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2012年9月

2012年9月27日 (木)

読者の皆様がたへ

 少々体調が思わしくなく、しばらくコメント返信も含め、ブログをお休みいたします。
 治療によっては劇的に回復する可能性もございますが、そのときは復帰させていただきます。

 なにとぞ御諒解のほど、よろしくお願いいたします。

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2012年9月23日 (日)

「平清盛」 第36回 「巨人の影」(9月16日放送)を見て

 平家の棟梁として父清盛(松山ケンイチクン)から一切を任されたはずの平重盛(窪田正孝クン)。
 しかしさまざまな軋轢の板挟みとなり、にっちもさっちもどうにもブルドック…じゃなかった、完全にお手上げの状態となってしまいます。

 そこに現れたのが、今回出演場面が極端に限定されていた清盛。

 清盛はまるで救世主のごとくその場を収め、不敵にニヤケながら(あっこの 「にやける」 という言葉、「ニヤニヤする」 っていうんじゃなくて 「なよなよしている」、という意味なんだそうですね。 最近ニュースで知りました。 私も間違って使ってた…と言いながらまた間違えて使ってます…笑)退場していきます。
 ここに至るまでの心理戦、まことに今回は見ていて面白かった。

 しかし正直なところ、今回の話はレビューするうえでかなりメンド臭い説明を強いられます。 まともに最後までたどり着けるかな…。

 もとい。

 今回の話でことに興味深かったのは、かつては清盛危篤の際に賀茂川の濁流も乗り越えて見舞いにやってきて、清盛とはラブラブだと思っていた後白河院(松田翔太クン)が、なにゆえにその清盛に敵愾心を燃やすようになっていったのか、という過程です。

 そのきっかけには比叡山延暦寺という、信仰心をめぐる嫉妬がある。

 かつての市川雷蔵の映画 「新・平家物語」 でも僧兵は非常なインパクトでその存在感をアピールしていました。 いわゆる 「山法師」。
 仏教の元来のありかたからいくと、まずその存在自体が、暴力的な行為を行なって政治に介入しようとするもので、仏教的精神と相反する。 「抵抗勢力」、と言えば聞こえはいいですけどね。

 要するにですよ、ろくに教理を学ぼうともしない連中がおのれたちの言い分を仏の真言だと信じ込んでそれを暴力的手段で押し通そうとし、ヘッドの明雲(腹筋善之介サン)はチンピラ達の暴力行為を容認しつつ、「俺たちの言うことを聞かなきゃこーなるんだ」 と恫喝してるよーなもんでしょう。

 これってなんか…。

 …中国共産党がやってることと一緒?(また不穏な冗談だな…)。

 ともかくですね。

 ろくでなしどもが食いっぱぐれがないから僧兵になって暴れてる、いちおー読経ぐらいはできます、みたいな?(笑)。

 要するに仏教のありかたから逸脱している、権力との癒着や介入、誤った権威化が行なわれているから、為政者たちによって政局の道具にされる原因を明雲みずから招いている。

 この明雲を演じる腹筋サン。
 名前がオチャラケてるみたいだけどかなり物語に食い込んできましたね(笑)。
 見てるとなんか、アニメ好きな私には水木一郎サン(アニキ)みたいに見えてくるんですけど、アニキ並みにギラギラしてます(笑)。

 で、今回のドラマを見ていると、後白河が清盛と対立する最大の原因が藤原成親(吉沢悠サン)の処遇を巡るいきさつだったようにも思えるのですが、その支流をたどると信仰心の問題に行きつく。
 もちろんもっと源流をたどると、もともと清盛と後白河は付かず離れずのライバル的関係だったことに起因はしているんですけど。

 もともと、二条天皇の葬儀をメチャメチャにしようとボーソー族よろしくつるんでやってきたくらいの仲の良さだった(?)後白河と明雲一家(笑)。
 それに亀裂が入るのが、清盛が明雲のもとで剃髪をし出家したことから始まって、今回の冒頭で行なわれた千僧供養。 これによって後白河の嫉妬心からくる疑心暗鬼が肥大していく。

 「なにを企んでおる…?」

 西光(加藤虎之介サン)が西行(阿部サダヲサン)の夢だった 「遣宋使」 の発想を口にしたことで、後白河はやっと納得します。

 「出家をし、叡山と手を組む。 京を離れ、海の近くに住む。
 大船の入れる泊(港)を作る。
 なるほど。 遣宋使も夢ではない。

 だが。

 都を留守にするは賭けじゃ。
 おのれ不在の六波羅を、いったいどう率いるつもりなのか…」

 確かに清盛ほどの影響力のある人物が京を離れる、というのは、平家の権力基盤が脆弱になっていく大きなきっかけとなりうる。

 この後白河の指摘。
 これが今回のドラマの展開のカギとなっていきます。

 後白河の言葉を受けて、平家の棟梁となった重盛の偵察に行く成親。
 コウモリ男の本領発揮、と言いますか、先妻の子で深キョン(時子)の息子ではないことなどから棟梁となったことを不安がる重盛をおだて、自分の妹を嫁に出したんだからとお追従を言いながら、「小物が…」 と裏で嘲ることも忘れない。

 話が分かりにくい向きにとっては、ここはひとつのポイントですね。
 成親は、自分の妹であるモー娘。の高橋愛チャン(経子)を、重盛に嫁がせている。
 だからこの後、成親が問題を起こしたときに、重盛は女房の兄である成親を本当はかばうべき立場なのに、清盛の命によってそれが出来なくなって板挟みになってくる。

 話は戻りますが。

 清盛が比叡山と密接な関係(なんかヤラシイな)になっていくのが、後白河としては面白くない。
 後白河は、山法師の不如意を克服するには、その信仰の頂点に立たなければならない、という判断をし、出家をして上皇から法皇になる決心をします。
 だけどこの手続きに、後白河は信仰心の嫉妬から、比叡山ではなく、比叡山と敵対する仏教勢力であった園城寺を選ぶのです。

 そすっとそれが延暦寺にとっては面白くない。 「王家」 の慣習で、みんな出家は延暦寺が取り仕切ってきたわけですから。

 明雲たちが苦虫をかみつぶしながら、「何ぞ貶める手段はないものか…」 と考えていたその矢先、先に述べた成親の問題が発生するのです。 タイミングいいなあ。 中国大使が亡くなったみたいな感じだ(また不穏な冗談)。

 その問題とは。
 成親が治める尾張国の役人が日吉(ひえい)の社に仕える神人(じんにん)と衝突し、死者を出したのです。

 よーするに聖職者を殺しちゃった、つーことでしょうか。

 明雲たちはこれ幸いと大量のゴロツキ、いや違った僧兵たちを引き連れて後白河と滋子(成海璃子チャン)の幼い息子である高倉天皇のところへ向かい、成親らの流罪を求めて強訴に踏み切る。 後白河が大した取り調べもしないで成親らを不問にしたからで、まだ年端もいかない高倉天皇を困らせることで、思いっきり後白河に対して嫌がらせをしとるわけです、この生臭坊主らは(笑)。

 成親を本来取り調べしなければならないのが、これがV6の森田クン(時忠)で。
 検非違使とか言ってたから、現在で言うところの警察でしょうかね。

 この時忠。

 これが滋子の兄、つーわけで、時子が姉。

 つまり重盛にとっては、同じ平家でも時子派で、ゆるやかな敵対勢力なわけですよ。

 ここらへんの関係がサッサッと脳裏に出てこないと、重盛が追い込まれていくからくりがとっさに呑み込めない(書いてても非常にメンド臭い)(番組HPのあらすじ読んでくれ、という気になってきた…笑)。

 重盛は重盛で、成親に泣きつかれて、山法師を追っ払うのは義弟の自分に任せてくれと約束したはいいものの、集めた兵をどんなことがあっても動かすな、という父清盛からの伝言が届いて狼狽します。 清盛の意向は、叡山と敵対してはならない、というものなのです。

 重盛にとっては、「はぁ?」 という感じであり。 じゃ自分の身内の成親は見殺しですかぁ~っ?

 清盛の基本的な考えは、「いくら成親が流罪になっても、救う手立てはいくらでもある」、ということ。

 この場合、清盛の楽観的考えが、重盛にみなまで伝わっていない、ということが、今回重盛が追い込まれていく主因であろうか、と私は考えます。
 清盛の失敗は、息子重盛が平家の棟梁として一抹の不安があると分かっていながら、こういう重大案件が発生した時に自らの意図がどこにあるのかを、重盛にきちんと伝えようとしていないことにある。 流罪を取り消すにはこういう方法があり、その流罪の期間はどれくらいになるのか。 成親には重盛はどうやって納得させればよいか。 自分の息子に不安があるならば、こうした重大局面では手とり足とり教えていかねばならない。

 それは確かに自分の息子を成長させるための清盛なりの親心だったかもしれないけれど、そのことで生じる息子と 「時子派」 との軋轢にまで、清盛は神経が行っていません。

 つまりこの事情は、清盛が都にいないから分からないのです。
 自分の危篤がきっかけで、平家に亀裂が入りつつあることを、清盛は把握していない。 このことは物語のうえで重要だ。 とりわけこのドラマでは 「さわやか清盛さん」 キャラだから、余計にそうしたドロドロに気付かない、という意図的な話の組み立てをしているとも思えます。

 うろたえる重盛を、宗盛(石黒英雄サン)が怪訝な顔で一瞥します。
 森田クンがまいた種(平家の棟梁となるべきは、時子の長男であるお前だ、ということ)が、むくむくと育ち始めていることを予感させる、危うい場面です。

 結局重盛は、義理の兄である成親を見棄てることになる。
 成親はこたびの件で、清盛に対する憎しみを増大させていくのです。
 重盛が成親に対して、「流罪になってもいくらでも救えます」 という清盛の意向をきちんと伝えていないことが、ここから分かります。 重盛が、清盛の真意を分からぬまま行動しているからです。 つまりこの後の遠因を、清盛自身が作ってしまっていることになる。

 この、「相手に伝えなければならないことが伝わっていないこと」 からくる、小さな防波堤の亀裂が徐々に大きくなりつつある描写は、見ていてやはりシビレますね。

 清盛は伝言のなかで、「平家の力なくしてはあなたはなにもできませんよ」 ということを後白河に思い知らせることが真意なのだ、と語っています。
 でも重盛には、その方法が分からない。
 重盛にしてみれば、「細かくレクチャーしてくれよ」 という気持ちと、「いったん平家の棟梁と決まったからにはオヤジにいちいち聞くのは沽券にかかわる」 という気持ちとが頭の中でぐるぐるしちゃってるわけですよ。

 結局なんだかんだあって(説明放棄…爆)(番組HPで細かい話は確認してください…笑)(だって事態がコロコロ変わるんだもん!って逆ギレかよ)、清盛の言うとおり平家の兵を六波羅に集めるだけ集めた重盛は、「どーしてわけも分からずこんなに兵を集めるの?」 という身内の平家、そして 「んなんじゃコリャあ~~っ!」 と現れた後白河(お父様のネタでスミマセン)と、「何事でおじゃるか?」 とやってきた藤原摂関家、「またまた私を裏切るつもりか、弟よ~、弟よ~」 という内藤やす子…じゃなかった、成親との二重三重四重の板挟みとなってしまう。

 重盛の進退きわまったとき。
 馬のいななきが轟きます。

 スローモーションで貫録たっぷりに現れる、赤い法衣の清盛。

 「父上…」

 情けないような、安堵したような声を出す重盛。

 「これはかたがた」。

 清盛は、その場を制するような威厳を保っています(と、日記には書いておこう…)(古いネタばかりでスミマセン)。

 「何事にござりますか?」

 とぼけたような清盛の言葉に、後白河が怒りを秘めつつ静かに訊き返します。

 「…そなたこそ、これは何事じゃ?」

 「ん? 『これ』 とは?」

 「とぼけるでない。 この兵はなんのために集めた?
 強訴を阻むためか?

 (大声で)それとも加担するためかっ!」

 清盛、眉ひとつ動かさずいわく。

 「これは異なことを仰せになる…。

 武家館(やかた)に兵が集まり教練いたすは、常日頃のことにござりまする」

 「…では、なにゆえ都に戻った…?」

 清盛笑みていわく。

 「比叡山に参るためにござりまする」

 「比叡山じゃと…?」

 「いったい何用あって?」 色をなして成親いわく。

 「なあに。 ただの山登りじゃ。
 毎日海ばかり眺めていておっても、飽きるゆえのう」

 清盛のとぼけた応答に、後白河は憤然とその場を立ち去って行きます。

 兵を大勢集めたことを、これは単なる示威行為であり、別に意味はないと清盛がそこまで重盛にレクチャーしていれば、かかる事態にまで発展はしていないはずです。
 清盛の胸の内には、「自分がいなければ非常時にメチャクチャになる」 という自らの存在感をアピールする狙いもあったのかもしれませんけど。

 清盛のとった一連の行動に、駆け引きとはこういうものだ、ということを思い知らされたのか、父親の存在感に威圧されたのか、重盛はいたたまれないような、厳しい表情を崩しません。

 正直申しまして。

 この場面、ワタシ的には清盛にあまり威厳というものは感じませんでした。

 ただ感じたのは、意味のある動きを意味のないものと突っぱねて相手を翻弄しようとする、清盛の手練さです。
 それをいかにも若々しい演技で松山クンは展開している。
 若々しく屈託がないからこそ、こうした手練ぶりに相手が反論できなくなってしまう、ということを表現しようとしているのかな、などと感じました。

 見ている側としては、清盛がもっと貫録を持っていかにもヒヒジジイみたいに演じてくれることを期待したい向きもあろうか、と思うのです。
 でも私が見る限り、演者は 「意図的に」 それをやっていない。
 いずれにしても清盛がちょこっと出てきただけで、もつれにもつれていた糸がするするとほどけていく快感、というものはあった気がします。

 清盛は、おのれの道はおのれで切り拓いてきた、という人生を送っています。
 いかなる試練にも、結局は自分で考え、自分で答えを探してきた。

 だから自分の息子にも、それができると思っている。 一抹の不安を残しながらも。

 でも父親と息子の生き方って、かなり変わらざるを得ない局面というものは常に存在している、と私は感じるのです。
 時代は変わり、状況も環境も刻々と変わっていくからです。

 ことに重盛の場合、自らが棟梁として率いるには、平家の勢力は強大になりすぎているきらいがある。 清盛は自分がそうやってきたから自分の息子にも、自ら考えさせ判断させようとしたのかもしれませんが、この場合は帝王学をみっちり叩き込むべきだったように思われる。

 結果的に清盛は、自分の存在をあらためて世に知らしめた、と言えるのですが、それはいっぽうで、重盛の力のなさを露呈させ、藤原摂関家にも 「平家のウィークポイント見つけたり」 とほくそ笑ませる結果を招いている。

 そして成親は成親で、平家に対する憎悪を募らせていく。

 今回後半、話がかなり錯綜したのは、後白河が自分の側近である成近を助けようと、V6の森田クン(時忠)の処遇をダシに使ったことが原因だと思われます。
 朝令暮改の連続(笑)。
 これをはたで見ていた藤原(九条)兼美(相島一之サン)は、「お気に入りの側近のために勝手を繰り返し、あげくこうして屈するとは。 まさしく、有りて無きが如し沙汰。 (後白河)法皇様の行なっておられるのは、もはやまつりごとに非ず。 天魔の所為なり」 と呆れ果てます。
 これも兼美の今後を占うセリフのひとつかな。 いちいち盛り込み過ぎなんだよこのドラマ(笑)。

 盛り込み過ぎだと言えば、源氏側の動きも作り手は怠っていません(笑)。 別に今回は話がややこしいから源氏を出さなくてもいいと思ったのですが(笑)。

 特筆すべきことがない頼朝・政子ラインですが、今回冒頭で 「天狗」 ぶりを披露したのが、大きくなった義経チャン(神木隆之介クン)。 お寺の和尚さんが滑ったところにあっという間に駆けつけ転倒を防ぐのですが、番組HPではその瞬間があらすじのところに写真で載っています。

 これ、結構笑えます(笑)。

 とりあえず貼っときますね(笑)。 → http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/story/36.html

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2012年9月16日 (日)

「平清盛」 第35回 「わが都、福原」(9月9日放送)を見て

 いや~、キョーレツですなあ、杏サンの北条政子(笑)。 土曜ドラマ 「負けて、勝つ」 ではお父様の渡辺謙サンが烈々たる吉田茂を演じておりますが、娘のほうがキョーレツです(笑)。

 とは言うものの、今回の話の中心は、清盛の腹違いの弟、頼盛(当ブログではAAAの人でおなじみ…西島隆弘サン)の動向でした。
 ただ、注意深く見ていたつもりでしたが、頼盛が職を何度か解かれるたびに説明される話がとても抽象的。

 最初、皇太后宮権大夫という職を宗盛(石黒英雄サン)に横取りされるような形で失ったときは、かつて清盛(松山ケンイチクン)も就いていた九州の要職、大宰大弐も頼盛は兼務していたようなのですが、「九州と都のふたつを切り盛りする大変さは分かるが、それで勤めを怠る言い訳にはならない」 という叱責を、清盛から受けています。

 そう怒られても、どう怠ってるのかまるで分かんないし(笑)。

 しかも頼盛、今度は後白河院(松田翔太クン)の疎まれている息子の以仁王-八条院ラインの駒として、なかなかなれなかった参議に取り立てられたはいいものの、あっという間に解任されてしまう。
 その理由というのが、自分を取り立ててくれた以仁王-八条院に尽くした結果、後白河-滋子(成海璃子チャン)ラインに尽くさなかったというものだったのですが、どう怠ったのかの描写が一切ない。

 つまり頼盛は2度とも、後白河院へのお勤めを怠っている。
 これは頼盛の性格によるものなのか、単に事情が悪くてたまたまなのか。 頼盛の人物を見る側に理解させるためには、この描写は必須じゃないのかなーと思うのですが。

 その頼盛。

 自分は清盛の兄上とは腹違いだし、保元の乱では造反しようとしたし、なかなか出世できないのはそのためだとばかり考えていた。
 しかし今回後半で清盛から福原遷都の壮大な構想を聞かされ、自分はその夢に欠かせない人物なのだということを清盛から諭されて、長年のわだかまりが解けた。
 この今回の結論。

 「頼盛。

 (そこに)海が見えよう。

 そこに見えるは大和田の泊まりじゃ」

 と清盛に言われたものの、画面に見えるはずの港は、ホワイトアウトしてよく分からない。
 福原遷都に向けて清盛が行なっていると思われる土木工事とかその成果とか、ビジュアル的な説明が一切ないために、頼盛も思わず感嘆してしまう説得力が伴ってこないのです。

 予算がないのだろうな、という予測はつくのですが、これはどうしても、具体的に見せる必要があると思います。

 このドラマが精神性を重視しているのは、ひょっとしてそういう台所事情が絡んでいるかもしれないのですが、ビジュアルで福原開発を見せなければ、分かりにくいドラマがますます分かりにくくなるスパイラルに陥る危険性は増します。

 だいたい世代的な上下関係自体が分かりにくいんですからね、このドラマ。
 この分かりにくさの元をたどれば、主役を若者にしすぎてしまった、ということに行きつくと思う。
 松山ケンイチクンを別に責めるものではありませんが、清盛の弟がAAAの人で、清盛の息子が窪田正孝クンで、という年齢差って、どうも混乱のもとになっている。 松山クンが若すぎるから、年齢を離した親子の設定が出来ないんですよ。

 そのなかで今回、頼盛の葛藤よりも重きが置かれていた、と感じるのは、「白河法皇の三不如意」 をどのようにして克服するのか、という清盛の行動だった気がします。

 まず、「山法師」 を克服するために清盛が取った行動が、その山法師のヘッド(比叡山延暦寺の明雲)に出家のための剃髪をお願いする、ということ。

 「私はこれら(三不如意)と真摯に向き合い、また、手を携えてまいりたいと考えまする」。

 つまり、いたずらに敵対して憎悪を募らせるのではなく、共存の道を探る。

 領土問題も同様にならんもんでしょうか(別問題だけど)。

 そして 「賀茂川の流れ」 に関しては、頼盛に語った福原開港の開発工事に伴って解消できる性格のものであることが、説明されていました。

 もうひとつの 「賽の目」。

 盛国(上川隆也サン)から、「殿の目指す国づくり、たやすくは行きますまいな」 と話を振られ、後鳥羽や藤原摂関家、山法師たちという障害にどう対していくか、清盛はこう答えます。

 「向こうがいかなる目を出してくるか。

 それにいかなる目で応えるか。

 考えただけでぞくぞくとするわ」

 「私は、そんな殿をお側で見ておるだけで、ぞくぞくとしてまいります」

 頼もしげに、逆光の中の清盛を見つめる盛国。

 清盛は 「賽の目」 の不如意をどう克服しようとしているのか。
 それに対する答えは、私が見ている限りでは判然としません。
 ただ、自分の意志ではどうにもならないサイコロの目を、相手との駆け引き、やりとりの面白さという発想に自らを転換させ、「子供が遊ぶように無心に」 なってサイコロを振り続ける、という前向きな生き方で、清盛は克服しようとしている、そう私は考えてみました。

 清盛は、沈む夕日を感嘆します。

 「なんとも美しい夕陽じゃ…」

 「明日も、晴れましょう」

 ここで盛国がつぶやいた、「明日」 という言葉。

 これが今回の 「頼朝パート」 と繋がっているキーワードのような気がします。

 頼朝(岡田将生サン)は相変わらずフヌケの状態が続いている。

 「今日…。 いつ今日になったのだ…。
 いつ昨日は終わった…?
 明日はいつ来る?」

 従者の籐九郎(塚本高史サン)は、答えられません。

 そこに嵐のように現れるのが、杏サン演じる、北条政子なのですが。

 これが冒頭にも書いたとおり、「ワイルドだぜー」 を絵に描いたような野生児ハリマオで(笑)。

 「オヤジの義朝は勇ましかったのに、あんなフヌケのプレーボーイに峰サンの娘みたいに手籠めにされてはかなわん」 と北条時政(遠藤憲一サン)の友達連中のあいだで縁談話が持ちかかるや否や、イノシシを背負って現れ(爆)「オヤジ、今晩のオカズは牡丹鍋だ!明日もホームランだ!」「コラ政子!なんばしよっとかいなこの子はいつもぬぼーっとしてたまにはシャンプーせんか!」 というやりとりをオヤジと展開し、結局 「今の話(縁談)はなかったことに…」(ハハ…)。

 その政子、イノシシを投げ捨てたその場から逃げてきて(笑)、伊豆のきれいな夕焼けに、ことさら感動するのです。

 「おお! 夕日が美しぃぃーーっ!

 娘らしゅう一日中家に籠っておってみよ!
 この日暮れの美しさなど分かるまいっ!」

 そしていかにもがっかりしたように、ため息をつきます。

 「あ~あ。

 もう今日が終わるのか。

 もっともっと!遊んでいたいが!」

 そこにつむじ風と共に現れるのが、今日が昨日だか明日だか分からない、フヌケの頼朝なのです。

 政子は頼朝をもののけと勘違いし、次に出会ったときに一網打尽にします(四文字熟語の用法あってるかな?…笑)。

 「捕まえたぁぁ~~~っ!」(笑)。

 これを見ていて思ったのですが。

 夕陽を見て同じように感嘆する、政子と清盛。
 政子って、悪平太時代の清盛にとても似ているんじゃないか、って。

 つまりあの時代の清盛も、自分の思うがままに日々を暮らしている政子も、明日という日をとても肯定的に捉えている。
 政子は知っての通り、これから頼朝を後ろから強力に支えていく力となります。
 明日も今日も所在が分からぬ頼朝にとっては政子も清盛も、「ポジティヴに明日を見つめている」 という点で、彼自身の人生の道筋をつけていく同ベクトルの存在にこのあとなっていくのではないだろうか。

 なにしろ福原遷都の意義とか三不如意の克服とか頼盛の確執とか、こまごまとした話は全部ブッ飛んだ、杏サンの演技には拍手を送ります…(笑)。

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「ゴーストママ捜査線~僕とママの不思議な100日」 最終回まで見て

 いや~、ベタだと承知していながら、毎回のように泣かされました、このドラマには。
 最終回も都合2回はボロボロ泣いて。

 話の組み立てとしては、毎回先がホントに読めて(笑)ゴーストとしての設定も突っ込もうと思えば突っ込めることが多くて(たとえば物は触れないのに、ちゃんと地面には物理的に触れているとか、影がちゃんとあるとか)、正直言って理屈でドラマを見ようとすると、かなり抜けベンベンなドラマでした。

 でも、なんか見ちゃう。

 どうしてこういう、失礼な物言いですが質的に高くないドラマを見続けてしまったのか、ちょっと考えてみたんですけど。

 もともとゴーストが人間と関わろうとする話というものには、結構興味が惹かれる、ということがまずあると感じます。

 このドラマのプロトタイプとして私が真っ先に思い描くのが、「ゴースト~ニューヨークの幻」。
 この映画でゴーストを演じたパトリック・スウェイジは、現実でもかなり早死にをしてしまったのですが、映画での彼は思い残すことがあって、死んだあとも恋人のデミ・ムーアのもとに居残ってしまう。 そしてそれが解決した時に、彼は天国へと旅立っていくのですが、この状況と天国からのお迎えが来る時の描写を、この 「ゴーストママ」 では踏襲している。

 それ以外にも、物が触れるとか相手に思いが伝わるとか、このドラマは 「ニューヨークの幻」 で提示された面白さを、きれいになぞっているように感じます。
 これらの要素は、なんか見ていて楽しいんですよ、やっぱり。

 そしてもうひとつ、このドラマを見続けてしまった要因としては、ドラマに安心感がどっしりと座っていた、ということです。

 「ニューヨークの幻」 とまた比較してしまいますが、あの映画では物語の核に恋人どうしの愛情というものを据えていたけれど、「ゴーストママ」 では家族の愛情というものを中心に据えていた。
 そしてこの家族の構成員をあくまで屈折させずにカラッとまっすぐに演じさせることで、見ている側が安心できてしまう。

 それはとりもなおさず、「家族みんなで見ることのできるドラマ」 という長所に繋がっていると感じます。 おそらくこのドラマが求めていたものは、そこだった。

 要するにこのドラマ、「ニューヨークの幻」 の手法を借りて、大昔のホームコメディを目指している。
 日テレで土曜夜9時の同じ枠で大昔やっていた(大昔かよ…)「池中玄太80キロ」 なんかのほうが、よほど屈折している話だったように思えます。 このドラマは 「池中玄太」 よりも昔の 「サザエさん」 的なほのぼののほうが近い。

 このドラマ、原作漫画があるらしいのですが、かなり設定を変えていたようです。
 主人公をゴーストである仲間由紀恵サン(蝶子)に設定し直しているのもそのひとつ。
 原作では蝶子の息子であるとんぼクンが主人公らしい。

 正直申しまして、このドラマの第1回を見たときは、仲間由紀恵サンはなんとなくわざとらしいコメディエンヌぶりだし、とんぼクンを演じた君野夢真クンも 「最近は子役がもてはやされすぎ」 とか眉をひそめるような感覚でした。
 でも回を追うごとに、仲間サンのウザったさが(笑)なんとなくクセになってくるし、君野夢真クンの演技は自然さが加速度的に増していった気がする。

 それ以上にワザトラシかったのは、蝶子の夫でとんぼクンの父親、航平を演じた沢村一樹サン(笑)。
 この航平という人、とても屈託がなくてこんなにいい人って世の中にいるのかってくらい素直な人で。
 沢村サンのせくすぃ~ぶりを知っている視聴者からすると、あまりにまっすぐすぎて極度につまんない役なんですよ(笑)。

 しかし、、この3人の屈託のなさが、ドラマの純真さを引っ張っていくかなり重要なファクターとなっている。
 それにとんぼクンの腹違いのお姉さん(つまり蝶子の産んだ子ではない、航平の前の妻との子供)である葵(志田未来チャン)の、継母に対するちょっと屈折した気持ちがまっすぐに修正されていくのが気持ちいい。
 これも、葵の本来の素直じゃない性格を残しながらだから、見ていて不自然さを感じないのがいいんですよ。

 すごくノーテンキで、何も考えていないように思えるこのドラマなのですが、そんな意識的にやってる抜けベンベン、というのも、安心感につながっている部分なのかもしれません。

 だから、このドラマを見るときは、小難しい理屈なんか考えず、家族で笑って泣きましょう、というスタンスがいちばんいい。

 最終回では、ドラマ途中でなんかご都合的に心筋梗塞で死んでしまった蝶子の上司(笑)三船(生瀬勝久サン)の心残りだった、自分の息子(塚本高史サン)との確執に決着がつき、三船のおじちゃんは天国に旅立っていきます。

 終始オチャラケ気味だった生瀬サンが最後に見せた笑顔。

 やはり自分の死ぬ時も、自分が旅立つ時も、残された人たちには笑って手を振り旅立っていきたい、そう思うのではないかなんて感じました。 生瀬サン、締めるときは締めるなぁ。

 そして長いこと蝶子ととんぼクンが秘密にしていた、「お母さんがまだ近くにいる」 ということを、沢村サンが知った瞬間。
 ここも、沢村サンがそれまで屈託のない人物を演じ切ってきたからこそ生まれる感動があったような気がします。 ボロボロ泣いた1回目(笑)。

 そしてボロボロ泣いた2回目は、仲間由紀恵サンが旅立つその瞬間、沢村サンにも未来チャンにも仲間サンの姿がはっきりと見えるようになったとき。
 今までお母さんのメガネをかけなければとんぼクンにしか見えなかったその姿。
 やはり見ている側としては、ずーっともどかしかったんですよね。
 これを最後に見ることができた、というのは、ドラマを作る側の良心の表れだし、こうでなくては最後にモヤモヤとしたものが残ってしまう。

 このドラマを貫いていたのは家族の愛情だ、と先ほど指摘しましたが、家族の愛情って、実はいつも照れくささや、逆に作用してしまう憎しみとかにかき消されてしまうことが多い。
 逃げずに真正面から、(ほぼ)毎回このドラマはその部分を執拗に描写していた気がします。 生瀬サンと塚本クン親子の話も結局そうだったし。

 そしてなんとなくウザかった仲間サン(もとい蝶子)が天国に旅立ったとき、あのウザったさがなんとなく恋しくなる。 ゴーストなのに、お化け屋敷でユーレイにビビりまくったり(笑)、毎日授業参観状態でとんぼクンに文句を言われたり。 でも全力で、蝶子は家族を愛し続けたからこそ、あの騒々しさがなくなってさびしく思う。

 それも作り手の計算のうちだった、と腑に落ちるのです。 だから、最後に天国に旅立ったあとの蝶子のナレーションで終わっていくドラマの構成に、やっぱり安心してしまうのです。

 そして、死んでいった者たちは、いつも家族の幸せ、成長を願っている。
 最終回で語られたテーマのひとつは、あの大震災で亡くなった人々から発せられた、生き残った人々へのメッセージでもある気がするのです。

 なんだかんだ言って、心があったかくなるドラマでした。

 今年の夏は暑すぎて、あったかくなると困りものでしたが(笑)。

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2012年9月 9日 (日)

「プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル」 気さくな求道者

 高倉健サン。 一時期健サンの出る映画にハマっていたことがあります。 時期的に言うと、「駅STATION」 から 「夜叉」 あたりまで。

 私が考えている高倉健サンのイメージは、役に対してあくまでストイック、周囲の人々に対しての礼儀正しさが半端ではない、それなのにとても気さく。

 今回のスペシャル番組は、私が健サンに抱いていたイメージそのままに進行していったのですが、私のイメージ通りでいながら私の想像を大きく超えたレベルで、それらが展開していました。

 まず 「役に対してあくまでストイック」 という点。
 健サンはいったんその役が決まると、その物語の舞台となる土地について書かれた本を読みあさり、その土地に対する知識を深めていく、というのです。
 まさかここまでとは。

 そして周囲の人たちに対しての礼儀正しさ。
 サインをもらおうと駆けつけてきた子供たちに、「ひとりに書くとみんなに書かなきゃならないから」 と言いながら、「じゃああした来いよ」 と、あらためてサインをすることを約束する。 そこにひとり、色紙を持って現れた男の子に、色紙を持って来られたのでは…、と丁寧にサインをする。
 健サンが何者か知らないようなガキ共にですよ。 腰が低い、というのじゃなくて、誠実なんですよね。

 そして気さく、という点。
 少々乱暴そうにも思える言葉で人をからかったりする。
 これが、共演者だけでなく撮影スタッフでもテレビ取材スタッフでも同様なんですよ。
 とても体温を感じる。

 これがですよ。

 まず撮影や、映画製作が動いている期間だけなんですからね。
 映画が終わると、健サンは数年間、姿を消すという。

 これってすごくないですか?
 高倉健という人の体温を感じることができるのが、その映画が動いている時期だけなんですよ?

 番組では、健サンの散髪をほとんど毎日している、という床屋さんもいらっしゃいましたが、そうやって健サンと日常的に触れ合っている人って、ごくまれなんじゃないでしょうかね。
 ホントに映画が終わったあとの健サンの消息って、聞かないですもんね。

 そんな健サン。

 もう今年、81歳だというから、なんかそれだけでこちらもいろんな感情が湧き出てきます。

 今回の映画 「あなたへ」 で共演したなかで、健サンより年上なのは、大滝秀治サンのみ(87歳!)。
 その大滝サンとの絡みのシーンで、健サンは思わず、泣いてしまいます。
 それは、大滝サンのしゃべったセリフが、どういう意味だったのかを、健サンがその本番でようやく理解したからだったのですが、私はそれ以外にも、もうこの先あまり映画を撮ることはないだろうと自覚している健サンが、大先輩である大滝秀治サンとのシーンに特別の感慨を抱いているようにも思えました。

 若い世代とのふれあいでも、健サンは自らのスタンスを、押し付けではなく託したがっている。
 役者とは何なのか。
 役者を生きるとはどういうことなのか。

 興味深かったのは、来年の大河ドラマで主役を演じる、綾瀬はるかサンとの雑談です。
 綾瀬サンはなんとなく、天然色の濃い女優さんだと私は考えているのですが、大御所も大御所である高倉健という役者に対しても、まるで屈託がない。 まあ、「女優という生き物」 を体現しているような女優さんだと思います。

 「耳が…耳が大きいですね」(笑)。
 綾瀬サンはなんたる失礼か!みたいな話題を健サンにいきなり振ってきます(スゴイず太い神経だ…笑)。 「福耳。 福耳」(笑)。
 それに対して健サンは、「いやいや、絶対福じゃないよ」 とかわします。 「不幸の連続だもん」。

 いったい健サンの言う不幸って、なんなんだろう?って、考えてしまいました。
 もしかして江利チエミサンのことかな? まあ、仕事になるとこき使われる、みたいな意味でしょうけど。

 健サンは、俳優業の浮き沈み、ということを、今売れっ子の綾瀬サンに言いたがっているようです。

 「みんな、おいしいこと、言って来るでしょう?
 だんだん、売れてくればくるほど、言ってくるよ」

 「そうですか?」

 「うん。
 売れるか売れないかだもん、まず。

 あなたが幸せか幸せじゃないかより、売れるか売れないかだよ。
 それはもう事実だ」

 綾瀬サンは、ここで 「役者だけが人生ではないのでは?」 という、大俳優に対して実に覚悟の座ってない不遜な言葉を(笑)投げかけます。

 「でも、仕事は人生じゃないですよね?
 人生? 人生のひとつ?」(ああ~すごいタメ口だ…笑)

 それに対して健サンは、「まあ、俳優業といってもいろんな覚悟の人がいるから」 という感覚なのか、「ひとつでしょうね」 と答えます。 「難しい質問するねー。 偉いねー」「んふふふ~」(笑)。

 綾瀬サン 「それ(役者が人生のひとつなのかどうか)についてたまに考えます」

 健サン 「ああ~。 それね、ちょっとね、セットで喋ろう」

 どうもこの話はセットの場に移されてしまったのですが、綾瀬サンが女優業を自分の一生のなりわいとしようとしているかどうか、迷いがあることをここでは知った気がします。

 そんな健サンは今回番組のラストで、「プロフェッショナルは?」 と番組スタッフに聞かれ、「なりわいだと思いますね」 と答えていた。
 綾瀬サンがプロになるためには、やはりこの仕事をなりわいだと思わなければやっていけない、という健サンのセットでの話がうかがえるような気がします。

 そして番組はまだ、明日(9月10日月曜)午後10時からの、健サンへのインタビューまで続きます。
 必見だなあ。

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「負けて、勝つ」 第1回 事実を基にした、フィクション、か…

 う~ん…。

 これが、このドラマの第1回を見た、私の感想です。

 脚本の坂本裕二サン、直近の3作を振り返ると、「Mother」「チェイス」「それでも、生きてゆく」 と、いずれも 「超」 のつく傑作だらけ。 それでこちらもこのたびは、過度な期待をしてしまったのですが。

 考えてみればこの過去3作はいずれもフィクション。
 そのためにいろんな布石を自在に打つことができたし、その布石のひとつひとつの打ち方も、とても見事だった。
 さらにこれらの作品では、役者の動きのひとつひとつが、実に細かく意味を伴っていて、画面から一瞬たりとも眼が離せない、という特質をもっていたように感じます。

 それと比べると、今回は終戦直後の昭和史をなぞる話です。
 さまざまな事象を取捨選択しながら、話を進めていかなければならない。
 自らの考えをそこに織り込むとなると、さらに難しくなる。
 やはり坂元サンほどの人でも、史実をドラマにするのって、難しいんだな、と感じました。

 また、今回の作品は、いわゆる 「オールスターキャスト」。
 どちらかというと、役者の一挙一動に注文をつけるより、役者たちの好きにやらせているような感覚がしました。 こうなると坂元脚本の長所が、なかなか表に出てこない。

 まあ、まだ第1回です。 これからに期待、です。

 ただ第1回を見る限り、正直なところを忌憚なく申せば、終戦に臨んで日本の行く末を憂うこのドラマの登場人物たちの発する言葉は、個人的には 「もうすでに見た」 という種類のものばかり。
 第1回においては、新しい発見、というものはできませんでした。

 さらに 「このドラマはフィクションである」、という感覚を助長していくのが、主役の吉田茂を演じる、渡辺謙サン。
 私個人の吉田茂のイメージとはちょっとかけ離れている。
 渡辺サンも、結構顔を作って、葉巻も吸わせて、似させようとしてるな、というのは感じるのですが、吉田茂って、こんな大男だったかな?こんな痩せてたかな?こんなに男前だったかな?とどうしても感じられてしまう。

 今、吉田茂を演じられる男って、じゃ一体誰なんだろう?

 西田敏行サン? いや、歳食いすぎてるし。

 いないんですよ、どうにも。

 このドラマに限らず、昔の設定のドラマを見ていてちょっとばかり気になるのは、みんな背が高すぎる、ということです。
 どうしようもないことですけどね。
 でも、背が低くても味のある役者が、もっといていい。
 いや、いなければならない。

 まあ、サラァブレッドだって、戦国時代にはいなかったし(笑)。
 せいぜいロバみたいな大きさしかなかったらしいですよ、昔の馬って。

 それはいいとして、ドラマがいろんな部分を取捨選択している、ということは、「捨」 の部分がどうしても生じます。
 そこのところで 「右寄りだ」 とか 「左寄りだ」 とか 「天皇を冒涜するな」 とか要らぬ詮索を受けたりするのは致し方ないところですが、ここで注意すべきなのは、「捨てる」 ということによって物事や人物が美化されてしまうことは、なるべく避けなければならないということです。

 事実には、重い決断の上の覚悟が存在すると同時に、そこには何かしらの見返り的な思惑が存在している。 だから面白い。
 純粋な思惑だけで進行していく話というのは、まったく濁りのない水がおいしくないのと一緒で、面白くないのです。

 このドラマを見ていて感じていた退屈をなんとか持続させたのは、やはり登場人物たちが実名で次々登場してくること、そしてそれを誰が演じているか、という興味でした。

 特に先の総理大臣だった細川サンや麻生サンが年端の行かないガキ役で(笑)出てくるところなどは、ちょっとニヤニヤしました(もちろん子役でしたハハ…)。

 でもこういうのって、本来のドラマの楽しみ方じゃない気がする。

 気を取り直して。

 少々クサしすぎました。

 第1回を見ていて少々興味深かったのは、野村萬斎サン演じる近衛文麿の精神的動向と、その行く末を毅然として見送った妻の中島朋子サン。
 そしてパンパンガールになり下がった友人の妹(初音映莉子サン)を見て憤然とする、永井大サンのシーン。 第1回でいちばん心揺さぶられたのは、自分的にはここでした。

 政策的に作られた、アメリカ軍専用の慰安婦パブ。
 外務補佐官の永井サンは、同行した池田勇人(小市慢太郎サン)に食ってかかります。

 「納得いきませんね。 なぜ国民はこうも簡単にアメリカを受け入れるのか不思議です」
 そこで知り合いの女性が米兵と楽しげに踊っている姿を目撃し、「日本をバカにする行為だ」 と憤って止めに行こうとする永井サンを、池田は止める。

 「バカにしてるのはお前のほうだ!

 媚びてるんじゃない。

 勝手に戦争を始めて負けた、男の尻拭いをしてるのだ。

 女のほうが、よっぽど負けっぷりがよい!」

 そして池田は、そのパンパンガールに、最敬礼するのです。 これが 「貧乏人は麦を食え」 といった人か?という感じもいたしますが(笑)、その気概やよし!であります。 黙ってしまう、永井サン。

 だからこそ、マッカーサー(デヴィッド・モース)に屈服して 「俺たちには、何もない」 と苦汁をなめる吉田茂に感極まって泣いてしまう、永井サンの気持ちがとてもよく分かる。
 そんな永井サンに、吉田は喝を入れるのです。

 「泣くな!

 日本の男は、顔で笑って心で泣くんだ」。

 オレなんか、ドラマを見て泣いてばっかしで(爆)。

 しかし、このドラマを見ていると、男のほうがよほど女々しくて(女々しいという言葉は、まことにその点不適切であります…笑)、女性のほうが毅然としている。
 吉田はその点、男らしい男を、ただひとり突っ走っているのです。

 この、吉田を演じる渡辺謙サンと、マッカーサーを演じるデヴィッド・モースサンとのやり取りは、やはりこのドラマのいちばんの見どころでありましょう。

 このデヴィッド・モースという人、ハリウッド映画では結構名の知れた人らしい(「グリーンマイル」 とか)のですが、最近映画をとんと見ない私には誰この人?くらいの認識でして(失礼)。

 でも、ということは、最近の映画をよく見ている人にとっては、このふたりの組み合わせがテレビドラマで見られる、というのは、とてもアンビリーバブルなんでしょうね。 もうちょっと有り難がって見なければいけないかもしれない(なんかエラソーだな…笑)。

 それより私が心躍ったのは、平将門と伊達政宗のツーショットでした(ワケ分からん…笑)(カルトなギャグだなぁ…)。 つまり加藤剛サンと渡辺謙サン、この歴代大河主役のツーショット。

 で、この加藤サン演じる牧野伸顕(大久保利通の息子)とのやり取りのあと、GHQに乗り込む吉田が、「裏口から入れ」 という米兵の命令を無視して正面突破をするというシーンでは、なかなか心躍りました。

 やはり外国に対して毅然とする日本の政治家を見るのは、特に領土問題での政府の弱腰に苛立っている現在の状況からすると、とても胸のすくところがあるんですよ。

 そして、第1回ラストで吉田が永井サンに話した、「これからの日本は、外交で勝つ」、という宣言。

 果たして日本はその後、外交で勝ってきたのか、ということを考えると、なかなか一概にそうとも言えない部分もあるけれども、少なくとも現在の民主党よりはだいぶマシだったのではないか、抑止力くらいは発揮していたのではないか、という気はいたします。

 いずれにしても、政権が安定している、ということが、日本の外交にとって何よりの武器であるはずなのに、自民党末期から数年、その状態とは程遠い。

 果たしてこのドラマの掲げる 「勝つ」 ということの本質とは、いったい何なのか。

 そのことに思いをいたすには、このドラマは少々一面的すぎるきらいがあるように思われます。

 やはり難しいな、現代史は(いや、もう近世感覚か?)。

(一部敬称略しました)

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2012年9月 8日 (土)

仮面ライダー 「フォーゼ」 と 「ウィザード」 の方法論

 最近 「平清盛」 専用になってるこのブログですが、久々に仕掛けるのは 「仮面ライダー」 の記事。 振り幅大きすぎ(笑)。

 平成ライダーというのは、もともとそんなに留意して見ていなかったのですが、ここ数年はずっと見ています。 「電王」 からは欠かさず(笑)。
 で、ちゃんと見始めて気付いたのですが、平成仮面ライダーは、なにしろ設定が複雑すぎる。
 ただ、設定が分かりにくいけれども、話はだいたい勧善懲悪ものだから、子供たちでも分かるとは思うのですが。

 いわゆる子供番組において、こうした設定の緻密さが要求されるようになったのは、私が考える限り 「新世紀エヴァンゲリオン」 の影響が大きいように思われます。
 もちろんその淵源をさかのぼれば、「ウルトラセブン」 あたりに行きつくと思われる。 そしてSF作家たちが積極的に企画に携わった 「宇宙戦艦ヤマト」、さらに 「機動戦士ガンダム」 を経て培われてきた土台というものがある。
 ただその設定のカルト的な膨大さにおいて、「エヴァ」 の及ぼした影響というものは計り知れないように思われるのです。

 このところの平成ライダーは、だいたい9月が新旧交代月なのですが、このほど終わった 「仮面ライダーフォーゼ」 は、この 「複雑すぎる設定」 という特徴を踏襲しながらも、実はそれをオモチャにして楽しんでいるような傾向を、私などは感じていました。

 つまり、「複雑な設定」 そのものに、今回自分たちは深い意味をつけないことにした、という作り手の開き直りです。

 作り手がそういう意図でもって 「フォーゼ」 を製作していたかどうかは知りませんが、少なくとも 「フォーゼ」 は、いろんな意味で、見る側が真面目にその設定自体を考えようという気を喪失させる(笑)反則技を連発したのです。

 まず、主人公がフォーゼに変身した後のフォーム。
 宇宙船を模したトンガリ頭で、宇宙服みたいなダボダボの生地で、誰がどう見ても、カッコワルイ!(笑)。
 そしてそのフォーゼに変身する主人公、如月弦太朗が、30年前の横浜銀蠅みたいなリーゼント不良ファッション。 こんなヤツいねーよ!の権化みたい(笑)。
 そいつが平清盛も真っ青な青春野郎!で(笑)、転校早々、「オレはこの学園の全員と仲良くなる男だ!」 とタンカを切っている。 ねえって(笑)。
 その弦太朗が、転校してきた高校の宇宙研究クラブみたいなところに入って、勝手に「仮面ライダー部」 と改名してしまうんですが、このクラブ、部室が月面宇宙基地と空間が繋がってるんですよ。 あり得ねー(笑)。

 そしてこの 「フォーゼ」 のもっとも重要な特徴は、学園ドラマである、という点。
 この学園の中だけで、出来事が完全に自己完結してしまっているのです(まあ、外での出来事もあることはありましたけど)。

 確か一回、警察が、この学園内で起こるあまりにも不穏な出来事に介入しようとしたことがあったのですが、それはこの学園の理事長で悪の親玉であるガモウ(鶴見辰吾サン)によって、阻止されていた。

 こうした閉鎖環境を作り上げることによって、このカッチョワルい仮面ライダーの出てくるドラマは、自分たちの作ったルールの中で、安心して安全に羽目を外し、心おきなく戦闘を展開することが完全に可能になったのです。

 だから話がすごくムチャクチャでも、如月弦太朗という底抜けに明るいアツい青春野郎のもたらすベクトルで、すべて許されてしまう。 そしてそのアツいエネルギーのベクトルで、見る側はどんどん引き込まれていく。

 これってかなり、反則気味でありながら、正統派のドラマの見せ方だ、と感じるんですよね。

 設定がいくら突飛でも、突飛というものを貫けば、細かいことはどうでもよくなり、作り手が本当に訴えたいことだけが、ストレートに受け手に届く。

 で。

 9月になって新しい仮面ライダーのお披露目なのですが。

 今回の仮面ライダーは、のっけから怪人たちに対峙する警察の描写から始まります。

 つまりこれは、(ほぼ)完全な閉鎖環境で行なわれていた前作とは全く逆で、現実世界にある程度則したルールで今回はやりますよ、という作り手側の宣言なわけです。

 案の定、そこに現れた新ライダーは、「銃刀法違反」 ではなかったですけど、怪人をやっつけたのにいきなり留置場に入れられてしまいます。 ある意味リアルだ(笑)。
 考えてみれば仮面ライダーが留置場とは、かなりマヌケなスタートですけど(笑)。

 ただ、こうしたリアルな環境で展開していくと、前作のような 「多少のことは目をつぶってイケイケドンドン」 という気に、見ている側はならなくなる。
 今回の悪役たちは、人の 「絶望」 というものをエサにして仲間を増やそうと企むタイプの悪役のようなのですが、それに主役級?の女刑事が、簡単に屈しかけてしまうんですね。
 これってリアルじゃないだろう、みたいな(笑)。

 つまり設定がリアルに戻ったことで、細部のアラが目立つようになったんですよ。

 これって面白い現象だなーと思いながら、「ウィザード」 の第1回を見ました。

 ただ、ドラマ的なリアルが中途半端だ、と感じながらも、その戦闘スタイルは、初回から飛ばしてんな~、という感じがしました。 こんなに飛ばしていいのかな?(笑)。
 仮面ライダーって、変身フォームが何種類かあって、初回はだいたい基本パターンひとつのみなのですが、今回の仮面ライダーは、出し惜しみすることなく赤が黄色に変わり青になり…、つまり変身フォームを惜しげもなくさらけ出しているわけです。

 そして初回サービスだったのかもしれないけれど、戦闘シーンのスピーディさには目を見張ります。
 結局子供たちが食いつくのって、複雑な設定なんかじゃない。
 いかにカッコよくバトルシーンが展開していくか、なんですからね。
 今回の仮面ライダーは、なんと人の記憶の中にまで踏み込んで行ってバトルをします。 さすが魔法使い(ウィザード)だ。 まあ、ゲーム的なカテゴリーで言うと、物理的戦闘能力のない魔法使い、というよりも、魔法戦士(パラディン)という感じですが。

 そしてなんといっても、変身ベルトというのは仮面ライダーの大きなキモであり、商魂ポイントでもあります(笑)。
 風車の部分(バックルというべきか)が街の案内板みたいな手のひらのデザインなのはちょっとカッチョワルいかな、とも思いますが、でもフォーゼで散々カッチョワルいの見てたから、あまり気にならない、つーか(笑)。

 いずれにしても見ちゃうんだろうな~。 「仮面ライダー」 と 「ウルトラマン」 って、自分のヒーローの原風景なので、新しいテレビシリーズは見守っていかなきゃ、という気になるんですよね(自分がオコチャマなのを、言い訳しとるぞ…笑)。

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2012年9月 4日 (火)

「平清盛」 第34回 「白河院の伝言」(9月2日放送)を見て

おことわり 初出時より若干手直しいたしました。

 病に倒れた清盛(松山ケンイチクン)。
 今回は危篤状態から生還するまでを描写しながら、このドラマのまさに真骨頂である 「精神性の物語」 の色合いがいよいよ濃く出た回だったと思います。

 清盛が罹っていた病は、「寸白(すばく)」。
 ウィキで調べたところによると、これってサナダムシが体内に寄生しておこる病のことらしい。
 さらに同じ 「寸白」 の検索で、後白河と寺社勢力との関連をつづったサイトもありました。
 別に清盛の病とは関係ないと思いますけど。 なんか寺社勢力の描写も今回あったし(セリフだけですけど)寸白つながりですよね。

 作り手がこの寸白を、清盛の体内に入り込んだ 「もののけの血」、というファクターに置き換え、その対峙すべき象徴に、物語序盤で早々に退場した白河院(伊東四朗サン)を配置した発想には、正直シビレました。 作り手はいったんクランクアップを迎えた伊東サンを、再び重要な場面のキーパーソンに据えることを、まったく厭わない。
 さらにタフマン白河と抱き合わせで復活したのが、吹石一恵サン演じる清盛の産みの母、舞子です。

 清盛はサナダムシのごとく自らの体内に巣食う白河院の呪縛を否定し…。
 そして実の母親の死を過去にさかのぼって追体験することで、自らの存在自体を肯定するに至った。
 そして清盛は、自らの死に至る病を克服するのです。

 やはり話がこの方面に行くと、限りなく冴えますね、このドラマは。

 副作用としては、あまりに現実離れしている、ということも言えそうですが、死の淵に立った体験などというものは、そもそも非現実的と相場が決まっているものです(笑)。

 そして清盛危篤の報を知らされて心穏やかならぬ後白河(松田翔太クン)の心情を描くことで、作り手は後白河の、「清盛の存在がなければ不完全な器」 としての存在意義を明確に表現した。
 ここらへんの構成の妙にもうなります。

 さらにこのドラマの作り手が抜かりないのは、V6の森田クンを震源地とする、「清盛後」 の勢力基盤の揺らぎの予兆も描いている点です。
 V6の森田クンは、世代的に言ってまだまだ若いほうなのかな、と思っていたのですが、いつまでたってもその青臭さが取れてない。
 でもそれが逆に、森田クン演じる時忠の小物ぶりをあぶり出しているように感じます。
 これって森田クンは、意識して演じているのかな?
 清盛の子供たちって、加藤あい(明子)派と後妻の深キョン(時子)派に、分かれているわけですよね?(笑)。 その深キョンの身内(弟)だから、森田クンは深キョンの長男であるムネムネ(宗盛、石黒英雄サン)に、けしかけるわけですよ、叔父として。 名目上三男だけどもお前が家督を継げって。

 これをですね、清盛の叔父だった忠正(豊原功補サン)みたいな、ドスの効いた役回りでやられたら、そりゃムネムネもビビってかなりその気になりますわ(笑)。
 でも森田クンは、あくまでそこを、小物っぽくけしかける。
 ここらへんがムネムネに与える決意に、少々覚悟のない危うさを与えていく、という構図が、うまいなーと感じるのです。

 森田クンの話を長々してしまいましたが(笑)、今回の重層構造に、もう一役買っているのが、「賀茂川の流れ」「賽の目」「山法師の強訴」 という、タフマン白河でさえ手を焼いた 「天下の三不如意」 を物語に組み込んでいる、という点。
 これって私、不勉強なので突っ込むことはしませんが、おそらくそんな逸話があったんでしょうね。 で、それを作り手は、おできの治療に行っていた(熊野詣だったっけな)後白河の前に再び横たわらせることで、物語としての構成を揺るぎないものにしようとしている。

 ここしばらく、その展開の妙にうなることはなかったのですが、久々の傑作回だった、と言っていいと思います。

 しかしこの、後白河の首の後ろにできたおでき。

 父島母島、竹島かと思ったぜ!(爆)。

 …不穏な冗談はともかく(笑)。

 「…清盛が、死ぬかもしれぬと…?」

 後白河は、その一報を聞いて、眉間にしわを寄せ、沈思します。
 のちに彼はその心情を滋子(成海璃子サン)に吐露している。

 「怖いのじゃ…。
 清盛がおらぬようになってしまうことが…。

 …わしに挑むようなあの目。
 あの目を見ておると、わしは安堵するのじゃ。

 『この世にわしの務めがある』。

 『生きることを許されておる』。

 …そう、思えるのじゃ」

 後白河は言いながら、涙を流してしまいます。

 これは、自分が世間のみんなから変わり者と後ろ指をさされ、小馬鹿にされてきたことの鬱積と、自分を心の底から相手にしてくれているのが清盛だけだった、ということに気付かされたことの、二種類の性格を持つ涙なのではないでしょうか。

 まあ清盛にしてみれば、「(後白河とは)つかず離れずが一番良いのじゃ」 とあしらわれていたにせよ、ですよ(笑)。

 そのとき、滋子は 「なんかに似てる」 と不思議がっていた後白河の首の後ろのおできが、サイコロに似ていることに気付くのです。 イヤ、サイコロには見えませんでしたけど(笑)。
 ともあれ滋子の指摘を聞いた後白河はガビーンとひらめき(笑)、大雨で足止めされているにもかかわらず、強引に氾濫中の賀茂川を渡ろうとする。

 話は前後しますが。

 いっぽうその清盛は、熱にうなされながら、自分の生まれる前の夢を見ています。
 そこでは自分の母舞子が、白河と双六で遊んでいる。
 これはあらたに収録した部分ですが、このタイムスリップシーンは、以前に放送したものと交互に、しかも非常に自然に清盛の脳裏で展開していくのです。

 璋子(たまこ、檀れいサン)の病気の原因がこの、舞子のお腹にいた子供だとされ、命の危険に晒されるたびに、それを未来から追体験している病床の清盛は、断末魔のごときうめき声を上げます。

 この部分を見ていて、これってなんだか清盛が、もう一度生まれ変わるための試練なのではないか、ということを感じました。
 そしてタイムスリップという形式を取った回想シーンは、物語第1回レビューで私も引用した、舞子の忠盛(中井貴一サン)へのセリフへと、繋がっていきます。

 「子供が遊ぶ時は、時のたつのも忘れて、目の前のことに無心になっておりまする。

 生きるとは…。 本当はそういうことにござりましょう。

 うれしい時も楽しい時も、

 また、つらい時や、苦しい時さえも。

 子供が遊ぶみたいに、夢中になって生きたい」

 「夢中に、生きる?」 と忠盛。

 「分かるのではござりませぬか? 夢中で生きていれば。

 …なぜ、太刀をふるうのか。

 なにゆえ、武士が今の世を生きているのか…」

 これは清盛の病床に訪れた、乙前(松田聖子サン)の、「♪遊びをせんとや」 の歌に導かれて展開していったシーンです。
 乙前、この回想シーンでのほぼ変わらぬお姿で登場(笑)。
 この物語の時間を超越した部分の象徴になっている気さえします。

 乙前の歌に癒されたのか、舞子の言葉に自分の生きる道を再び見つけたためか、病床の清盛は小康を保っていきます。

 そこにドカドカと足音を立てて御簾をなぎ倒し、現れたのが、泥だらけになった後白河です。
 どうも賀茂川の濁流を強引に渡ってきた模様。

 その剣幕に導かれるようにして、清盛の見る夢は、白洲の前に引き出された忠盛と舞子のシーンへと移っていきます。
 白河に対して決死の陳情をする忠盛。
 しかしその現実は変えられようもなく、舞子は、清盛が見ている夢のなかで、無残にも弓で射殺されてしまう。

 このシーン、最初に見た時も感じたのですが、吹石一恵サンが、なんともたとえようもなく美しくみずみずしい。
 だからこそそのはかなさが、こちらの胸をも射抜いていくのです。

 「舞子!」

 叫ぶ若き日の忠盛。

 「母上…!」

 うめく病床の息子、清盛。

 「ははうえ…」

 こと切れる舞子。

 駆け寄る忠盛。 舞子に無数に突き刺さる矢。

 「舞子…。 舞子…。 舞子! 舞子ーー!」

 忠盛に抱かれた赤子の清盛が、ぐずり始めます。

 その瞬間。

 白装束の現在の清盛が、無数に矢の突き刺さった母親を前にして、慟哭するのです。
 そこには忠盛の姿はなく、血まみれの母親と清盛、そして白河のほかには、誰もいない。

 またやったよ、このドラマ…。 とにかく。

 「ははうえ~~! ははうえ~~!」

 子供のように泣きじゃくる50歳の清盛。

 泣けました。

 現実にあり得ないシーンだからこそ、その時空を超えた演出が胸を締め付けるのです。

 人は、過去には戻れない。

 だからこそ過去に残してきた後悔を、いつまでも引きずりながら生きてゆく。

 私を泣かせるのは、そんな禍根なのです。

 ここでの清盛は、存在的に考えると、転生した清盛、と言えるかもしれません。
 清盛はこの瞬間に、再び生まれている。
 母親の思いを、確実に子が受け取った瞬間。
 「母上ーー!」 という叫びは、だから産声と同じであるように、考えられるのです。

 しかし。

 そこにカラスの鳴き声と梵鐘が響き渡り、白河が、厳かに声を上げます。

 「清盛」。

 顔を上げる清盛。

 「どうじゃ? 太政大臣の座の座り心地は」

 いつの間にか、血まみれの母親も、消えています。

 「早々に明け渡しました…。

 あまりよい心地がしませなんだゆえ」

 「ふん。 わしが院によるまつりごとを始めたと、同じようなものじゃ。

 やはり、流れておるのう、もののけの血が」

 これって政局を二極化することによって生じた混乱のそもそもの原因が、自分(白河)であると打ち明けているようなものですよね。
 清盛は、ゆるゆると面を上げます。

 「保元の年に、戦が起こりましてござりまする。
 
 時の帝と上皇様が敵味方に分かれ…。
 我ら武士も身内どうし戦い…。

 (感極まりながら)叔父忠正を!…斬るに至りました…!

 続く平治の戦では、『共に武士の世を』 と誓いおうた…源氏の棟梁を!…義朝を…攻め滅ぼしました…!」

 慟哭しながら続ける清盛。

 「私を上へ上へと…駆り立てるのは、この身に流れる、もののけの血ではござりませぬ…!」

 立ち上がる清盛。 白河のほうに向き直り言い放ちます。

 「この身に浴びてきた血こそが、

 …そうさせるのです…!」

 ここで清盛が、明確に自分の身に流れるもののけの血を否定したことは、やはり清盛が白河の呪縛から完全に自由になったことの証でありましょう。
 ここで私が感じるのは、死の淵をのぞいた人間だけが感得することのできる悟りのタイプです。
 これって、宇宙船から地球を見た宇宙飛行士の感覚と、どこか共通しているものがある。
 臨終というものから自分の生を振り返れば、苦も楽もみな同一の性質を有していることに気付く。
 なにもないことが幸せなのではなく、夢中に生きることで、苦も楽もダイナミックに展開していくことで燃えていく、それが命の最大の意義なのだ、ということを。

 「そちはまだ知らぬ。

 のぼり切ったその果ての、景色を」

 白河は、賽を投げます。

 「…なにが見えるというのです?
 のぼりきった果てに…?」

 「それ(賽)を振ってみれば分かる。

 それを振って、わしに追い付けば(の話だが?)」

 挑発する白河。 涙をぬぐう清盛。

 「追い付けば…」

 清盛はその真新しいサイコロを拾い上げ、白河との双六に挑もうとするのです。

 「私はあなた様を、追い越してみせまする…」

 微笑む白河。

 病床で、そうつぶやく清盛を、驚いたような顔で見ているのは、後白河です。
 清盛は、目を覚まします。

 「生きて戻ったか…」

 清盛はいつかのように挑むような目を後白河に向けながら、不敵につぶやきます。

 「勝手に死んだりは、いたしませぬ…。

 …まだ終わっておりませぬゆえ…。

 あなた様との、双六遊びが。

 互いに…。

 生まれいずる前より続く…長い長い勝負が」

 「この…。

 死にぞこないがっ!」

 笑う清盛。 後白河は、うれしさを必死に押し隠すように厳しい顔をしながら、去っていきます。
 後白河はふと気付いて、自分の首の後ろに手をやります。
 すると、竹島が…じゃなかった(笑)、サイコロ状のおできが消えている。
 そして振り向き、清盛が真新しいサイコロを握っているのを目にして、愕然とします。

 この、「真新しいサイコロ」 というのは、かなり示唆に富んでいる表現だと思います。
 いっぽうで清盛は、タフマン白河から、それを託されている。
 いっぽうで後白河は、白河の不如意だった(思い通りにならなかった)賀茂川の濁流を超えて清盛に会いに来たことで、自らの存在意義を確定している。
 双方とも、新しい価値観に、目覚めていると考えられるからです。
 
 清盛が復帰した一族会議。

 清盛は先に述べた 「白河院の天下の三不如意」 を、我が意のままに操ろう、という野望を、新たにぶちあげます。 ただ、そこに集っている面々は、もはやかつてのような一枚岩の平家ではない。 疑心暗鬼が、一族のあいだに不気味に漂っている。

 いっぽう。

 一週間も風呂に入らず遊びまわったら骨折はしなかったけどこんな格好になっちゃったぜぃ?ワイルドだろう?みたいな(コメント欄からの転用であいすみません)政子(杏サン)が、ついにフヌケの頼朝(岡田将生サン)の前に、現れようとしています。

 後白河の首のおできと、清盛が過去から持ち帰ったサイコロ。 血の否定と現実の肯定。

 こういう現実離れした精神世界の象徴の連続が、この物語にさらなる重厚感を与えていくように思えるのです。

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