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2012年4月

2012年4月29日 (日)

「梅ちゃん先生」 第4週 とりあえず、またしてもさらにもう1週見た感想です

 どう評価していいものやら分からない、とばかり思われていたこのドラマですが、第4週目の後半に入ってから、何か仕掛けが少しずつ動き始めた気がします。

 この、第4週の前半。
 「また今週も先週と同じか」 というエピソードが満載でした。
 まず受験結果を見に行った下村梅子(堀北真希チャン)が、「1」 と 「7」 を間違えていったん 「落ちた」 と思い込んでしまう、という話。
 1度目と2度目とで、明らかに字が改竄されているんですよ。 巻き戻して(表現古い…)見るまでもなく。
 こういうことされると、「あ~あ」 って思っちゃいますよね。 「なりふり構ってらんないか…」 by葛城ミサトみたいな(ハハ…)。
 で、なんか 「おひさま」 の 「白紙同盟」 みたいな?女子医専での友人たちとのエピソード。
 これもかなりベタで。
 もう前半は、見ながら寝まくりまして(笑)。

 ただ、半分寝ながら考えていたのは、「どうして梅子はこんなにいつもずれてしまうんだろう」、ということ。

 家庭の経済状態に思いをいたしながら、制服を買い控えていたら、思いのほか簡単に親に買ってもらえちゃったとか。
 班の結束を固めようと、横須賀まで海軍の遺した医療品をみんなで運んでこよう、と言い出して、友人たちから却ってヒンシュクを買ってしまったとか。
 なんか一生懸命なのは分かるのに、どうしてもっとうまく出来ないの?そつなく出来ないの?みたいな。 無理に話を作ってる感がハゲしいな桜井クンつーか(マニアックなネタばかりでスイマセン…)。

 海軍の医療品の話では結局、班の結束を固めることができます。
 その話の持って行きかたも、もうちょっと工夫して話を作れよな、と言いたくなるような解決の仕方なんですよ。 別にここで書く必要もないでしょう。
 こんな調子でずーっとやられるんならもう、…とりあえず来週までは見てやるぞという気持ちが固まりかけたとき(なんやねんソレ)、友人たちは梅子の家になだれ込むのです。

 友人たちは梅子の父親建造(高橋克実サン)の素性が気になって下村家に押しかけたわけですが、そこでヒポクラテスの少女たち?が感銘を受けたのは、カタブツの建造が語る医師としての心構え。

 「まずは、医者を聖職とは思わないこと。 (「聖職だと思うからやっていられるのではないか?」 という友人の質問に)いや…人間対人間だと思うから、やってられるんです。

 しかし、人間というものは厄介です。 病気と同じくらいに。 いやそれ以上に厄介かもしれない。

 (「そんな人間とどう向き合えばいいのか?」 という問いに)自分も厄介な人間ですから、いい勝負です」

 父親の心のうちにあった思いを意外な気持ちで聞いた、梅子なのでした、つー感じなのですが(ハハ…)、それでも自分の失敗話を暴露されてムクレ気味、という、これまた陳腐な描写を厭わないんですな(笑)。

 でも、この建造のセリフは、このドラマを見ていて初めて心に引っかかった言葉、と言いますか(笑)。

 すると間髪を入れずに起きたエピソードで、またちょっと注目すべき事態に。

 友人たちと外食中、パンパンガールの話題となるのですが、彼女たちを一方的に嫌悪するには当たらない、という論調になってきます。
 梅子がそれとなく、話題となっているパンパンガールの足元を見る。
 すると、かなりくたびれた草履をはいて、しかも泥まみれなんですよ。

 なんかいつもちょっと自分のやる気がかみ合わない、ずれ気味の梅子が、ここで 「厄介な」 人間への観察力を養っていく、重要なシーンだと感じました。
 そこで梅子は、かつて自分が助けた定食屋の娘を見かけ、追いかけるのですが、パンパンガール達の摘発に巻き込まれて、その娘と一緒に警察に連行されてしまう。

 梅子は父親に連絡したら、とその定食屋の娘から言われ、ちょっと躊躇します。
 ん~、当時の連絡方法ね…。
 どうすりゃいいのか私もはたと考えましたが、迷うこたない、連絡できればすれば?という事態です。
 でも梅子は躊躇する。
 父親に心配をかけまいという気持ちからです。
 ここでもなんか梅子の行動にずれを感じるのですが、話は有無を言わさず建造を登場させ、「自分の心配なんか関係なく、親は自分を助けてくれるものなんだ」、と気付く、梅子なのでした、つー展開に。

 これは先の制服のエピソードと合わせて、梅子に現在家出中の兄竹夫(小出恵介サン)を家に呼び寄せようとさせる動機を作っていきます。 お父さんはお兄さんを怒ってなんかいない、心配してるんだ、というように。

 兄の説得中に梅子が遭遇したのが、隣の工場の鶴チャンの息子、松坂桃李クンです。
 桃李…って、桜梅桃李の桃李ですよね? 他人にはそれぞれ、その人なりに花を咲かせる機根が備わっているのだ、という、深い言葉です。
 それはさておき、彼は自分とオヤジが開発した、焼夷弾?の欠片を基にしたライターが闇市で売られているのを見て、持ち逃げされてしまっていたそのルートを思わず露天商のニーチャンに詰問したところ、袋叩きに遭ってしまう、という展開で。

 竹夫が現在頼っている闇市の顔役鶴見辰吾サンによってその事態は収拾されるのですが、梅子に付き添われて帰ってきた松坂クンは、「のど自慢」 大会に出場できるといって浮かれていた父親の片岡鶴チャンに 「そんなに金が欲しいのか? そんなに楽したいのか?」 と詰問され、反駁する。

 「そんなんじゃねえ!
 …オレは諦めたくねえんだ。
 オヤジはすぐ諦める。 『仕方ねえ仕方ねえ』 って…。
 『それが自分らの生きかただ』 って。
 歌だってそうだ。
 『あきらめる』 だの 『どうせ』 だの。
 そんなことばっかりじゃねえかよ。

 …『地道』 と、『あきらめる』 は、違うだろ?」

 鶴チャンはのど自慢用に、あきらめ節を歌う予定で、いつも大声で歌いまくってたんですよ。
 いつも意気軒高だった鶴チャンは、息子のその言葉にいたくショックを受ける。
 かなり前に仕込んでいたライターの一件でしたが、ここでこう展開してくるとは。

 鶴チャンはふさぎこんで自分の人生を思い直した結果、のど自慢大会で諦め節ではなく、「復興節」 を歌うことになる。
 この 「復興節」。
 私の記憶が確かならば、これは戦後のことを歌ったのではなく、関東大震災の時の帝都復興を歌ったものであります。 知識としては知っていましたが、元曲を聞くのは初めてでした。

 梅子はふてくされてそれを聞こうとしない松坂クンを促します。 「家族が一生懸命何かをやろうとするのを、応援しないでどうするの?」。

 なんか初めて、梅子の思いが 「ずれ」 を感じることなくスッとこちらに入ってきた気がしましたね。
 もしかすると脚本の尾崎サンは、そこまで計算していて、梅子のそれまでの行動をここまでぎくしゃく感漂うものにしていたのかもしれない。 そんなことを感じました。 買いかぶりすぎか?(笑)

 鶴チャンは歌い終えた後、息子に向かって叫び続けます。

 「信郎! 聴いたか!
 諦めないで、諦めないで頑張ろうな! 信郎!
 信郎! 信郎! 諦めんなよ! 信郎! 信郎! 信郎!」

 この場面を見ていて私が連想したのは、黒澤明監督の 「生きる」 でした。
 自分ががんでいくばくもないと知った志村喬サンが、自分から離れていく息子の光男に、心の中で必死ですがりついていたセリフです。 「(光男…光男…光男…)」。

 それと前後して、梅子の姉のミムラサンはこう梅子に語っていました。

 「みんな変わろうとして必死なのね。
 私はちっとも変われない」

 新しい職場で、上司(平岳大サン)のパワハラ?に疲れていたミムラサンの、心の奥からふっと出たセリフでした。
 どうもこのドラマ、無造作に投げ捨てられていたような場面のひとつひとつが、意味を持ち始めたような気がしてきた。

 梅子はそんなミムラサンとおばあちゃん(倍賞美津子サン)と共謀して、ひと芝居打って兄の竹夫を家に帰らせようとします。
 呆れかえって 「この家はどうなってしまったんだ!」 と嘆く建造。
 でもここで、またもや梅子がしゃしゃり出てくるのです(笑)。

 「どうもなってません!

 竹夫兄さんは、自分の生きる道を見つけようと必死だし、松子姉さんだって家族のために何かできないかって手伝ってくれたのよ。 ちっともおかしくない!

 私は、竹夫兄さんも、松子姉さんも好きです!
 それに、…お父さんも好きです。

 いつも、ちゃんと私たちのことを心配してくれている、お父さんが好きです。

 だから、お父さんと竹夫兄さんが、仲良くできたらいいと思っています」

 建造は折れて、自分のいない時だけ竹夫を家に呼んだらいい、と不器用な方法で許すことになる。

 梅子がやっていることにずればかり感じていた私でしたが、なんかここでも 「三文芝居」 を画策しながらも 「人を動かそうとする言葉」 を持ち始めている梅子の成長を、見た気がしたのです。

 もしそうだとすれば。

 前フリ、長すぎだっつーの!(爆)

 しかも1週間通しで見てないと分からないし(笑)。

 また来週も、見る羽目になりそうです(ハハハ…)。

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2012年4月27日 (金)

「もう一度君に、プロポーズ」 第1回の再放送(1時間短縮版)を見て

 キャンディーズのスーちゃんの追悼番組にうっちゃられて第1回を見なかった 「もう一度君に、プロポーズ」。 私にとってはなにを差し置いてもキャンディーズですから(ハハ…)。 しかしそっちの録画もまだ見てない。 見たら(スーちゃんが死んだことを)認めねばならんっ!(これを星飛雄馬のセリフだと気付く人はかーなーり鋭い)。

 星飛雄馬はさておいて(笑)、うっちゃったほうのドラマを 「再放送やらないの?」 というツイッター風の記事を立ち上げたところ、ものすごく反応がありまして。

 で、再放送を見たわけですが、これが当然のことながら、1時間の短縮バージョン。
 それを見た感想ですので、もしかすると見当外れの考察を加えるかもしれません。 そこはあらかじめご了承頂きたいと思います。

 まず外郭的な部分から攻めていきますが、今クールのドラマ、推理物とか事件物があまりにも多くて、こういう純愛物のドラマがとても新鮮に映る、ということは感じました。
 その内容についてですが、これってかつてのフジテレビ月9をかなり意識しているのではないか、と。
 放送時間帯も、「こっちが日曜夜9時枠で、『ATARU』 のほうが金曜10時ドラマだろう」 ということも感じた。 日曜の夜に(私は夜勤でその時間帯見ることが叶いませんが)こういうしっとりとしたドラマをやったほうがいいよなあ、と。

 出演者についてですが、主演の竹野内豊サンは、その当の月9傑作ドラマ 「流れ星」 での演技が未だ記憶に新しい。 彼が出てくる恋愛ドラマなら、という期待が私にあったことは事実です。

 そして相手役が、和久井映見サン。
 彼女って、同性に結構安心感を持って受け入れられるキャラクターなような気はするんですよ。 あまりギラギラとしたものを感じない。 いつも自分の立場をわきまえて行動しているような感覚がある。
 その彼女、私はこのところ、あまりきれいだなと感じたことがなかったのですが、今回のドラマではもう、どこがどう変わったのか?というくらい魅力的でした。
 おでこを隠してるからかな。
 あの髪形は、「タッチ」 の南ちゃんを想起させますね。
 つまり、前時代的な 「おとなしめの女の子」 なんですよ。 それが今回の安心感を醸し出している気がする。 これは私がその年代だからそう思う、ということでして。

 つまりこのドラマって、かつて月9の恋愛ドラマを見ていた世代向けに、とても神経を遣って寄り添っている印象がある。
 そして今クール唯一ともいえる、恋愛ドラマ。
 人間、お仕事も推理も大事(?)でしょうけど、人として生まれてきた醍醐味をいちばん感じられるのって、やはり恋愛なんですよ。
 それも、ある程度年代を経てくると、若い頃に恋愛至上主義みたいな感覚だったのに、いつのまにか、なにかを置き忘れているような気がしている。

 それって、あの頃の情熱。

 それって、あの頃の一途な思い。

 そんな、わすれもの。

 このドラマは、妻役の和久井映見サンがくも膜下出血によって、夫役の竹野内豊サンとの日々だけを、根こそぎ忘れてしまう、という、ある意味でそんな 「あの頃に置き忘れたもの」 を象徴化させる設定を施している。

 「流れ星」 という、その細部にまで徹底的にこだわった演出方法によって傑作に昇華したドラマに出演していた竹野内サンは、今回どちらかといえば、そんな 「情」 の部分に全面的にこだわった物語の中にいる。

 だから 「流れ星」 を期待する人たちにとっては少々肩すかしをくらう部分もあるか、と思うのですが、視聴者にとって、月9みたいな自分の過去(そんなにドラマチックでないにしろ…笑)を思い出しながら、「自分にとっての忘れものって?」 と考えながらこのドラマを見ることって、結構有意義な時間のような気がするのです。

 そして、内容についてですが。

 くも膜下出血から回復した和久井サンは、先に書いたように、夫の竹野内サンのことだけが思い出せません。 まあそれに付随して、竹野内サンの父親である小野寺昭サンのことも思い出せない。 竹野内サンが勤めている自動車整備会社の社長である、光石研サンのことも分からない。

 つまり竹野内サンだけでなく、竹野内サンをめぐる周辺のことも、ごっそり記憶がなくなっているわけですよ。
 これって倒れる前から、今までの自分の人生と、竹野内サンと巡り合ってからの自分の人生とを、切り離して考えていなければ、ここまでにはならないような気がする。

 そして注目すべきは、その記憶を失ったあとの和久井サンが、竹野内サンに見せる、態度です。

 かなり拒絶気味なんですよ。
 まるで嫌悪しているかのように。

 これって何なのかな~と考えながら、私はドラマを見てしまいました。 そのため情緒的な部分に神経が、あまり行かなかったことを白状します。

 最初思ったのは、今回の竹野内サンのそのキャラクター設定。
 結構ブッチャケキャラでして。
 彼女が記憶をなくしているのにもかかわらず、竹野内サンは砕けた態度で彼女に話しかけ続けます。
 これが彼女に反感を持たれてしまったのではないか、と。 「なんでこの人、こんなに馴れ馴れしいの?」 という。

 しかしですよ。

 5年前に彼女が竹野内サンに初めて出会った時も、竹野内サンはまんま、ブッチャケキャラで(笑)。 けれどもそのとき彼女は、竹野内サンに結構警戒感を抱きながら、その馴れ馴れしい男にちょっと心を開く部分も垣間見せたりするのです。

 当時の和久井サンの日記。

 「2007年4月7日
 ヘンな男に会った。

 優しい人なのかな?
 でも…やっぱりヘンな人だと思う」

 そのときの和久井サンは、おにぎりとサンドイッチを一緒に食べる竹野内サンを、「ヘンなの」「でも、面白いの」 というように、クスクス笑います。

 でもその同じ4月7日、そのふたりが出会った場所に連れてこられた和久井サンは、硬い表情のまま、結婚指輪を竹野内サンに返すのです。

 和久井サンは別のシーンで、こうも話していました。

 「なにがあったとか、なにしてたとか、そんなことじゃなくて。

 どうしても、思い出せないんです。
 あなたを好きだっていう気持ちが、思い出せないんです。

 だから、…ごめんなさい」

 つまり、和久井サンを必要以上にこわばらせているのは、この人を好きだったという大事な気持ちが、すっぽり抜けてしまっている自分に対する苛立ちではないか、と考えられる(断定してます…笑)。

 竹野内サンはそんな自分の妻に対して、表面上はちっともこたえてなくて何事もなかったかのように気持ちヘラヘラ振る舞ったりするのですが、バイクのスロットルには力が入り、家の中のものをちょっとだけぶちまけたりする。

 この、「気持ち」 とか 「ちょっとだけ」、というのが、またなんとも奥行きがあって味わいがあるんですよ。
 先ほどの和久井サンの日記ですが、竹野内サンは妻の日記を読むのを、初めちょっと躊躇します。 しかし何か妻の記憶を取り戻すヒントがあれば、と、もう一度日記に手を伸ばす。
 この無言の演技は、「流れ星」 を彷彿とさせる心の動きが読み取れて、なかなか見ごたえがありました。

 そんな、内に秘めた悲しみとか怒りとかをひたすら隠しながら竹野内サンは、婚約指輪を返し、その思い出の場所から立ち去ろうとする和久井サン(可南子)に、爽やかに前向きに、こう宣言するのです。

 「次いつ会えるかなあ?

 …思い出さなくていいよ。
 ふたりの、思い出とか。
 結婚婚してるってこととか。

 オレのことを好きだっていう気持ちも、思い出さなくていい。

 だから、もう一度最初から、
 可南子。

 …可南子さん。

 今度オレと、デートしてください」

 可南子は硬い表情のまま、 「ごめんなさい」 と一礼し、その場を去っていきます。

 「可南子」 が 「可南子さん」 に変わった瞬間は、彼のブッチャケキャラが返上された象徴のようでした。
 つまり 「なんとかなるさ」 という中途半端な気持ちを、波留(竹野内サン)が捨て去った瞬間。
 可南子の記憶がなくなるまでの波留は、とてもじゃないけど妻を大事にしているという状態ではなかった気がします。
 あまりに当たり前すぎて、空気みたいになっちゃってる妻の存在。
 でも、空気は、なければ死んでしまいます(笑)。
 これまでのことは一度リセットでもいい。
 ここから新しい恋を始められれば、もう一度その恋を楽しめるじゃないか。
 自分がどこかに置き忘れてしまった昔の気持ちを、もう一度思い出せる。
 それって実は、幸運なんじゃないか。

 そんな波留の価値観の逆転は、見ていて清々しい。
 このドラマを見て感じる気持ちよさは、そこに集約されているような気がします。

 ただ。

 ここまで可南子を頑なにさせるものって、何かほかにもいろいろと潜んでいるような予感もさせる、このドラマなのです。

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2012年4月26日 (木)

「カエルの王女さま」 第2回 Take it OFF !!

 本日第3回が放送される 「カエルの王女さま」 ですが、だいぶ遅れた第2回レビューをいたしたいと存じます。
 あれもこれもと春の新ドラマを見すぎて、録画がたまりにたまってしまう副作用に悩まされておりますが、今クールのドラマは総じて出来のいいものが多い気がするんですよ(「カーネーション」 に比べりゃ足元にも及びませんが…と、ナマイキなことを言ってみた)。

 それで、当ブログへコメントを下さるかたのご要望のあるドラマを見ようとしたのですが、なんの気なしに見始めた 「カエルの王女さま」 を、なんか最後までご覧になってしまいまして(なんで自分に敬語なのだ)。

 このドラマ、今クールのドラマの中では、あまり視聴率のいいほうではありません。 天海佑希サンって何をやっても視聴率が取れる女優さんのような気がしていたので、これが少し意外で。

 で、「グリー」 のパクリとか安易に言われてしまうようなこのドラマに、なぜ天海サンが出る気になったのかに、第1回目から引き続いて興味がわいてしまったのです。

 で、私の見解なんですが、
 「このドラマって、タカラヅカなんだ」「天海サンは、ドラマでタカラヅカをやりたかったんだ」、ということになります。

 ウィキで調べたところによると、天海サンは宝塚退団後、3年に1回くらい、舞台をやっています。 今年はそろそろその時期に当たる(笑)。 「舞台の虫」 がうずき始めたころじゃなかろーか(笑)。

 「カエルの王女さま」 で天海サンが演じる澪は、素の状態でもかなりハイテンション。 その仕草、セリフのひとつひとつがオーゲサです。 実に舞台的だ。
 そしてそのセリフ自体、かなり大上段に構えた 「ポジティヴシンキングのすすめ」 が内包されている。 演技のオーゲサさが、このセリフの 「これでいいのだ」 感と、とてもマッチしてるんですよ。

 例を挙げます。

 「ショークワイアとは自分をさらすこと。 誰に白い目で見られようが自分らしさを表現することが大事なんです!」

 「ねぇ…あなたなにが楽しくて生きてるの?
 (決まりきった毎日をただ繰り返すこと)そんなの伝統でもなんでもなくて、ただの怠慢よ。
 伝統を守ることを言い訳にして、なんのアクションも起こさない、心の底では退屈だと思っているのに、…変化や他人の目を恐れて何もしない。
 そんな弱腰で勝利や栄光、喝采を手に入れられるほど、世の中は甘くないの!」

 「赤っ恥かくなら思いっきりかきゃいいのよ!
 大事なのは度胸をつけること。
 あいつら全然分かってない。 自分の敵は自分自身だってこと」

 「退屈な毎日からスッパダカで飛び出して、歌で宣言してやりましょう!
 『私は、自由だ』 と、そして。

 …新しい私になるの」

 「いい?
 これは自分との勝負。
 観客はそこらで鳴いてるカエルと一緒、気にする必要もなーい。

 でも、あんたたちはもっと自由な飛ぶカエル!
 思いっきりゲロゲロ鳴いて楽しみましょう!」

 こういう、ちょっと気恥ずかしいセリフでさえ、あの宝塚のように大上段に構え、人を睥睨するかのように自信を持って言われると、なんか見ているほうも心を揺さぶられてしまう。
 私は宝塚って、あまり理解できない世界だったのですが、もしかすると宝塚の魅力って、こういう 「自信満々で絵空事を演じ切る」 というところにあるのではないか、と感じるのです。 まるでお茶の間が、宝塚の観客席になったような錯覚さえ覚えた(これは大げさな話ではありません)。

 もしかして天海サンは、その宝塚の魅力を啓蒙するために、このドラマをやっているのかもしれない。

 まあ個人的な感想ですが、そう感じたのです。

 それを思いっきり裏で支えているのが、久野綾希子サンなような気がする。

 彼女、あまり出番はありません。

 でも、やはり彼女の演技も、どことなく舞台的。 見ている側はやはり、劇場にいざなわれているような感覚に陥る。

 悪役の岸部一徳サンもとても分かりやすい悪役で、これも演劇を見ているようだし、その彼の金魚のフンと化している小泉孝太郎クンも、とてもシンボリックなダメ男です。

 つまりこのドラマは、舞台なんですよ。 演劇の舞台。

 もちろんドラマとしてのよさが十二分に発揮できる、ぼそぼそしゃべるようなシーンもあります。 それも却ってスパイスになっている。

 ここで挿入される歌。
 確かにアフレコによる口パクです。
 でもそれに拘泥されて、この舞台を楽しめないのはとても損な気がする。
 今回のメインの歌、「浪漫飛行」 は、いろんな障害に阻まれて自分を変えられない、自分を前面に出すことができない、そんな人たちへの、限りない応援歌となっている。
 見ていてなんだか、「よし、自分も頑張ろう!」 という気になってくるのがうれしい。

 確かに話の先が読めてしまうところもある。 でも物語にはそれを補って余りある、元気があふれているのです。
 ヅカファンには言わずもがなの魅力にあふれていますが、元気になりたい人、現実にモヤモヤしている人、天海サンにおしりをたたいて欲しい人は、「パクリドラマだから」 などと食わず嫌いにならないで、このドラマをご覧になることをお勧めします。 小難しいことを考えず、単純に楽しめます。

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2012年4月24日 (火)

「ATARU」「鍵のかかった部屋」 それぞれの第2回を見て

 「ATARU」 と 「鍵のかかった部屋」。
 このふたつは主人公の設定がかなり違っているけれども、内容的にとても似通ったドラマです。
 このドラマが相手にしているのは、警察が事件性なし、と判断したコールドケースです。 それをあとからあーでもないこーでもないと横やりをつつきまくる(笑)。
 その主人公の設定も、かなり違っているとは書きましたが、エキセントリックという点では共通している。
 そしてその主人公についている、男女ふたり。 刑事と弁護士の違いはありますけどね。 こうして主人公とのトライアングルの関係が成立している、という点はまるで一緒です。

 そしてそれぞれの第2回を見たのですが、どうも 「ATARU」 のほうがもたついている印象があった。 「鍵のかかった部屋」 は、初回のもたつき感が多少薄れた気がした。

 それは第2回において展開する 「事件」 そのものの持つ吸引力が主な原因であるように感じます。 「ATARU」 では、死亡直前に 「青いバラ…」 とつぶやいて死んだ男性の事件。 「鍵のかかった部屋」 では、中から完全に密閉された部屋で練炭自殺?を遂げた引きこもりの少年の事件。

 「ATARU」 で事件の吸引力を下げているのは、そもそものとっかかり。 チョコザイ(中居クン)と栗山千明サンが、その事件がまさに起こった瞬間に遭遇するわけですよ。 「いくらなんでもそりゃねーだろう」 と、見ている側は思ってしまう。

 そして個人的に事件の吸引力を著しく低下させた要因は(笑)、この死亡した男性俳優。
 記憶力が極端に悪いせいで、「どぉ~っかで見た顔だよなあ…」 と、ドラマ途中まで考え込みながら見てしまった(笑)。 「あ、そーだ、『仮面ライダーW…じゃなかったオーズ』 のドクター・マキだっ!」(ここでも記憶違ってました…爆)。 人形が一緒じゃないから分からなかったんだ(ハハ…)。

 そしていっぽうの 「鍵のかかった部屋」。 事件への興味という点では大したことはないのですが、話のとっかかりの部分から、佐藤浩市サンが結構くすくす笑わせるんですよ。 自慢の腕時計のコレクションが盗まれた、というエピソードから、3段階の鍵をつけることを大野智クンに勧められ、そして真ん中のひとつだけは鍵を開けておくことで、ピッキング犯罪を手間取らせるという防犯をレクチャーされる。 これが今回の謎解きの大きな布石となっていたことも、話のパッケージングとしては良好な感じです。

 対して栗山千明サンと北村一輝サンは、かなりのカリカチュアを持ってコメディチックにドラマを展開しようとしているのに、こちらのほうは先週も書きましたが、ちっとも笑えない。 だから事件に関しても興味が乗ってこないのです。
 この表現方法は、ドラマの登場人物を変人ぽく見せるのには効果があると思うけれど、それで視聴者を笑わせるに至るには、かなりの技が必要になる気がするんですよ。
 事件への興味を導入する、栗山・北村ラインと佐藤浩市ラインとの役割の違いが、これほど如実に出ていることも珍しい。

 そんなときドラマへの興味を増大させると思われるのが、チョコザイを演じる中居クンの役割だと思うのですが、このサヴァン症候群という特殊な性格設定、第1回目を見た時点でもうかなり説明されちゃってる。 この第2回ではあまり出番自体がなかった気がするのですが、そのことも相まって、どうも失速気味に感じてしまうのです。

 ドラマの全体的な体裁を考えた場合、「ATARU」 の大きな興味は、このチョコザイの過去にあることは明白な気がする。 ドラマはそこを突っ込んで展開していかなければならないのですが、その前に数個の事件をチョコザイによって解決させる必要性がある。
 その数個の事件を興味深く見せていかなければ、このドラマ自体の吸引力は大幅に低下していくことは避けられない、と感じます。
 事件に興味を持てないのであれば、さっさとチョコザイの過去をやってくれよ、という気になってくる。
 でなければ、チョコザイをもっと前面に出してそのスーパーぶりを手を変え品を変え、そして彼の能力をレベルアップさせて見せていくことで、視聴者のドラマへの興味をつなぎとめるしかない。

 対して、「鍵のかかった部屋」 では、佐藤サンのそこはかとない練達したコメディ演技によってドラマへの吸引力が高められたうえに、大野智クンの無表情の演技のなかに、事件当事者たちへの 「心」、感情に対する興味が、ちょっと芽生えてきていることに、見ている側は気付くのです。 事件犯人だった高島政宏サンが自分の犯罪手口をわざわざ公開授業で披露するのも間抜けだよなあと思いながら見ていましたが、それってもしかするとこの公開授業を見に来ていた大野クンと戸田恵梨香チャンへの挑戦状だったのかもしれない。 知能犯の隠れた欲求、ということも考えられるのです。

 そしてそのトリックの、二重三重になっている構造。

 「ATARU」 において弱い、と感じられるのは、チョコザイが放ったヒントによってしか、栗山サンと北村サンが動いていけない、という、なんとも窮屈さを感じる部分です。 この構造が第1回とほぼ同じだったために、第2回ではなんか物足りなさを感じた。

 両ドラマとも、今後に期待したいところです。

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2012年4月22日 (日)

「パパドル!」 アイドルとの夢を見るファンの権利

 雑食系もここに極まれりのレビューとなってしまいますが(笑)、「パパドル!」(TBS)を見て感じたことを書きたいと思います。

 このドラマの元ネタは、1987年の同局のドラマ 「ママはアイドル!」 であります。 見てました(笑)。
 もう四半世紀まえなのか…。 オレも歳食うはずだ…。

 当時はアイドルの中山美穂チャンが実名のまま出てきて、三田村邦彦サンと結婚。 三田村サンの、前の妻との間にいた娘に後藤久美子サン(なんで中山美穂が 「チャン」 でゴクミが 「サン」 なのかと申しますとただなんとなくでありまして…笑)。

 その設定は今回、ミポリンの(…)役に関ジャニ∞の錦戸亮クン、三田村サンの役に優香チャン。 つまり男女逆転しています。
 ゴクミの役は今回、川島海荷チャン、ということになりましょうか。

 それにしても今クール、ジャニーズ系タレントの主役ドラマがとても多い。 なかでもとりわけこのドラマは、主役がそのまんま本人だし(そりゃ名前だけでしょうけど)、しかもメリーサン?と思しき女性(財前直見サン)まで出てきて、事務所名もまんま 「ジャニーズ事務所」(そりゃ名前だけでしょうけど)。

 年の功で25年前に見たきりの元ネタドラマと比較してまいりますが、まずふたりの愛の巣となるべき優香チャンの実家はまるで大家族のゴミ屋敷風。 夫と離婚して昼夜働かなければ生活していけないの、ということを優香チャンが打ち明けていましたから、家事の手が行き届いてない、といったところなんでしょうか。
 対して25年前、三田村サンとミポリンの住んでいたところは、確か三田村サンの家だかマンションだったかと思うのですが、とても豪奢な現代風作りだった気がします。 当時はバブル期、いまは長引く不況の果ての日本。 この家庭環境の違いに感慨を禁じ得ません。 日本の国力の低下を如実に感じさせる。
 もしこれを25年前と同じ豪奢な住まいにしたとしたら、限りなくドラマのリアリティが欠如するのは必至です。

 もっと考察すれば、当時アイドル産業、と言えば金満のテレビ・メディア界のなかでも花形の職種だったと思う。 いまはスポンサーもつかない斜陽産業ですよ、エンタメを取り巻くすべての業界が。
 ただしそこんところは今回伏せられている気がする。 「自分たちはジリ貧です」 などと、テレビが自ら打ち明けるわけにもいかないのでしょう。 関ジャニと言えばアイドルでもトップクラスですから、彼らを取り巻く環境はまだまだ華やかなわけです。

 いや、やはりアイドルは華やかでなくてはならない、基本。

 でなければ、今回のようなドラマを作ること自体が無意味なわけですよ。
 アイドルは華やかなもので、みんなに憧れられる 「擬似的恋人」「プリンス、プリンセス」 でなくてはならない。
 だからこそこのようなドラマを見ることで、ファンの人たちは、自分たちももしかしてこんなことが起こるかもしれない、という夢を見させてもらうことができるわけです。

 ただそれが現実に起こってしまったらどうなるのか。

 25年前のそれは、アイドルが恋してしまうことの障害とか悲しみとか、そしてそれを受け入れる家族の葛藤が中心だった気がするのですが、今回同じことを取り扱いながらも、その内容はリアリティの度を深めている気がする。

 具体的にどこがどう、と考察出来ないのはもどかしいですが、たとえば今どきのアイドルは、ケータイとかネットとかツイッターで、かなり瞬時に裸にされてしまう危険に晒されているわけです。
 当時はそれは、写真週刊誌くらいの脅威でしかなかった。
 でも今どきの有名人は、常に行動を監視されているようなもの。
 監視なんて、ツイッターをする側は全く意識してないと思いますよ。 「ねえねえ今芸能人見かけたよ」 程度の軽い感じ。 でもそれが監視なんですよ。 これって今後是正すべきネットモラルのひとつだと感じますね。

 で、今回の場合、話が日本の現状とかアイドルの現状とかを前よりもさらに表現を深めている、ということになりますが、それでもそれをリアリティ深く見せてくれることで、ドラマを見ているアイドルファンは、さらに深く、「自分もこうなったらどうなるのか」 という疑似体験ができる仕組みになっている。 優香チャンって、そんなに自分自分って感じの演技をしないから、このドラマを見る女の子たちが彼女を自分に置き換えやすいメリットがある気がする。

 ただそのことを深く考えると、どうにも夢のない現実ばかりがつきつけられてくる気も、いっぽうではいたします。

 つまり、アイドルはアイドルを離れてしまうと、結局ただのひとりの人間なんですよ。
 今回のドラマではまるで赤西クンみたいなケースのなれの果てみたいな(ハハ…)元アイドルとして、城島茂クンが出てきます。
 彼も人気絶頂時に結婚をしてしまって、芸能界を追われる羽目になった。
 でもそこからが、ふたりの愛の形をどう結実させるか、という話になってくるわけですよね。
 アイドルとしてのカレが好きなのか、虚飾を取ったカレが好きなのか。
 城島クンの場合はこのドラマの中で、その後の人生を有意義に生きている。

 でもそこまでのケースを見せてくれることで、リアリティはますます深まってく気もする。
 アイドルファンは、アイドルとのこういう妄想を、夢として見る場を、このドラマで与えてもらっている気がするのです。

 ただのチャラチャラしたドラマかと思ったのですが、結構見ていて楽しめます。

 蛇足ですが。

 えなりかずきクン、夜中にサングラスかけて運転(しかもカーチェイス)っていうのは、ちょっとヤバいっスよ…。

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2012年4月21日 (土)

NHKスペシャル 東日本大震災 「生中継 樹齢千年 滝桜」

 いや~、私の故郷の三春の滝桜を、今テレビでやっておりますねー。

 またツイッター風に書いていきますが。

 あ~あ~、玄侑宗久サン、「梅ちゃん先生」 の南果歩サンと一緒に出てますねー。 玄侑サン、私の菩提寺の住職さんなんですよ。 福聚寺。

 例年ならばもう散り始めの時期かと思うのですが、今年は冬が寒くて春が遅いせいか、まだほころび始め、といった雰囲気。

 どうしても大震災と結び付いちゃいますよね、滝桜も。

 私の故郷は、いま見えない恐怖の中にいます。

 去年帰省した時に親せきの話なども聞きましたが、土地の人たちはとても饒舌です。
 つまり、話さずにはいられないほどの多くのことに、見舞われているわけです。
 その口ぶりの明るさと裏腹に、どうにもできないお上などの対応に対するイライラを、私などは感じました。

 予定通りに仕事が行けば、私も来週帰ります。

 滝桜も見たいけれども、…混んでるかな~。

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「コドモ警察」 笑えるけど、どこまで笑えるのかなァ?

 はじめに ちょっとこの記事、書き足しました。

 悪の組織レッドヴィーナスを追い詰めた特殊捜査課の敏腕刑事たちが、そいつらの作った特殊ガスを吸ってしまったことにより、全員子供になってしまった!…という設定のドラマ、「コドモ警察」。
 「タモリ倶楽部」 の裏番組であったためにほぼ完全に見逃し、個人的には忸怩たる思いでいる 「勇者ヨシヒコ」 を作った、同じ監督の作品とか。

 捜査課のボス鈴木福クンはまんま 「太陽にほえろ!」 の石原裕次郎サンだし、捜査課の刑事もそれぞれあだ名がついており、タイトルロゴは完璧に 「西部警察」 のパクリ。
 元ネタを知っている人には抱腹絶倒の作りであることは間違いがありません。
 ただの1回だけ見た 「勇者ヨシヒコ」 と、その笑いの質が同質であることはすぐに分かります。

 つまり、心の底から笑わされているのとは違う。

 「オレこれ、知ってるのっ、知ってるのっ!」 とまわりに誇示したくなるような笑いの質なんですよ。

 「勇者ヨシヒコ」 の場合、それは 「ドラクエ」。 今回はそれが石原プロの刑事ドラマなわけです。

 それにしても、体型が子供になったのだけれど、頭のなかは元のまんま。 だったらその姿のまま刑事活動にいそしめばよかろうものを、「世間体が悪い」 とかなんとかそーゆう理由で(笑)彼らはフツーの家に入れられ(フツーでもなかったけど)小学校に通わされる羽目になってしまう。
 その設定自体がまた面白くて。

 で、ガキの体型になったのだから、子供用の服を着させてりゃいいのに、背広とかジーパンとか(ジーパンって、元ネタがすぐに割れますよね…笑)女性用の服とか、わざわざ子供サイズに作り直して彼らに着させてる(ジーパンは違うか)。 ただだからこそ鈴木福クンが裕次郎ボスだというのが瞬時に分かるんですけどね。

 …今の若い人には 「ゆうたろう」 の格好している、と説明したほうが分かりいいのかな…。

 で、思考形態が元のまんまで、みんな小学校に通ってるから、こーゆーギャグができる。

 「張り込みだ」

 「すいませんデカ長」

 「どうした?」

 「明日は算数の先生に居残りだと言われてるんです」

 「んなんだとぉぉっ!」(ハハ…)

 「昨日テストで落第点を取ってしまって…」

 「(デカ長、デスクを思いきり叩き)小4の算数だぞっ?!」

 「今の算数は難しいんですっ!」

 「実は…オレも…劇の会の練習なんです…」 横からおずおずと話し始めるジーパン刑事(笑)。

 「劇の会だとっ?!…何をやるんだ…?」 ってボス、そーゆー問題かよ?(笑)

 「『ロミオとジュリエット』 です」

 「休ましてもらえ」

 「無理です…オレ、ロミオなんスよっ」

 「んなんでそんなデカイ役を引き受けたんだぁっ!」(ワロタ…)

 「推薦されたんですっ! 仕方なくですよっ!」

 「ウソをつくなぁっ!」 口を挟んでくるゴリサン(役名違ったと思うけど…)。

 「…ウソなのか?」

 「……どうせなら、…ロミオやりたいじゃないっスかっ!」

 驚愕する一同(爆)。 なるほど…ガキの頃できなかったのね…(爆)。

 絞り出すように口をひらくボス。

 「…分かる…分かるがな…捜査中のロミオはイカン…」





 …腹痛ぇ…。




 この鈴木福クンの同僚で愛人?なのが、吉瀬美智子サン。 毒ガス吸ってないから、匂い立つような女性のままです。 ただなんか理由もなく、「こんなドラマになぁ…」 とかわいそうになってくる(ハハ…失礼)。
 いや、逆に役者冥利だとは思いますけどね、こんな抱腹絶倒の傑作ドラマに出ることができるのは。

 「…最近…全然来てくれないのね」

 「フッ…こんな体じゃな」

 「子供になる前から、ご無沙汰よ」

 「レッドヴィーナスを追い詰めたんだ…それどころじゃなかった」

 「こう見えて、アタシ、モテんのよ?」

 「知ってるさ…」

 「いつまでもひとりにしとくと、酷い目に遭うわよ」

 「分かったよ…今度ファミレスでオムライスでも食べようか」(笑)

 「アタシ、保護者じゃないわよ? …ホンット勘弁」

 「本当にわがままな女だな、君は…フッ」

 こーゆーきわどい会話を鈴木福クンにさせるとは、言語道断だ(笑)。
 しかもこの会話、「ファミレスのオムライス」 というのは、子供になってしまったその体型が言わせているのではなく、あくまで自虐的な皮肉として発せられているのがさりげなくすごい(褒めてんのか?)。

 そして捜査課の紅一点には、「家政婦のミタ」 で末っ子を演じていた女の子。
 元がとてもクールで口の悪い女刑事だったためか、とてつもなくナマイキな(笑)こまっしゃくれたガキになってます。

 さらに後追い情報ですが、どうもこのコドモたちの中に、私の妹の息子の友達が含まれているらしい(誰だか言ってしまうとまずいか?)。 こんな子供のうちから頑張っているのだから、自分も頑張らなければ(ヘンなところで励まされとるぞ)。

 そのコドモたちの中に入ってきた新人が、勝地涼クン。 新人なのにいちばん年上という奇妙な現象が起こってます。
 この新人がドラマの中でいちばんのスパイスになっている。 彼は 「リバウンド」 でもかなりコメディが出来るところを証明したのですが、今回はそれがさらにいかんなく発揮されている。

 とりあえず初回は笑わせていただきましたが、どうやって手を変え品を変えてこちらを笑わせてくれるのか、その引き出しの多さを期待したいと思います。 「ヨシヒコ」 でも毎回飽きさせなかったみたいだから、杞憂だとは思いますが。

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「梅ちゃん先生」 第3週 とりあえずさらにもう1週見た感想です

 「このドラマには野心がない」、ということを先のレビューでのコメントで書いた私ですが、第3週目のこのドラマを見ていて、ますますその思いが強くなりました。

 このドラマには、仕掛けがない。
 「こうやって視聴者を驚かせてやろう」、とか、「視聴者の心を鷲づかみにするような、巨大な感動を導き出そう」 とかいう野心がない。
 このドラマの作り手は、あくまであたりさわりのない、「見ていてほっこりする」 ということを究極の目標として、ドラマを構築しているような気がする。

 だから、語り口としては、とても優しいんですよ。 ナレーションですべてを説明してくれる、という側面もさることながら、このドラマは分かりやすく、見やすく、ただ視聴者の 「それぞれの朝」 に寄り添おうとしている。

 たぶん主人公の梅子はこれから、いろんな試練に立ち向かっていくことでしょう。
 視聴者はそれを応援する立場であって、対等に生きていく立場でいることは難しい。

 頑張れ梅子。 応援しています。

 というわけで、このドラマに関するレビューは、ここで終わらせていただきます…って、まだ早いか(笑)。 「うんにゃ早ぐね」 という幻聴も聞こえる気もいたしますが(爆)。

 で、なんとな~くダラダラと今週分のこのドラマを見ておったのですが(笑)、少々泣けてきてしまう部分がありまして(なにっ?!)。

 「医者になりたい」 ということを家族に告白したはいいのですが、梅子はとても、劣等生なわけなんですよ。 数学の基礎的な部分である 「因数分解」 などもまるで記憶になし。
 それは学徒動員で工場に駆り出されてばかりいたから勉学が疎かになってしまったことが原因だったのですが、まあ勉強してた子は勉強してたみたいだし。
 結局この 「戦争が原因による学力の低下」 は梅子が受ける医専(医療専門学校、かな)の試験の難易度を下げた、という、「劣等性の梅子が合格(?)」 というからくりを下支えすることになってはおりますが。

 いずれにしても今週の 「梅ちゃん先生」 は、その劣等生・梅子がいかにして医専の受験にまでたどり着くかを、すっご~くまったりと(笑)描いていくわけです。 テンポ悪(ハハ…)。

 でも、だからこそ通しで見ると(通しで見ないと分からないのはつらいが)梅子がいかに、周囲から劣等生として見られているかが見る側の胸に迫ってくるのです。
 父親の高橋サンは完全に梅子に期待してないから試験を受けること自体が無駄だと考えます。
 高橋サンは 「医者をなめてる」 とまで言い切る。
 試験まであと3カ月でこの状態では、さすがにそうだったかも知れません。

 けれどもそれまでのいろんなプレッシャーの中で受験勉強にいそしんできた梅子は、父親が思い切り梯子を外すようなその言葉に、とうとうこらえきれず、泣いてしまうのです。

 これは、この週梅子がどのように医専に受かるために頑張ってきたかを、とても丹念に(悪く言や 「まったりと」「ダラダラと」 なんですが…笑)追ってきたからこそ、梅子が慟哭するに至る積み重ねは、きちんとされているわけです。 「ヒロシや先週の死んでしまった女性を治療する父親の姿を見て、自分も医者になりたいと思った」 と告白する糸子…じゃない(笑)梅子の姿に、私は泣けました。

 これは、私が劣等生であったからこそ共感できた部分かもしれません。
 バカがバカなりに自分の持てる力をなんとか振り絞っている。
 なのに、誰も分かってくれない。
 いや、いちばん分かってほしい人に、それを全否定される。

 この悲しみは、優等生のかたには縁遠い感情であるかもしれません。

 いずれにしても冒頭に書いたとおり、このドラマの作りに野心的なところは見当たらないですから(笑)、こちらも見ていて号泣、というわけにはまいりません。

 ただこういう軽い感情でドラマを見ることもいいのではないか。
 気合い入れて見すぎなんですよ、特に私の場合(爆)。

 この場面、倍賞美津子サンが、それまでの役柄に準拠して少々冷たさを残しながらなのですが、高橋サンに楯突いて、梅子を応援すると言い出します。 これには南果歩サンもミムラサンも同調。
 ダメで元々、やってみなはれ、悪あがきでもなんでもいいじゃないか。 自分の持てる力を出し切って頑張る、ということが、その子の人生にはいちばんの宝となって残っていくのだ。

 つまりこの家族は、そりゃなんとなくお行儀が良くてよそよそしい関係かもしれないけど、でもこの家族なりの愛情、というものを持っている。

 家族なんか、みんなそれぞれ違うもんでしょう。 「ギュッギュやで~」 というストレートな表現でなくとも、ぶきっちょでもどこかに愛情が隠されている。
 高橋サンなどは、「これでもし受かってもそれはまぐれだ、受かったとしても、医専の勉強にはついていけないだろう」 などと冷たいことを言いまくっていますが、それも梅子のことを考えていればこそ。 先ほどの 「今年の試験はレベルが低い」 という噂話に内心小躍りする側面を、見せていますもんね。

 「どこかで見た話」、ではありますよ、確かに。 いずれも。
 でもまあ、目くじらを立てるほどのクオリティじゃないし(さりげなくけなしてるぞ)(失礼なヤツだ)。

 ホントこのドラマ、どこまでレビューが続くのか、我が事ながら興味が湧いてまいりました(ハハ…)。

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「もう一度君に、プロポーズ」 どうして再放送やってくんないの?

 ツイッター風に書かせていただきます。

 竹野内豊クンの新ドラマ 「もう一度君に、プロポーズ」 なんですが。

 裏番組のフジテレビの、スーちゃんの特番のほうを優先して予約してしまったために、見ることがあたわず。
 「どーせ翌週の午後の再放送枠で再放送してくれるだろう」 とタカをくくってていたら、なんかやんないみたい。

 くそーっ、ちくしょーっ(小梅太夫か)。

 仕方ない、来週の第2回を見てレビューをいたします…。

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2012年4月19日 (木)

「クレオパトラな女たち」 あれのせいだ、これのせいだ

 脚本の大石静サン、昔は好きな脚本家さんだったのですが、このところどうも外し気味だし、「クレオパトラな女たち」、というタイトルのアレさに少々引き気味だったのですが(笑)、美容整形を題材にしたこのドラマ、結構いろいろ考えさせられました。 まあ1回見たくらいでちょうどいい、お腹いっぱいかな、つー気もしますが(笑)。

 ドラマの設定としては、佐藤隆太クン演じる腕のいい外科医が親の借金返済に迫られ、実入りのいい美容整形外科で働き始めるという内容。
 がっしりとした顔つきでイケメン、という範疇からは少々逸脱した印象のある佐藤隆太クンだからこそ、「普通人」 の目線でこの、一種独特の世界を批判的に、疑問を抱きながらとらえることに成功しています。

 ただしドラマとしてちょっとひねってあるのは、この佐藤隆太クンも完璧な 「フツー」 というわけではなく、「カーネーション」 での周防の演技もまだ記憶に新しい(色褪せなくて困って新ドラマを駄々漏れならぬ駄々見をしている私ですが…笑)綾野剛サンとボーイズラヴの間柄である、という点。

 まあ 「普通」 と申しましても、人間どこか常軌を逸した部分は誰にでもあろうかと…まあい~か(なんじゃソレ)。

 で、そのフツー感覚から言うと、やはり美容整形をする人って、「ちょっと考えすぎ」、みたいに思ってしまうんですよ。

 このドラマでもいちばん原初的な 「常識的思考」 として、「親からもらった体、顔だから」、という感情が整形をためらわせる最大のファクターとして挙げている気がします。

 そして整形をする人たちに特有なのは、その料金を高い、と思わない経済的な余裕があることではないか、と感じる。

 この場合、何と比較して 「料金高すぎ」 という感情が打ち負かされてしまうのか、というと、ありていに言えば 「自分の容姿に対するコンプレックス」 であることは論を待たない。

 このクリニックに着任早々、佐藤隆太クンはクリニックのスタッフ(全員女性)に漂う、ある種の 「軽さ」 に違和感を覚えています。 みんなおしなべて美人で、どうもみんな整形をしているらしい(違ったかな?)。
 自分もここを直して、ここを直した、と堂々と吹聴する、看護師の北野きいチャンがそのいちばんの代表かと。 彼女、とても軽い。

 つまり北野きいチャンは、自分の顔にコンプレックスがあって整形をし(そりゃご本人の話じゃないですよ)、それまで死を考えるほどまでに鬱屈としていた人生がばら色になって、ああいう軽~いノリの人間に生まれ変わったのだ、と思うんですよ。

 でも鬱屈しているものがなくなった、というのは実にいいことなんですが、それで得た人生って、どこか歪んでいるのではないか。 それって自分自身の人生なのか。

 私もそんなにいい顔をしているわけではないですが、たま~に顔とか髪形とかが、ヤケにキマル時があって(ハハ…)。
 そんなときは、普段あまりとったことのない態度で街を歩いちゃったりする(爆)。
 「どうオレ、決まってるっしょ?」 みたいな(あ~あ…)。

 でもそんな程度で済んでりゃいいですけど、今回のドラマでの1ケースとしてあった老夫婦のように、「若返ったから新しい人生を歩むんだ、不倫もし放題だ」 というのは、どうも倒錯しているように感じてしまう。

 そりゃそれでその人の人生だからいいんですけどね。 他人がとやかく言うことじゃない。

 でも、自分の人生。

 あるがままのものを受け止めることで成長していくものもある、と思うんですよ。

 佐藤隆太クンが遭遇した、「整形によって今までうつむいていた自分が前向きに生きられるようになった」、という、ほくろを取った少女のケースも、その側面だけを取り出して考えれば、実に意義のあることだといってよい。

 でもそれって、「自分がからかわれるのはこのデカイほくろのせいだ」、という意識だけで済んでるからいいのであって。

 この子がもし、「もっと好かれたい、もっとよく思われたい」 という指向の人間であった場合、結局ホクロだけでは済まなくなってくる可能性、というものもあるか、と考えるのです。

 つまり、整形をしなければダメだと思い込んでしまう人って、どこか物事の悪いのを、あれのせいだ、これのせいだ、と考える傾向が強いように思われてならないんですよ(すべてのかたを指しているわけではありません)。

 ただそんなときは、自分の心を入れ替えればいい、というのが、人間としての成長だ、と私は思う。

 老夫婦にしたって、もともと整形をしたのは夫のためだとか何とかきれいごとを言ってましたけど、本当に相手のことを考えているならば、自分の容姿の醜いのとかもきちんと受け入れて、愛情をぶつけていけばいい話だと思う。
 この妻にとっては、夫が自分のことをブスだとかババアだとか(言ってたかな?…笑)罵るのが耐えられないから整形に踏み切ってるわけで、けっして相手のためを思ってやってる、というのが第一義ではない、と感じる。 結局は自分、なんですよ。

 でも、自分にはこれがない、あれがない、と自覚しながらそれと向き合い、対処していくことで自分の人生を生きていくことが、「自分にしかない人生を生きる」、ということなんじゃないのか。

 あれもこれも整形をしたがる人たちを見ていると、「お金が欲しくてたまらない」 という人たちと何か同じものを感じます。

 つまり、きりがない。

 整形によって得たもので満足してしまえれば、それに越したことはありません。 別に何の問題もない。

 でも人間、コンプレックスを解消するくらいではひらけないことって、とても多い気がしますよ。

 要は、自分の心が変わることだ。

 美容整形がその手助けをしているという側面は、私も否定はいたしませんが、人間、何かを手に入れたときから、そこからが、勝負なんじゃないでしょうかね。

 お金が欲しくてみんな働いてるけど、お金をもらってしまってからが勝負なのと同じように。

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2012年4月18日 (水)

「リーガル・ハイ」 かなり重層的な問題提起をしてくるドラマ

 このドラマ初回の視聴率が出たのですが、12%ほどだったとか。 「ATARU」 や 「鍵のかかった部屋」 の20%近い数字に比べるとかなり落ちる。 けれども見ごたえとしては、今期このドラマがいちばん面白かった気がいたします。 つくづく内容と視聴率というのはリンクしないものだ。

 傲慢の権化みたいな弁護士の堺雅人サンと、彼のもとで働くことになる同じ弁護士の新垣結衣チャン主演の、法廷もの。 「リーガル・ハイ」 というのは、おそらく堺サンが主演した 「クライマーズ・ハイ」 のパロディ的な言葉でしょうね。 「弁護士がハイになってる状態」、とでもいうのかな。

 今期のドラマにほぼ共通しているのは、主人公がかなり極端な性格の持ち主である、というパターンですが、堺サンもその例に漏れない。 私見ですが、「11人もいる!」 あたりから、テレビドラマってそんな傾向があるかもしれない(もっと前からかな)。 ほかの登場人物もそれに合わせてハイテンションで、物語のガラの悪さ、乱暴さを笑いでカバーするような傾向がある。 クドカン風、ということなんでしょうかね。

 このドラマでの堺サンも、真面目に演じてしまうととてもやなヤツなんですが、それをスーパーハイテンションで痛快なものに蒸留させている。 並はずれた演技力がないと、笑って許せるレベルではない人物なんですよ。
 自らの手掛けた裁判はすべて連戦連勝負けなし、ただし裁判に勝つためには手段をいとわず。 法外な弁護士費用をブラックジャック並みに請求する。 観察眼はたいしたものだが、言いにくいことをあとさき構わずどんどん言ってしまう。 自らが自信の塊だから、自分が間違ってるとか負けるとか、一切考えていない。

 …と、言葉で書いてしまえば実に大人しいのですが(そ~か?)、これを堺サンはリミッターいっぱいで見る側にぶつけてくる。 すごく嫌なヤツなのに、胸がすく感じがするんですよ。

 新垣結衣チャンは今期ほかの同類項ドラマでの、いわゆる 「助手」 的な役割をする女性(「ATARU」 での栗山千明サン、「鍵のかかった部屋」 での戸田恵梨香チャン)と全く性格設定が同じ。
 要するに正義感が強くて押しが強い。
 たまたまかぶったんでしょうが、この性格設定の同じさには興味深いものがあります。 こうしないと話が進まない点で、非常にドラマに欠かせない人物配置であると同時に、「みんな同じで芸がない」(笑)。

 そのガッキーは生瀬勝久サンの法律事務所で働いています。
 ある冤罪事件で敗訴したことをきっかけに生瀬サンから手を引くよう言われるが、ガッキーは納得がいかない。 そこに現れた生瀬サンの秘書、小池栄子サンから、堺雅人弁護士を紹介されるのです。

 このことで、ガッキーは生瀬サンの事務所で働いているくせに、堺サンと行動を共にするようになる。
 法外な弁護士費用を実家の田畑だかを売り払って用立てたとか、話的にムリヤリな部分はあります。 特にこれでガッキーが用立てた3千万円は、のちのち変なところでいろいろ絡んでくる材料となっていくわけですが、まあ細かいところはいいでしょう(え~っ)。

 …細かく突っ込んでしまいたくなってきたのでしますけど(笑)、ネタばらししてしまうと(いつものことですが)ガッキーを堺サンに接触させたのは、結局生瀬サンと小池サンだったわけです。 だからガッキーが自分の事務所の人間なのにほかのところで行動していることに、彼ら二人は口を挟まない。 これってこの第1回のお話の、相当大きなギミックであるはずなのですが。
 でも、フツーに考えると、3千万円がなければ堺サンはガッキーの依頼を受けないわけでしょう。
 ずいぶんいい加減なことをして、かつて自分が痛い目にあわされた堺サンを陥れようとしてますよね、このふたり(もし 「違うのでは?」 というご意見があれば承ります)。

 いずれにしろ、そのギミックによって、堺サンとガッキーは、いったんこの裁判に負けそうになります。 そのときの、自分の天まで届く天狗の鼻を折られた堺サンの落胆ぶりも、またリミッターを超えてとても可笑しい。 見るほうとしては、この痛快な 「ジコチュー弁護士」 が裁判で勝つものだという頭があるから、堺サンが愚弄してやまない向こうの担当検事にしてやられるのが、とても意外なのです(自分だけかな)。

 けれどもガッキーは、その反論材料を地道に調べ、堺サンは偶然見つけ、結局ふたりは裁判に勝つのです。

 ここで物語のカタルシスをいやがおうにも高めているのは、冤罪に追い込まれた被告を取り調べた刑事の横暴が、暴かれていく過程だと感じます。

 このところ頻発する、警察による不祥事の数々。 そのたびに繰り返される、まるでその気のない反省の言葉の数々。
 しかも自分たちは不正をしても軽い処罰で済ませるくせに、こそこそと陰にまわってネズミ獲りなどのこすからい業務にいそしんでいる。
 警察に関わらず、そのうえに存在していると思われる検察まで、大阪地検みたいに不適正な取り調べをしてるんですからね。
 それに対する怒りって、個人的にはすごく蓄積されているんですよ。
 この刑事が断罪され、組織的な隠ぺいが白日の下にさらされる快感って、すごいある。

 ところがです。

 このドラマの問題提起は、実はそれだけにとどまらない。

 晴れて自由の身になった被告の青年が、シャバに出てその刑事を見かけたときに、「アンニャロ~、今度はぶっ殺す」 みたいな物騒なことを言うわけですよ。

 ガッキーは今まで自分が信じてきた正義が何だったのか、途端に分からなくなるのです。

 それを堺サンは先刻承知のうえで、弁護士という職業は、そいつが本当に何をやったのかなんか問題にしてない、と、弁護士という職業の正当性にまで切り込んでいくんですよ、あの横柄な口ぶりによって。

 う~ん、うなりましたね。

 先ほどの、よくよく考えてみればどこか片手落ちみたいなギミックと相まって、このドラマの重層的な問題提起の構造には、少々感心いたしました。 問題がそこまでにとどまらない、というのを見るのが、ドラマ好きとしてはとても快感なのです。

 そして見る側の、その快感を一手にコントロールしていると思われる、堺雅人サンの演技。 この人、やっぱりすごいわ。

 ガッキーは結局、自分の正義を確かめるために、堺サンと組むことになります。 ここで堺サンの執事みたいな役割をしている里見浩太朗サン。 ちょっと軽視できないものを持っているようです。 ドラマの味をかぎりなく醸成してくれている気がします。

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2012年4月17日 (火)

「鍵のかかった部屋」 辛気臭い考察による推理ドラマの評価

 このところ雑食系のドラマ視聴を続けております橋本です。

 昨日の 「ATARU」 に引き続いて、とりあえず辛気臭いオッサンによる、取るに足らぬ感想を述べさせていただきます(ずいぶん自虐的)。
 …どうも世間の評価と私の感想がずいぶん違うようなので、「オレっておかしいのか?」 と思いながらのレビューです。

 戸田恵梨香チャン(蛇足ですが最初誰だか分からなかった…こんなに痩せてましたっけ、彼女?)が有名法律事務所の弁護士である佐藤浩市サンのところに初出勤、というのがドラマのとっかかりでした。
 彼女はいきなりクライアントから社長死亡が自殺であるかどうか調べてほしい、という依頼を受けてしまい、「この忙しいのに」 としぶしぶ調査を始める佐藤サンを、その途上で銀行の金庫の中に閉じ込めてしまう。
 これは戸田恵梨香チャンが金庫の横にあるボタンを見つめているうちに、それをどうしても押したくなる衝動にかられて押してしまったことが原因。 「こういうのって押したくなるんだよな~」 とここでは爆笑。

 その禁断のボタンを押してしまったことにより、金庫内にいた銀行の頭取と佐藤サンは次の営業開始時までそこから出られない、という憂き目に遭うのですが、その時間帯が金曜だったために、つまり月曜の朝まで閉じ込められるという重大な事態になってしまっている。
 笑えますけど。

 これを瞬時に解決したのが、セキュリティ会社の斜陽族(死語?)である、このドラマの主人公、大野智クンだったわけです。

 そして命からがら金庫から脱出できた佐藤サンは、呆れつつも戸田恵梨香チャンの熱心な仕事熱によって、ずるずるとその死亡原因調査に引きずり込まれていく。

 ここで疑問点が3点ほど。

 まず、戸田恵梨香チャン。
 2年ちょいのキャリアがあるかもしれないが、派遣されてきていきなりあこがれの敏腕弁護士である佐藤サンに楯突いて、よくまあいろいろ出来るもんだ、という点。

 そして大野クンがいなければ大変な事態になっていたというのに、その派遣されてきたばかりの恵梨香チャンを、佐藤サンはどうして即刻自分の担当から外さないのか。 首でもいいくらいだと思うのだけれど。

 そして最後に、敏腕弁護士で忙しくて仕方がないクセに、よくもここまで佐藤サンは新人の恵梨香チャンのわがままに付き合ってられるもんだ、という点。 実はヒマなんじゃないの?

 ここからは世間のこのドラマの高評価にしたがって、それにおもねった感想を書いていきます(せやから自虐的)。

 けれども(笑)このドラマのムリヤリな部分をつなぎ止めているのは、紛れもなくこの佐藤サンであります。

 佐藤サンは悶絶しながらも(笑)この死亡原因調査に振り回され、ムリヤリ感をクッションとして軽減している。
 特に笑えるのは、こういう推理物によくある、「もったいぶってすぐに犯人を教えない」 展開が俺はものすごく嫌なんだっ!と悶絶する部分。

 そしてもうひとつのこのドラマの魅力と言えば、ほとんど無表情でこの事件の密室性に推理を加えていく大野クンの存在。
 私が面白いなと思ったのは、彼はこの事件の犯人が誰であるかに、まったく興味がない、と言い切ったところです。
 つまり彼の興味の中心は、「密室と思われている部屋へのアクセス方法」 しかない。
 すんでのところで追い詰められた犯人はそれで助かったように思われたのですが、ここにあの佐藤サンが介入してくる。

 このドラマの面白さというのは、そんな一風変わった役割分担の融合によるものが大きい。

 もともと私は、事件もののドラマというものをあまり見ません。
 人がひとり死んでいるのに、謎解きにばかり神経が行ってしまって、そこに潜在している人間ドラマがなおざりになってしまう傾向を嫌悪するためです。

 だいたいですよ。

 人が誰かを殺すのに、ここまで用意周到に完全犯罪を目指す、という神経って、かなり人間的に倒錯している、と思う。

 殺人事件のドラマってみんなそうなんですよ。

 今回の自殺に見せかける工作だって、こんなことよく考えつくよ、という感じですよ。

 そのトリックをどうやって解き明かしていくのか考えるのがこの手のドラマの生命線であるとも言えますが、実際の話、そこまでアクロバティックな殺人をする犯人の心理状態のほうを、私なら深く掘り下げたい気がしますね。

 世の中には、表に出てこなくて事件扱いにされない完全犯罪って、結構存在しているように思う。

 この手のドラマは、やり口が荒唐無稽であるがゆえに真似されるという危険性を回避しているように思われるが、実は狡猾な殺人者は、結構参考にしているのではないか、などとオッサンは辛気臭いことを考えるわけです。 こんなことを考えてたら、世にいう殺人を取り扱ったドラマすべてに難癖をつけてしまうのは遺憾ですが。

 そして最後に第4の疑問点。

 このドラマは、毎週こういう密室殺人に関わっていくおつもりなんでしょうか?

 以上、辛気臭い考察によるレビューでした。

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2012年4月16日 (月)

「ATARU」 変なの…

 おそらく 「SPEC」 とか不思議感覚の刑事ドラマを狙っていると思われる、SMAPの中居クンの新ドラマ、「ATARU」。

 空港を降り立った中居クン、いきなり不審者同様のキャラを全開にしていきますが、これってサヴァン症候群、という、知的障害を持ちながらもある種の能力に異常に長けた人の設定らしい。 右手の指をしきりにキーボードを打つかのように動かし、歩きかたもおしっこを漏らしそうな子供のよう。 謎の男が中居クンのバッグに何かを詰め込み、去っていく。 その中居クン、どこかと英語で交信しているようです。 そしてパソコンの使用言語を交換するかのように、日本語でしゃべることを自らに設定しつつ、夢うつつのような状態で歩いていく。

 その彼がある爆発事件の捜査を独自に開始するのですが、それに絡んでくるのが刑事の栗山千明サンと北村一輝サン。
 すべてが大げさで、全開でスピーディでハイテンションなコメディを演じていくのですが、あまりに違和感ありすぎて、これがちっとも笑えない。
 これって金曜夜10時のノリだろう…。

 とりあえず話全体もリアリティとは対極にあり、こういうドラマが好きな人にはたまらんのでしょうが、ちょっと私は勘弁、という感じで、またまたリモコンの停止ボタンに指がかかったまま(笑)。

 展開もかなり強引で、そもそも中居クンがどうしてこの事件に首を突っ込みたくなるのかも不明、挙動不審としか思えないその中居クンの繰り出す断片的で不可解な単語をいちいち調べてしまう栗山サンのその動機もまったく不明。

 それでもなんとなく見続けてしまったのは、「チョコザイ」 というふざけた名前しか名乗ろうとしない、たぶんもともとの名前は 「アタル」 と思われる中居クンの挙動が気になってしまった、というのが理由です。

 事件現場にケチャップを口から吹いて倒れていたかと思えば、いきなり立ち上がってるし、それに驚いた栗山サンがほかのところと連絡しているすきに、またさっきと同じ格好で倒れてたりする。
 知的障害とは言え、完全に人を食ったような、実に実に 「ヘンな」 中居クンが、気になって仕方なくなってくるのです。

 笑えるのは、彼が 「んー」 と発する音の絶対音感がDであるとか何とか、音痴気味の中居クンを皮肉っているような展開が見られたり、「カレースープ」 を所望する中居クンに栗山サンが 「どん兵衛カレー味」 を持って来ると 「(これじゃない)」 というように拒絶したり(結局彼はそれを口にして日清食品への義理を果たすのですが)という部分。

 その過程で彼の繰り出すヒントが手掛かりとなって動き回る栗山サンたちによって、事件の真相が明かされていく。

 そしてリアリティと対極にあったこのドラマが一気に現実に引き戻されるのは、「事件の真相が分かってしまうと困る」 という被害者家族の事情。

 最初それは、その事件により死亡した男の妻であった板谷由夏サンの犯行なのではないか、と匂わせておいて、実は 「もし夫が自殺だったということになると、労災が降りなくなり、自分たちが生活できなくなる」 という事情が裏に隠されていた、ということをドラマは導いていく。

 この事件に首を突っ込むことで自分も警察を辞めるか辞めないかの自己判断に迫られていた栗山サンにも、それは身につまされる話であった、と感じるのですが。

 結局犯人は別にいたことが判明し、板谷サンはめでたく労災のお世話になるのですが、まるで結果的に、保険金詐欺と同じになっている皮肉が、ここには存在している。 勤め先をクビになるとなかなかに厳しい現実が待っている、という社会問題をあぶり出していたわけです。

 まあ第1回目で中居クンがどのような人物であるかが判明するはずもなく。
 彼の挙動が視聴を引き留める唯一の興味だとは感じます。

 ただ、ドラマ的になんかから騒ぎしているような展開って、必要なのかな~とも感じましたが。

 来週も見るかどうかは微妙ですが(今クールこればっかしや)、日曜劇場にしてはかなりの過激な作風だと感じました。

 あんまりこういうの、ふだん見ないんだけどなぁ、自分。

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2012年4月14日 (土)

「梅ちゃん先生」 第2週 とりあえずもう1週分見た感想です

 この朝ドラって、肩肘張らないで見るのがいちばん適している気がいたしますね。
 比較厳禁の 「カーネーション」 ですが(笑)、いかにあのドラマが視聴者をがんじがらめにしていたかが分かる。 「よそ見すな! 感動に打ち震えろ! 最高ですか~っ? 最高でぇ~すっ!」(爆×2)。
 まるでマインドコントロールが解けたみたいに、「あのドラマは新興宗教だった…」…と、「梅ちゃん先生」 を見ていると思ってしまう。

 その 「梅ちゃん先生」。
 今週1週間分を一気に見ていて、結構ウトウトしまくったワタシ(笑)。
 しかもいちばん物語的に肝心と思われる、竹夫(小出恵介クン)と父建造(高橋克実サン)の仲たがいそして家出に至る部分でグーグー…sleepy(爆)。

 でもそこを見てなくても、大して問題になることなく(ハハハ…)。

 で、起きているとき(笑)そこかしこでどうにもイライラしたのが、こぶ平(敬称略、しかも二段目時代のしこ名…ちゃうちゃう…失礼のたたみかけだ…)のナレーション(笑)。

 「このふたりが探していたもの、それは米穀通帳です」…って、画面にデカデカと出てんでー、それくらい言わんでも分かるっちゅーねん(笑)。
 「自分が米穀通帳を落としたことで配給を受けられなかったのを、なんとか挽回しようとする、梅子でした」…って、見てりゃ分かるっちゅーねん(笑)。
 「中でそんな会話が交わされているのを夢にも知らぬ梅子は、建造に叱られるのが怖くて、なかなかなかに入れずにいるのでした」…って、梅子はもうお便所に行ったのだから、もよおしてソワソワしてるわけじゃないのは分かるっちゅーねん(笑)。
 「ヒロシに負けないように、少しでも家族の役に立とうとする、梅子でした」…あ~も~うるさーいっ(爆)。

 しかしですよ。

 「カーネーション」 で画面を皿のようにして見るマインドコントロールにかかってしまっているからこそ、そういう 「下世話の権化」 みたいなナレーションが鼻につくんじゃないか。
 つまり 「朝の片手間に見ている人」 用、なんですよ、このドラマ。

 このドラマがほとんどなんも考えていない(大失礼)ことを象徴しているように思えるのは、梅子に求婚をしてくる山倉(満島真之介サン)という、父の大学の教え子の存在であります。
 息子が家出してしまったモヤモヤを紛らわせるために建造が自宅まで連れてきた数人の学生のなかのひとりであったこの男。
 いきなり梅子の姉、松子(ミムラサン)に求婚してきます。 「一目惚れしました」 と(笑)。
 ミムラサンに言下に断られたこの男は、「じゃ梅子さんでい~です」。

 ここでこぶ平のナレーション。 「松子にフラれた途端、この山倉という男、今度は梅子に結婚を申し込んできました」…あ~もう、見てりゃ分かるっちゅーねん!(ひつこい…)。

 ただこの、無神経このうえないこの男の存在を許してしまっている、という時点で、このドラマの本質が見えてくる気がする。
 おそらくこの男は、今後梅子に深く絡んでくる存在となっていくのでしょうが、それをどう料理していくかで、物語にメリハリがついてくる。 視聴者の腹を立たせれば立たせるほど、成功なわけです。
 ひとつの方法として、この男が下村家での酒の席で、無神経なところの片鱗をあらかじめ見せておきさえすれば、視聴者にはワンクッションになるのに、助走もつけずにいきなり 「松子さんをください、ダメなら梅子さんでイーデス・ハンソン」(ハハ…)では、反感しか買わないのがオチでしょう。 なんとなくこの男の扱いを今後半年近くどうしていくのかが、これで見えてしまう感じなんですよ。

 物語的に詰めが甘い部分もある。

 たとえば建造が、長野の病院の院長に誘われていることを妻の南果歩サンに打ち明けるシーンがある。 それまで食糧事情の厳しいことをかなりしつこく描写していたので、建造も 「長野なら食料事情も東京よりはましだろう、少し考えてみる」 などと言っていたのですが、いざその長野からの依頼人との話し合いになると、なんだかんだと理屈をつけて断るのです。
 朝令暮改かよ。
 建造が心変わりしたきっかけは? フジテレビ?(せやからこの男…)

 つまり、深く考えちゃイカンのですよ。 このシーンは、建造がいったん考慮に入れていた長野行きの話を断ってまで、竹夫が東京で勉学に励むことを応援しようとしていた、その涙ぐましい父ごころ、これを表現したがっているのだ、と解釈するしかない。 そんな親心も知らず医者になるのをやめるだの家を出るだの、竹夫、どーしてオマエはそんなに冷たいんだ、という話に持っていくための。

 そんな詰めの甘いドラマのなかで、梅子(堀北真希チャン)はある一定の行動力をとりあえず有しています。

 兄竹夫の買出しについていったり、家出した兄を探そうと奔走したり、父の患者のために本を探したり。

 でもそのある種の行動力には、一貫して 「信念」 というものが少々欠如しているように、私には思えます。 つまりただの好奇心で動いている。 そして自分の心のおもむくままに、梅子は行動している。

 けれど、だいたい16くらいの女の子って言ったら、…まあ今じゃそれがフツーですけどね。 戦後のこの時期にはどうだったんですかね。
 それを見越してか、父建造は梅子に、あのチョー無神経男との婚約を勧めてきます。
 「だいたいお前は何の取り柄もないじゃないか」 という建造の言葉に、母親もいたしかたなく同調。
 でもそれは冷たい、というより、結構当たっている気がする。
 「そんなに簡単に、自分の人生を決めたくない!」 と反駁する梅子に、「でもやりたいことはないんだろう?」 と重々しく審判を下すかのような建造。

 梅子が彼女のために本を探しまくった、父のその患者が亡くなったときに、梅子は 「医者になろうかな」 と父親に話すのですが、ここでまたまたこぶ平のナレーション(笑)。 「父が喜んでくれるかもしれない、そんな期待が、梅子にはありました」…って、なるほどそーか(笑)。 やっと意味のあるナレーションが聞けたぞ(爆)。

 要するに医者になる、といっても、そこにはやっぱり、信念なんてないんですよ、梅子の場合。 父親を喜ばせようと思ってやっている。
 父親にはその 「覚悟のなさ」 が透けて見えるから、言下に梅子のその淡い夢を否定しにかかるのです。

 で。

 私は今週の陰の主役は、この父親が担当していた、亡くなってしまう女性が探していた、「本」 だったと思うんですよ。

 「月と花束」、という題名のその本。

 梅子の教師である節子先生によれば、それは男女のマグワイを…いや違ったかな(笑)とにかく恋愛を刺激的に書いた作品だったらしくて。

 「娘がそれを読みたがったのは、本のなかだけでも恋がしたかったんでしょうね」、とその亡くなってしまった女性の母親が、涙ながらに梅子に語るのです。

 ここで梅子は、先週のヒロシに引き続いて、「患者の心」、というものの2例目と、無意識のうちに向き合っている。

 それにしてもこのドラマ。

 笑わせようとしているのはとても伝わってくるのですが、それがあまりに生真面目すぎてスベリまくっている感じがいたします。
 いや、確かに、そこそこは笑えますよ。
 でもこれがフジテレビみたいな、お笑いに長けたテレビ局だったら、もっと面白く出来そうな気がするんだよなー…。

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2012年4月13日 (金)

「カエルの王女さま」 不覚にも、泣いてしまったぞ(ハハ…)

 天海祐希サンの新しいドラマ、「カエルの王女さま」。

 ブロードウェイの夢はかなくやぶれたミュージカル女優が、吸収合併される市の落ちこぼれ合唱団を再生させる、という、スンゲー何度も見たような(いや見てないか)設定のドラマです。

 まず容易に思い出されるのは、こないだまでNHKBSでやってた 「glee」 かな。
 ところがワタシ、そっちの海外ドラマ、もう途中から見るのがやんなって、第1回すら完走してなくて。

 「落ちこぼれ生徒が報われることによって、生きていくことに傷つき疲れた先生が立ち直る」。

 アメリカというのはこの手の話が大好きらしくて、もう何度も何度も手を変え品を変えしては、同じ話をしたがる(笑)。

 このドラマのとっかかり15分くらいは、もうそんな、「このドラマはパクリのパクリのパクリで~す」(笑)みたいな空気が支配的で、市が吸収合併される、という話もリアリティの対極にある感覚。 岸部一徳市長がとんでもない暴言を記者団に吐くし、その吸収の話に反対する動きも画一的。 その市の音楽堂が取り壊されてゴミ処理場になってしまう、というのもなんだかな~という感じ。 そしてその、吸収されてしまうほうの合唱団だったメンバーの描写も、大げさで戯画的。 なにしろこの物語のトップスターである天海祐希サンの登場の仕方からして、「俺は田舎のプレスリー」 じゃないけど、いかにもオールドタイマーのステレオタイプ、といった雰囲気。

 「ダメだこりゃ」、てなもんです。

 要するにまあ、このドラマは宝塚出身の天海サンの 「ミュージカル志向、演劇志向」 という興味を大いにくすぐるものであり、だからこそ彼女もこういう 「パクリ」 とか言われること必至のなんのプライドもないドラマに出る気になったのだろう、と考え、私は再生停止ボタンに指がかかったまま(笑)。

 それでも、なんとなーくなんとなーくダラダラと見ていくうちに(笑)、ちょっとグッとくるシーンが。

 若き日にブロードウェイに抜擢され、この吸収合併される自分の出身地を出て行く前に遺していた、自分の書き込みだらけの楽譜を、天海サンが見たときです。

 「夢はかなくやぶれる」、という経験をした人であれば、こういう、若い日の自分の一生懸命を思い出させるツールに思いがけなく出会う、ということには、グッとくるはずです。
 箸にも棒にも引っかからない合唱団のレッスンを天海サンが引き受ける、これがとっかかりになっている。

 そして集められたメンバーを引き連れて、吸収合併 「するほう」 の合唱団の練習を見に行くのですが、そのあまりのレベルの違いに一同意気消沈。 スンゲー何度もどっかで見た感じだな(爆)。 お約束通り、そっちの合唱団から見下されます。
 ところがそれで落ち込みもうヤ~メタみたいになるメンバーを、天海サンは叱咤し出すのです。 まあよくある展開ですが、「前に見た」 などと思いながら見るには、私の場合これまでちゃんと見てないことが多過ぎて…(笑)。

 「なんなのよアンタたち。
 バカにされて何すんなり受け入れてんの?

 アンタたち悔しくないの?

 アッサリ負け認めちゃってなにがバーゲンイモ饅頭?

 アンタたちさ、いっつもそうやってあきらめてきたんじゃ…」

 「こんだけ差があったらしょーがねーじゃんかよ!」

 「今は今!

 未来は分かんないでしょ?!

 私はね、音楽堂がどうなろうが関係ない、合併しようが知ったこっちゃない。

 でも、戦いもしないで逃げるのはダイッキライなの!

 明日からやるわよ。
 朝8時集合1秒たりとも遅れないように!

 …勝負は、…ここからよ」

 今は今。 明日は見てろ。
 うまくいかないことだらけですよ、生きてると。
 自分が鬱々としてしまうのは、おそらく気付かないうちに、うまくいかないことだらけの人生に、自らフタをしてしまっているから。
 天海サンのタンカは、そんな鬱々とした気持ちに活力を吹き込んでくれる清々しさに満ちています。

 この脚本家さんは、「黄金の豚」 とか 「全開ガール」 とか、なんか手垢のついたものを取り扱うケースが多いように感じます。
 それって局側の方針に振り回されているみたいな、ちょっと力のなさを感じるのですが、それでもなんとなくきちんと仕事をやり遂げてしまう側面が感じられる。
 「全開ガール」 などは、それはひとりひとりのキャラクターをしっかり深い部分まで描き込んでいるからだ、と感じたのですが、やはりどことなくそれも、「どこかのパロディ」 を自虐しているようなカリカチュアを含みながらの、裏に潜む丁寧な作業だったと感じるのです。

 わかりにくいか。

 分かってください(ハハ…)。

 あなたの愛した人の名前は~…ちゃうちゃう、それで天海サンが 「歌いやすいから」 と課題曲に選んだのが、「風になりたい」。 この曲ってマジメに聞いたことがなかったのですが、「なにひとついいことなかったこの街に」 という歌詞にもちょっとグッときて。

 そんなとき、天海サンにアメリカのエージェント(草刈正雄サン)から、正式な 「ファイヤ~っ!」 …ちゃうちゃう、「クビ(すなわちfire)」 の通知が来ます。 それまで以上に合唱団メンバーにつらく当たってしまう天海サン。 抗議する石田ゆり子サンに、天海サンはチョークで床に一本線を引き、これをブロードウェイの合否ラインの象徴であるコーラスラインに見立てて、こう言い放つのです。

 「あなたたちは、自分に妥協して、一生この線のそっちで足踏みしてればいい!」

 天海サンのイライラは、現状に満足している人には響かない性質のものだと感じます。

 負けたら、悔しいと思う心。
 それを大事にしないで、どうやって這い上がっていくんだ。
 なあなあで意味のない協調性ばかりを大事にして。
 なにくそと思わないでどうするのか。

 それはとりもなおさず、天海サン自身がつきつけられている問題でもある。
 天海サン自身に向けられた言葉でもあるんですよ。

 この脚本家サンって、結構 「ナマのままの言葉」 を抽出するのに長けている気がします。 話がいくらパクリでも、なんのプライドもなくても、生のままの言葉は、見る側にストレートに入ってくる。

 そしてそんな合唱団に愛想を尽かして辞めようとする天海サンに、「旅立つ前にあなたが私に歌ってくれた、あの曲を忘れてない」 とアドバイスをするのは、市民センター館長の久野綾希子サン。 天海サンの高校時代の恩師で合唱団の主催者です。 これもまた、ありがちな話なんですが。 「まだ、未熟だったけど、ただ歌が好きで好きで。 心のままに歌った希望の歌。 私には、あの歌があなたの未来に見えた。 いつかまた、あんなふうに歌える日が、来るといいわね」。

 夢が破れたときに、その夢を見ていた熱いあの頃のことを鮮明に思い出してしまう、さっきの楽譜の方法をここでまた踏襲しているわけですが、こういう方法で見ている側の琴線を、この脚本家は揺らしにかかっている。

 しっかし久野綾希子サン、久々に見たなぁ。 昔はコマーシャルで見てときめいたものでしたが。

 天海サンは去りゆく前に、さびれた音楽堂の舞台に立ちます。
 そこで口を突いて出たのは、久野サンが話していた、あの歌。
 「あの鐘を鳴らすのはあなた」 です。
 つぶやくように歌い始めたその曲が盛り上がり始めると、舞台のスポットライトが天海サンをまぶしく照らしはじめる。

 この歌の歌詞は説明不要ですが、天海サンのこの歌をバックにして、合唱団のメンバーの鬱々とした気持ちで送られる日々の生活が、描写されていきます。
 それがまた、合うんだなぁ。
 なんか知らぬ間に、泣けてしまってました。
 なんだなんだ。
 あんなけ当初バカにしくさっていたドラマなのに(笑)。
 いや、どっちかっていうとドラマ、というより演劇的、ミュージカル的、宝塚的。
 これまでのカリカチュアな表現が納得できる展開になっていたのです。

 それでもこのドラマを見続ける自信があるか、というと、やはり心もとない(ハハ…)。
 でもなんとなく気になっちゃって見そうな感じ。

 で、元ネタの海外の映画やドラマが自分にとってダメだったのはなんでかな~と、ちょっと考えたりしました。
 それってやはり、違う人種の悩みだから、登場人物にあまりシンパシーを感じなかったってことになるのかな~。
 分かんないけど。

 いずれにせよ、天海サンの啖呵は聞いていてとても快感であることは間違いないです。

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2012年4月12日 (木)

「陽だまりの樹」 手塚治虫氏の意図って何だったのかな

 NHKBSプレミアムで始まった、手塚治虫原作のドラマ 「陽だまりの樹」。
 ビッグコミック連載時に読んでいたのですが、どうも途切れ途切れで読んでいたせいか、どうもこの作品を、トータルで考える機会がなくて。 すごく近視眼的にしかこの作品を理解してない気がしてしょうがないんですよ。
 テレビアニメでやってた時も(確か中井貴一サンがナレーションやってた)どうもちゃんと見てなくて。
 今回のドラマはその意味でも、この作品をどのように自分のなかで咀嚼できるのか、いい機会だな、と思います。

 ただテレビドラマとしての体裁を考えたとき、ちゃんと見続けることができるのかどうかは今のところ微妙です。 何度も断片的に触れてきたせいか、物語の先が読めてしまうところがあったりして、そこに向かう演出がもどかしかったり感じました、第1回を見た限りで言えば。

 この作品のことを考える時いつも思うのは、手塚治虫氏がこの作品を作るときに、いったい何を意図していたんだろうな、ということです。

 この作品を執筆していた時、手塚氏はすでに晩年に差し掛かっていた。 51くらいから57くらい、かな。 3年後には亡くなってしまうので。 60ですよ。 早すぎるとしか言いようがないですね。

 私もそろそろこの年代に突入いたしますが、感じるのは、自分の先祖についてきちんと認識しておきたい、という欲求って、歳を重ねると強くなっていく傾向があるんですよ。
 おそらく手塚氏の場合もそれがこの作品を書くもっとも大きな動機だったんだろうな、というのは感じます。

 ただ、作品を仕上げるうえで手塚氏が作りだした架空のキャラクター、伊武谷万次郎の存在意義が、よく分からない。
 今まで私は、彼は手塚のなかでは、幕末を生きた勤労の志士としての象徴的存在、として、いろんな人物をごった煮して生まれたキャラクターだ、と感じていました。
 それを手塚氏は、自分のご先祖である手塚良仙と、思い切り絡めた。
 こうなってくると、手塚良仙の話が一気にフィクションとして突っ走ってしまうきらいがあるんですよ。

 手塚氏がご先祖の良仙を女好きで遊び人のキャラクターにしたことは、史実かどうかは知りませんけど(手塚家にしか分からないこともありますし)、こうすることでご自分のご先祖が生き生きと幕末の時代を駆け抜けていったことが表現できる。
 別に蘭方医として面白くもなんともない人物だったら、そもそも物語として成立しなかったりもしますけど、その場合はまわりの人物を面白くしてご自分のご先祖の存在感を浮かび上がらせることもできます。

 でも手塚は、それをしなかった。

 つまりご自分のご先祖様本人を物語の中で生き生きとさせるほうが、ご先祖様に対する敬意を表することができる、と手塚は判断したんでしょうね。

 私は手塚氏の作風って、時折センセーショナル主義に陥る傾向があった、と感じています。
 彼がご先祖をそういう、マンガの中の人物としてキャラを立たせたことは、彼のそういう傾向の発露だと考えています。

 そのうえで、直情径行的な伊武谷万次郎という人物を配したことは、おそらくご先祖が、激動の時代を生きた人物だったことを浮かび上がらせるためのひとつの方策だったのではないか、と今のところは考えているのです。

 今回のドラマでその自分の考えが幾分修正されるのか。 そこらへんに焦点を当てながら見ていきたいと思います。

 その伊武谷万次郎役には、いかにもまっすぐな男を演じさせたらこの男以外にはなかろう、という、市原隼人クン。
 そして遊び人の蘭方医、手塚良仙を演じるのは、成宮寛貴サン。
 ふたりともなかなかハマリ役です。

 このふたり、腐れ縁がもとで第1回、藤田東湖先生(津川雅彦サン)の元に教えを請いに行くのですが、そこで藤田は庭にあった、朽ちかけた桜の木を、内部から腐りかけている江戸幕府になぞらえます。

 「安泰の時は人は怠ける。 幕府のなかでも、おのがことしか考えず、利を貪る獅子身中の虫が沸いておる。
 このままでは、日本は滅びるかもしれぬ」

 この桜の木こそ、「陽だまりの樹」 の題名につながった木なのですが、要するに 「陽だまりの樹」 とは、滅びゆく江戸幕府のことを指している。
 この言葉にふたりはいたく感動し、良仙などは 「オレは今日を限りの女断ちする」 とまで誓うのですが、次の場面ではすでに芸者遊びに興じている(笑)。

 実に 「偉大なる市井」 の人、という感じです。

 それにしても 「安泰の時に人は怠ける」、というのは、けだし名言であります。

 そんなに頑張らなくてもお金が入ってくる、という状態になったとき、人は腐っていく。

 頑張っても頑張ってもそれに見合ったお金が入ってこないことのほうが多いのですが、いっぽうではそういうおいしい思いをする人って、いるんですよ。 要領がいいってことでもあろうし、その職業自体がボロイ(思った以上にバカバカ収入がある)ということでもある。

 そうすると、その安泰な状態を、人は維持しようとするんですな。

 誰とは申しませんが。

 いるんですよ…。

 フッフッフッ、アーッハッハッハッ(なんなんだ…笑)。

 大阪維新の会が盛況なのも、そんな腐った世の中をどうにかしようとする動きなんでしょうが、ボロイ思いをしようとする連中が選挙目的で近づいてるってのもあるかもしれんです。
 いずれにしても世の中、ボロイ方向にばかり向いてますな、いつの世になっても。
 苦労するのは市井の人々だけ。

 手塚氏の意図も気になりますが、そんなことまで考えさせてくれる、今日的な意義を持つドラマになってほしい気がいたします。

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2012年4月11日 (水)

「37歳で医者になった僕」 いずこも同じ、でも医者はどーよ?

 当ブログでは 「それでも、生きてゆく」 以来のフジテレビのドラマレビュー(正確には関西テレビ、か)。 どうもこの半年、食指さえ動かないドラマが多過ぎました、フジテレビ(いや、「カーネーション」 にハマりすぎたのが主たる原因だ…)。

 今回のドラマは、「梅ちゃん先生」 のオープニングテーマ曲でひんしゅくを買い続けている(笑…でもワタシ的には、何回か聞いているうちに少し馴染みましたけど…)SMAPの、そのメンバーのひとり草彅剛クンが37歳にして脱サラし、一人前の医者になるべく研修医を始める、という話。

 …ってこの時点でとても奇異に思えるのですが、この転職の動機というものがいかなるものであれ、これはほとんどあり得ない話じゃなかろうか、と。 ちょっとどうなのかな、という感じで見はじめました。
 たとえば身内を殺された人がその犯人を死刑にしようとしてそれまでやっていた仕事を辞め、弁護士になった、みたいな(例えがオーゲサすぎる…)。 リスクが大きすぎるだろ、と。

 ただこちらの視聴動機といたしましては、まず草彅クンの出るドラマが気になる、というところ。

 少々下世話な記憶を引っ張り出しますが、私は草彅クン、あの不祥事を起こしてから、ちょっと注目しているところがある。
 彼があそこまで自分を見失ってしまったのは、つまり彼が、主演したドラマのタイトルじゃないけど、とても 「いいひと。」 であるからではなかったのか、と。
 いいひとであるがゆえに、自分の生きている芸能界のあまりの浮世離れしたところに、とても齟齬を感じてしまったのではないか、と。

 人間、オイタをしてしまうことはままあります。
 彼の場合少々度を越してたけど(笑)。
 でもその後の彼の仕事を見ていると、すごく 「恥を抱えながら」 生きている気がしてならないんですよ。
 いわばあの不祥事が、彼の 「原点」 になっているような。
 そしてそれが却って彼自身に人間としての深みを加え、なんとも独特の 「どっしり感」 を形成している気がする。

 不祥事後初のドラマ 「任侠ヘルパー」 での彼の演技。 リミッターを外したような暴力的演技に目を見張りました。
 「冬のサクラ」 での演技。 内容的に結構問題なのに、その純粋な演技に、泣きました。

 出ているドラマも、彼自身が決定しているかどうか知らないけれど、おしなべて質が高い気がします。
 そしてその 「任侠ヘルパー」 の脚本家、古家和尚サンとの再タッグ。 これが今回の視聴動機の第二であります(いちいち脚本家がどーのとか、不確定要素が多くてどーでもよろしいのですが)。

 で、視聴動機がどーのこーのといちいち自分もツマラン考察をしておるのですが、ネタバレブログですから全部ばらしちゃいますけど(笑)、今回のドラマにおける、気になる草彅クンの転職動機は、「難病にかかった恋人のミムラサンを治す」、という、まあなんともすごい動機であり(ちょっと揶揄ってるな…)。

 こうやって文章で書いてしまうと、「なんだその程度、そんなんで転職しちゃうかよ」 と思われがちですが、それをそう感じさせないのが、先ほども書いた、草彅クンの持つ、「一種独特のどっしり感」、なのであります。

 ドラマの中で彼が演じる男は、あまり感情の起伏を表に出さない男であります。
 つまりなにものかに常に達観しているような感覚。
 37歳という遅~いスタートに戸惑い、気持ちをざわつかせ、ギャーギャーしているのはまわりだけ。
 彼はいきなりカンファレンス(医局の打ち合わせ会議、ですかね)で、無駄遣いされる紙や、非効率的に行なわれて実がない会議の本質を、元サラリーマンの視点で指摘していきます。
 これに対して医局の連中は 「何をペーペーが知ったよーなことをぬかしとるか」 と、それをスタンドプレーとしか見做さない。
 しかしそれに対する反発も、草彅クンは先刻承知だ、というようにスルーしていくのです。

 草彅クンの 「元サラリーマン」 という視点は、特に大学病院という場所に特有なのではないか、と思われる、常態化して腐敗化している上下関係の問題をあぶり出します。
 その過程で大名行列、という 「白い巨塔」 以来そんなに変わっていないのではないかと思われる 「意味のない検診」 の問題も描写していきます。

 私が数か所の大学病院にかかったこれまでの印象から申し上げますが、大学病院というのは、なんか医療スタッフと患者との距離が遠い。
 インフォームドコンセントとか、その病状を患者に周知させることは徹底していても、まるでその方法しかない、みたいな感覚で話が進んでいくばかり。 患者はその病気に関して、なにも知らないのがフツーですから、へえへえと聞いて、ちょっと分からないところがあったら訊いて、でも説明されてもなんとなくそーなのかな~という感じで話が終わってしまって、みたいな感覚なんですよ、いつも。 町医者でもそうですけどね。
 結局患者はその病気に関して一生懸命勉強するしか、その一方的なインフォームドコンセントに対抗することはできないのですが、結局断片的な知識だから、医者に最後まで楯突くことはできない。

 …って何? インフォームドコンセントって、じゃあ何の意味があるの? ちゅうことですよね。
 特に大学病院の場合、手術を研究資料みたいに考えているケースがまま見受けられる。 手術をしたくってしょうがないように見えちゃうんですよ。
 もしかすっと医局では、自分の病状について、ケンケンガクガクの議論がなされているかもしれない。 患者が情報開示を求めたいのは、そこなんじゃないかな、とも思うのです。

 草彅クンは研修で患者を見ていくうちに、担当医師の斎藤工サンが冷たいのが気に入らなくてコミュニケーションを絶っている脳出血の患者、北村総一郎サンから接触を受けます。
 「えっ? 意思の疎通ができるじゃないの?」 ってなもんです。
 草彅クンが脱サラして研修医になったことが自分の境遇と似ていたことが、北村サンの心を開かせたのですが、やっぱり最大の原因は、草彅クンが患者の立場に立ってものを考えている、と思えたからでしょうね、北村サンが(それにしても蛇足ですが、斎藤工サン、「最上の命医」 のうららかな春の日のような医者とは正反対の役柄ですね)。

 食道のバイパス手術をして栄養を口以外から摂る方法しかない、というように北村サンの医療方針は固まっていくのですが、草彅クンだけは北村サンがちゃんとコミュニケーションが取れることを知っているから、嚥下不良による肺炎、というリスクを押してでも、流動食が口から摂れるかどうかの嚥下テストをするべきだ、と主張します。

 けれどもそれは 「任侠ヘルパー」 で彼の極道の上司だった(親分か…笑)松平健サンの、「大名行列」 によるおざなりな検診で一蹴。 食い下がる草彅クン。
 それを見かねた直属の上司である田辺誠一サン、「11人もいる!」 のい~かげんキャラから一転して(爆)、「会社も病院も上司に楯突けばやっていけないのは同じだ」 と、草彅クンを諭すのです。

 それまでこのドラマ、大学病院という特殊な場所の抱える問題点を次々にあぶり出していってたのでちょっと気付かなかったのですが、そう、よく考えてみればこれって一般企業でもまったく一緒の構図なんですよね。

 そしてそれは、草彅クンがサラリーマン時代に感じていた塗炭と、まったく一緒の構図だったわけです。

 嫌いな上司にヘーコラする、それまでの習慣を変えるのにムチャクチャ障害がある、上が決定したことに逆らえない。

 草彅クンは、医療という 「人を救う」 仕事ではそんなことはないだろう、と思って、この仕事を選んだわけだったんですよね、大きなリスクを負ってまで。
 それが現実の壁にぶち当たって、元気がなくなり、長いものに巻かれろ、というような流れに行ってしまいそうになる。

 それを打破したのが、草彅クンの恋人役、ミムラサンだったわけです。

 このミムラサン、登場時からまったくセリフがなく、草彅クンとのコミュニケーションもケータイでのメールばかりだったのでちょっといぶかしく思っていたのですが、実は事故による腎臓疾患で、そのショックによる失語症になっていたのです(番組HPによる)。

 先ほどちょっと揶揄ってしまった草彅クンの転職動機ですが、その 「ムリヤリっぽい」「それくらいで」 と感じてしまいがちな見る側の気持ちを和らげているのが、このミムラサンの特殊なキャラクター設定および造形だ、と感じます。
 元気のなかった草彅クンを心配して病院を訪ねてきたミムラサンが、いきなり手話で草彅クンと会話を始めるシーンは、ドラマ的な驚きをもたらしてくれた。

 「(やっぱりつらそうな顔してる。 嫌なら言わなくてもいい。 でも、いいの? せっかくお医者さんになったのに、そんな顔してて?

 私のことはいいから、祐太さんらしく、…頑張って!)」

 このシーン、当然ミムラサンはひと言もセリフを言いません。
 でもその表情は、とてもくるくる変わって楽しそう。
 こういうのを見ると、一気にこのミムラサンに、感情移入してしまいますよね。
 「ありきたりっぽい動機」 という見る側の意地悪な気持ちは、これで吹っ飛んでしまうのです。

 自分らしく。

 元気を取り戻した草彅クンは、北村サンに嚥下テストを強行。
 もちろん北村サンの同意済みですが、直前に血相を変えてなだれ込んできた医局の連中の前でそれは行なわれ、この患者が嚥下を出来ることが証明されます。

 草彅クンは田辺サンに向かって、こう言うのです。

 「現実にがっかりするより、自分の理想を貫こうかと思いまして」

 「子供じみた考え方だ」

 「(笑って)ええ。 でも、やれるとこまでやってみます」

 「君ひとりが頑張ったって、病院は変わらないよ」

 田辺サンのその言葉に、草彅クンはこう答える。

 「病院を変えようなんて思ってません。 …僕は、自分が変わるために医者になったんです」

 これはキラーフレーズですな(笑)。
 このセリフで、「このドラマは来週も見よう」 という気になりました。

 つまり嚥下テストを強行した草彅クンは、「あと先どうでもいい、自分の納得することをして、辞めさせられたらそのときだ」、と思っている。
 けれどもどうしてもそれにはリスクが伴うから、半ば自暴自棄の行動であることも確かです。
 でも患者がそれを望んでいる。
 そのことにまさる医療判断なんて、あるでしょうかね?
 医療裁判とか、医療ミスに対しては、現代ほど神経質になっている時代もないでしょうね。
 でも、そんな齟齬でさえ、医療が患者の気持ちから遊離しているからこそおきるんじゃないでしょうかね。 

 だからやっぱり、会社と病院とでは、違うんですよ。

 病院を経営する以上それはやはり商売でなくてはならない部分もありますが、もともとホスピタルは、ホスピスという言葉から発生している。 献身的な介護が原点なんですよ。 私情なんか二の次で。

 ひとりの人間と向き合うことが医療なのであり、ひとりの人の人生と向き合うことが、医療の本質なのではないでしょうかね。

 そこにいるのは、「患者」 という、病理を抱えた 「ケース」 ではないんですよ。

 「病院を変えるなんて大それたことなど考えていない。 それまで会社人間として殺していた自分を生き返らせる作業なのだ」、という、この草彅クンの、とても等身大な思い。

 なかなか深いではないですか。

 蛇足ですが。
 草彅クンの研修医の同僚として、水川あさみサンが出色です。 「江」 では彼女の本来のキャラであるぶっちゃけたところが全開でしたが、どうも役柄的に、彼女はこういうクールビューティのほうが合ってる気がいたしますね。

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2012年4月 7日 (土)

「梅ちゃん先生」 第1週 とりあえず1週間分見た感想です

 大傑作 「カーネーション」(当ブログではもう耳タコ)の後番組として登場した 「梅ちゃん先生」。 とりあえず1週間分見ました。

 そりゃ 「大傑作」 と比べると見劣りするのはどうしようもないことであるので、極力 「大傑作」 ではどうだったとか考えないようにしながらレビューを進めていきたいと存じます。

 全体的な話の作りを見た印象を申し上げますと、ん~、まあ、え~、そうかよ、という感じですね(なんなんだ)。

 つまり見ていて、スッと入り込めない部分がある。

 まず第1回目、玉音放送があった直後、主人公梅子(堀北真希チャン)の姉、松子(ミムラサン)が、いきなりその場を抜け出して、物陰でうれしがります。 いいなずけ(成宮寛貴クン)が帰ってくるといううれしさなのですが、それに梅子も心から同調している。
 パッと見ただけでは、「なんやねんこのふたり、戦争に負けたのに」 という感じなのですが、その後ミムラサンはそんなに成宮クンがノーテンキに帰って来られるわけではない、ということを知って落ち込むし、梅子がどうしてこんなに一緒によろこんでいたかというと、彼女自身も姉のいいなずけにちょっと惚れていたからだった、というのがその後分かる。 いちおうフォローはきちんとされてるんですよ。

 ただこういう時間差攻撃で、登場人物たちの行動をパッと見で不可解だと感じさせるのは、あまり物語序盤ではしてはいけない気がする。 戦争に負けてよろこんでいるとは何事か、と視聴者が思ってしまうと、一気に登場人物たちに感情移入できなくなりますからね。

 「戦争に負けたことがいいことなのか悪いことなのか分からない」、とこの時点で感慨を述べている梅子にも疑問符がつく。 この女の子はなんの信念もないんだな、と。 なんの信念もないから、国家がいくら非常時でも朝寝坊したり、ドジを連発するんだな、と。 視聴者からの感情移入アクセスを拒否しているような印象を受けてしまうんですよ。

 そしてこの、主人公梅子の家族の設定についてですが。

 空襲を受けたからとても粗末な家に住んではいるのですが、実はこの一家って、とてもハイソサエティ(上流家庭)な気がします。

 父親の下村建造(高橋克実サン)は厳格を絵にかいたような人で、母親の芳子(南果歩サン)もかなりおっとりとした性格。
 今週の途中だったか(これも時間差攻撃か)、この建造が下村家に婿としてやってきたことが判明するのですが、建造はそんな下村家で大学医学部の教授として、婿としてのプレッシャーの中で厳格にならざるを得ない。 梅子の父の置かれている状況には、思いを馳せる必要があります。

 たとえば、今週の中盤で梅子が問題を起こし、モト冬樹サン扮する闇市のオッサンが 「弁償してくれ」 とねじ込んでくる場面がある。

 そんなとき、建造は頭ごなしに梅子に向かって、「何をお前は考えてるんだ!」 と怒鳴りつけます。 娘をハナから信頼していないのか、と見ているほうは思ってしまう場面です。
 けれどもよく考えてみると、これは下村家の婿として、建造がただやみくもに厳格でなくてはならないという状況のなかにいる、ということを説明している場面である気もしてくる。

 もっと端的にそれが分かるのは、建造の実の弟で砕けた性格の鶴見辰吾サンを交えた、下村家の夕餉の場面です。
 鶴見サンは最近仮面ライダーで悪役をやっとるのですが(笑)、兄の建造にとっても悪役みたいな人で(笑)。 建造は弟が下村家に来て下品な話とか卑猥な話をするのがいたく気に入らない。 ここで建造のATフィールド(精神的障壁)は全開になるわけです。 厳格な自分をおびやかす存在なわけですよ。

 この鶴見サンの訪問は、下村家全体の少々お高くとまった性格をあぶり出している場面だとも言えます。 「この家の人たちには、縁のない話ばっかりしちまったかな」。 これからは頭を使って金儲けする時代だ、というのが、大学教授先生さまが大黒柱の下村家には縁のない話だ、としているのです。

 話は戻りますが、先ほどの弁償問題発生の際、梅子の母の芳子は、「弁償ですって、どうしましょう?」 という態度を見せます。
 これも芳子が上流家庭として世間ずれしているところを表現しようとしている部分な気がする。 娘のことより弁償のほうが問題だ、と言わんばかりですよね。
 これも振り返って考えると、お嬢様でおっとりしすぎているから娘より弁償のほうがだいじに思えてしまうんですよこの人、ハイここで笑って、みたいな場面に見えてくる。 笑えませんけど(笑)。

 この両親とも、梅子に対していつも 「ついで」 みたいな反応をする、というのが、このドラマで梅子が恨み事を言うネタのひとつになっています。

 さらにこの三人きょうだいが 「松竹梅」 であることで、梅子の劣等感にとてつもない影響を与えている設定になっている。

 ここを 「なんだこの親は、松竹梅なんて、ずいぶん子供に安易で不平等な名前の付け方をするな」、と見てしまうと、この物語全体を見誤ってしまう気がします。
 私も正直ここはいぶかしく思っておるのですが、そんな子供に劣等感を植え付けるような名前の付け方って、普通しますかね? 何か御両親にはお考えがある気がいたします(ないかな~…笑)。 でもたとえあったとしても、それが梅子に伝わってない。
 つまりこの家庭は、なんとなく上流家庭としてのぎくしゃく感を抱えているのではないか、と私は考えてしまうのです。

 梅子の祖母の正枝(倍賞美津子サン)。
 やはり上流家庭独特のおつに澄ましたところが少々見受けられます。
 それがこの、空襲後の粗末な家の中で、とても冷たく見えてしまうきらいがあるんですよ。
 朝食のお粥にワカメが入っていたからと言ってよろこんだりするのですが、それってとても形だけのお上品なよろこびかた。 梅子が弁償問題を起こす時も、なんか冷たく傍観してるだけです。 どうにも家族全体で、視聴者の感情移入を拒絶してるな(笑)。

 姉のミムラサンが戦争が終わってよろこんでいた、とさっき書きましたが、これも考えてみると、ハイソサエティであるがゆえの世間知らず、という推測も成り立つし。
 兄の竹夫(小出恵介クン)も、まず父親が医学部の教授であるという理由だけで、自分も将来医者になる、というコースを疑いもなく進んでいるから、人間的に面白味があまりない。
 この竹夫、初登場時のセリフが 「つまり梅子は、朝飯抜きで空腹に耐えるか、遅刻して職長に怒られるか、いつもどっちか片方の試練を受けてるわけか」。
 のっけから梅子の朝寝坊を分析しているわけですが、これって家族を笑わせようと思って言ってるの?それとも的確な分析を自慢してるの?つー感じです(笑)。

 そんな竹夫は今週後半で、大学の権力側にいた自分の父親に対する疑問を、いきなり父親にぶつけます。 それは松子のいいなずけ、成宮クンが戦死してしまったことを自分の責任だと感じないのか?ということです。 あ、戦死したんです、松子のいいなずけ(なにを取ってつけたみたいに…)。

 これってなんかいかにもトートツな父親への反発なよーな気がするのですが、竹夫は大学でばらまかれた軍国主義への糾弾ビラをおそらく見ているわけですよ。
 で、自分の父親もそんな軍国主義に疑問を感じることなく、姉のいいなずけを戦死させることに加担したと思ってしまった。
 これって 「なんでそれで父親を責めにゃならんのだ?」 って思われがちですけど、かつて大学教授などというものは、権力の側にいる人間として認識されていたわけですよ。
 だから60年安保闘争の時なんか、学生たちからつるし上げを食らっていたくらいで。
 ここらへんを押さえておかないと、「僕がもっと早く軍医になって戦地に行ってれば、吉岡さん(松子のいいなずけ)の代わりになれたのに、姉さんに申し訳ない」 などと口火を切って父親批判をするのが理解できなくなる。

 それにこの当時は、軍国主義に対しての憤りが、国民全体に反動的に爆発し出している、という状況も鑑みなければなりません。
 「政府がやってたことはなんだ、軍部がやってたことはなんだ」、という怒りですね。
 当時流行った動きに、「真相はこうだ」、というものがありました。 今まで国民をだましやがって、ということですよね。
 竹夫が陥っていた父親への疑念も、同じ淵源によるものだと考えねばなりません。

 折しもこのドラマでは、灯火管制から解放された、8月15日、敗戦の日の夜の模様を描写していました。
 下村家のハイソな女性たちはそれを見て、「日本は平和になったのねー」 などとノーテンキな感想を漏らしておりましたが(笑)、実はこれも、灯りをつけた国民の感情ってそんなに単純な心情ではなかったのでは?と私は思うんですよ。
 「あ~あ~ばかばかしい。 今まであんなに頑張ってきたのに。 一億総玉砕。 日本は丸焼けだよ。 鬼畜米英がこの国をやりたい放題し出すぞ。 もう空襲はないんだろ? じゃあ何の気兼ねも要るもんか。 点けろ点けろ、電灯点けろ。 政府だか日本軍だか天皇だか悪いの誰か知らんけど、あてつけだよ、あてつけ」 みたいな、空虚で投げやりな態度。
 おそらくその心情をこのドラマでいちばん表現していたのは、プッツン5していた鶴チャンでしょうね(意味不明か?)。 片岡鶴チャン。 プッツンというのは、キレたという意味(説明必要か?)。 プッツン5というのは、鶴チャンがバラエティ芸人の時にやってた番組名(ギャグの説明をせなならんとは、不毛だ…笑)。

 で。

 「カーネーション」 においては…って比較すなっちゅうねん(爆)…まあまあ、私が1週間分を見ていて感じたのは、「これって大阪と東京の 『家族』 に対するとらえ方の違いがそのまま出ているんじゃないか」、ということです。

 善作と糸子の親子関係。
 今回の堀北真希チャンと高橋克実サン父娘の関係。

 たしかに愛情が濃い薄い、の程度の違いはあります。

 善作の場合、娘に暴力はいとわない、自分のことは棚に上げる、あげくに酒に溺れていく、というどうしようもないスパイラルを描いているくせに、その娘に対する愛情が人一倍強いことが分かる。
 その、父親の愛情を象徴的に描いた態度が、「ギュッギュやで~」 だったのであり、根岸先生に土下座して糸子に教えてやってくれと頼んだことであり、店のものを全部売っぱらって糸子にミシンを買ってやったことであった。

 つまりやってることがすべてストレートなんですよ。

 そこには 「人間というもの、いいところもあれば悪いところもある」、という説得力が裸のまま視聴者に届く勢い、というものがあった。

 対して大学医学部教授の高橋克実サンは、厳格、杓子定規、世間体を考えすぎる。
 つまり、こちらも見ていてとても見る側が感情移入しにくい欠点を有しているわけです。

 先ほどの梅子の弁償沙汰の話。
 これは、梅子が浮浪児のヒロシと懇意になっていたところ、そのヒロシが盗難事件と共に行方不明になってしまったからでした。 濡れ衣だったのですが、モト冬樹サンは梅子に損害賠償を求めてきた。
 そのときの父建造の態度は、先ほども書いたように、やみくもにどやしつける、というものでした。

 父親としては、娘を信用していないと受け取られても仕方のない態度ですよね。

 けれども娘が担いできたその浮浪児ヒロシの治療をしたあと、健三は梅子に対してちゃんと、娘のいい部分を理解している、という部分を垣間見せるのです(あ、ヒロシは盗難の真犯人を捕まえようとして果たせず、その道すがら、道端に落ちていた饅頭を食って食中毒を起こしたのです)。

 「お父さん、ありがとう。 ホンットにありがとう! お父さんてすごいのね!」

 「医者が病人を治療するのは当たり前だ」

 「人の命を助けるのが当たり前だなんて、やっぱりお医者さんってすごい!」

 「医者の力より、すごいもんがある」

 「なあに?」

 高橋サンは笑って梅子を見つめたまま、何か言いかけるのですが、別のことを言ってそれをはぐらかすのです。

 これって、梅子が病のヒロシに向かって一生懸命言葉をかけ、励ましていたことをさしている、と思うんですよ。 「医者の力よりすごいもんは、患者を勇気づける言葉、そしてその気持ちなのだ」、と。

 つまりこの場面は、影が薄いとばかり思っていた自分の末娘に、そういういい部分があった、ということに父親が気付いた場面であった、と感じるんですよ。
 これっていいも悪いもすべてあけすけな大阪の親子関係と違って、とても本質が見えにくい話ではある。 とてもハイソな東京的な親子関係だ、と感じたんですよ。 さきほど断ったように、そこには愛情の濃い薄いは確かにあるかもしれない。 でも愛情がない、というわけではない。

 このお話をですね。

 ヒロシという浮浪児が梅子を女医さんにするキーパーソンにしたとか、梅子に父親の医師という仕事をすごいと思わせたことが梅子の将来の動機につながってるとか考えながら見ると、なんかあんまりおもしろくない話なんですよ(ハハ…)。

 私はここ、というか、今週の真の主役は、このヒロシ君だった、と思えてならないんです。

 ヒロシは、両親が死んでから千葉だったか?の親戚の家を頼ったのですが、はじめ親切にしてもらったのに、その見返りとしてこき使われた(その前に逃げたんだっけな?)。
 だからヒロシは他人の親切が信用できなくなっているのです。
 これもツッコミどころ満載の話ではあります、確かに。
 こんな時代なんだから見返りに働くくらいはとーぜんだとか(笑)。
 いちいち話の掘りが浅いんですよ、このドラマ。
 脳内補完が必要だ(笑)。
 これを脳内補完させてくれるのは、瀕死状態になっているヒロシが、息も絶え絶えに話すセリフであります。

 「父ちゃんと、母ちゃんが死んでから、初めてだ…こんな、親切にしてもらったのは…。

 でも…もういいよ…。

 オレなんか、生きてても、人に迷惑かけるばかりで…。

 もう、このまま…」

 つまり本当は、その親戚にも、そんなにヒロシ自身が言うほど親切にはしてもらわなかった、ということなんじゃないでしょうかね。 「こき使われた」 という仕事は、その親切に対する対価としては、子供なりにあまりにきつすぎた、ということなんじゃなかろうか、と。
 それをこの子は、「自分がその親戚に迷惑をかけた」 と、どこかで認識し悪く思っている。 けなげだ、と見る側は判断できるんですよ。

 これに対して梅子はヒロシを叱咤します。 父建造が梅子に対する認識をあらたにしたと思われるセリフです。

 「ダメ! 生きるのよ!

 戦争で、生きたいのに死んでいった人たちがたくさんいるのよ!

 私たちは、その人たちの分も、生きなきゃいけないの!」

 「…けど…生きてても…いいことなんか…」

 「ううん。 きっといいことがある。

 頑張ってれば、神様がきっと、ご褒美をくれる!

 だから…、生きて!」

 「そうかな…」

 「そうよ。 絶対そうよ!

 うちのお母さんのおはぎ、おいしいよ。 食べると、甘くて幸せな気持ちになるの」

 梅子は思いっきりの笑顔を見せます。 「…そうか…」。 ヒロシも、笑顔になるのです。

 このドラマのヒロイン。

 線が細くて演技が出しゃばってなくて、骨太のヒロインを半年間見続けてきた視聴者には、確かに物足りない部分があるかもしれない。

 でも、そんな、人生に対して貪欲でもない、埋もれてしまいそうなパーソナリティの弱さでも、生きることはできる。
 そんなことをこの場面から、私は感じたのです。

 ただこの場面。

 ハンディカメラゆれすぎ(爆)。 酔っちまうよ(ハハ…)。

 いずれにしても、1時間半通しで見て、幸いなことに寝てしまうところはなかったです(ひょっとして5秒くらいはあったかも…笑)。

 ん~だけど、物語としては結構クセモノだな、と感じますよ。 15分ごとに見ていてはアラが修復されない、というか。 1時間半通しで見たから納得できた部分が、とても大きい、大きすぎる。

 これって15分ごとに見てると、イライラすると思うなぁ。
 どこまでレビューを続けることができるだろう。 とりあえず付き合ってみます(心もとない…)。

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2012年4月 6日 (金)

プロ野球シーズンのラジオにモノ申す

 本題に入る前に、ちょっと雑談を。 本題とも関係ある話ですが。

 春の改編期で終わってしまって残念なラジオ番組。 関東限定のお話で大変申し訳ないです。
 まずは 「小島慶子 キラキラ」(TBSラジオ月-金) でしょうかね。 新しく始まった 「たまむすび」 という番組は、パーソナリティが完全に小島慶子サンを意識している、というのが見え見えなのが面白いですが、小島サンのラジカルさには遠く及ばなくて。 コジマが過激すぎるというのはあったけど(笑)。 下ネタも無理して出してる感じ。 コジマのあととは、かわいそうな気もいたします。

 「長澤まさみのスィートヘルツ」(ニッポン放送日曜夜10時)。
 2年ほど前から聞いていたのですが、当初、正直まさみチャンって、かなりどーなのよ?という感覚で聞いてました。 回線がどこか、飛んでる感じ。 良くも悪くも、女優さんなんですよ。 ヘンなところでウケてるし(ハハ…)。 まわりの人は合わせるの大変だろうなー、みたいな(笑)。
 ところが去年の映画 「モテキ」 の大ヒットあたりから、なんとなくその、不思議感覚の性格に安定感が生じてきた気がして。
 たぶんそれまでは彼女、ヒット作に恵まれなくて精神的にきつかったんじゃないのかな~、と要らぬ詮索までしてしまっていたんですが。
 ここ半年ばかり、まさみチャンなりに世間とはどういうものかを了解してきたような面白さが、ラジオのトークに現れ始めた。 大人になってきたんですよ。
 そしたらいきなり、この春でオワリ、ですからね。
 スポンサーのロッテが降りてしまったのかどうか知らないですけど、旬な女優さんになったのに、そのパーソナリティを成長させることのできる場であるラジオをやめてしまったのはとても残念です。

 ただこれらの番組の消滅って、なんとなくラジオが彼女たちを養いきれなくなったからなのではないか、という気はするんですよね。 お門違いの考察かもしれませんが。

 コジマは 「キラキラ」 の放送開始当初はTBSアナウンサーだったためにギャラ経費節約になっていたと思うのですが、いきなりフリーになってしまったために少々風当たりが強くなった。
 まさみチャンは旬な女優さんになったおかげでギャラがアップした?などというのは下らん詮索ですが、長澤まさみクラスの女優を、ラジオ局がギャラでフォローできなくなったのではないか、という憶測は成り立つ気はする。

 昔からラジオを聞いている者としてとても感じるのは、スポンサーがとても減った、ということです。
 「オールナイトニッポン」 なんか、考えただけでも10社以上はあった。
 森平楽器、DVDフジボウ、日本コロムビア、フォーライフレコード、モード学園、S&B食品、千代田学園…以上各社の協賛で全国○○局をネットでお送りしましたとか(笑)。 ハハ、頭にこびりついとる。
 今じゃ多くて2社。 ブルボンとアルパインだけ(笑)。 それすらつかない日もある(つーか全部聞いてませんけど…笑)。
 で、CMがどうなっているのかといいますと、まーず自社のラジオ番組の宣伝告知。 そして自社関連のイベント、コンサートなどの宣伝。 そして困った時のAC(笑)。 元手がそもそもかかっとらんのですよ。

 そんなラジオ局が、プロ野球シーズンになるとどうなるか。

 各社一斉に、プロ野球中継を始めるんですよ。

 これってラジオが、完全に過去のメディアであることを、いやがうえにも喧伝している感覚がする。

 プロ野球って、言っちゃなんですけど、過去に比べるとかなりコンテンツとしての魅力が下落した気がします。
 なのに、未だに巨人戦中心のラジオ中継を、在京キー局はこぞって複数放送している。
 まあ近年はその一辺倒にはブレーキがかかっていますが。

 NHKがラジオ中継した場合、民放と合わせて5局全局がプロ野球中継をしている、というのって、今の感覚から言うととても異常じゃないですかね?

 正直、「ラジオ深夜便」 あたりのまったりとした安上がりそうな番組が1局でもあれば、私はそれを聞きますね。
 製作費なんか必要ないんですよ。
 昔の流行歌とか洋楽とかかけてりゃいいだけの話ですから。
 曲の使用料だけでしょ、ほんなもん。
 NHK第1でやってるゴールデンの時間帯の番組って、かなり出演者のギャラとか金がかかっている割にとてもつまらないものが多い。 改善の余地がありすぎますよ。 若者に媚びを売る必要なんかまったくない、と私は考えています。

 民放だって同じ。
 しゃべりの面白くない芸人とかの浮ついた話なんぞ、ギャラがかかるだけでなんの面白みもない。 もっと安上がりで、もっと面白く出来るはずだ。

 文化放送の早朝番組に、「おは天」 というのがありますが、主に天気の話とリスナーからの投稿だけで成立している番組です。 これだけでじゅうぶん面白かったりする。 パーソナリティは気象予報士の自局アナだったりするわけで、ギャラ的にも低予算で押さえられるし。

 だいたい、夜勤をやってる私のような人間にとって、天気というのはかなり気になるのですが、夜の番組でそれを時々刻々とやってくれるところはほぼない。
 天気なんか、せいぜい夜9時くらいで終わりなんですよ。 夜中の天気なんか、ほぼ絶対にやらない。
 ラジオというメディアを、とてももったいない使い方をしているとしか言いようがない。

 とにかくプロ野球シーズン、野球中継一辺倒、というのだけは、なんとかしてもらいたい。
 どっか1局だけでも、「我関せず」 という、テレ東みたいなラジオ局があってもいい、と私は思うのです(これは主にAMラジオのお話です)(FMは知らない曲ばかりかけていてさらにつまらなすぎる)。

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2012年4月 5日 (木)

「LUPIN the Third 峰不二子という女」 本来の原作に近いと思わせるルパン三世の新シリーズ

 日テレの水曜深夜(実質木曜、ということになりますね)に始まった、「ルパン三世」 の27年ぶりのTVシリーズ。

 ブッチャケ言えば、深夜でないと放送できない危険な仕上がりになっております。

 副題に 「峰不二子という女」 というフレーズがあるように、おそらくこの新シリーズの主役は、峰不二子ではないかと思われるのですが、初回を見る限り肝心のルパンは出てくるし、銭形警部も出てくる。 番組のHPも見たのですがどうにもディティールがうまくつかめない。
 要するに、これまでのテレビシリーズとは違って、毎回不二子チャンは主役級で登場する、ということなんだと思うのです。 チョイ役ではなくて。

 で。

 テレビシリーズの 「ルパン三世」 というのは、各シリーズごとにタッチもテイストも違うのですが、今回の場合は、確かルパンがピンクのジャケットを着ていた、第5シリーズだったかな?なにも参照してなくて正確ではないですが、いわゆる絵柄がモンキー・パンチ氏の原作ものにもっとも忠実だったやつを踏襲している感じがします。
 そして全体に流れる雰囲気は、いちばん渋い内容だった、第1シリーズの前半にかなり準じている。
 特に第1話第2話あたりの、スコーピオンやパイカルが出てきたとき(よく覚えてんな)の雰囲気に似ている気がします。
 確か第1話では、不二子チャンがスコーピオンにコチョコチョ攻撃をされるのですが(ハハ…)、ああいう危険なお色気の表現に躊躇してない。

 躊躇してない?

 だーっ、もう今回は、全開バリバリで大人用のアニメなんだってば!(爆)

 要するにですよ。

 不二子チャン、今回もう、ほとんど裸でアクションしまくってるんですよ(!)。
 R18指定ですな、今回は(笑)。
 とんだエロアニメだった(爆)。

 しかし。

 これこそ 「ルパン三世」 と言えるんじゃないかな~、という気は、とてもするんですよ。
 もともと大人のマンガだったんですから。
 その世界観をそのままアニメにしようとして挫折し、第1シリーズの途中から宮崎駿サンだのいろいろ関わってソフトにしたんですから。

 過去のシリーズに似ている、という評価ではまあそんなところですが、今回のルパン三世は、あくまでスタイリッシュでニヒルでアナーキーで、様式的にかなり見る側を突き放しているような印象を受けます。
 つまり、少々とっつきにくい部分がある。
 特にオープニングの、何をしゃべってるのかよく聞き取れないナレーション。
 しかも絵が思いっきり描き込みがすごいし、線とトレース部分が交差していて、ちょっと状況がパッと見で分からない部分がある。
 スタイリッシュであることにこだわって、見やすさというものを重視してない。

 でもその不親切なところからくる居心地の悪さも、「ルパン」 の本来有している魅力だ、と感じるんですよ。

 注目の声優さんは、私がこないだ見逃した、交代後の声優さんたち。

 ルパンが栗田貫一サンなのはそのままですが、峰不二子は沢城みゆきサン、銭形警部は山寺宏一サン。 第1回は出てこなかったですが、次元は小林清志サン、五右衛門は浪川大輔サンらしい。 このメンツで去年だかやった1作目を、見逃したんですよねー、ワタシ。

 だからその第1作目と比較はできないのですが、沢城みゆきサンの不二子は、かなり往年の増山江威子サンのイメージに忠実なように思いました。 山寺サンの銭形警部は、かなり原作に近い感じ。 マヌケな部分が全くなかった。 少なくともこのシリーズでは、敏腕警部、という感じであります。

 で、物語の設定としては、ルパンと不二子との初めての出会い、ということを第1回ではやっていたので、シリーズ中の年代設定としては、かなり古い部類に当たるかと思います。 次元とも五右衛門とも、多分これから出会っていくのでありましょう。

 しかしエロい(笑)。

 子供には見せられません(笑)。

 しかし第1シリーズ前半の、火薬のにおいがしてきそうな危険な展開で、往年のルパンファンとしては、ゾクゾクしてくる仕上がりなのであります。

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2012年4月 2日 (月)

「梅ちゃん先生」 第1回 朝ドラって本来、こんなものだよなぁ

 NHKの朝ドラというのは、前の番組が終わってからのブランクがまったくない、というのが大きな特徴でありますね。
 これって大昔からのローテーションなので、さして問題ではないのですが、もともと 「朝の時計代わり」 という性格を色濃く反映しているものなんですよね。 つまりその程度の軽い扱いでしかない。

 その、局側の 「どーでもいい」 ような認識に対して真っ向から異論をぶつけた最初が、「おしん」 の橋田壽賀子サンだった、と思うんですよ。 こういう、生活密着型のドラマを、視聴者に初めて腰を落ち着けて見させようとした。

 そしてその究極が、前作の 「カーネーション」 だった、と私は思うんですよ。
 このドラマは正直、傑作すぎました。

 それが傑作であればあるほど、大昔と同じローテーションでおざなりに巡ってくる新番組に対して違和感を禁じ得なくなってくる。 「もうちょっと前の作品の感動を大事にさせてくれよ」、と。 1週間くらいお休みでもいいじゃないか、と。

 だから 「カーネーション」 教信者の(爆)私にとって、今回の 「梅ちゃん先生」 は、冒頭からもう、違和感の連続で。

 いちばん異質に思えたのが、フツーのハイビジョンの画質に戻っていること。 プログレッシヴカメラによる、光の濃淡を調節してその場の空気まで演出させようとする味わい深い画面では、なくなっていたことです。
 物語は終戦の日から始まるのですが、焼け野原になった東京蒲田の風景を、フツーのハイビジョンカメラは、とても冷酷なまでに緻密に映し出すのです。 おそらくCG交じりとは感じたのですが、前作 「カーネーション」 ではこうした奥行きのある焼け野原みたいなことを一切しなかっただけに、その光景の淡々としたところには、正直目を奪われました。

 そして、終戦の日の、堀北真希チャンの家族の朝の光景が展開していくわけですが、どうもこれも、スッと溶け込めない。
 堀北真希チャンがドジで存在感薄いところは分かるのですが、彼女の 「押しの弱さ」 がかなり露呈している気がするんですよ。 あ~これ、もしかしたら尾野真千子サンと比較してないか。 彼女と比較したらみんなこんなもんですよ。
 彼女の父親である高橋克実サンも、厳格なのはいいのですが、ちょっと私としてはそういう高橋サンをあまり期待してなくて(笑)。
 そこに親子げんかの末乱入してくる、片岡鶴太郎サン。 脚本家の尾崎将也サンによると、彼のイメージは 「男はつらいよ」 のタコ社長らしいのですが。 鶴チャンの奥さんのほうが、先日亡くなった三崎千恵子サン、とらやのおばちゃんみたいな感じでした。

 ん~、何か、ベタな感覚だな…。

 そして軍需工場の監察官、朝ドラ常連の徳井優サン。 どうも襟章を見たら、大尉だったような気がするのですが、大尉と言ったら将校でもかなりの地位の人。 そんな人が軍需工場あたりでエバリ腐ってんのかな~などと感じましたが。 知識半分で私もいい加減なことを申しておりますが。

 笑ったのは、ドジな堀北チャンが玉音放送のラジオのコードに足を引っ掛けてぶっちぎっちゃったシーン。 ただし彼女はその 「押しの弱さ」 でかなり恐縮しながら、消え入りそうに謝罪するのです。

 つまりたくましさ、というものをこの主人公というのはほとんど身につけてない。
 そこが却って前作とはコントラストとして面白いのですが。

 それにしても、いちいち話が作り物っぽい、というのが、見ていてちょっと…という感じでしょうか。 まあ第1回が始まったばかりだから評価を下すのはあまりに早計ですが。

 でも考えてみれば、これが本来の朝ドラの世界なんですよね。

 でもですよ。

 私が気になっているのは、この話の脚本が、あの 「白い春」 やら 「アットホームダッド」「結婚できない男」 など阿部寛サンと組んで傑作を生み出している、尾崎将也サンである、ということ。

 こっちを油断させといて、あっと驚くようなことをするからなあ、この人。

 さてどうなりますことでしょうか。

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2012年4月 1日 (日)

「カーネーション」 第26週(最終週) 赤いカーネーション

 ちょっとですねー。

 泣きすぎて、目が腫れぼったいです。

 1週間分1時間半、ほぼずっと涙がとめどもなく流れていました(オーゲサ)。 テーマ曲が流れている時もずっと。

 どうやらこの物語は、主人公が亡くなるまでやり通すらしい…。
 そのことが分かっているからこその、この物語が終わってしまう、という、とてつもない惜別の感情。 小原糸子という巨大な存在の、長い人生が終わってしまう、という、限りない寂寞の感情。
 それが1週間分のドラマを見ているあいだ、とめどもなくあふれていたのです。

 いや、「巨大な存在」、などと書きましたが、親はいつでも、子供にとって巨大な存在であります。 そうでなくてはなりません。

 その親が死ぬ、ということ。

 「前触れがある」 ことをフラグが立つ、などとネットの世界では申しますが、90歳を超えたとなるともう、小原糸子はいつ死んでもおかしくないわけであり。 今週の話、フラグが立ってて、立ちまくってて当然なのであります。

 そしてこの、世にも不敵な物語は、おそらく糸子を最終週のどこで死なせようが自在なのです。 そのタイミングは、常に作り手の掌中にある。

 きっちり額面通り最終回で死なせるようなことはすまい。 そう思えて仕方ない。

 作り手の暴君ぶりを見てきた視聴者にとって、糸子の死がいつ来るのか、というのは、まるで膨らみ続ける風船を手にしているようなものなのであり、それが最終週の、いわれもない緊張感に拍車をかけていました。

 そして作り手は、こちらの危惧、期待、思惑通りに、最後まで 「やらかした」 のです。

 やはり夏木糸子編は、絶対必要でした。
 おそらくこの最終週のこのドラマを見て批判を加える人は、かなり過去に拘泥されるタイプなのではないか、と推察いたします。 彼らが重要視するのは、途中降板を余儀なくされた尾野真千子の無念であり、その理不尽を実行してしまうNHKなど世間の醜さだと思う。

 さらにこのかたがたは、ドラマ的なリアリティの齟齬にも敏感なのではないでしょうか。

 もともと尾野真千子サンが降板したのは、尾野サンが老年期の糸子を演じられない、という局側の判断があったのですが、最終週では尾野サンが夏木サンに交代した糸子の年齢に、オハラ三姉妹が限りなく近い(いや、越えてた?)。
 だのに彼女たちは特殊メイクもなにもせず、交代もしないでそのままの役者で押し切って出演。
 したがって、90を超えた糸子と比較して、かなり若々しいのです。 違和感があるのはどうしてもぬぐえない。
 だったら尾野サンにも老年期(少なくともオハライトコブランドを立ち上げた時点)まで出来たのではないか、とは容易に思いが行くのですが、

 …さてどうなんでしょうね。

 ドラマを見るうえで、裏で展開するいろいろを考えるのは、確かに興味をそそる話ではありますが。
 判官びいきで夏木糸子を受け入れられないまま見ていても、不快なだけだと思うんですよ。 尾野糸子がよかった、などと考えながら見ても、アラが見えるだけだ、と思うんですよ。 とても損な視聴の仕方だと思いますね。 確かに的確な批評眼による視聴の仕方かもしれませんけど。

 いずれにしても私の個人的な考えを申し上げれば、この夏木糸子編をひっくるめて、「カーネーション」 というドラマはNHK朝ドラ史上、最高傑作であります。
 そう、断じさせていただきたい。

 このドラマの欠点は、朝の忙しい時間帯に片手間に見るドラマとしての機能を、著しく欠いていたことです。

 ほんの一瞬で、すべてが語られることが多過ぎて、それを見逃すと、とてつもなく的外れな感想を抱いてしまうことがままあったのです(ただ片手間に見ていても、ちゃんと笑えてちゃんと泣けましたけど)。

 そしてもうひとつの欠点は、公共放送の朝に流すドラマとして、あまりにも内容的に挑戦的過ぎた。

 父親は問答無用で主人公をぶっ飛ばす、主人公は不倫をしてしまう、主人公の娘たちが仲のとても悪いことを露呈しまくる、あげくの果てに問答無用で主役の交代(同時に関係者をほぼ全員ぶっ殺す…笑)。

 それでもそうすることで、「優しさに神経質になりすぎているこの国」 に対して、このドラマの作り手は強烈なアンチテーゼを提示した、と思われてなりません。

 弱者をいたわることが、弱者にとって本当にいいことなのか。
 人に優しい社会というのが、人にとって本当にいいことなのか。

 「ヘタレは泣いとれ」、と主人公はこのドラマで言い切りました。
 それはけっして、ヘタレ(社会的弱者)を貶める言葉ではない。
 ヘタレよ、前を見よ、歯をくいしばれ、いよいよこれからだ、という気概で生きるのだ、というメッセージが、そこにはあったと思われるのです。

 主人公は、自分の生まれ育った大阪岸和田の地で毎年行なわれる 「だんじり祭り」 を、自分の拠りどころ、精神的支柱とした。

 「だんじり」 だけは、いつの世になっても変わらない。

 物語が始まった大正の幼少時から、小原糸子は 「だんじり」 に心酔し続け、そのだんじりと同じ強引さで自らの人生を荒っぽく引っ張り続けた。
 その初回のだんじりと、最終回のだんじりとのあいだには、途方もない時が、流れているのです。 だんじりが、このドラマをほかのあらゆるドラマと決定的に分け隔てする要因であることは疑いがない。 「ミシンは、うちのだんじりなんや」 と主人公に叫ばせた、このドラマの作り手の発想に、私は讃嘆を惜しみません。

 そしてドラマは、そのだんじりの性格を力強く受け継ぎました。

 見る側に媚びない。

 先の分かる展開をわざわざ作っておいて、それを押し通す。

 つまらない小細工を拒絶する。

 かなり不親切な物語の切りかたをする。 「あとはそっちで想像して」、とばかり。

 これらは当ブログにおいて、このドラマを評した数々の特徴です。

 最終週に至るまで、その性格にブレはありませんでした。 尾野→夏木の交代劇は、まったくその最たるものだった、と言っていい気がします。
 そしてこのドラマの収斂の仕方は、すべてを必然と帰した。
 恐るべきドラマでした。





 月曜放送分。

 平成17(2005)年4月。

 91歳の糸子は孝枝(ピンクの電話の都子チャン)と一緒に、2階の部屋の整理をしています。 貞子おばあちゃんの 「神戸箱」。 「ピアノこうて」 の 「こより」。 自分が手がけた服のデザイン画。 すべてのものを糸子はなんの惜しげもなく捨てるのです。 この冷酷なまでの糸子の思い切りの良さに、まず驚かされます。

 そして片付いた2階をぶち抜いてひと部屋にし、そこにだんじりを見に来た人たちが集えるサロンを作るらしい。 年に一回のためにそんなことせんでも、と電話口で呆れる優子に、孝枝は優子のものをそちらに送ると話しています。 新しい部屋の設計を担当するのは、今は糸子の歳と同じ91人にまで膨れ上がった 「糸子のボーイフレンド」、男やもめ会のなかのひとり。

 この、やもめ会の人数が、歳の数だけ増えている、というのにはちょっと注目です。
 もともとこのやもめを囲んだ食事会は、「周防がもし生きていたなら、このような集まりで自らの気持ちを慰める機会を持ってもらいたい」、という糸子の意向で始まっています。
 その人数が歳を経るごとに多くなっている、ということは、糸子が周防に寄せる思いも、年を追うごとに強くなっている、と見るべきではないか、という気がする。
 その糸子の思いは、今週半ばに、悲しい結末を迎えることになります。

 糸子は毎朝新聞の例の女性記者に、2階の改装に臨んだ心境を語っています。

 「まあうちかてまだ、人生がどないなもんかよう分かってませんけど、たったひとつ、自信持って言えることがあるんです。

 うちが何かをして、それが成功した時っちゅうんは、必ず自分やのうて、相手のためを思てした時なんです。

 欲かいて、自分のためにした時は、ぜぇんぶ失敗しました。 そら見事にヘヘヘヘヘ」

 女性記者は、「与うるは受くるより幸いなり」 という聖書の言葉を引いて、それをひと言で言い当てます。 糸子はその言葉に激しく同意する。

 小篠綾子サンは実際クリスチャンだったらしいですが、ここでこの聖書の言葉を 「なにソレ?」 とか女性記者に訊き返している構図は面白かったですね。
 このドラマにおいて糸子は、常に仏壇に手を合わせて亡くなった人々に語りかけていた。
 こういうことってクリスチャンには、あまり機会がないように思えます。 異界の人々との対話って。
 クリスチャンであった人をわざわざ仏教徒に設定し直して先祖をクローズアップする手法をこのドラマで取っていたことには、大きな意味を感じます。

 後日、結局その女性記者のその言葉が見出しとなった自分のインタビュー記事を尻目に、糸子は出前を注文したウナギが来ないことにイライラして駄々をこねています。 記事を読みながら 「こんなに立派なことを言っといてなんと俗っぽいことを」、と呆れる孝枝に、糸子は 「こんなん(記事のようなこと)、人一倍欲深い人間やないとゆわんで」 とどこ吹く風です。 「あーもー。 うなぎー。 まだかいなー。 はよー」(笑)。

 「言ってることとやってることが違う」、というのは、人の常のように思います。
 みな、自分をよく見せたい。 口では偉そうなことを言ってても、それはなかなかそう出けへん。 私だって、ブログでは家族がかけがえのないものだとか言っていながら実際は仏頂面してたりしますからね。
 この糸子の子供っぽい態度にはそんなことを感じるのですが、同時に糸子が語った言葉には、さらに含蓄があります。

 「はじめから欲ないような人は、こんなこと(「受くるは与えうるより幸いなり」)考えんでええんや。 欲深いからこそ、散々痛い目に遭うたあげくに、たどりつくんやないか」

 周防のことは痛い目だったのかな、なんてこのとき、ちょっと考えたりしました。 糸子の周防への愛が、相手のことを思っていた 「相手に与える愛」 だった、というのなら、結局テーラー周防がそこそこ繁盛したことを幸せだと解釈してもいいだろうし、逆にそれが不倫とか自分本位な愛だったのだとすれば、弾劾集会まで開かれて散々な目に遭うた、ということやろし…。

 イカン、まだ開始6分だぞ。 また限りなく長くなりそうだ…。

 ここで先週のラストの回想シーンです。 「待っとれ…!」 と岸和田中央病院の廊下を突進する糸子。 その先には、イケメン院長龍村とにこやかに向き合っている奈津がいます。 糸子の顔を見ると、奈津はあからさまに不機嫌な顔になるのですが(笑)、糸子は構わず、喜々として彼女と記念写真を撮るのでした。

 「(あれから4年。 うちには、ふたつ手柄があります)」

 ひとつは、オハライトコ名義で紳士物のラインを立ち上げたこと。 もうひとつは、その奈津を老人ホームに入れることに成功したことでした。
 龍村の口添えで、渋る奈津をホームに入れたことは、糸子にとっては目の届くところに奈津を置いたという点で安心感があったろうし、少なくとも身寄りもなくひとりさびしく暮らしている奈津にとってホームのほうがいい、という判断もあったのでしょう。 奈津のその後の様子は、そのままこの物語の最終シーンへと、つながっていきます。

 朝。

 また今日も目覚めることが出来た、という喜びに浸るかのような、糸子の表情。
 ラジオ体操を腰を痛がりながらやり、「スミレの花咲く頃」 を鼻歌交じりに朝食をひとり、作ります。 「スミレの花咲く頃」 は、終戦直後に 「この曲が歌えるようになった!」 と、小原家の人々が喜々として歌ってましたよね。
 糸子はそんな、老人のひとり暮らしの侘しさと、曲がりなりにも顔を突き合わせてうまく付き合っているように見えます。

 そしてやはり、仏壇に手を合わせることも忘れません。 「おはようございます。 今日もいちんち、よろしゅうお願いいたします」。 遺影を見上げて微笑む糸子ですが、どことなくその表情は、それまでの同様のシーンと違う。 異界が遠かったそれまでのシーンと比べて、「うちももうすぐ、お父ちゃんらの仲間入りや」 という親近感を、糸子の表情の中に見ることができるのです。

 そして見るテレビはすでに薄型。
 見ている朝ドラは 「ファイト」 です。
 「なあなあ、どないなんやろな、優のお父ちゃんとうとう家売ってまうで」「まあ一家離散ちゃいますか?」 という孝枝との会話が笑える。 「せやけど、もう、うちの話もドラマにならんかいなぁ!」「だからなりませんて!」「ちょっとまたテレビの人に訊いといて!」「だからもう何べんも訊きましたて!」「もういっぺん訊いといて試しに、なぁ!なぁ!孝ちゃ~ん!」(爆)。

 この、朝ドラまでネタにするこのドラマの洗練された自虐性には舌を巻きます。 そしてその自虐性を逆手にとり、このドラマはとんでもない 「ループ」 を最後に用意してくるのです。 そのギミックによってこの物語は、最初と最後が見事につながり、まさに仏教的な輪廻を形づくることとなる。 小原糸子はまだ生きているんだよ、ということを示してくれる。 「永遠」、そして 「回帰」 という思想をドラマに絡ませることに、成功したのです。

 荷物が何もかもなくなった2階。 午後の日差しが降り注いでいます。

 そこにひとり佇む糸子。

 カメラはゆっくりと、それを俯瞰していく。

 そして糸子も、そのカメラと同じように、いろんな思い出を噛みしめながら、がらんとした2階を見渡していくのです。

 糸子は腰を曲げながら、静かに座り、年月の染み付いたままの畳を、いとおしそうに撫ぜます。
 仰向けに横たわり、畳の感触を、大の字になって味わう糸子。

 この、なんとも時間をかけた、ゆっくりとしたシーン。
 私は知らずに、涙を流していました。

 過ぎ去った年月を、「色褪せた畳」、という方法で喚起させるこの手法。
 糸子の脳裏には、幼い日にここでアッパッパを縫ったこと、子供たちと川の字になりながら寝たこと、周防と抱き合ったこと、聡子と一緒にデザイン画をトレース競争したことなどが、浮かんでは消えしていたに違いないのです。

 ところがそんな甘く淡い過去の思い出も、次のシーンではものの見事に破壊されていきます。 まったく容赦がない。

 業者がその2階の天井を引っぺがし、大きな音と共に天井板は落下します。 もうもうと立ち上がる煙。
 涙ぐんでそれを見守る孝枝なのですが、対照的に糸子は、挑戦的な微笑みの表情を崩しません。

 「なんや切ないもんですね、思い出のある部屋が壊されるっちゅうんは」 と、糸子よりその部屋に全然なじみ薄い孝枝が言うと、糸子はこう答えるのです。

 「90過ぎたら、思い出なんぞもう、どうでもええで。

 …それより、今と、これからや。

 こ・れ・か・ら!」

 この糸子の、過去を振り返らない態度、というのは、私にとって結構衝撃的でした。
 90超えたら、思い出なんぞもう、どうでもいい。
 それが、平均寿命を超えた人の、偽らざる心情、なのでしょうか。

 「懐かしい」、ということについて、私はこれまで結構肯定的な考えでいたような気がします。
 太宰治は 「浦島さん」 のなかで、乙姫がなぜ浦島太郎に玉手箱を持たせたのかについて言及していました。
 つまり、太郎を一瞬にしてお爺さんにすることによって、竜宮城での思い出は遠い記憶の出来事になる。 そのことによって乙姫は、竜宮城での思い出を究極的に昇華させたのだ、と。

 思い出は、遠くなればなるほど、甘美になる。
 その太宰の論理は、なるほどヒザポンでした(笑)。 私は心からその考えに共感できたのです。

 しかしここでの糸子の姿勢は、その対極をなすものです。
 思い出が、意味をなさなくなる年齢。
 そんなものが、長生きしていると、来るのでしょうか。

 糸子は孝枝が健康を気遣って止めるのも聞かず、昼ごはんに肉(ヘレカツ…笑)が食べたいと言い出します。 「かめへん! うちは、今を生きるんや!」。





 火曜日放送分。 コリャ終わらんぞ…。

 前回よりひと月後。 2階の改装が完了しています。
 「今を生きる」 糸子は、過去への感傷など微塵も見せずに、出来上がったばかりのサロンを満足げに見ながら、ワクワクする気持ちを抑えきれないようです。
 ベランダの窓に腰掛けながら、「ゴンドラの唄」 を糸子は口ずさむ。 「命短し、恋せよ乙女」、です。 黒澤明監督の 「生きる」 で、志村喬サンが印象的に歌った、あの歌。
 でもそのハミングは一瞬。
 思えば、志村サンのそれは、仕事をやりきった男が自分の残り少ない命を惜しみいとおしみながら歌う性格のものでしたが、糸子のそれは、「いよいよこれから」、の気概、決意の上に成り立っている攻撃的な歌なのです。 糸子は間髪をいれずに、このサロンで着物のリフォーム教室を開こう、と決意する。 だんじりの時だけしか使わんのは、もったいない。

 「やるっちゅうたら、やるんや」。

 孝枝の有無を言わせぬ突っ込みもものともせず、その 「撫子の会」 というリフォーム教室は開講します。 言わばこれも、戦時中に糸子が始めた 「着物をモンペにする教室」 の応用だった、と言ってよい気がします。 この会には、呉服屋の栄之助も参加する。

 ここで受講者たちは、着物にハサミを入れることに、結構躊躇します。
 これは戦時中の女性たちとは対照的な反応です(だったと思う…笑)。
 思えば戦時中は、明日をもしれない命だからこそ、女性たちは着物に大胆にハサミを入れてモンペにしつらえ直し、「今を生きよう」 としていた。 八重子も出征する泰蔵に自分のきれいな姿を焼きつけてもらおうと必死になっていた。
 今は 「もったいない」 という気持ちが、物を必要以上に大事にしようとする気持ちに結び付いてしまう。 でもそれで、その着物を 「生かす」 道が閉ざされてしまうことのほうが、「もったいない」。 糸子が考える 「もったいない」 という質は、受講者たちとは違うのです。

 「ほんなセコイことゆうてたら、日本中のたんすに、肥やしが増えていくばっかしです。
 一日もはよ、一枚でも多く、着物が生き返ってくれるほうがずっとうれしい」。

 会がはけたあと、糸子はそのサロンで栄之助と酒を酌み交わしながら、もうひとりの(元?)アホボン、譲のことを訊いています。 譲の父親は、先月亡くなったばかりだったのです。
 年齢的に考えると、譲の父親は、戦時中糸子に泣きついてきたオッチャンの息子だったから、たぶん糸子より年下だと思う。 糸子はここでも本当は、いわれのない感情の中にいると考えられるのです。
 その感情を表には出さず、糸子は 「今度譲を呼んできいや」、と栄之助に言い渡します。

 栄之助に連れられてやってきた譲。
 糸子に会うなり、緊張の糸が切れてしまったように、泣きだしてしまいます。
 おそらくそれまで、必死でこらえていたのではないでしょうか。 跡取りとして。
 糸子はとっさに涙を拭くもんを持ってくるのですが 「これ台拭きや」(笑)。

 「いやー、…参りました。 おふくろんときかてこたえてたはずやけど、今回ほどと違いましたわ」

 しみじみと語る譲。

 「歳のせいですやろか」「はぁ? あんた、今、歳なんぼや」「45です」「あと、倍ほど生きてから、ほんな言葉は使い」。
 跡取りとして、自分が主体的に商会を支えていかなければならない。 その不安と怖さにこたえているんや、と糸子は指摘します。
 「跡取り」 というのは、やはりそれまで親の庇護のもとにあったか、自らが率先して会社を引き継ごうとしていたかの覚悟の違いによって、やはり決定的に違う、と感じますね。

 「けどそら、誰もが通らなんならん道なんやで」

 糸子は善作たちの遺影を一瞥します。 ふと見ると、栄之助まで泣いている。 「あんたまで泣くことないがな」 と呆れる糸子に、栄之助は 「僕もですやろか?」 と訊いてきます。 「いつか僕も、通らなあかんのですやろか?」。

 「そら…あんたのお父ちゃんらかて、不死身やないやろしな」「…なんや、切ないですね…」。

 親が死ぬことなど、誰だって考えたくはない(よほど憎んでいる場合は別ですが)。
 親が後ろに控えている、ということは、限りない安心につながっている場合が多い、と私は思うのです。
 親がいるからこそ、子供っぽいこともできるし、甘っちょろいことも考える。
 思えば糸子は、善作が酒に溺れていたときから、その意識というものが飛んでいた気がするんですよ。 自分が主体となって、ひとり立って、小原の家を守っていく必要に迫られていた。 糸子はアホボンたちを諭します。

 「はぁ…! まぁだまだや! (譲に)あんた、自分のお父ちゃんのこと、思い出してみ。 あの頃、会長確か、65、6や。 ほの歳で、大事な奥さんに先立たれて、どんなけ寂しかったか、考えてみんかいな。
 ほんでもアホ息子と社員らのためにどないか立ち上がって、最後の最後まで支えてくれはったんや。
 あの立派なお父ちゃん見習うて、やってき!」

 おそらく覚悟が座ってなかったほうの口なのでしょう、譲はそんなの無理です、僕そんなに強ないですもん、と答えます。

 「ほんなん、誰かて強ないわ。

 弱ても、どないか、つないでつないで、やっていくしかないんや。

 みんなそうや。 …うちのボーイフレンド、見てみ! 91人もおるがな。 群れたり、ごまかしたり、慰めおうたりしてるうちに、人間はやっていけるんや。 あんたらがやっていけんわけないがな!」

 栄之助は、自分の女房がもし先に死んでしまったら、糸子のボーイフレンドの中に入れてください、と頼むのですが、そんとき糸子は130歳? 糸子は呵々大笑し、そんなあり得へん未来に思いを馳せるかのようです。

 「しっかりしいや。 アホボンらが」。 酒の席は進んでいくのです。

 このシーン。 私も自分の両親がまだ生きていることの有り難さとか、糸子という頼りがいのある人物に寄り添うアホボンらの姿とかを見ながら、なんか涙が少しずつ出てくるような感じでした。 さりげなくも名場面だった気がします。 なんか、尾野糸子が重なって見えるんですよ。 人生を生きてきた人の重み、などと言うと、却って重みがなくなってしまうようですが(笑)、まさにビッグマザーの存在感、でした。

 後日、おそらくその夜のお礼にとやってきた譲が持ってきたカステラをみんなでつまみながら、孝枝が 「これ、前に金箔が張ってあったカステラ?」 と指摘します。 バブルの狂騒の象徴だった、あの金箔カステラ。 「余計なもん貼らんかて、じゅうぶん価値あんでなあ」。 糸子が感慨をもらします。

 「(なぁ、譲。

 キラキラを剥がされて、むき出しになってしもた40男の本性は、あんたが思てるより、もっと、ずっと、きれいなんやで…)」。





 水曜日放送分。

 前日放送分から7カ月後。 平成17(2005)年12月。

 同い年のご婦人と 「うちらまだまだこれから、や!」 と談笑している糸子。
 孝枝は優子から入った、糸子への仕事の依頼を断っています。
 入れ替わりに糸子のケータイ(着メロ 「銀座カンカン娘」…笑)に優子から電話が。 糸子は結局孝枝が断った仕事を引き受けてしまいます。 糸子の体調を気遣って断っていた孝枝は怒り心頭。 例によってアゴの肉をブルンブルンふるわせます(爆)。
 ここで浮き彫りになるのは、母娘そろって陥っている、ワーカホリック(仕事中毒)の実態。
 これも、このあとのための重要な前置きであります。

 そして東京。 へは、もう何度も行きましたね(ん泣いてどうなるのか、はやめました)。

 優子からの依頼、というのは、病院での講演。
 院長や看護婦長との顔合わせの席に同席したのは、前の看護婦長をやっていたという、川上という名の女性(あめくみちこサン)です。
 昔、岸和田に住んでいたことがあって、当時オハラ洋装店でやっていたファッションショーの記事を友人から見せてもらって、感動しました、とのこと。 それで今回は是非お手伝いさせていただきたい、というのです。

 講演の様子は、ええ所でその先がカット(爆)。 相変わらず不親切だけど、まあ糸子の説教が今週は多いからいーか(ハハ…)。
 講演終了後、結局優子も時間が空いたのでこの病院に来てしまった、と孝枝は連絡を受けます。 優子を出迎えに階下へ降りていく孝枝。

 お茶を運んできた川上に、糸子は話しかけます。
 一期一会を大事にする糸子らしいな、と思って見ていたのですが。

 川上との談笑のなかで、糸子は彼女が岸和田におったという割には、岸和田弁が出てこない、と指摘します。

 「はい。 それは、あのぅ…。

 わたくしは、10歳まで、長崎におりましたので…」

 長崎…。

 それを聞いた途端、糸子の表情が固まります。

 川上は、意を決したように話します。

 「先生、実は…。

 …わたくしの死んだ父が、いっとき、先生のところで、お世話になっておりました」

 その言葉で、すべてを察したように、早くも涙ぐんでしまう、糸子。

 長崎。

 死んだ父。

 …周防さん。 亡くなって、しまったの…。

 糸子は声を詰まらせながら、尋ねます。

 「お、お宅……どちらさん……」。

 「はい、わたくしは……」

 刮目する糸子。 「…周防龍一の娘でございます…」

 茫然と立ちすくむ優子。

 いつの間に、その場にいたのです。

 自分の娘優子がいるとは知らず、顔をくしゃくしゃにして、周防の死を悲しむ糸子。 泣けた…。

 川上ははっとして立ち上がり、かなり恐縮します。 「申し訳ありませんっ! 失礼いたしました…!」 その場を逃げるように去る川上。 優子とばったり、顔を合わせてしまいます。

 その昔、彼女の弟から突き飛ばされた記憶のあった優子。 川上はおそらく、いま目の前にいるのが誰なのか、分かっていたはずです。 優子は有名人ですから。 川上は優子からも逃げるように、その場を立ち去ります。 彼女を追いかける優子。

 泣いている糸子に駆け寄る孝枝。 糸子はとうとう、両手を顔に当てて、号泣してしまいます。
 先に指摘しましたが、男やもめの会を大事にしていた糸子は、やはり片時も周防のことを忘れていなかった、と思うんですよ。 生死の分からなかった周防へ、糸子は会を通じて、エールを送っていた。 それが、彼が亡くなっていたことを知った落胆。
 さらに糸子は、周防の家族にこれまでただの一度も遭ったことがなかった。 彼の家族に対する申し訳なさ。
 それが糸子を、年甲斐もなく号泣させた、と思うのです。

 そして優子と川上。 お互いにかつてのことを謝罪しています。 川上は優子に、涙ぐみながら話します。

 「人を憎むというのは…苦しいものです…。

 私にとって、ただひとつ救いだったのは、…父の相手が、先生だったということでした…。

 憎むには、当たらないかただと…。 いつ頃からか…。 ある程度歳をとってからですが、思えるようになりました…。

 …それでも、汚い感情が、まったくなかったかと言えば…嘘になります…。

 でもそれも…さっき…先生の目を見て、消えました…。

 …先生も…。

 ずっと思い続けてくださったんだなと、…思いました…」。

 お互いに泣いてしまう、優子と川上。
 この話のくだりは、いかにも架空の話ぽいのですが、そこには脚本家渡辺あやサンの、限りない愛情がこもっているような気がいたします。 現実には決着がついているかどうか知らない、糸子の不倫。 物語的にきちんとここで、ケリをつけたと感じました。 「おそらく現実の小篠綾子サンも、このような気持ちだったに違いない」、と。
 号泣し続ける糸子。
 その独白に、一瞬の夢の象徴として、闇の中に花火が上がっては消えていくシーンが重なります。

 「(長い長い、記憶を持ってる。

 それが、年寄りの醍醐味と言える。

 守り続けて、闇のうちに葬るはずやったもんが、うっかり、ひらいてまうこともある。

 老いぼれた体に轟くこと、打ちのめすこと、容赦のうて。

 ほんでも…。

 これを見るために、生きてきたような気もする…)」

 古い過去をことごとく、自分の周囲から捨て去って、前だけを向いてきたように思える、糸子の晩年。
 けれども糸子は、過去を捨てたわけではなかった。
 自分の記憶、という、いちばん安全な場所に、それをしまい込んだだけだったのです。
 歳をとっていくごとに、自分の好きな人が増えていく。
 そう言って、さめざめと泣いていた壮年期の糸子もいました。
 年月は、思い出したくない記憶、忘れたくない記憶を、互いに紡ぎ出し、あるものはそのまま消え、あるものは思わぬところで決着したりする。
 生き続ける、ということ。
 深く深くその意味が、見る側へと伝わってくるのです。





 木曜放送分。

 衝撃的なシーン。

 ストレッチャーで運ばれていく糸子。

 「小原さん! 大丈夫ですか! 聞こえますか! 分かりますか! 小原さん! 小原さん!」

 糸子の視線から見たと思われる、病院の廊下の天井。 医師や看護婦たちの声と共に、下へ下へと遠ざかっていきます。

 「(ん…?

 なんや?

 どないしたんやったかな、うち…)」。

 平成18(2006)年3月。 糸子が亡くなる月です。

 糸子の回想。

 ひな人形を飾る孝枝たち。 コデマリの枝を取ろうと立ち上がって台所へ向かった糸子。 胸を押さえてその場にうずくまってしまいます。 早く気付いて、孝枝さん!

 「(せやった…)」

 再び病室。

 「(こら、エライことになってんやなあ…)」

 集中治療室にいると思われる糸子。 優子は孝枝からの電話を受け取り、愕然とします。 「『何とも言えん』 てなんや!」 ケータイに向かって大声をあげてしまう直子。 祈るようにケータイを握り締めます。 ロンドン、チケットを取ろうとイライラしながら電話しているミッキーのそばで、怖くてたまらないような表情の聡子。 三姉妹の誰もが、いつかは来ると思っていた、そして絶対来てほしくなかった瞬間に、立ち合っています。

 降り立つジェット機。 さまようように病室に辿り着いた聡子は、病室の中から漏れてくる笑い声に、いったいどうしたのか、これは何かの冗談なのか、という顔でドアを開けます。

 見ると、深く寝入っているように見えるお母ちゃん、そのベッドの下に寝床をしつらえた優子と直子が、久しぶりに見るお互いのスッピン顔を、笑い合っているのです。 「いや~、姉ちゃんのスッピン久々に見たら、ほんまごっついことになっててなあ」「あんたかて人のこと言われへんやろ」「鼻…ブタ鼻になっとる…ハハハ」「アハハハハハ」。

 なんと不謹慎な、母親が危ない、というのに、という感想をここで持つ人は、よほど思慮が浅いと反省せねばなりません。 優子と直子は、笑っていなければ平常心を保てないのです。 こんな解説そもそも要りませんが。

 その心情を思うと、「ブタ鼻」 に笑ってしまう自分がいると同時に、その悲痛に泣けてしまう自分もいるのです。 悲劇と喜劇は同じステージに存在する。 そのことを痛感します。

 母親と一緒に3人の娘たちが眠る。 こんな、おそらくだんじり祭りの時でもあまり実現しそうもないシチュエーション。 優子と直子は、またしょうもないことで口げんかをするのですが、聡子はやはり末っ子だからか、何よりも先に不安ばかりが立ってしまうようです。 「どうなん?…お母ちゃん…」。

 「うん?」 と優子。

 「今、…どうゆう状態なん?」

 答えられない優子を見かねたように、直子がぶっきらぼうに口を開きます。 「今夜が山やて」。

 それを聞いた聡子は、泣き出してしまいます。
 いちばん末っ子だから、おそらくいちばんお母ちゃんに甘えたがりだった聡子。 背を向けて泣きじゃくる聡子を、後ろから直子が抱きしめます。 かなりの強がりの直子も、目に涙をためているのが確認できる。 優子は言わずもがな、涙をぼろぼろ流しています。
 3人の泣き声が病室に小さく響き渡るなか、今夜が峠という糸子は、こんこんと眠り続けています。

 翌朝。

 小鳥の鳴き声に、糸子はかすかに、目を開いていきます。
 眠りから覚めた優子が、それに気付く。
 「お母ちゃん…? ちょっと、えっ? お母ちゃんっ!」。
 それに気付いた直子と聡子もベッドに駆け寄り、大騒ぎとなります。 「やった、起きた!」「お母ちゃん、起きた!」。 あまりのうるささに、糸子はかなりメーワクそ~な顔をします(爆)。 「ううん…ちょっと…うるさい…あんたら…」。 見ているこちらはもう、笑ったり泣いたり、忙しい(ハハ…)。

 途端に再びワーカホリックモードに突入する娘たち。

 それは見方によってはかなり冷たいようにも思われるのですが、これが小原家の流儀なのです。 他人がとやかく言うような話じゃない。 これを突っ込む人は、かなり無粋だと言わざるを得ません。 それが証拠に、ほかならぬ糸子が、娘たちの忙しそうな様子を見ながらも、うれしそうに微笑んでいる。 お母ちゃんがこれでええ思てんねん。 なんの差し障りがあろうか。

 糸子のそれまでの人生をたとえドラマであれ見てきたならば、彼女が出産の直前まで仕事をし、聞かん坊怪獣の直子を夫勝の実家に預けたことぐらいは覚えているはずです。 そんな仕事一辺倒だった糸子、でも、娘たちとの間にはちゃんと信頼と愛情が存在している。 それでじゅうぶんではないですか。

 つまり、小原家においては、何よりも自分が仕事に打ち込めることが、第一義なのだ。 ほかならぬ母親の糸子が、その規範を娘たちに見せつけてきた。
 確かにそれで失うものもあります。
 でも彼女たちが結び付いているのは、仕事に対してまず自分がケツをまくっている(下品な表現で失礼)という覚悟によってなのです。

 すっかり正装して母親にあいさつをする娘たち。 母親は微笑みながら、こう言うのです。

 「心配かけたな。 気ぃつけて。 おおきにな」。

 娘たちが出ていったあとの病室で、糸子は微笑みながら、もう一度思うのです。

 「(おおきに。

 優子、おおきにな…)」

 仕事へ戻っていく優子。
 その優子に慌てた様子で話しかけている直子。

 「(直子。 …おおきにな…)」

 ケータイでミッキーと話している聡子。

 「(聡子。 …おおきにな…)」

 そしてオハラ洋装店の様子。

 「(ふみちゃん。

 浩ちゃん。

 まこちゃん。

 …おおきに…)」

 あ~もうダメ。

 涙腺決壊。

 フラグが立ちまくっとる…って、当たり前やんか~。 もう終わりなんやさかい。

 書きながらまた泣いてます(ハハ…)。

 「(おおきに…。
 …
 …
 …
 うちは、果報者(もん)です…)」。

 このセリフ。

 糸子が結婚式のときに、祝宴に集った人々を見ながら思ったセリフと一緒でしたね。
 あの時も、尾野糸子の目からは、ただ一筋の涙が光っていました。
 そして今回、夏木糸子の目からも、ただ一筋の涙が。
 自分がまわりの人に生かされている。
 そしてその思いまでも、あのときと一緒だったのです。





 金曜放送分。

 糸子が総婦長の相川から、化粧はしたらあかんゆうたやないですか、と怒られています。 糸子がおめかししてまで会わなければならなかった人というのは。

 アホボンたちでした(笑)。 糸子は彼らには、最後まで頼れるオバチャン、でいたかったのでしょうね。 見舞いのお花の洪水に驚く彼らに、「おせんにキャラメル」 じゃなかった(アンタ年なんぼやねん?)なんでもあるでよ、ハヤシもあるでよ(ちゃうちゃう)と食べ物を勧める糸子。

 「先生若なった」「好きな人でもできたんちゃいますか」 と勘繰るアホボンたち。 病室で世話をしていた里香も揃って、スワ恋人の出現か、と色めき立つのです(表現古いよね、いちいち…)。

 けれどもまんざらでもない顔の糸子は、こう考えていたのです。

 「(…確かに、恋した時とよう似とる。

 あの朝、目ぇが覚めてから…)」

 回想。

 峠を越した糸子が小鳥の鳴き声に目覚めたとき、娘たちが3人揃って眠っているのを、糸子はずっと眺めていたのです。

 「(…世の中が、えらいなんでもかんでも、きれいに見えるようになってしもた)」。

 お見舞いの花を眺める糸子。 少しばかり、目が潤んでいます。
 ノック。 里香が入ってきます。 アホボンたちを見送ってきました。

 「おおきになぁ…」。 糸子は里香にお礼を言います。 里香はその改まった調子に、どこか不吉なものを感じ取り、ちょっと怒ったように微笑んで言うのです。 「そんな…しみじみ言わないでよ」。

 「フフ…おっかしか?」

 「おかしいよ。 見送ってきただけなのに」

 糸子はその場にしゃがんだ孫の髪を撫ぜます。 「あんた…。 きれえやなあ…」。
 里香は泣きそうになりながら、おばあちゃんに抱きつきます。 ああもう、またダメだ…。

 「どないした…?」

 「…」

 無言のまますがりつく里香。 もしかすると、かつて直子が千代に頼んだように、「長生きして」 と言いたかったのかもしれません。

 そしてまた、ひとりぼっちの病室。

 午後の柔らかい日差しの中で、糸子は再び、静かに目を閉じるのです。

 平成18(2006)年3月26日。

 ロンドンの聡子のアトリエ。
 ミッキーが 「今日は母の日だから」 と、赤いカーネーションを買ってきています。
 ケータイが鳴ります。
 声の主は、優子です。
 その様子は、とても重苦しい。

 「聡子…?」

 「優子姉ちゃん。 どないしたん?」

 ザワザワとした気持ちを抑えながら、聡子が訊きます。 電話口の向こうから、鐘の音が聞こえます。 「…もしもし…」。 無言のままの優子。

 「あんなぁ…。 聡子…。

 …お母ちゃんがなぁ…」

 「………嘘や………」

 その先を聞かないうちに、聡子は口走ってしまいます。
 当方またまた涙腺決壊。

 「………亡くなったよ」

 この言葉を聞かないうちの、聡子のあのセリフ。 こういう泣かせ方があったか。 あ~もう、ダメだぁ~。

 聡子は泣き顔になっていきながら、再び繰り返します。 「嘘や…」。

 そしてもう一度。 「…嘘や…!」。

 あのお母ちゃんが、死ぬはずがない。

 あんなけ威勢のええお母ちゃんが、死ぬわけない。

 その場に崩れ落ちてしまう聡子。 号泣する聡子に駆け寄るミッキーたち。 ミッキーの手には、「生きている母親」 のための、赤いカーネーションが、鮮やかです。

 ケータイを握り締めたまま、優子のほうも涙を抑えきれません。 後ろには同じ悲痛な表情の直子。 さすがにこの時ばかりは、姉の肩に手をかけて共に泣くのです。

 病室の外で涙にくれる、オハラ洋装店の従業員たち。

 相川総婦長。

 孫、ひ孫たち。

 ベッドには、白い布がかぶせられた、糸子の姿。

 泣いて、笑って、啖呵を切って、駆け抜けていった、糸子が動かぬ姿で、そこに眠っているのです。

 オハラ洋装店に戻ってきた優子や直子、従業員たち。 みな、呆然としたままです。

 「まだ見てはらへんのとちゃいます?」 孝枝が不意に口を開きます。 そして2階のサロンに、優子たちは案内されるのです。

 感嘆の声を上げる優子と直子。 そこに漂っている母親の声を、的確に感じ取っています。 そしてちょっとしたくぼみを見つけ、「ここに写真飾ってな、ちゅうことやで」 と苦笑してしまう直子。

 「ほんでここに、花置いてや」。

 先日放送されたNHKアーカイブスで、実際の話として、このサロンの間取りが小篠綾子サンの葬儀をする際にぴったりはまった、という話をコシノジュンコサンがされてました。 「自分の葬儀までプロデュースして逝ってしまった」、と。

 「はぁ…。 ほんま、かなわんなぁ…」

 優子が絞り出すようにつぶやきます。

 「ほんまなぁ…」

 直子も完全に負けた、という表情です。

 優子は孝枝に向かってこう言います。

 「やっぱり、うちらの何枚もうわてや、あの人…」

 やはり、落とし所をここに持ってきはったな、このドラマ。 ここやないかと思てました。 いくら娘たちが世界的なデザイナーでも敵わない、母親の巨大な存在。
 しかしまだ金曜やで。 これもまた、やっぱり、や。 絶対フツーのタイミングで亡くなるとは思わへんかった。 どこまでやねん、このドラマ。

 しかしこのドラマには、まだまだ驚天動地のギミックが、隠されていたのです。
 それは土曜日放送分にて。

 そして。

 葬儀の日、聡子が、ミッキーから受け取った赤いカーネーションを胸に、オハラ洋装店に入ってきます。

 棺には、あんなけ大きな存在だった、糸子の亡き骸が。 信じられない、という表情でそれを見下ろす、聡子。

 泣きながら、聡子はやっと母親に声をかけます。 「…お母ちゃん」。

 なにも答えない糸子。

 「…ただいま…!」

 動かない糸子は、やはり信じられません。 あんなけ精力的に動きまわっていたからこそ、その悲しみは増幅する気がする。

 聡子は、真っ赤なカーネーションの花束を、糸子の亡き骸に捧げます。

 「イギリスはな…。

 母の日やったんやで、昨日…。

 …ごめんな、お母ちゃん…。

 …娘のくせに、…見送ることもでけんで…、ごめんな…!」

 真っ赤なカーネーションに照らされたように、頬を赤く染めたように見える、糸子の表情。 先ほどと違って、まるでそれは、笑っているようです。

 「あなたの好きな花は何?」

 「花ですか? …カーネーションです」

 「どうして?」

 「『あの花は、根性ある』 ておばあちゃんが」

 「根性?」

 「『ほかの洋花と違うて、カーネーションは、簡単にしおれへん。

 カビ生えるまで咲いてる』 て、感心してました」

 「(笑って)まあいいわ。 カーネーションね。 じゃあ、カーネーションになったつもりで歩くの」

 「カーネーションですか?」

 「そう。

 カーネーションの花、堂々と咲いているでしょ?」

 「堂々と…」

 「恥ずかしがって咲かないカーネーション、見たことある?」

 「そらないですけど…」

 「ただ無心に咲く。 それでいいの」

 ちょっとドラマには出てきませんでしたが、再掲させていただきました。 糸子が根岸先生に連れられて、初めて洋服で岸和田の商店街を歩いた時の、やりとりです。

 まさに、「カビが生えるまで」 無心に咲き続けた、糸子の人生。

 真っ赤なカーネーションは、糸子の中に流れる血、そのものだった気がするのです。





 土曜日放送分。 最終回です。

 平成22(2010)年9月。

 今年もまた、だんじりの季節です。

 糸子の遺したサロンには、糸子の生前と同じように、大勢の人が集まっています。
 ジョニーはご機嫌ななめ…じゃなかった、すっかり中年太り…って、やっぱりモデルはジュリーかよ!(ハハ…)。 これじゃジョニー・デッブだ(下らないオヤジギャグ…)。
 浩ちゃんは初めて会う斎藤源太にドキムネです。 すごいファンだったらしい。

 そして思わぬ朗報だったのは、末期がんだった加奈子が、どうも回復している様子なこと。 いや、寿命を延ばしている、といったほうがいいのかも。

 そのたびに糸子のほほ笑む写真が映されます。 まるでそのことを一緒に喜ぶかのように。

 聡子は優子が手招きしているのに気付きます。

 「なんか今、テレビ局の人が来はってなぁ…」

 「朝ドラ?」 訊き返す直子と聡子。

 「朝ドラって、お母ちゃんがよう見ていた、あの朝ドラ?」 と聡子。

 「みたいやで…。 どうする?」

 「ええやん! お母ちゃんようゆうてたやん、『うちの話も朝ドラになれへんやろか』 って」 大乗り気の直子。

 「いや…せやけどなぁ…」 優子はどうもはっきりしません。 自分らの仲の悪いのを暴露されたんではかなわん、ということらしい(爆)。 ワロタ。

 この二重構造。 朝ドラのなかで朝ドラの話題で盛り上がる、というのがまず面白い。
 その話はいったん、だんじりの山車がやってきたことで立ち消えになります。
 窓際に集まっていく人々。 巨大な山車の振動で揺れるグラス。 通り過ぎていくだんじり。 それを糸子の写真が、見守っています。

 平成23(2011)年10月。 「カーネーション」 の放送開始の月やん(笑)。 パラレル的展開ここに極まれり。 どこまで不敵なのか、このドラマ。

 そしてついに、とうとう、死んだ糸子(夏木サンです)が再びナレーションを始めるのです。

 「おはようございます。

 死にました」。

 腹抱えて笑いました、ここ。

 なんか、もう、なんと言っていいのやら。

 いやまあそら、死んだ人がナレーションをする、というのは過去にもありましたけどね。

 過去のケースでは、「晴信をあの世から見守らせていただきとう存じます」 とか、そんな同情すべき心情が多かったのですが、今回の場合関西風お笑いのネタという性格が色濃くて。 まさに最終週、カーネーションの花言葉、「あなたの愛は生きています」 そのもの。
 人を食ったように、青空にトンビがピーヒョロロと飛んでいるのです。

 「(あっちゅう間にもう5年がたちました。

 おかげさんで、娘らも元気です。

 優子は、昔、うちに引退を勧めた年を越えて、やっぱし、働きまくってます。

 相変わらずたっかい靴はいて)」

 ピリピリしながら里香はじめスタッフに指示を飛ばす優子。

 「(相変わらず怖いこと)」

 そして写真を撮られる直子の姿。

 「(ちょっと変わったことちゅうたら、なんや知らん、優子と直子はこの頃、お互いのショーを見るようになりました。

 とにかく、いずれもええ年こいて、引退なんぞ、さっぱり頭にありません――)」

 これが小原の流儀、なんですよ、やはり。
 仕事をし続けることで互いに対話をかわしていく。

 「(働いて、

 働いて、

 たくましなるいっぽうです。

 …まあ、ほんでも…)」

 仕事を終えて一息つくと、三姉妹は未だにお母ちゃんを思って、涙ぐんだりします。
 お母ちゃんの写真に向かって仕事の報告をする優子。
 ケータイの待ち受けに映ったお母ちゃんの姿を抱きしめる直子。
 「会いたいなあ…お母ちゃんに」 とつぶやく聡子。

 「(泣かんでええ。

 泣くほどのこととちゃう。

 …うちはおる)」

 先ほどの、朝ドラの話が、再びフラッシュバックし始めます。

 三姉妹のそばで、糸子が必死になって娘たちに語りかけている。

 「朝ドラ? せやせやせや、ふんふん、やりやり! やろうやろう! な、やろう!」

 なんとも粋な演出ではありませんか。

 「(うちはおる。 あんたらのそばに)」。

 「見えんけどおる」 みたいじゃないですか、「ゲゲゲの女房」 の。 やっぱり対抗意識燃やしてたんだなあ、なんて感じます。

 「(空。

 商店街。

 心斎橋。

 緑。

 光。

 水の上。

 ほんで、ちょっと退屈したらまた、何ぞオモロイもんを探しに行く)」。

 岸和田中央病院の入り口の自動ドアが、誰もいないのに静かに開きます。 通り抜ける風。 看護師の女性が、慌てて廊下を駆けていきます。

 その先には。

 車いすに座った、ひとりの老婆。

 看護師の女性は車いすを押し、その年老いた女性を、待合室のテレビの前に連れていくのです。 年老いた女性は、奈津に違いありません。

 テレビから流れてきたのは、「ふたりの糸子のうた」。

 「♪時は大正 岸和田に
 生まれたひとりの女の子
 名前を
 小原糸子と申します

 着物の時代にドレスに出会い
 夢みて 愛して 駆け抜けた

 これはその おはなし」

 そしてこの最終回、ずっと流れることのなかったタイトルバックの、椎名林檎サンの歌が、始まるのです。 ただわけもなく、私は涙を流し続けていました。 やられた。 最後まで。

 「♪重く濡らした瞼は今よろこび映す日の為心を育ててるのね

 かじかむ指ひろげて 風に揺れ雨に晒され

 遥か空へ身を預けて …生きよう…

 何も要らない私が本当に欲しいもの等 唯一つ、唯一つだけ」

 このタイトルバック。 ドラマのダイジェストも流れていたのですが、もっとも感慨深かったのは、最後の最後、演者の名前のクレジットが 「小原糸子 尾野真千子」 となっていたこと。 やはりこのドラマ、尾野真千子抜きでは、絶対に成り立たなかった、といっていいでしょう。 限りない感謝をこめて。

 最高でした。 このドラマ。






 文字通り、実質25本にわたる映画を観終わったような、ずっしりと重たいものを感じています(24本の長編と2本の短編?…笑)。 おそらくこれに敵う作品は、今後容易には出てこないと感じる。 なぜならいま述べたとおり、このドラマは脚本と演出が最高だっただけでなく、それに限りないプラスアルファを与えた、尾野真千子という存在がなければ、ここまで著しい化学変化を起こすことはなかったからです。 まさにテレビドラマとしては出来過ぎ。 100点満点で150点はゆうに越えていた。

 あくまで大胆不敵。

 あくまで不親切。

 思えばこのドラマほど、見る側の鑑賞眼に頼りきった作品もなかった気がします。 つまり視聴者を、絶大に信頼していた。

 暴力的な描写も数々あったけれども、それは見せかけだけの優しさを激しく問うものであっただけでなく、「ものの加減というものを見失っている社会」 に対する強烈な皮肉、でもあった。

 このドラマの存在意義はその意味で、このさき未来にわたって、徐々にだがとても重要度を増していくように、私には感じられるのです。

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