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2013年3月

2013年3月30日 (土)

「泣くな、はらちゃん」 第9-10(最終)回 笑おう、たとえ心が痛くても(その5963)…完

(その5から続きます) 「はらちゃんは、帰ってしまうの?」 と訊く百合子さん。 笑顔で答えるはらちゃん。 「はいっ」。 「どうして?」

 「離れていても、私と越前さんは、両思いだからです。

 私は、幸せです。

 神様と両思いですから。

 こんな幸せな人は、どの世界にもいないと思います。 うんっ」

 「でも…意地悪なこと、あえて訊くよ?
 今は両思いかもしれない。
 でも、越前さんが、ほかの人を好きになってしまったら? はらちゃんよりももっと」

 「えっ…そんなことあるんでしょうか?」

 「あるとしたら?」

 「うーん…。

 それで越前さんが幸せでしたら、私も幸せです、ハイっ」

 「そう…。
 はらちゃん」

 「はいっ」

 「…その気持ちを、『愛』 っていうんだよ」

 「『愛』…ですか?」

 「そう。 この世界ではそれを、『愛』 って呼ぶの。

 その気持ちを、誰かに持てるってことは、とっても幸せなんだよ」

 「『愛』…フフッ」 屈託ない笑みで越前さんを見るはらちゃん。 越前さんも微笑み返しながら、涙がほおを伝わります。
 「もう会えない」 と思っているからこそ、越前さんは泣けてくるのだと思うし、はらちゃんの、その屈託のなさに切ない思いが高まっていくのでしょう。

 「百合子さんは、誰に 『愛』 ですか?」 はらちゃんは、また屈託のない質問をぶつけるのですが、百合子さんは答えをはぐらかし、「じゃあ、はらちゃん、頑張って」 と席を立ちます。

 このあとの展開を考えると、百合子さんが 「愛」 だったのは、マンガということになるのでしょうが、ここにはちょっと余計なことを考える余地があるような気がします(笑)。

 下世話なようですが、百合子さんが好きだったのは、自分のマンガの中に出てくる、「はらちゃん」 だったのではないか、ということです。
 矢東薫子時代から、この人には世帯臭がない。
 つまり独身のままという感じ。
 まあ、バツイチで子供もいて、みたいな可能性もありますが。
 でも、そうだとしても、百合子さんの理想というのは、常に 「はらちゃん」 だったのではないか。

 この人は、このドラマの当初から、はらちゃんを見ても、たいして違和感を感じていなかった。
 それは、以前にユキ姉と暮らした日々がそうさせたのだと考えるのが普通です。
 百合子さんの話によれば、ユキ姉に神様と慕われることがウザくなってきて、結局、未発表作品で彼らを全員殺してしまった、ということになっています。
 でも実は、百合子さんがマンガの世界から出てきてほしかったのは、はらちゃんだったのではないか。
 ユキ姉はマンガの世界ではらちゃんとおそらくかかわりが深いと思われますから、百合子さんはユキ姉に嫉妬している。 そんなユキ姉に付きまとわれるのが、実はとても嫌だったのではなかろうか、と。 そんな自分に嫌気がさして、いっそのこと、という感じで全員殺してしまったのでは、と。

 前にも書いた覚えがあるのですが、どうも私のイメージの中で、越前さんを演じる麻生久美子サンと、ユキ姉を演じる奥貫薫サンって、カテゴリー的にダブるんですよ。
 当初、ユキ姉というのは越前さんが自分のイメージでマンガの中に登場させているのでは、と思っていたのですが、その予想はやっぱり外れでして(笑)。
 ただ、物語の第1回にも見られるように、百合子さんはヤケに越前さんをフォローするようなところがあったか、と思えば、急に冷たいそぶりをしたりしていた。
 これは、百合子さんが越前さんに、ユキ姉と共通したものを感じ、以前の苦い思いと贖罪の気持ちを、同時に湧かせてしまっていた、という推測も、成り立つような気がするのです(深読みしすぎだっつーの)。 パートのリーダーだったからそうしていたともいえるし(笑)。

 でも、もし私の推測通りだったら、百合子さんが失踪したのも、ユキ姉の面影がある越前さんとはらちゃんが、世界を超えて両思いになっていることが耐えられなかったから、ということも言えてくるような気がするのです。

 下世話な憶測ですなぁ~。

 ともかく百合子さんの造形も、肝心なところすべてが曖昧なこのドラマの象徴のひとつであり、とても余計なことを考えさせる余地がある、ということです。

 「じゃあはらちゃん、頑張って。 元気で」。

 ファッキューのポーズでエールを送る百合子さん。 はらちゃんは、悪魔サンから矯正を受けたばかりのテーキリージーポーズで応えます。 「ん~~! ハイっ、百合子さんも、元気で。 頑張ってください!」
 「ハイっ! 頑張りますっ」 おどけて敬礼のポーズを取る百合子さん。 帰り際に、百合子さんは越前さんに、何か耳打ちします。

 これっていったい何だったのか。
 「あなたも頑張って」、と考えるのが普通でしょうけど。
 もしかしたら、「はらちゃん、私も好きよ」 だったのかもしれません(だから妄想)。

 ふたりと別れた帰り道、百合子さんは酔いを風に晒しながら、深く息をつきます。

 「はぁぁ…。 『愛』、か…」。

 百合子さんは思いついたように、懐に隠し持っていた、マンガを描くときの道具であるGペンを取り出します(あるんですよ、そういうペンが)(力の入れ具合で線の太さが変わるんですよ)。
 何かが吹っ切れたかのように、また歩き出す百合子さん。 まあ私の妄想通りに考えると、こらへん一連の百合子さんの心情は、かなり 「切ない」 ものがある、と言っていい気がします。

 そして越前さんの部屋。

 剥がしたテープのあとが残るマンガノートを、越前さんは持っています。
 はらちゃんは、オカーサンから預かったままの黄色い傘を持って、越前さんと向き合い立っています。

 「越前さん」

 「はい」

 「笑ってください」

 「えっ?…そんな、『笑ってください』 って言われても、笑えません」

 「そうなんですか?」

 「そうなんです」

 「越前さんが笑えば、世界は輝くのに。

 越前さんの住む、この素晴らしい世界が」

 「…この世界は、嫌なこと、いっぱいあるじゃないですか。
 そう思ったでしょ? はらちゃんも」

 「…きっと、どの世界にも、嫌なことはあるんです。
 私のいる、マンガの世界にも。 越前さんのいる、この世界にも。

 でも私は、…自分のいる世界が好きです。
 世界と両思いになりたいです。
 両思いは幸せです。

 越前さんも、世界と両思いになってください。

 …それが私の、いちばんの幸せです。

 『愛』 です」

 「…分かりました。

 …私も…。

 はらちゃんに 『愛』 です」。

 「越前さんが、この世界で、またどうしてもつらくなったら、そのときは、私はいつでもやって来ます。

 『愛』 ですから」

 「はいっ」

 「んんん~~ワンワンワン!」 うれしそうなはらちゃん。

 「新婚さん…楽しかったですね」。 はらちゃんは越前さんの後ろに回り、越前さんの持っているノートに手をかけます。 別れの時がやってきたのです。

 そして、ふたりでドアをしーめーてー、ふたりで名前けーしーてー、じゃなかった(こんなときにオチャラケる?フツー)ふたりで、ノートを開こうとします。

 越前さんはクスッと笑います。 「結婚式のケーキ入刀みたい」。
 「ん? 『ケーキ入刀』 とは?」
 こんなときでも基本的な性格設定を外さない岡田サン(笑)。
 「今度会ったときに(話します)」。

 ここ、見返してみて気付いたんですが、「私はいつでもまた来ます」 とか 「今度会ったときに」 とか、結構 『再会』 のフラグが立ってるな(笑)。

 でも、「結婚して初めての共同作業です!」 っていうケーキ入刀が、(この時点で)ふたりの最後の共同作業になってしまうなんて、なんて切ないんだ。

 はらちゃんは、最高のカッコイイ笑顔で、マンガの世界に戻っていきます。
 同時に、マンガの世界に描かれた、越前さんのシルエットは、消えていく。

 ここもまたその基準がはっきりしないのですが(笑)、たぶん 「戻らないと決めた」 人は、そのマンガの中からも消えてしまう、ということなのだろう、と思います。

 「おかえり」「おかえりなさい、はらちゃん」。
 マンガの世界の住人たちが、はらちゃんを迎えます。
 現実世界のある、上を見上げて叫ぶはらちゃん。

 「神様、…『愛』 ですっっ!」

 そしてはらちゃんのいなくなった日々。

 田中くんは副工場長になり、越前さんが工場長に昇格しています。
 ヒロシはマンガ家になるために奮闘中。 書きかけの作品のタイトルは、「はたらけ!ひろし」(笑)。 私の見立てでは道は限りなく遠い(笑)ですけど、まあヘタウマという手もございますし(笑)。
 いっぽう百合子さんは、矢東薫子として奇跡のカムバック。
 ただどうなのかな、おそらくはらちゃんの話は描いていない、と思います。
 もしそれをやっちゃったら、パラレルワールドのはらちゃんたちが出来ちゃう気がするので(「ドラえもん」 みたいだな…笑)。
 かまぼこ工場には、新入社員も入ったようなのですが、「これ誰?」 と思ってウィキで調べたら、はらちゃんのマンガを実際に描いていた、ビブオというマンガ家さんだった。 便利だな~、こういうときなんでもすぐに調べられちゃうんだから。

 そして悪魔さんのストリートライヴには、観客も集まり始めたようです。 「世界じゅうの敵に降参さ」 と同じメロディの 「でも恋をした、でも片思い」 という歌のモデルは誰なんですか、と訊くニブい権化の田中くんに、ブチ切れる悪魔さん。

 「オマエだよっっ!」

 「ええーーっ! す、すいませんでしたああ~~っ!」

 越前さんは自分のマンガの続きを描いています。
 でも、「自分が工場長なんて…」 と愚痴っぽくなりながら、「でも、全然うれしくないわけではないです」 と、はらちゃんに言わせています。
 このドラマ当初での、マンガ世界の住人たちの 「こんな暗い話ばかりはイヤだぁ~~っ」 という願いは、叶っているのです。

 笑いに包まれた、マンガの中の世界。 ノートの脇には、はらちゃんがくれた、ホワイトデーの大きなアメが(そ~か、それでこのあと雨つながりで…んなワケないか)。

 「はらちゃん。

 ちゃんと私は生きてます。 この世界で。

 大きくなんて変わらないけど、それでも、あなたと会うまでとは違います。
 まだ、世界と両思いじゃないと思うけど。

 でも、はらちゃん言ってましたよねいつか。
 『片思いは美しいんだ』 って。

 だから…。

 『世界に片思い』 です」。

 でも、一抹の寂しさからは、なかなか抜け出すことが出来ない越前さん。 「会いたいな…」。
 ノートをちょっと振ってみようとしますが、思いとどまります。
 そして口角上げて、笑顔を作って、また仕事へと戻る。
 「あなたが笑えば、世界は輝きます」。
 そんなはらちゃんの言葉を実行するかのように。

 つらいときでも、心が痛いときでも、笑っていよう。

 しかめっ面には、不幸が寄って来ます。

 いくら苦しくても、笑っていると、苦しみは弛緩してくる。

 天気雨。

 傘を持たない越前さんは、雨を避けようと走るのですが、転んでしまう。 投げ出されるマンガノート。

 転んで打ってしまった膝を痛そうにさすっていると、黄色い傘を持ったはらちゃんが現れるのです。

 「越前さん」

 「はらちゃん…!」

 「ハイ、両思いのはらちゃんです!」

 急速にあがっていく雨。

 エンディングです。

 そしてTOKIOの 「リリック」 が流れるエンディングロール。

 奮闘するはらちゃんに、マンガ世界の住人たちが応援するバージョンに変わっています。
 そして目から上が描かれなかった越前さんも、きちんと描かれている。
 粋な演出です。

 このラストは、私が感じたように 「これって振り出しに戻ったのと同じなのでは?」 ということかもしれない。
 でもこうして、呆れるくらい長~いレビューを書いてみて分かったのは、たぶん越前さんとはらちゃんの関係は、以前のようなものとは違うものに成熟する可能性を残しているのではないか、ということです。

 そしてやっぱり、ここには脚本の岡田サンの、はらちゃんたちへの愛情が、限りなく降り注いでいることを感じる。

 「どうせ」 なんていう自分はいないんだ。
 世界が自分に向かって攻撃してくると考えるのではなく、どんな世界でも、こちらから思いっきり、笑顔をいちばんの武器にして、好きになっていこう。 抱きしめていこう。

 きっと幸せは、そんなところにあるんじゃないのか、ということを、このドラマからあらためて、教わったような気がするのです。

 はぁぁ~。

 橋本のきまぐれで、長~い長~いレビューにつきあってくださった皆様、ご清聴(ご清読?)ありがとうございました。

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2013年3月29日 (金)

「泣くな、はらちゃん」 第9-10(最終)回 笑おう、たとえ心が痛くても(その5)

 その晩、ふとんを並べて一緒に寝る越前さんとはらちゃん。 越前さんの 「マンガの世界に帰ってしまうんですよね」 という問いに、はらちゃんは、意を決したように 「はい」 と答えます。 背を向けて、唇をかみしめる越前さん。

 これはどう見ても、「最後の思い出づくり」 でしょー(笑)。

 ここから、「はらちゃんとはもうお別れ」 モードのお話が続きます。

 翌朝、職場に行こうとすると、天気なのに雪が(ハハ…)。 はらちゃんの手のひらで、溶けていく雪。 「消えてしまいました」。 「もっと積もると、世界が真っ白になることもあるんです」、と越前さん。 「世界が真っ白に…」 想像がつかないようなはらちゃん。 このちょっとした会話でさえ、「はらちゃんが消える」「マンガの世界が、余白だらけになる」 という比喩が隠されているような気がする。
 傘を持たせるオカーサンに、はらちゃんは万感の思いを込めて、「いってきます!」 と挨拶します。 ますます、「これでお別れ」 だなあ。

 パートのオバサンのいーかげんな仕事に、勇気を出して 「これ、作り直してください」 と注意する越前さん。 パートの長沼さんはそれまでたてついてばかりいたのですが、最終回だから従います(笑)。
 ちゃうちゃう(笑)。
 やはり、オドオドしながらの注意よりも、気合の入った注意は、人を従わせる力を得るんですよ。

 「アンタ、やる気?」 すごむ長沼さんに、越前さんは答えます。

 「戦いは、好きではありません。 でも、防御はします。
 この世界を好きでいたいので」。

 このドラマ、私は 「♪世界じゅうの敵に降参さ」 の歌が、最終回には前向きな歌に歌詞が変わるのではないか、と予想を立ててたんですが、それはまたしても見事に外れました(笑)。
 でも、この越前さんのセリフは、それにとって代わる役割をじゅうぶん果たしているような気がする。
 新しい歌詞を作るヒマがなかったか(笑)元の歌のほうが結構ブレークしちゃったので作る気をなくしたか(笑)、もともと作る気なかったか(笑)。 岡田サンにそこらへんは訊いてみたいものです(笑)。

 
 そしてひとり立つ越前さんをガラス越しに見ていたはらちゃんは、「これで越前さんは、もう大丈夫」 というように、安堵の笑みを見せるのです。 ますます 「今日でお別れねーも~あ~え~な~い~」 です(古いねオレも)。

 田中くんが運転するミニバンに同乗したはらちゃん。
 はらちゃんがあっちの世界に帰ってしまうことを聞いた田中くんは、寂しさを隠せません。
 はらちゃんお得意の 「あれはなんですか?」 にも、名残惜しそうです。

 「もっと訊いてください。 『あれはなんですか?』。 訊いてください」。

 「あれはなんですか?」「マグロです」「あれはなんですか?」「ウサギです」。

 答えていくうちに、田中くんは、涙ぐんできてしまいます。 はらちゃんは満面の笑みで言います。

 「田中さん。 私たちは、ずっと 『両思い』 ですね」

 「ハイ! 両思いです」

 「私は、うれしいです」

 「うれしいです、僕も…」

 会社に戻ってきたはらちゃんは、悪魔さんにもお別れのあいさつをします。 「なんだ、つまんないの」。 「つ、『つまんない』 とは…?」。 「(答えるのが面倒でぶっきらぼうに)なんでもない」。 「越前さんをよろしくお願いいたします」。 「やだよ。 アタシを誰だと思ってんの? 悪魔だよ。 悪魔は神様にヨロシクなんてできないの」。 「えっ、そうなんですかっ!」。
 相変わらずの邪気のなさに、悪魔さんは 「元気でな」 と惜別の言葉を言います。 親指を下に突き出して、満面の笑みを浮かべるはらちゃん。 「ハイっ!」
 説明しよう(富山敬サンかよ)。
 これは 「ゴートゥーヘル(ファッキュー)」 のポーズですが、悪魔サンがはらちゃんに、イジワルで 「テークイットイージー(テーキリージー…笑)」 の逆を教えてしまったのを、はらちゃんが鵜呑みにしたまま使っていたのです。
 笑って、それを正常のポーズに直させる悪魔さん。

 居酒屋。
 かまぼこを 「んまいいーーっ!」 とほおばるはらちゃんに、越前さんも百合子さんも微笑みます。
 このはらちゃん。
 もう何回も食べているはずなのに、まるで今日初めてかまぼこを食べたように、いつでも感動が新鮮ですよね。
 それに、なんでも、知ることに対して貪欲で、そのことでも、いちいち感動する。

 これは、はらちゃんが子供のような心を持っている、というのとは、少し違うような気がします。
 子供だって、食べ慣れれば、別に感動しなくなるし、ずるいところも持っているし、気に入らなければぐずるでしょう。
 はらちゃんの、思ったことは正直に全部言ってしまうその無邪気さ、そして悪意のなさ、限りなくポジティヴなその気持ち。
 はらちゃんの純粋さというのは、すごく人間離れしていて、「作られた」 感が強い気がするんですよ。
 「神様」 に作られた純粋さ、とでもいうか。

 このはらちゃんの性格造形は、「日々を新鮮な気持ちで、当たり前のことに感謝しよう」 という教訓じみた理屈も導きやすいのですが、逆に言うと、「日々が新鮮だからこそ、狭い世界でも満足できるし、毎回同じことが繰り返されることも平気で受け入れてしまう」 という、「マンガ世界の閉じた処世術」 という性格も帯びてしまう。

 これって、「引きこもりの日々ループされる満足」 の比喩である危険性も、あるような気がいたします(また妄想が始まったぞ)。

 引きこもりの満足、というのは、日々新しい情報(ニュース、画像、動画など)がネットによって供給されたり、興味ある課題について簡単なコメントを発信できることによって充足している。
 でもそれって、結局せせこましく落ち着いてしまう気がする。
 人生というのは、使いきったほうが何倍も苦しくて楽しい。
 苦しみを伴ったほうが、楽しさというのは倍増するし、それは自分の生活力に直結するし。

 話が脱線してきたぞ(笑)。

 とにかく、「日々新鮮な気持ちで、当たり前のことに感謝しよう」 というのは、一生懸命生きている人には良薬だが、人生に背を向けている人にとっては、「ちっぽけな幸せで満足しよう」 という気にさせてしまう毒薬である、そんな両刃の剣である気がするのです。

 居酒屋でのシーンに戻ります。

 「私はなぜ、マンガの世界からこちらの世界にやってきたのでしょう?」 と百合子さんに訊くはらちゃん。 百合子さんには当然それに対する明確な答えがありません。
 ここらへんも、曖昧を押し通してしまう強引さがあるのですが、ちょっと反則技で、この設定を細かく考えてみると。

 もともと百合子さん(矢東薫子センセイ)が描いていた 「はらちゃん」 の世界というのは、越前さんが描いている狭い世界とは確実に違う。
 なのに、はらちゃんたちの 「いのち」 は、持続性を保っているんですよ。
 ユキ姉が矢東センセイによっていったん殺された前のことを覚えている、ということは、その点で矛盾を孕んでいる。

 それと、越前さんが、なくなってしまったマンガノートの代わりに新しいノートにはらちゃんを描いて、思いっきり振ったときも、はらちゃんは出てこなかった、ということがあった。
 この基準って何なのか。
 おそらく、前のノートには、越前さんの怨念がこもっていたとか(笑)そういう話だとは感じるんですが。
 でも、はらちゃんたちの命と記憶の問題も含めて、この奇抜な設定には、連関性がかなり欠如している。
 「そもそもどうしてマンガの世界から飛び出したのか」、という問いをここで拒絶することによって、この物語はその曖昧さを、自ら進んで肯定した、と言える気がします。

 「私のように、違う世界からこの世界にやってくる人はほかにもいるんでしょうか?」

 百合子さんははらちゃんの問いに答えます。

 「いるんじゃないかなァ?(驚いて後ろを見るはらちゃんと越前さん)。

 でもその人たちはみんな、ただのヘンな人って思われてしまって、気付かれてないんだろうね、きっと。

 人はさ、自分の世界を疑わなくなっちゃうんだよ。
 自分の世界だけが、世界だと思ってしまう。
 だから、世界の常識と違うことを言ったりしたりする人を、ヘンな人だと決めつけてしまうんだ。

 おかしいよね、そんなの。

 だって、今いるこの世界だって、誰かが描いている、マンガの中かもしれないでしょ?」

 この物語はここで、ある一定の結論に辿り着いた気がします。
 それは昔から使い古されたような理屈ではありますが、「常識を疑え」、というものです。

 ただこれは広く、民族間の意識変革まで視野に入れている話だと思う。
 特に戦争がもうかなり遠くの話になってしまって、戦後世代とやらも旧世代の仲間入りをしている現代では、特に考えなければならない問題なのではないか、と感じます。

 私たちから見ると、韓国人や中国人の理屈って、かなり見当違いだと思う時がある。

 でも彼らは、それが自分たちの世界の常識として考え、行動しているわけであり。

 同じように私たちの理屈や歴史観も、彼らにとっては理解しがたいものなのでしょう。

 いったいそれを解決するには、どうしたらいいのか。

 腹を立てたり民族意識を煽ったり元から拒絶したりすることがいいことなのでしょうか。

 まずは、ケンカをするくらい話し合ったらどうなのか、と私は思いますね。 お互いに向こう岸で遠吠えしているのがいいことだとは、全然思わない。

 少なくとも、自分のような、戦後20年後くらいに生まれた世代から見て、少年時代はまだ 「戦争はもうこりごりだ」 という雰囲気が残ってました。 「ウルトラセブン」 とかね。 正義のヒーローが、立場を変えればワルモノになってしまう構図とか。 そんなのに 「毒された」 とも言えるけど、戦争が悲惨なことだけは、間違いないと思う。

 今は戦争がどういうものか知らずに、感情に任せて好戦的なことを言っている人たちが、とても多い気がするんですよ。 「ヤレーヤレー」「無慈悲な攻撃早くやれば?」 とか、潰し合えばいいと思ってる。 私に言わせれば、かなり悩乱してる感じですね、戦争に対して。
 百合子さんの感慨みたいに、誰かのマンガの中にいるような気も、してくるというものです。

 またまた脱線した。

 おかげであと少しなのに、今日もタイムアップです。

 次回は終わらせます(たぶん)。

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2013年3月28日 (木)

「泣くな、はらちゃん」 第9-10(最終)回 笑おう、たとえ心が痛くても(その4)

 戻ってきた越前さんに突進する百合子さん。 ぶたれるのかと思って委縮する越前さんですが、百合子さんは越前さんを抱きしめます。 「よく、戻ってきたね」。

 ここでぶたれたのでは、また越前さんがこの現実世界を嫌になってしまいますよね。 でも、百合子さんは 「この世にはあなたを受け入れてくれる場所があるんだ」、ということを、敢然と示したかったのだと思うのです。 だから突進していって、その強い意志を示そうとした。
 「はらちゃんもこの世界で一緒に住むことにしたんですか?」 と訊く田中クン。 はらちゃんはそれには答えず、生前の玉田工場長(光石研サン)に聞いた、新婚生活というものを越前さんとしたいと言います。 しかし越前さんは 「さっき私のことを嫌いって言ったじゃないですか」 とこっちも敢然とこれを拒否(笑)。

 ふたりは新婚生活するしないでケンカしながら去っていきます(笑)。 「まったく切ないんだかコメディなんだかはっきりさせてくれよ」 と言う悪魔さん。
 このドラマは、「笑って泣かせる」 というスタンスで、展開に対する見る側のツッコミを避けようとしている傾向がある気がします。
 ここでも、田中くんの問いに対してはらちゃんは 「この世界で生きる」、ということを明言していない。 見る側はケムに巻かれてしまっているわけです。

 でも、話はここで、先に指摘した 「切なさ」、に言及していく。

 「ところで、『新婚』 って何なんでしょう?」 と訊くはらちゃんに、越前さんは笑ってしまいます。 「あなたと最初に出会った当時も、こんなふうにいろいろ聞かれて呆れてた」、と。
 出会ったときのことを話されて、はらちゃんは胸を押さえて痛がります。 「このあたりが、なんて言うかこう、チクチクします。 痛くはないですし、イヤではないです。 でも、チクチクします。 これは、何なんでしょう?」

 「きっと、それは 『切ない』 だと思います」

 「それは、つらいことなんですか? 楽しいことなんですか?」

 「…つらいけど、きっと、大切なものです。
 …ちなみに、私もチクチクしています」

 「越前さんもですか! 一緒ですね! 両思い、両 『切ない』 ですね!」

 話をしているうちに、越前さんの表情には、寂しさがはっきりと表れてきます。
 「玉田工場長さんが言ってました、『新婚は短い』 って」。
 そんなはらちゃんの言葉に、越前さんは、「はらちゃんは新婚生活を経験したらすぐにマンガの世界に帰ってしまって、もう会えなくなる」 と考えているようです。

 私もこのくだりを見ていて、このふたりは互いに、「新婚」 という最後の思い出を作って別れる決意を固めつつある、と思ったのです。
 でも、明言はされていない。
 ここがミソ、なんじゃないかな~と感じます。
 「もう会わない」、というのは、別に厳しく取り決めたわけじゃない。
 でも、「雰囲気」 が 「やっぱりふたりは別の世界の人間、一緒にいるのは無理がある」 という感じになっているんですよ。 「雰囲気」 が。

 これって見る人によっては、「会わないと決心したのだからもう会うべきではない」 と思っちゃいますよね。 私もそのクチでした。
 でも、「一緒にいることが出来ない恋人どうしがまためぐり合う」、ということに夢を感じてしまう人にとっては、ふたりがもう一度出会うラストというのは、胸キュンものなんですよ。
 それこそ、「切ない」 の究極と言っていい。
 「ロミオとジュリエット」 の話に萌えてしまうのは(笑)、それが 「許されない愛」 だからであって(笑)。

 「ふたりは別れるべきか、別れないべきか、それが問題だ」 と考えた脚本の岡田サンの、ここらへんが迷いの原因だったように私は感じるし、この 「どっちつかず」 の感覚が、最終回、「どこか話が迷ってるな」 と感じた原因なのです。

 切ない会話の最中、まつりばやしが聞こえてきます。 神様に感謝するためのものだとオカーサンから聞いたはらちゃんは、「神様」 である越前さんも担ぎたいです、と言い出します。 子供たちのお神輿に特別に加わるはらちゃん。 まるで最後の 「思い出づくり」 をしているかのようです。 切なさが加速していくかのような、越前さん。

 「この世界は素晴らしいですーーっ! ワッショイ! ワッショイ!」

 あ~もう、タイムアップ(笑)。
 10分づつしか進んでないぞ(笑)。

 スミマセン、次回に続く!

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2013年3月27日 (水)

「泣くな、はらちゃん」 第9-10(最終)回 笑おう、たとえ心が痛くても(その3)

 「そりゃあ、家族には悪いなって言うか、私がいなくなったら、泣いてくれると思いますけど。
 それに、仕事もね、私が急にいなくなったら、困ると思います。

 でも、それは、ほんのちょっとだけ。

 あの世界は、私がいなくても、なにも困らないんです。 なんの問題もないの。 私なんかいなくなったって、あの世界はなにも変わらないの。

 いなくなったら世界が変わってしまう人も、中にはいるかもしれないけど、私は、そういう人じゃないんです。 ちっぽけな、どうでもいい人間なんです」。

 このドラマ感想文の(その2)おしまいのほうで私が考えたことに対する、越前さんの答えがこれです。
 そこにも書いたとおり、これって、徐々に現実世界の扉を開きつつあった越前さんの行動パターンとしては、急激に厭世気分に針が振り切っちゃってる気がする。
 ここで越前さんは、自分が死んだら家族が悲しむだろうという予測までついている。 これって 「この世を見限る」(自殺の比喩)のをやめる大きなファクターだと思うんですけどねー。
 越前さんはそれほど汚い現実世界に絶望したのだ、と(その2)で書きましたが、これは同時に、暴力という手段を得てしまったはらちゃんへの、越前さんなりの贖罪だとも思うのです。
 そしてこの贖罪は、はらちゃんへの愛情と補完関係にある。

 でもそんな告白をする越前さんを、はらちゃんは否定します。

 「ありがとうございます。 私は、うれしかったです。 越前さんがこちらの世界に来てくれて、うれしかったです。

 でも…。

 私は悲しいです。

 あなたは、『私なんか』 と言う。
 『自分なんかどうでもいい人間なんだ』 と言う。

 そんな越前さんが、私は好きではありません。 嫌いです。

 越前さんは、帰るべきです。 自分の世界に。

 帰って、自分と両思いになってください。 世界と両思いになってください。

 自分が相手を好きにならないと、両思いにならないんですよ越前さん。

 どうしてあなたは自分に、自分の世界に恋をしないんですか?

 こんなに素敵な人なのに…。 (上の現実世界のある場所を見上げ)あんなに素敵な世界なのに…。

 あんなことを言う越前さん、…好きではありません。

 好きではありません」

 
 この世への絶望とはらちゃんへの思いとで補完し合っている越前さんの後ろ向きな思考(碇シンジみたいだな…笑)。
 それに対して、はらちゃんのこの発言は、その後ろ向きの思考に追い出されてしまった、越前さんのなかにある希望のように私には思えます。

 ここで注目してみたいのですが、はらちゃんは、自分のことを 「私」 と言いますよね。

 矢東薫子先生のマンガに出てくるはらちゃんが、どういう一人称を用いているのかの説明は、このドラマではなされていませんが、たぶん 「私」 という言い方はしないんじゃないかと思うんですよ。
 つまり越前さんのマンガから飛び出したはらちゃんは、越前さんの分身でもある。 そう考えられないでしょうか?
 このはらちゃんは越前さんの考えている不満、文句、愚痴をいつもしゃべっているから、自分のことを 「私」 としか言わないんだと思うんですよ。

 そのはらちゃんが、この時点で、越前さんの分身、というだけでなく、越前さんのなかにくすぶっている、良心を体現している。

 ドロドロの球体状ATフィールドのなかから出てきた、碇シンジっつーか(エヴァの見すぎだ…笑)。
 もっと分かりやすく言えば、はらちゃんは、越前さんのパンドラの匣(はこ)の隅っこに残された、たったひとつの希望。

 そんなとき、ヒロシがなかなか帰ってこない越前さんを連れ戻そうと、かなり強硬な手段に出ます(笑)。
 越前さんのマンガノートをなわとびの縄に括りつけ自転車につないで引きずりまくりながら暴走(笑×2)。 「うおっしゃ~~~っオラ~~~っ姉ちゃん帰ってこいよ○×△~~~っ!!!」 ブレーキが利かなくなった自転車は、そのまま坂道を加速していきます(笑)。

 しかし当方、見ていて笑いながらも泣けました、このシーン。

 このヒロシの行動は、姉を心配する弟の行動、であると同時に、自分に対する苛立ちでもある。 そう思えたからです。
 マンガの世界に行ってしまった姉は、いわば引きこもりをしている自分と同じ。
 こんなことじゃいけない、というのは、自分でもじゅうぶん承知しているんですよ。
 でも外の世界に出るのが怖い。
 そんな自分に対する碇シンジ…じゃない、怒り(エヴァから離れろっつーの…笑)。

 崩壊しそうなほど揺れるマンガの世界。 はらちゃんが、越前さんを抱きしめます。 一緒に現実の世界に戻ろう、というのです。 「みんなついてるぞ、仲間がついてるぞ」、と送り出すマンガ世界の住人達。 自転車は、越前さんの勤めるかまぼこ製造工場に激突(笑)。 抱き合ったままのはらちゃんと越前さんは、現実世界に帰って来るのです。

 ここで、このふたりが、「あの大地震で死んだ人たち」 の比喩になってはいないだろうか、などと、また余計なことを考えるワタシ。

 つまり、かつてないほど揺れるマンガの世界から旅立ったはらちゃんと越前さんは、実はきっと、ここよりもいい場所に旅立ったのだ、という比喩、というか。
 大震災で旅立ったかたがたも、きっとここよりもいいところに行ったのだ、と。

 「ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
 あいつがいなくなつてからあとのよるひる
 わたくしはただの一どたり
 とあいつだけがいいとこに行けばいいと
 さういのりはしなかつたとおもひます」

 これはトートツですが宮澤賢治の詩の一節です(なんだなんだ、なにが始まったんだ?…笑)。
 このドラマはやはり、ひとりの幸せだけでなく、みんなが幸せになる方法を考えている、という点で、賢治のような広い慈悲の気持ちを持っている、と私は思うのです。
 それは岡田脚本の持つ、「人の良さ」 なのかもしれない。
 でも、ニヒルに世界を見つめるよりも、ペシミズムに染まるよりも、そっちのほうがずっといいではないですか。

 どうも話が飛躍しすぎてスミマセン。

 同時に、また今回もラストまでいけないようです、スミマセン。
 忙しいもんで。
 その4に続く!

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2013年3月26日 (火)

「泣くな、はらちゃん」 第9-10(最終)回 笑おう、たとえ心が痛くても(その2)

 昨日のレビューの続きでございます。

 最終回、岡田サンははらちゃんと越前さんを、いったん別れさせようとします。
 「新婚さん」 気分を味わって、もうこれっきりにしよう、というのです。
 「やっぱり違う世界の住人どうしは、一緒にはなれない」、という気分が、最終回のドラマには蔓延していました。 そしてふたりは別れた。
 でも(ネタバレになりますが、このブログ基本的にそうなので…笑)最後、はらちゃんは雨に濡れる越前さんの前に、傘を持って再び現れます。

 このラストって、「じゃあふたりの決心って何だったの?」 という矛盾を内包している。 別に深刻に別れる必要なかったじゃん、と。

 岡田サンは越前さんを 「万能の神様」 にしないことで、設定の曖昧さに乗っかって、いくらでも人間にしようと思えばできるはらちゃんの設定を変えることをせず、「また会えること」 の切なさに、このドラマの落とし所を選んだ、と私には思えるのです。 切なさを見る側に与えることで、ラストの感動を呼び込もうとした。

 
 この結果、「最後はどことなく迷走していたなあ」、と私は見終わって思ったのですが、でもそれは岡田サンの 「どうやってこのドラマを終わらせようか?」 という迷いと、岡田脚本に時々見かけられる 「やさしさ」、「人の良さ」 が合わさったラストだった、と同時に感じるのです。

 岡田サンが最終回で頼ったと思われる、「切なさ」。

 最終回の話で時々出てきたのは、胸のところを押さえてチクチクする、という、「切なさ」 の話でした。
 はらちゃんも、越前さんも、お互いに 「この人と一緒になってはダメだ」、という認識がある。
 それはバーチャルな恋愛をどこかで否定しているところからきていると思われるのですが、本来結ばれる運命にないものが互いに惹かれあう、ということで、「切なさ」 というものが生じます。
 そしてその叶わぬ願いが成就した時、「会えてよかったね」、ということを見る側は感じる。
 ただこのドラマは、「切なさ」 に頼って、「ハッピーエンドのあとの大変さ」 を放棄したようにも見えるんですよ。

 でも。

 たぶん荒唐無稽で設定も曖昧だから、なんとかなるだろーと思う(笑)。
 こうしておけば、半年後に 「泣くな、はらちゃん」 SPでもできるかもしれないし(笑)。
 「ハッピーエンドのあとの大変さ」 を放棄した、ということは、つまりこのあといろんな話が展開する余地が残された、ということと同じですからね。




 えー、第9回の話に戻りますが(はぁぁ、また長くなりそうだ…)。

 「この世界の現実に染まって、汚れていくかもしれない」、という百合子さんの不安は、的中してしまいます。

 無邪気にサッカー遊びをしていたはらちゃんたちに絡んできた不良グループ(言いかた古っ)に、はらちゃんたちはボコボコにされてしまう。

 「なんでですか! なんでそんなことをするんですか! やめてください!」

 止めようとするはらちゃんを集中して殴る蹴る、不良たち。 そこに割って入った越前さんも、平手打ちを喰らわされてしまいます。
 倒れ込んで苦しむ仲間たち。 不良は、はらちゃんを見下ろしてニヤケています。
 さらにはらちゃんを痛めつけようと胸ぐらをつかむ不良の手を、はらちゃんはつかみ返す。

 そしてぶん殴る。

 驚く越前さん。

 その場に駆けつけた百合子さんも悪魔さん(忽那汐里チャン)も田中くん(丸山隆平クン)も、はらちゃんの仲間たちも、はらちゃんにもともと備わっていなかった 「暴力」 という手段の誕生に、恐れおののくかのようです。

 「テメエコノヤローっ!」 殴り返す不良たちを、逆に馬乗りになって痛めつけるはらちゃん。

 「なんでですかあっ!

 これがこの世界ですかあっ!

 ああっ!(殴る) ああっ!(殴る)」

 前の晩に、テレビで戦争とか暴力とか、人の作り出す不幸を目の当たりにしたはらちゃんに、芽生えた憎しみなのでしょうか。

 「はらちゃん! もういい!」

 止めに入る田中くんも振り払って、もうすっかり戦意喪失の不良を殴り続けるはらちゃん。

 憎しみに染まっていくはらちゃんに、涙を流す越前さん。 はらちゃんにすがりつき、止めに入ります。

 「やめて、はらちゃん!

 お願い、お願い…!

 やめて…(泣く)…うっ…うっ…」

 はらちゃんの手が止まります。 うっ血した自分のこぶしを見るはらちゃん。

 「ごめんなさい…ごめんなさい、はらちゃん…

 …こんな世界でごめんなさい…」

 退場する不良たち。 越前さんは、その場にいる全員に、頭を下げます。 「みんな…ごめんなさい…」。

 手当てを受けるはらちゃんたち。 はらちゃんは自分のこぶしをまた見つめ、つぶやきます。

 「痛いです…。

 心が…。

 とても痛いです…。

 越前さん。

 どうか、私を嫌いにならないでください…」

 「なるわけないです…なるわけないです!」

 「自分の世界に帰りたい」 と言い出す仲間たち。 マキヒロ(賀来賢人サン)も悪魔さんより、仲間を取ります。

 「私は…」 言い淀むはらちゃん。 迷っているようです。 仲間たちを取るか、越前さんのいるこの世界を選ぶか。 はらちゃんの目に、涙がたまっていきます。 「私は…」。 涙がこぼれ続けるはらちゃん。 泣くな、はらちゃん!(あ~もう、ダメ…笑)。

 越前さんは意を決したように、テープでぐるぐる巻きにした自分のマンガノートを取り出し、テープをはがしていく。

 「はらちゃん」。 微笑みかける越前さん。 「私たちは、…両思いです」。 それを聞き、うつむいてさらに泣いてしまうはらちゃん。

 「ほら、泣くなはらちゃん!」

 静かにノートを開く越前さん。







 もうこの世界には戻ってこないと思われるはらちゃんの仲間たちが、次々とマンガに戻っていき、ノートに吸い込まれていきます。 傷だらけで泣きはらしたはらちゃんも、一緒に戻っていきます。

 微笑んだままはらちゃんを見送った越前さん。 その表情には、どこか寂しさ、やるせなさみたいなものが浮かんでいる。 悪魔さんはマキヒロが自分より仲間を選んだことがショックで、その場にへたりこんでしまう。 田中くんが、悪魔サンの肩に、そっと手を置きます。 「これでよかったのかも」 という表情の百合子さん。

 ノートに戻ったはらちゃんとその仲間たちは、「カンパーイ!」 と、満面の笑みで楽しそうです。

 その夜。

 越前さんは、お母さん(白石加代子サン)やヒロシ(菅田将暉クン)に 「冴えない自分でごめんね」、と別れのあいさつをし、マンガのノートに自分の姿を描きます。 一粒こぼれる涙。 越前さんはノートに笑いかけます。 「はじめまして」。

 越前さんは、はらちゃんたちの世界に旅立ってしまったのです。
 このシーンの視覚的効果は最高で、かなり印象的なCGとなっていた気がします。
 「え…越前さん?」
 驚くはらちゃんと、その仲間たち。 振り向いた越前さん、最初のうちは目から上の部分が見えないのですが、これはいつもエンディングタイトルで現れる越前さんのマンガと一緒のアングルです。 「来ちゃいました」。

 一抹の不安に襲われた百合子さん、駆けつけると、ノートのなかに越前さんがいるのを見つけてしまう。 「いい笑顔だわ、あの子!」 ってオカーサン、そんな問題かっ!(笑)。

 ノートの世界で歌われる歌が、あの 「世界じゅうの敵に降参さ」 であることは実に当たり前で、これは先の当ブログレビューでも指摘した通り、「現実逃避の理論武装」 の歌。
 越前さんはここで、極端な現実逃避に、針が振り切ってしまったのです。
 「いいの?」 と心配するユキ姉(奥貫薫サン)に、「あの世界は、もともと好きじゃないんです」 とさっぱりしたような越前さん。 「はらちゃん、ずっと一緒にいましょうね!」

 ちょっと躊躇したようなはらちゃん。 でも、「この幸せに今は浸っていよう」 と決意したように返事します。 「はいっ!」。

 これが、第9回までのストーリー。

 この越前さんの行動を、ちょっと唐突に思えてしまうのは、それまでの回で、越前さんが少しずつでも、自分の弱さに立ち向かおうとか、外の世界に向かって働きかけようとか、そんな姿勢が見えたからであり。
 けれどはらちゃんの暴力事件が、そんな越前さんの、この世に対する執着を、完全に断ち切ってしまった、と見るべきでしょうね。
 越前さんははらちゃんたちを帰してしまったばかりか、自分までそっちの世界に行ってしまう。 それだけ 「絶望」 したんですよ、この世に。 これは 「自殺」 の遠回しな表現であるように私には思えます。

 でも冷静に考えてみれば、マンガの世界は居酒屋だけ。 かなり狭い世界です。
 しかも毎日(いや、日付という概念もないか)同じことばかりが繰り返される。
 耐えられんのかな。
 はらちゃんたちは耐えてる。
 いや、「耐える」 という意識がそもそもないから、そこで生きていくことが出来ているのだと思う。
 越前さんにそれが出来るのか。

 それに、これって、越前さんの家族に対する、かなりの暴挙だ、という気もします。
 越前さんがいなくなることで、悲しまない家族だと越前さんは考えているのでしょうか。
 オカーサンはのんきなこと言ってましたけど(笑)、それはあの世(マンガの世界)で自分の娘が、生き生きとしているところを見ることが出来たから。

 おそらく越前さんのお母さんのあのノンキな感想は、「自分が輝けるならばどんな状況でもいい」 という発想なのではないか、という気がします。 母親の愛なのかな?
 でも、ぬるま湯につかって日々楽しく暮らすことが、「生き生きとしている」「輝いている」 と考えるのは誤りだ、と私は思う。

 最終回。

 マンガの世界で楽しく暮らす越前さん。

 あ~このあと、私が 「迷走してるな」 と思われた展開が続くのですが、それはまた次回。

 なかなか終われなくてスミマセン…。

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2013年3月25日 (月)

「泣くな、はらちゃん」 第9-10(最終)回 笑おう、たとえ心が痛くても(その1)

 おことわり 「泣くな、はらちゃん」 の最終回までのレビューを書こうとしましたが、話がすごく長くなってしまったので、とりあえず途中までをアップします。 たぶんイッキ読みしたら誰もついてこないと思うので(笑)。






 マンガの世界からやってきた 「はらちゃん」(長瀬智也サン)と、現実世界で暮らす 「越前さん」(麻生久美子サン)との荒唐無稽なラブストーリーも最終回。
 まず、先週書きそびれてしまった、最終回の前の第9回の話からしなければなりません。

 マンガ家・矢東薫子として、はらちゃんたちを一回殺してしまった、その自責の念に堪えかねて姿を消した百合子さん(薬師丸ひろ子サン)。 はらちゃんたちの尽力によって戻ってきます。 その夜、はらちゃんたちをもう一度よみがえらせてくれた越前さんに感謝しながら、こう百合子さんは話します。

 「不安なんでしょ? このままはらちゃんたちを、この世界にとどめておくの。
 あんなにまっすぐでけがれてないのに、変わってしまうかもしれないもんねえ、この世界の現実に染まって。

 人は、ハッピーエンドのあとも、生き続けていかなきゃならないから。

 大変なのは、ハッピーエンドのあとなのにね」。

 このドラマを見ていて私がときどき感じたのは、「物語の終わり」、つまりはらちゃんたちとの別れ、というものに、百合子さんがとてもこだわっていることでした。
 それは同時に、脚本の岡田惠和サンの強迫観念にも見えた。 「どうやってこのドラマを終わらせたらいいのかな?」 みたいな(笑)。

 なぜそんなに終わらせたいのかな?と考えたとき、「越前さんがはらちゃんとずっと一緒にいる、ということは、本来いけないことなのだ」、という認識が作り手のどこかに常にあるからなのではないか、と感じます。
 つまりマンガの世界の住人といる、ということは、自分の理想と一緒にいるということであり、それは結局、現実逃避になる。
 人はやはり、バーチャルではなく、現実世界の人と一緒になるべきなのである、という考えです。
 

 ここでトートツですが(笑)生物学的にはらちゃんを考えると、寝なくても平気だし老いることはないし、ヒトという生き物として成立してないんですよ(笑)。 たぶん子供も生まれない(笑)。

 つまり、はらちゃんと越前さんが現実世界でずっと一緒に暮らしましたとさ、というハッピーエンドのあとも、ちゃんと支障なく暮らせるには、はらちゃんという 「ピノキオ」 を、人間にしてやる必要性があると思うのです。

 こんな荒唐無稽の、設定も曖昧な話なんだから、そんなことは容易だと思うのですが(笑)、最終回まで見た限り、作り手はそういう方法を採択しなかった。

 いや、設定が曖昧であるがゆえに、却って作り手はそのことに縛られてしまった気がする。

 私はこのドラマの設定の曖昧さから言えば、越前さんがはらちゃんの性格でも生物学的な問題でも(笑)、「神様」 として、自由に設定し直すことが出来るような気がしていました。
 それに、たぶん越前さんが自分の描くマンガのなかで、居酒屋以外の場所を描くことが出来れば、はらちゃんたちはいろんな世界を体験することが出来る、とも。 ドラマ中 「雪」 のエピソードがありましたけど、マンガのなかで雪だって降らせることが出来るだろうし、一面がまっしろな銀世界も体験可能です。
 じっさいユキ姉は、百合子さん(矢東薫子センセイ)に向かって感謝していましたよね。
 いろんなことを体験できたしいろんな場所にも行けた、と。

 でもおそらく作り手は、越前さんがそういうことはハナから出来ない、という決めつけをしているように思える。

 この荒唐無稽なドラマを、なにも心配のないハッピーエンディングに仕向けるためには、越前さんに矢東薫子センセイ並みの描画スキルを身につけさせることだ、そして越前さんが、「神様」 として、はらちゃんの本当の創造主になることだ、と私は考えておったのですが(笑)。

 深~く考えてみると(あ~ややこし…笑)、越前さんは自分の描くマンガのなかで、はらちゃんに、自分の愚痴をしゃべらせとるわけじゃないですか(笑)。

 でも、はらちゃんたちマンガ世界の住人たちは、越前さんによって毎回繰り返される職場の愚痴と 「殺すしかないね」 の結論のオンパレードにウンザリしてて(笑)、それを是正するために現実世界に飛び出した、という話だったわけであり(笑)。

 ってことは、越前さんが描いているはらちゃんたちの設定って、マンガ世界でうごめいているはらちゃんたちと、実は乖離している、ということになるのであって(笑)。

 笑いおじさん(甲本雅裕サン)にしたって、「どーしてオレは笑い続けてるんだ? オレにだけどーして名前はないんだ?」 と不満があったりしてるし(笑)。

 でもいっぽうでは、越前さんがはらちゃんの弾くギターの弦を3本から6本にすれば、ちゃんと6本になるし、歌にメロディをつけさせれば、はらちゃんは歌をちゃんと歌うことが出来るようになったわけですよ(笑)。

 つまり、ここが、「設定が曖昧だ」 っていうんですよ(笑)。

 設定が曖昧なのに、岡田サンは越前さんを、「万能の神様」 にしようとしない。
 そこが縛られてる、と私は論じているわけです(笑)。

 ああ~~っ、もうややこしーーーっ!!(爆)。

 最初のおことわり通り、話が終わりそうもないので、いったんここで、記事をアップしたいと思います。 続きは寝て待て!(笑)

 …第9回の話が、まだ終わっとらん…coldsweats01

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2013年3月20日 (水)

「とんび」 最終回まで見て

 世には 「泣ける話」 というものがあって、いわばこれは、お客に泣いてもらわないことには話にならない。 泣かせることが生命線なわけです。
 そしてそれは時に、「お涙頂戴」 と見下したような物言いをされ、泣かせるための小細工が鼻についたり、あざとさが透けて見えたりして、見ている側を興醒めさせる。

 私も正直なところ、「泣ける話」 というのには、身構えてしまうところがあります。
 去年、NHKで前後編正味3時間くらいだったか、同じ原作のこのドラマをやった時も、そんな触れ込みで、警戒しているうちに見終わってしまったようなところがある。
 昭和の時代を再現するのに、「CGを使わないことを徹底した」 というNHKスタッフこだわりの画面は、主人公市川安男、通称ヤス(堤真一サン)が乗っていたオート3輪が、博物館から持ってきたみたいなピッカピカだったのがアダとなって(笑)、かなり興醒めしてしまって。
 みなさんこのNHK版を見てたいそう感動されたようなのですが、私は申し訳ないがダメでした。

 だから今回のTBS版に関しても、たいした期待はしてなかった。
 でも、やはりひとつひとつのエピソードをじっくり見せられると、やはり感動が違うんですよ。 かなり今回は泣かせられました(このことは当ブログ過去記事で言及しましたので省略いたします)。

 今回のこのTBS版、舞台が広島から特定不能な土地に変更になったり、10年くらい時代を後にずらしたり、ということがあったのですが、私にとっては枝葉末節の問題でした。 かえって堤サンのときの、あの強烈な広島弁でがなりまくられた怖さが消え、時代設定も新しくしたことで、無理に画面を昔に戻そうとするスタッフの気負いを気にせずに済むようになった。

 話がじっくり見られるようになったことで、このお話のもともとの根っこであると思われる、「家族愛」 がおしつけがましくなくなり、「お涙頂戴」 などという宣伝文句をつけなくても、自然と 「泣けるドラマ」 に成立していった。
 これはやはり、「JIN-仁-」 を手がけた脚本家の森下佳子サンの功績によるものが大きいのではないか、と個人的には思います。 「JIN」 でもそうだったのですが、この人は登場人物の行動の動機付けを、とても念入りに構築していくタイプの脚本家さんのように感じる。
 だから先のNHK版で私が不自然だと思った海雲和尚のお説教も、ひとかどの説得力を帯びたし、ヤスの言動にも、ただの家族愛では収まらぬ、「男としての悲しみ」 とか、「年老いていく者の心」 までが表現できていたのではないか。

 つまり、このドラマを、単なる家族愛のドラマだ、というようにとらえてしまうと、それこそお涙頂戴の薄っぺらい話に堕してしまうのですが、年代を追って丁寧に話が展開していくと、そこには、ひとりの人間が生きていくうえで次第に変質していく、「心」 が画面から滲み出てくるんですよ。

 いちばん端的だったのは、息子のアキラ(佐藤健クン)が東京に行ってしまってからの、ヤスの気持ちのしぼみようと、「老い」 が同時に進行しているように見えたとき。 それまでがむしゃらに息子に対峙してきた父親が、心の支えというものを失ったときに、初めて自分の年齢を意識しだす、とでもいうのかな。

 ドラマはその時点から、「直接息子にぶつけられる愛情」 から、「離れて暮らす息子に対する父親の愛情」、という具合に、愛の形が変容していくのですが、それは結局最終回で、「親は子供に頼ってはいけない、生きているうちは子供が帰ってくる場所でなくてはならない」、という最終結論に導かれていく必然性を伴っている。

 これはおそらく、今回ヤスを演じた、内野聖陽サンの、ドラマの咀嚼能力が大きく関与している。

 内野サンはただ単に白髪を増やす、という外見的な要因に頼ることなく、たとえば手紙などを老眼鏡をかけて見る仕草であるとか、同じがなり立てるのでも、若かったころは溌剌と、そして歳をとってからはある意味自虐が加わるくらいだらしなさを少しばかり加えながら、という具合に 「ガサツさ」 を表現していたように感じるのです。

 だから、ヤスは若い頃と同じように、バカで乱暴で頑固で、子供に対してだけは過剰なくらいの愛情を持っていたように見えても、バカはバカなりに、親として成長し続けている、と、私なりに納得できた。

 ヤスがアキラに対して、「自分の育て方は間違ってなかった」、と感じたのは、おそらくヤスが東京の出版社で、アキラの入社試験の小論文を、アキラの上司に見せてもらったときが最初なのではないか、と感じます。

 その小論文には、海雲和尚(柄本明サン)からの手紙で、母(常盤貴子サン)の事故死の真相を知らされた、と書いてあります。 ヤスはそれまで、「それは自分をかばったせいだ」 とウソをついていたのですが、実はアキラをかばって、母は死んでいた。 自分がついていたウソが、アキラにばれていたことをその小論文で知って、ヤスは愕然とします。

 「『父の嘘を許してやってほしい』 と、そこには書いてあった。 『お前のためを思って、悩んで、悩んで、悩みぬいた揚句ついた嘘なのだ』 と。

 『お前は、母に命を守られ、父に育てられ、たくさんの人に助けられて、成人式を迎えるまで大きくなった。 それをどうか幸せだと思ってほしい。
 生きて今あることの幸せをかみしめ、これからの長い人生を生きてほしい。
 感謝の心を忘れない大人になってほしい。
 母に、まわりの人たちに、そして何より、父に、
 お前を誰より愛してくれた父に、
 いつか、
 ありがとう、と言ってやってほしい』。

 手紙を読んで、涙が止まらなくなるのは生まれて初めてだった。
 (略)
 そして、自分はもうじき逝く、と和尚は書いていた。
 美佐子さんに、僕の母に会えたら、お前が文武両道、立派に育っていることを伝えてやる、と和尚は書いていた。
 『美佐子さんはきっと喜ぶだろう』、と。

 それから、最後の最後に、こうあった。

 『だが、美佐子さんがいちばんうれしく思うのは、お前が父の偽りの告白を聞いたあとも、一度たりとも父を恨まずにいてくれたことだろう』、と。

 僕は和尚の手紙を読んで初めて気づいた。

 僕は確かに、母が父をかばって死んだのだと思い込んでいた。
 だが、本当に、ただの一度も、父のせいだと思わなかったのだ。

 父を恨むことは本当に一度もなかった。
 我慢していたのではなく、そんな思いは一切湧いてこなかったのだ。

 そのことが僕はうれしい。

 僕自身ではなく、僕に恨みを抱かせなかった父を、誇りに思う。

 父は、嘘をついた。

 僕は二十歳になって事実を知った。

 だけどそれが、それがいったい何だというのだろう?

 大切な真実というものは、父と過ごしてきた日々にあるのではないだろうか」

 応接室でそれを読んでいたヤスは、いつの間にかその場を抜け出し、出版社の屋上で、慟哭する。 息子への、そして息子からの思いに、包まれながら。

 入社試験で、父親への思いを書き連ねるというのは、結構引いてしまいそうな行為であります。 ファザコンかお前は、と言いたくなるような話だ(笑)。
 
 しかし、そういうことが臆面もなく出来てしまう人というのは、人の子として、むしろ誇れることなのではないか。
 いくら乱暴でバカでガサツでも、父親は全力で、息子を愛した。 周りの人たちも、同様にアキラの背中を、少しずつ温め続けた。
 そして息子は、その全力の愛を感じることが出来たからこそ、父親を、そして環境を恨むという発想自体を持つことがなかった。

 そう、見る側が思えるとき、「お涙頂戴」 という枷(かせ)というのはきれいになくなって、心からドラマを見て泣くことが出来る。

 もちろん、その小論文を書いた時点で父親と離れて暮らしていたアキラにとって、父親への思いが実像以上に美化されていた、という側面は否定できない。
 だから同じ職場で働く、7歳年上でバツイチ子持ちの由美(吹石一恵サン)との結婚を、父親は祝福してくれるだろう、と思い込んでいる。
 しかしヤスには、「アキラが連れてくる嫁は、美佐子に似てなければならない」 という思い込みが最初からあった。 アキラが連れてきた由美を見てその思いが打ち砕かれたヤスは、この結婚に反対するのです。

 由美はこれに対して、単独でヤスの説得に乗り出します。 それまでアキラから、父親の自慢話ばかりを聞かされてきたからこそ、この由美の行動を、見る側が不審に思うことはまったくない。 ここにこのドラマの構成の、用意周到さが見て取れる。

 そしてヤスの、変なこだわり(これも散々周りに息子の嫁のことを自慢しまくっていた手前、という土台があるにしろ、その根っこには、歳をとって意固地になりがち、というヤスの経年変化で説明がつく気がします)を打ち破ったのは、海雲の息子でヤスの幼なじみである照雲でした。
 この照雲を演じた野村宏伸サン、個人的には 「この人ってデビューのころから、シロウト臭さがまだ抜けてないな」 と感じたのですが、今回はそのシロウト臭さが、最大限に生かされた役だったように思います。 ヘンな褒めかたですが(笑)。
 つまり、中途半端で危なっかしいんですよ、見ていて。
 父親が立派な生臭坊主だったから(笑)、その存在の大きさにもがいているような部分が、野村サンのそんなシロウト臭さと結びついて、好ましい効果に結びついた。

 由美の子供の健介を連れて、その場に遅れてやってきたアキラ。
 「この子のおじいちゃんなるって考えはどうだろう」 というアキラに、照雲はキツイ言葉を投げかけます。

 「汚いだろうがアキラ!

 子供を連れてくるなんてやり口が汚いだろ?
 こんなことをしたら、ヤスがなんにも言えなくなるだろ?

 はっきり言うけどな、アキラ。
 おじさん…この嫁さんは反対だ。
 やめたほうがいい。

 ヤスの言う通り、この人は、お前のお母さんに何ひとつ似てないからだ」

 反駁するアキラに照雲は答えます。

 「お前のお母さんはもう、いないからだ」

 「オヤジのためにそうしろってこと?」

 「お母さんのためだ。 お前のお母さんはもう、なにも言えない。 お前のすることを、応援することも、叱ることもできない。 そういう人だ。
 だけど、お前のことを、誰よりも愛してた。 それは間違いない。
 そんなお母さんのために、せめてどこかひとつでも、面影を感じられる人を、選んであげようと思わないのか?
 なにもそっくりな人を連れてこいとは言わない。
 だけど、どこかひとつでも似てるところがあれば、お母さんは喜ぶと思わないか。
 『アキラのなかに、ちゃんと自分は生きてるんだ』 って、そう思えると思わないか?

 この人(由美)は、お前(アキラ)には、お母さんの思い出がないから、『それは無理だ』 って言った。
 確かにそうかもしれない。
 でも、たとえそうでも、それはお前以外の人間が、けっして言ってはならないことだと思う。
 この人は、そういうことを平気で言う人だぞ。
 そんな人、お母さんが喜ぶと思うか?

 どうなんだ? アキラ?

 …答えろっ!」

 こぶしを握り、答えに詰まる旭。 同時に、ヤスのこぶしも、固く怒りに震えていきます。

 「クソ坊主っ!! テメエになにが分かんだよっ!
 美佐子は…喜ぶに決まってんだろうがっ!

 アイツは…アイツだったら…『孫つきで来てくれんの、ありがとう!』 って、そう言うよ!

 『離婚してくれて、(前の)旦那さんに感謝しなくちゃね』 って、トンチンカンなこと言うに決まってんだよ!

 テメエに似てるとか似てねえとか、ケツの穴の小せえこと言わねえんだよ!

 この子(由美)はよ、アキラがオレと、気まずくなんねえようにって、婚姻届持って、乗り込んできたんだよ!

 ここまで、コイツ(アキラ)のこと考えてくれる女が、どこにいんだよ!

 オレみてえな、学もねえ、こ汚ねえオヤジをよ、『好きだ』 って言ってくれる、そんな女がどこにいんだよ!

 アキラと…オレと…まとめて好きだって言ってくれる、もしそんな女がほかにいるとしたら、美佐子だけだろうがっ!!

 …似てるんだよこの子はっ…!

 …美佐子にそっくりなんだよっ!!

 だから、オレの娘になるんだよっ!!」

 結局これは、照雲が一芝居打って、ヤスから本音を引き出した、ということなのですが、照雲の言ってることは、実はヤスのもうひとつの本音でもある。
 つまり、長く離れていることでオヤジを美化していたアキラと、同様の美化を、ヤスは美佐子に対してしていたわけですよ。
 そんな美佐子を思うあまり、ヤスは息子が母親に似ている嫁を連れてくることで、美佐子が喜ぶだろうと、勘違いをしてしまった。

 でも、照雲の言葉によって、ヤスは、美佐子が生きていた時の息遣いを、ようやく思い起こすことが出来たのではないか。
 確かに美佐子は、ヤスの耳の痛いことまで、ずけずけヤスに対して言っていた部分もある。
 しかもかなり、天然ボケみたいな要素もあった。
 無邪気にその場を和ませるようなことをして、バカなヤスを呆れさせ、それでヤスの精神は平穏を得ていたような部分もあった。

 このシーンが見る側を泣かせるのは、そんな美佐子の息遣いを、見る側がヤスと同時に思い起こすことが出来るからなのではないでしょうか。
 ヤスが無意識に撮ってしまった、美佐子の生前最後の写真。
 ことあるごとにその写真立てはインサートされ、美佐子は確実に、市川家のなかで生き続けていることを実感できる。

 ここで比較検討してしまうのは酷ですが、やはり前後編くらいの短い時間だと、ここらへんの芸当をこなすことは難しい。

 そんなヤス、美佐子がアキラをかばって荷物の下敷きになってしまったように、今度は葛原、通称クズの子供をかばって、荷物の下敷きになってしまいます。

 最終回の視聴者の興味、というのは、実にこの、ヤスが最後に死んでしまうかどうか、だったのではないか、という気がする。 少なくとも私はそうでした。
 なにしろ微妙に設定は変えてあるし、原作にはない展開もあった、と聞き及びます。
 そしてアキラの 「物語には終わりがある」 という最終回前のナレーションが、またミソなんですよ(笑)。

 しかし、最終回、このドラマはヤスを死なすことなく、その点では視聴者(オレだけかな)をはぐらかしながら、とても清々しいまでのラストを用意した、と言っていいのではないでしょうか。

 私がこの最終回を見て感じたのは、人が心の拠りどころとする 「場所」 の大切さ、と同時に、ひとりの人がそこにいることで、周囲の人々に気持ちにも 「支え合い」 が生じている、そんな人の生業についてでしょうか。
 少々分かりにくいか。
 つまり絆、と言ってしまえば簡単なんですが(笑)、このドラマは、ヤスが吸っていたタバコの 「ハイライト」 であるとか、ヤス行きつけの店である 「夕なぎ」 のくすんだ佇まいであるとか、五感を刺激するような形で、「人がそこにいること」 を表現しようとしている気がしたんですよ。 「人がおるんよネー、人がそこにー、おるんよネー」 って、吉田拓郎サンの 「唇をかみしめて」 の歌じゃないですが(おっとこの歌、広島弁だった)。

 最終回、ヤスが死ぬのではないか、という見る側の疑心暗鬼は、コミカルな場面が続くことで高まっていくように思えます。
 再検査、という診断を気にするヤスに、体を大事にしてもらおうと思った 「夕なぎ」 のたえ子(麻生祐未サン)が 「それは確かに心配だ」 と追い打ちをかけ、ヤスをすっかり意気消沈させてしまうところとか、その医師(浅野和之サン)が 「それは…『恋』 という病気です」 とふざけてしまうところとか、さらに東京に出てきたヤスが萩本常務(高橋和也サン…えっ、あの男闘呼組のカレだった?)のタクシーから一方的に追い出されて 「これが常務のすることかよ!」 と地団駄を踏む場面とか。

 しかしなんだかんだで、結局東京でアキラの家族と住むことを決意したヤス(ここらへんの動機付けも、森下脚本らしく念が入ってました)が、住み慣れた場所を離れる寂しさというものに取りつかれていく過程が、私としては最終回、もっともぐっときたところでした。

 引越し際に押入れの奥から出てきた、ひとつの箱。 それには、美佐子が内職をしていたおもちゃの道具であるボンボンとか、幼いアキラが破った母子の写真、母親がいないからとヤスの仲間たちが一斉に集まった卒園式の写真、アキラの通信簿などが入っている。

 私なんかは、ボンボンが出てきただけで泣けてしまうのですが、このボンボンは、トウフの容れものや、和菓子(タイ焼きかな?…タイ焼きのエピソードとか、あったかな?)の簡易な箱のなかに入っている。 いかにも生活感があふれています。

 「親なんだなーオレ…。 親しかこんなガラクタ、取っとかねえだろ…」。

 
 つまりこの場所は、ヤスが生きてきた場所なんですよ。 10話にわたって話を語ることが出来るから、ここらへんの感慨もきちんと表現できるのだ、とあらためて感じます。

 そのヤスの感慨は、「夕なぎ」 での送別会で、ますます鮮明に見る者の涙腺を突いてきます。
 
 この送別会、全く盛り上がりません。 照雲の奥さんが、ヤスが栄養失調になった話をしても、みんなでヤスの見合いを止めに行ったという話をしても、最後は盛り下がってしまう。

 「だってよ…テメエがいないと、つまんねえじゃねえかよ…。 テメエみたいなバカ、ほかにいねえだろうがよ…!」。

 取引会社のタコ社長(ベンガルサン)のつぶやきが、その場にいる全員の気持ちを代弁しています。
 確かに人間、誰もがひとところにいることが出来るわけではありません。 いろんな事情で住むところを変えなくてはならなくなることは往々にしてある。
 でも、ヤスなんかは、その土地のカミサマに受け入れられ、バカだなんだと笑われながらも、そこにいなくてはならない存在になっている。
 「いりゃあいたで厄介だが、いなくなると妙にさびしい」、などというと、個人的には矢吹丈を思い出すワタシ(笑)。
 ヤスはそんな存在なんですよ。

 「本当に幸せなときは、涙が出んだ…」。

 送別会の途中、ヤスは何度も目をこすります。 たえ子は翌朝、「もう毎年プレゼントできなくなるから」 と言って、ハイライトを数カートン、ヤスに渡します。 タバコの吸い殻であふれた灰皿と共に、ヤスのタバコの匂いまでが、こちらに伝わってくるような話であります。
 ここらへんの演出が、いちいち深いんですよ。
 五感を刺激する、と先ほど書きましたが。
 「夕なぎ」 を出て、店に一礼をするヤス。
 後ろ姿で、残される者の寂しさを余すところなく表現する、たえ子。

 だからこそ、ヤスにとっては、最初良かれと思って決断した東京住まいが、まったく水に合ってなかったことを、見る側は何の疑いもなく、受け入れることが出来るのだと思います。

 どこで生きることが、その人にとっていちばんいいことなのか。

 このドラマが、単なるお涙頂戴に終わっていないのは、そんな部分までを考えさせる力にあふれているからだ、と私は思うのです。

 ヤスがアキラに、東京に一緒に住めない理由を語ります。 ここからこのドラマの最終的な結論が始まっている。

 「オレが…オレは、お前の親だからだ。

 オレが、ここに来たらよ…お前が、逃げてくる場所がなくなるだろうが…。

 うまくいってるときはいいよ。
 けどよ、長い人生、なにが起こるか分かんねえじゃねえか。
 東京で暮らしていけなくなったら、お前どうすんだよ。
 オレまでここに来たら、お前ケツまくって逃げるとこなくなるじゃねえか。

 オレだって、ここにいたら楽しいと思うよ…
 …けど、オレは、親だから。
 いけねえんだよ。
 寂しくなくなるからって、ここに来たらいけねえんだよ。
 親の、親だから。
 遠くで笑ってねえといけねえんだよ!」

 このヤスの話は、まったく論理的でないことには注目しておかねばならない気がします。
 つまりヤスは、言うなればバカだから、自分の気持ちを、ちゃんと伝えきれてない。
 親だから、って、理由になってないなどと言われたら、ヤスはたぶん言い返せなくて逆切れします(笑)。
 でも、アキラはそれを聞いて、ちゃんと納得した。
 アキラには、父親が伝えきれない言葉が、ちゃんと見えて、聞こえているからなのです。
 そしてまたもやインサートされる、美佐子の最後の写真。
 美佐子はたぶん、ちょっと天然の、菩薩的な役割を果たしている。
 「ヤスサン、それでいいんだよ」。
 美佐子はたぶん、ヤスの気持ちもアキラの思いも、すべてお見通しなのです。

 「夕なぎ」 でぼーっとしている妙子。 ヤスのいない穴が、ぽっかりと空いたままのようです。 そこに入ってくるひとりの男。 ヤスです。 ヤスは照れ臭さを隠すために、「パトロールだよ、パトロール!」 と言い訳をします(笑)。 「出戻りの年増が3カ月後に死体で発見されたら、寝覚め悪りいからな!」(笑)。 「おい、ビール!」。 たえ子は、身じろぎもしません。

 「だって…だって、まだビール冷えてないから…」 たえ子の目に涙がたまっていきます。 たえ子はそれを見られたくないために、ヤスに背中を見せる。
 「じゃあ、茶でいいよ…。 あ、腹も減ってんだけど、なんかテキトーに!」
 「いちいちいちいち…! ここはアンタんちの台所じゃないんだからねっ!」

 このたえ子を演じた麻生祐未サンも、最近老け役多いけど、やはりうまいわ。

 アキラと由美のあいだに、男の子が生まれます。 連れ子である健介はそれを拗ねて、ヤスの元にやってくる。
 ヤスは健介を一瞬怒りそうになる表情を見せますが、「でかした!ひとりでこんなとこに来るなんてよう」 と、健介を褒めます。 そして電話でも、アキラを少し諭しそうになるけれども、「まあいいわ」 と話を打ち切る。
 「これはアキラの、父親としての問題だ」 という割り切りがされているからですよね。 そして健介が自分で考える問題だ、とも思っている。

 東京から飛んできたアキラは、健介の元に駆け寄るなり、健介を平手打ちします。 マジで叩いてる(笑)。
 しかしこのドラマを見続けてきた人たちにとって、これを体罰だとか子役に対する暴力だとかと、考えることはないはずです。
 なぜなら、それが愛情だ、ということが分かりきっているから。
 そしてこれは、父親としてのアキラと、息子としての健介の問題だ、ということが、分かりきっているから。
 叩いたあとで、アキラは健介を、抱きしめます。

 ヤスはアキラと一緒に海を見ながら、アキラにしみじみと語ります。 これは先ほどの、「オレは、親だから」 という話の続きと位置付けることが出来る。 言わばこのドラマの、最終結論です。

 アキラ 「子育てって、難しいね。 区別してるつもりなんて全然ないんだけどなあ」

 ヤス 「まあ…いまの健ちゃんにはそう見えちまったってこった」

 アキラ 「気をつけてたつもりだったんだけどなあ」

 ヤス 「あのなあ。

 エラソーに育てようとすっからいけねえんだよ。

 だいたいな、親なんて、そもそも大したもんじゃねえんだ。

 子供よりちょっと長く生きてるだけで」

 アキラ 「…そうかな?」

 ヤス 「おう。 自信持って言うけどな、子育てなんて間違いの連続だぁ。

 それでもありがてえことに、子供はちゃ~んと育ってくれるんだよ。 自分の力でな」

 アキラ 「そうとも言えないと思うけど?」

 ヤス 「(言い切る)そうなんだ! お前はお前の力で育ったんだ。

 ヘヘッ…。 だいじょぶだよ、健ちゃんは。 ひとりで、ここまで来たんだぞ。 お前よりよっぽどたくましいよ。

 だいじょぶだ」

 アキラ 「…うん」

 ヤス 「けどよぉアキラ。 イッコだけよ、親がどうしても子供にしてやらなきゃいけねえことがあんだよ。

 それはな。

 子供に寂しい思いをさせねえってことだ。

 寂しさってのはよ。

 雪みてえにチロチロチロチロ降り積もって、いつのまにか心をガチガチにすんだってよ。

 だから、親は海にならねえといけねえ。

 海になって、笑ってなきゃいけねえんだ。

 海には、雪は積もんねえから。

 …って、昔和尚が言ってた。

 ヘヘッ…。 オレが出来てたかどうかは知んねえけどな」

 アキラは自分が編集した 「とんび」 という本をオヤジに手渡し、こう言います。

 「俺さ。 自分が不幸だなんて思ったこと一度もないんだよ。

 普通に、ずっと、あったかかったから。

 だから、オヤジはオレの海だったんだと思うよ。

 …

 ありがとう。 お父さん」。

 ヤスは、感極まってしまいます。

 海辺で遊ぶアキラたち親子を見つめる、ヤスの姿。 そこに、美佐子が寄り添っています。

 確かにこのドラマの父と息子は、世間一般から見たら、互いに対する思いが強烈すぎるのですが、強烈だからこそ、人としての基本的な感情を思い出させる力を持っています。
 ヤスは単に、子煩悩というだけではなく、アキラが生まれたときの感動を、ずーっとそのまま持ち続けている、希有な人間なのだ、と思う。
 そして息子は、親に対する 「恩」 を、さらに母親がいないことで周囲の人たちから受けてきた恩も余計に、感じ取りながら生きてきた。
 このドラマは、ダイジェスト的にすると見落とされやすいファクターによって成立している部分が大きい、と個人的には感じます。
 TBS版の 「とんび」 は、その部分を私に認識させてくれた。
 さらに原作では、ヤスはもっと論理的なことも語っていたらしいのですが(笑)、このドラマでのヤスはさらに 「バカ設定」 で(笑)、でもだからこそ、噛み砕いた、分かりやすいロジックでドラマを表現することに成功した、と思うのです。

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2013年3月17日 (日)

「信長のシェフ」 最終回まで見て

 今年の1-3月クールのドラマのなかでは、「泣くな、はらちゃん」 と双璧で、「見てみたら意外に、そしてかなり面白かった」 というドラマだった気がします、「信長のシェフ」。

 はじめ題材を知ったときは、「『JIN-仁-』 の料理版かよ」 という感じだったのですが、こういうタイムスリップものって、なんか見たくなる。
 これって、まずは 「現代人のエゴ」 という側面が強い、と私は考えています。 要するに過去の人に対して自慢したい(笑)。

 歴史って、過去にはできなかったことが出来ていく過程ですから、現代人が過去に行く、となると、どうやったって現代知識をひけらかしたくなる。
 そこでタイムスリップものという空想のお話を作る際に、作り手は 「過去の歴史を変えては現代が変わってしまう」 などというルールを勝手に作って、登場人物たちの行動を制限させたがる。
 そうしたルールというのは、現代人の思い上がりの産物でありますが(いーじゃん妄想なんだから…笑)、ルールを作って縛ることで、お話としての面白さが増していくのです。
 スポーツのルールと一緒ですよね。 例えば野球でバッターが打ったら一塁に走らず三塁に行ってしまったら、…それも面白いかも(例えになっとらん…笑)。

 それはそうとして、タイムスリップものへの興味、というものに、今回は一流シェフとしての技術を持った主人公が過去に放り出された、という設定でまた視聴者の興味をかき立てます。
 その主人公が、どうということはない、村の料理人で終われば話はつまんないのですが、彼を織田信長のシェフに仕立てることで、歴史好きの視聴者まで取り込むことが出来る。

 信長と料理、という組み合わせが、また妙なんですよ(褒めてます)。
 戦国時代がこれまでの価値観をひっくり返す下克上の世の中だったうえに、信長は海外にまで意識を広げていた進取の気風を兼ね備えた印象がある。 だから主人公が現代風な 「奇天烈な」 料理を作っても受け入れられる土壌がある、という点で納得させてしまえる。

 ただこうなると、お話の作り手には、料理の知識も歴史の知識も必要となってくるのですが、このお話の作り手は、実にそこらへんも用意周到であり。
 そのうえ、ドラマとしての組み立ても秀逸で、ただのクッキングパパにならず(笑)主人公に試練を与えて、物語に起伏をつけることも忘れない。
 その仕掛けは時として甘い、と感じさせることも確かにありました。
 ただ、その気持ちを緩和させるのは、このドラマが深夜枠だ、ということがやはりあるのですが、設定的に 「お祭り感覚」 の賑やかさで、どことなく見世物小屋みたいな雑多感、ごった煮感があったことが、いちばん大きい。

 つまり、出演者が、なんとなく中途半端に豪華なんですよ(笑)。 信長を演じる及川光博サン、森可成(よしなり)の宇梶剛士サン、顕如の市川猿之助サン(もと亀治郎サン)、これらのかたがたは、NHKの大河ドラマに出るだけの存在感を持っている。
 そこに、ガレッジセールのゴリサン(木下藤吉郎)とか、SMAPの稲垣吾郎チャン(明智光秀)とか、なんとなーくそこそこのネームバリューの人が加わり(笑…失礼)、志田未来チャンとか、子役から成長しつつあるダークホース的存在の人が、なんとなく危なっかしそうな主人公ケンを演じる玉森裕太クンをワキで支える。
 ナレーションは来宮良子サン、この人も、たまに人を食ったような役割を果たす時がありますよね。

 こういうキャスティングを見て、どうも印象が 「なんとな~く中途半端に豪華」、って思っちゃうんですよね(笑)。 それが深夜枠、という意識と妙にシンクロする。

 この、ちょっとハードルが下がった感じの 「入りやすさ」 で、私も正直録画機の故障で2、3回くらい見そびれたのですが、なにも気にすることなく最終回まで見ることができました。

 でも、「ま、い~か」 とも思えなかった点も少々(笑)。

 まず、ゴリサン演じる秀吉の性格設定ですかね。

 このドラマでの秀吉は、ちょっと間は抜けてますが、とにかく怖い。
 秀吉の性格としては、「人たらし」 という認識で私の場合固まってますので、「こういう居丈高な秀吉はね~だろう」、という感じでいつも見てました。 小柄だったという認識もありましたので、どうして大男のゴリサンが演じているのかな、とも思っていましたが、最終回で琉球焼酎が出てきて納得(笑)。 沖縄ご出身ですもんね(笑)。

 あとは、ケンの婚約者役の香椎由宇サンが、イマイチ演技がアレだったかな~、とか。
 役をこなし切れてなかった気がします。 「遅咲きのヒマワリ」 ではそんなこと感じさせなかったんですが。 玉森裕太クンと、なんかカップルとしては合ってない感じもしたし。
 これは玉森クンのキャスティングが、原作と合っていなかったのかもしれません。 こんなカワイイイケメンが、何でもかんでもこなす一流シェフには、あまり見えない、という点で。

 でも逆に、こんなアイドルフェイスの男の子が信長お付きの一流シェフをこなしてしまう、という意外な面白さ、ということもあったのですが。

 あとは、やはりタイムスリップの説明が、かなりい~加減だ、ということ(笑)。 どうしてそうなったとか、どうして黄泉の祠に行くと元の時代に戻れるのかとか、スゲーどーでもいい、という感じで(笑)。

 それから(なんだなんだ、イチャモンがかなり多いぞ…笑)、稲垣ゴローチャンが、その演技は置いといて(「心療中」 ではいいんですけど、ハハ…)、明智光秀って、そんなに早い段階から、信長を疎ましく思ってたかな~、とか(笑)。

 いずれにしても、現代に戻れるチャンスがあったというのに、戻らなかった玉森クン(と、香椎サンもそうでしょうね)。
 「こんなおいしいドラマを、そう簡単にワンクールで終わらせるのはもったいない」 というテレビ局の思惑も見え隠れします(笑)。

 実際面白いから、続編の匂いたっぷりのこのドラマ、セカンドシーズンを期待します。

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2013年3月16日 (土)

「八重の桜」 第10回 信じることを諦めるな

 自分の好いた人が八重(綾瀬はるかサン)を好きだったことを、妬ましくて八重に言い出せなかった、という時尾(貫地谷しほりサン)。 「わだしだって、妬ましかった。 時尾サンがご右筆に選ばれで」。 八重も、時尾に自分の嫉妬心を素直に打ち明けます。 「時尾さんになんかあっだら、いつでもお城さ飛んでいぐから。 友達だもの」。

 このように、自分のイヤな部分でもなんでも打ち解けて話すことが出来たら、幕末の日本もこんなに混乱することはなかったかもしれません。
 しかし互いに遠巻きから相手を見て、相手への憎しみをいたずらに募らせていき、その果てには、問答無用とばかり殺し合ってしまう。

 肝心なのは、何を自らの行動規範に据えるのか、ということ。

 長州の場合、弱腰な幕府に見切りをつけて天皇を奉ろう、としているのに対し、会津は幕府にも、天皇にも、忠誠を誓っている。 そして今回暴走してしまう形で描かれた新選組は、ただ単に都の秩序を強硬に維持しようとしているだけに思えます(そこにはヒロイズムが潜んでいますけど)。

 私が見る限り、このドラマにおいては、長州の行動規範というものがかなり曖昧に描かれている気がする。 今回も、「都を火の海にする」 とか 「孝明天皇を長州に連れ去る」 とか、謀略ばかりやってる感覚がするんですよ。 その道理的な整合性が説明されていない。

 長州の目から見れば、八月十八日の政変で会津と薩摩にクーデターを起こされた、という恨みがある。 その元をたどると、三条実美や中川宮とかの、宮中でのパワーバランスが根っこにあると思うのですが、孝明天皇が三条に不快感を持っている以上、長州の立場というのは、天皇に仇(あだ)をなすもの、みたいな感覚でしょう。 でも長州は、会津が天皇に取り入った、と思ってしまっているみたい。

 まあおバカなりにこの政局の混乱を解説してますけどね。

 私が今回このドラマを見ていて感じるのは、いくら自分が正しいと思っていても、やはり相手がなにを考えて行動しているのか、ということを、互いに疑心暗鬼でもって諮ってしまってはダメだ、ということです。
 要するに、「いくらエラソーなことを説いていても、何か薄汚い思惑があるのだろう、テメーがエライ立場にのし上がりたいのだろう」、という疑心暗鬼が、長州にも会津にも、どちらにもある。
 これって現代の政局にも似ている気がしますね。

 その点で、会津の立場は、あまりにも忠義に潔癖すぎるために、それが却って仇になっている。
 今回このドラマで取り上げた池田屋事件の扱いは、「都を守る」 という、防衛の大義名分が、いつの間にか先制攻撃をも辞さない過激なものにすり替わってしまった、という悲劇として描かれている気がします。

 敵が攻めてくるから、その先を制して相手を皆殺しにしてしまう。

 今回、新選組は武器を隠し持っていた古高を捕縛し拷問するところまで見せていましたが、古高が池田屋のことまで自白したことまで、描写していません。 「新選組!」 でもそうだったと記憶していますが、新選組は、謀議の場が池田屋だということを突き止めるのに、かなり手こずっていた。 だのに今回、新選組は会津藩による足止めを勝手に抜け出して、池田屋に一直線に向かっている印象を受ける。

 つまり、今回このドラマでは、池田屋事件を新選組の暴走だ、という解釈で話を進めようと意図している側面が、かなり強いんですよ。

 その結果、「新選組!」 ではヒロイズムのもっとも大きな効果としてスポットが当たった池田屋襲撃が、「八重の桜」 においては、彼らが手に負えない殺戮集団だ、という印象を、見ている側に強く植え付けることとなる。

 同時に描かれていたのは、「今そこにある危機」 に対して迅速に行動できた新選組の 「危機管理能力」 と、「まずは中川宮や天皇に諮ってから」 とモタモタして出遅れた会津側の指揮命令系統の硬直化。 これが結果的にクローズアップされることになった。

 覚馬(西島秀俊サン)が駆けつけたときには、池田屋はまさに血の海。
 かつて酒を酌み交わした宮部がこときれているのを発見し、覚馬は憤ります。

 「にしら、なぜ勝手な真似を! 誰が斬れと命じた!」

 しかし、そこに瀕死の敵方が斬りつけようとし、覚馬は斎藤一(降谷建志サン)に助けられます。
 斎藤は一言、吐き捨てる。 「隙だらけだ」。

 これは、新選組の隊員たちが、いかに常に生と死が隣り合わせの緊張状態にあるかということを、余すところなく表わしています。 単なるヒロイズムでこの池田屋を見てしまうと、新選組イケイケドンドンみたいに見えてしまうけれども、実は有名どころの沖田だって土方だって近藤隊長だって、実はそこで死んでいたかもしれない、ということを、今回はとても感じました。 おそらく役者さんがあまり有名どころではないから(失礼)そう感じたのかもしれません。

 だから彼らの剣が、とても一心不乱で、狂気さえ帯びているような気がしてくる。 「新選組が殺戮集団だ」 という世間の一面の評価にも、理がある気がしてくるのです。

 これに憤った長州は、軍勢を率いて京を包囲。
 ここまでくると、最初から双方が腹を割って対話をしなかったことが、ここまで事態を悪化させている、としか思えなくなってきます。
 もし孝明天皇の意思がきちんと反映されていれば、長州は最初から、偽勅を発して朝廷を牛耳っていた三条なんかに与しなかったかもしれない。 いや、いろんな思惑が絡んでたとすれば単純に結論づけられませんが。 ただこのドラマを見ていると、原点は三条と中川宮の覇権争いだ、というように思えてくるのです。

 結局秋月(北村有起哉サン)は、中川宮や天皇への上奏を諫言したせいで遅れの責めを一身に背負わされ、協議の場から外されることに。 結果的に新選組、という過激集団を雇っている会津の立場は一層悪くなり、慶喜(小泉孝太郎サン)に手のひらを返され、容保(綾野剛サン)も自らのあまりの実直さのせいで、自ら警備行動を過激な方向に向かわせ、自らが首を絞められている形になってくる。

 いっぽう、新式の銃を開発した川崎尚之助(長谷川博己サン)は、にべもなく却下されたことに憤ります。
 しかしここで、八重が尚之助を叱咤激励する。

 「あんつぁまも同じでした!
 なにを言っても聞いて頂けず、禁足のご処分も受けやした!

 会津は頑固で、たやすくは動かねえげんじょ、あぎらめてはなりませぬ!

 認めていだたげるまで、何度でも何度でも、作りなおすべ!

 わだしが…わだしがずっと、お手伝いいたしやす!」

 自分のしたことは、ときに間違うこともある。 負けることもある。

 けれども、自分の信念に従って行動することを諦めなければ、道はおのずと開かれるのではないか。

 八重の言葉は(あいかわらず)単純だけれども、そのセリフは尚之介だけではなく、容保公にも、秋月にも、覚馬にも、頼母にも、徳川慶喜にさえも、均等に降り注いでいる言葉のように感じます。

 そしてこのような、「ままならない」 国、日本を捨ててアメリカへと旅立つ、新島襄(オダギリジョーサン)。 彼が幕末の日本に厭気がさしたその動機は、現代日本にも、そのまま生きている気がするのです。

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「タモリ倶楽部」 さよなら地上の東横渋谷駅(前編)…感慨無量

 3月16日からというから、今日からじゃないですか、東急東横線と東京メトロ副都心線の相互直通運転スタートって。 ちーとも知らなかった(笑)。 「おはよう日本」 とNHKラジオでしかニュース触れてないんで(笑)。
 今回それを採り上げた 「タモリ倶楽部」。 この番組では、京急線が舞台になることが多いんですけどね。 ただ、前にもこの渋谷駅の地下化は採り上げてました。
 前編は今日から 「旧」 になる地上の東急東横線渋谷駅の様子を紹介。 おそらく来週の後編では、 「新」 になる地下の渋谷駅を紹介するはずです。

 それにしても当ブログ久しぶりの、「タモリ倶楽部」 の記事。
 なんたって書かずにはおれませんよ。
 私の住んでる地域は、東急大井町線沿線ですからね。
 目の前の玉堤通りには東急バスが走ってるし。
 幼少の砌(みぎり)から五島財閥のお世話になっとるんですよ。
 少々開発が過ぎて辟易してる部分もありますけどね。

 そして今回の、この渋谷駅地下化でしょう。
 新しくなるのは結構かもしれませんが、地上の渋谷駅はやはり、私にとってはガキの頃から、そして社会に出るまで、とても馴染みのある駅なのです。 それがなくなるのはとても寂しい。

 番組では、まずタモリサンや鉄ちゃんでおなじみの南田マネージャー、六角精児サンらが元住吉の検車区から9000系の臨時電車に乗って東横線を北上します。
 今回走るのは、9000系でいちばん最初に製造された、9001号。
 この9000系も今回引退するらしい。 私がよく使用していたころは、8000系が主流だったから、まあ別に感慨はございませんがね(笑)。 でも8000と9000はよく似てるけど。

 私がガキの頃によく乗っていたのは、「カエル」 の愛称で知られた緑色の5000系とか(古っ!…笑)(一時期渋谷のスクランブル交差点前に展示してましたよね、今もあるのかな?)、オールステンレスの6000系か7000系とか(よく覚えてないけど、6000系だった気がする)。

 番組では、「さよなら東横線9000系 FINAL RUN」 と銘打たれたプレートをタモリサンがフロントに取り付けます。 タモリサン 「これ本格的なヤツじゃないの? 番組みたいに両面(リャンメン)テープで貼ってるのとは…」(笑)「これ溶接いい仕事してる」(笑)。
 そして電車は、「種別灯」 という、「かつて特急や急行など駅を通過する優等列車と停車する列車を区別しやすいように点灯していた」 ライトをつけることに。 上部の左右わきにある、どうってことないランプみたいなものでしたが(笑)。 鉄ちゃんにはこの区別もエキサイティングなんでしょう(笑)。 南田マネージャーは、今は廃止となった桜木町駅の方向幕を出させてまたコーフンしてます(笑)。 今はみんなデジタルですからね。  

 臨時電車は一行を乗せ、元住吉から、お隣の武蔵小杉駅へ。

 私ねー、高校がこの武蔵小杉にありまして。 毎日ここで降りてました(1980年代初頭)。
 うわ、スゲー高層ビルがいっぱい建ってる。
 こんなのイッコもなかった(新丸子の高層マンションの前はよく通るんですが)。 ザ・エルシィしかなかった(んなアホな…笑)。
 「多摩川」 駅も 「多摩川園」 だったし。 「多摩川園前」 だったかな? あんな高いとこになかったですよ。 むかしはここに遊園地がありましてねー。 よく行ったものです。
 田園調布駅も外の景色がよく見えたし(薬師丸ひろ子サンがですねー、「探偵物語」 をここで撮影していて、「くそー出くわしたかった」 とどんだけ臍を噛んだことか…笑)。 田園調布駅って、いま地下みたいになってるけど、アレって地下に潜ったのかな? 「自由が丘」 で乗り換えね(私の高校時代です)。 だからのぼりのその先はあまり馴染みがありませんが、代官山駅とかも相当リニューアルしてるし(あんだけリニューアルしたのに、今回ここもなくなるとか)、大井町線でも上野毛駅などは昔の面影全くない感じ。 どうしてこう、容赦なく変えてしまうんでしょうね、五島サンは。

 それにしてもどこで聞きつけたのか、それとも四六時中見張っているのか(笑)、この特別な臨時列車を写真に収めようとする鉄ちゃんたちの多いこと多いこと(笑)。 「上京して初めて住んだアパートが都立大学駅沿線にあった」「学芸大学駅に同級生3人いる」 とか昔話をするタモリサンをよそに、その撮影者たちは膨れ上がっていきます(笑)。
 終点の渋谷駅(もちろん地上)に着いたころには、だいぶギャラリーが集まっていて。
 南田マネージャーがコーフンしてましたが、この渋谷駅の4つのホームにすべて電車が入る、というのは非常に珍しいことだそう(確かに見たことないな…笑)。 ギャラリーたちも驚いたでしょうね、タモリサンとか 「相棒」 で知名度かなりアップした六角サンとかが臨時列車から出てきたんですから。

 この地上の渋谷駅。

 膨らんだような形の逆三角形が連なる外壁。 これがやはり、渋谷駅を象徴するモニュメントのひとつと言えますね。 これってなくなってしまうんでしょうか? 残してもらいたいですよね。

 やはり自分の場合、繁華街に行く、というと、まずは渋谷でしたから。 つーより、ほとんど映画を見に行く、という場合、渋谷でした。 今はヒカリエになってしまっている東急文化会館とか、スターバックスとツタヤがあるビルの前のビルでは、渋谷宝塚劇場。 たまに新宿なんかに行く場合でも、やはりいったん渋谷まで行く、というルートしかなくて。
 それと、高校生くらいになると、タワーレコード。 今の東急ハンズの近くにありました。 道玄坂の途中には、吉野家があって、当時ヤマハのビルかなんかの近くだったのかもしれない。 中島みゆきサンの 「狼になりたい」 に出てくる吉野家って、ここなのかな~、とか。 ここでもよく牛丼を食べました。 道玄坂をもっと上がると、VHSのビデオカセットを安~く売ってる電気屋があって。 当時1本2000円、とか言うと、かなり安い!という感覚でした。

 イカン、昔話をしだすと止まらない(笑)。 ジジイになった証拠だな(あ~あ)。

 とにかくその記憶のひとつひとつに、あの渋谷駅の外観がかなり密接に関わっているんですよ。
 なくなってほしくない、というのは、単なるノスタルジーですかね。

 一行は渋谷駅の駅長室へ。 そこで六角サンが渋谷駅長さんに感謝状を読み上げて感無量になっていましたが、私も同じ気持ちがあるかもしれない。 「この窓から駅のホームが見える」 という窓からタモリサンがホームを見下ろすと、2人ばかりこちらのほうを見ている人がいる(目ざといな…笑)。 手を振るタモリサン(無邪気…笑)。

 二子玉川駅周辺の道路にしても、かなり変わっちゃいましたからね。 「昔はこうじゃったんじゃ」 なんて言う年寄りに、着実に近づいている気がする、今日この頃です(笑)。
 旧渋谷駅への感慨が深くて、たぶん来週の 「タモリ倶楽部」 新渋谷駅のレビューは、当ブログではしないと思います。 悪しからず。 100円でポテトチップスは…、あ、いやいや(若い人には何のことだか…笑)(藤谷美和子、カルビーで検索、GO!…笑)。

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2013年3月12日 (火)

納谷悟朗サンの死を悼む

 言うまでもなく、「ルパン三世」 の銭形警部の声をやっていた人。 しかし自分としては、アニメや特撮の世界で生まれて初めて触れた、「大人の世界を持っている人」 だったように感じます。 83歳。 謹んで哀悼いたします。

 母校の立命館大学で演劇部から、標準語のアクセントを指導してくれと言われたのが、演劇の世界に入るきっかけだった、といいます。 もともと函館出身でしたが幼少のころから東京に移り住んでいたために、関西の大学である立命館では訛りがない学生が重宝されたらしい。

 声優の仕事を始めたのも、貧乏劇団の資金稼ぎが目的。 当時のテレビ局は今みたいにせせこましくなくて(笑)、仕事が終わればその場でポン、と大量のギャラを渡される。 その袋が厚みで立った、という話はどうやら本当らしい(笑)。 「中身が千円札なのか一万円札なのか覚えてないけど」。 万札で立ったらそれこそ当時(昭和30年代でしょうね)家が建ったでしょうから(笑)、千円札だったんでしょうね。

 どちらにしても、片手間にやってる仕事じゃなかった、といいます。 「トチるやつはプロじゃない」。 「ルパン三世」 で共演したルパン役の山田康雄サンとは同じ劇団どうしだったこともあり、まさにプロどうしのぶつかりあいだったのだと思います。

 「ルパン三世」 というアニメを見ていて少年の私が感じていたのは、まさにこの点だったように思う。
 もともと大人向けのアニメ、というコンセプトで始まったアニメだったとはいえ、おちゃらけた追っかけごっこをしているのに、声優さんたちの呼吸に隙がない。
 いや、昔のアニメや映画の吹き替えには、劇団員出身の人たちが多かったせいか、一種独特の緊張感みたいなものがあったように感じるんですよ。
 よく、宮崎アニメで声優に関してシロウトの人が起用されるようになったことについて、批判の声が聞かれます。
 でもそれって、昔の声優さんなら納得のいく話。
 こと 「ルパン三世」 に関しては、山田サンとか納谷サンとかの漏れ伝わってくるエピソードには、「プロとしての自覚」 に基づいた厳しさ、というものが充満している。
 それは、自分たちが劇団の俳優であるという自覚であることもさることながら、「昔、大人は大人だった」、ということの象徴でもある、という気がしてなりません。

 宮崎アニメのシロウト起用、という点でちょっと断っておきたいのは、そんな 「昔の」 声優が持つ個性が強すぎるから、キャラの固定化を宮崎サンが嫌っている、という側面がいちばんの原因だろうということ。 そう、私としては認識しています。 今人気のある声優さんだと、逆に声優学校で教わったことで役を作りすぎてしまうきらいがある、ということもあるかもしれない。

 それはそうと、私が納谷サンの声をいちばん最初に刷り込みされたのはなんだったかなーと思って、ウィキのプロフィールを見てみました(相変わらず声優の出演作とかでは頼りになるウィキ)。

 やはりチャールストン・ヘストンとかの声だった気もするのですが、やっぱり 「仮面ライダー」 の悪の首領でしょうね。
 いや、ナレーションという点では、「サインはV」 とか 「アテンションプリーズ」 ということになるのかな。 記憶はないけど。 「新造人間キャシャーン」 のナレーションは、もっとも初期の印象的な納谷サンの声だった気がします。

 そりゃ、「黄金バット」 とか 「海底少年マリン」 とか、「原始少年リウ」 …じゃなかった(笑)「原始少年リュウ」 とかも見てたので、そのときすでに刷り込みはされてたんだと思いますが。

 そうした下地的な刷り込みのおかげか、「風の谷のナウシカ」 でのユパ役はまさに、「頼れる大人」 としての存在感が揺るぎなくて。 納谷サンの役のなかで、個人的にいちばん好きかもしれない。

 「ルパン三世」 の声優交代劇、というのはつい最近のことですが、やはり銭形警部役って、納谷サンにとって一種の 「生きるためのテンション」 だったような気がします。 森光子サンにしたって、「放浪記」 をやめなければ、もっとご長寿を全うされたかもしれないし。 誰に何を言われたってね。

 人間、「現役感覚でいる」 ということは、生きるための原動力なんだ、と痛感します。

 頭のなかで、「ルーパァ~~ン」 という、納谷サンの声が、こだましています。

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2013年3月10日 (日)

「泣くな、はらちゃん」 第6-8回 「知ること」 の恍惚と不安とふたつ我にあり

 現実世界に出てきてしまったはらちゃん(長瀬智也サン)とその仲間たち。 越前さん(麻生久美子サン)は結局、「開くとかれらが元の世界に戻ってしまう」 自分の創作ノートをテープでぐるぐる巻きにし、この大所帯を引き受けてしまいます。

 これっていかにも大変そう。 自分のことですらままならないのに、現実世界の基本的なことをほぼ知らないこの人たちを、越前さんがどうにかできると考えるほうが難しい。
 とりあえず、彼らは神様(彼らが越前さんをそう呼んでる)の権限で、自宅待機ということに(笑)。

 タレント追っかけのためのパートおばさん集団職場放棄(笑)に遭ったために、副所長を務めている越前さんは自分の職場であるかまぼこ工場に、彼らを呼び寄せます。 注文に間に合わず、遅々とする作業に焦りを感じている越前さんの表情を見て、はらちゃんは突然、「あの歌」 を歌い出す。

 「♪世界じゅうの敵に降参さ 戦う意思はない
 世界じゅうの人の幸せを祈ります

 世界の誰の邪魔もしません 静かにしてます
 世界のなかの小さな場所だけ あればいい

 おかしいですか?人は
 それぞれ違うでしょ? でしょ? でしょ?

 だからお願い かかわらないで
 そっとしといてくださいな

 だからお願い かかわらないで
 私のことはほっといて」

 はらちゃんは現場の士気を高めるためにこの歌を歌っていますが、それをはたで聞いていた田中くん(丸山隆平クン)は悪魔さん(忽那汐里チャン)につぶやきます。 「ずいぶんとまた、詞が後ろ向きってゆ~か…」。

 私もかねてから感じていたのですが、この歌の歌詞って、何事にも消極的で 「どうせ私なんか」 という思考回路が固まっちゃってる越前さんの、自己正当化の歌だと思うんですよ。

 それと、これって暗に、戦争反対の立場の人たちが持っているロジックの危うさを微妙に突いている気がしていた。
 つまり、「武器を持って戦うくらいなら、人を殺すくらいなら、自分は逃げる。 自分は非暴力を貫き、卑怯者と謗られてもいい、自ら進んで死んでゆこう」 というロジックです。

 この立場をとるには、実は限りない勇気が必要です。
 だのに、今の世の中、ヤケに好戦的気分が充満している。
 「自分の愛する人を、愛するこの国を守る」 という意識が、とても尊ばれる傾向にあるからです。

 それは至極当たり前のことであることは私にも分かります。
 でも、自尊心を傷つけられたりして、相手の国や民族に憎悪をかきたてる思考方法がいいとは、私には到底思えない。

 「静かにしてますから、ほっといて下さい」 という歌は、実はこんな好戦的な思考を当然だと思い始めている日本人が、もっとも侮蔑したくなる態度なのです。 「相手のいいようにされて黙ってるのか」、と。

 私もこの歌の態度が、けっしていいとは考えていません。
 「自分の小さな場所を守るためには、戦うべきなのだ」、と思う。

 でも戦いの方法は、相手を憎むことではけっしてない。 相手の理不尽さに感情的になって怒ることでもない。

 相手との差異を認め、認識の違いを受容しながら、それでも互いを尊重し合って、対話を重ねていくことが、本当の意味での戦い、ということではないでしょうか。

 このドラマを見ながらこんなことを考えるのは、かなり飛躍している、と自分でも考えていました。
 ですが、今回第8回ラストではらちゃんたちが世界中で起こる、戦争をはじめとしたいろんな悲劇をテレビによって目撃することで、はらちゃんたち、いやこのドラマの作り手の意識のなかに、そこまで飛躍した考えが隠れているのだ、ということが分かったような気がするのです(オマエの妄想?…笑)。

 はらちゃんたちは、現実世界のことをひとつひとつ知識として覚えていくことに、いままではとても喜びを感じていました。
 それはホントに、まるで子供のような無邪気さで。

 でも、この現実の世界には、限りない悲劇や憎しみが渦巻いていることも事実なのです。
 「知ること」 によってはらちゃんたちがなにを思うのか。

 それはけっして、「こんな世界からは逃げたい、元の世界で静かにしてるほうがずっといい」 ということではないだろう、と感じます。 結論的にはね。

 たぶんこのドラマの最終的な落とし所は、「自分の小さな場所を、小さな幸せを守るためには、逃げるべきじゃない、戦うべきなのだ」、というところなのだろう、と感じます。

 でもその戦いかたは、やはり憎しみや暴力によってではない。

 この歌の歌詞が、ドラマのなかで最終的にどう変わっていくのか(それとも変わらないのか)は、個人的には着目しています。

 まあ、予想はことごとく裏切られてますけど(笑)。

 矢東薫子センセイが百合子さん(薬師丸ひろ子サン)だった、という予想は、まあ簡単だったから当たってましたけど(それを知ったときの越前さんのテンパリよう、笑えました)、百合子さんが現実世界で関わっていたのは、ユキ姉(奥貫薫サン)だけだったみたいだし。

 それに、玉ちゃん(光石研サン)が現実世界に来てしまったときのことを考えると怖い、などとコメント欄で申してしまいましたが、なんかパートのオバサンにユーレイ扱いされるくらいで大して問題にならないのも、予想が外れた(笑)。

 それに、このドラマでは、設定がところどころ、かなりざっくりと大雑把なんですよね(笑)。
 以前のレビューで私が 「そのマンガをもう一度読めば、主人公たちはまた生き返る」 などと書いていたのですが、このドラマにおいては、マンガの登場人物が死ぬのは、その作者によって殺されてしまうか、もしくは 「忘れ去られたとき」 だ、とユキ姉がしゃべってました。

 まあどうして矢東センセイが殺してしまったはらちゃんたちが越前さんのマンガで蘇るのかとか、どうして越前さんが新しいノートではらちゃんを描いてそれをいくら振ってもはらちゃんが登場しなかったのかとか、いちいち深く考えると矛盾が散見されるんですよ(笑)。

 最も不自然なのは、やはり越前さんの弟であるヒロシ(フィリップ君)でしょうけど(笑)。

 どうして姉貴のマンガ本をそれほどまでに捨てたがるのか(笑)。

 しかも捨てといてそれを救うのもヒロシだし(笑)。 そのためだけに1時間にも満たないゴミ処理場のバイトさせて(笑)。
 まあこのままじゃ、ヒロシ一方的にワルモノじゃん、と考えた岡田惠和サンの、いつもの人のよさだと解釈してますけど。

 まあ、ヒロシがいないと物語が進まないことには目をつぶりましょう(笑)。

 前にも書きましたけど、もともとの設定が奇抜だから、展開のゴーインさも気にならないんですよね。

 気にならないどころか、カイカンでもある(薬師丸ひろ子つながりだ…笑)。

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「八重の桜」 第9回 会津の主観から見た政変

 八月十八日の政変を描いた今回。 オープニングタイトルが、微妙に変わっているような気がしたのは置いといて。
 ここ数年の幕末もの大河で描かれてきた内容とは、がらりと変わっていたように感じます。

 要するにこれは、会津の主観的な立場から見た政局動向。
 その会津の立場から考えると、政変のもっとも重要となるモチベーションというのは、孝明天皇(市川染五郎サン)からの厚い信頼と、孝明天皇が苦々しく思っていた偽勅問題だったのではないでしょうか。

 これまでの大河を通じた私の認識では、孝明天皇というのは、かなり強硬な攘夷派で、幕府に対して期日を設けて攘夷を強く迫っていた。 将軍家茂は公武合体で一緒になった和宮との関係もあって、その返事に苦慮している、という構図。
 今回その将軍家茂は、一切登場してきません。
 だから今回見ていて、長州藩が討幕を考えている、という理屈が、ひどく唐突に思える。
 のらりくらりとしている幕府に対する苛立ちが描かれないから、三条実美(篠井英介サン)らが天皇の名を騙って偽勅を発したり、久坂玄瑞とか真木とかがよからぬことを企んでるとか、とても理不尽なことをしている、という印象がついてまわる。

 こうなると、会津の正当性が急に台頭してくる気がするんですよ。
 それまでの大河では、会津は結構クーデターを起こした張本人っぽかった。
 描きかたが長州寄りだったり家茂寄りだったりしてたわけだったんで。

 ここ数回のこのドラマを見ていて、なんにしても強調されているな、と思うのは、会津の忠義心です。 悪く言えば盲目的、とも思えるこの精神動向を、このドラマは重層的に説明している。

 目上の者に対する礼儀、という点で強調されているのは、天皇ご真筆の書状が来たときに水戸黄門の印籠以上の恭順反応を示す会津武士たちの描写だけでなく、照姫(稲森いずみサン)がなぎなたの道場に来た時の八重(綾瀬はるかサン)らの反応にも見て取れる。
 いや、会津では、いついかなる場合においても、目上の者に対してはまず頭を下げる、というのが徹底されてるんですよ。 前回も、西郷頼母(西田敏行サン)の従者が、頼母がちょっと振り返ったくらいで頭を下げていた記憶がある。 今回も、照姫が手にしていた容保公の写真に写っていた陣羽織が孝明天皇からのものと知って、照姫お付きの女従が後ずさり、「畏れ多いことにございます!」。

 今回冒頭、秋月(北村有起哉サン)のもとにあらわれた、薩摩からの密使。
 この、どこの馬の骨とも分からない密使の言うことにゃ、「長州が倒幕を企んでるから排除しよう」。
 秋月や覚馬(西島秀俊サン)はこれを藩主容保公(綾野剛サン)に報告するのですが、これって果たして、一藩のトップにいきなり報告を上げるほどの信憑性を帯びているものなのかどうか。
 容保は秋月に、高崎と名乗るその薩摩の密使と共に、中川宮に勅旨の上奏を賜るよう命令するのですが、中川宮ととっさに聞いて 「そいつなら信用できる」 ということが分からないから、私としては、そんなトップダウンでやっていいものなのか、という感じに思えるんですよ。 そもそも容保公の前でその薩摩の密使の話の信憑性というのを談義するのはおかしかろう、と思えるし。

 しかし孝明天皇からの勅旨をもらえばもう一連の行動になんの差し障りもなく、会津はそれまで長州が務めていた御門の警護を八月十八日未明からコソコソと(笑)決行。
 長州はど~ゆ~ことか分からんので(笑)その日夕刻になるまで覚馬率いる会津の鉄砲隊とにらみ合い。 勅旨が出たとなればこういう無駄な対峙は不必要なことがすぐ分かるのですが、久坂玄瑞などは一戦交えようと、いっとき意気軒高になっていました。
 結局長州の軍勢は撤収。 三条はぶざまに会津と薩摩を呪いながら都落ち。

 これで仲が決定的に悪くなる長州と薩摩ですが、これを修復するのが坂本龍馬(福山雅治サン、ちゃう…笑)…いや、この大河ではその影すら見えてきません(つくづくほかの幕末大河を排除してる)。 出てくんのかな、龍馬?(笑)

 ああ、その前に蛤御門の変か。 今度は京もまる焼けになっちゃうんだったよなー。

 どうも幕末の政情って複雑で、何回大河を見ても忘れちゃう(ハハ…)。

 これで名を上げたのが壬生浪の近藤勇(香取慎吾クン…ちゃうちゃう)。 つーかこの大河では、のちに時尾(貫地谷しほりチャン)の夫になる斎藤一(降谷建志サン)ばかりが前面に立ってる。 この一件で彼らには、「新選組」 という隊名が容保公から授けられることになった。 今回の大河における彼らの扱いも、あくまで 「ほっとくと危険な感じの忠の志士たち」 という位置付けですね。 芹沢鴨(佐藤浩市サン…だからシツケーな…笑)の影すら見えない。 出てくんのかな、芹沢?

 そして孝明天皇からお歌をいただいて、会津藩の人々は感涙にむせびます。
 あくまで忠義のもののふたちなんですよね。

 いっぽう照姫の右筆候補として有力視されていた八重でしたが、結局決まったのは事務所の力で剛力彩芽チャン…じゃなくて(笑)貫地谷しほりサン演じる時尾。
 右筆右筆って、なんだろうと思ったのですが、なんか書記らしいですね。 じゃ文より武の八重では不適格か(笑)。 自分の娘に決まったもんだとばかり思ってた父親の権八(松重豊サン)、笑えました。 でもその父親の様子を見た八重の表情は冴えない。

 この、八重の落胆が大きかったことには注目します。
 容保公ひいては照姫さまのお役に立ちたい、という気持ちが強いことは言うまでもありませんが、もともと自分に縁談そのものが来るべか?などと自虐していた八重ですから、右筆になれば嫁に行く必要もなくなる、というメリットには大きな魅力を感じていたはずです。 男まさりの自分が、親に対して大きな負い目を感じていたことも、今回かなりはっきりした。
 そして幼い頃から抱き続けていた 「おなごのくせに」 というコンプレックスからも解放される、絶好の機会ととらえていたフシもある。
 八重は川崎尚之助(長谷川博己サン)に打ち明けます。

 「わだし、またお父っつぁまたちを、がっかりさせてしまった…。

 うぬぼれでいました。 わだしなら、照姫様のお役にたでると。

 んだげんじょ、よぐ考えてみだら、時尾サンみでえにつつましぐて気が利いで、優しいおなごでなげれば、お城では務まらねえ。

 わだしは、ふさわしぐながった…」

 しかし川崎尚之助は、お城に上がらずにほっとした、と言うのです。 八重は新式の鉄砲作りには、欠かせない人だ、と。 「私ひとりの力では、どうにもなりません。 …八重さんの代わりはいない。 これはあなたにしか出来ぬ仕事です」。

 これが新式の告白であるかどうかは置いといて(笑)、八重は 「自分の代わりがいない」 と言われたことに、いたく感激します。

 「代わりはいねえなんで、…そったこど言われっど、…わだし…(泣いてしまう八重)。

 わだし、うれしぐて…。

 …ありがてえなし…」

 川崎尚之助の言葉に、それまで八重が抱いていたさまざまな鬱積が、解放されていく瞬間。 八重さん、今回序盤で、不用意に鉄砲に触っていた時尾の弟らを叱責したように、物事には順序というものがありやす。 一歩一歩、登ってゆけば良いのです(少々ゴーインなまとめかた…笑)。

 

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2013年3月 8日 (金)

「八重の桜」 第8回 「ままならぬ思い」(2月24日放送)を見て

 遅ればせながら、先週の 「八重の桜」 のレビューをいたしたいと存じます。
 実は先週見て、そのままうっちゃっていたのですが、どうも書きたいことがあって。 あらためて今日、また見てしまいました。
 すんませんが、今週分(第9回)はまだ未見(ハハ…)。 今週分はまたの機会に…。




 「ままなんねえもんだな、ハハハ…。
 誰も思ったようには生きらんねえか…」。

 この回のラスト。
 いくら鉄砲がうまくても、藩主松平容保公(綾野剛サン)のお役に立てないことを悔しがる八重(綾瀬はるかサン)に、その容保公から謹慎を食らったばかりの西郷頼母(西田敏行サン)が、ふとつぶやきます。
 このドラマのサブタイトルは、ドラマ内容をとても分かりやすくしている一助になっている。
 この回も 「ままならぬ思い」 というサブタイトルのまま、物語が展開していきました。

 すなわち、①八重の友人である時尾(貫地谷しほりサン)が大蔵(玉山鉄二サン)に抱いていた片思いが、大蔵の祝言によってはかなく破れたこと。
 ②その当の大蔵も、幼い頃から八重に対して抱いていた恋心を捨てねばならなかったこと。
 ③そして京都守護に当たって新選組の前身となる壬生浪士たちに、急進的であることに目をつぶって警護を託さねばならなかった会津藩のお家事情。
 ④そんな過激な連中に京都守護を任せていられない、とばかり京都に馳せ参じようとし、頼母に止められる、佐川官兵衛(中村獅童サン)。
 ⑤さらに三条実美(篠井英介サン)らの勝手な動きで自らの名を騙られ、会津の動きを封じられようとした孝明天皇(市川染五郎サン)が綴った真意。
 ⑥その御心を知ったばかりの容保公の元に、折悪しく京都守護職辞退を陳情に来た頼母が、容保公から蟄居を命じられてしまうこと。
 ⑦そして八重が抱える、「鉄砲でお役に立てないもどかしさ」 がとどめを刺している。

 「誰もが自分の思ったように生きられない」。
 頼母の言葉には、ひとかどの重みが備わっています。
 しかしこの中で、唯一自分の思うように生きようとしている人物がいる。
 松平容保公です。
 もともと京都守護職というお役目自体、やりたいと自分から願い出たことではない。
 でも彼を突き動かしていくのは、孝明天皇からの心からの信頼であり、藩祖の御家訓である。
 そのまっすぐな気性が、会津を追い詰め、手を血まみれにしていく主因となっていることが、今回のサブタイトルよりも、結果的に深く印象に残るのです。
 自分の思うように生きようとして、はまり込んでゆく悲劇。
 この第8回の眼目は、そこに隠されている気がしてならない。

 この回の後半、会津藩は天皇の御前で軍事教練の成果を見せることになります。
 しかし公家方の策略で、危うくすっぽかしてしまいそうになる。
 それに気付いた秋月(北村有起哉サン)たちは、慌てて雨の降りしきる御所に駆けつけるのですが、ここで感じるのは、「恥をかくのは武士の名折れ」 という意識もさることながら、あくまでもそれは自分たちのためではなく、忠義の心を示すために行なおうとしている意識が見えることです。
 容保公がここで孝明天皇から賜った赤い陣羽織を羽織るのもその象徴と言えますが、会津藩の精神動向というのは、常におかみに対して 「一直線」 なんですよ。 「忠」 が第一義。 それは徳川幕府に対してもそうだし、朝廷に対しても同様です。 この精神動向には、「ならぬものはならぬ」 という土壌があることは論を待ちません。

 そしてそれがあまりに一直線すぎるがゆえに、壬生浪という危険分子も取り込んでしまうことになる。 こうなると、頭の固すぎる警察みたいな感覚かな(笑)。
 頼母が危ぶんだのも、まさにこの点だったと思うのですが、頼母のような柔軟思考の者が弾かれてしまうような時代状況になってしまっていたのは、不幸というほかはない。

 会津藩が京都守護を強行に推し進めようとしていた裏には、どこかで 「自分たちは田舎者」 というコンプレックスもあったのではないか、という気を私に起こさせます。
 薩長にしても中央からかなり遠くて、やはり 「自分たちは田舎者」 という意識と闘っていた気がするのですが、彼らの場合、徳川幕府の政治手腕の限界を察知し、幕府にとって代わり、自分たちが政治を動かしていこう、という意識のほうが強い。
 長州はこの回、攘夷の考えを根本から改める機会を得ます。
 世界を知ることで、目覚めていくものがある。
 勝麟太郎(生瀬勝久サン)はいみじくも述べています。

 「戦はしねえがいい。 だが攘夷もできず、開国もせず、その場しのぎの言い逃ればかりしてちゃ、どうにもならねえわさ。
 一敗地にまみれ、叩き潰されて、そこから這い上がりゃ、10年後、100年後、この国も、ちったあマシになるだろうよ」

 「損な役回りゆえ(守護職を)放り出せというのか?
 それは卑怯であろう…。
 一藩をかけてもお守りする。
 …それが、会津の 『義』 だ…」

 それに対して、頼母の諫言に答える容保公のこの言葉は、とてもじゃないけど10年後、100年後のことを考えているとは思えません。 刹那的で、短絡的思考、と言える。

 しかしこの容保公の考えは、間違っているのでしょうか?
 容保公のこの考えは、領民の生命のことを結果的に無視した、と謗られても仕方のないものかもしれない。
 しかし、自分の信じるものに殉ずる生き方に、価値がないとは誰も断言できないのではないか、と私には思われてならないのです。

 この回のラスト。
 冒頭で引用した頼母のセリフは、頼母が桜の木にたかっていた毛虫を取りながら八重に話したものでした。

 「桜の木を枯らさねえように、せめて、災いの元を取り除きたかったんだげんじょ」

 「わだしに、お手伝いさせてくなんしょ。
 木が枯れては、わだしも困っからし」

 頼母の毛虫取りを手伝う八重。
 もしかするとこれは、八重の人生を予見させる、重要なシーンであったかもしれません。

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ちょっとお知らせ(録画機交換に絡んで…)

 え~、このところブログをさぼっております、橋本ですcoldsweats01

 実はですねー、こないだぶっ壊れたHDDに入っていた、直近の録画ストックが、見られなくなってしまいまして。
 「最高の離婚」 は丸々2回ぶん、見ることが叶わなくなってしまいましたcrying
 2回スッ飛ばした状態で、新しい録画機に入れたものを見たのですが、なにがなんやらさっぱり分からない。 どうして瑛太クンと綾野剛サンが一緒に暮らしてるのだ?みたいな(笑)。

 仕方ないので、このドラマはリタイアいたします。 「最終回まで見て」、というレビューもないです。 途中まで結構気を入れてレビューしてたので、ご期待されていた方々には、大変申し訳なく、ただただお詫び申し上げます。 再放送とかするのかもしれないけど、やはりドラマって旬のものですから。 私も残念です。

 そのほかにも、あとで見ようと思っていた 「アテルイ伝」 とか、「メイドインジャパン」 とか、全部スッ飛んでしまいまして。 あーあ。

 かろうじて大丈夫なのは、「八重の桜」「とんび」「泣くな、はらちゃん」 でしょうか。 「はらちゃん」 に関してはレビューをお約束していながら、手つかずの状態で大変申し訳なく、重ねてお詫びいたします。

 とりあえず、「八重の桜」 の先週分のレビューを、させていただきます…。

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