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2012年10月

2012年10月31日 (水)

「平清盛」 第42回 「鹿ケ谷の陰謀」(10月28日放送)を見て

 ここんとこ、クサし続けたこのドラマ。

 松山ケンイチは、あまりに若造で壮年の清盛を演じきれてない、とまで暴言を吐きました(コメント欄にて酔っ払った末)。

 あまりにクサしまくったおかげで、思わぬ事態にまで至りまして。
 そしたら、今週の 「鹿ヶ谷」 の出来はとてもいい、というコメントが続々と。
 ただそれを聞いて、見てみて、やっぱりよかったです、というのはなんか癪で(笑)。

 このひねくれ者は、そんなにクルクルと自分の主張を変えたくないのであります。

 しかし。

 クッソオ…(笑)。 やられた…(笑)。 ここ数回、三味線弾いてやがったんだ、このドラマ(でもないけど)。
 汚ねえぞっ!(下品な言葉はあえてご容赦) こっちはそのおかげで、毎朝自分の暴言の言い訳のコメントに時間を割かれてだな…(爆)。

 見ましたよ! ええ! 「鹿ヶ谷の陰謀」!
 クソっ、傑作だった…。
 ひねくれ者でもいい時はいいと言いますよ。

 と、黒ハシモトはここら辺にいたしまして…。

 今回が傑作だと私が思うのは、ここ数回、このドラマを見ていて非常にやきもきしていた問題に対する答えを、あまりにも裸のまま、白日のもとに晒してくれた、という一点に尽きます。

 西光がどうしてここまで清盛のやることなすことにガキみたいな反応を示していたのか。
 追い立てられるように悪の道を突き進み始めた、清盛の心の奥底にあったものは何なのか。

 ここ数回、このふたつはずうっと私の不満の中心に居座っていて、「このドラマはその部分を深く掘り下げようとしていない」 とまでレビューに書いた気がします。

 西光は師である信西の悲願であった日宋貿易が成就すればホクホク顔であったのに、信西が再開した相撲節会を清盛が 「そんなことやってられっか」 と一蹴したことに激怒、滋子が仲を取り持てばまたホクホク顔、と、見ていてなんかホント、ガキみたいで。
 「精神的動向についての描写が簡単すぎる」 と書いたのは、前々回のレビューでした。

 清盛のほうは清盛のほうで、福原に居ながらにして、日本の政治を牛耳っているような大物ぶりを発揮しているのですが、それがとても小手先のように思えてばかりで。 自分がこの国の頂に立ってやる、という目的を達成しようとしているのは分かるのですが、どうしてここまでなりふり構っていないのか、それが不明で。

 ここで容易に考えつくのは、「清盛はもう結構な年だから、自分が生きてるうちに目的達成しようとしている」 という動機でありますが、どうも弱い。 しっくりこない。

 で、父の忠盛から受けてきた屈辱、というものを晴らそうとしているのか、親子二代の悲願成就か、という理屈も考えたのですが、ん~、それでもなんか、もっとなんか…(こういう、「納得できる動機」 探しというのは、年々ハードルが高くなっているのであります)。

 で、「義朝との、友との約束を果たそうとしているのか」、という動機も考えたのですが、そもそも武士の世、といっても、日本国の頭の部分がすげ変わっただけ。
 この無意味さ、というものを兎丸が清盛に諫言した末に、兎丸は殺されていった。
 しかし清盛は、兎丸の死を、正常な形で弔ってはいない。 兎丸の心情など無視して、大輪田泊を完成させたことで弔ったつもりになり、ひとり悦に入っている。

 結果的に清盛がなにを考えているのか分からないまま、清盛は狡猾に策を弄し、自分の思うがままにイカサマで自分だけ先に双六の上がりに辿り着こうとしている。 「権力の魔性に取りつかれたただの男としか描ききれていない」 とレビューに書いたのが、前回でした。

 そんな、本題の空洞化にイライラしたあげくの果てに、主役の松山クンの演技にイチャモンをつけてしまった(まあ、壮年を演じきれてない、と思っているのは本音ですけど、そういう批判などもともとしたくない人間なのです、私は)(ひどく酔っ払っていたのでご勘弁ください)(また取り繕っとるぞ)。

 とはいえ、今回の出だしも、なんとなくヘロヘロしてるかな、といった風情で。

 冒頭から、鹿ケ谷で後白河を中心とした謀議が行なわれるのですが、まず 「こんなヤツいたっけ?」 と思われる人物が、ふたりいきなり出てくる。 多田行綱と、俊寛です。

 俊寛は法勝寺の執行、ということですから、つまり後白河が以前、清盛と蜜月状態だった叡山に対抗して、自分の出家を執り行った寺の人間ですよね。 でもドラマを見ていてパッとすぐには分かんない。
 多田行綱に至っては、コイツ初めて見た、という感じで(出てましたっけ?)。
 で、この行綱が、清盛を捕縛する、という後白河らの企てに、結構最初からビビりまくってるんですよ。
 なんか見ていて、「コイツラこういう子供だましみたいな陰謀を企てていて、大丈夫なのかな?」 という感じ。 デブ頼たちの陰謀のときと、レベルがあまり変わらん、というか…。

 で、そこで行なわれた陰謀のシナリオ通り、叡山の座主である明雲が言われもない罪で捕えられ、ボコられたうえに流罪という運びになる。 それを平家がたの源氏である源頼政が連行するのですが、その途中で僧兵たちによって奪還されてしまう。 後白河は重盛に、叡山を攻めよと命令するのですが、ここまでは後白河の青写真どおりなのです。 平家を困らせて清盛を福原から引っ張り出そうとしている。

 さて失態を演じた源頼政に対して、清盛は優しいのですが、そこにあの多田行綱がやってきて、この企てを暴露して味方につくよう促します。 でも頼政は清盛に優しくしてもらったばかりだから首を縦に振りません(なんかアブナイ書きかただな)。

 ここで多田は 「この企てを知ってしまったからにはただではおかぬ」 とすごむのですが、このとき、「清盛にこのことは告げ口しませんよ」 なり、多田は頼政から確たる言質取る必要がある、と思われる。 でもそれがない。
 頼政もここで、「このことは聞かなかったことにいたしまする」 とか言わないんですよ。
 どうして多田は秘密をしゃべっちゃった相手をそのまま捨て置くのか。 こういうところが最近甘いんだよなあ、と思いながら、序盤は見ておったのです。

 でも、そのヘロヘロも、中盤あたりからぐっと引き締まってきて。

 この、頼政と行綱のシーンのあと、伊豆の籐九郎と頼朝の語らいが始まります。

 政子が嫁に行ってしまうことがここでは話題になるのですが、先週、頼朝の 「動こうとしない今日」 に対して、強烈なアンチテーゼを投げかけた政子の言葉がフラッシュバックします。

 「明日と昨日は、けっして同じにはならぬ。 昨日は変えられぬが、明日はいかようにも変えられる」。

 そのことを挙げて、「つまりこれだけ気楽な女なのじゃ」 と呆れかえっている頼朝を尻目に、籐九郎はこうつぶやくのです。

 「…されど、あるならば見てみとうござりますな。

 …鮮やかに明日が変わる、その刹那というものを」。

 頼朝は、虚をつかれたように、その何気ない一言に沈思する。

 この籐九郎のセリフには、私も強く共感しました。

 毎日があまりに同じことだらけで、頑張っても頑張っても、現状維持だけが精一杯。
 悪いことだけは確実に起きる。 いいことなんか、すずめの涙(それを少女ポリアンナのように見つけていかねばしかたないんですが)。
 自分にはゼロをプラスに転じる力などないのだ、と思い知らされることばかりで。
 「なんかこう、劇的に人生、ひらけていかないもんかなぁ!」 と叫びたくなる時がある(いや、車の中でひとりで叫んでます…笑)。

 見てみたい。
 人生が急に、ぱあっとひらける瞬間を。

 このセリフがきっかけとなって、この回のドラマは急速に見る側を惹きつけてやまなくなります。
 つまり、この瞬間から、頼朝は明日がぱあっとひらける瞬間に、立ち会っていくのであり、清盛の明日は、霧の彼方にどんよりと隠れて行ってしまうのですから。

 ああ、このダイナミズムが、大河なのであります。
 このあと鹿ケ谷の陰謀と伊豆での頼朝・政子との動向は、交互に展開するのですが、まさに相互が相互を補いながら、交響曲のような興奮を構築していく。 頼朝・政子サイドの描写が無駄である要因など、ないと思われるのです。

 陰謀が佳境に入るさなか、ハロプロの愛チャンが父親の命日の法要を知らせに成親・西光を訪ねます。 「我らは親不孝者にござりますな」 と感慨を述べる成親に対して、西光はうめくようにつぶやきます。

 「野良犬の声なんぞに耳を傾けたがために…」

 このセリフは、今回後半で重要なポイントとなってきます。 西光が清盛に対して抱いている、ガキみたいな怨念の中核が、ここには潜んでいる。

 陰謀が進行していくのを、清盛は持ち前の嗅覚で不審がっています。 信西が襲撃され自刃して果てたときと、空気が同じだ、というのです。
 これを黙って聞いている、盛国。

 私はこの、盛国の存在についても、ここ数回、「どうしてイエスマンになり下がってしまったのか」 と不満を隠しませんでした。

 でもよく考えてみると、ここ数回の清盛は、自ら心を隠している。
 自分がこの世の頂に近づけば近づくほど、清盛は孤独であるに違いない、と思うのです。

 今回、不安を隠そうとしない清盛のそばに、黙ってついている盛国、というのは、それだけで清盛にとっては心の安寧をもたらしてくれる心強い存在になっているのではないか、そんな気がしました。
 おそらくこのあと清盛は、もっともっと孤独になっていく。
 それにつれて盛国のそうした存在意味は、この先もっともっと大きくなるような気がしてまいりました。

 ここに現れたのが、多田行綱。

 陰謀のとっかかりのときからビビりまくりだった行綱、その陰謀をばらしに来たのです。
 このくだりを見ていると、先に行綱が頼政に陰謀をばらしにいったとき、そのまま頼政を放っておいた、ということは、頼政から事が露見することを本当は狙っていたのではないか、という気もしてくる。

 「頭目は…誰じゃ?」

 上目遣いに口をへの字に曲げた(ハハ…)清盛が、厳かに多田に訊きます。

 そして、ついにその日。

 その日同じころ、政子は頼朝とは別の男のもとに嫁ぐことになっている。 ここから京と伊豆との交互の描写が始まります。

 京では、成親と西光が、相次いで平家に捕えられる。
 その報を聞き、サイコロをぎゅっと握りしめ悔しがる後白河。
 だからあんな子供だましみたいな陰謀してるから…(笑)。

 後白河の陰謀は、先ほども述べたように、かつてデブ頼らが企てた陰謀と、性格的にあまり変わらないと思うんですよ。 ポッと出のヤツに一切を任せる。 こういう場合は、長年自分の子飼いにしてきた者を従えるべきだと思われるのです。

 でもそんなヤツなんかそもそもいない。

 もともと変わり者として名の通っている後白河のまわりには、あまり優秀な人材が揃っていないように思える。
 今回の明雲ボコりまくり(笑)でも、摂関家の藤原兼実とか、頭のいいクラスの官僚たちが、その常軌の逸しぶりに一斉にそっぽを向いている。
 そんな人望のない後白河の企てた陰謀、その稚拙さを、今回冒頭のシーンでは、実は如実に描写していたことになる。 ヘロヘロにも、ちゃんと意味があった(笑)。

 そして。

 白洲の前にひっ立てられた西光。

 そこに、上目遣いで口をへの字に曲げた(しつこい)、狡猾そうな清盛がやってきます。

 「西光どの。 なにが気に入りませぬ?」

 清盛は、西光の息子たちを流罪にしたことを恨むのは筋違いだ、すべては信西が思い描いた国づくりという大義名分のためにやっていることだ、と諭しにかかります。
 西光は、片腹痛いというように、目を閉じたままそれに反駁する。

 「わがあるじ信西のめざした国づくり?

 そなたごとき者に、あのかたの代わりがつとまると思うてか?

 …聞こえたか?(目を見開き、清盛を見上げて不敵に笑い)

 …無頼の高平太」

 父親を侮辱されたことに気を動転させる重盛、「そうなのか…」 とようやく腑に落ちたような表情の盛国。
 清盛は表情を変えぬまま、配下の者に西光を痛めつけるよう指示。
 奥に引っ込んで行きます。

 いっぽう、伊豆では遠雷が轟き、雲行きが怪しくなってくる。
 嫁ぎ先へ急ぐ政子の一行に、大粒の雨が降り注いできます。
 何かを思いあぐねているような政子。

 京では、西光への暴行が続いています。
 こちらは空っ風が吹き、乾いたような土煙が舞っている。

 この、天候の対比という演出の妙も、久々に見る気がする。
 いっぽうでは雲行きが怪しくなって嵐になりながらも、大量の雨で潤っていく心を描いており、いっぽうでは乾いた土煙を立たせることで、からからに乾いた清盛の心というものを表現する。
 ああ、なんか久々にすごいことになりそうだ…。

 土煙の中ボコられる西光、まるであざ笑うかのように、奥にいる清盛を罵倒し続けます。

 「まったく…! わがあるじ信西の先見の明よ…!

 20年も前に、野良犬を朝廷に上げれば、こうなることを見抜いておられた…!

 平治の戦で、源義朝は、わがあるじの首をとった…されど、もしあの時義朝が兵をあげなんだとしても、いずれそなたがわがあるじを討っていたであろう…!

 なんとなれば…。

 そなたの国づくりは、志ではない…!

 復讐だからじゃあっ…!!」

 その瞬間。

 遠巻きから座ってそれを見ていた清盛。
 満面に、憎悪に満ちた笑みを展開するのです。

 すごいぞ、松ケン。

 「…復讐…?」

 「さよう…! おのれを犬と扱う王家への恨みつらみに…突き動かされておるだけだからじゃあっ…!

 さようなものに付き合わされて、…よい面の皮じゃあ…!

 民もー…! 公卿もー…! うぬらもなあーーっ…!」

 名指しされて十把ひとからげに 「ツラの皮」 呼ばわりされる平家の面々(笑)。

 そして、この世の憎しみを、すべて背負ったような形相で立ち上がる、松ケン…じゃなかった、清盛。

 「どこから現れ…どこへ行くのかも分からぬ、得体のしれぬ男の復讐に、付き合わされておるのじゃからなぁっ…!」

 大きく息巻く清盛、その瞬間に、奥から脱兎のごとく飛び出して、ボコられ続ける西光のところに駆け寄ります。
 配下の者が散る。 再びひとりになった西光を、清盛は思い切り、足蹴にします。

 「うっ! うっ! ううっ!!」

 伊豆。

 降り続く雨のなか、頼朝の庵に、ずぶ濡れの政子がやってくる。
 政子はくるなり、髭切のもとに突進。
 血相を変えた頼朝と、その取り合いになります。
 もみ合いの末、鞘が抜かれた髭切。
 政子はその切っ先を、頼朝に向けるのです。

 「『遠く伊豆より、平氏の繁栄を指をくわえてみておれ』…。
 そう入道様に言われたとおっしゃいましたな?
 それはまこと、かような暮らしをせよということか?!」

 「ほかになにがあると申す?!」 反駁する頼朝。

 「ならばなぜ! (清盛から)この太刀を渡されたっ?!

 (政子、頼朝に髭切の柄を握らせ)武士の魂を忘れるなということではないのか?」

 ここでフラッシュバックするのが、私が清盛に最後に共感した(笑)、頼朝流罪を言い渡すシーン。
 この時の清盛は、自分が醜いことにまみれようともそれをしなければならない、という苦渋を抱えていた。 武士の世を目指し、この世の頂に登ろうとする男の孤独。 そのむなしさ。 清盛はそのすべてを、亡き義朝の分まで背負って、生きていこうと悲壮な決意をしていた。

 しかしその清廉な決意が繰り返されるなか、画面で鬼の形相のまま西光を蹴り続ける清盛は、その志を忘れ、自分がそもそも持っていた、「白河法皇のご落胤」 としての屈辱、劣等感を晴らすための道具として権力の魔力に取りつかれてしまっている。

 だから、「復讐」 なのです。

 ああ、それでか。

 もう、納得しまくり。

 早くこれを出せよ!(笑)って、鹿ケ谷のこの場面でしか、清盛の本心は暴露できなかったんですよね。 もう、溜めに溜めまくっていたわけだ。

 ここで清盛が若いイメージのまま、という、私がここんところクサし続けていたことが、とても効果的に働いている。

 つまり、もう60近いジイサマが、西光を思いきり足蹴にしたとしても、別に痛くも痒くもないと思うんですよ。
 だけどこのドラマの清盛は若いまんまだから、このシーンが限りなく暴力的に演出できる。
 まあ、清盛がジイサマだ、という設定であれば、「体力も衰えたジイサマがかつての清廉な決意を忘れ、情けなくブチ切れているだけ」 といった哀れさ、というものが演出できた、とも思うけど。

 若い清盛ジイジに(笑)思い切り蹴られ続け、もう死んでしまうのではないか?という風情の西光は、息も絶え絶えに叫び続けます。

 「見よー…! この横暴な振る舞い…!

 …どこまで行っても、…性根は無頼者ぞ…!

 卑しき犬ぞぉぉ…っ…!」

 ここで 「王家の犬」 と蔑まれてきた父忠盛からの恨みというものも、「白河法皇のご落胤」 という屈辱とミックスされている。
 「ご落胤」(出生)。
 「無頼の高平太」(劣等感)。
 「王家の犬」(階級)。
 この世に対する怨恨の3点セットだ(笑)。
 もう、清盛の内面、じゅうぶん分かりました(笑)。

 そしてかつての清盛が抱いていたやるせない決意が地にまみれた時。
 そのやるせない決意は、インサートされるずぶ濡れの頼朝に、どくどくと流れていくような錯覚を引き起こします。
 ああ、これぞ大河。

 西光を蹴り疲れた清盛。 うめくように西光に言い放ちます。

 「わしは武士じゃ…。

 武士の世を…!(また西光を蹴り上げ)」

 ここでかつて頼朝の前に髭切を突き刺したシーンと入れ替わる。 「作るのじゃ…」。

 そしてもうほぼ死んだのではないか、と思われるような西光の顔。

 「武士の世を…!」

 ずぶ濡れの頼朝。 髭切が突き刺さったときの若き日の頼朝。 醜く怒り続ける今の清盛。 この3つのシーンが、もう完全にごちゃまぜとなって、見る側の心を揺さぶってくる。

 ああ…。

 死ぬぞ(笑)。 西光死ぬぞ(そっちかよ)。 もう死んじゃうくらいシビレまくりました。

 清盛の志が頼朝に注入し続けるなか、ずぶ濡れの頼朝が見上げると、そこには同じくずぶ濡れの政子が笑っている。

 鎌倉幕府の内面的なスタートラインであります(笑)。

 立ち去ろうとする政子に、頼朝はすがりつきます。

 「連れて行ってくれ…。

 私を明日へ…。 …連れて行ってくれ…。

 昨日とも違う…。

 今日とも違う…!

 私の明日へ…!」

 ここ。

 泣けました。

 私自身も、昨日も今日も同じような毎日のなかで、のたうちまわっている心もちがするからです。

 泣けたけど、「連れて行ってくれ」 とは他人任せだな、と思っていたら、政子がしっかりその部分を突っ込んでくれました(笑)。

 「…『連れていけ』 とは、…女々しいおかたじゃ…(ハハ…)。

 共に参ろうぞ。

 まだ見ぬ明日へ…!」

 ずぶ濡れのまま抱き合う頼朝と政子。
 くそっ。
 このドラマの、どこにイチャモンをつけられようか(不肖橋本、繰り返すけど、いい時はいいと言うぞ)。

 そして乾いた土煙が舞う裁定の場、重盛が父・清盛を必死で止めに入ります。
 なんとこの対比の妙よ。

 死んだか?と思った西光、絶え絶えの息で呻きます。

 「分かっていたことじゃ…。

 …わがあるじ…信西が死した時…天は!…この国を見棄てた…!…」

 清盛、よろよろと立ちあがり、「洛中引き回しのうえ、朱雀大路にて…斬首せよ」。

 ひっ立てられ退場していく西光。 そこに残されたモノに、清盛の視線が釘付けになります。

 それはかつて、信西が国づくりのために予算計上をせっせとしていた割りばし(割りばしって、ほかに言いようがないかな?…笑)。

 清盛はそれを見るなり、まるでそれが憎いかのように手に取り、何度も折り続ける。

 これってどういうことなのか。

 つまり、清盛は、「自分は何者なのか」 ということを自らに問い続けながら、若き時代を生きてきた。

 でも信西(当時高階通憲)はそんな清盛に、「誰でもよ~い!」 と、気の抜けたような答えを用意していたのです。

 そんな信西の気持ちを折った清盛は、自分を探し続ける、という行為までも、みずから否定したことになるのではないか。 それだけ自分が偉くなった、と思いあがっていることの象徴として。

 「焼き捨てよ…!」

 別に2本ばかりの割りばしなど、焼き捨てる必要もないのに、清盛は配下の者にそう吐き捨てます。

 伊豆。

 政子が落ちていた髭切の鞘を、頼朝に手渡します。

 頼朝のナレーション 「(私は、私の明日を見つけた。

 そのとき、平清盛は、明日を見失いかけていた)」 笑うふたり。 ♪ふたりは若~い~。

 しかしここで終わらないのが今回の 「平清盛」。 ダメ押しが待っていました。

 双六に負けた形の後白河。
 乙前がそこにやってきます。

 「乙前…わしはまた、…失うのか…?」

 滋子に続いて、この法皇の座も?という意味でしょうか。

 乙前 「国の頂を巡る、壮大なるすごろく遊び。
 あまたの駒を失うは道理にござりましょう。

 あなたも…。

 入道様も…」

 さまようかのように西光を蹴り続けた足を引きずりながら、それでもなお空威張りするように歩く、清盛。

 この清盛のていたらくと、後白河とを同列に論じる、この回のダメ押しには、完全に参りました。

 ふぅ…。

 もう、なにも申し上げることはございません。

 それにしても、ここ数回の三味線弾きは、なんとかならんかったのか?と恨み節がまたぶり返す(笑)今日この頃であります。

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2012年10月27日 (土)

「遅咲きのヒマワリ~ボクの人生、リニューアル~」 第1回 人生を選べない者たちよ

おことわり 書き忘れたことがあったので、初出時より幾分文章を追加いたしました。



 会社を辞めさせられた30歳目前の派遣社員(生田斗真クン)が、ネットでふと目にした高知県の地域おこし協力隊に募集、そこであらたな人生を始める、というこのドラマ。
 同じように、東京の大学病院から左遷という形で高知県に医師として戻ってきた真木よう子サンが、物語のもうひとつの柱。
 さらに彼らを取り巻く人たち、桐谷健太クンとか、香椎由宇サンとか、木村文乃サンとか、柄本佑サンとかの生き方も絡めて、群像劇になるような模様。

 正直言って、出演する人たちに個人的にはあまり興味がなく、この秋のドラマの中では、いちばん未知数と思われていたドラマでしたが、第1回を見る限り、かなり入り込めました。

 こういう、人生とは何か、とか、若者とは何か、とか、地域格差とは何か、とか、正面から向き合って、真面目に論じようとしているドラマが放送できる、ということだけでも、このテレビ局は称賛されるべきだ、と感じます。
 放送時間的に続いている、このあとのドラマ 「ゴーイング マイ ホーム」 なども同様なのですが、両方とも、なんか視聴率をあまり考慮せず、質をとことん重視している気がする。 このふたつのドラマが続けて放送されていることの意義のすごさ、というものを感じます。 テレビ局の良心がまだ廃れていない証しなのだ、と思うのです。

 脚本の橋部敦子サンは、個人的な印象では、なかなか緻密な脚本を書くけれども、緻密なのにところどころとても詰めが甘い部分がある、そんな感じであります。
 今回も、四国の目的地に行く飛行機や電車で偶然見かけた真木サンに、生田クンが声をかけるところとか、ラストで生田クンが真木サンをカヌー乗りに誘うところなど、不自然な部分がないでもない。 無理やりふたりを関係させたがっている、という下心が、見えてしまうんですよ。 橋部サンの脚本に限らない、ドラマ初回ではよくあるゴーインな展開、というヤツですが。

 でもふたりが東京から 「都落ち」 してこの土地にくるまでの精神状態、というものは、とても緻密に、くどいくらいに描かれている。

 まず、生田クンは派遣の仕事をまじめにこなしていて、「もうすぐ正社員か?」 という期待を喚起させまくっていたところを、いきなりリストラされる。
 でも、もともとのんびりとした性格だから、焦って転職とか考えないでいたら、その 「自分の人生に対して真剣に向き合っていない」 という部分に、同棲中の付き合っていた彼女から愛想を尽かされて、一方的に出ていかれる。
 この、「自分の人生に真剣に向き合っていない」 というところを彼女に突っ込まれる、というのが、かなりリアルに感じるんですよ。

 そして 「実家を頼るべか」 と帰った宇都宮でも、まあよくあるお話ですが、弟家族に居場所を奪われ、居るところがないとこに加え、弟のほうが出来がよくて(今どき公務員、というのは最強であります…笑)ますます肩身が狭くなり、テキトーな理由をつけて東京に逃げ帰ってくる。

 貯金も底を尽きかけて、おそらく元カノとの折半だったのでしょう、住むところも考えなくてはならなくなり、ネットでワケアリ物件とか見てたら、激安の物件を見つける。

 そしたらそれが、高知県の話で。

 「って高知かよ…ないなー。 いくらなんでも四国はナイ」

 しかしここで、生田クンはふと思い返すのです。 このドラマを見ていて最初に激しく共感したのが、実はこの部分でした。

 「…オレは、人生を選べる立場にない…。

 オレを受け入れてくれるところに行くしかない。

 たとえその先に、なにもなかったとしても」

 私もそうですよ。 いっぱしに仕事なんかしてますけどね。 誰かに心から必要とされて、仕事をしている実感なんかない。 ただいなくてはならないから、そこにいる。 「あなたじゃなきゃもうどうしようもないですよ」 なんて、絶賛されることなんかない。
 そしてこの仕事じたいが、自分が本当にしたくてしている仕事なのか、と問われれば、大きな疑問符を付けざるを得ない。

 そりゃ、自分がいなければそこが成り立たない、という自負はありますけどね。 でももし自分がいなくなっても、相手の会社にしてみれば、いくらだって代わりは探せる。
 自分で人生を選び、自分が自分の人生に対して、思うがままに振る舞える暴君たりえていないんですよ。

 思えば誰もが、「自分は自分の人生を選べる立場にない」 と思っているのではないでしょうか。 だいたいこの不況下です。 いつ自分が解雇されるか、分かったもんじゃない。
 それは自分がその会社にとって、「いなくてはならない人間」 たりえていない、という不安があるからです。 自分の商品価値に、自信が持てないことの表れでもある。

 真木よう子サンも、研究員として大学病院にいながら、アメリカで研究する日を夢見ていた。
 でも真木サンに左遷を言い渡した上司によれば、「キミレベルの人間はいくらでもいる」。
 自分がそれなりの能力を持っている、と信じていた真木サンも、「自分の人生を自分で選べない」 という岐路に立たされるわけですよ。

 ここで真木サンに左遷を言い渡した上司が、「こんな厳しいことをはっきりというのは、キミを思ってのことだ」 と言うのですが、ここにも妙なリアリティがある。
 これはなにも、真木サンを中傷しようとか、病院の都合に合わせてもらおうとか、浅い理由から発生しているセリフではなく(まあある程度は事務的ではあるでしょうが)、その人にとっていちばん力を発揮できる場所を提供する、適材適所という理念のもとになされている人情的判断だ、と考えることもできるのです。

 そして四国に着いた生田クンを待っていたのは、金物屋をやりながら街おこし協力隊にボランティアで参加している、桐谷健太クン。
 彼は四国を修学旅行以外出たことがなく、この地で暮らすことに誇りを持っていると自慢するのですが、生田クンや真木サンに比べて、桐谷クンは自分の思い通りの人生を送っているように見えます。

 でも、はたしてそうなのか。

 彼には彼の、今まで生きてきたなかで切り捨ててきた、自分の人生というものが、あるのではないだろうか。
 私にはそんな気がするのです。
 彼も、自分で選ぶことのできない人生の中で、生きているのではないか。

 そう考えていくと、真木サンが勤めることになった四万十中央病院の看護師、香椎由宇サンも、そこでリハビリアシスタントとして働いている柄本佑サンも、自分の思い通りにならない人生を、送っているのかもしれない。
 まあそれは、この先描写されていくんだろう、と思うのですが。

 生田クンは市から激安であてがわれた居宅の隣に住む、倍賞美津子サンに呼ばれるまま、懇意になっていきます。
 ここで展開していくのは、都会暮らしの若者には少々しんどいであろうと思われる、田舎特有の濃密な人間関係です。
 倍賞美津子サンは 「梅ちゃん先生」 のときの、ちょっとおつにすましたインテリ風のおばあちゃん役から一転、若い頃は美人だっただろうと思わせながらも、そのモテたであろう人脈から培われたような人なつっこさ(ここが、ただの年寄りの人なつっこさ、というのと一線を画していることに注目します)で生田クンを歓待します。

 最初のころはそれに呼ばれていた生田クンでしたが、そのうちにだんだんと、ウザくなってくる。
 そして夕食を断ったある晩に、いただいていたオレンジジュースの入った容器を返しに倍賞サンの家の戸を叩くと、反応がない。
 不安がよぎる生田クン、家の中を探し回ると、倍賞サンが倒れている。

 救急車を呼ぼうとするも簡単に来ない、都会では5分で来るのが常識なのに。
 生田クンは市から預かっているバンに倍賞サンを乗せ、四万十中央病院に来るのですが、市でいちばん大きな病院だというのに、当直しているのはどうも真木サンと香椎サンだけ。 ここで地方病院の問題点が浮き彫りになります。

 真木サンは自分の専門でない治療を拒もうとするのですが、香椎サンに喝を入れられる。 専門外だからといって甘えるには、人員が不足しているからです。
 真木サンは心肺停止状態の倍賞サンをなんとか蘇生させようとします。 が。

 亡くなってしまうのです。

 この出来事は、生田クンと真木サンに、非常なショックとして残っていく。

 そして葬儀の場。

 ここで生田クンは自分の過ちを大きく悔いるのですが、私が注目したのは、葬儀の席に参列する人々(ほとんど年配者)が、生田クンほどその死を悲しんでいない、という点でした。 却って笑いながら、酒を酌み交わしたりしている。

 つまり、命の重さとか、大切さっていうのは、若い人ほど頭で学習しているから、実際にその場に居合わせると、必要以上に深刻になってしまう。
 それに対して、年配者にとって死、というのは、もう自分の隣にいる、身近なものなんだな、と。
 そんな人々にとって、今回のケースのように、苦しまないでポックリ死ねるということが、どれほど羨ましいことなのか。 ドラマでは、死んでも気付かれずに数日たって発見される、ということに比べれば大村さん(倍賞サン)はいいほうだ、という捉え方をしていたのですが、実はそれ以上に、「死にざま」 という問題を、私は感じるのです。

 ここで私がもうひとつ注目したのは、憔悴しきった生田クンがこのままやめてしまうのではないか?ということでした。
 が、彼はやめなかった。

 つまり、彼には 「自分には向いていない」 という意識よりも、「自分がなんとかしたかった」 という意識のほうが強かった。

 生田クンがここで逃避を選ばなかったのは、「オレは人生を選べる立場にない」 という自覚に、生田クンが立っていたからなんだ、と思う。

 人間、背水の陣にならなければ、何事も前に進まんのですよ。

 うまくいかなかったら、逃げる。

 それは逃げる場所があるからこそ、出来ることなのです。

 ここで生田クンの活動をサポートする市職員の松重豊サンの存在が、かなり救いなっている印象を強く持ちました。 このドラマを下から支えるもっとも大きな存在になるだろう、と思われます。

 大村さんの遺品が片付けられ、もぬけの殻になった家。 あるじが大事に育ててきた花壇の鉢植えのひとつを、生田クンは譲り受けます。

 人がそこに、生きていたことの証。

 それは風が吹いたら消えてなくなってしまうような、歳月と共に消え去っていくものです。
 ちっぽけな自分の人生。
 そこになにを見出すことが出来るのか。
 生田クンの決意は、見る側に大きな感慨を呼び寄せます。

 そして今回、ラストで生田クンと真木サンがカヌーに乗る、という展開は、倍賞美津子サンの退場、という共通の出来事から発生した、心情的には無理のない展開である、とも思えます。

 ただまあ、あんなにいがみ合ってたのにいきなりカヌーかよ、つー気はいたしましたが(笑)。 そこらへん、ちょっといきなり緻密じゃなかったりするんですよね。

 でも、初回サービスという点を差し引いても、じゅうぶん見ごたえのあるドラマだ、と思います。 ああ~もう、見たいドラマだらけで、体がもたない…。

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2012年10月25日 (木)

「平清盛」 第41回 「賽の目の行方」(10月21日放送)を見て

 実は今回のお話、おとといにすでに視聴していたのですが、諸事情によって(眠たいという諸事情)レビューが遅れてしまいました。 お待たせして…。
 や、もとより拙い私のレビューなど、ただのヒマつぶしにしかなりません。 とんだ思いあがりでございます。

 で、感想としては、感心した点が半分、疑問が増した点が半分、であります。
 ただ日がたってしまいますと、感心した点など、不満の点に押しやられてしまうのが人の世の常でございます。
 だから不満タラタラのレビューになることを、あらかじめお断りいたします。

 とりあえず感心した点を先に、申し訳程度に思い出すと、清盛が天台座主の明雲と結託して後白河サイドの西光の力を削いだ、という話の成り行きでしたでしょうか。 神輿に矢を射る、というかつての清盛が行なった正義感から発生した所業をそのまま悪だくみの材料に転化する、という話の妙。
 この、清盛の老獪な駆け引きに後白河たちが臍を噛む、という話と、聖子チャンを交えた双六のお話が見事に融和して…。

 融和してたのはいいのですが。

 この回のサブタイトルが 「賽の目の行方」 だから双六にこだわるのは仕方がないとはいえ、私はこの話(双六)の真意が未だにつかみかねています。

 図らずもこの回、聖子チャンが私の疑問をそのままセリフにしてくれました。

 神輿を射るという行為で、今後どのような政局の動きに発展するか?と訊いてくる後白河に、聖子チャンはこう答えるのです。

 「さて…私ごとき白拍子上がりに、分かる由もござりませぬ(そりゃそ~だ)。

 …が、もとより、当人同士の思惑に関わりなく、たまたま出た目に突き動かされるが、双六というもの。

 おのれの番が巡ってきたときに、よりよい目を出すよりほかに、勝つ道は、ござりませぬ」

 たまたま私も頭が悪いからかもしれませんが、ここらへんのロジックが見ている側にまことに分かりにくいのではないか。

 要するにですよ。

 賽の目というものは、ここで聖子チャンが指摘したように、本人の思い通りに行かないんですよ。 白河法皇の三不如意(思いのままに行かないこと)に入っていたくらいで。
 その、どういう目が出るのかまことに不確定要素が大きいものに、どうしてこうも清盛も後白河も、一喜一憂したがるのか。 一寸先になにが出るか分からないゲームを、どうしてここまで、愉楽の源としようとするのか。

 これについてドラマは、明確な答えを見る側に提示しているように、私には思えません(私がバカなので見落としているからなのかもしれませんが)。

 だから私なりに考えてみたのですが。

 思い通りに行かない賽の目でも、イカサマをやれば自分の思った通りの目を出すことが出来る。

 今回清盛は、それを行なったわけですよ。 明雲と結託して。
 ズルしてるわけです。 イカサマそのものなんです。

 それを、先に指摘しましたが、かつて自らが、清浄な正義感のもとで行なった、「神輿に矢を射る」 という行為をそのまま、イカサマの道具としてしまう。 自分の過去を、貶めているわけです。 汚(けが)しているわけです。

 物語は、そこまで清盛が、平家の権力の増大、自分がこの世の頂に立つことしか目に見えていない、悪に魅入られた状態になっていることを提示しているように思える。

 しかしですよ。

 どうして清盛が、こうも悪しく変わってしまったのか、ドラマはその説明を積極的にしているようには、どうも思えないのです。

 だから、ただ権力の魔力に取り憑かれた男、としてしか、清盛を描ききれていない。

 このドラマがそこを描き切るには、清盛の敵対勢力にあーだこーだ文句を言わせても、説得力はついてこない、と私は感じます。

 要するに、野党が与党の言うことにあーだこーだ文句をつけても説得力がないのと一緒です。 それが当然、なんですからね。

 私は、清盛の悪を際立たせるのに必要なのは、清盛の身内による諫言なのだ、ととても感じます。

 その最重要位置にいると思われるのが、盛国だと思うのですが、彼はすでに清盛のイエスマンで生涯いることを決めてしまっており、役には立たない。

 さらに時子は、「平家のアイデンティティは、一蓮托生にある」 という立場で、これもアウト。

 私が見るところ、時忠がその重要な位置に属していると思われますが、どうも前面に出てこない恨みがある。

 第2部まで、清盛を 「熱い青春野郎」 として描いてきたこのドラマ。
 現在の清盛の思考回路の中では、自分がやっていることに対しての葛藤や、疑問など、あまりないように思われます。 「日本国を富ませること」 という大義名分が、彼の目を曇らせているから。

 でも、前はかなり、自問自答しながら、彼は生きてきた。
 自分は何者なのかを逡巡しながら。
 そこには人間的な他者への思いやりとか、そんなものもあった。

 でも、今の清盛には、自分の息子重盛がどうであろうと、それは息子が成長していく場だからくらいにしか考えていないだろうし、兎丸が死んだことでも、大輪田泊を完成させて弔いをしたくらいの気にしかなっていないだろうと思われる。

 それじゃダメじゃん。 春風亭昇太です(ハハ…)。

 悪の道を際立たせるには、それを引き留める力というものが必要だ、と感じるんですよ。
 押す力に対して、引く力。
 互いのベクトルが引きあってこそ、ドラマの面白さというものは引き立っていくのだと思うのですが。

 お話は西光、成親を巻き込んで、悪のベクトルが悪のベクトルを引きずりこむような形でスパイラルを描きながら堕ちていく。 そんな風情を想像します。

 あーあ。

 こんなにけなすはずではありませんでしたが(笑)。

 ご勘弁ください(散々書いといて、また取り繕おうとしとるぞ…)。 冒頭にも書きましたが、取るに足らないブロガーの、拙い愚痴でございます。 ヒマつぶし程度にお読みいただければ、幸いにございます。

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2012年10月20日 (土)

「大奥~誕生~[有功・家光篇]」 第2回 素振りするのはなんのため?

 この 「男女逆転時代劇」 の設定の、どこに意味があるのかとか、このドラマの見どころとか、第1回のレビュー及びコメントで書き尽くした気がするので、もう第2回目以降はレビューいいかな…と思いながら、途中まで今回、第2回は見ておりました。

 見ておりましたが(笑)。

 有功(ありこと、堺雅人サン)が必死に素振りをしてるのを見てたら、書きたくなってきた(爆)。

 今朝方、前回のこの記事へのコメント返信で、「男も嫉妬がすごい、嫉妬という字は男へんにしたほうがいいくらい」 などと書いたのですが、そのあとこの第2回を見たら、「なんだ、先に書いちゃったみたいじゃねーかよっ」 みたいな展開で(笑)。

 もともと女所帯みたいなところの大奥、そこから女を一掃して入ってきた男どもだからかもしれないけれど、ここの男ども、なんか発想がワイドショー的(つまり下世話)(あれ、これって暗に女性を冒涜してるのかな?)(不適切な発言は平にご容赦ください)。

 んま~ともかくそいつら、性格が悪いの極致。

 もっとも彼らにも彼らなりの事情というものがあります。

 なにしろこの男所帯の大奥、要するに国家による人権蹂躙であり、要するに全員が拉致被害者なわけですよ。

 しかも。

 このブログにコメントを下さるマーシー様もご指摘されていましたが、実際の大奥という場所は、退いたあとは就職先が斡旋されるみたいなアフターケア完備の場所だった(「篤姫」 でも、明治時代になっても宮崎あおいチャンが最後まで、大奥の女性たちの面倒を見てましたよね)。 にもかかわらず、こっちの大奥は、どうも事情を知ってしまった人限定みたいですけど、入ったら最後、もう生きてシャバには絶対に出られない刑務所みたいな場所なんですから。

 これじゃいくら男だって、根性ひん曲がります(笑)。

 そのひん曲がった男ども、有功が家光(多部未華子チャン)にS気味ながら(笑)気に入られているのを知って、もう女の腐ったのみたいに(ブーッ!イエローカード2枚目)嫌がらせをしまくるんですよ。

 何かと言えば 「社長!」(あ、これは 「純と愛」 だった)…じゃなくって、「お公家」 だの 「うらなり」 だの 「赤シャツ」 だの(あ、これは 「坊つちやん」 だった)「野だ」 だの(あっこれも 「坊つちやん」 で総理のことじゃありません)悪口の応酬。
 果ては、膳に死んだネズミを仕込ませるし。
 それに激怒したこうきクン(玉栄)を逆に集団リンチの根性焼き(発想がヤンキーなんだけど…笑)。 玉栄は有功に心配はかけまいと、それをひた隠しにします。 有功はそこんところ、深く詮索しない。

 ただまああのひん曲がった男ども、飼い殺しの身分だから、こうして鬱憤を晴らすしかないんですが。

 つまりこれって、春日局(麻生祐未サン)が強権発動したこの異常な設定が、ただでさえネガティヴな感情が渦巻く人間社会を、さらに悪化させている、という構図なんだ、と感じるんですよ。

 そして有功には、それがある程度、見えている。

 それは有功が、聖職者としてこの世の無常や幸福の根源的な意味を問うてきたからこそ見える性格のものに思えます。
 いやがらせが頻発するなか、有功は玉栄に言います。

 「玉栄。 知らぬ顔をしよ。 息巻いて騒げば、相手の思う壷や」。

 ひん曲がった男どもは、有功をコテンパンにするために剣術指南役・澤村伝右衛門(内藤剛志サン)との特訓をし向けます。

 しかし有功は、その挑発に乗らない。

 澤村は、有功のお付きの僧侶であった明慧(駿河太郎サン)を、春日局の命によっていとも簡単に切り殺した人物。 普通ならば、有功は澤村を、弟子のカタキと憎しみを募らせてもいいはずなのですが、まず殺生を禁じている仏門の教え、という立場から、有功はそれをためらうような展開を示します。

 でも、そんな教義的な理屈ではどうしようもない憎しみというものが、有功の表情に見てとれる。

 「私には打てぬ。 今は俗世の身とは言えども、一度はみ仏に仕えた身。

 カタキならなおさら、憎しみに曇った心で人を打ちとうない」

 有功に澤村と互角に戦えるだけの技術が備わっているのか。
 なんか能ある鷹が爪隠しとんのとちゃうか(笑)。
 見る側がちょっとした疑心暗鬼に陥る場面です。

 ひん曲がった男どもが嘲るなか、澤村は有功の実力を試そうとしたのか、「いゃあああえいいっ!」 と木刀を一閃。
 目を瞑る有功。
 いつか夢の中で見た、青い空にただひとつぽっかり浮かんだ、白い雲が一瞬よぎります。
 この雲。
 玉栄と行なっていた書読みの(なんの本かは分かりませんでしたが、王維とかゆうてました)なかで、「こんな世の中は肌に合わないので、僻地に引きこもろう」 とする友に、王維が答えた言葉の中にありました。

 「そうか。 元気でゆくがよい。 もうなにも訊くまい。 きっと白い雲が、いつまでも君と共にいてくれるであろう」

 そして有功はそのぽっかり浮かんだ白い雲~、な~にやら寂しい旅のそ~ら~、いとし殿御の心のうちは~雲にお訊きというのか~え~これこれい~しの~地蔵さん~~。

 なんの話でしたっけ(ハハ…)。

 有功はその白い雲に、この大奥から出たい自らの気持ちを、重ね合わせていたんだと思うんですよ。

 つまり有功が澤村の一閃に目を瞑ったのは、澤村が自分を殺すはずはなかろう、という思惑があったからではなく、澤村にそのような殺気を感じなかったとか、剣術を心得てるからこそ来るスキル的な安心感でもなく、明慧のいる場所に自らも委ねたい、という心境のなせる行動だったのではないか、と。

 澤村 「木刀とはいえ、このまま打ち込んでいれば、あなた様は死んでおりましたぞ」

 有功 「であろうな」

 澤村 「それでも、構わぬ、と?」

 なにも答えない有功。

 澤村は構えを解き、有功に素振りを命じるのです。
 有功はフツーの基準である千回を自ら買って出て、ヘロヘロになりながらもそれを完遂する。 最初のうちは面白がって笑って見ていたひん曲がった男どもも、そのうち飽きてきてみんなでてったあと。
 バタンキュー。
 はい、これで今日の分はおしまい。 明日も頑張りましょ~!(ヘロヘロヘロヘロ…笑)。

 それはいいとして。

 この有功の素振りには、自らの憎しみをそれで淘汰させる、という目的も備わっているとは思うのですが、ぶっ倒れた有効から、「もうなにも、考えたくないのや」 という言葉を、作り手は導き出させている。

 つまり有功が素振りを必死の形相で完遂したのは、悲しいことが多すぎたために、怒りや憎しみが大きすぎたために、そんなネガティヴ思考自体を自分の心の中から、締め出そうとしている行為だったと思われるんですよ。

 あるがままに、不幸を受け止めることで、悲しみや憎しみ、怒りをスルーするー(シャレか)。

 どうも嫉妬男のつまらんリンチとか、話が下世話な方向になりかけていたところに、こういう深い解釈が可能な展開になってくると、がぜんレビューする気も沸き起こってくる、というものです(笑)。

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2012年10月16日 (火)

「平清盛」 第40回 「はかなき歌」(10月14日放送)を見て

 清盛と後白河の間を取り持つ潤滑剤として機能していた滋子の死。
 今回ドラマで描かれた、その死があまりに唐突なことは、この物語が 「精神性の物語」 の性格を色濃く反映していることの証しだと感じます。

 いったいどうして滋子は突然みまかってしまったのか。
 フラグ立ちまくりでしたけど(笑)。

 でも今回の話を見ていてなんとも不満なのは、この滋子の死についてではない。
 清盛がなにゆえ 「生き急いでいるのか」、その焦りみたいなものが、話の筋立て、清盛自体から、にじみ出てこないことによります。

 その不満の土台には、前回、つまるところ清盛が間接的に殺したも同然の、兎丸についての感慨が清盛に大きく欠如している点がある。 付け加えれば、前回まであれほど都を跋扈していた禿たちも、清盛の命で時忠が全員粛清したと考えられるのですが、それも清盛は一顧だにしていない。

 清盛は子兎丸を笑顔で出迎えたりするが、妻の桃李(柊瑠美サン)の表情は硬いまま。 清盛は大輪田泊の完成を亡き兎丸に報告したりしているが、自分の犯した罪についての感慨など、微塵もないのです。

 脚本はそこを突っ込むべきなのではないか、という気がする。

 しかし突っ込むべき人物として機能していいはずの盛国は、前回 「殿と一緒に修羅の道をどこまでも」、と誓ってしまっています。
 ここで清盛も、自分の進む道は修羅の道だ、という自覚をしているはずなのですが、あえて自省を試みない。

 清盛のまつりごとの基盤には、周囲の軋轢を考慮するという視点が、根本的に欠けているのです。

 その潤滑油を一手に請け負っている感のあるのが滋子。
 ただその潤滑油としての働きは、今回ようやく取ってつけたように、分かりやすく提示されたのみだった、というのがいかにも残念です。

 その理由として、西光と成親の精神的動向についての描写が簡単すぎる、ということがあるように思う。

 西光は、日宋貿易の実現で師・西行の願いがかなった、とホクホクになるのですが、西行が再開させた相撲節会を清盛がむげに断ったことでその態度を一変、清盛に対する憎しみをまたムク!ムク!と(ハハ…)募らせる。

 ここで清盛が平家の予算をそっちにいくらか思いやりでまわしておれば別になにもそのあと起きないんですけどね。

 成親は成親で、なんとな~くないがしろにされてる不満を抱えている。

 その気持ちのありようが、比較的イージーなんですよ。

 だから、そんなふたりが滋子に呼ばれてちょっと褒められたくらいで、途端に機嫌を回復する、というくだりも、実にイージーに見えてくる。

 ここから見えてくるのは、清盛が滋子に、そういう役割を一手に押し付けちゃっている、という屋台骨の貧弱さを露見してしまっている、という点。 フォローは滋子がしてくれるから、自分は西光も成親もないがしろにしていい、という、まあそこまでは思っていないにしろ、そういう 「意識の欠如」 というものが致命的に思える。

 要するに人というものは、いろいろ貢ぎ物をして酒でも飲ませて、おだてていればかなり従順になってくれる。

 それを清盛が率先してやらんでも、清盛はそういう処世術を息子や孫たちに示すべきなのです。

 でも息子や孫たちが血道をあげているのは、貴族的な生業の取得。

 ここらへんの描写も、なんだかしつこいくらいにやっているような気は、するんですが、今回伊藤忠清がそれについて危惧を感じる程度で、それ以上の重層的な危機感につながっていかないもどかしさ、というものもある。

 そして今回、もうひとつよく分からなかったのは、清盛の 「横へ横へ」 というまつりごとの在り方に対して後白河が提示した、後白河自身のまつりごとについてです。

 ここで作り手は、「梁塵秘抄」 という、後白河自身が編纂した今様(流行り歌)集を、彼のまつりごとの象徴として結び付けよう、と試みている。

 滋子 「梁(うつばり)の塵を動かすほどの声。 すなわち、美しきうたごえの奥義を集めた歌集ということにござりましょう?」

 後白河 「うむ。 それもあるが…。

 今様など、梁に積もる、塵の如きもの。

 吹けば飛ぶようなものじゃ。

 清盛の泊のように、世に役立つようなものではない。

 何よりうたごえは、のちの世に遺すことは出来ぬ。

 だが、それゆえにこそ、わしは今様が好きじゃ。

 誰にも顧みられることなくとも、いつもそこにあり、そこにいる者を慰めてくれる。

 楽しませてくれる。

 わしは、今様が好きじゃ」

 滋子 「(後白河の肩に寄り添い)それが、法皇様のめざす世にござりますね」。

 ここで、後白河が 「今様」 を 「滋子」 と掛けてしゃべっていることに、見る側は気付くのですが、こうした格式の高い話の運びはこのドラマの真骨頂とはいえ、「誰に顧みられることがなくとも、いつもそこにあり、そこにいる者を慰め、楽しませてくれる世」 というものがどのようなものか、よく考えると、漠然としているような気がしてくる。
 そういう世を、当の後白河が実現しているのかどうか、と考えても、このドラマにおいてその描写はないという気がする。
 つまり、うつろな器、という気がするんですよ。
 いれものばかりで、実はそこには、何も入っていない。

 ここで滋子は、後白河に対して、男なら誰でも一度は好いた女から言われてみたいことを口にするのです(笑)。

 「滋子の心は滋子のもの。

 そして滋子の心は、いつも法皇様のおそばに…。

 法皇様の世が絶えぬことが、滋子の望みにござります」。

 くぅ~~っ。 にくいよコノぉ! ど根性ガエル!(ハハ…)。

 そんな滋子が、フラグは立ってたけど、ある日いきなり死んでしまう。

 ボー然自失。 後白河もですけど、見てるほうも(笑)。

 でもこういう描写の仕方が、人の世のはかなさを優先して描きだそうとするこの脚本の、冷酷かつ温かな視点でもある、と感じるのです。 

 この滋子の死がただのひとりの女性の死ではない、平家にとって致命的なファクターであることを、時忠がいみじくも時子に告げます。 時忠、毎回いいとこもってくなぁ。

 そしていつか後白河が滋子に聞かせていた、別れた恋人を恋うる歌。 後白河は滋子がいなくなったあと、虚しくそれを詠ずる。

 その声ははかなく、暗闇に消えていきます。

 涙にくれる後白河、いつしかその嗚咽は、後白河の狂気をかつて象徴していた、笑い声へと変わっていく。 この演出も、見事です。 滋子の生きているあいだ、久しく聞かなかったその笑い声の復活は、不気味な影を見る側に残していきます。

 やはりこのドラマ、精神性の物語だ。

 ただやはり、清盛の精神性については、とてもなおざりだという気は、するんですが。

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2012年10月15日 (月)

「TOKYOエアポート~東京空港管制保安部~」 第1回 結構面白かったです

 フジテレビ日曜夜9時の 「ドラマチック・サンデー」 枠。
 いい加減TBSとドラマの競合をやめて、別なジャンルの枠にしてくんないかな~、スポンサーの花王サン、とずーっと思ってるんですが(笑)。

 今回は深田恭子チャン(チャンなんて言って、彼女ももう三十路なんですね…)が羽田空港の管制官をやる、というドラマらしい。 ん~、どうなのかな。
 で、とりあえず見てみんべ、と思って見てみたんですが、これが結構面白かった。

 物語はしょっぱなから、どうにも感情移入できにくそうな人物ばかりが登場します。
 管制スタッフは、チャラチャラしてんのと怖そーな女と、ダジャレ好きの帰国子女と傲岸不遜な男と時任三郎と(なんで時任サンだけ実名なのだ)、花王サン、今回もおつかれさま~、と言いたくなるような感覚で(笑)。
 そのなかで深キョンは、今回空港のグランドスタッフから管制官に転職した、というレアケースらしい。

 深田恭子という女優は、どうも昔からよく分かんない感じでドラマに出てるよな~、という印象が私にはあったのですが、このところの出演作を見ていると、なんだかワケ分かんないなりに、変な存在感が醸成されつつある、という気がする不思議な女優さんです。

 それがこの管制スタッフのなかで、やはり 「のーん」 みたいな空気で(マンガの効果音みたいな?…と説明してもまだ分かんないな…笑)張り切っても 「のーん」、落ち込んでも 「のーん」(だからなんだよソレ…)。 なんつーか、本音の部分までこちらが見透かそうとすると、やんわりと拒絶、遮断されるような感覚、とでもいうのかな。
 でもそんな 「のーん」 という芝居を展開しながらも、なんとなく彼女の世界観に、引き込まれている。

 ただその深キョンの、「変な中途半端さ加減」 がこのドラマの別の出演者たちの、「変にドラマの人間になっている」 不自然さと相まって、いかにも作り物めいた方向に行きそうな危険性をとても孕んでいる。 管制官なんて、別にフツーにしてりゃいいでしょうに、帰国子女だからといって 「今日も元気にはっタラコ~」(「働こう」 と「タラコ」 をかけたダジャレ)(ギャグの説明をするほど不毛なことはない…)なんてする必要はないし、傲岸不遜を周囲にまき散らす必要もないし。 いかにも 「私はドラマの中の住人です」 と言ってるみたいじゃないですか。 そういうのが、なんかチャラチャラしている印象を見る側に与えるんですよ。 「軽い人間観察でテレビ局のノリでドラマなんか作りやがって」、みたいな。

 しかものっけからバードストライク(鳥がジェット機のエンジンに巻き込まれてミンチになる事故)。
 何かが起きなきゃドラマなんかにならない、とばかり展開される話には、こっちも警戒感を抱いてしまうのです。

 しかし、このドラマのもっとも面白い部分は、深キョンが着任早々怖い女(瀬戸朝香サン)から特訓させられた、管制シュミレーションが、実際に目の前で繰り広げられる、スピーディな展開にある、といっていいでしょう。

 おそらくかなり練習したと思われる、英語での管制のやり取り。
 最初に私の琴線に引っかかったのは、深キョンがグランドスタッフの経験からくる、「効率の良い、コストダウンを優先する」 管制指示をしたことで、瀬戸朝香サンに叱責を受ける部分でした。
 「レフト」 と 「ライト」。
 目まぐるしく展開する管制のなかで、私が気になったのは、この 「L」 と 「R」 の発音でしたが、いずれにしても管制官は日本人ばかり。 ジャパニーズ・イングリッシュが飛び交うのも、ある意味では逆にリアルである、とも言える、と考えるのです。

 そしてダウン・バーストによる墜落の危険性、ということを取り扱った場面では、近年熱帯気候に著しく変貌している我が国の気象事情も巧みに織り込んでいる、という印象を受けます。

 そういうテクニカルな部分が、出演者たちに対する見る側のモヤモヤを、一気に解消してくれるんですよ。

 そしてこのドラマの屋台骨を支える主題の部分を鮮やかに提示してくれたのは、やはり時任三郎サンでした。

 深キョンが飛行機の誘導に失敗し上層部がカンカンになる問題に発展した時、時任チーフは瀬戸朝香サンにこう言います。

 「ピーク時には2分に1度の着陸がある。 D滑走路があらたに出来てからは俺たちへの負担は大きく増えた。 国はそんなこと考えやしない。 『できるだろう』 の一点張りだ。 何かあっても守ってもくれない。 こんな状況じゃ、あらたに管制官を目指そうという奴が、減っても当然だ」

 そして時任サン、深キョンにはこう言います。

 「とにかく無事に、事故なく降ろせた。 管制官は結果がすべてだ。 人間は、必ずミスを犯す。 でも大事なのは、今回のようなミスが起きたときに、チームワークでカバーできる管制をどう築いていくかだ。 それだけは、忘れるな」

 これは、景気の状況が悪化して現場のしわ寄せが増大していく私なんかの仕事にも言えることであり、とても共感できる部分です。
 そして、どうしたってミスは起きる。
 肝心なのは、それをどう収拾するか、なのです。
 実はこのシーンを見たときに、このレビューも書く気になった(笑)。

 まあ、だけど、やっぱりこうした、仕事をめぐる部分中心でストーリーが展開していけば面白いものになると思うのですが、変に登場人物たちのプライベートな話になってしまうと、途端に求心力が落ちる気はします。 いろいろご家庭の事情はおありでしょうけど(笑)。

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2012年10月14日 (日)

「悪夢ちゃん」 第1回 夢遊病者のような物語の構築

 北川景子チャンの出てくるドラマって、ちゃんと最後まで見たためしがないんですが、今回は初めて、最後まで見たい、と思わせるドラマですね。 個人的には彼女が出演してきたドラマのなかでは、もっとも面白いドラマだと感じます(まあ全部チェックしているわけではないですが)。

 だいたい日テレのこの枠、親子揃ってご覧ください、というのがどうもコンセプトらしく、最近でも 「怪物くん」 とか 「妖怪人間ベム」 とかの古いマンガアニメの再構築か、「ゴーストママ捜査線」 のようにほのぼのホームコメディみたいなのとかが多い。
 その流れからいけば、「悪夢ちゃん」 なんて、水木しげるサンのマンガをパクったようなドラマなのかな、などと想像していました。 でも違った。
 軽~くナメ気味に見始めて、なかなか良く出来てるじゃん、と見直すことの多いこの枠のドラマ。 今回も、どうもそうみたいです。

 まず意表を突いたのは、その 「悪夢ちゃん」 というドラマのタイトル、これが北川サンではなかった、ということ。 彼女は小学校の、極端な二面性を持つ女教師でした。
 その彼女の学級に、藤村俊二サンみたいななりをした小日向文世サンに連れられて転校してきた、白いメッシュのおかっぱ頭の女の子、古藤結衣子(木村真那月チャン)が、「悪夢ちゃん」。 北川サンが結局そのあだ名の名付け親です。
 結衣子は予知夢を見ることができる特殊能力があり、それが怖くて少々内向的になり、不登校を繰り返した末に、北川景子サンの学校にやってくる。

 小日向サンは結衣子の祖父。 結衣子の両親は結衣子が小さい頃にいなくなったらしいのですが、第1回を見る限りその事情には深刻なものがあるようです。
 小日向サンは大学の教授で、夢の研究をしている。 個人が見た夢をデータベース化する技術を開発。 孫の結衣子の予知夢について調べている。

 結衣子の見る予知夢はなんか深刻なものが多くて、しかも結構 「象徴化」 みたいなことが行なわれ、内容が怖いクセに漠然としたものが多い。
 で、結衣子が見た夢の中で、北川景子サンがそれを解決してくれる、みたいなものがあったため、彼女は北川サンの学校に転校してきたらしい。

 ただこの北川先生。

 先に述べましたが、彼女、かなり極端な二面性を有する教師で。

 つまり、表面上はいつもニコニコ、みんなから愛される教師を演じているのですが、現実はムチャクチャガサツで(笑)ハスッパ、「ケッ、やってられっかよ」 みたいな感じで実に腹黒い(笑)。

 結衣子が転校してきた時期とほぼ同じくして、その北川先生、学校裏ブログみたいなサイトで、「この先生はウソを演じている、本当は心がない」 とかなり図星を突かれたことを書かれまして、動揺しています。
 結衣子は、北川先生はそれが原因で、生徒のひとりを殺してしまう、という予知夢を見た模様。
 話はそこから、見る者をぐんぐんひきつけていきます。

 その際に北川先生は再び不登校になった結衣子の家を訪ねるのですが、そこに現れたのがGACKTサン。 北川サンは彼とは初対面だったのですが、以前から北川サンが夢の中でデートを重ねる王子様にそっくりだったため、北川サンはえらくビックリします。
 どうもGACKTサンは小日向教授の助手をつとめながら、実は小日向教授の研究成果を盗もうとしているようです。 ワルモノだ。

 この北川先生の本性を暴き出そうとしている人物として、保健室の養護教諭に優香サンが出てきます。
 私が見ていてちょっと気になったのは、この優香サンが最初は北川先生を陥れるための人物として登場したのに、途中から北川先生のフォローをしだした、という点です。
 それにつられるかのように、北川先生は優香サンの前では徐々に仮面を脱ぎ取って、ハスッパなしゃべりをするようになっていきます。
 北川先生は、小日向教授と結衣子の前でも、本当の自分をさらけ出すようになります。

 人物設定に変化が生じる場合、要するに登場人物の性格が変わる場合、きっかけというものが必要ですが、同時にもともとの性格に本人自身がこだわりがあったのか、という部分も描かれる必要がある、と私は思います。

 その点で、北川先生が無理に自分を押し殺して演じてきた 「いい先生」 というものに、 彼女自身がどこまでこだわっていたのかが、あやふやになっていくように感じるのです。

 北川先生の本音が見えるようになって、結衣子も最初のホラー少女的なキャラが、砕けた子供らしいキャラに変化していきます。

 このようなキャラ設定の揺らぎが、物語全体に漂う 「夢遊病者」 的な感覚に、次第にリンクしていくような錯覚を覚えます。

 と同時に、夢と現実の世界が交互に描写されることによって、いま起こっていることは果たして現実なのか、それとも結衣子の、あるいは北川先生の夢の中で行なわれていることなのか、ちょっと見ていて混乱してくる時がありました。

 これも物語の 「夢遊病者」 感覚を意図的に助長させる作り手の企みなのではないか、などと感じたりもしました。

 いずれにせよ、見ていて楽しい。
 いままでにないタイプの話だなぁ、という気がします。
 それは 「夢を記録する機械」、という想像上のテクノロジーと、予知夢を見る少女、というアナログチックな設定が融合しているところから発生している。

 蛇足ですけど、私も予知夢はたまに見ます。

 でも、スッゲーどうでもいい内容なものばかりです(爆)。
 だからどーでもいいデジャ・ヴがよくある(笑)。

 結衣子が見るような予知夢なんか見たら、怖くてどうしようもないですけど。

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2012年10月13日 (土)

「猿飛三世」 第1回 不完全な者が求める明日はどっちだ?

 きちんと最後まで見ることが出来たためしがほぼない(笑)、NHKBSプレミアムの時代劇。
 第1回を見る限りではなかなか面白そうだ、と感じるのですが、中だるみ、というか、話に対する受け手の興味を持続させる力に極端に乏しい。 …と、日記には書いておこう(そう言えばこの古~いギャグ、「純と愛」 の純がやってたな)。

 どうして毎回、ものの10回にも満たない話に最後までついていけないのか、というと、演じている俳優さんたちが、実力以上のものを出し切ってない、ということを感じるからかもしれない。
 確かにやるこたやってます。 でもなんか、ドラマを見る向きとしては、100パーセントの 「やるだけのことはやってます」 というものを見せられるよりも、一生懸命な中から、実力以上のもの、つまり 「120%出ちゃいました」、というものが見たい気がするんですよ。 化学変化みたいなものを。 ぜいたくな相談ですけどね。

 もしかすると、脚本の弱さも関係しているかもしれないですね、このNHKBS時代劇。
 あと、無名の俳優さんがハッとさせてくれるのも、ドラマを見る醍醐味なんですが、ことこのBS時代劇では、あまりそのケースがない。

 つまりなんとなく、不完全なものを見せられているような感覚が、いつも付きまとっているんですよ。 失礼な話で申し訳ありませんが。

 第1回目では見せ場が多いせいか、なんとなくその先も期待してしまうのですが、肝心のその先が、実力のないものが実力以上のものを発揮して、息切れている、そのうちにドラマを継続して見るのがなんとなくためらわれてしまう。 私の場合は、そんな感覚なのです。

 だから今回も、その 「第1回だけのジンクス」、を考慮しながら論じなければなりませんが、やっぱりなかなか面白そうなんですよ。

 奇しくも、「フィクションである時代劇」 として、TBSの 「大奥」 と趣を一にするドラマなのですが、「猿飛」 はなんのために作られたか、と考えると、猿飛佐助の孫がどんなだったか、という興味のもとで作られている気がする。 単純明快ですけどね。 「ルパン三世」 みたいな?(笑)

 その猿飛の孫・佐助に、おそらく顔がサルに似ているからという実に失礼な理由で起用されたと思われる(笑)、伊藤淳史クン。 チビノリダーです(古すぎ…笑)。
 そのチビノリダーが(ちゃうちゃう)仕える梅宮家のお姫様に水川あさみサン。 「江」 でだいぶケチのついた女優さんですが、「36歳で医者になった僕」 では本来のこの人の持ち味であるクールビューティが復活。 今回は、佐助のあこがれの人として、少々おきゃんな(この表現も古いな…)しっかり者を演じています。 行動派だけあって、かなり役柄が合っているような気がいたします。

 で、その梅宮家の主人が、「サルの先祖」(笑)堺正章サン。 こういう 「サル」 つながりの配役が親しみを持てます。 殺陣では堺サン本来のとぼけた味を全開(笑)。 如意棒を使ったアクションも見たいですが、こういうのも堺サンらしくていい。

 で、伊藤淳史クンの忍者の里で一緒に修行に励んでいたのが、「カーネーション」 で直子を演じていた川崎亜沙美サン。 プロレスラーだけあって身のこなしがパワフル。 この人すごく演技が上手だと思うけど、今回はさほど見せ場なし。

 佐助の母親には、浅野ゆう子サン。 私久々に見ましたわ~。 相変わらずお美しい。 もっと話に絡んでもらいたい気がします。

 で、悪役の親分に梅沢富美男サン。 いやいや、ホントに悪そうだ(笑)。
 その手下に波岡一喜サン。 「ちりとて」 の、孫権だったか玄徳だったか?(たぶん漢字ちがってる)。

 そして梅宮家の出入りする商人役で出てきたのが、ギバチャンこと柳葉敏郎サン。 なんでいきなりあきんどかよ?と思ったら、どうも忍者の里を出奔し行方不明の、佐助の父親みたいな感じがする(予想ですが違っていたらゴメンナサイ)。 佐助のピンチに裏からこっそり手助けするのですが、そこで暗躍する忍者ハットリくんたち(あ、香取クンが出るわけじゃないです…笑)とのバトルにも興味がわきます。

 こうして見ると、今回は結構出演者に興味が持てるかな?なんていう気がしてきます。

 そしてこの物語の眼目は、三代目の猿飛佐助が、実に不完全な人間であることです。
 彼は忍者としての技術は体得しているが、人を殺したことがなく、要するに殺生が出来ない。
 しかもバトルスキルのみで、ものごとの道理も思慮深いところも一切なし。 世情に疎い赤ん坊みたいな感じです。
 人をすぐに信じてしまうため、第1回でも堺正章サンをピンチに陥れてしまいます。

 ただここで、堺サンは佐助の言うことを信じて刺客のいる場所へとおもむくのですが、堺サンは佐助の言うことを鵜呑みにしてそこに向かったわけではない、という話の筋立てが、ちょっとひとひねりしてある部分かもしれない。 こういうところに、ドラマ好きは釣られるのです(笑)。

 で、その不完全な存在である佐助は、「やはり自分は人のためになりたい」、というところにアイデンティティを求めようと、梅宮家に仕えることとなる。

 この不完全なる存在、という部分に、NHKBSプレミアム時代劇が抱えている本質的な弱さもリンクしているという点が、なんとも興味深い。

 このドラマの本質的な部分は今書いたとおりだと感じますが、表層的な部分での魅力は、やはりアクションの部分、殺陣の部分でしょう。
 ワイヤーアクションってあまり好きじゃないんですが、今回このドラマのアクションシーンは、そこに頼りながらも、もっと先を見据えている気がする。
 つり橋を渡る水川あさみサンと佐助が、つり橋のツルが切れて真っ逆さま、という、まるで 「お約束」 みたいなシーン。 なんかすごく、マンガとか人形劇とかで何度も見た気がする懐かしさを伴うシーンでした(笑)。 それを2012年の実写版で見ることが出来た満足感というものもあります。

 まあただしこれは、「第1回のジンクス」 の一部だろうと思います。 言ってみれば初回サービス。
 願わくばこの先も見る側のテンションを保たせ、最後まで完走できるドラマになってもらいたいものです。

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「大奥~誕生~[有功・家光篇]」 第1回 この設定はなんのため?

 奇病が流行して男子の人口が激減し、 男女が逆転してしまった江戸時代初期の江戸城大奥、というパラレルワールドを舞台とした空想時代劇、「大奥~誕生~[有功・家光篇]」。
 原作はマンガらしいですが、マンガだからこそできる大胆な発想の話です。

 このようなブッ飛んだ話の時代劇、というと、同じTBSでの [JIN-仁-」 を連想しますが(主題歌も同じMISIAサンでしたね)、「JIN」 のほうは、「江戸時代に現代医療を持ち込んだらどうなるのか」、という、題材自体の面白さがあった。

 それに対してこのお話は、流行り病で男がいなくなって、将軍が死んじゃって女が将軍になったもんだから、大奥も存続できなくなって男だらけになって、…というのがだいたいの筋書き。
 それを知ったとき、「で、それってなにが面白いの? そういうことをやる意味って何?」 と思ったわけですよ。

 ここから原作マンガをご存知のかたなどには、かなり辛辣な予測を書き連ねます。 覚悟してください。 でも怒んないでください(虫が良すぎるぞ)。 おそらくドラマだけでは分かんないことも、あと、第1回を見ただけでは分かんないこともあろう、ということを承知のうえで書きます(書く前からかなりビビッとるぞ…笑)。

 このドラマ、だいぶ歴史に詳しくないと分からない人物も出てきます(稲葉正勝とか)。
 つまりこの物語の作り手は、歴史に関してとても詳しい。 歴女、というんですか。
 そして第1回を見る限り、なんかボーイズラヴの香りもそこはかとなくしてくる。 イケメン達も多数登場する。

 要するにこのドラマ、歴女が自分の知識を総動員して、ある種の女性たちが好みそうな恋愛、愛の純粋な形を追求しようとしているドラマなのではないか。
 自分の歴史好きの側面もそれで満足する。 さらに女性として恋愛の本質を追究しようという側面でも、満足できる。
 主に女性から、自らの知識欲、恋愛欲を同時に満たすことのできるカタルシスを、この作品は求められているのではないか。

 ひどく見下したような書きかたで私も不本意ですが、この第1回を見ていて、「いったい何のためにこういう特殊設定の時代劇を作ろうとしているのか」、ということに、そこまでにしか思いが至らなかったのです。

 ただ、歴女の空想ということを考慮しても、物語的に面白くない、ということではけっしてない(こっからホメますよ~…笑)。

 第1回では、イケメンだイケメンだとホメ殺しにあっていた(笑)僧侶の堺雅人サン(ん~、イケメンであることに間違いはないですが、女性マンガに出てくるようなイケメン、というと少しずれがある)が、将軍家光に流行り病で死なれちゃった春日局(麻生祐未サン)に完全強制で(笑)還俗させられ、将軍家光を今は名乗っている多部未華子チャンに、思いっきしブン殴られる話でしたが(スゲーアバウト)…。

 ちゃうねん(笑)。

 要するにイケメンなのをいいことに、僧侶をやめさせられて、ヤンキー娘の家光に嫁がされちゃったわけですよ、堺サンが(ワケわかんねーな、この説明…爆)(つまりプロット自体がブッ飛んでるんです…笑)。

 なにしろ堺サンにそれを思いっきし強制させる、麻生祐未サンの春日局が、最初何食わぬフツーの顔で出てきて、ものっスゴイ鬼!(笑)悪魔!(笑)なんですよ。

 去年某大河ドラマでやってたちょっと頭のおかしい春日局なんか、足蹴にして踏みつけて完膚なきまでに叩きのめしちゃうくらいの悪女で(笑)。

 もうそこばかりに目が行ってましたけどね、ワタシ(笑)。 某去年の大河ドラマの鬱憤がここで晴れるよーな感じで(笑)。 リベンジだ!リベンジだ!リベンジだ!(笑)

 その春日局、遊女を送り込んで、堺サンに女犯の罪を犯させ、還俗させようと企む。

 「その法衣の下には、弾むような若い男の肉体が、熱く熱く息づいて…(堺サンに遮られ)図星であろう! 有功殿(堺サンの俗名をあえて語る春日)とて、先ほどから女たちのふんぷんたる脂粉の香りを嗅がされ、さぞ若いお体には、男としての欲望がムク!ムク!と!」

 笑いました、ここ(ムク!ムク!だって…)。
 憤然と立ち上がり、春日局に詰め寄る堺サン。 「おぞましいことを申すなぁっ!!」

 「ほ~っ、ほっほっほっほっ…。 初めて本気でお怒りになられた、よいよい! それでこそ殿方じゃ、むっふっふっふ、けっけっけ」

 なんだコイツ(爆)。

 そしてあくまで○×△を拒絶する堺サンに、「それではソイツを殺りゃ」 と、こないだ自分の娘婿だった男、ちゃうちゃう、(「カーネーション」 知らない人はなにがなんやら分からん…笑)堺サンのお付きの僧侶のうちひとりを、あっけなく殺してしまうのです。 駿河太郎サン、哀れ…。 背筋が凍りつきますよ。 それを見て叫び声を上げた遊女のひとりも続けてあっけなく斬殺。

 …はいいとして(よくないけど)、もうひとりいた堺サンのお付きの僧侶が、これがKAT-TUNのこうきクン。 ゲ、頭剃っちゃったの?(と思ったけどすぐ生えてきましたけど…もやしかよ)。

 それはいいとして(よくないけど)やはりこのドラマの安定感を一手に担っているのは、堺雅人サンでしょうねぇ。
 生き残った遊女のひとり、原田夏希チャンとのやりとりとか、見ていてとても安心するんですよ(夏希チャンも事後にあっけなく殺されてしまいましたが)。

 要するに、瞬時でいろんなことを見ている側に連想させる演技の術を持っているんですよ、堺サンって。
 だから、ともすれば荒唐無稽な方向に転がって行きそうになるドラマが、けっしてそうならない。

 結局春日局の恫喝に負けて夏希チャン相手に女犯の罪を犯してしまった堺サン、号泣するこうきクンをいたわりながら、自分の無力さに打ちのめされます。

 「明慧(みょうけい、駿河サン)を殺したのも、この私や…。
 あの遊女を殺したのも…この私や…。

 私は無力や…(泣く)。

 思えば院主となれたのも、家柄の力があったればこそ…。

 私というひとりの人間は…こないに無力やったとは…」

 ここでこうきクンが 「私も一緒に還俗して大奥に入ります」 と宣言するのですが、「私がお仕えしていたのはみ仏やのうてあなたです」 と言うんですね。 どうも個人的にこういう部分がボーイズラヴを連想してしまってちょっと引っかかるのですが。 ボーイズラヴ嫌いなんだよオレ(笑)。

 そして段田安則サン演じる松平信綱に、春日局はどうしてこういう驚天動地の荒唐無稽なことを(くどいぞ)するのか、その説明をしておりましたが、まだ第3代将軍あたりで政情不安定、しかも国の男子がごっそり死んでしまったことが諸外国に知れれば侵略の危険性が高まる、それを防ぐために鎖国を行ない国内の情報をシャットダウンしよう、キリシタン禁止令というのはよい口実になる、などという話を聞いていて、なるほどな、こういう解釈の方法もあるのか、などと一瞬思いましたが。

 思いましたが(笑)。

 国の男子の4分の1が死んだなんて、情報をいくらシャットアウトしても諸外国にはバレるだろ~、とか(笑)。

 でも大胆な解釈のもとには奇想天外な理由のこじつけがある。
 それって、ツッコミを入れるのも楽しいけれど、なるほどな~と思うのも面白い。
 それが知識による遊び、ってもんです。

 で、気になるのはやはりヤンキーの多部チャン(笑)。

 多部チャンと古美門先生がどうやってラブラブになるのか、ドラマとしてそこんところが面白そうかもしれません。 それにどれだけ歴史の知識が入り込んでいくのか。 ミクスチャーの面白さ、というものがある。

 まあでも、なんのためにこういうことをやってるのか、先ほど述べた、第1回で私が感じた以上のことが展開していくのかどうか。 そこにも興味がわいてくるのです。

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2012年10月11日 (木)

「ゴーイング マイ ホーム」 第1回 通わない気持ち、通えない気持ち

 カンヌ映画祭で賞を獲った映画 「誰も知らない」 の監督で知られる是枝弘和サンが監督・脚本・編集。 是枝監督にとっては初めてのテレビドラマだというこの作品。

 受け手は、最初の数分間で、「実に映画的な撮り方をしている」 と感じるはずです。

 テレビドラマの場合、まず状況説明というものが最初はかなりやかましい部分がある。
 セリフのいちいちに、フツーの会話でそんな説明シネーダローという単語がズバズバ入ってくるし、登場人物を視聴者側に印象づけるために顔のアップのシーンもやたらと出るし、まずはその出だしの部分、いわゆる 「つかみ」 を面白くしないと視聴者がすぐにチャンネルを変えてしまうため、刺激的なシーンでテンポよく見せなければならない、作り手の強迫観念みたいなものを、いつも感じるのです。

 しかしこのドラマには、それが一切ない。

 つまり、余計な説明がないから、見てすぐに状況がつかめない。
 必然的に、受け手は登場人物たちに、ある種の警戒感を抱きながら、彼らの真意を探っていくことになります。
 腰が浮わついている視聴者にとって、この作業が実に退屈な時間を強いられることは、間違いないのではないか、と感じます。

 つまり、腰を落ち着かせて、別に挑戦するでもなく、ゆったりとした時間を過ごしたい人に向けて、このドラマは作られている。
 せっかちな人は簡単に 「つまんない」 と投げ出してしまうようなドラマなのではないか、と感じるのです。

 でも、まったりとこのドラマを見ていると、登場人物たちが、ちょっとカリカチュア気味な抑え気味の面白さで、人のなりわいを演じていることに気付くはずです。
 このドラマ、ちょっとしたセリフに、「少しだけ笑える」 ようなエッセンスが、とてもつまっている。
 それが軽~いマッサージのようにじんわり効いてくれば、このドラマにハマったことになります(笑)。

 技術的なことを申し上げれば、このドラマ、編集の仕方や画面の構図の取り方に、いちいちこだわりを感じる。 絵ヅラがいいんですよ。
 役者たちの演技が終わって彼らが画面から消え去ったその場所の風景を、ものの数秒間意図的に映し続けたりするんですが、絵ヅラがいいからなんともいえない上質な余韻がそこに残る。
 アップを極力排して遠巻きから役者たちの演技を、監督の目が追っていく。
 つまり映画の場合、画面が大きいから、別に大げさな演技も必要ないし、時間に追われるように無駄なシーンをカットしまくることもない。
 その結果役者たちは、画面の中で監督の思惑通りの場所で自らの役を演じ、その演技力で監督の思惑以上のものを引き出していく。

 これって大画面テレビでなければ味わえない種類の面白さかもしれないけれど、映画をレンタルで借りてきて小さい画面で見ているような人たちにとっても、とても馴染みのある手法だと思う。

 要するに、このドラマはテレビドラマでありながら、テレビドラマを拒絶している。
 作家性が非常に重要視された世界であり、だからこそこのドラマは、見る者をあからさまに選択するのです。

 こういうスタンスのドラマを作ろう、ということ自体が、テレビ局の姿勢として讃嘆すべきことなのではないか、と感じます。

 私がテレビドラマの最高峰と考えている 「カーネーション」 では、実に自分たちを主張する方法で、テレビドラマというものを拒絶していた気がするけれども、このドラマは全く逆で、さりげなく見せることを自らの個性だと信じて作品を作っている印象がある。

 「分かる人には分かる、分からない人には分かるまい」、というこのドラマのスタンス。

 それが実は、このドラマの内容の根幹にかかわってくる話と、密接にリンクしていることを私は感じます。

 つまりこのドラマに出てくる主人公阿部寛サン(マヨラー…笑)の娘、萌江(蒔田彩珠チャン)にしか見えないという、「くーな」 という生き物の存在です。 ホビットみたいなものなのかな。

 彼女にはそれが見えていて、彼女のちょっとおかしな行動の原因になっている部分がある。
 彼女のママ(つまり阿部サンの妻)である山口智子サンは、そのことが理解できません。
 阿部サンもなんとなくおちょくりながら 「そんなものいるんだ」 なんて考えている。

 阿部サンの家庭は、阿部サンがCM製作会社の部長で山口サンがフードコーディネーターみたいなのをやってます。
 この家庭を見ていて感じるのは、夫婦の会話が現実的すぎて、なんとなく会話は成立しているけれども、心が通じ合っていない感覚。
 これは阿部サンの実家の家庭環境にも同じようなことが言えているのですが、まだ前近代的で血が通っている印象はある。 ただやはり実家は結構裕福みたいで、ドラマ冒頭で倒れた、という阿部サンの父親(夏八木勲サン)は大きな会社のエライ人らしい。 だからかもしれないが、やはりなんとなく人間的な関係がちょっと冷たい家族関係である。 一家の大黒柱が倒れているのに、「死ぬ」 なんてことを平気で口走るし、父親がろくでもない人間だったからか、なんかみんなすごく冷淡。

 その実家の少々冷静な家庭環境が、阿部サンの代になって、さらに冷静さを進行させている、という印象です。

 だからなのか、娘の萌江は、いくら母親がフードコーディネーターのスキルバリバリで目の覚めるようなスッゴイお弁当をつくっても、こちらもとても冷淡。 つまりこれってママのお仕事の成果であって、愛情の成果ではないことを熟知しているからです。

 家庭の潤滑剤であるママの手料理というものが、「お仕事の成果」 なんていうのは、子供にとってどれほどのものか。

 つまり、「通い合ってない」 んですよ。

 そんななかで、倒れた父親の見舞いに来た若い女性に、阿部サンのご実家の人々は 「スワ愛人か」 と騒然となるのですが(独特のヘンなテンションで…笑)、その女性が宮崎あおいチャン。 その父親が、西田敏行サン。

 かなり上質な時間を提供してくれると確信できるこのドラマ。

 この秋一番の見モノであります。

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2012年10月 7日 (日)

「平清盛」 第39回 「兎丸無念」(本日放送)を見て

おことわり 初出時より若干文章を手直しいたしました。 ご了承ください。 なお、コメント欄までお読みいただければ、筆者としては幸いに存じます。

 前回レビューから私のなかでくすぶり続けている 「清盛がそこまでこだわる夢とは?」 という疑問が、ますます大きくなったと感じる、今回の 「平清盛」。

 そりゃ、宋との貿易によって国を富ませる、経済的なイニシアチブをとることで実質的な最高権力者として世の中を意のままに動かそうとする、という 「理屈」 の部分では理解できます。

 でもそれを構築するのに、どうして清盛はなりふり構っていないのか。

 今回このドラマでは、「清盛さまが生き急いでいる」、ということを登場人物のひとりに語らせていました。
 つまり清盛は自分の寿命と闘っている、という視点です。
 でも作り手は、清盛に 「オレには時間がないのだ」 ということを明言させていない。
 今回清盛には、身を切り裂くような試練が訪れますが、それでも清盛が、どうしてここまで急ぎたがるのか、最後まで作り手は清盛自身に語らせようとしなかったように思えます。

 自分の夢を盤石にするといって、ドラマの中では大輪田泊に岬を作り、宋の要人を迎え入れる、という方策が、具体的な効果が見えにくい状態で提示されます。 でもこれだけでは比較的説得力に乏しい。 清盛は宋の要人の来日に合わせて、工期を半分に短縮しようと強行するのですが、それが物語の中で、歪みを生じる原因となっていきます。

 もし自らの夢を盤石にしたいのならば、京にいる平家の人材をもっと充実させ、自分が死んだあとも福原遷都を具体化出来るように手を打ったほうが効果的であるようにも思える。

 でも清盛はあえてそのことをせず、精神的にダメージを受けた棟梁の重盛とか、ちょっと頼りなさすぎる宗盛とか、身内を偉いポストに就かせることだけやったらあとは知らん顔。 「子供は親の背中を見て育つ」 などと今回兎丸に説教しくさっていましたが(ガラ悪いな)、清盛は何より自分の子らに、もっと気配りをして平家万代の安定を図るべきなのでは、と思うのです。

 清盛が自分中心で夢に邁進していることを如実に示しているのは、彼が禿の存在を肯定している点です。
 いや、肯定しているどころではなく、時忠に命じて大輪田泊建設に後顧の憂いがないように裏で糸を引き禿を組織しているのは、ほかならぬ清盛である、という点。
 清盛は禿が兎丸と同じような出自であることを知っているはずなのですが、兎丸が禿の存在を嫌悪していることに理解を示そうとしない。 禿は自分と同じような不幸を背負っている子供たちだから、兎丸がその子らの将来を憂い、嫌悪するのは当たり前なのですが、清盛は 「もと海賊は義に厚くて困る」 などと言って呆れるだけ。

 いまの清盛には、かつての高平太が持っていた、人の心の痛みを理解する部分が欠如してしまっている。

 要するに、夢に邁進するあまり、自分勝手な人間に堕してしまっているんですが、「それもこれも、大輪田泊が完成すれば理解できる」 などと、目的を神格化してしまって(どうもうまく説明できないな)理解を強要したがっている。 そこには清盛の高尚な思惑が見当たらないんですよ(どうにも分かりにくい文章でスミマセン)。

 かように前回から、「ドラマの肝心な部分が空洞化している」 という感がぬぐえないのは、前回指摘した 「清盛の夢である福原のビジュアルが乏しい」 ということがあるのですが、それ以上に、「清盛が、自分のやってることが果たしてベストなのかどうかに、きちんと思いをいたしているか?」 という語り部の視点が抜けているせいなのではないか、という気がします。

 それって意図的にやってるのかもしれませんが。

 つまり今まで義に厚い青春野郎だった清盛が、自らの夢を追い求めるあまり、やっていいことと悪いことの区別がつかなくなっていく状態、というものを意図的に演出しているのかもしれない、ということです。

 しかしもともと青春野郎だったから、それが自分の夢とせめぎ合っているうちにどう醜く変形していくのか、という境目というものが見えてこない。 悪魔と天使の対決みたいな分かりやすい演出、つーか(笑)。 ブラック清盛VSホワイト清盛、みたいな演出。

 ここ数回のこのドラマのモヤモヤ感は、そこに起因しているような気がしてきました。
 これはこれで、権力が肥大し、それに拘泥され驕りが生じている清盛の姿を、如実に描写しているのかもしれない。

 京の五条の橋の上で、弁慶と義経が対峙する様子が、今回の冒頭でした。
 それを禿の存在と絡めたところは、斬新だったと思います。

 その禿が今回、清盛と袂を分かった兎丸の前に立ちはだかります。

 兎丸は清盛の悪口を言ったために禿たちによって惨殺されるのですが、小さい頃の自分に出自が似ている禿に殺される、というのは、要するに、子供のころの自分に殺される、という構図であるような気がする。
 禿は清盛が自分の夢=兎丸の夢を実現させるために世間に放った刺客である。
 だからこそ、兎丸は自らの幼い日の夢によって惨殺された、という構図が、浮かび上がってくる気がするのです。

 清盛はこう盛国に話していました。

 「わしの目指す国の形は、すでに、若き日の兎丸が思い描いておったもの。

 その国の形が出来たとき、…すべては報われよう」

 こうした仕掛けは、やはりこのドラマの真骨頂だと感じます。

 しかし兎丸が禿たちによって惨殺されたとき、清盛は時忠に冷酷に 「禿たちを始末せよ」 とぼそりと告げる。

 時忠は自分が汚れ役を一手に引き受けていた負い目、苦しみというものがあったのでしょう。 禿たちの象徴である赤い羽根を思いきり火にくべて、怒りを表現します。

 清盛を取り巻くモヤモヤ感は置いといて、やはりこの、兎丸と時忠は、今回の白眉だったと感じます。

 兎丸、やっといいヤツだと思いかけたのに…。

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「平清盛」 第38回 「平家にあらずんば人にあらず」(9月30日放送)を見て

 少々苦言に満ちたレビューとなってしまいますが。

 清盛(松山ケンイチクン)が権力の拡充を目指して自分の娘徳子(二階堂ふみサン)を高倉天皇(千葉雄大サン)に嫁がせようと画策する今回。

 これがいかに大それたことかを、ドラマではおじゃる丸たちや平家の身内らに一様に驚かせて表現しようとするのですが、どうにもそのとんでもなさが立体的に伝わってこないもどかしさがある。

 この原因は何なのだろう、と考えたのですが、なんかたびたびで書くのも憚られますけど、結局清盛の巨大な野望が具体的にビジュアルで提示されないことにいちばん根本の原因がある、と感じられてならないのです。

 つまり今回、大輪田泊に岬を作り上げる、という難問を解決しようとしたシーン。
 少しばかり大きな甕(かめ)の中に小皿を古い船に見立て、そこに石を積むことで船を沈めさせ、岬の土台を作り上げよう、というアイディアが兎丸(加藤浩次サン)から出されます。
 要するにミニチュアセットでそんな壮大な工事が説明されちゃってるんですよ。
 清盛はそのプレゼンに感嘆し、「それいいじゃん」 とOKサインを出す。
 それですべてあとは想像してよ、という感じなのがイカン。

 どうにもこの福原。

 清盛の壮大な夢の一大拠点であるはずなのに、福原のお屋敷だけしか出てこなくて、まるでなにも開発されていないように感じる。

 だから清盛がいくら天皇に娘を入内させるなどというとんでもないことを考えても、それってすごいことなの?と思わざるを得ない。
 さらに時忠(森田剛クン)が禿というヒットラーユーゲントみたいな組織を使って反対勢力を粛清し、平家の権力の大きさを思い知らせようとしていても、やはりこれがとても小手先のことのようにしか見えてこない。 森田クンはこの回のサブタイトルである 「平家にあらずんば人にあらず」 の言いだしっぺみたいな役割を演じるのですが、それがとても唐突に見えてしまうのはそのためです。
 平家の行なっている大規模な工事とか、財力権力基盤が具体的に示せていないために、清盛の 「野望」 が、「野望」 に見えてこない。
 それら部分の説得力が増してこないんですよ。

 その、「具体的ビジュアル」 という弱点を補おうと、今回、清盛の力を警戒している後白河が、どうして清盛の娘の入内を認めさせたのか、という話を、作り手はメインに持ってきます。

 ただこのメインの話。

 「大きいものの食べ比べ」 というとんち話に頼りすぎたきらいがある。

 つまり後白河が、どういう思惑によって、自分にどのようなメリットがあって平家との縁組を許したのか、というパワーバランスやら、うまみがどこにあったのか、その原因を複合的にもっとしつこいくらいに提示してくれたら、見ているほうももっと溜飲が下がる、と思うのです。

 清盛の具体的な夢が提示されないから、清盛の変節というものが具体的に見えず、モヤモヤと 「清盛は汚く変わっているようだが、どう変わっているのか?」 という疑念を抱いたままでドラマを見続けていたところ…。

 私が今回もっともいいな、と感じたのは、今まで私が 「キライだキライだ、キライだぁ~~~っ!」(アニマル?)と言い続けていた、兎丸でした。

 彼は禿たちを操る時忠の前に現れ、時忠に詰め寄るのです。

 「おいっ!
 ちょっとやり過ぎとちゃうか?

 あの禿ゆうやつも、もとは身寄りのない子供やろ?
 それをこんなことに使てええと思てんのか?」

 時忠はいかにも小心そうなヤツが虎の威を借りているような狡猾な雰囲気で(ここらへん森田クンうまい)、兎丸の怒りをかわそうとします。

 「これは海賊の棟梁だったお方の言葉とも思えませぬな」

 兎丸は激高します。

 「海賊やったからゆうとんねん!」

 時忠は構わず続けます。

 「放っておけばそれこそ賊になるしかない者たちぞ。
 こうして食いぶちを与えてやっておるのじゃ。
 これもまた、貧しい民を救う、立派なまつりごとであろう?」

 兎丸はそれに対抗する理屈が見つからないのですが、その怒りで時忠の胸ぐらをつかみます。

 そこに聞こえる、粛清された公家の悲鳴。 兎丸は、凍りつきます。

 ここで時忠が、「平家にあらずんば、人にあらず」 と言うのですが、どぉ~もトートツ(笑)。

 つまり平家以外のものはみんな人ではない、というのですが、じゃ兎丸は平家一味だからいちおう人間?とか(笑)、要するに、じゃ人間以外のものはどのように定義されるのか、という理屈が抜けている。

 私は昔からこの有名な言葉は、平家の下っ端が酒の席かなんかで調子に乗って言った言葉、みたいな感覚でいました。
 つまり今回の時忠のように、具体的に反対勢力を粛清するための口実として理性的に放たれた言葉ではない、そんな気がするんですよ。
 もし今回のように、兎丸を納得させるための理屈として採用するのならば、もっと大局的な理屈を付け加えるべきだ、と考えます。

 でもそこは不問といたしまして、兎丸の葛藤、というものが、このドラマを見ていて初めて見えたのが、個人的にはしびれたわけです。

 しかしどうも、この兎丸も次回はドラマを去っていくようです。
 あ~あ、せっかくいいなと思ったのに(笑)。

 そう言えば。

 京の五条の橋の上で、今回は終わりましたっけか(他人事…笑)。

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2012年10月 6日 (土)

「純と愛」 第1週 転がる石のように

 当ブログ、このドラマの第1回レビューで 「登場人物たちがかなり本気で怒り合っている」 と書いたのですが、このたび1週間分1時間半を通しで見ようとして、その点がとてもしんどく(笑)、休み休みの視聴になってしまいました。 1週間分を通しで見るには適していない、このドラマ(笑)。 疲れる(笑)。

 なにしろこのドラマで、いちばん本気になって怒り続けているのが、ヒロインの狩野純を演じる夏菜サン。

 第1回では、自分の就職のためにわざわざ宮古島に帰ってきて、父親役の武田鉄矢サンと壮絶なののしり合い。
 第2回では、大阪にあるホテルの就職面接で、面接官の態度が気に入らないと、「このホテルは潰れますよ!」 とぶちまける(笑)。
 こんなことを言ったらフツー面接には確実に落ちますが(爆)、「たぶんこーゆーとき、ドラマでは合格するのがセオリーである」 と踏んでいたら果たしてその通りになって(笑)、純はそのホテルで働き始めるのですがそこでも周囲の人間と激しくぶつかり合って、自分じゃセーブしているつもりでも結局は言いたい放題にブチ切れまくる。

 ところがこのドラマ、純がいちいち自分の行動に割って入る、ナレーションがなかなか笑えるんですよ。
 第1回ではいちいち自分のナレーションにツッコミを入れてたのが少々ウザかったのですが(「こんなときにドラマだったらナレーションが入るんだろうな~」 とか)、このドラマは私小説か、というくらい、純のまわりに起きたことしかやらない感じがするし、純のその時その時の心情をこれでもか、というくらい描写しまくっている。

 ここに絡んでくるのが、謎のストーカー(笑)、風間俊介クン(待田愛、まちだいとし)。

 彼の設定は第1週を見る限りかなり謎なのですが、彼は他人の顔を見ると、その人の本性が分かってしまうという特殊能力を有しているらしい。
 だから誰かが優しそうな顔をしていても、彼の目にはとても冷たく見えてしまったりして、他人の顔を見るのがとても怖くなった。
 それで下ばかり向いて歩いているから、彼は街中ですれ違う人すれ違う人にぶつかりまくっている(笑)。

 この設定自体はとても特殊だと感じるのですが、もともとこのドラマの脚本家である遊川サンは、特殊な設定がとても好きな人ですから、別に彼が 「家政婦のミタ」 とか 「リバウンド」 しまくる相武紗季チャンとかと同じ部類の人間だと思えば違和感はない。

 で、その彼が、純を見て、「はじめて表と裏の区別がない人と出会った」 と言って、純に付きまとい始めるんですよ。

 いずれにせよ愛のやってることはかなり理解不能ですが(笑)、愛が話す 「裏表のない人」 という純の評価は、見ている側にはある程度の説得力を伴っている。
 だって考えてることがそのまま行動に出てるタイプだと分かりますからね、過剰な心理分析ナレーションで(笑)。

 純は純で、猪突猛進型、しかも唯我独尊タイプ、愛は愛で、なんか気味悪いストーカータイプ、何を考えてるか分からない。

 これって結構視聴者の好みが分かれそうな気がするんですが、私は気に入りました(愛のほうはこれからかな、理解するのに)。

 このドラマを見ていて感じるカタルシスは、純がぶちまける本音にあると言っていい、と感じます。

 純の人生でいちばんの羅針盤となっているのが、少女の頃に大阪からやってきた宮古島での、おじぃ(平良進サン)の経営していたホテルです。
 彼女はこのホテルが魔法の国のように思えて大好きだったのですが、おじぃが亡くなって父親の武田鉄矢サンが引き継いだこのホテルが、そんな自分の理想からかけ離れてしまった、そのことに心を痛めている。

 つまり、おじぃの経営していたころのホテルは、顧客の満足を第一義と考えていたからこそ、チェックアウトする人たちが笑顔でホテルをあとにしていた。
 それなのに父親が経営を引き継ぐと、金儲けばかりを考えて顧客の側に立っていない。
 そのくせ父親は、島の人間はウザいとかインフラ整備をしなきゃダメだとか、まるで自分の側に非がない、という態度を貫いている。

 純にはそれが許せないのです。

 彼女はここのホテルの経営を引き継ごうとし、父親と衝突します。

 「あたしはっ! おじぃのホテルがこれ以上ダメになるのを見ているのがイヤなのっ!
 お父ちゃんが嫌々社長をやってるならもうやめたほうがいいんじゃないかっていってるのよ!
 うちのホテルはね、穴だらけの船なの! 気付かないうちにどんどん沈んでるの! その場しのぎで、穴を埋めようとしたって無駄なの!
 船を心から愛して、ちゃんと行き先を決める人が船長にならなきゃ沈んじゃうんだって!」

 これは、兄ふたり(速水もこみちクン、渡部剛クン)、母親(森下愛子サン)もあえて含め、この家族が話す言葉から考えまでみんなバラバラなことをきちんと丁寧に描写し、そしておじぃの夢のホテルと武田サンのなんとなく慇懃無礼な支配人ぶりとをきちんと比較して描写していたからこそ説得力があらわれるセリフだと感じる。

 結局父親から 「出てゆけ!」 と言われ、純は仏壇にあるおじぃの遺影を一瞥します。
 そのときに純が感じた、本意のなさ、申し訳なさ。
 彼女はおじぃになんとか顔向けをしたくて、「私、いつかうちよりでっかいホテルの社長になってやるから!」 と父親に啖呵を切って、うちを出てゆく。

 そしてその、でっかいホテルの就職面接で、面接官たちが面接中にオーゲサな音楽のケータイ着信音を鳴らしたり、スンゲーでかいクシャミをしたりして、面接を受けるほかの女の子の話がメロメロになっているのを苦々しく見ていた純。

 自分の番になってやはり、オーゲサな着信音と、デケーくしゃみが繰り返されたことによって、その怒りが爆発してしまいます。
 純は相手が面接官だろうがなんだろうが、自分の言いたいことは言わずにはおれないのです。

 「(心の声:冷静に、冷静に…)こんなことは言いたくないんですけど(あ゛あ゛~っダメダメ、純っ!ダメっ!)どうしてケータイとか切っとかないんですか?
 さっき、彼女(メロメロになった人)が、あなたのケータイが鳴ったせいで調子が狂って、結局言いたいことの半分も言えなかったの、分かってます?
 (制されて)てゆか、あなたのクシャミもそうですよ?
 もう少しこう、気を遣って、せめて小さくやるとかできないんですか?
 あなたみたいにでっかい声でくしゃみをする人って、まわりの人間がどれだけびっくりして、どれだけ心臓が縮む思いがするか、分かってます?
 (ここで渋い声の志賀廣太郎サンが「もうそのくらいで、時間もないし」 と割って入ると、純、すっくと立ち上がり)時間がないとおっしゃるなら言わせていただきますけど、この面接は、あたしたちの一生がかかってるんですよ?
 だったら、あなた(志賀サン)もこっちが話してる時は書類なんか見てないで人の顔をちゃんと見ましょうよ!
 もう二度と会えないかもしれないんだから、せめて、今この瞬間を、共に、いい時間にしましょうよ!
 考えたらそれってホテルの基本理念じゃないんですか?
 それくらいの気配りもできなくて、よくホテルで働いてますね?
 エライ人がこんななら、近いうちに潰れますよこのホテル!」

 そして。

 面接後、近くの橋でぐったりとうなだれる純。
 「(あ゛あ゛~。
 やってしまった…)」

 こうして書き起こしをしていて気付きましたが、これって 「曲げられない女」 の菅野美穂チャンや、それこそ 「リバウンド」 の相武紗季チャンが通ってきた 「ボーダイなセリフ」 の、ほんの序の口、という気がしてきた(笑)。

 まさしく遊川作品だ。

 会社の面接で 「なんだここの面接官、や~な感じ」 とか思った人なら、純のセリフのひとつひとつに快哉を上げたくなるはずであります(笑)。
 このドラマのカタルシスは、まさにここにある。

 彼女は 「社長になりたい」 という入社動機を話すのですが、入社後それが揶揄の対象になる。
 彼女が考えている 「おじぃのホテルの理念」 と、この大ホテルの理念とは食い違いを見せていき、第1週からかなりしんどい状況になっていきます。
 彼女が面接の際にかばったメロメロチャンも入社したのですが、純の歯に衣着せない性格に、いつしか彼女も、純から離れていく。

 ここらへんの描写も、とてもシビアです。

 異常な状況を自ら作り上げていき、そこから見えてくる人間の本音というものを引き出す作業。
 遊川サンは粛々と、自分の仕事を進行しているようであります。

 そして純。

 彼女の言っていることは、常に正論です。

 私は面接の際に面接官たちがケータイを鳴らしたり大きなくしゃみをしたりしているのは、こちら側のペースを乱す面接官たちの策のひとつではなかろうか、と思っていたのですが、見進めていくと、どうもこの面接官を担当したホテルの先輩たちは、顧客満足などはどぶに捨てたマニュアル人間たちのようです。
 こんな 「ホスピタリティ」 を忘れたようなホテルに、どれだけ正論が通用して変化を切り拓いていけるか、それもこのドラマの大きな興味のひとつであります。

 純はたぶん、そのなかに投じられる、ひとつの石、一石です。

 彼女の正論は、時に自分を曲げて生きてきた者たちをいらつかせる。

 でも、純の側にしてみても、彼女は転がっていく石のように、世間というものにぶつかり続けながら、次第に相手に通用していく自分の意志というものを見つけていくはずです。

 なかなか楽しみなドラマになっていく印象がするのですが、やはりこれを1週間分見続けていくのはつらいと感じます。 せめて3回分づつくらいでレビューしたいものですが、そこまで自分に気力があるのかどうかも今のところ分かりませ~ん(ハハハ…)。
 今回だってセリフ起こしだけで相当疲れたもん(笑)。

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大滝秀治サン死去…

 大滝サン死去の報を聞いて、「こないだ高倉健サンのスペシャル番組に出てたけど…」 とすぐに思ったくらい、87歳にもかかわらず、この人には最後まで 「現役感」 が付きまとっていた気がします。

 残念です。
 こういう 「味のある」 役者さんというのは、これからの日本にはもう出てこないのではないか、と思うくらい。
 「味のある」 などと簡単に申しますが、これってそんなに一朝一夕で出来上がる類のものではない。
 小林信彦サンだったかな、「その映画を観終わっても、その役者が演じた人が見た人の心の中に残り続け、その人がその後の人生をどう生きているかに思いが馳せられる」 役者というものが、真の役者だ、と(かなりうろ覚えで申し訳ありません)。
 大滝サンの近作で、当ブログで記事にしているのは、オダギリジョーサンの兄と長澤まさみチャンの妹の 「ぼくの妹」 と、観月ありさチャンが人の心をほぐしてくれる料理を作る 「天使のわけまえ」。
 「ぼくの妹」 では謎の老人という設定で、当初事件ドラマを目指していたと思われるこのドラマの(つまり後半はグダグダ…笑)緊張感を持続させる役だったと記憶しています。
 これがごくフツーの気のいい老人で。
 「天使のわけまえ」 では観月ありさチャンの祖父役。 声だけがでかくて(笑)いつも田舎から食材を送ってくれる。
 このふたりとも、「あのジイサンは今どうしているのかな」、ということに、思いを馳せられます。 オダギリジョークンも長澤まさみチャンも、このドラマが終わったらもう次の役みたいな感覚だけど。
 その点観月ありさチャンの 「人の心をほぐしてくれる料理を作る女性」 というのは、「あのあと彼女、どうしてるかな~」 と思わせるタイプかも知れない。

 大滝サンの出演作をウィキで一通り読んだのですが、この人、かなり良作駄作の両方に出ている。

 市川監督の金田一シリーズとか、私が夢中だったころの一連の健サン映画とか。
 かと思うと、「キャシャーン」 とか(笑っ…てしまいますが)「めぞん一刻」 とか。
 「めぞん一刻」 の映画化版って、確か石原真理子サンが響子サン役で(げそ~っ…笑)石黒賢サンが五代クンのヤツ(ハハ…)。 薬師丸ひろ子サンの 「Wの悲劇」 の澤井信一郎サンが監督だったけれど、我々(笑)「めぞん」 フリークのあいだではゲテモノ扱いされていました。

 このブログで俎上に乗せたドラマでも、「天使のわけまえ」 は傑作だったけれど、「ぼくの妹」 は先に述べたように駄作の部類。
 でも。

 やっぱりどんなドラマでも、大滝サンが出てくると、一種の 「安心感」 が漂うんですよ。
 そしてどんな役を演じていても、大滝サンはそのドラマのなかのその 「役を生きている」。

 先に述べた高倉健サンのスペシャル番組でも、高倉健サンは大滝サンの演技について、「演技の中に監督や脚本家の思いが全て詰まっている」 と話していました。
 どんなつまんない映画でもドラマでも、自分の 「役回り」 を全うする。 そういうことができる役者というのは、これはかなり希少です。

 大滝サンの出演した作品でどれがいちばん印象に残っているか、というと、私の場合はやはり 「北の国から」 でしょうか。
 あのドラマに出演していた大友柳太朗サンにしても林美智子サンにしてもそうでしたが、あのドラマの 「大人たち」 には、いわれもない 「歳月を生きてきた者たちが持つ存在感」 があふれていました。
 「北の国から」 で大滝サンが演じた清吉のジイサンも、なんとなくいつも不機嫌。
 人がよさそうな顔をしていただけに、かなりインパクトが強かった。

 いまの日本はこのような役者が極端に減ってきている気がしてならない。
 日本人自体が薄っぺらになってしまったひとつの証拠のような気がするのです。

 たまに味のある役者が出たと思ったら、お笑い系の人だったり。

 お笑い系の人も、もっと演技を磨けばいい役者になるような気がする人が多い気がするのですが、まだまだ 「がんばりましょう」 ですね。 カンニングの竹山クンとか。 ドランクドラゴンの塚地クンとか。

 昔は笠智衆サンとか左卜全サンとか、うまくて味のある役者さんが多かった。
 大滝サンが鬼籍に入って、そんなカテゴリーの役者サンが日本からほとんど絶滅した、という気がしてなりません。

 大滝サン、惜しすぎます…。

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2012年10月 4日 (木)

秋ドラマどれを見るか

 ドラマ好きなクセにいいドラマを探すアンテナが錆びついている私が、この秋見ようと思っているドラマ。

 まずフジテレビ火曜22時からの 「ゴーイング マイ ホーム」 でしょうかね。 ギリシャ人の(ちゃう)阿部寛サン主演。 監督脚本が、是枝裕和サンというのが注目かと。 あと山口智子サンとか宮崎あおいチャンとか、最近テレビドラマと疎遠だった人が久々に出るのも興味があります。 番組HPをのぞくと、なんとなく 「見えんけどおる」 みたいな、「ゲゲゲの女房」 かよ、という気もしてきますが。 初回は10月9日。 2時間スペシャルのようです。 最初に2時間も見てられるかどうか?…これが視聴の分かれ道かな。

 そして同じフジテレビの木曜22時、「結婚しない」。 「しない男」 なんじゃないか?とか言いたくなりますが(笑)。 タイトルがフツーだとどうもいいドラマの匂いがしないけど。
 菅野美穂チャンと玉木宏サン、というと、「ギルティ 悪魔と契約した女」 を思い出しますが、今回は天海佑希サンも共演。 「結婚しない理由」 とか、なんとなく手垢のついた題材のような気もしますが、語り口次第で見せることのできるドラマになるのではないか、と。 初回は10月11日。

 そしてTBS金曜22時からの 「大奥~誕生(有功・家光篇)」。
 この枠で時代劇なんて、ちょっと記憶にないんですが(笑)。
 それに 「大奥」 題材のドラマなんて、いろいろありすぎて正直よく分からん(笑)。
 でも金曜ドラマで時代劇、という突飛なところに惹かれるのと、主演が 「リーガル・ハイ」 の堺雅人サン、直近では 「カーネーション」、時代劇では 「JIN」 で綾瀬はるかチャンの母親役を印象的に演じていた麻生祐未サンも出る、となると、ちょっと見たくなりますね。 多部チャンも出るし。 多部チャンの出るドラマって、なんかあまり見ないんですけど、口コミで評判が高まるものが多い気がするんですよ。 初回は10月12日。

 とりあえずこんなとこですが、日テレ水曜夜10時からの 「東京全力少女」(初回10月10日)も、武井咲チャンが主役でなんとなく 「またかよ…」 という気もしますが、今回は渡部篤郎サンとのハートウォーミングコメディみたいで、伴一彦サンが脚本だし、もしかして化ける可能性を秘めているような気がいたします。 フジテレビ火曜夜9時からの 「遅咲きのヒマワリ」(初回10月23日、ちょっと遅いな…)も、チェックだけはしてみるつもり。 生田斗真クンのドラマって、あまり期待したことありませんが。

 テレビ朝日系の 「ドクターX」 と TBS 「レジデント」 は、木曜夜9時に医療ドラマで激突。 こういうのはたいがい、両方とも見ません(笑)。 打ち消し合って結局つまんないみたいな感覚なんですよね、「同カテゴリーのドラマ同時間帯激突」 っていつも。

 日テレ土曜21時の 「悪夢ちゃん」 って、「悪魔くん」 のパクリかよみたいな感じのタイトルですけど、北川景子チャンのドラマって、あまり面白いと思ったことないんだよなー。 日曜夜9時は相変わらずTBSとフジテレビが張り合ってますけど、今回は両方とも見る気がしない感じ。

 深夜ドラマになるとこれがまた、掘り出し物がたま~に出てくる感じなのですが、「ヨシヒコ」 は裏に 「タモリ倶楽部」 があるためにいつも諦めてます。 放送時間なんとかならんか。 「花のズボラ飯」 とか 「孤独のグルメ」 とか、久住昌之サン原作のマンガが相次いでドラマ化されているのも個人的には気になりますが、気になるだけです(爆)。

 いずれにしても夏ドラマは、オリンピックとぶつかったために最初から 「やる気あんのか?」 みたいなドラマが多かったですが、今クールはだいぶ注目できるドラマが多い気がしています。

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2012年10月 2日 (火)

「坂崎幸之助・吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド」 山下達郎サン登場

 昨夜(10月1日)のラジオ、ニッポン放送の 「坂崎幸之助・吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド」 に、山下達郎サンがゲスト出演しておりました。 しかもほぼ2時間出ずっぱり。

 ラジオ聴取率週間(スペシャルウィーク)でもなくいったいどういうわけか、と考えれば、おそらくこのほどリリースされた達郎サン自身のベスト盤 「OPUS」(オーパス、「作品集」 の意) のプロモーションの一環と容易に想像されます。
 どうも達郎サン、この番組だけでなく、あっちゃこっちゃのラジオ番組に、神出鬼没して出演しまくっている模様(テレビはそもそも出ないスタンスの人ですから…)。 この人はあまりこういう宣伝めいたことをしない人だと思っていたので、非常に意外に感じると同時に、いかにこのベスト盤を強力に推そうとしているかが見てとれるのです。

 以下に述べる私の感想は、仕事中だったので全編を聞いたわけではないことを始めにお断りいたします。 そのうえでの私の印象です。

 まず拓郎サンと達郎サン(似てるな…笑)の接点について。

 拓郎サンは 「同じ仕事をしていても、あまり自分に関係してこない人たちがいる。 たとえばはっぴいえんどでも、鈴木茂や松本隆とは付き合いがあるが、細野晴臣とか大瀧詠一とは面識がない」 と話し、同じように達郎サンとはまるで交わったことがない、という認識でおったのですが、達郎サンにしてみれば、いろんなところでニアミスしていた、といろんな話を打ち明ける。

 特に山田パンダサンの 「風の街」(1975年)。

 このシングル曲では拓郎サンがプロデュースをしていたのですが、途中のコーラス部分のアレンジを自分がスコアを書き歌った、と達郎サンが打ち明けるのです。 当時達郎サンが所属していたシュガー・ベイブもコーラスで参加。
 「瀬尾一三のアレンジにしちゃ垢抜けてると思った」 と拓郎サン(笑)。
 達郎サンがレコーディングの場にいたことすら忘れているようです(笑)。

 顔見知りではない人に対しては、極端に口数が少なくなる傾向のある拓郎サン(笑)。
 結構人見知りなんだよな~(笑)。
 しぜん、やりとりが坂崎サンとのモノが中心になっていきます。 こういうときの坂崎サンの 「緩衝材」 としての役割はかなり頼もしいものがある(さすが 「ギターを抱えたライナス・坂崎サン」…笑)。

 番組でとても興味深かったのは、バンカラで大胆な性格のように思われる拓郎サンが意外と手堅く生きてきたのと対照的に、頭がよくて(実際ガリ勉だった、と番組でも打ち明けていました)慎重にアルバムを完成させていく印象の強い達郎サンが、実は後先考えずに突っ走っていく大胆な性格の持ち主だった、という点。

 その昔、歌い手として仕事をスタートさせながら、大学をしっかり卒業し、ちゃっかり就職もしていた、つまり歌手としてダメだった時の受け皿をきちんと用意していたのです、拓郎サンは(笑)。 それに対して達郎サンは、後先考えずに大学も中退。 退路を断ってこの道に進んでおったのです。

 ビーチ・ボーイズの複雑なコーラスも理詰めでコピーしていった、という達郎サン。
 ボブ・ディランが好きだというのは、単なるイメージ戦略だった、みたいに話す拓郎サン。
 ふたりの音楽性から生き方まで、とてもその相違点が浮き彫りになっていた2時間だった気がいたします。

 拓郎サンって、達郎サンみたいな洗練された音楽に対して結構拒絶する傾向にあるのかな、などと考えておりましたが、「ハワイで聴いた 『ラヴランド・アイランド』 にはノック・アウトされた」 と、達郎サンの歌を褒めておりました。

 私も、「OPUS」、買おうかな~。

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2012年10月 1日 (月)

「純と愛」 第1回 ぶち壊し屋の片鱗見えた?

 毎回様子見程度の朝ドラ第1回レビューですが。

 今回のドラマは 「梅ちゃん先生」 と比べると、かなり出演者たちが本気で怒り合っている、という印象を持ちました。 それを見ているだけでなんとなくしんどかったのですが、それって 「梅ちゃん先生」 のユルさ加減にいつの間にか慣れちゃっていたせいだろうか、なんて考えたりしました。

 まあ、とは言うものの、「梅ちゃん先生」 を真剣に見ることは、もうあの一件以来なかったのですが(笑)。 たまに見ると相変わらずユルユルで(笑)。 最後までユルユルだったなあ(笑)。 誰も死ぬことなく最後までみんな元気だったし(だよなァ?)。

 「梅ちゃん先生」 の視聴率がよかった、ということは、気楽に見ることができるドラマだったからなのではないか、と私は考えています。
 結局 「結婚できない男」 などの傑作コメディを描いた脚本家サンがどのような意図を持って 「梅ちゃん先生」 をフィニッシュさせようとしたのか、ドラマ全体を見なかった私には論じることができません。
 ただ、あまりにドラマを真剣に見すぎてしまう向きに対して、「もっと気楽に構えようよ」 ということを言いたいドラマだったような気はしています。

 このたび始まった 「純と愛」 は、「女王の教室」「家政婦のミタ」「曲げられない女」 などを書いている遊川和彦サン作。
 このブログでは何度も書いているのですが、私がこの人に対して抱いているイメージは、「ブチ壊し屋」。

 つまり、家庭環境とか友人関係、仕事関係とか、もうあとかたもなく破壊したがるんですよ(笑)。
 このドラマ第1回でも、宮地真緒チャンみたいな顔をした主人公の夏菜サンが、父親の武田鉄矢サンとかなりガチバトルを繰り広げていました。

 遊川サンは、ものごとを破壊することによって、そのことの意味をあらためて問いなおしたがる。
 それを毎日朝ドラで見ようかな、というと、また話は別になってくるのですが(笑)。

 そして夏菜サンが第1回最後で出会ったのが、武田鉄矢サンつながりで(笑)金八先生で狡猾ないじめっ子を演じていた、風間俊介クン。 最近では 「それでも、生きてゆく」 の演技が光ってました。

 夏菜サンの母親役すなわち武田サンの女房が、森下愛子サン。
 吉田拓郎サンが森下愛子サンのホントの夫ですが(笑)、拓郎サン、「オールナイトニッポンゴールド」 で森下サンが沖縄に長期ロケに行ったきりで、自分ひとりで食事とか家事をやるのが大変だ、と数ヶ月前にこぼしてましたっけ(笑)。

 とりあえずファーストインプレッションでは、夏菜サンがナレーションをするのにひとりボケツッコミをするところが少々鼻につきましたが(笑)、それを除けば遊川色が初回からぷんぷん匂っているドラマだ、と感じました。

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「平清盛」 第37回 「殿下乗合事件」(9月23日放送)を見て

 ここ数回、清盛(松山ケンイチクン)の子で平家の棟梁となった重盛(窪田正孝クン)が、精神的に余裕がなくなっていく様子を、ていねいに描いているこのドラマ。
 今回はそこに、権力が肥大して次第に自らの分をわきまえなくなりつつある平家の危うさを絡めていた気がします。

 つまり、巨大になるばかりの建物が、たった数本の貧弱な柱によって支えられ、いまにも倒れ出しそうな兆しを見せ始めている。
 表面上たいした乱もなく平静に進んでいく物語の中に、いわれもない静かな緊張感がみなぎっている気がするのです。

 そして平家の傲慢さを象徴するかのごとき 「禿」(かむろ)の存在。
 学校でも勉強した覚えがあります。
 要するに、平家の悪口を言う者たちをしょっぴくナマイキなガキども(笑)。

 このドラマでは赤い羽織を身にまとった童子たちの姿で登場しますが、いったいこの 「庶民の監視役」 的な集団がどのように組織されていったのか。 ドラマでは説明もなくいきなり現れて、この点をはっきりと描写していません。
 ただなんとなく見えてくるのは、時子(深田恭子チャン)派でひと癖ふた癖ある存在の時忠(V6の森田クン)がその形成に一役買っているのではないか、という部分。
 その時忠、今回は清盛に因果を含まされ、棟梁である重盛の頭を通り越して、ある事件を効果的に解決してしまいます。

 時忠は後白河(松田翔太クン)から検非違使の職を解かれてからはフリーランスの状態で、清盛の居る福原でうろちょろしている。
 これが平家の、いわば 「裏」 の部分を象徴させる存在になっていく様子は、興味深いものがあります。

 宋の要人と後白河を会わせようと苦慮する清盛に、時忠は後白河の 「今様好き」 という性格を利用した策でそれに応えます。 珍しい赤い鳥の羽を見せれば後白河は食いつくだろう、ということ。 後白河はものの見事に釣られます(笑)。

 そして後白河は宋の要人と会って孔雀の羽根にご満悦になったりするんですが、藤原摂関家をはじめとする都の政治中枢ではそのことに対して大きな反発が発生する。

 つまり、「治天の君」(ありていに言えば最高権力者)が中国人と会うなんてもってのほかだ、というわけなんですよ。

 ここは見ていてかなり興味惹かれました。

 だって今のネトウヨと同じ発想なんだもん(笑)。

 ちょっと脱線いたしますよ。

 日本にはなんか、純血思想みたいなものがあって、文字とか文化とかで大きな恩恵を受けている隣国たちに対してあまり感謝の念がない部分がある。 島国だから、単一主義が台頭しやすい、というのもある気がします。 要するにこれが島国根性、というヤツなのかな。

 でもよく考えてみれば、自分たちの遠い祖先だって大陸から渡って来た人(弥生系、というのかな)が多いはずだし、ひらがなだって漢字が元になってるし、「遣隋使」「遣唐使」 とか、そもそもかの国に学ぼうとする姿勢だったわけで、これらの文化的根源の恩恵を確実に受けているはずなのに、いざ自分のモノにしてしまうと、「もう用済み」 とばかり蔑みたくなってくる。 これって昔から、変わらない日本人の精神構造な気がする。

 そりゃお隣の国々の様子をつぶさに見ていると、文句のひとつも言いたくなるお国柄だというのはありますよ。 いつまでも過ぎたことをグチャグチャ言ってるし、日本がしてあげたことはすっかり意識の外だし、自分たちの都合のいいように解釈しすぎるし(現代の話とごっちゃにしてますけどね)。

 ただ、私は今現在、この国で台頭しつつある好戦的ムードの端緒を見ている気がしてならないんですよ。

 その重要なキーワードが、「売国奴」 なのではないか。

 隣国たちをかばうような物言いをすれば、すぐにこの言葉が反射的に出てくるようでは、我が国の将来はとても危ういと感じるのです。

 「売国奴」 という言葉は、相手の国を理解しようとする機運を大いに妨げ、いたずらに排他的な感情論を形成する原因となる。
 「いつか来た道」 に、日本は再び陥ってはならないのです。
 「過ちは繰り返しませんから」 という言葉に否定的な感情を抱く人もいます。
 「日本がしてきたことは過ちだったのか、ただの自虐ではないのか」、という理屈です。
 でもそうじゃない。
 戦争は、それ自体が 「過ち」 なのです。
 人が人を殺すということが、すなわち 「過ち」 なのです。
 「売国奴」 という言葉に囚われた人々は、相手に対してだんだんと、「容赦」 というものを拒絶するようになる。
 容赦を忘れた人々は、必ず相手を殺すことに、一定の理屈をくっつけるようになってきます。
 「相手が分からずやだから」「あいつらは低能だから」。
 「なにを言ったってあいつらは理解しようとしないから」。
 「なにを言っても無駄」。

 無駄だろうがなんだろうが、百万、一千万語の言葉を紡いででも、話し合わなければならないんですよ。 分かってもらいたい部分は、どうしたって言い続ける必要がある。

 「自分たちは優秀な単一民族だ」。

 この考えは、自分たちの誇りを喚起するにはいい言葉ですが、相手を貶める気持ちを助長する言葉としては、全く不適切である。

 で、このドラマの平安末期の時点で、すでに信西の提唱する 「遣宋使」 なるものが、藤原摂関家とかの政治中枢部分には、「もう不要」、と解されている段階に突入しているわけですよ。 「もう中国から学ぶべきものは学んだ」、ということで。

 そこに我が国の国粋主義的な萌芽がすでに見てとれる、というのには注目したい、と思うのです。

 で。

 清盛から因果を含められた時忠が解決した、という事件ですが、これはまだガキの(笑)資盛(すけもり、重盛の息子)が藤原基房(細川茂樹サン)に非礼をはたらいたことから襲われた、というものであり。

 これが平家の人々の逆鱗に触れて、まさしく平家全体が好戦的ムード。
 ここで時子までもが資盛の肩を持って重盛に迫るのですが、まあ実の母とは言えないまでも、ここは時子は黙っているべき部分ではないか、と感じました。

 だいたい身分的には相手のほうが上。
 輿を降りなかった資盛の側に非があることは道理なのです。

 重盛は杓子定規な男ですから、その点を重要視して資盛に説き聞かせる。
 悪いのはこっちのほうだ、と。
 資盛はまだガキのクセして、この父親の判定に不服です(笑)。
 この、「ガキのクセして」 というのが重要で(笑)。

 こんなガキの段階から、「オレたちんとこはエライ」 などという意識でおったら、私だったらぶん殴りますけどね。 「威張んな!」 って。 謙虚さというものが身についていないガキは、将来ろくなもんにはなりません。

 それを伝え聞いた清盛。
 「まこと重盛らしい裁断じゃ」。
 「まこと公明正大」 と盛国(上川隆也サン)も重盛を褒める。
 しかしここで時忠が、すかさず口を挟みます。

 「されどいささか正しすぎましょう。

 正しすぎるということは、もはや間違うておると同じにござりましょう」

 時忠が狡猾に平家のなかで生き延びてきたことの原因となるべき発想のような気がしました、ここは。
 このあと朝廷で、後白河と宋の要人が会見したことを問題視する動きが強まったとき、今後ますます資盛のような事件が起きる危険性が高まったとみた清盛は、時忠に因果を含ませます。

 「時忠。 わしはこれより先、いよいよ国づくりに本腰を入れねばならぬ。
 都に憂いを残しとうないのだ。
 わしがこの福原で新しき国づくりにいそしめるよう、そなたは都でそなたの務めを果たしてくれ」

 清盛は時忠にこのとき、具体的な指示をひとつも出していない。

 でもその場の雰囲気、空気が、「わしがなにを言うとるか分かっているな?」 という感じで。
 なんだ、このドラマ、極道ものか(笑)。

 で、その後、基房の輿が何者かによって急襲されます。
 現場に残った赤い羽根共同募金(ちゃう)。
 この赤い羽根がなにを意味しているのかは自明です。
 先に時忠が後白河の気を惹こうと持ち出したあの赤い羽根。

 この痛快な 「仕返し」 に、平家の連中は小躍りして喜びます。
 あのガキ、ちゃう、資盛も 「やったネパパ!明日はホー…」(もういいか)であります。
 えー、「明日はホームランだ」 のギャグのご説明を申し上げます(スゲー不粋)。
 大昔の吉野家(牛丼屋)のテレビコマーシャルに、そーゆーのがあったのです(ハハ…)。
 「♪ここは吉野家、味の吉野家牛丼一筋80年」 というコマーシャルソングだったので、もうすでに吉野家は創業110年以上いってるはずであります(いったん倒産したから無効なのかな…?)。

 なんの話をしとるんだ。

 ともかく重盛にとっては、自分がそんな裏で腹黒いことをやってたと平家のみんなから思い込まれてしまって、表面上取り繕っていたものの、裏では 「なんなんだよ自分って…」 と暴れまくります。

 「間違うておったと申すか…。

 私が…間違うておったと…」

 妻の経子(高橋愛チャン)がかぶりを振ります。 「いいえ…いいえ!」。

 「なれぬ…。

 私は…。

 父上には…。

 なれぬ!」

 いっぽう伊豆では。

 こんな世の中になったのも、すべて源義朝が悪かったせーだ、そーだそーだ、あんなのに従うべきじゃなかったと口々にののしり合う酒の席で、ようやく覚醒するエヴァ初号機、ちゃうちゃう、頼朝(岡田将生サン)。

 「源氏は滅びぬ…。

 わが身は滅びても…。

 源氏の魂は断じて滅びぬ…!」

 瞠目する政子(杏サン)。

 ここの、平家の棟梁としてあまりにも恵まれた身でありながら、おのれの器に悩み自分を見失っていく重盛と、禿という平家の傲慢を象徴する存在の挿入のあとでの、あまりにも情けなかった頼朝の覚醒、その構成の妙。

 頼朝の場合、確かに 「わが身は滅びても」 と、いまだいささか自虐の域を出ない覚醒ではありましたが、時代が反転に差し掛かった瞬間をとらえて見事でした。

 重盛も頼朝も、共に父親の存在に呼応しながら、自らの行き先を模索している。
 ひとりは落ちていく方向に、そしてもうひとりは、かけのぼっていく方向に。

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復活いたしました(…ん~?…)

 このたびは当ブログ読者のかたがたに大変ご心配をおかけし、誠に申し訳ございませんでした。 とりあえず今んところは、復活いたしました(まだ本調子には程遠いですが…)。
 痛み止めもしびれ止めも注射もなんも効かない!と医者にゴネたのが功を奏したようです(笑)。 治んないときは無神経にズバッと言うべきですね(笑)。

 ささ様、私もささ様と同じ、椎間板ヘルニアという診断です。 手術をすると会社がストップしてしまうので、なんとかかんとか物療でごまかしとります。 ささ様は神経ブロックを確かなされていたんでしたよね? まあ、「腰痛で死んだ人はいない」 というお話をささ様もしていた記憶がございますが、その通りですよね。 私もオーゲサです(ハハ…)。

 ただまあ、MRIで自分の脊髄を見たときは、「これテレビでやってた、どこのテレビ局から持ってきたんだ?」 というほどの正真正銘の画像で。

 なにしろ安静にしているほうがよほど痛くなる、というのには参りました。
 痛くて眠れない。 座っていることが5分もできない。
 だからいつもは腰を落ち着けていただいたコメントに返信するという、あたりまえのことがどうにも出来なくなり、新規記事の作成もコメントへの返信も、すべてシャット・アウトせざるを得なくなりました。

 ただ立ったままでもPCは見ることができますので、皆様からのご心配や励ましのコメントは、読んでおりました。 いちいち返信できずに心苦しい限りです。

 rabi様、お久しぶりです。 いの一番にコメントを下さって感謝いたします。 このところあまりにご無沙汰だったので、何か不躾なことをコメントで書いたかな~と、ずっと気になっておりました。 自分はすごく気の利かない人間なので、知らないうちに誰かを傷つけてしまう連続なので…。
 まあ、自分のブログがつまらなければこれはいたし方ありません…。

 マーシー様、ちょっと調子がよくなると何か書きたくなってしまう性分なので、とりあえず先週分の 「平清盛」 はアップいたします。 「純と愛」 の第1回も見たので書きたくなっていますが、ホントに無理は禁物ですね。

 Fクルーラー様、今回、というか、結構前からちょっとヤバいなー、という感じではありました。 9月のブログ記事アップなんか、数えるほどで、これじゃ 「しばらくお休みします」 などといちいち断らなくても開店休業状態でした。 今年の夏は暑かったしな~。 自分の体を過信出来ない年代に突入です。

 Zai-Chen様、いただいたコメントにろくな返事をせずに大変心苦しく感じております。 石原のせがれは幸いなことに総裁選で落選いたしましたが(笑)ああいうのは表に出ちゃイカンですな(爆)。 ああいうのを自民党の長老たちがペットにしているという構図自体に虫唾が走る。

 ちゃも様、大変ご心配をおかけいたしました。 10月のドラマは結構面白そうなのがありそうなので、体調も整えとかねばなりません。

 ご様。

 これはそっちの記事で書くとしますか(笑)。
 ただまあ、毎週後白河後白河と書いてるくせに、なんであの週だけゴッシーを後鳥羽などと書きまくったのか自分でも分かりません。 9月はホントにしんどかったから、そのせいにすることにしよう(笑)。

 巨炎様、こちらも 「カーネーション」 のコメントに返信できなくて申し訳ありません。 数日のうちになんとかいたしたいと考えておりますが、気長に待っていただけると大変助かります。

 みち様、元気がないとギャグにも気合が入りません(笑)。 オチャラケ人間としては不本意です(笑)。 笑っていただけるよう頑張ります。

 M NOM様、ご心配をおかけして申し訳ございません。 「ウィザード」 の録画がたまり始めている…(笑)。 というか、録画がたまりにたまっていて、片っ端から要らないのを削除している状況です。

 アキラ様、会社は休んでおりません。 男はつらいよ(笑)。 少々元気になったからといって、またまた不用心に記事をアップする橋本でございます(笑)。 「殿下乗合事件」、お読みください。

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