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2012年11月

2012年11月29日 (木)

「平清盛」 第46回 「頼朝挙兵」(11月25日放送)を見て

 内容的に孤高を更新した、と書いた先週の当ブログ 「清盛」 レビュー。
 しかし今週は、あっさりとそれを更新いたしました。
 最終回まで、この 「ボルテージ上がりまくり」 状態というのは更新され続けるのでしょうか?
 多忙で体力のないテレビ感想ブロガーとしては、ちょっと勘弁してもらいたい、という感じです(笑)。

 正直なところ、この大河ドラマは、ここ数年の中ではもっとも中身が難解で、内容が濃いと思われます。

 そしてもっとも、暗い。

 「世の頂点」 がすなわち、「闇の頂点」 という捉え方を作り手がしているがゆえにそうなるのですが、ここまで主人公を正当化しようとしない大河ドラマというのは、私の記憶のなかでは、ありません。
 それゆえに、実際の平清盛本人は、ここまで苦悩なんかもせずに、もっと素直に(笑)偉ぶっていたのでは?と感じられる。
 でも、「闇」 に焦点を当てた結果、この大河ドラマは人間の本質というものを、現実よりもさらに鮮明に描写することを可能としている気がするのです。

 「功罪」 ということを考えた場合、おそらく江姫にだって龍馬にだって篤姫にだって山本勘助にだって(過去4年の大河ドラマ主人公)、「罪」 の部分はあったのでは、と思う。
 でもそれは、世に対する 「功」 の部分を押し出すことによって、自らを正当化することが出来ます。

 このドラマは、それを拒絶している。




 今回のこのドラマを見ながら私が思っていたのは、「清盛のめざす武士の世とは? そもそも清盛は、武士なのか? 武士の魂を持っているのか、いないのか?」 ということでした。

 今回序盤、小兎丸が母親に対して、「入道様の国づくりは、まこと、お父(兎丸)のめざした国づくりと、同じなのか?」 と訊きます。 対して母の桃李が答える。
 「お母は、まだはかりかねておる…」。

 そして頼朝に先んじて挙兵した源頼政は、追い詰められて逃げてきた平等院で、息子の仲綱につぶやきます。

 「仲綱。 わしは最後まではかりかねておった。 清盛入道が器を…。

 あのかたは、この国の宝か?

 それとも災いか…?

 この戦にわが身を投じた今もって、分からぬのだ…」

 このふたりに共通の思い、「清盛の人物がはかりかねる」。 では、まことに僭越ながら、ない頭で、それを考えてみることにいたしましょうか。




 頼政は今回、以仁王の令旨に従い、平家をひそかに裏切りながら清盛に拝謁するのですが、その清盛から、福原遷都の壮大な構想を披露される。

 「それ(宋と交易がしやすい海の近くに都を構えること)が新しき国、武士の世の要となる」

 「武士の世…」

 「亡き源氏の棟梁義朝と共に、目指した世じゃ…。
 かつては義朝に付き従うたそなたには、やってもらわねばならぬことが山ほどある…。
 長生きして、この新しき国づくりを支えよ」

 この構想を語る清盛の眼は、いかにも清々しく、生気に満ちています。
 頼政はこの時の清盛の目を見て、清盛の器が正なのか邪なのか、分からなくなったと言えましょう。

 先週も指摘しましたが、清盛のめざす国づくりというのは、多くの人々の 「犠牲」 の上に立って遂行されつつある。 少なくともそういう認識で清盛自身は突き進んでいる。

 それはちょっと聞くと、いかにも皆の弔いのためにやっている、涙ぐましい同情すべき動機のように思えます。 そして当の清盛自身の出世の本懐(生まれてきた目的)、という点においても、いかにも正当な理由であるようにも思えます。

 しかし。

 私は、「果たしてそうなのかな?」 という気がしてならぬのです。

 つまり、清盛の抱いていた夢は、清盛がたったひとりになってしまったことで、実は視野が狭まり、近視眼的になってしまっているのではないか。

 かつて武士の世を一緒に目指した、と清盛が思い込んでいる、父忠盛や叔父忠正、盟友義朝、そして信西…。
 彼らは今の清盛の姿を見て、諸手を挙げて賛同するのだろうか。

 清盛が目指している世、というものが、交易に重点を置いた国際都市の建設だ、とすれば、これはこの時代の我が国(世界的に見ても?)の常識からすれば、とてつもなく先見の明に満ちたことのように思えます。

 でもそれを行なおうとする清盛は、これに付き従おうとするあまたの人々の心、というものを、置き去りにしてしまっている。

 つまり、拙速すぎるのです。

 それは自分の寿命との競争であるがゆえに、そうせざるを得ない一面がある。
 発想が先進的すぎるから、自分の思いを継いでやろうとする者がいない、という思い込みを、清盛はしているのでしょう。 だからやり方が強引になる。

 そしてもうひとつ、清盛の心に巣食ってしまったのは、「権力の闇」 だと感じる。

 今回、清盛は、かつての自分を知る西行に会うことによって、そのことを深く自覚するに至ります。

 西行は在りし日の、北面武士として一緒だった義朝を合わせた3人の、自らのめざすものを清盛に思い出させます。

 佐藤義清(西行)は 「美しきもの」、義朝は 「強くありたい」。 そして清盛が語ったのは、「オレは面白く生きたい」。

 自らの若き日の思いが今、どのような変質を遂げているのか――。

 それを悟ったとき、清盛の中に蠢いていた悪魔、「もののけの血」 が、まるで幼生エイリアンが腹から飛び出したときのように、その正体を現すのです。

 圧巻。

 これを見ている多くの視聴者は息を呑み、松山ケンイチという役者の底力というものを思い知ったに違いありません。 私も震えました。 もう、この人の演技にイチャモンをつける気には、到底なれません。

 結論としては、「清盛は 『宝』 であり、『災い』 である」。

 考えていることは革新的で、我が国の国益を損なうものではないのですが、いつの間にか目的が先走りして神聖化してしまい、結局民を苦しめ、痛みを強いる存在となってしまっている。

 このブログのコメントのやり取りの中で、ソフトランディングという言葉が出てきたことがありましたが、清盛のそれはまさにその逆を行っている。 急激な改革というものが人々に馴染まない、という側面をないがしろにしては、いくら目的が素晴らしくても挫折してしまうものだ、と見ていて思われるのです。

 つまり別の角度から見れば、清盛は時代を早く生まれすぎた。

 頼朝がこのドラマで清盛を評価しているのは、まさに清盛の失敗を見ているからで、頼朝の施政の根本には、清盛の施政の失敗が実を結んで生きている。 武士の世のテストケースとして(貿易立国の推進者としても)清盛は必要不可欠な宝だったのであり、過激な急進派という点では災いであったのだ、と思うのです。




 …ちょっと待て、コレ前フリか?(笑)
 先が思いやられるぞ…。




 病気になった四男知盛を見舞った清盛。 早々と帰ろうとして、「そりゃ早く帰りたいワケが」 と時忠にからかわれ、アタフタ(笑)。 時子はすでに夫の浮気を見抜いていたご様子にござりまする(笑)。
 知盛は 「こうして安静にしていると、馬の地鳴りが聞こえる、都が騒がしい」 と気になることを話します。

 それは以仁王の令旨に反応した、源氏の馬の蹄の音。

 清盛はその報告を時忠から受けますが、まったく意に介さない様子。
 そりゃそーだ、今まであんだけしつこい双六遊びをしていた後白河の反乱でさえ、あっという間に粛清してしまったんですからね。 2千ばかりの兵なんか、今の平家にとっては物の数ではない。 ただしこれ、「源氏による火の手」 ということを考えると、清盛に多少の警戒も必要だったかもしれません。
 それにしても平家の情報網は迅速…つーか、あんだけ全国の源氏に大々的に通達してれば露見するのは簡単か(笑)。

 あっという間に追い詰められた以仁王と頼政たち。
 先週あんなにカッコよく令旨を出したので、もうちょっと頑張るかと思ってたんですけど(笑)。
 まあ、園城寺まで命からがら逃げてくるところまでは、今までの反乱とは違って頑張っていたところでしょうか(笑)。
 ただし清盛にとっては、頼政が反乱を起こしたことが、それまでのものと違って、かなりのショックだった模様。

 「分からぬと申すか…?

 同じもののふの頼政でさえ、わしの国づくりについてこられぬと申すか…!

 …討ち取れ…。

 なんとしても頼政を討ち取れっっ…!

 わしの国づくりを分からぬ者は、この国には要らぬっっ!!」

 その憤怒に満ちた鬼のような表情。 報告をした盛国も、その場にはべっていた仏御前も、その剣幕に息を呑みます。 松山クン、スゲエな…と思ったのですが、これ、まだ今回序の口…(ふぅ…)。

 しかしここで清盛が頼政のことを 「同じもののふ(武士)」 と言っていたことは気になります。
 いったい同じなのか。
 それは清盛だけの思い込みなのではないか。 もしくは、もう清盛は武士ではなくなっているのではないか。 頼政のほうがまことのもののふだからこそ、まことのもののふではない清盛の国づくりについてこれないのではないか。

 伊藤忠清の軍勢に矢を射抜かれる頼政の息子、仲綱。

 「仲綱アァァッ…!」 叫ぶ頼政。

 そして先に述べたように、清盛の器を最後まではかりかねたまま、頼政は自害して果てます。 息子の仲綱も、父に源氏の魂を見て本望だったと満足の言葉を残して、自刃。

 頼政の最期のセリフは、「時はじゅうぶんに稼いだ」 というものでした。
 が、これは以仁王を逃がす時間をじゅうぶんに稼いだ、という意味もさることながら、遺された源氏の一族に対しても、平家追討の覚悟を与えた、という意味で、じゅうぶんに時を稼いだ、とも言えるのではないでしょうか。

 しかしその甲斐もなく、以仁王も討ち死に。 呆然とたたずむ暲子。 この人はお咎めなかったんでしょうかね。 そのシーンに、幽閉されている後白河の歌がかぶさります。

 「古き都を来てみれば
 あさじが原とぞ荒れにける」

 もはや自分の思い描いている都というものが、そこにはない、という後白河の嘆きが、虚しさとなって見る者に迫ります。

 この顛末を籐九郎から受ける頼朝。
 かねて以仁王の令旨を受け取ったときは、軍事力の差を冷静に分析して、無謀なことと考えていた頼朝の心に、火が付きます。 自らが遠い日に体験した、戦場のもたらす異様な高揚感というものもその導火線のひとつになっている。 この見せ方は秀逸です。

 この以仁王と頼政の反乱が、清盛の心のリミッターを、さらに外します。
 平家が一堂に会した場で、福原遷都を強行に主張。

 その場にいたほぼ全員が、この拙速さに異を唱えます(黙っていたのは盛国くらい?)。
 特に義弟の頼盛の諫言は、清盛にとっても耳の痛い話だったかもしれません。

 「『上へ上へではなく、横へ横へと広がっていく世を作りたい』。 それが義兄上のこころざしであったはず。
 かように人々の心をないがしろにした強引な遷都の末に、そのような世が来るとは到底思えませぬ」

 清盛は憎々しげに頼盛の顔を見る。

 「そのような世を見せてやると言うておるのが分からぬかっ!」

 黙ってしまう頼盛。 このジジイは(笑)「わしに逆らったらみんな死刑っ!(こまわり君)」 とばかり、傲慢の極みにおります。 誰も逆らえません。

 そして強引な遷都。 「400年続いた京の都が、今や荒れ野原」(北条時政)。 ここだけで普通、国民の心はザワッと来るものです。 新しい時代を渇仰する機運のもとでの遷都であれば、明治政府のように成功するのでしょうが、この遷都は要するに、平清盛ひとりのワガママによるもの。 無理がありすぎることがドラマを見てるとよく分かる。

 そして自分の周囲で、清盛の圧政によって領地を巡る争いが激化したことも、頼朝の心の中の炎をだんだんと大きくしていきます。

 「武士の世…。

 あのお方の目指してこられた、武士の世とは何なのじゃ?

 武士の世とは、こうして平家ばかりがよい思いをする国づくりのことなのかっ!」

 髭切を手にする頼朝。 義朝の怒り、源氏の魂の怒りが、妖刀から頼朝に注入されていくかのようです。

 いっぽう自分の思うがままにすべてを成し遂げた清盛。 しかし暗闇の中で沈思するその顔は暗い。

 そこにまるでホタルのように近づいてくるひとつの明かりがあります。

 西行です。 お久しぶりです。
 ここからのシーンは、この長いドラマの、ひとつのクライマックスと言っていいシーンだったように感じます。

 老い先短いので、清盛の都がどんなものかを見に来た、と語る西行。 高倉上皇の病について、話が及びます。

 「上皇様のおわす仮の御所の方角が悪いのやもしれぬ」

 この清盛のセリフを聞いて私は、「もしかすると福原京の風水的な所在地も悪かったのかな」、なんて考えたりしました。 歴史的な都の位置は、いつも何らかの方角的な吉凶が検討されていますから。

 「ご心労…ではござりませぬか?」

 西行は旧知の間柄か、高倉上皇の病の原因をズバッと清盛に話します。 ギロッと西行を睨む清盛。

 「ご無礼ながら、こたびの遷都、人々は移り住んでも、皆、心は都に置いたままとお見受けいたしまする」

 清盛は仏頂面をしながら何も聞かなかったように、「仏!」 と最近の愛妾を呼びつけ、西行そっちのけで仏御前をいたわります。
 西行、なんか最初から自分はいなかったのでは?と思われるほどの徹底無視ぶり(笑)。

 そして清盛は、「仏のために座興を用意した」 と、かつての愛妾だった祇王、祇女を呼びつけるのです。 「入(い)れよ」。

 部下たちによって連行されてきた祇王、祇女。 今回の序盤で、仏御前とイチャイチャしまくる清盛を見て、「もうここには自分たちの居場所はない」 ときれいに去ろうとしていたのですが、おそらく清盛がそれを許さなかったようです。 ふたりを見て驚く仏御前。

 「さあ、祇王、祇女、仏のために、舞うがよい」

 「入道様、私は、さようなことは…」 戸惑う仏御前に構わず清盛、「はよう舞えっ!」

 祇王と祇女は、覚悟を決めたように、震えて舞い始めます。

 「仏も昔は凡夫(ぼんぷ)なり
 われらも終(つい)には仏なり
 いずれも仏性(ぶっしょう)具(ぐ)せる身を
 へだつるのみこそかなしけれ」

 同じ白拍子の身を案じてか、その舞を見て涙を流す仏御前。
 その場にいたたまれない、といった表情で、固く押し黙る西行。
 清盛はひとり、悦に入っています。 西行を完璧に無視してますけど(笑)実は西行にも見せつけたいのかもしれない。 自分の権力を。 そして自分の闇を。

 それにしてもこの祇王・祇女の歌。

 すべての人に仏の生命、すなわち仏性があることを分かろうとしない、衆生の元本の無明(無知からくる迷い)というものを歌ったものだと察することが出来ますが、仏御前も自分たちも、元は一緒だったではないか、というこのふたりの恨み節もひっかけてある気がする。

 仏御前というのは、清盛にとって冥界への使者なのか?みたいなことを先週書いたのですが、ここでの仏御前は、あくまでひとりの凡夫として描かれている。 さらに清盛にとって、母親・舞子の象徴であったこともこのシーンでは明らかになるのですが。

 なぜ清盛は仏御前にこのようなものを見せようとしたのか。

 おそらく清盛にとって、母性的、超越的な存在であるように見えた仏御前への、挑戦だったのではないか、という気がするんですよ。

 だいたい名前からして、「仏」、ですからね。

 つまり清盛は、「仏御前」 ならぬ、当の 「仏」 に対して、対抗心、敵愾心を燃やしたのかもしれません。 「この世においては自分が仏そのものなのだ、自分が最高の存在なのだ」 ということをことさら誇示したくて。

 そして清盛は、自分の出生が邪なるもの(もののけの血)に汚されているのは、紛れもなくこの母親のせいだ、という恨みを、どこかで抱いていたのかもしれない。 それはこの直後のセリフで明らかになっている、と感じます。

 このシーンで見せる仏御前の狼狽。
 それは、仏御前が仏でも清盛の母親でもなく、ただの人間だったことを示している、と私は見ます。
 それは清盛にとって、大きな失望でもある。

 「フン…。 当座の歌にしては、殊勝に歌ったものよ。
 こののちは召さずとも常に参り、歌い、舞って、仏を慰めよ」

 涙を流している仏御前。
 「下がらせよ」。 自分の思うがままに従者を使い、自分の力を誇示し続ける清盛。 西行は、「美しくないものを見た」 という顔です。 西行は思いついたように、おもむろに語り始めます。

 「若き日に、話し合うたことがありましたな。 それぞれの目指す道を」――。

 忌々しげに西行を振り返る清盛。 若き日の義朝が、溌剌としてしゃべる回想です。

 「俺はますます強さを磨き、王家に武士の力を思い知らせたい」

 そして佐藤義清時代の西行。

 「いかなる世においても、美しく生きることが私の志だ」

 そして汚物時代の(爆)清盛。

 「オレは…面白う生きたい」

 「ふざけておるのかっ? オイっ!」

 じゃれあう義朝と清盛(ああ、遠い日々よ…)。

 そして精神的な汚物にまみれた現在の清盛。 西行は、言葉を継ぎます。

 「そののち、私は出家をいたしました。 俗世におったなら、美しく生きることは叶わぬと、悟ったゆえにござります。

 手に入れたい…手に入らぬなら、奪いたい。
 奪えぬなら、殺したい。
 そんなどす黒い醜い思いが渦巻いて、やがては、国を巻き込んでいくのだ。

 まさに、あのとき恐れていた世の到来。

 その頂におられるのは、誰あろう、お手前…!

 …これが…。

 お手前の 『面白く生きること』 にござりまするか?!

 お手前の目指した、『武士の世』 にござりまするか?!」

 清盛は、実に面白くなさそうに乾いて笑い出します。 「ハハハハハ…。 ハハハハハハハ…! ハハハハハハハ!」

 後白河の特許なんですけどね、この高笑い(笑)。 でも清盛のそれは、いかにも無理に笑っているようです。 その冷たい笑いに、仏御前はおののいたような表情です。

 「西行! そなたには分からぬ…。

 そなたにも…誰にもな…」

 清盛は自らの正当性を持ってこの国づくりを邁進しているつもりです。 でも、それが人心から離れていることを、清盛は 「誰もオレの考えを分かっちゃいない」 と捉えて、ひとり失望している。 それはいつしか、「自分以外のまわりの人間は、みんなバカばかりだ」 という思いに発展しているようにも見えるのです。

 「ハハハハハハハ! ハハハハハハハ!」

 清盛はもう、笑い方を忘れ、いかにもこの世全体が忌々しいものであるかのような、怒りの表情で、笑い続けます。 すごい…。 松山クン。

 「ご無礼をつかまつりまする!」

 そこに現れたのは、義弟頼盛。
 病の高倉上皇が、摂政基通に政治の実権を譲った、との報せ。
 清盛は意に介さない。

 「戯れを…。 これではわしの国づくりの名分が立たぬ」

 「もはや、都還りなさるべきとの声が上がっておりまする…!」

 「さような世迷い言は口にするだけで罪に問うと触れを出せ」

 押し黙る頼盛。 清盛は壇上に上がり自分を誇示させながら叫びます。

 「よいかあああーーーっっ!

 わしに逆らうものは、みな死罪と心得よっっ!」

 凍りつく場。 清盛のなかで蠢いていた悪魔が、腹を割いて出てきた(笑)。 清盛は、常軌を逸した笑い顔になっています。 どうだ!どうだ!と言わんばかりに周囲をうれしそうに見回すエイリアンの幼生、違った、清盛(笑)。

 「…ここはわしの世じゃ」

 壇上から降りる際につまづき転げる清盛、それでも構わずはしゃぎまわり、

 「武士が頂に立つ世じゃ…!」

 さまようように歩き回る清盛、

 「わしの目にしか見えぬ、わしの国を作るのじゃ…!」

 まるで悪魔の正体を見た、というように冷静な西行、ただおろおろする仏御前、

 「すべてを手に入れ…復讐するのじゃああーーーっ!」

 ここで自分が取り憑く霊媒を探していた悪魔が目を付けたように、清盛は仏御前に焦点を合わせる。 仏御前は、恐れおののき、「お赦し下さりませ…。 お許しください…!」 とその場から逃げようとします。

 「殺せぇーーーっ!」

 清盛、完全に常軌を逸した命令です。 仏御前を殺そうなどと…。

 しかしこれは、先に述べたように、清盛の中にある、母舞子への憎しみがそうさせている、と私は考えます。 そして仏御前は、母ではなかった。 その失望も清盛にこの狂った命令を下させているのだ、と思う。 つまりは、もののけの血の元凶である、母親への復讐、なのだと思う。

 清盛の命に、弓を引き絞った従者たちがこぞって仏御前を取り囲みます。
 憎しみの権化のような表情のまま、手を挙げ、弓を放たんと命じようとする清盛。

 その瞬間。

 舞子が白河法皇によって射殺されたときのシーンが、またフラッシュバックする。

 つまり、仏御前を殺そうとすることは、母親への復讐であると同時に、清盛自身が白河になりたかった、という欲望の、まさに終着点なのである。 そう私は考えるのです。

 憤怒の表情のまま、なかなか手を下そうとしない清盛。 仏御前は、その極度の緊張に耐えられず、気を失います。 従者たちの引き絞った矢が、それを追って下へと向かう。

 「なにをしておる…?」

 そこに現れたのが、盛国です。

 盛国は倒れている仏御前のところに駆けつけ、ありったけの声で従者たちを恫喝する。

 「やめよぉーーーーっ!!!」

 盛国は清盛を怒りの表情で見上げます。 実は盛国がすごかった、というコメントを先に読んでいて、どんだけ盛国がすごいことをやったんだろう、と思っていたのですが、盛国がしたのはここまで。
 それでも、今までただひたすらに清盛の国づくりを理解し、陰で支えていた盛国が、清盛を睨んだ、というだけで、かなりのインパクトをもたらしている。 「殿、やっていいことと悪いことがござりまするぞ!」 というセリフを特に言わなくても、これだけで済んでしまう迫力があったことは、確かです。

 いちばんの理解者である盛国の、その訴えるような怒りの目に、エイリアンによって自らの動きを封じこまれていた清盛の良心が、反応しだします(ヘンな解説だな…笑)。

 「う~ん…。 う~~~んんんん…。

 …

 …

 助けてくれぇ…。

 …

 …

 誰か、助けてくれっ……。

 …

 …

 …暗闇ばかりじゃ…。

 …

 …

 …ここからの眺めは…。

 果てしない、暗闇…。

 …

 …

 手に入れても手に入れても…。

 …

 …

 光は…。

 光には…!

 届かぬ…。

 …

 …」

 涙をこぼす清盛。 その哀れさ。 その悔しさ。 その情けなさ。 その怒り。

 このドラマは、「清盛は白河法皇のご落胤だった」 という、一般にはあまり支持されていない学説を採用しています。
 でも、清盛の闇を描くためには、この設定はどうしても、脚本家の藤本サンには必要だった、という気がとてもする。
 「もののけの血」 というものが、清盛の行動規範の奥低に流れていて、それに復讐するために清盛が行動している。 こうすることで物語としての悲劇性は最大限にまで引き出せるのです。 清盛が囚われた闇というものを、これで見る側に、あまりに絶望的なまでに示すことが出来る。

 どうも、このようなクライマックスシーンで、ヤケに冷静な分析をしとるな(笑)。

 ここに。

 伊藤忠清が、頼朝挙兵の報を持ってくる。

 すると。

 涙にくれていた清盛の顔に、にわかに生気が戻ってくる。

 これね…。

 すごい。

 つまり、闇に囚われていた清盛を心情的に救ったのが、頼朝だった、という解釈。
 作り手はこれを、その場にいた頼盛がのちに頼朝に語った感慨、として披露している。

 清盛は、奥の間に置いてあった、すっかり忘れ去っていたように思われるエクスカリバーをですな(父忠盛からもらった宋剣)、振り返り、手を伸ばし、転げながらたどり着き、すがるように再び手に取るのですよ。

 これって、このエクスカリバーを、作り手は 「武士の魂」 という解釈で捉えていると見てよろしいでしょうか。

 「ううううーーーーー…………」

 まるで赤子のような泣き声を、清盛が上げます。

 そして屹立する、清盛。

 もう、すごすぎ。

 どうなっちゃうのコレ。

 書きたいことは先に全部書いたから、もうこれ以上は書けません…(笑)。

 この大河ドラマは、私の中では大河ベストワンになりつつあります。

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2012年11月28日 (水)

「清盛」 レビュー、鋭意制作中

 昨日から 「平清盛」 のレビューを書いているのですが、まったく終わる気配すら見えません(笑)。 小難しいことを書きまくっております(笑)。 頭が悪いのでパンクしそうです(爆)。

 ですのでささ様、えみし様、読者の皆様、しばらくお待ちいただきたいと思います。

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2012年11月25日 (日)

閑話休題 秋ドラマ、中間報告

 このところ、仕事が忙しく、なかなかドラマのレビューに気が回りません。
 仕事が忙しいだけならまだいいのですが、なんとなく将来に対する不安なども感じます。
 こうなるとただの愚痴になってしまうのでやめますけど、いずれにしても、なんとなくこんなんでいいのかな、という漠然としたことは、最近よく考えています。

 そんな自分にとっていちばん身につまされてしまうのは、「遅咲きのヒマワリ~ボクの人生、リニューアル」 です。
 特に台風が来た回の話は、「みんな、それがベストだとは呼べない人生を送っている。 でも頑張っている」 ということを強く感じました(今んところそこまでしか見てないんですけど)。
 特に真木よう子サンは、研究者として頑張ってきたのに田舎に飛ばされて不慣れな医者の仕事をやっている。 お姉ちゃんの国仲涼子サンとかは医者だから実入りがいいだろうとか単純に羨ましがられるのですが、諦めきれずに毎日もといたところからの、来るはずのない 「戻ってこい」 のメールを待っている。 そのうち、そんな覚悟の中途半端さからくるようなミスで、みんなから白い目で見られてしまうのです。

 そんな彼女、台風が来たときに急患が出て、いやいやながらもみんなの陰口に反発するような形で、土砂崩れの道をかき分けてその急患の年配のご婦人の家まで向かいます。
 そして翌朝、再びその家を訪ねると、よくなったご婦人から涙を流して喜ばれる。

 真木サンは、「こんな自分でも、こんなに感謝してくれる人がいたんだ」 という感激で、今まで抑え続けていたものが堰を切って涙となって流れてしまう。
 秋ドラマはいろいろと見てるんですが、ドラマを見て久々に泣きました。

 話的にはよくあるのかもしれませんけど、「自分はそこにいていい人間なのか」 という違和感を抱き続け、どことなく仕事に100パーセント気持ちを傾けてない時に何かしらミスが起こり、まわりから白い目で見られ、そんな自分の気持ちを知らない人から、気安く羨ましがられる。

 そんなときにいちばん気持ちが弛緩してしまうのは、「他人から感謝される」 ということなのではないでしょうか。
 通り一遍のあいさつ的なものではなくて。

 でもそれはただのきっかけで、自分がいちばん報われた気持ちになるのは、「自分はそこにいていいんだ」 という実感を得ることなんだ、と思うのです。

 そうした観点からもうひとつの、「悪夢ちゃん」 というドラマは、主演の北川景子サンも子役の悪夢ちゃんも、「自分はここにいてはいけない」 という強迫観念に晒されているドラマだ、ということは言えるのではないか、と感じます。

 このドラマは自分も休みの日なので毎週リアルタイムで見ているのですが、昨日の回は北川景子サンが、「自分は幼い頃に人を殺した」 という記憶がよみがえってきて(この記憶が確定かどうかはまだ分かりませんが)「自分は教師をやる資格のある人間ではない」 と、辞表を出してしまいました。
 さらに悪夢ちゃんのほうは、今までおじいちゃんと自分の悪夢を解決してくれる北川サンに守られながら生きてきたのですが、おじいちゃんの研究を盗もうとしているGACKTサンの口車に乗ってしまい、GACKTサンのもとに行ってしまう。 目的は黒いけど、GACKTサンの言ってることは表面上ごもっともなので。

 このドラマの底には、このふたりが 「自分はここにいてはいけない人間なのだ」 という意識の上に生きている、という切なさがあるように感じます。

 悪夢チャンはGACKTサンの言うことにしたがって自分のしていることを、人助けだと思って自己肯定に辿り着いたのだけれど、濱田マリサンにマジックミラーの向こうでこのことをあからさまに否定されて、その自己肯定がガラスのように崩れていく。 濱田マリサン、「カーネーション」 に続いて、主役(級)を切り刻むなぁ(笑)。

 いずれにしても、毎回生徒の悪夢を解決する、という話で終わることなく、物語の特殊な世界観自体が終末に向かっているような感覚にも襲われるドラマです。

 そんな曖昧な自分というものを逆に感じさせないのが、「PRISLE$S~あるわけねぇだろ、んなもん!」 の木村クンです。

 彼は自分のやってることに、ほとんど疑問を感じたりしてない。

 彼の生き方を見ていると、ビンボーだろうが社会的地位がなかろうが、「やってて楽しいかどうか」 ということに価値観の中心があるように見えて仕方ない。
 つまり、「自分はこんなこと、ホントはしたくないんだ」 とか、「こんなことやってていいんだろうか?」 とか、そんな逡巡がないんですよ。

 ただ、これって自分の中に、本当にしたいもの、という夢がないことの裏返しなのではないか、と思う時がある。

 人というのは、幼いときなんかに、「将来は何になるの?」 ということを大人からよく訊かれる。

 だからかもしれないが、子供はある程度、自分の好きなものを自分のなかで決定しながら、それを自分の 「夢」 として確定していく。

 そしてそれに向かって生きていくことが、ある意味人生という船を動かす風になったりするのですが、常にきちんとそこに辿り着けるわけでもないから、自分の思い通りではない人生も、歩まなくてはならなくなる場合も、生じるわけです。

 そんなときに限りなく邪魔になるのが、「自分はホントはこんなことしたくない」 という意識です。

 自分のアイデンティティが、自分の行動を縛ってしまうんですよ。

 このドラマの木村クンには、それがない。

 それが見ていて、とても羨ましくなるし、自分がこだわっているものっていったい何?ということを思い返させてくれるドラマだ、と思うのです。

 木村クンのなかには、自分の本当にしたいことというものは、ないのかもしれない。
 でも、彼の夢の中核にあるのは、もっと抽象的なことなのではないか。
 つまり、いつもなにかに一生懸命になっていたい。
 いつも誰かを信じていたい。
 そんな抽象的なものでさえ、夢に出来るんだ、と思うのです。

 「猿飛三世」 の伊藤淳史クンなどは、そんな意味でまだ自分のアイデンティティを模索する段階です。
 彼がやってることは、おじいさんが豊臣のために働いていたことに比べれば、かなり見劣りがするし、しかも物事の状況を深く読めてないし、ライバルに対しても圧倒的に力不足だし(まだ4、5回くらいしか見てないですけど)、とても不完全な存在なんですよ。

 でもそんな彼が毎回何かを学んでいく、というのは、見ていて単純に面白い。
 アクションシーンが見ものだというのも大きいです。
 特に小難しいことを考えなくても、こういうドラマがあってくれるというのは私にとっても息抜きになります。

  そしてそんなところとは、まるで別次元にあるように思えるのは、「ゴーイング マイ ホーム」 です。

 このドラマはあくまで日本映画の言語でもって、ドラマを表現しようとしている。
 私はこのドラマを見ていると、特に主だった出来事がなくまったりと時間が流れていく、「かもめ食堂」 なんかを思い出します。

 だからフツーのドラマに慣れている人にとっては、そのスピードとか内に含まれすぎてる表現とかがまどろっこしくて仕方ない。

 でも私は、こういう表現のドラマが、テレビ界的に放送されていること自体が、とても貴重なものに思えます。

 出来れば未来的に、こんなドラマがもっと増えていってもらいたいくらい。

 フジテレビはその点で、この秋ドラマから、やることがとても変化しつつある過渡期に入ったような気がしています。 実験期間と言ってもいいような。

 願わくば、視聴率に負けて、また元のような売らんかな、の制作姿勢に戻ってしまわないことを。

 このドラマの登場人物たちは、やはり自分の中に多少の揺らぎがありながら、結局自己肯定して生きている。

 でもそんななかで、人生の実感というものに晒されていき、自分の思いをもう一度見直していく。

 このドラマはあくまで現実的であって、そして現実的でない。

 つまり、家族どうしって、結構ぶっきらぼうに本音だけで付き合っている部分って、あるじゃないですか。

 それがよく出てる、このドラマ。

 そしてとくに吉行和子サンとかYOUサンとか、「なんか変」 な会話がたたみこまれていく瞬間というものもあって、それって結構演出的に 「なんとなく可笑しい」 ということを意図している。

 つまりそれが、日本映画的なんですよ。

 このドラマは佇まいが圧倒的にいい。

 つまり、画面の中で切り取っている風景に、どこまでも 「その空間で生きている人たち」 というものを感じるんですよ。

 たとえば阿部サンのお父さんである夏八木勲サンがいる病室。

 障子がついてますよね。

 そんなところひとつだけで、いろんなことを見る側に提供してくれる。

 宮崎あおいチャンとかがサッカーに興じるちょっとした空き地。

 遠景で映し出されるその空き地の向こうには、ちょっとごみごみとした建物が見えて、しかも自然も半分くらいあって。

 くーなという小人が住んでいる、というその土地も、こんな開けたところが近くにあるのだ、ということを感じさせてくれる。

 今のテレビドラマというのは、ロケハンがとても簡単そうに見えるんですけど、このドラマは何もかもが、監督のこだわりのなかで形成されている。

 これってかなり、上質な時間を提供してくれるものだと感じます。



 こんなふうにして、ドラマを見ながらいろんなことを考えている私です。

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2012年11月23日 (金)

「平清盛」 第45回 「以仁王の令旨」(11月18日放送)を見て

 後白河ら朝廷内の反勢力を一斉に粛清にかかった軍事クーデター。
 この出来事は、清盛から、「理性のリミッター」 というものを完全に取り外してしまったように見えます。
 なにしろ今回の清盛、権力欲、色欲に取り憑かれて威張り散らしっぱなし。

 このクーデター、もとはと言えば重盛の死が契機でした。
 前回、重盛が死んだのをいいことに平家の力を削ごうとした後白河らの動きを、清盛は心の底から怒り、根絶やしにしようとした。

 つまり、清盛の息子への愛情(今まで蔑ろにしていたことへの後悔も?)がそうさせた、という側面があって、前回は見ている側もそこに一定の同情や理解が出来る余地が残されていた気がします。 しかし。

 清盛は今回から、タフマン白河を思い起こさせるような金色の?法衣を、赤い法衣の上にさらに纏いはじめました。
 でも、顔や頭自体がゴールデンに光り輝いていたタフマン白河(笑)と違って、清盛の表情は、もはや顔じゅうシミだらけの、なんとも顔色の悪いジイサマ。

 私もほんの前までは 「松山クンは60近いジイサマに見えない」 などと陰口を叩いておったもんですが、いやいや老けたもんです、清盛、ここにきて。
 つまり、作り手(もしくは松山クン)は 「老ける」 ということを、「精神状態の変化」、という次元で考えていたのでしょうか。 清盛がダークサイドに陥った瞬間、どっと老けた気がするのです。

 そのジイサマ。

 先に述べた通り、周囲がドン引きするほどに、もはややりたい放題。
 歯止めが効きません。

 こうなると、先週 「重盛も死んだし仕方ないかな」 などと考えてたのとは、見ているほうも多少勝手が違ってくる。
 どうしたんだへへイベーべー。
 偉くなるとこんなに変わっちゃうもんなのかよ。
 「民を苦しめるものは許すことが出来ぬ」「貿易で民を豊かに」「武士の世を目指す」 といったかつての清々しい思いというものは、死に絶えてしまったのかよ、清盛…?という感じで。

 そして。

 言わば、清盛自身の良心の化身であるようにも見え、死んでいった父忠盛や叔父忠正、義朝らの 「武士の世への思い」 が結集した象徴でもあるように見えた乙前が、「もう会うこともありますまい」 と姿を消した前回ラスト。
 今回、そんな乙前に代わって、新たな白拍子が、まずふたり、そしてもうひとり、清盛の前に現れます。
 その3人は、清盛にとって一体どういう存在なのか。

 ではささ様、お願いいたします(爆)。

 …ダメ?(笑)

 ブーイングは聞こえてきませんが、とりあえず橋本のブログなので書くことにいたしとう存じます。 我が子晴信…ちゃうちゃう(笑)。

 今回こうした清盛(または宗盛)の専横に踏みつぶされながら、後白河の皇子である以仁王と、その猶母(ウィキによると契約関係の親子、後見人みたいなもの?)の暲子にそそのかされる源頼政は、同じような強迫観念と向き合うことになります。

 いわく、「自分は何のために生まれてきたのか。 自分の生きる意味とは何なのか」。

 以仁王は自分以外の皇族がつぎつぎと帝になるのを指をくわえて見続けた結果30歳を超え、「私はなんのために王家に生まれてきたのでござりましょう? いや、なんのために…生まれてきたのでござりましょう?」 と暲子に涙ながらに問いかけます。

 ここで以仁王のアイデンティティというのが、帝になることにしかないというのがちょっといたわしい。 ほかにやりがいとかなかったのかな。
 結局は 「自分がどうか」 ではなくて、「まわりがこうだから」 という価値基準で動いている感覚だし、権力欲に取り憑かれてしまっている清盛と、精神構造上は変わらない、ということではないでしょうか。
 崇徳みたいに自分の趣味があればよかったけど、崇徳にしたってまあ…(笑)。

 で、暲子は源頼政にけしかける際、やはり頼政のアイデンティティに訴えかけます。

 「そなた、元は何者ぞ?
 鵺退治で勇名を轟かせた、源氏随一の武者であろう?
 このまま、一生を終えてよいのか?」

 平家の専横に対して各地で民衆レベルの不満が募っていった、という背景があったにせよ、そのおおもとになる部分で、皇族や源氏の側に 「自分の存在意義の模索」 という共通の気持ちがあった、という解釈を、このドラマではしている。
 だからこそこのあと、以仁王はほかならぬ 「全国の源氏」 に向けて 「だけ」、平家打倒の令旨を出すことになったのかもしれない。 平家に対抗できる武装勢力、というのが、源氏だけだったということもあるけれども。
 いかにも精神性の物語の本道だという気がします。

 清盛のワガママは高倉天皇に 「とっととうちのマゴに譲位せよ」 というまでにいたり、天皇即位の場所やらなんやらに至るまで勝手に取りきめようとする始末。 盛国なんかも、ちょっと引き気味です。

 しかし今回何かにつけ清盛の前に立ちはだかったのは、「皇室の慣例」 という壁だったように思います。
 しきたりを重んじる人々の思い込み。
 考えてみれば、こうした常識を打破することが清盛の発想の根本にある。
 結局当初の強硬な自分の言い分を、清盛はファジーな結論で呑むしかなかった。
 あれだけ自分の反抗勢力を朝廷から追い出した、というのに、まだいる。 自分に歯向かう者が。

 話は前後してしまいますが、ちょっとここで見ものだったのは、前回追ん出された藤原基房の弟である兼美が朝廷内での会議で、「入道(清盛)様がそうゆーんならしょーがない」 と、いかにも 「そこにいないヤツ」 の意向で全部決まってしまうことの理不尽さを会議の出席者たちに印象づけたこと。 なかなか手だれであります。

 ブレーキ利かない私を許して~の清盛(笑)の陰口を言う北条父娘や籐九郎の前で、いかにも精悍さを取り戻した頼朝は颯爽と弓のお稽古。 しかし大きく的を外してしまいます。 「いや~、久々だったもんでつい…」 とテヘペロの(なんだよソレ)頼朝。
 しかし同時に、奥州藤原氏の目の前で、義経は見事に的を射抜き、頼朝との戦闘能力の差を見る側に印象づけます。
 京本サン(藤原秀衡)はその武将ぶりに、自分とこの軍事力にとって百万の味方を得た感覚。 山のような黄金を義経に与え、そのパトロンになろうとしている。 結局この黄金が、義経にとってかなり、平家追討の際の資金力のもとになったということをうかがわせます。

 清盛のダダコネが実を結んで、高倉帝は自分の子に帝の座を譲位。 ボクあんとくてい、まだ3ちゃい(笑)。

 清盛はさらに安徳帝の厳島神社への参詣を画策するのですが、これには比叡山まで猛反対。 清盛の前は、壁だらけだ。 要するに、「まだ機は熟してない」、ということなのか。

 そんなわがまま放題の清盛を、こぶしをぎゅっと握りしめて睨みつける少年がいます。
 小兎丸です。
 彼は以前清盛になついていたようでしたが、母親にいつの間にか洗脳されたんでしょう(笑)、清盛を父のカタキと認識しているようです。
 小兎丸がこの先物語にどう絡んでくるかも見ものです。

 比叡山の抵抗に対して新しい棟梁である宗盛はオタオタ。
 今回浮き彫りになったのは、この宗盛のヘタレぶりでした。
 これも話が前後しますが、「オヤジが宴会をやれって言うからやってんだ」 と昼間っから呑んだくれ、母時子に完全に愛想を尽かされ、そのうえ源頼政の息子の愛馬にひどい仕打ち。 この一件は今まで臍を噛んできた頼政にも、導火線に火がついた出来事だったように感じます。
 要するに頼政は、清盛にはお世話になったけれども、宗盛にはお世話になっていない。
 人によって人も動くものです。
 いくら父親がよくしてくれたからって、ただ威張ってるだけの息子になんか、ついていこうとは思わない。
 宗盛の前の棟梁であった重盛が、道義をわきまえる人物だった、というのも、これまで頼政が平家についてきた一因だったようにも感じる。

 ただ宗盛のやりたい放題にも、作り手は一定の理解を示している。

 それは、宗盛にとって大叔父、清盛にとっての叔父であった忠正の回想で判明します。
 幼い頃、宗盛は忠正になついていて、竹馬を作ってもらったりしていたのですが、その竹馬の修理を頼んだところ、忠正に断られた。
 それは忠正が、これから清盛によって斬首させられるというそのときだったからであり。

 ま~た長~い長~い伏線の回収だよ…(笑)。

 つまり宗盛の放蕩は、父親に対する復讐、という側面があったんでしょうね。
 後妻の長男、という恨みもさることながら。
 また復讐か…。
 それにしてもいちいち話が深くて、それをいちいち書き出すのが大儀だ…。

 で。

 清盛が強硬な姿勢を続けていくなかで、ついにその野望の一端を垣間見ることが出来ます。 「福原遷都」 です。
 清盛は安徳帝を、新しい時代の象徴である、と捉え、遷都はその大がかりな転換点のひとつである、と考えている。
 確かに一国の首都を変えるというのは歴史の教科書では必ず載りますもんね(笑)。
 でも藤原京とかあまり印象にないかな…。

 問題なのは、清盛が遷都という話を、ただ単に安徳帝を住まわせる場所として考えていただけなのかどうか、だとは思います。
 つまり行政機能まで遷都してしまうと、かなり大変なような気がするんですよ。
 ここで重要に思えるのは、当時の寺社勢力との兼ね合いかな。
 当時は皇室も神道だけじゃなくて仏教とのかかわりが深かったし、厳島神社を起点として国の護りを考えると、どうもおいそれといかないような気がする。

 まあ知識が浅いなりに、バカな自分が考えてますけど。

 思うがままになかなかいかない事態に、清盛は業を煮やします。

 「あってはならぬ…。

 我が意のままにならぬものなど、…あってはならぬ…。

 どれだけの犠牲を払って、ここまで来たと思うのじゃ…」

 このセリフは重要だと感じます。

 つまり清盛のワガママ放題は、自分の思いだけではない、叔父忠正や父忠盛、義朝、信西、といったあまたの人々の思いの上に成り立っている、清盛にしか見えぬ道理によって遂行されている。

 清盛はこのあと、不意に現れたふたりの白拍子に夢中になり、時子にナイショでイチャイチャしまくり(笑)、さらに 「仏御前」 と名乗る白拍子(木村多江サン)に一目ぼれして、いかにも色欲ジジイを演じていくのですが(どうも今日は、話が前後しまくってます)、これらは自分の母親が白拍子だったということと、無関係であろうはずがないように思えます。

 自らの出自と、自らが傷ついてきた犠牲。
 そして西光によって暴き出された、「復讐」 という側面。
 清盛がどうしてダーティなのか、という歴史的な認識への、作り手の分析が進んで行きます。

 さらに今回は、この清盛の専横について、頼朝、時忠、盛国の解説が加わる。

 この3人は、ワガママ放題の清盛に対して、一定の理解を示そうとするんですよ。
 それがとても、ドラマに奥行きを生んでいる。

 どうしてこうも底なしに深いのかな~、このドラマ。
 ここに来て、これまでの不満とかが一気に氷解していく気がするんですが。

 頼朝は、髭切を託した当の清盛が武士の魂を忘れてしまっている、と指摘した政子に、こう言います。

 「果たして、忘れてしまわれたのであろうか?

 私には、そうは思えぬ。

 …きっと、通らねばならぬ道なのであろう。

 武士の世を、作るために」。

 つまり、清盛が今示しているのは、武家社会へのテストケースだ、という見方もここから出来る気がする。
 それは今まで、誰もやろうとしなかったこと。
 白拍子の舞を見ながら、清盛の表情はどこか孤独です。

 時忠は、白拍子といちゃつく清盛を見て、ん~、自分の姉(時子)を差し置いてこんなことしてるのに心中穏やかであるはずはないと思うのですが、こうのたまいます。

 「いやはや、果てしのないものにござりますな、人の欲というものは。
 莫大な財を操り、国の頂に立ち、御孫君を帝になさってもまだまだ欲しゅうござりますか?
 …酒も若いおなごも」

 それに対して清盛いわく。

 「欲こそが、おのこの力の源。
 …と言うたは、家貞であったな、盛国?

 わしは手に入れて見せる。

 この世のすべてを」

 座を離れ、時忠は盛国につぶやきます。

 「あれは欲なのであろうか?

 …弔いのようにも見える…。

 重盛や兎丸、そのほかさまざまなお方の」

 盛国は答えます。

 「それも、欲のうちにござりましょう。

 どんな綺麗事も、欲がなければ始まりませぬゆえ」

 弔い、という時忠の視点もさることながら、それさえも欲に絡めてしまう盛国の視点もまた、妙。
 ここに清盛のダーティイメージの全容が、つまびらかにされたような気がいたします。

 そしてついに、以仁王の令旨が。

 まあそこんところははしょるといたしまして(ど~して?今回のサブタイトルでしょっ!…爆)。

 冒頭部分で論じたのでい~かな、と思ったのですが付け加えると、以仁王というのは結構王家のなかでも主流派でもなく、そんなに人望があると思えない後白河の息子だし、平家に領地を召し上げられて経済的な見返りも期待できないし、どうしてこの人の下知に全国の源氏が立ち上がったのかな、という説得力は、いまいちだったようにも思えます。 令旨の内容を字幕で出したのは秀逸でしたが。 源氏の側にとっては、時が満ちた、ということでしょうね。

 そして清盛の前に現れた最後の?白拍子、仏御前。

 「ほとけ」 なんて、なんと人を食ったような名前なのでしょうか。
 「仏」 って、別の意味では死人、ということにもなりましょう。

 その仏に対して、清盛は褥で言い放ちます。

 「わしはこの世の頂におる。

 次は遷都じゃ。

 われら平家の都、福原を、この国の都とする。

 …

 ここは、

 わしの世じゃ…」

 白拍子を膝に抱き、かつての白河と同じセリフを言う清盛。
 この構図は、まるで清盛の母である舞子と白河の関係にダブるではないですか。
 「暗闇の中にいた」 という頼朝のナレーションで終わった今回。
 それは舞子の胎内にいる清盛の、孤独な姿とまたダブります。
 しかも寝所にいるからですけど、清盛の姿は白装束。
 これって死装束のイメージと、またダブります。
 誕生と死を想起させるようなこのラスト。
 なんかすごいことになってるな~。

 どうやら史上最低を更新したと言われる視聴率。
 しかしその内容は、孤高を更新したと思われるのです。

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2012年11月17日 (土)

「大奥~誕生~[有功・家光篇]」 第6回 春日が強いのなんのため?

 久々に 「大奥」 のレビューをいたします。
 ここ2回ばかりサボっておりましたが、どうも見ていてレビューにつながらないもどかしさがあって。 ストーリー以上のものを感じないんですよ。 面白いんですけどね。

 その最大の原因は、こういった特殊状況を作り上げた、春日局の権力基盤に関するモヤモヤとした思いが募ってきたことによります。

 このドラマの生命線は、赤面疱瘡(あかづらほうそう)という病気によって男ばかりが死に、男女の関係が逆転した江戸初期の世界、というパラレルワールドの設定の妙に負うところが大きい。
 このことによって世継ぎを失った徳川家が、将軍を女に定めて極秘裏に子作りに励み、男の将軍という正常な状態に戻そうとしているのですが、こういう大掛かりで大それたことをするわりに、その首謀者というのが、春日局しかいない、ということが、すごく話的に弱い、と次第に感じるようになってきたのです。

 もともと家光の段階で、徳川の御代は第3代。 どうもドラマを見てると、多部未華子チャン演じる家光は政治的なカンに長けていて、かなり鋭い行政能力を発揮する可能性を秘めているようには見えます。 実際の歴史でも、第3代家光のころに徳川の施政基盤が整ったことになってますから、これは歴史に準拠した設定なのだろうと思う。

 でも、おそらく家光のその手腕が発揮されるのは、まだまだこれからなのです。

 つまり春日が男女逆転状態の大奥を作り上げている時点で、その強制力を発揮するには、まだまだ徳川の世というのは、盤石なものになっていない。 群雄割拠していた諸国大名たちの動向を、どうやって春日ひとりで封じ込めているのか。

 その春日の強制力の源である権勢の力を、このドラマはすっかり彼女を演じる麻生祐未サンの演技力に、頼りきっている。 春日、コワ~!(笑)で見る側をケムに巻こうとしているように見えるのです。

 さらにこのドラマにおいて春日をサポートする役割を担っているのが、春日の息子である稲葉正勝。 彼は表向きの上様として、赤面疱瘡に罹ったとして頭巾をかぶり、外面的な面目を保っている。

 しかしですよ。
 春日の息子ってのが、いかにも筋立てとしては弱いんじゃないでしょうか? 親子じゃ当たり前すぎるだろ、もっと有力な後見人が、この企てには必要だろ、と思う。

 この物語において、そうした有力御家人とか抵抗勢力とか、なんかすべて赤面疱瘡のせいで勢いを無くしちゃってる、という設定になっています。 今週放送された第6回では、段田安則サンの跡継ぎも娘を息子ということにして、娘はウラで悩んでいる、段田サンは弱り切っている、という構図を描写しておりましたが。

 しかしいくら男が少なくたって、2代将軍の秀忠の時に結構グラグラしてたんだから、抵抗勢力が付け入る隙なんかいくらだってありそうな気がするんですよ。

 こういうことを考えてしまうのは、ドラマに出てくる男たちが、かなりしっかりとした精神状態でいるからなのではないか、という気がします。
 つまり稲葉にしても有功にしても玉栄にしても、赤面疱瘡で自分も死んでしまうかもしれない、という危機感がほとんど感じられない。
 自分に降りかかった不幸を一身に背負い、この理不尽にただひたすら耐え、そりゃ暴れたり春日の言うことにちょっぴり逆らったりもするけど、男だけが罹って死んでしまう病気があることを、まるでないかの如く、無気力にも投げやりにもならない。
 これは大奥の中が、まるで無菌状態のような安全地帯にあることが、かなり大きく関与している。
 このこと自体がとても不自然に見えてくるんだなぁ。

 で、そんな赤面疱瘡とは無縁の世界で、有功と家光との純愛が展開していくんですけど、それが悲恋になればなるほど、有功と家光との間の愛は成長を続け、強靭なものになっていく。

 今週放送分では、家光のその強さが、家光自身が母親になったことによるものであることが、有功によって解き明かされました。

 でも有功は、愛する女性が春日によって次々と男をとっかえひっかえされ、自分はその顔つなぎみたいな、究極的な屈辱にまみれながら、その哀しみ、恨みを必死になって押さえている。 だからこそ家光に、「あなたは母親になったから強くなったのだ」 と言ったとき、有功は目に涙をためていた、と思うんですよ。

 そして有功は、玉栄に対し 「お前に上様のお相手をしてもらいたい」 と願い出るのですが、タイミング的にこれってどうなのかな。 重盛ちゃうちゃう捨蔵が半身不随になっちゃって(窪田クン、こんなのばっかだな…笑)新しい男が家光にあてがわれたそのタイミングですからね。

 ただ、有功の苦しみが具体的に前面に出てきたことで、物語的に面白さを堅持していくのはいいのですが、やはり 「どうしてこんなに有功が苦しめられなきゃならんのだ? そんなに春日ってエライのか?」 という気には、なってくる。

 稲葉にしたって春日に対して精一杯の抵抗で、自分の息子が、死んだことになっている自分に代わって家督を継いだことを、将軍家光としてねぎらいたくなる気持ちも、じゅうぶんすぎるほど分かる。
 だからこそ 「どうして春日がこんなにエライのか?」 という気に、やっぱりなるのです。

 つまり話が悲劇的になればなるほど、春日の権力基盤の説明不足が浮き彫りになっていく、という構造です。

 次回はその春日がぶっ倒れる模様(笑)。 つまり、一気に徳川幕府の屋台骨が消失?

 私のこの疑問がどう解決されていくのか、やはり続きが見たくなるのです。

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2012年11月16日 (金)

「平清盛」 第44回 「そこからの眺め」(11月11日放送)を見て

 「いかがにござりますか…そこからの眺めは…?」

 聖子チャンもとい乙前の問いが、まるで自問自答のように、清盛と後白河との間を行き来する――。
 このセリフが余韻のようにこだまして、この回の後味はすこぶる悪いものになりました。

 清盛が武士として、この世の頂に立ったこの回。
 その晴れがましい場を、それをここまで胸くそ悪いものに仕上げるとは。
 このドラマの作り手の中に潜む、「権力に対する嫌悪感」 がむき出しになった回であった、とも言えます(つーより、今の政治を見てれば誰だってそ~なる、と言いますか…笑)。
 ある意味エンタテイメント、ある意味悪趣味(作り手の悪趣味は今に始まったことじゃないが…笑)。

 でも、番組HPでは深キョンが希望的なことを言ってるので、まあ最終回までこの胸くそ悪さが続くわけではない、と思い直すことにいたしましょう。

 この回でのもうひとつの私の興味は、「まだ手駒はある」 と言っていた後白河の 「駒」 とは何なのか、ということでした。

 重盛をいいように利用するのか、それともまだ何かほかに?

 手駒が誰だったのか、という説明は、ドラマ内では明確に行なわれなかったと思うのですが、結局後白河が持っていた駒は、藤原基房(細川茂樹サン)だったと思います。

 ここでしちメンド臭い事情をご説明申し上げますと(笑)。

 基房の兄・基実に嫁いでいた清盛の娘・盛子が、基実の死去に伴って所領を預かっていて、それが実質的に平家の所領みたいになっていたのですが、盛子の死去によって、それをお前に取り戻させよう、と後白河から持ちかけられるのです。

 基房はこれをいいことに、「所領を取り戻す」 と平家に通達、自分の息子まで中納言にしてしまうつけあがりぶり(ちょっと話的には前後しますけども)。

 でもこの基房、以前に清盛から思いっきし恫喝されてビビりまくってましたからねぇ。
 コイツが調子に乗ってどうしてここまで出来るのか見ていて不思議で(笑)。
 後白河の法皇としての権勢という虎の威を借りたのかもしれませんが、そもそも後白河、権威があるったってほとんどあってないよーなもんで(笑)。 側近は粛清されちゃったし。

 で、後白河が考えたほかの一手は、平家の一蓮托生ぶりにつけこむ、という手段。

 重盛を揺さぶってその死を早めさせ、清盛の我が子可愛さにダメージを与える、という手段だったように感じます。

 しかしこれらの後白河の賽の目振りなのですが。

 どうも冷静に考えると、平家と自らの軍事的なパワーバランスとかを考えていない 「ちょっと驕る平家をおちょくって刺激してみました」 程度のものにしか思えなくて(笑)。

 つまりこの二手とも、徳子と重盛が亡くなったことによる人事配置的なポリティカルゲーム(政治ごっこ)にしか見えないんですよ。 実に机上理論的というか、情緒に訴える形の性格から逸脱しきれてない。

 この後白河の心理的揺さぶり作戦を、おそらく創作という形で作り手が象徴的に持ってきたと思われるのが(史実にあったらゴメンナサイ)、今際の際にある重盛を、後白河が見舞う場面だったのではないでしょうか。

 この場面スゲー残酷で(ふぅ…)。

 書くのも憚られる(って書けよ…笑)。

 息も絶え絶えに 「わが父清盛とうまくやってくださいますよう」 と懇願する重盛に対して、「そちは清盛がわしを攻めるのを命がけで止めてくれたそうじゃな、アッパレアッパレ」 とたたえて 「約束しよう!」 とふたつ返事でいい顔しながら、「ただし、これに勝ったらな」 と双六盤を持ってこさせるのです。 あんまり胸くそ悪くて詳細に書きたくない(爆)。

 重盛はこの求めに応じてしまうのですが、いかんなー、重盛、これは判断ミスですよ…って言っても重盛はほとんど危篤状態。
 正常な判断が出来れば、ここは辞退するのが筋です。
 しかし重盛の中では判断能力などとうに失せて、父清盛のために勝たなければ…という気持ちしかない。 おそらく。

 重盛の判断ミス、つーか甘さ、というのは、これに先立って、病床に義弟や我が子たちを呼んで 「みんなで一緒に平家を盛り立ててくれ」 と話していることにも、一端があるように感じます。
 つまり、平家の棟梁であれば、この場で宗盛を立てるとか自分の子を立てるとか、ニュアンス的にも含ませるべきだったのではないか、ということです。
 確かに実質的なトップは会長サン(清盛)ですから自分に跡継ぎの決定権はないとしてもですよ。
 彼の頭には、平家のなかの政治闘争に対する自覚があまりない。 あくまでみんな仲良く、という、人間が最も苦手とする 「正論」 しか振りかざせないのです。

 そんな 「清い」 重盛、なんとか父と後白河を仲良くしようと、決死の双六に挑戦するのです(ああもう、残酷すぎる)。

 この双六、最初の二手くらいは拮抗していたように見えたのですが、徐々に後白河のほうがいい目を出し続けるようになる。
 この、「後白河がいい目を出し続ける」 という視覚的な効果が、後白河が事実上軍事的に優位に立っていないのに、心理的に優位になっているような錯覚を見る側に起こさせる、というのは重要に感じます。
 そして自らの命の炎が弱まっていくように、1とか2の目しか出せなくなってくる重盛。
 残酷さがさらに加速していくそのとき、清盛がその場に、救世主のように現れる。

 「なにをしておる…?」

 涼しい顔で団扇をあおいでいる後白河。 死神に取り憑かれたような重盛。
 清盛は、重盛の元に駆け寄り、弱々しく起こした体を抱きます。

 「お戯れが…過ぎましょう…!」

 重盛の前だからこそ、清盛は後白河に対してちょっと気遣いしているような口ぶりになっていますが、「戯れが過ぎます」 というのは、重盛も健常ならばそう対応できるように思えるのです。

 そこで後白河が繰り出した究極の心理的揺さぶり。
 後白河は若き日に自分と清盛が、重盛を賭けて双六をした時のことを持ち出すのです。

 このとき清盛は劣勢だったのですが、いきなり割って入った幼少の重盛がいい目を出して大逆転した。

 つまり重盛は、清盛にとって、ラッキーチャイルドだったわけですよ。

 それが今は、こんなにまで疲弊して、死の床にいながらも、わが父を救おうと、自らの最期の運さえ使い果たそうとしている。
 なんという息子だ。 泣ける。

 そんな息子を、清盛はこれまで、どれだけ心理的に追い込んでいったか。
 作り手が平家の命運を、重盛という人物を使って描き出そうとしているその力量には、感嘆するほかありません。

 後白河は、追撃の手をゆるめようとしない。

 「そう…。

 そち(重盛)の身を守るのは、そち自身しかおらぬ…。

 母(明子)を亡くし、弟(基盛)を亡くし、父(清盛)は修羅の道を行くもののけ…。

 そちは生まれたときから、ひとりで生き! ひとりで死んでゆくのじゃ!

 …そう定められておるのじゃ…!」

 「立ち去れ…!」

 清盛が、しわがれた声で絞り出します。 それが可笑しくて仕方がない、というように、笑みをこぼし始める後白河。 やっぱコイツ、おかしーわ(ハハ…)。

 「お立ち去り…くださいませ」

 清盛はまるで悪霊に対して言ったような前言を、丁寧に言いなおします。 やはり清盛は、この場で重盛の意に反するようなことはしたくない、と考えている。
 この父親としての気持ちは、おそらく後白河が持ち出した、かつての双六の記憶が呼び覚まされたところから、かなり高揚しているように思われる。

 「フフフハハハハハハ…!」

 後白河は、かつて自分が負けたときにぶちまけたのとまったく同じように、双六盤の駒をすべて払いのけます。
 まるで、「今度はわしの勝ちじゃ」 と誇っているように。

 後白河は笑いながら、その場を去る。

 もう息をするのもつらそうな重盛が、その後白河の笑い声が消え去っていくのを見ながら、清盛の腕の中でつぶやきます。

 「ああ…。

 とく…死なばや…」

 早く死にたい、と言っているのです。

 「重盛……」

 自分の息子が、どんなにまでして守りたかったものが、崩れ去った瞬間を見る、父親の目に、清盛が戻っています。
 清盛は、重盛を抱きしめます。

 そしてそのひと月後、重盛は死去。 享年42歳。

 この重盛の死去後、我が物顔で平家の力を削ごうとする後白河及び藤原摂関家の所業に、ついに清盛はブチ切れます。
 ここで清盛の頭にあるのは、我が子重盛の最後に見せた、「絶望」 に対する思いのみのように見える。
 どうして清盛が、ここまでいいようにされて黙っていたのか、というと、やはり重盛の思いを尊重しようとする、父親としての思いだったのでしょうか。
 それをいいことに専横を続ける者たちに対して、清盛は 「ああああ~~~っ!」 と怒りの叫びをあげる。 重盛の思いが踏みにじられていることが、清盛の心理のなかで、大きな大義名分を得ている瞬間のように思えます。

 さらにここで注目すべきは、清盛の悔しさ、恨みを後ろから後押しし、火を大きくしようとしているように見える、盛国です。
 なんかはじめて積極的に、清盛の政治的判断に干渉しているような印象を持ちました。
 これってやはり、当ブログ常連さんのささ様ご指摘のように、盛国のなかにも、復讐という芽が潜んでいるのかな、などと考えたりしました。 

 結局重盛という足枷がなくなった清盛によって、軍事的クーデターという 「次の一手」 を決められ、後白河は抵抗する術もなく、鳥羽離宮に幽閉される。

 つまり清盛がその気になりゃ、こんな奴ら蹴散らされて当たり前、なんですよ。

 結局高倉天皇との関係が盤石になった清盛のまわりに、邪魔者はひとりもいなくなる。

 「殿、おめでとうござりまする」

 寿ぐ盛国。 盛国の心中にあるのは何なのか。 それをこのドラマは、まだ積極的に語ろうとしているようには見えません(語んのかな?…笑)。

 「ついにここまで来た…」

 怪訝な顔をする伊藤忠清。 屹立する清盛。

 「ついに武士が…この国の頂に立ったのじゃ…」

 徳子への目通りを済ませた後、清盛は乙前と再会します。

 「ついに、登られましたな、この世の頂に…。

 いかがにござりますか…?

 そこからの眺めは…」

 清盛は事もなげに答えます。

 「なにも遮るものがなく、いたってよい眺めにござります」

 乙前は寂しげに返します。

 「もう…お会いすることもござりますまい…」

 清盛は、何か悟っていたかのように 「はい」 と答える。
 もしかすると、清盛は、乙前の存在が、時空を超越していると感じていたのかもしれない。
 だから乙前が、「もう会うこともない」 と不確定なことを言っても、納得して 「はい」 と答えたのであろうか。

 乙前は一礼して、清盛とすれ違って立ち去ります。 清盛が振り返ると、もうそこに乙前の姿はない。
 清盛は一瞬怪訝そうな顔をするのですが、すぐ微笑みます。
 「おそらくおとぎの国へ帰ったのだ」――そんな表情が読み取れるような気がしました。

 そして徳子と高倉天皇の子である言仁が障子にあけた穴を喜々としてのぞき込む清盛。
 いっぽう幽閉先で、なぜか微笑む後白河。

 その二人のあいだに、乙前の最後の言葉が、呪文のように繰り返されるのです。

 「いかがでござりますか? …そこからの眺めは…」。

 前半に繰り広げられた後白河の常軌を逸した重盛への見舞いと、後半に展開した、軍事力にものを言わせた清盛の暴挙。

 そんなドロドロとした権力闘争をはるか上空から見守るように、この言葉だけがむなしく心に残る。

 いや~、後味悪い(笑)。

 それにしても、この後白河の最後の微笑みは、いったいどういうわけなのか。

 おそらく、情緒に訴えた自らの心理的揺さぶり作戦が、効果的にこの世に平家反旗への種としてばらまかれ、それが芽吹いていくのを見据えていたのではなかろうか。

 次回の予告を見ていると、何だかそんな気がしてくるのです。

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2012年11月10日 (土)

「PRICELE$S~あるわけねぇだろ、んなもん!~」 第1-3回 大切な価値の居場所

 当ブログで木村拓哉クンのドラマを採り上げる場合、常に俎上に上がるのが、この人自身の評価であります。
 つまり木村クンのドラマを論じるのではなく、木村クン個人に議論の矛先が向かってしまう傾向にある。

 それはとりもなおさず、木村クンの演技者としてのスタンスが、世間に出始めのころからほぼ変わらないことによるものが大きい。
 彼は誰を演じるにしても 「木村拓哉」、というカテゴリーから、(著しく)逸脱しようとしません。 頑ななまでに。

 このスタンスは木村クンを評価する際の分水嶺となる。
 私の場合、この 「演じる役より、その役を演じる俳優のキャラ優先」 というありかたについて、あまり批判したりとか積極的にしたくないほうですかね。
 なぜなら、昔から、そういう 「個人キャラ優先」 の俳優さんって、いましたから。
 片岡千恵蔵サンとか、左卜全サンとかね(古っ!…笑)。
 …そう、古いんですよ。
 今はこういうことのできる俳優さんというのは、まったくいないとは言わないまでも、まず見かけない。 器用さとかうまさが優先されますからね。

 そのうえで木村クンの演技を評価すると、必ずしもうまいほうだとは言い難い。
 でも私は木村クンの演技を見ていて、彼が頑なに守ろうとしているものを、尊重してあげたい気持ちになる。
 だって、人の世なんて(大きく出たぞ…笑)、一期一会だと思うから。
 こういうスタンスの人が俳優をやっていて、それを同じ時代に生きている私たちが見る。
 いずれにしたってアクが強いから、後年 「あんな奴がいたなぁ」 という記憶には、強く残るわけです。
 そういう演技者のありかたも、あっていいと思うのです。

 で、このドラマの木村クンですが、相変わらず誰に対してもタメ口(まあある程度は使い分けてますよ)で、感情もとてもむき出し。 考えてることが表情にすぐ出る(人の心が読める 「純と愛」 の待田愛でなくても分かる…笑)。 常識のある大人からすれば、彼は大人になりきれないピーターパンの象徴みたいに見えるのではないだろうか。

 でも、彼がもと勤めていた、「ミラクル魔法瓶」 という会社には、彼の居場所というものが、あったわけです。 そこでの木村クンに対する評価は、実際の世間的な彼の評価と共通する部分があった。

 つまり、ナマイキそう、態度が横柄、といった評価は、気さくである、一緒にいて気を遣うこともなさそう、なんでも相談しやすそう、という評価と、実は表裏一体である、ということ。

 そのなかで木村クンは後者の好意的な評価を獲得しており、彼はその会社のなかで自由に泳いでいたわけです。

 それが、ある出来事がきっかけとなって(なんかネタバレブログがネタを隠しとるぞ…笑)会社を追い出される。 つまり汚職が発覚した時点で、彼の評価は、前者の否定的部分が一気に大きくクローズアップされ、会社内での居場所を無くした。

 住んでいるところも爆破され(笑)ケータイも落とし一気に文無しになった木村クンは、まあ超絶貧乏となったわけですが(笑)、ここで私が注目するのは、彼がそのことについてあまり気に病んでいない、という点です。

 つまり、自分がどんな状況に置かれようとも、その状況を彼はどこかで面白がっている。
 ビンボーでさえ、そのノウハウを知ることを、彼は面白がっている。

 面白がっている、などと書くと誤解を招きそうですが、「目の前に壁がある。 逆境がある。 それを乗り越えるのが人生の醍醐味だ」 という、ある種の強靭な精神力が、もともと備わってしまっているように見えるのです。

 だから面白がっているとはいえ、彼はいつもふざけていない。

 彼にとっては会社での地位とか濡れ衣を着せられ傷つけられた名誉とか、そんなところに興味がないんですよ。
 彼の価値観の中心に座っているのは、そんなことじゃない。

 要するに、やる気があるかどうか。
 目の前のことに真剣になれるかどうか。

 目の前のことに真剣だから、彼は年端もいかない子供たちに対しても、ありがたいと思ったときには、真剣に一礼をする。 「こんなチラシの裏に書いたビラなんか、誰が読むかよ」 みたいなビラを、せっせせっせと書き続ける。

 だからこそミラクル魔法瓶の中村敦夫サンは、自分の後継者に利益追求の冷たい判断しかできない藤木直人サンよりも、木村クンにその素質がある、と死ぬ間際に言い残したのです。

 何かのために一生懸命になれる。
 誰かのために一生懸命になれる。

 このドラマは、けっしてビンボー生活のノウハウを教えるものでもないし、ましてや木村クンが濡れ衣を晴らして会社に返り咲き、藤木直人サンと立場が逆転する、という、ありがちに思われるハッピーエンドを描こうとしているわけではない。

 ビンボーでも腐るな。
 そしてビンボーに、安住するな。

 このドラマの主眼は、そこにあるように思える。

 そのうえでドラマの脇を固める俳優さんたちが手堅い、ということは強みだと思います。
 まずは木村クンの復帰の鍵を大きく握っている中井貴一サン。
 空気みたいな存在の上司を、すごくうまく演じている。 全然笑わせようとしてないのに笑えるというのはすごい。
 ユバーバが(ゼニーバか?)そのまま実写で出てきたような夏木マリサン。
 彼女は貧乏のなんたるかを実に処世訓的に把握している気がする。
 そしてイッセー尾形サン。 「おるおる」 系の嫌味な専務を好演しています。
 そして今回ドラマの木村クンの相手役、ということになるのでしょうか、頭の切れる戦国武将オタクの香里奈サン。 ツンデレ系、ということになるのか、とにかく彼女のキャラが生かされた役になっている、と感じます。

 プロット自体に緻密性がない部分はまま見受けられるのですが、なにしろ見ていてあまり肩が凝らない。 気楽に見ながら、「オレも現状打開しないとな~」 という気分にさせてくれる。

 このドラマを見て、木村クンのことをとやかく言いたがる向きが多いのも分かるのですが、いっぺん自分の価値観について、ちょっと疑問を持つということも、振り返ってみる、ということも、私たちには必要な気がします。

 少なくとも役のなかの木村クンは、そりゃ会社に復帰もしたいだろうけど、そっちよりも大事なものを優先している。

 価値観の置き場所が、違うんですよ。 ドラマの中のその他大勢の人々と違って。 香里奈サンも、子役たちも、そこについて行っている。

 中井貴一サンは、まあベタな展開だろうけど、そんなとこに気付きながら、木村クンの味方になっていくような気がするのです。

 そもそもこのドラマ、題名の時点から、木村クンに批判的な人たちをふるい分けている気がする。

 「あるわけねえだろ、んなもん!」 ですよ?(笑)

 私この副題を知って、少々ムカっとしましたもん(笑)。 なめとんのか?って。

 だから見るの乗り遅れて(笑)。

 この題名を見てもなおこのドラマを見よう、という木村クン寄りでない人たちは、だからよほど木村クンを批判したい人たちなんだ、と思いますよ(爆)。

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2012年11月 8日 (木)

「平清盛」 第43回 「忠と孝のはざまで」(11月4日放送)を見て

 怒涛の出来だった、前回の 「鹿ヶ谷の陰謀」。
 その次の回だから、またフツーの出来に戻るのかな、と考えていたら、前回の出来には及ばないまでも、かなり引き締まった内容でした。
 もう、ラストまであと数回ですから、このまま突っ走っちゃうのかもしれません。

 特に前回あたりから、松山ケンイチクンが演じる、「壮年の清盛」 に対する彼の解釈の仕方が、なんとなく私なりに見えてきたような気がする。 下らん我見ですけどね。
 外見的に、眉の毛を伸ばすとか、シミをつけたりとか、やっと老けてきたな、という気はするのですが、松山クンは外面に、あまりこだわっていないように見える。
 松山清盛は、あくまで徹底してバイタリティに見えるのです。 「清盛は、あくまでスーパーマンでなくてはならない」、という思いを感じるのです。

 つまり、松山クンは、清盛が修羅の道に突き進むことを、「目標に向かってあくまで精力的に突き進み、精力的であるがゆえに、善悪の判断能力を喪失してしまっている」 、という解釈で演じようとしている。 ように見える。
 そこで生じる 「理想の狂い、ずれ」 を演じることで、松山クンは老年に差し掛かった清盛の、「年齢」 を表現しようとしているのかもしれない、そう私は思うのです。 下らん我見ですけどね。

 対して、私が考える 「壮年清盛の判断基準の特徴」 は、コメント欄でも指摘しましたが、「平家というファミリーを増やすことの喜びが、清盛の 『平家は一蓮托生』 という、父忠盛から受け継いだポリシーと結び付いて、視野が狭まっている」。

 清盛が推し進めてきた王家との政略結婚というカード。
 要するに清盛が目指していたのは、藤原摂関家と同じようなルートということになるのでしょうが、それは歴史の詳しい人にお任せいたします。

 ことこのドラマを見ていて私が感じるのは、清盛自身が、王家と 「血」 のつながりを深めていくことに、「尋常ではない執着・喜び」 を感じている、という点であります。
 前回の西光の指摘によって、この 「一蓮托生の喜び」 というものが、「自らのもののけの血を王家に注ぐことによって、自らの根本的内面に巣食う恨みを晴らす復讐をしている」、というもうひとつの側面を浮き彫りにさせた、と私は考えているのですが。

 清盛の心の中には、「一蓮托生の喜び」 と 「けがれた血による復讐」 という二律背反する動機が、互いに並行する形で存在している。 共存してるんですよ。

 「復讐」「復讐」 などといっても、人間そんなにクラーイことばかり、考えてばかりいられないと思う(笑)。
 復讐を考えながら、貿易による富国政策とか、厳島神社の荘厳とか、何かしらポジティヴなことをやっとかないと、精神バランスが保たれない気がする。 「復讐してやる」 なんていつも顔に出してたら、誰も清盛についていかないだろうし。

 一族の繁栄を図る、ということが、やはりここで清盛の大きなバランスボールになっているのではないか。

 そして清盛が陥っている罠は、「反対勢力を顧みず抑えつけることで、ますます自分だけが正しいと思い込むようになり、自らの正当性を周囲に押しつけようとする」 という点にあるのではないか。

 まあ、下らん我見ですけどね(どうも自虐的だ…)。

 で、その最大の犠牲者になっているのが、息子の重盛(ようやく話の端緒が…笑)。

 今回、重盛は、自分の女房が鹿ヶ谷の首謀者のひとりである藤原成親の身内であることから、父清盛に成親の助命嘆願をするのですが、その望みはいったん受け入れられたかに見えて、実は流罪先でなにも食わせず餓死させられてしまう、という、「首斬られたほーが苦しみも一瞬でよっぽどマシ」 という結果になってしまう。

 清盛は 「流罪先でどうなろうと知ったこっちゃない」 とうそぶくのですが、いったいあの場面で、どうして重盛の願いを 「表面上」 受け入れたのか。

 重盛は平家一門が一堂に会する席で助命嘆願をした際、「成親が自分の身内だから」 という理由よりも、「死刑を行なうと却って国が乱れる」 といういにしえの知識から、平家一門を憂いた末の物言いであることを吐露しています。 つまり、「頭の中だけの論理」 に寄りかかった考えです。
 さらに重盛の頭の中では、これ以上清盛が人としての道を踏み外さぬよう、という、父親を思う気持ちがその中核にある。

 清盛は、重盛が 「平家一門のため」 とした一点を尊重しよう、と考え、一同が会した席で重盛を棟梁としていちおう立てるために、重盛の助命嘆願を呑んだのだ、と私は考えます。

 しかし清盛は、流罪にした成親を閉じ込めたまま、なにも施さなかった。

 つまりここで、清盛は重盛の、「頭の中でだけ考えている理論の危うさ」 というものを、これ以上ない残酷な方法で息子に叩き込みたかったのではないか。 ちょうど死刑に賛成する人たちが、死刑廃止論者たちに、「お前の考えは甘い」 と言うようなものです。
 さらにここでは、「自分に逆らったものがどうなるか」 ということを、国の内外はもとより、平家一門にも知らしめたい、という気持ちも見える。 おのれの強制力を誇示することで、人々から歯向かう気持ちを喪失させるのです。 これって 「核抑止論」 に似ている。

 成親が餓死する場面は、まことに悲惨極まりなかった。

 ジワジワ鳴く蝉が、最後のひと鳴きとばかり、さらにうるさく鳴き続ける。
 そして鳴きやみ、ぽとりと梁から落ちる。
 オレ、セミって苦手なんだよな~(笑)。
 そのゾワゾワ感と相まって、そのおぞましさが増幅される仕組み。
 ある意味、西光の白洲での場面以上の恐ろしさが際立っていたような気がします。

 この、父親からの残酷な仕打ちとも思える結末に、重盛はすっかり呆然自失とします。
 重盛は、自分が清盛の修羅道を支えてきたのは、清盛のめざす国づくりを見たかったからだ、と訴えます。 父親の業績をつぎつぎ挙げ、これ以上何が欠けているのか?と問い詰めようとするのですが、清盛は一顧だにしない。 それどころか得子に皇子が生まれるようイベントを開けーと重盛に催促する(笑)。 重盛は腑抜けたように、その場を去っていきます。

 ここでそばにいた盛国が、「おつろうござりましょうなぁ。 平家の嫡男であり、法皇様の近臣でもある、重盛様にとっては」 と清盛に語りかけますが、清盛は沈思したまま、なにもそれに答えようとしません。

 盛国はどうして、「おつらいでしょうなぁ」 と言うのか。
 ここで盛国が、「重盛様はまっすぐなご気性でいらっしゃいますから」 などととりなせば、「なにを知ったようなことを」 と清盛に思われる可能性がある。
 ここで重盛の 「立場」 というものを清盛に再認識させるしか、盛国には出来ないような気がします。
 つまり清盛にとっては、そんな 「世間知らず」「潔癖な気性」 の重盛、という存在が平家にいることこそが貴重なのであること。 そしてそれを指摘することのできる、盛国という存在も、また平家にとって貴重なのであること。
 「そこに生きてあること」 の意義をそれとなく告げることでしか、盛国は清盛の修羅に走る気持ちに寄り添えない、そんな気がするのです。

 そして清盛もまた、こういう非情な形でしか、子にこの世の厳しさを教えられない、というジレンマを抱えているような気がする。

 盛国の言葉に清盛がなにも答えないのは、重盛に対して非情に徹しきれない自らの弱さを示しているようにも思える。 非情に徹すれば、「わしは重盛に強くなってもらいたいから厳しく言うのじゃ」 とか、「あんな甘い考えでは、重盛の、ひいては平家一門の行く末が心配じゃ」 とか、軽々しく口にできるはずだ、と思うのです。

 そこに清盛の、一種の哀しみが存在しているような気がする。

 「うずき始めておる…。

 現に生ける、もののけの血が…。

 フフハハハハハ…。

 フハハハハハハ…!」

 後白河に謁見した重盛は、後白河の常軌を逸した笑い声に晒されます。
 後白河は最初のうち、おそらく清盛の中にあるもののけの血を 「うずき始めている」 と言っていたと思われるのですが、笑い声が次第に尋常でなくなっていくと、「その、うずき始めているもののけの血って、後白河のほう?」 という感じになってくる。
 ここらへんの見せ方も見事だなぁ。

 いっぽう伊豆では、エンケンサンに頼朝と政子が 「私たち、結婚しました!」 のご報告(笑)。
 渋るエンケンサンを翻意させたのは、やはり頼朝が、それまでみたいなフヌケの顔ではなく、生気に満ち満ちた顔をしていたからでござりましょう。 エンケンサンは、源氏再興にかける頼朝の、その 「生命力」 に心打たれたのです。
 重盛がかつての頼朝みたいになっていくのとは、まるで対照的です。

 いっぽう牛若(神木隆之介クン)は、京で母親の常盤(武井咲チャン)と再会。
 このツーショット、まあスンゲーいろいろと言いたくなるシーンでしたけど(笑)。
 「この親子、同じくらいの年だろ?」 みたいな?(調べたら、なんか母親のほうが年下だった…爆)。

 それはいーとして、牛若も母親の思いを振り切って、平家打倒の決意を表明します。
 母親から、父義朝の一字を戴いた 「義経」 という名をもらった牛若。
 武井咲チャンは今、別ドラマで髪の毛をおろした役やってますけど、この子は額を見せたほ~が数段見栄えがする、と思ったオジサンであります(笑)。

 そして徳子に皇子が生まれるように、とイベントを開きまくっていた(ちゃうちゃう)清盛のもとに、男子が誕生との吉報が舞い込みます。 欣喜雀躍てな、オマエは意味も知らんだろうけど(アレ?「純と愛」 の武田鉄矢サンが入ってきた…笑)とにかく清盛は大喜び。

 この場面を見ていて、この記事冒頭に書いた思いがますます強くなったんですよ。
 一族繁栄の喜びと、穢れた血による復讐との共存、という話の。

 いずれにしても、涙を流して喜ぶ清盛を、はたで見ていた藤原摂関家とか、けっしていい顔をしていない。

 つまり清盛はここで同時に、裸の王様になってしまっている。

 そして清盛はさらに、後白河に強制的に隠棲を迫る、という動きに出る。
 そんななか後白河は病床にあった乙前を見舞うのですが、「まだ手駒はある」 という後白河に、乙前は心配そうなまなざしを向けます。

 この乙前ですけど。

 コメント欄にちょこっと書いたけど、彼女は清盛と後白河の 「良心」 の化身、みたいな、霊的存在のような気がするんですよね。 だから彼女が弱っているのは、清盛の中にある良心が、燃え尽きかけていることの証左なのかな、なんてぼんやり考えたりしました。

 後白河は乙前に今様を詠んであげます。

 「像法転じては
 薬師の誓ひぞ頼もしき
 ひとたび名を聞く人は
 よろずの病なしとぞいふ」

 像法というのは仏教用語で、正しい教えが失われていく段階のひとつを指しています。
 像法の次の段階が、すなわち末法。
 よーするに、世紀末だァグハハハハハ…(あの~…)。

 後白河を連行するのに、物々しい戦闘態勢になっている平家の面々。
 平家の専横を象徴するような、末法の始まりを告げるかのような風景の中、ひとり束帯姿で丸腰の重盛が、そこに現れます。 これは、像法と末法の対峙であるようにも思える。

 呆れたような、蔑むような表情を見せる、甲冑姿の清盛。

 これまた鎧姿の宗盛を見下ろし、自分の座るべき場所をどかせる重盛。 どきながら宗盛は、いかにも不服そうです。

 「重盛…その姿は、なんとした?」

 「父上こそ、そのお姿は何事にござりますか?」

 「法皇様にこの館へおいでいただこうと思うてな」
 こんな格好をしといて、「おいでいただこう」 とは、まるでピー…(笑)。

 「なんと情けないお言葉…」

 一同が色をなします。 構わず言葉を継ぐ重盛。

 「一門の運も尽き果てたのでござりましょう。
 人は運が傾き始めると、必ず悪事を思いつくものにござります」

 「これは悪事ではない。
 国づくりじゃ」

 「法皇様がおられてこその、国にござりましょう」

 「それはやってみねば分かるまい。

 …この平清盛がやってみせてやると言うておるのじゃ」

 コイツ(笑)。 「やってやろう」 という若さにあふれた無謀ではなくて、「やってみせてやる」 という、ゴーマンかました言い方(笑)。
 この物言いに重盛も諦め気味に納得し、自分は後白河を守る、と言い出します。

 重盛は後白河から受けた恩を尊重する、という立場をとったのです。
 我が子をねめつける清盛。
 重盛は、何か諦めの混じったような表情を残しながら、その場を立ち去ろうとします。

 「…重盛っ!」

 立ち上がり、まなざしは厳しいままに、一見諭すような優しい表情を浮かべながら、重盛に近づく清盛。

 「今一度言う。

 これはわしの国づくりじゃ。

 (重盛を突き倒し)それを阻むというのじゃな? 平家の棟梁であるそなたが!

 (重盛の胸ぐらを掴み)我が子である…そなたが…」

 重盛の顔が、清盛の赤い衣の色に染められて、紅潮しているように見えます。
 重盛の束帯姿は、白が基調。
 赤と白のコントラストがまぶしい。
 重盛は、父親に抱いていた淡い思いが、この瞬間に雲散霧消したかのような表情で、呻くのです。

 「悲しきかな…。

 法皇様に忠義を尽くそうとすれば…山の頂よりもなお高き父上の恩を、たちまち忘れることになります…!

 痛ましきかな…!

 父上の不孝から逃れんとすれば、…産みより深き慈悲を下された…法皇様への不忠となります…!

 忠ならんと欲すれば、…孝ならず…。

 孝ならんと欲すれば…!…忠ならず…。

 進退これ極まれり…!

 かくなるうえは…。

 この重盛が首を…。

 召され候え…!

 さすれば、御所を攻め奉る父上のお供もできず、法皇様をお守りすることも、…出来ますまい…。

 父上…。

 あああああああ~~~っ!」

 号泣する重盛。
 武装している平家のただなかにあって、これほどまでに棟梁としての資格を問われる行動というのはないだろうと思います。 それだけに、当初清盛が重盛に向けるまなざしは、「なんと情けないのじゃ…」 という怒りに満ちていたのですが、そのうちに慈愛の表情を取り戻していくかのように見えます。

 清盛は結局、後白河を攻めることを中止しますが、おそらくそれは、この衆人環視の中で情けなく子供のように泣いた重盛を、棟梁として立てるための方策、という側面も否定しきれない。
 こんなに偉いワシが、重盛の諫言で翻意したのじゃから、みなみな重盛の力を侮るでないぞ、みたいな。

 いずれにしても、「まだ手駒はある」 と言っていた後白河の 「駒」 とは何なのか?

 次回も、目が離せないのであります。

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2012年11月 3日 (土)

「純と愛」 第2-5週 人間の本性って、なんなのだろう

 第1週のレビュー以来お久しぶりです。 朝ドラ 「純と愛」。
 第1週レビューではほぼ話題に出すこともなかった待田愛クン(風間俊介クン)でしたが、ストーリー的には第2週から、彼の異常さ(正常さ?)が物語に大きく関与するようになり、狩野純(夏菜サン)との極めて奇妙な恋愛に、その中心が移ったような気がします。

 このドラマの特殊性、というものは、この待田愛によるところが大きい。
 「人の顔を見ただけでその人の本性、つまりなにを裏で考えているかが分かる」 という彼の特殊能力は、それを見る側がどうとらえるかで、ドラマに対する好感度も極端に違ってくる、という気がとてもする。

 さらに今週に入ってからか、待田愛のこの特殊能力には、顔を見るだけではなくて、人の心の声まで聞こえる、というものが加わっています。

 そもそもこの特殊能力。

 テレビドラマというものがもともと現実世界を忠実に再現しているものでないから、見ている側は待田愛の特殊能力を 「本当だ、口から出まかせじゃない」 と思いながら見ている。
 この前提というのは、とても重要なものに思えます。
 要するに、その能力を信じることにグラグラしている純なんかより、視聴者はのっけから信じ切って愛のことを見ている。

 そのうえで、見る側は愛のことを判断していくわけです。

 愛が実際にそう見えているとき、じゃあ 「人間の本性というものが見えるから、なんだっていうのか?」 という思いを、見る側は持つのではないか。

 つまり、「そもそも人間というものは、みんな表と裏の顔がある」。
 そこからどう見る側が考えるか、です。

 「みんな裏では相手に対して 『なんだコイツ』 とか考えながら生きているものだ。 それをひた隠して表面では 『いい天気ですねぇ』 といい、『申し訳ございません』 と頭を下げたりする。 そうすることで人間関係を円滑にして、うまくやるものなのだ。 どうしてそれを否定したがるのか?」。

 あるいは、

 「人のやっていることには、たとえ本性が見えなくても、とても悪意が見える場合もあるし、あからさまに嫌がらせをされる場合もある。 そんなことに自分を傷つけられ、心をすり減らしながら、叫びたくなるような苦しみを抱えながらみんな生きているんだ。 愛はその苦しみに晒されながら生きている人間の象徴だ。 自分は愛に共感する」。

 私がこのドラマを見ていて感じるのは、「人間って、そんなに待田愛が四六時中うつむいて歩かなければならないほど、表と裏だらけなのかな?悪意だらけなのかな?」 という点です。

 要するに、待田愛のシチュエーションを成立させるためには、人はいつも、裏に悪意を秘めていなければならないことになる。

 ということは、このドラマは 「ウルトラセブン」 の 「狙われた街」 の逆パターンで、「人間が互いに相手のことを信用していない、遠い未来のお話」 なのか?

 このドラマを見ていて、いちばんウラオモテなさそうなのって、ホテルの社長である舘ひろしサンみたいに見えるんですけどね(笑)。

 さらにこのドラマで齟齬を見せているように思えるのは、待田愛が、「はじめて表と裏の顔の区別がない人に出会った」 とする、狩野純も、見ているとかなり、不器用ながらも表と裏の顔を使い分けようとしている点です。

 純は自分の夢だった魔法の国を実現させようとしてホテル業務についている。
 その過程で、夢と現実とのギャップに、その純粋な心が傷つけられ、ボロボロになっていくのですが、そこで出会った待田愛にだけは、一緒にいるととても心の安寧が得られる。
 彼女は風変わりな待田愛と付き合うことを決心するのですが、風変わりだから付き合い続けていることで、こっちも精神が擦り減っていく事態になってしまう。

 つまり、体と気持ちが、いつしか分離していくのです。
 ウザいと思い始めながら、それを思うと愛にばれてしまうから、わざと取り繕ったりする。 でもそれも、愛にはお見通しかもしれない。 純はますます慌てる。
 純の精神状態が追い詰められていくのは必至です。

 さらに愛は、こんなですから、まともに働くことが出来ない。
 ただ人の目を見ないで仕事する、ということも、やりようによっちゃかなり可能なのではないか、という気もするんですよ(笑)。
 問題なのは、彼が人の本性を知ることを、怖がりすぎている、という点なのではないか。
 彼は職を転々とするのですが、どの職業もずいぶんと簡単に辞めているような気がする。
 失敗なんか、つきものですよ、はっきり言って、どんな仕事でも。

 致命的だと思われるのは、彼が自分の 「怒り」 の感情を制御できない、という点です。
 いつも自分を強く強く抑制しすぎているから、結構その反動が大きい。

 つまり、人の本性だなんだと言っといて、彼自身の心の中にも、その矛盾が、却ってほかの人よりも肥大化している。

 本日放送分(第5週土曜日分)では、ついにその本性を愛が純にブチまけまくった、

 わけですが、

 果たしてそうなのか?

 本当は、愛は純が自分といることに苦しみ続けていることを察して、純に嫌われるように自分から仕向けたのかもしれない。

 そりゃあんなけ醜いことがもともと愛の中にある感情ということも、否定しきれないところもありますが。

 でも、人間の本性って、そもそも何なんでしょう?

 たとえば純と同期入社した女の子がいますよね。
 彼女は城田優クンが好きだから城田クンが純に色目を使っているのが気に食わなくて、陰でクレームカードを書いたりしている。 見ていてかなりヤな女で、ドロドロとした気持ちの持ち主、といった印象なのですが、それって純粋な恋心を持っている、という側面もいっぽうでは考えられないだろうか?

 その城田クンにしても、愛によれば 「エッチなことがしたくて」 純に接近しているそうなのですが、それにしたってかなりしつこすぎる(笑)。 ここまでくると、そりゃエッチもしたいだろーが、なんか健気に思えてくる(オレって甘いかも…笑)。

 そして純を悩ませる、沖縄の家族にしてもそうです。

 速水もこみちクンは見ていて、いちばんイライラするタイプの人間ですが(笑)、フィリピンのハーフであるマリアチャン(彼女結構カワイイ)(いきなり個人的感想…笑)のことが好きなのに、オヤジ(武田鉄矢サン)のホテルの経営を立て直すために、金持ちの女性と見合い結婚しようとしている。
 武田鉄矢サンも、マリアに手切れ金なんかやったりしてどーしょーもないけど、マリアのお腹の子供(たぶんもこみちクンの)を気遣ってお酒を飲むのをやめさせるし。

 愛のチョー個性的両親にしてもそうです(笑)。
 母親役の若村麻由美サンが出てきたときは、あまりのブッ飛びS系鉄面皮キャラに 「ああ…、『はっさい先生』…どうして…」 という感慨が尽きなかったワタシ(爆)。
 彼女の本性を、愛は 「顔じゅう傷だらけだ」 と見抜いているはずなのに、愛は母親の中にある悲しみというものにまで、思いをいたしていない。 気付いていない。 いや、怖くてそこまで見ることが出来ていないのではないか。

 こんなふうに、みんなドロドロとしたものを抱えているけれども、その奥底には、やはりキラリと光る、小さな良心が隠されているのではないでしょうか。

 愛は、人間の本性を見ているつもりで、実は見えていないのかもしれない。 良心も見えるのだろうけれど、悪意のほうばかりが優先して見えてしまうのかもしれない。

 ただ、ですね。

 私がこのドラマを、なんで途切れずに見ているのか、というと、純の頑張りがいとおしいからなのですよ。

 彼女は、人に笑顔になってもらいたい。 その一心で仕事をしている。

 でも、やることなすこと裏目に出て、自信を失くしかけている。

 これ、すごく共感できて。

 良かれと思ってやっていることが、却って人を傷つける。

 私の人生も、そんなことの連続のような気がする(あ~なんか、最近愚痴ばかりだ…笑)。

 私がこの、純と愛に声をかけたいのだとすれば、まず愛には、「顔をあげ、まっすぐ前を向いて、逃げずに悪意と立ち向かえ」、ということです。

 そして純には、「マニュアルというのは基礎だから叩き込め。 そのうえで自分を出していけばよい、キミは、誰よりも光り輝いている」、ということです。

 なんか朝ドラのヒロインを見ていて、久々に抱きしめたくなるようなタイプなんですよね、純って(あ~あ、書いちゃったよ…笑)。

 純に時間外のコーヒーを持ってきてもらった男のお客さんがいましたけど、私もあのお客さんと一緒かな。

 ホテルというのは、グレードが高くなるほど上品な対応ばかりだけれども、あんなに元気で、いつも駆けずりまわっているようなお嬢さんは、見ていてなんか、微笑ましくて清々しい。 一生懸命なのがいいんですよ。

 というわけで、またレビューは書かないまでも、数週見守っていこうかな、という気がしています、このドラマ。

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2012年11月 2日 (金)

「大奥~誕生~[有功・家光篇]」 第3回 髪を切るのはなんのため?

 どうも、毎回 「今回のレビューはいいかな」 と思いながら見るのですが、見終わるとレビューがなんとなく書きたくなってくるこのドラマ(笑)。

 今回序盤、「若紫」 と名付けられた白い子猫を巡って、重苦しい話が展開していきます。

 源氏物語に登場する姫君にちなんで名付けられたこの子猫。
 ときどきいなくなっては 「わかむらさき~、わかむらさき~」 と有功(ありこと、堺雅人サン)らが雅にさがしまわる仕儀に(仕儀って…笑)。
 どうも長ったらしい名前で見ていてもどかしく可笑しく。 「ワカムー」 とか 「ワカチャン」 とか 「ワッキー」 とか(それじゃお笑いだ)簡単に呼べんもんか?みたいな感じでまた、少々見くびり気味に見ていたのですが。

 そんなチャラい名前で呼べないほど、この子猫はやんごとなきお猫様なのです。 つまり家光(多部未華子チャン)がお気に入りの猫。 最初は毛嫌いしていたのですが、有功のおかげで情が移っている。

 「お猫様」 などというと必然的に 「お犬様」、つまり 「犬公方」 徳川綱吉のことを連想するのですが、このフィクションドラマの中ではその綱吉の父親になる予定だ、という(私の記憶が確かならば…笑)玉栄(KAT-TUNのこうきクン)。

 その玉栄が、自分に暴行を加え、自分の愛する有功に何かと意地悪をしてくる三人組の主犯格、角南(戸次重幸サン)を罠に陥れるために、この 「若紫」 を、角南の脇差しを使って、殺めてしまうのです。
 ああ、またレビューを書く気が、ムク!ムク!と…(笑)。

 「若紫、かんにんな」 などと京言葉で後ろめたさも表わす玉栄なのですが、やってることは子猫の虐待死。
 この薄汚い自分の企てが成功し、角南が切腹という仕儀に(仕儀はやはりこっちで使うべきか)なると、陰でほくそ笑む。
 しかも事の発覚した際に角南を手打ちにしようとした家光を、有功が止めに入って名誉ある切腹に持ち込んだ、というおまけつき。
 有功の評判を高めようと、そのことを吹聴しまくる玉栄。 途端にみんな、有功に一目置くようになるのです。 策士だな、玉栄。
 こういうどす黒い人間の深層心理を見せつけられると、この物語が荒唐無稽なフィクションであることを、忘れてしまいます。
 もともと 「ワル顔」(失礼)であるこうきクン、今回はなかなか視聴者の印象に深く残る役をいただきましたよね。 彼のキャリアにひとつ箔がついた気がします。

 しかし物語は、その手綱を緩めない。

 そんな玉栄のはかりごとなど露知らぬ有功、若紫のためにささやかな墓を作ります。
 それを見た家光。
 「猫が生き返ってくるわけでもない」 と、経を上げることを拒絶する。
 元僧侶の有功、「弔いというものは、残された者が気持ちの整理をつけるためのもの」 という持論を展開します。
 この視点は興味深い。
 有功は、けっして目に見えない死後の世界の幸福、つまり冥福を祈るため、という不確定要素を弔いの目的としていません。
 これはこの物語の作者(まあ、原作ではどうか知りませんが)の宗教観を暗に示しているような気がする。 現世重視的。 唯物主義的なんですよ。
 まあこれは、物語のためのひとつの手順かもしれませんが。

 で、それに対して家光は、「そんなもので救われるのは、もともと幸せだった人間だけだ」 と、乾いた言い分で反駁する。

 「念仏を唱えて楽になる暇もないくらい、次々と悲しみが襲ってくるものはどうしたらよい?…(略)…念仏を唱えてめそめそ泣いているくらいなら、わしならカタキを斬る。 そのほうがずっと晴れ晴れするわ」

 有功は、「ではカタキのない凶事に対しては、どうしたらいいのか?」 と問うのですが、「そういうときは罪人とか死んでもいいヤツを斬ればいい」 と言い放つ。

 「家光、ど~してそ~なる?」 と思いました(笑)。 つまりまあ、腹が立ったら死んでもいいヤツを殺しちまおう、別にカンケーなくても、それが何か?つー感じですか。

 この家光の反応を見た有功は、近頃江戸で流行るもの~、少女の髪を切る辻切~、を思い出すのですが、ど~してそ~いう連想をするのかこれもよく分からなかったけど(頭悪いんで)、その実行者が澤村(内藤剛志サン)であり、首謀者が家光であることを知るのです。

 どうして家光が少女の髪なんか欲しがるのか。
 それはあとで判明するのですが、このことを有効にきつく咎められたことで、家光の心に巣食っている荒廃した心理が姿を現します。

 自分もしょせん、徳川の血筋を絶やさぬための道具。

 勝手に女であることを捨てさせられ、自分が生きていることすら公には認められない未分。

 そんな気持ちのはけ口を、すぐ伸びる髪を集めていたずらすることで紛らわして何が悪い?

 有功はそんな家光に対して、「人はみな、おのれではどうにも出来ぬさだめを受け入れ、生きているのでございます…ご自分だけがつらい思いをしているとお思いなら、それは大間違いや…!」 と、思わず出ちゃった京ことばで激高。

 家光は春日局(麻生祐未サン)に、そんな有功の愚痴を言うのですが、じゃお手討ちにします?と訊かれて 「ちょちょちょ、ちょ待てよそれは」 と(木村クンか?)慌てます。 春日はニンマリ(笑)。 「上様、有功に脈あり」、つーことですから。

 家光は春日にそそのかされて、エラソーな有功を恥ずかしい目にあわせてやろう、と画策。 女性用のガーターベルトを装着させ(ちゃうちゃう)リンボーダンスを踊らせようというのです(だからちゃうって)。

 しかし家光の前にガーターベルトを装着して登場したのは(や、いつまでも失敬…女性の着物です)イジワル三人組の生き残り2人と、澤村(内藤サン…笑)。

 これには家光も悪趣味丸出しでバカ笑い。
 「踊れ、さあ、踊れ!(笑)」
 コイツ性格悪すぎ…(笑)。

 それでも3人はかなり練習を重ねたらしく(爆)、バラバラながらもいちおう日舞の形にはなっております。 「もっと踊れ、あッはッはッはッはッ、もっとじゃ!あッはッはッはッ」 インサートされる少女。 黒髪を、母親に梳かれています。

 それは、在りし日の家光。 名は千恵。

 黒髪を梳かれる、といったことは、千恵にとって母親との断ち切りがたい思い出だったようです。
 それがある日、いきなり現れた春日によって 「今日からお前は上様じゃ」 と、髪の毛をバッサリと切られる。
 千恵の母親などは全員殺されたようであります。

 要するに、少女の髪をコレクションするというのは、家光にとって、清盛じゃないけど春日に対する、一種の復讐といった側面が考えられる。 家光が清盛と同じ御落胤、という立場であることも注目に値します。 今週の 「清盛」(鹿ヶ谷の陰謀)と見る順番が逆だったら、私もこうした考察はできなかったでしょう。

 そしてこのことは、千恵としての過去に対する、強烈な思慕、という側面も兼ね備えているように思われる。
 人として存在していない今の自分。
 種としての価値しかない自分。
 そんな自分が、幸せだった過去を取り戻したいという気持ちが、彼女に少女の髪を集めさせるのだ、と思われるのです。

 さらにその回想は、家光がまだ江戸城に入りたてだったと思われるころ、男に強姦され、そいつを殺し、男の子供を授かるも産んですぐに死なせてしまった、という悲しみまで展開していく。 これらは、その悲しみの中に、子供のような残虐性が残されたまま、この年まで育ってきている家光の内面性までうかがわせる話になっている。

 笑い転げる家光。
 しかし次第にその目から、頬に涙が伝っているのを、見る側は発見することになります。
 家光は、笑いながら、泣いている。 ここは、ぐっときました。

 それを外からうかがっていた有功。 障子の向こうなので、家光が涙を流していることをおそらく有功は知りません。

 「なんという、哀しい笑い声や…」。

 馬鹿笑いを続けていた家光。 にわかに表情が消え、「もうよいわ。 みな下がれ。 はよう下がれ!」。

 誰もいなくなったところに、有功が入ってきます。
 原作では女装してたらしいですが、このドラマでは男の格好のまま(小姓姿、というのかな?)。
 女ものの着物を手に捧げ持ちながら家光に近寄っていく有功の心情が、ナレーションで吐露されます。

 「(自分はなんと、思いあがっていたことか。
 あなたと同じ苦界に落ちて、ようやく分かるとは。
 私はなぜ、このか弱いおかたに、あないひどいことを言うたのやろ。
 このかたはきっと、今まで幾度も、女としてのご自分を踏みにじられてきたのや…。
 私は、多くの苦しむ人々の助けになりたいと思うて生きてきた。
 そして、それが叶わぬとなったら、人としての、心まで捨てようとした。
 なんで気付かんかったのか。

 私が救えるのは、たったおひとりやったんや。

 私が救わなければならないおかたは、ずっと目の前におられたんや。

 目の前で、こないに、私にすがって、もがき苦しんではるかたが、たったひとりおられるやないか…!)」

 あでやかな着物を家光に着せ、結っていた髷を解き、自分よりずっと似合っている、と話しかける有功。
 それは家光が今まで押し殺していた、女としての気持ちを開放するきっかけのひと言になったと思われます。
 家光は表情を崩し、赤ん坊のように泣きながら、有功にすがりつくのです。

 ん~、泣ける。

 このシーンを一層盛り立てる、MISIAサンのテーマ曲。
 こういうところは、やはり大河にはない演出でしょうね。
 「清盛」 とは別物の感動で、これはこれでじゅうぶん堪能いたしました。

 フィクションだフィクションだ、といって、このドラマは単なる 「もしも○○が○○だったら?」(「ドリフ大爆笑」 か)というシチュエーション遊びを超越して、人間の内面を表現しようという試みを極限まで行なおうとしているように思えるのです。

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