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2012年7月

2012年7月29日 (日)

「平清盛」 第25回 「見果てぬ夢」(6月24日放送) を見て

 まだまだ絶望的なまでに先頭集団から離されたままの 「平清盛」 のレビュー。
 12馬身ほど離された状態で最終コーナー大外から一気に抜き去るには、かなりの負けん気が馬に必要です(だからなんの話だ)。

 その馬の競い合いを重要な回想シーンとして配置した 「見果てぬ夢」 の回(ウマくつながった)。

 レビューを追いつこうと前回少々焦り気味で説明不足の点も多々ございましたので、今回ちょっと清盛(松山ケンイチクン)と義朝(玉木宏サン)の関係について、突っ込んだ考察を行なおうかな、と考えておりますが、根がい~かげんなのでどうなるかは分かりません(ハハ…)。

 実際のところ、「見果てぬ夢」 という今回のサブタイトルは、信西(阿部サダヲサン)が考えていた 「遣唐使復活」 についてだと思うのですが、この回亡くなってしまった義朝の妻、由良御前(田中麗奈サン)の思いともかけているダブルミーニングの趣が強い。
 こういう 「ダブルミーニング」 などという手法って、根っからの大河ファンは大好きでありまして(笑)。 少なくとも去年の某大河の 「サブタイトル詐欺」 の連発に比べりゃ…(笑)。

 ただ前回、清盛と義朝とのあいだに横たわる複雑な感情について少々考える機会を得たために、そっちのほうにばかり神経が行ってしまって、どうも信西の見果てぬ夢のほうは、個人的に、どーでもよかったっつーか(笑)。
 割りばし遊び(国家予算編成ってとこですかね)に夢中になっているあいだに、その割りばしが地鳴りで揺れ出した、スワ大変!でまた来週!だったので。

 というのも、「そんなに信西が命を懸けている遣唐使復活って、どんだけ~?」 と感じてしまうからです(またナマイキな 「高度な批評」 とやらが、始まったぞ…)。

 この回、作り手は手こぎ舟で宋に渡ろうとした、若き日の信西と清盛の回想シーンを挿入しました。
 それで 「あああん時からこのふたりは、宋に対して大きな夢を持っていたんだなあ」 というのが分かったのですが、そこまで信西がこだわる 「宋」 の国の国力って、その当時いったいどれほどのもんだったのか、という重層的な説明がない。
 確かにこの回、淡海という宋の高僧と在りし日の信西の対話を配することで、遣唐使復活に懸ける信西の意気込みだけは伝わったのですが、当時の日本人の総意としては、「そりゃいい考えだ!」 なのか、「そんな莫大な経費がかかりそうなことをする必要があるのか?」「宋に学ぶ必要が今さらあるのか?」 とか否定的な感じなのか、そこらへんの描写が欲しい。

 この 「宋との貿易」 に関しては、のちのち福原の遷都を画策していく清盛の、重要なモチベーションのひとつである、と感じるのですが、何か物足りなさを感じるんですよ。
 それは、登場当時からこの信西が(役名忘れた)、「変わり者」 として描写されていたことが大きいのではないか、と感じる。
 今回この回想シーンであらためて浮き彫りになったのが、「かの国は、人を生まれではなく才をもって量る。 百姓であろうと商人であろうと、いくらでも高い位に取り立てるという、素晴らしき仕組みがある」 という、信西のかつてのセリフに見える、信西の最大の動機です。
 このドラマの宋に対する認識って、その程度にとどまっているのが、なんか、物足りなく感じる。
 ただこれは、高度な批評とエラソーに言いながら、イチャモンのひとつなので皆様どうぞどうぞご了承ください…。

 でもまあ、宋に対する思いというものを、見る側も信西などと共有して、夢見ることができるような作りには、してほしいな、という気も、するのです。
 でないと今後、清盛の福原遷都にも、一定の説得力が生まれにくくなる気がする。

 …あーどうも、すごくいいドラマなのに、エラソーにイチャモンをつけてる罪悪感が…。

 いちいち語り出すと、かように長くなってしまうのが、このドラマをレビューしたくなくなる大きな理由です(笑)。

 出来があまりにいいから、それ以上のことができるだろうって、期待しちゃうんですよね。

 近年の大河ドラマのなかでは、もっともクオリティが高い、と強く感じるのに。

 おかげで清盛と義朝との複雑な関係を考察する気が、失せてきた…(爆)。

 くそー、よーし、いくぞー(はっはっは)。

 この回、馬屋番などという屈辱的な仕事に甘んじている義朝のもとにやってきた清盛。
 重病の由良御前に、宋のよく効く薬を都合しようと提案するのですが、にべもなく断られます。 「貴様の助けなど借りぬ。 源氏は平氏とは違う!」。 信西にすり寄ってる貴様からもらった宋の薬など、死んでも要らんわ、ということです。

 清盛は 「源氏と平氏の勝負は、武士が朝廷に対して、じゅうぶんな力を得てからでも遅くない」、という内容の、かつての忠盛の言葉を引き合いに出します(この回は、こうした過去の回想シーンが、ことごとくとても効果的に配置されていた気がします)。
 清盛は武力と財力を信西に利用させ、信西の知力を利用して、朝廷に対峙する力をつけている、という理屈です。

 義朝はそういう、ギヴアンドテイクのパワーバランスに対して強く反駁する。 「力でのし上がってこそ、武士の世ではないのか?」、と。
 つまり義朝は、力こそが武士の本質的な存在価値だと考えている。 小手先の交渉などより、力でねじ伏せることが、武士の武士たる所以なのだ、と。
 清盛は先の保元の乱で、それが通用しない考えであることを悟っています。
 義朝はそれに対し 「すべてにおいて恵まれた貴様とは、俺は違うのだ」 と、屈辱にまみれた顔で、馬の鞍を磨くのです。 かける言葉が見つからない、清盛。

 そんな折、義朝の子、頼朝(中川大志クン)は、母親の由良の関係で蔵人を務めていた上西門院(じょうさいもんいん)の殿上始の儀で(ア~説明がメンド臭い)生まれて初めて、清盛と出会います。

 父親、祖父がかつて通り過ぎてきたのと同じような屈辱に耐えながら、落ちぶれた源氏の末裔として、最盛を誇る平氏の棟梁に杯を注ぐ際、その酒をこぼしてしまうのですが、そのとき清盛は、これ見よがしに大きな声で、「やはり最も強き武士は、…平氏じゃ! そなたのような弱き者を抱えた源氏とは違うッ!」 と叱責する。

 ぎりぎりと歯噛みをし、涙をためてきっと睨み返す頼朝。
 そんな頼朝に、清盛は、さも嬉しそうににっこりと、笑うのです。

 ここは清盛、頼朝に、「そうじゃ、こんな辱めを受けて、悔しいとも思わなければ、源氏は本当に終わりじゃ!」「そなたの父親はしょぼくれていっこうに浮き上がってくる気配すらないが、そなたはそんな父親を、乗り越えよ!」 という気持ちを込めているのだ、と感じましたが、あとでちゃ~んと義朝と頼朝が、解説してくれました(笑)。

 頼朝が帰ってくると、母親の由良御前が、危篤状態。

 義朝はその状態に堪らず、あんなに意地を張ってもらわないと言っていたのに、清盛のところに行って宋の薬をもらってくる、と言い出すのですが、これを由良が、拒絶する。

 ここは、泣けました。

 「…なりませぬ…。

 行ってはなりませぬ…。

 平氏に頭など!…下げてはなりませぬ…!

 殿…。 いついかなるときも…源氏の御曹司として…誇りをお持ちになり…生きてこられた殿を…由良は…心より…お敬い…申し上げておりまする…。

 かようなことで…お志を…曲げないで下さりませ…」

 情けない極致にいる義朝に対して、妻のこの言葉は、泣けます。

 「たわけ! そなたの命に代えられるかっ!」

 自分のつまらんプライドなど、お前が生きていられればどうだっていい、という義朝のこの叫び。 こちらにも泣けます。

 「…あれ…殿らしゅうもない…されど…うれしや…。

 どうかわたくしを…どうか…誇り高き源氏の妻として…死なせて下さりませ…」

 「由良…!」

 「…と…父が…」

 「と父が(申しておりました)」 って、ここで笑わせるかな(笑)。 由良の登場したての頃の無邪気さをここで思い出させてくれるし、これで由良は最初から最後まで、徹頭徹尾想いを変えなかったということが表現できるし。
 さらにここで 「あらうれしや」 なんて、古い言葉づかいを持ってくる周到さ。
 こういう精神的な表現が、ものすごいんですよ、このドラマ。

 考えてみれば田中麗奈サンが出てきた当初、「なんじゃこの逆八の字眉毛は」 と思っていたのですが(地毛ならぬ地眉かな?…笑)、またたく間にこの眉毛は女子たちの間で流行りまくりまして(って、この人が起源かどうかは知りませんが…)。 もう彼女も、30を超えたのですか。 月日は百代の過客にしてムニャムニャ…。

 で、「と父が効果」(笑)で骨抜きになった義朝が、常盤御前(武井咲チャン)に甘えに行ったらひじ鉄食わされた、というエピソードは飛ばしまして(だって際限なく長くなっちゃうんだもん…笑)、そんな折に義朝は、デブ公卿のドランクドラゴン塚地クンから信西暗殺を持ちかけられるのですがここも割愛(考えてみればホントにこのドラマ、平氏の経済的基盤とか遣唐使の当時的意義とかやってるヒマないな)(でもそれをやらんと物語が重厚的になっていかないんだけどな~)。

 ヘタレになり下がっている義朝は、信西暗殺の要請などハナから尻ごみしてしまうのですが、それを後押ししたのが、「清盛とはどういう人物なのか?」 という、我が子頼朝からの質問でした。

 そこでインサートされたのが、かつて義朝と清盛が競い合った馬の早駈けの回想シーンです。

 この時に自分の出自や父との確執に悩み、自分の小ささにのたうちまわっていた悪平太時代の清盛。
 清盛に勝とうと日々鍛錬を重ねていた義朝。
 差は明らかでした。 義朝の圧勝。

 そんな昔を回想する義朝、すっかり 「あの頃のオレはすごかった」 オヤジ状態であります(笑)。
 「最も強き武士は源氏だ! 貴様のような、情けない者を抱えた平氏とは違う!」。
 ヘタレの極みにいる悪平太を罵倒する、在りし日の義朝。
 さっき清盛が頼朝に向かって叫んだ言葉と、一緒じゃないですか。
 「やはり最も強き武士は、…平氏じゃ! そなたのような弱き者を抱えた源氏とは違うッ!」。

 このドラマ、かなりこういうイメージのたたみかけを、随所で行なっている気がします。
 だから記憶力がよくないと、ただ 「そーなのか」 で終わってしまうようなところがある。
 「と父が」 もその初歩的なたたみかけの一種なのですが、由良の今際の言葉のなかに出てきた 「御曹司」 という言葉も、初期によくセリフの随所に出ていた。 トータルパッケージとして神経が、行き届きすぎているんですよ、このドラマ。

 だから権力基盤については説明が貧弱になってしまうのか(オマエもかなりしつこいぞ)。

 「負けぬからな…次は!負けぬからなッッ!」

 義朝の耳朶に残る、清盛の屈辱に満ちた負け惜しみの叫び。
 義朝はそのとき、清盛が立ち上がってくれたことがうれしくて、満面に笑みを讃えていたのを、清盛に見られたくなかった、と回想します。 生涯競い合える相手が、見つかったことが、うれしかったのだ、と。

 それで頼朝も、清盛のあの時の笑みに合点がいったわけですが、そこで頼朝に、清盛の思いが注入されているのを、見る側は強烈に感じていくのです。 この構造はすごい。

 そしてその話を聞き、打ちひしがれていた義朝の表情は、徐々に生気を取り戻していき、義朝は、静かに立ち上がるのです。

 遣唐使復活の予算のめどがつき、まずその成功を祈願する熊野詣でへと出立しようとする、平氏一門。
 これも、信西が宋の高僧淡海と会見した時に、淡海が信西を讃えて 「熊野詣の甲斐があった!」 と歎ずる場面と呼応している。
 ただだからどーなのか、というと、別にどーでもいい気はするのですが(爆)。

 で。

 後白河上皇派と、そのあとをついだ二条天皇派の両方から疎まれた信西は、生気を取り戻した義朝を含めた軍勢の襲撃を、受けることになるのです。

 …

 あ~、やっぱりしんどいぞ、このドラマのレビュー(笑)。

2012年7月28日 (土)

2012ロンドン・オリンピック開会式 ワタシ的にはなんと言ってもポール・マッカートニー様でしょう!

 いや~、オーラスのオーラスに来るとは。
 私の永遠のアイドル、ポール・マッカートニーの歌う、「ヘイ・ジュード」 が。
 ついひと月前ほどに、70歳になったばかりのポール。
 そりゃ相応に歳食ってますが、最近のポールの髪形のなかでは、いちばん好きですね、あの髪形(完全にミーハーチックな感想ですがお許しください)。
 ああいう、ミドルロング風なのがいいんですよ。
 ダークブラウンだった髪の毛の色は、うす茶色へと変化していましたが、これって染めてるのかなぁ?
 いずれにしてもファイナル・ファンタジーのキャラに出てきそ~な髪の毛の色で(笑)、すっごくいい感じです、ワタシ的には。

 なんの話って、そりゃアータ(笑)、ロンドン・オリンピックの開会式の話に決まってますよ!

 オーラスに登場した我がポール様が最初に歌ったのは、ビートルズの事実上最後のアルバム 「アビイ・ロード」 から、もっとも最後(から2番目)の曲、「ジ・エンド」 の最終コード。

 「そして最後には、君の受け取る愛は、君の作り出す愛と等価になる」。

 どーです? 深いでしょう。
 まさしく、「情けは人のためならず」、「人のために火をともせば、我が前明らかになるがごとし」、ですよ。

 ビートルズがこの言葉を、自分たちの活動のいちばん最後に据え置いたことって、とてつもない意味を持っている、と感じます。
 ビートルズは、大衆に 「愛」 を与え続けた。
 だからこそその愛を、こうして解散後40年以上たっても、彼らはファンから与え返されているのです。 ビートルズファンが途切れることなく連綿と生まれ続けているもっとも大きな要因が、ここにあると私は考えています。

 で、そしてこの歴史的名文句の曲が終わって16秒あとに、オマケのようにポールの弾き語りの曲 「ハー・マジェスティ」 で、「アビイ・ロード」 というアルバムは幕を閉じるのですが、「女王陛下」 を 「プリティ・ナイス・ガール」 と歌ったこの曲。 今回この開会式の場で歌っていれば、イギリス式ユーモアの最たるものになったでしょうが(笑)それはせず、ポールは自分でも明言はしていなかったけれどもこの曲を歌う、と匂わせていて、おそらくこの曲が歌われるだろう、と衆目の一致したところであった、「ヘイ・ジュード」 を続けて歌い出したのです。

 この曲は元々、ジョン・レノンがオノ・ヨーコと一緒になってしまったことで悲しい思いをしていた、ジョンの元妻シンシアとの間の息子であったジュリアンを慰めるために、ポールが作った曲(ビーファンの間では常識中の常識ですが)。
 こういう曲を浮気の当事者であるジョンを交えて、ポールがジョンの前で歌ってしまうところが、実はビートルズの固く固く結ばれた友情を何よりも証明しているのです。

 歌詞の内容も、「悲しい歌もよくしていくことができるんだ」、という、これまたポールの、ポジティヴシンキングの先駆とも呼べる思想がこの曲には詰まっています。 まあちょっと、歌詞間違えてましたけどね(笑)。 ご愛嬌ご愛嬌。 また、最初のほうではちょっと音声がダブっていたような感じ。 こういうミスも、そつなくこなされるよりよほど味があっていいし、語り草になる。

 ここで重要だと思われるのは、この曲がここで今歌われたことで、現在経済的に危機的状況にあるユーロ圏を励ますニュアンスを、「ヘイ・ジュード」 という曲は新たに獲得したと読み取ることができる点です。

 ビーファン的には、このロンドンオリンピックの開会式で重要な役割を果たした鐘の音も、ジョン・レノンの 「マザー」 という曲のイントロを強烈に連想させます。

 その象徴的な鐘が、ポールが歌う 「ヘイ・ジュード」 の合間に、大映しにされる。

 まさにビーファンのイメージ的には、亡くなったジョンが、ポールと一緒にその場にいるような、ものすごい感慨を生み出すわけです。

 そしてこの、「自分の母国で行なわれるオリンピックの舞台」 という、そんじょそこらの運では獲得することのできない舞台に、ポールが存命中に立つことができた、というこの奇跡。

 オリンピックの開会式で行なわれたさまざまなパフォーマンスも、ポールの舞台のお膳立て。 いな、ポール(そしてビートルズ)が、イギリスという国に対して成し遂げた業績に対する最大級の賛辞が、このオーラスの舞台には込められている。

 そういう感動。

 生きててよかったなぁ~。 ポールが。

 今度は、私が生まれる前の年に開かれた東京オリンピックを、私が生きているあいだに実際にこの目で、再び東京で開催されるのを見る番ですねっ!(ど~だろう…)。

2012年7月25日 (水)

「平清盛」 第24回 「清盛の大一番」(6月17日放送)を見て

 ひと月以上遅れのレビューが続きます。
 少々焦ってます(笑)。
 早く追いつかねば、先頭集団はすでに折り返し地点を過ぎコーナーポストを曲がって16馬身のリード(なんのこっちゃ)。

 で。

 前回叔父忠正(豊原功補サン)を斬った清盛(松山ケンイチクン)と、父為義(小日向文世サン)を斬れなかった義朝(玉木宏サン)。 まあ玉木サン、腰が抜けて結局父を斬れず、ほかの人に斬らせてしまいましたが。

 この回の 「対比演出」 は、この清盛と義朝の行く末がひとつ。
 そして、宮中で行なわれた相撲節会行事と、清盛の息子重盛(窪田正孝クン、「ゲゲゲの女房」 の水木先生のアシスタント、倉田役でしたね)(こないだドラマ 「走馬灯株式会社」 では、自分がさらわれてきた子だと知って自殺してしまう青年の役をやってました)(あ、自分はあのドラマはアレ一回きりでリタイアです)(暗いの好きじゃないんで)の婚礼の様子。

 最初の対比演出では、「清盛は身内を斬ったことで肝が据わり、さらに力をつけていくのに対して、義朝は父を斬れなかったことで自分の弱さに直面してしまい意気消沈してしまう」、という描写がされていました。

 そしてそこで、「清盛は父忠盛(中井貴一サン)に似ていき、義朝はうだつのあがらなかった父為義に似てくる」、という共通項を配してきた。

 こういう比較論法は、特に競争社会に身を置く人にとっては、実に身に迫る話であります。

 いつも人と比べられながら、他人からの評価にさらされながら生きていると、ライバルの浮き沈みにはかなり敏感になってくる。 正直きついっスよ。 心優しい人にとってはね。

 他人と競争していて、自分はなんでダメなんだろう、と考えるとき、「親のせいかな」 とか、「環境や今までの自分の生き方のせいかな」 と考えることは、よくあります。
 そして自らの葛藤のなかで、他人と競争することが、他人と切磋琢磨して互いに高め合うという意味ではなく、他人を蹴落としていく、という意味に、すり変わっていく。
 このドラマが歴史的事実を背景にしながら特に社会人に共感を得やすいのは、これを比較論法で効果的に見せている点に理由があるのかな、という気がします。

 ただし。

 清盛がこの回、九州地方の実権を握っていく過程で取った行動、というのは、ドラマ的には痛快に見えたけれども、実際によそからお仕事をもらってくる社会人の目から見れば(別にフツーの人でも分かる人は分かりますけど)、ちょっとばかりイージーの域を出ていない気がいたしました。
 というより、説得力にちょっと欠けていた。

 まず清盛は、大宰府役人の長である原田が、地方の豪族と結託して税金逃れをしている事実をとっさに見極める。
 そしてすぐさま自分たちのボーリョク的な駒である兎丸(加藤浩次サン)ら海賊の残党をあてがって、九州の実権を強圧的に握っていくのです。
 カンタンでいいなあ(笑)。

 まっとうなボーリョク組織であれば、ここでは兎丸たちは、それ相応の見返りというものを欲しがるものです。
 これって反社会的な描写が必要かもしれないけれど、そんなにしゃっちょこばる必要もないですよ。 兎丸たちに骨付き焼き肉とか食わせりゃよかったりする(笑)。
 いずれにしても私がここで感じたのは、「ここは平氏が九州で実権を握っていく過程なのだから、もうちょっと理詰めで見せてほしかった」 ということです。 要するにニコニコしながら原田をドーカツしました、ということなんですから(笑)。

 そして信西(阿部サダヲサン)が企画した古の宮中行事、相撲節会の復活に、原田が嗜んでいた宋の茶を供して、自分がそこにいないのに後白河(松田翔太サン)の心を揺り動かしていく、という過程。
 清盛のこの 「大一番」 は、やはりちょっと詰めが甘いように感じる。
 どうして宋の茶を供すると後白河が 「清盛と遊びたく」 なってくるのか(笑)。
 その背景というものを、後白河が 「面白きもの」 を欲している、という精神状態にのみ頼ろうとしているのが、物語的にもうちょっとお膳立てがあれば、という気がしてくるのです。
 後白河は、清盛と遊びたいがために、帝の地位まで松雪サン庇護の守仁皇子にくれてやってしまう。
 どーして帝じゃ清盛と遊べないのか?という説明がなかったよ~な気がします。

 ただし(本日2回目)。

 平氏が九州での実権を事実上握っている、と後白河に理解させた、宋の茶の演出というものは、後白河の尋常ならざる心に火をつけたという点で、ドラマとしての体裁を保っているように思える。
 そしてそれを相乗効果的に演出していたのが、節会で展開していく相撲の取り組みの様子と、清盛の息子重盛と藤原成親(吉沢悠サン)の娘経子(高橋愛チャン)との婚礼の様子でした。
 重盛は叔父を斬れと命令した信西に仕えている自分の父清盛に不信感を抱いていて、この婚礼の席でいきなり経子に向かって 「この結婚は、なかったことにしてチョーダイ」 と頼みこむのですが、清盛はそんな重盛を薄ら笑いを浮かべながら、相撲みたいに中庭に投げ飛ばすのです。 そして何事もなかったかのように、婚礼を強行してしまう。

 この時の清盛の心情としては、「今は我慢、と信西に仕えているのにそれも分からんとは、我が息子も未熟者よのう」「でも、このまっすぐさはかつての自分を見るようじゃ」 といったところでしょうか。

 個人的な感想を述べさせていただくと、ここでの清盛もまた、まだまだ未熟者の域を出てはいない気がする。
 でも前よりは世間を知ったであろう。 叔父を斬ったことで。
 それだけ清盛は、大きくなっているのです。 中井忠盛に近づいている。
 まだまだ、という印象を視聴者たちにかすかにふりまきながら。

 この時点での清盛の 「中途半端な大物感」、というのが、実に見ていて興味深いのです。
 この先がますます楽しみに、なってくる。

 満足な地位も与えられずに、赤い束帯姿のままの義朝。
 そこにやってくる、黒い束帯姿の清盛。 もうこの色の違いだけで、どっちが大物なのかが瞭然としてしまう、この演出。
 義朝はかつて父為義が中井忠盛に負け惜しみをしたように、清盛に毒づきます。

 「信西入道の目論見が分からぬか。 源氏を叩き、平氏を取り立て、武士に絶大な力を持たせる気は、毛頭ない。
 貴様も用が済めば捨てられる。
 わが父や、貴様の叔父のように、無残にな」

 清盛は厳かに義朝に近づき、言います。

 「それでも今は、ほかに道はない。
 信西殿と手を組むより」

 「その先にあるというのか。 貴様の言う、武士の世とやらが」

 清盛笑みていわく。

 「そうだ」

 清盛の笑みは、まるで義朝に共闘を働きかけるかのようであります。
 義朝はしかし、仏頂面でその場を離れます。
 絶望でこの世を量っている義朝。
 希望が力となり、その力という視点でこの世を見るようになってきている、清盛。

 成長していく清盛。
 でもその成長は、まだまだ途上である。

 そんな感覚を強く抱いた、「清盛の大一番」 でした。

2012年7月22日 (日)

「FNS27時間テレビ笑っていいとも!」 タモリ・さんま・たけし・鶴瓶の深夜トークを見て

 フジテレビの27時間テレビとか日テレの24時間テレビとか、基本的にどうでもいいんですが、フジ27時間の深夜にやっている明石家さんまサンとSMAPの中居クンがやっているコーナーだけは見たり見なかったりしていました。

 それが今年は、タモリサンが総合司会なうえ、ビートたけしサンも参戦するとかで、私みたいなオッサン世代には、それだけで食指がかなり動くわけであり。

 番組ではこのさんま・たけし・タモリを合わせてビッグ3などと称しておりましたが、ここに入っている鶴瓶師匠も忘れてないですかね。 ビッグ4でしょ。

 いずれにしても、1980年あたりからこのかたがたは、お笑い界のトップに常に君臨しているわけであり、そこから派生しているお笑いの定義というのが、この30年というもの、あまり煮崩れしていない印象を受けるというのは、返す返すもすごいことです。

 このかたがたのほかに、「テレビの人気者」 として 「お笑い」 というカテゴリーに長くとどまっている方々と言えば、このほど文枝を襲名した桂三枝師匠、堺正章巨匠くらいではないでしょうか。

 今回この巨頭たちが深夜に会しているのを見て、昔感じていた感覚が戻ってきたと同時に、月日も流れたなあと思いました。

 つまり、ビック3とかなんとかいいながらテレビ局が一緒に仕事をさせていて、常にその力関係が垣間見えていた、という昔の記憶。
 たけしサンとさんまサンのお笑いのベクトルと、タモリサンのお笑いのベクトルって、違うんですよね。
 だからこうして会して会話をさせると、どことなくタモリサンが会話のなかに入っていけないようなもどかしさがある。
 だのに、さんまサンとタモリサンをふたりきりで喋らせると、面白い。
 これって面白い現象だなーと、昔っから考えていたんですよ。

 たけしサンとさんまサンのお笑いって、結構おふざけ型ですよね。
 ツッコミ型、とも言える。
 たけしサンの場合さらに、そこに浅草系の作り込んだお笑いを作りたがる傾向がある。

 ところがタモリサンのお笑いというのは、冷静沈着型で、受け止め型。
 でも、ボケという役割を、積極的に行使していない。
 頭脳型、知能犯的お笑いだからです。 ボケて自分がバカになることを、よしとしない。

 だからたけしサンとタモリサンというのは、合わないんですよ。
 たけしサンは作り込みながらおふざけをしたがるのに、タモリサンは冷静だから。
 だから突っ込んでくるたけしサンに対して、タモリサンは上手に反応が出来ない。 いや、反応すること自体を拒絶する傾向にある。

 ところがさんまサンは、そこらへんがすごく柔軟にできていて、相手に合わせたツッコミの仕方が出来たりする。
 だからさんまサンとタモリサンをふたりきりでしゃべらせると、そこに知的な化学反応が出来て、面白くなると思うんですよ。

 ここに鶴瓶サンを絡めて論じますが、鶴瓶サンというのは、傾向的にはボケとツッコミが同居しているような感覚がする。
 それは鶴瓶サンが、生粋の落語家だからでしょうね。
 落語では両方の役割を演じなければならないから。
 だからこの3人に絡めると面白そうな気がするのですが、意外とそういうベクトルに向いていかない。

 それはなぜかというと、鶴瓶サンは比較的、幇間(タイコモチ)的な性格を有しているからではないか、と感じます。
 相手を持ち上げながら転がしていく、という傾向にある気がする。
 だからこのビッグ3を持ち上げながら会話に割り込んでも、意外と面白くなっていかない。

 ただ今回、この深夜のビッグ対談を見ていて感じたのは、特にタモリサンの側に、昔ほどの変なこだわりがなくなって、たけしサンの立場を理解しているような変化が見られたこと。

 これはタモリサンが大昔ダイキライだと公言していた小田和正サンとかに対するこだわりが、いまはさほどなくなっているように見えるのと同じことなのかな、と。

 まあありていに言えば、人間丸くなったのかな、と。

 と同時に、たけしサンの側にも、タモリサンとは絡みにくい、という態度を見せながらも(だって会話のあいだじゅう、ほとんどさんまサンのほうを向いてましたからね)、どことなくタモリサンとはじっくり話し合ったら結構話が合いそうだ、と感じているような部分を垣間見ることができた。

 …ただですね。

 これってみ~んな、私のすっごく個人的な感想ですからっ! ザンネンっ!(ハハ…)。

 って、古~いギャグをかまして思ったのですが、今のお笑いの人たちがタモリサンたちみたいに、はたして30年後も生き残ってるでしょうかね?

「SHERLOCK」 第1シーズン 登場人物の全一体性

 このブログのレギュラーコメンテイターであるマーシー様がいちばん最初に薦めてくださってから、なんかもう半年、一年くらい?になる、このイギリス発の海外ドラマ。 2010年制作。
 本放送を見ていなかったため、第1シーズンの再放送をろくろっ首が絡まりまくりながら待っていたのですが(笑)、このほどNHKBSプレミアムの再放送を、ようやく見ることができました。
 物語は現代のイギリスロンドン。
 おそらくオリンピックの開催時期に、NHKも再放送時期を合わせたのだと思います。
 おかげで一足先にロンドン散歩ができました。

 そう、ドラマはシャーロック・ホームズを現代的にアレンジして、コナン・ドイルの原作に最新ケータイ・インターネットなどを駆使した革新的なアレンジが施されている。
 ロンドンの街並みは、伝統的な部分ととても近代的なビルが混在している風景に、様変わりしています。
 言ってみれば、ルーヴル美術館の真ん前に、ガラスのピラミッドがデーンと立っているような感覚。
 私もロンドン、と言えば、ビートルズのルーフトップ・ギグが行なわれた旧アップル社(勿論、コンピュータのアップル社とは別物です)の屋上から見た風景が頭にこびりついていたこともあり(ってもう40年以上前じゃん…笑)、ロンドンの現代の風景には 「そりゃ高層ビルとかも建たなきゃイギリスの建設業もやっていけないか」 などと考えたりして(笑)。

 で、ドラマの印象としては、これまで私が親しんできたシャーロック・ホームズのドラマ(ジェレミー・ブレット版)とかアニメ(宮崎駿監督の)と比較して、かなり話がスピーディで、気を抜くと振り落されてしまうような暴れ馬の印象が強いドラマでした。
 また、ホームズ(ベネディクト・カンバーバッチ)とワトソン(マーティン・フリーマン)の関係に端を発する、ボーイズラヴの匂いがする感覚。
 個人的には、こういう系の話には、ちょっと辟易しているのですが。
 ただ原作においてもそのような傾向があったとされるし、仕方ないのかな、とも思います。

 しかし長かった(笑)。
 1シーズン3話なので、あっという間に見れる、いや違う、見ることができるかと思ったのですが(本編を見たかたならご存知のギャグですね)、1話につき1時間半。 全話をぶっ通しで4時間半。
 さすがに第3話は、途中でダレました(どこがダレるのか?という反論も聞こえてきそうですが)。

 ちょっと正直なところを申し上げれば、この第3話に関してだけは、話が錯綜しすぎていたきらいがある、と感じます。
 姿を見せぬ怪人・モリアーティ(アンドリュー・スコット)の殺人ゲームに振り回されるシャーロック・ホームズとジョン・ワトソンの話は秀逸だったのですが、これにホームズの兄であるマイクロフト(マーク・ゲイティス)から依頼された事件が絡んでいたのは余計なように感じました。
 途中でなにをやってんだか、分かんなくなった。

 画像処理が面白いな、と思った新しいところとしては、メールとかネット検索とかの文字が、その機器から浮かび上がるところ。
 たとえばレストレード警部(ルパート・グレイヴス)が事件の説明をプレスに説明していると、「違う」 というメールが記者たちのケータイに、いっせいに入る(笑)。

 ちょっと自分、デジタル音痴なくせに、このくだりとかほかのデジタル機器使用方法とか見ていて感じたんですけど。

 なんか結構、ホームズやワトソン、アナログな使い方してるよ~な気が(笑)。

 ワトソンは原作での日記の代わりに、このドラマではブログしてますけど、これって私程度の知識でも利用できますし。
 ホームズのネット使用方法も、すごい速度が速いけど(笑)、結局検索くらいだし。

 記者たちに一斉メールを送りつけるのも、ハッキングしていたとも考えられるけど、実はここの記者たちのメアドをあらかじめ聞きまくってたりして(笑)。

 それと、2012年春ドラマでいちばんの傑作だったと思われる 「リーガル・ハイ」 の主人公・古美門(堺雅人サン)が、結構このドラマの影響を受けているキャラクターのように感じた。
 立て板に水でかなり失礼、堺サンはこのカンバーバッチ・ホームズをかなりコミカルに変形させてマネしているような感じがしました。

 と同時に古美門(いや、堺サンか)、シャーロックの兄マイクロフト・ホームズのキャラも、盗んでいるように思われる。

 …って。

 ここではたと気付いたのですが、このシャーロックとマイクロフト兄弟、というのは、実は性格的にかなりかぶっているのではないか、と。

 表面的に見ていると、どこもかぶっている部分はないように思われるのですが、物事に対してかなり冷淡で、自分の興味のないことに対して結構敵意を抱きがちなタイプであるとか、衆愚を蔑んでいる部分?とか。

 と同時に、ホームズとワトソンも、かなりの部分でかぶっている気がするし、さらにモリアーティも、性格的にかぶっているような気がする。
 主要人物たちが、性格的にみな同じように思えてくるんですよ。
 私だけの感覚かもしれませんけどね。

 つまり、「常に何か起こっているということに飢えている」、という性格です。

 ワトソンは戦場で心的外傷を受け、物語の最初では杖を持って足を引きずりながら登場しています。
 それが、ホームズと知り合って事件に巻き込まれていくうちに、いつの間にかそのトラウマは癒え、杖なしで走り回る、高いビルもひとっ飛び(違うか)。

 つまりこの物語でのワトソンは、事件、とりわけ殺人に、飢えているんですよ。

 ホームズもその点においてはまったく同様もしくはエスカレート気味で、あまりにヒマだと壁中に拳銃を乱射する始末(これ、冗談抜きでアブナイなんてもんじゃないですよ)。
 彼は特に第3話に於いて、モリアーティによってスケープゴートにされた被害者たちがつぎつぎ爆弾を持たされる事態に陥っても、ハナから 「死んだら死んだでしょーがない」 という感覚で、モリアーティの繰り出すなぞなぞにつきあっている。
 確かに彼は、人命救出のために駆けずりまわったりしますよ。
 でも、それはどちらかというと、他人の命が大切だからというモチベーションで、動いていない。
 その人がそれで死んでしまったら、ゲームは自分の負け、みたいな感覚が、どこかで働いている。

 「ヒーローに祭り上げるな。 そんなものいないし、僕は違う」。

 あまりに冷徹に推理作業を続けるホームズに失望したワトソンに、ホームズが言い放った言葉です。

 そして第3話、とうとうホームズの目の前に姿を現したモリアーティは、大量の人命や金をつぎ込んで君とゲームをして楽しかった、とホームズに言い放ち、「でも人が死んだ」 と答えるホームズに、それまでの穏やかな口調を一変させて怒鳴ります。

 「人は死ぬもんだっ!!」

 つまりなんでこんなにモリアーティが怒鳴るのか、というと、「そんなことはホームズ君がいちばんご存知じゃないか、人格者のフリしやがって!」 という苛立ちからきているのだ、と思う。

 これは、第1話での殺人犯であるタクシー運転手が陥っている 「ゲーム感覚による人命の軽視」 状態と、またどこかで似通っている。

 つまりバーチャルなものにうずもれてしまって、人命の重さなどというものが限りなく白々しく思える段階に、人類は突入している、という、強烈なアイロニーを、コナン・ドイルの原作から今日的テーマとして、導き出している、と感じるんですよ、このドラマ。
 まあただし、ホームズのなかでは、ワトソンを媒介として、人命のなんたるかの定義が少しずつ変容しているようには、思えるのですが。

 それにしてもこのモリアーティ。

 なーんかビートルズ・ファンとしては、「コイツなんかポール・マッカートニーに似てるな」 と思ったら、どうもこの役者さん、以前ビートルズを取り扱った映画かドラマで、ポールの役をやったらしい(笑)。

 ポール似の人が性格異常な犯罪者の役をやってるのを見るのは、なんとも複雑な心境であります(少々本人に比べて額が広うございますが…笑)。

 いずれにしても、この第1シーズンの終わり方は 「そりゃないぜセニョール」 の世界なのですが、この再放送から見始めた私などにとっては、本日から第2シーズンが始まるし、却って待たされて再放送を見てよかったな、と思えてならないのです。

2012年7月16日 (月)

「サマーレスキュー~天空の診療所~」 第2回 オノマチのヒステリーに、惑わされるな

 この第2回のレビュー、書こうかどうか迷ったのですが、ヤフーの感想欄を読んだらあまりに評判が悪いので、書く気になりました(だからあそこの感想欄は読むなって…笑)(レベル高いんですけど、けなすと果てしないんだよな、あそこ)。

 まず、格安ツアーの登山客たち。
 ツアー会社の付き添いがたったひとり。
 「あり得ない」 と考えちゃいそうですが、私はこれを見て、2か月前の高速バスの事故を思い出しました。
 結局あの事故は特殊な状況下で尋常ならざる業務状態から引き起こされた、という結論を見ているようですが、私などはやはり、規制緩和によって、さまざまな仕事の現場にしわ寄せがきている、という問題点のほうを重視せざるを得ないんですよ。

 追記 上記の記述について、旅行業界人様から、以下のようなコメントをいただきました。

 「航空券や観光バスなどの交通手段や宿泊のみの『手配旅行』と、行程に含まれる観光内容までを保証した『主催旅行』とでは、法令及び約款の適用が天と地ほども違います。 
 付添・添乗が1人などあり得ませんし、救援が必要となった場合には保険会社からの補償も拒否されます」。

 「手配旅行」 と 「主催旅行」 を同等に論じたと思われても仕方のないことについて、真摯に反省いたします。
 ただ、この太字の部分以外は、あえて直さないでおきます。
 私の議論の中心にあるものは、お読みくださるかたがたのご判断に任せたい、と考えます。
 不遜な言い分ですが、ご了承ください。


 参入業者のハードルを低くする規制緩和は、なにも旅行業界だけでなく、いろんなところで行なわれていますが、それによってかえって競争が激化し、該当する業種は例外なく、自分たちが扱う商品・サービスなどを安く買い叩かなければ、やっていけなくなっている。
 自分たちの仕事を貶めなければ、生活が出来ないんですよ。

 ドラマは世情を極端に映し出す鏡ですから、今回みたいなあまりに山をなめきったようなケースは、ないのかもしれない。
 でも、安ければ何でもいい、という世の中のひとつの真実を、端的に見せてくれていると思うのです。

 安くていいものが手に入れば、みんな満足する。
 トマトが5個も6個も入った袋が100円くらいで売ってたら、その質に期待することはまずないけれど、もし買って食べてみてすごくおいしかったら、すっごく賢い買い物をしたって思うでしょう。
 でもそれって、農家の人たちの採算を、無視している行為なんですよ。
 結局農家の人たちの実入りも少なくなるし、安くしなけりゃやっていけなくなる。
 それと同じことが、あちこちで繰り返されれば、結局自分たちの給料も、低く抑えられてしまう。

 「得した得した」 と言いながら、実は消費者は、自分たちの首を絞めています。
 格安航空会社のパンフか何かに 「苦情は消費者センターに」 などと書かれていてヒンシュクを買ったケースもありましたけど(笑)、「安かろう悪かろう」 というのは、実は消費者は元来覚悟しなければならないことなのだ、と思う。

 なのに、そんなデフレの旗振り役みたいな消費者に限って、「お客様は神様だ」 みたいに考えている人種がいたりする。

 この第2回で、旅行業者の対応のまずさにクレームをつけている登山客がいましたけど、あれは世の中を、極端に見せ付けているドラマとしての役割を、遂行しているにすぎない。
 つまり、安いものを追い求めている 「つつましさ」、というものは、「せせこましさ」 に簡単に通じてしまう危険性がある。
 そして、自分があまりせせこましい生き方ばかりしてると、すごく卑屈になっちゃうもんだから、自分をエラソーにしないと、自我が保てなくなるんですよ。
 だから 「客だから何でもしていい」 などと尊大にふるまわなければ、自分が恥ずかしくてしょうがない。

 結果的にそんな世の中は、「自分さえよければいい」 という尊大な人種と、それに苦虫を噛み潰してムカついている人種とで、常態的にイライラばかりしている 「せちがらさ」 が増大していく。

 そしてこの第2回でかなり突出していたのは、そんな格安ツアーのなかの登山者のひとり、内山理名サンが風邪気味だったのを、問診もせず軽く風邪薬を処方して済ませてしまった向井理クンに対して、烈火のごとく怒鳴り続けた、尾野真千子サン。

 結構長いこと、向井クンをクソミソにけなしまくっていたので、結構見ている側は、引いてしまいがちです。
 なんだこのヒステリー女、みたいな。

 けれども私はこのシーンを見ていて、まあオノマチフリークの穿った見方かもしれませんが、「周りにだれも止める者がいないと、怒りというのはその矛を収める機会を失って、ただただエスカレートしていくものだ」 ということを感じていました。 まあ自分にそういう経験があるからそう思ったのですが。

 そしてオノマチには、自分がそこまで怒らなければならない事情がある。
 向井クンが山の怖さをなめたような処方をしたことに対するその怒りはいつしか、自分への怒りへと、移行しているのです。
 看護師をやめる決断をするほどまでの出来事に対する怒り。
 それをどうしようもなかった自分への怒り。
 そして結局、看護師をやめてしまった、「安全圏へ逃げた自分」 に対する怒り。

 オノマチは、そんな 「自分さえよければいい」 という自分に、苛立っているんですよ。

 そして尾野真千子サンは同時に、向井クンに対してそんな後ろめたい自分なのに、自分の正当性をことさらに披瀝してしまった、という 「架空のアドバンテージ」 を抱えてしまうのです。
 だから向井クンの母親(中田喜子サン)がただちに手術をしなければならない状態だ、という連絡が東京から入ったのに、その要件の途中で勝手に向井クンのケータイを切り、遭難してしまった内山理名サンの救出に全力を傾けるよう強く促してしまう。

 ここで尾野サンは、自分が背負ってしまった 「架空のアドバンテージ」 のために、何を最優先事項にするのか、という判断を、見誤っている。
 いや、目の前にある危機のほうを優先する、という点において、間違ってはいません。
 時間的な判断をすれば、もしその電話の用件を向井クンがすべて聞いて、向井クンが直ちに下山する、という方法を取ったとしても、すぐに暗くなってしまったでしょうから、その判断が最善かそうじゃないかの判定はつきにくい。

 でも、たぶんなんですけど、尾野サンは向井クンのケータイを途中で切ってしまって内山サン救出を最優先させたことで、次回以降とてもそれを悔やんでしまう可能性が出てきた。 向井クンの母親がそれでもしものことになってしまったら、尾野サンは 「どうしてあのときケータイを勝手に切ってしまったのか」 と思い悩んでしまうのではないか、と。

 もしそうだとすれば、「やっぱりオノマチが選んだドラマには外れなし」 と言い切れる気もしますが(笑)、まあそれがなくても、単なる 「海猿」 の山版(前回コメントで 「通りすがり」 様のご指摘)にならない、変則的な話になってきたような気は、するのです。

 …あれ?

 ストーリーについてほとんど言及してないぞ(笑)。

 悪いなあ、ストーリーが知りたきゃ、ほかを当たってくれよ(笑)。
 アンタ、オノマチのなんなのさ(買いかぶってますよね、確かに…笑)。

2012年7月14日 (土)

「平清盛」 第23回 「叔父を斬る」(6月10日放送分)を見て

 ひっさびさに 「平清盛」 の記事、であります。

 しかも1か月以上前の 「叔父を斬る」 の回(6月10日放送)について。 遅すぎてすごくマヌケだ(ワハハ…)。

 「平清盛」 についてはここ数カ月、主に 「閑話休題及びお詫び」 の記事に於いて、ずーっとコメントのやり取りをしながら遅ればせのフォローをしてまいりました(→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2012/05/post-6c2d.html)。

 しかし、どうも鳥羽院(三上博史サン)が亡くなった次の回、5月20日放送第20回 「前夜の決断」 あたりから 「保元の乱」「勝利の代償」 と、この大河ドラマは加速度的に完成度を増している。
 そしてとうとう、「叔父を斬る」 の回に至って、私も清盛同様、レビューの決断をせねばならなくなりました(笑)。

 従来通りコメントのやり取りだけで済まされなくなった理由としては、私がこのドラマの、いちばんの中核なテーマであろうと考えている 「遊びをせんとや生まれけむ(ん)」 の意義が、この回、清盛のなかで大きく転換した、と思われたからであります。

 これは従来のコメントのやり取りのなかで書いたことなのですが、「遊びをせんとや生まれけん」 というのは、このドラマのテーマ曲のおしまいのほうで、毎回強制的に聞かされる(笑)。
 しかもドラマの要所要所で、そのメロディ(なんとなく現代の音楽の作り方から逸脱してない印象を受けて仕方ないのですが…笑)が流れます。
 まあ誰が考えても、このドラマのテーマであろうと思われるのですが(笑)、このドラマの主役である平清盛(松山ケンイチクン)が心酔しているこの都歌、肝心の清盛がその解釈に於いて、とても稚拙な域を脱しきれてない、というもどかしさが、これまでついてまわっていた。

 過去コメントからの抜粋が続きますが、私はこの都歌、仏教の教えのひとつ 「衆生所遊楽」 を詠ったものだ、と考えています。
 つまり、「この世には遊ぶために生まれてきた」、という意味の教えですが、実はそれは、表面上のことでしかない。

 実際には人の 「生」 というのは、苦しみとか悲しみ、妬み、そんなネガティヴなものに彩られています。
 さらに老い、病気、死という三苦を合わせ 「生老病死」 という苦しみの連続です。

 でも、こんなネガティヴなことも楽しみとしてポジティヴにとらえていけ、という深~い教えが内包されているんですよ。
 苦しくて苦しくて、仕方のないとき、「苦しいからこそ生きている実感がある。 苦しいからこそなにもなくのほほんと暮らしているよりそっちのほうが面白い」…と思えるような自分になりなさい、という教えなのだ、と私は思うのです。

 でもこの 「叔父を斬る」 までの清盛にとって、この都歌の意味は、「楽しくなければテレビじゃない」、ちゃうちゃう(笑)、「♪なんでもありの世の中よ、気にせずに進め乙女よ、結局人生やったもん勝ちよ、気持ちいいことやったもん勝ちよ」 という、キョンキョンの歌みたいなレベルでしかない。

 つまりまあ、享楽に身をゆだねる、という自堕落な方向でないにしろ、面白きもの、ワクワクするものばかりを追い求めていた、という点で、清盛の思想は、浅さというものから、脱却できていなかった。

 それが、この回で叔父(忠正、豊原功補サン)を斬る、という苦渋の決断を経て、その浅い思想は、大きな岐路に立たされるのです。

 この回の冒頭、「死罪」 についての清盛と信西(阿部サダヲサン)とのやりとりは、見る者にひとつの楔を打ち込みます。

 「死罪というのは長いあいだ、行われてこなかった刑罰だ」、という事実です。
 史実のうえでも、飛鳥か奈良時代あたりに行なわれたのが最後の記録で、平安時代は死刑がなかったらしい。

 私はこの回の前の回、「勝利の代償」 で、清盛が崇徳帝についた叔父忠正の処分に関して、「まあ藤原家には平氏が親の代から世話してきた男もいるし、悪いようにはならんだろう」 とタカをくくっていたことについて、「なんかいちいち見積もりが甘いんだよなあ」 と考えていました。
 けれども実は、清盛がそのように甘く考えるのにも、「死罪なんかついぞ聞いたことがない」、という歴史的背景があったからだったんですね。 私の見積もりのほうが甘かった。

 当然、清盛は信西のこの措置に対して、強く反発します。

 それに対する信西の考えは、こうです。

 「天皇に反逆するは大罪。 罪の大きさによって罰も決められるのがまつりごと」。

 そして 「王家の身内どうしの争いに駆り出されてなぜそこまでされねばならぬ?」 とさらに反駁する清盛に対しては、「それはそなたらが武士であるがゆえ」 と答えます。 それが嫌なら褒美はなしじゃ、と。

 ここで信西は、「王家」 を絶対的な存在としてことさら誇示しようとし、そしてそれに仕える武士を、わざと押さえつけて清盛に屈辱を味あわせようとしている。
 信西の目的が、貴族社会の打破と新しい世の中の構築だとすれば、身内を斬らせることで、武士階級の反骨精神にフツーではない油を注ぎこむことができますよね。

 同じ通達が、源義朝(玉木宏サン)にも下されます。
 ここで意外な展開を見せたのは、自分の父親為義(小日向文世サン)に対して散々反抗してきた義朝が、清盛以上にその通達に取り乱し、「恩賞もなにも返上つかまつる!」 とまで詰め寄ったこと。
 義朝は妻の由良御前(田中麗奈サン)を帰ってくるなり一方的にひっぱたき、「あのままお前が父を連れて戻らず、逃がしておけば、こんなことにはならなかったのに!」 と地団駄まで踏む。 父と戦場であいまみえても当然戦う、と宣言していた血気盛んの義朝が、ここまで父親を斬ることに動揺しようとは。

 この回の白眉は、やはり叔父忠正を斬ろうとする清盛と、父為義を斬ろうとする義朝の、鮮やかなまでのコントラストだったと感じます。

 まあネタバレしても差し支えないくらい、放送から時間がたってしまったので躊躇なく簡単に申し上げますが(笑)、結局清盛は叔父の首をはね、義朝はすんでのところで怖じ気づき、見かねた家来の鎌田正清(趙珉和サン)に代わってもらった。

 とはいうものの、やはり清盛も、すんでのところで怖じ気づいた。
 父忠盛から受け継いだ宋剣を振りかざしたまま、一向にそれを振り下ろさない清盛。
 それを忠正は、一喝します。

 「斬れーーーっ! 清盛ーーっ!」

 清盛は泣きそうな顔になりながら、「斬れませぬー!」 と叫びます。

 その清盛の躊躇を断ち切ったのは、なんだったのか。

 言葉にならないうめき声をあげる忠正。

 「ええええーーーいっ! それでも平氏の棟梁かーーっ…!

 わしはこれより、十万億土に旅立ち、兄上(忠盛)に会う…!
 そのとき言うてほしいか…?
 『やはり清盛は、棟梁の器ではなかった』 と…!
 『兄上は間違っておった』 と…!
 『あんな赤子を引き取ったゆえ、一門は滅んだ』 と…!

 言うてほしいかあーーーっ!」

 私の考察を申し上げますが、清盛の躊躇を断ち切ったのは、「血」 ゆえである、ということです。
 つまり 「平氏一門」 を思うがゆえ。
 そして叔父忠正の 「一門のため」 という覚悟を尊重するがゆえ。
 そして父親に対して 「自分は平家の棟梁として、きちんと覚悟を据えてやっている」 と、叔父に伝えてほしかったがため。

 この場面、河原で処刑が行なわれていたせいか、川の流れる音が、延々としていました。
 この川音が、すなわち平氏一門の間に流れる血を連想させる。
 悲惨な場面であるにもかかわらず、一門を思う気持ち、互いに身内を思う気持ちにあふれた、何か心が潤っていくような場面だった。

 清盛は、宋剣を、叔父の首へと振りおろします。
 父忠盛が清盛に託した、その宋剣で、叔父忠正を、「送った」 のです。

 同刻。

 水の流れる音がしていた忠正の処刑の場とは違い、為義の処刑の場には、ひゅうひゅうと乾いた風の吹く音が、延々としていました。

 同じく、父為義からあらためて譲り受けていた家宝の刀である 「友切」 改め 「髭切」 を振りかざしたまま、微動だにしない義朝。

 「斬れ、義朝…」

 こちらはあまりにも静かな、為義の言葉。
 なんというコントラストだ。

 「…………斬れませぬ……!」

 まるでまわりの人々(先ほど述べた家来の正清、そしてそこには、義朝の一子鬼武者、のちの頼朝が立ち会っています)に、粗野な自分のこんな甘い言葉が聞かれるのが恥ずかしい、とでもいうように、押し殺した声で吐き出す義朝。

 「わしの最後の頼みじゃ、義朝…。
 お前の手で、わしを黄泉路へ旅立たせてくれ…。

 …
 …
 …
 …斬れいっ!義朝ーーっ!斬れいーーっ!」

 忠正はあの世のことを、十万億土、と言ってましたよね。 つまり仏教の言葉。
 対して為義は、黄泉と言ってました。 こっちは神道の言葉です。
 まったく同じ展開を示しながら、周囲に流れる音、動と静、そして用語までもが、どこまでも対照的に描かれている。

 歪んだ表情のまま、髭切を手元に落としてしまう義朝。

 そして仰向けにその場にへたりこみ、あくまで格好悪く、泣き叫びます。

 あんなに父親のことを蔑み、自分ひとりで偉くなったようにふるまっていた義朝が。
 義朝の心は、実は父親を求めて、からからに乾き切っていたのです。
 だからこそ、この場面では、心のなかに吹き抜けるような風の音が、支配していた。

 子供に戻ってしまったように泣きじゃくる義朝に、為義が諭すように言います。

 「義朝。 義朝。

 泣くでない。

 泣かずともよい。

 義朝。

 もうよい。

 もうよい」

 自分の父が、みっともなく泣きじゃくっているのを、あくまで冷静に凝視している、鬼武者(頼朝)。
 そのとき、鈍い音が。
 前述のとおり、正清が為義の首を、髭切で、斬り落としたのです。

 完全に動転してしまう義朝。

 「父上ーーっ! 父上ーーっ!」

 「やめろ!」

 我を失った義朝をなじるのは、為義と共に敵方につき、同じ斬首の場に居合わせた、義朝の兄弟たちです。

 「最後の頼みすら聞けぬ者が、われらの父を父上と呼ぶでない!」

 「正清、はようわれらを斬れ! さぞかしご無念の父上を、おひとりで心細く黄泉路を歩かせとうない! 斬れっ!」

 そして斬られる者たちの読経がまるで呪いの言葉のように響くなか、源氏方の斬首の場は、凄惨さを加速していくのです。

 この修羅場。

 「清盛様。 われらもはよう、斬って下さりませ…。
 父上のお姿が見えるうちに、あとを追いとうございます…!
 お願いいたします…はよう」 と、まるで安心しきったように清盛に語りかけた、平氏の身内とは、全く逆です。

 これは今後の行く末を考えれば、とても示唆に満ちた場面と言わざるを得ません。
 ただそこらへんのことは、私などよりずっとお詳しいかたが多数いらっしゃいますので、不勉強な私は控えさせていただきます。

 身も凍る、という表現が実にぴったりときた、この回の 「平清盛」。
 考えてみれば、かつての大河ドラマは、こんなことの連続でした。
 人間の業の深さ。
 悲劇を貪らなければ存在していけない、その覚悟。
 あらゆる登場人物に、納得させるに足る事情がきちんと描かれており、「ためにする」 ような悪役など皆無であったこと。

 そしてこの回のこのドラマは、その斬首のあとの後白河天皇(松田翔太クン)の狂気に満ちた宴のなかで、清盛に大きな覚醒を促していくのです。 ダメ押しだ。 参りました。

 後白河が催した宴では、「遊びをせんとや」 の都歌が、またいつぞやのように乱れ咲きます。

 「さあ皆の者、呑めや歌え。
 われらは、遊ぶために生まれてきた。
 戯れるために生まれてきた。
 ここにおるは、選ばれし者たちじゃ。
 面白き遊びをするを、許された者たちじゃ。
 どうじゃ播磨守(清盛)。
 生きる力が湧いてこよう…。
 ぞくぞくとしてこよう…!
 フハハハハハハ…!」

 これじゃ天皇家とは呼べません(ハハ…)。 「王家」 でいいです(笑)。
 それはいいとして、この後白河のセリフ、私がさっき例えに出したキョンキョンの歌と重なります(笑)。

 清盛はこの瞬間、自分も以前から大好きだったこの歌が、突然忌まわしいまでに嫌いな歌になってしまったかのように、後白河をねめつけるのです。
 そしてさもうやうやしく、両手を掲げ、後白河に一礼する、清盛。
 得意満面の、後白河。

 こうべを垂れたまま、忌々しげに口を開く清盛。
 いつの間にか、宴は終わっています。
 清盛のセリフは後白河ではなく、信西に向かって放たれている。

 「なにが 『遊ぶために生まれてきた』 だ…。

 武士の力を見せつけたところでなにも変わらぬ…。

 変わっておらぬ…!」

 信西は 「そなたは叔父を斬った、それだけの力がある、ということじゃ」 と、その覚悟の上に身についた清盛の実力を指摘します。
 それはいいとして(いいのか?…笑)、私がうなったのは、清盛が今まで自分の生きる信条としてきたこの都歌がいかに、実にふてぶてしい、勝者の側にしか理解されようがないようなチャラチャラした浅い哲学の上に成立していたかを思い知らされている段階に、突入した、ということです。

 仏教では動執正疑(どうしゅうしょうぎ)という考え方があります。
 つまり常識を疑わせて、より深い段階に思索をめぐらせる契機にする、という方法論です。
 カントの二律背反とか、ヘーゲルの弁証法に似てるような気がします。

 清盛のなかでは、「遊ぶために生まれてきたのではない、とすると、ではなんのために生まれてきたのか?」 という葛藤が生じています。 だから直ちに答えが見つかったわけではない。

 でも、それまで自分が信じてきたものがいったん瓦解する、ということは、より高次な次元に思索が向かう可能性が、ここで出てきたわけです。

 義朝の子、鬼武者は、「早く元服したい」、と言い出し、頼朝の名を賜ります。
 頼朝の心のなかでは、いままで非情なタイラントであった父親像が、いったん瓦解しているわけです。
 ここで父・義朝の存在が、子・頼朝のなかで後世、弟の義経を追い詰めていく契機になっている。

 どうも空恐ろしい大河ドラマになってきた感じがするのですが、レビューするほうも戦々恐々であります(爆)。
 知力・体力・時の運を総動員しなければ、はじかれてしまいそうになる(なんやソレ)。

 どうも今後も、容易にレビュー出来ないドラマと、なってしまいそうです。

2012年7月11日 (水)

「息もできない夏」 第1回 話が最初から、大ごとすぎるのでは?

 武井咲(えみ)チャンが無戸籍の少女を演じる、「息もできない夏」。

 まずいきなり最初の印象からズバリ申し上げますが、問題提起のベクトル(方向性)が、極端から入りすぎているのではないのかな、という感じがします。

 ケーキ屋エミちゃん(ネタ古…)はアルバイトにもかかわらず、一番乗りでお店に来て働き続ける真面目な女の子。
 彼女はそのケーキ屋の正社員になるために戸籍が必要になり、区役所の夜間窓口にやって来ます。
 昼間来ることができないから彼女は夜間に来ているのですが、そのときに、身分を証明するものがないことから、区役所の人間に便宜を図ってもらおうと、自分の作った失敗作のケーキをリベートみたいな感じで 「皆さんで食べてください」 と持ちかける。

 まずこの時点で、ハテナ?となってしまうんですよ。

 私としては、「このドラマは無戸籍問題を扱っている」 という前知識がありますから、武井咲チャンは自分が無戸籍であることを最初から分かっていて、こんな賄賂みたいなことをしているのか?といぶかってしまう。

 導入部分としては、ここはこんなに不自然な話にするのではなく、フツーに入っていけばいいような気がします。

 見進めていくうちに、「ああエミちゃんは自分に戸籍がないことをまだ知らないんだな」、というのが分かってくるのですが、普通の感覚で言うと、「戸籍がないなら取得すりゃいーじゃん」 という感想が自然とわき出る、と思うんですよ。
 ところが物語は、どんどんと大袈裟な方向に進んでいく。
 役所の窓口担当の江口洋介サンは、どうももともと新聞記者らしいのですが、何かの事情で役所の人間に転職しています。
 そのせいか?かなり無愛想で、エミちゃんとの住民票のやり取りはなんか、ヤケに感情的な方向にエスカレートしていきます。
 しまいには 「住民票がないってことは、存在してないことと一緒なんだ!」 みたいな、まあ、そこにいたまわりの区職員も 「アチャ~、それを言っちゃおしまいよ」 みたいな顔をしていましたが、「戸籍があらずんば人に非ず」 みたいなことを、江口さんはエミちゃんに言ってしまう。

 エミちゃんはガアァァァァ~~~……ァ…ァ…ンというショックを受け(笑)、「自分は最初から、この世に存在していなかったんだ…」 と思い込み、ケーキ作りの道具に八つ当たりし(笑)、転んだらそこに石があって(笑)、血をダラダラ流しながら街をさまよい、そしてパニック障害になってしまったのか、街なかで倒れ込んでしまう。 「とんぼ」 の長渕剛サンとは違って、カワイイ女の子が急に倒れ込んだら、街ゆく人たちもみんな 「大丈夫?」 と言って人だかりになります(笑)。

 最初から話が、エライ大袈裟だな、という感じなのです。

 感覚的に言うと、「区役所で戸籍がないと言われた」→「親にどういうことか聞く」→「ないんならあらためて戸籍を取得してもらう」 でいい気がするんですが、このドラマはそれを極めて最初から大問題であるかのように、話を進めていくのです。

 ところが実は、それってそんなに簡単なことでもないらしい。

 戸籍取得には、300日問題とか、親の感情の問題とか、さまざまなハードルが、そこに横たわっているらしいのです。

 でも普通は、そんな大ごとだと、誰も分からないじゃないですか。

 エミちゃんにしたってその感覚でドラマを進めていけば、いいと思うんですよね、最初のうちは。

 それを必要以上に大ごとにしようとするから、「なんだこの子は、役所の窓口でこんなに感情的になって、ずいぶんわがままだな」 とかいう感想に結び付いてしまう。

 つまり、このドラマは、無戸籍問題がとても難しい問題をはらんでいる、と熟知している作り手が、そこを出発点として物語を構築し始めているところに問題があるような気がする。

 「最初はなんでもない問題だと思った」、という出発点のほうが、見る側を納得させながら話を進められる気がするんですよ。

 このドラマが進行していくうえでいちばん気になるのは、エミちゃんの母親役の木村佳乃サン(私ずいぶん久しぶりに、この人見ました…最初誰だか分からなかった)。
 娘のピンチに、親として一緒に立ち向かおうとしていないんですよ。
 かなりもどかしいのですが、たぶんそれなりの事情がそこに隠されていると感じる。
 そしてエミちゃんのおばあちゃん役(ふぅ…)の、浅田美代子サン。
 たぶんエミちゃんにはいい感情を持っていない。 木村佳乃サンに対しても。

 そしてエミちゃんのケーキ屋さんに突然現れた、北大路欣也サン。
 何らかの鍵を握っていると思われます。
 その北大路サンのことを探りにかかっていると思われる、要潤サン。
 どうもここらへんの 「家族の事情」 というものが、サスペンス仕立てになっている印象を受けます。

 江口洋介サンは、元新聞記者という嗅覚でもって、エミちゃんに興味を示していくと思うのですが、ここらへんの絡みも見ものではないか、という気がします。
 江口サンや北大路サンが出ていれば、それなりの社会的テーマをはらんでいることが予想され、おそらく先行きが気になる、というドラマには、なるのではないか、と思う。

 そしてエミちゃんに付きまといそうな、ナマポ(生活保護)を無戸籍で受けようとしているアンチャン(中村蒼クン)の存在も気になる。

 ドラマの第1回では、中村蒼クンが区役所で見かけたエミちゃんを、持っていたケーキ屋の紙袋からその存在をネットで検索して突き止めたり、エミちゃんが無戸籍問題の難しさをネットで調べたりしていました(だからエミちゃんが必要以上に感情的になっていたのも、ネットでその深刻さを調べていたからでしょうね)。

 このくだりを見ていて、人間の存在って、一体何なんだろうな、というのは感じましたね。

 ネットのなかで存在している個人。

 それは実態があるようでいて、もともとないような感覚。

 無戸籍の人、というのも、実際にそこにいるのに、存在を許されていない、という感覚。

 なんかとても、共通するものを感じました。

 このドラマ、話のベクトルが極端から入りすぎている、というまずさに加えて、細かいディティールがしっかりしていない、という印象を受けます。
 そのひとつが、エミちゃんが作っているアップルパイ(笑)。
 出来立てなのにスンゲー冷たそうなんですよ(爆)。

 あとツッコミどころもいろいろあるんですけど、武井咲チャンに関しては、なんか事務所のゴリ押しが目について、必ずしもいい印象を持っていない人が多いような気がするので、あまり突っ込まれるような要因を作っちゃうと、彼女がカワイソウな気もしてきます。

 今後に期待、という感じです。

 …あっ、忘れてた! 来週は 「シャーロック」 のほうを録画するんだった!(笑)

2012年7月10日 (火)

「サマーレスキュー~天空の診療所~」 第1回 向井クンが、顔を作っていく…

 オノマチ(尾野真千子サン)出演のドラマに外れなし――。

 このドラマ、題名だけ見ると、なんか突っ込みたくなるような感じが最初はしたんですよ。
 「サマーレスキュー」?「サマーホリディ」 みたいな?(古い歌にあるんです…笑)。
 「天空の診療所」?ラピュタとかドラクエの勇者とかマスタードラゴンとか出てきそう…(笑)。

 しかも、主演が向井理クン。

 向井クンは、「ゲゲゲの女房」 でブレイクしたはいいものの、その後がなんとなくパッとしないような感覚が、なんとなくしていて。
 ほかの記事のコメントにも書いたのですが、この人は演技が結構さらっとしているから、主役には向かないんじゃないか、と思っていたのです。 主役はもっと、主張するような役者でないと、と。
 去年の大河ドラマ 「江」 でも、脚本家のかたに一方的に思い入れられて(笑)、とても優遇された役をやっていたような気がします。 江の夫、徳川秀忠ですね。

 だから彼が主役のドラマ、と聞いて、一抹の不安もあったのです。

 今回のドラマも、しょっぱなから、山の診療所の医者であるはずの向井クンが、なにも出来なくてただおろおろするばかりのシーンから始まります。
 ダメだコリャ、てなもんです。

 しかしここに、5歳の子供を死なせて看護師をやめたばかりの尾野真千子サンが、乞われて登場する。
 すると一気に画面が締まるのです。
 向井クンの置いてかれ感が、加速します。

 このチェンジオブペースには、何かを感じざるを得ません。 

 そして次の瞬間、物語は2日前にタイムスリップする(って、別にタイムスリップものではありません)。
 向井クンは都会の大学病院で心臓外科医として、かなりの腕をふるっています。 山小屋の診療所でのヘタレぶりとは段違い。
 最先端の医療機器を駆使し、今日もまたひとり、手術を成功させている。

 そんな彼は、上司の松重豊サンから、いきなり 「長野県にある山の診療所に行ってくれ」 と言われ、戸惑います。
 見ていて、なんかこれは要するに、左遷ものか?と思ったのですが、どうもそうじゃない感じですね。
 この山の診療所は、この大学病院の関係している施設らしくて、夏の登山シーズンの間3カ月だけ開業している場所。 そして向井クンは、そこに1週間だけ行ってきてくれ、という、かなり限定した話なのです。 松重サンは同じ大学病院の同僚でありながら、その山の診療所に拠点を移してしまった、時任三郎サンを、どうも引き戻そうとしている様子ですし。

 まあ、ただ向井クンの滞在が1週間で終わるかどうかは未定な感じですけどね。

 で、そんなわけだから、この山の診療所に辿り着き、そこでの生活の不便さや医療ギャップに戸惑い続ける向井クンが、これまたヘタレに見えてしょうがないんですよ。
 「まあ、1週間だからな」 という割り切りを、なぜしようとしないのか、という感じで。

 ただ、彼の戸惑いとは裏腹に、このドラマの舞台である綾ヶ岳の風景は、心が洗われます。
 「山はいいよねぇ…。
 山はいいなぁ…。
 君もしつこいねぇ」。
 うっ、「クロノ・トリガー」!(って分からんか…)。

 この診療所は、笹野高史サンが経営する山小屋と共同生活しているような感じ。 笹野高史サンの娘が、尾野真千子サンなわけです。
 診療所で働く看護師に、小池栄子サン。
 ヘタレな向井クンを 「なにほけ~とつっ立っとんねん、邪魔や、邪魔!」 みたいに敵視するオノマチサンとは裏腹に(笑)、同じ腕の立つ看護師でありながら、小池サンのほうは向井クンのようなケースを何人も見てきたせいか、扱いに慣れてます(笑)。 かなり頼れる。

 と、書いたように、怪我人病人などほとんどないこの診療所、向井クンが到着した翌日、いきなり重篤の患者がふたりも運ばれてきます。 すなわち診療所は、シッチャカメッチャカ。
 ひとりは骨が見えるほどの骨折、血がなかなか止まりません。 しかし輸血不能。
 もうひとりは風邪かと思われたのですが、肺水腫。 呼吸困難な状態なのに、酸素ボンベのストックがありません。
 救急ヘリで搬送するにも、ひとりが限界。
 どちらの患者を先に運ぶか、向井クンは決断を迫られます、が、パニクっている彼には到底無理。
 時任サンとの無線を取り上げ、患者の状態を的確に告げ、この人(向井クン)じゃ判断は無理、と時任サンに判断をゆだねたのが、尾野サンです。

 この部分を見ていて、なんか私がぼんやり考えている、向井クンと尾野サンの 「役者としての立ち位置」 とでもいうのかな、現実に役者として置かれている立場の、これって縮図っぽい、と感じたのです。

 つまり、向井クンはなんとなくこのところちやほやされすぎて、役者としてのステップアップにまごついている。
 そして尾野サンは、ここに来てダークホース的に役者としての評価を定めつつある。

 そんな尾野サンが、「カーネーション」 の次に選んだテレビドラマ。
 別に彼女には、向井クンを成長させる、とかいう尊大な気持ちなど、ないとは思うんですよ。
 ただ、今まで渡部篤郎サンとか、原田芳雄サンとか、小林薫サンとか、自分よりも大きな役者たちと付き合ってきた尾野サンが、今回向井クンを共演の相手に選んだ、ということに、何かを感じざるを得ないことは、確かなのです。

 そして尾野サンが出ると決めたドラマは、やはり筋がきっちりしている。
 このドラマ、クライマックスに向かっていく高揚感は、半端ではありませんでした。

 散々田舎のネズミにバカにされた都会のネズミは、第1回のクライマックスで、患者を勇気づけるために、「あなたは助かります。 絶対助けます!」 と、魂のこもった言葉を投げかけます。

 それを言った瞬間の向井クンの表情。

 いや、役者として、ひとつ顔を作ることが出来た、と感じ入りました。

 このドラマは、向井クンをステップアップさせるための、重要なドラマになっていくような予感がいたします。

 ただし。

 向井クンは嵐が過ぎ去ったあと、時任三郎サンに向かって、こう吐き捨てるのです。

 「これは詐欺だ」、と。

 病院というのは、医療器具が揃っていてなんぼだ。
 こんな初歩的なものしか置いていない診療所が、患者を治すための施設だなんて、とんだお笑いだ、というのです。

 でもそれは、「何もないから何もできない」、と駄々をこねている子供としての言葉じゃない。

 医師としての責任を全うしようとするなら、それなりの設備が置いてなければダメだ、という責任感だ、と思うのです。

 それに対して、時任サンは、こう言います。

 「患者さんは、医療機器に会いに来るんじゃない。
 医者に会いに来るんだ。

 …そして君は医者だ」

 向井クンは、こう反駁します。

 「僕は認めません。
 ただ患者を励ましながら、救急ヘリを待つだけ…。
 僕は、こんなことが医療だなんて認められません!」

 苦悩する向井クンの表情。
 「江」 でエコヒイキされていた時の表情とは、まったく違う、と感じましたね。
 あ、あれは話がよく分かんなかったからかな(笑)。 どーして大坂城に火をつけるのか?とか(笑)。

 ドラマのなかで、いい加減な気持ちで登山して怪我をしたり遭難したりする人たちのことにも、このドラマは言及していました。
 つまりある一定のメッセージも、このドラマは内包している。
 単に 「山小屋診療譚」 みたいな話にならない可能性を、第1回を見た限りでは感じました。

 やはり、オノマチ出演のドラマに、外れなし――。

2012年7月 9日 (月)

コメントをくださった皆様へ…

m(_ _)m いつもいつも、このブログを御贔屓にしてくださり、ありがとうございます。

 特にコメントをくださるかたがたは、積極的にこのブログに参加してくださり、感謝してもしきれないほどです。

 本日は、ちょっと疲れておりましてcoldsweats01、皆様からの内容の濃いコメントに、満足の出来る返事が出来ずに、大変申し訳ありません。

 いくつかのコメントに対し、返信を明日にさせていただきたいなー、と思っております。

 コメントをいただいてから24時間以内に返信しようとは、いつも考えているのですが。

 申し訳ありませんヾ(_ _*)…。

2012年7月 7日 (土)

「ゴーストママ捜査線~僕とママの不思議な100日」 ん~、まあ…(笑)

 仲間由紀恵サンがユーレイになって、弱虫な自分の息子と力を合わせ、さまざまな事件を解決していく、というこのドラマ。

 いきなりで申し訳ないですけど、今後たぶんあまり真剣には見ないだろうし、レビューもしないだろうっては思うんですよ。

 ただちょっと、やはり書きたいことはいくつか出てきたので、とりあえず感想を書いてみようかな、と思います。

 まず感じたのは、このドラマ、あまりに屈折したところがなさすぎる、ということ。

 仲間サンは正直、かなりウザいくらいの明るさをふりまき、仲間サンの夫であるせくすぃ~部長、じゃなかった沢村一樹サンは、この人にはおそらく完全に人間的な裏がない、というくらいのまっすぐさ。 あまりにこのふたりが屈折してなさすぎていいひと過ぎて、ドラマとしての面白味に直結しないのではないか?という危惧を感じます。

 唯一、この沢村サンの連れ子である志田未来チャンが、仲間サンが死んでしまったときには涙を流すものの、ちょっと感覚的に冷たい。
 そして今回、ユーレイになってしまった仲間サンを、形見のメガネ越しに見ることができる男の子 「とんぼ」 クン。
 君野夢真クンというらしいですが、まずこの 「とんぼ」 という名前が、よく言われるところのドキュンネーム(最近じゃキラキラネームとか言うらしいですが、なんかこういうのは名称を統一してもらいたいものです…笑)。 要するに変わった名前でみんなからいじめられ、就職のときにも障壁になりそうな名前。

 この名前をめぐってのちょっとした、ママと息子の心のすれ違いが第1回の底辺を流れているわけですが、とんぼクンの、自分の名前についての反抗心も、実にまっすぐで、見ていてとてもひねりがないように思えてしまうんですよ。

 こんなまっすぐな家族のドラマって、面白くなるんだろうか?とまず考えてしまうのですが、それを埋め合わせするのが、このゴーストママが警察官である、という設定。
 第1回では自分が死んでしまった原因を作った放火魔(袴田吉彦サン、「もう一度君に、プロポーズ」 では完全人格者だったのに…笑)をつかまえるために、息子のとんぼクンと手に手を取って、って取れませんけど(笑)奮闘していく。

 ここで齟齬が生じるのが、とてもまっとうな家族なのに、結果的に仲間サンはとんぼクンを、事件に絡めて危険に晒してしまっている、という矛盾です。 まあ今回はあくまで、結果的に。

 ただ、このドラマの題名から言って、この親子は今後も、警察が取り扱うような危険な事件に、かかずらわっていくはずですよね。
 母親の仲間サンはユーレイだから危険はないけど、とんぼクンのほうが一方的に危ない。
 それっていいのかな~、みたいな気もしてくるのです。

 ただドラマの興味というのは、いっぽうでは、逆にそこに集中してくる。
 「どうやって息子を危険に晒さずに、危険な事件を解決していくか?」「どうやってゴーストが、とんぼクン以外の生きている人間と、コンタクトを取って連携していくのか?」 ということです。
 特にコンタクトが取れなくてもどかしい、と私が感じたのは、仲間サンの警察署での上司、生瀬勝久サンとのやり取りでしたね。 仲間サンと生瀬サンは、コンタクトが取れればドラマ的に結構面白い、と思うんですよ。

 そのカギを握っているのは、同じゴーストのイケメンクンかな、と感じます。
 彼はどうも、現実世界のものを手でもって動かせる、という能力を持っているらしい。
 彼は 「ゴースト~ニューヨークの幻」 での地下鉄ゴースト、みたいな役割になるのだ、と思います。 まあそれ以上のお話もくっつけるのでしょうが。

 そしてもうひとつの興味は、これも題名にある通り、「100日」 という期間を過ぎれば、仲間サンは天国に昇っていくのだろう、という 「分かりやすい」 予測からくる、「親子の本当の別れ」 を予感させるシーンの見せ方です。

 このドラマを見て私がレビューを今回書こうと思ったのも、実はこの1点に尽きます。

 仲間サンの家族が、ただただ、まっすぐな気持ちの家族であるがゆえに、この 「本当の別れへのプロローグ」 というのが、ドラマの切なさを倍加させている。

 とんぼクンは名前をバカにされたことから、仲間ママに 「ダイキライ」 と言ったまま、ママに死なれてしまった。
 第1回ラストで、とんぼクンはそれを、仲間ママに謝ります。
 そして仲間ママはとんぼクンに、自分が死んじゃってごめん、いろんなことをしてあげたかったのに、ととんぼクンに謝るのです。

 このシーンに心動かされるのは、ふだん素直な気持ちを打ち明けることがなかなかできない、親と子の思いを通わせる場面であると同時に、「たぶんこんなふうに心を通わせられるのも、あと100日を切っているんだ」 と思ってしまうからなんでしょう。

 まあ、冒頭に書いたとおり、そんなに真剣には見ないのだろうけれど、なんとなく見ちゃうドラマにはなりそうな感じがいたします。

「デイジー・ミス・リジー」 のギター・リフ、明日はどっちだ

 ひっさびさにビートルズの記事。

 1965年のアルバム 「ヘルプ!」(4人はアイドル)のラストを飾る曲、「デイジー・ミス・リジー」 は、ジョンのシャウトが冴えわたるノリノリのロックンロール・ナンバーであるが、私はこの曲を聴くたびに、イントロから延々と繰り返されるギター・リフが気になって仕方がない。

 8ビートで説明すると、1、2、3、4、5、6、7、8のうち、このギター・リフは5.5拍目から8拍目をすぎ、最初の1拍に戻る部分までの間に鳴らされる。
 つまり、「チャララチャラチャーラー」 の、最初の音が5拍目と6拍目の中間、最後の 「ラー」 の部分が1拍目になるわけだ。

 この曲はこのギター・リフから始まっているから、要するにこの曲は、5.5拍目から始まっていることになる。
 1、2、3、4、5 「チャララチャラチャーラー」、というわけ(音楽の素養がないから説明しにくい…笑)。

 しかし、いったんジョンのヴォーカルが始まると、このギター・リフはそのタイミングをずらさないと、ジョンのヴォーカルとかぶってしまう。
 なぜなら歌の出だしも、5.5拍目から始まっているためだ。
 1、2、3、4、5 「ユメミジジミスリーゼ」、とジョンも歌っているわけだから。

 だからこの同じフレーズを曲のあいだじゅう繰り返すギター・リフは、少なくともジョンのヴォーカルのあいだじゅうは、1.5拍目から5拍目まで鳴らさなければならなくなる。
 4拍ずらす必要性が生じるのだ。

 でもまあこれって、だいたい別にずらす必要もない。

 ただ、ジョンのヴォーカルのあいだじゅうはこのギター・リフも、ジョンのヴォーカルと掛け合いみたいに進行していけば、曲的にはそっちのほうが乗れるのである。 でないと、5.5拍目から1拍の間ヴォーカルとギター・リフが同じタイミングでは互いに邪魔をし、1.5拍目から5拍目まで、ちょっと音的にさびしくなってしまう。

 そしてずらした場合、ジョンが 「ア~~~!」 とシャウトをし、間奏に入った瞬間、ギター・リフは最初のタイミングに戻さなくてはならなくなる。

 しかしどうも、リード・ギターのジョージ(たぶん)は、この 「棲み分け」 を完全に理解していない(爆)。

 しかも、完全に理解していないうえに、このリード・ギターはダブル・トラッキングになっている(つまり2度重ね録りをしている)ため、片方のジョージはちゃんと弾いているのにもう片方のジョージ(笑)は 「??」 みたいな感じになってしまったり、ワケが分からないからパニック状態になって、ピッキングやチョーキングのミスを誘発している部分も出てくる(笑)。

 おそらく理解してないまま、この時はやっつけ仕事的に収録してしまったのだろう。
 ほかのライヴとかを聴いていると、結構ちゃんと弾いてたりするので。
 それにしてもこれでOKを出してしまうとは、やはりいい加減な話だ。

 ところで、この曲のギター・リフは、押さえ方が非常に単純である。
 それを、チョーキングで一定の味付けをしているわけだが、2分50秒ほどの曲のあいだじゅう、このフレーズばっかりやっているために、かなり体力(つーか、指の力と固さ)が必要なのだ。 結構ギター弾き泣かせの単純作業なのである。

 そのうえこの単純作業、説明し続けているように、ヴォーカル部分と間奏部分では、弾き始めるタイミングが違う。

 冒頭に説明した通り、この曲はアルバム 「ヘルプ!」 のいちばん最後を飾る曲であるが、ビートルズファンには常識だけど、この曲、ビートルズの全楽曲のなかでもっとも有名曲である、「イエスタデイ」 の次の曲、なのである。

 ポールの物悲しい超有名な名曲のあとに、ジョンのノリノリロックンロールナンバーを配置する、という発想は、実にビートルズらしい発想だ。
 なぜならビートルズは、常に相手の意表をつくことばかりをやりたがる傾向にあるバンドだからだ。

 しかしここでのこの配置は、ジョージのギターがメロメロなことに加えて(笑)、ちょっと外し気味な感覚がする。

 もともとビートルズは、イギリスオリジナルアルバムに於いて、アルバムの最後の曲をリーダのジョンのシャウトナンバーで締めくくるようなことを、アルバム1枚目と2枚目でやっていた。

 だが、1枚目のアルバムラストの 「ツイスト&シャウト」 の頃の、ギラギラした感じは、「デイジー・ミス・リジー」 のジョンからは、ちょっと見受けられなくなっている。
 ジョンも後年回想しているように、この頃のジョンは 「太ったエルヴィス」 の時期であり、あまりに有名になりすぎて、自分の方向性を見失いつつあった時期だったからだ。
 彼のヴォーカルそしてシャウトは相変わらず魅力に満ちていることは確かだが、何かこの曲には 「停滞感」 が蔓延している。

 それが、過去のアルバムと同じような締めくくり方をしようという自信のなさに直結している感じがするし、そこらへんの安易さが見え隠れしてしまうのだ。
 それが、いままでとは違うビートルズ、というものを見せつけた、「イエスタデイ」 のあとだからこそ、余計にコントラストが引き立ってしまう。

 いったいどこでギターを鳴らせばいいのか迷っているジョージのありようと、ジョンの苦悩の方向が、奇妙にリンクしている曲だ、と言えるのではないか、「デイジー・ミス・リジー」 は。

 私などは却って、このアルバムでボツになった 「リーヴ・マイ・キトゥン・アローン」 のほうが、ジョンらしい荒々しさに満ちている感じがする。
 蛇足であるが、この 「ヘルプ!」 というアルバム、かなりボツ曲が多い、ということも、なんとなくビートルズ自身の方向性の迷いを感じさせるアルバムだ(これは以前にも言及した)(そしてその打開の話も)。

 ジョンはその後、1969年のライヴ・イン・トロントで、ソロとしてエリック・クラプトンなどと共にこの曲を再演している。
 その動機も、なんとなく彼のなかで、「『ヘルプ!』 ではパフォーマンスがうまくいかなかったから、リヴェンジだ」、という思いがくすぶっていたからなのではないか、という気がしてくるのである。

2012年7月 6日 (金)

「リーガル・ハイ」 最終回まで見て

 「見たまえ~彼らの満足そうなこの表情を~。

 ズワイガニ食べ放題ツアーの帰りのバスの中そのものじゃないかぁ~。

 黛クン(新垣結衣チャン)よく覚えておきたまえーこれがこの国の 『なれあい』 という文化の根深さだ人間は長い年月飼い慣らされるとかくもダニのような生き物になるのだよ~」

 「ナニぃ? 俺たちのことを言ってるのか?」

 「ほかに誰かいますかぁ~?自覚すらないとはホントに羨ましい、コケにされているのも気付かないまま墓に入れるなんて幸せな人生だぁ」

 「あんたちょっとひどいんじゃないか?!」

 「申し訳ありません最初に申し上げた通り皆さんのようなミジメな老人どもがダイッキライなもんでして」

 色めき立つ老人たち。
 彼らは、「南モンブラン市」 公害訴訟の原告として、このコーマンチキな言動を繰り返す古美門研介弁護士(堺雅人サン)に弁護を依頼しています。
 彼らが企業側の譲歩案に安易に妥協しようとしたとき、古美門は悪しざまに彼らを見下しはじめる。
 「俺たちはお前の倍は長く生きてるんだぞ!」「目上の人に対して礼儀を知らないのか?」
 老人たちは、騒ぎ出します。

 「倍も生きていらっしゃるのにご自分のことが分かっていらっしゃらないようなので、教えてさしあげているんです!いいですか?みなさんは国に見棄てられた民、『棄民』 なんです!国の発展のためには年金を貪るだけの老人なんて無価値ですから、チリトリで集めてはじっこに寄せて、ヨーカンを食わせて黙らせているんです、『大企業に寄生する心優しいダニ~』 それがみなさんだ!」

 「テメエだってダニに寄生してる、バイキンじゃねえか!」「あたしたちのなにが気に入らないの?!」

 古美門は、一転して静かに語り始めます。

 「かつてこの地は、一面に桑畑が広がっていたそうです…。
 どの家でも蚕を飼っていたからだ。
 それはそれは美しい絹を紡いだそうです。
 それを讃えて人々は、いつしかこの地を 『絹美』 と呼ぶようになりました。

 養蚕業が衰退してからは稲作に転じました。
 日本酒に適した素晴らしいコメを作ったそうですが、政府の農地改革によってそれも衰退した。
 そのあとはこれといった産業もなく過疎化の一途をたどりました。
 市町村合併を繰り返し、補助金でしのぎました。
 5年前に化学工場がやってきましたねー。
 反対運動をしてみたらおこずかいがもらえた、多くは農業すら放棄した。

 『ふれあいセンター』 などという中身のない立派なハコモノも建ててもらえた、使いもしない光ファイバーもひいてもらえた、ありがたいですねぇ~っ。

 『絹美』 という古臭い名前を捨てたら 『南モンブラン市』 というファッショナブルな名前になりました、(バカにしたように)なんてヤングでナウでトレンディなんでしょう!

 そして今、土を汚され、水を汚され、病に冒され、この土地にはもはや住めない可能性だってあるけれど、でも商品券もくれたし、『誠意』 も 『絆』 も感じられた、ありがたいことですホントーによかったよかった
 これで土地も水もよみがえるんでしょう、病気も治るんでしょう、工場は汚染物質を垂れ流し続けるけれどきっともう問題は起こらないんでしょう、『だって 『キズナ』 があるからぁ~~っ!』」

 「がああああああ~~~~~~~っ!!」

 興奮した老人のひとりが古美門につかみかかります。
 ぶんなぐられる古美門。

 「どうしてそんなことが言えんの!」「あんたは悪だ!」「あんたなんかに、俺たちの苦しみが分かってたまるか!」

 何食わぬ顔をして立ちあがる古美門。 ちっとも効いてませんボクチャン、という顔です。

 「俺たちだってあんたの言ったことくらいイヤというほど分かって、みんな、悔しくて悔しくて仕方ねんだ、だけど、必死で気持ちを押し殺して、仲良くしようとしてるんじゃねえか!」

 「なぜ?」

 「なぜ…?」

 「ゴミくず扱いされているのを分かっているのになぜ納得しようとしてるんです!」

 「俺たちはもう年寄りなんだし…」

 「年寄りだからなんなんですか」

 「具合が悪いのにみんな頑張って…!」

 「だからなんだってんだぁ~~~~っ!!」

 「ふれあいホール」 に響き渡る、古美門の怒声。

 「…だからいたわってほしいんですか?
 だから慰めてほしいんですか?
 だから優しくされたらすぐにうれしくなってしまうんですか?

 先人たちに申し訳ないとは、子々孫々に恥ずかしいとは思わないんですか?

 なにが 『南モンブラン』 だ、『絹美村』 は本物のモンブランよりはるかに美しいとどうして思わないんですかぁっ!

 誰もが責任を取らず、見たくないものを見ず、みんな仲良しで暮らしていけば楽でしょう、しかしもし!誇りある生き方を取り戻したいのなら!

 見たくない現実を見なければならない、

 深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない、

 『闘う』 ということはそういうことだ、

 愚痴なら墓場で言えばいい!

 『金がすべてではない』?

 金なんですよ、あなたがたが相手に一矢報い、意気地を見せつける方法は!

 奪われたモノと、踏みにじられた尊厳に、ふさわしい対価を勝ち取ることだけなんだ!それ以外にないんだ!!」

 住民たちににじり寄る古美門。

 「錦野春夫さん。
 あなたは元郵便局長だ、幾度となく閉鎖されそうになった村の郵便局を最後まで守りぬいた!

 守口三郎さんは小学校の校長先生、村にいた子供たちはみんなあなたの教え子だ!

 奥さんの久子さんは、街のデパートの化粧品売り場で、月間記録の保持者!

 郷田譲二さんは実に100ヘクタールもの田畑を開墾したっ!

 蒲田さと子さんの御主人は、田んぼをやりながら日雇いの仕事をいくつもいくつも掛け持った!

 富田康弘さんは商店街の会長、毎年祭りを盛り上げて、あのクリスタルキングを呼んだこともあるっ!

 板倉初枝さんは女だてらにクレーン車を動かし、6人の子供を育て上げたぁっ!

 敗戦のどん底から!この国の最繁栄期を築き上げたあなたがたなら!その魂をきっとどこかに残してるーーーっ!!

 …
 …
 …

 …はずだと期待した私がオロカでした、いいですか、二度と老後のヒマつぶしに私を巻き込まないでいただきたい、心優しいダニどうしお互い傷をなめ合いながらオダヤカにスコヤカにどぉ~ぞクタバッテいってくださいそれではみなさん、サヨウナラァッッッ!」

 そこに、この訴訟を支えてきたリーダー、有馬たね(左時枝サン)の死の報せがもたらされます。
 「七人の侍」 を模したようなこの老人たちは(もちろんサントラテーマ曲つき…笑)自分たちのプライドを今一度揺り起こし、和解案の受け入れを思い切り蹴り倒すのです。

 「リーガル・ハイ」 のいちばんのクライマックス、と思える、第9回の、堺雅人サンのこの大演説。

 この、古美門の論理、実は自分の思い通りに事を運ぼうとした策略、という、ドラマ的に大きなギミックが隠されてはいたのですが、ここでの古美門のアジテーションの内容は、テレビ的にもメディア的にも、たいへん危険な内容を伴っています。

 地元の住民の健康に 「なんとな~く」 被害を及ぼしていると思われる、大手企業の化学工場。

 これが放射能を垂れ流している東京電力のことを暗に示していることは、想像に難くない。

 この企業が国から多大な恩恵を受け、メディアに対する強力なスポンサーであるがゆえに、正面切ってメディアも問題に出来ない(まあ、いったんそのタガが外れてしまうと、これ見よがしに批判に転じるのも、メディアの唾棄すべき性癖であります)。
 東京電力そのものではないですか。

 そして、「南モンブラン市」 という、「ヤングでナウでファッショナブル」 な地名のこの土地。
 「南アルプス市」 を、実にあからさまに牽制している。

 「南アルプス市」 のかたがたが、どのような思いを持ってこの場面をご覧になったのかを想像すると、少し論調を躊躇せざるを得ない気もいたしますが、個人的な意見としては、やはり土地の名前を安易に変えてしまう行政の傾向には、私は激しい憤りを感じる、と申し上げるほかはないです。

 その土地の名前には、その土地の神が宿っている。

 私にはそんな気がしてならない。

 そんな土地の名前を、読めないからと言ってひらがなにしたりする。
 これもかなり愚かだ。
 古美門も話していた通り、「読めないでしょう」 と言って、行政から国民はコケにされてるんですよ、要するに。
 地名が読めないことで煩雑になる事務を簡略化したいのがそもそもの目的なんでしょうが、間違われればそのつどご説明申し上げるのが役所の誇りある業務のひとつでしょうが。

 しかしそれ以上に、どうして外国の土地だか地方だかの名前を、わが日本の土地につけなければならないのか。

 私には分かりません。

 駅の名前を 「とうきょうスカイツリー駅」 にするのとは、レベルが違うんだ(これも情緒の欠如した話ですけどね)。

 こんな、実に危険なことを、このドラマは古美門研介の立て板に水のギャグタッチで、さらりとかわそうとしている。

 この物語の最終回、このドラマに於いていちばんの大問題となるべき、古美門と三木弁護士(生瀬勝久サン)との確執の原因が、実はハムスターだった、という壮大なオチ、日本海溝のような深~~いオチを持ってきたのも、話を深刻化させないための、作り手の狡猾な 「保険」 のような気さえしてくるのです。

 それにしてもこの古美門の演説には、それ以上に、とても強力な毒が潜んでいます。

 それは、「絆」 というもののウサン臭さを、白日のもとに暴き出している、という毒です。

 東日本大震災からこっち、去年を象徴するひと文字は、「絆」 だったとされる。

 でも現実を見てみれば、被災地は1年たってもまるで変わっていないし、政治は被災地のことなどそっちのけで増税に汲々としているし。 要するにこの国のいちばんエライ男は役人の言うことを真に受けて、増税しなけりゃ日本は破綻だとか考えているんでしょう。 外国に対して日本はやってます、と見せたいっつーのもある。
 国民がいくらデモを起こしても、「なんか音がするよね」 程度にしか考えていない馬耳東風男。

 また、それに楯突いて党を離反した別の男も、放射能が怖くて現地入りさえしなかった癖して 「国民の生活がどーてらこーてら」「被災地のみなさんがどーたらこーたら」 と言っても、鼻白むだけなんですよ。
 国民の9割が、この男はもう信用ならない、と考えている。
 なんか、裸の王様ですよね。
 そぞろ哀れを催します。

 政治家というのが、「特権ネコババひとり占め」 の象徴でしかないんですよ、いまの我が国は。
 だからこれから政治家になろうとしている連中も、「実は特権が欲しいだけなんだろ」、としか考えられない。
 表面では日本のことを、我が国のことを考えているようなふりしてりゃ、議員年金で後生楽。
 会議中も平気で寝てられるし、スマホもやり放題。
 議題にのぼっているのは、どーでもいいことばかり。
 被災地をどうするか、真剣な議論がどこでされているのか?

 そしてそれを陰で操っている役人たち。
 こいつらは、足りなきゃ税金でまかなえばいいとばかり考えている無能どもだ。
 会社の経営が立ち行かなくなれば、普通どこの企業でも経費を絞りに絞ることから始める。
 奴らにはその神経自体が欠如している。
 気楽なもんだ!

 また他方では、被災地の瓦礫を受け入れようとすれば、反対住民の突き上げが起こる。

 自分たちさえ良けりゃそれでいいってか。

 この国の政治は、参加したしないに関わらず、この国の国民が決めてきたことだ。
 多数決で決めましょう、というルールのもとで、我々全員が同意してきたことだ。
 それが嫌なら、選挙自体も否定しなければならない。

 そりゃ原子力に対して今まで我々は騙され続けてきた、というのはありますよ。

 でも、それが巨大な自然災害でそれまでの常識が覆されてしまった、ということなんだから、日本国民はすべて、この事態を甘んじて受けなければならないのだ、と私は考えます。

 そんな被災地復興について、突っ込んだ議論がなされていいはずなのに、国会では増税の話ばかり。
 「社会保障と税の一体改革」、なんて、とてもずれてる名前ですよね。
 もし増税するなら、「被災地復興のため」、とか標榜してくれれば、まだ納得もいきます。
 絆なんてものは、こんな 「心ない」 連中にしてみれば、実に都合のいい言葉なんだと思う。

 なにが絆だ!

 古美門の演説を聞いていると、そんな作り手の、激しいまでの憤りが伝わってくる。

 そして、そんな 「絆」 という甘い言葉にそそのかされて、「角を立たせない、丸く収める」 という 「良識」 でもって、自分たちの尊厳をどぶに捨てている汝日本国民ども。
 美しい日本の言葉で生み出されたその土地の名前を勝手に駆逐し、この国を下らない国にすることに血道をあげている。

 先祖に対して申し訳ないと思わないのか?
 これからこの国で生きていく子供たちに済まないと思わないのか?

 古美門のこの主張は、日本国民全員を悪しざまに侮辱している言葉なのです。

 これが危険でなくて、何が危険だというのか。

 そしてそのうえで、古美門は、日本人ひとりひとりに対して問いかける。

 今まで、こんなに頑張ってきたんでしょう?、と。
 地べたに這いつくばって、嫌なこと、死にたくなるようなことにも耐えしのび、今までこれだけ頑張ってきたんでしょう?、と。

 古美門は、その誇りを守るためには、それに見合う対価、つまりお金で償ってもらう以外にはない、とここで断言している。

 私は、このドラマのいちばんのキモは、ここにある、と考えています。

 つまり、古美門は、自分の誇りを守るために、 「お金」 以上のファクターを、発見できていないのです。

 そして彼は、「お金」 以上のファクターを、同時に渇仰している。
 「私を雇うには金が要りますよ~」 と大上段に依頼者に顕示しながら、「お金以上に、自分の誇りを守る方法を、確たる正義を、誰か私に教えてくれ!」 と、心の奥の奥のほうで、無意識のうちに叫んでいる。

 このドラマのスタンスは、実にこの部分に古美門がとどまることで、安易な答えを提示しない面白さをつなぎ止めている。
 そう私には思えるのです。

 だからこそ、ガッキー(新垣結衣チャン)が結局古美門のもとを去っても、彼の自信は1ミリたりともびくともしない。
 「私を納得させるだけの理屈を身につけて私に挑んで来い」、いや、「私に答えをどうか教えてほしい」、という気持ちから、彼の傲慢さは出発している。

 古美門研介が今までの彼の人生で学んできた最大の不幸は、「正義というものの危うさを身をもって知ってしまった」 というものなのではないか、と私は思います。

 もともと、「正義」 という概念は、その人の立場とか国とか陣営とか、周囲の環境とかによってかなり左右されるべき性格を有しています。

 こちらの側に立てば、こちらが正義になり、向こうが悪になる。

 弁護士という職業の持つかなり重要なジレンマが、ここから発生しています。
 このドラマは、初回から一貫して、そのジレンマに果敢に挑み続けていた。

 野球選手を口汚くののしる野次を飛ばし続けたおばさんが、球場入りを断られた案件で、おばさんの弁護に立った古美門は、あることないこと全部美談にすり替えて、勝利をもぎ取った。
 日照権の問題で、今回冒頭から問題にしている公害訴訟の立場とは逆に、企業側の弁護に立った古美門は、やはり住民側の 「ズワイガニ食べツアー」 気分を利用して、住民の切り崩しにかかった。

 これらの根底に流れていたのは、すべて 「お金」 です。

 自らの誇りをどうやって見い出したらいいのかが分からない人たちのために、古美門は札束をちらつかせる。
 正義の質も、それでいかようにも変質してしまうのです。

 つまり、古美門は 「正義」 に対して、根本的に懐疑しか抱いていない。

 そしてそれが、不幸の根源であることを、古美門はじゅうぶんすぎるほど、自覚している。

 「お互いの依存関係を断ち切らなければ治療も更生も図れません。
 深くて強い絆だから困難なんです!
 成功は欲望を呼び、欲望は破滅を呼ぶ。
 自らの存在が母を不幸にすることをメイさんは知っています!」

 これは第8回に売れっ子子役・安永メイ(吉田里琴チャン)が自分の母親(小沢真珠サン)に親権の放棄を訴えた家裁での裁判で、古美門が検事(元、だったかな?)の自分の父親(中村敦夫サン)に言い放った言葉です。

 ここで古美門が発した 「依存関係」 という言葉は、「裁判」「弁護」 というカテゴリーにも当てはまる部分がある。

 裁判を起こそう、という人たちは、要するに金がある。

 金がなきゃ裁判費用なんか、払えないですからね。

 そして弁護士はその裁判に加担し(人聞き悪い書きかただなあ…笑)、裁判に勝てば、その賠償額の何パーセントかは報酬としていただける。

 でも、これって場合によっては、まったく訴えそのものがお門違いな場合も、まま出てくるんですよ。

 たとえば 「国が節電節電といったから節電をして、精神的な苦痛を受けた。 国に損害賠償を起こす」 という裁判があったとしましょう。

 でもそれって、訴えてる人だけじゃなくて、日本国民全体が不利益を被っているわけじゃないですか。

 なんで訴えた人たちだけが損害賠償をもらう権利があるんですか?

 まあ話はヘンな方向に行ってますけど(笑)、要するに訴える人というのは、基本的に金がある。
 だからこそ、その金を無駄にしないように、死に物狂いで裁判に勝ちに行け、というポリシーですよね、古美門研介って。
 そのためには自分のプライドさえも道具にしてしまう。

 古美門が南モンブラン市の老人たちひとりひとりに 「あなたは郵便局を最後まで守りぬいた、あなたはクリスタルキングを村に呼んだ(笑)、あなたはトップセールスレディだった」 と、原告の老人たちのプライドに訴えかけたのも、そのことによるのです。 自分の人生を卑下してどうする、死に物狂いで勝たなくてどうする、と。

 古美門は、だから正義なんか、いかようにも操作できる、とタカをくくっている。
 と同時に、そのロジックを破壊してくれる者を探し求めている。

 ガッキー演じる黛真知子は、最終回、自分の考える正義を以下のように展開します。

 「正義とは何でしょうか?

 法とは何でしょうか?

 この世界に正義などない、勝ったものが正義だという人がいます。
 私も、そうかもしれないと思った時期もありました。
 でも今は、確信を持って言えます。

 われわれ人間には、正義を愛し、求める心がある、と。

 裁判は、勝ち負けのゲームでも、金儲けのギャンブルでもありません。
 また、傷つけあう場でもないはずです。
 きっとどこかにある正義と真実を見つけ、みんなが幸せになれる道を探す場なのではないでしょうか。

 正しい人が救われ、幸せになれる社会。

 そんなのは夢物語、現実は非情だ。
 確かにそうかもしれません。

 だけど、人は夢を見るから生きられるんです。
 理想を叶えようとするから、私たちはこのあきらめに満ちた現実を生きていけるんです。

 私は、理想が現実を覆せると信じています!

 ――必ず…」

 しかしこのガッキーのどまんなかの正論も、「神ではない我々が、法を持って冷静に判断することこそが、法治国家の存在意義なのだ」 という古美門の理屈に、太刀打ちできない。
 ガッキーは 「言い合い」 には勝てたかもしれない。 「情」 では勝てたかもしれない。
 でも、 「法」 に負けた。
 法治国家のあるべき姿に負けた。

 ガッキーの展開した最終弁論は、正義の持つ 「危うさ」 というものを突破しきれていません。

 ちょっと脱線します。

 電車の中でケンカが始まり、殴り合いとなり、殺人にまで発展してしまう。
 それを見て見ぬふりをしていた乗客たち。 数年前にそんな事件がありました。

 傍観者たちの心の中には、正義というものがいかに危ういものか、その悔しさが渦巻いていたのではないかと感じます。

 正義を行使しようとすれば、それに相応した、覚悟というものが、必要なのだと思うのです。

 そして自分の正義が、相手にとっても正義であるのかどうか。
 相手を屈服させるだけの、精神高揚の道具になってはいないか。

 古美門は、そして私たちは、その答えの向こう側を、常に待ち望み続けているのだ、と感じるのです。

(一部、怒りにまかせて不適切な表現があったことをお詫びします)

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BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

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     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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