手を合わせることも忘れません。 「おはようございます。 今日もいちんち、よろしゅうお願いいたします」。 遺影を見上げて微笑む糸子ですが、どことなくその表情は、それまでの同様のシーンと違う。 異界が遠かったそれまでのシーンと比べて、「うちももうすぐ、お父ちゃんらの仲間入りや」 という親近感を、糸子の表情の中に見ることができるのです。

 そして見るテレビはすでに薄型。
 見ている朝ドラは 「ファイト」 です。
 「なあなあ、どないなんやろな、優のお父ちゃんとうとう家売ってまうで」「まあ一家離散ちゃいますか?」 という孝枝との会話が笑える。 「せやけど、もう、うちの話もドラマにならんかいなぁ!」「だからなりませんて!」「ちょっとまたテレビの人に訊いといて!」「だからもう何べんも訊きましたて!」「もういっぺん訊いといて試しに、なぁ!なぁ!孝ちゃ~ん!」(爆)。

 この、朝ドラまでネタにするこのドラマの洗練された自虐性には舌を巻きます。 そしてその自虐性を逆手にとり、このドラマはとんでもない 「ループ」 を最後に用意してくるのです。 そのギミックによってこの物語は、最初と最後が見事につながり、まさに仏教的な輪廻を形づくることとなる。 小原糸子はまだ生きているんだよ、ということを示してくれる。 「永遠」、そして 「回帰」 という思想をドラマに絡ませることに、成功したのです。

 荷物が何もかもなくなった2階。 午後の日差しが降り注いでいます。

 そこにひとり佇む糸子。

 カメラはゆっくりと、それを俯瞰していく。

 そして糸子も、そのカメラと同じように、いろんな思い出を噛みしめながら、がらんとした2階を見渡していくのです。

 糸子は腰を曲げながら、静かに座り、年月の染み付いたままの畳を、いとおしそうに撫ぜます。
 仰向けに横たわり、畳の感触を、大の字になって味わう糸子。

 この、なんとも時間をかけた、ゆっくりとしたシーン。
 私は知らずに、涙を流していました。

 過ぎ去った年月を、「色褪せた畳」、という方法で喚起させるこの手法。
 糸子の脳裏には、幼い日にここでアッパッパを縫ったこと、子供たちと川の字になりながら寝たこと、周防と抱き合ったこと、聡子と一緒にデザイン画をトレース競争したことなどが、浮かんでは消えしていたに違いないのです。

 ところがそんな甘く淡い過去の思い出も、次のシーンではものの見事に破壊されていきます。 まったく容赦がない。

 業者がその2階の天井を引っぺがし、大きな音と共に天井板は落下します。 もうもうと立ち上がる煙。
 涙ぐんでそれを見守る孝枝なのですが、対照的に糸子は、挑戦的な微笑みの表情を崩しません。

 「なんや切ないもんですね、思い出のある部屋が壊されるっちゅうんは」 と、糸子よりその部屋に全然なじみ薄い孝枝が言うと、糸子はこう答えるのです。

 「90過ぎたら、思い出なんぞもう、どうでもええで。

 …それより、今と、これからや。

 こ・れ・か・ら!」

 この糸子の、過去を振り返らない態度、というのは、私にとって結構衝撃的でした。
 90超えたら、思い出なんぞもう、どうでもいい。
 それが、平均寿命を超えた人の、偽らざる心情、なのでしょうか。

 「懐かしい」、ということについて、私はこれまで結構肯定的な考えでいたような気がします。
 太宰治は 「浦島さん」 のなかで、乙姫がなぜ浦島太郎に玉手箱を持たせたのかについて言及していました。
 つまり、太郎を一瞬にしてお爺さんにすることによって、竜宮城での思い出は遠い記憶の出来事になる。 そのことによって乙姫は、竜宮城での思い出を究極的に昇華させたのだ、と。

 思い出は、遠くなればなるほど、甘美になる。
 その太宰の論理は、なるほどヒザポンでした(笑)。 私は心からその考えに共感できたのです。

 しかしここでの糸子の姿勢は、その対極をなすものです。
 思い出が、意味をなさなくなる年齢。
 そんなものが、長生きしていると、来るのでしょうか。

 糸子は孝枝が健康を気遣って止めるのも聞かず、昼ごはんに肉(ヘレカツ…笑)が食べたいと言い出します。 「かめへん! うちは、今を生きるんや!」。





 火曜日放送分。 コリャ終わらんぞ…。

 前回よりひと月後。 2階の改装が完了しています。
 「今を生きる」 糸子は、過去への感傷など微塵も見せずに、出来上がったばかりのサロンを満足げに見ながら、ワクワクする気持ちを抑えきれないようです。
 ベランダの窓に腰掛けながら、「ゴンドラの唄」 を糸子は口ずさむ。 「命短し、恋せよ乙女」、です。 黒澤明監督の 「生きる」 で、志村喬サンが印象的に歌った、あの歌。
 でもそのハミングは一瞬。
 思えば、志村サンのそれは、仕事をやりきった男が自分の残り少ない命を惜しみいとおしみながら歌う性格のものでしたが、糸子のそれは、「いよいよこれから」、の気概、決意の上に成り立っている攻撃的な歌なのです。 糸子は間髪をいれずに、このサロンで着物のリフォーム教室を開こう、と決意する。 だんじりの時だけしか使わんのは、もったいない。

 「やるっちゅうたら、やるんや」。

 孝枝の有無を言わせぬ突っ込みもものともせず、その 「撫子の会」 というリフォーム教室は開講します。 言わばこれも、戦時中に糸子が始めた 「着物をモンペにする教室」 の応用だった、と言ってよい気がします。 この会には、呉服屋の栄之助も参加する。

 ここで受講者たちは、着物にハサミを入れることに、結構躊躇します。
 これは戦時中の女性たちとは対照的な反応です(だったと思う…笑)。
 思えば戦時中は、明日をもしれない命だからこそ、女性たちは着物に大胆にハサミを入れてモンペにしつらえ直し、「今を生きよう」 としていた。 八重子も出征する泰蔵に自分のきれいな姿を焼きつけてもらおうと必死になっていた。
 今は 「もったいない」 という気持ちが、物を必要以上に大事にしようとする気持ちに結び付いてしまう。 でもそれで、その着物を 「生かす」 道が閉ざされてしまうことのほうが、「もったいない」。 糸子が考える 「もったいない」 という質は、受講者たちとは違うのです。

 「ほんなセコイことゆうてたら、日本中のたんすに、肥やしが増えていくばっかしです。
 一日もはよ、一枚でも多く、着物が生き返ってくれるほうがずっとうれしい」。

 会がはけたあと、糸子はそのサロンで栄之助と酒を酌み交わしながら、もうひとりの(元?)アホボン、譲のことを訊いています。 譲の父親は、先月亡くなったばかりだったのです。
 年齢的に考えると、譲の父親は、戦時中糸子に泣きついてきたオッチャンの息子だったから、たぶん糸子より年下だと思う。 糸子はここでも本当は、いわれのない感情の中にいると考えられるのです。
 その感情を表には出さず、糸子は 「今度譲を呼んできいや」、と栄之助に言い渡します。

 栄之助に連れられてやってきた譲。
 糸子に会うなり、緊張の糸が切れてしまったように、泣きだしてしまいます。
 おそらくそれまで、必死でこらえていたのではないでしょうか。 跡取りとして。
 糸子はとっさに涙を拭くもんを持ってくるのですが 「これ台拭きや」(笑)。

 「いやー、…参りました。 おふくろんときかてこたえてたはずやけど、今回ほどと違いましたわ」

 しみじみと語る譲。

 「歳のせいですやろか」「はぁ? あんた、今、歳なんぼや」「45です」「あと、倍ほど生きてから、ほんな言葉は使い」。
 跡取りとして、自分が主体的に商会を支えていかなければならない。 その不安と怖さにこたえているんや、と糸子は指摘します。
 「跡取り」 というのは、やはりそれまで親の庇護のもとにあったか、自らが率先して会社を引き継ごうとしていたかの覚悟の違いによって、やはり決定的に違う、と感じますね。

 「けどそら、誰もが通らなんならん道なんやで」

 糸子は善作たちの遺影を一瞥します。 ふと見ると、栄之助まで泣いている。 「あんたまで泣くことないがな」 と呆れる糸子に、栄之助は 「僕もですやろか?」 と訊いてきます。 「いつか僕も、通らなあかんのですやろか?」。

 「そら…あんたのお父ちゃんらかて、不死身やないやろしな」「…なんや、切ないですね…」。

 親が死ぬことなど、誰だって考えたくはない(よほど憎んでいる場合は別ですが)。
 親が後ろに控えている、ということは、限りない安心につながっている場合が多い、と私は思うのです。
 親がいるからこそ、子供っぽいこともできるし、甘っちょろいことも考える。
 思えば糸子は、善作が酒に溺れていたときから、その意識というものが飛んでいた気がするんですよ。 自分が主体となって、ひとり立って、小原の家を守っていく必要に迫られていた。 糸子はアホボンたちを諭します。

 「はぁ…! まぁだまだや! (譲に)あんた、自分のお父ちゃんのこと、思い出してみ。 あの頃、会長確か、65、6や。 ほの歳で、大事な奥さんに先立たれて、どんなけ寂しかったか、考えてみんかいな。
 ほんでもアホ息子と社員らのためにどないか立ち上がって、最後の最後まで支えてくれはったんや。
 あの立派なお父ちゃん見習うて、やってき!」

 おそらく覚悟が座ってなかったほうの口なのでしょう、譲はそんなの無理です、僕そんなに強ないですもん、と答えます。

 「ほんなん、誰かて強ないわ。

 弱ても、どないか、つないでつないで、やっていくしかないんや。

 みんなそうや。 …うちのボーイフレンド、見てみ! 91人もおるがな。 群れたり、ごまかしたり、慰めおうたりしてるうちに、人間はやっていけるんや。 あんたらがやっていけんわけないがな!」

 栄之助は、自分の女房がもし先に死んでしまったら、糸子のボーイフレンドの中に入れてください、と頼むのですが、そんとき糸子は130歳? 糸子は呵々大笑し、そんなあり得へん未来に思いを馳せるかのようです。

 「しっかりしいや。 アホボンらが」。 酒の席は進んでいくのです。

 このシーン。 私も自分の両親がまだ生きていることの有り難さとか、糸子という頼りがいのある人物に寄り添うアホボンらの姿とかを見ながら、なんか涙が少しずつ出てくるような感じでした。 さりげなくも名場面だった気がします。 なんか、尾野糸子が重なって見えるんですよ。 人生を生きてきた人の重み、などと言うと、却って重みがなくなってしまうようですが(笑)、まさにビッグマザーの存在感、でした。

 後日、おそらくその夜のお礼にとやってきた譲が持ってきたカステラをみんなでつまみながら、孝枝が 「これ、前に金箔が張ってあったカステラ?」 と指摘します。 バブルの狂騒の象徴だった、あの金箔カステラ。 「余計なもん貼らんかて、じゅうぶん価値あんでなあ」。 糸子が感慨をもらします。

 「(なぁ、譲。

 キラキラを剥がされて、むき出しになってしもた40男の本性は、あんたが思てるより、もっと、ずっと、きれいなんやで…)」。





 水曜日放送分。

 前日放送分から7カ月後。 平成17(2005)年12月。

 同い年のご婦人と 「うちらまだまだこれから、や!」 と談笑している糸子。
 孝枝は優子から入った、糸子への仕事の依頼を断っています。
 入れ替わりに糸子のケータイ(着メロ 「銀座カンカン娘」…笑)に優子から電話が。 糸子は結局孝枝が断った仕事を引き受けてしまいます。 糸子の体調を気遣って断っていた孝枝は怒り心頭。 例によってアゴの肉をブルンブルンふるわせます(爆)。
 ここで浮き彫りになるのは、母娘そろって陥っている、ワーカホリック(仕事中毒)の実態。
 これも、このあとのための重要な前置きであります。

 そして東京。 へは、もう何度も行きましたね(ん泣いてどうなるのか、はやめました)。

 優子からの依頼、というのは、病院での講演。
 院長や看護婦長との顔合わせの席に同席したのは、前の看護婦長をやっていたという、川上という名の女性(あめくみちこサン)です。
 昔、岸和田に住んでいたことがあって、当時オハラ洋装店でやっていたファッションショーの記事を友人から見せてもらって、感動しました、とのこと。 それで今回は是非お手伝いさせていただきたい、というのです。

 講演の様子は、ええ所でその先がカット(爆)。 相変わらず不親切だけど、まあ糸子の説教が今週は多いからいーか(ハハ…)。
 講演終了後、結局優子も時間が空いたのでこの病院に来てしまった、と孝枝は連絡を受けます。 優子を出迎えに階下へ降りていく孝枝。

 お茶を運んできた川上に、糸子は話しかけます。
 一期一会を大事にする糸子らしいな、と思って見ていたのですが。

 川上との談笑のなかで、糸子は彼女が岸和田におったという割には、岸和田弁が出てこない、と指摘します。

 「はい。 それは、あのぅ…。

 わたくしは、10歳まで、長崎におりましたので…」

 長崎…。

 それを聞いた途端、糸子の表情が固まります。

 川上は、意を決したように話します。

 「先生、実は…。

 …わたくしの死んだ父が、いっとき、先生のところで、お世話になっておりました」

 その言葉で、すべてを察したように、早くも涙ぐんでしまう、糸子。

 長崎。

 死んだ父。

 …周防さん。 亡くなって、しまったの…。

 糸子は声を詰まらせながら、尋ねます。

 「お、お宅……どちらさん……」。

 「はい、わたくしは……」

 刮目する糸子。 「…周防龍一の娘でございます…」

 茫然と立ちすくむ優子。

 いつの間に、その場にいたのです。

 自分の娘優子がいるとは知らず、顔をくしゃくしゃにして、周防の死を悲しむ糸子。 泣けた…。

 川上ははっとして立ち上がり、かなり恐縮します。 「申し訳ありませんっ! 失礼いたしました…!」 その場を逃げるように去る川上。 優子とばったり、顔を合わせてしまいます。

 その昔、彼女の弟から突き飛ばされた記憶のあった優子。 川上はおそらく、いま目の前にいるのが誰なのか、分かっていたはずです。 優子は有名人ですから。 川上は優子からも逃げるように、その場を立ち去ります。 彼女を追いかける優子。

 泣いている糸子に駆け寄る孝枝。 糸子はとうとう、両手を顔に当てて、号泣してしまいます。
 先に指摘しましたが、男やもめの会を大事にしていた糸子は、やはり片時も周防のことを忘れていなかった、と思うんですよ。 生死の分からなかった周防へ、糸子は会を通じて、エールを送っていた。 それが、彼が亡くなっていたことを知った落胆。
 さらに糸子は、周防の家族にこれまでただの一度も遭ったことがなかった。 彼の家族に対する申し訳なさ。
 それが糸子を、年甲斐もなく号泣させた、と思うのです。

 そして優子と川上。 お互いにかつてのことを謝罪しています。 川上は優子に、涙ぐみながら話します。

 「人を憎むというのは…苦しいものです…。

 私にとって、ただひとつ救いだったのは、…父の相手が、先生だったということでした…。

 憎むには、当たらないかただと…。 いつ頃からか…。 ある程度歳をとってからですが、思えるようになりました…。

 …それでも、汚い感情が、まったくなかったかと言えば…嘘になります…。

 でもそれも…さっき…先生の目を見て、消えました…。

 …先生も…。

 ずっと思い続けてくださったんだなと、…思いました…」。

 お互いに泣いてしまう、優子と川上。
 この話のくだりは、いかにも架空の話ぽいのですが、そこには脚本家渡辺あやサンの、限りない愛情がこもっているような気がいたします。 現実には決着がついているかどうか知らない、糸子の不倫。 物語的にきちんとここで、ケリをつけたと感じました。 「おそらく現実の小篠綾子サンも、このような気持ちだったに違いない」、と。
 号泣し続ける糸子。
 その独白に、一瞬の夢の象徴として、闇の中に花火が上がっては消えていくシーンが重なります。

 「(長い長い、記憶を持ってる。

 それが、年寄りの醍醐味と言える。

 守り続けて、闇のうちに葬るはずやったもんが、うっかり、ひらいてまうこともある。

 老いぼれた体に轟くこと、打ちのめすこと、容赦のうて。

 ほんでも…。

 これを見るために、生きてきたような気もする…)」

 古い過去をことごとく、自分の周囲から捨て去って、前だけを向いてきたように思える、糸子の晩年。
 けれども糸子は、過去を捨てたわけではなかった。
 自分の記憶、という、いちばん安全な場所に、それをしまい込んだだけだったのです。
 歳をとっていくごとに、自分の好きな人が増えていく。
 そう言って、さめざめと泣いていた壮年期の糸子もいました。
 年月は、思い出したくない記憶、忘れたくない記憶を、互いに紡ぎ出し、あるものはそのまま消え、あるものは思わぬところで決着したりする。
 生き続ける、ということ。
 深く深くその意味が、見る側へと伝わってくるのです。





 木曜放送分。

 衝撃的なシーン。

 ストレッチャーで運ばれていく糸子。

 「小原さん! 大丈夫ですか! 聞こえますか! 分かりますか! 小原さん! 小原さん!」

 糸子の視線から見たと思われる、病院の廊下の天井。 医師や看護婦たちの声と共に、下へ下へと遠ざかっていきます。

 「(ん…?

 なんや?

 どないしたんやったかな、うち…)」。

 平成18(2006)年3月。 糸子が亡くなる月です。

 糸子の回想。

 ひな人形を飾る孝枝たち。 コデマリの枝を取ろうと立ち上がって台所へ向かった糸子。 胸を押さえてその場にうずくまってしまいます。 早く気付いて、孝枝さん!

 「(せやった…)」

 再び病室。

 「(こら、エライことになってんやなあ…)」

 集中治療室にいると思われる糸子。 優子は孝枝からの電話を受け取り、愕然とします。 「『何とも言えん』 てなんや!」 ケータイに向かって大声をあげてしまう直子。 祈るようにケータイを握り締めます。 ロンドン、チケットを取ろうとイライラしながら電話しているミッキーのそばで、怖くてたまらないような表情の聡子。 三姉妹の誰もが、いつかは来ると思っていた、そして絶対来てほしくなかった瞬間に、立ち合っています。

 降り立つジェット機。 さまようように病室に辿り着いた聡子は、病室の中から漏れてくる笑い声に、いったいどうしたのか、これは何かの冗談なのか、という顔でドアを開けます。

 見ると、深く寝入っているように見えるお母ちゃん、そのベッドの下に寝床をしつらえた優子と直子が、久しぶりに見るお互いのスッピン顔を、笑い合っているのです。 「いや~、姉ちゃんのスッピン久々に見たら、ほんまごっついことになっててなあ」「あんたかて人のこと言われへんやろ」「鼻…ブタ鼻になっとる…ハハハ」「アハハハハハ」。

 なんと不謹慎な、母親が危ない、というのに、という感想をここで持つ人は、よほど思慮が浅いと反省せねばなりません。 優子と直子は、笑っていなければ平常心を保てないのです。 こんな解説そもそも要りませんが。

 その心情を思うと、「ブタ鼻」 に笑ってしまう自分がいると同時に、その悲痛に泣けてしまう自分もいるのです。 悲劇と喜劇は同じステージに存在する。 そのことを痛感します。

 母親と一緒に3人の娘たちが眠る。 こんな、おそらくだんじり祭りの時でもあまり実現しそうもないシチュエーション。 優子と直子は、またしょうもないことで口げんかをするのですが、聡子はやはり末っ子だからか、何よりも先に不安ばかりが立ってしまうようです。 「どうなん?…お母ちゃん…」。

 「うん?」 と優子。

 「今、…どうゆう状態なん?」

 答えられない優子を見かねたように、直子がぶっきらぼうに口を開きます。 「今夜が山やて」。

 それを聞いた聡子は、泣き出してしまいます。
 いちばん末っ子だから、おそらくいちばんお母ちゃんに甘えたがりだった聡子。 背を向けて泣きじゃくる聡子を、後ろから直子が抱きしめます。 かなりの強がりの直子も、目に涙をためているのが確認できる。 優子は言わずもがな、涙をぼろぼろ流しています。
 3人の泣き声が病室に小さく響き渡るなか、今夜が峠という糸子は、こんこんと眠り続けています。

 翌朝。

 小鳥の鳴き声に、糸子はかすかに、目を開いていきます。
 眠りから覚めた優子が、それに気付く。
 「お母ちゃん…? ちょっと、えっ? お母ちゃんっ!」。
 それに気付いた直子と聡子もベッドに駆け寄り、大騒ぎとなります。 「やった、起きた!」「お母ちゃん、起きた!」。 あまりのうるささに、糸子はかなりメーワクそ~な顔をします(爆)。 「ううん…ちょっと…うるさい…あんたら…」。 見ているこちらはもう、笑ったり泣いたり、忙しい(ハハ…)。

 途端に再びワーカホリックモードに突入する娘たち。

 それは見方によってはかなり冷たいようにも思われるのですが、これが小原家の流儀なのです。 他人がとやかく言うような話じゃない。 これを突っ込む人は、かなり無粋だと言わざるを得ません。 それが証拠に、ほかならぬ糸子が、娘たちの忙しそうな様子を見ながらも、うれしそうに微笑んでいる。 お母ちゃんがこれでええ思てんねん。 なんの差し障りがあろうか。

 糸子のそれまでの人生をたとえドラマであれ見てきたならば、彼女が出産の直前まで仕事をし、聞かん坊怪獣の直子を夫勝の実家に預けたことぐらいは覚えているはずです。 そんな仕事一辺倒だった糸子、でも、娘たちとの間にはちゃんと信頼と愛情が存在している。 それでじゅうぶんではないですか。

 つまり、小原家においては、何よりも自分が仕事に打ち込めることが、第一義なのだ。 ほかならぬ母親の糸子が、その規範を娘たちに見せつけてきた。
 確かにそれで失うものもあります。
 でも彼女たちが結び付いているのは、仕事に対してまず自分がケツをまくっている(下品な表現で失礼)という覚悟によってなのです。

 すっかり正装して母親にあいさつをする娘たち。 母親は微笑みながら、こう言うのです。

 「心配かけたな。 気ぃつけて。 おおきにな」。

 娘たちが出ていったあとの病室で、糸子は微笑みながら、もう一度思うのです。

 「(おおきに。

 優子、おおきにな…)」

 仕事へ戻っていく優子。
 その優子に慌てた様子で話しかけている直子。

 「(直子。 …おおきにな…)」

 ケータイでミッキーと話している聡子。

 「(聡子。 …おおきにな…)」

 そしてオハラ洋装店の様子。

 「(ふみちゃん。

 浩ちゃん。

 まこちゃん。

 …おおきに…)」

 あ~もうダメ。

 涙腺決壊。

 フラグが立ちまくっとる…って、当たり前やんか~。 もう終わりなんやさかい。

 書きながらまた泣いてます(ハハ…)。

 「(おおきに…。
 …
 …
 …
 うちは、果報者(もん)です…)」。

 このセリフ。

 糸子が結婚式のときに、祝宴に集った人々を見ながら思ったセリフと一緒でしたね。
 あの時も、尾野糸子の目からは、ただ一筋の涙が光っていました。
 そして今回、夏木糸子の目からも、ただ一筋の涙が。
 自分がまわりの人に生かされている。
 そしてその思いまでも、あのときと一緒だったのです。





 金曜放送分。

 糸子が総婦長の相川から、化粧はしたらあかんゆうたやないですか、と怒られています。 糸子がおめかししてまで会わなければならなかった人というのは。

 アホボンたちでした(笑)。 糸子は彼らには、最後まで頼れるオバチャン、でいたかったのでしょうね。 見舞いのお花の洪水に驚く彼らに、「おせんにキャラメル」 じゃなかった(アンタ年なんぼやねん?)なんでもあるでよ、ハヤシもあるでよ(ちゃうちゃう)と食べ物を勧める糸子。

 「先生若なった」「好きな人でもできたんちゃいますか」 と勘繰るアホボンたち。 病室で世話をしていた里香も揃って、スワ恋人の出現か、と色めき立つのです(表現古いよね、いちいち…)。

 けれどもまんざらでもない顔の糸子は、こう考えていたのです。

 「(…確かに、恋した時とよう似とる。

 あの朝、目ぇが覚めてから…)」

 回想。

 峠を越した糸子が小鳥の鳴き声に目覚めたとき、娘たちが3人揃って眠っているのを、糸子はずっと眺めていたのです。

 「(…世の中が、えらいなんでもかんでも、きれいに見えるようになってしもた)」。

 お見舞いの花を眺める糸子。 少しばかり、目が潤んでいます。
 ノック。 里香が入ってきます。 アホボンたちを見送ってきました。

 「おおきになぁ…」。 糸子は里香にお礼を言います。 里香はその改まった調子に、どこか不吉なものを感じ取り、ちょっと怒ったように微笑んで言うのです。 「そんな…しみじみ言わないでよ」。

 「フフ…おっかしか?」

 「おかしいよ。 見送ってきただけなのに」

 糸子はその場にしゃがんだ孫の髪を撫ぜます。 「あんた…。 きれえやなあ…」。
 里香は泣きそうになりながら、おばあちゃんに抱きつきます。 ああもう、またダメだ…。

 「どないした…?」

 「…」

 無言のまますがりつく里香。 もしかすると、かつて直子が千代に頼んだように、「長生きして」 と言いたかったのかもしれません。

 そしてまた、ひとりぼっちの病室。

 午後の柔らかい日差しの中で、糸子は再び、静かに目を閉じるのです。

 平成18(2006)年3月26日。

 ロンドンの聡子のアトリエ。
 ミッキーが 「今日は母の日だから」 と、赤いカーネーションを買ってきています。
 ケータイが鳴ります。
 声の主は、優子です。
 その様子は、とても重苦しい。

 「聡子…?」

 「優子姉ちゃん。 どないしたん?」

 ザワザワとした気持ちを抑えながら、聡子が訊きます。 電話口の向こうから、鐘の音が聞こえます。 「…もしもし…」。 無言のままの優子。

 「あんなぁ…。 聡子…。

 …お母ちゃんがなぁ…」

 「………嘘や………」

 その先を聞かないうちに、聡子は口走ってしまいます。
 当方またまた涙腺決壊。

 「………亡くなったよ」

 この言葉を聞かないうちの、聡子のあのセリフ。 こういう泣かせ方があったか。 あ~もう、ダメだぁ~。

 聡子は泣き顔になっていきながら、再び繰り返します。 「嘘や…」。

 そしてもう一度。 「…嘘や…!」。

 あのお母ちゃんが、死ぬはずがない。

 あんなけ威勢のええお母ちゃんが、死ぬわけない。

 その場に崩れ落ちてしまう聡子。 号泣する聡子に駆け寄るミッキーたち。 ミッキーの手には、「生きている母親」 のための、赤いカーネーションが、鮮やかです。

 ケータイを握り締めたまま、優子のほうも涙を抑えきれません。 後ろには同じ悲痛な表情の直子。 さすがにこの時ばかりは、姉の肩に手をかけて共に泣くのです。

 病室の外で涙にくれる、オハラ洋装店の従業員たち。

 相川総婦長。

 孫、ひ孫たち。

 ベッドには、白い布がかぶせられた、糸子の姿。

 泣いて、笑って、啖呵を切って、駆け抜けていった、糸子が動かぬ姿で、そこに眠っているのです。

 オハラ洋装店に戻ってきた優子や直子、従業員たち。 みな、呆然としたままです。

 「まだ見てはらへんのとちゃいます?」 孝枝が不意に口を開きます。 そして2階のサロンに、優子たちは案内されるのです。

 感嘆の声を上げる優子と直子。 そこに漂っている母親の声を、的確に感じ取っています。 そしてちょっとしたくぼみを見つけ、「ここに写真飾ってな、ちゅうことやで」 と苦笑してしまう直子。

 「ほんでここに、花置いてや」。

 先日放送されたNHKアーカイブスで、実際の話として、このサロンの間取りが小篠綾子サンの葬儀をする際にぴったりはまった、という話をコシノジュンコサンがされてました。 「自分の葬儀までプロデュースして逝ってしまった」、と。

 「はぁ…。 ほんま、かなわんなぁ…」

 優子が絞り出すようにつぶやきます。

 「ほんまなぁ…」

 直子も完全に負けた、という表情です。

 優子は孝枝に向かってこう言います。

 「やっぱり、うちらの何枚もうわてや、あの人…」

 やはり、落とし所をここに持ってきはったな、このドラマ。 ここやないかと思てました。 いくら娘たちが世界的なデザイナーでも敵わない、母親の巨大な存在。
 しかしまだ金曜やで。 これもまた、やっぱり、や。 絶対フツーのタイミングで亡くなるとは思わへんかった。 どこまでやねん、このドラマ。

 しかしこのドラマには、まだまだ驚天動地のギミックが、隠されていたのです。
 それは土曜日放送分にて。

 そして。

 葬儀の日、聡子が、ミッキーから受け取った赤いカーネーションを胸に、オハラ洋装店に入ってきます。

 棺には、あんなけ大きな存在だった、糸子の亡き骸が。 信じられない、という表情でそれを見下ろす、聡子。

 泣きながら、聡子はやっと母親に声をかけます。 「…お母ちゃん」。

 なにも答えない糸子。

 「…ただいま…!」

 動かない糸子は、やはり信じられません。 あんなけ精力的に動きまわっていたからこそ、その悲しみは増幅する気がする。

 聡子は、真っ赤なカーネーションの花束を、糸子の亡き骸に捧げます。

 「イギリスはな…。

 母の日やったんやで、昨日…。

 …ごめんな、お母ちゃん…。

 …娘のくせに、…見送ることもでけんで…、ごめんな…!」

 真っ赤なカーネーションに照らされたように、頬を赤く染めたように見える、糸子の表情。 先ほどと違って、まるでそれは、笑っているようです。

 「あなたの好きな花は何?」

 「花ですか? …カーネーションです」

 「どうして?」

 「『あの花は、根性ある』 ておばあちゃんが」

 「根性?」

 「『ほかの洋花と違うて、カーネーションは、簡単にしおれへん。

 カビ生えるまで咲いてる』 て、感心してました」

 「(笑って)まあいいわ。 カーネーションね。 じゃあ、カーネーションになったつもりで歩くの」

 「カーネーションですか?」

 「そう。

 カーネーションの花、堂々と咲いているでしょ?」

 「堂々と…」

 「恥ずかしがって咲かないカーネーション、見たことある?」

 「そらないですけど…」

 「ただ無心に咲く。 それでいいの」

 ちょっとドラマには出てきませんでしたが、再掲させていただきました。 糸子が根岸先生に連れられて、初めて洋服で岸和田の商店街を歩いた時の、やりとりです。

 まさに、「カビが生えるまで」 無心に咲き続けた、糸子の人生。

 真っ赤なカーネーションは、糸子の中に流れる血、そのものだった気がするのです。





 土曜日放送分。 最終回です。

 平成22(2010)年9月。

 今年もまた、だんじりの季節です。

 糸子の遺したサロンには、糸子の生前と同じように、大勢の人が集まっています。
 ジョニーはご機嫌ななめ…じゃなかった、すっかり中年太り…って、やっぱりモデルはジュリーかよ!(ハハ…)。 これじゃジョニー・デッブだ(下らないオヤジギャグ…)。
 浩ちゃんは初めて会う斎藤源太にドキムネです。 すごいファンだったらしい。

 そして思わぬ朗報だったのは、末期がんだった加奈子が、どうも回復している様子なこと。 いや、寿命を延ばしている、といったほうがいいのかも。

 そのたびに糸子のほほ笑む写真が映されます。 まるでそのことを一緒に喜ぶかのように。

 聡子は優子が手招きしているのに気付きます。

 「なんか今、テレビ局の人が来はってなぁ…」

 「朝ドラ?」 訊き返す直子と聡子。

 「朝ドラって、お母ちゃんがよう見ていた、あの朝ドラ?」 と聡子。

 「みたいやで…。 どうする?」

 「ええやん! お母ちゃんようゆうてたやん、『うちの話も朝ドラになれへんやろか』 って」 大乗り気の直子。

 「いや…せやけどなぁ…」 優子はどうもはっきりしません。 自分らの仲の悪いのを暴露されたんではかなわん、ということらしい(爆)。 ワロタ。

 この二重構造。 朝ドラのなかで朝ドラの話題で盛り上がる、というのがまず面白い。
 その話はいったん、だんじりの山車がやってきたことで立ち消えになります。
 窓際に集まっていく人々。 巨大な山車の振動で揺れるグラス。 通り過ぎていくだんじり。 それを糸子の写真が、見守っています。

 平成23(2011)年10月。 「カーネーション」 の放送開始の月やん(笑)。 パラレル的展開ここに極まれり。 どこまで不敵なのか、このドラマ。

 そしてついに、とうとう、死んだ糸子(夏木サンです)が再びナレーションを始めるのです。

 「おはようございます。

 死にました」。

 腹抱えて笑いました、ここ。

 なんか、もう、なんと言っていいのやら。

 いやまあそら、死んだ人がナレーションをする、というのは過去にもありましたけどね。

 過去のケースでは、「晴信をあの世から見守らせていただきとう存じます」 とか、そんな同情すべき心情が多かったのですが、今回の場合関西風お笑いのネタという性格が色濃くて。 まさに最終週、カーネーションの花言葉、「あなたの愛は生きています」 そのもの。
 人を食ったように、青空にトンビがピーヒョロロと飛んでいるのです。

 「(あっちゅう間にもう5年がたちました。

 おかげさんで、娘らも元気です。

 優子は、昔、うちに引退を勧めた年を越えて、やっぱし、働きまくってます。

 相変わらずたっかい靴はいて)」

 ピリピリしながら里香はじめスタッフに指示を飛ばす優子。

 「(相変わらず怖いこと)」

 そして写真を撮られる直子の姿。

 「(ちょっと変わったことちゅうたら、なんや知らん、優子と直子はこの頃、お互いのショーを見るようになりました。

 とにかく、いずれもええ年こいて、引退なんぞ、さっぱり頭にありません――)」

 これが小原の流儀、なんですよ、やはり。
 仕事をし続けることで互いに対話をかわしていく。

 「(働いて、

 働いて、

 たくましなるいっぽうです。

 …まあ、ほんでも…)」

 仕事を終えて一息つくと、三姉妹は未だにお母ちゃんを思って、涙ぐんだりします。
 お母ちゃんの写真に向かって仕事の報告をする優子。
 ケータイの待ち受けに映ったお母ちゃんの姿を抱きしめる直子。
 「会いたいなあ…お母ちゃんに」 とつぶやく聡子。

 「(泣かんでええ。

 泣くほどのこととちゃう。

 …うちはおる)」

 先ほどの、朝ドラの話が、再びフラッシュバックし始めます。

 三姉妹のそばで、糸子が必死になって娘たちに語りかけている。

 「朝ドラ? せやせやせや、ふんふん、やりやり! やろうやろう! な、やろう!」

 なんとも粋な演出ではありませんか。

 「(うちはおる。 あんたらのそばに)」。

 「見えんけどおる」 みたいじゃないですか、「ゲゲゲの女房」 の。 やっぱり対抗意識燃やしてたんだなあ、なんて感じます。

 「(空。

 商店街。

 心斎橋。

 緑。

 光。

 水の上。

 ほんで、ちょっと退屈したらまた、何ぞオモロイもんを探しに行く)」。

 岸和田中央病院の入り口の自動ドアが、誰もいないのに静かに開きます。 通り抜ける風。 看護師の女性が、慌てて廊下を駆けていきます。

 その先には。

 車いすに座った、ひとりの老婆。

 看護師の女性は車いすを押し、その年老いた女性を、待合室のテレビの前に連れていくのです。 年老いた女性は、奈津に違いありません。

 テレビから流れてきたのは、「ふたりの糸子のうた」。

 「♪時は大正 岸和田に
 生まれたひとりの女の子
 名前を
 小原糸子と申します

 着物の時代にドレスに出会い
 夢みて 愛して 駆け抜けた

 これはその おはなし」

 そしてこの最終回、ずっと流れることのなかったタイトルバックの、椎名林檎サンの歌が、始まるのです。 ただわけもなく、私は涙を流し続けていました。 やられた。 最後まで。

 「♪重く濡らした瞼は今よろこび映す日の為心を育ててるのね

 かじかむ指ひろげて 風に揺れ雨に晒され

 遥か空へ身を預けて …生きよう…

 何も要らない私が本当に欲しいもの等 唯一つ、唯一つだけ」

 このタイトルバック。 ドラマのダイジェストも流れていたのですが、もっとも感慨深かったのは、最後の最後、演者の名前のクレジットが 「小原糸子 尾野真千子」 となっていたこと。 やはりこのドラマ、尾野真千子抜きでは、絶対に成り立たなかった、といっていいでしょう。 限りない感謝をこめて。

 最高でした。 このドラマ。






 文字通り、実質25本にわたる映画を観終わったような、ずっしりと重たいものを感じています(24本の長編と2本の短編?…笑)。 おそらくこれに敵う作品は、今後容易には出てこないと感じる。 なぜならいま述べたとおり、このドラマは脚本と演出が最高だっただけでなく、それに限りないプラスアルファを与えた、尾野真千子という存在がなければ、ここまで著しい化学変化を起こすことはなかったからです。 まさにテレビドラマとしては出来過ぎ。 100点満点で150点はゆうに越えていた。

 あくまで大胆不敵。

 あくまで不親切。

 思えばこのドラマほど、見る側の鑑賞眼に頼りきった作品もなかった気がします。 つまり視聴者を、絶大に信頼していた。

 暴力的な描写も数々あったけれども、それは見せかけだけの優しさを激しく問うものであっただけでなく、「ものの加減というものを見失っている社会」 に対する強烈な皮肉、でもあった。

 このドラマの存在意義はその意味で、このさき未来にわたって、徐々にだがとても重要度を増していくように、私には感じられるのです。

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コメント

終わってしまいましたね。ドラマを毎日視聴し、一週間ごとにこちらの感想を読んで涙し…至福の半年でした。ありがとうございました。一言お礼を言いたくて。失礼しました。

投稿: わかば | 2012年4月 1日 (日) 11時26分

今日は。
カーネーション、終わりました。
とても見応えのある、待ち遠しいドラマでした。

そして、リウ様の素晴らしい暖かな視点の評論で、2倍にも3倍にも、楽しませていただきました。

毎週の、長文の選び抜かれた文章、お忙しい中、お疲れ様でした。
本当に感謝です、ありがとうございました。

こういう一代記のドラマは、主人公に共感することが、場面ごとに違います。
若い時も、母親になっても、年をとってからも、それなりに、そうそうと。(笑)

脚本の上手さを活かす、演出他、キャスト、スタッフ、全部がかみ合ってのドラマ、
ちょうど巡りあえた幸運を、思いました。

私は、父も母も、身近に暮らしながら、死に目には会えませんでした。
手を握り、ありがとう、という感謝の言葉を、言えませんでした。

小原糸子の幸せな最後に、羨ましく、涙しました。
「思い出よりこれから・・・」、物を捨てられない方の私には、とても無理ですが。(笑)

リウ様
お身体を大事になさって、少し、お休みくださいね。
しばらくしてからの、次のドラマ評、お待ちしています。

投稿: 勇者 | 2012年4月 1日 (日) 16時26分

思い出しては何度も涙しています。
たくさんの方が、「カーネーション」を見終わってブログをかいたりツィートしたりしていらっしゃいます。それを読んで、また涙。

悲しいっていう感じじゃない。
終わりのないものなど無いですし、ドラマが終わったくらいで落ち込むほど、若くないです(笑)

でも思い出すたび涙が出て。

この涙はなんなんだろう・・・って思います。
思えば、最終週、周防さんの娘と出会ってしまったシーンを見た瞬間・・・糸子と共に決壊してしまった涙が、なぜか今流している涙に似ている気がしています。

半年、様々なシーンを共有して、心の奥に溜まってきたものが、みなさんの書かれたものを読んだり、思い出したりするたびに、また縁を越えて決壊していく、そんな感じがしています。

だから、悲しい涙じゃない。

心が震えるって言うことは、こういうことなんだなぁ、と、

あ、書きながらまた涙しています。(泣笑)


誤解を恐れず告白してしまいますが、
そう半年前、私にも引き裂かれるに似た別れがありました。
あまりに理不尽で
あまりにいきなりで
その状況に対処できないでいるときに出会ったのが「カーネーション」とそれを取り巻く視聴者のみなさん方のブログやツィートでした。

何度も何度も引き裂かれる思いや醜い物思いに悩まされてきました。それが、糸子や周防さんや、周防さんの娘の上に重なって見えて。
どうやって生きていけばいいのか、行き場を見失っていた私に、「それでも生きていけるんや」と道を示してくれたのが他ならぬ糸子でした。
私も、いずれ、年を経てそれを心の底に沈殿させ、醜い思いを昇華させて、生きていくことができるんでしょうか。

そんなことまで考えさせられました。

すみません、レスのつけようがないお話ですね(^^;)スルーしてください。
でも、何処かで書いておきたくて。
お目汚しを失礼いたしました。


このドラマに、この時期に出会えたのは、私にとってのもう、「奇跡」でした。
そして、リウ様をはじめ、いろんな方の書いたものに出会えたことも。
やっと、自分も、何か書けるかもと言う気になってきました。

「カーネーション」の感想、アップ本当にお疲れ様でした。
そしてまた、お書きになるもの、楽しみにしております。
今後とも、よろしくお願いいたします。

投稿: samantha | 2012年4月 1日 (日) 20時08分

わかば様
コメント下さり、ありがとうございます。

ただダラダラと長いだけの拙い文章でお目汚ししてしまい恐縮です。 最後まで読んでくださり、こちらこそ心から感謝いたしますconfident

投稿: リウ | 2012年4月 2日 (月) 08時23分

勇者様
お久しぶりです。 コメント下さり、ありがとうございます。

休息はじゅうぶんすぎるくらい取っていると自分では思っておりますcoldsweats01。 なにしろ先月(3月)は、ほとんど 「カーネーション」 のレビューのみ。 精根尽き果ててしまうのが原因でしたが、これも1週間に1ぺんだから継続できたわけでして。

コメントをいただくたびに自分のレビューを読み返しては、「ここはおかしい」 と思うところを添削しております。
しかしそれでも、全体的な文章の構築自体がまずい場合は如何ともしがたく…。 自分に文才がないことに直面し続けております。
おほめいただくと、却って穴にでも入りたくなります…。

親の死に直面すると、自分が親にしてやれなかったことを悔いて、申し訳なくなる場合が多いようです。 私の親もそのようなことを話しております。

けれども、親にとっていちばんうれしいのは、子供が何より幸せでいることだ、と思います。 まあよく言われることですが。

だから毎日、愚痴の人生ではなく、前向きに今目の前にあることに全力を傾けて生きることができれば、親御さんは喜んでくれる、と思うのです。

私も物は捨てられませんねぇ、91歳の糸子のように。

まあ、自然体でいいんじゃないでしょうか。 あくまで前を向きながらhappy01

投稿: リウ | 2012年4月 2日 (月) 08時43分

ついに終わっちゃいましたね。

リウさまも肩の荷が下りた?
それとも、最後までやりとおせた達成感の方が強いでしょうか?

リウさまのレビューで、自分では気づかなかった部分に気づけたり、皆さまのコメントで、この作品を見る事でいろいろな思いを喚起させられているんだなと強く感じました。

こういう作品がたくさんTVで視聴できれば、TV離れも減速するんじゃないでしょうか。

最後の週、病院のTVの前の年老いた女性。
奈津だったんですね〜。
私ってニブい!家族からもよく言われるんですけどcoldsweats01、リウさまのレビューで納得!!
スッキリしました〜happy01

ほんとにリウ様の長い長い精魂込めたレビュー。
リウさま、本当にお疲れさまでしたspa
そして有り難うございましたnote

渾身のレビューを首を長くして待っていた半年間でもありました。

そして、また新たなクールが始まりますね。
なかなかカーネーションから切替えるのは難しいかもしれないですけれど、心機一転、新番組のレビューも楽しみにしてますよ〜
(と、ムチをいれる?rabiでしたcoldsweats01)

投稿: rabi | 2012年4月 2日 (月) 09時10分

samantha様
コメント下さり、ありがとうございます。

このドラマは、主人公の醜い部分も驚くくらいあっけらかんと描写し尽くしていた気がします。

そしてどこぞの感想欄では、それを批判することであたかも自分の良識ぶりに悦に入るような風潮が一部ではあった。

でも、このドラマは、「人というのは誰でも過ちを犯すものである」 という態度を崩しませんでした。

周防の娘であった、川上という女性も、マイナス的な思考に自分自身が苦しめられた、と語っていました。

糸子にしても、周防に対して降り積もっていく後悔とか、謝罪の気持ちがあったと思うんですよ。

問題は、自分の過ちによって発生したそのネガティヴ思考を、どうやって乗り越えていくか。

このドラマの作り手は、そこにこそ重点を置いていた、と感じます。

過ちを、どう乗り越えていくか。

それを勉強していくことが、人生には必要なんでしょうね。 samantha様も、そんな事態に直面したのだと感じます。

…スミマセン、思いっきりレスしてしまいました(爆)。

心というのは、とても移り気なものだと感じます。 今幸せを感じていたかと思えば、ちょっとしたきっかけで地獄にでも堕ちたような心境になる。

つまり、ああそうか、コイツ(心)ってその程度のヤツなんだ、とかさにかかることが重要な気がするですよ。

しなやかさ、柔軟さを武器にすれば、こんなヤツいちころです(ハハ…)。

「梅ちゃん先生」 の第1回を見ましたが、レビューも長く書かなくて済みそうです(?)。 いや、そうあってほしい(もう、休日返上したくない…爆)。

投稿: リウ | 2012年4月 2日 (月) 09時10分

rabi様
コメント下さり、ありがとうございます。

samantha様への返信でこう書いたばかりなのに(どうぞ参照なさってください)ムチを入れられた(爆)。

いや、返信に書いたばかりですけど、まあとても優しいものの言い方をいたしますと、「ふだん着の朝ドラが帰ってきたかな」、という気がいたしました、「梅ちゃん先生」(オブラート包み過ぎ)。

おそらくプログレッシヴカメラの重厚な質感がなくなったことも起因しているのでしょうが。

見ていてイライラしたのは、こぶ平クンのナレーションかな(爆)。 君はこんなところでナレーションしてないで芸を磨きなさい、と言いたい(正蔵の名が泣く)bearing

「カーネーション」 の話に戻りますが、私はてっきり最後の女性が奈津だと思ったのですが、言われてみると自信がなくなってきた…(爆)。 なにしろヘタレなレビュワーですから、ワタシwobbly

「こういう作品がたくさん視聴できれば」、って、rabi様、それは無理ってもんだと思いますcoldsweats01。 すごすぎましたよ、このドラマ。 「北の国から」 と比肩するくらいの作品でした。

投稿: リウ | 2012年4月 2日 (月) 09時21分

最後の女性は「奈津」らしき老婦人っていう感じみたいですよ。
実際副音声の方では「奈津」と言っていたらしいです。

それと、あの老婦人はなんと、川崎亜沙美さん(直子役)の本当のおばあさまなんだそうです。

やるなぁ、NHK大阪。

投稿: samantha | 2012年4月 2日 (月) 23時29分

samantha様
再コメ下さり、ありがとうございます。

ええっ、江波杏子サンじゃなかったんだ!(ガ~ンshock)。

でもでも、やっぱり、結局、物語の開始から最後まで生き延びたのが、この架空の人物、奈津だった、という括りであれば、スンゴク素晴らしいことのように感じます。 奈津なのかどうかは、見る人の心の優しさによって決定される、という気がいたします(自分はいかにも心優しいと言ってるよ~なもんだ…)。

投稿: リウ | 2012年4月 3日 (火) 07時35分

出遅れました。

なんというかこのドラマの余韻を楽しんでいたい気持ちが強くありました。
録画していた分の、最終回はまだ切っていません。

>おはようございます、
死にました。

最後まで人を食ったこのセリフ!
しかも、間の取り方が絶妙で。

私はすべて結果おーらいの楽天人間なので、このセリフだけで、夏木糸子の意味があったんだと思いました。

だんじりパーテイでは、院長が素に戻ってワインおたくを披露していたり、
最後まで洒落ていましたね。
そして、奇跡は起こった!

なんていうかな、
最後まで極上のプレゼントをしてくれたって気持ちです。

それにしても、病院の廊下を杖つきながら疾走(?)する糸子は、やっぱりゆばあばに見えました・笑

投稿: マーシー | 2012年4月 3日 (火) 17時42分

リウ様、はじめまして。
2か月ほど前にここを見つけ、
週に1度のぞく(いや、じっくりと読む・・)ことを
楽しみにしていました。

ヤフーの掲示板では
夏木さんになってからのカーネーションへの批判がすごすぎて
がっくりしていたので
ここを読んで、「あ~すっきり!」
自分が感じた以上のものをリウさんが読み取っていて
感動がぶり返しています。

ありがとうございました!

最後までカーネーションを楽しめた自分でよかった。
幸せです。

投稿: はっち | 2012年4月 3日 (火) 18時55分

あっ、すみません、
リウさま、毎週のレポート、お疲れ様でした☆
追体験しつつ、2度、3度とこのドラマを楽しめたこと、お礼申し上げます。

また、ここでコメントされる皆様方のご意見やご感想も、とても楽しみでした。
>samanthaさま
そうなんですか!
てっきり、奈津=江波さんと思い込んでいました。

今回の制作陣は、たとえ後姿でも、老いを表現することになおざりではなかったんですね。
ここまでのこだわりを知って、これまたプレゼントをもうひとつ、おまけにもらったような気持ちになりました。

みなさまとはまた、別なリウさまの記事でお目に書かれることを信じております。

投稿: マーシー | 2012年4月 3日 (火) 20時59分

リウさん。まずは、素晴らしいレビュー、ありがとうございました。

はぁ〜終わっちまいました…
なんだか力が抜けたというかなんというか

この脱力感と、反する充実感

半年間。現実の世界まで浸食されたようなドラマに出会えて、ほんとに幸せでした。

最終章。ワタシもリウさんと同じように涙が流れて仕方ありませんでした。アホぼんに向かっての金箔が剥がれても、自分が思ってるよりずっときれいなんやで、の言葉のなんと優しいこと

周防の死を知って 長い長い記憶を持ってる、のセツナイ気持ち。夏木さん。よくぞ演じてくださいました。

朝の光の中、3姉妹を見つめる糸子の慈しみに溢れた表情を、なんかついさっき見た母(まだ元気に生きてるんですが)みたいに感じて次から次へと涙が流れました。


最後まで 死にました のナレーションで人をくったカーネーション。
あ〜これだ、これだ!奈津の後ろ姿ごしにカーネーション、第一回目の映像につなげる演出

既出だったかもしれませんが カーネーション…リ インカネーションに掛けてるのか?とか思いました。グルグル巡る命を表しているのかな〜とか…


『心』
何度かお話しした、うちのばあちゃんが面白いこと言ってました。『心ってのはなぁ、コロコロ変わるすけ「こころ」ってんがでぇ』
なるほど、心ほど不確かなものはないよなぁ〜と思いました。


ワタシも コロコロ変わりますよ。
夏木糸子は失敗だった、などと不遜なこと申しておりましたが、最終回では『夏木さん。よくぞうけてくださいました。ありがとうございました。』って思いましたもん(笑)

話しは変わりますが。
同僚のこが、退社しました。
プライベート、オフィシャル共に随分悩んでいました。
退社する数日前。
ふとした話からカーネーションを見ていることが判明。その時『カーネーション見て、決心ついた。彼と別れる』と…彼共に家庭がある関係だったそうです。
何が彼女をそうたらしめたのかわかりませんが『出会うべくして出会って別れるべきタイミングでカーネーションに出会えた。このタイミングってなんなんだろうね』

そして心機一転するために会社を辞めました。

彼女の人生を変えたカーネーション。
たかがドラマ、されどドラマですね。

其れほどのエネルギー、
この世に発表してくださった関係者の方々。一番の功労者である尾野真千子。
クレジットの『小原糸子 尾野真千子』にとどめの涙をいただきました。

ありがとうございました。

そして、それをワタシにもわかりやすく咀嚼してお伝えくださった、リウさん。本当に本当にありがとうございました。

感謝 でございます。

投稿: みち | 2012年4月 3日 (火) 23時59分

マーシー様
コメント下さり、ありがとうございます。 2回ほどいただきましたが、返信を1回にさせてくださいまし。 どうもあいすみません。

最終週、最晩年の糸子は、まさにユバーバだった気がしますね、言われてみますと。
実はそれを狙っていた、とか?(笑)。
どんなけ美人でも、歳をとれば若いころの面影なんか微塵もない。
この 「不敵」 なドラマは、実に言いにくいことをズバズバ表現していた気がするのです。

最後の、川崎サンのおばあさまのシーン、老人ホームだったら完璧に奈津だ、と言い切れたんですけどね。

でも、ホームから岸和田中央病院に検診に来てる、とかいうくだりがたしかあった気がしたので、「ああ奈津だ」、って。

それに、直前にこの、岸和田中央病院の自動ドアをすりぬけた、風。

「千の風」、ですよね(笑)。

この 「風」 の主がいっちゃん自分のドラマを見せたい人。

やっぱり奈津しかおらへんのやないやろか、思います。

…こうやって文字で書くだけなら、私もすっかり岸和田人になりきれるのですが、これを実際しゃべるとなると、かなりエライ。

夏木サンには、拍手を送りたいですね。

投稿: リウ | 2012年4月 4日 (水) 08時41分

はっち様
こちらこそはじめまして。 コメント下さり、ありがとうございます。 ちょっと真面目なレスをしてしまいますが、お許しくださいませ。

実はこの最終週のレビュー、本文内でヤフーの感想欄でこのドラマをこきおろしている人に対してモノ申している部分が数か所ございます。

確かに、ただ自分の心の醜いのを暴露したい人を除いては、ヤフーの感想欄に投稿する方々というのは、おおむね正確な批評眼を有している、と私は考えます。

けれども、正確に批評することが必ずしも最善ではない、ということは、私は申し上げたいのです。

最終週のこのドラマを見るうえで、私の涙を加速したのは、夏木糸子に尾野糸子の人生が重なって見えたことが大きかった。

これを、正確な批評眼で見てしまうと、夏木は糸子ではない、という目で見てしまうため、ドラマの感動も半分以下になってしまう。

しかも、見ていてとても、不快になる。

確かに夏木サンの第1週目は、私もかなりがっかりいたしましたけどね。

でも、ものごとを正確に批評するってことの意味って、なんなんだろうな~と、今回はとても考えさせられました。

はっち様のように、やはり楽しむのがいちばん、ですよネ!

投稿: リウ | 2012年4月 4日 (水) 08時53分

今朝の朝日新聞に渡辺あやさんへのロングインタビューが掲載されましたね。必読です。
その中で、主役交代後の「喪失感」について渡辺さん自ら言及されていました。すでにリウさんが指摘されましたしある方のブログでも「この肌理の違いはもはや確信犯」と喝破されていました。ヒロインの交代劇で騒ぐ世間を歯牙にもかけず、ドラマは「老い」「死」「喪失」を視る側に突きつけていたわけで・・・。
花火を背景とした糸子のモノローグこそ、このドラマの総決算でしょう。まさに空恐ろしい作品としか言いようがありません。

投稿: 虎児 | 2012年4月 4日 (水) 08時54分

みち様
コメント下さり、ありがとうございます。

長い長い、半年間でした。 長い長い、レビューでした(爆)。 ようやく週末の悶絶から解放されそうです(ハハ…)。

おそらくあまりのダラダラぶりに、このブログについていけなくなったかたもいらっしゃると感じております。 私ももっと小気味よく感想だけを述べたかったのですが、このドラマのハイテンションが、それを許しませんでした。

そしてみち様の打ち明け話にも、考えさせられることが多くて。

みなさん、いろんな、修復が容易でない出来事に出合いながら、人生を生きていらっしゃるんだなぁ、と勉強させられました。 自分もはた目から見ればそうなのだけれど、あまり引きずってないかな~(ハハ…)。 忘却は、人生の大きな薬だったりします。

けれども心というのは、都合の悪いことを覚えていたがる習性がございまして(笑)。

でも、結局、恨みとか文句とか愚痴とか、その場でガーッと爆発させて消費しちゃうのはいいんですけど、引きずっていつまでもそれに拘泥されると、劇薬でしかなくなる。

心はひとにとっていちばん大切だけれども、だからって心のおもむくがままに自分が自分の心の奴隷みたいになっちゃダメなんですよ。

要は、しっかりと目の前のことに、全力をあげられる自分でいられること。

考えるヒマがあるほど、要らないことって考えがちですよね(ハハ…)。

不倫をする場合でも、「愛」 というものを第一義に考えてしまう心がある、と思うんですよ。

でも実際に暮らしはじめてみると、相手のいやなところも絶対見えてくるはずでして。

その端的な例が、お互いの配偶者なわけじゃないですか(笑)。

ここでまた悪く作用するのが、「自分にウソをつきたくない」、とかいう感情(笑)。

「自分の気持ちに正直でいたい」、って、一見正しそうに思えるけれども、そんなこと言い出したら、ほとんどの異性と付き合えない気がする。

人間、何かをごまかしながら、ぼかしながら、なんとか折り合いをつけて生きています。

「カーネーション」 というドラマでは、そこらへんのことも力強く語っていた気がします。

まさに奇跡的なドラマでした。

投稿: リウ | 2012年4月 4日 (水) 09時26分

虎児様
コメント下さり、ありがとうございます。

ああ、朝日新聞、とってないや…weep。 ただ、番組HPのインタビューを内容的に踏襲している感じですね。

おそらくこのドラマ、後追いでご覧になるかたほど、夏木糸子への違和感は少ないのではないか、という気はいたしますね。

私も含めて、なるべく正確な批評眼を持とう、という気持ちは、レビュワーであれば誰でも持つと思うんですよ。

でもそれって、近視眼的に陥りやすい穴を持ってる。

トータルパッケージで見ると、老境編が不可欠なのは明白だと思います。

夏木糸子への交代を、裏切りと見てしまうか、必然と見るかで、このドラマの最後の1カ月は、とても意味が違ってくると思うのです。

投稿: リウ | 2012年4月 4日 (水) 10時18分

 リウ様、「カーネーション」レビュー、無事完結、お疲れ様でした。

 私は最終週は、毎日見ました。他は時々です。だからからか、夏木さんとの交代劇も違和感はあまりなく見ました。というか、変わったばかりの頃は入院中で見ていません。退院したら夏木さんに主人公が代わってまして、でも「老い」を見据えるには、夏木さんで良かったのではないかと思いました。生きいきした、パワフルな尾野さんが回想の中でより際立つ効果もあったし。みんな、尾野さんの方が良かった、と思っているとしたら、老いで思うままにならなくなって、衰えを認めながら、それでも前を向いて挑戦していく老年期の糸子さんの複雑な気持ちに寄り添えることになると思います。うがった考えですが「違和感」はこれから迎える老いへの軽い肩慣らしです。私も自分が入院して手術するはめになりまして、このドラマと共に老いと衰え、そして死をより深く考えました。それには、夏木さんの方が、より優しく心を繋げられたと思います。(尾野さんのそれまでの演技が素晴らしかったのは交代したからといって否定されたわけじゃないです。素晴らしかったです。)

 最終週でもいっぱい感動しました。最後の最後まで。一番は聡子さんの赤いカーネーションかな。それが金曜日でした。明日もあると思っていたら、「死にました。」笑いました。最後の最後に「カーネーション」を見る、ナツさん?の後姿で終わるところも、幕引きとして良かったです。
梅ちゃんは多分見ないと思います。リウ様、素敵なレビュー、毎週、お疲れ様でした。

投稿: ささ | 2012年4月 4日 (水) 11時12分

リウ様、完走おつかれさまでした。
皆さんがおっしゃるように
「おはようございます。
 死にました。」
には大笑いでした。
最後の最後まで笑わすんですね。
そもそも渡辺あやさんが朝ドラの脚本を書くということが贅沢なことであったと思います。
(私、映画「メゾン・ド・ヒミコ」からのファンです)
リウ様がおっしゃるように不親切な展開なため集中力UPさせて見なくてはなりませんでしたが、それだけの価値のあるドラマでした。
集中力不足なのか単に頭が悪いのか気づかない所も多々あり、こちらのレビューで復習させていただきましたm(_ _)m
最後、奈津が朝ドラ「カーネーション」第1回を見て、尾野真千子さんを登場させて、またスタートに。
当然クレジットもでる。イキですね。

夏木マリさんになってからのお話は「老い」を考えさせられました。
だんだん進んでくる両親の老いと、そしていずれは訪れる私の老い。
まだ心の整理はついてないけど糸子みたくポジティブでありたいと思います。

ただ中村優子さんが現れるとは思いませんでした。あの年齢で末期癌なら「無理すぎだ!髪も長すぎる!」と突っ込みたくなったけど、全体の完成度が高いし許す(って何者なの私(^^;)
つまり奇跡なわけですね。

ところで総集編とか放送されるんでしょうか?
変なところカットされると嫌だな。。。

P.S.
実は私、前作「おひさま」は斉藤由貴さんと若尾文子さんのシーンが不快でリタイヤしちゃいました(^^;

投稿: ROCO | 2012年4月 4日 (水) 14時54分

ささ様
コメント下さり、ありがとうございます。

ささ様のコメント、いちいちズバズバ言い当ててらして、読みながらうなずくことばかり。 やはりのめり込んで見ていた私などは、夏木サンの第1週目を見てかなり落胆しましたから。 近視眼に陥っていたと断ずるほかないです。

それにこの違和感ってやはり、糸子が感じている違和感とまさに同じなのであり。 そんなにちゃんとご覧になっていないささ様のほうが言い当ててます。

私事で恐縮ですが、今回のぎっくり腰も、なんかいまだに完全に治ってなくて、「以前だったら1週間くらいで治ったのに…」 と考えると、やはりこれも年のせいなのかな、なんて考えたりします。 出来なくなることと出来ることとのせめぎ合い、これが老化なのかな、なんて。

ああ~、ジジイの入口に立っている自分が見える…(爆)。 精神年齢そのまんまで(爆×2)。

「梅ちゃん先生」 は、尾崎先生のギャグセンスで笑わせてもらったらそれでいいような気もいたします。

そうそう、「平清盛」 もマーシー様によると面白くなってきたそうですし、なんとなくパッとしない感じの今クールの新ドラマを見るより、こちらのレビューに精力を傾けようかな、などと今は考えております。

投稿: リウ | 2012年4月 5日 (木) 07時52分

ROCO様
コメント下さり、ありがとうございます。

かなり年季の入った渡辺あやサンのフォロワーでいらっしゃったんですね! 私なんぞ 「火の魚」 だけですから、ヒヨっ子ですね。

ただ 「火の魚」 で気になってネットで調べていた関係上、この人が朝ドラのような長編を書くのはとても稀だ、と思っていましたし、このこと自体がかなり貴重なのではないか、とROCO様と同様に考えておりました。

「火の魚」 とこのドラマだけで評価させていただければ、この渡辺あやサンというかたは、人間の本質をかなり的確に把握していらっしゃるかただと感じます。 「人生いろいろある」 ということを実感させてくれる。 洞察力がすごいのか、もしかして読書の量がすごくてここまで分かるのか、ともかくなんか、「神の目線」 を感じるんですよ(オーゲサではなくて)。 上っ面だけのキャラ設定をしてない。

ことこのドラマに関しては、「総集編」 ってとても本来の視聴方法ではない気がいたしますね。 ダイジェストで見るほどもったいないことはないhappy02。 逆に、本編ではカットした部分を全部、ディレクターズカット完全版として見せていただきたいくらい(DVDボックスとかでやりまくりそうですね…笑)。 なにしろ脚本には書いてあるのに削られた部分が多いらしいですから…(展開が不自然なのにはそういう理由もあったんですね)。

もう、あと数年は、こういう質の高いドラマはやらないだろうと、まあタカをくくってますsmile

PS 「おひさま」、確かにウザかったな~、現代編(ハハ…)。

投稿: リウ | 2012年4月 5日 (木) 08時25分

こちら初めまして。やはり、この作品は朝ドラという枠で観ていた人と、その枠を超えた本格大河ドラマとして捉えていた人で終盤の評価が大きく別れましたね。

「一瞬で全てが語られる」というのは同意。147回の譲を慰めたエピは壁の遺影を一瞥した前後で部屋を映すカットのアングルを変化させて「糸子が45歳の譲越しに在りし日の父を見ている」というメッセージを送っており、晩年編開始時点から(一階内装の変化など)布石が敷かれていたのに驚きでした。

DVDで序盤を観直している所ですが147回は第2週の11回と対になっていますね。清三郎氏に小物呼ばわりされ「これからは着物より洋服」と宣告された善作が生気の抜けた顔で、庭で遊ぶ糸子を見ている。残酷なまでのコントラスト。
善作を母親のような視点で見る事が出来るようになった77年後の糸子。着物リフォーム会、「父も呉服屋でした」、譲に投げかける言葉や視線にどれだけの想いが込められているか。もう善作はいないけど、次の世代にその愛情を注いでいくことは出来る。そうやって人の輪は続いていくことまで示しています。

観返すごとに新たな発見があるので当分、中毒症状が抜けそうにありません…。

投稿: 巨炎 | 2012年5月 2日 (水) 19時19分

巨炎様
こちらこそはじめまして。 コメント下さり、ありがとうございます。

こないだようやく、朝の番組で夏木マリサンがゲストで来ていた時の録画を見たのですが、そこで流れた夏木編のイノッチ達が感動したシーン。 こちらも見ていて、「夏木編でもこんなにすごかったんだ」 と認識を新たにいたしました。

「カーネーション」 の喪失感にさいなまれて今クール、さまざまなドラマを見倒しているのですが、それに慣らされちゃってたけど 「カーネーション」 は違う。 まるで違う。 レベルというか、製作に参加している全員の意気込みの立地点からして、もう違うのです。

夏木編を、尾野真千子サンじゃないから、という色眼鏡で見てしまうのは、これはもう仕方のないことです。 確かにすばらしすぎたけれども、この夏木編を、尾野編と重ね合わせながら見ることで深くなる理解が、出来なくなる。

巨炎様はそれが出来ていらっしゃるんですね。

晩年、糸子が善作の母親の立場に立ってしまっている、という視聴の観点は、私にはございませんでした。 巨炎様の理解の度がいかに深いのかが分かります。

今クールのドラマを見る限り、今年のベストドラマの座は微動だにしませんね、「カーネーション」 は(去年もすでに半分の時点でベストドラマに選んでましたけど)。 いや、もうあと少なくとも5年は、このドラマに敵う作品にはお目にかかれない、と感じます。

投稿: リウ | 2012年5月 3日 (木) 05時35分

リウさま。
こんばんは。
いきなりこんなところにコメントつけてすみません。いやあ、NHKオンデマンド(1ヶ月見放題パック)で2ヶ月かけて、全話再視聴したもんでつい。

終わってからまだ3~4ヶ月しか経ってないのに、相変わらず引き込まれ(ま、好きだからね)、新たな発見があるとのは、このドラマがどんだけ名作であるかを物語っております。例えば、後半になるにつれ、重要な意味を持つ「宝」という言葉。これを初めて口にしたのは、聡子が生まれた時の神戸のおじいちゃんだった(宝だ、つながりでしょうか?)ことを再発見し、この「宝」が世代を越えて受け継がれていったことに改めて感嘆した次第です。

また、とにかく2ヶ月で観てしまおうと、時間のあるときに2~3週まとめ見していったわけですが、この作品は、そうした鑑賞方法があってるようです。色々言われた晩年編も、リウさまも書かれていたように、「小原糸子」という類まれなキャラクターの生涯を全うさせるためには避けられない、というか必然だったというのがよう分かりました。

あの夏木糸子のパートは、例えば「あしたのジョー」で力石を失ったジョーが、金竜飛を倒して東洋チャンピオンになってからの話に通じるものがあるのではないでしょうか。ジョーが連載時、私は小学生高学年くらいなのでよくは覚えてませんが、「ジョーがチャピオンになってから面白くなくなった」という話は漏れ聞こえていたような気がします。確かに、初期のやんちゃでハングリーな面はジョーから消え、読んでて決して爽快になるような話ではなくなってきます。それでいて、ハリマオみたいな妙なキャラも出てきますし(笑)。でも、後年、通して読み直してみると、この部分があればこそ、全てが「真っ白に燃え尽きたジョー」というあのラストに結実していくんですよねぇ。

忍び寄る「老い」とその先に待っている「死」を意識しながら、最後の最後まで命を燃やしつくそうとする糸子と、パンチドランカーに蝕まれているのを知りながら、完全無欠の世界チャンピオン=ホセ・メンドゥーサに挑んでいくジョーの姿は、私の中で、どうしてもダブって見えてしまいます。

投稿: Zai-Chen | 2012年8月 3日 (金) 01時20分

Zai-Chen様
コメント下さり、ありがとうございます。

ナヌッ、1か月見放題パック、などとゆーモノがあるんですくわ~っ?
私はテレビ放送など、基本的にタダ見が原則だ、などと考えている民なので(笑)受信料を取った上にオンデマンドでまた荒稼ぎとはど~ゆ~了見だ、という怒りを持ってましたが、認識を改めなければなりません。

でもやっぱり、1か月を過ぎるとその優遇措置もなくなるんでしょうね。 1ヶ月間、ただひたすら見続ければ元も取ったとゆー気にもなるのでしょうけど…(どうもビンボー人根性です)。

Zai-Chen様の 「あしたのジョー」 を絡めたお話には、涙が流れます(ただいま酔っ払っているのでご了承くださいcoldsweats01)。
なにしろ私も、「あしたのジョー」 は青春のバイブルですので…。
いずれかなりまとめた 「あしたのジョー」 序説をアップしようとして、ブログ開始以来3年間、果たしておりません。

で、Zai-Chen様が私より、ちょっとばかり年上だったことをこのコメントで確認したのですが、「ジョー」 の連載が終わったとき、私は小学3年でして、金竜飛との試合後、ハリマオとかかなりカリカチュアライズ気味の話について、当時のフォロワーのかたから直接話をいただくと、かなり説得力がございます。

考えてみれば、カーロスとの試合後もジョーは引退か現役続行か、かなりフラフラしていた時期だと感じるのですが、そこからホセという新たな標的を見据えてからは、物語が一直線にそこに収束していかないもどかしさ、みたいなものを感じますよね。

つまり読者が感じていたイライラ感というものを、当のジョーがいちばんジリジリとして感じていた。

私は葉子が画策したハリマオとの一戦は、ジョーの野生を呼び覚ますには格好の対戦相手かもしれなかったけれども、ジョーのパンチ・ドランカーを進行させてしまった、という意味では、かなりのペナルティだと感じます。

要するに、ジョーは野性味がなくなったとかなんとか言う前に、ホセと闘うと決めた時点で、自分を燃焼し尽くすことを決めてかかっている。

だからこそまわりの心配など、それこそ余計なお世話だったと思うのです。
彼は自分の体調を、誰よりも自分がよく知っていた。
だからこそ野生の動物が自分の死期を悟ると、死に場所を求めて忽然といなくなる、のと同じようなトレーニングの仕方をした、と思うのです。

やばい…。

「ジョー」 について語り出すと、かようにネバーエンディングになってしまうので、強制的にここでやめます。

やはり 「大きなチョコレート」 は、最後まで残しておかなければ…(笑)。

…なんの話でしたっけ?(爆)

そうそう、私たちはみな、糸子と同じなんですよ。

みな、「死」 という避けられないゴールに向かって、歩いている旅人。

死に向かう道程が、「何もかも失っていく過程」 なのか、「仲間を増やしていく過程」 なのか。

前向きに生きる、という意味は、人によってそれぞれでしょうけれど、自分のパーソナリティにとっていちばんベストだと思える 「前向き」 を、選択していきたいものです。

「カーネーション」 はそのケースパターンのひとつ。

私はそんなふうに、考えています(ヨッパライの戯言、長くなりすぎました…酔っ払っての返信、大変失礼いたしましたthink)。

投稿: リウ | 2012年8月 3日 (金) 08時03分

リウさま
早速、返信いただきありがとうございます。

いやあ、オンデマンドに関してはですね、正しいカーネーション「信者」(笑)としては、ちゃんとDVD買わんといかんのでしょうが、いい加減ウチの棚も色んなビデオやらDVDやら貯まって嫁もいい顔しませんし(爆)、DVDなら3万円以上かかるところが、オンデマンド見放題パックなら月々945円!(て、なんで私がNHKの宣伝せなあかんのでしょう・・スンマセン)という、それこそビンボー人根性ですよ。まあ、おかげで見逃していた他のNHK番組も観ることができました。内野聖陽サンの「蝉しぐれ」、よかったです。

「あしたのジョー」に関しては、私もエンドレスになりそうなので、リウさまの「序説」がアップされたらゆっくり語り合えたらなぁと思っています。その際は、是非、よろしくお願いします。

ただ、カーネーションとの絡みで言うと、晩年編で、糸子がブランド立ち上げで無理をして、膝がアイタタとなって倒れ、「見たくない。 おばあちゃんが苦しんでるところ…」と里香から泣かれた時の糸子の言葉、「人間、ほんまに、夢中な時は、苦しそうな顔になるもんなんや。」と、カーロス戦の直後、紀ちゃんから引退勧告されたときのジョーの答えが重なります。このとき、ジョーは初めて、真っ白な灰になるまで燃え尽きる、という、余りにも有名になったボクシングへの動機を語っているんですよね。カーネーションのあの場面を観て、で、今回また改めて観て、「ああ、これやこれ」と思ってしまいました。まあ、何が「これ」かはようわかりませんが。

渡辺あやさんって、歳は確か私より一回りくらい下で、どちらかと言えば芸術家肌な印象があったのですが、カーネーションを観て、ちょうどコノくらいオヤジを引き込むストーリーテリングの才能を、とてつもなく持たれている方だと思いました。梶原一騎の世界然り、他にも、松竹新喜劇とか寅さんだとか。一体、どういった経緯でそうしたセンスを身につけられたのか、あるいは天賦のものなのか、一度、お話を伺ってみたいものです。

投稿: Zai-Chen | 2012年8月 3日 (金) 11時50分

Zai-Chen様
コメント下さり、ありがとうございます。
ジョーについて書きたいところなのですがcoldsweats01、ただいま時間がございません。 また明日の朝にあらためて返信いたします。 ご了承ください。

投稿: リウ | 2012年8月 3日 (金) 15時04分

Zai-Chen様
前回は酔っ払っての返信、大変失礼いたしました。

てゆーか(笑)

私この時間帯のコメント返信って、基本的に夜勤を終えたあとの晩酌のあとで返信しているために、心もちほろ酔い気分で書いているんですよ。
ただ昨日はちょいと、へべれけになりすぎました(反省…)。 自分のコメントを読み返してみたら、「かなり」 という常套句が 「かなり」 頻発していました(好きなんだよな~、「かなり」 って言い方…笑)。

それはそうと。

DVDって、私の場合基本的に、買ってもほとんどリピートしないんですよ。
ジブリのアニメなどはそれこそリピートしまくっても何回も楽しめるのですが、映画なんかは自分がかなり気に入ったものでないと、せいぜい2回が限度です。

しかも最近じゃBDなるものが台頭してきて。
あれを見ると、もうDVDを大画面で見ることは、出来なくなりますよね。

だからオンデマンドって、結構いいのかもしれません。
いや、いちばんいいのは、HDDだと思います、個人的には。
あれはDVDみたいに場所を取らないし。
焼いたDVDが視聴不能になる危険性も少ない(これ、私の場合、かなり頻繁にあるんです…weep)。

私の場合は、まだDVDに焼き直してないVHSが、本棚へきれいに飾ったままであります(笑)。

で、「あしたのジョー」 序説ですが(笑)、そう簡単には出来ないと思いますので、半分以上あきらめながらお待ちくださいませ(い~かげんでゴメンナサイ)。

紀ちゃんとの 「最後のデート」 は、私もかなり好きなパートなのですが、それと糸子のセリフを結び付けてしまうZai-Chen様の、「ジョー」 フェチぶりに 「負けた…」(笑)。

私が考えている 「ジョー」 序説では、葉子と紀ちゃんとの恋愛パワーバランスとか 「すり替え」 による達成感とか(笑)。
なにしろ20年以上前に書いたやつを完成させようとするのですから、かなり大変です。

渡辺あやサンを外野から眺めておりますと、なんかこの人は、80年代以降の軽薄短小メディアに、あまり興味を持たないで人生を生きてこられたような感じがします。
都会を嫌ってどこぞの島に活動拠点を移してしまっている、というのも、この人が物事の表面に気を取られるのではなく、本当にいいものを自分で分かっている行動の一環であるような気もします。

投稿: リウ | 2012年8月 4日 (土) 08時25分

リウ様
こんにちは。

ハイ、気を長~~~~~~くして待ってますので、大丈夫ですよ(笑)

DVD、確かに買っても観ませんねぇ。特に最近は、1000円くらいの廉価版で、かつての名作がリリースされているので、衝動買いを抑えるのに大変です。

ところで、渡辺あやさんのお住まいは、「島」根県のようです。雑貨屋さんをされており、普段は全く普通の人として暮らしているようですね(以上、Wiki頼みの情報です)。

この方の経歴で特徴的なのは、大学卒業後、ドイツで5年過ごしたり、シナリオライターになるきっかけが、映画監督の岩井俊二さんのサイトへの投稿だったりと、いわゆる「ギョーカイ」の養成システムを経ないで、世に出ているということです。

渡辺さんの作品でよく言われる「容赦なさ」や「ザラッとした」ものって、何か、「ギョーカイ」の掟やしがらみにどっぷり漬るとスポイルされてしまうもののような気がします。特に、具体的な「映画業界」や「放送業界」が「ギョーカイ」というカタカナ言葉で言い表されるようになった80年代以降は、なおさらですね。他に生活の糧を持っているというのも、本当に納得できる物だけを作っていく、という上での大きな強みになっているのかもしれません。

まあ、それもこれも、才能あっての賜物なんですがね。

投稿: Zai-Chen | 2012年8月 4日 (土) 14時39分

Zai-Chen様
レス下さり、ありがとうございます。

ややっ、島は島でも、「島根県」 だったか…。 不覚です。 なんか 「火の魚」 と同じような場所に住んでいる、みたいな記憶があったのですが、勘違いだったかな。

昔は私も、映画のリピートというものは、かなりしたほうです。
特にチャップリンの映画とか、黒澤明の映画など。 「生きる」 など、何度見たか分かりません。 マルセ太郎サン並みに覚えてた(笑)。

でも、最近の映画では、いくら傑作だと思っても、ホントに何度も見ようと思わないですよね。 不思議です。

もしかすると映画のリピートって、若い頃だけの特権なのかもしれないなぁ。

本当の意味でこの映画はすごいな、と思ったのは、先ほどレビューのなかにもチラッと書いたんですが、「ダイ・ハード」(1)が最後だったのではないか、って感じています。 テレビでやると見るほうですね。 もうこれも、10回近くは見ているかもしれないです。

「カーネーション」 に関しても、やっぱり傑作と認識しながらも、そう何度も見たいとは思わないだろうな、って感じています。

渡辺あやサンの次回作には、また期待しまくりですけど(笑)。

投稿: リウ | 2012年8月 4日 (土) 22時59分

いよいよ第26週です。
といっても、まず第148回の周防関係限定で。

私は周防龍一本人より娘の川上さんの方が感情移入しやすかったです。実話で優子と同い年だったのを2歳年上の当時13歳にしたのがポイントでしょうか。ギリギリ、世間というものが見えてくる年齢(逆に成人後の優子の外面の良さは、この時の経験が影響した?)。

当時の糸子「周防さんの家族にも責任持たせてもらいます」。
川上さん「父が一時、先生の所でお世話になっておりました」。

愛を金で買おうとする糸子は傲慢の極致に達しておりますが(笑)、そんな悪女の庇護や援助なくては立ち行かなくなっていた周防家の経済的窮状、またそれを免罪符にして小原家に入り浸る父の醜い側面まで(弟と違って)見えてしまう。
「せめて良い人であって欲しい」
と自分を無理に納得させてきたのがうかがえました。糸子が話をふらなければ、名乗るつもりは無かったし、あの辺りの感情の揺れ動きは見事。

後半、泣かせる時には前半で笑いを取るのがお約束。優子からの電話を糸子がケータイで受ける場面、フォーカスを絞らず後方の孝枝さんをしっかり映す。いやー、表情から何を考えているのか手に取るように解る(笑。晩年開始時点でこの人が老いてなおヤンチャな母親に振り回される娘さん的キャラに化けるとは誰が考えたでしょう。

そういや里香との別離の場面で
「アンタ、綺麗やなぁ…」と言っていますが、
孫も35歳=周防に恋をして千代さんに同じ事を
言われていたのを思い出した?

里恵の方は太郎と同じで子役時代だけ輝いてました。
第127回は第1回の糸子へのオマージュカットもあるのですが。

>DVD
私は結局、買いました(笑。
ちょっと良い点と悪い点を…。

【良い点】
場所を取らない。1ケースにDVD二枚収納なので
予想の半分ぐらいのスペースで済みました。

【悪い点】
配分の悪さ。DVD1枚に2週ごと芸無く収録しているので周防編の第17週がBOX3に入ってしまいます。観る人を選び始めるのが第17週からと言えなくもないですが、BOX2を買ったら最後までという商業的戦略にも見えます。個人的には第13~15週までを一枚にまとめ、BOX3の5巻に三姉妹編の第18~21週、7巻に晩年編第22週~26週で間の6巻に第22週と特典映像を集めて欲しかったかな?

パッケージの統一感の無さ。ケース6巻までは尾野糸子がミシンの傍に寝そべっていて、7巻だけ夏木糸子&ミシンの写真というのが訳解らん…。手を抜くなら尾野糸子&ミシンで統一して欲しいし、凝るなら、それぞれの時代&年代の糸子の写真にすれば良いのに…。

投稿: 巨炎 | 2012年11月 7日 (水) 18時08分

巨炎様
巨炎様が初めて当ブログにコメントをお寄せいただいたのが、この記事だったのですね。 あ、遅れましたがいつもコメント下さり、ありがとうございます。

それにしても、DVDボックスですか?ご購入されたとか。 ビンボー人の私にはうらやましい限りです。 ドラマのDVDボックスとか、平気で4、5万しますからね。 私はせいぜい、CDボックスセットみたいなヤツに7、8千円かけるのが関の山です。 ちなみに最近、ユーミン(荒井由実時代)のボックスセットを買いました(ビンボー人が張り合っとる)。 アマゾンで松任谷時代も含めた近々出るベスト盤を見てたら、そっちのほうに目が行って(笑)。

話がそれまくっとるがなcoldsweats01ゞ。

「カーネ」 のDVD、特典映像とか、見てみたいものです。 NG特集とか?(ハハ…)

でも、本編でカットされた部分とか、このドラマすごいありそうな気がするんですけど。 その部分の特典かな?

周防に関しては、リアルで見ていた時は、かなりどうとでもとれる描写の仕方をしてるな~、と感じていました。 意図的に周防自身の本音を語らせない、というか。

だからあとから思い返すと、巨炎様のように、結構小狡いと感じる面も無きにしも非ずです。

ただこのドラマの語り手は、周防の人となりよりも、こういう、「自分勝手」 とも言える恋愛を糸子にさせることによって、人がどのように傷つき、どのように成長するのか、という点により着目していた気がするのです。

しかし、ピンクの電話の都チャンのピンぼけした姿にまで神経が行き届いているんですもんね(笑)。

このドラマ、私が巨炎様から頂いた初めてのコメントに返信した時の言葉を繰り返しますが、「レベルがほかのいかなるドラマに比べても、立地点からして違いすぎる」。

巨炎様からコメントをいただいて振り返るたびに、このドラマの 「巨人」 ぶりを再認識させられ続けてきました。

…まとめに入っちゃってるけど(笑)、今回は周防近辺だけのコメントらしいので(笑)、まだまとめるには早いですねcoldsweats01

投稿: リウ | 2012年11月 8日 (木) 08時23分

さー、いよいよ再見ラスコメ(多分)。

本作を第22週までという意見は未だにあるわけですが第127回に感動できるのは小林薫サンの再演に依る部分が大きく、糸子はにわかに浮上してきた東京行きの話を断ってるだけ。勿論、そういう「なんとなく言い終わり方」の朝ドラは多数ありましたが、それでは本作は徹頭徹尾、善作で終ってしまいます。あくまで主人公は糸子。ここで用いられたのは主人公が父の存在を生涯かけて追いかけていく「ゴッドファーザー」的シナリオ構成。
尾野糸子後半には善作を回想したり遺影にモノローグで語りかける場面が頻繁に見られますが、夏木糸子に変わった途端、激減してしまいます。一方で糸子の容姿や口調はますます善作に酷似していき(この辺りが単純に尾野糸子の延長を見たがる視聴者とのズレを生じていた所)、脚本的にも裏づけされます。

実は栄之助との絡み~ブランド創設までの流れは
前半のミシン購入の展開をなぞっているのです。
第4週、「お父ちゃん!」⇒「あかん」(即答)
話を聞きながら怒りのボルテージを上げていき、
「ワシを舐めとんのかー!」。
第23週、「助けてください先生」⇒「嫌や」(即答)
三色染物を見ながら怒りのボルテージを上げていき、
「商売、どんだけ舐めとんけー!」。
しかし最終的には善作も糸子も、それこそ
身銭を切って若輩者の意見を容れていくわけで。

そして第26週、二階リフォーム直前と譲達とのやり取りの最中、遺影を無言のまま一瞥。これは今までの糸子には全く見られなかったしぐさ。晩年に入り勘助や玉枝さん、根岸先生の存在をチラつかせてきましたが、やはり最後は善作でした。
第21週の引退劇を「善作の模倣に過ぎない」と否定的ニュアンスを込め、第146回にインタビューを通じ人生経験を語らせたのは偶然ではありません。40年前の自分は「カッコいい引退」という自分本位の考えに捉われていた事に気付いた糸子がここで行った二階改装こそ父の行動の本質を理解し自分流に昇華させた行い。明らかに死期の近づいた自分より後の世代にだんじりを楽しんでもらうのが主目的であり、
「看板を残して家を出た善作」に対して、
「サロンを残して世を去る糸子」という訳です。
しかも、そこに不吉なものを感じるのは
視聴者のみ(=周囲の人々に不安を与えない)。
一方で90年間、自分を育んでくれた空気や空間は向こうの世界に持っていこうとしていたように見え、善作でこれに該当するのは…電気扇?再見時にアレ?と思ったのは冬の引越しなのに電気扇を持っていったのが後に木之本の台詞から判明した事。これは夏場に使って余程、気に入ったのか娘の親孝行の証な餞別というニュアンスか。
善作=電気扇を持ち去り、張り紙を引き剥がす。
糸子=二階の空間を持ち去り、天井や畳を引き剥がす。
糸子の方がスケールがでかくなっているのは、
父より30余年、長く生きた人生経験のなせる技か、
または糸子の方が欲の皮がつっぱているという事?(笑。

第146回の後に第147回の内容がくるのは、やはり
第7週で善作が見せたカッコよさは
第2週でカッコ悪い自分と向き合った
スタート地点あってこそという意味でしょうか。

善作と糸子の親子対決で幕を開けた「カーネーション」は名優・小林薫に尾野真千子が挑んでいく話でもあり、彼らが舞台を降りた後まで、それは続いていたような気がします。
第22週の時点でも、まだ小林サンの方が上。しかし尾野サンの全力の演技そのままに小原糸子は全力で生き、その過程で沢山の宝を得てきた(←綾子さんが実際に述べられた言葉とか)。
晩年開始時点では孤独を紛らわすためといった防御的ニュアンスの「宝」が、肉体の衰えと並行して心の深層に根ざして糸子の内面を豊かにし、時代や世代が様変わりする中を前向き生きていくためのアグレッシブな意味に変化していく。
この渡辺あやサンの構成力。エンディングクレジットの「尾野真千子」の名を見た時に、これを加味する事で小林サンと対等の所まで尾野サンを持ってきたという印象を受けました。

「カーネーション」終了後も尾野サンの周囲は
公私共になかなか賑やか(汗)になっていますが、
大女優の生涯を振り返った時、「波乱万丈」は
あっても「順風満帆」等と言う言葉はまず無い。
尾野真千子が晩年の糸子を思わすような役柄を
自ら演じる時まで一線に立ち続ける事を祈りつつ
「カーネーション」最終コメとさせていただきます。

投稿: 巨炎 | 2012年11月18日 (日) 12時45分

巨炎様
いや~、とうとうラストコメントですか…。 「カーネーション学」 とでも呼べるような深い考察をしてくださって、感謝しております。

このドラマにおいてとても徹底していた、と思われるのは、巨炎様のご指摘の 「死者との対話」 であったように思えます。

あの世からこの世を見ている、遺影の中の人々は、何も語ることがない。

でも、とても不思議なことに、糸子の様子を見ながら、怒っているように見えたり、笑っているように見えたりしていた。

これはちょっと、スタッフさんに訊いてみたいことのひとつですね。

「遺影ってそのつど、微妙に表情の違うものを差し替えていたのか?」 って。

そしてこの 「死者との対話」 を徹底させることによって、実は自分の人生というものを、あの世から、自分の遺した子供たちによってもう一度総括させていく、という視点を作り出していたように思うのです。

人は誰でも、自分の親という存在と闘っている部分があります。

自分がどんな人生を送ったかで、親に対して顔向けができるかそうでないかが決まっていくものだ、と思うのですが、親にとってみても、子供がどれだけ人生を謳歌したかを見極めることによって、自分の人生そのものも、価値が定まってくるように思える。

これって死んだ人の話だから、実際あの世があるかどうかも分からないし、すごく不確定なお話ですけどね。

でももしあの世があるのだ、とすれば、自分の人生というものは、やはり何を残すことが出来たのか、という一点で価値が決まってくるものなのだろう、と思うのです。

善作はその点で、糸子という子供を得ることが出来、それによって自分の人生も昇華できた部分があるように感じます。
それは糸子以外の娘たちが、どのような人生を歩むことが出来たか、もきちんと見守っているように思える。
そして自分の女房である、千代が、自分が死んだあとどういう人生が送れたか。

それが敗北ではなく勝利だった、と分かったからこそ、善作は最後にあの世から千代をねぎらいに来たのだろう、と。

糸子にとっても、自分の産んだ子供たちや、自分が築き上げた人脈が、小原洋装店のサロンでだんじりを見に来てくれることに、あの世から人生の価値というものを見い出そうとしている。

たまたま娘たちが世界的デザイナーになったから、こんな朝ドラで取り上げられるようなお話になったのだと思うのですが、でもこのお話の核心にあるものは、「いかにして人生の価値というものは決まるのか」、ということに真摯に向き合った末に出来上がったものだ、と思うのです。

そしてそれが、常にあの世からの視点である、ということは、言えるのではないかなと思います。

人というのは、行き先を見据えながら、そして見失いながら、生きていくものです。

でもどんな人生だって、意味というものは最後についてくる。

オノマチサンの人生だって、私たちの人生だって、この先よくなるのか悪くなるのかは、結局自分にかかっている。

どうも話が抽象的になってしまいましたが、「せっかくいただいた人生、生き切る」 ことが出来ればな、と感じるのです。

投稿: リウ | 2012年11月19日 (月) 08時54分

再放送も今週で終わりですね。

面白いと思ったのはリウ様の御指摘にあったマクロとミクロの視点でしょうか。社会的成功と良き家庭人という部分を分けたのは「ふたりっ子」辺りが先駆ですが「カーネ」はそれをさらに昇華させている。前半の先人の中で「公」の頂点にいるのは清三郎ですが「私」の頂点にいるのはハルさん。ここで面白いのは本来は家庭に収まるのが分相応のはずの優子が清三郎の地位まで辿り着き、祖父から商才を受け継いだ糸子の到達点がハルさんである所。例によって原因は四人の起点になっている善作ですが。

個人の力量や才能にはやはり限界があり清三郎も丁稚から貞子さんの婿候補までは自力でのし上がったらしいですが当主までは先代の引き上げ。糸子の場合は娘を送り出す善作が基盤を完全に固めてやれなかった。
善作が清三郎も一目置くような呉服屋なら
「パッチ屋修業したかったら女学校もちゃんと卒業せぇ」
と言っただろうし、根岸先生への師事はミシンどころか学費と生活費を渡して
「店は静子に婿でもとって継がす。お前はその先生に東京までついていって勉強できる事を全部、勉強してこい」
「さすがウチのお父ちゃん!太っ腹や!!」
でおしまいですよ。この場合は糸子が看板に固執する理由もなくなり糸子の代で優子レベルの成功があったかもしれません。

善作にはそんな力が無かった故に根岸先生に土下座、反物を全て売り払ってミシン購入となるわけですが
呉服屋として没落しながら親の器量は逆に磨かれている。
「己を殺してでも我が子を送り出してやるのが親の責務」
というハルさんの境地に50歳でほぼ到達している。
この善作‐ハルさんのラインこそ糸子が後半生で辿る道でした。

投稿: 巨炎 | 2014年9月23日 (火) 18時09分

ただ正司照枝さんに晩年糸子を演じて欲しかった等の意見には賛同できないのですよね(「すずらん」では母と主人公の晩年を倍賞さんが演じてますが)。ハルさんは一貫してミクロの世界の人ですが糸子は基本、マクロ。

晩年編滑り出しの頃の仕事内容で自分に満足するのなら家庭というミクロ世界の守護神、所謂、朝ドラ王道のお婆ちゃんでも結構。しかし、おしんですら隠居の御意見番という年齢になっても糸子は公的に積極的に活動している。若い視聴者はこれがどういう意味を持つのか考えないのでしょうね~。

ハルさんは「神戸いっちょいで」と包容力の中に力強さを感じさせる言葉で送り出してくれたのに対して、糸子は「こんな所におらんでええ。アンタは東京、帰りや」と孫の気持ちを拒絶するように突き放している。糸子はマクロの人であり男尊女卑の時代から公の場で男と渡り合ってきた糸子の本質は父性なんですね。

投稿: 巨炎 | 2014年9月23日 (火) 19時17分

ハルさんが、どういう経緯でハルさんの境地に
達しているかは全く描かれていませんが
「善作は結構、ヘタレ」
「ハルさんは商売や銭勘定の結構、煩い」
「旦那はかなり早く亡くなったらしく会話に出てこない」
これらの要素にもっとも近いのは、やはり玉枝さん。
ハルさんも善作が呉服屋の看板を立ち上げる
前ぐらいまでは何か仕事をしていたんでしょうね。

三姉妹編の頃の糸子は
「夫を亡くして女手一つで家庭を守る職業婦人」
として玉枝さんや八重子さんに比べて相当問題アリ。
天賦の商才と男と対等以上に渡り合える覇気を
考えれば家庭人として欠けた所があるのも当然ですが
優子に「才能以上の生き方」を要求しながら
自分は「才能止まりの生き方」をしているともとれる。

そんな糸子がハルさんの境地に到達するには
「公」における才能差を埋めた優子に逆襲される経験と
「私」における玉枝さんとの関わりの二本のラインが必要。
公的業績では祖父や娘には及びませんでしたが
清三郎が隠居した年齢でも現役で活動しているわけですから
「私」において「公」の才能を与えてくれた祖父を超えたともいえるでしょうか。

投稿: 巨炎 | 2014年9月23日 (火) 19時29分

巨炎様
濃密なコメント下さり、返信にだいぶ躊躇します(笑)。

巨炎様の 「公」 と 「私」 の理論を私なりに咀嚼してみますと、「公」 の最大の存在、というのは、やはり糸子の三人の娘たちだと思うんですよ。 小原家の系図のなかで社会的に最も成功し、名声を得ている。

しかし、世間的な地位や名声に勝てるものは何か、というと、「私」 の存在感だと思うんですよね。 この物語における最大の 「私」 は言うまでもなく、小原糸子だと思う。 このドラマの最大の根幹は、「世界的名デザイナー三姉妹」 と 「おかあちゃん」 との食うか食われるかのガチンコ勝負である、と私は考えています。 その怪獣に(笑)娘たちは、3人の各々の個性をより集めてしか、対峙する方法がない。

そしてこのドラマの底辺にずっと流れているものは、「ひとのなりわい」 だと思うんですよ。 どんな人でもその人なりの人生を一生懸命生き、そして死んでいく。 時だけは、どんな人にも、平等に流れていく。 振り返ってみるとき、その人の存在というものの重みがどのようなものであるのかを、残された者たちは悟ることが出来る。

その、「生きていた人たちの余韻」 を余すところなく伝えていたのが、小原家の鴨居の上に鎮座していた、遺影なんだと思います。 このドラマはいつも、生きている人(糸子)が死んでいる人(善作)に、語りかけ続けていた。 そして糸子が亡くなったとき、その状態は劇的に逆転し、死んだ人(糸子)が生きている人(娘たち)に語りかけるドラマへと豹変する。 このドラマは、その奥底に、限りないマクロの視点が存在しています。 「時の流れの中に、現れては消え、そして過ぎ去っていくもの」 を表現しようとしているようにさえ見える。

某亀和田武氏に 「エセインテリ」 などとひと括りで批判されてしまったように思えるワタシですが(本日発売の週刊文春参照…笑)、「エセインテリ」 なりにこのドラマのすごさを、もう一度考えてみました。

投稿: リウ | 2014年9月25日 (木) 08時38分

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