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2012年8月

2012年8月28日 (火)

「平清盛」 第33回 「清盛、五十の宴」(8月26日放送)を見て

 清盛(松山ケンイチクン)がなかなかフィクサーに見えてこない…、これは当ブログでのコメントのやり取りのなかで私が漏らした感想ですが、清盛が50の齢を重ねた、とされる今回は、その傾向が最も際立った回になった気がします。

 と同時に、清盛をここまで若々しく描写することに作り手がこだわっている(?)ことには、何か別の、「開き直り」 ではない意図、つまり清盛を大物に見せるより優先されている何かがあるのではないか。
 そんなことを感じました。

 冒頭、自分の子たちや流罪放免になったV6の森田クン(清盛の義弟)など、清盛が太政大臣時代に官位を上げられるだけ上げた者たちを交えての会議のなかで、清盛は自らの意図をあらためて語ります。

 「朝廷にひとりでも多く一門の者を送り込めば、物事は動かしやすい。
 物事が我らの思いのままに動けば、さらに多くの者を朝廷に送り込める」。

 要するに 「数の論理」、派閥の論理なのですが、これは同時に、清盛ひとりだけでは決められるものも決められない、という、自らの 「弱さ」 を受け入れているがゆえの論理でもある。

 だけどドラマのなかでそこんところを突っ込んでいる描写というものは正直ない気がします。
 清盛という人物はあくまで、でっかい夢を持ち、少年のように無邪気で、明るさというもので一族を引っ張っている。 清盛の弱さ、という側面は、あまり見えてきません。

 ただここで清盛が示している平家一門のビジョンの根底には常に、「平家は一蓮托生」 という誓いが潜んでいる。 この清盛の発想の淵源が、叔父忠正を斬ったことにあることは、自明です。

 「一蓮托生」 というビジョンから浮き出てくるのは、「個人の長所をうまく用いれば悪い部分はカバーできる、平家はその集合体だ」 という理屈です。
 現にこの冒頭の時点で、V6の森田クンの口さがないところが、朝廷での参議の際に大いにモノを言っている、という利点が強調されています。

 そしてそれは清盛50歳を祝う宴の席で、さらに発展した論理を展開していくのですが、それはあとのお話。

 で、その冒頭の平家参議級会議が終わったあと、清盛は時子(深キョン)から50歳を祝う宴を開きたい、と提案を受け、「よきに計らえ」 と言ったはいいけど、「…で、誰の?」 と訊き返す始末(笑)。

 「誰が五十なのじゃと訊いておる」

 清盛のその言葉に、時子や盛国(上川隆也サン)は、少々蒼ざめたような表情をします。 「スワ、殿がボケた?」 みたいな感覚。
 これは今回ラストで清盛が倒れる、まず最初のフラグなのですが(笑)、「ヤだなあ、殿がですよ」「えー、オレ?、ウソ~」 みたいな展開になって笑い話になっちゃう。
 でも笑えなくなってしまうのは、次の展開。
 清盛 「まことか?」
 盛国 「…まこと」
 清盛 「…さようか。 もう50年も生きておったか。 あまりに目まぐるしくて、気がつかなんだわ、はっはっは」

 ホントに肌つやもおよろしくて…と、画面に向かって突っ込むどころか 「こんなに年相応に見えなくてい~の?」 と心配になってしまったワタシ(笑)。
 これって作り手が、清盛が貫録がついてこないことを、自嘲的にギャグにしている、という逆手手法かとも考えたのですが、ちょっとここで考え直して。

 この部分、清盛がそれだけ自分の夢に向かって夢中になっていた、という説明が番組HPではされてましたけどね。
 そもそも清盛をそんな青春貴族に仕立て上げよう、という意図以外にも、実は平家という新興勢力が、新しい世を作り上げよう、という気勢にのっとり、従来の旧態依然とした政治を刷新していこう、という若々しさを演出するためのものなのではないか、というようにも思えてきた。

 清盛は、古臭い因習を打破しようとする、若々しさの象徴なんですよ。
 だからいつまでたっても若い。
 ちょっとそんなことを、考えたわけです。

 いっぽう滋子(成海璃子チャン)は、神事の舞を披露しながら突然の大雨にも毅然と舞い通して、ますます変人好きの(笑)後白河(松田翔太クン)の気に入られていくのですが、そこに現れたのは、後白河のもうひとりの皇子、以仁(柿澤勇人サン)と養母の暲子(佐藤仁美サン)。

 また分かんないのが出てきたぞ(笑)。

 要するにまあ、先ごろ亡くなった二条天皇の腹違いの弟、ということになりますか。

 しかしですよ。

 あ~もう、なんじゃ今頃!(笑)

 コイツが出てくるなり、自分も父上(後白河)の息子のひとりだから、兄(二条)が逝去したあと自分が天皇にいちばん近い東宮であるべきなのに、滋子の子供がエコヒイキされちゃって、みたいな文句をグチグチ言い始めるんですよ。 あ~もう混乱する(笑)。 こっちは頭悪いんだからな!(爆…)。

 この以仁の動きに対抗して、滋子は義理の兄であるV6の森田クン(もう役名書くのうっとおしい)に頼んで以仁の邪魔立てをするよう画策します。
 ここで後白河の嫌いな清盛のご威光が、却って以仁の野望を阻んでいる、という転倒の構図はなかなか面白いものがあります。
 口の悪い森田クンも滋子にはタジタジ。
 滋子も策士になってきた、つーか、権力の座に座ると罹ってしまう病気の一種か。

 厳島神社では宮司(温水洋一サン)に壮大な神社増築の構想を語りながら、私の嫌いな兎丸の子供子兎丸(ネーミングスゲー安直)と対面する清盛。

 清盛は子兎丸をあやしながら 「この子が大きくなるころには、この国も変わっておろう。 今とは違う景色が見られよう。 のう?」 とサワヤカーに青春貴族ぶりを全開にするのですが、子兎丸はまるで平家のその後を予見するかのように、泣き続けます。

 ここらへんも芸が細かい。

 で、芸も細かいついでに先の平治の乱で平氏に寝返った源氏の宇梶サンが、息子を伴って清盛に謁見。 宇梶の息子は(もう名前はい~や)そこが平家の屋敷であることも忘れて、「どうして源氏のクセに平家にペコペコせにゃならんのだ?」 とひとしきり親父に文句を言うのです。 歴史が分かる人は見ていて楽しいでしょうけど、私みたいなノータリンには 「もう新しいひと出ないで、お願い…」 つーか(ハハ…)。

 しかし我が願いもむなしく(笑)、清盛の50を祝う宴には、さらに清盛の弟だという忠度(ムロツヨシサン)が初登場。
 しかしダーレもこいつが誰なのか分からない(笑)。 これも 「平家が多過ぎてわけが分からない」 というクレームを逆手に取った自虐ネタか。

 この忠度、顔の下半分は髭ボーボーというかなりキョーレツなキャラで、熊が転生したのかと思ったんですが(笑)このクマがね…。

 で、宴にはAAAの人を除く平家のほぼフルメンバーが参加。 AAAの人は大宰府のエライ人になって出張中とのこと。
 しかしこの平家の宴、3世代が入り乱れてしゃべりまくる。
 えーと、これは清盛の弟で、これは清盛の子供で、でも時子の子供じゃなくて、これはえーと、あ~っ!もうワケ分からんっっ!(ハハ…)。

 しかもそこに前後して、常盤(武井咲チャン)の息子牛若(のちの義経)まで乱入(プロレスかよ)、コイツまで清盛を父上と慕っているのです(コイツって…)。
 しかしですよ。
 常盤はいつの間にか一条長成の妻になっている、というではないですか。
 なんだソレ。
 手籠めにしてたでしょ、清盛(下品でスミマセン)。
 ちゃんとそこらへん描写したほうがいいんじゃないでしょうかっ?(どうもコーフンしてきた…笑)。
 藤原摂関家なんかどーでもいいっつーの(暴論だ、暴論…)。

 それは置いておきまして、ここでいきなり姿を現した常盤と牛若に対する、時子の反応が、また少々凄みを感じさせながらも寛容なもので。 深キョン、演技がうまくなったなぁ(しみじみ…)。 優しそうな顔して、目が笑ってない、目が(笑)。

 ただ 「義経」 を見ていた私にしてみれば、この牛若を見たときの清盛の反応、というものは少々物足りなくて。 まあ 「義経」 では義経が主役でしたから渡哲也サン(清盛役でした)も義経を持ち上げたりしたんでしょうけど。 「義経」 では渡清盛があまりに義経を可愛がるもんだから、清盛の子供たちのあいだとは微妙に軋轢が生じておりましたっけ。

 今回は、牛若が義朝(玉木宏サン)の子供だ、ということで殿も格別な感情がおありだろう、と時子に述懐させるのみでしたが、頼朝(岡田将生クン)への感情と、どのように違いがあるのか、というところまで突っ込んで描写してほしかったような気がいたします。

 盛り上がる清盛50の宴。 そこにさらに乱入してきたのは(だから…)、藤原摂関家のイジワルふたり、基房(細川茂樹サン)と兼美(相島一之サン)。
 このふたり、この日が平家の一大イベント当日であることを知ってか知らずか、いずれにせよ無礼講の場を一気にシラケさせる話を持ってきます。 厳島神社の修復は許さん、という話です。

 清盛はその話を制して、このふたりも今日は来ちゃったんだから一緒に楽しみましょう、みたいな感じで宴に誘います。 イジワルコンビは手ぶらで来ちゃったから、と言って自分たちの雅な舞を献上つかまつるのですが、これって自分たちの雅な教養のあてつけ。
 それに対して清盛も自分の息子らの舞で対抗します。

 宴は平家と公家の意地の張り合い、といった様相を呈していくのですが、じゃ歌詠みで勝負、となったとき、一朝一夕では身につくことのないこのラウンドに、清盛は慌てることなく、初めて会ったばかりのクマチャン、じゃなかった、忠度を京屈指の歌詠み兼美の相手として指名するのです。

 まあ、展開的には、ここでクマチャンは兼美をあっと言わせるのだろうな、とは思っていたのですが、案の定そうなるなか、この宴の模様を見ていて私が感じたのが、今回冒頭に書いたことです。

 宴では、教盛(鈴之助サン)は武に優れ、経盛(駿河太郎サン)は文に優れ、みたいなことをやりながら、それでは舞ではこのふたり、歌詠みではクマチャン、というように、互いの長所が発揮できる場で平家の人間たちは、自分を輝かすことができる、という考えを見る側に強烈に印象づけた。

 ひとりひとりは不完全な存在。

 でも適材適所を効率良く配置することによって、組織は力を発揮できるようになる。

 ただ、そこで要となるのが、やはり司令塔の存在です。

 平家という組織の司令塔は、紛れもなく清盛です。

 この扇の要がはずれたとき、平家という組織は瓦解していく。

 ことこのドラマを見る限り、その司令塔としての存在が、若々しくてフレキシブルなヤツだ、ということが、実は平家繁栄の原動力となっていたのではないか、と作り手は訴えたいのではないか。

 宴のあと、忠度を歌詠みの最終兵器に起用した理由を身内から訊かれた清盛は、「なんかそんな気がしたから~」 と、見る側をすごくじらすような答えしかしません。

 でも清盛は、「お前ダレ?」 とかとぼけといて、実は忠度の個人的力量を予め知っていたのではないか。
 でなければ、こんな一大イベントの席で、清盛自らが誕生日に(その日にやったかどうかは知りませんけど)自分の顔にミソつけるようなことはせんだろう、と。

 そんな頼もしい清盛は、その宴の席でイジワルコンビに勝ったことをことのほか喜び、酔った千鳥足で舞を舞いながら、扇子で空をあおいだとき、なんの拍子か、その場がぱあっと明るくなります。

 福原の港を造る土木工事の際の逸話だったか、清盛が扇をあおぐと沈みかけていた太陽がふたたびのぼった、というものがありました。 それをここでもってきたわけですね(やっと自分の知識がほんの少し役に立ったぞ)。

 つまり平家の権勢が沈む太陽にも待ったをかけた、つーことですが、その逸話は遠く伊豆の地にも宇梶サンによってもたらされます。
 でも、頼朝は自分の子供が峰サンに殺されたショックから、まだ立ち直れず、目の下にクマを作ってぼけーとしたまま。

 いっぽう清盛は、ぶっ倒れます(説明簡潔すぎ…)。

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2012年8月22日 (水)

「平清盛」 第32回 「百日の太政大臣」(8月19日放送)を見て

 このところ 「平清盛」 専用となっている当ブログ。
 ただ、やーとのことで視聴が追いついたはいいものの、このところ再び、あまたいる登場人物たちの関係がつかみにくい展開になっている気がします。

 特に混乱するのは、長~い顔の藤原忠通(堀部圭亮サン)が死んで藤原摂関家の筆頭的な立場になった忠通の息子たち、基実(村杉蝉之介サン)・基房(細川茂樹サン)・兼実(相島一之サン)の三兄弟。 番組HPで確認するまで、この三人が兄弟であることも分からなかった。

 要するに、長らく清盛(松山ケンイチクン)に敵対していた堀部圭亮サン、彼が最後には清盛の力を認め、息子の基実と清盛の娘盛子を結び付け、平家と親戚関係にしてから亡くなる。
 この基実と弟たちの、清盛に対する感情が真っ二つに分かれているわけです。
 それを 「基実が」「基房が」 と似たような名前で展開する話だから、かなり分かりにくい。

 しかも今回は、別の藤原家である(長年藤原摂関家に仕えた、と番組HPには書いてある)藤原邦綱なる人物が、清盛に出世促進法を伝授する重要な役割として出てくる。

 この邦綱を演じるのは、乙前(松田聖子チャン)以上に 「オマエ何歳だよ?」(ベテランの役者さんに大変失礼いたします)と言いたくなるような岡本信人サン。

 ウィキで調べたら64歳だった。
 ヒエ~、若い。
 ワタシ的には 「ありがとう」 とか 「肝っ玉かあさん」 とか、40年以上前から見覚えのあるバイプレイヤーのおひとりで、しかも印象的に昔からすごくオジサン顔だった気がする(逆算すればあの頃は20歳前後)。 
 それはそうと、そんな個人的に少々気になる役者さんがまた藤原姓で出てくると、「また藤原家増えたよ、まただよ」(笑)とゆー気になるもので。

 同じ藤原家でかつて平治の乱でデブ頼に加担し清盛に赦免された藤原成親つーのもいて。
 吉沢悠サン演じるこの男、これが今は後白河の側近になっているみたいなのですが、コイツもいったい何を考えてるかが分からない。

 で、ウィキとか番組HPとか調べたら、コイツこのあと、また清盛を裏切るらしいんですよ。
 どうもコウモリみたいなやつだと思ってたんですが、それでか。
 こういうですね、虚々実々の関係というのが、番組HPとかを見ないと腑に落ちないというのはイカン。 これも藤原家、あれも藤原家、たぶん藤原家、きっと藤原家、みたいななかでますます話が見えにくくなる。

 内情が分かってくると、どうしてこういう構成をしているのか、却ってその妙に感心したりするのですが(要するに、知れば知るほど面白い、勉強した分だけのめり込める)、このドラマ、のちの時代に向けての布石をあまりにばらまきすぎているのではないか?という気にもなってきます。

 成親(吉沢サン)の動きなんぞ、もっと省略してもいい。 再び清盛を裏切るときに、きちんと成親の心の揺らぎを見せればいいんだ、と思うんですよ。

 そして夫信西を殺されたスケバン刑事、ちゃうちゃう(こうでもしないとビジュアルが思い浮かばない)浅香唯チャンが、信西を崇拝していた西光(加藤虎之介サン)を、後白河側に強引に取り込むのですが、唯チャンも虎之介サンもなに考えてるか分からなくて。

 要するに、信西が考えていた日宋貿易とかの志はもうどーでもよくて、源氏に殺された恨みだけが募っている状態、といっていいでしょうか。
 ただそれで、どうして西光が後白河側につくのか、唯チャンはつかせたがるのか、ということが、少々頭を働かせないとすぐに飲み込めない。
 まあ信西が後白河の後見だったからとか後白河が今のところ政治の実権を握っているからとか?
 でもドラマを見ていて、後白河が二条天皇の赤ん坊のかわりに政治の実権を握っている、という感覚が、どうもしてこない。
 ここらへんの描写が乏しいのが、話を読みにくくしている原因なのでは?と感じてしまいます。

 西光は、信西の考えを遂行しようとする清盛に同調しようとしません。 頼朝をどうして死罪にしないのか?という理由から清盛に反発しているのですが、当時の最高の刑罰は流罪なんだし。
 平忠正や源為義らを死罪にしたのなんか、例外中の例外でしょう。
 これってこの西光、実は心の師である信西のことなんか何も理解してない、つーことでしょう。

 つまり。

 些細な登場人物ひとりひとりにまで、作り手が神経を遣いすぎている(よく言えば、神経が行き届きすぎている)。
 そしてその結果、話を盛り込み過ぎて分かりにくくなっている。
 たぶんこれでも、相当削ぎ落としたとは思うのですが。

 全体的な流れを見ていて、そんな登場人物たちのさまざまな思いが濁流のようにうねっていくなかで、清盛が権謀術数の世界に足を突っ込んでいくのに、何かそれが悪いことに見えてこないもどかしさ、というものが私にはあります。

 いくら天皇家や藤原摂関家との政略結婚を清盛が画策しても、そんなの当たり前みたいに見えてくる。
 後白河にいろんな貢ぎ物をしていい顔しているのも、出世のために岡本信人サンの策(これ、実は後白河の思惑が絡んでいたのですが、結果的に藤原基実の遺した広大な荘園を事実上平家の相続みたいにしたんだから、別に騙されても大して問題ではなかったように思える)を採用して内大臣にまでのぼりつめても、「それって信西の遺志や自分のでっかい夢を実現させようとしてんだからいーんじゃないの?」 と思えてきてしまう。

 つまり、清盛のなかには、常に未来への希望がキラキラといつまでも光っているんですよ。 このドラマのなかでは。 濁悪の朝廷、貴族社会のなかで。
 その清盛の 「永遠の少年の心」 が、物語的に折り合いにくくなっている、溶け合いにくくなっている、という感覚。

 だからいくら清盛が偉くなっても、なんかエラソーに見えない。

 平家の財政基盤をきちんと描写してないのも大きな要因ですけどね(耳タコ銀だこ)。

 つまりいくら国を動かすほどの巨大企業になっても、その中心にいる社長はあくまで気さくでどこまでも青年実業家(つーか、莫大な遺産を父から譲り受けて、それをたまたま大きく出来た程度?)で、本宮ひろ志サンのマンガに出てきそ~なさわやか律子さんみたいな(なんだソレ)好青年のままに見えるんですよ。
 だのに話はそれに反して、清盛の権力がますます増大して手がつけられなくなるほどだった、みたいな方向に行く。 どうもそこらへんの違和感が常にあって。

 峰隆太サン演じる伊東祐親が、そんな威厳のオーラをたたえる清盛に話しかけられて、今回ビビりまくる、というシーンがありました。
 ワタシ的には、先に述べた違和感のせいで、ここを見て、そんなにビビるようなことかな?と。 飛び上がってビビってんので笑いましたけど。
 もっと峰サン以外に大勢の人にビビらせまくらなければ、清盛の威厳というものはほんとうに伝わってこないと思う。

 ただこのビビる峰サンが(こんばんみ)、その萎縮しまくった精神状態のまま、自分の娘八重姫(福田沙紀チャン)が流人の源頼朝(岡田将生クン)の赤ん坊を産んだ、ということに気付いた時。

 今回の白眉は、なんと言ってもここでしたね。

 赤ん坊をあやす八重姫と頼朝を、都の内裏の警護から帰ってきた伊東祐親が、庵の入り口でじっと見ている。 もうその時点で、峰サンの全身からは、ものすごい感情を押しつけているオーラが充満しているんですよ。 すごいな、峰サン。

 それに対して八重姫も頼朝も、「子供ができちゃったらもうこっちのものよ」 みたいな感覚でしかない。
 頼朝にしてみれば、自分がどういう分際なのかを鑑みれば、これがどういうことなのか分かりそうなものですけど、ウィキによればこの時点で頼朝は29歳ほど。 ん~、浅慮だ(ささ様のご指摘で、ドラマ上、頼朝がハタチくらいの設定で作り手はこの事件をスライドさせてきたようです。 訂正いたします)。
 ただウィキによるとこの話はフィクションである可能性があります(どうなんでしょうね)。

 いずれにしてもこの場面。

 祐親に気付いた頼朝、丁重に謝罪をして親子水入らずで暮らしていくことを懇願します。
 八重姫は、赤子を抱けば父親の気持ちも和らぐだろう、と考えたのでしょう。 「抱いてやって下さりませ」 と赤子を祐親に手渡します。

 無表情のまま赤子を抱く祐親。

 「かわいいでしょう? 父上の、孫にござりますよ」

 無表情の祐親。 抱かれた赤子が、その雰囲気を察したのか、ぐずり始めます。
 と同時に、赤子を抱いたまま、庵から出ていく祐親。

 「父上…? 父上! 父上!
 いかがなされましたか、父上?!」

 血相を変えて父親を追いかける八重姫。 突然の展開に呆然と動くこともできないヘタレの頼朝。 その頼朝の耳に、八重姫の叫び声が轟きます。

 「父上っ! 父上っっ!」

 泣き叫ぶ赤子の声。
 ことの重大さに気付いた頼朝は、その場に駆けつけようとしますが、祐親の主従たちに止められます。 駆けていく籐九郎(塚本高史サン)。 そこに北条時政(遠藤憲一サン)も居合わせます。

 「何をなされます! 父上っ!!」

 阿鼻叫喚の草むら。 赤子の泣き叫ぶ声が、ふっとやみます。
 なにが起きたのかは自明。 愕然とする頼朝。

 「いやぁぁーーーーっ!!」

 八重姫の叫び声があたりに響き渡るなか、とぼとぼと帰ってくる籐九郎。 拘束を抜け出しその場に駆けつけようとする頼朝を、籐九郎が止めます。 その頼朝の耳に入ってくるのは、激怒する祐親の声。

 「源頼朝の子だとぉっ?!
 さようなことが、清盛さまに知れてみろっ!
 われら伊東一族など、ひとたまりもないわッッ!」

 泣き叫ぶ八重姫の声をバックに、頼朝のナレーション。

 「昨日が今日なのか、今日が明日なのか。
 明日が昨日なのか。
 目の前が真っ暗で、なにも分からなくなった…。

 ひとつだけ分かっていたことは、私の子を殺したのは、遠い都にいる、平清盛であるということだけだった――」

 ここで清盛の 「遊びをせんとや」 の鼻歌が、悲しみにくれる頼朝のバックで流れる。

 峰サンの演技にはほとほと降参した私ですが、ここでの頼朝の述懐はちょいとハテナ。
 結構これ、逆恨みっぽいんですが(笑)。
 ハタチにもならない若造の言葉なら、こういう逆恨みも説得力があるものですが、29ともなればそこらへんの世の習いというものは、習熟してもよさそうなもんじゃないのかなぁ(だからハタチくらいなんだって)。
 ともかくこの八重姫との間に生まれた子を殺されたことが、頼朝が平家打倒に燃える淵源となっている、というこの語り口。 ナレーションは頼朝が後世から、自分の過去を振り返っているわけですから、そこん所の自分の幼さも匂わせる述懐にするべきだった気がいたしますね。

 そして話が前後してしまいますが、この回でのもうひとつの見せどころは、清盛が権勢を誇示するために取り仕切った、宮中行事である五節の会での、清盛と後白河とのやり取り。

 先に述べたように、基実の荘園相続とか、それに呼応する清盛の出世とかが、すべて自分の策であったことを、「千と千尋」 モードの後白河が(笑)清盛に耳打ちします。

 「あそこで平家に落ちぶれられては困るゆえのう。
 我が子、憲仁(のちの高倉天皇)をもり立てるとなれば、金銀がいかほどあっても足りぬ。
 そなたを東宮太夫にしたは、そのためじゃ。

 だが、次は右大臣、左大臣じゃと?

 フフハハ、フハハハハハハハ!」

 出た、高笑い(笑)。

 「…ここはわしの世じゃ(この、「わしの世」 と言い切れるほどの権力の、描写がないんだなぁ…)(それとも後白河の、単なる思いつきか?)。

 朝廷を、そなたの勝手にはさせぬ。

 そなたが次にのぼるは、太政大臣。

 名はあれど、力はない」

 ふたつのサイコロを取り出し、清盛の背後からこぼれ落とす後白河。

 「…これであがりじゃ」

 絶望的な顔になる清盛。 「…踊らされておったと…? 上皇様(後白河)の、手のひらの上で…?」

 「いつかゆうたはずじゃ。
 そなたたち武士は、どこまで上ろうと、番犬のまま、死んでゆくのじゃ」

 後白河のあざけるような声が、清盛の心のなかで反響します。
 勝ち誇ったような後白河。 屈辱にまみれる清盛。

 そこに、年齢不詳(笑)の祇園女御(松田聖子チャン)が、基房らの陰険な画策で出演キャンセルになった舞姫の代役として登場。 「遊びをせんとや」 の歌を歌い始めます。
 これには清盛も後白河もビックリ。

 かつて自分の母親代わりだった祇園女御のその歌を聞いて、自分の人生のなかでつかず離れず鳴り響いていたその歌の文句をあらためて聴き、清盛の目には涙があふれ、顔には生気が戻ってきます。 原点回帰、といったところでしょうか。

 「ぞくぞく致します。

 治天の君の手のひらの座り心地。

 存じておるは国広しといえど、この平清盛のみにござりましょう。

 修羅の道を歩んできたゆえにこその(その修羅の道が、あまり悪く感じない、というのは先ほど書きました)この心地。

 存分に、味わい尽くしますぞ」

 「手のひらで遊ばされていた」 という屈辱を、「手のひらで遊ばせてもらっているのは日本中オレ以外にない。 なんと愉快なのだ」 という境涯へと、発想を転換させる。

 良きことも悪きことも、すべては自分の捉え方ひとつなのだ、という、この回の眼目です。

 いいほうに捉える事の出来たのが清盛。 そして頼朝は、悪しき出来事をそのまま悪く受け取ったがゆえに、それは清盛への逆恨みという余計な尾ひれまでつけてますます不幸の淵に沈んでゆく。

 そしてこの乙前(祇園女御)との再会を果たし、悪平太以前の昔から興じていた、懐かしいすごろく遊びをしながら、清盛は乙前に話すのです。

 「乙前殿。 すごろくは、面白き遊びにござりますなぁ。
 賽の目の動きひとつで駒の動きが変わる。
 後れを取っていた者も、良き目を出せば、勝ち上がることができまする。

 登りつめてみせますぞー、この世の頂に」

 ここらへんが屈託なくて、悪いヤツには到底見えないんで困るんですが(困らんか)。

 これはこの回の中盤、なかなか思うように出世がままならないことで開かれた平家の対策会議で、末っ子の重衡がノーテンキに言った言葉に呼応している楽観主義なように感じます。

 「大事ござりますまい、父上は、まことえらいお方ですゆえ」。

 要するに、「♪そーのうちなんとか、なーるだーろーおー」 つーわけですが(笑)、物事を悪く考えないで頑張っておれば、思わぬよい目がめぐってくるやもしれぬ、という処世術も論じている気がいたします。

 ただし。

 盛国(上川隆也サン)によっても解説がされ、後白河も 「名はあれど、力はない」 としゃべっていたこの太政大臣。
 100日間の在職期間のうちに、自分以外の平家の役職を上げまくった、らしいのですが、「名ばかりで力はない」 んじゃなかったの?つー感じ。

 「百日の太政大臣」 というサブタイトルなんだから、もうちょっとなんかやったほうがよかったんじゃ?

 まあ、やってるヒマなんかないですけどね、話が盛り込み過ぎで(でも、このドラマ、「平清盛」 なんですよね?)。

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2012年8月14日 (火)

「平清盛」 第31回 「伊豆の流人」(8月5日放送)を見て

 はーはー、ようやく視聴が追いつきました(笑)。 ぜーぜー。

 しかし追いついたはいいものの、今回は第3部の開始とかで、伊豆に流罪になった源頼朝がいきなり岡田将生クンになり、清盛(松山ケンイチクン)と時子(深田恭子サン)のあいだに生まれた宗盛が石黒英雄クンになり、知盛が小柳友クンになり(あ~この小柳トムサンの息子が、「義経」 で阿部寛サンが演じて印象的だった知盛を今回演じるのか…)、平家の世代間の立てわけがかなり分かりにくくなって、非常に混乱しました。

 特に今回亡くなってしまう池禅尼(和久井映見サン)の子供である頼盛(西島隆弘クン…当ブログでは 「AAAの人」 で通してきましたが)は、要するに清盛の異母弟であるわけなのですが、この人と清盛たちの息子たちとの世代的な区別が出来ないんですよ。

 さらに、清盛の長男である重盛(窪田正孝クン)が、官位的に偉くなったせいか、今回ヤケに声を低く作っていた。 それにみ~んなマルマル 「盛・盛」 ですからね。 しかもみ~んなイケメン。 男の私にとってはイケメンなんか、みんな同じ顔に見えますからね(笑)。

 この際、AAAの人をヨッチャン兄ぃとか、重盛をシゲにぃにとか、宗盛をムネムネとか(そりゃ鬼若を演じてる青木崇高サンのニックネームでしょ)トモちんとか(AKBか)ヨッシー(マリオか)とか通称で呼ばないとどーしよーもないレベルになってきた。

 じっさいの話、第3部になって、話が前回から何年か後の話になっているのかと思ったのですが、前回からさほどタイムラグがない。 混乱に拍車をかけます。 集中して見ているはずの私でさえ混乱するんですから。 登場人物の素姓がにわかにつかめない、というこのドラマの欠点が噴出した格好だ、と感じました。 これじゃ史上最悪の視聴率だったのも、むべなるかな。

 さらに今回、話自体もちょっと見る側が混乱するような感じだったと思います。

 その最たる部分は、つねに冷静沈着な清盛の息子・重盛が二条天皇(冨浦智嗣クン)に、「どうして父である後白河上皇様(松田翔太クン…このふたりも親子に見えない…笑)の気持ちをないがしろにするのか」、と諫言する場面。

 シゲにぃにの感覚からすると、後白河上皇が三十三間堂を清盛に寄進させたりして息子のことを思っているのに、なぜ二条帝はそんな後白河の親としての気持ちをまったく無視しているのかが、分からないようなのです。

 そしてそんな親の恩知らずの二条帝に肩入れする、自分の父・清盛の気持ちも、重盛は理解できない。

 昔はそんな自分の父も、鳥羽チャン(三上博史サン)と崇徳(井浦新サン)との仲を取り持とうと奔走していたではないか。
 それが、崇徳に剣を向けたときから、自分の父は修羅の道を突き進むようになってしまった。
 つまり自分の父親清盛は、昔はまっすぐだったけど、今は権謀術数にまみれた汚いオヤジに変わってしまった、と考えている。

 でも、あのクールなよく出来た息子にしては、かなり外しまくっている考察だと思うんですよ。

 重盛は後白河が常軌を逸した人物であることを、まったく理解していない。
 でも鳥羽チャンと崇徳の成り行きを見ていれば、自然と分かると思うんですけどね、あそこまで頭が良ければ。 まあデブ頼に幽閉されてから、後白河院がしばらくおとなしかったのを加味したとしても。

 今回、重盛はそのことで自分の父清盛と、いったん大ゲンカになります。
 そして清盛は、自分の若い頃はあんな青臭くなかった、と盛国(上川隆也サン)に言いつつ(ハハ…)、自らの歩いてきた道は間違っていたのだろうか…?みたいな感慨にふけることになる。

 間違ってませんから!(笑)。

 まっすぐすぎて、却ってまだこの歳になっても、青臭いっつーの!(爆)。
 ことこのドラマに限っては、清盛が 「自分は、間違っていたのだろうか…?」 みたいな感慨にふけることは、そっちのほうが間違ってるんですよ(笑)。

 で、結局二条天皇は、間もなく23という若さで声変りもせぬまま、亡くなってしまうのですが、そこに延暦寺の千人の僧を引き連れて現れた後白河の、まるでボーソー族みたいな弔問の仕方に、重盛は父清盛の真意をようやく呑み込むんですよ。 ちょっと、かなり抜けてるように私には思えましたが。

 とにかく、その場面。
 これが今回の、キモのシーンです。

 「なにゆえ、わしの蓮華王院(三十三間堂)に来なんだ…さすれば、千体の観音像が、お守りくださったものを…」

 後白河院は自分の息子の死を嘆くでもなく、低く笑い出します。 前回自分の息子の死を知って鬼と化した崇徳とは、全く逆の反応です。

 「クッ…フフフ…フハハハ…ヒャハハハハ…アハハハハハハハハ…!」

 滋子の時もそうだったけど、この人感情が高ぶると、大笑いする癖があるらしい(笑)。
 後白河の狂人ぶりを、重盛は初めて目の当たりにしたのでしょうか。 険しい表情です。
 周囲も完全に凍りついています。

 「そなた(二条帝)が来ぬゆえ、こちらから来てやったぞ…。
 千人の僧が、そなたの死を悼み、…弔ってくれよう…!」

 後白河の嘲笑のなか、鳴り物と共に千人の荒々しい読経が始まります。
 清盛はそれを、あらん限りの苦々しい顔で睨みつけ、力づくでそれをやめさせる。

 「やめよ…! やめよと言うておる…!
 やめよーーーーっ!!」

 「不埒なぁーーッ!」
 怒鳴る僧兵。
 「我らは千体観音像に代わって、…」
 それを睨みつける清盛に、僧兵たちの親玉は二の句が継げません。

 僧兵たちを鎮めた清盛は、後白河のほうへ向きなおり、ひざまずきます。

 「…相も変わらず、赤子のごときおかたにござりまするな…。

 お若き日と同じく、自分はここにいると、腹をすかせて泣いておると、母を求めて喚き散らしておられる…(ここで重盛が父を諌めますが、清盛は聞きません)。

 (二条)帝が 『親などおらぬ』 と仰せになったのも道理…!
 あなたさまは、手のかかる厄介な赤子にござりました…。

 赤子にこの国を託すわけにはゆかぬ…!

 それが…亡き帝の…悲痛な思いであったと心得ます…。

 …

 この平清盛、全身全霊を持って、亡き帝のお志をお守りいたす所存!」

 「こんな赤ん坊みたいなことをするおかたに、我が国は任せられない!」 って、当然ですよね(笑)。 重盛、今頃腑に落ちるなよ、みたいな(笑)。

 集中視聴している私でさえ、話に混乱するのですから、ただでさえオリンピックモードの流れでは、やはり史上最低視聴率もやむを得ないか、と…。

 ただこの回、いろんなところでまた布石が、バラバラと大量にばらまかれた気はするんですよ。

 頼朝はプレイボーイの片鱗を見せつつあるし(笑)、のちに監視役になる北条時政(遠藤憲一サン)は登場するし(北条政子の父親ですな)。 このドラマらしい。

 その布石の決定打は、池禅尼の死のシーンでしょうね。

 二条が死んだり池禅尼が死んだり、なんか崇徳の呪いが継続しているような感じがすごくするのですが(笑)それにはあえて目をつぶりまして(笑)。

 池禅尼は清盛がいくら出世しようとも、あまり関心を寄せていない。 先の後白河院乱入の収拾の功で、清盛は大納言になっていたのですが。

 「あの世で…殿(忠盛)に会うたら…お伝えせねばな…」。
 あっけない(笑)。

 それよりも、「一族を絶やしてはならぬ」 と、清盛のほうを向いてではなく、頼盛(AAAの人)のほうを向いて言うんですよ。 そしてこと切れる。
 ホント、布石を打つのが好きな脚本家の人ですよね(笑)。

 そして都でどんどん巨大な存在になっていく清盛と対照的に、福田沙紀チャンとイチャイチャしている頼朝(笑)。 まったく政治にカンバックする片鱗すら、ありません(笑)。

 先の乱入を邪魔立てされた後白河、「読めたぞ。 そなた朝廷を、思うがままに操るつもりであろう。 あぶないあぶない。 危うく騙されるところであった」 と、捨てゼリフを残して去って行きました。

 後白河と清盛のサイの目振りが、また始まったのです。

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閑話休題 夏ドラマとかこの暑さとか

 オリンピックも閉会し、盆休みも残りわずか。

 なんとなく祭りのあとの寂しさが嫌でもやってくるのなら(よしだたくろう 「祭りのあと」)、という感じですが。

 私が住んでいる世田谷の下(最下部…笑)あたりでは、今週末に多摩川の花火大会があるので、それまではなんとなく浮かれたような気分でいられます。
 このところ毎年、狙いすましたようにこの日にNHKの 「思い出のメロディー」 をやったりするんですけどね。 どうも今年もそうみたいだ。 なんかいつも花火と交互に見ている気がします。 家の窓から花火が見られるもので。




 夏ドラマは、ここに来て(ほぼ)全滅です。

 「サマーレスキュー」 も、見なくなっちゃいました。

 見ていてなんか、すごくイライラするんですよ、特に登山客の態度が。
 最初のうちは、「山を本当になめているのは、登山客そのものだ」 という問題提起が見えた気がしたんですが、どうも不快感を惹起するばかりで。
 見ていて不快になるなら、もういいか、というか。
 けっして向井理クンや尾野真千子サンの演技に失望したわけではないのは、言っておかねばなりません。

 ただ 「ゴーストママ捜査線」 だけは唯一、なんか意外と見てしまいます。

 このドラマ、話がすごく、イージーなんですよ、毎回(笑)。
 最初 「捜査線」 とかいうくらいだから、小学1年のとんぼクンが警察の取り扱うような事件に次々巻き込まれる危険な、シャレにならない話になるのか、と思ったんですが、「超」 のつく人情話の連続で。
 で、ベタな展開が続いて続いて、「あ~あ」 と半分思いながら見ているのですが(笑)、このベタな人情話が、ラストで結構泣かせる話に結び付いていく。
 こんなイージーな仕掛けに、我ながらアホみたいだと思いながら、毎回主にラストでは泣いてます(「主に泣いてます」 は、タイトルが面白そうだったのですが見てません…笑)。
 こういう、そんなに「質がいい」 とはお世辞にも言えないドラマでも、丁寧に人の心の機微を見せていけば、最後には受け手を泣かせることもできる、といういい見本のような気がします。
 気楽に入り込めるという点もよろしい。

 まあ秋ドラマに期待するしかないですネ。
 去年の夏ドラマは、「それでも、生きてゆく」 という、超硬派なドラマに翻弄され続けたのですが…。




 しばらくこの暑さが続くそうなので、とりあえずあとひと月半くらいは我慢せねば、と思いますが、どうも年齢を重ねていくごとに暑さがこたえます。

 今年の暑さを見ていて気付くのは、暑さで有名な埼玉県の熊谷市よりも、群馬県のほうがよほど暑い、ということです。
 これって偏西風の関係なのかな?
 個人的には、都心にあまり高い建物ばかり作ったから、風通しが極端に悪くなってんだとばかり、思い込んでいます(あくまで個人的意見です)。 日テレビルとか、ぶっ壊しゃいいのに(スゲー暴論)。

 たまに涼しいと、仕事がすごく楽です。
 暑いとこんなに体力奪われるんだ、って感じます。

 東南アジア以上に暑い日本。
 異常気象で片付けるには、もはや限度を超えている気がします。
 都市計画そのものから見直しを図る抜本的な対策、これって政府が取り組まなければならない、かなり喫緊の課題であるように感じるのですが。

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2012年8月13日 (月)

「平清盛」 第30回 「平家納経」(7月29日放送)を見て

おことわり 初出時より若干手直しいたしました。

 讃岐に流罪になった崇徳(井浦新サン)の怨念渦巻く物語となった、 「平家納経」 の回。
 崇徳帝の怨念か、レビュー途中でいきなり利用中のココログの記事作成サイトがフリーズ(ゲッ…)(勘弁してくれ、怖いぞ)。
 泣く泣く最初から書きなおしております(トホホ…)。

 この回の崇徳は、この国を呪う大魔王に変身して特殊メイクしまくり、まさに生きながらの地獄を具現化していたのですが、そんな迷信臭い、スピリチュアルな幻想的外観にあまり心を奪われていると、この回の最深部にある本質を見誤りやすい、そう感じました。

 しかし清盛(松山ケンイチクン)の言動に重みを加味させる平家の権力基盤に関して、このドラマはやはり重要視していないために、平家が一族の財力を総動員し、国の技術の粋を集めた、と言っていい経典を、いきなりいとも簡単に作り上げてしまった、という感が、どうしてもぬぐえなくて。

 で…。

 ダメになる前のレビューには、前書きでいろいろ書いていたのですがすべてうっちゃりまして(ナミダ)、さっそく本題に入ります。
 まあ結構ぐだぐだと書いていたのでこのほうがスッキリしていいです(ヤケクソ)(面白いギャグとかも書いてたんだけどなぁ…笑)。

 讃岐。

 安らかな気持ちで歌を吟じている崇徳帝。
 村人たちにも慕われている様子です。

 「私はここへ流されてよかった…。 何を望んで私は、あのような無益な戦を起こしてしまったのか…。 愚かであった…まことに…」。

 吟じる歌の内容にも安穏たる心象風景が滲み出ている(今回大意の字幕が付いていましたが、結構目を追うのにあわただしさを強要された気がします。 意味をその場にいた村人が訊く、という形のほうが却って分かりやすい)。
 また敵対した後白河(松田翔太クン)にも写経を送るなど、自分はもう完全に悟りの境地にいる、という風情です。

 しかし。

 その写経は後白河から 「気味悪い」 と無情にも送り返され(しかも滋子との間に生まれた赤ん坊のオイタつき)、ほぼ同時に自分の息子の死の報せまで届いてしまうと、崇徳はそんな仏のような境涯を一変させるのです。

 「なにゆえじゃ…なにゆえじゃっ…なにゆえじゃああ~~~っ!!」

 村人たちもその様子に恐れおののきます。
 ガリガリと床に爪を立てる音。

 「ああっ…あああ…っ」

 うつ伏した崇徳が顔を上げると、目は充血して真っ赤です。 確か東南アジアの民族劇で、目を充血させるこのような粉があるとか、「世界ふしぎ発見!」 で見た覚えがあるのですが、それかな?

 「我…深き罪に行なわるるに愁鬱浅からず…日本国の大魔王となりて…王を民に引き下ろし…民を王に成し上げん…!」

 …悪魔の言うことは、たいてい難しいものです(笑)。

 ここまで来たらさっきフリーズした(コワ~)。

 この場面。

 崇徳はまるで仮面ライダーフォーゼでゾディアーツ(怪物変身)スイッチを押してしまった天ノ川学園の生徒みたいなんですが(なんじゃソレ…笑)。

 冗談はともかく、崇徳がいかにも、これっぱかしの理由でいとも簡単に大魔王に変身してしまったようにも思えるのですが、実はそうではない。

 崇徳の心の奥底には、生まれたときから何もかもうまくいかなかった、という恨みが、澱(おり)のように分厚く降り積もっていた、と思われます。

 讃岐で安穏とした日々を送っているときでさえ、実はその恨みを抑えつけながら、精神の均衡を保っていたにすぎない。

 それがある種のきっかけで、抑えに抑えていたものが逆流し、それまで清流を保っていた流れが澱を掻き乱し濁流となって、すべての理性を押し流していく。 そんなからくりだ、と考えられるのです。

 もともと崇徳には、歌を詠む類まれなる才能というものが備わっていて、さまざまな情緒に対するアンテナが発達している。
 だからこそその半面に潜む 「恨みの系図」 というものが、「情緒的側面」 とバチバチと火花を散らせてしまう。 異様な精神世界に突入してしまうのは、そんな一途な気持ちが悪く作用してしまうからだとも考えられます。

 自分のなかにある 「願い」 が叶わぬ、しかも裏切られた、と自分が判断してしまったとき、他人に対する思いは、すなわち強大なる恨みとなって、すべてをマイナスの方向に考えてしまう魔の働きに転化され、怨念に心が蹂躙されてしまう。

 ありていに言えば 「逆恨み」 ということですが。

 それはやはり、自分の心が純粋であればあるほど陥りやすい、罠なんですよ。

 だから別にゾディアーツスイッチなんぞ使わなくとも(笑)、人というのはそういう素地がある場合、簡単に悪しく豹変してしまうケースがある、ということだ、と思うのです。

 今回の崇徳の場合、かように極端な形で演出されていましたけれど、これは誰にでも起こりうる、みずからの良心への裏切りの場面なのです。

 人の人生というのは、自分のなかに潜んでいるマイナスの心の働き(魔)との間断なき戦いだ、と私は考えています。

 それを顕著に表わしたのが、この回の大嵐の場面だった、と感じるのです。

 その前段階的な出来事として、V6の森田クン演じる時忠の悪だくみに基盛(渡部豪太クン)と教盛(鈴之助サン)が乗ってしまう、という話をこの回、作り手は配している。

 要するに滋子(成海璃子チャン)が産んだ赤ん坊を次の帝にしようと森田クンは企んだのですが、これは権力が増大して清盛の目の届かない一族の結束の緩みというものが露呈した、という出来事であっただけでなく、環境が恵まれてくると生じやすい、ひとの心の隙を描写した出来事であったとも言える。

 つまり森田クンの心のなかにも、それにそそのかされた基盛、教盛の心のなかにも、「もっともっと偉くなりたい、もっともっとちやほやされたい」 というマイナスの心の動き(魔)が巣食った、ということだと思うのです。

 この3人の企みはすぐさま発覚し、官職はく奪という厳正な処分が清盛から下されるのですが、森田クンはふてくされ、基盛は反省して仕事に励む。
 自分のなかにあるマイナスの気持ちとどう戦うか。
 このふたりのありかたは、教訓に満ちています。

 しかし基盛は、仕事に励んだ結果、不慮の事故で亡くなってしまう。
 これも言ってみれば、「ふてくされた森田クンはのうのうと生き延びて、どうして素直な基盛は頑張った末に死んじゃうの?」 と言いたくなるような話であります。 「マイナスな気持ちと闘ったからうまくいくとは限らないでしょ」、と言いたくなる話であります。

 でもそうじゃない。

 人間、死ぬまでいかに頑張って生きたか、が本当の問題である、と私は考えるのです。
 どちらに価値があるか、という問題なんだ、と思うのです。

 清盛はこの基盛の死をきっかけとして、いわゆる 「平家納経」 を決意します。
 ドラマではここで、西行(藤木直人サン)に 「崇徳の怨念を見た」 という話などをさせながら、「基盛が死んだのもそのせいか」 という、なんとなくスピリチュアルな不確定要素の色が濃くなっていくのですが、西行は清盛に、次のような重要な言葉を諭していくのです。

 「保元の戦より6年、お手前(清盛)は公卿、そして中納言にまで登られた。
 そして、道半ばにして散っていったかたがたの、志も背負うて生きていこうとしておられる。
 されどそれは、敗者となったかたがたの、無念、怨念も、共に背負うていく、ということにござりましょうな」。

 結局、「今までの自分の人生のなかで死んでいったすべての人々の霊を慰める」、という動機が、清盛の納経に対する決意に込められていくことになる。

 で、この平家納経の作成過程を見ていて、「簡単だな~」 と冒頭に書いたようには感じたのですが(笑)。

 厳島神社に奉納するために、この経典を作った清盛一行を乗せた船。

 「仏教の経典をどうして神社に?」 みたいに思われがちですが、昔はそこんとこ、結構線引きがあいまいでしたからね。

 それはともかく、その船が大嵐に遭います。

 崇徳、この頃にはもはや爪も髪の毛も伸び放題、形相はすっかり恨みに凝り固まり、般若と見まごうほどになっています。
 居宅は血まみれの経本が転がり、荒れ放題で村人も寄り付かない。 「悪魔の棲む家」 と化してます、完全に。

 いっぽう荒れ狂う海のなか、「これは崇徳帝の怨念、経典を海に捨てれば嵐は収まります!」 という周囲の声に耳を貸さず、清盛は叫びます。

 「ならぬ、ならぬ!!

 これは! 平家だけのものではない! 王家、摂関家、藤原氏、源氏! もろもろの人の魂が込められておるっ! 無論! 讃岐の院(崇徳)の御魂(みたま)もだっ!

 これを捨てるはっ! みなの魂を捨てるに同じぞっ!」

 そして頼もしげに、こう叫ぶのです。

 「この船に! 誰が乗っておると思う! 兎丸ーっ! 豊籐太ーっ! 荒丹波ーっ! 麒麟太夫ーっ!」

 そして。

 「鱸丸ーっ!」

 盛国(上川隆也サン)ですな。

 「お前たちが頼りぞ…行けええーーーーっ!!」

 鱸丸復活(笑)。
 かようにもっと活躍してほしいものだが…(笑)。

 私の嫌いな兎丸も(笑)こーゆー時には頼りになります。

 要するに、ここの体裁としては、どんな嵐でも、仲間がいれば大丈夫さ! 青春貴族だオレたちは~っ! とゆーわけなんですけど…(古いなオレも…「青春貴族」 は、「ふれあい」 のB面です…笑)。

 嵐のなか、経を唱え続ける西行(なぜ乗り合わせている?…笑)、そして清盛。
 呪詛を続ける半狂乱の崇徳帝。

 つまり、これは、人の人生そのものなんですよ、先ほどの私の考察から捉えると。

 人生というのは、プラスの心とマイナスの心の、終わりなき戦い、なんですよ。

 やがて朝が明け、空は晴れ、崇徳はその光のなか、水の滴る音を聞き、子供たちの遊ぶ楽しげな声を聞く。 鳥たちの声。

 世界は光に満ち溢れている。

 ルイ・アームストロングの 「この素晴らしき世界」 でも流れてきそうな情景に、崇徳帝のなかにあった情緒的側面が、ダークサイドを開放し(ジェダイかよ)、崇徳帝は静かに、息を引き取るのです。

 「遊びをせんとや生まれけむ」 の歌が、どこからか流れています。

 これも 「遊び」 であるのか。

 つまり善と悪との間断なき戦いですら、遊びと言えるのか。

 ここで頼朝のナレーションが入ります。

 「何ひとつ、何ひとつ思うままにならぬ一生を、崇徳院は、生き切った――」。

 つまり、どんなに苦しみに満ちた人生であれ、「生き切る」 ということが、何にもまして価値のあることなのだ、というこの回の結論です。

 で。

 納経の最中、清盛はふと思い立って、ニヤニヤ笑い出します。

 先に森田クンが出雲へ流罪と決まったとき、それを送る途中に立ち寄った福原(今の神戸)に、本格的な貿易の拠点を作ろうと思い至ったのです。
 その動機も兎丸に 「ゴチャゴチャゆーんなら博多を都の隣に持って来い!」 と言われたことがそもそものきっかけで(笑)。

 精神的な世界の描写は他の追随を許さないのに、なーんか、イージーなんだよな~、そこらへん(笑)。

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2012年8月11日 (土)

「平清盛」 第29回 「滋子の婚礼」(7月22日放送)を見て

 清盛(松山ケンイチクン)の妻時子(深田恭子チャン)の妹、つまり義理の妹である滋子(成海璃子チャン)が、あろうことか(笑)後白河院(松田翔太クン)とマジコイをしてしまい婚礼に至る、というこの回。

 普通に料理してしまうと、とても平坦な話になってしまうところですが、作り手は滋子をモジャモジャ頭のコンプレックスを抱えた、「弱さを内に秘めた人物」 と設定することによって、ドラマに変化を与え、さらにそこに後白河のある種の 「異常性」 を絡めることで、この話を視聴に耐えうる作品へと仕上げていました。

 この滋子。

 コメント欄でしばしば話題になる(笑)木嶋佳苗被告(まだ上告してるから被告だよな…笑)と比較して考えると(別に比較せんでも…笑)(まあお付き合いください)、木嶋被告も滋子も、コンプレックスを抱えているという点では同じに見えます。
 けれどもその精神的土壌、というか、成立の過程では、相違点がとても多く見られるような気がします。
 コンプレックスを持つ女性が、なぜここまで違うのか。

 木嶋被告の場合、自分は選ばれた民、選民なのだ、という意識が多分に働いているように思える。
 だからこそ自分は一流のモノに囲まれていなければならないし、セレブでなければならない。

 自分が仕事で働いて高給をもらう、という意識がないそういう女性は、フツーお金持ちと結婚すれば丸く収まるものですが、いかんせん容姿がアレなため(アレって何だ)、ほかの部分で自分をよく見せようと努力する。
 それが木嶋被告の場合、女性という特質を利用したものだったのですが、この木嶋被告の一連の動作についてまわっているのは、みずからの欲望に対してとても従順なのに、選民意識ばかりが先行して 「あくせく働く」 ということに対して嫌悪が見られる、ということです。

 滋子はことこのドラマに限定した場合、髪の毛は巻き毛だけれども、顔はいい(笑)。
 彼女はこのたび公卿になった平家(「平氏」 と 「平家」 の呼び名の違いが、そこから来ているとは、今回初めて知りました)の末席にいて、元々特権階級であったことは自明ですが、彼女の行動規範には、「自分に正直でありたい」、という意識が強く関わっている気がします。

 特権階級であるか否か、つまり環境的に恵まれているかどうかということは、実にこの場合重要なファクターだと思う。

 滋子のように家(平家一族)が基本的に裕福な場合、別に一流のモノにこだわる必要がありません。 もともとあるのだから。
 それで 「自分を生かしたい」、「正直に生きたい、自分を偽って生きたくない」、ということに意識を傾けることができるようになる。 精神的な余裕があるんですよ。
 それに対して木嶋被告のように、いくら願っても得られない経済状態の人ほど、モノに対して飢餓状態となり、精神的な素養を成長させるとか、二の次になってしまう。

 また滋子は、上西門院(愛原実花サン)に仕えているため、いちおう 「仕事する女性」 です。 この点も大きい。
 仕事をして自立している女性だからこそ、「自分を素直に表現する」 ということが余計に可能になってくる。

 木嶋被告と滋子には、同質のコンプレックスを抱えながら、かように生き方が、違ってくる。

 しかし両者とも、「おのれの欲」 のために生きている、という点では、変わりがないのです。

 この回の 「平清盛」 では、それを教えながら去っていく人がおりました。
 平家の筆頭家人、家貞(中村梅雀サン)です。

 公卿になった平家の人々。
 みな初々しい(笑)束帯姿でいかにも成り上がりっぽいのですが(私の嫌いな兎丸も成り金ホテイ姿で登場)、そのなかに家貞の姿がありません。
 実は臥せっていたのですが、そこに立派になった清盛が現れ、私の嫌いな兎丸(しつこい)がくれた唐果物(お菓子でしょうかね)をお見舞いでもってくる。
 家貞は、平氏の貿易事業が、実はこの、この世のものとは思えぬうまさの宋の食べ物を食べたい一心だったから、という最大の動機を清盛に打ち明けるのです。

 こういう草の根的な動機の集積によって、平氏は経済的基盤を築いていったのでしょうが、私はもうちょっとそういう部分を見たかったな。 清盛がどういうビジネスを展開しているのかを見なければ、清盛の言葉に重みが伴ってこない、という理由からです(耳タコ銀だこ値上げショック)。

 いずれにせよ、「欲」 が原動力と知り呆れて苦笑する清盛に、家貞は 「そんなもんでございますよ、欲しいと思うことが男子(おのこ)のモチベーションをアップするのです」 と英語は使いませんでしたが、大要このような人生の結論に達するのです。
 つまり言わば、これは家貞の遺言です。 清盛は祖父の中村敦夫サンの代から連綿と続いていた、そういう 「欲の実現」 のために、強うならねばならない、と。

 欲望というのは、使い勝手によっては最強の武器となる。 「いい欲望」 となりえる。

 しかしそれは、「それを手に入れるために頑張る」、というモチベーションでなくてはなりません。

 でなければ、木嶋被告のように、悪い欲望という波に溺れてしまうことになる(長々と木嶋被告の話をしたのも、ここが言いたかったがため…笑)。

 この回家貞と共に、このドラマから退場していく人物がいました。 美福門院得子(松雪泰子サン)です。

 清盛との最後の語らいで、得子様は清盛の将来ビジョンを、まぶしそうに聞いています。
 そして 「わたくしは、威厳を保つことはできたか…? 亡き鳥羽院の、お役に立てたであろうか…?」 と感慨にふけります。

 得子はこのドラマにおいて、登場早々権力への飽くなき欲をアピールしてきたように思われるのですが、自らの 「悪い欲」 に心を奪われた時期を、鳥羽院への思いという形で収束したがっている。 これが美福門院なりの、自分の人生の結論だったのでしょう。

 美福門院と清盛との最後のシーンでは、雨が降っておりまして、最後には雨に打たれた菊が、うなだれておりました。
 この菊を見ると、鳥羽院がそこでのたうちまわって苦悩した日のことを、思い出しまする…(ああ情緒的)。

 さてそこで清盛は、宋銭を使った通貨による経済の活性化を得子に話していました。

 「なんと言うても交易にござります。 国を挙げて宋と取引をし、宋の銭、宋銭を国中に広めることができれば、さまざまな品がよどみなく国をめぐり、豊かになりましょう」。

 この将来ビジョンは、現在の資本主義経済社会からみて、あまりにも当然過ぎてさらっと流されてしまう部分であるように感じます。

 しかし私はこの部分を見ていて感じたのですが、これって 「貨幣」 に対する強烈な信頼が伴わなければ、実現がまことに難しい問題である、と言わざるを得ない。

 なぜなら、貨幣が勃興する黎明期においては、偽造という問題が常についてまわるからです。
 現代のように紙幣が流通するのも、印刷精度に対する絶大な信頼度の高さが、それを可能にしている。

 さらに頭悪いなりに考えられることは(笑)、この貨幣経済は、宋の国が鋳造した貨幣によって展開していくものですから、貿易の際にはかなり相手の国の言い値でモノの値段が決められていくのではないか、ということです。 不必要に高い取引を強いられるのではないか。 まあ、 「神の見えざる手」 が働くのかもしれませんが。

 ただ清盛のいうように、宋の国のモノが日本に流通するのはいいのかもしれないが、それって庶民に行きわたる、という便利な性格(現代のコンビニ的な感覚)を伴っているようにはちょっと思えない。

 どうもなんか、あと少し、清盛の言葉に重みが欲しい。 「夢物語」 を脱却してもらいたい。

 まあこれも、得子の 「権力欲」、日宋貿易の 「物欲」、という問題を絡めた、重層的な語り口であることは言うまでもありません。

 さらに作り手はここに、滋子の 「欲」、後白河の 「欲」 を絡めていく。

 「つかず離れず、がいちばんよいのだ」 と後白河との適度な距離を模索している清盛。
 ただそこに存在しているはずの清盛の損得勘定、というものが、やはりイマイチ見えてこない。
 そりゃああいう常軌を逸し気味の(笑)おかたには、そんなにくっつくとイチャモンつけられそうだし、疎遠にしていればいたでなにするか分からないから監視が必要だし、結局天皇と上皇どちらにもいい顔をしていれば、権力構造が変質しても対応できる、という思惑があったのでしょうが、それをもっと前面に出して描写してもらいたかった気もいたします。

 ともかくその後白河。

 前々回でしたか、「遊びをせんとや」 の歌を、いかにも物悲しそうに歌っていたのが印象的でしたが、今回公家を集めて宴を催した際、同じ歌を、今度は実に忌々しげに舞うのです。

 前々回のそれは、可愛がっていたデブ頼に幽閉され、「遊び」 ということについて根源的な疑問を抱きながらの寂しい歌だった。
 今回のそれは、清盛から宋の茶碗などを献上されてその白々しさに苛つきながらの、怒りを含んだものになっていたように感じるのですが、前々回さいなまれていた 「遊び」 という意味の所在がつかめなくて、それを探しあぐねていることへの苛立ち、というものも強く感じました。

 しかし、それを食い入るように見ていたのは、この宴に参加していた、滋子です。

 滋子は、ここで 「遊びをせんとや」 の歌を怒りを含みながら舞う後白河の、おそらく 「怒りの美」 に魅入られたのだ、と思う(後白河がイケメンであることは必須条項です…笑)。

 そして本来は楽しい歌であるはずのこの歌を、苦しげに歌う後白河の気持ちに、どうにかして寄り添ってあげたい、と深く感じただろう、と思われるのです(イケメンだからなおさらだ)。 「守ってあげたい」 というのはユーミンの歌ですが(笑)、女子が男の子に恋をする、大きなファクターでもある、と申せましょう。

 「自分はドロボーでもコジキでも、自分の好いた人と一緒になります」 と大々的に宣言していた滋子は、自分の意志のおもむくがまま、そのあと後白河とぐーぜん再会シチュエーションを自ら演出し(?…たぶんそうだろうな…)「遊びをせんとや」 の歌を、いかにも楽しそうに歌って後白河の前に登場。

 そのときも後白河は、宴で散々に不評を買った 「遊びをせんとや」 を、つぶやくでもなく苦しげに歌っていた。
 「遊び」 の意味を考えあぐねた末に、そこらへんにほっぽり出すように。
 歌の意味が、いちいちメタモルフォーゼを遂げていくさまが、見ていてとても刺激的です。

 後白河は滋子の明るい 「遊びをせんとや」 に、だいぶ気分を害された様子です。

 「歌うでない…。

 その歌を…。

 …さように朗らかに歌うでないっ!!」

 滋子は自分の思うがままの人生を、ここでも貫こうとします。

 「お見受けした通り、おかしなお方。

 朗らかな歌なのですから朗らかに歌えば良いものを」

 後白河は、「この歌がそんなに浅い意味の歌だと思っているのか?バカ女め」 といった風情で、低く笑い出します。

 「…朗らかな歌じゃと?…これが…。

 フフフフ…。 アハハハハハハハハ!」

 それは滋子を嘲笑っているようでもあり、自分を嘲笑っているようでもある。

 ところが。

 この嘲笑に、滋子も笑い出すのです。 「アハハハハ! アハハハハハハ!」。

 いや~、ストレートに生きていらっしゃる(笑)。

 「情けないお方」。 滋子の言葉に、後白河は目を剥きます。 「誰に向かって物を申しておる」。 滋子 「声をからして歌うことでしかお心を埋められぬ、弱いお方が目の前にいる。 ただそれだけにござります」。 後白河 「ただで済むと思うておるのか?…わしに左様な口を聞いて」。 滋子 「済まされぬのならそれもまた結構。 歌よりほかにぶつけられるものを見つけなさりませ」。

 後白河は持っていた杯を滋子の脇に投げつける。 割れる杯。 さっきは宋の茶碗をやはり投げつけていましたが、そっちのほうは割れなかった。
 頑丈なんだなぁ~と思っておりましたが(笑)、これは宋の茶碗のほうは、似ても焼いても食えぬ清盛の手強さを表わしていたものだったのではないでしょうか(まあ割れなかったのはぐーぜんかもしれませんけど)。
 それに比べてこっちの女のほうは、そうはいかぬ、という感じ。 後白河の決意を補って余りあります(オーゲサ)。

 後白河は滋子に迫りますが、滋子はいったん、ちょっと拒絶します。
 でもそれをものともせず、後白河は滋子を抱く。
 滋子は案外簡単にそれを受け入れ、手を後白河の背に回すのです。

 これっておそらく、双方に、「抱きたい、抱かれたい」 という欲望が高まっていたことの現れ、でしょうね。
 「遊び」 の意味を探しあぐねていた後白河。
 自分の思い通りに生きると宣言していた滋子。
 それがお互いの意志を突き抜けて、相手に思いを向かわせていく。

 「ちょっとの拒絶」 は、やはり女が男に設定した、「それでも私を抱けるの?」 というハードルなんだ、と思うんですよ。 でも滋子は、半分自分で、そのハードルを倒しちゃってる。
 滋子は、自分のコンプレックスの象徴である、巻き髪に後白河の手が触れることを、はじめよしとしません。 でも、滋子の正体が清盛の妹であると知り、政争の具(増税法案みたいだな)になることを嫌う後白河のやさしさに、初めて髪を触らせることを許す。

 去年の秀吉と茶々の恋愛表現に比べて、ああ~なんという重層的な作りよ(思い出させてスミマセン…笑)。

 で。

 できちゃったわけです(笑)。

 後白河とはつかず離れず、滋子は二条のもとへと考えていた清盛は、完全に頭に血がのぼってしまいます。

 上西門院様の助言によって、巻き髪を直そうとするくだりは、笑えましたなぁ。
 ストレートパーマの技術の元祖がここで出てきたら、さぞや面白かったのでしょうが、そうなると単なるギャグになってしまいます。 却ってカーリーヘアみたいになってしまった滋子(爆)。

 元々プライドが高く、自分の意に沿わぬことを絶対にやろうとしない滋子が、相手に気に入られようとここまでする姿に、最初反対していた清盛もフォローする気になり、めでたく婚礼の運びとなるのです(後半かなりはしょってるな…笑)。

 「遊び」、すなわち 「欲」 の使い道。

 欲というものを極悪視するよりも、欲を自分の行動のエネルギーとして転化していく。
 だからこそ前進して生きていけるわけです。
 家貞も美福門院も、滋子も後白河も。
 そして清盛、も。

 この回のこのドラマは、そこにきれいに、着地したようであります。

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2012年8月 8日 (水)

「平清盛」 第28回 「友の子、友の妻」(7月15日放送)を見て

 平清盛(松山ケンイチクン)は、なぜ源頼朝(中川大志クン)を助けたのか。

 第28回の眼目は、そこであります。
 なぜならこの回、清盛は頼朝を殺す殺すと言っといて、だいたいの日本人は(笑)頼朝がそのあとちゃんと生きて、鎌倉幕府を立ち上げたことくらい知っているから(「立ち上げ」 って、パソコンか)。

 これまであまり、裏表という部分を見せず、人物評価的にストレートで屈託のないところばかりを見せてきた松山清盛でしたが、信西(阿部サダヲサン)が死んでからの清盛は、ちょっと違う。
 信西が死んでからの清盛は、光ってる。
 信西が死んでからの清盛は、いい汗かいてる。
 信西が死んでからの清盛は、男だぜー。
 カッチョイ~っ(元ネタ分かんない人もいるでしょうね…)。

 清盛はそんな自分を、「叔父上(忠正)を斬ったときから、オレの覚悟は決まっている」 と表現していた。
 でも見ていて感じるのは、そんな理不尽を要求した信西が自害した時からの、清盛の一連の行動が、それまでとは明らかに違って、ひと回り大きくなっている点です。

 覚悟覚悟と言っても、その意味は広うございます。
 その覚悟の質は、この回のクライマックスで特殊偽装したアンリアルな設定のもと、明らかになることとなる。

 それにしても、この回の清盛の苦悩は、これまで単純な熱血バカに見えた男が直面した 「選択を迫られた者の行動パターン」 として、だいぶ説得力を伴っていたように感じます。
 そして彼はその経過のなかで、「建前の自分」 と 「本当の自分」 を使い分けることの醍醐味に、気付いたように感じる。

 その結果、これまでおそらく徹底してまっすぐで少年の心を保ち続けていた清盛は、女房の時子(深田恭子チャン)にウソをついて、常盤(武井咲チャン)と不義密通へ…(そこかよ)。

 そしてこのドラマは、2005年大河 「義経」 の時代と、今回ようやくかぶりました(それ以前の源平題材大河については知識が乏しいのでご勘弁を)。

 先の大河で常盤御前を印象的に演じていたのは、稲森いずみサンでした。
 正直言って、稲森サンの 「平安バージョン」 は、当時最強だと思いましたね(笑)。
 だからそれ以降稲森サンが現代ドラマに出ると、「どうしてこの人こんなに現代人が似合わないんだ」 という不満タラタラで(爆)。
 武井咲チャンは、「稲森常盤」 には存在感を譲るものの、その毅然さでは、稲森サンに肉薄している。 由良御前(田中麗奈サン)が亡くなったあたりからその凛とした意志の固さに磨きがかかり始めている気がします。 なにしろ声が気にならないというのはすごい(褒めてんのか?)。

 ちなみに先の大河で後白河を演じていたのが、平幹二朗サン。 もう、こういう悪の枢軸みたいのやらせると、ハマりまくりでしたね(笑)。 その女房?が夏木マリサンで。 そりゃ晩年の小原糸子が東洋の魔女(バレーボールかよ)に見えてしまっても仕方がないくらい、この人は 「里見八犬伝」 の頃から、悪女をやらせるとピカイチで(一般の認識では、ユバーバでしょうけど)。

 ムダ話ばかりしてますね。

 今回松田翔太クンが演じているその後白河上皇を頼ってきた、デブ頼サマ(塚地クン)と成親(吉沢悠サン)。
 優しいフェイントをかけられて安堵したのもつかの間、長恨歌を聞かされて 「どんな歌?(きゃぴ♡)」 と訊いたデブ頼に後白河は態度を豹変、「朕は、この歌のように身を滅ぼした皇帝になりとうない…!」 と、その身柄を拘束してしまうのです。

 邪悪なオーラに包まれていた平幹サンと違って、こういう静かなる負のエネルギーという放出の仕方も、とても印象的です。

 清盛の前にひっ立てられたデブ頼と成親。

 成親は身内のよしみで許してもらえますが、デブ頼は国の重要無形文化財(信西)を亡きものにした罪で、許してもらえません(ここらへんの情状酌量的な審判の揺らぎが、のちの頼朝の処遇の呼び水になっている気がする)。

 ここでデブ頼は、「面白うないのう…」 と述べるのですが、清盛は 「志無き者の一生が面白うないは道理!」 と喝破します。 すでにみち様にご指摘されてしまっているのでここでは多く語りませんが(ささ様と間違えた…平にご容赦を…汗)、清盛のなかで 「遊びをせんとや」 の意味が、深遠さをますます増しているセリフであることは、指摘しておかねばなりません。
 信西がしていたのは、割りばし遊びではありません(笑)。
 国家の将来を見据えた、必死の 「遊び」 だったのです。
 のんべんだらりとした享楽に興じていたデブ頼がしている 「遊び」 とは、質が根本から違う。 ただ、どうもデブ頼がかわいそうに見えてしまうのは、塚地クンの人徳なのでしょう。

 ここで 「武士が公家を断罪すること」 が当時いかに驚くべきことだったのかがナレーションで明らかになりますが、これはつまりこのクーデターに加担しなかった公家たちに、戦後処理ができる力のある公家がいなかった、ということの裏付け、でもある。 清盛が出しゃばりの印象を与えるが、それだけの力を、清盛しか持っていなかった、ということ。
 言ってみれば民社党も自民党も、同じ公家でどーしよーもないから、オレが断罪してやる、といったところでしょうか。 これじゃ当時の天皇も、国民の象徴みたいな感じ?
 いや、二条天皇の拝命で清盛は動いているわけだし、清盛が出しゃばっているわけでもない。 ただこの裁定の経過は、清盛が力をつけていく印象を周囲に与えるものだから、後白河としては、やはり 「面白くない」 ものであったでしょう。

 いっぽう話は前後しますが。

 義朝(玉木宏サン)は憔悴しきった顔で、東国へと逃避行を続けています。
 そこで少年頼朝は、父義朝とはぐれてしまう。
 義朝がなくしてしまっていた(先の清盛との一騎打ちの際に現場に置いてきちゃった)髭切。
 父がなにも答えないため、頼朝はそれがこのへんに落ちているのでは?と探しているあいだに、はぐれてしまったのです。
 この経過が、今回のドラマの組み立てのうえで、重要なお膳立てとなっています。
 髭切がなければ、今回の清盛による頼朝の裁きに、ドラマ的なメリハリがつかないからです。

 逃亡の途中、義朝は長男、次男(頼朝の異母兄たち)と、悲惨な別れをしていきます。
 前回の項で私は、源氏が修羅の結びつきで動いているにすぎない、ということを書きましたが、いくら修羅の結びつきでも、親子は親子だったようです。
 ドラマ的に、この 「義朝が東国の女に産ませた子ら」 について、ほとんどまともな描写がされていなかった(私の記憶がないだけかもしれませんが)ことが裏目に出たような気もいたします。 なんかいきなり、の感はぬぐえませんでしたが、悲劇だけは伝わる。

 義朝の次男朝長は、瀕死の自分の体に父親にとどめを刺してもらおうと、懇願します。
 父為義を斬れなかった義朝は、自らの息子に、手をかける。
 この部分も、朝長がちゃんと父親に構ってもらえなかったことからくる、最後の甘えだったような気がしますし、義朝は義朝で、まともなことをしてやれなかった息子への最後の愛情だったかもしれない。 父為義を斬れなかったことを、この時点で乗り越えたのかもしれない。

 あ~ダメだ(笑)。 こういう細かいところまでレビューしていては、いつまでたっても終わらんぞ(笑)。

 義朝は正清(趙珉和サン)の義父長田忠致のもとに匿われるのですが、すでにこの義父の様子が、少々怪しい。
 人間、失敗した者には、とことん冷たいものです。
 それも自分が手柄を立てるためなら、どんなみじめな敗残者にでも蟻のように群がる。
 逆に、羽振りのいい者にも、蟻みたいに群がってくるし。
 蟻ん子みたいな人間ばかりとも限りませんが。

 義朝はその気配を察し、正清に 「もはやここまで」 のサインを出します。
 子供のころ正清には木のぼりを教えてもらったが、間違わずにのぼることをそなたが教えてくれたのに、自分は間違うてしまった。 木のぼりは、もう終わりじゃ、と。
 機を見てそこらじゅうに潜む敵方をけしかけ、義朝と正清は、互いに刺し違えます。

 ここらへんの描写を見ていて、結構冷静に見ている自分がおりましたが、おそらくそれは前回、「また会おう…」 と清盛に言って去っていった義朝が、「冥土で会おう」 ということだったのか…という虚しさか。 父為義の二の轍を踏んだということゆえか。 「源氏は、もう終わりじゃ」 と嘆いた義朝、源氏の本流が自分たちであると自負するなら、なにゆえに浅慮な行動に出たのか、という思いゆえか。
 前回出てきた摂津源氏とか、あともうじき歴史に登場してくる木曽義仲も、なんとか源氏だったはずですが(忘れた…)、源氏が終わることは、結局なかったのでは。
 知識がないので、あまり不用心なことは書かないようにしときます(笑)。

 あ~だからっ!(笑)
 ダメだってばよ、本題がまだまだ先じゃん…(笑)。

 ただ義朝の悲劇は、この回の清盛の頼朝への断罪シーンのほうで、より鮮やかに描写された気は、するのです。

 で、話をはしょりまして…(笑)。

 義朝の最期を伝え聞いた清盛は、心に深い思いを秘めながら、表面上、自分の思いをまったく顔に出さず、能面のような表情のまま、捕縛された頼朝と対峙します。
 清盛は頼朝に、父親兄弟たちの消息を、無表情のまま淡々と語るのです。

 実は、本放送時たまたま休みでこのシーンだけを1分ほど見たのですが、視聴が遅れ遅れになっているその時点でここでの清盛を見て、「なんだ清盛、ずいぶんエラソーになってるじゃないの」 という感想を抱きまして(笑)。

 ここで泥だらけの頼朝を、いかにもエラソーに睥睨している清盛は、「自分が勝者でそなたは敗者じゃ」 という立場を明確にするものだっただけでなく、好敵手のあまりに情けない最期を聞いた直後の清盛の、友に対する怒りが含まれたものだったように思われるのです。

 やっぱりちゃんと見てないと、ちゃんとした感想が導き出されませんよね。

 最初清盛は、自ら叔父を斬ったときからの覚悟を口にして、新しき国づくりを邪魔するものは誰であろうと許さない、という態度を明確にしていました。
 だがそこには、どことなく一種の、気後れが存在しているように思えた。

 この清盛の隙を突いたように思えるのは、母池禅尼(和久井映見サン)の助命嘆願です。
 「頼朝は、亡き家盛(大東俊介クン)に似ている」 いう、従来の説を一応作り手は池禅尼に語らせますが、家貞(中村梅雀サン)との語らいで、「自分の意に沿わぬことをしようとしている清盛が、哀れなのだ」 という奥の手を用意します。 断食中の池禅尼は、家貞の 「われわれ年寄り」 という言葉に過剰反応して、白湯に口をつけてしまう(笑)。 ここで見る側を笑わせることで、「家盛に似てるから」 という通り一遍のお話を、より深くしていく。

 それにしてもこの壮年に差し掛かった池禅尼を演じる和久井サン、声がバーサマになってて(笑)。
 まあ声色で年を表現するのは、いわば小手先の技術であるように思えますが、なにしろ世代間の感覚が希薄なこのドラマ、やはり 「この人はこの人の親世代」、というようなことは明確にしておかないと、少々混乱いたします。

 あ~もう(笑)。
 終わんないよ、コレ(笑)。

 で、先の大河 「義経」 でもっとも初期のシーンだった、常盤が我が子牛若(のちの義経)を抱いて清盛と対峙する場面がここで挿入され、常盤の覚悟が描写されるのですが、「女房の時子がコワイから常盤を側室にはしない」 という名目で周囲を納得させ(笑)、まあ、昔の価値観で時子にそれを反駁させます。 「殿の威厳を増すことを妻の私がつまらぬ悋気(ケチ)で阻んでいると思われては堪りませぬ」 と(笑)。
 それに対して清盛は、「常盤はわが友義朝の大事な妻なんだからそんなことするかよ」 と言うのですが、それが本心なの?と問われて 「からかうなよ、コイツう」 と反応して、時子を完全に安心させてしまう(笑)。
 で、この回ラストで、その舌の乾かぬうちに常盤を手籠めにしてしまうのですが(ゲッ…笑)。

 清盛、お前ってやつは…。
 完全な大人じゃないの(笑)。 大物だなぁ…(笑)。
 ウソも方便(笑)。
 時子の報復が大変だ(「義経」 では、確か時子役の松坂慶子サンが清盛に対して、かなり辛辣だったよ~な記憶が…笑)。

 だからぁ~(笑)。
 本題が、いつまでたっても始まらない(笑)。

 で。

 頼朝の沙汰が言い渡される日。

 清盛は、義朝が一騎打ちの場に置いていった源氏代々に伝わる名刀・髭切を、その場に運ばせます。
 刮目する頼朝。

 「はよう…はよう殺して下さりませ…!」

 頼朝は、源氏の宝刀をむざむざ戦場に捨てていった父親に対する失望で、斬首を自ら申し出るのです。
 そしてその失望を、平氏に対する怒りに転化して、「まがいものの武士(平氏)がまことの武士(源氏)に勝ったその後の世界など、見たくない」 と、14という少年のあらん限りの恨みでもって、平氏の棟梁に吐き出すのです。

 その挑発に乗ったかのような清盛。
 にやりと笑いながら立ち上がり、頼朝に近寄っていき、鞘に収まったままの髭切で、頼朝をぶん殴る。

 その瞬間。

 頼朝は、義朝に、姿を変えるのです。

 なんと!

 …こんなこと、していいんだ(…笑)。

 そして清盛は、殴られて情けなさそうなツラを見せる義朝に、あらん限りの怒りでもって罵倒する。
 頼朝に言い聞かせながら、実はもうこの世にはいない、義朝に向かって、叫んでいる。

 「お前もそれで気が済むだろう…。

 ただ一心に太刀を振り回し、
 武士として生き、
 武士として死んだ。

 そう思うておるのだろう…。

 だがオレはどうだ。

 オレはこの先も生きてゆかねばならぬ。

 お前がおらぬこの世で、武士が頂に立つ世を切り拓いてゆかねばならぬのだ…。

 それがいかに苦しいことか分かるか。
 いかに虚しいことか分かるか…!(落涙する清盛)

 だがオレは乗り越える。
 乗り越えてこその武士じゃ…!

 醜きことにまみれようと、
 必ずこの世の頂に立つ。

 途中で降りた愚かなお前が見ることのなかった景色を、
 この目で見てやる…!

 そのときこそ思い知れっ!!

 源氏は平氏に負けたのだと…。

 あのつまらぬ乱を起こしたことを悔やめ!

 おのれの愚かさを罵れっ!!

 オレはお前を、

 断じて許さんっっ!!(髭切の鞘を抜く清盛、瞠目する義朝)」

 清盛は、髭切を、地面に突き刺します。 義朝はそこになく、頼朝がうなだれています。

 「…誰が殺してなどやるものか。

 まことの武士がいかなるものか、
 見せてやる…」

 頼朝は清盛を見上げながら、どこか眩しそうです。

 清盛は頼朝に、流罪を言い渡します。

 「遠く伊豆より平氏の繁栄を、

 …指をくわえて眺めておれっ!!」

 まるで仁王のような形相の清盛。

 頼朝はそのとき、父義朝と共通する志が清盛のなかにあることを確信するのですが、ここで清盛は、この道程がいかに苦しいものであるかを吐露しただけでなく、いかに虚しいものであるかを告白している、その重要性に私は注目します。

 まさに、一本気でまっすぐに生きてきたからこそ感じる、この世の濁悪さ。
 志を一にしながらも敗れ、死んでいった者たち。
 まっすぐな者ほど、その落胆は、大きいのです。

 で、その後清盛は、常盤にまっすぐに、突進していってしまうわけですが(爆)。

 戦いの高揚のあとの戦後処理。
 それが味わい深く展開していた、この回の 「清盛」 なのです(いろんな意味で…笑)。

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2012年8月 4日 (土)

「平清盛」 第27回 「宿命の対決」(7月8日放送)を見て

 前回のラスト、あれほど固い友情で結ばれていた信西(阿部サダヲサン)の首が吊るされているのを見上げて歯ぎしりし、「平氏は、源氏を滅ぼす!」 と憎しみを募らせていた、平清盛(松山ケンイチクン)。

 煽りに煽っていたクセして、今回(つーか放送もう1か月前)冒頭その清盛は、首謀者である藤原信頼(ドランクドラゴンの塚地クン)を 「断じて攻めようなどと考えるな」 と、平家一門が集まった席で厳命します。 もちろん企てに乗った源義朝(玉木宏サン)の軍勢とも、戦う意思なし。

 こちとら清盛の異母弟・平教盛(鈴之助サン)ばりに完全武装で観戦する気満々だったのに、「はぁぁ~~っ? な~言ってんだオメエ?(「カーネーション」 ファンのかたならピンとくるセリフです…笑)」。 アッチョンブリケ、なのであります(笑)。

 しかし侮るなかれ。
 ここには、今回後半につながる話とのメリハリを最大限につけようとした、演出の意図が隠されていました。
 清盛の意図がどこにあるのか、それを見る側に考えさせることによって、物語はキュンと引き締まり、そして最後には、清盛と義朝との、「完全なる一騎打ち」 という大舞台を用意していた。
 この 「一騎打ち」 の是非についてはのちほど述べるとして。
 全体的な盛り上がりを非常に計算した作りになっていた気がいたします。
 とーぜんシビレました。

 しかもこのドラマ、清盛の子らや義朝の子、さらに生まれてくる前の子にまで神経を張りめぐらし、一族郎党どころか公家のひとりひとり、さらには背景の天然コケッコーに至るまで(違うか)意味を持たせている。

 これじゃ私が個人的にこだわっている、平氏の経済基盤なんか、やってるヒマね~わな(爆)。
 けれどもこういう、戦いの機微によって清盛と義朝との違いを際立たせるような話をする際には、平氏の権力基盤とかはどーでもよくなり、このドラマの特徴が最大限に生かされてくる気がする。

 それにしてもこの、清盛の今回の駆け引きは、これまで稚拙で強引な交渉術ばかりを展開してきた清盛にあるまじき緻密さでした。
 思い返せば山本耕史サンの密貿易追求に完全に開き直り 「だってこっちのほうがいーじゃんよ」 と言い出したり(笑)、最近でも大宰府の役人に 「こっちには血の気の多い者もおるけんのう」 と恫喝したり(笑)。

 要するに、「押す一方」 なんですよ、これまでの清盛の交渉術というのは。

 それが今回は、これほどまでのことをされて、静観を決め込む。

 今回の 「引きの交渉術」 の背景には、どうしても清盛の側に的確な判断が必要です。

 まず、信頼らが後白河上皇(松田翔太クン)や二条天皇(冨浦智嗣クン)を人質に取っている以上、どうしたってそこに攻め込むとなれば、平氏の側が 「賊軍」 ということになってしまう。
 それを解消することが、今回の策の主眼なのです。
 「王家」 の人々を奪還するとなれば、今度は敵方の暫定政権の 「質」 というものを見極めねばならない。
 清盛は首謀者がデブ頼、ちゃうちゃう、信頼であることを知り、「この暫定政権の基盤はとても脆い」 ということに気付いたはずです(簡単なことですけど)。 そしてそれに付き従っている義朝が、一本気な性格のために、い~かげんな信頼とはそりが合わないことを想定したはずです。

 そして今回の策のいちばんの成功要素は、「平清盛という男はあくまでまっすぐで曲がったことが大嫌いだから、ぜったい信頼派を攻めにくる」 とみんなから思われていたこと、なのではないでしょうか。
 それがなかなか攻めてこない、ということに、信頼派のおじゃる丸たち(笑)は予想以上にビビりまくるのです。 もちろんおじゃる丸たちは、信頼の政治手法に、限りなく失望している、という要素が最も高いのですが。
 このお歯黒ブラザーズをビビりまくらせなければ、今回の策はいつまでたったって成功しない。

 …清盛、いつからこんなに頭がよくなったのだ?(笑)
 もう中井忠盛も真っ青な、いっぱしの策士ですよ、これは。
 しかし 「信頼さまに手出しは無用」 と平氏一族に告げたこの席での、盛国(上川隆也サン)や家貞(中村梅雀サン)の動きは、少し気になる。 おそらくこのふたりの入れ知恵なんだと思いますね。

 いっぽう。

 義朝はすっかり、清盛がすぐにでも攻めてくると、完全に思い込んでいる。

 今回の義朝の行動パターンを見ていて、「源氏には盛国や家貞のような強力なブレーンがいない」 ということを強く感じましたね。
 義朝はここで、天皇たちが自分たちの手のうちにあることを、とてもアドバンテージだと考えている。 そして清盛のことを、やはり完全に見くびっている。 「あいつはまっすぐで情に厚いから、矢も盾もたまらず100%攻めてくる」、と考えているのです。 で、「フフフ、いいぞいいぞ、攻めて来い、そうすりゃお前らは、賊軍だぁ~」 くらいの考えでいる。

 この思考パターンは、実に甘い、と言わざるを得ません。

 なにしろ政権基盤は、あのおデブチャンなのですから、かなりの神経を遣い続けなければ、すぐにでも崩壊する危険性が大である、と言わなければならない。
 源氏の軍勢は、じりじりと神経を擦り減らされたあげく、結局信頼から振る舞われた酒で気持ちが途切れてしまうわけですが、こうした経過というものを、大将たるもの、常に把握しておかねばならない、と私は考えます。

 これって、政権に就いたことのなかった民主党が与党になって犯した過ちに、ちょっとばかり共通しているような感覚がする。
 民主党はもともと自民党にいた議員たちもたくさんいたというのに、官僚主導の行政を議員だけでできるとタカをくくった。 自分たちが政権を取る前のマニフェストが、実行可能だと思い込んでいた。 実に甘い連中だったのです。
 政治の中心にいったん担ぎ出されると、細かい神経など、行き届かなくなるものです。
 義朝にはそんな、権力の座に就いた時のなりふりが、分かっていなかったのではないか。
 その政権のいちばん要である天皇家。
 それをみすみす清盛の側に渡してしまったことが、その甘さの象徴ともいえる。

 また、ここでの源氏が、東国武士としての荒々しさを脱却しきれていないことが、政権にどのような影響を及ぼすかに、義朝は気付いていない。 おじゃる丸たちは、田舎武士たちの行状に、さらに離反の気持ちを高めていくのです。
 もともと義平(波岡一喜サン)とかその弟とか、由良(田中麗奈サン)や常盤(武井咲チャン)の子ではない、東国の別の女房に産ませた子供でしょう。
 彼らは性格的に完全に荒くれ者で、かつ、権力についたことから、傲慢さに磨きがかかっている。
 つまり、ここでの源氏は、一族として修羅の結び付きから、脱却していないんですよ。
 これも大きなウィークポイントのひとつとなり得る。

 つまり義朝の器量では、政権の一翼を担う能力に、極端に欠けている。

 案の定、清盛の 「いったん死んだフリ」 作戦は功を奏し、おじゃる丸たちは清盛の側に寝返り、天皇らを奪還され、義朝ら源氏は一気に賊軍と化してしまう。
 「日本一の不覚人」 と義朝から烙印を押されてしまったデブ頼様(笑)。 「ハナからこれを狙うておったのでしょうな」。 摂津源氏の宇梶サンからまたも冷静な分析をされてしまう義朝。 怒りまくりながら守りを固めようとする義平。 どうもこの摂津源氏、いつもそっぽを向いてる。 「それでこそ清盛だ!」 と、この危機にもかかわらず、清盛との決着の定めにだけ、自分の生きがいを燃やしているような、義朝の常軌を逸した笑い顔。
 どうにも源氏方の結束の弱さが、ここに来て露呈していく感じ。 民主党と同じだなぁ~。 国民の生活が第一だけど~。 …あれ?「国民の生活が第一だけど」 という党名じゃなかったかな?(爆)

 平氏のいる六波羅に到着した二条天皇。 チップマンクスみたいな声で賊軍の打倒を清盛らに宣下します。
 この際、清盛たちの後ろにおわしますのが、なんか、天然コケッコー、じゃなかった、放し飼いのニワトリ(笑)。 清盛、王家をすでに、ナメきってます(笑)。 官軍とか賊軍とか、もう大義名分でしかないんですよ。

 そして戦闘突入。

 近年の大河には実にあるまじき、もう長年の便秘が治ったような(汚くてスミマセン)、堂々たる戦闘シーンでした。 なんかすごく久しぶりに、大河で戦さを見た、という感じがする。

 そしてこの戦闘シーンで、それぞれの源氏や平氏の子らが、先ほど述べたように、そのキャラクターを全開にして、後世への繋がりを予感させる作り(あ、戦闘前に、身重の常盤に義朝が 「この子は牛若、と名付けよ」 というダメ押しまで)。
 もう緻密すぎます。
 盛り込み過ぎなんだよ(青木ムネムネ弁慶に常盤を襲わせたりまでしている…ちゃうて…笑)。
 と言いながら、ちょっと嬉しい(笑)。

 そして激化する戦闘のさなか、平氏は退却していく。
 調子に乗ってそれを深追いする、源氏勢。

 ここも見ていて、義朝の戦下手というものが図らずも露呈してしまった気がします。
 いや、東国で幾多の戦をしてきた義朝だからこそ陥ってしまった失敗だった、と言ったほうが正しい。
 源氏の側は、全体的なアトモスフィアとしてイケイケドンドンなんですよ、常に。
 だから平氏の撤退に、たとえそれがおかしいと思っても、制御が効かない。
 義朝とその子らの連携というものはけっしてバラバラではない。 むしろ猛り狂っている点で統率に乱れがない。
 だからこそ、平氏の撤退に調子に乗って深追いをしてしまうのだ、と感じます。
 賀茂川を挟んで、平氏の弓矢隊の待ち伏せの場に来てしまう、源氏勢。
 「まんまとおびき寄せられたということにござります」 と、また冷静なアナライジングをするだけして去っていく、宇梶サン(爆)。 完全にハメられたタイミングで言うなよな(笑)。

 あ~あ、バラバラだ、源氏。 親と子の結び付きが比較的、戦功の取り合いに終始しているし、一族同士の結束も緩いし。

 がっくりと肩を落とす義朝。

 悠然と構える、清盛。

 どちらがいくさ巧者なのか。 一目瞭然のシーンです。

 「放てぇぇ~~~ッ!」 咆哮する忠清(藤本隆宏サン)。 いく千粒の雨の矢たち見上げながらうるんだ瞳はダイアモンド…じゃなかった(笑)いく千もの矢が、源氏方に降り注ぎます。 「レッドクリフ」 かよ(笑)。

 総崩れになる、源氏勢。

 …すごいな…。

 何回も書いて恐縮ですが、ホントにこういう戦闘シーンを大河で見るのは、久しぶりだ。
 近年すっかり牙を抜かれたNHK大河ドラマの戦闘シーンには、まったく失望しまくっていました、私。
 やはりね。
 戦のむごさを画面で実際に見せなければ、生まれない説得力というものが、あるんですよ、やっぱり。

 正清(趙珉和サン)に促されて、一騎その場から抜け出す、義朝。

 それをまた一騎、ただひとり追いかけてきたのが、清盛です。

 ここから双方の大将どうしの純然たる一騎打ちが、始まります。

 これにかんして、どうも現実離れしている?いや、これがいい?みたいなコメントを、かつていただいていました(スミマセン覚えてた…笑)。

 私はこの場面、いく千の矢のシーンを最終的な鳴り物にして実現した、歌舞伎の大見得のシーンのように思えてなりませんでした。
 「ワンピース」 じゃないけど、「ドンッ!」「ドンッ!」 という感じに見えたんですよ(よーするにマンガ的、とゆーことか?)。 「鋼の錬金術師」 みたいな(やっぱマンガだ…笑)。

 なにものにも邪魔されない一騎打ち、というのは、こういう大群どうしの戦闘のあとではどうしても現実離れしている、と言わざるを得ないのですが、やはりこれは、舞台劇のような興奮を呼び覚ましてくれる面がある、と感じます。

 「ダイ・ハード」 でも、最後はやはり1対1でしたし(笑)。

 個人的には、血わき肉躍りました。

 最後、とどめをあえて刺さなかった清盛に、負けを認め、フラフラと立ち上がり、その場を去っていく義朝。
 まるで為義オヤジ(小日向文世サン)の影が、そこに寄り添っているように見えた。

 あ~すごい。

 傑作でした~。

 以上。

 (あっさりしすぎ?…笑)

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2012年8月 3日 (金)

「平清盛」 第26回 「平治の乱」(7月1日放送)を見て

 まだ現在時点、この回を含めて5回のレビューが残されている(別に律義に書く必要もないかなとは思いますが…笑)「平清盛」 大遅刻レビュー(笑)。

 「へへへ…こんなの毎日書けばあっという間に追いつくぞ」 とばかり考えていたのですが、そーも行かなくなってまいりました。 この暑さで(笑)。

 考えてみればここ数年この時期って、暑さで疲労がピークになっていくのを、盆休みというゴールに向かって、息も絶え絶えに目指しながら突っ走っているような気がする(笑)。
 この暑さのなかで働いているすべての人に、心からエールを送ります。

 ただし今回のドラマで展開される 「平治の乱」 は、12月初旬(旧暦かな)のお話。
 ヒートアイランド現象なんかなかった昔ですから、京都はだいぶ涼しいはずです。
 しかしそこで繰り広げられる話は、梅雨が明けてから見てしまうと、だいぶ暑っ苦しくて(爆)。
 いや、「登場人物たちが、熱い!」 と言うべきでしょう(笑)。

 信西(阿部サダヲサン)が自害して果てたこの回、物語はやはり 「平清盛」 というドラマの特徴をかなりしつこく(笑)踏襲した作りになっていたように感じます。
 いわく、「古典からの引用」(「長恨歌」)。
 いわく、「さまざまな伏線の回収」(特に信西と清盛との回想シーン)。
 いわく、「始めと終わりの結びつけ」(前回でも由良が 「と父が」 とやってましたけど…笑)。

 これらの 「たたみかけ」 が功を奏していくなかで、私が見ながら考えていたのは、「義朝(玉木宏サン)が、前回頼朝(中川大志クン)との会話で自らのアイデンティティを回復したはいいけど、どーしてこう極端に走ってしまうのか?」 ということでした。

 義朝は今回夜討ち成功後、摂津源氏の頼政(宇梶剛士サン)から、「いささか浅慮ではないか?」 と、そこんところを突っ込まれてしまいます。

 それに対して義朝は、ニヒルに笑ってこう答える。
 「世に、示すためだ。
 武士の地位を高めるは、政(まつりごと)などではない。 力であることを」。

 「武士とは力を誇示してこそ」 という、義朝のモチベーションですが、義朝の側に清盛(松山ケンイチクン)が想定していたような、「武士の世の到来」 というものが、はたしてあったのかどうか。

 だいたいこの平治の乱の首謀者であると目される、デブ公卿の塚地クンなどは、後白河上皇(松田翔太クン)の寵愛を受けているというだけで、かなり頼りにならない。 信頼(のぶより)とかいう名前のクセして(笑)。

 後白河は後白河で、退位してまでしたかった面白き遊びって、デブ転がしかよ、みたいな(笑)。 彼は信頼に幽閉されても、大して慌ててないし怖がってないし、「幽閉されごっこ」 を楽しんでいるような感じなのですが、後白河が清盛のお膳立てした宋のお茶で退位を決めた、という経過が、ここで生きてない。

 で、そんな出たとこ任せっぽい塚地クンに結託してる、お歯黒ブラザーズも(爆)「おじゃる丸」 みたいな脳内お天気ヤローばかり(どうも品がなくてスミマセン)。 そいつらが、上皇側も二条天皇側もひとからげで幽閉したものだからなんとかこの暫定政権は機能しているようなもので、権力基盤がかなり脆弱に見える。

 そんな脆弱な基盤に寄り添っている義朝。

 「浅慮」 と指摘されても、いたしかたない部分が見える。

 感情的には 「信西さえ討ち取れば満足」、報奨的には、塚地クンから播磨守の地位をもらって(清盛の地位なのですから、要するに横取り、ってことですよね)、それだけで満足してしまうようなレベルでしかないように思われるのです。

 ドラマでむしろ強調されていると考えられるのは、「好敵手・清盛と勝負することに、自分のアイデンティティの帰結を求めている」、という傾向でしょうか。

 義朝はこの回、散々大胆なことをしておいて、「悪平太」 ならぬ 「悪源太」 の異名を持つ自分の長男・義平(波岡一喜サン…「ちりとて」 ファミリーですね)が憎々しげに、「清盛を待ち伏せて首をはねてやる」、などと意気込んでいるのを見て、かなり複雑な表情をします。

 これは息子悪源太の、その極端な猛々しさに義朝自身が気後れした、と見てとってもいい気がしますが、悪源太のその、修羅の道一直線の思考回路が、紛れもなく自分の心のなかにある、ということを知った、おののきでもある気もする。 そして 「義平なんぞに清盛を討たせとうない、清盛と決着をつけるのは、この自分だ」、という思いが募った一瞬ではなかったか。

 いっぽう、熊野詣の準備万端の清盛が、忠清(藤本隆宏サン)から義朝謀反の一報を聞いて漏らした言葉。

 「なんと浅はかなことをしたのじゃ、義朝…。
 あれほどゆうたのに…まだ分かっておらなんだか…信西殿は、武士の悲願を叶えるに欠かせぬお方ぞ!…俺がいますこしのぼるまで、なにゆえ待てなんだっ!」。

 このドラマで清盛が信西に対して抱いている感情が、比較的正直に語られているセリフだ、と感じるのですが、いっぽうで清盛と義朝との間に横たわる、「将来のビジョン」 に対する考えのずれが、やはりここに端的に表れているような気がする。

 つまり清盛は、信西を時代の武士の世における、精神的なブレーンになりうる、と考えている。
 悪く言やあ信西を踏み台にし利用しようとしている、ということですが、「平治の乱」 の回での清盛と信西との 「これでもか」 みたいな回想シーン(笑)のなかで、ただの駒では収まらぬ、パートナーとしての存在でもあったことが、信西の危機に際してクローズアップされていくのです。

 ただ個人的な感想を申せば、その 「これでもかこれでもか」 という回想シーン、結構くどかったけど(笑)そのわりに、エピソードの性格としては単純だった気がします(笑)。
 なんか、結構青春してるんですよ、清盛と信西(笑)。
 私がこのドラマ、いや、清盛に感じている、「なんとなくの上っ面感」 を、なんか、踏襲しているような感じ。
 平氏の権力基盤をもっと具体的に詰めていれば(あ~またかよ)、清盛と信西の友情にも、一定の厚みが出る、と感じられてなりません(耳タコ)。

 これに対して、義朝って、別に武士の世が来ようが来まいが、貴族や朝廷に取り立てられればいい、という感覚でしかないように思える。

 殿上人になるのが悲願だった源氏ですが、いざその立場になっても、馬の世話ばかりしているのって、結構アホみたいな取り立てられ方ですからね。
 だから義朝にとっては、信西入道も、「ただ役職をくれる上司」 みたいな感覚でしかない。
 なんか頼みに行くたびに、加藤虎之介サン(藤原師光)の邪魔が入ったりしてましたけど(笑)、いざ義朝が信西と腹を割って将来のビジョンを語り合えたか、というと、その可能性は極めて低いように思える。

 つまり、見つめている未来が、清盛と義朝では、どうも違っている。

 で、その虎之介サン(そっちにいきなり話が行くか)。

 義朝の襲撃を命からがら信西と共に逃げてきて、信西から 「ここほれワンワン」、ちゃうちゃう(笑)「ここに穴を掘れ」 と命じられます。
 そこはなんの変哲もない草むら。
 この穴のなかに私を入れてみな逃げよ、と信西は言うのです。

 人ひとり入れる穴を作ったりなんかしたら、土砂はまわりに大量に撒き散らされることになります。 却って目立つんじゃないの?つー感じですが(笑)、これは信西がなんとかっていう貴族として(えーと…)初登場した時のシーンを、結び付けている設定であるということは自明です。

 そしてその際虎之介サンは髷を切り、信西から 「西光」 という名前を、授かることとなる。
 これは 「西国に光あり」 という、仏教的な西方浄土を念頭に置いた名だとも思うのですが、それ以上にこのドラマでは、信西の宋国に対する思いを凝縮した名であるように私には思えました。
 この西光、このあといろいろとまた物語に絡んでくるようでありますね(不勉強な私は詳しく語りません…)。

 ただこの虎之介サン、なんか個人的には、見ていてとても、藤原成親(佐藤二朗サンが演じていた家成の息子)を演じている吉沢悠サンと、イメージ的にダブっちゃって、多少混乱しています(笑)。
 吉沢悠サンのほうは、蝙蝠のようにあっちに付いたふりをしてはこっちに付きしているあいだに、権力の動静を見極められないジレンマに陥っちゃっているご様子ですが。

 で。

 で…(笑)。

 私が 「今イチフツー」 と感じた、清盛と信西の馴れ初めから蜜月に至る(あーもー…)「これでもか」 の回想シーンですが。

 「己が誰なのか、分からぬのが道理じゃ…人は誰も、生きるうちに、己が誰なのか見つける…ははははははっ」

 「そなた自身にとって、平氏にとって、世にとって…災いとなるも、宝となるも、…そなた次第よ」

 「私も私の才を世に残したい。 この国では叶わぬのならば、宋へ参って…」

 「そなたは! あらたな荷を背負うた。 叔父を斬ったという重き荷を。 それはそなたにそれだけの力があるということじゃっ! 清盛…。 共に、世を変えようぞ…」

 「行けるぞ…宋の国へ行けるぞっ! これでかの国に学び、もっとよいまつりごとが出来る…」

 それらを懐かしげに、頼もしげに思い出す清盛。

 「誰でもよ~~~い! 誰でもよいゆえ、助けてくれっ!」

 その出会いのシーンで大穴にハマっていた信西と、絶体絶命の今の信西が、重なります。

 「清盛殿…。 助けてくれっ…!」

 そして再び清盛。 「俺は平清盛ぞ…! 者共続けぇーーっ! 平清盛は、断じて友を見捨てはせぬっ!!」

 ここでまた 「♪遊びをせんとや生まれけん」 の強制リフレインがかかっていましたから(笑)、この部分は言わば、「今回の感動ポイントは、ここで~す!」 と言っているようなものなんですが。

 つまり信西は、結構ぐーぜんによって清盛の苦悩ポイントで出現し(笑)、清盛の生きる指針を、的確に与えていった。
 ここにはなんの思惑も人としてのいやらしさも存在せず、ただひたすらまっすぐな、友としての共感があるのみなのです。
 だから叔父を斬らせたということも、その友情を試す大きな契機であったのであり、「新たな世を作る」 という純粋な動機に必要な犠牲だったのだ、という論理に通じていくような部分が見え隠れする。 叔父を斬らせたからこそ、清盛と信西のあいだには、揺るぎのない信頼(のぶより、じゃなくって)が生まれたのだ、という感じでしょうか。

 「平清盛は、断じて友を見棄てぬ」。

 自分が汚れて生きてきた人間だからでしょう、私はこの清盛のセリフが、まぶしく見えて仕方ありません。

 信西は自分から入った穴の底、薄れゆく意識のなかで、清盛が助けてきてくれた、という幻影を見ます。 しかし信西が手を伸ばした先には、追手がいた。 引きずり出された信西は 「やっと自分が誰なのかが分かった!」 と大きな声をあげて笑い、「我は、信西入道ぞ!」 と叫んで、自刃して果てる。 音声が、しばらくまったくなくなります。

 つまりここで作り手が指し示しているのは、「人というのは、死の間際に、ようやく自分という存在を見定めることができるのだ」、という考えなのだ、と思うのです。
 だから信西が死の直前に 「自分が信西だ、ということが分かった」 というのは、その言葉自体に、実は意味がない。 自分の人生というものは、自分で納得するしかないからです。
 そしてそれぞれの人が、自分の人生の正体を初めて悟るのが、自分の死の瞬間なのだ。

 そう考えると結構この場面も深いものがあるのですが、ここで 「そりゃ自分が信西だって、とーぜんでしょーが」 と思ってしまうと、とてもオチャラケた感想になってしまう。

 でもここで、信西が清盛に託していた友情まで思いが至ってしまう感想を抱くというのも、それはそれで話にハマりすぎ、という気もする。

 京入りした清盛は信西の首が軒先につるされているのを見て、嘆き悲しみ、義朝への憎悪を募らせていきます。

 「すべて終わりじゃ…義朝…もう取り返しがつかぬ…!

 これがお前の出した答えならば、受けて立とう!」

 「怒っておろう清盛…しかし怒りこそは力…力こそが武士の真(まこと)ぞ…。

 今こそ定めのときぞ…源氏と平氏、いずれが強いか…」

 「平氏は………源氏を滅ぼす!」

 「源氏は………平氏を滅ぼす!」

 清盛と義朝、互いの怒りによって、世が乱れていく様を、このドラマは実に精神的な精緻で、描き切っていきます。
 ただしそのためになおざりにされている部分も少々。
 どう見るかは、まさに見る側の気持ち次第と言っていいのではないでしょうか(あ~丸投げだ…笑)。

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