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2013年2月

2013年2月24日 (日)

「オールナイトニッポン45周年スペシャル 中島みゆきのオールナイトニッポン」 よみがえる苦い思い

 ラジオの聴取率調査、いわゆるスペシャルウィークの一環、というにはあまりにも図抜けすぎているこの番組。 なんと45時間ぶっ通し(でもないか)で、「オールナイトニッポン」 が放送されています。
 そのなかでも「中島みゆきのオールナイトニッポン」 のへヴィリスナーだった私としては、万難を排してでも彼女のパートは聴かなければなりません。

 しかし放送開始が、なんと深夜3時からという、人のことを考えていない暴挙的な時間帯(笑)。 しかもこの 「オールナイトニッポン45周年スペシャル」、なぜかみゆきサンとあとに続く谷山浩子サンの番組だけ、枠が1時間だけ。 坂崎サンもユーミンもおすぎとピーコも2時間枠でやってる、というのに。

 それはそうと、出だしから、放送当時(1979年~1987年)よりもさらにハイテンションなみゆきサンが登場。 「中島みゆきでございま~あ~あ~す!」。 なんか、壊れてる(笑)。

 ちょっと待てよ、この人の誕生日、2月のこの時期だったはずだ、と旧みゆきフリークだった私はふと思い出し、ウィキを調べたら2月23日。 つまり日をまたいでいるけど、誕生日当日にやっとるわけですよ。
 女性の歳を書くのは気が引けますが、あ~あ、61歳だって(オレもトシ食うはずだ)。 還暦過ぎとはとても思えん(笑)。 童女みたいなレベルまでメーターが振り切っとる(笑)。

 かような相変わらずの突き放されぶりに、放送当時に私がいつも味わっていた、苦い思いがよみがえるのを感じます。
 その私の個人的な話はのちに語ることにいたしますが。

 しかしみゆきサンも還暦だったんですね。 確か放送当時、誕生日の日だったか月曜深夜の放送日、ということがあった気がします。 その当日のテンションもかなり高かった記憶がございますが、今回はそれより高い。
 それと、また昔話になってしまいますが、29歳から30になるときのみゆきサンの切羽詰まり方も尋常じゃなかった気がします(その時が放送日当日だったかな)。
 「ミルク32」 というみゆきサンの曲があるのですが、当時は私にとっても、32というのはかなり大人、オジチャンオバチャンの部類に入っていた。 そんなカテゴリーから言えば、30歳というのは、かなり高い 「大人の境界線」 だった気がするのです。

 それにしても、冒頭から 「重大発表がある」、というみゆきサンからのお達し。 気になる。

 「こんな時間だから誰も聞いちゃいないだろー」 ということで 「この時間に働いている人からメールを募集ーっ! みゆきアットマークオールナイトニッポンドットコムッ!」(ああ、メールアドレスなんて、昔はなかった)。
 つまりは、生放送…。
 テンション高いはずだよ(笑)。
 そんなテンションのまま、いきなり1曲目がニューアルバムのタイトル曲、「常夜灯」。
 まあ昔の放送では、本人の曲がかかるのは毎回番組の最後だけでしたから、こうした激しいチェンジオブペースを開始10分程度で味わえるのは、やはり1時間番組のなせるワザか。

 生放送であることを実感できたのは、この番組の前にNHKで放送していた 「今夜も生でさだまさし」 で、さだサンがこの番組について言及していたことをみゆきサンが話したとき。
 私、それも冒頭だけ見てたんですけど、なにしろみゆきサンの番組を聞き逃すまいと仮眠をとってしまいましたので見てなかった。 録画したのであとで見よう(あ、蛇足ですが、新しいブルーレイ録画機買いました…笑)。

 この、中島サンとさだサン、曲の暗さとしゃべりの明るさのギャップで括られる気がしますが、今ネットで検索したけど誰も言及していないみたいなので、ちょっと昔から感じていることをここで書いてしまいます。
 「予感」 というアルバムの中に入っている 「髪を洗う女」 の冒頭数秒、「かみともにいまして ゆくみちをまもり かみのまもり ながみをはなれざれ」 という、おそらく讃美歌と思われる歌がアカペラで入っていて。
 それを歌っているのって、さだサンだと思うんですよ。 このアルバムのクレジットに 「thanks to Mr.S」 とか書いてあった記憶がありますが、おそらくこれってさだサンなのだろうと。 つまりこの時期にはもうすでに、中島サンとさだサンは、交流があった、ということなのかなぁ。

 コーナーはリスナーからのメッセージを読む 「真夜中の告白~っ!」 などなど。 こんなコーナーはかつてなかった気がするが…。
 曲もバンバンかかって、「曲を聞くよりみゆきサンのしゃべりを!」 と思いましたが、「猫ニャンニャンニャン犬ワンワンワン、カエルもアヒルもガーガーガー」 という、昔個人的にはハマっていた(笑)あのねのねのテクノチューン(笑)「みかんの心ぼし」 のどうもカバー曲みたいのがかかったり、ど~ゆ~選曲しとるのだ?みたいな(笑)。

 そしてついにみゆきサンの重大発表。
 なんとこの4月から、月イチで、「中島みゆきのオールナイトニッポン」 が復活するらしいのです!

 月イチだけど、これはニュースですね!

 いつもはほとんど更新されないラジコのツイッターも、矢のような速さで更新されていきます。
 やはりすごい注目されてるんだな~。

 新番組の詳細情報ですが、第1回目は4月14日深夜、つまり15日早朝の、3時から5時まで。 うわ、今度は2時間か…って、時間帯が何なんだ~っ、3時からなんて!(笑)
 しかも日曜の深夜、月曜早朝だし。
 まさに暴挙(笑)。 冗談みたいな時間帯(笑)。
 全国放送なのかどうかは不明ですが、全国放送でなければこれも人を食ったような話だと思う(笑)。

 そして、「こんな時間にどーしたらい~のっ?」 ということで、この番組後に出演する谷山浩子サンを引っ張り出して来て 「オールナイト第2部」 の時間帯の先輩にコツを聞いてましたけど、メシを食うのかとか相変わらず興味はそっちにあるようで(笑)。 そう言えば真夜中にカップラーメンを30分ほっといたら麺が膨れてワヤになってしまったとかよく話してたよな~(笑)。

 その月イチオールナイトですが、どうもハガキを募集する模様。 メールもあるんでしょうけど。 なんかみゆきサンは、はがきでリスナーの字を見るほうが好きらしい。 その点では 「今夜も生さだ」 でさだサンがやっているのと同じスタンスのような気がしますね。

 それにしてもこのテンション高!のみゆきサンを聞いていてよみがえった、個人的な苦い思い。 その原因ですが。

 まあ、それは数年前に当ブログで告白してますのでここでは簡潔に。

 私は当時、中島みゆきサンの暗い歌が好きだった人種でして。
 そんな自分はラジオで展開されるオチャラケモードのみゆきサンの、そのギャップを楽しみながらも、いちばん楽しみだったのは、冒頭数分の近況をしゃべる部分だったり、最後の数分の真面目なしゃべりだったりしたわけです。
 そしてこのオールナイトが始まってからのみゆきサンの作る歌が、どうもラジオでの人格が流入してきたように感じて。 声質も変わった気がしたな。 アルバム 「臨月」 のころからですね。
 それからはだんだんと、みゆきサンがオールナイトを続けることに忸怩たる思いになってきた、それが苦い思いの原因なのです。

 んでー、あっという間にこの1時間は終わってしまったのですが、このあと始まった谷山浩子サンの番組にもみゆきサン、10分程度居残りまして(笑)。 「だって片付け終わってないんだも~ん!」(笑)。 谷山サンから 「先輩のことをこう言うのもナンですけど、座敷わらしみたい」 と言われる始末(笑)。

 その 「谷山浩子のオールナイトニッポン」。
 こないだ 「オールナイトニッポンゴールド」 でやったときと違って、「ビタースィートサンバ」 のオープニングではなく、きちんと 「てんぷら☆さんらいず」。 感動するなァ。
 そして最後にはニッポン放送下の出待ちの人たちと交流。 谷山サンでこれだけいたんだから、みゆきサンの出待ちの人もかなりいたんだろうなー。 谷山サンのオールナイトニッポンも、ゴールド枠でもいいから月イチくらいでやってほしいなァ。

 谷山サンの番組で紹介された当時のハガキ職人の人の年齢も48歳、私もあと数日でその年齢です。 みんなここまで、いろんな人生を歩んできたんだろうなァ。 私もです。 近頃体力が落ちてヒーヒー言ってますが、精神的にはあの頃と、あんま変わんない、つーか(笑)。

 御同輩、お互いに頑張りましょう!

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2013年2月20日 (水)

あ~、録画機がぶっ壊れた!(再生だけは可能)

 え~、テレビドラマ感想ブロガーとしては危機的状況なのですが(笑)、ついに録画機が、録画できない状況となりまして。

 これまでDVDへの焼き回しができなくなったことで、だましだまし使ってたんですよ。 HDDだけで。 だからHDDへの負担が増大したんでしょうけど、このHDDが、このほど再生しか出来なくなりまして。 今週の 「八重の桜」 が録画できないとき、「おかしいな~」 とは思っていたんですが。

 いろいろ方策は考えて、アッチャコッチャ話もしているのですが、考えてる場合でもないし。 「シェアハウスの恋人」 とか(「まだ見てんのかよ」 と言われそうですが…笑)「最高の離婚」 とか、差し迫ってますから。 とりあえずアナログビデオデッキにつないでみよう。 ダメだったら皆さん、「最高の離婚」 のレビューは、まだ見てませんけど(笑)先週のもので最後といたしたい、と存じます(なんかどこかでブーイングの声が?)。

 まあ、最も手っ取り早い方法は、新しいのを買うことなんでしょうけどね。 またエライ出費だ。 このポシャったHDDに残されたものをDVDに焼き増しできるブルーレイって、あんのかな? 今どきDVDレコーダーというのも、もう主流じゃないでしょう(DVDも、VHSの期間の長さに比べたら、あっけなかった)。

 蛇足みたいで恐縮ですが、このところ疲労が激しくて、なかなかレビューが出来ないこと、なにとぞご容赦くださいまし…。

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2013年2月17日 (日)

「泣くな、はらちゃん」 第2-5回 さよならを教えて

 個人的には、この1-3月期のドラマの中で、いちばん好きなこのドラマ。 当ブログのコメント欄でもヤタラメッタラ推しまくっているのですが、不思議とレビューを書くまでには至りませんでした。

 それはこのドラマが導き出すテーマが、あまりにストレートなため。
 はらちゃん(長瀬智也クン)は越前さん(麻生久美子サン)の描くマンガの世界の住人だから、一般常識というものを知らない。 現実世界に飛び出したはらちゃんがそれを学んでいくことが毎回毎回の核となるテーマだった気がするのですが、人にとってそれらはあまりに基本的なために、解説しなくてもドラマを見ていれば分かる。 それでレビューを書きませんでした。

 ここ数回のドラマの吸引力をそのほかに考えると、まず越前さんが描いているマンガと、矢東薫子というマンガ家の関連性。
 これは第2回だったか、越前さんが大事にしている矢東薫子漫画全集が弟によって古本屋に出されてしまったときに、越前さんが矢東薫子ではない、ということが早々にして判明しています。 その後に職場のチーフである百合子さん(薬師丸ひろ子サン)が絡んできて、どうやら矢東薫子は百合子さんである可能性が高い、と分かる。
 分からないのは、この百合子さんがはらちゃんの存在にさして驚かないこと。 つまり百合子さんも過去に同様のことに見舞われている、ということが考えられる。
 そして越前さんに、はらちゃんとの恋はしないほうがいい、みたいなことを進言することで、自分の過去の結末は、百合子さんにとって苦いものだったことが推測される。

 その苦い思いというものを推理したとき、「現実世界の人とマンガの世界の人とは、結局分かちがたい壁によって仕切られている」 ということを思い知った。 または、「自分の思い通りにできてしまう相手、というものの物足りなさ」 を思い知ってしまった。 そんなことが想像できるのです。

 「漫画全集」 という単行本が出ているくらいだから、矢東薫子先生はもうすでに引退している、と考えるのが妥当かな。
 百合子さんがマンガ家をやめた理由、というのは(ほぼ百合子さん=矢東先生と決めてかかってますが)自分にとっての 「はらちゃん」 的存在との苦い思い出が引き金になったか。 本人はその後を 「余生」 などと話しているので、もうマンガ家として燃え尽きたか、じゅうぶん稼いだか。
 百合子さんのことをいろいろ想像する面白さ、というのもこのドラマの吸引力のひとつだと思います。

 そしてやはり百合子さんの苦い思い出を推測したときに、このドラマで越前さんとはらちゃんが行きつく先にある悲しみ、悲劇というものに思いが至ってしまう。
 この、思い切り笑えるドラマが持つ、一種独特の切なさの源流は、そこにあるのだと私は思います。
 その切なさにメスを入れたと思われるのが、今回第5回です。

 このドラマの吸引力のもうひとつをここで挙げれば、越前さんがはらちゃんの存在を徐々に認識し意識していく過程だと思われるのですが、目の前で自分の描いたマンガ帳を開いたり、振ったりすることではらちゃんが消えたり現れたりすることで、あまりに疑り深い越前さんも、ようやくこの非現実的なからくりが飲み込めます(このシーン、クッソマジワロタ…笑)。

 で、そのことを知った越前さんは、「はらちゃんが私の描いたマンガなら、この人って自分の思い通りにできるんじゃん」、と不穏なことを考えます。
 しかしそれは、おそらく百合子さんがかつてたどった道なのではないか、という気を私に起こさせます。 「百合子さんが過去に苦い思いをした」 という仮定の上でもの言ってますけど。

 つまり、「人付き合いって、自分の思い通りにならないからこそ面白いのではないか」 と思うんですよ。 たぶん越前さんがはらちゃんのことを、自分の思い通りに動かそうとしはじめたら、最初のうちは面白いだろうけれど、そのうち物足りなくなってくるのではないか。 飽きてしまうのではないか。
 他人に対してタイラント(暴君)であることの悲劇というのは、自分のわがままが果てしなく肥大していってしまう、ということであろう、と思われるのです。
 その結果、飽きられたはらちゃんは、マンガの世界に閉じ込めておいたほうが面倒臭くなくていい、という結末になってしまう。

 はらちゃんの存在の不思議さを悟った越前さんは困惑し、しばらく職場の工場長の玉田、たまちゃん(光石研サン)にはらちゃんを預けます。
 そこではらちゃんはたまちゃんから、「チュー、またの名をキス」(笑) の仕方とかを伝授されるのですが、「オマエ家族いるのか?」 という話から、冒頭で越前さんの母親である秀子さん(白石加代子サン)から聞いた 「死ぬ」 ということに、話は移っていきます。

 たまちゃんが話します。
 「(自分が天涯孤独な身であることに)まあいいんだけどな。 ときどき思うよ。 オレが死んでも、泣いてくれる人はいるのかなーってな」
 「『死ぬ』 って、世界からいなくなる、ってことですよね?」
 「うん」
 「工場長がいなくなったらさびしいです。 私が泣きます」
 「おいおい、嬉しいこと言ってくれんねぇ。 ありがとよ」

 「でも…『死ぬ』 ってよく分かりません。 死んでいなくなったら、どうなるんですか?」
 「オレも死んだことないから分かんないけどな」(ハハ…)
 「そうなんですかっ?」(はらちゃん、いちいちリアクションが笑える)
 「ま、まあな、おかげさまでな」(ここらへんがこのドラマの笑いの真骨頂でしょうね)

 たまちゃんは 「死」 について語り出します。

 「いろいろ考え方があるけどな、天国に行くとか地獄に行くとか、星になるとか。 いろいろさ。
 でも(道端の猫を見つけ、抱きあげて)へへ…。 消えてなくなんじゃねえのかなァ。 命がなくなるわけだからな」

 「命…。 もう、会うことはできないんですか」

 「そうだなァ。 この世界にいる者は、みんな、いつか死ぬわけだからなァ。 悲しいけど、仕方ないんだよなァ」

 はらちゃんは、たまちゃんに訊きます。

 「あの…マンガの人間は死にますか?」

 「マンガの人間、マンガに描かれている人間のことか」「はい」「…死なないだろうなァあれは、命があるわけじゃないからなァ。 羨ましいよなァ」

 ここではらちゃんは、容赦のない現実と向き合わなければならなくなっている。
 玉田工場長は天涯孤独の身であるがゆえなのでしょう、魂についても結構シビアで、唯物論者的な考え方をしています。 だからなくならない命というものを羨ましがりますが、果たして死なないことが幸せなのかどうか。
 この玉田工場長、ある夜酔っ払って、「♪恋人よ~僕は旅立つ~」 と 「木綿のハンカチーフ」 を歌いながら、海に転落して死んでしまいます。

 それにしても、はらちゃんは死なないどころか、越前さんがはらちゃんの顔にシワでも描かない限り、年老いることもない。
 越前さんだけが歳をとっていき、そしてやがては死んでいく。
 はらちゃんはそのとき、永遠にその悲しみを抱いたまま、マンガの世界の人間として、生き続けなければならないのです。
 これって 「火の鳥 未来編」 に似たコンセプトでありますが。
 「未来編」 の主人公は、不老不死になったけれども、自分の愛するムーピーという、寿命が何百年もあるパートナーとも別れ、人類が滅亡しても生き延び、自分の肉体が耐用年数を超えてなくなっちゃっても生き延びていく。 空恐ろしいストーリーでした。

 たとえば私が好きなマンガのベストワンである 「あしたのジョー」 でも、力石なんかは物語のちょうど真ん中で死んでしまうのですが、もう一回最初から読めば、ちゃんと途中まで生きているわけですよ。
 ジョーにしても、最後に死んじゃうのかどうなのか、まあ梶原一騎サンのプロットでは療養施設みたいなところで葉子の世話になっていることになってたみたいだけれど、ジョーはそのマンガを読めば、何度もよみがえり、真っ白になるまで燃え尽きていく。

 藤子不二雄F先生の 「ドラえもん」 にしたって、そりゃアニメとかが際限なく作りだされ、人々の記憶からなかなか消え去らないだろうけれど、マンガのなかのドラえもんやのび太クンたちは、藤子F先生の不在を、嘆いているかもしれない。
 ほかにも、人々に読まれなくなったマンガのなかの主人公たちは、もっともっとさびしい思いをしているかもしれない。
 よく 「人は二度死ぬ。 1度目は実際に死んだとき。 2度目は、その人を知っている人がこの世からいなくなったとき」 などと申しますが、マンガの世界の住人たちは、その本の中で、永遠に生き続ける宿命を背負っているんですよね。

 工場長の死を悲しむ越前さん。 「呼ばれないときてくれないなんて、ダメじゃん」。 はらちゃんに慰めてほしくて、彼女はマンガ帳を激しく振ります。 「出てきてよー! 出てきてよーっ!」。 飛び出すはらちゃん。

 「だぁ~っ!! 越前さんっ! …ん?」

 屈託のないはらちゃんに、越前さんはまた泣けてきてしまいます。

 「…やらしくなく、抱きしめてください」

 「だ、『抱きしめる』、とは…? ど、ど、どうすればいいんですか?」

 越前さんは自分からはらちゃんに近づき、その見本を見せます。 「こうやって、ギュって」

 しゃくりあげる越前さん。

 「キライなの…! イヤなのっ! …人が死ぬのキライなの!」

 「越前さん、なにが、あったんですか」

 「玉田工場長が…死んでしまったんです…」

 「工場長さん…たまちゃん…が…死んだんですか…」

 「ええ…」

 「え…もう、会えないんですか、たまちゃんに」

 「ええ…!…うっ…うっ…」

 「死」 の意味を初めて実感したようなはらちゃん。

 「…かなしいですね…。 『死ぬ』 って…。

 もう、会えないんですね…。

 工場長さん…たまちゃんに…」

 涙を流すはらちゃん。

 「かなしいですね… … もう会えないなんて…。

 …越前さんも、いつか死んでしまうんですか…?

 (小さくかぶりを振り)やです。 そんなの絶対ヤです。

 私も死にたいです…」

 ハッとしたようにはらちゃんから離れ、はらちゃんを見つめる越前さん。

 「どうして、私は死なないんでしょうか…。

 …ゴメンナサイ…。
 分からないことばかりで…。

 私と越前さんは、住む世界が違うんですよね。

 …これじゃ…『両想い』 じゃないですよね…」

 越前さんは、うつむいたまま、意を決したように口を開きます。

 「…両思いです」

 驚くはらちゃん。 「えっ…?」 顔を上げる越前さん。

 「『両思いです』 って、言ったんです…。

 なんだかさっぱり分からないけれど、両想いなんです、私たち…。

 だって、
 あなたのこと好きに決まってるじゃないですか…!
 あたしが作ったんだから…!
 いちばん好きなキャラなんだから…!」

 越前さんはドラマ中盤で自分の描いたはらちゃんのマンガにそうしたように、はらちゃんの頬に流れる涙をぬぐい、背の高いはらちゃんの唇に、背伸びをしてキスをする。

 工場長が死んだことのかなしさ、さびしさから、はらちゃんが 「死」 という概念自体が違う、自分とは別の世界の人、という切なさに変化し、思いが堰を切ってあふれてしまったこのシーンは、越前さんにとってもはらちゃんにとっても、「思いが届いた」 感動的なシーンであったことは言うまでもありません。 泣けました。

 しかし、と同時に、この恋は、先に書いたように、とても前途が危ういように思える。
 結局は違う世界の人間だった、と百合子さんのように挫けてしまうのか(またまた百合子さんがそんな経験した、と決めてかかってますけどね)。

 はらちゃんの発案で、玉田工場長は越前さんのマンガによって、マンガの世界で息を吹き返します。
 それはとても名案だったけれど、玉田工場長も、抜け出せることのない、マンガのなかの永遠の世界に、閉じ込められてしまった、という見方もいっぽうではできる。
 そして越前さんが、思いのままにマンガの世界の住人を動かすことのできる、「タイラントの鍵」 を手にしてしまった瞬間でもある、と私には思えるのです。

 その、いちばん平和的な、解決の仕方が、このドラマはできるのか?
 どうすれば越前さんもはらちゃんも、みんなが幸せに収まるのか?
 私の興味は、そこに落ち付いてきました。

 それにしても。

 越前さんの下の名前が、未だに分からないっていうのは、どーいうわけなんだ!(笑)

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2013年2月13日 (水)

「コドモ警視」 マリウス葉クンが、カワイイっ!(爆)

 鈴木福クンが特殊捜査課のボスを演じ、「太陽にほえろ!」 の完全パロディだった 「コドモ警察」 の、いわばスピンオフ作品。 前作で本庁捜査員を演じていた、マリウス葉クンが主役であります。 みんな子供なのは、悪の組織レッドヴィーナスの開発した特殊ガスによって云々…あ~も~めんどくさいから省略(ほとんど説明しとるがな)。

 ただ要するに、この春劇場公開される 「コドモ警察」 の完結編?の宣伝みたいな要素もなきにしもあらずかな。 ドラマの舞台は小学校で、そこでマリウス葉クンの同級生たちがさまざまないたずらをするのですが、これを解決していく、という話でまとまっていて、大人の世界に放り込まれた子供たちの姿がそれだけで楽しかった前作の面白さは、あまり期待できません。

 それに、マリウス葉クンが解決する同級生たちのイタズラ、というのも、まかり間違えば事件性を帯びてしまう危ないものでありながら、その謎解きは 「いくらでも突っ込めるぞ、ソレ」 みたいなものばかりで(笑)。
 さらに、話を面白くする要員としてマリウス葉クンの秘密(ホントは大人なのに仕方なく小学校に通ってるという秘密)を知ってる担任の教師がいるのですが、この人、滑りまくりで(爆)。

 つまり話自体がすっごくヌルイんですよ(笑)。 これが 「勇者ヨシヒコ」 と同じ人が書いたのかなと思うくらい(原案みたいですけど)。 「滑る」 面白さ、というのはこの人のドラマの確信犯的なものがあるのですが、「滑る」 のが 「滑って」 しまうとこーなる、とゆー見本みたいな(ハハ…)。

 でも、なんか見ちゃうんですよね。 どうしてかな?

 見ていて気楽だ、というのはありますね。 いつも難しいドラマばかり見て、それに対して考察を加えようなどというブロガー心理でドラマ見てますからね、最近。

 それと、「コドモ警察」 の捜査課のちびっ子たち(死語?…笑)がゲストでちょろっとだけ出てくるんですよ。 それを見るのが楽しみ、というか。

 たぶん前作から1年たっていると思うのですが、子供たちが確実に成長しているのが分かる。 やはり子供たちにとって1年というのは、すごいんだなと(どうすごいのか?…笑)。

 今まででいちばん成長してないように見えたのが、鈴木福クンだった(笑)。 背、伸びてるのかなこの子?(笑)

 それと、こないだなんかはイタズラ事件を起こす女の子が、「悪夢ちゃん」 のあの女の子だった。 えーと、木村真那月チャン。 相変わらず座敷わらしみたいな、つーか(笑)。 いや、さすがに主役級をやってただけあって、演技は確かだ。
 それと同じ回で、「スマート」 を演じていた子役の子が出てきて、そのモデルである小野寺昭サンと共演し、「きみは私の若い頃によく似ている…」 とか言うのは、ツボでした(笑)。

 ただ私が見続けているのは、主役のマリウス葉クンが、だんだんカワイク見えてきた、つーことかな(なんじゃそりゃあっ!…笑)。 別にそのケはないんですけど(笑)。

 彼、前作では演技下手なクセしてナマイキそ~なガキだ、という(スゲーこと書いてるぞオレ)印象だったかなーなんですが、なんとなく主役になったことで、回を追うごとに演技がうまくなってるよーな気がする(またいい加減なことを書いて…笑)。

 そんな彼が、時々発するどこかの国の言葉は、いかにも狙っている感じなんですが(何語だアレ?)、「私がわざわざ解決してあげましょう」「謎は、ざっくりと解けた」 という決めゼリフがカワイイ(あのー)。

 まあ、ど~でもいいドラマですよ、すごくミもフタもない言い方をすれば。
 でも、昔よく見ていた 「熱中時代」 とか、小学生が主役のドラマというもの自体に懐かしさを感じる、ということはあるかもしれない。

 マリウス葉クンのさらなる成長を、オッサンは期待するのであります。

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2013年2月11日 (月)

「とんび」 第2-5回 NHK版との違い

 第1回の時のレビューで比較検討というものはとりあえずしたのですが、今回第5回が終わって和尚(柄本明サン)も退場したことだし、ちょっと突っ込んだNHK版(堤真一版)「とんび」 との比較をおこなってまいろうか、と。
 まあ、原作は知りませんから、これは純粋にドラマとしての比較であります。

 以前に書いた比較論では、「ワンクールという時間を与えられたことで、ひとつひとつのエピソードを丁寧に描くことが出来るようになった」 ということを中心として書きました。 だからなのか、私個人としては、堤版の 「とんび」 よりも、内野版の 「とんび」 のほうが泣けた、と。

 第5回まで見て容易に分かるのは、アキラ役の佐藤健クンの 「現代編」(といっても今から10年くらい前っぽい)と 「回想編」 とのエピソード的な絡みが、堤版よりかなり濃い、ということです。
 つまり、「片親なために親とつなぐ手が片方いつも冷たい」 とか、「知らないほうがいいこともある」 とか、「頭を下げてくれる人の存在」 とか。
 内野版では息子のアキラが、現代編でかように、いちいちオヤジのヤスの回想をしながら、自分の進むべき道を拓(ひら)いていく、という構成になっている。

 けれどもこうすることで、私は堤版を見て自分が強く感じていたことを、内野版で感じる機会が失われたのではないか、と感じます。

 堤版では、「とんびがタカを産んだ」、オヤジのヤスのほうはそう思い込んで、自分の息子を誰よりも自慢の息子だと誇りにしていたけれども、息子のほうは社会に出て、「オヤジが自慢していたほど自分は大したことない、タカじゃない」、と鬱屈した気分でいた気がする。
 そこからこの、一途で頑固で人情に弱くて見栄っ張りで乱暴でガーガーうるさくてバカで、それでも極度の子煩悩である、この愛すべき男ヤスの、「親としての哀しさ」 みたいなものを、NHK版 「とんび」 から、私は強く感じていたのです。
 同時に、「親の期待にこたえられない自分のふがいなさ」、という苦い思いも、強く感じていた。
 これは自分が不肖の息子だから、そう感じたんでしょうけど。

 TBS版のようにアキラが社会に出て成長していってしまうと、これらのことを感じることはなくなるでしょう。
 では、TBSのほうは、いったいこの 「とんび」 というドラマに、何を託そうとしているのか。
 少なくとも、「とんびがタカを産んだ」 という字面通りの結論になってしまうのではないか。
 それは多分に、このドラマがハッピーエンドを用意している、ということになる。

 ただまあ、NHK版の 「とんび」 って、そんなに真面目に見ていたわけではないので、これって的を外した議論なのかもしれません。

 時間が長いことで話を丁寧に描ける、という長所は、回を経ても崩れることがありません。
 第4回では、アキラが自分の母親の死の真相を聞きたがる、という話に54分(まあ実質45分くらい?)。 もともとNHK版の時でも、「そんなの真面目に答えんでもいいでしょう」 と思ってたエピソードだったのですが、そこらへんの引っかかりも、1回ぶんかければ、ちゃんと納得できるエピソードに変身する。

 特にNHK版と違う、と感じるのは、和尚の存在感、でしょうか。
 NHK版の和尚は、なんか有り難そーな話なんだけど結局ハチャメチャじゃねーかみたいな話でヤスをケムに巻いてる、という印象が強かった(笑)。
 TBS版は、やっぱり言ってることはどこかハチャメチャなんだけど、どこかに説得力が伴っている気がする。 やっぱり丁寧にセリフを練っているように見えるんですよ。 ダイジェストみたいにしてない。
 たとえば第2回。
 母親がいないことを寂しがるアキラを、雪がちらつく夜の海辺にヤスと自分の息子の野村宏伸クンを伴って連れてきた和尚は、アキラの上着を脱ぐよう命令します。 寒がるアキラ。 和尚は次にヤスに、アキラを抱っこするよう命令します。 なんつーハチャメチャさだ(笑)。 どうしたいんだよ?(爆)。
 そこで和尚が言った言葉。

 「どうだアキラ!」

 「寒い…です」

 「ほれ見ろ!」 頭にくるヤス(笑)。

 「ハハ…! 正直でいいぞアキラ! これがお父ちゃんのぬくもりだ! お父ちゃんが抱いてくれたら、体の前のほうがあったかい! でも背中はやっぱり寒い! そうだろ!」

 「うん…」

 「お母ちゃんがいたら、背中のほうから抱いてくれる! そうしたら、背中は寒くない! お父ちゃんもお母ちゃんもいる子はそうやってあっためてもらえる! だけどアキラにはお母ちゃんはいないから、背中はずーっと寒いままだ! お父ちゃんがどう頑張っても背中まではあっためられない!

 その寒さを背負うということが、アキラにとって生きるってことなんだ!

 …背中が寒いまま、生きるのは、つらいな? さびしいな?

 悲しくて、悔しいな!」

 「うん…」 泣き始めるアキラ。 和尚はアキラの背中にまわり、手のひらを当てます。

 「アキラあったかいか?」

 「ちょっと(だけあったかい)」

 「(息子の野村クンに向かって)おい、『まだ寒い』 って言ってるぞ」 そう言われて慌てて手のひらをアキラの背中に当てる野村クン。 ヤスの手のひらも共に添えられます。

 「あったかくなっただろアキラー?
 これでも寒いときは、ゆきえおばちゃんもいるし、のりこおばあちゃんもいる。 それでもー寒かったらー、たえ子おばちゃんもいる。

 おまえが寒くてたまらないときは、いつもこうやって、あっためてやる。
 ずうーっとずうーっとそうしてやる。

 だから自分を、かわいそうだなんて思うな。

 『さびしい』 って言葉はな、『さむしい』 から来たんだ。
 寒い、さむしーいが、さびしいに変わっていったんだ。
 だから背中が寒くないおまえは、さびしくはない!
 お母ちゃんがいない代わりにおまえには、背中をあっためてくれるやつらがいっぱいいる!
 おまえは、さびしい子供なんかじゃあ、ない!」

 この説教のあいだ、幼いアキラクンは嗚咽を続けています。 この子役のコ、ホントうまかったな~(しみじみ)。
 いずれにせよ、ここまで和尚に長々と語らせれば、ハチャメチャな説教にも一定の説得力が生まれるのは必定です(ど~ゆ~論理の展開だ?)。
 だってここでも私はボロ泣きでしたもん(ハハ…)。
 しかも 「さむしい」 の話が嘘っぱちだった、というオマケつき(笑)。

 今回、第5回でこの和尚は死んでいくわけですが、この話に丸1回を費やせる、というのも、やはり強みだ(しかも最近何かと話題の、体罰の問題も絡めるし)。

 で、そんな和尚、自分はアキラのことで悩むヤスを見るのが楽しかった、そしてアキラが育っていくのを見るのが楽しかった、と書き残して死んでいくのです。 最後に、「あ…り…が…と…う…」 と言い、口だけを動かして、「ヤス」 と言って。 柄本明サン、私の中では 「それでも、生きてゆく」 の演技以来のベストアクトでした。 なんか、私の夢の中にまで出てきたんですけど(ハハ…)。 どこかでこういう人を求めてるんでしょうかね、私も。

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2013年2月10日 (日)

「吉田拓郎の千夜一夜 沢田研二~41年ぶりの対談~」 3分の2見た感想です

 去年の末あたりから、拓郎サンがご自分の出ているラジオ番組(「坂崎幸之助・吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド」) で宣伝していたにもかかわらず、それを忘れて3分の1を見逃してしまったこの番組。 でも気付いてよかったなァ。

 拓郎サンは同時に、もっと大きなニュースがあり、それは年の初めに発表する、とラジオ番組で言っていたのですが、どうも話は立ち消えになったか延期になったか。 結局現在のところ発表されていません。
 それどころか、年末に痛めた歯の治療のため、オールナイトニッポンを2週もかけてお休み状態。 坂崎サンも突っ込んでましたが、歯の治療で2週間もかけるか?つーか(笑)。

 なんでも大みそかに歯が痛み出したらしくて、フツー大みそかというのはどっこも歯医者などやっておりませんから、知り合いの歯医者のドアをゴーインに叩いて無理やり治療をさせたらしく(笑)。
 その歯医者も助手がいないとどうも要領が悪くて(そーゆーものなのか?…笑)結局歯痛のまま新年を迎えたということであります。

 なんの話をしとるのだ?(笑)

 とにかく、20分過ぎくらいから録画し始めた今回の番組を見ていて、拓郎サンの話のほうは、すでにオールナイトでくっちゃべっていることと重複することが多いため新鮮味がなかったのですが(細川たかしサンの 「矢切りの渡し」 にハマってることとか)、同じ年代なのに、ジュリーのほうが多少老けているような印象を持ちました。

 それは、ジュリーの話し方が、結構言葉を選びながら澱むことが多い、という印象からです。
 おそらくジュリーは、拓郎サンのように、話にインターバルを置けないラジオ番組などをやってない。 だから自分の考えを拓郎サンみたいに、ネタ的に流暢にしゃべることが出来ないんだ、と感じました。
 沢田サンは、私久しぶりに拝見いたしましたが、まあお太りになったことは置いといて(笑)、白髪が結構増えたな、という印象。 ヒゲも蓄えて(太ったの隠し?…笑)、なんか外見的に、「お太りになった小室等サン?」 みたいな(失礼…)。

 いっぽうの拓郎サンは、自分が66歳になっていることの不思議さを滔々と語りまくる。 これもラジオ番組でよくしゃべっていることなのですが、「大人になりきれてない自分」 という話です。 このことは、私自身でも感じることが多いですね。
 これって、寿命が長くなったことが大きな理由なんでしょうが、昔は子供や若者だった時のコンテンツが、そのまま年を経ても耐えうるものになりきれてなかったこともある、なんて感じたりしました。 マンガとかも子供用の域を脱してない。 ジュブナイルも同様。 音楽も、軽音楽などは子供が聞く音楽であって、大人の鑑賞には耐えられない、といったように。

 それが、今では青年用コミックなんかも成熟しているし、アニメだって難解なものがいくらでもあるし、なにしろ自分たちが若者だった頃に聞いた音楽が、そのまま何年も歌い続けられる、聴き続けられる、ということを、私たちは知ってしまっている。
 私なんかは仮面ライダーを未だに見続けている、というていたらくですが(笑)、自分が50近くにもなって、まだ仮面ライダーを見ているなんてことは、ちょっと若い頃は想像してなかった。

 それと同じように、拓郎サンは自分が若い頃に相当年寄りだと思っていた年代に自分がなってみて、あらためてその軽さというものに愕然としているのですが、同じ番組をやっている坂崎サンにしても、もう60近い。 なのに拓郎サンの幇間みたいに(笑)面白いことを次々とやって拓郎サンを笑わせ、呆れ果てさせている(笑)。 この構図って、アルフィーが売れる前に拓郎サンのオールナイトにゲストで来てやっていたことと、全然変わらないんですよ、30年以上たった今でも。

 番組ではそのアルフィーの高見沢サンがナビゲーションを務めておりましたが、この番組って、シリーズみたいに続くのかな? 「吉田拓郎の千夜一夜」 なんて題名、なんか 「スター千一夜」 みたいなんですけど(笑)。 若いかたは 「スター千一夜」 なんてご存知ないでしょうが、昔フジテレビで午後7時30分からだったか、45分からだったか(どっちかが 「クイズグランプリ」 だった)、月-金でやっとったんですよ、石坂浩二サンとかが司会で、「徹子の部屋」 みたいな番組を。

 大人になっても子供の時のコンテンツが有用な世界、というのは、社会が幼稚なままということも言えるし、そこから抜け出すことが出来ず、社会に出る必要を感じない人間を作り出す結果を招く、とも思います。
 何より無自覚で無責任な大人を排出する、という点で、子供に対する未来の責任を放棄してしまう、という副作用がある。
 拓郎サンや沢田サンは、自分が年をとって裏方に回らなかったのは、要するに自分のことが好きだから、という話で落ち着いていましたが、やはり自分というものが主体性をかなり持っていて、自分の表現したいものがある、という強い欲求があったからこそ、この仕事をし続けたんだろうな、と感じました。

 拓郎サンはこの歳になっても、自分の言葉で自分の歌を作り、同じ世代に向かって歌い続けている。
 これは、自分が若い頃に出会った音楽が、この歳になってもまだ有用である、ということが、大きなベースになっていると思います。 ポップかフォークかロックか分類は分かりませんけど。
 1960年代のロックスターだって、まだ活躍できているんですもんね。

 だいたい、番組の中で本人も言及していましたけど(オールナイトでもよく言ってることですけど)、拓郎サンの歌声というのは、若い時より歳をとった今のほうがだいぶ良くなっている、と私も感じます。
 これって結構ワタシ的には珍しいな、と思うことで。
 なにしろ、歳をとって声量が枯れちゃう人って、多くて。
 拓郎サンの場合は、ダミ声が一種の迫力なので、それが無理なく出せるようになった今のほうが、味わいが増しているんだ、と思います。
 

 拓郎サンがハマっている 「矢切りの渡し」 に関しては、ジュリーは 「ん~、まあ、別に…」 みたいな反応でしたけど(笑)、拓郎サンがハマってる、と聞いて私が思い出したのは、「宗右衛門町ブルース」 かな?とか(笑)、「24000回のキッス」 かな?とか(オールナイトのヘビーリスナーですなァ…笑)。

 この番組ってでも、シリーズ化してほしいですね、個人的に。

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2013年2月 9日 (土)

「最高の離婚」 第5回 自分から別れられない自分

 先週あの、オノマチサンの大爆発のあと、瑛太クンは何の因果か肋骨を3本も折ってしまい、入院(事情説明面倒なので略…笑)。 しかしその経過から、瑛太クンが元女房のことや綾野・真木夫妻(まだ夫妻じゃないか)を思っていることが判明。

 前回でもオノマチサンが、瑛太クンのことを 「面白い人」 という表現の仕方をしておりましたが、今回綾野サンや歯科医のお姉さんがやはり彼のことを 「面白い人」 という見方をしていた。
 私はこのドラマでの瑛太クンの性格に自分がダブるためなのか、彼のイヤな部分ばかりが見えてしまい、これまであまり彼が好きではありませんでした。 つーことは、私は私のことが嫌い?(笑)

 でも彼を 「面白い」 と評価する基準って、いったい何なんだろう? そんなことを考えながら、今回はこのドラマを見ていた気がします。
 そして出た結論は、「彼が結構本気で喋っている揶揄、醒めた見方、自分優位で話を進めようとする思考回路って、まわりから見れば滑稽にしか見えない」、ということであります。 このなかでも、「揶揄」 という部分は、彼が自分のネガティヴな部分を 「ある種の笑い」 で覆い隠そうとする自己武装なのではないか、という気がする。 自分のクールな見方が相手を憤慨させる、という経験則から、自分なりに面白い分析をしようとする。 それが結果的に 「揶揄」 という形で表面に出る。

 しかし今回のメインテーマを考えるとすれば、そんな彼の行動パターンについてではなく、「人って、自分のダメな部分、嫌な部分を変えようとする。 けれどもどうしても、そんな自分から別れることが出来ない」 ということからくるさまざまな悲劇、だったように感じます。

 そして今回長ゼリフを脚本家の坂元サンから強いられたのは(笑)、真木よう子サン。 確か瑛太クンと別れた理由を喋ったのから、2回目の登用です(笑)。
 その激白は、前回の尾野真千子サンの怒涛の演技に比べれば、確かに物足りない部分もあるかもしれない。 でも真木サンにはこのドラマで真木サンに与えられた性格というものがあり、彼女はその設定をかなり深い部分まで呑み込んで演技していたと私には思えます。
 それは 「これまで自分をひた隠しにしていたから、とっさに本当の自分をきちんと表現できない」 という設定であります。 オノマチサンの場合、やはり自分の本音というものは瑛太クンには隠されていたけれども、かなりその激白には自分の素(す)が見え隠れする。
 真木サンは、本当の自分、というものを、彼女の出身地である青森の言葉で表現しようとしました。
 でもだからと言って、これまで自分が否定してきた部分を、容易に表に出すことには、躊躇があるのです。
 彼女が否定してきたのは、浮気していた父親を恨み愚痴り泣いていた母親。
 そんな母親を、彼女は軽蔑した。 そして表面上、お父さんっ子になった。
 だから綾野サンの浮気にも、彼女は母親と同じような見苦しい反応を示すことを拒絶した。
 人間的な感情を排し、超然として構えることによってです。

 それにしても、第3話で真木サンが話していた、漁師をしていてサメに食われて死んだ、という父親の話。

 彼女はお父さんっ子であったために非常にショックを受け、ジュディマリの歌に救いを見い出して歌手になる、とまで一時は決意していた、というのですが(以前当ブログで説明省略したけど結局書いちまった…笑)、これってかなり、自分の本心に仮面をかぶりまくった行為だった、ということなのではないでしょうか。

 つまり、真木サンは母親を嫌いになるあまり、反作用として浮気者の父親を好きになっていった。
 でもどこかでやはり、父親を拒絶する感情はあった、と思うんですよ。 だから浮気など絶対しそうもない、生真面目でそこが笑える瑛太クンを同棲相手に選んだ、ということになるでしょうか。
 でもやはり父親のことをちゃんと否定はできない。 その思いの強さのために歌手まで夢見たのですが、それを瑛太クンから 「なにこの便所カバーみたいな音楽」 とか 「サメにだけは食われたくないよね」 と言われたことで、自分の中にある自分の本心をごまかしている感情、父親憎しの感情が、図星みたいに暴かれてしまった。

 だから 「こんなやつ死ねばいいのに」、とまで、瑛太クンのことを憎悪してしまった。
 でもこれって転嫁ですよね。 この感情って、本当は真木サンが、潜在的に父親に持っていた感情だったわけであり。

 つまり彼女は父親がサメに食われて死んだとき、「こんなやつ死んでよかった」 と心の底で考えていたかもしれないんですよね。

 今回彼女は綾野サンから、「今度は本当に結婚しよう」 というオファーを受けたとき、初めて自分が仮面をかぶる必要のない現実に引き戻されている。
 だからこそそんな事態になったことに、最初は素直に喜ぶのですが、綾野サンが浮気をしていた、という事実を彼女に喋ったときに、もう仮面をかぶっていた自分をごまかすことが出来なくなる。

 彼女は綾野サンを平手打ちにし、「本当の自分」 の象徴である青森弁で、自分の感情を激白します。
 今回冒頭、いったんは反故にした温泉旅行行きを承諾したのも、浮気相手の女から 「なんか、かわいそう」 と同情されたからだった。
 それは、泣きながら恨み事を言う母親に対して自分が持っていた感情と、まったく同じ。
 自分のなかで否定し続けていた母親が、紛れもなく自分の中に生きている。 母親と同じ感情を、自分も確かに持っている。

 彼女が今まで浮気性の綾野サンとつきあってこれたのも、そんな人間的な感情を殺すことが出来たからなのでしょう。
 相手の綾野サンが、まずどことなく現実離れしている。
 彼はまっとうな倫理観も持たず、ただ空気のように、人間的な感情を押し殺している。 過去をごまかして自分を偽って生きている真木サンと、ベクトルが合致するんですよ。

 それが、綾野サンが真木サンのその性格を、「どこまでも自分を受け入れてくれる存在だ」 と認識してこれまでの過去を反省し、今までふわふわ生きてきた自分を変えようとして踏み切った婚姻届を見て、容赦なく本当の自分の感情に直面せざるを得なくなる。

 真木サンは結局、今まで許せてきた綾野サンの浮気の話を許せなくなり。

 婚姻届は、メチャクチャに引き裂かれるのです。

 対する綾野サンのほうも、結構悲惨です。

 彼も、過去の 「カシオペアに乗っている過去」(それが何なのかはまだ明らかにされませんが)に受けた影響で人間的な感情を失っていた、とおそらく思われるのですが、そんな自分と決別するためにちゃんと身を落ち着かせようとしたら、完全に拒否されてしまうのですから。

 彼は真木サンに拒絶されて、再び感情を押し殺したまま、部屋を出ていきます。
 手に握られた、ふたつのリング。
 いったんはそれをしまい込もうとするのですが、彼に浮気の告白をさせた原因を作った女から、いたわりの電話が入り、再び元通りの、感情のない世界に身を投じるために、そのリングを投げ捨てる。

 これ、いったんインターバルを置いて電話がきっかけになったことで、指輪を捨てる説得力が増している気がするんですよ。 いきなりじゃ、いかにも昔のドラマっぽい(笑)。

 真木サンも、綾野サンも、本来の自分に拘泥されてきちんとした幸せをつかむことが出来ずにいる。
 もともと一緒に暮らそう、というとき、価値観が合うことがその判断基準になると思うのですが、このカップルの場合、真木サンが自分を偽装していたから関係が崩壊しなかった。 綾野サンにしてみれば、自分を偽装していたわけではないけれども、真木サンと暮らしている自分は、自分が本来いるべき場所から逃げてきた自分だった。
 そして真木サンが自分をさらけ出したとき、同時に綾野サンが逃げることをやめようとしたとき、今までふわふわとファジーないい状態を保ってきた関係が、崩壊した。

 この構造にはうなります。
 前回のオノマチサンみたいな、分かりやすいうならせかたとは別の意味で。

 この、人間的な感情、という部分。

 実は瑛太・オノマチペアのほうには、きちんと備わっている気がする。
 今回綾野・真木ペアと一緒に行った温泉旅行で、いったん保留になった婚姻届を出す大きなきっかけをふたりして作っているし。
 あばらを折った瑛太クンにコルセットを巻くオノマチサン、そのやり取りも、ふたりはどこか、人間的な感情で結びつきあっている、という感想を抱きました。

 それにしてもギックリ腰とか入院とかコルセットとか、性格だけでなく、状況的にも最近の自分と酷似しまくっている、瑛太クンなのであります(笑)。

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2013年2月 8日 (金)

「八重の桜」 第5回 強い思いで行動せよ

 「土はあっだげえ(温かい)からなし。 武家のおなごがおかしいけんじょ。
 (土をさわりながら)おいしいものを育てでくれで、ありがとなし」

 覚馬のもとに嫁いできたうら(長谷川京子サン)が、育った野菜に向かって話をしているのを見て、「話しても、豆には分がんねえよ」 とちゃちを入れる八重ですが、まるでロボコップ専業主婦みたいだと思っていたうらに、このような優しい一面があることに、徐々に気付いていったようです(つーものの、結局育った野菜は食っちまうんですが…笑)。
 いずれにせよ八重はここで、なんにでも感謝をすることの良さを、それとなく学んでいる気がする。

 「あれ?あずき?」 と、畑から帰ってきた八重。 うらが、覚馬との子を授かったのです。 そのお祝いに、赤飯を炊こう、というのです。
 この うら、覚馬を成敗しようとした攘夷派の男を止めようとしてもみ合ったすえ転倒し、子を流してしまいます。 ざるに上がったあずきが悲しい。 結局赤飯に使われることのなかった、このあずきの演出は、さりげなくうまい、と感じます。 うらが覚馬の命を救ったと同時に、その犠牲となった、小さな小さな命。 小さなあずきの豆粒は、その哀しみを象徴しているかのようです(どうもご当地大河びいきが続いてるな)。

 しかしもっと大掛かりな演出だったのは、このうらの命を張った行動と、吉田寅次郎(松陰、小栗旬クン)の行動がリンクしていくさまではなかったでしょうか。 まあ次元は違いますけどね。

 その前に、この攘夷派の男が訪ねてきた際、覚馬は横浜から戻った川崎尚之助と話をしていたのですが、そのとき勝先生と一緒だったこととか、スワ生麦事件に遭遇?みたいなこととかは置いといて(笑)、さびれた漁村だった横浜が開国を機に急速に発展している、ということには刮目します。 攘夷派がいくら時を元に戻そうとしても止めることのできない庶民のバイタリティ、というものにです。
 そしてそこですでに売られていた外国の土産物に目を光らせる八重にも、新しいものに興味を奪われる、ハンサムウーマンとしての萌芽が見られる気がする。
 ご当地大河びいきは続きます(笑)。

 流産したこともそこそこに、うらは表向き元気そうに、早期復帰します。 畑にやってくると、八重が弟の三郎と一緒に、豆の丹精をしている。
 「豆がよろごんでるみでえだ。 これで伸び伸び出来るって」 八重は言ったそばから、うらが泣いているのに気付きます。
 新婚以来緊張していた心がつい緩んだのか、あまり打ち解けることのなかったように思えた八重が自分の思いを察して野菜に話しかけていることがうれしかったのか、この豆の葉の命を、失った自分の小さな子供の命に重ね合わせたのか。 やはりここにも、あずきからの仕掛けが隠れている。
 このシーンには、ちょっと自分も涙腺が緩みました(ひいきの引き倒しかな)。

 前述のとおり、このうらの捨て身の行動と、寅次郎の白洲での激情は物語的につながっているように思えます。
 寅次郎の死を知った覚馬ですが、寅次郎が攘夷の過激派みたいになっていたことと、自分が攘夷派に襲われたこととがあいまって、素直に悲しむことが出来ずにいます。
 八重はこうした政治的なことに首を突っ込むのが好きなようですが(笑)、「吉田様は誰も殺してねえし、誰も傷つけてはいねえ」 という論理においては、確かに稚拙な部分がある。 けれども、政治的な感情で個人的な人間性を否定することに引っかかりを感じることは、正常なことだと思うのです。
 たとえば支持する政党とは違う政党だからその党員も議員も、なにからなにまで信用できない、とするのが間違っているように。

 寅次郎が白洲で激しく抵抗した時、彼が攘夷の先鋒になった理由がつまびらかにされます。

 「こたびの大事、私ひとりなりとも死んでみせれば、あとに残った者たちがきっと奮い立つ。
 この国を守るために!
 天朝も、幕府も藩も要らん!
 ただ身一つで立ち上がればよい!
 立ち上がれぇっ!

 至誠にして動かざるものは、未だこれ、あらざるなり!」

 誠を尽くせば、動かせないものなど、これまでにひとつもなかった、という至言ですが、開国を、周囲の意見も聞かずに推し進めるやり方に、寅次郎は反発したのであり、そのための井伊大老の配下の暗殺企てであった、という論理になりましょうか。
 ここらへんの論理は、少々飛躍的で分かりにくい側面がある。
 しかも誠を尽くすということと、気に入らぬ者は殺すという論理は、ちょっと矛盾している感が否めない。
 ドラマがそこに解釈のメスを入れたと私には思えなかったのですが、「誠を尽くす」、至誠ということに、覚馬が反応したことだけは強調されていた。
 勝先生からもたらされた、寅次郎の最期の様子が書かれた書状(ホントにそんなものを勝先生が山本覚馬に書いたのかはよく分かんないですけど…笑)を読み、降る雪の中でたたずむ覚馬。

 「あの人は、また馬鹿正直に…。
 お白洲で訴えたんだ。

 『ご公儀のやり方はまつがってる。 このままじゃいげねえ』 ど。

 そのための命(いのづ)がけだ。

 精いっぱいの誠だ。

 無謀であろうど…。

 愚かであろうど…。

 ひとりの人間に…。

 それ以上…。

 なにが出ぎる…」

 このつぶやきを聞く八重にも、誠を貫く、強い思いで行動することのなんたるかが、注入されていくかのようです。 雪に映える綾瀬はるかチャンの表情が美しい(またこれもひいきかな)。
 おそらくうらの行動と寅次郎の行動は、八重の中では同時にインプリンティングされている気がするのです。

 そして物語は、正月の獅子舞いの集団がかち合う場に移ります。
 どうやらこの喧嘩は、当時の風物詩であったようなのですが、いざ乱闘が始まろうかというときに、ひとりの子供がそこに紛れ込んでしまう。 それをとっさの機転で守る八重。 その場は機転によって両方が舞うことで決着を見るのですが、このことから、「同じ日本人同士が争ってなんになる」 というドラマの論理が展開していく。
 覚馬は分不相応なことを承知で、桜田門外の変で水戸藩に下されようとしていた処分に意見書を提出するのですが、これは寅次郎の思いと、獅子舞の一件がミックスされた末の 「筋道をただす誠の心からくる行動」 だということが出来る。 覚馬の無謀な意見書は握りつぶされますが、藩主容保(綾野剛サン)の思いは覚馬と同じだったようです。

 水戸藩処分の流れは一気に変わるのですが、ここで容保には京都守護職としての任務が与えられることになり、「誠」 の一字を掲げる新選組との関わりが始まることを思うと、ちょっと皮肉なような気もしてまいります。

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2013年2月 2日 (土)

「メイドインジャパン」 第1回 日本経済衰退の原因

 先週は裏番組の 「泣くな、はらちゃん」 を見ていた関係で、だいぶ見るのが遅れてしまったこのドラマ。 「泣くな、はらちゃん」 は第2回までは、かなりイケてます(どっちのドラマを宣伝しとるのだ)。
 このところ体力不足でまともにテレビも見ることが出来ないのですが、ようやくこのドラマを見ることが出来ました。 って、もう今日は、その第2回目ではないか(ドラマ自体は連続3回)。 これは、その第1回目のレビューです。

 メインバンクから3か月後の取引停止を提示され、倒産が不可避となった巨大電機メーカー、タクミ電機。 会長(岸部一徳サン)直属の部署として極秘裏に立ち上げられた再建戦略室に集まったのは、荒野の七人、もとい、七人の侍、もとい(ひつこい)7人の企業戦士。
 彼らの使命は、言わずもがな、父さんの会費、もとい(変換違い)倒産の回避であります。

 そのリーダーには元営業部長の唐沢寿明サン。 財務課長の吉岡秀隆サン、工場長の國村準サンなど錚々たる面々。
 とりあえず家内工業的な超弱小会社で働く身としては、こうした巨大企業の論理というものにはかなり疎いので、ドラマ的な体裁を基準として話を進めてまいりますが、最初の印象としては、唐沢サンと岸部サンの組み合わせで、数年前にフジテレビで放送した 「不毛地帯」 を連想し、吉岡秀隆サンがそれに絡んで、「Dr.コトー」 が混ざってるよ~な印象?(笑) いずれにしても、ドラマ好きとしては、このキャストにはそそられますね。

 ドラマは、営業の責任をとって子会社に飛ばされることになった唐沢サンが、部署での別れのあいさつをするところから始まります。
 まずそこから彼の性格が端的に把握できる。
 開けっぴろげで明るいけれども、言いにくいことをズケズケ言うから、人によってその評価が変わりそうな人。 イケイケドンドンでやってきたみたいで、敵も多そう。
 営業不振の責任をとっての左遷だから、いちいち言うことが自虐的でもあり、それをなんとも自慢げに話したりするから、ちょっとウザいかな、という感じ。
 ドラマに入り込めるかどうかは、この唐沢サンが演じる、矢作という男の性格に左右されます。

 脚本の井上由美子サンは、かつて私にいろんな傑作ドラマを見せてくれた人ですが、この矢作のウザさを強調した導入部分には、ちょっとしたハードルを見る側に設定しているように感じます。
 しかしそのハードルを見る側が飛び越えれば、ドラマにはちゃんと吸引力があり、井上サンの腕が衰えていないことが分かる。
 このドラマからは、綿密な取材がなされている匂いが、確実に実感できるのです。

 そして唐沢サン、吉岡サン、國村サンの主要メンバー3人は、岸部会長から産廃処理場に呼び出されます。 この状況設定も、いかにもドラマ的。
 ここで3人は会長から極秘任務を依頼されるのですが、どうしてここで?という疑問に、会長はこう語るのです。

 「ここは、家電品の墓場だ。 老いさらばえて休みを終えたモノ、生きたまま葬られたモノ。 ここに立つと、長く使えるいいモノを作らねばならん、と身が引き締まった。 おかげでタクミのテレビは、メイドインジャパンの象徴と言われた時代もあった。 だが、うちの製品は、あっという間に売れなくなった。 ここは、我が社の明日の姿だよ」

 ここで見る側が感じるのは、「長く使える」 ということは、買い換えのスパンが長くなることであり、必ずしも企業の業績にいい影響をもたらさないのではないか?ということです。
 しかし、我が国の家電メーカーは、それを克服してきた。
 それは、メーカー側が常に新たなビジョンというものを消費者に提示し続けた発想力の豊かさ、という要因があったことは事実です。 たとえば洗濯機でも、最初は一層式で脱水も手回しみたいにやっていたけど、二層式になり、全自動になり、消音設計になり、みたいに進化し続けた。 ラジオも、最初はラジオだけだったものにカセットをつけ、それがステレオになり、さらにドルビーシステムやメタルテープ、といった具合に付加価値をどんどんつけていった。
 でもそれでまた消費者が買おう、というのには、メーカーに対する信頼がなければならない。
 結局 「長く使える」 ということが、消費者の信用をつなぎ止める最大の手段であった、と思われるのです。

 会長から企業再建のオファーを受けた3人は、残り4人を集めるのですが、それを承諾する彼らの動機も、きちんと描かれている。 動機は大切です。 こうした部分からも、井上サンの語り部としての力を信頼できる。
 ある者は部署で干されている。 ある者は大量リストラを拒否するも、倒産すればそれ以上の失業者を出す、という比較によって承諾を決断する。

 そしてリーダーの唐沢サンや、吉岡サンも、自分たちがどうしてこの極秘プロジェクトを受諾したのかを互いに話すのですが。
 吉岡サンはもともとタクミ電機には中途採用で、前の会社でも同じような業務に携わり、結局倒産させてしまっている経験から、この業務の企業としての本音部分をわきまえています。 いわく、「失敗した時に、首を切りやすい。 つまり 『捨て駒』」。
 それに対して唐沢サンは、持ち前の強気な発想で、こう切り返す。 「『捨て駒』 上等。 そっちのほうがよっぽど面白い」。

 ここらへんのやり取りは見ていて痛快です。 開き直った人間がなにをやるのかには、ドラマ的な期待感が高まるものです。

 その唐沢サン、本当の動機は、女房と離婚の話が持ち上がっていて、金が要るからなのだ、と言います。 カッコイイことを言っても、個人的な理由で会社が潰れたら困る、と考えているのです。
 吉岡サンにしても、やはり妻が身重なこと、つまり個人的なことが最大の動機となっている。

 こうした動機付けはしかし、このドラマの根幹的な部分に深く関わっているのではないか、と私は感じます。

 つまり、唐沢サンも吉岡サンも、会社に対する忠誠心とか、心意気で再建業務をやってるわけではない。
 それはとりもなおさず、企業にそれだけの魅力がない、ということに相通じている。

 このタクミ電機の場合、現在の社長は、岸部サンの息子である、及川光博サンが取り仕切っています。 要するに世襲。 岸部サンは息子に失望し、再建がなったあかつきには首を切ろうとしている。 経営者としての資質がない、と判断しているのです。

 じゃ経営者の資質って何なのか。

 おそらくそれは、人間的な魅力なのだ、と思われます。

 まあ日本企業の経営者として代表的なのは、松下幸之助サンとか本田宗一郎サン、ということになるかと思いますが、この人たちに共通するのは、経営理念の道理がきっちりしていて、人間的に慕われやすい、ということになるでしょうか。 社員が 「この人にはついていこう」、という吸引力。 おそらく高度経済成長期の浮揚力には、リーダーの資質というものが大きく関与していたように思われるのです。
 これらの経営者は、自社の社員をきちんと人間として評価する能力というものを、生来備えていた。 ひとりひとりの社員を、きちんと尊重していた。

 それがいつの間にか、企業の業績を上げることが第一義とされるようになり、社員は会社の部品と認識され、経営が立ち行かなくなれば切る。 切ることを前提としたいから、次に正社員の数を減らし、契約社員だらけにする。

 それは、コストカットを余儀なくされている経済の現状も確かにあるんですけどね。
 だいたい社会保険とか、負担が大きすぎて払えないから、正社員なんか採用できないし(あ、内情しゃべっちゃった…笑)。

 こんなときモノを言うのが、経営者の人間的な魅力だと思うのですが、そういう大きな人って、最近あまりいないもので。
 まあ企業名をいうのは憚られますが、なんか最近、顧客をバカにしたようなコジキ経営をしているような外食産業もありますよね。 ああいう経営者には、ホントついていきたくないって思う。 意識して買いに行かなくなりましたよ、私、そこに。

 それはともかく、企業が社員のことを軽視する、いや、せざるを得ない状況が、日本経済の衰退の原動力となっている。 個人的な事情で決断し行動している唐沢サンや吉岡サンの動機は、それを如実に反映している、と思われるのです。

 そして個人を大事にしない企業の体質が、才能の海外流出を招いている現状を、このドラマはあぶり出していきます。

 それが、唐沢サンによってタクミ電機を追われ、中国へと渡った、高橋克実サン。
 彼はリチウム電池の技術を中国に売り渡した、いわばタクミ電機倒産の引き金を引いている男。 その技術は高橋サンがタクミ電機時代に開発したもので、タクミ電機の所有財産。 法的手段が有効なのは目に見えている気がするのですが、高橋サンはなにが自信の根拠なのか、まともに取り合おうとしません。

 なんでかな。

 でもその説得力を増しているのが、唐沢サンたちが渡った、中国(上海)の現在の、圧倒的な威容です。

 ものすごい交通量、信号もまるで無視のバイタリティ、タクミ電機の本社ビルも大企業らしかったけれど、それをはるかに凌駕するような巨大ビルの林立。
 まあ、新幹線の事故とか橋の崩落とか、中国の建設技術のアレさが断片的に伝わってまいりますから、日本人としては 「こんなの形ばかりで手抜き工事が横行してるんだろ」 みたいに見くびってしまいがちなのですが、笹子トンネルの事故などを経験してしまってからは、日本だって大きなことは言えなくなってるし。

 何よりドラマ的な説得力だな、と感じたのは、工場内を案内してもらっている唐沢サンたちが、中国語しか話そうとしない高橋サンのあとをついていくとき、工場が昼休みか終業時刻だかで、従業員の中国人たちが、どっと通路を歩いていくシーン。
 彼らはなにしろ膨大な人数で、唐沢サンたちと反対方向に、うねりをあげて流れていく。

 日本がリストラだなんだと汲々としているのに、こちらはその10倍の人口を抱えて、ちゃんとやっている。 低い賃金で働かされてるとしてもですよ。
 だいたい日本だって、今じゃデフレから抜け出せなくて、チマチマとやっとるじゃないですか。 低賃金の中国とどこが違うのか。

 そんな人海戦術でガーッとやられたら、いくらこっちが 「法的に有効」 などと見栄を切っても、押し切られてしまう。 尖閣のこともあるしね。 ドラマの先行きにも、そんな危惧を抱いてしまうのです。

 ボーイングの故障に日本の技術が大きく関わっている、などということを聞くと、まあ他国製の制御システムとかに問題があるとしても、日本の技術力の低下に思いが行ってしまいがちな今日この頃。 町工場でも経営の悪化で技術の継承が行なわれなくなり、やはりメイドインジャパンを誇れるような時代が、静かに終焉を迎えているのではないか、という状況を、どこまでこのドラマが表現してくれるのか。 あと2回、という短いシリーズですが、単なる高橋サンの遺恨の話になってしまうことなく、深いところまで考えさせてくれることを期待します。

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「最高の離婚」 第4回 憎しみも雪のように

 おことわり 初出時より若干手を加えました。

 「♪ア~イラ~ビュ~ア~イラビュ~、い~つまでも~いつまでも~」 と、「星影の小径」 を歌っていた尾野真千子サン。 少しの酒で酔い潰れた瑛太クンは、「ちあきなおみヤレ~っ」 と寝床で騒ぐ。
 確か第2回でのそんなシーンを見ていて、尾野サンは、実は瑛太クンのことを今までも、そしてまだ好きなのだ、と思っていたのですが、女はそう単純じゃない。 一度見限った恋を復活させるのは至難の業だ。 第4回を見ていて男の私としては、そういう感想を持ちました。

 長い長い怒りのシーンのあと、オノマチサンが最後に放った一言。

 「あなたが好きなのは、自分だけなのっっ!!」

 耳朶にその言葉が残ったのは、何も瑛太クンだけではありません。 私もこの言葉を反芻しながら、この言葉はでも、彼女が我慢に我慢を重ねたからこそ膨張し降り積もっていった、憎しみの言葉だ、と感じたのです。

 このドラマでの瑛太・尾野夫妻を見ていると、どちらも互いに、お互いを思いやっている部分があると感じます。 でもそれは相手に伝わることがなく、互いに 「自分はこんなに相手を思ってしているのに」 という苛つきに変わっていく。
 夫婦がうまくいかなくなるのは、こうした積み重ねによるものじゃないんでしょうかね。
 たとえば、「ありがとうという言葉は人生の潤滑油」 などと申しまして、夫婦の間でも 「ありがとう」 と事あるごとに言っていれば、関係がそんなに悪化することはない、といわれますけども、なかなかそう単純に出来ないのも、夫婦というものなんじゃないのかな。
 つまり生活を一緒にすることにおいて、どうしても自分と相手のリズムというものがシンクロしてしまい、もうひとりの自分がそこに生まれてしまう。 仕事をしているのも、もうひとりの自分のためにやっている、家事をするのも、もうひとりの自分のためにやっていると錯覚してしまうために、「自分にお礼を言う必要もないだろう」 という思考に陥ってしまう。

 知ったよーなことを申しておりますけどね(笑)。

 先週、降り始めた雪の中で、瑛太クンが真木よう子サンに対して、まだ綾野剛サンが真木サンとの婚姻届を出してない、という事実を話すことを、躊躇する場面から今回始まります。
 なぜ躊躇したのか、というと、やはり自分が首を突っ込むことで大なわとびの縄が引っ掛かってしまう、というジレンマを思ってのことなのでしょう。

 翌朝、朝帰りした綾野剛サンが、雪の降り積もった街を一望できるベンチに座り、見ず知らずのおじいさんと話をしています。
 これってよく、タイミングよく撮影できたな、と思う。 おそらく半月ほど前の、成人の日の大雪の時でしょう。 この降り積もった雪が、「伝わることなく人の心に降り積もっていく怒りや憎しみ」 の象徴になっているような気さえする。

 特段罪悪感を抱くことなくふわふわ生きている綾野サンにも、今回悪意を持った女の仕業によって、真木よう子サンの伝わることのない怒りが、結局降り注ぐことになります。
 憎しみは雪のように降り積もり、冷えた心によって凍結し、そして都会の雑多な粉塵のなかで、醜く黒く、変質していく。

 今回オノマチサンの怒り大爆発のシーンへとつながる要因には、まず瑛太クンの500円ハゲがことの発端になっています。
 これをあざとく見つけたオノマチサンは、「や~いや~い」 みたいに囃しながら、アロエを買ってくる気遣いを見せています。 でもまずもう最初の段階で、気持ちのすれ違いが生じている。
 いきなり 「や~いや~い」 ですから、プライドの高い瑛太クンはいたく傷つくわけですよ。 そしてこうした円形脱毛症というのは、ストレスによって起きることを知識として知ってますから、「誰のためにこんなストレスを感じているんだ」 という怒りにつながっている。 言わずもがな、オノマチサンのせいだと感じているわけですよね。 その当人から囃したてられるのですから、「なんだバカヤロー」 by猪木みたいになっちゃう(笑)。

 でもそれに対してアロエを買ってきたオノマチサンに、瑛太クンは面食らう。 「ありがとうと言えばいいの」 と、気持ちを伝えるいちばん簡単な方法を逆にオノマチサンから指摘され、うまくそれが言えなかったために、ロールキャベツを作ってその意を表そうとするのです。
 ここには、おそらく過去に、「ロールキャベツが好き」 というオノマチサンが喜んでいた、とかいう学習が瑛太クンの側にあったからそうしたのでしょうが、いっぽうで、オノマチサンは何を作らせてもマズイ、ダメだ、という見くびりがあるから、料理で感謝を伝えようとする、ちょっとエラソーな判断が潜んでいるわけです。

 けれども、なんか上機嫌で帰ってきたオノマチサンは、ボーイフレンド(平重盛…ちゃう)のために(弟妹のためか)作ってきたいろんな料理をタッパーに詰めたものを次々披露するのです。
 このボーイフレンド、オノマチサンがバツイチだということを知って、「結婚も離婚も、幸せになるためにすることじゃないですか」 という目からウロコ理論を展開するのですが(笑)、実際オノマチサンは、このボーイフレンドの新理論にちょっとなびいている気がする。

 そしてこのタッパー。
 オノマチサンにしてみれば、「残り物を詰めたんじゃない、ちゃんと仕分けしたのだ」 という頭がありますが、そこにはやはり、「元ダンナひとりだけのためにするほど私もヒマじゃない」 という意識が働いている。 元ダンナのためだけにするのならば、今居候状態の元我が家で作るはずですからね。
 あと、やはりボーイフレンドの弟妹たちに作っている、んでしょうね。 だからメニューもカレーとかグラタンとか、若年層が好きなのが中心だし。
 それに、元ダンナには自分の料理の腕をまったく見くびられているけれども、私だってこれだけのものが作れるんだ、みたいなデモンストレーションも見え隠れします。

 しかし瑛太クンにとっては、「自分以外のヤツに作るのにこんなにリキ入れるのか」 という苛立ちがそこから喚起されている。 そして同じ系統の料理ばかりなのもちょっと小ばかにしたくなる要因が入っている。 そして無駄になってしまった自分の作ったロールキャベツ、自分の思いやりが無碍にされたことへの怒りが加味されている。

 こういうのを擦れ違い、というのでしょうが、おそらく結婚してからというものずっと、ふたりはお互いの苛立ちを、グチグチと文句を言うレベルでは展開しただろうけれど、はっきりと吐き出すことがなかったんだ、と思うんですよ。

 相手のことを思う気持ちは、その苛立ちのなかで、醜く自分本位に変質していく。

 その結果、形式的にはもう離婚している(と思われる)ふたりは、行き場のない自分の思いを爆発させることになってしまった。 今回は特に、今まで愚痴を言う主体者ではなかったオノマチサンが。

 この前哨戦として、温泉旅行を計画していた真木よう子サンが、綾野サンのもうひとりの浮気相手が発覚したことによって、それを取りやめる、というちょっとした嵐があります。
 「具合悪いの?」「…いいでしょ。 …行きたくないって言ってるんだから…!」
 綾野サンは真木サンが何かに怒っていることを、おそらく自覚しているのですが、でもそんなことで心を煩わせてもしょうがないと思っている。 「分かった…」。

 「あ、お腹すいてな~い? お土産あるんだけど。 ヒヒ」
 上機嫌のオノマチサンが瑛太クンに訊きます。 仏頂面で座っている瑛太クン。

 そしてもらったテディベアを得意げに見せるオノマチサン。 この時点で瑛太クンは、相当カリカリしています。 でもその怒りを表面に出すことはしない。 静かにテディベアの蘊蓄などをしゃべる瑛太クン。 その 「こっちは頭いいんだぞ」 みたいな態度にちょっとイラっときたオノマチサンは、「なによ~。 そんなこと言わなくてもいいのにねー」 とテディベアと話をする。 命の通わないテディベアに不満を転嫁するようなやり口にも、瑛太クンはカリカリしていると思われます。

 「僕もロールキャベツ作ったんで」

 オノマチサンは誰のために作ったものか気になるの?と訊きますが、瑛太クンはそんなの気にならない、と強がりを言う。 気になってるのに。 自分が元女房のために気を動転させているというのが悟られたくないし、自分でもそんな自分が許せないと思っているからこその行動ですよね。

 「気にならないっていう話をあえてするってことは気になるってことでしょ?」
 「なんでそう難しくするかな話を」
 「私が誰かとご飯食べちゃダメなの?」
 「ダメだなんて言ってませんけど?」
 「『自由に恋愛していい』 ってふたりで決めたよね!」
 「決めましたよ?」
 「じゃいいじゃない」「いいよ」「食べようよ」「食べたくありません」
 「はぁ? あたしがよそでよく分からない男のために作った手料理の残りものだとそっちは勝手に思ってるだけなんだけど、別に気にならないと思ってるんだったら食べればいいんじゃないのと思うんだけど」「食べません、食べません! …オレは別にそっちがよく分からないしょーもない男のために作った食べ合わせの悪そーな手料理の残りもんだとはさらさら思ってないけど仮にそうだとしても別にこっちは気にならないけどただただ食べたくないなというじょーたいなんだけど」「食べたくないんだったら食欲ないんだって言えば済むことなのに 『しょーもない男』 だとか 『食べ合わせが悪い』 だとか、いちいちそちらの主観的な、否定的な意見をひとりで挟んでくるのは意味が分からないんだけど」「はいはい意味は分かりませんか。 オレはさっきからそっちがどこで何をしてようとカンケーないと言ってるのに、それなのにそっちの都合でいいように、拡大解釈して拾い上げの掘り下げのするってことは逆にある意味逆にそっちがこっちが意識してるとしかね!」
 「うるさいっ!」

 「うるさいってなに、うるさいっていうなっ!」
 「うるさいっっ!!」

 瑛太クンの機関銃を無理やり奪うオノマチサン(ちゃう…)。

 「なによっ! せっかく持って帰って来たのに!
 チルドがこぼれないように、一個一個ラップで巻いてきたのに!」
 「たまにやるとそういう恩着せがましいことを言うんだよ」
 「自分なんか当たり前みたいな顔するからね。
 どんなに頑張って料理作っても、『へーこんなもんか』 みたいな顔して食べるし、全然ほめないし!」
 「いちいちほめなきゃしないっておかしいでしょ?」

 「…外で食べたら、レジでお金払うでしょ?

 家で食べたら、『おいしかった』 っていうのがお金なの。
 言わなかったら食い逃げなの。
 あたしゃ家政婦じゃないんだから。
 仕事じゃないんだから。
 旦那さんに喜ぶと思うからやるんだから、やってたんだからっ!」

 「はぁぁ…。 食べればいいわけ?」 耳掃除をしながら、「うるせぇなぁ」 というように平静を装い、自分優位に話を進めようとする瑛太クン。
 オノマチサンは持っていたロールキャベツのタッパーを床に振り落とします。 中身が飛び散るロールキャベツ。

 「なにその言い方!

 なんでそんなこと言われなきゃいけないの?

 何なの?

 せっかく機嫌よく帰って来たのに!

 チョー楽しい気分で帰って来たのに!」

 「それはそっちの勝手だよ…」「勝手ですっ!
 …
 でもああこういう楽しい感じ、久しぶりだな、こういうのあったかいな、こういうのあの人にもわかったらいいのにな、こういうの、あの人にも分けてあげたかったなって、思ったの! 勝手にそう思っちゃったのっ!
 私はもっと…もっとって言うとあなたバカにするけど、…あたしはただ、…あたしはただ…別に普通の家族になりたかっただけで!」

 「普通の家族って何だよ…?」

 「いちばん最初に思い出す人だよ。
 いちばん最初に思い出す人たちが集まってるのが家族だよっ!!」

 偉そうなことを話していると気付いたかもしれないオノマチサンは、我に返ったように、ぶちまけられたロールキャベツの掃除をし始めます。

 「いちおうさ、分かんないけど。 分っかんないけどさ! この人のこと好きだなあって思って結婚したんだし。 あんまり言ったことなかったけどさ。 私あんまり人のこと好きにならないし。 だいたいあの頃(大震災のあと?)そういう感じずっとだったし。

 仲のいい派遣のコと、安くておいしいランチ見つけることとか、年イチで海外行くこととか、そんなことばっかり考えていたのに、
 だからハマサキさん! あなたのことだけど!
 ハマサキミツオサンと地震のとき知りあって、そういう感じのことになって、はじめ、最初のうちは、勘違いなのかなって、不安だから一緒にいるだけなのかなーって思ってたけど、あれー、あれあれーって、最近なんか、ハマサキミツオサンのことを思い出しちゃうなーって思って。 いちばん仲のいいコと飲んでる時も、なんかなにもないのに、落ち着かなくなったり、料理作ってうまく出来て、ひとりで食べるのもったいなくなったり、夜中にテレビ見て笑ったときとか、そんな全部セットでくっついてきちゃって、ハマサキミツオサンの顔思い出しちゃって。
 一緒だったもっとよかったなーって、で会ったら会ったで会わなかった時間がそういうの全部くっついてくるから、あーあたしテンション高くて気持ち悪い~って思って。

 間違いないわ。

 思い出すだけでハンパないわ。

 あたし好きになっちゃったんじゃん、好きになるってこういう感じだったんじゃんって。

 でも。

 恋とか愛とかは違うから。

 勘違いしちゃいけないよって。

 自分に言い聞かせて。

 恋とかなんて、人生のわき道だし。

 あんまり始めちゃいけないよって、言い聞かせて。
 だいたいもって、性格全然合わないの分かってたし。

 いちいち腹立つことあったし。
 ないないないないないわーって思ってたけど。
 だめ。

 この人面白い人だなーって。
 ただ真面目なんだなーって。
 ウソがない人なんだなーって。

 だいたいなんか、人生とセットで考えるようになっちゃって。

 いつかそのうち、夫婦っぽくなれるもんだと思ってた。

 フッ…まあ…なれなかったじゃん」

 元女房の打ち明け話に心がほだされたような格好の瑛太クン。 「オレはまだ…」 と殊勝な態度に変わっています。 が。 拭き掃除を終え、いったん怒りの火が消えかけたオノマチサンが本当に怒りだしたのは、ここからなのです。

 「子供が出来たら変わるのかなーと思って。
 …で、あなたに言ったら、…」

 後ろ向きのまま、オノマチサンは瑛太クンが大事にしていたミニ盆栽を、床に投げ落すのです。

 「『子供なんか要らない』 って…!」

 次々棚の盆栽を振り落とすオノマチサン。 瑛太クンはたまらず止めに入ろうとしますが、それは自分の所有物かわいさの行動だと、オノマチサンはお見通しのようです。
 オノマチサンの怒り、憎しみのコアには、「子供を作りたかった」 というのがある。 おばあちゃんへの思いも絡んでいるかな。 だけどこんな盆栽のほうが、子供なんかよりずっとこの人は大事なんだ、という怒りが、またここで火に油を注いでいくのです。

 「分かってた…。
 分かってたよ。

 あ、この人はひとりが好きなんだ。
 自分の自由を邪魔されたくないんだ。
 あっそう! だったらいつだろ? いつになったらこのひと家族作る気になるんだろう?
 いつになったらこの人、家族思いやれる人になるんだろう?って。

 結婚して2年足らず、やっぱりずっと思い浮かべてた。

 山手線で事故があったら、うちのひと大丈夫かなって、店のお客さんが、病気で入院したって聞いたら、人間ドック連れていかなきゃって!
 こたつがあったら一緒に入ること想像したし!
 小さな子供見たら、うちにも子供がいたらどんなだったかなって、想像したし、それは今でも変わんないんだよね!」

 オノマチサンは棚のものをあらかた床に放り出し、いつの間にか号泣しています。

 「なんか…なんか楽しいことあると、…ハマサキミツオサンのこと思い浮かべちゃうんだよね…!

 だから! だから最近、(解読不明」)」

 「分かった! 分かったよ…!」 瑛太クンは興奮するオノマチサンを優しく後ろから包み込もうとしますが、オノマチサンは抵抗します。 「なにがぁっ?!」

 「子供作ろ…。

 どうしても嫌だったわけじゃないんだよ。 タイミング的なこととかあったし。 …ついそういうこと言ったけど、今からでも遅くないし」

 「あたしたち離婚したんだよ」

 「もう一回結婚すればいいよ!
 ばあちゃんも喜ぶし、…。

 もう一回結婚し直して、なんだったら結婚式もしてさ。
 子供作って。
 で、家族になろうよ。
 あったかい家族を…」

 しかしその瑛太クンの提案を、オノマチサンは拒絶します。

 「バカじゃないのっ?

 なにそれ。

 どういうつもりで言ってんの?」

 「どうって…?」

 「ああ! あれかァ! 営業ときの感じ?

 『あったかいコーヒー入れましょう』 的な?

 『家族作りましょう』 って?」

 「なに言ってんだよ。 オレは」

 「『オレは』 なによ。 オレは何を考えてそういうこと言ってんの? 自分の都合でしょっ!」

 「違うよ…ユカ(オノマチサン)が言うから」

 「ユカが言うからっていうのも自分の都合なのっ!

 いい加減認めたら?

 あたしゃずうっと前から気付いてるよ?

 …あなたは…。

 あたしのことなんか好きじゃないの!

 あなたが好きなのは、

 …自分だけなのっ!!」

 上着を持って部屋を出ていくオノマチサン。 その上着には、瑛太クンが綾野サンを詰問したどさくさに紛れこんでしまった、綾野サンと真木よう子サンの婚姻届が。

 案の定オノマチサンは、こちらもケンカした真木よう子サンとばったり外で出会い、その、役所に提出されなかった婚姻届を、発見してしまうのです。

 その結末は置いといて、女性のかたがたには、いちいちごもっともなオノマチサンの長セリフでしたでしょうが、男の側から見れば、「じゃあ家の中で完全脱力モード、自堕落で過ごしてきたオノマチサンのほうはいいのか?」 という思いになりますね、結構。

 つまりオノマチサンにしても、自分の都合のいいように解釈してるところがないわけではない、自分中心で論理が回転している、という側面はある、と思うんですよ。

 別にアタシャ瑛太クンをかばってるわけでもないんですが。 私も 「こんなヤナ奴とオノマチサンはよく結婚したよ」 みたいに思っていたから、オノマチサンの怒涛のセリフのなかで、「どうしてもハマサキミツオサンのことが気になってしまう自分」 というのに、いまひとつ感情移入できなかった、つーか(笑)。

 それに、瑛太クンは、あわよくばもう一度やり直そうなんて言ってるが、私の乏しい経験から言うと、女性は一度別れた男には、とことん冷たいですよ(ハハ…)。 要するに、女性にとって男性というのは、自分を成長させるエサみたいなものだ、みたいに感じている部分も、まああるこたある、つーか(なんか奥歯に物が挟まって…笑)。

 まあ、甘っちょろいんですな、男ってもんは。
 だから瑛太クンが猫なで声で 「子供を作ろう」 なんて言うのも、その欺瞞がすごく見えるわけで(笑)。 オノマチサンがそれを 「いまさら何よ?」 って拒絶するのは、とても理解できる。

 それにしてもですよ。

 この怒涛のような長ゼリフを書く気になったのは、やはりオノマチサンの演技がすごかったからであり。

 正直やっとられませんよ、こんなの(正直だなァ…)。

 なんとか簡単にレビューさせてもらえませんかね、坂元サン!(笑)

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