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2013年1月

2013年1月31日 (木)

「八重の桜」 第4回 篤姫の存在意義について考える

 第4回、「八重の桜」 は井伊直弼(榎木孝明サン)を中心とした幕府や会津以外の世情の描写に時間を割いていたと思うのですが、この中で数年前の大河ドラマ 「篤姫」 を見ていた私が強く感じたのは、「篤姫の存在がまったく無視されている、まるでいないかのようだ」 ということでした。

 なかでも島津斉彬公(林与一サン)が勝麟太郎(生瀬勝久サン)と葡萄酒を酌み交わすシーンで、島津公は 「幕府の内政に、自分たち外様大名は加われぬ」 などと話し、西郷吉之助に自分は期待を持っている、という意味で、勝に引き合わせたい、と持ちかける。

 つまり島津斉彬はこの時点で、養女にまでして徳川に送り込んだ天璋院篤姫を、もはや駒とも考えていない。 今週の 「八重の桜」 は、篤姫の夫である徳川家定の後継、という話であるから、まだ篤姫の力も御台所として確実にあったと思われるのですが。

 この徳川家定、先週だったか、ハリスとの会見の際に、これまでの定説通りの暗愚な振る舞いをしていたのには、「篤姫」 を見ていた身としては、やはりちょっとガックリきました。
 彼の暗愚な振る舞いの裏には何かが隠されていた、ということが、やはりドラマとして面白かったわけで(くれぐれも原作がよかったためで、脚本家の所業ではないと申し上げておきましょう)。
 それを今さらまた元の木阿弥にしてしまうと、「そうかもしんないけどそうじゃないんだよな~」 と言いたくなってくる(笑)。

 つまりこのドラマにおいては、こんなどーしょーもない夫を持った篤姫はドラマにする価値なんかまったくなし、井伊直弼とか徳川斉昭とか、みんな家定の後継者をかしましく談義してるけど、その輪の中にも入れない、養父にさえも見棄てられて果ては江戸城攻撃の先頭に立つ西郷吉之助まで台頭しつつある。
 幕政の危機の中では、篤姫が何か動いたってなんも意味なし、というくらいの拒絶の仕方を、このドラマではしているように思えるのです。

 まあ、篤姫自体が歴史の表舞台に立った人ではなかったし、そもそも篤姫が出てくる必然性そのものが、このドラマにはないわけですけど(笑)。

 却って井伊直弼と松平容保が親戚だったから、このふたりが茶を嗜んでいるシーンとかは、ことこのドラマでは必然性もあるのですが。

 そしてまた驚いたのは、島津斉彬公がコレラで急死してしまった、という展開を見せたことです。
 「篤姫」 ではそんなの記憶にございません(笑)。
 ウィキで調べたら、まあ諸説あるようなのですが。

 蛇足ですが、「江戸でコロリが流行っている」 などというセリフを聞くと、私などはどうしても 「JIN-仁-」 を思い出してしまいます(笑)。 南方先生がなんとかしてくれるはずだ、みたいな(笑)。

 しかしこうした、「篤姫」 徹底無視の(笑)「八重の桜」 でも、井伊直弼がひとかどの覚悟を持って幕政を施行していて、けっして悪者として描かれていない、という点においては、「篤姫」 ととても共通しているのです。
 「篤姫」 でも、中村梅雀サンが演じた直弼は、何もかも承知で自分を悪者に仕立て上げようとしていた。 「必要悪」 というものを、篤姫はここから学んでいったわけですが、今回 「八重の桜」 でも、榎木孝明サン演じる直弼は、同じようなことを容保に告げる。

 「無断調印の咎めは、我が身一身に背負えば済むこと…」

 直弼は自分の戒名をすでに決めてあることを容保に話します。

 「命を捨てる覚悟なくては、国事には当たれませぬ」

 このドラマにおける、直弼の国政のロジックは、「幕府はそもそも朝廷から政治を託されている。 鎖国も幕府が決めたこと。 それをなぜ今さら、いちいち朝廷にお伺いを立てねばならぬのだ?」 というスタンスです。
 平清盛が自ら王家となろうとして失敗したのち、源頼朝が 「征夷大将軍」 というおあつらえ向きの 「施政者」 としてのお墨付きを思いつき、それが江戸幕府まで連綿と続いてきた。 それが黒船来航で一気に政情不安になったら、いきなり政治に干渉しだした、なんなんだよ朝廷は、つー感じでしょうか。

 さらに、先に島津斉彬公に勝麟太郎が進言した言葉に、「公明正大な道理で政治が行なわれない国は、他国から侮られる」 と。

 つまり、道理がわきに追いやられて、目先の損得に目が奪われているような政治というのは、唾棄すべきものなのだ、ということでしょう。
 話はわき道にそれますが、消費税を上げる上げるなどと言っておいて、それは経済状況による、ということが、もう有名無実になっている。 経済が悪ければ、消費税は上げませんよ、と言っているのに。 それが道理とすれば、じゃあどういう状態が 「経済が悪いまま」 なのか、そこのところをきちんと議論すべきではないですか。
 さらに物事の筋道を通すんなら、まず自分たちが率先して公費削減に取り組むべきだ。

 いずれにしても、コレラの蔓延によって世情が不安に陥っている、という切り口は、「篤姫」 では見られなかったことです。 確か、安政の大地震などはやったと思うのですが。 それは 「八重の桜」 でもこれからなのかな?
 それはさて置き、このコレラの話と、抱き合わせのように今回出てきたのが、「妖霊星」、つまりほうき星、流れ星のことです。 やはり天文学の知識がなかった昔は、この自然現象を畏れる人が多かった。 日食とかと似た感じです。
 川崎尚之助は、これが厄災と関係があるのではないか、という説を一蹴するのですが、こうした一連の災いを、民衆の不安、というアトモスフィアーに結び付けていく手法は、ここ数年の幕末もの大河にはなかったものではないか、と感じます。

 そして、八重にとって妖霊星と同じような存在なのが、覚馬のもとに嫁いできたうら(長谷川京子サン)というわけなのでしょう。

 うらは、「西を向いてろと言われれば、一年だって西を向いたまんまのおなごだ」 と言われたとおり、夫の言うことは絶対、家事も丁寧にこなす、言ってみれば 「最強服従女房」。 昔の価値基準で言うと、文句のつけようがない出来た嫁、ということになります。

 八重はうらに対して、「攘夷」 とか 「蘭学所の是非」 といった政治的な問題を吹っ掛けるのですが、うらは 「そったらことはおなごが考えることでない」 とまるで取りつく島がない。
 昔の女性はそういうことを考えなくてもよい、という教育もされ、そのような価値観で動いていたわけですが、それは男にとって都合のいい女を作るための方便であり、結局女性にとって、思考能力を奪われているも同然なんですよ。 考えなくていい、というのは、いっぽうでは、楽、でもある。

 その、うらの旧態依然とした思考形態を、八重は毛嫌いするんですよ。
 でも、八重がリベラルなものの考え方の持ち主であることは見ていて分かるのですが、八重を取り巻く同性の人たちって、八重と同じくらいリベラルか、っていうと、そうでもない。
 と同時に、うらが 「よく出来た嫁」 であることは見ていて分かるのですが、ここまできちんと 「女」 を貫いている女性がこのドラマの中でほかにいるか、というと、そうでもない。
 風吹ジュンサンとか貫地谷しほりチャンとか、針のお師匠さんとか(笑)。 みんなリベラルでもなければ、きちんと女してるわけでもない。

 これってどうしてなのかな、と考えたんですが、兄んつぁまの結婚を表面では喜んでいながら、自分のあこがれの兄んつぁまの妻になった女性に、なんとか対抗したい、という気持ちの表れなのではないか、と。
 でなければ、「攘夷」 なんて、母親だって容易に答えられないようなことを、聞き出そうとしたりしないと思う。

 八重はこうした旧タイプの女性を見て感じたもどかしさを、やはりこのあと自分の人生のばねにして生きていくんだ、と感じますが、そこには兄を取られたことのもどかしさも入り混じっている。

 そんなことを感じながら、この回見ていたわけです。

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2013年1月27日 (日)

「最高の離婚」 第2-3回 なにをしたらいいか分からない

 このドラマ、なんとなく不信感を抱きながら見ていたんですよ。

 まず脚本家の坂元裕二サンに対する多大すぎる期待があるために、なかなかのことでは満足しそうもない自分というものがいて。
 
 そしてこのドラマの体裁が、とりあえず 「コメディ」 という枠で括られている。
 「コメディ」 であるから、瑛太クンの演技にはかなりのカリカチュアが加えられています。 だから彼の愚痴っぽい性格、ものごとに細かすぎる性格、変なところにこだわりすぎる性格というものを、私個人としては 「まあこれコメディだから」 と差し引きながら、見る必要性というものがあった。 
 でなければ、このドラマの瑛太クンの役は、とても感情移入できる人物ではないのです。

 なのにこの人は、愚痴をこぼしまくっている歯科の美人の女医さんに、なんとなく好意的アプローチを受けてたり(最初は軽く煙たがられているような気がしたんですが)、だいたいですよ、これまた美人の真木よう子サンと学生時代に同棲していて、結婚したのがさらにまた美人の尾野真千子サン、って、「世の中間違っとる!」 と言いたくなるじゃないですか(笑)。 どうしてこんな細かくて愚痴っぽくてストーカーみたいなことをやってしまう男が、ここまでモテるのだ?なにがよくてみんなこんな男とつきあっとるのだ?みたいな。

 しかし。

 このドラマ、第3回の真木よう子サンの長い告白から、一気に物語としての意味が成立したような気がするのです。 少なくとも個人的には。
 そして瑛太クンが、ぼんやりと夜の目黒川(?)にかかった橋に佇む。 彼の差し出した手のひらに、静かにとける、ひとひらの雪。
 そのとき、それまで 「こんな人間はイヤだ」 と思いながらどうしても感情移入が出来なかった彼の心が、初めて分かったような気がしたのです。

 彼は第2回で、昔の恋人(真木よう子サン)の結婚した相手(綾野剛サン)が浮気してたことを、わざわざ彼女の家まで押しかけて、ごていねいにも忠告します。
 ここらへん、「おせっかいだよなあ、匂わせる程度でいいのに」 と思いながら見ていたのですが、瑛太クンがそこまでオーゲサに忠告しようとするのは、元カノが今は幸せそうじゃない、という確信があったからなのです。 あの頃の彼女との思い出は、いいものばかりだった、という強い思い込みがあるからなのです。

 そしたら真木よう子サンが、瑛太クンに向かって、とても穏やかな口調でこう言うんですよ。

 「10年たってもなんにも分かってないんですね。
 私ハマサキさん(瑛太クン)とのあいだに、いい思い出なんてひとつもありませんよ。
 あなたと別れるときに、思ってました。
 『死ねばいいのに』 って。
 『こんな男死ねばいいのに』 って思ってました」

 真木よう子サンにしてみれば、これは彼女なりの、ウザく付きまとう瑛太クンへの、自分の怒りを押し殺した、精一杯の復讐だった。
 あまりに彼のことが憎かったために、それをそのまま感情にして出すと大変なことになる。 それに自分の中では、もうとっくにケリをつけている問題。 客観的に冷静になってしゃべれるということも自分で確認したい。 彼女の穏やかな口調で放った 「死ねばいいのに」 という言葉の裏には、そこまでのことが潜んでいたのです。
 彼女のそうした 「怒りや憎しみを押し殺した」 態度には、避難生活を余儀なくされている大震災の被災者たちの声なき声に共通するものを感じる。 まあ穿ち過ぎですが。
 彼女の憎しみの原因は、第3回での、あの長い告白によって判明します。

 その告白に至るまでに、やはりいろいろとスラップスティックなコメディ場面を経過する必要性というものが、このドラマにはある。
 これはこのドラマが、結婚というフィルターを通した 「男女の恋愛」 について描き出そうとしているうえでの、脚本家自身の、一種の 「照れ」 のような気がする。 このところ、「児童虐待」 とか 「犯罪被害者と加害者」 とか、重いテーマばかり扱ってきた脚本家の。

 もしくは、「男女の恋愛なんて喜劇みたいなもの」 という、ある意味俯瞰的な見方もそこには感じる。
 ただ男女の好いた惚れたは確かに喜劇的ではあるけれども、それは 「殺したい」 と思うほどの感情に結び付いている危うさというものを、常に持っている。
 そこまでのことを考えて、坂元サンはこの喜劇を書いている気がするのです。

 真木よう子サンが第3回で告白した、長い長い打ち明け話。
 それは前回、「死ねばいいのに」 と言われたことに対して、納得できなかった瑛太クンが、そのウザいほどの固執癖によって引き出した告白でした。
 それはこの物語の主要人物4人が一堂に会した場で行なわれました。 普通だったらふたりきりの場とかでしょう。
 つまり瑛太クンが、コメディという枠を携えてここまでエキセントリックな人物として描かれていたからこそ、こういう展開が可能だった。 そして真木よう子サンの中にあった怒りや憎しみが、これほど大きくなければ、こんな展開にはならなかった、と言っていい。
 計算されているんですよ。 物語が。 きちんと。

 真木よう子サンが話した告白の内容は、瑛太クンの心をえぐります。 ネタバレブログですけど、ダラダラと書くのが面倒なので省略(笑)。
 つまり、真木よう子サンとの同棲時代、瑛太クンがなんの気なしに言った言葉が、真木よう子サンのこれまでの人生を真っ向からバカにし、否定する内容のものだった。 それがどれほどのことかに、瑛太クンはその告白があるまで、つまり現在に至るまで、まったく気付いてなかった。 気付くすべもなかった。

 「最低だねぇ…」

 その場のいたたまれないような雰囲気の中で、(元?)ダンナに追い打ちをかけるような言い方でしか、真木よう子サンを慰められない、尾野真千子サン。
 蛇足ですけど、(元?)と書いたのは、オノマチサンは離婚届を出した、って言ってるけど、実際のところまだよく分かってないことによります(「最高の離婚」 っていうタイトルだから、出したと思うんだけど)。

 でも真木サンは、尾野サンの言葉を制してこう言います。

 「違うの。 別に、誰かが悪いってことじゃないの。
 ただ、誰かにとっては、生きる力みたいになってるものが、誰かにとっては、便所カバーみたいなものかもしれない」

 「みんな他人だから…」 と尾野サン。

 「はい。 別の場所で生まれて、別の道を歩いて、育った、他人だから…」

 瑛太クンは、そのあいだじゅう、「別に気にしてないけど」 みたいな、自分の本心をひたすら隠すようなそぶりを続けます。
 でもそれは、彼が受けたショックの大きさを、却ってあからさまに映し出している。
 つまり、瑛太クンは、そこで自分の人生を、根こそぎから否定されているのも同然だ、と私は考えるのです。

 「自分は自分の人生を、正しいと思いながら生きている。
 そりゃ欠点だってあるし、他人からどう否定的に思われているかも分かる。
 でもそういうものにはフタをしながらでないと、生きてらんないじゃないですか」。
 これまで3回にわたってコメディタッチで描かれてきた瑛太クンの心を、私はこのように推理するのですが、結局自分を肯定して生きているからこそ、他人への不満が機関銃みたいに愚痴になって表れてしまう。 愚痴とか文句というのは、自分を正当化する作業なんですよ。

 確かに真木よう子サンがフォローしたように、みんなそれぞれ生き方が違うんだから、言葉尻のいちいちに過剰に反応していたのでは、やってけないところもある。
 私だって、こんな拙いブログを続けていて、自分が軽く書いたことに、傷ついている人も、確実に、いると思う。
 それを学んでいくのも、ネットマナーなのかな、という気もしますが、結局は、「たった一言で崩れてしまうような関係というのは、実はご縁そのものがない」、と考えます。

 人というのは、間違いを犯しながら生きていくいきものだ。 そのとき試されるのが、普段から自分がどのような評価をされているか、だと思う。 普段から 「コイツは根が悪い人間だ」 と思われていては、間違いをしでかした場合に、誰からも助けてもらえない。
 確かにまじめにやっていても、トラブルに見舞われたとき誰も助けてくれない、というケースもありますけどね。
 それに、不幸にすり寄ってくる悪い人間、というものもこの世にはいるんですよ。

 それから、人というもの、離合集散を繰り返すものだ、という気も、やはりします。
 お互いにつきあってみて、ああこの人とは気が合わないな、と思ったら、離れていく。
 みんなから好かれたいのは人情ですけどね。 そうもいかない。
 夫婦の場合、それが普通の人より簡単にいかない、ということはあります。 第2回だったか、尾野真千子サンが、「離婚というのは当人どうしがただ別れるんじゃなくて、その家族とも別れることなんだ」 みたいなことを話していましたよね。

 瑛太クンはその後、真木サンの心を知らずに傷つけてしまったジュディマリの曲をあらためて聴いて、いたく反省します。 そして真木サンのアパートに出向いて、謝るのですが、真木サンは玄関のドアを開けようとしません。 すごすごと帰ろうとすると、綾野剛サンとつきあっている女が現れ、真木サンの部屋に投石をしてガラスを割ってしまう。
 瑛太クンはその女を追いかけ 「あのままじゃ僕が石を投げたと思われてしまう!」 と問い詰めるのですが、その女は平然と、綾野剛サンがまだ婚姻届を出していない、ということを瑛太クンに告げるのです。

 瑛太クンはその事実を反芻しながら、目黒川(たぶん)にかかる橋に佇んでいます。 そこに雪が降ってくる。 差し出した手のひらに落ち、すぐに溶けていく雪。
 ふと振り返ると、真木よう子サンが立っている。 彼女は瑛太クンの手に、自分の部屋に投げ込まれた石を、「あなたでしょ」 というように、黙って手渡します。
 瑛太クンはそれに対し、さっきあの女にああ問い詰めたというのに、「自分が犯人じゃない」 という言い訳をしようとしません。

 「大なわとびみたいな…。

 ぐるぐる回ってる。 みんながそんなかで飛んでて、入れって言われて、入ってみると、縄が僕の足に引っかかって、止まってしまうんです。

 なにをどうしたらいいのか分からない。
 なにを、どう、どう言えばいいのか分からない。 ちゃんと出来ないんです。 自分のこと…。 ちゃ、ちゃんと出来ないんです…」

 自分がいつも事態を壊してしまう。 それをどうしようもない。 それをどうしたら解決できるのかが分からないから、他人の輪の中に入りたくない。 そしてその反動みたいに、暴走気味に他人に当たってしまう。 物事に細かいのは、自分のことがきちんとできないことへの恐れ。
 彼の偏執気味の精神構造の原因が、ここでようやく垣間見えた気がするのです。

 同じころ、大雪の中走る電車の中から見たような、レールの映像がインサートされ、綾野サンが不倫、じゃないか、不実中の女とのベッドの中で目を覚まします。 女は、「うなされていたわよ」 と話す。 綾野サンは、女と一緒にいると、夜行寝台列車のカシオペアの夢をよく見る、と言います。

 「テトリスってあるでしょう。 あれになんか似てる。

 ほら、ゲームってたいてい宇宙船撃ったりゾンビ倒したりするんだよ。
 でも、…テトリスは…なんかよく分からないんだ。

 次から次へとブロックが降ってくるのをなんか合わせて。 合わせたら消える。

 なんか。

 今のこの感じに似てるんだ。

 なにをしてるのかも分からない。 目的もない。 終わりもない。

 ただ、なんか追い立てられるみたいに、
 急き立てられるみたいに、

 …続いていくんだ」

 この綾野サン、自分では無自覚に女からモテまくっている。 それは瑛太クンがヘンにモテてるのとはちょっと性格が違うものなのですが、彼の持つ浮遊感みたいなものが、女性を引き寄せている感じがする。 現実に生きてない気がするんですよ。 ふわふわしている。
 でも同時に、そこに切迫感みたいなものも感じている。 なにをしたらいいか分からず、ただ目の前のものを目的だと思い込みたがって、焦っている。 そしてそれをこなすことで、ただ無為に日々が過ぎていく。
 そんな自分の状態を、彼はテトリスみたいだ、と表現するのです。

 でもそんな 「自分がなにをしていいか分からない」 という状態って、結局瑛太クンの考えている強迫観念と、相通ずるものがあるんですよね。 だから綾野サンも瑛太クンも、モテているという点では一緒で(なんの話だ…笑)。

 「こうすれば女性にモテるのか」 という点は置いといて(笑)、こうした例え話のたたみかけで、人の心を表現していく、というのは、まさに坂元サンの真骨頂であり。

 ドラマがようやくレビューに値するような内容になってきたかな、という気は、とてもするのです(ゴーマンな書きっぷりだ…)。

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2013年1月25日 (金)

「八重の桜」 第3回 進取の気象、質実の風

 第3回までこのドラマを見てきて感じるのは、「分かりやすい」、ということです。
 だからことさらレビューを立てて解説なんかする必要性も、あまり感じない(笑)。
 「ご覧になった通りです、以上」 みたいな(笑)。

 これって去年の 「平清盛」 とは、ずいぶんと趣が違った作風だな、という気がします。

 「清盛」 は、どちらかというと玄人筋をうならせるような作りをしていた。
 それでも最初のころは、「これって少年ジャンプのような単純なロジック(友情・熱血みたいな)でまわってるな」 という気はしてたんですが。 途中から人物は判別できなくなるし古典は出まくりだしワケ分かんなくなりかけて(笑)。
 でも私もいちおう玄人筋の仲間だと自分では思い込んでいるので(爆)、後半はどんどん引き込まれました。

 情報によれば、第2回で登場し、第3回の時点で11歳だ、という八重、綾瀬はるかチャン。

 11歳だと思えば見えないこともない(ウソ)。

 だってトカチェフみたいなことしてるし(意味不明)木のぼりしまくってるし、カッタルイ習いごとが終わると 「はいちゃー」 とばかり飛び出していくし(まさに 「鉄砲玉」)。
 はるかチャン本人がその気で演じているのだから、ここは目をつぶりましょう(どうもご当地大河だから甘い)。

 ご当地大河であるがゆえの甘いことをあえて書き連ねると、このドラマはその方言の懐かしさによって、私の気持ちを弛緩させてしまいます。 私の生まれ故郷三春(田舎は芦沢)は、会津とはちょっと場所が離れているけれども、その訛りの心地よさによって、見ていてちょっと理由もなく泣けてくることがある。

 その心地よさとドラマ自体が持つ平易さが重なって、なんとなく引っかかりがなく最後まで見てしまう。 45分があっという間に終わる感覚です。

 それではレビューの体をなさないので、あくまで論理的に話を進めてまいりますが。

 今回の最大のポイントは、なんと言っても覚馬の肉体であります(どこが論理的じゃ…笑)。

 正直言って、ここまで鍛える必要あんのか、というくらい、西島秀俊サンはマッチョマンだった(笑)。 ランボーかと思った(笑)。
 銃という 「飛び道具」 を嘲られた覚馬は、嘲った相手と槍による果たし合いを道場で行なうことになるのですが、相手は脱がないのに自分は上半身裸になる。

 これって、すご~く見せたかったんだと思いますよ、ここまで鍛えているもんね(論理的じゃない…)。
 いや、その是非は別として、覚馬がここまで鍛えている、ということは、いいほうに解釈すれば、彼はそれだけ、会津の 「伝統を大事にする=古い考えに固執する」 という頑迷な気性に対抗しようとしていたんだ、と思うのです。 マッチョすぎるその肉体の裏には、因習に対する覚悟が潜んでいるのではないか、と。

 …いや、見せたかったんでしょうね(笑)。

 それよりも、この果たし合いに至るまでに省略されている部分に、ちょっと注目してみますと。

 「肩がぶつかった」「テメー生意気だ」 という、まるでチンピラどうしの小競り合いから銃の話になり、「(刀を)抜くか?」 みたいな状況に陥ったのに、次のシーンでは日新館の道場に正式に果たし合いの申し出にやってくる覚馬とその相手ふたり。
 つまり、「こんな道のまんなかで斬り合いなどしてはならぬ」 という意識が双方に働いたために 「正々堂々と」 という同意がなされたのは容易に想像できます。
 この展開には、会津藩の武士がわきまえていた質実さ、生真面目さがうかがえる。

 覚馬がなにゆえにここまで伝統を重んじる周囲から反感を持たれているのか、というと、藩に請うて蘭学所の設立をしたからで、その拙速さの底流には、折から会津に来ていた川崎尚之助から伝えられた、師佐久間象山の言葉が存在している。

 「なにかを始めようとすれば、なにもしない奴らが、必ず邪魔をする。

 蹴散らして! 前へ進め!」

 「♪たたかうきみの歌を~たたかわない奴らが笑うーだろー」 というわけですが、ここらへんのロジックって、結構使い古されている。 このドラマがスーッと見れてしまうのは、ここらへんに原因がある気がします。 ひねりをあまり効かせてない。 これでもか、というたたみかけもない(だからこそ明快で分かりやすいんですが)。
 しかもこれ、今回のメインテーマですからね。

 この、進取の気風を推し進めようとする佐久間象山の言葉は、質実剛健な会津の気性とは、実に相反しているように思えます。 しかし果たしてそうなのか。

 蘭学所の整備を進めようとする覚馬は結局、藩の守旧的な家臣によって出入り禁止(禁足)を命じられてしまう。 その舌鋒の主である萱野権兵衛は、のちにワルモノにされてしまうという悲運の持ち主ですが、彼を演じている柳沢慎吾サン、なんかいきなり 「オマエは禁足だ!アバヨ!」 と言いそうで(んなワケないか)。

 禁足を命じられた覚馬は、毎日昼行燈生活に突入(突入って…笑)。
 一日トレーニングを休めば、あの超マッチョな体はたちどころにして元に戻りましょう(笑)。
 それを見かねた八重は、実弾をぶっ放してデモンストレーションを強行(強行って…笑)。

 「わだしは続けやす!

 人に笑われでも、構わねえ。

 兄んつぁまがもうあぎらめるっつっても、わだしはあぎらめねえ。

 鉄砲を極めるまで、ひとりでも続けやす!」

 このことによって覚馬は再び、「蹴散らしても前へ」 進むことを決意するのですが、その物語的な簡便さは別として、たとえ伝統や旧習に反する新しい概念であっても、いったんそれをやろうと決意した以上、そこにも頑固さが宿る。 つまり 「進取」 と 「質実」 は相反しない、と思われるのです。

 会津人としての頑固さに裏打ちされた、新しい概念の開拓。
 おそらく兄の覚馬がこの旧弊的な会津で蘭学所を開設したことは、八重にとって将来への大きな布石となっている。

 なんとか論理的になりましたかね(笑)。

 とにかく、ドラマ自体が副題にあまりに忠実すぎて、却って論点がそこに集中しすぎるきらいはありますが、ちょっと別の角度から見ることができたらな、と思います。

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2013年1月19日 (土)

「泣くな、はらちゃん」 第1回 あなたが変われば、世界は変わる

 岡田惠和サンのオリジナル脚本。 マンガの世界から主人公の 「はらちゃん」 が飛び出す、という内容だから、原作マンガがあるのか、と思ったのですが、違ったようです。

 はらちゃんは現実世界に飛び出すと、TOKIOの長瀬智也サンになるのですが、いや~、ここんところ 「鉄腕DASH」 とか、「DASH村」 がなくなってご無沙汰だったもんだから、長瀬クンの顔を拝見するのは久しぶり。 いや、紅白出てたのかな?

 TOKIOの中では最年少、と言われていた長瀬クンも、34歳ですか。 「ふぞろいの林檎たち」 に出ていたのがもうふた昔くらい前。

 そのはらちゃんの出てくるマンガをせっせせっせと市販のノートに描いているのが、越前さん(麻生久美子サン)。
 Gペンとか丸ペンで描く本格的なものではなく、ロットペンとかミリペンを使って描いているようです。
 「ネーム」、という、いわば下書きなどを一切せず(笑)、いきなりコマ割りからペン入れして製作開始(スゲ…笑)。 そのためストーリーは基本的にハチャメチャ(爆)、自分が勤めているかまぼこ製造会社での、職場の愚痴を、はらちゃんの口を借りて、ただひたすら描き殴っておるのです(ハハ…)。

 しかしその筆致はかなり的確。
 彼女の本棚には、なんかメジャーで出版されていたと思われる単行本が並んでいます。
 「矢東薫子漫画全集」。
 1巻の表紙にははらちゃんの絵が。
 8巻まで揃ってるということは、彼女はそれなりのキャリアを持った、元マンガ家であることが想像できます。
 しかしそれって彼女本人なのか。 まあ本人だと思うのですが、越前さんが矢東薫子先生に心酔して粗末なノートに描いている、同人誌崩れの作品ではないか?とも思わせる(ないか…笑)。

 マンガの作風についてですが、ん~、分かりやすく言えば、藤子不二雄F先生みたいな?
 つまり結構古臭い。
 でも最近のコミックシーンは結構混沌としてるから、ヤンマガとかウルトラジャンプあたりで見かけるかもしれない、そんな感じ。

 で、その個人的愚痴だらけのマンガが描かれたノートブックは、仮面ライダーWのフィリップ君が阿部サダヲサンに変身したよーな越前さんの弟(意味不明)によって、外に放り投げられる。

 するとノートのなかのマンガの世界は崩壊を始め、はらちゃんは現実世界に飛び出してしまうのです。
 マンガの世界の住人達はこのところ、越前さんの職場の愚痴があまりにひどいのに辟易しており、それを是正しようとはらちゃんに託すんですよ。

 マンガの世界しか知らないはらちゃんが現実世界に飛び出て来たときの話はかなり笑える。 「これはなんですか?」「車…ですけど」「ああ~っ!これはッッ!」「犬です」(笑)。
 極めつけは、かまぼこを食べて号泣(腹痛ぇ…)。

 で、自分たちの世界の作者である越前さんを 「神様」 と呼び(笑)、職場で一緒に働いている仏頂面の忽那汐里チャンを 「悪魔」 と呼ぶ(事情を書くのは面倒だから省略)。
 いきなり越前さんに 「あなたが幸せにならないと、私たちの世界はメチャクチャです、神様!」 と迫るもんだから、神様は完全拒絶(笑)。

 特に可笑しいのは、越前さんが描いているはらちゃん手持ちのギターが、3弦しかなくて(笑)、ギターも特別にその仕様で出来ていること(笑)。 現実世界ではらちゃんは、悪魔がちゃんとした6弦ギターを弾くのを見て、モーレツにカンドーするのです。
 6弦ギターを手に入れたはらちゃんがマンガの世界に戻って歌う歌。 悪魔(だから悪魔って…)が歌っていたのと、歌詞は違うけどメロディが一緒。
 蛇足ですけど、マンガの世界の住人のひとりである甲本雅裕サンもこれに唱和するのですが、甲本ヒロトサンの歌い方に似ていてちょっとニヤリとしました。

 このドラマの眼目というのは、「自分ひとりが変わっても世界なんか変わらない」 という醒めた目、諦め、無力感に対するアンチテーゼであることは容易に分かります。
 こうした、ある意味能天気な、楽天主義が遠くのゴールに見えるような作風は、岡田惠和サンが得意とするところのように感じます。
 これが現実的なドラマになると、その楽観的な人間主義が鼻についたりするのですが、現実離れしたこのような設定だと、そのノーテンキさが最大限に生きる気がする。

 ちょっと混乱してしまうのは、マンガの世界の住人の紅一点である奥貫薫サンと、麻生久美子サンのキャラって、個人的にかなりダブっている点。
 もしかすると奥貫サンは、マンガの中で麻生サンが自分をモデルにしているキャラなのかもしれない。

 気になるのは、「矢東薫子全集」 を手に持ち、はらちゃんにも 「他人任せにするよりまず自分でしょ」、などと的確なアドバイスをしながら、越前さんには突き放したような感じで振る舞っている、かまぼこ制作チーフの薬師丸ひろ子サン。 いったいどういう存在なんでしょう。

 いずれにしても、なんかこの冬の日テレドラマは、一風変わったのが多いですよね。

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「シェアハウスの恋人」 第1回 つながっていたい、ということ

 宇宙からこの地球を見て、「誰かが悲鳴を上げている…」 と気になった宇宙人(大泉洋サン)。 素っ裸でその女性(水川あさみサン)の前に現れます(岩場に隠れて恥ずかしそうに…笑)。 「ヘークション!ヘークション!」(笑)。 水川サンは首に巻いていたマフラーを彼に差し出すと恥ずかしがって去っていく。 ひとり残された宇宙人ヒロシ(笑)。 素っ裸にマフラーだけをまとって、立ち尽くすひとり、立ち尽くーすー(ハハ…)。

 なんなんだ、このドラマ(笑)。

 そもそも最初の数分、このドラマは比類なきほどネガティヴモードで進行します。
 水川サンは冒頭いきなり左遷の対象になり、送別会でも傷ついた心を隠してお愛想笑いをふりまき、コンビニで見栄を張って大量買いし、ひとりぼっちの部屋に戻ってくる。
 そのとき気弱で本当の自分を表現できず、いつもまわりに流されて損ばかりしている自分が急に客観的に見えてきて、涙をぼろぼろ流します。

 「(こみ上げてくる涙に苦笑いしながら)ヘヘッ…なんじゃこりゃ…」。
 そして泣きじゃくる水川サン。
 「(泣きながら)…なんじゃこりゃ…」。

 カワイソウ。 弱気すぎると、生きていくのがとてもつらい、という好例です。
 そのあいだ、水川サンがコンビニで出会った店員が、谷原章介サン。
 彼がまた、超暗くて。
 私が今まで見た谷原サンの役の中では、キャラがもっとも暗い。
 水川サンはおそらく、谷原サンのルックスに一目惚れしています。
 しかし暗い。
 まったく暗い。
 ホントに暗い。
 暗すぎてどうにもならないくらい暗い(分かったって…笑)。

 それが、この記事冒頭に書いたように、大泉サンの登場で、急にコメディモードになる。

 ある日水川サンは、左遷先の会社に出勤途中、「鬼太郎ハウス」 が連なっているみたいな構造の家を見て心を奪われます。 その家がシェアハウスであることが分かると、即座に入居を決断。
 そこで同居人となったのが、あの宇宙人・大泉洋サンなのですが、水川サンは気付かない。 まあ素っ裸の人をまともに見ているわけがないからこれは分かる(笑)。

 大泉サンは真面目に 「オレは宇宙人で、キミのことが好きだ」 と告白しますが、まあフツー、これは冗談と取られるでしょうね。 水川サンは私も大泉サンのことが好きよ、と冗談で応酬し、おそらくこの時点で、大泉サンの恋は破れている(笑)。 早期解決だな(笑)。

 なんでいきなり告白なんかになったのかと言いますと。

 このシェアハウス、当初一緒に住んでいたのが三浦理恵子サンだったんですが、裏では水川サンのことをとてもシビアに分析し、嘲っていた。 水川サンは大泉サンと一緒に三浦サンの誕生日サプライズで陰に潜んでいて、この悪口を全部聞いてしまいます。 おおいに落ち込む水川サン。 そこに大泉サンが恋の告白をして気持ちを切り替えさせようとしたのです。

 それにしてもこのシェアハウス。
 水川サンが心を奪われてしまうのも道理、というくらい魅力的な構造をしています。

 ログハウスを思わせるような内装で、台所などは共同使用スペース。 マントルピースまである。 「鬼太郎ハウス」 と書きましたが、実際に木の上に作られている棟がある。 これってCGなのかな?
 難を言えば、各部屋が階段でつながったりしていて、バリアフリーには程遠い、ということくらいでしょうか。
 いったいこのシェアハウスの大家というのは、どういう人なのか。 気になります。 でもドラマは、そこに言及するそぶりさえ見せない。

 ただ物語が進むにつれ、非常にご都合的な展開になってきます。

 ある日、長野の家を飛び出したひとりの子供。 「ゴーストママ」 でとんぼクン役だった男の子(君野夢真クン)です。 彼が家出した理由は、失踪した父親を捜すため。 彼は東京のつてを頼るのですが、そのつての彼氏の姉が水川サン、というわけで(はぁ?…笑)、しかもとんぼクン、じゃなかった、このドラマでは空知(そらち)クンが捜していた父親というのが、谷原章介サンだったわけです。 出来過ぎ。

 この展開は、三浦理恵子サンがこのシェアハウスを去った後に谷原サンが住む、というために無理やり作った実に不自然な話であります(笑)。

 でも、それが気にならない。

 だってそもそも、大泉サンが宇宙人だから(爆)。

 心当たりがあったため、すぐさま谷原サンを探しに行った水川サン。
 谷原サンが自殺しようとするところを止めようとして、それをつけてきた大泉サンがそれを先に止める。

 そこから自殺したくて仕方がない谷原サンのネガティヴストームに(なんじゃソレ)大泉サンと水川サンは、必死になって立ち向かうことになるのですが、この 「ネガティヴ」 と 「コメディ」 のせめぎ合いがとても楽しい。

 この微妙なバランスに支えられた可笑しなやり取りが、「もっとこのドラマを見ていたい」 という気持ちを助長するんですよ。
 もともとが宇宙人の話だから(笑)少々の設定の強引さが気にならないところに来て、この吸引力って、いったい何なのか。

 つらつら考えるに、ここに出てくる登場人物3人が、「つながりたくて仕方ない」 という感情で行動しているからではないか。

 水川サンは三浦サンの酷い仕打ち(面と向かって言われたわけじゃないけど)にも、「そうだ、自分は彼女に対して優越感を感じていた、彼女の言ってることは正しい」 と反省したがるし、傷つけられながらも、人を信じることをやめようとしていない。

 大泉サンは自分の恋心をフイにされても、水川サンのために行動することをいとわないし、水川サンが気になっているのは谷原サンだ、ということにおそらく気付いていながらも、谷原サンに対して邪険な行動をとらないし、却って谷原サンと水川サンをくっつけたがっているような部分も感じる。 まあそれは、結果不倫ということになってしまうのでしょうけど。

 そして谷原サンは、これ以上ないほど厭世的になり他人を受け付けない暗黒の権化みたいなそぶりをしながらも、大泉サンの下らない質問にもスゲー時間差使って答えようとするし、出ていったかと思えば 「外は寒い」 とか言いながら帰ってくるし。

 つまり、この3人は、とても変則的ではあるけれども、人なつっこいんですよ。 人恋しくて仕方ない。 誰かが一緒にいることの安心感に浸りたがっている。
 そこに、この特殊で魅力的な構造をしたシェアハウスが、「他人とのつながり」 を具体的な形として示している。
 いきものがかりの 「帰りたくなったよ」 じゃないが、「人とつながっていたい」 という気持ちが収束しているから、話がいくら無理やりでも許せるし、なんとなくこの世界に浸っていたくなる。

 そんな不思議な魅力。

 そんなに傑作と呼べるほどの話でもない、とも思うのですが、なんか気になるドラマにはなりそうです。

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「ビブリア古書堂の事件手帖」 第1回 謎解決の必然性

 剛力彩芽チャンが古書店の店主を演じるというこのドラマ。 古書をめぐって展開する事件簿、という感じですか。

 この古書店に結局雇われることになるのが、第1回の査定依頼主、EXILEのAKIRAサン。
 古書店自体が非常に古い作りなのですが、AKIRAサンの実家のほうもやたらと古い。
 そして物語は、7、8割がた?この2か所で展開していきます。
 そのためか、画面自体が常にセピア色に征服されているみたいで、まるで古書や古い柱の持つ独特の匂いが漂ってきそうな、上品な材質を持っている印象のドラマです。 しかし。

 AKIRAサンが持ち込んだ 「漱石全集」。 祖母の形見ですが、1冊だけ漱石のサインが書かれている。
 この書きかた自体が不自然であり、彩芽チャンはこれが偽物だとすぐに気付くのですが、そこに隠されたいろんな秘密をめぐって、物語が展開していきます。

 ドラマのスタッフが 「鍵のかかった部屋」 と同じことから、このドラマも同じテイストが求められるのは仕方がないけれども、正直なところ話だけを見ていると、あまり展開すべき必然性を感じない。 「鍵のかかった部屋」 では、人が殺されたりなんだりしてるわけで、解くべき謎が存在していたけれども、別にエグザイルの人のばーちゃんの秘密なんか、掘り下げる必要がないし(ミもフタもない言い方だ…)。

 それにこの秘密が完全に解明されたとき、どうして剛力彩芽チャンはAKIRAサンを雇わなきゃいけなくなるのか。
 彼女はドラマのあいだじゅう、ずっと思わせぶりな表情ばかりします。
 だから彼女が彼を雇おうとする時にしゃべった理由、「実務が出来ればいい」 とか 「力持ちが必要」 とかは、なんかただの言い訳みたいに見えるんですよね。 裏に何かあるんじゃないか、って。
 でもそれがもしあるとすれば、これからのお話になるんでしょうから、イチャモンをつけることでもないです。

 さらに上戸彩サンの演技を見たあとではどうしても見劣りしてしまう剛力彩芽チャンの演技ですが、そこにもあえて踏み込みません(スミマセン、「いつか日のあたる場所で」 を見たあとでコレ見ました)。

 私が気になったのは、謎が結構簡単だった、ということでしょうか。
 私ってこういう謎解きモノって苦手で、あまり積極的に見たい、と思わないほうなんですが、そんな鈍い私でもなんか分かっちゃったんですけどね、かなり早い段階で。

 却って、エグザイルの人のばーちゃんが結婚したのが1959年、とか松坂慶子サン(エグザイルの人のかーちゃん)が話していたのを見て、「この年代では昭和で言うだろーフツー」 とか、要らぬツッコミをしてしまったり(笑)。 1959年結婚で、もう死んだばーちゃんの話になるのか、ああ、時は移ろいゆく…とか、要らぬ感慨にふけってしまったり(笑)。
 で、あげくの果てに、背が高いから鴨居に頭をぶつけてしまうからゴムのカバーを設置したって、なんであんな一部分だけつけて鴨居全体につけないのかとか(笑)。 そもそも何度も頭ぶつけるのって、オマエかなりマヌケだろとか(笑)。
 しかもエグザイルの人に深~いトラウマを植え付けたばーちゃん(笑)、あんなことやっといて読書嫌いにさせといて、「本を読まないのはもったいない」 とか言ってんなよ、とか(爆)。

 あーだめだ、ツッコミどころ多くて(笑)。

 まあ、この漱石のサインが書かれていたという、漱石全集の 「それから」。
 その内容を知っていたから祖母の秘密が早々に分かっちゃったというのもあるかも。
 分かってしまうと、思わせぶりにアキラサンを誘うような顔をする剛力サンが、実に罪作りに見えたりしてくる。 モジモジしてたら、却って知りたくなるでしょーが。

 いずれにせよ。

 剛力サンもアキラサンも、このドラマで成長していただきたい、と願うばかりであります。

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「いつか日の当たる場所で」 第1回 遅ればせのレビューですが

 上戸彩サンと飯島直子サンが刑務所を出所したばかりの前科者を演じる、「いつか日の当たる場所で」。 仲間由紀恵サンの 「サキ」 と放送時間がかぶるので、再放送していた第1回を見ました。 世間ではもう第2回に突入しているのでかなりマヌケなことも書いてしまいそうですが、そこんところはご了承ください。

 実はこの 「刑務所から出所したばかりの女囚コンビ」 という設定(女囚って…)がどうにも興味なくて、「とりあえず録画できるものは全部見とく」 ということで録っといたドラマ。 そんなに期待していたわけではありません。

 それでも最後まできちんと見てしまったのは、やはり人の心の内面をよく描いているからですね。
 それと、主役のふたりの演技が、やはりうまい。
 特に上戸彩サンは、「流れ星」 でもそうだったけれど、暗い性格を演じさせたら日本一なのではないか、と個人的には思います。
 飯島直子サンはプリプリに太ったキャンギャル時代から存じ上げておりますが(笑)、なんなんですかね、こんだけうまいのって。

 このふたり、同じムショ帰りなのに、太陽と月みたいに性格が違う。

 もちろん上戸サンが月のほうですが、出所したてで世間の目が怖くておどおどしている様子とか、これからどうしたらいいんだろう?という途方に暮れた様子とか、弟役の大東俊介クンの態度に戸惑ったり悲しんだり失望したりする様子とか、彼女の表情を見ているだけで、見る側はいろんな想像をかきたてることが可能です。
 彼女の唯一の欠点は、美人すぎて見る側に一種の嫉妬感を抱かせることではないでしょうかね(笑)。

 上戸サンがムショ入りした原因は(役の上でのことですよ…当たり前か)ホストクラブの男に入れあげて金を貢いでこん睡強盗10件、だったっけな。
 もともと出来が悪くて褒められたことがなかった心の飢餓状態のところにしのびこんだのが、ホストの甘い言葉だった、というわけです。 犯罪動機もきちんと描かれている。

 結果、自宅前で、家族3人(父、母、弟)の見ている前で、逮捕。

 その時の3人の冷たそうな顔。 特に母親の浅野温子サンは、「この人にこんな目つきで見られたら、もう生きていけない」 というほどのカチンコチンの冷たさで、バナナで釘が打てちゃうくらい(ハハ…)。

 上戸彩サンが出所してくると、いきなりそこに明るく現れたのが、数ヶ月前に一足先に出所していた飯島直子サン。 家族は誰ひとりとして来ません。 飯島サンと上戸サンは、刑務所の中で知り合って、懇意になったようです。

 飯島サンの罪状は(役の上でのことですよ…当たり前か)、DVを繰り返す夫をネクタイで絞殺。 小さな息子がひとりいたみたいですが、今は別のところに引き取られている模様。
 彼女は出所したてなのにパン屋で見習いとして働いていて、いつか自分の店を出す、という夢に燃えているようです。

 このふたりが谷中の街を歩いていくんですが、上戸サン、どこに行くんだろう?と訝しがって見てたら、どうも自分の祖母が昔暮らしていた、今は誰も住んでいない一軒家。 家族がそこをあてがった、ということになりますよね。

 これがホントに、昔ながらの木造住宅で。

 私みたいな旧世代だと、「落ち着きそうだな~」 と思うのですが、上戸彩サンくらいの年代だと、なんとなくそこはよそよそしく、なにも置いてないので音ばかりが乾いて響く、「住むところだけは用意してくれた、家族の自分に対する気遣いというものも少しは感じるけれど、なんか放り出されたような感覚」 に陥ってしまう場所なのではないか、などと感じる。

 実家はどうも和菓子屋なのかな、結構堅実に稼いでいるみたいです。
 弟の大東クンはそこを仕切っていて、浅野温子サンはどうやら社長みたい。
 で、大東クンが…。

 …どうしようかな、状況を細かく書きすぎてる(笑)。 これを読むかたは、とっくに分かっていると思って書くかな。

 とにかく大東クンが上戸サンを訪ねて来て、自分は結婚するからお姉ちゃんは籍を抜いてくれ、遺産相続も放棄してくれ、と実に冷たい話を事務的に進めるのですが、上戸サンは、自分の罪の重さをじゅうぶん分かっていて、これに応じる。

 このシーンが結構見ていて引き込まれるんですよ。
 それをのちのち、上戸サンはまだ自分はじゅうぶん罪の重さを自覚していなかった、と反省し泣くことになるのですが、ここに至るまでの上戸サンの心情の描写が、とても細やかでよいのです。

 姉が刑務所に入る罪を犯したことで、弟がどれほど傷ついてきたか。 父はそのあと娘のことが遠因で死んでしまっており、それを知った娘は自分がどれだけ取り返しのつかないことをしたか、あらためて深く後悔し号泣する。 でも上戸サンは、遺産相続放棄は仕方ない、と諦めているけれども、籍を抜く、と急に言われて、初め狼狽します。

 なにもそこまでしなくても…。 という気持ちでしょう。
 ここに彼女が 「本当に自分の罪を自覚していない」 という隙がある。

 弟は 「オレの幸せまで壊さないでくれよ!」 と姉の躊躇に憤慨し、姉の承諾を強要する形で離籍届にハンを押させる。
 そのあと自宅に戻った弟が 「嫁の機嫌でもとってくるか」 などと言ってるところを見て、「コイツ冷てえなぁ」 と私も感じたのですが、そのあと弟は、姉のもとに姉の思い出の品と手紙をよこすのです。
 その手紙は弟が、自分の経験した辛さの恨みも残しながら、姉に対して出来る限りのことをしようとしているところが見える。
 その手紙を読んで、上戸サンは自分が逮捕されたとき、あくまで冷たい表情だとばかり思っていた家族3人が、泣いていたことを思い出すのです。
 そして彼女は自分が今までしていた反省が、まだまだ浅かったことを自覚し、号泣する。

 ここらへん、犯罪者を出してしまった家族、そして犯罪者になってしまった本人の内面をとても丁寧に描いている、と感じます。 けっして犯罪者美化の話にはなっていない。

 その号泣している上戸サンを慰める側の飯島サン。

 彼女も決して順風満帆に仕事をしているわけではなく、ヘマばかりやらかしていったんパン屋をクビになったのですが、頭を下げてなんとか許しを得ている。 彼女だって不器用に生きているのです。 ともすれば上戸サンみたいに、ネガティヴにばかり考えてしまいそうになる自分がいる。

 でも彼女は表面上、あくまで明るく振る舞おうとします。
 そして気落ちする、暗~い上戸サンを、いつも慰める。

 これはでも同時に、自分の中にあるネガティヴな自分を励まそうとする行為なのだ、と感じます。 上戸サンを慰めながら、飯島サンは自分を励ましている。
 こういう構造が見てとれるとき、ドラマというのはその面白さが倍加していくのではないでしょうか。

 誰でもみんな、完璧に生きられるわけじゃないです。 そのつど最善のことなど出来るわけでもないし、間違いを犯しながら、失敗しながら生きてるし。
 でもそこから、前向きに生きられるのか、後ろ向きになってしまうのか。
 このドラマでは上戸サンを後ろ向き、飯島サンを前向き、というプロトタイプに沿わせらながら、実はふたりが絡むことで、互いに欠けている部分を自覚させ、補完させていく関係なのだ、と思う。

 ムショ帰りの極悪非道な女囚さそりコンビのドラマかと思っていたけど(なんじゃソレ)、上戸サンの近所に住むゴリサン(竜雷太サン)とエイドリアーン(松金よね子サン)夫婦、コンビニの優しそうなおにーさん(斎藤工サン)も絡んで、連続10回?さてさてどういう展開になるのか。 10回もなんかやることあんのか?(笑)つー気もしますが、とりあえず再放送で追っていくことにしますか。

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2013年1月14日 (月)

「八重の桜」 第2回 どうして銃をそんなに持ちたいのか

 今回は、セリフの書き起こしを中心のこのドラマの勘どころを探ってみたいと思います。
 それほどこのドラマのセリフは、よく練られている。
 あまりに的確すぎて、なんの引っかかりもなくスーッと見てしまう危惧さえ感じるのです。

 「やむにやまれぬ心」 という副題がついた今回のこのドラマ。
 その心を持っていたのは複数の登場人物です。

 まず黒船に乗り込もうと、脱藩まで考えていた八重の兄覚馬。
 「無茶しねえとなんも始まんねえべ。 断固として事を行なうとき、人はみな狂気だ。 狂気っつうのは、やむにやまれず命かけるってことだべ。 それぐらいの熱がねえど、黒船には太刀打ちでぎねえ」。
 覚馬はもし実行した時に露見した場合を想定して、会津藩脱藩まで考えています。
 この思考構造は、実に3年前(「龍馬伝」)の坂本龍馬と同じ(笑)。
 でも脱藩って、そんな笑いごとではない。

 そして覚馬が考えていた黒船乗り込みを、まさに実行してしまった、吉田松陰。 やむにやまれず、こっちは実行してしまった。

 そしてその松陰への手紙から奉行所へ呼び出された佐久間象山。
 お上の旧態依然とした考えに、「やむにやまれず」 大声を張り上げてしまいます。
 「海外渡航を禁ずる法など、もはや意味をなさぬ。 港を開いた今、諸外国の事情を探索することこそ急務。 寅次郎(松陰)、国を思い、やむにやまれぬ心で渡航を企てたのでござる。
 それを、つかまえて罰する。
 なんたる…大バカかぁっ!」

 やむにやまれぬ心は、佐久間塾で黒豚の番をしていた少年にも宿っています。
 この少年、新島七五三太(しめた)、「新島」 という名前でピンとくるでしょうが、のちの新島襄です。 なんでかような変な名前になったかというと、女ばかり生まれていた家系で初めて生まれた男の子で、父親が 「シメタ!」 と思ったからだとか(笑)。 ワダスもそれとなぐ勉強してます(訛っとるぞ)。
 この男の子は黒豚の絵を描いているうちに柵から脱走させてしまい(「あしたのジョー」 かよ)(「ジョー」 つながりだ…笑)塾生から大目玉を食らいます。
 「不思議な鳴き声が気にかかり、つい、入り込んでしまいました。 熱中すると、どうもいけません」。

 その場に居合わせ捕獲に協力していた西郷吉之助(隆盛、吉川晃司サン)が、それに反応します。
 「よかよか! それくらいの熱がなきゃあないもものにはなりもはん(なにもものにはなりはしない、つーことでしょうか)」。
 ブタが逃げても描きたいという、やむにやまれぬ心。 そしてその心意気に共鳴する、西郷どん。

 そしてドラマ上、いちばんの 「やむにやまれぬ心」 を持っていたのが、八重、ということになります。

 それは 「どうしても砲術を教わりたい」 というものですが、彼女が銃にどうしてそこまでこだわるのか、という作り手の説明は、私が見る限り希薄だったように思います。
 ただそれは見ていればおのずから分かることのようにも思う。
 つまり八重にとってあこがれの兄がしていたことだから。
 そして弾が命中した時の爽快感の、虜になったとも言えましょう。 真ん中に命中した板を、八重はのぞき込んでいましたよね。 おそらくこれって、スポーツ的な楽しさというものに気付いていたのかもしれない。

 でも、射撃がスポーツとして成立している現代に生まれていればよかったのですが、八重が生きていた時代は、銃を持つことすなわち対象を殺すこと。

 それを教えようとして、父権八は野鳥狩りに八重を連れ出します。 「お父っつぁま、とうとう鉄砲、教えてくれんべかな」。 八重はウキウキしながら、父がしとめた獲物の鳥を捕獲に行くのですが。

 鳥はまだ息があり、バタバタともがいている。

 躊躇する八重を尻目に、権八はとどめの一発を食らわせ、獲物を絶命させるのです。
 飛び散る羽。

 「死んだか?」「はい…」。 息絶えた鳥を両手で持ち上げ、悲しそうな顔をする八重。

 「息の根を止めたのは、鉄砲の弾だ。 弾に急所さ射抜がれたら、必ず死ぬ。 鳥も、獣も、人間もだ。
 鉄砲は武器だ。 殺生する道具だ。
 戦になれば人さ撃ぢ殺す。
 角場の的撃ちは面白ぐ見えるかも知んねえ。 んだげんじょ、的さ撃ぢ抜ぐということは、すなわち人間の心の臓さ撃ぢ抜ぐっつうことだ。
 恐れるこどを知らず、形だけ真似でいては、いづか、おのれの身が、鉄砲に滅ぼされる。
 んだがら、砲術やるもんは、学問と技を磨がねばなんねえ。
 何より、立派な武士でなければなんねえ。 分がんべ?」

 気落ちする八重は、機織りの際に、母佐久(風吹ジュンサン)から諭されます。
 「糸繰(ぐ)りはなんのためにやる? 機(はだ)を織るためだべ。 一家の着物を揃えるのは、おなごの大切な役目だからなし。
 んだら、鉄砲は、なんのためにやる?
 鉄砲撃づのは、おなごの役目じゃねえ。
 それでもやんねばなんねえわけが、八重にはあんのがし?」

 そのわけを、考え続ける八重。

 そして月日は流れ…。

 綾瀬はるかチャンに交代した八重は、久々に会津に帰ってきた兄覚馬に直訴に至ります。

 「わだし、砲術さ習いでえのです。

 お父っつぁまには叱られるし、おなごのやるごとでねえのも、よーぐ分がってる。

 んだげんじょ、やっぱりやりでえ。

 砲術のこと知りでえ。 鉄砲、撃っでみでえ。

 兄(あん)つぁまや三郎(弟)と同じように、砲術の家に生まれで、わだしだけやれねえのは、悔しい…。

 お父っつぁま、兄つぁま、わだしに砲術さ、教えてくなんしょ!」

 権八は八重から没収した、数年にわたる砲術書の書きうつしを覚馬に見せようとして、その膨大な束をドサッと落とします。
 権八は八重の意気込みとその才覚をよく心得ているのですが、だからといって鉄砲を覚えてなんになる?という親心を持っています。 いくらうまくなろうと、その技術を披露する場などない。 結果的に切ない思いをするだけだ、というのですが、権八の気持ちの中では、どこかに戦の匂いを感じ取っている部分があるのかもしれない。 戦場に八重が駆り出されるほんの少しの可能性を、感じ取っているのかもしれない。

 この書きうつしを見た覚馬は、幼い頃から長い間続いていた八重の気持ちに思いを馳せ、つぶやきます。

 「八重も同じだ…。

 やむにやまれず描いでる…」。

 覚馬はついに、八重に鉄砲を持たせます。

 「重いが?

 それが鉄砲の重さだ。

 命をやり取りする、武器の重さだ」

 覚馬は、なんにもならないかもしれないこの訓練に、八重の覚悟を強く促すのです。

 こうした 「やむにやまれぬ心」 のエピソードのたたみかけ、というのは、朝ドラみたいに15分刻み、1週間単位でやると、かなり分かりやすい性格のように感じます。 でも45分の大河ドラマだと、冒頭に書いたようにスーッと見てしまって、なんだかとても簡単なロジックでドラマが回転しているように思えてくる。

 八重が鉄砲を持つ意味というのは、ホントのところこのあと弟の三郎が絡んでどんどん重たくなっていくのですが、この第2回の時点では、山本リンダじゃないけど 「もうどうにもとまらない」 レベルで話が展開している(笑)。 理屈じゃないんだただやりたいだけなんだ、みたいな。

 そして八重は、そのうちに鉄砲と決別しなければならなくなる。
 ただ、その心の中に、八重はいつも鉄砲をしのばせながら生きていくことになっていくのであり、おそらく作り手の意識の中では、第2回の段階では、その精神を描こうとしている部分があるのではないか、などとつらつら考えるのです。

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「とんび」 第1回 なんか今回は泣けました

 去年(2012年)の今ごろ、NHK土曜ドラマで前編・後編に分けて放送されていた、重松清サン原作のドラマ 「とんび」。

 自分的には主人公ヤスを演じた堤真一サンのイメージがかなり強烈で、「なんで今さら」 感が強かった今回のリメイク、…リメイクっていうんでしょうかね?
 とにかくこのほどのドラマ化はおそらく10回くらいはいくと思いますが(視聴率悪きゃ打ち切りの世界ですから)、原作ってそれくらいの長尺に耐えられる内容なんでしょうか、不勉強なため分かりません。 なにしろ前のドラマ化では前後編で2時間半くらいでしたからね。

 前の堤サンのイメージが強い、と書きましたが、今回ヤスを演じることになった内野聖陽サンも、かなりの実力の持ち主であって、見る前から 「これはおそらく堤サンと遜色ないだろうな~」 と思っていました。
 で、見た感想は、やはり遜色なかった。

 正直に申し上げまして、前のドラマ化のときは、堤サンの演技もすごかったし、時代設定が昭和で古いのもちゃんと表現できてたし、申し分なかったのですが、私の場合、私の場合ですよ、泣けなかったのです。 この人情物語が。

 ところが今回、なんか泣けた。

 これって自分が1年トシ食ったから?とか思ったんですけど1年でこんなになるはずもないっスよね(笑)。

 つらつら考えたんですが。

 やっぱりこの物語、ちょっと細部にまで丁寧に仕上げないと、泣けない性格のものだったんじゃないか、と。

 たとえば、今回ヤスの女房である美佐子(常盤貴子サン)が、ヤスの寝ているあいだにヤスの足の爪を切って知らん顔している、というエピソードがありました。 これって前回あったかな?なかったような気がするのですが、「大人になると足の爪は伸びるのが遅くなる」 とか、なんとなく迷信ぽい、気になるエピソードにちゃんとなっていて。
 そしてふたりのあいだに生まれた旭(あきら)が赤ん坊のとき、すやすや眠る旭の足の爪を美佐子が切っているところをヤスが見かけて、「そういうことだったのか」 と合点し感動にむせぶ。
 (ネタバレしますよ)そののち、美佐子が死んだあとに、のびきった自分の足の爪をヤスは見て、妻のいないことをあらためて実感しさめざめと泣いてしまう。 ここで自分も泣けてしまいました。 つまり丁寧なエピソードのたたみかけが、このシーンの 「視聴者を泣かせる力」 に影響を与えている、と思うんですよ。

 ほかにも、アパートの階段をのぼる時のヤスの足音だとか(このエピは前のドラマの時もあった気がする)、ちゃぶ台いっぱいに置かれた料理とか(これも前のドラマであったかな)、美佐子が夜なべをしていた内職のボールとか、子煩悩のヤスが事あるごとに手にしているカメラとか、まあ記憶違いもございましょうが、ひとつひとつのエピソードが、前作と違ってだいぶ練り込んであった気がするのです。

 それと、前作では西田尚美サンが演じていた美佐子。
 西田サンもかなりよかったのですが、常盤貴子サンも、さすがにうまかった。
 これは美佐子の話を丁寧に描ける分、やはり常盤サンのほうが恵まれていた感じがします。 長尺の強みだと思いますね。

 あとは、んー、ヤス行きつけの小料理屋の女将である、たえ子役の違いもあったかもしれません。
 前は小泉今日子サンで、今回は春日局、じゃなかった麻生祐未サン。
 キョンキョンもよかったけれど、麻生サンのほうがアレかな~(アレ)。

 そして少々うなったのは、旭の幼少時を演じた子役の男の子。

 五十嵐陽向クンというらしいですね。

 かなり年端いってない印象ですが、いやいや、最近よく出来た子役のかたはホントに多うございますが(なんか敬語)、すごいよなカレ。
 まあ前のドラマの子役のかたもよかった記憶がございますが。

 そう、その都度言ってますけど、前のドラマもかなりよかったんですよ。 確かに。

 でも今回は、長尺で余裕を持って作られている分、感情移入がとても容易になっている。 その違いが決定的にあって。

 で、私もついつい泣けてしまうのです。

 特にヤスが美佐子の葬儀のあとに、ひとりぽっちアパートに帰って来た時は、ほとんどボロボロ泣いてました。
 美佐子の使っていたスリッパ、エプロン、そして内職の材料…。
 やはり時間をかけてふたりの暮らしを見てきたから、今回はかなりやられました。

 ただ、これを現代編の旭(佐藤健クン)が回想していくわけですが、この現代編って、いったいいつなのかな、という気はします。
 第1回途中で 「仮面ライダーはブラックの放送後やってないんですよ」 みたいな話があって、たぶん平成ライダーの放送が始まった時期にさしかかっていない。 蛇足ですけど佐藤健クンは仮面ライダー電王でして、仮面ライダーネタがあっちこっちに転がってましたよね、今回(笑)。
 1972年に旭が生まれているから、社会人となると少なくとも1994年以降、ということになるのかな。

 旭は美佐子がやっていた内職のおもちゃのボールにヒントを得て、佐藤クンは自分の勤めている出版社の学習雑誌(小学館の 「小学一年生」 関係がモチーフでしょう)につける付録のアイディアを思いつきます。
 それを企画会議でおエライさんたちが面白がって子供の遊び場みたいになってしまう。
 ここらへんの演出はちょっとわざとらしかった気はするのですが、まあそれはそれ。

 脚本は 「JIN-仁-」 を手がけた、森下佳子サン。
 「前に泣けなかったからな~」 という私の危惧は、いい形で裏切られそうです。

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2013年1月13日 (日)

「信長のシェフ」 第1回 ハードルの置きかたで評価も変わるドラマ

 テレビ朝日の午後11時台ドラマ。 深夜枠、ということになるのでしょうか。 原作は 「週刊漫画TIMES」 のマンガです。

 平成のシェフが戦国時代にタイムスリップし、織田信長お付きの料理人になる、という、「JIN-仁-」 を容易に思い出させる設定です。 あっちは医者でしたけど。

 しかし第1回を見たところ、製作側の意気込みとしては、稀代の名作 「JIN」 の牙城に迫ろう、としているようには到底思えませんでした(笑)。
 それでも、深夜枠としては、異例の意気込みが感じられることもまた確かです。
 つまり、見る側のハードルの置きかたで、いかような評価も出来てしまうドラマだと思われるのです。

 その意気込みをいちばん感じるのは、まず大道具小道具。
 前クールの 「大奥」 みたいに、まあ何かしらと制作コスト削減の方策もとっていると思われるのですが、そもそも時代劇というのは、セットもさることながら、俳優たちもそれなりの格好をしなければならないものです。 時代劇をやろうって時点で、テレ朝の最近のイケイケぶりが見て取れる、というか。
 まあ北大路版 「子連れ狼」 とか結構優れた時代劇をやっていたので、そこはお手のものなのかな。

 そしてその意気込みを次に感じるのは、キャストが思いのほか豪華だ、ということです。
 それでも大河並み、というわけには参りませんよ。 どことなくチープ感が漂うような微妙な豪華さです(チープだなんて失礼いたします)。
 主役がKis-My-Ft2(これなんて読むの?)の玉森裕太クン、織田信長に及川光博サン、秀吉にガレッジセールのゴリサン、明智光秀に稲垣吾郎チャン、「平清盛」 での演技の記憶もまだ新しい宇梶剛士サン、男のフリをしている志田未来チャン、きたろうサン、香椎由宇サン、などなど。
 うーん、深夜枠にしては豪華…。

 そして肝心の内容についてですが。

 「JIN」 とシチュエーション的にはまったく同じなんですが、冒頭からいきなりタイムスリップさせてる、という荒業(笑)。 第1種戦闘状態になっている(笑)ところにいきなりですから、「JIN」 より数段危険、と申しますか(笑)。 よく言えばスピード感がある、悪く言えばはしょってる(笑)。

 で、玉森クンが自分のことだけ記憶喪失になっている、というのがまた 「JIN」 とは違います。 ただ自分のことは覚えていないのですが、南方先生よりも歴史についてはよくお勉強されていたみたいで(笑)、ウナギを腹さばきするのは江戸時代からとか、歴史のほかにも結構知識豊富というか(笑)。
 しかもダニエル・カールサン演じるルイス・フロイスの出身ポルトガルの戦国時代の料理もよくご存知で。
 蛇足ながら、ダニエル・カールサンはすごく暗~いしゃべり方をしていたので、訛りは分かりませんでした(笑)。

 でまあ、志田未来チャンにかくまってもらった玉森クンは、そこにひとり逃げてきた秀吉(ゴリサン)にうまいモンを食わせて信長のシェフに取り立てられるという、スッゲー簡単に言うとそういう話で(略しすぎだっ)。

 その過程で、玉森クン演じる主人公は、信長の料理番であるきたろうサンとの料理対決の末勝ったりするんですが、それできたろうサンを斬ろうとする信長の前に立ちはだかったりします。
 これって勇敢なのか人をホントに斬ると思ってないのか自暴自棄なのか。
 そこらへんの描写とか、ところどころとても甘い部分が見られるのですが、ひとつひとつのエピソードが結構面白い。 原作の質がいいんでしょうね。 「週刊漫画TIMES」 を見くびってたな。

 ただ素材の良さが分かるだけに、「なんかもっと真面目に作ったらもっとすごいことになるのにな、惜しいな」 という感じも、同時にとてもしてくるのです。

 信長のキャラに関しては、及川サンの演技はとても抑えられた静かなもので、あまり狂気を感じない。 でもそれはそれでいいと思います。

 まあ宇梶サンの大河仕込みの演技を見てしまうと、ほかのかたの演技はアレかなとは思いますよ、失礼ながら。 稲垣クンなんかは大河には出れないだろうな、とか。 志田未来チャンは大河出演の素質があるだろうな、とか。 及川サンもOKだろうな、とか。

 まあともかく。
 まだらまだらでいいところもあればよくないところもある、でも全体的に言うととても頑張っている、というのが見えるドラマだな、と感じます。

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2013年1月12日 (土)

「最高の離婚」 第1回 3.11を 「あんなこと」 という不謹慎

 「最高の離婚」 の第1回を見て率直に感想を一言で述べると、「なにをやろうとしてるのかな?」 ということです。

 このドラマの脚本家の坂元裕二サンは、このところの傑作続きで私も過大に期待をしすぎている、という気持ちもありまして。
 で、少し頭をクールダウンしながら見始めたのですが、クールダウンすると、とにかくしょっぱなから主人公の瑛太クンのしゃべりがウザい(笑)。

 亭主がどこぞで女房の愚痴を言いまくる、というパターンは、なんか古いアメリカ映画だかで見たような、ずいぶんとオーソドックスな手法です。 ワタシ的には、田村正和サンの 「カミさんの悪口」 とか。
 おそらくそんなパターン化した演出を狙っているのでしょうが、中年男が女房の悪口を吹聴するなまだしも、いい若いモンがですよ、べらべら自分の家庭の恥をしゃべるのはいかにもアンリアル。
 しかもそれを聞く瑛太クン行きつけの歯科医たちはみんなあしらいながら煙たがってる。
 かなり周囲に対して無神経でないと、こんなことはできません。

 この一連の作業を、瑛太クンはあくまでカリカチュアライズして演じている。
 つまりこのドラマは、コメディである。
 見ている側は、そういう認識をします。 まああらかじめコメディドラマ、という情報がある人は最初からそう見てますが。

 瑛太クンがボロクソにけなしている、女房役の尾野真千子サンに目を向けると。
 確かにズボラを絵に描いたような人格で、なにしろ家庭においては、まったくのやる気ゼロ。 いつもスッピン。 炊事洗濯まるで駄目。 一言文句を言ったらば。 プイ!と出たきり、ハイ!それま~でぇ~よ~。 フザケヤガッテフザケヤガッテフザケヤガッテコノヤローっ! …あ、違った(相変わらずひつこい)。 
 これはますますコメディだよなあ、という気になってくる。

 でも、見進めていくと、尾野サンは瑛太クンが言うほどどーしょーもない嫁ではない、というのが見えてきて、「これってホントにコメディなのかな?」 という気になってきます。

 瑛太クンは宮城銘菓の 「萩の月」 を尾野サンとその仲間たちに食われてしまったことについにブチ切れ、ダウンロードで入手した離婚届に書きこむよう尾野サンに強要するのですが、ズボラな尾野サンは何度も書き間違え、ついにこの話はうやむやのうちに終わってしまう。
 これは尾野サンがズボラを装って、わざとこうしているのではなかろうか。
 つまりこう見えて、尾野サンはだいぶいじらしい性格を持っている。

 彼女が働いている、瑛太クンの実家のクリーニング屋でも、彼女はかなり明るくて実に周囲に溶け込んでいます。
 クリーニング屋で一緒で働くオバサンに(瑛太クンのお母さんのような気もするけど、名前で呼び合ってるし未確認。 スミマセン)、「アンタそんなんじゃ三行半つきつけられるよ!」 と言われ、「『オマエ!』『バカー!』『出ていけー!』 みたいな?」 と返す当意即妙のボケも持ってるし(笑)。

 瑛太クンの祖母の八千草薫サンも、彼女のアバウトさが気に入っている模様。
 この八千草サン、孫の瑛太クンに対して、結構的確な性格分析をしています。
 「この孫は理屈っぽくて面倒くさくて、絶対犯罪者になると思ってた」。 物事に細かすぎてこだわりすぎる、という孫の危うさを見抜いている。
 八千草サンは安産祈願のお守りを尾野サンに手渡して、ひ孫の顔を見ることを楽しみにしている、と言います。 尾野サンはクリーニング屋とかおばあちゃんとか、こういう環境に、どこか安住したがっている。 彼女はズボラでだいぶ瑛太クンの評価を下げてるけれど、彼女なりの存在意義は備えている、と感じるのです。 ただそれが、瑛太クンには見えてないだけ、みたいな。

 つまりそれだけのウラを読みとれる演出がされており、尾野サンはその演技力をいかんなく発揮している、ということになるでしょうか。
 こうした分析をドラマに対してしだすと、どうもこのドラマが、ただ単に笑わせたがってるだけ、とは思えなくなってくる。 

 瑛太クンはやったことのない野球につきあってギックリ腰になってしまい(ここから個人的に瑛太クンへのシンパシー度が急上昇しましたが、それはそれとして)、昔付き合っていた真木よう子サンに偶然出会い、彼女にマッサージを受けながらも再び恋をしてしまいます。

 いっぽうクリーニング屋で 「アンタも化粧したほうがいい」 と言われた尾野サンは、なんだかんだ言いながらも化粧をして瑛太クンに見せつけようとする。 このくだりもなんともいじらしい。

 基本的に瑛太クンは女房に100パー幻滅してるから顔を見ようとしません。
 月が大きいから一緒に見よう、と誘っても、そんなのは目の錯覚だという現実的な瑛太クンは相手にしようともせず、網戸もちゃんと閉めろと細かいことのほうにばかりチェックが行く。
 そしてふたりとも雑誌を見ながらの食事。
 飼っている猫がテーブルに上がってくるのを互いにそのつど下におろしながら、DVDの延滞のことで口げんかになってくる。
 そこで瑛太クンはあらためて尾野サンの顔をちゃんと見るのですが、普段スッピンの彼女が化粧をしていることに気づこうともしない。
 尾野サンは 「(DVDを)返す!」 といってテーブルを立ち、洗面所で化粧を荒々しく落として、寒風の吹く街に飛び出す。

 ここ、何気なく見てしまうのですが、かなり緻密な演出がなされている気がします。
 猫が何度もテーブルに乗ったりするのに至っては、「これまで演出か?」 という感じなのですが。

 
 つまり、笑わせようとしてないんですよ、このコメディドラマ。

 それがいちばん分かるのは、瑛太クンが真木よう子サンを誘って入ったお店での会話。

 その時ちょっとばかり大きめの地震が起きるのですが、ここで瑛太クンから、この最悪の女房と出会ったそもそものきっかけが、2年前の東日本大震災であったことが明かされるのです。

 当日、交通機関マヒで、大勢の帰宅難民と共に甲州街道を歩いていた瑛太クンは、たまたま顔見知りの尾野サンと出会う。
 二人は意気投合し、無邪気に笑い合いながら甲州街道を歩いていきます。
 そしてそのまま一緒に尾野サンの部屋に帰宅。 二人は意識してテレビなど外界の情報を遮断したまま、一夜を過ごすことになる…。

 この打ち明け話のとき、瑛太クンは数回、「あんなこと」 がなければ、というような話をします。 「あんな大震災など起こらなければ、あんな最悪の女を女房に持つことはなかった」、というわけです。

 この発言は、かなり誤解を招きかねないセリフであります。
 下手をすると、被災者のかたがた、ご家族を亡くされたかたがたの神経を、かなり逆なでする発言であります。

 でも。

 瑛太クンのこの発言は、直接の被災者ではない我々が、もうすでに至っている心境を端的に表わしているのではないか。
 私にはそう思えてならないのです。
 要するに、こうした発言は、ツイッターとかブログとか、公にはけっしてしてはならない発言ですよ。
 だからこれが 「公器」 であるテレビドラマで発言されることを、「不謹慎である」、と非難すべき向きが現れるのも当然のことと思う。
 でも私たちは、もうどこかで、「あの日」 の出来事を、自分の意識から知らぬ間に遠ざけようとしてはいないか。

 瑛太クンがこの日に知り合った尾野サンと結婚までしてしまったのは、つまりこの日の特殊な空気、パニックのなかでの奇妙な連帯感、がそうさせてしまった。 少なくとも彼はそう考えている。
 これって、「吊り橋理論」 みたいな、「既存の考え方」 に、自分を簡単にはめてしまっている、とも言えないだろうか。

 つまり、「あの日」 をもう、特殊な日として分離したがってるんですよ、彼の中では。
 それってでも、私たちにも言えることではないのか。
 確かにあの震災や被災地のことを四六時中考えたりするのはしんどい。
 でも考えることは必要だ。
 でも、その痛みから逃げようとするのも、やはり人間の営みだとも、思われてくるのです。

 このドラマで、30キロの道のりを帰ろうとするふたりの会話は、あくまで明るい。
 私も全く動かない車の中で、帰宅難民の人たちを見ましたが、どうだったろう、こんなにはしゃいでいる人なんかいなかった気もしますよ。
 でも、ふたりははしゃがずにはいられなかった。
 そして帰宅してからも、テレビやネット、情報などを見る気に一切ならなかった。
 「その日」 から、意識してふたりは、「その日」 を遠ざけようとしているのです。

 こういうことを考えさせるドラマというのは、やはりコメディでは片付けられない、と思うのですが、でもいっぽうで、私たちは、「笑う」 ことで、こうした痛みを忘れようとするのも、また事実なのだと思う。

 だからこのドラマは、「無理やりコメディにしなければならない宿命」 みたいなものに突き動かされて、コメディドラマとして成立している。

 う~ん…。

 難しいかな。 私の言うこと。

 こうした 「ねじくれた理論」 というのは、結局なにを言おうとしているのか分からない、という副作用に私を陥れます。
 ただ簡単に、「コメディドラマだろ」 と思いながら見てしまっても、出来の悪いコメディだな、と感じてしまう。
 でもそれが、確信犯だとしたら。

 坂元サン、またややこしいことをしてくれたもんです。

 そしてある日、うやむやなまま放置されていた、とばかり瑛太クンが思っていた離婚届は、突然尾野サンによって区役所に提出されてしまいます。
 そして行きつけ?のソバ屋で、瑛太クンと同じように、亭主の愚痴を言いまくる尾野サン。
 瑛太クンが歯医者でやっていたこととまったく同じことを、尾野サンもやっていたのです。

 瑛太クンはあれほど女房の悪口を言っていたのに、帰ってきて家の中がひっそりしていることに、ちょっと不安がります。 つまりあんなに嫌がっている女房がいなくなるのが、怖いのです。
 遅れて帰ってきた尾野サンに、瑛太クンはほっとしてまた嫌味モードになるのですが、彼女が用意したのは、妻から夫への三行半。

 この第1回ラストでの立場逆転は、このドラマがどこに向かおうとしているのか、という私の気持ちをさらに混乱させました。

 いずれにせよ、このコメディドラマは、人を笑わせようとしていない。
 瑛太クンの過剰すぎる弁舌も、あれは目くらましの一種だ。

 瑛太クンが気になっていた真木よう子サンも、どうもプレーボーイである綾野剛サンが、実はダンナだった。
 ここから動いていくドラマもあるのでしょうが、いったい坂元サンが何をどうしたいのかが、第1回を見ている限りよく分からない。

 なんだかワケの分からんヘンなドラマが、始まったものです(けなしてはいないので念のため)。

 そうそう、蛇足のようですが。

 エンディング、主役級4人が桑っちょ(サザンの桑田サン)の曲に合わせて踊るダンスは結構面白い。 特に真木よう子サンは前クール 「遅咲きのヒマワリ」 でも、秀逸なタイトルクレジットでした。 「いいのは主題歌の部分だけ」 なんて陰口を叩かれないことを願います。

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2013年1月 9日 (水)

「サキ」 第1回 「美しい隣人」 との関係…?

 2年前、あの東日本大震災の余震のため、最終回の放送がワヤになり、録画していたものが途中でブッツリと切れたまま、結局ラストがどうなったのか分からずじまいだった、ミステリーサスペンスドラマ、「美しい隣人」。

 その後再放送やったのかもしれないけど興味もなく…。
 つまり告白してしまえば、ちょっとラストに至るまで、そんなにのめり込んで見ていたわけではなかったドラマでした。

 で、その続編 「みたい」 なドラマが始まりまして。

 「みたい」 というのは、主演の仲間由紀恵サンが前作と同じ名前の 「サキ」 という女性を演じ、そのキャラも前作を踏襲している、けれども、前は名前が 「マイヤー沙希」 だったけど今回は 「網浜サキ」。 しかも前はやってなかった看護婦だし今回。 そしてこの 「サキ」 以外に前作と同じ人物が一切登場しない。

 だからこの話が続編なのか前の話より以前の話なのかが、ちょっと判然としない、というか。 前のドラマのラストを知らないから、余計に分からない。

 ただラストが 「期待はずれ」 気味だった、という情報は、コメントをくださった皆様からいただいていたので、別に前のドラマのラストを知らなくても、そんなに支障はないかな、という気はします。

 だもんで、「つまんなかったら見ない」 という腹づもりで今回は見出したのですが、見ていてよみがえりました、前作の、「なんだかムズムズしてくる感じ」 が(笑)。

 つまり、イライラしてくるんですよ、仲間由紀恵サンの演技に(笑)。 いえ、ヘタというんじゃありません。 「なに考えてんだこの女!」 というイライラです(笑)。

 それでも見るのを中断しなかったのは、これはオトコの心理で申しますが、前作よりも仲間サンの醸し出すフェロモンが、強烈になっている、ということが原因です。

 前作の仲間サンは、どちらかというと不気味さを前面に出して演技していた気がするのですが、今回の仲間サンは、セックスアピールを前面に出している気がする。
 これは今回の彼女のターゲットが、女性(檀れいサン)から男性に変わっていることからきている、と思われます。

 男性、と書きましたが、第1回を見る限りでは、彼女が陥れようとしている男というのが、今回特定できない。 いまのところ3人、もしくは4人候補者がいます。 これがみんな男です。
 そう、前作 「美しい隣人」 から、彼女の行動パターンというのは、「復讐」 が色濃く絡んでいるんですよ、絶えず。
 そして彼女は、人の心に巣食う闇の部分をそそのかしながら自分の持つ闇に引きずり込もう、という性癖がある。

 で、まず彼女が今回近づいたのは、彼女が赤ん坊の時捨てられたためにこれまで会うことのなかった、自分の実の弟である(とされる)三浦翔平クン。
 ドラマを見ているときは気付かなかったのだけれど(だって前作忘れてるもん)、この三浦翔平クンの役名が、「新田隼人」 といって。 この 「隼人」 というのは、前作で仲間由紀恵サン(マイヤー沙希)の溺死した息子の名前と一緒なのです。
 ここらへん前作とどうつながるのか、というのはちょっと気になります。
 その弟に、優しい姉のフリをして近づいといて、「弟なんかいなければよかったのに」 などと、自分のことなのか何なのか分からないような言葉を、サキはほかの場所で話しています。

 そしてサキが、その三浦翔平クンの紹介を待たずにさっさとストーカーの相談に行ってしまった先の弁護士が、萩原聖人サン。 これが彼女のターゲットの第2候補。 第1回を見る限り、彼女はお世話になっていながら、理不尽なミもフタもない心理分析で、萩原サンを切り刻んでいましたが。

 で、第3の候補者が、サキの勤める病院の理事長をしている、高嶋政伸サン。 看護師長に 「理事長は愛妻家ですもんね」 とか、エレー皮肉言われてましたけど(爆)。 いまのところサキとの接点がいちばん希薄なんですが、可能性がないほど怪しいと言いますし。 これからですね。

 そしてちょっと考えにくいのは、サキがワインを求めて入った店の店員。 これはないか(笑)。

 それで、いきなり第1回から、サキの毒牙にかかったと思われるのが、前述した、サキを追いかけていたストーカー(姜暢雄サン)。 サキは 「ストーカーされて困っている」 などと三浦翔平クンや萩原聖人サンに言っていたのに、ふたりきりで会ったら 「好き」 とかなんとかまるきり相思相愛モードで抱き合ったりして、どこでどうなったのか知らないけれども、その後彼は自殺してしまうんですよ。 これはサキの仕業なのか?

 これらの男どもに対して、サキはフェロモン出しまくりなんですよ(笑)。 これじゃ男としては 「見るのやめた」 というわけにはいかなくなりますね(はぁぁ…)。 今までこんなに色っぽくなかったぞ、仲間サン(笑)。
 正直なところ、「ごくせん」 とか 「テンペスト」 とか 「ゴーストママ」 なんかよりも、仲間サンはこういうミステリアスな役がいちばん合ってる、と私は思うのですが、ここに今までどうも足りないと思っていたセクシーさが加わったから、こりゃもうすごいことになる、と申しますか(笑)。

 まあ謎なんかどーでもいいんですが(爆)、とりあえず美人を見て癒されたいので次回も見てみます(動機が不純だぁ~~~っ)。

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2013年1月 7日 (月)

「父と子 市川猿翁・香川照之」 下世話な精神では語れない親子関係

 週刊誌レベルではよく目にする、市川猿翁サンと香川照之サン(市川中車サン)の関係。

 その記事のされ方の傾向を見ると、猿翁サンが猿之助時代に、妻の浜木綿子サンと息子の香川照之サンを捨てた経緯から、猿翁サンは妻や子を 「嫌っている」、妻と子は自分たちを捨てた父親を 「恨んでいる」。

 今回のこのNHKスペシャルは、「そんな下世話な気持ちでは言い尽くせないことがあるんだよ、人の世って」、と言いたくなるような内容でした。

 確かに猿翁サンが妻子を捨てた原因である、藤間紫サンのことに、この番組は一切言及していない。 その点ではかなり片手落ちの、都合のいい話であるかもしれない。

 でも、そうせざるを得ない宿業の中で我々は生きているし、そもそも家族って、構成員ひとりひとりの、そうしたドロドロの部分を、ぶつかり合いながらも共有して一緒に暮らしたり、許せなくて離れたりしているものなんじゃないのかな、と思うのです。

 それを見下すようにして面白がるのも、また人の世の常なんでしょうけど。

 下世話な部分では語りきれない、まあ週刊誌的に見れば 「綺麗事」 的ではあるが、猿翁サンが妻子を捨てた理由。
 それは、そもそも初代市川猿之助の時代にさかのぼる話になってしまうのです。
 初代猿之助は、市川一門から独立した経緯を持っており、歌舞伎界であまり後ろ盾がない。 さらに三代目猿之助となった猿翁サンは、猿之助を襲名したと同時に、初代と二代目、つまり祖父と父を亡くしてしまう。 さらに後ろ盾がない状況になってしまったわけです。

 だからほかの梨園のようにきちんと妻を持って子供を産んで、その子供をかなり小さい頃から歌舞伎俳優として育てる、という当たり前のことが、猿翁サンには出来なくなってしまった。
 役者も子育ても、という二足のわらじをはくほど器用ではなかったし、役者を極めたい、という思いのほうを猿翁サンはとってしまった、と。
 まあ確かに、藤間サンとつきあう余裕はあったのかよ、とツッコミを入れたくなる話ではあります。

 いずれにせよこのことから香川照之サンの精神的な牢獄状態が始まる。 
 しかし彼の気持ちの中では、父親にこういうことをされても、なおまだ、父親を求める気持ちをせき止めることが出来ない。 そして歌舞伎俳優としての道を、どこかで捨てることが出来ない。
 香川サンが俳優として立ち、実力派と認識されるまでに至っているのは、おそらく彼のなかに、フツーの人以上の 「演じたい」 という欲求があるからだろう、と思うのです。

 彼は若かりし頃に公演中の父親のもとを訪ねるのですが、きっぱりと実に生々しい決別宣言を受ける。
 それが、猿翁サンが7年前?に脳こうそくを患ったこと、そして藤間紫サンが亡くなったことで、状況が変わってきます。

 香川照之サンが父親に急接近し、今回異例中の異例として、47歳で歌舞伎界入りしたことは、そんな彼の 「父親を求める気持ち」「歌舞伎を演じたいという気持ち」 が結実したものだ、と感じます。 特に 「歌舞伎を演じたいという気持ち」 というのは、今回の番組で本人から説明がなされていましたが、彼の息子から 「どうしてパパは歌舞伎をやらないの?」 と言われたことが大きかったらしい。 そりゃ、未経験の歌舞伎を47歳で始めよう、っていうのは、無謀ですよ。 47歳の私が言うんだから間違いがない(説得力なし)。 ジョン・レノンだって、息子から 「パパはビートルズだったの?」 と言われなきゃ、活動再開しなかったし(なんの話だ)。

 でも、彼の息子(このたび一緒に市川團子を襲名)にしても、あの幼さで父である香川サンにそういうことを言う、というのは、どこかでそういうことを言いたくなる素地があるんじゃないでしょうか。 もしかすると父親の気持ちを、息子は敏感に感じ取っていたのかもしれない。 番組では、團子クンは猿翁サンに演技指導してもらうなど、もうやる気満々であり。 團子クンも歌舞伎をやりたい、という気持ちが本性的に備わっているように、私には見えました。

 はた目から見れば、猿翁サンが体の自由の効かないことをいいことに、押し掛け女房みたいな感じで、香川照之サンは自分の歌舞伎界入りを認めさせ、まるで父親に復讐するみたいに言うことを聞かせようとしているのかもしれない。

 でも、父親に積年の思いをぶつける、というのは、人として当然の行動なんじゃないのかな。

 そしてそれが許される状況になったことを、香川照之サンは有り難い、と感じている。
 脳こうそくの父親から稽古をつけてもらっても、やはり通訳がいないとダメだし、まともな所作とかが伝わるはずもない。 でも息子は、父親とそういう関係を取り戻したことを、とても感謝している。 息子は自由の利かない父親の手を取り、何度も 「ありがとうございます」 と言い、感極まって涙する。
 週刊誌的な下世話なものの見方では、ここんところの人情の機微を察知し解説することはできない、と私は思うのです。

 積年の思いがあるからだと思うのですが、私は市川中車という歌舞伎役者の演技をつらつら見ていると、今はいかにも気合が入りすぎているような印象を持ちます。 でも彼が、表面的な歌舞伎の基本だけではない、歌舞伎という文化における、演技の中に潜む何かを探し当てたとき、まことの歌舞伎役者に変貌する可能性を、感じたりもするのです。

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「八重の桜」 第1回 どこに話の重点を持たせるか

 同志社大学創始者新島襄の妻、八重の人生を描く今年の大河ドラマ。
 八重を綾瀬はるかサン、新島襄をオダギリジョーサンが演じます。

 物語の序盤を彩るのは、私の故郷福島であります。
 ただまあ私のお里とは少し地域が違うし、御武家の話し言葉なのでところどころ訛りに違和感はございます。
 私の田舎では 「~してくれ」 というのをあまり 「くなんしょ」 とは言わなくて、「くんちぇ」 と言ったりするんですが、それでもやはり(表面的ではございますが)懐かしいお国言葉が飛び交う画面は、それだけでも面映く、心があったかくなってくるものです。
 表面的、とは申しましたが、やはり福島出身の西田敏行サン(西郷頼母役)の訛りはいちばんきちんとしておりました。 ほかにも秋吉久美子サンとか、佐藤B作サンとか、福島ゆかりのかたがたがご出演の様子でした。

 そして去年の 「平清盛」 では、その語り口の難解さがひとつの特徴であったのですが、今年の大河は、第1回を見る限りでは、かなり平易な語り口になっていた気がします。

 ただし気になるのは、物語のどこに重点が置かれるか。

 この物語、のっけからアメリカの南北戦争の様子から活写が始まり、意表を突くのです。 驚きました。
 私は見ていて、アメリカの政治が内戦状態によって深まった混迷を国外に向けようとして日本へ黒船を出した、ということから語り始めるのかよ、と思ったのですが、脚本家の山本むつみサンの意図というのは、日本における新政府側と旧幕府側との戦いを、「内戦」 という括り方で、アメリカの南北戦争と同じにさせることにあったようです。

 そして第1回、面映くあったかい気持ちが醒めて物語が急に新鮮味を失ったように思えたのは、八重の兄である山本覚馬(西島秀俊サン)が江戸に登り、佐久間象山(奥田瑛二サン)の塾に入門してから、のちに八重の夫となる川崎尚之助(長谷川博己サン)を連れ立って黒船を見に行く部分。

 なんか 「龍馬伝」 そのままで、「前見たよ」 と言いたくなった(笑)。 勝海舟は前回の吉田松陰だし(生瀬勝久サン)キャラが一緒(笑)。 龍馬は品川沖まで黒船を見に行ったけど、覚馬と同じように 「あれに乗ろう」 と言い出してた記憶がある(笑)。 まだ記憶が新しいんですよ、「龍馬伝」。 ホント、福山竜馬がひょっこり出てきそうだった(笑)。
 まあ画面のタッチがそもそもプログレッシヴカメラで 「龍馬伝」 と一緒だし(まあ去年もプログレでしたけど)。 違ってたのは土煙がもうもうとしてなかったことか(笑)。

 
 そして黒船が来たことで幕閣があたふたするところで、井伊直弼を榎木孝明サン、強硬派の徳川斉昭を伊吹吾朗サンなど大物が演じているのを見ると、またもや水戸藩のこととか桜田門外のこととかしつこくやってしまうのかな~、などと思われてくる。

 さらに八重の友人である高木時尾が、もうしょっぱなから八重にべったりなんですが(笑)、彼女がのちに結婚することとなるのが、新選組の斎藤一(これがその~、数年前の大河 「新選組!」 でオダギリジョーサンが演じてまして…笑)。 つまり松平容保公(綾野剛サン)が京都所司代になるから当たり前とも言えるけれど、新選組のことまでこの大河で語る必要性も出てくることになる。

 つまり私が気になるのは、いったいこの話は、幕末のことをしつこくやりたいのか、それとも戦いに敗れたのちの八重の人生を事細かにやりたいのか、という点なのです。

 確かに物語としては、明治に入ってからよりも幕末の混乱期をやったほうが面白いのですが、なんせ大河ドラマで明治以降がオマケみたいに語られることに、いつも私は物足りない思いをしています。 戦国時代も同様で、関ヶ原以降はいつもオマケみたいでしょ。

 でも、このドラマ自体が、福島、そして東北の復興を意図して制作された、というのだから、負けたあとにどのように立ち直るか、のほうに重点がおかれることと、私は期待します。

 そんな不安を先に書いてしまいましたが…。

 いや~、さすがに大河ドラマでした。 スケール大きくて。

 その、しょっぱなの南北戦争からして、話がデカすぎで(笑)。

 どんだけ金使ってんだ?みたいな。

 そして綾瀬はるかサンが銃をぶっ放しまくる(ランボーかよ)鶴ヶ城の攻防。 城を真上から俯瞰して撮っていく映像は、たとえそれがCGであろうと、見ている者をおおっ、という気持ちにさせます。 まあ去年もいきなり羅生門の巨大セットから始まって、海賊船とか、最初のほうで予算使い果たした、つー感じでしたけど(ハハ…)。

 また出てくる俳優さんもすごい人ばかりで。 風吹ジュンサン、松重豊サン、中村獅童サン、山本圭サン、反町隆史サン…。 リッチな気分に浸れます。
 私が特に驚いたのは、中村梅之助サン。
 大変失礼ながら、「この人まだご存命だったんだ!」 と思ってしまいました。 いや誠に面目ない。 お出になったのはものの数分?1分程度だった気がいたしますが。 容保の義父、容敬を演じていました。 実にカクシャクとしていて。 もっと見たいです。 大村益次郎でもう一回…って無理か(笑)(1977年大河 「花神」 の主役でした)。

 そして第1回のサブタイトルである、「ならぬことはならぬ」。

 「ゲゲゲの女房」 でも、物語のキモとなる言葉を探り当て、それを分かりやすく見ている側に咀嚼してくれていた山本むつみサンが、今回見つけ出した、この物語全体のキーワードのような気がいたします。

 これは少女期の八重(鈴木梨央チャン)に父権八(松重豊サン)が叱りつけたように、「ダメなものはダメ」 という、分からずやな親の言い訳ではない。 会津藩の藩士の子たちが学んだ日新館の描写にもありましたが、この思想の底には儒教の教えが流れている。

 追鳥狩りの見物の際に木から落ちてしまった八重。 そのせいで西郷頼母の馬が驚いてしまい一番鳥を逃がしてしまいます。 それを見た仲間の男の子たちはいったん 「ヤベエ」 と見捨ててその場を去るのですが、八重が頼母に叱責されているところを見ると、戻ってきて正直に自分たちも同罪だ、と名乗り出る。

 そしてほかにも、日新館での槍を使った訓練で、いったん 「参りました」 と降参した相手を、さらに追い打ちをかける、そのやり方。 主君を守るための決意をさらに踏み固めるかのような教練方法です。

 こうした会津藩の 「ならぬものはならぬ」 という教えが、徳川への忠誠をあくまで頑固に押し通す基盤になっている。 まあ、主に忠実である、という長所を持ちながらも、いっぽうでは頑迷に陥りやすい、という短所も兼ね備えている、とも思うのですが。 
 「卑怯なことをしてはならない」。 つまり、「卑怯」 という手段を拒ませる素地があったからこそ、会津藩の人々は、戊辰戦争に敗れたのち、明治維新以降も、その清廉潔白さを買われて、各地で活躍の場を切り拓いていったような気がするのです。

 追鳥狩りの失敗で、蔵に入れられた八重。
 彼女は覚馬の持ってきた握り飯を見て涙をポロっと流すのですが、叱られてしょげてるわけではない。
 彼女は自分の失敗を許してくれた容保の心の広さに打たれて、忠誠心を沸き立たせているのです。
 ここらへんの八重の心の動きが、会津藩の教育の賜物であるようにも感じる。
 主従の関係とか、師弟の関係。
 これは現代では、かなりないがしろにされている概念のように思います。 尊敬できる目上の人がいない、ということでもあるんですけどね。 だから現代人には理解されにくいものがある気がする。

 そもそも八重に鉄砲を持たせようとしたその最初の動機は、カッコイイ兄に対するあこがれとかだったかもしれませんが、その動機をしっかりと踏み固めたのは、「主君に対する報恩」 だったのではないでしょうか。 「恩」 を感じる、「意気」 に感じる、なんてことも、現代ではめったにないけれど。

 それにしてもこのキジ狩りの様子は、戦国時代を経て、200年以上続いた平安な世においての、武士たちが自分たちの存在意義を内外に知らしめるための、一大イベントであった、と言っていいでしょう。
 ロケを使ったシーンとしてもとても大がかりで、かなり見ごたえがありました。
 そして、去年の大河 「平清盛」 で、清盛が目指した武士の世の、まさに終着点に、このドラマは位置しているのだなあ、という感慨も、私は同時に抱いたのです。

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2013年1月 4日 (金)

「SHERLOCK2」 愛されたい、でもウザい

 コナン・ドイル原作の、有名なシャーロック・ホームズの物語を現代風にアレンジしてスピーディに見せる、このイギリスのドラマ。 正月3が日に、NHKBSで再放送されていました。

 第2シーズンもその流れをくんで面白さは失速していないのですが、はっきり言えばなんなのかちょっと見ただけでは分からない不親切さ、というものもある。 ホームズ本人がオタク、という設定であるように、全体がマニアックなシャーロッキアンを相手に進行しているような感覚。

 つまり、だいたいの話はなんとなく頭に入るのだけれど、いろんなところに原作の元ネタが潜んでいるし、頭を回転されて先読みを強要されるし、私みたいなおバカを相手にしていない感じ。
 それに、怒涛のようなキーワード攻撃に埋もれて、細かいつじつまを考えると、なんとなくごまかされているような、騙されているような感覚になってくるのです。
 そしてそれが、製作者側のトリックに、密接に結びついている側面がある。

 (ここから中途半端なネタバレ含みます…)物語は今回、宿敵モリアーティの企みに負けてホームズが自殺をしてしまう、けれども生きていた、という、第1シーズンに続いて、「ンなんじゃそりゃああ~~っ!」 とジーパン刑事なみに吠えたくなるようなラストを迎えます。
 これが、思い返すと、なんかよく分からんのですよ。

 まずホームズが自殺を決行する直前の、モリアーティとのやり取りが、ところどころ意味不明(「きみはオレだ」 とか…)。
 その意味不明のやり取りの結果、モリアーティは銃口をみずからの口に突っ込んでドーン。
 自殺しちまう。
 これ、互いに同じベクトルの人間だというのは分かるけど、なんでそれがモリアーティの自殺の動機に結び付くのかが分からない。

 そしてモリアーティが死んでしまうと、ホームズの友人たち(ワトソン、ハドソン夫人、レストレード警部)が殺されてしまう、という仕掛けがされていて、それを防ぐためには、ホームズが死んだところを狙撃主たちに見せなければならない。
 だからホームズは、わざわざ大っぴらに、病院の屋上から、飛び降りて自殺してしまう。
 その結果、ワトソンたちの命は助かった。

 しかしですねコレ。

 振り返ると、ホントにモリアーティが自殺してんのかどうかが、なんか疑わしい。
 そしてそれを見て狼狽するホームズ。 そこから連鎖的に自らも飛び降り自殺するまでの一連の動きが、なんとなくヘン。
 画面だけ見てると、モリアーティもホームズも、確実に死んどります(笑)。
 でもそれ、ホントにしちゃうと、ラストで生きて現れたホームズの説明がつかないし(笑)。
 しかも屋上で死んだモリアーティについて、あのあとドラマで最後まで言及されてないのも引っかかる。

 あ~もう、たぶん次のシーズンで 「実はこうでした」 という種明かしがされるんでしょうけど。
 このドラマの 「騙し」 のテクニック、というのは、こうした 「語り口を素早く饒舌にすることによってごまかす」 ことによって成立している。

 第2シーズン第1回の 「ベルグレービアの醜聞」 も、ホームズといい関係になるアイリーン・アドラーという女性が、最後に殺されたのかホームズに助けられたのか、ということも、なんかよく分からない。 アレはホームズの妄想なのか、現実にそうしたのか…。
 だいたいですよ、ホームズはこの第1回も第2回の 「バスカヴィルの犬(ハウンド)」 でも、膨大な探偵依頼の中から、どうしてその案件を選んでいるのでしょうか。 分からない。

 アイリーンの案件は、ホームズの兄マイクロフトからの依頼。
 英国王室が密接に関わり合っている機密情報を彼女から取り戻してくれ、という案件なのですが、そんなの007にでも(この007がまた推理に絡んでくる)任せておけばよろしいでしょうに。
 ホームズの興味のアンテナは、これが王室絡みだから、というのには反応していない、と思うんですよ。 膨大な依頼というのが、結局その案件に首を突っ込んだおかげで結びついていくんですが、その仕掛けがまた非現実的で(飛行機に死体を大勢乗せるとかね)。 そこまでホームズは予測していたんでしょうか。
 それともアイリーンが、その膨大な機密情報でもって、モリアーティを脅している、というのを、ホームズは察知したんでしょうか。 誰かおバカな私に教えてくださいまし。

 そして第2回の 「バスカヴィル」 でも、依頼者が巨大な犬(ハウンド)に襲われた、というのですが、ホームズはこの依頼者が、犬をドッグではなくハウンド、と表現しているところに大きな興味を示すのです。 またこれが、おバカな私には分からないんだなァ。 「ハウンド」 というのは、それこそケルベロスみたいな化け物のイメージがあるんでしょうか。

 依頼者の父はこのハウンドに、ずいぶん前に殺されているのですが(とりあえずそう説明しときます)、そんな前のことどうだっていいよーな気もするし(ここが 「凡人」 の考えることなんでしょうね)。

 かようにホームズが探偵依頼を引き受ける判断基準というものが、よく呑み込めてないんですよ、私。

 それから疑問点をいろいろ書いてしまいますが(笑)、第1回で、アイリーンは自分が死んだように見せかけるんですよ、一度。
 ホームズは彼女が全裸で彼の前に現れたときから、彼女のスリーサイズを即座にはじき出すほどの特殊能力を有しているのですが(笑)、彼女の偽装された検死体(顔はグチャグチャで判別不能)を見て、「これはアイリーンだ」 という判断を下してしまう。 どうしてかな。 わざとには見えないし。 騙されてますよね、ホームズは、アイリーンのトリックに。
 つまりアイリーンが、彼女と同じスリーサイズの女性を用意したとか?(笑) 彼女と同じところにほくろをつけたとか?(笑)

 第2回では、ホームズとワトソンがマイクロフトの 「最強」 IDカードを使って、そのハウンドを開発しているのではないかと思われる研究所(「バイオハザード」 連想しまくり…笑)に侵入するのですが、彼らの正体がばれそうになったときに、ある古株の研究者が、彼らを救う。
 結局彼が一連の事件の犯人だったのですが、どうして彼はホームズたちを助けたのか?
 そしてクライマックスシーンでも、彼は事件現場でパニック状態になっている依頼者や、ホームズたちの前に、現れるんですよ。 なんでわざわざのこのこ出てくるかなァ?(笑)

 つまり彼は自分のしでかしたことに罪悪感を抱いていた、ホームズたちにそれを暴いてもらいたかった、ということになるのかもしれませんが、それをこのドラマは、わざわざ説明しようとしない(してた?…笑)。

 第3回ではますますよく分からなくて(笑)、モリアーティが飛ぶ鳥を落とす勢いのホームズを陥れるために、まるで自分の力をひけらかすような犯罪をして、わざとつかまり、裁判でホームズが鑑定人になる。
 この話が分かんなくて(笑)。
 鑑定人っていったい何なんでしょう?(勉強しなさい…笑)。

 で、これでまた、モリアーティの恨みが募っていく、みたいな話の運びだったのですが、どうしてますます 「ホームズ、お前を破滅させてやる」 になるのかが分からない。 だいたいわざとそういう状況にしたのはモリアーティでしょう(笑)。

 だいたいこのモリアーティ、以前にビートルズ伝記映画でポール・マッカートニーの役をやっていただけのことはあって、ビートルズファンの私は彼を見るたびポールを思い出してしまって(爆)。 話に集中できない(言い訳しとるぞ)。

 いや、私が理解できない話というのは、かしこい人ならすべて説明がつくんだ、と思います。 このレビューは、私が自分で自分をおバカなのだ、と喧伝しているようなものなのです(ハハ…)。

 でも、そうしたことは、このドラマをつまんなくさせる要因には、けっしてなっていません。
 ホームズの頭の回転には痛快さを感じるし、ブログやメールやスマホのキーロックとかが頻繁に出てくる現代への翻案の仕方は楽しいし。

 そしていちばん見ていて面白いのは、ホームズが彼の友人たち(「ひとりを除いて」 友人なんかいない、とホームズはうそぶきますが)に対して抱いている感情です。

 彼は自分がオタクであるがゆえに、周囲の人間がウザくて仕方がない。 バカでのろまで 「吐き気がする」 ような打算にまみれていて。 その嫌悪感が今回、彼を追い詰めていくのですが。
 彼はでも、ワトソンやハドソン夫人、レストレード警部、そしてモリー?に対しては、彼独特の突き放し方をするくせに、いっぽうで嫌われることを避けたがる。 「ハドソンさんがここを去ったらイギリスは滅びる」 と言うとか。

 このドラマでは特に、ワトソンとの関係を、同性愛ぎりぎりの線で描いているのですが、この描写を見ていると、つくづく英国社会が同性愛者に対して微妙な感覚を未だに持っていることを感じます(違うかな)。 それと喫煙に対しても(海外ドラマでは時折見かけるかな)。

 でも私は、ホームズがこれらの 「友人」 に持っている感情は、人が普通持っている感情と同じだ、と思うんですよ。

 ウザい、でも愛されたい。
 人に好かれたい、でもウザいときもある。
 ひとりにさせといてくれ、でもひとりぽっちはつらい。

 このドラマでのホームズは、実に 「ツンデレ」 のプロトタイプだと感じるのですが(笑)、ドラマ全体からしてツンデレの精神構造をよく描写してると思いますね(笑)。

 「ホームズを愛した女」 アイリーン・バトラーも、ホームズ同様の 「ツンデレ」 的精神構造を有していると思う。 彼女はSMの女王様だったけれど(現代的なアレンジだなァ)、Sであると同時に、Mでもあった。 背反した気持ちを具有しているんですよ。 そこにふたりとも、惹かれあっている気がする。 自分の弱さを鎧で隠すために、自分を必要以上に強く見せようとする切なさに、惹かれあっているんですよ。

 そして第2回の依頼者、ヘンリーが陥っていた現実と妄想の混濁。

 このドラマを見ていると、何が現実で、なにが妄想なのかが分からなくなってくる瞬間がある。
 それは現実世界の危うさ、というものを、シリーズの全体的な雰囲気として表現したがっているようにも感じるのです。
 実際、ラストではホームズは、偽装自殺をしている。
 思い込んでいるものが真実ではない場合もある、ということを教えながら、この 「架空の人物」 であるシャーロック・ホームズは、現代に生きることを許されている気がするのです。

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2013年1月 2日 (水)

2013年1-3月期ドラマ、私のチョイス

 今年もよろしくお願い申し上げます。
 どれだけ優れたドラマに出会えることが出来るのか、今年も 「ぞくぞくいたしまする」(笑)。

 さっそく本題に入ります。
 1-3月期の枠ではありませんが、やはりNHK大河ドラマ 「八重の桜」(初回1月6日)は第一の注目です。
 なにしろ私の故郷福島のお話ですので。

 ただまあ、福島福島と言っても広うございます。
 私の生まれた三春は、県の中心部 「中通り」 の右っ側(「浜通り」 寄りみたいな感じ)でありまして、左っ側の 「会津地方」 というのは、なんとなく 「別のお国」 感覚ではあるのです。
 三春はどちらかというと、田村氏とか伊達政宗とか、そちらの権力が幅をきかせていた感じで。
 「独眼竜政宗」 の放送時、政宗の正室愛姫(めごひめ、演じたのは後藤久美子サン)の里として、一時期有名になったものです(未だに愛姫の名を冠したお菓子があったよーな気がする)。
 そんな私からすると、徳川系統の松平氏の会津は、「白虎隊」 と 「野口英世」 という、「県民の誇り」 感覚でいっしょくたにとらえているところがあります(まあ、自分はほとんど東京で生きてきたんですけど)。 お国訛りも、三春あたりとはちょっと違った感じになるのかな。

 いずれにしても 「八重の桜」 は、脚本が 「ゲゲゲの女房」 の山本むつみサンであるのが、期待が持てる点です。
 「ゲゲゲの女房」 においては、自らの主張したい点を分かりやすくあぶり出してたたみかけるような作風だった。
 これはことによると、難解で視聴率が悪かった去年の(傑作)大河よりも、視聴率を見込めるのかもしれない。 となると、まさにNHKの当初の目論み通り、原発で疲弊しきっている福島の復興にひと役もふた役も寄与する可能性が高い気がしてくるのです。

 そしてこの冬ドラマの期待株。

 まずはフジテレビ系木曜10時、「最高の離婚」(初回1月10日)でしょうか。
 脚本が 「Mother」「それでも、生きてゆく」 などの傑作を生み出している坂元裕二サンだし、演出が 「流れ星」 など緻密な作風の宮本理江子サンだというのが期待できる。
 しかも出演が瑛太サン、尾野真千子サン、真木よう子サン、綾野剛サン…。 見たい俳優ばかりです。
 ただまあ、不安材料としては、坂元サンの前回作、「負けて、勝つ」 が、個人的にはまったく面白くなかったこと。
 これは、歴史材料のものが苦手だった、というようにとらえたいところです。

 そしてNHK土曜9時、「メイドインジャパン」。 初回放送は1月26日、とちょっと遅いですが。
 脚本が井上由美子サンだし、主役が唐沢寿明サン、というのは見たいですね。 脇も、高橋克実サン、吉岡秀隆サン、國村準サン、なんて、いいじゃないっスか。 倒産寸前の電機メーカーをよみがえらせる、という企業ドラマですが、町工場の技術力、なんて神話がいまだ残っている旧態依然としたものの見方にメスを入れられるかどうか、に注目します。
 「テレビ60年記念ドラマ」 という冠も、仰々しくてよろしい(笑)。

 で、BSでちょっと申し訳ないのですが、NHKBSプレミアム、金曜8時、「火怨・北の英雄アテルイ伝」(初回1月11日)。
 原作が、私が高く評価している大河ドラマ 「炎立つ」(評価しているのは第1部だけですけど)の高橋克彦サン、というのがそそります。 「炎立つ」 と同じ東北題材ですし。
 で、また、主演が 「JIN」 の大沢たかおサンなんですよ。 これは面白くなりそうですよね。 まあ、蝦夷の豪族ということで、アイヌ人のいでたちに似た格好をしております。 こういう、「異文化」 的なものは、興味がそそられますね。

 あと、「もしかすると面白いかも?」 と思わせるのは、テレビ朝日系金曜11時、「信長のシェフ」(初回1月11日)でしょうか。 内容だけを読むとそれこそ 「JIN」 の料理版、みたいな感じですが。 とりあえず見てみます。

 それと、またテレビ東京が 「タモリ倶楽部」 のウラで面白そうなドラマを放送するみたいです。 「まほろ駅前番外地」 とかいうの。 録画できないって。 まあいーや。 無視です(笑)。

 深夜ドラマとしては、「コドモ警察」 の続編、みたいな感じだけどちょっと違う、今度はマリウス葉クンを主人公とした 「コドモ警視」(TBS)。 てことは、鈴木福クンたち、レッドヴィーナスに子供にされたまま何も解決しないで終わっちゃったあのコドモ刑事たちは、いったいどーなっちゃってんのかな、みたいな。 でも 「コドモ警察」 のほうは映画化みたいだし。 クソ、そっちで解決か(笑)。 ちなみに甥っ子の友達が刑事やってます(笑)。

 とりあえず第1回目だけは、録画できるものはすべて録画して、「見逃したぁ~」 ということがないようにしたいと思います。

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