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2012年5月

2012年5月26日 (土)

「梅ちゃん先生」 レビュー断念のお知らせ

 ご期待の向きには誠に申し訳ありませんが、今後 「梅ちゃん先生」 のレビューに関して、このたび断念することにいたしました。

 私に対する圧力は、「梅ちゃん先生」 のこれまでのレビュー付属のコメントのやり取りの中に、一部展開しております。 ただこれだけではない圧力がかかっている。

 今回は、私が言葉の暴力に屈した結果であります。

 私としても、このブログを言論闘争の場にしようと思ってレビューをしているわけではありません。
 もっと心穏やかにこの場を利用したいだけです。




 このさき当分、レビュー自体もお休みさせていただきます。
 ただ、いただいたコメントには、誠意をもって返信いたしたいと思います。

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2012年5月19日 (土)

「梅ちゃん先生」 第7週 とりあえず、またしてもさらに、ヒンシュクを買い罵倒されながらも、神経が参りつつも性懲りもなく、まるで何かに挑戦するようにもう1週見た感想です

 このドラマのレビューを続けることで、私は逆風を浴び続けています(もちろん、心優しいかたがたのほうが圧倒的に多いですが)。
 「時間の無駄」 とさえ書かれました。
 ヤフーの感想欄を見れば、口をきわめて罵るような言葉ばかり。

 私にしたって、このドラマをよいドラマだと思って見ているわけではありません。
 でも出来の悪いドラマでも、何かしら光るところはあると思うし、「うがちすぎだ」 と悪しざまに言われましたけど、まだ 「白い春」 という残酷な話を作った脚本家のかたが何かとてつもないものを用意しているのではないか、という期待が残り火のようにくすぶっているのです。

 私は常々不思議に思うのですが、このドラマに限らず、あるひとつのドラマに執拗な批判を繰り返すかたがたは、どうしてご自分が見ていて不快になるドラマをわざわざ見て、怒らなければならないのでしょうか。

 そっちのほうが時間の無駄だと感じます。

 ことにNHKの場合、視聴者の側に 「受信料を払っているのだから」 という 「スポンサー意識」 というものがあるような気がします。
 そして思うのは、「朝ドラ」「大河ドラマ」 というNHKの二枚看板であるドラマに対して多大な思い入れがある、というかたが、大勢いらっしゃるんだ、ということ。
 だからいくら質が悪くてもそのかたがたはそのドラマを見続け、執拗に批判を加える。

 何かに呪縛されているような気がしてなりません。

 嫌なら見なきゃいい、というのはフジテレビですけど(笑)、それってテレビ視聴の鉄則だと思います。
 ただ 「このドラマのここがダメだ」、という批評は、確かにしていて面白い。
 自分が批判を的確にし、また他人が批判を的確にするのを読んで溜飲を下げる、というのも、確かに快感の伴う作業です。

 でも。

 いったんその快感に囚われてしまうと、それがまるで麻薬みたいになる、ということは、自覚しなければならない、と私は考えます。

 テレビドラマに限らず、誰かの悪口を言うことは、いっぽうでストレスの発散になる。
 でもそれに拘泥され始めると、自分の生命が濁ってくるように思えてならないのです。
 悪口を言う生命が、自分を侵食し始める。
 そしてそれは憎しみへと変化していき、もともと自分が思いもよらなかったような常軌を逸した行動に出始める。
 その最悪の結果が、殺人だと私は思う。
 殺人に至らぬまでも、誰かが誰かの心を殺す、ということは、実は日常茶飯的にいろんな場面で発生しているように、私には思える。

 ヤフーの感想欄、実はその 「口をきわめて罵る」 コメントを発信している、ひとりひとりの声はとても小さい。
 でもそれを続けて読んでいるうちに、私は自分の心までも、憎しみとか怒りに侵食され始めるような錯覚を覚えます。
 自分のなかにある闇が、怖くなってくる。

 今回、「梅ちゃん先生」 に執拗に批判を加える一部のかたがたの心理の奥には、このドラマの視聴率がヤケにいい、ということが絡んでいる気がして仕方がありません。

 なんでこんな出来の悪いドラマの視聴率がいいのか。 腹が立つ。 だから批判を加える。

 それって私に言わせれば、視聴率の幻影に翻弄されているのではないか。
 自分じゃ視聴率なんてどうでもいい、当てにならぬと考えながら、実はその視聴率を誰よりも気にしているのが自分だということを認めたくないのではないか。

 ところでホント、なんでこんな出来の悪いドラマの視聴率がいいんでしょう。

 それを考察し始めた場合、まず人は、「こんなドラマを見ている連中」 を睥睨するような高みに、自分を置くことになります。
 それだけで優越感に浸れる。
 そしてみんなこういう、下らなくて見やすいドラマを見たいやつが多いのだ、と考える。
 これって私自身も陥りやすい思考です。

 そして、多大な 「ひと」 とか 「もの」 が動員されているのにどうしてこんな出来の悪いドラマを作るのか、という、ある種の公平性を自分が有していることに、目を向けたくなります。
 だからこんな出来の悪いドラマを一生懸命演じている役者たちや、必死になって裏方で働いている人たちを、かわいそうだとか気の毒だとか感じる。

 確かに現場サイドではいろんな葛藤があるかもしれませんよ。

 ただそれを問題だと考えるのは、それってそう考える人の一種の驕りなのではないか。

 現場サイドでは日々、脚本の意図をみんなで話し合いながら、ああでもないこうでもないと試行錯誤を重ねてドラマ作りをしているはずです。
 結果それの出来が悪くとも、それを視聴者が憐れむというのは、実は視聴者側の傲慢なのではないか。 別に同情とか憐れんでもらいたくてドラマの作り手はドラマを作っているわけではないのだから。

 そこで次に 「執拗な批判者」 が目を向けるのが、「いやらしい社会の仕組み」 です。

 人気があるからこの女優を採用しているとか、事務所の力関係でこの俳優が出てるとか。

 視聴率がいいはずだよ、堀北真希が出てるもん。 ホマキが出てりゃ満足なヤツが多いんだよ。
 そりゃホマキの入浴シーンが見たいヤツ多いでしょ。
 演技力がないからハダカ見せるしかないでしょ。

 スマップが主題歌歌えば人気も出るでしょうよ。 「紅白歌合戦」 の演出ももう決まりだし。 見ているほうはウンザリ。 どうして中居のヘタクソな歌を朝っぱらから聞かなきゃいけないんだ(言っときますがこれは私自身の感想ではございません…笑)(少なくともこのドラマの主題歌で中居クンが歌ってるパートを聞いて、私は中居クン、ヘタクソだとか言われてるけどそこそこちゃんと歌えてるじゃん、とは思います)(中居クンのパートが聞いてるだけで分かるのか…笑)(たぶん2番目に歌ってる人だと思います)(「街の音は泣き声を消して」 のところ)。

 そして結局、「執拗な批判者」 は、こんなドラマが支持される世の中というものを憎み始める。

 こういうネガティヴスパイラルみたいな落とし穴にはまり込む前に、潔くその連鎖から、人は脱出すべきです。

 それが出来るいちばん簡単な方法。

 それが 「嫌なら見なきゃいい」 ということなのです。

 この結論は、一見とても相手を突き放した、冷たい論理のように思える。

 でも、批判をし続けることで壊れてしまう、自分のなかのいい部分、優しい気持ちを守る最善の方策でも、あるのです。

 どうも自分の文章力がないために、自分の気持ちが伝わっているのかな、ということを感じながらこれを書いています。
 でも批判というのは、スパッと言っておしまいにするなら小気味いいですが、あまり執拗に続けていると自分がイヤな人間になっちゃいますよ、ということは申し上げたい。
 ご自分のやっていることに手を当てて考えてみていただきたいのです。 普通じゃないとは思いませんか(ごくごくパーソナルなメッセージでスミマセン)。

 で。

 スポイルすべき今週の 「梅ちゃん先生」 なのですが(笑)。

 今週も梅子たちは勉学そっちのけで、恋愛にうつつを抜かしています。
 そして男どもと 「ロミオとジュリエット」 を上演しようと、シロート演劇を画策する。

 でもドラマをちゃんと見ていれば、彼女らは勉強すべきところではしているんだろう、という予測は成立します。
 このドラマは彼女たちがいかに勉学にいそしみ、壁にぶつかっているかに重点を置いて描写しようとしていない。 あくまで余暇の部分ばかりを狙ってドラマにしているから、まったく彼女たちが勉強していないように見えてしまうのです。

 そして梅子の父親建造は、闇物資を拒絶して餓死した検事サンの行動に敬意を表し、自らをその行動に駆り立てます。
 手前味噌なのですが、私は以前のこのドラマ第4週のコメント返信に、「この建造という人の性格を見ていると、戦後すぐに闇物資を拒否して餓死した人のことを連想する」、と書きました。
 まさに建造はその人の志に同調して今回自分も同じ行動をとったのですが、この行動が突飛ではないことは、建造のキャラ構築の時点から理解できるとはいえ、やはり家族のことを考えていない、という謗りは免れない。 自分が餓死してしまえば、家族が今度は餓死の危険性に晒されるわけですからね。

 だから建造のこの行動は、理解は出来ても浅はかなわけです。

 このドラマ、万事がこの調子でまわっていくために、理屈っぽい向きを承服できるようなロジックが極めて希薄です。 流れで押し切ってしまうようなところがある。

 そしてある種の視聴者の気持ちを逆なでさせるように思われるのは、堀北真希チャンが演じる梅子の 「のれんに腕押し」 みたいなおっとり、のほほん、のんびり、ニブい、気が利かない、ばかみたいな与太郎キャラです。

 私は見ていて笑っちゃうんですけどね。 こういう、ポワ~ンとした人。

 でもこれを見て怒る人のほうが、どうも多いみたいです。

 そしてドラマの中で繰り返される、「渡りに船」 的な展開。

 そうそううまくいくかよ、よく都合よくそこにそいつがいるなぁ、そんなことの連続なんですよ。

 いちいち挙げるのメンド臭いんでしませんけど(笑)。

 そして今週ラスト、竹夫(小出恵介サン)が、自分の押しが弱かったせいで、好きだった人を金持ちにとられてしまった反省から、闇物資を拒絶する父親に、いきなり声を荒げてその行動をただそうとする。

 「いきなり」 ってここで書きましたけど。

 15分単位でご覧になってるかたにとってはそうだったんじゃないかな~と思えてしまうんですよ。

 私は1時間半を通しで見ていたから、建造の行動を質すことが出来ない家族の焦燥を同時に見ていたし、竹夫のなかで、闇の商売をすることへの葛藤と共に、好きだった人をみすみす取られてしまった竹夫のイライラが鬱積していたところを見ていたから、「いきなり」 とは感じなかった。

 これと同様に、15分単位でご覧になってるかたは、モヤモヤするんだろうな~というドラマの構造を全体的にしてる、と私は感じます。 確かに1時間半通しで見ないと分からない部分が多い、というのは、とても朝ドラとして合格とは呼べない。

 …まあ自分も、スパッとこのドラマを批判できてませんけどね(ハハ…)。 ぐだぐだ悪いところをあげつらってますね(笑)。

 でも竹夫の 「ブチ切れ」 には、とても個人的な感想を申し上げると、「まるで自分と自分のオヤジとのケンカを見ているようだ」 と感じました。
 こういう穏やかそ~な文章を書いてますけど、私もブチ切れるとこんななんですよ(笑)。
 「親に向かってその口のききかたはなんだ!」 って、何度怒鳴り返されたことか(笑)。
 また私のオヤジが、頑固で分からずやなもんですから(笑)。
 で、あまりにブチ切れすぎて言ってることがハチャメチャになる(爆)。 竹夫はその点、しっかり自分の主張をしておりました(笑)。

 で、結局なんだかんだで、1時間半寝ないで見れてしまう。

 これって結局、飽きさせないドラマを作ってる、ということになりますね。
 寝ちゃわないんだから。 夜勤帰りでいつも、このBSプレミアムで放送される1週間分丸ごと見をしている私が。 いつも寝てる時間帯なんですよ、私、この時間(午前9時半~11時)。

 まあ、あまりに批判されすぎて、却って意固地になって見てしまう、という面も、なきにしもあらずでしょうが(笑)。

 そのうちに、「白い春」 みたいな驚天動地のシーンが展開されることを期待しつつ…。

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2012年5月17日 (木)

大阪市の職員が100人以上タトゥー(入れ墨)をしていたことについて

【産経新聞 2012.5.16付】 大阪市が教職員をのぞく職員を対象に実施した入れ墨の有無を尋ねる調査で、入れ墨をしていると回答した職員が100人を超える見通しであることが16日、市の集計で分かった。同日午後の服務規律に関する会合で確定値を報告する。

 調査は橋下徹市長の意向で1~10日に書面で実施。記名式で回答を義務付け「人権侵害に当たる」との指摘もあるが、橋下市長は入れ墨をしている職員を市民の目に触れる職場に配置しないなど調査結果を人事に反映させる方針だ。

 首から上、膝から足先まで、肩から手の指先までの人目に触れやすい部分については回答を義務付け、普段は服に隠れて見えない胸や腹、背中などの部分は任意回答とした。

 調査対象は教育委員会を除く全職員約3万3500人。入れ墨やタトゥーの有無のほか、彫った部位や大きさも尋ねた。





 というニュースなんですが。

 橋下徹という人に対して、私はあまり肯定的な立場ではないのですが、今回のことに対しては当然だと思います。 クビでもいいくらいだ、と思う。

 それにしても私が驚愕したのは、タトゥーをしている職員の数。

 よくこういう 「の」 が公務員になろうとするな、という感じです。

 私はいい年こいたオッサンなので、簡単にタトゥーを入れてしまう 「人種」 が、理解できません。

 つまりこれって、タトゥーはたんにファッションだとかいう考えが、21世紀の日本人には蔓延してしまっている証左なのでしょう。

 嘆かわしいことこの上ありません。

 「親からもらった体だから」 とか、辛気臭いですけど言わせていただきたい。

 そりゃ卑弥呼の時代にはフツーにやってたかもしれないですがね。

 そのうちに、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」 とばかりに、それが当然という世の中にでもなれば、別にいいのかもしれない。
 でも入れ墨を見て、かなりの拒絶反応をする人も、現在のところまだまだ多い、と思われる。
 もし自分の好きになった人から、自分の入れ墨を拒絶されたら、その人は後悔しても遅すぎるじゃないですか。
 つまり、どんだけのことかっていう後先のことを考えていない時点で、入れ墨を入れるということについて思慮が足らな過ぎるのだ。

 どっちにしたって、入れ墨が当然みたいな世の中になってる日本という国を見るのは、少なくとも私には耐えがたい。 たとえあの世からこの国を見ることになろうとも。

 こんなのが公務員とは。

 もっと自分にお似合いの職業に再就職したらどうなんだ。

 恥さらしの国ニッポン。

 そんな国にだけは、してくれるな、未来の子供たちよ。

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2012年5月15日 (火)

「もう一度君に、プロポーズ」 第4回 帆かけ舟をもつ手

 このドラマ、波留(竹野内豊サン)が可南子(和久井映見サン)に言うように、「ゆっくりとでいいよ」 という許可証をもらっているような感じがする(笑)。
 そしてたゆたうような時間の流れの中で、ドラマによくありがちな、下世話そうな仕掛けをそこかしこに見せるのですが、その回収の方法をどうするのかで、ドラマに対する評価も定まってくると思うんですよ。

 以前にも書きましたけど、その下世話そうな仕掛けのひとつが、桂(倉科カナチャン)が波留に寄せる思いの動向。
 オンラインゲームで知り合った男の子とは前回、どうも何もなかったようなのですが、オマエ男だろ?的なキャラである桂は、どうも自分を偽って女の子らしい態度で初回のデートその男の子と付き合った模様。
 2度目のデートの今回、桂は素のままの自分を、どういうわけかその男の子にさらけ出しています。
 そしてその男の子にドン引きされ、また元の偽りキャラに戻している。

 桂がどうして2度目のデートで男っぽいキャラに戻したのか、その動機は不明ですが、その動機を作り手が考えているかどうかは、私の見ている限りでは分からない。
 このドラマ、どうも共同脚本みたいで、今回から別の脚本のかたになったのですが、そこらへんの細かい打ち合わせがなされていたかどうかに、私の神経は行ってしまうんですよ(笑)。

 いったい作り手は、桂をどうしたいのか。

 第4回までを見ていて感じるのは、このドラマに出てくる人たちは、約一名を除いて、みんな優しい人たちばかりだ、ということです。
 桂もそのカテゴリに含まれるのならば、桂は自分の波留に寄せる淡い思いを柔らかく締め殺しながら、波留と可南子を結び付ける悲しい役割を果たしていくはずです。

 そして下世話そうな仕掛けのもうひとつが、山本裕典サン演じる、可南子の弟、裕樹。
 彼こそがこのドラマの中で、唯一優しくない人なのですが、彼が姉のダンナ(波留)に対して敵意に似た感情を持っていることのある程度の原因が、今回は明らかにされた。
 彼は 「波留サンのこと、嫌ってるでしょ?」 と訊く姉可南子の問いに、こう答えます。

 「別に嫌ってるってわけじゃないけど、オレ、もっと違うタイプの人選ぶと思ってたから。
 なんていうか、姉ちゃんのことをぐいぐい引っ張ってくれる、もっと頼りがいのある人。
 精神面でも、稼ぎの面でも――。

 …一哉さんと結婚すると思ってた」

 その一哉(袴田吉彦サン)、今回ラストに登場しましたが、可南子の学生時代からの付き合いらしい。
 「稼ぎの面でも」 と話していたから、おそらく波留に対しては、裕樹は経済的に信用のおけるレベルではなかった、ということにもなるのでしょう。
 「なついてたもんね」 と可南子が指摘していたから、裕樹は一哉ととても仲良しだったとも思われます。
 いったい可南子と一哉が破局を迎えてしまった理由は何なのか、ドラマ的な波乱を含ませる役割を、山本裕典サンはここで果たしたことになる。

 ただこの裕樹、なんかそれだけで終わりそうもない。
 今回の話のラストで、裕樹は波留のもとを訪れ、姉との関係をなかったことにするという選択肢もある、と波留に進言してくるのです。
 いくら経済的、精神的に一哉のほうが上だったとはいえ、裕樹にそこまで出しゃばったマネをさせるものとは何なのか。
 この回収の方法も、一歩間違うと話が途端に下世話に陥ってしまう危険性を感じる。

 だいたい裕樹は、どうして恋人の市川由衣チャンに対してメチャメチャ冷たいのか(笑)。
 仕事でテンパってるのは分かるが、こーゆー、真意を表わさない人物は見ていてイライラする(爆)。 給料を母親の真野響子サンが定期に入れてることも知らず(笑)。

 そしてその、下世話そうな話のメインディッシュになりそうな袴田吉彦サン。
 まあ今後、見る側をうならせてくれるような展開、収拾を期待します。

 かように、波留と可南子の周辺の進捗状況には危ういものを感じ続けている私ですが(笑)、実は話の核となる波留と可南子の描写には、まずまず満足しております(笑)。

 まず、不意に抱きしめた波留と、それを拒絶してしまった可南子のその気まずさを、今回冒頭ではいきなり解消してくれる(笑)。
 ミズシマオートの同僚である蓮沼(渡辺哲サン)が親せきの子供を押しつけられたと言って、その場にいきなり乱入してくるんですよ(ちょっと違うか…笑)。
 帰ろうとする可南子の袖を引っ張るその女の子(笑)。 お約束だが笑えます。

 結局その女の子のために可南子は元の自分ちに泊まることになるのですが、そこで可南子がその女の子に作ってあげた、帆掛け舟の折り紙。

 実は今回のこのドラマの中で、この折り紙はかなり重要であり。

 ドラマの中で可南子も実演しておりましたが、この帆掛け舟、帆先の部分を持っていたと思って目をつぶったら、次の瞬間舳先を持っていた、という仕掛けの折り紙なんですよね。

 ここで、帆を持っているとばかり思っていたのが、可南子の心が分かっているとばかり思っていたのが、実は大きな勘違いだったのではないか、と波留が気付くきっかけになっている。

 つまり、可南子が実は子供好きだった、という意外な事実を、波留がここで知ることになったんですよね。 帆掛け舟の折り紙はその、象徴的なアイテムとなっている。

 …ってでも、エエッ波留、可南子が子供好きかどうかということ、5年も一緒にいて知らなかったのかよ?という感じですよね。

 だいたい可南子が図書館に勤めて、子供たちに読み聞かせなんかもしてることくらい、波留は知っていたはずです。

 これ、相当ニブいですよ、この男(爆)。

 波留がかつて、子供を作ろうという話にそれとなくなったとき、「オレは、まだ可南子とふたりでいいや」 とはぐらかしてしまったことで、可南子は自分が子供好きであることをかくしてしまっていた。
 可南子はそのときの気持ちを、日記に 「波留にとって父親になることは、特別なことだから」 と書いて自分を納得させている。 もらいっ子だった波留は、自分が父親になることがどういうことであるのか、戸惑っていた、ということでしょうか。

 ただ見ていて、小野寺昭サンの養子である波留が、このフランクの権化みたいな父親のどこに気兼ねをしていたのか、ちょっとそこらへんの説得力が(今んところ)弱い。
 それをこの先解明してくれるのかな?という期待半分不安半分もある。

 だって相当フランクですよね、小野寺サン(笑)。

 「時の過ぎゆくままに」 を歌いながら人生訓をたれるとか、通常考えられないフランクさだ(爆)。

 でもその 「床屋のオヤジ」 が語っていたという他力本願の人生訓は、結構重い(笑)。

 「くよくよ思ったって、昔に戻って変えられるわけじゃなし。
 今あるものが、あるものだと思って、生きていくしかないわけだな人生ってものは」。

 このドラマを見ていると、先に書いた下世話そうな周辺の仕掛けのほかに、実は波留自身にも、何か仕掛け(問題)が用意されているような気がする。

 それがあればうなりまくりますが(上から目線だ)。
 でも、ひとつひとつの波留と可南子のエピソードが丁寧なので、そっちを堪能したいと思います。
 映画館のエピは、「やっぱりドラマ的なぐーぜんだわな」 と思いつつも、ふたりが一歩ずつ歩み寄っている様子が秀逸に描写されて、イチャモンをつける気が失せますし(笑)。

 でも次回は、そんな順風満帆そうなドラマに、さざ波が立ちそうなのですが。

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新カテゴリ 「カーネーション」 を追加いたしました

 このたび、ブログのカテゴリ別タイトルに、NHK朝ドラ 「カーネーション」 という項を追加いたしました。 「カーネーション」 の記事をまとめて読みたいかたは、ご活用いただければ幸いです。

 このカテゴリ、「カーネーション」 本編だけでなく、周辺情報など関連記事も仲間に入れておりますので、併せてよろしくお願いいたします。

 ただ、時系列的に逆になっていたり、過去記事が別リンクになってしまってご不便をおかけすることもございます。 なにとぞご了承ください。

 本来なれば別のドラマに関してもこのようにいたしたいのですが、なにせ選択できるカテゴリが限られております。 過去記事に関して読んでいただきたいものは多数ございますが、そのような場合、バックナンバーからお探し下さるか、「橋本リウ ドラマ名○○」 みたいな形で検索しお探しいただくことになってしまいます。 重ね重ねご不便をおかけいたします。

 いずれにせよ今回のカテゴリ追加は、「カーネーション」 が稀代の傑作だと(個人的に)確信するがゆえの措置であります。 いろんなかたに、知っていただきたいドラマです。

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2012年5月12日 (土)

「梅ちゃん先生」 第6週 とりあえず、またしてもさらに、ヒンシュクを買い罵倒されながらも、性懲りもなくもう1週見た感想です

 まず、このドラマのレビューを続けることについて、言い訳じみた話をしなければなりません。

 私はこのドラマに対して、けっして擁護している立場の人間ではないことを、ここに断言したいと思います。 大袈裟ですけどね。 断言です。

 それはこのブログのレビューをきちんと読んでいただければ分かることだと私は思います。

 評価できないうえで、私はこのドラマの作者がかつて私を大いに楽しませてくれたドラマの作者と同一人物であることを、いぶかしく思っています。

 このドラマの作者、尾崎将也サンがかつて書いたドラマ、「結婚できない男」 が、いま関東地方の午後に再放送されている。
 こないだチラッと見たのですが、やはりかなり面白いんですよ。

 これって主演の阿部寛サンの力量によるものなのか?

 「梅ちゃん先生」 では堀北真希チャンが、脚本の中にあるギャグ的要素を汲み取っていないからこれほどまでにスベリまくっているのか?

 どうもそうじゃない気がする。

 堀北真希チャンは今回、このドラマの中では 「おっとり」「のんびり」 という女の子を演じ切ろうとしている。
 今週の梅子を見ている限り、私はそのことを強く感じます。

 私は、「おっとり」「のんびり」 という主人公を演じることって、すごく難しいことだと感じます。

 要するに、ドラマを見ている側は、彼女が主人公であるがゆえに、長いこと彼女ののんびりさ加減に付き合わねばならなくなる。 見る側をイライラさせずにそれをやりきる、ということには、かなりの困難が伴うと私は思う。 彼女は、苦闘している、と思う。 ともすれば、彼女自身の演技力がないように簡単に見えてしまうからです。

 つまり。

 今回、こうした、のんびりとした人間を見てイライラせずに笑って見守ることができる、視聴者側の寛容を、このドラマは見る側に突き付けている。

 難しく言えばそういうことになる。
 自分の狭量、寛容を、試されているドラマ。

 ただ、当然このドラマを見る権利も見ない権利も、視聴者の側にあります。

 だからこんなふうに難しく考える必要なんか、ちっともないと私は思います。 見ていて不快ならば見なければいい。 簡単なことだ。 フジテレビみたいなこと言ってますけど(笑)。

 私の場合はただ、このような、内容的にもかなり抜けたような二流、三流と評価されても仕方のないような出来のドラマを、尾崎サンがなぜ作っているのか、に興味がある。

 そして先週、コメントを下さったかたから、「このドラマは 『笑点』 の大喜利に似ている」 というご意見をいただきました。
 つまりこのドラマは、「お約束」 を武器にして分かりやすい笑いを導こうとしている。
 なるほどと溜飲が下がった思いがしました。

 ここでまた、「私はこのドラマを擁護しているわけではない」 といちいち断りながら書かねばならないのですが、「梅ちゃん先生」 というドラマは、お約束の分かりやすい笑いをまぶしながら、気楽に見てもらえるドラマを目指している、と私は考えるのです。

 そしてそのなかで、毎週心に残るフレーズは、ひとつかふたつでいい。

 世の中には、ライト感覚でドラマを見ているかたが大勢いらっしゃいます。

 そんなかたがたは、このドラマを気楽に気軽に視聴されている。

 そしてたまに発信される真面目なメッセージに、「そうだよなぁ」 と思ってもらえればそれでじゅうぶん。

 このドラマのスタンスは、そこにあるのではないでしょうか。

 そして見る側は、それが義務だなんて辛気臭いことは言いっこなしですけれども、肩の力を抜いてこのドラマを見る必要がある。

 確かに私も、質のいいドラマをお勧めしたい気持ちのほうが強いです。
 ただ世の中、質のいいのもあれば悪いのもある。
 質の悪いドラマに関して今回私をレビューに走らせるものは、先ほども書いた 「脚本家の意図に興味がある」 という点に尽きるのです。 そしてそれを解明しようとしている。

 で、今週強く感じたのが、先ほども書いたように、「堀北真希チャンがやろうとしている梅子の性格は、反感をもたれずに演じようとするとかなり難しい」、という点です。

 今週の話。

 梅子たち医専の学生がダンスパーティを開こうと奔走する、という話自体、「何やってんだか」 という話です。

 そのパーティに梅子は、頑固な父親を連れ出そうとする。

 梅子という人間は、かなりおっとりでドジな性格だから、ここでも見る側は 「そんな余計なことをして、そんなリアリティのない話で親子の絆を描こうというのか」 と簡単に考えがちです。

 でも私は、別のことを考えます。

 梅子は何をやるのにも後先考えず、ずれたことばっかりやっている。
 だけど、悪気があるわけではない。
 ということです。

 悪気がなければ何をやってもいいのか、という議論になりそうですが、いまの世の中、もっと 「悪気のない、罪のないこと」 に対して人々は寛容になる必要があるのではないか、と感じるのです。

 少なくとも梅子には、「父親が心配してくれるからこそ、自分たちは前に進める」、という自覚がある。
 そしてそれを感謝する心がある。

 その気持ちを実際に行動に出して形にできないケースばかりじゃないでしょうか? いまの世の中って。
 ここではたんに家族の絆とかを表現しようとしているのかもしれないが、作り手の意識は、その先を見据えている気がするのです。 こんな論ずるに当たらないようなドラマを構築しながらも。

 あ~あ、へらへら笑って気楽に見てりゃいいのに。 めんどくさい人間だよオレも。

 そうだ、書き忘れた。

 今週のラスト、ダンスパーティであぶれてしまった松坂桃李クン。

 かつての自分を見ているようで身につまされました。
 先週も、へらへらと安易に 「あきらめちゃダメだ」 と転向してしまった父親の鶴チャンに、「なんか違うんだよなぁ」 という表情をしてましたし。

 彼の心の動きには、かなりのリアリティを感じている私です。

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「谷山浩子のオールナイトニッポンGOLD」 「萌え」 の原型がここにあったんだ

 今からちょうど30年前の1982年、4月から放送が始まった、「谷山浩子のオールナイトニッポン」 二部。
 二部というのは若いかたがたに対して解説をしなければいけませんが、深夜放送のオールナイトニッポンでその昔、深夜1時から3時までが一部、そして3時から5時までが二部と呼ばれていたのです。

 この時間帯、学生が聴くにはかなりキツイものがある。
 当時高校生だった私も、一部はお付き合いできても、二部に手を出すことは難しかった。
 それでも 「中島みゆきのオールナイト」 を聞いていた流れで、当時ニッポン放送新人アナウンサーだった上柳昌彦サンの二部を、さわりの部分だけ聞いたりもしていました(上柳サンの前だったかな?はゴーゴーゴーズオンの糸居五郎サン)。

 そんな私が本腰で聞いた唯一のオールナイト二部が 「谷山浩子のオールナイトニッポン」 でした。
 そもそものきっかけは、やはりこれも中島みゆきサン絡みで、彼女と親交の深かった谷山サンがオールナイトに出る、ということで聞き始めたのですが、ただ彼女の作る歌にはその前から結構興味があった。

 独特の暗さが好きだったんですよ。
 山崎ハコサンのようなドロドロしたものでない暗さが。
 まあ中島サンも結構ドロドロ系ですが(笑)ハコサンに比べればカラッとして湿気が少ない(笑)。 「生きていてもいいですか」 あたりがいちばん粘着質かな(笑)。

 それと、谷山サンに関しては、その声質が結構好きだった部分もある。
 顔のことを言い始めると、アゴがないとか(失礼)アニメ系の声から期待すると少々がっかりするところもあります。
 でも、そのアニメ系の声が、好きだったんだなー。

 その谷山サンが(あ~前フリ長かった…笑)番組終了後26年、かな?ぶりくらいで、この4月から45周年企画とかで週替わりのパーソナリティが登場している、「オールナイトニッポンGOLD」 金曜に登場しました。
 当然聞きました。

 ただウィキによれば、2007年に一夜限りの復活はしていた模様。
 でも放送時間が二部の時間帯だったので知る由もなく。

 まずとっかかり、あのアニメ声を聞いたときは、かなり感慨が深くて。
 「谷山浩子なのです!」。
 泣きそうになりました(オーゲサ)。

 深夜放送族というのは比較的連帯感が強い部分があるように感じるのですが、二部ともなるとその思い入れもかなり強いことが実感できました。 まず聞く人なんかいない時間帯なんだから。

 しかしタイトルコールで出てきたのはオールナイトのテーマ曲、「ビタースィートサンバ」。
 「てんぷら☆さんらいず」 だろここは!と激しいツッコミで開始です(笑)。

 結局仕事中だったためか、「てんぷら☆さんらいず」 を聞くことあたわず、1時間50分の至福の時間は過ぎていったのですが、この人の声をほんっっっとーに久しぶりに聞いて感じたのは、「谷山浩子って、『萌え』 とか 『オタク』 とかの原型だったんだ」、ということです。 これは今回の番組中に谷山サンも言及していたことなのですが。

 彼女の歌にはメルヘンチックなものが多いのですが、それは彼女がマンガ全般、とりわけ少女マンガの熱烈な愛好家であったことが大きい気がする。
 昔の番組中でも、「綿の国星」 とか、「パタリロ!」(これはみゆきサンのほうだったか?)とかの話を喜々としてし続けていた谷山サンの声が耳に残っています。
 マンガやアニメのキャラクターに対する、異常なまでの入れ込みようが、そこにはありました。

 そんな彼女のオタク的な趣味が全開だったのが、今回もコーナーのひとつとして再現されていた、「マンガ予告編」 のコーナー。
 書店で買ってきたマンガ雑誌(おもに少女マンガ系だったと思うなー)を読んでそのタイトルを当てさせる。
 これは今回生放送だったため、メールという方法で回答を寄せていましたが、昔よりこっちのほうがレスポンスの速さが尋常ではない点で、甚だ未来志向のコーナーだったんだ、ということが確認できた。
 そのほかにも、少女マンガ家サンたちの話題とか、確かゲストでも来ていたか?して、かなり昔からオタッキーな放送をしていたんですよ。

 だいたい、こういう 「アニメ系」 の声、というのを私が聞いた、まさに最初が、谷山サンだった。
 でも当時って、まだ声優さんたちも、そんな 「萌え」 系のしゃべりをする人っていなかった気がする。
 その点でも谷山サンは、声優じゃないけれども、「現在のアニメ声優」 たちの持つ、舌足らずでガキっぽさが抜けなくて仲間うちでひたすら盛り上がりたがって胸キュンキュン言わせてるようなキャラクターの、まさに源流にいる人だと思う。

 そんな谷山サン。

 今回の放送を聞いていて少々ショックだったのは、昔ほどマンガを熱心に読まなくなった、ということです。
 そうか~。 あれほどコアなオタクだったのになー。
 「マンガ予告編」 で今回出したお題も、「ガラスの仮面」 とか、「君に届け」 とか、「テルマエ・ロマエ」 とか、かなりオーソドックスな感覚。
 私もマンガは読まなくなりました。
 つーか、ドラマ見るのに忙しすぎる、ここ数年(爆)。 このブログのせーだ(ハハ…)。 やめるかな(エッ?!)。

 谷山サン、今回も冒頭で、かなり緊張して早く終わんないか、みたいな感覚だったのですが、そのわりにはしゃべりはかなり面白かったです。 レギュラーでなくとも月イチくらいで聞きたい。
 と思ったらこのたび、「オールナイトニッポンモバイル」 で喋ることになったらしい。
 …って、よく分かんないんですけど(笑)。
 なんかアプリとかストリーミング放送とか、何が有料でなにが無料でとか、私のようなアナログ人間の権化みたいな者にはなにがなんやらさっぱり…(笑)。

 今回の番組中、「You Tubeでは歌い手が儲かりません」 と(笑)宣伝に力を入れていたベスト盤、「花とゆめ」(ん…?どっかで聞いたようなタイトル…笑)。
 買ってみようかな。 「テルーの唄」 とか、なかなか良かった。

 いや、その前に 「てんぷら☆さんらいず」 だ…(笑)。

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2012年5月 5日 (土)

「梅ちゃん先生」 第5週 とりあえず、またしてもさらに性懲りもなくもう1週見た感想です

 先週、やっとなんだか仕掛けが動き始めた、と言って評価に価するレベルにまで到達したかに見えたこのドラマ、今週の設定はかなり乱暴で(爆)。

 学費を稼ぐために闇市で体温計を売り始めた梅子(堀北真希チャン)、ショバ代を払わなかったために問題となり、叔父の鶴見辰吾サンに助けてもらった際に飲まされたコーラに感激、折しもサッカリンを持っていた友人の手も借りて、ほかの友人が秋田の故郷でハナちゃんが病気だというのに汽車賃が払えず帰れなくて困っているのを助けようと、画策したのが 「コーラ作り」(笑)。

 は、話が突飛過ぎる(笑)。

 そして夏休みが終わってすぐに始まった試験で合格ラインに到達しなかった梅子は(医専というシステムが今年限りで、それに落第すれば確実にジ・エンドとなる)再試験をするも、その試験の途中に教室を抜け出し友人のひとりの婚活に(笑)首を突っ込み、教師から 「落第だ」 と烙印を押されてしまうのですが、友人たちのバリケード攻撃によってそれを阻止してもらうことができ、めでたく再々試験に合格いたしました、というお話。
 しかも最後っ屁のごとく、秋田のハナちゃんは牛だった、という笑えないオチ付きで(笑…っとるがな)。

 ただ(…って反旗を翻すつもりか…)。

 私はこのドラマを見ていて、「時代がアバウトだった」、ということを感じてしまうのです。
 医専の女学生たちがコーラ作りをするなんて、かなりあり得ない話ですよ、確かに。
 しかもそれって、もともとは梅子が自分の学費を稼ぐために出発してるのに、いつの間にか梅子の友人が秋田に帰る旅費の話で完結してしまっている。 …で、梅子、自分の学費を稼ぐとゆー話はどーなった?というツッコミ必至でしょう。

 で、その 「コーラ作り」 なのですが、これも 「酸っぱさが足りない」 からと言ってお酢を加えたり(笑)、色を代用品コーヒー豆から抽出しようとしたり、スンゲーいい加減な作り。
 こういうおままごとみたいなことがよく出来る、と呆れ果てるのですが。

 それを飲んだ警官やら友人やら鶴見辰吾サンやら、みんな揃って 「まずくない、うまい」 という感想を漏らすんですよ。

 これってかなり出来すぎた話のように感じる。 フツーの神経ならば。

 でも、当時の日本って、こういういい加減なバッタモンが跋扈していたような気は、するんですよ。
 何でもかんでも登録商標その他商業的な権利もすべてお構いなしで、商品もその名前さえもまがい物の品物が、出回っていた気がする。

 いまではどの商品も、かっちりとした開発技術によって生まれるものであり、当然マーケティングとか抜け目のないシステムが出来上がってるけど、当時はそんなもの自体がない。
 それは、確かに雨後のタケノコのようであったけれども、それ自体に庶民のパワーを感じさせる勢いというものがある。
 なにもかもシステム化されて安心安全が当たり前のようになっている現代の尺度から見るから、この 「コーラ作り」 がキテレツに見えてしまうのではないでしょうか。

 ま確かに医専の女学生がやるこっちゃないですが…。

 そして 「本当にあとがない」、という再試験よりも、友人の婚活のほうが優先されてしまう、というこの構造。

 それ以外でも、梅子はちゃんと勉強をしてるのか?という疑問がつぎつぎと湧いてくるようなドラマの流れなのですが、こぶ平チャンのナレーションで、見る側は梅子が、それなりの再試験に向けた勉強はしている、と判断しなければならないのです。
 ドラマの流れだけを見ていれば、確かに梅子は勉強とか再試験とかなんかどーでもよくて、まわりのことに的外れで不要なおせっかいをしてばかりいるように見える。
 でもそうじゃないことは、ちゃんとドラマを見ていれば分かる。
 朝ドラに関して、かなり的の外れた批判が多いことには閉口します。
 ちゃんとみんな、見てないんですよ、よーするに、朝ドラなんか、時計代わりだから。

 で、冒頭に書いた展開が許されてしまう当時の再試験制度って、やはりこれも 「アバウトだなぁ」 と感じる。
 話がアバウトなのではなく、そういうこともなあなあで許されてしまう、時代の雰囲気がアバウトだ、と申し上げたいのです。

 これって確かに、一般教養課程だからこういうアバウトも許される、という気もするんですけどね…。
 これが実際に人の命を左右する実習段階になったら、こんなことは許されない気がする。

 もともと梅子のような劣等性が医者になるために作り手が編み出した方法が、医専の受験合格ラインが戦争の影響を受けて低くなった時期のものであった、ということに加えて、梅子たちの学年で医専そのものが消滅し、次の学年からはきちんと大学に通わなければならない、というぎりぎりの設定をしたことだと思われます。

 つまり梅子たちは、ゆとりが認められていた最後の世代、ということになる。

 だからこそこういうおっとりでマヌケでい~かげんなキャラでも医学生として成立している余地が残されている。

 そんなアバウトが許されていた梅子が、自分の落第(すなわち医者をあきらめる、という事態)もものともせず友人の婚活のために友人を説得しにかかる。

 フツーに考えれば、優先順位なんか、おのずから明らかですよね。

 でも梅子は、どこかで 「医者になれなければそのときはそのとき」、と考えているフシがある。

 追試中の教室から抜け出した梅子にとって、落第(=自分の医者の夢が断たれること)よりも、友人が幸せになることのほうが、大事なのです。

 しかしその思い込みは、常に常にちょっとずつずれている感も、無きにしも非ずなのですが(笑)。

 教室を飛び出した梅子がその友人に向けて放ったのが、「自分が幸せになっちゃいけないなんて考えている人が、他人の病気を治して幸せになんかできるはずがない」、というセリフでした。

 このセリフ、梅子の姉のミムラサンに、職場でパワハラを続けている上司の平岳大サンに向けてのセリフでもある(これはドラマ的な構成のうえの話で、梅子は平岳大サンのことは知りませんけど)。

 平岳大サンが自堕落な生活を送るのは、戦争で死んでいった者たちのほうがよほど生きる価値があった、オレは幸せになる資格がないんだ、と考えていた故のことでした。

 同じように梅子の友人の西原亜希サンも、夫が戦地で死んだのに、新しい旦那を迎え入れるなんて、自分ばかりが幸せになっちゃいけない、と考えている故のことでした。

 でも、死んだ人のほうが生きる価値のある人間だったとか、自分ばかりが幸せになるのは申し訳ないとか、そうじゃないでしょ、と梅子は考えるのです。

 これは去年の東日本大震災で、家族や知り合いを亡くした人たちに向けたメッセージでもある、はず、なんですが…。

 …。

 こういう 「なんじゃコリャ」 みたいなシチュエーションで、こういう重要なメッセージが伝えられても、届いて欲しい人に届かない可能性って大きいような気が…。

 このドラマがどうして戦後でなければならなかったのか、というのは、戦後の焼け野原と被災地の風景とを作り手が同一視しているところから生まれている、と私は感じます。

 でも話が突飛であればある程、伝わらなければならないメッセージも伝わっていかない、というもどかしさも、感じてしまうのです。

 ただ救いなのは、このドラマ、視聴率だけはいい、ということです。
 伝わってほしいメッセージは、伝わっているのではないか、という一縷の望みも、感じることは事実です。 ドラマの良し悪しじゃないんだろうな~、こういう場合。

 私は去年の 「江」 に感じていたのと同じように、劣等生どうしの共感で、このドラマを見続けていくことになりそうです。

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閑話休題そしてお詫び

 この連休。 前半は福島へ墓参りのため帰省いたしました。
 後半は今までたまりにたまっていたドラマを見倒していまして。

 けれどもドラマレビューというもの、何より鮮度が大事だという気がいたします。 見倒していてもそれがなかなかレビューに繋がらないもどかしさを感じます。

 ここでこのブログへの読者の皆さま方にお詫びがございます。

 ご要望のドラマのレビューがなかなかアップできなくて、心苦しい限りであります。
 「平清盛」、「開拓者たち」、「運命の人」 などはご要望がありつつも、レビューに至る動機が整いません。

 それと。

 現行のドラマでも、「ATARU」「鍵のかかった部屋」「クレオパトラな女たち」「カエルの王女さま」 等、ご期待をされながらその後のレビューに繋がっていないものもございます。
 このような拙いブログなのでさほど期待はされていないと存じますが、コメントでご期待する旨いただきながらレビューを書いておらないものに関して、ここであらためてお詫び申し上げます。

 さらに(まだあんの…笑)。

 「ATARU」「もう一度君に、プロポーズ」 など、中居ファン、竹野内ファンの方々の気持ちを逆なでするようなレビューに結果的になってしまうことも、ここでお許しいただきたいと存じます。

 当ブログのドラマレビューは、ある程度寛容の気持ちで極力作ろうと心掛けておりますが、やはり自分の気持ちにウソはつけない、と判断した場合、そのドラマに対して否定的な見解を述べることがございます。
 ただそうした批判を繰り広げる場合、概してそのドラマに期待している、という気持ちがあることは、御了解いただきたいと思うのです。
 レビューが滞るのには、物理的に見ているヒマがない、時間があってもさまざまな要因で見ようという動機に至らない、ということもございますが、つまらなくてもう期待することもないだろうと判断した場合、自然とそのドラマに関するレビューは終息いたします。

 簡単に言ってしまえば、「ただ自分勝手に書き殴ってるだけ」、ということになってしまうのですが。






 ここで、2、3、まとまった記事に至らないドラマのレビューをいたします。

 「平清盛」。

 このドラマを見ていてとてももどかしいのは、物語の要所々々で和歌とか古典文学とかからの引用があり、見ている側に教養を強要してくる点であります(シャレ?)。

 その意味はその場で説明されることもあり、またはインターバルを置いて見る側がそれとなく納得できる作りにはなっている。
 しかし私のような教養のない者は、いちいち通せんぼをされたような感じがして、見ていてイライラするのです。
 それを説明できる教養でもあれば、ドラマに関するレビューも得々と続けることができるのでしょうが。
 どうも 「頭のいい者どうしで悦に入ってろ」 という気になってくる。

 そしてリアリティというよりおおげさすぎるほどの演出がなされているのが、人間の汚さ、醜さを強調した作りです。
 これにも時々軽く気分が悪くなる時がある。
 濃すぎるんですよ。 演出が。

 ドラマでは、平清盛をもののけの後継者として見据えているように思われるのですが、私が見る限り、この物語の世界観というのは、末法思想が占拠しすぎている。
 世も末だ世も末だ、という感じなんですよ。 魑魅魍魎だらけ、百鬼夜行で胸が悪くなる。

 かの知事サンが当初嫌悪感を表明した時には、オーゲサだろうと考えていたのですが、回を追うごとに画面の汚さに物語の暗さが結び付いていって、どうにも腐臭を放ち始めた気がする。

 それをいちばん助長しているのが、いつまでたってもきれいにならない清盛の風体にあることは明白です。 それなりに偉くなり、近衛兵みたいな役職にもついたのだから、顔を洗って髪の毛くらいは整えろ、という気がしてならない(まだ近作数回は未視聴なので改善がなされているかもしれませんが)。

 物語自体は、とても面白いものがあると感じます。
 ただしそれと教養が結び付いているために、レビューにはどうしても躊躇が加わってしまう。
 劣等生は、自分がバカにされるのを怖がるんですよ。






 2、3とか言いましたが、あと書く気が失せました(ハハ…)。
 かようにいい加減な気持ちで推移する私のブログですが、なにとぞ温かい目で見守ってほしいのであります…。

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「もう一度君に、プロポーズ」 第3回 強い心、脆い心

 前回第2回のこのドラマを見ていて感じたこと。
 それは 「話が下世話な方向に行きつつある」 という危惧だったのですが、その原因となりそうな倉科カナチャンの横恋慕エピソード、今回第3回を見る限りではまだまだ保留、といったところでしょうか。

 ただしカナチャンが波留(竹野内豊サン)への思いを押し隠し、オンラインゲームで知り合った男の子とのその後に関しては、一切不明。
 見た感じ比較的フツーっぽい男の子のようでしたが、出会って2、3時間で別れており、別れたあとでミズシマオートの飲み会に合流した時のカナチャンの様子は、なんかかなり酷いことをされたような感じに映りました。
 でもカナチャンはあくまでその男の子が悪いヤツだとは言及してない。
 ちょっと気になります。

 だけど今回の話のメインは、波留と可南子(和久井映見サン)の細やかな心の動き。
 このドラマの方向性としては、こういう深い心理描写がメインなほうがしっくりする気がします。

 波留は可南子との思い出のヴィンテージカーを修理することに集中し始め、可南子は最近5年間のスキルが欠落したまま、図書館の勤務を再開します。
 けれどもふたりの新たなスタートが切られたなか、ひとり暮らしを強いられる波留の生活に、ちょっとずつちょっとずつ、不便というものが重なっていく様子が描写されていく。

 たとえばこないだ加奈子が整理整頓したはずだった家の中は再びゴミ袋が散乱し始め、おそらく可南子が一手に引き受けていたと思われる、家賃や電話代などの支払いが滞り始めている。
 経済的にも逼迫しだしている、という感じですよね。 それまでは可南子も図書館勤務で家計を助けていただろうから。

 ゴミの片付け中に足を滑らせて再びゴミをぶちまけてしまう波留。
 けれども波留は苦笑いをして、自嘲的にゴミをまた拾い集めるのです。
 これって結構ストレスたまる作業ですよ。
 だのに波留は気の抜けた嗤いで自分の中にたまりつつある不満を、ガス抜きしようとしている。

 これ以外にも、勤務先のミズシマオートでも、桂(かつら、倉科カナチャン)だけは可南子が5年間の記憶を失っていることを知っているけれども、ほかの従業員には知らせていないし、こういう 「あいつは知ってるあいつは知らない」 みたいなことって、結構神経使いますよ。
 面倒臭いから全員に教えちゃえばいいのに、って思いますけど、行きがかり上そうなっちゃってる、という説得力は残されています。 管理人も知らないし。

 こういう目には見えないことが雪のように降り積もって、かなり鬱々とした気持ちになるはずなのに、波留はその気持ちをひた隠しにして、どんなところでも明るく、そして余計に元気にふるまっている。

 可南子のほうはというと、図書館での業務にネット予約、というものが導入されていたらしくて、苦労している模様。
 そんななか、失った5年間の出来事だけは把握しておきたかったのでしょう、過去5年の新聞収縮版をパソコンで見たりしています。
 そこに出てきた出来事、リーマンショックとか民主党が政権を取ったとか裁判員制度が始まったとか、結構重要なものもいくつかありましたが、最もショッキングなのは、やはり去年の東日本大震災でしょう。 かなり改竄された新聞紙面でしたけど(「東日本大震災」 という名称は、3月12日の時点ではなかったと記憶してます)、この記憶がすっぽり抜け落ちていて、これをあとから追体験するというのは、いったいどんな気分なんだろう。

 けれどもそちら方面の欠落を埋めようという努力はするのに、波留に関する記憶を、可南子は積極的に埋めようとしません。
 埋めようと思えば、自分の日記帳をいくらでも活用できるのに。
 5年前より以前から書いていたのだから、可南子が自分の日記帳を覚えていないはずはないですよね。

 このことも波留はどこかで、何気なしに傷ついてると思うんですよ。

 だのに彼はへらへら笑って、全然気にしてない、と可南子に意思表示する。

 この波留の思考形態は、波留の養父である小野寺昭サンによってこう解き明かされます。

 「波留はね、ずっと気を遣われて生きてきたんだよ。
 ほら、血が繋がってないじゃないオレたち親子って。

 …波留は、養子なんだよ。
 生まれてすぐに、家で引き取った。
 (暗い顔をする可南子に)ていう話をすると、そうゆう反応になっちゃうじゃない、みんな。
 当の本人は全然気にしてないのに。
 あいつはさ、気を遣われる苦しさっていうのかなあ、そういうのをずうっと感じて生きてきたんだよ」

 これは、5年間の記憶を失ってしまったときから自分が感じていたモヤモヤ感と、共通していたことに、可南子は気付きます。
 「優しくしてくれるのは、ありがたいんです。 うれしいんです、ホントに。
 うれしいんですけど、…優しくされればされるほど、それが、重く感じて…。
 申し訳ないっていう、気持ちになります。
 …
 気を遣われるのは、…つらいです」
 そんなことを可南子は、カウンセリングのお医者さん?に話してましたよね。

 「なんとなく、分かった気がします。
 お父さんと話してみて。

 どうして、私があなたと一緒にいたのか。

 想像はできるというか、理解はできるっていうか」

 そう言う可南子に、「気持ちはまだってことね」 と、またガス抜きのような笑いで応える波留。 でも彼の心の中は、かなり前進したという気持ちでいっぱいのはずです。
 「前向きに受け取っておくよ」。
 それが彼の、人生の処方箋なのです。

 あくまで前向きに。
 悪いことは考えない。

 でもそこには、やはり澱のように沈んでいく気持ち、というものがあるのです。

 可南子は昔の友人たちに誘われていた飲み会に出ることを決意します。
 そこで目にしたのは、(可南子の記憶の中では)前回会った6年前とは、まったく予想だにしない道を歩んでいる、友人たちの姿(約1名変化なしの人あり)。
 そこで厳しい会社経営をしている友人から 「つらい時には前向き前向きって言ってないと、やってらんないの」 という言葉を聞く可南子。

 おそらくこのとき、可南子は同じ 「前向き」 という言葉を使っていた波留が、実はとてもつらい気持ちを押し殺しているのではないか、と感じたんだと思うんですよ。
 このあと可南子は、「もう会わないほうがいいと思う」 という言葉を波留に伝えることになるのですが、おそらくそれはそう感じたことが理由だと思う。 冷たくて唐突な判断、ではない気がするんですよ。

 可南子の日記を再び読んでいる波留。
 それは、波留と可南子が一緒に暮らし始めたときの日記です。
 それは 「じゃあ、また」 という別れの言葉を口にする寂しさから解放された日。

 「でも、今日からは、同じうちで暮らすのだ。

 このうちへ、波留と一緒に帰ってくる。
 このうちで、波留の帰りを待っている。
 このうちで、波留が帰りを待っていてくれる。

 『じゃあまたね』 は、もう言わない。
 今日からはここで、『行ってきます』 と、『行ってらっしゃい』 を、
 それから、
 『ただいま』 と 『おかえりなさい』 を、
 波留とふたりで、言い合うのだ。」

 その日記を波留が読み終えたとき、玄関のチャイムが鳴ります。
 「ただいま」「おかえりなさい」 ではなく、ふたりが交わした会話は、「ちょっと、いいですか?」「うん」。
 切ない。

 そして可奈子の口から、先ほどの 「もう会わないほうがいい」 というセリフが飛び出すのです。

 「あの…もう、会わないほうがいいんじゃないかと思います」

 「え?」

 「それ言いに来ました」

 「なんで?」

 波留は訳が分からない、というような感じで訊き返します。
 波留の心の底に澱のように沈澱していた気持ちが、掻き乱され始めたような感覚です。

 「職場に行ったりしたのが迷惑だった?」

 「そんなこと(ありません)」

 「じゃあ、オヤジがやっぱストレスだったとか…ハハハ」 この笑いも、先ほどの 「ためていく作業」 と同じ感じです。

 「そうじゃ、ないです」

 「じゃあ………どうして?」 波留は精一杯、平静を装いながら訊く。

 「やっぱり…記憶が…気持ちが戻らないの…戻るあてもないのに、ずっとこのままでいるのは……」

 「待つよ。

 オレは、いくらでも待ってるから。

 ゆっくりでいいって言っただろ?」

 可南子はそんな波留の、無理をして平静を装い優しくなろうとしている様子に耐えかねたように、訊き返します。

 「…なんでそんなこと言うんですか?

 もっと文句とか言ってください。

 嫌なんです、そういうのが。

 そうやって優しくされることとか、そういう優しさに気付いてもいなかったこととか、気付いてもなんにも出来ないこととか、…あなたに甘えてる自分、気持ちに応えられないことも、のんきに友達と飲みに行ったことも、…

 こうやって、いまもあなたを困らせてることも…。

 なにもかも…!」

 波留は震える可南子を見つめ、不意に抱きしめます。

 これはおそらく、いままで波留のなかで積もりに積もっていたモヤモヤしていた気持ちが、瞬間的に爆発してしまったものだ、と感じます。 どうしてそんな拒み続けるんだ、という怒りの気持ちも含まれている。 いままでゴミ袋をぶっ散らばしたときとか、何かというとイラッとしていた気持ちをぶつけたものだ、とも言える。
 そしてまるでさまよえる魂のような可南子の気持ちに対して、「おかえり、お前の帰る場所はここだ」 と示しているような抱擁である気もする。

 けれども。

 可南子は波留の抱擁を、強引に拒絶するのです。

 人には弱い心もあれば、強い心もある。
 でも自分が弱い気持ちのときに、優しくいたわられてしまうことで、また傷ついてしまう、ガラスのような脆さを持っています。
 自分は強い心を持ってるよ、気を遣わないで、という気持ちがある。
 いっぽうで甘えたい、優しくされたい、と願う心もある。
 波留と可南子には、同様の心模様が、渦巻いているのだと感じました。

 ん~、濃いぞ、いきなり(笑)。

 こーゆーのを待っていた(笑)。

 倉科カナチャン横恋慕エピは要らないぞ(笑)。

 この路線でやってってくださいまし。

 以上。

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2012年5月 4日 (金)

「37歳で医者になった僕」 第2-4回 自分の人生の最後を決めるのは自分

 このドラマ、当初は37歳という高齢(?)で研修医となった草彅剛クンが、いったん社会人として仕事をしてきた経験を生かしながら、医療の形態に対するアンチテーゼを示していくドラマだと思っていたのですが、どうもそうじゃない気がしてきました。

 まず第1話では、脳出血の後遺症患者である北村総一朗サンに、人工的に食道を作るというイメージの 「胃ろう手術」 を受けることを本人に決めさせるかどうかを、草彅クンが迫ったものでした。
 そして第2話では、経済的な理由からこれ以上の入院治療を拒む糖尿病患者の徳井優サンが、病院を脱出するという話でした。 ただし結局それは草彅クンらの 「医療費免除制度」 提案によって解決の糸口が開かれたわけですが。
 第3話では末期の膵臓がん患者であった甲本雅裕サンが、治癒の可能性が30%である抗がん剤の投与をするかどうかを決めることが物語の主軸となっていた。
 第4話では、治癒の見込みがない肝臓がんの元女優、江波杏子サンが、自分の人生の最後は自分で演出する、という意思を見せた回。 同時に自殺願望の少女がもう一度治療を受ける決心をするまでのドラマが絡み合っていた。

 このクランケのケースはすべて、病院の枠に収まりきれない草彅クンがその決断を用意したとはいえ、最終的な治療の判断がすべてクランケの側に委ねられているのが特徴だと感じます。
 逆に考えれば今の医療の世界、いかに医師主導で治療のコースが誘導されているかが浮き彫りになってくる。
 このドラマで何回か出てきた問題のひとつに、インフォームドコンセントは一応されるけれども結局、何が何だか患者及び家族の側には判断のしようがない、ということがある。
 それはインフォームドコンセントが単に医師の治療方針伝達の手段でしかない現状を物語っているように思えるのです。
 草彅クンはその情報開示を限りなく分かりやすく噛み砕くことで、実はそれで患者側に自らの責任能力を従来以上に迫っている、と私には思える。

 つまりは、自分の人生、どういう終末にするのかは、自分の判断に委ねられなければならない、という思想です。

 だから草彅クンの姿勢は一見、とても分かりやすい、患者のことを思いやった誠実で分かりやすいものでありながら、実は患者にとってはなあなあで治療されるよりもずっとキツイ。

 もし自分が、死に至る病に罹ったとしたら。

 医療を受ける側にとっては、まず自分が家族にとってどれだけの存在的な重みを持っているのかが吟味されると感じます。 家族がいなかったりすれば自分の存在の重みはそれだけ軽くなるでしょうしね。 家族だけでなく社会的立場に置き換えても同様です。
 そして経済的にどこまで治療可能なのかも吟味されてしかるべきでしょう。 今回徳井優サンのケースにあったように、医療費免除制度というものがあるのならば、それに頼るのもいいでしょうけど、限界ってものもあると思うのです(不勉強で分かりませんけど)。

 そして最後に、これがやはりいちばん重要なのですが、「自分はどうあっても生きたいのか、それとも自然のままに死んでいってもいいと思うのか」、です。

 これはどちらにしても、最後まで自分が病と闘った、という点では同じだと思う。
 いずれにしても自らの生命の尊厳は、守られるであろうと感じます。

 限りない痛みのなかに自分が置かれた場合、人は 「今すぐにでも楽にしてくれ」 と思いがちです。
 どこまで自分が闘えるのか。
 それは人それぞれだけれど、私は血だらけになっても、最後まで 「自分は生きている」 という自覚のもとで生きたい。
 少なくともこのドラマに出てくるクランケたちは、その、誰に頼ることのできない重大な問いに、自ら直面しています。
 決めるのは、自分なのです。 医者ではない。
 (ただし第4回での自殺願望の少女みたいに、自殺するのを自分の権利だとは思えません)(ここで問題にしているのは、自分が死に至る病に罹っている場合のみです)

 このドラマに出てくる研修医たちも、草彅クンという存在によって、逆に医師の本分とは何なのかに、また直面している。 そして自分たちが患者たちの傲慢な暴君であってはならないことを、日々噛みしめていく。

 このドラマで従来のような問題ある医療現場の象徴として、松平健サンが配置されているのには、少々危惧を感じます。
 ただ松平健サンを今後このドラマの作り手がどのように処遇していくか、その分岐点によって、このドラマの質が決定される気は、するのです。

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「パパドル!」 特別編 本編はやらんのか

 久々にこの時間帯家におったもので、「パパドル!」 をリアルタイムで見ようと思ったら、なんか特別編とかになっていて。

 「なんで 『パパドル!』 なんて見てんねや」 と思われそうですが、このドラマ、結構バブリーで面白いですよ(笑)。 チョード派手な 「くら寿司」 とか(笑)。
 鶴瓶サンの持ち番組の 「A-Studio」 とか、嵐の 「ひみつの嵐ちゃん!」 とか、同じTBS限定ですが、いろんな番組とコラボをするのも興味深い。 私も結構ミーハーな部類なんですよね。

 今回の特別編も、かなり本気度の強い関ジャニ∞のバラエティ特番の形をとっていて、そこにドラマを絡めれば、ドラマのリアリティ、というよりも視聴者とのシンクロ度が強まるような効果が得られる、と感じて期待したんですが。

 肝心の本編はものの5分?程度。
 2時間拘束された末に、番組のいちばん最後で、先週の予告編の映像を再び見せられる羽目に。
 結局私、この手のバラエティ番組、もう何十年かぶりで見させられちゃいました(何十年はオーゲサ?…いやそれほどオーゲサでもない…オーゲサかもしれない…どっちやねん)。

 ただこのドラマ、こういうことをやって置いて、ごくごく短い本編のなかで子役の谷花音チャン(末っ子で嵐ファン)に 「嵐の2時間特番のほうがよかった」 などとメッチャシャレにならない冗談をカマさしているところが、実に正直でよろしい、と感じてしまう。

 このドラマでリアリティを遠ざけているのが、この関ジャニ∞のふたりのマネージャー、えなりかずきクンと八嶋智人サンであることは明白であります。
 このふたりの道化を笑って見過ごすことができれば、このドラマは結構視聴に耐えるはず(笑)。 アイドル錦戸亮クンとの結婚という夢物語を、ファン限定で(限定かよ)疑似体験できる作りになっています。

 前回(第2回、だったかな?)では、錦戸クンの結婚相手優香チャンの母親である、高畑淳子サンの演技には瞠目させられました。
 この人、心臓に影があるとかで病人のふりをしていたんですけど、それがバレちゃって優香チャン以下家族全員に責め立てられて逆ギレし、完全オチャラケキャラだったにもかかわらず 「おばあちゃんが死ねばよかったのよね」 と号泣してしまう。 ここらへんの演技の豹変ぶりは、高畑サンさすがだと思います。
 こういう、「視聴者が見くびりやすいドラマ」 でこうした本気モードの演技を見せられると、それってものすごい効果を発揮するんだな、と感じ入りました。 こういうのがドラマの醍醐味と言える。

 だからこそこのドラマの本編もたっぷり見たかったのに。
 なんでまんまバラエティやねん(確かに良く出来たバラエティでしたけど)。

 ただ、こういう、手を変え品を変えみたいなことをしないと、視聴者って食いつかないものなのかな~などとは思いますね。
 それでも、その度が過ぎてしまえば、「先週の予告編をまた今週も見とるで」「なんや詐欺かいな」「だましたらアカン、だましたら」 ちゅう気になる危険性のほうが高いとは言えまいか。
 テレビのそんな不誠実なところに、視聴者がそっぽを向いとるのとちゃうやろか。

 まして今回のバラエティのオーラスは、次長課長の河本クン。
 なんや知らんけど、この人最近変な噂立っとるちゃうの。 ええ加減なことここではゆわへんけどや。
 ここで子供の手紙読まれてお涙頂戴みたいなことされたかて、視聴者引くでホンマに。

 なんや 「カーネーション」 のときの書き癖が戻ってきてもうたやないの(笑)。 どないしてくれんねん(笑)。

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2012年5月 2日 (水)

「100分de名著」 源氏物語…、は置いといて(笑)

 教育テレビの(あEテレか)「世界の名著を100分で読み解く」 というこの番組。
 司会の伊集院光クンが自分のラジオ番組 「深夜の馬鹿力」 でちょこっと話していたのでちょっと見てみよう、と思って。

 伊集院クンの話によると、解説役の教授も含めアシスタントもゲストのかたもこぞって知識が豊富すぎて、「あれそうなのよねー」「そうそう!」 みたいな、まるで常識みたいに面白がって語り合う中に入っていけない、と愚痴っておりましたが、そーゆーのは分かりますねー、私も劣等生だから(笑)。

 で、「源氏物語」 というと、私もその輪の中になんとか入ろうと思って数度アタックしながらもそのたびに玉砕しておるのですが(笑)、そのいちばん最初のとっかかりは与謝野晶子サンの現代語訳で、中1あたりで読み始めたのですがこれがかなり難しい。 現代語なのに難しい(笑)。

 結局この話、マンガとかで読むのがいちばん手っ取り早いかと存じますが、そのことごとくは少女マンガのカテゴリーでして。 「ベルばら」 は別として、男の子にとって少女マンガというのは、かなり敷居が高いんですよ。

 で、次に 「源氏物語」 の牙城に迫ろうと思ったのは、教育テレビで当時よくやっていた、「古典への招待」 みたいな番組。
 そこで 「源氏」 の解説をしていたのが、今回 「100分de名著」 源氏物語編の解説を担当していた、三田村雅子教授でして。 当時はまだフェリス女子大の助教授だかなんかでした。

 で、告白いたしますと、もうかれこれ30年以上前になりますが、私この人にちょっとあこがれておりまして(笑)。

 いや、こう申し上げると失礼なのですが、そんな大した美人じゃないんですよ。
 でもそのしゃべりかたがとてもソフトで、いまで言うなら 「癒し系」。
 しゃべりに魅了されていた、と申し上げてよいと思います。

 確かそれ以降も三田村教授はNHK教育の常連でして、数回見かけたのですけれど、今回は私もさすがに、前回お見かけしてからもう10年は少なくとも経っているか、という感じでありまして。

 ふぅ…。
 お変わりになられましたね…。
 ちょっと小太りのおばあちゃん(う~、失礼いたします)もとい初老の女性に。

 そりゃ私ももう47ですから。

 もう私は決めました。

 小学校の同窓会になんか、絶対に行かないぞぉ~~~ッ!(爆)
 初恋の人が老境にさしかかっているのなんか、見たくない。

 なんの話だ?

 いや、でも、その語り口のソフトさはそのままでした。 三田村教授。
 「源氏物語」 についても、あれほど全体像に迫れなかったのに、今回はかなりディティールをつかめた気がいたします。
 それにしてもこの物語を知ろうとしていろいろやって、全部無駄だったなどと感じておりましたが、柏木とかの話を聞いていて、なんか懐かしい人にまた会ったような気がいたしました。

 結局ある程度は知ってたのかな(いや、やはりまだまだです)。

 番組は、伊集院サンが源氏の子(?)である薫を評して、「ネットでつながってないツイッターをやってる感覚」 とか、なかなか鋭い切り口で魅せてくれます。 「輪に入れない」 とか言って、なかなかやりますな、伊集院クン。
 次回放送分からは、カフカの 「変身」。 これも面白そうだなー。 見てみようかな。

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「もう一度君に、プロポーズ」 第2回 このまま下世話な話にならねばよいが

 このドラマ、短縮版でしたが第1回の時に感じたのは、「人にとって、記憶って何だろう」、ということでした。 レビューにはきちんと書きませんでしたけどね。

 和久井映見サン演じる可南子は、竹野内豊サン演じる夫の波留の記憶だけを、なくしてしまう。 厳密に言えば、波留と出会ってから5年間の記憶が、なくなってしまうのです。
 くも膜下出血という危機から脱した可南子は、言わば5年ウラシマ状態。
 第2回の話ではそのことが丁寧に説明されていくのです。

 可南子は図書館勤務していたのですが、そこの所長である杉本哲太サンも、丸々5年歳取ったように感じる。 「所長白髪増えましたね」 みたいな。 その所長に子供が出来たことにも驚愕。
 そしていちばんショックを受けていたように思えるのは、そこに通っていた小さい男の子が、いつの間にか妹の面倒を見る立派な男の子に成長していたということ。

 第1回では可南子の病状が、「心因性によるもの」 という説明がされていたために、もしかすると可南子がこの5年間を思い出したくないものと認識してしまっているのか?などと考えたのですが、本当に5年間の記憶だけが欠落している模様なのです。
 それって、描写はないけれども、鏡に映る自分の顔を見てもショックだろうな、と感じる。
 アラフォーの5年つーのは、結構来ますからね(笑)。

 波留はそんな可南子に、まるで当たって砕けろみたいな感じで猪突猛進していく。
 実家に立て籠もってしまった(笑)可南子に毎日会いに来るんですよ。 ウザいほどに。
 ヒッキーになってしまった可南子もたまらず玄関口に出て来て彼をあらためて拒絶。

 ただそんななかで可南子も前に第一歩を踏み出したい、と思うようになり、いったん辞めようと思っていた図書館勤務を再開することにし、波留との距離も、少しずつ縮めていこう、と思い直したようです。

 この過程で語られるエピソードのひとつひとつは、とても恋の切なさ、淡さを表現していて、なんだか恋愛の疑似体験を出来るような甘い思いにさせてくれます。
 ただ、第1回を見ていた時のような、「人にとって記憶って?」 という深いところまで、あまり思いが至らない。

 なくしてしまった5年間がもし可南子にとって、宝のような毎日だったら、波留に募らせていった思いを忘れることって、どんなに切ないんだろう。
 第1回を見ていていぶかしく感じたのは、波留を必要以上に拒絶している可南子の姿だったのですが、そこには可南子のそんな焦燥からくる苛立ちも見てとれたのです。
 そしてそんな自分にも関わらず、「もう一度1から始めよう」 と言ってくれる、自分の夫だと言い張る男。 「なくしてしまったもの」 への切ない気持ち。
 そこには見ている側の心を揺さぶる可南子の思い、というものがあった気がする。

 けれども第2回では、そんな、このドラマ自体に潜む長所、武器と呼べる点が影をひそめ、単に第1回のその後の経過をなぞっているだけに見える。

 この第2回を見ていて感じたのは、物語が急速に問題収束に向かっているような感覚です。
 可南子も問題を抱えながらも、とりあえず前に向かって一歩を踏み出した。
 波留も可南子との思い出のヴィンテージカーを再生することで、失ってしまいそうな過去と向き合おうと決心した。

 けれどもいっぽうで、それを阻止するかのような、波留の勤めている自動車整備会社の同僚である、倉科カナチャンが、なんとなく不気味な動きをしつつある。

 どうも話の流れから言って、下世話な方向に傾きつつあるような危惧を感じるのです。

 この、平和な調和に向かいつつあるドラマ、おそらく2回目あたりで収束という形には至らないのでしょうが、そこに波風を立てる存在みたいに、倉科カナチャンを絡ませないでほしい気が、すごくする。

 もっと可南子が 「どうして波留をそんなに拒絶しようとするのか」 という動機にスポットを当ててもらいたい気が、すごくする。

 ひとつひとつのエピソードがとても丁寧だからこそ、そんなありきたりな話にしてほしくないのです。 下らない取り越し苦労かもしれませんが。

 確かに毒のないドラマすぎて、もうちょっとドロドロしてほしいんですけどね。

 ドロドロするのに横恋慕とか、つまんないことはやめてほしいけど、なんかその方向に行きつつある(笑)。

 見ている側を瞠目させるような展開に、なってもらいたいと切に願います。

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