« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »

2012年6月

2012年6月28日 (木)

ザ・ピーナッツの伊藤エミさん死去

【スポーツニッポン6月27日】 「恋のバカンス」「恋のフーガ」などのヒット曲で知られ、1960~70年代に一世を風びした双子姉妹「ザ・ピーナッツ」の姉、伊藤エミ(いとう・えみ、本名澤田日出代=さわだ・ひでよ)さんが15日、東京都内で死去した。 71歳。 愛知県常滑市出身。 死因など詳細は非公表。 葬儀・告別式は近親者で済ませた。 引退した75年以降は、公の場に姿を見せることはなかった。

 私の世代(1965年生まれっス)にとっては、ほとんど引退直前の記憶しかないザ・ピーナッツですが、彼女たちの歌には、後追いでハマっていた時期があり、今回の訃報には大変ショックです。

 私が子供時代ザ・ピーナッツについて持っていた印象は、「一昔前のオバサン」。
 「シャボン玉ホリデー」 での姿も数度見たことがある気がいたしますが、当時はクレイジーキャッツも、「一昔前のコメディアン」。
 実は同じ渡辺プロの後輩で、私がトチ狂っていたキャンディーズなどは、ザ・ピーナッツの正統な後継者という位置づけだった。 にもかかわらず、私は彼女たちにそんな 「古臭い」 印象を持っていたのです。
 同じように、私が当時夢中になって見ていたドリフターズも、言ってみればクレイジーキャッツから派生した、正統な後継者。

 つまり私は、ザ・ピーナッツもクレイジーキャッツも、大人になるまでそのすごさを実感できなかったのです。

 学術的に(?)当時の彼女、彼らのすごさを学んでいくうちに(テレビの懐古的な証言番組とか、よくありましたからね)、特に昭和30年代の歌に、とても衝撃を受けるわけです。

 クレイジーキャッツには、「金がなくてもそのうち何とかなるだろう」 という 「思想」 とか(笑)、「ホンダラダッタホーイホイ」 だけで成立してしまう曲には、かなりショックを受けました(笑)。
 なにしろ当時の私は、なんでも物事を深刻に考えてしまうタイプ。
 植木等サンのノーテンキぶりには、人生観を変えられました(ちょっと大げさが入ってます…笑)。

 ザ・ピーナッツの、とくに初期の曲には、さらにハマりました。
 古臭いのですが、それがスタイルとしてきちんと成立しているがゆえに、有無を言わさず聞かせてしまう 「風格」 というものが、彼女たちの歌にはあるのです。

 私がガキンチョ当時、双子デュオに対して持っていたイメージは、「こまどり姉妹」(笑)。
 リリーズもそうだったっけな~。
 そこからくるイメージは、「なんとなくダサい」。
 双子なんだから、上手にハモれるのは当たり前だろう、というクソ生意気な論理です(笑)。

 けれども彼女たちのデュオには、「同じ声でなければできないこと」 というチャレンジ精神が、常に見え隠れする。
 ユニゾンの時に見せる表情は、私が大ファンであるビートルズの、「ダブルトラッキング」 を連想させるのです。 ダブル・トラック・レコーディングというのは、1回録音したものの上に、同じ音程で歌を重ねること。 そうすることで、ヴォーカルにツヤが生まれ、引き立って聞こえるようになるのです。
 この 「新しい」 感覚は、リリーズにはないかな~(笑)。

 そしてザ・ピーナッツは、初期の歌ほど、さまざまな音楽のごった煮的な、コラボ感覚、フュージョン感覚がついてまわる。

 元々基本的な土台にポップスがあり、そこから派生的に、ジャズでもムード歌謡でも、カンツォーネでも民謡でも音頭でも、果ては東南アジア系の土人音楽(土人って、どうも差別用語みたいですが、私にとっては結構スタイリッシュなイメージですので御諒解のほどを)まで、なんでもこなす。
 音頭なんてものは、たぶん昭和30年代でも、じゅうぶんダサかったと考えられます。
 でも彼女たちは、ポップスの味付けでもって、それを若者に聴かせるような 「新しい音楽」 として、昇華させていった(まあ宮川泰サンとか、スタッフの功績が大きいですが)。

 ところがそれが、私が物心ついた時分(1970年(昭和45年)から1975年(昭和50年)あたりか)から、どことなく 「時代におもねっている」 ような感覚になってくる。
 時代を牽引するような勢い、自信に満ちていたものが、時代を追いかけているような感覚に変化していく(これは私だけの感覚かもしれません)。

 結果、私がガキンチョの頃に考えていたような、「ザ・ピーナッツは古臭い」 という範疇に、収まってしまったのではないでしょうか。

 ただ、彼女たちが引退した昭和50年を逆算してみたのですが、この時点で彼女たちは、34歳です。

 34って言うと、今じゃ出産も当たり前の若い年代ですが、当時としては、失礼ながらやっぱりかなりオバサンの部類に入る(まあ、小学校のガキにしてみりゃ、まわりはみ~んなオバサンみたいなものですが)。

 「大阪の女」 などは、これがあの最先端を行っていたポップス歌手が歌う曲か、と思われるほどの演歌調。
 「指輪のあとに」 とか、「さよならは突然に」 とか、なんかヤケに歌謡曲歌謡曲してしまっている。 「チャレンジ精神」 が彼女たちの歌を魅力的にしていたのに、なんか安全牌を選んでいるような印象。
 「浮気なあいつ」 も、確か当時すでにブレイクしていたキャンディーズの後塵を拝するような形の歌で。 「内気なあいつ」 の二番煎じか?みたいな(笑)。

 でも、ここまで書いといて、みんな好きなんですけどね(ハハ…)。

 ただやっぱり、「すごみ」 を感じるのは、昭和44年くらいまでの曲かな~。 曲自体が、巨大な実験場、という感覚があるのは、やはりその時代まで。

 ザ・ピーナッツと言えば、今どきの私より若い世代(私の世代も入るかな…私が古い曲を単に知ってるだけですから)「恋のバカンス」 とか 「恋のフーガ」、そしてオチャラケた向きには 「モスラの歌」 という曲くらいしか思い浮かばないのでありましょうが、「ウナセラディ東京」 とか 「可愛い花」(デビュー曲)、「キサス・キサス」 などは、「大人が聴くための歌謡曲」、という挑戦的な感じがするし、「南京豆売り」「今池音頭」 などは、美空ひばりサンの 「お祭りマンボ」「車屋さん」 に共通した、ミックスカルチャー的、ミスマッチ的な魅力にあふれています。

 言わば、J-POPのもっとも源流に存在している双子デュオ、と呼べるでしょうね。
 もっと再認識がされるべきです。

 謹んで、伊藤エミさんの、ご冥福をお祈り申し上げます。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2012年6月26日 (火)

「鍵のかかった部屋」 最終回 視聴者を閉じ込めたまま部屋から出ていってしまった主人公

おことわり ちょっと、書き足しました。




 「鍵のかかった部屋」。
 正直申しまして、全話見たわけではありませんが、とりあえず最終回まで見た感想を書こうと思います。

 フジテレビの月9と言えば、変なハードルが横たわっている、という印象がとても強い。
 視聴者が月9になにを求めているのかは知らないのですが(トレンディドラマ全盛の頃、私はいちばんテレビドラマから離れていましたので)、とにかくTBSの金曜10時ドラマと同様、過去の栄光というものが大きな負担となっていることは、外部から見ても明白だと感じます。

 それでも、今回のような緻密な話を作れば、いままでのうるさ方を黙らせ、逆に称賛されるのではないか。
 今回のこのドラマの高視聴率を支えているものは、大野智クンの人気によるものがおそらく大きいのだ、と感じますが、このドラマは彼の人気に寄りかからない面白さを確立していた。 原作がいいのかな。

 このドラマのいちばんの魅力は、密室殺人という 「完全犯罪」 を解いていく面白さにあったことは当然ですが、完全犯罪って、言ってみれば、「ブヨブヨに太った巨大肥満児」。

 その謎を解こうとすればブヨブヨの体型は巧妙に姿を変え、容易に中核までたどり着かせてくれない。
 しかし、その犯罪者の動機となるべき中核の部分には、異常に子供っぽい劣等感や憎しみ、虚栄心が紛れもなく存在している。

 大野智クン演じる榎本径は、その巨大な不定型物体についている幾重ものセキュリティを突破して、無表情のまま中核までたどり着く。
 このドラマのカタルシスは、感情を一切持たないように思える榎本が、その事案に潜むさまざまな人間的な鍵をこじ開け、不定型物体をそぎ落としていく過程にある、と感じます。

 そしてそれを下からしっかり支えていたのは、佐藤浩市サンと戸田恵梨香チャン。
 このドラマの第1回レビューで私は、この弁護士コンビが毎話毎話密室殺人事件話に絡んでくるというのは誠に不自然、とミもフタもないことを書いたのですが(笑)、ドラマを見ていくうちに、実はこのふたり、絡みたくて仕方ないから絡んでいる、という、ごく当たり前の結論に達しました(笑)。

 なにしろふたりとも、事件の謎がひとりで分かってしまうと、もうドヤ顔満面で自慢したくなる(爆)。 そしてその推理は、いつも外れて視聴者の笑いをとる。
 これって市川崑監督の 「犬神家の一族」 をはじめとする金田一耕助シリーズに出てくる、駐在さんの役割に似てるよなー。 「ヨシ、分かった」 って(笑)。

 そして当の榎本径のほうも、実は密室殺人事件に、絡みたくて仕方ない。

 これは彼があまりにもクールだから見落とされやすいと思うのですが、彼は密室殺人事件が起こると、まずその殺人現場の模型作りに没頭するわけですよ(笑)。

 もちろん現場の精緻な模型があれば、事件解決にとてもイメージがわきやすい、という実利的な部分はありますけど、彼はその作業が、楽しくて仕方ないんだ、と思う。

 このドラマは、そんな人間的な部分を佐藤サンと戸田サンに一任しているように見せながら、榎本を徹底的にクールに見せながら、実は榎本の明かされない人間的な部分をピンポイントでつついている(笑)。 この3人の役割を明確にすることで、ドラマとしてのメリハリをつけていると思うんですよ。

 このドラマ、演出的に、なんか時々、いきなりシーンをぶった切って、コンマ何秒かのブラックアウト画面になる。
 最初見たときは、何が起きたのかと思いました。 私の録画機は、HDD容量が少なくなると、たまにこういう現象を起こすのですが、このドラマのそれは、そこでシーンを強引に次に移行してしまう。

 これも、視聴者を限りなく、「突き放している」 わけです。
 そして 「突き放される」 がゆえに、視聴者は榎本径への興味を募らせる。

 2回に分けて展開した最終話では、そのクールでプライベートな部分を全く見せようとしない榎本径の、いわば分身的な役割として、源義朝、じゃなかった(どーもベタなギャグでスミマセン)玉木宏サンが登場します。

 この最終話、最初は殺害された社長の側近である副社長が、その登場時から怪しさ全開で、これはおそらくフェイクなんだろうな、と思ったのですが、この殺害現場の第一発見者である玉木宏サンも、登場早々、怪しさ全開。 こっちはフェイクじゃないのかな、なんて、見ている側を混乱させます。

 そして 「リーガル・ハイ」 のガッキーばりに緻密な調査を戸田恵梨香チャン(彼女も、成長しましたね)が敢行した結果、彼(玉木サン)が両親の自殺を契機として、人生の不条理を一気に請け負っていく過程が明らかになっていく。

 大野智クンと玉木宏サンは早い段階で、「お前と俺はよく似ている」 という対峙をするのですが、このことが呼び水となって、戸田恵梨香チャンによって明らかにされていく玉木サンの素姓が、実は榎本径の素姓と、過去の性格的に何らかの共通点がある、という見せ方をしていくわけですよ。
 つまり戸田チャンは、間接的に榎本径の過去を探っている、というドラマ的な構造ですよね。

 この過程で、刑事の宇梶サンから 「複数の犯罪現場の監視カメラに、榎本が映っている」 という情報を、佐藤サンは入手します。
 ここで見る側は、榎本径の素姓に何か後ろ暗いところがあるのではないか、という疑念を生じていくわけです。
 ここらへんのたたみかけは面白い。

 ただ、あれほどまでにセキュリティに詳しい榎本径が、不用意に犯罪現場の監視カメラになんか、映るはずはないですけどね。

 監視カメラと言えば、オウム事件の高橋某を思い出します(話がずれとるぞ)。
 よく海外ドラマとか見てると、不鮮明な画像を鮮明にしていくシーンがありますけど(笑)。
 アレってすっご~く、テレビ的な 「ウソ」 があると思う(爆)。
 「鍵のかかった部屋」 で流された、監視カメラの榎本の映像は、結構ぼやけてましたけど、あの特徴的なメガネ、そしてイヤホン。 榎本がまるで、自分だと即座に分かるような格好を、してるわけないじゃないですか、犯行現場で(笑)。

 そして榎本は幾重もの鍵をこじ開け、やっと犯人を特定する。

 「明日話します」 とはぐらかされて、また悔しがって 「…出たよ。 久しぶりに出ちゃったよ…オレが苦手なヤツ。 どーして明日なんだよ今言えよすぐ言えよここで言!」 と身もだえしながら叫ぶ佐藤サンのシーンが(笑)例によってぶった切られ、大野クンは玉木サンに、秘密裏に会うのです。

 と、ネタバレブログには珍しく、事件の真相はここまでといたしますが(ンナニィぃい~~~っ?)(デカ長…)。

 でもどうして、榎本径は玉木サンに単独で会ったのか。
 それは、榎本が玉木サンの中にある暗闇に対して、自分と同質だと認めながらも、自分の優越性を発見したからだ、と思うのです。
 だから玉木サンがそのあとどういう行動をとるのかについて、性善説的な予測が出来たのだと感じる。

 榎本径は、無表情のまま、玉木サンにこう吐露します。

 「僕は、ガラスの箱に閉じ込められるのは、ごめんです。

 たとえ向こう側に行けないとしても、

 …自由でいたいんです」

 自分は玉木サンのように、暗闇に囚われているわけではない、という宣言なのでしょうか。
 いずれにせよその言葉を残して、榎本は忽然と姿を消してしまう。

 このエンディングは(厳密に言うとエンディングではありませんが)つまり、このドラマ特有の、「見る者を突き放す」 流儀なのだと感じます。
 榎本のダークヒーローとしての可能性を残しつつ、戸田チャンにはちゃんと別れの電話を入れる。
 「また戻ってきます」、ということですよね、ドラマ的には続編もあり得る、というおいしい終わりかただ、と意地悪な見方もできますが。

 密室に取り残されたのは、ドラマにハマってしまった視聴者のほうです。

 彼はただ、「自分は部屋の向こう側に行けないとしても、心は自由だ」、と宣言している。
 なにしろ榎本径は、密室殺人事件に、絡みたくて仕方ないのですから。

 大野智クンは、正直言ってかなり小柄です。

 それが、かなり大柄の佐藤浩市サンや、玉木宏サンと対峙した時に、いわれのない 「秘められた劣等感」 というものを、演出してくれる。
 戸田恵梨香チャンも、知りませんけど、かなり大柄な女の子だと思う。
 そんな林立する高層ビル(笑)に囲まれたとき、小柄な大野クンは、もっと別の武器を持って、相手の役者さんと対決しなければならない。
 今回の場合、それは限りなく緻密な記憶力と冷静な推理力だった。
 まだ粗削りな部分は否定できない気がいたしますが、このような 「小柄」 というハンデを逆に武器にできる、大きな可能性というものを、大野智クンには感じます(あ~あ、エラそうだな~、オレ)。

| | コメント (50) | トラックバック (1)

2012年6月24日 (日)

「コドモ警察」 最終回 解決してねーじゃねえかっっ!(爆)

 「横浜を拠点に、さまざまな犯罪を操る組織、レッド・ヴィーナス――そんな悪の組織を逮捕すべく横浜大黒署に特殊捜査課が組織された…エリートぞろいの刑事たちはたちまちレッド・ヴィーナスのしっぽをつかみ、今まさに一網打尽というところで、罠にかかってしまう――レッド・ヴィーナスが開発した特殊ガスを吸わされ、あろうことか、全員コドモになってしまったのだ!」 という森山周一郎サンのナレーションで毎回始まったこの30分ドラマ。

 最終回、ようやくあと一歩というところに迫りながら、姿の見えない敵のボス・スカーフェイスから 「オトナに戻してやる」 と持ちかけられ、ピンク色のガスを吸った鈴木福クンたち。
 だがそれは、ただ単に声だけが大人になるガスだった!(笑)
 まんまと敵の陽動作戦に引っかかり、またレッド・ヴィーナスを逃がしてしまった福クンたち、声だけもとに戻ってます。
 もう、腹抱えて笑いました。
 でもすぐ元に戻ってしまったんですけどね。

 ちなみにその声を当てているのは、ボスの鈴木福クンにゆうたろうサン(とーぜんか)。
 イノさん(いちばん太っていらっしゃるお子さん)に平田広明サン(ジョニー・デップ、「ER」 のジョン・カーターとか、自分的にはFF12のバルフレア)。
 エナメル(髪を思いっきりアップにしたおしゃれなお子さん)に入野自由クン(「千と千尋の神隠し」 のハクとか、「キングダムハーツ」 のソラですよね)。
 ブル(ジーパンを着てらっしゃる、力の強いお子さん)には浪川大輔サン(「ロード・オブ・ザ・リング」 のフロドとか、最近では石川五エ門)。
 スマート(パソコンのキーボードを叩いていらっしゃる最年少のお子さん)に野島裕史サン(申し訳ないですけど個人的にあまり印象にある役はないのですが、同じ声優の野島昭生サンの息子さんらしいですね)。
 マイコ(紅一点でいらっしゃるお子さん)には平野綾サン(ネットじゃよくお見かけだけはする声優さんなんですが、よく知りませ~ん)(涼宮ハルヒとかやってらっしゃるとか)。

 すぐに分かったのは、ナベさん(いちばん年上で、渋くていらっしゃるお子サン)の平泉成サン。
 私このドラマ見ていて、演技力が初期からずいぶん上達したな、と思えるのが、この渋くていらっしゃるナベさんだと思うんですよ。
 なんか、哀愁を感じる(笑)。

 ほかのお子さんも、みなさんドラマの進行と共に、演技力が増してきたように感じたのですが、鈴木福クンとかマイコをやってらした本田望結チャンなどは、出演作が多くていらっしゃるためか、演技が固まってしまっている印象を受けました(じゅうぶん今のままで達者だからいいんですけどね)。

 コメディドラマとしては、毎回ちょっとした仕掛けが用意されていたみたいなんですけど、世代が違うせいか分からないものも多くて(笑)。

 特に何回目かに出てきたのが、いま話題になっちゃってるAKB48の指原莉乃チャンで、これがちょっとカンチガイ気味のスーパーアイドル役をやっていた(笑)。
 私これが、分かんなくて。 指原莉乃チャン、顔知りませんでしたから(未だにちょっと見では分からんと思います)。
 「マネージャーのほうが美人じゃんか」 という 「笑えない」 ギャグに、「そうだよなー」 なんて(笑)。 これ、指原莉乃チャンだと分かってたら、「すげーブラックジョークだよなぁ」 って分かったのに(笑)。

 コメディの質的に、チャレンジしてるなーと思ったのは、スマート刑事が身を寄せている、キノコ頭の夫婦二人組。
 特に奥さんのほうのかたは、もう 「ウザさ全開」(笑)。 暑っ苦しいギャグとブチ切れキャラを交互に繰り出してくる(笑)。
 おそらくこれをご覧になるかたの10人に8人くらいは、不快感を催すのではなかろーか、と(笑)。
 でもこの不快感全開のめおと漫才を見ているスマートのぼっちゃんは、いつも醒めきった目で。
 ここのパートの面白味というのは、実はここなんだろうな、と感じます。
 最初のうち、この最年少のお子さんは、どことなく 「こわい」 という目でこの不快漫才を見ていたのですが、回を重ねるごとに、なんか笑いをこらえているように見えてくる(笑)。
 最終回では、もうお世話になるのが今日で最後です、とスマートのぼっちゃんから言われて、不快な奥さんのほうは号泣、の演技(笑)。 これにはちょっとこっちも、油断したかもしれない(笑)。

 でも結局スマートは戻ってきてしまって、それを玄関で出迎えた夫婦二人は、最初から腰が抜けたような状態。
 おそらくスマートのぼっちゃんが戻らない、と聞いて、いそしんだのでしょうな(スミマセン下ネタで)。

 で、いま 「結局戻ってきた」 と書いたのですが、そうなんですよ(笑)。
 スカーフェイス(ネタバレしますと、宅麻伸サンでした)を逮捕したはいいけれど、レッドヴィーナスは単なる下請けで、元締めはまだいる、という展開。 逮捕した瞬間に例によって、スカーフェイスまで撃たれて死んでしまう。
 結局コドモたちは、もとのまま。

 ンナニィい~~~っ?!(ハハ…)

 そして続編があるかどうかも疑わしい(爆)このドラマの最終的なオチは、新人(勝地涼サン)のニックネームを 「デカ長」 にしよう、というジョーク。 みんなからデカ長と呼ばれ、福クンと一緒に手をあげたりして(笑)。

 それにしても福クン、恋人役の吉瀬美智子サンに、後ろから抱きつかれたり 「キスを待つポーズ」 をされたり、クソ~っ、羨ましいぞ(爆)。

 このドラマ、大人の役を子供がやる、ということで、大人の世界がいかに子供じみているかを描写していたようにも感じるのですが、そういう高尚な感想はいいとして(笑)、ここで大人を演じていた子役のお子さんたちは、大人の世界ってどう映ったのかな、なんて感じました。

 ドラマが進行していくにつれて、子供たちは外見だけでなく、精神的にも子供の世界に戻っていく、という恐怖を味わい始めます。
 それがこのふざけたドラマに、ひとつの味わいをもたらしていたような気がする。
 なんと言うか、退行していく末に、自分たちの本質的な部分が消えてしまうのではないか、というような。
 それは子供時代の無邪気な楽しさが、消えてしまった大人への過程と、質的に同じだとは、感じるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年6月23日 (土)

「外事警察」 第3-4回 秘匿すべき情報

 2年以上のブランクを置いたレビューとなります。
 第1-2回のレビューはこちら→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/1-2-365c.html

 この2年前の記事にコメントを下さった ゆき 様、書くと言っていながら結局そのままになってしまいました。 この場を借りてあらためてお詫び申し上げます。
 言い訳をいたします(笑)。
 このドラマ、特に住本健司を演じる渡部篤郎サンのセリフに、聞き取れないところが多数あった。 そのどれもが重要なセリフのように思われ、字幕がない録画ではレビューに限界がある、と感じました。
 そして協力者(スパイ)として敵(「フィッシュ」)の手先(ジュリオ)のもとに送り込まれた下村愛子(石田ゆり子サン)が、エライ危なっかしくて(ハハ…)。
 第3回の途中でその先が怖くて見ることが出来なくなりました(はぁぁ…)。

 「先が怖くて見ることが出来なくなる」、というのは、私の場合よくあるのですが、それとセリフの件とがあいまって、録画したものがほったらかしになってしまったのです(それ以外でも途中放棄のドラマ、ちょっと私、多過ぎますよね)。

 その2年の間に、ヒョッ子刑事を演じていた松沢陽菜は朝ドラ 「カーネーション」 主役として大ブレイク。 脚本の古沢良太サンは 「鈴木先生」「リーガル・ハイ」 など傑作を生み続けています。
 さらに 「外事警察」 自体も、映画化になるまでに成長いたしました。
 今回はその映画化の宣伝の一環でもあるのでしょう、「プレミアムサスペンス」 としてNHKBSで再放送してくれました。 レビュー再開です。

 前置き長いぞ(笑)。

 第1-2回までを見る限りでは、住本健司という人間は、公安の外事課を束ねる有賀局長(石橋凌サン)とつるんで 「行き過ぎ」 とも言える捜査を断行している、まさにドラマの中で表現される通りの 「公安が産んだ魔物」 という描写がなされていました。
 彼はその名の通り、公安にとっても危険な諸刃の剣的な存在。
 そして遠藤憲一サン演じる公安の陰の実力者・倉田は、住本と有賀局長の動きに目を光らせ、機会があれば彼らを潰そうとしている。
 さらに内閣官房長官の村松(余貴美子サン)は、秘密裏に諜報的な活動を続ける外事の存在そのものを、「平和な日本にテロなど起こるはずがない」 として、疎んじている。

 住本が魔物と化した背景に、彼の少年時代、同じ外事課の職員だった父親が死んだことが深く関わっているらしいことは、インサートで断片的に匂わされていた。
 住本は要するに、視聴者側にとっても、「ヌエ」 的存在なわけです。

 彼の行動にはいちいちウラがあって、捜査に関わる人物を自分の意のままに操ろうとする行動しか採らない。
 そのために相手の素姓を徹底的に調べ上げ、相手がどういう行動に出るかを前もって予測し抜いている。

 この、「徹底的に調べ上げる」 ということも、口で言うのは簡単ですが、「生まれたときの体重」 から家庭環境から周囲の状況から、およそ知り得るものはすべて、ですから。
 松沢陽菜(尾野真千子サン)も外事に配属された時点で、それには大いに面食らってしまう。

 「相手がどういう行動に出るか予測し抜いている」 からこそ、爆発物探知機を製造していた谷口テックの社長(田口トモロヲサン)が、いよいよ経営が追い込まれて(それをわざと追い込んだのも住本だったのですが)首をくくろうとしても、住本は黙ってそれを監視し続けようとするわけです(第1回)。

 松沢陽菜は 「人間のやることじゃない!」 とそれに反発していくのですが、その反発は第3回に於いて、下村愛子を協力者として 「運営」 していく過程で、ますます強まっていきます。
 「フィッシュ」 の手先であるジュリオに接触した下村愛子。
 とても危なっかしくて、前述の通りこれで私はこのドラマをいったん見るのをやめました(笑)。
 しかしそこで得た情報は結局ものの役に立たず、住本はさらに下村愛子に協力を求める。 その過程で、下村愛子はジュリオに手籠めにされてしまうほどの危険に晒されるのです。

 視聴者は最初のうち、松沢陽菜の 「正義感」 というものの側に立っている。 住本の存在そのものがウサン臭すぎることに対して、松沢陽菜の正義感には、容易に感情移入できるからです。

 けれども、話が進んでいくごとに、それは松沢陽菜の 「未熟さ」 なのだ、ということに、視聴者は気付いていく。

 松沢陽菜は下村愛子の置かれた不幸な境遇について、なんとかしてあげたい、という強い気持ちを抱いています。
 もともと下村愛子の夫が植物状態になっているのも、妻である愛子の浮気が原因。
 松沢陽菜は夫への贖罪として、彼女が夫の献身的な介護をし続けている、と思い込んでいます。
 だから下村愛子の気持ちを利用して彼女を危険な目に晒す住本が、許せない。

 けれども松沢陽菜は、下村愛子がスパイみたいな危険なことを、その贖罪が基本にはありながら、自分の中にある鬱積した気持ちを振り払い、また自暴自棄的、またスリルを楽しむ悦楽的な感覚で遂行していることに、気付いていない。
 ただ下村愛子は心の奥では、自分の夫が死ねばいいとは思っていなかったらしい。
 これには住本も、気付かなかったようです。

 「物事の本質、道理が分かっていない」 という観点からもうひとり、さらにずれたところに配置されている人物がいます。

 内閣官房長官の村松女史です。

 この人は松沢陽菜以上に、物事の内情を理解していない(笑)。

 彼女の感覚では、「この国は大丈夫」 という、まさに平和ボケした観点が基本にあるのですが、重大なテロ事件が進展しつつあるのにもかかわらず、なお秘密裏に動こうとする有賀局長に、「醜悪!」 と、愚かにも怒りを爆発させる。
 そして村松女史は自分のかつての教え子だったエンケンサン(倉田)に 「手を組まない?」 と持ちかけるのですが、それがどのくらい国家どうしの裏の信頼関係を損ねる行為なのかに、思いが至っていない。
 内情が知らされないことに、内閣官房長官としてのプライドがいたく傷ついていらっしゃるわけですよ。
 そんな村松女史を、余サンはわざととても機械的なしゃべりかたの、面白味のなさそうな人物として演じている。 うまいです。

 ただこの構造、これって去年の大震災における、原発をはじめとしたさまざまな重大事から蚊帳の外にされていた、かの国の総理大臣殿を想起させますね。
 まあこの場合、情報を秘匿する側にも、それを解決できるだけの力が備わっていなかった、という、あまりにも情けないケースでしたけれどもね。 どっちも危機管理能力が極度にお粗末であることは、国民にとってこれ以上の不幸はないと断言していい。

 で、ドラマはこうした経過を経て、警察庁の内部では、エンケンサイドと有賀-住吉ラインの2極化、という分裂が進んでいくわけです。

 ところが物語が進んでいくにつれ、それまで断片的なインサートにとどまっていた、住本健司の少年時代の記憶が、当初視聴者が考えていたような内容ではないことに、視聴者は気付かされていく。

 住本は父親を見捨てた公安の外事を、憎んでいたわけではなかった。
 住本の父親は、有賀局長のスケープゴートとして死んだ。
 自分の家庭で起こったような悲劇を外事が繰り返すことを、住本健司はなくそうとしていたのです。

 それが明確に判明するのは、住本が協力者として運営していた 「ニケ」 という外国人が 「フィッシュ」 につかまり無残な死を遂げてしまったのを、住本が見た瞬間でした。
 腰から砕けるようにしてその場にへたりこむ住本。
 ニケの日本人妻とその子供に、自分と同じ不幸をもたらせてしまったことを、住本は心の底から後悔するのです。
 ニケの存在そのものを否定しようとする有賀局長に、住本は怒りを爆発させます。

 「テロのひとつくらい起きたほうがいいんです!」

 テロを防止する強権発動的な法律がないから、ニケを危険な目に晒すしかない。
 そしてその結果ニケは殺されたのだ、という怒りです。 

 だからこそ、住本は下村愛子が、さらにジュリオと接触しようとすることが、気に入らない。

 ここらへんの駆け引きが複雑化していくのが、第4回の 「裏切り」 です。
 この 「裏切り」 というのは、誰が誰を裏切っているのか、という疑心暗鬼のなかで、視聴者はドラマを見ていくことになる。

 まず、下村愛子が接触するジュリオは、下村愛子が自分の秘密について嗅ぎまわっていることに、気付いています。
 そのうえで彼女にやりたいようにあえてやらせている。 これが、ジュリオがフィッシュに対して行なっている 「裏切り」 なのか? それとも下村愛子を裏で操ろうとする 「裏切り」 なのか?

 さらにその下村愛子を再度運営しているのが、「住本班」 から外された、松沢陽菜なわけです。
 松沢陽菜はその正義感からエンケンサイドに取り込まれ、住本と敵対する関係になっている。 これを 「裏切り」 とするのか?

 はたまた、おそまつな村松が(笑)エンケンサンと裏で手を組むことが、有賀局長に対する 「裏切り」 なのか?

 ここらへんの進行はまさにドラマ的な醍醐味にあふれています。

 下村愛子が、ジュリオが残したメモの筆圧が残っている紙をあらたな証拠として松沢陽菜に提供したことから、爆発物のありかが判明し、フィッシュの潜伏先への手がかりがつかめます。
 しかし、これもなんだか、ジュリオの陽動作戦のような感覚。
 これが下村愛子の提供した情報と合致したために、外事4課はその団地の周辺に停めてあったトラックを調べ、爆薬?の入ったドラム缶を確認する。

 しかし住本は、ハナからこの情報に関して、疑問を感じていたのです。
 彼が持っていたニケの死亡現場の写真。
 そこに写っていた、死ぬ間際にニケが自分の血で書いたとされる3ケタの数字 「827」。
 けれどもその文字は、住本とニケの間であらかじめ取り決められていた書きかたでは、なかったのです。

 さらにスパイ活動を続ける下村愛子を咎めようとした住本は、その場にやってきた松沢陽菜によって、彼女が松沢陽菜のあらたな協力者として正式に登録されたことを知ります。
 敵に踊らされていることを松沢陽菜と下村愛子に暴露する住本。

 エンケンサイドの人間たちに羽交い締めにされながら、住本は激昂し、下村愛子に向かって、おまえは味方なのか、敵なのか、と喚きます。

 「どっちだ? 下村愛子! どっちだっ!」

 んー。

 すごいです。

 それにしても。

 こないだのオウム手配犯が捕まったことも、警察と公安の手柄合戦だ、という話も伝わってきます。
 要するに、内部分裂している(その点では、同じ外事どうしで分裂しているこのドラマと、とても構造的に類似したものを感じますが)。

 世間では、菊池直子が捕まったことを安易に公表してしまったために、最後の逃亡者、高橋克也が逃げるチャンスを与えてしまった、などと言われている。 結局つかまってメデタシメデタシだったですが、そこに至るまで、警察の捜査のありかたには、疑問を持たざるを得ない部分が多過ぎる。 「容疑者を見た」 とか言っても信用されないとか。 ネズミ獲りなんかしとる場合か(私もこの件に関してはしつこいです…笑)。

 捜査するうえで、本当に秘匿すべき情報とは何なのか。

 このドラマでは、その判断が、現実よりもずっと的確に行なわれているような気がする(スゲー皮肉)。
 原発でも容疑者逮捕でも、現実に危機管理を我々が任せている人間どもが、あまりにも抜けベンベンだから、そう思わざるを得ないのです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

「もう一度君に、プロポーズ」 第10回(最終回) やさしさのかたち

 ドラマレビューを、再開いたします。 実質的に5月19日付 「梅ちゃん先生」 第7週レビューが最後でしたので、1か月ちょっとぶりのドラマレビューとなります。 いろいろと大変お騒がせし、ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。



 で。
 「もう一度君に、プロポーズ」 ですが。



 視聴率的にあまりイケてなかったとは思います。
 昨日の最終回も、おそらく裏番組の 「八日目の蝉」 映画版に関心をさらわれたことでしょう。
 なにしろ昨日は夜10時過ぎあたりから、、当ブログの 「八日目の蝉」 テレビドラマ版の記事(2年前)へのアクセスが、ハタラメッタラ多くて(笑)。 PCアクセスだけでも1時間1000件超えてた(驚愕)。

 視聴率争いをしている日テレやフジテレビだったら、こういう低空飛行のドラマはとっくに打ち切りで、詰め込んだような内容のものを視聴者にお出しするところでしょうね。
 けれどもTBSは太っ腹というか最初から諦めているというか(笑)、まるですべてを任したかのように、ドラマのスピードは悠然としたまま、最後まで変わることがなかったのです。
 今の時代、こういう局側の姿勢って大事だと感じます。
 結果結果って言い過ぎる。
 それで良質のドラマが、どれだけ駆逐されてるか。

 そんなこのドラマ。

 最終的に、悪人がひとりも出てこないドラマでした。

 途中まで唯一、可南子(和久井映見サン)の弟の裕樹(山本裕典サン)だけが、いけ好かないヤツのように思われていました。
 けれども結局彼も、死んだ父親から家のことを頼むと言われ、一家を支えていこうと決心したがゆえに、片意地を張っていた。
 それもこれも、家族を思うがため。
 要するに、優しいがゆえの、いけ好かなさだったんですよ。

 また、物語中盤に登場した、可南子の元カレ、一哉(袴田吉彦サン)。
 この物語の主人公、宮本波留(竹野内豊サン)にとって、強力なライバルになるか、と思われたのですが、この一哉もサバサバの権化で(笑)、実にいいヤツ。
 波留のパートナーで、波留との記憶をごっそり喪失してしまった可南子に対し、一哉は良き相談相手となるも、よりを戻そうとかひっかきまわそうとか、そういうドラマ的な意地悪をまったくしようとしない。
 最終回に、「オレってそういうドロドロしたの嫌いだから」 みたいなことを言ってましたが、まったく見上げた根性です。 裕樹が自分の姉ちゃんにはこの人しかいない、と考えていたのも当然でしょう。

 そして、波留が勤める自動車整備工場 「ミズシマオート」 の仲間、桂(倉科カナチャン)。
 彼女は波留にひそかな思いを寄せていたのですが、可南子がああいうことになって宙ぶらりんになっている状態の波留に、いったん接近しようとする。
 でも、桂も、自分の中にあるそんな 「イヤな自分」 と闘っていた。
 彼女は自分の波留への恋心を、「波留さんが私のことを一番弟子だ、と言ってくれた」 という、職務遂行上の満足と引き換えにして、解消しにかかるのです。
 優しいんだよなあ。 けなげだし。
 でも恋心って、そんなに簡単に解消する性格のものじゃないですよね。 ドラマはそこんところもちゃんと描写してくれていた。 作り手の仕事が、ていねいです。

 私はこういう人たちが出てくるのを見て、実に危なっかしいものを感じていました。
 つまり横恋慕とか取ったり取られたりとか、テレビドラマがよく陥る、下世話な展開が待っているのではなかろうか、と。
 でもこのドラマは、一貫してそんな下世話な方向には、行かなかった。
 却って私は、自分の下世話な勘繰りを反省してしまいました。
 テレビドラマって、自分の性格を映す鏡みたいなものですね。

 さらにこの桂を含めた、「ミズシマオート」 の従業員たち。
 全員が、見事なまでに善人で(笑)。
 あまりに人が良すぎて、なんかウザいくらい(笑)。

 ミズシマオートの社長、光石研サンは、だからこそ、かねてから自分一代でたたもうとしていたこの整備工場を存続させたいという気持ちになり、波留に次期社長になるよう、依頼してくるのです。
 最終回、当然のように(笑)、優しい波留はこの要請を受諾します。

 可南子の職場である図書館の職員たちも、館長の杉本哲太サンをはじめとして、みんないい人ばかり。
 ミズシマオートの従業員も、図書館の職員も、互いに憎まれ口をたたくことはあっても、それが信頼関係の上のじゃれあいにとどまっている。

 可南子の母親である万里子(真野響子サン)も、物事の道理をわきまえた、実に前向きな生き方を貫いている女性でした。
 波留の養父・太助(小野寺昭サン)に至っては、人格者なうえにかなりの冗談好き。 これを息子の波留は嫌がることなく、家族どうしの気安さとして、微笑ましく受け止めていた。

 幼い頃に波留を捨てた、産みの母親の朝加真由美サンにしても、最終回で波留を産んだ時の年齢が15歳であったことが判明してびっくりしましたが、悪い人じゃなかったし。

 ここで気付くのは、このドラマの登場人物たちが就いている職業が、「他人のために何かをして喜ばれる」、という、基本的な仕事のありかたから逸脱していない職業だ、ということです。
 波留の自動車修理も、可南子の図書館も、朝加真由美サンが勤めていた花屋さんにしても。
 唯一、裕樹が勤めていた大企業だけが、不自然な競争意識のなかで神経がすり減っていくような仕事だった。

 肝心の主人公ふたりにしても、当然のようにお互いが、限りなく優しい。

 自分との記憶を失ってしまった可南子に対して、波留は気が変になるくらいのダメージをおくびにも出さず、それをひたすら受け止め、前に進もうとします。
 彼の行動規範にはやはり、自分がもらわれっ子だという幼い頃からの意識が、大きく作用していると思われる。
 怒りとか悲しみとかを、彼は表に容易に出さないのです。

 そして記憶を失ってしまった可南子のほう。
 彼女は記憶を失ってから、自分の夫に対して、ひたすら他人行儀になります。
 意地悪な私はこれを見て、「可南子って何か波留との5年間の暮らしのなかで、とても衝撃的なダメージを受けたことがあるのでは? その心的外傷が彼女を無意識にこういう行動に走らせるのでは?」 と考えていたのですが、ドラマ的にそのような仕掛けというものは、結局一切なかった。
 彼女は却って、その失ってしまった過去が、怖かったのです。
 彼女は波留との生活を綴った自分の日記を読むことを、拒絶します。
 私と同じように、彼女は自分と夫との5年間の生活のなかで、何かとてつもない嫌なことがあったのではないか、と考えて、過去を知るのが怖くなってしまったのではないでしょうか。
 そしてそれを知ることで、もしかすると波留をも傷つけてしまうことになる。
 結局彼女の 「おそれ」 も、彼女の優しさから発露している。

 ドラマでは、「子供好きで子供が欲しかった可南子に対して、波留がその答えをはぐらかしてしまった」、という、ちょっとした仕掛けが用意されていたのみ。 それも早い段階で、その原因は提示されていた。

 結局このドラマは、大仰な仕掛けの乏しい、優しい人たちばかりのドラマだったのです。

 となると、そんなドラマっていったいどうなっていくのか。

 悪いヤツが出てこないとなると、ラストはどうやったってハッピーエンドになる可能性が、普通のドラマより格段に高くなる。
 作り手の心が優しいのが透けて見えてしまうから、波留と可南子はよりを戻すだろう、というのが想像ついてしまうんですね。
 「もう一度君に、プロポーズ」 して、「ダメだった」 じゃ話にならないでしょ(笑)。

 さらに優しい人が考えがちな、ドラマにとってのスパイスは、「人が死ぬこと」 くらいしかない。
 このドラマにとってそのスケープゴートとなるべき人物が、波留の父親・太助であることも、それで見えてしまう。

 そして先が見えてしまうことでドラマとしての面白味がなくなり、仕掛けもなく、もともとテンポがスローなことも相俟って、とても退屈なドラマになってしまう傾向に陥ってしまいがちになる。

 でも、私の見る限り、このドラマはそういう失敗をしなかった。

 それを回避するために作り手が採った方法。

 それは、方法としてはベタでありますが、「ひとつひとつのエピソードをていねいに作る」「登場人物の心理状態について限りなく深い設定を施していく」、といったことだったのではないか、と思います。

 竹野内豊サンの前作、「流れ星」 でも同様のことが行なわれていました。
 ただ 「流れ星」 のほうは格段に仕掛けの数が多く、ワルモノも結構出ていた。
 だからこそドラマとしての骨格が、かなりしっかりしていたように感じるのです。

 それに対して 「もう一度君に、プロポーズ」 の場合、「いい人」「優しい人」 だらけの設定の中で、どのように事態が変容しながら進展していくのか、ということに重点が置かれていた気がする。

 そしてそれでドラマは大人の視聴に耐えられる心理劇の要素を濃くしていき、金曜日の夜に腰を落ち着けて見ることのできる作品へと昇華していったように感じるのです。

 このドラマで重要だと思われるふたつの要素は、「優しい人」 が考えがちな、ふた通りのパターンの 「優しさの表現」 です。

 ひとつは、「相手のことを思いやって、傷つけないように気を遣う」。

 もうひとつは、「相手の気持ちを考えて、その人のためになるように行動する」。

 一見すると同じようにも思えますが、このふたつの使い分けは、とっても難しい部分がある。

 少しでもそのやり方を間違えてしまうと、相手も傷つき、自分も傷つく。
 そして相手も自分も優しい人間だから、傷ついた時のショックは双方ともさらに大きいものになるのです。

 可南子と裕樹の母である万里子は、裕樹が一家を支えるために身を粉にして働き、家に入れていた給料を、裕樹に内緒でそっくりそのまま定期預金に入れていました。
 それを知った裕樹はとても傷つきます(第8回)。
 これも、「お互いがお互いのことを考えているのに傷ついていく」 というパターンのひとつです。
 ただ真野響子サンはサバサバしたもので(笑)、そのことを機に、「子供たちが出ていったあと、この家も人手に渡すつもり、思い出は胸の中にしまいこんで、それを明日へと生きる糧にするのだ」、というポジティヴな考えを、可南子と裕樹に吐露していました。

 話は前後しますが、可南子は可南子で、同窓会で会った元カレの一哉とのことを波留に伏せていたのがばれてしまったときに波留から優しい言葉をかけられ、うずくまって泣いてしまいます(第5回)。
 可南子にとって夫の波留との記憶がない状態で会っていた元カレに対する気持ちは、かなり波留に対して後ろめたいものであったはずです。 だから可南子は波留にそのことを伏せた。
 そんな気持ちを波留が、さらに大きく包み込むように、すべて許してくれた。
 可南子は自分の感じていた後ろめたさや、自分の心のせせこましさ、いやらしさというものに、そのことで却って直面してしまったがゆえに、かなりのショックで泣いてしまったのだろう、と思うんですよ。

 これも、波留が 「なんでそんなことするんだよ」 とか責めてくれれば、いくらか可南子の罪の意識は軽減したかもしれない。
 波留にしたって自分の怒り(そんなものはそもそも波留にはないようにも思えるのですが)を心のどこかで押しとどめている部分がほんの少しくらいはあるだろうから、波留のなかにもちょっとしたストレスがたまっていくようにも見えるのです。

 これもお互いがお互いのことを思うがゆえに、お互いが傷ついていくパターンですが、それの究極は、やはり波留が可南子との離婚の決意をしたことでしょう。

 「一緒に過去を取り戻そう」 ということが、結局可南子に自分の気持ちを押しつけることになっている、可南子に結局負担をかけている、と考えたために、波留はそう決断してしまったのですが、この時点で可南子は、「自分がどうしてこの人を好きになったのか」、という原因を、ある程度つかみかけていた。
 だからこそ可南子は、波留のこの提案に、いたく傷つきます。

 結局可南子の心を後押ししていったのは、優しいまわりの人たちの、ちょっとした言葉の数々によって、でした。 太助が亡くなったあと、波留の身の回りの世話をそれとなく申し出る可南子。 予定調和のように(笑)、このドラマはふたりが大声で 「誓います!」 と約束を交わした、教会へとふたりを運びます。

 前向きに、過去と向き合おうと、自分の日記帳を徹夜で読んでいた可南子。

 「――幸せそうでした。 日記の中の、私――。

 不満とか不安とかもそれなりにあって、…百点満点には程遠い旦那さんだったみたいですけど――」

 波留は屈託なく、謝ります。 そんなところに躊躇がない、「こだわり」 のない男なのです。

 「スミマセン。

 でもありがとう」

 「えっ?」

 「うん、いや…。

 百点には程遠い旦那さんだったから、奥さんのこと幸せに出来てないと思ってたし――。

 そう思ってもらえたなら、嬉しい」

 なんで自分がダメ亭主だと理解してくれて、「うれしい」 と思い、「ありがとう」 なのか。

 つまり、一緒に再スタートを切るには、お互いの優しさに気兼ねして、本当のことを言えないのではダメなんだ、と波留が気付いたからなんだと思います。

 波留は 「相手のことを思いやって、傷つけないように気を使う」 優しさではなく、「相手のことを考えて、相手のために行動する」 という優しさを選んだ。

 「はい――」

 可南子はその優しさを、受け入れます。

 「幸せでした…。

 すごく幸せで…。

 だから(自分の記憶で)分かる範囲でいろんなとこに行ってみようと思ったんですけど、――そう都合よく記憶は戻らないですよね…」

 波留は可南子の中に芽生えつつある、それまでなかった 「意志」 を感じ取ります。

 「でも――可南子はその日記を読んで幸せだと思えたんだろ?」

 「――はい」

 「そんなふうに小さな幸せに気付ける可南子のことが――。

 俺は好きだ」

 ちょっと硬直してしまう、可南子。

 「5年後も、…10年後も、…その先も、平凡な幸せを一緒に迎えに行きたい――。

 だから、

 この先もずっと、

 ――俺の妻でいてくれないか?」

 心にまだ一抹の迷いを持ちながら、それに応える可南子。 「はい」。

 でも言った瞬間、度胸を決めた、というように、ちょっと軽く、微笑むのです。

 波留は静かにうなずくと、可南子からいったん預かっていた、結婚指輪を取り出します。
 黙ってそれを、可南子の左手の薬指にはめる波留。
 笑ってしまう可南子。 「フフッ、照れますね」。

 「ひとつ提案していい?」

 つられて笑いながら、波留は可南子に言うのです。

 「なんですか?」

 「敬語やめない?」

 「あっ…。

 …急には、なかなか」

 「じゃあせめて名前で呼んでほしい」

 「波留サン…」

 「フフっ。 ハハハ…。 『サン』 はいらない」

 「……波留……」

 また照れてしまう可南子。 「やっぱり急には…」

 いきなりここで、波留は可南子を抱きしめます。

 ドラマ中盤で、やはり波留が、可南子を抱きしめた時がありました。
 でもそのときの波留の気持ちは、事態が進展せず、なかなか思うようにならなくてイライラして、それを可南子にぶつけた形だった気がします。
 可南子もそのときは、自分の気持ちの中に波留がいないし、戸惑いのなかで波留を拒絶した。

 でも今回の波留の気持ちは、自分との付き合いをまた一から始めた、赤子のような可南子の初々しい気持ちに対して、いとおしさを感じたがゆえの衝動だったと思う。
 可南子は驚きますが、笑顔でそれを受け入れるのです。

 いつまでも離さない、という表情の、波留――。

 そしてふたりの新しい生活が、再び始まります。
 少しぎこちなさを残しながらも、幸せそうなふたりを、太助の写真が見守っている。
 泣かせます。

 そして6年後――。

 海岸で遊ぶ、ふたりの間には、男の子が。

 えらいベタな終わり方でしたが(笑)、こうでなくてはならんのです(笑)。
 優しい人たちの間で、優しい時間が過ぎていく。
 このドラマは大仰な仕掛けとかドロドロの展開を放棄した代わりに、このような 「小品」 として成立する道を選んだ。
 これを見る人たちは、自分の中にある優しい気持ちが、生きていくなかでいつの間にかささくれ立っていたことに気付かされます。
 そしてそれはこのドラマを見ることによって慰められ、「今のままの優しさでいいんだ、自分は今のままの優しさを持っていていいんだ」 という気持ちにさせてくれる。

 特別に、優れているドラマだ、と大手を振って言えるようなドラマではなかったかもしれません。
 でも、今みたいに人の心がささくれだっているときにこそ、こういうドラマは貴重だと、強く感じるのです。

| | コメント (23) | トラックバック (0)

2012年6月16日 (土)

「AKB48のオールナイトニッポン」 指原莉乃チャンの処分を生で聴いて

おことわり 初出時より若干手直しいたしました。

 当ブログ久々の記事エントリーでございます。 こーゆーので記事を再開するのもなんだかなーとは思いますが、まあドラマレビューじゃないことで勘弁していただければ。 ドラマレビューは当分まだ先の話ですが。
 それに結構話題が生ものっぽいので、今書いて今発表しちゃいたい。

 ニッポン放送本日(6月16日)「AKB48のオールナイトニッポン」 では、既報の通り昔の恋人発覚で世間を騒がせている 「さしこ」 こと指原莉乃チャンが番組内で号泣しながらファンに謝罪、そしてAKBのプロデューサーである秋元康サンがその場で、「指原は今日からHKT48」 と、AKBからの移籍を命じる、という放送を行なっておりました。

 この騒ぎの発端である週刊文春、私毎週読んでいるのでその詳細は知っていたのですが、「総選挙で4位とかになった途端にこれか、有名税の一種だなこれは」 という感想しかありませんでした。

 折からラジオでは今週、聴取率調査でスペシャルウィークということで、今日の 「AKBのオールナイトニッポン」 では何か目玉があるのかと思い、久々に聞きました。 まあ夜勤ですし。

 それでもこのところの 「AKBのオールナイト」 は、去年に比べれば聞かなくなったほうです。
 実に個人的な感想で恐縮ですが、どうも番組自体に去年のような勢いがなくなった、と言いますか。
 去年までは、末端のメンバーでさえ、何か上に向かっていこう、という挑戦の気概があったような気がする。
 今年に入ってからのオールナイトは、どこか頂点に立ってしまった者の余裕、みたいな、どことなく守りの姿勢が目立つようになってきた気がするのです(くれぐれもネガコメには返信いたしませんのでよろしく)。
 しぜんと、聞く回数は減りました。

 この番組、基本的には深夜の労働枠に引っかからない年齢のメンバーだけの限定出演で、毎回違う組み合わせで3人が出演する。
 メンバートップクラスの前田敦子チャンや、大島優子チャンなんかが出ているのは、聞いたことがありません(コンプのリスナーでないので情報は不正確です)。

 それが今回は、いきなり前田敦子チャンが番組冒頭から登場。
 メインパーソナリティを峯岸みなみチャンと秋元康サンがつとめ、秋元サンは冒頭から、「今日はもう、何もかもブッチャケでいく」 と意気込みを語る。 録音くらいでしか出てきたことのない前田あっちゃんの登場と共に、秋元Pの 「尋常ならぬ決意」 みたいなものを感じるのです。
 「(つまりは、指原のこともやるんだろうな)」 とそのとき感じたのですが、まずは前田あっちゃんの卒業について30分くらい時間を割く。

 そしていきなり、30分を過ぎたあたりから指原莉乃チャンが登場。
 謝罪は既報の通りですが、もう早い段階から彼女は号泣状態。
 「重いよなぁ」 とそれを緩和しようとする秋元Pなのですが、番組的にはかなりおいしい(冷たいなぁ、オレも)。

 秋元サンは 「本当のところはどうなの?」 と指原サンに訊くのですが、「そうとも言えるしそうじゃないとも言える」 みたいな、とても曖昧とした答え(実況サイトとか、詳しいところはご覧ください)。 「何それ分かんない」 みたいに秋元サンは反応していましたが、私は聞いていて 「全部肯定しちゃうと何かとまずいんだろうけど、曖昧にすることで全部肯定しているも同然だな」 と感じました(感想には個人差があります)。

 秋元Pは、「まさか指原がこういうスキャンダルを起こすとは思わなかった。 気持ちは分かるけど」 みたいな鷹揚なところを見せつつ、やんわりとした口調で 「でも今回は迷惑をかけたわけだから、オレとしても何らかのことはしないと」 と 「指原は今日から、HKT48」 と 「処分」 を発表したのです。 HKT48というのは、私も聞いてて初めて知りましたが、「博多」 のAKBらしい。 「ハカタ」 だからHKT。

 そのとき 「えっ…」 と絶句したのは、まあコアなファンじゃないから自分には分からないですけど、峯岸サンだったのか、指原サンだったのか。 たぶん峯岸サンだと思いますけど(コメントを下さったかたのお話では、どうも指原莉乃チャン本人らしいです)。

 凍りつく、その場の空気。

 「今すぐ、今日からですか?」 と、たぶん峯岸サン(これも指原サン?)が、息を殺すように恐る恐る秋元サンに訊く。
 「いや、すぐってわけじゃないけど出来るだけ早く」 と秋元サン。
 「『笑っていいとも!』 とかに出るときは東京に帰ってきて、でもそれも自己紹介のときは 『HKT48の指原莉乃です』 というようにして、あとは博多に荷物をまとめて引っ越しして、博多で活動」 と、かなり淡々とした調子で続けます。

 峯岸サンも(当の指原サンも)絶句していたことから分かるように、つまりこれは、若い人の言うところの 「ガチ」 でたった今処分が下された、ということなのでしょう。 ひょっとして指原サンには事前に話があったかもしれませんが。
 実際にこの処分決定後にスタジオから大島優子チャンに電話をかけたところ、「マジ? ウソでしょ?」 とまったく冗談として信じてもらえなかったりしていましたから。 寝ているメンバーもいたので、まったく 「寝耳に水」 だったはずです。

 番組ではその後、今回の 「処分」 について、秋元Pから 「これは左遷じゃない。 それぞれのグループにはそれぞれの特性があって、HKTには今、リーダーと呼べるような、引っ張っていくメンバーがいない。 それを指原に任せよう、ということ。 指原はここで力をつけてほしい」 と、大筋このようなことを話しておりました。
 部外者の私は 「まあ 『左遷』 じゃなくても 『都落ち』 だろうな」 と感じたのですが(くれぐれもネガコメは受け付けません)、篠田麻里子チャンからは秋元Pのケータイに直接メールが入り、「心配で番組を聞いていました」 と応援のメッセージ。

 事態がリアルタイムで動いていく実感を、私はひしひしと感じました。

 私にとってはラジオを聞いていて久々に感じる 「同時進行性の事件」 でした。
 振り返ってみれば、その昔 「中島みゆきのオールナイトニッポン」 で、みゆきサンが山崎ハコサンのオールナイト二部降板を受けて、同番組史上最悪のローテンションで放送した回に匹敵する(匹敵まではしないか…笑)。
 最近では、小島慶子サンが伝説の名番組 「キラ☆キラ」 で宇多丸サンと自殺についてのガチバトルを繰り広げた回。
 それと同レベルの 「ラジオ放送中に起こった事件」 だったような気がします。
 歴史的放送、と言ってしまうと大げさかもしれない。
 けれどもラジオの醍醐味って、それが本道ではないけれども、こういうところにもあると思う。

 そして今回のラジオを聞いていて強く感じたのは、「このリアルな感触こそが、AKB48の大きな魅力であり、ファン層を動かしていく要因なのではないか」、ということでした。

 彼女たちは言っちゃなんですけど、「この子はマジでカワイイ」 というレベルの女の子たちではありません。
 前田あっちゃんなんか 「顔面センター」、要するに顔のパーツが中心に寄っていることをよくあげつらわれる。
 先ごろ総選挙で1位になった大島優子チャンも、私 「カエルの王女さま」 で初めて見たのですが、どこにでもいるフツーの女の子、という感じですよ、顔だけ見れば。

 それにその件(くだん)の総選挙ですが、CDを何百枚何千枚も買って投票紙を確保したりするファンが続出したり、秋元商法には批判も出たりする。
 私は部外者ですから、別に何がどーだっていいのですが、彼女たちはまず、自らの向上心で、自ら望んで、このグループの激しい競争の渦の中に身を置いている。
 そのなかでは互いに励まし合おうとする心も発生すれば、なんとしても仲間を蹴落として這い上がってやろう、という心も発生する。
 そして何かが達成された瞬間、そのぎりぎりの思いは、彼女たちを号泣させる。

 それって自分の命を燃やしている、っていうことじゃないでしょうか。

 だからこそ、フツーの女の子がどこまでも輝いて見える。
 のし上がって上に行けばいくほど、彼女たちは自分の中にあったポテンシャルを引き出して、驚くほど可愛く変化していく。

 指原サンにしても、彼女はヘタレキャラだそうですよ。 何かとドジを踏む。
 今回のことも、不器用な彼女が陥ってしまった 「恋の罠」(ダッセー言いかただな…)だったのではないか。
 これで昔の彼女との仲をばらした元カレ、という人は、「サイッテーなヤツ」 とか非難されるんだろうな。

 文春の記事を読んでいると、相手の元カレはまだハタチくらいのなんにも知らない若造、という感じがしました。
 その取材を受けた動機は書いてありませんでしたが、おそらく金絡みというのもあるだろうし、「自分は 『あの』 指原と恋人だったんだ」 と自慢したい気持ちもあったのだと感じます。

 彼がこの先受けるであろう苦痛のことを考えると、心が痛みます。
 自分の浅はかな行動が、どれだけ自分に向かってはねかえってくるか。
 それはAKBという、当代のトップアイドルが相手だからこそ、その苦痛はおそらくその元カレの想像を、かなり絶するものになるだろうと思うのです。

 傷つけようというつもりのない人間。

 傷つけようとするつもりの人間。

 そのどちらとも、相手を傷つけるということに於いては、結局同罪になってしまう。

 いずれにせよ、今回のラジオを聞いていて、さまざまなことを考えさせられました。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »