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2012年8月13日 (月)

「平清盛」 第30回 「平家納経」(7月29日放送)を見て

おことわり 初出時より若干手直しいたしました。

 讃岐に流罪になった崇徳(井浦新サン)の怨念渦巻く物語となった、 「平家納経」 の回。
 崇徳帝の怨念か、レビュー途中でいきなり利用中のココログの記事作成サイトがフリーズ(ゲッ…)(勘弁してくれ、怖いぞ)。
 泣く泣く最初から書きなおしております(トホホ…)。

 この回の崇徳は、この国を呪う大魔王に変身して特殊メイクしまくり、まさに生きながらの地獄を具現化していたのですが、そんな迷信臭い、スピリチュアルな幻想的外観にあまり心を奪われていると、この回の最深部にある本質を見誤りやすい、そう感じました。

 しかし清盛(松山ケンイチクン)の言動に重みを加味させる平家の権力基盤に関して、このドラマはやはり重要視していないために、平家が一族の財力を総動員し、国の技術の粋を集めた、と言っていい経典を、いきなりいとも簡単に作り上げてしまった、という感が、どうしてもぬぐえなくて。

 で…。

 ダメになる前のレビューには、前書きでいろいろ書いていたのですがすべてうっちゃりまして(ナミダ)、さっそく本題に入ります。
 まあ結構ぐだぐだと書いていたのでこのほうがスッキリしていいです(ヤケクソ)(面白いギャグとかも書いてたんだけどなぁ…笑)。

 讃岐。

 安らかな気持ちで歌を吟じている崇徳帝。
 村人たちにも慕われている様子です。

 「私はここへ流されてよかった…。 何を望んで私は、あのような無益な戦を起こしてしまったのか…。 愚かであった…まことに…」。

 吟じる歌の内容にも安穏たる心象風景が滲み出ている(今回大意の字幕が付いていましたが、結構目を追うのにあわただしさを強要された気がします。 意味をその場にいた村人が訊く、という形のほうが却って分かりやすい)。
 また敵対した後白河(松田翔太クン)にも写経を送るなど、自分はもう完全に悟りの境地にいる、という風情です。

 しかし。

 その写経は後白河から 「気味悪い」 と無情にも送り返され(しかも滋子との間に生まれた赤ん坊のオイタつき)、ほぼ同時に自分の息子の死の報せまで届いてしまうと、崇徳はそんな仏のような境涯を一変させるのです。

 「なにゆえじゃ…なにゆえじゃっ…なにゆえじゃああ~~~っ!!」

 村人たちもその様子に恐れおののきます。
 ガリガリと床に爪を立てる音。

 「ああっ…あああ…っ」

 うつ伏した崇徳が顔を上げると、目は充血して真っ赤です。 確か東南アジアの民族劇で、目を充血させるこのような粉があるとか、「世界ふしぎ発見!」 で見た覚えがあるのですが、それかな?

 「我…深き罪に行なわるるに愁鬱浅からず…日本国の大魔王となりて…王を民に引き下ろし…民を王に成し上げん…!」

 …悪魔の言うことは、たいてい難しいものです(笑)。

 ここまで来たらさっきフリーズした(コワ~)。

 この場面。

 崇徳はまるで仮面ライダーフォーゼでゾディアーツ(怪物変身)スイッチを押してしまった天ノ川学園の生徒みたいなんですが(なんじゃソレ…笑)。

 冗談はともかく、崇徳がいかにも、これっぱかしの理由でいとも簡単に大魔王に変身してしまったようにも思えるのですが、実はそうではない。

 崇徳の心の奥底には、生まれたときから何もかもうまくいかなかった、という恨みが、澱(おり)のように分厚く降り積もっていた、と思われます。

 讃岐で安穏とした日々を送っているときでさえ、実はその恨みを抑えつけながら、精神の均衡を保っていたにすぎない。

 それがある種のきっかけで、抑えに抑えていたものが逆流し、それまで清流を保っていた流れが澱を掻き乱し濁流となって、すべての理性を押し流していく。 そんなからくりだ、と考えられるのです。

 もともと崇徳には、歌を詠む類まれなる才能というものが備わっていて、さまざまな情緒に対するアンテナが発達している。
 だからこそその半面に潜む 「恨みの系図」 というものが、「情緒的側面」 とバチバチと火花を散らせてしまう。 異様な精神世界に突入してしまうのは、そんな一途な気持ちが悪く作用してしまうからだとも考えられます。

 自分のなかにある 「願い」 が叶わぬ、しかも裏切られた、と自分が判断してしまったとき、他人に対する思いは、すなわち強大なる恨みとなって、すべてをマイナスの方向に考えてしまう魔の働きに転化され、怨念に心が蹂躙されてしまう。

 ありていに言えば 「逆恨み」 ということですが。

 それはやはり、自分の心が純粋であればあるほど陥りやすい、罠なんですよ。

 だから別にゾディアーツスイッチなんぞ使わなくとも(笑)、人というのはそういう素地がある場合、簡単に悪しく豹変してしまうケースがある、ということだ、と思うのです。

 今回の崇徳の場合、かように極端な形で演出されていましたけれど、これは誰にでも起こりうる、みずからの良心への裏切りの場面なのです。

 人の人生というのは、自分のなかに潜んでいるマイナスの心の働き(魔)との間断なき戦いだ、と私は考えています。

 それを顕著に表わしたのが、この回の大嵐の場面だった、と感じるのです。

 その前段階的な出来事として、V6の森田クン演じる時忠の悪だくみに基盛(渡部豪太クン)と教盛(鈴之助サン)が乗ってしまう、という話をこの回、作り手は配している。

 要するに滋子(成海璃子チャン)が産んだ赤ん坊を次の帝にしようと森田クンは企んだのですが、これは権力が増大して清盛の目の届かない一族の結束の緩みというものが露呈した、という出来事であっただけでなく、環境が恵まれてくると生じやすい、ひとの心の隙を描写した出来事であったとも言える。

 つまり森田クンの心のなかにも、それにそそのかされた基盛、教盛の心のなかにも、「もっともっと偉くなりたい、もっともっとちやほやされたい」 というマイナスの心の動き(魔)が巣食った、ということだと思うのです。

 この3人の企みはすぐさま発覚し、官職はく奪という厳正な処分が清盛から下されるのですが、森田クンはふてくされ、基盛は反省して仕事に励む。
 自分のなかにあるマイナスの気持ちとどう戦うか。
 このふたりのありかたは、教訓に満ちています。

 しかし基盛は、仕事に励んだ結果、不慮の事故で亡くなってしまう。
 これも言ってみれば、「ふてくされた森田クンはのうのうと生き延びて、どうして素直な基盛は頑張った末に死んじゃうの?」 と言いたくなるような話であります。 「マイナスな気持ちと闘ったからうまくいくとは限らないでしょ」、と言いたくなる話であります。

 でもそうじゃない。

 人間、死ぬまでいかに頑張って生きたか、が本当の問題である、と私は考えるのです。
 どちらに価値があるか、という問題なんだ、と思うのです。

 清盛はこの基盛の死をきっかけとして、いわゆる 「平家納経」 を決意します。
 ドラマではここで、西行(藤木直人サン)に 「崇徳の怨念を見た」 という話などをさせながら、「基盛が死んだのもそのせいか」 という、なんとなくスピリチュアルな不確定要素の色が濃くなっていくのですが、西行は清盛に、次のような重要な言葉を諭していくのです。

 「保元の戦より6年、お手前(清盛)は公卿、そして中納言にまで登られた。
 そして、道半ばにして散っていったかたがたの、志も背負うて生きていこうとしておられる。
 されどそれは、敗者となったかたがたの、無念、怨念も、共に背負うていく、ということにござりましょうな」。

 結局、「今までの自分の人生のなかで死んでいったすべての人々の霊を慰める」、という動機が、清盛の納経に対する決意に込められていくことになる。

 で、この平家納経の作成過程を見ていて、「簡単だな~」 と冒頭に書いたようには感じたのですが(笑)。

 厳島神社に奉納するために、この経典を作った清盛一行を乗せた船。

 「仏教の経典をどうして神社に?」 みたいに思われがちですが、昔はそこんとこ、結構線引きがあいまいでしたからね。

 それはともかく、その船が大嵐に遭います。

 崇徳、この頃にはもはや爪も髪の毛も伸び放題、形相はすっかり恨みに凝り固まり、般若と見まごうほどになっています。
 居宅は血まみれの経本が転がり、荒れ放題で村人も寄り付かない。 「悪魔の棲む家」 と化してます、完全に。

 いっぽう荒れ狂う海のなか、「これは崇徳帝の怨念、経典を海に捨てれば嵐は収まります!」 という周囲の声に耳を貸さず、清盛は叫びます。

 「ならぬ、ならぬ!!

 これは! 平家だけのものではない! 王家、摂関家、藤原氏、源氏! もろもろの人の魂が込められておるっ! 無論! 讃岐の院(崇徳)の御魂(みたま)もだっ!

 これを捨てるはっ! みなの魂を捨てるに同じぞっ!」

 そして頼もしげに、こう叫ぶのです。

 「この船に! 誰が乗っておると思う! 兎丸ーっ! 豊籐太ーっ! 荒丹波ーっ! 麒麟太夫ーっ!」

 そして。

 「鱸丸ーっ!」

 盛国(上川隆也サン)ですな。

 「お前たちが頼りぞ…行けええーーーーっ!!」

 鱸丸復活(笑)。
 かようにもっと活躍してほしいものだが…(笑)。

 私の嫌いな兎丸も(笑)こーゆー時には頼りになります。

 要するに、ここの体裁としては、どんな嵐でも、仲間がいれば大丈夫さ! 青春貴族だオレたちは~っ! とゆーわけなんですけど…(古いなオレも…「青春貴族」 は、「ふれあい」 のB面です…笑)。

 嵐のなか、経を唱え続ける西行(なぜ乗り合わせている?…笑)、そして清盛。
 呪詛を続ける半狂乱の崇徳帝。

 つまり、これは、人の人生そのものなんですよ、先ほどの私の考察から捉えると。

 人生というのは、プラスの心とマイナスの心の、終わりなき戦い、なんですよ。

 やがて朝が明け、空は晴れ、崇徳はその光のなか、水の滴る音を聞き、子供たちの遊ぶ楽しげな声を聞く。 鳥たちの声。

 世界は光に満ち溢れている。

 ルイ・アームストロングの 「この素晴らしき世界」 でも流れてきそうな情景に、崇徳帝のなかにあった情緒的側面が、ダークサイドを開放し(ジェダイかよ)、崇徳帝は静かに、息を引き取るのです。

 「遊びをせんとや生まれけむ」 の歌が、どこからか流れています。

 これも 「遊び」 であるのか。

 つまり善と悪との間断なき戦いですら、遊びと言えるのか。

 ここで頼朝のナレーションが入ります。

 「何ひとつ、何ひとつ思うままにならぬ一生を、崇徳院は、生き切った――」。

 つまり、どんなに苦しみに満ちた人生であれ、「生き切る」 ということが、何にもまして価値のあることなのだ、というこの回の結論です。

 で。

 納経の最中、清盛はふと思い立って、ニヤニヤ笑い出します。

 先に森田クンが出雲へ流罪と決まったとき、それを送る途中に立ち寄った福原(今の神戸)に、本格的な貿易の拠点を作ろうと思い至ったのです。
 その動機も兎丸に 「ゴチャゴチャゆーんなら博多を都の隣に持って来い!」 と言われたことがそもそものきっかけで(笑)。

 精神的な世界の描写は他の追随を許さないのに、なーんか、イージーなんだよな~、そこらへん(笑)。

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コメント

リウさま
こんばんは。

崇徳院の鬼人化(?)については、原型にしたイメージがあるようで、それは、江戸時代末期の浮世絵師、歌川国芳が描いた崇徳院の絵、ということです。これは、井浦新サンがインタビューで語っておられました。元々、浮世絵がお好きなようで、今回の役が決まる前、既にこの絵をご覧になって、感銘を受けられていたようですね。

実は、私も国芳の展覧会でこの絵を観たことがあります。国芳という人は、現代の日本の漫画にも通じる、ダイナミックな表現を得意とした絵師ですので、怨霊と化し、波浪の上を飛んでいく崇徳院の絵もかなり迫力がありました。まるでデビルマンかデスラーかというような青い顔(世代限定比喩です)であることを除けば、その形相は、ドラマの中の崇徳院鬼人体そのものです。このあたりも、和歌、源氏物語、長恨歌だけでは飽き足らず、浮世絵まで持ってきたかぁ~、と感心してしまいました。まあ、アラタさんのアイディアもかなり入っているのかもしれませんが。

でも、私はこの絵を観て、確かに恐ろしげではあるものの、何故か悲痛さはあまり感じませんでした。青鬼のような顔も何か笑っているように見えますし、むしろどこか楽しげに遊んでいるようにも見えてしまう、私にとっては不思議な絵でした。

でも、人には、恨んで恨んで恨み抜いて、その黒き感情に身を支配されることによって得られるある種の快楽、というのもあるのかもしれません。世間や他者を恨み続けることで噴き出るドーパミンを頼りに、前に進んでいくということは実際、少なからずあることですし。

荒波の中を進む清盛一行は、祟られているというよりは、むしろ「○○海賊団」という趣で、マツケンの腕が伸びたり、兎丸が口に刀咥えたりしそうな勢いでした(笑)。その対比で、崇徳院は荒れ果てた屋敷の中、恨みに文字通り身をよじり、毒を吐き続けていた訳ですが、最後の「あそびをせんとや~」の旋律で、それもまた、心と身体を闇に委ねた末の悲しい遊び、ということを表現したかったのであれば、このドラマ、相当に深いです。

ていうか、単に私が、何処が底やねん!、てわからんくらい深読みしているだけなのかもしれませんが。

投稿: Zai-Chen | 2012年8月13日 (月) 23時33分

Zai-Chen様
コメント下さり、ありがとうございます。

今自分の文章を読み返してみたのですが、どうも崇徳帝の怨念にやられたか(笑)、この本分の文章、少々手直しが必要であります。 のちほど推敲いたします。 中途半端なものをお見せして、はなはだ申し訳ありません。

他者を恨み続けることで噴き出るドーパミンは、あまり感心しないですネ。

恨みのエネルギーというのは、結局相手の憎悪を惹起し、憎しみの連鎖しか生みませんから。
私は憎悪をエネルギーにすることには反対の立場です。

なんについて語っているかは賢明なZai-Chen様ならお分かりになるかと存じます。

ただいっぽうで、ピカレスクの快感、というものは確かに存在するかもしれません。

でもそれって、悪によって駆逐される、より大きな悪、というものにカタルシスを伴う性格が大きいような気がします。 「必殺仕事人」 とか、「ゴルゴ13」 みたいな。 「デビルマン」 もその範疇に入りますよね(笑)。

崇徳の怨念、というのも、より大きな悪とはどっちなのか、という観点から見れば、もしかするとその範疇であるかもしれない。
誰が為政者でいることが真に日本のためになっているのか、武士の世になる、ということが果たして日本にとって本当にいいことなのか、という視点から見れば、それは怨念と呼ぶのは間違っているのかもしれない。

その後日本は武士階級が中心の世の中が明治時代まで続くわけで、少なくとも関ヶ原までは、人が人を殺す、さらには肉親同士で憎しみ合い殺し合う、ということが、当たり前のように行なわれてきたのですから。

それが果たしていい世の中なのかどうか。

うう、このドラマ、そんなにトータルな歴史を考えながらの物語なのかどうか…。

末恐ろしくなってきました(勝手に末恐ろしがっているのかもしれませんが…笑)。

投稿: リウ | 2012年8月14日 (火) 01時30分

 昨晩、迎え火も焚きました。今日は暑さを和らげる(西日本では半端なかったらしいですが)慈雨です。崇徳ちゃん、いつ来てもいいですよ。(笑)

 突然現れて、基盛の為に読経してくれた西行さん、まさか崇徳怨霊説の言いだしっぺ?だとは。「お前が讃岐に行って、お慰めして来い!」と思ったけど、3年後西行さんお出かけしてたらしいです。

 怨霊っと言っても、崇徳ちゃん、思うままにならない運命なので、優しすぎて、怨霊になりきれなかったのではないでしょうか?恐ろしく変化してる時も讃岐の庭の木に、にわとりが二羽、止まって見守ってましたし。むしろ、怨霊は彼のせいにすることで、自分の身の不幸を嘆こうとする人達や後ろ暗い人達が利用しようとしたものだと思います。自分が悪いくせに、流罪にされたのを崇徳ちゃんの怨霊のせいにしてる時忠のような輩が多いような!

 厳島へ行くまででの嵐も、むしろ切り抜けるのを楽しむ清盛配下、重盛や頼盛は祟りを怖れて、経典を海に投げようと提案するけど、清盛は兎丸や鱸丸の船を操舵する技術で切り抜けられると信じている、むしろ、パイレーツ、オブ、カリビアンな世界を楽しんでいる。(経典を投げるより、西行を海に投げた方が効き目あるかも!と秘かに思いました。)巨大蛸とか出てきてほしかったな。

 最後、讃岐の穏やかな朝に、光の中で思うままにならない一生を生ききった崇徳様。(西行の読経で救われたとは思えなかったです。崇徳ちゃんの基からの優しさがお迎えを呼んだのだと思います)

 崇徳ちゃんは死後、讃岐院と呼ばれ、崇徳院の院号で呼ばれるようになったのはしばらくたってから。怨霊説を怖れるようになってらしいです。でも、怨霊なのは崇徳ちゃんより、崇徳ちゃんから名前を奪っていた連中だと思います。ゴッシーとかね(笑)

 井浦さんが一生懸命、崇徳ちゃんに取り組んでくれたおかげで、崇徳様も安心して、お休みになることができるでしょう。高松ではずっと、今年の大河の主役は崇徳ちゃんみたいですよ。讃岐の人達がずっと大事にしている、崇徳様を、京の人達が怨霊扱いするのは、そう思う、人間の業だと思うのです。現人神を讃岐に流したんだから、京が多少祟られたって、しょうがないじゃん!罰が当たっただけです。(笑)讃岐は神様迎えて大事にして平安だったろうなと思います。

 福原遷都の思いつきは少々、簡単過ぎると私も思いましたが、思慮の浅いのは清盛くんの変わらぬところなので、まあいいかな。(笑)

 

投稿: ささ | 2012年8月14日 (火) 11時46分

ささ様
コメント下さり、ありがとうございます。

よーやっと、視聴が追い付きましてございます。

昨晩は 深キョンが出てきた 「清盛」 の特番も見ることができまして、ある程度予習しながらの視聴になったもので、「伊豆の流人」 はわりかしその後の布石を見つけやすかったです。

でもこのブログの眼目は、あまりそういう歴史の知識を駆使するようなものでは到底ございませんので、表現も必要最小限にとどめさせていただきました。

悪いことというのは、なかなか自分のせいにしたがらないものですよね。

だから風水とか占いとかが流行ったりするような気がいたします。

確かに悪い気、良い気、というものはあるのかもしれませんが。

どんなに正しい行ないをしていても、悪いことは、起こるときは起こるものです。

それをネガティヴにとらえるかポジティヴにとらえるかが、人生の分かれ道なんだ、と思うのです。

この回のお話は、そこのところを単なる納涼大会ではなく(笑)真摯に見据えた話だったように思うのです。

ただ、昔は今とは違って、少し自分を取り戻したときに、まわりには木々や草花がざわめく音がし、鳥や虫の声がやまず、雨だれの音や水の流れる音がしていた。
崇徳には子供たちの声も、聞こえた。

今は無機質な密閉された部屋に入ってクーラーをかけてしまうと、そんな心を癒すような物に囲まれていない気がします。

パソコンを開けばエロサイトのトラックバックが…(笑)。

なんか 「清盛」 のレビューを連発するようになって、またまた変なスパムサイトのトラックバックが大量に当ブログに押し掛けるようになりまして…。

「王家」 とかに過敏に反応してるバカどもが、依然としているのかな。

蛇足ですが、西行はどーして、いつもマフラーをしているのでしょうか?(笑)

投稿: リウ | 2012年8月14日 (火) 12時44分

リウさま
コメントありがとうございました。

恨みのドーパミン。それによって起こる憎悪の連鎖。確かに、悲劇しか生み出しません。愚かしいことです。しかし、ときとして、その愚かなことに囚われ、熱狂し、快感すら覚えてしまうのが、人間の厄介なところなのではないかな、というのが私の考えです。

で、なければ、アメリカ大統領選挙のとき、毎度毎度あれだけ執拗なネガティブキャンペーンが繰り返される訳がない。もっと言えば、67年前の今日、幕を閉じたあんな愚行を行えるわけがない、と思います。

でもまあ、そんな厄介なところも抱えつつ、異国の見知らぬ子供の窮状に、涙を流したり、ロンドンオリンピックのスタジアムで、何万という知らぬ同士が、小皿叩いてチャンチキ・・・あ、違った「All you Need is love タッタタララ~」と歌うのも、同じ人間なんです(youtubeに上がってます)。

私は、今の世の中の仕組み、決して悪いものとは思ってません。無論、悲惨なことは世界のあちこちで起きてますが、全体としては、異国の子供に涙したり、「愛こそすべて~」と大合唱できる方向に、進んでいると思います。あくまで、「全体」としてですが。時には、一気に後退することもありますが。人が憎悪に支配され、熱狂する快楽は、ゼロにはならないかもしれませんが、ちょっこしずつ、ちょっこしずつ、減らすよう努力するのが、「学習する動物」人間のいいところだと、思っておりますので。

そういうところは、私は何故か楽観的なのですよ(笑)

何か、ドラマの感想とは全然関係ない話になりましたが、まあ、今日の日付に免じて、お許し下さいませ。

投稿: Zai-Chen | 2012年8月15日 (水) 10時04分

Zai-Chen様
レス下さり、ありがとうございます。

憎悪とはまた違う種類のエネルギーとして、「怒り」 のエネルギーというものは私も肯定いたします。 「憎悪」 と 「怒り」 は、似て非なるものだと思いますので。

オリンピック柔道で唯一金メダルを獲ったあの女の子も、「相手を殺してやる」 くらいの勢いがあったからこそ最後まで勝てたのだと思う。 実際殺しちゃっちゃ大変ですが(笑)、「メダルを取んなきゃならない」「負けたら大変だ」「勝とう勝とう」くらいの気持ちでは、勝てるわけがないんですよ。 「そうしなきゃならない」「そうしなきゃダメだ」 というのは、やらされているのと一緒だからです。

エラソーなことを言ってテメーは出来んのかよ、って言われそうですけどね。

勝利に対してハングリーであるかどうか、だと思うのです。 そんなとき、何事にも相手を倒そう、というエネルギーに、怒りの作用はとてもよく効く。

あえてはっきり言いますが、韓国の場合日本に対して憎しみを最大限に募らせているから、日本に勝つことができる。

しかしそれは怒りのパワーとは似て非なる憎悪のパワーですから、相手に勝ってもさらにダメ押ししたくなる。 相手をさらに侮辱したくなる。 健闘を讃えあうことなど絶対に拒絶する。 スポーツマンシップとは程遠い世界です。

相手を殺すということは、憎悪のもっとも顕著な末路です。

この世界は、憎悪と怒りの区別を、つきかねている。

まずは、自分の心がどうであるかだ、と私は思います。 自分がされたら嫌なことを、相手にできるか。 それでも相手のためを思えば、やらなければならないのか。 相手に嫌なことをされたとき、自分はどうしたいのか。 どう行動しなければならないのか。

決めるのはすべて、自分だと思うのです。

投稿: リウ | 2012年8月16日 (木) 08時36分

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