« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

2013年4月

2013年4月30日 (火)

「八重の桜」 第11回 「守護職を討て!」(3月17日放送) 第12回 「蛤御門の戦い」(3月24日放送)を見て

 あまりに前の放送すぎてマヌケなことこの上ないのですが、今年のこの、「会津寄り」 の大河ドラマについて思うことがあるので、書いてみようかなと思います(恐る恐る…笑)。

 まず感じるのは、御上(天皇)を巡る日本人全体の距離感ですね。
 つまり、天皇陛下を日本国のもっとも上の存在として尊崇するという立場というのは、おそらく日本人の行動規範として確立している。
 でも去年の 「平清盛」 で平安末期の段階ですでにそうなっていたように、この畏敬の対象としての天皇というのは、かなり早い段階から形式的なものになり下がっているわけですよ。
 要するに、天皇を崇め奉るのは、「タテマエ」。

 そして天皇の周囲には、そんな建前を金科玉条みたいに考えて天皇の権威を利用しようとする者たちが取り巻いている。 すなわち天皇に弓を引けば、それは逆賊ということになり、この 「日本」 という国のルールに則れば、「ワルモノ」 という汚名を着せられることになる。

 そんな形骸化する権威のなかで、当の天皇がなにを考えているのかは、ほとんど顧みられない。

 これはここ最近もニュースになっている、靖国問題に関しても同じだと私は思ってまして。
 靖国神社がどうして問題視されるのか、と言うと、A級戦犯が合祀されているからというのはみなさんお分かりかと思うのですが、昭和天皇はA級戦犯が合祀された時点から、それまで行なっていた靖国参拝を取りやめている。
 これって昭和天皇のご意向でしょう。
 そりゃ、いろいろと議論はありますけどね、私が言いたいのは、「天皇のご意向に関しては天皇自身が決めることではなく、天皇を崇め奉っている我々が決める」、という連中が、平安の時代からずーっとこの国に存在している、ということなんですよ。

 そしてこの、平成の世の天皇陛下にしても、先の戦争に対する認識は、かなり 「侵略戦争」 というご意向で行動されているように見えます。
 これを、「陛下のお考えなど自虐史観の影響だ」 とか、そう考えるほうが、天皇陛下に対するご不敬なんじゃないでしょうかね?
 まさに、天皇自身の考えなんかどうでもいい、天皇のご威光を決めるのは自分たちだ、という傲慢。

 去年の大河では、平清盛がまさに、藤原摂関家がほしいままにしていた、天皇の権威というものを、武士の階級でも利用しようと、画策したドラマだった。
 と同時に、そんな 「天皇の威を借りる」 という方法をすでに古いやり方だとして、天皇の政治的支配を摂関家ごと横取りしようとした源頼朝-北条政子ラインまで描いていた。

 そして源頼朝方式は武家社会が続くなかでだいたいずーっと継承され、幕末までくるわけです。

 今回の大河で、黒船来航で開国か攘夷かに揺れる世論のなかで、天皇は急に脚光を浴び、担ぎ出されようとしている。

 これは、幕府が頼りないから任せてられっか、と考えたときに、日本人なら誰でも 「幕府の上には御上がいるじゃん」、という発想になるからであって。

 しかし当の天皇は、つまり当時の孝明天皇ですが、やはり平安時代と同じようにただのお飾りで、実質的な采配というのは、有力公家によってなされているわけですよ。 中川宮とか三条とか。

 そんな公家たちの勢力のなかに割り込んできたように見えるのが、長州です。
 孝明天皇は三条たちの勢力よりも中川宮の勢力のほうをとったんでしょう。 だから八月の政変で会津藩が行動した。
 少なくともこのドラマではそういう描写がなされている、と感じます。

 でも今までの私の認識から言うと、八月の政変というのは、会津藩によるクーデターなんですよ。 「政変」 っていうくらいですからね。

 これってどこでどう間違えると、こんな180度違う話になっちゃうのかな、と。

 このドラマでいちばん会津藩の正当性を私が感じるのは、松平容保公が、まさに孝明天皇のご意思のままに行動している、という部分であります。 容保の行動の裏には、孝明天皇が秘密裏に届けさせた、自らのご意思を書きつづった書状が厳然としてある。
 要するに、容保は、べつだん天皇のご威光を利用しようとしていないんですよ。

 いっぽうの長州藩は、会津藩が天皇に取り入っている、と考えている。 それで自分らのお役目を取られた、と遺恨に思っている。
 長州藩にしてみれば、「陛下は会津藩に騙されている」、という認識で行動しているんだろう、と思うのです。
 だから禁門に対して鉄砲とか大砲を撃つ、という、一歩間違えば 「逆賊」 の汚名を着せられかねない、危険な賭けに打って出ている。

 この過激な政治的判断を導いていると思われるのが、真木和泉と久坂玄瑞です。
 特に私が不思議に思うのは、久坂の存在。

 いろんなドラマで彼の行動を見てきた私ですが、どういう立場から語られていても感じるのは、彼がかなり急進的な、過激な思想の持ち主だったのではないか、ということです。
 だいたいこの蛤御門の変で自刃した時、彼はまだ24、5くらいでしょう。 若さに任せて過激な行動に出てる、そんな人生の燃焼の仕方が、彼を後世まで人気者にしている原因とも思われる。
 今回の 「八重の桜」 でも、真木和泉などは佐久間象山が殺されたのを聞いて、「いい時に死んでくれた」 とか何とか、なんかスゲーワルモノ臭が漂っていたものでしたが(笑)、こと久坂玄瑞の最期の描写では、とても幕末のヒーロー、といった感じだった。

 この描写を見ていて私が感じたのが、「長州にとっての 『義』 が、なんか分かりにくい」、ということでした。
 天皇を担ぎ出そうとしているのに、天皇の御所に向かって発砲する。
 スゲーチャレンジャーだろ、と(笑)。

 で、その原因を考えるうちに辿り着いたのが、今回のレビューであります。 「もともと天皇のご意向よりも、そのお立場が必要な人たちがいるのではないか」、という、先の議論です。

 そして注目すべきは、この蛤御門の変で勝者となった、会津藩に対する、京の人々の恨みが描写されている部分。
 実質的にドンパチの原因を作ったのは長州なのだから、京の町が大火で丸焼けになってしまった原因は、長州にあるべきなのですが、焼け野原を歩く山本覚馬たちに、京の人々は罵声を浴びせ、石つぶてを投げつけるのです。

 なんじゃこりゃ?

 要するに会津藩というのは、京の人々に受け入れられてないんだ、と思いました。
 長州が京でどのような支持を民衆から受けていたのかは、ことこのドラマを見ている限りでは、まったく伝わってこない。
 ただ分かるのは、新選組という急進的な連中を雇うことで会津の印象は悪くなっただろう、ということ。
 これってゴーマンなケーサツに対する我々の不快感と似ているのかも?

 そして八月の政変も、やはり 「政変」、会津藩のクーデターとして、京の人々には認識されていたのではないか、ということ。

 そしてさらに描写は、「戦」 というものの悲惨さに向いていきます。

 じっさい、戦国時代からこっち、こうしたカタストロフィクラスの戦禍というものは、日本人、経験してなかったですからね。 京の大火、という点では、応仁の乱以来だったような気も。

 どんな事情が裏にあろうとも、いったん戦争となれば、有無を言わさずすべてのものが失われていく。 その虚しさに覚馬が直面したとき、自分が今まで血道をあげてきた、鉄砲の存在意義が、根本から瓦解することになる。

 この見せ方には、かなりやられました。

 以上!(八重の話は?…笑)

2013年4月29日 (月)

「真夜中のパン屋さん」 第1回 今どきの高校生って、みんなこんななんですかね?

 NHKBSプレミアムドラマ、「真夜中のパン屋さん」。 連続8回。 始まりました。

 主演は滝沢秀明クン。 この人のドラマって、「義経」 以来だなあ。 「義経」 のころは、演技そのものにあまり注目していなかった気がします。 逆に言えば、演技の良し悪しをこちらに考えさせなかった、という点で、自然な演技ができる人なのかもしれない。
 彼の役は、真夜中だけ営業しているパン屋さん。
 海外赴任していたが妻の死をきっかけに?親友で師匠のパン職人、桐山照史クンと一緒に、立ち上げたらしい。
 どことなく茫洋とした性格のようであり、得体の知れない 「大きさ」 を有しているような役です。 つまり、あまり喜怒哀楽が表に出てこない、難しいと言えば難しそうな役。 滝沢クンはその役を、結構咀嚼して演じているように思える。

 そのパートナーであるパン職人、桐山照史クンは、「流れ星」 で死んでしまう、北乃きいチャンのカレですよ、カレ。
 印象的には、シャープでヤンキーがかったゴン中山みたいな感じ、つーか?(笑)
 自分の作るパンは世界一だ、と豪語しちゃうような自信家で、パン作りの覚えがムチャクチャ悪い滝沢クンをけなしまくりながらも、なんか嫌味がない。 その雰囲気作りが天然なのか演技なのか。 個人的には、今後ちょっと気になるような俳優さんになっていきそうな気がします。 って、あまりドラマでお見かけしないんですが。

 そんなふたりの関係は、滝沢クンがパン作りに関しては弟子、という立場で下なんですが、この店のオーナーが滝沢クンであるので、経営的には滝沢クンのほうが立場が上。 この位置関係が、面白い。
 滝沢クンみたいなお荷物的存在が経営してて果たしてこのパン屋は大丈夫なのか、そもそも真夜中だけの営業で採算が取れるのか、という疑心暗鬼を見る側に植え付けるのですが、滝沢クンはこと、店内の切り回し、要するに営業に関してはかなり商売上手なところも見え、やんちゃな桐山クンと好対照の、精神的な大きさで店を動かしている、という印象を受けるのです。

 その店に物語冒頭からいきなり現れ住みこむのが、滝沢クンの亡くなった妻の、腹違いの妹を名乗る、土屋太鳳(たお)チャン。 「鈴木先生」 でクラス一の美女を演じていた、彼女ですね。 まあこのドラマに対する私の興味は、まずそこから入ったんですが。
 「鈴木先生」 をご存知ないかたのために説明いたしますと、彼女はどことなく武井咲チャンと風貌が被るようなところがあります。 演技力はタオチャンのほうがあるかなァ? タオ、なんて、すごく変わった名前で女の子っぽくないですが。

 彼女は 「自分が家出してここに来たのではなく、両親のほうが家出しちゃったからここに来た」 みたいな感じで、ご厄介になるという後ろめたさと同時に、どこか心を閉ざしているような印象がある。
 この、真夜中のパン屋さん、という形態と滝沢・桐山コンビの関係と相まって、彼女の素性に対する興味も、このドラマの吸引力になっていると思います。

 彼女は滝沢クンが 「ランチに」「友達にも食べさせて」 と多めに持たせた売れ残りのパンを通学途中で捨ててしまうのですが、滝沢クンはその現場を目撃しながらも、ただ見守る。
 彼女がパンを捨てたその原因は、通っている高校でパンをクラスメートに配るなどという立場に、彼女がいなかったことによるのですが、彼女をいじめる女の子が、「カーネーション」 で優子、新山千春サンのヤンキー娘を演じていた、小島藤子チャン。 うおっ、なんかドラマ好きには魅力的なキャスティングが多いぞ。
 藤子チャンはトイレに逃げ込んだタオチャンに、頭からバケツの水をかぶせます。 ずぶ濡れのまま、学校を早退してしまうタオチャン。

 で、その小島藤子チャンがこの春ドラマで同時に出演している 「35歳の高校生」 でもそうなんですが、最近の高校生って、みんなこんな感じなんですかね?

 「35歳の高校生」 はかなり誇張を加えていると思われるのですが、その問題意識の中核には、「いじめを苦にして自殺してしまう君たちへのメッセージ」 という部分が、多分に見え隠れする。 「幽かな彼女」 でも同じような問題に直面していた気がするのですが(ゴメン、開始10分リタイアでしたけど)、なんかムカつくんですよ、こういうガキ共って。

 これって、高校無償化が招いてる弊害のひとつなんじゃないだろうか?なんて、オッサンは考えたりします。
 学校行くのはタダだから、親に行かせてもらってるわけじゃない。 親のありがたみを削ぐ政策のような気がするんですけどね。
 だけど私に言わせりゃ、義務教育でもないのに行く必要なんかどこにもないでしょ。
 友達を作りたいとか大学に行きたいとか、そんな目的があるのならば、マジメに友達を作ればいいし、マジメに勉強すればいい。
 空気を読んで自分を貶めなければ存在できない場所なんか、人生には必要ない。

 たとえば社会に出たって、自分を貶めなければ営業なんかできないかもしれない。
 でもそれは、自分が生きていくため、という立派な大義名分が存在しているんですよ。
 そもそも、営業のために媚を売ることを、「自分を貶めている」 なんて考え出すと、仕事に対する誇りなんか、生まれっこない。

 自分が自分であることは、いくら相手に媚を売ったって成立するんですよ、こと生活がかかってくれば。

 今どきの高校生がみんなこんなだとは、さすがに私も思いませんが、親に食わせてもらっている、親に何か買ってもらっている、それは当然のことではないのだ、という意識があれば、こんなスクールカーストとか下らないことに縛られる必要もなくなるでしょう。

 下らないんですよ、要するに。 ガキのクセして空気を読むとか。 空気読むのは大事だけれど、それは著しく他人のメーワクにならないという意識であるべきなんですよ。 意味を履き違えてる。

 まあそれはそれとして、「35歳の高校生」 なら米倉涼子サンがバシッと決めるところでしょうけど(バシッとでもないところが、あのドラマの興味深いところなんですが、これってここに書くことでもないかなァ?でもあのドラマ、見てるけどレビューになかなかつながりそうもないつーか…)、タオチャンはなかなかに骨のある女の子らしく、藤子チャンと取っ組み合いのケンカになってしまい、学校に呼び出された滝沢クンは、米倉サンとは比べ物にならないくらいの穏やかなオーラで、これを解決してしまう(笑)。

 「35歳の高校生」 を見ている私などにとっては、「簡単でいいなァ」 と思ってしまうのですが(笑)、あっちはケースがエスカレートしているだけで、本当の高校生は、これくらいの自浄能力がある、と信じたい。

 そしてこのいじめ問題を、茫洋とした精神的な広さで解決してしまう、滝沢クン。
 どんな人物で、どのような葛藤を、胸の内に抱えているのか。
 ちょっと興味がわいてきます。

 ドラマ好きつながりで話をしますと、脚本は 「てっぱん」 の寺田敏雄サン。 「てっぱん」 じゃ世間的にミソがついたような感じですが、でもこの人のドラマ作りの手法って、私は嫌いなほうではありません。 今回はベストセラー小説が原作のようですが。
 で、その寺田サンが同時展開しているのが、日テレの 「雲の階段」。 これは、タオチャンが出ていた 「鈴木先生」 の主役だった鈴木先生、長谷川博己サンが主役。 小島藤子チャンは、この回以降出るかどうかは怪しいですが、「35歳の高校生」 のほうに出演してますね、前述の通り。
 それと、このパン屋の常連に六角精児サン。 「TAKE FIVE」 ではブサイクなのにあくまでカッコいい役を演じていますが、ここではこの人本来の?(笑)オタクっぽい役どころです。

 滝沢クン、桐山クン、そしてタオチャンの3人の組み合わせは、テレビ的になかなか面白いのではないか、という気がしています。

2013年4月28日 (日)

「テルマエ・ロマエ」 地上波初登場、見ましたよ

 はじめにお断りいたします。
 わたくし連休に入って(とはいうものの、明日からまた3日間仕事ですけど)かなり酔っ払った状態でこれを書いております。 「酔っ払ってブログを書くとは何事か」 とお怒りになるかたは読まんで結構(じぇじぇ、スゲーこと書いてるぞ!…爆)。

 1週間前にテレビでやってた、「テルマエ・ロマエ」。
 録画したやつをようやく見ました。

 かなり評判だった映画で、古代ローマ人が現代日本にタイムスリップして、日本の風呂文化に感嘆しまくるという内容は知っておりましたが、前半はかなりその内容通りのコメディで面白かった。
 しかし後半に入ると、前半のテンポの良さはだいぶなくなって、ちょっとアクビの出る展開。
 これを見たあとネットでの評判を調べましたが、ほぼ私と同意見のかたが多くて。
 ちょっとこのからくりについて書きたくなった次第であります。

 ただ全体的な評価で言いますと、まあ大ヒットする映画というものは、えてしてこういうもので…という感想しかございません。
 この映画の生命線は、発想の奇抜さによるところが大きい。
 古代ローマと現代日本の風呂における比較文化論、という切り口が極めて斬新なんですよ。
 それをコメディとして見せる、というエンターテイメントによって、この映画は人々の評判となるところとなった。
 その評判は評判を呼び、いつしかその映画の出来以上の動員数を得てしまう。
 フツー以上にヒットをしてしまう映画というのは、だいたいこんなものなのであります。
 結果的に、「これってそんなに評判になるような映画か?」 という感想を、ブームが去ったあとに見る私などの受け手は、感じてしまうのであります。

 ただまあ、つらつら考えるに、作り手は、この斬新な発想の話を映画にするにあたって、もっと 「意義のあること」 を肉付けしようとしたのではないか。

 それは、この主人公であるルシウスの人間的な葛藤と、日本民族の自己犠牲的な精神との融合です。

 これを肉付けすることによって、作り手は単なる比較文化論としてのこの物語を、なんとかひとかどのロジックを伴ういっぱしの映画として、成立させようとしたのではないでしょうか。

 これはいわば、諸刃の剣なわけでして、あまりに説教臭い人生訓などをコメディ映画に融合させてしまおうとすると、映画としての深遠さは増すけれども、テンポも面白さも失われてしまうことを覚悟せねばならない。
 映画人は、どうにか観客の興味を持続させたままで、自分が人生を生きているうえで言いたいこと、それを観客に諭さなければならない、そんな必要性に迫られるわけです。

 この映画は、後半に入ってそのことに挑戦しようとし、失敗している。

 で、作り手がどんな高尚なことを言いたかったのか、と申しますと、先に解説したように、「ルシウスの人間的な葛藤と大和民族の自己犠牲との融合」 だ、と私は考えるのですが。
 それをもう少し解説いたしますと。

 まず、この物語におけるルシウスという男は、古代ローマの浴場の設計技師なわけで、自分の才能の限界を思い知らされています。
 それがタイムスリップによって得た知識を古代ローマに持ち帰って皇帝の信頼まで得ていくのですが、ルシウスのなかでは、「これは自分の実力ではない、盗んだ知識で得ている評価だ」 という気持ちが消えないわけです。
 このルシウスの葛藤が、この映画の中盤から、物語を重苦しくさせていく主因になっている。

 それを救うための鍵として、映画の作り手が用意したのが、原作マンガには出てこない、上戸彩チャンだと考えることができる。

 この人、ルシウスがタイムスリップした場所に決まって居合わせる、という、まあコメディ的な手法から考えれば、「こーゆーのは深く考えないでください」 という立場の人なんですが(笑)、彼女はルシウスとコミュニケーションを取るために、映画の中盤でものすごいラテン語の勉強をするわけです。
 今回地上波初登場ということでカットされたシーンが付け足されたのですが、実はそのシーンが、上戸彩チャンがラテン語を習得していく過程。
 おそらく作り手は、ここで多少の迷いを生じたからこそ、このシーンを本編ではカットしたと考えられます。
 だからこのシーンがないことで、オリジナルの映画では、上戸彩チャンがラテン語を急に話せるようになって、急に物語が違う方向に動き始めた印象になる。

 ルシウスは先に抱いていた、剽窃による偽りの名誉、という意識以外に、女房に逃げられたとか、紛争を挟んだ皇帝との関係とかで、かなり落ち込むのですが、上戸彩チャンの励ましとか、どさくさで一緒に過去にタイムスリップしてしまった老人たちの力とかによって、「オールフォアワン、ワンフォーオール」 の精神を学び、立ち直っていくわけです。

 ここまでくると、この物語は原作をかなり離れた代物、ということになってしまうような気がしてくる。
 最近、このマンガの原作者のかたが、この映画で自分がもらった報酬がわずかなものだったと暴露して話題になっていましたけど、確かにこの話の発想の斬新さを考えればそれは少なすぎる、とは言えるけれども、映画の作り手のほうから言うと、「そりゃ最初のプロットはいただいたけれども、出来上がったのはこっちのオリジナリティによる結論の映画だ」 ということになりはしないかな、なんて考えたりしました。

 いや、でもそれは映画制作者のほうがゴーマンだろうな(笑)。
 もっと気前良く払いなさい(笑)。
 少なくとも閑古鳥が鳴いてたんじゃないんだから、成功報酬の上乗せくらいしてやんなさい(笑)。

 なんの話だ(笑)。 酔っ払ってワケ分かんなくなっとる(笑)。

 いや、だから、言いたいことを説教臭く言おうとするのは、難しいってことですよ(笑)。 特にこんな、コメディ映画ではね。

 どうも言いたいことが半分も書けなかった気がしますが、酔っ払っているので勘弁してください(ハハ…)。 見てすぐ録画消しちゃったし、もう細かいところ覚えてないし(イーワケしとる)。

2013年4月18日 (木)

「家族ゲーム」 第1回 壊すことで修復する関係

 「家族ゲーム」 と言えば、故・松田優作サンがイメチェンを果たした、故・森田芳光監督の出世作としての映画、そしてTBSで放送された、長渕剛サンの連続ドラマ(都合2シリーズあった)を即座に思い出す世代であります。
 要するに、個人的には 「手垢がついている」 題材。
 凋落傾向のフジテレビがまたぞろ昔のコンテンツを引っ張り出して来て、やれやれ…と思って大して期待せずに見たのですが、

 これがかなりよかった。

 というより、あんなに夢中になって昔見てたのに、話を忘れていた(笑)。

 というわけで、私みたいな健忘症の視聴者にとっては、その記憶の欠落が却って今回のドラマの好感触につながっているのですが(笑)、見ていくうちに、だんだんと 「松田優作版」「長渕剛版」 の特徴、印象的な相違が思い出されてきました。

 冒頭に 「イメチェン」 などと書きましたが、松田優作サンにしても、長渕剛サンにしても、この作品がそれまでのイメージを転換する、大きなターニングポイントになっていることは興味深い。
 つまり、松田優作サンはそれまでの 「ジーパン刑事」 的な、ワイルドなイメージに縛られてたんですが、この作品では髪の毛もバッサリ切ってどことなくテクノカット風、ファッションも1980年代を象徴させるようなインパクトを呼び込んだ。
 そしてさらに、松田サンが演じた家庭教師は、物静かではあるがエキセントリック。
 それまでの、感情がすべて表に出るような、激情的な演技がなりをひそめ、異常心理を前面に出した怖さへと演技の方向を転換した、と私は考えています。

 そしてその役者としての変化は、最終的に、遺作となった 「ブラックレイン」 での役へと昇華していくわけですが、おそらく 「家族ゲーム」 がなければ、松田優作サンはジーパン刑事のまま、「ンなんじゃこりゃあ!」(笑)で終わっていたのではないか、と私は想像するのです。

 長渕剛サンは、当時 「巡恋歌」 とか 「順子」 とか、なよなよした調子の歌から、脱皮しようとしていた時期だったように思います。 「時代は僕らに雨を降らしてる」 くらいの時期だったかな。
 当時、高校生だった私も、長渕サンの大ファンである友人に散々レコードを聞かされたものでしたが(笑)、吉田拓郎ファンであった私は、長渕サンの 「タクローのマネ」 みたいな作風や、その歌いかたのなよなよしさをちょっと好きになれなかった。
 でも、歌いかたがなよなよしているくせに、拓郎サンのもつ力強さにあこがれているジレンマを、なんか抱えているような気がしていたんですよ、ムリヤリ聞かされながらも(笑)。
 それが、「時代は僕らに…」 のころから、一皮むけはじめたような気がしていた。
 私結構好きなんですが、このアルバム、友人はそれまでの優しい感じの長渕が変わった、と嘆いてました(笑)。

 そんな長渕サンがドラマ初主演した(たぶん)のも、この 「家族ゲーム」。
 主題歌である 「GOOD-BYE青春」 は、やはり 「時代は僕らに…」 の流れを引き継ぐもので、結構好きでしたね。
 ドラマに出演するのと同じレベルで、長渕サンもこのころ、劇的に変わりたかったのではないか、なんて、私は想像しているのです。

 その後の長渕サンの変わりようは、もう周知のとおりであり。
 さすがに私も、「ちょっと変わりすぎ」 と思いましたが(笑)、大衆の支持は得られたようです。

 その長渕サンが演じていた家庭教師は、そんな長渕サンの積年の鬱憤を晴らすかのような、はじけた感覚。 松田優作サンが抑え気味に演じて最大限に効果的に見せようとした暴力的な側面も、ストレートに演じていたような記憶があります。
 まあ、テレビドラマですから、分かりやすいプッツンぶりでしたが。
 プッツンとは何か(笑)。 説明しよう(笑)。
 これは片岡鶴太郎サンが全裸で街を走っていたコメディアン時代(笑)に流行らせた、今で言う 「キレる」 という意味の言葉であります(ハハ…)。

 森田芳光監督の映画は、松田優作サンのイメチェンぶりもさることながら、家族が一列に並んで同じ方向を向いて食事をしているとか、その映画的なインパクトもとても印象的で、当時は 「日本映画界に新進気鋭の監督現る!」 と騒がれたものです。
 まあなにしろ、当時の日本映画はハリウッド映画に押されて青息吐息でしたから。

 しかし映画版もTBSドラマ版も、共通していたのは、主人公の家庭教師の、その過激ぶりです。

 それを、嵐の櫻井翔クンが、どのように演じるのか。

 冒頭、家庭教師の面接としてその子の両親(板尾創路サン、鈴木保奈美サン)と向き合う櫻井クン。
 こちらの、かつて 「家族ゲーム」 を見てきた世代の注目を見透かしたように、しばらく沈黙が続きます。
 かなり長いあいだセリフがなかった。
 この、人を食ったような展開。

 この冒頭場面が象徴するように、このドラマはこちらの予想をいい意味で次々と裏切っていきます。

 
 それまでと違うように感じるのは、この櫻井翔クン演じる家庭教師の過去が描かれようとしている点かも。
 回想と思われる場面で、彼は手を血だらけにして、絶叫していた。
 これは、これまでこのお話を何度か見た私のようなややこしい視聴者からすると、いかにも不要な付け足しのように思えます。
 この家庭教師は、あくまで過去が見えないことで、その存在感をアピールしているんですよ。 私の考えるところでは。

 ただ、このドラマにおける櫻井クンは、今までの松田優作サンや長渕剛サンとは、また違ったエキセントリックさを見せている点が評価できる、と感じます。

 まあ門外漢で申し訳ないのですが、私が櫻井クンに持っているイメージというのは、「とても常識的なところがありながら、とても醒めている」 というもので、今回の家庭教師は、その櫻井クンのキャラを立てた役柄になっている、と感じるんですよ。

 つまり、一見とても、フツーそう。
 しかし、やっぱりボーリョク的なんですよ。
 フツーの顔をしながらボーリョク的なことをするから、あり得ない展開に日常的な怖さが生じてくる。
 そして、あり得ないからこそ、面白い。
 家庭教師をすることになった次男坊(浦上晟周クン)の部屋に巨大金庫のようなダイヤル式のドアを取りつけたりセメントで塗り固めたり、面白すぎる(笑)。
 長渕サンも過激だったけど、ここまでやったっけな~?(笑)

 この家庭教師はいずれの作品においても、「壊すことで関係の修復をする」 という行動パターンで共通しています。
 櫻井クンは、第1回から、その破壊衝動を明白に口にしている。
 その描写が現代的にどのように変容していくのか、興味深い。

 傾向的に面白いのは、先週から始まった日テレの、米倉涼子サンのドラマ 「35歳の高校生」 でもそうだったのですが、いじめへの対処法として、どちらのドラマも 「いじめる側」 をどうこうするのではなく、まず 「いじめられる側」 の心を強くしよう、という立場に立っていることです。 まあ 「35歳の高校生」 のほうはそのうち 「いじめる側」 の問題にも切り込むんでしょうけど。

 また、松田優作版 「家族ゲーム」 で教え子だった宮川一朗太サンが、板尾創路サンにリストラされる同僚の役をやってたりと、遊び心も感じられます。 そのうちに長渕版で教え子だった松田洋治クン(「もののけ姫」 のアシタカですよね)も出るのかな?

 「春ドラマは全体的に低調」、などと前の記事で書きましたが、なかなか面白いのにぶつかった、という気分です。

2013年4月17日 (水)

「第二楽章」 第1回 感動の再会…(涙)…とはいかないようで

 この4月から始まったドラマ、個人的な感想をぶっちゃければ軒並み低調。 異論は受け付けます(笑)。

 このNHKドラマ10 「第二楽章」 にしても、比較的明確に女性向けで、オッサンの私はのっけから疎外感を覚えながら見てました。
 というより、ドラマ的な体裁を考えた場合、すごく導入部分が分かりにくい構成になっている。

 簡単に説明しよう。

 むかしオーケストラのソロの座を争っていたバイオリニストの親友ふたり(羽田美智子サン、板谷由夏サン)。 羽田サンは恋心を抱いていたチェリストの谷原章介サンを板谷サンに取られた恨みから、彼女が谷原サンの子供を宿していたことを楽団長に告げ口して、ソロの座を勝ち取る。 板谷サンはそのショックで音楽をやめる。
 その板谷サンの娘もバイオリンをやっているのですが、冒頭、羽田サンがこの板谷サンの娘に、「最初で最後の手紙」 なるものを書いているのです。

 こういう時系列で説明すりゃ分かりやすいものを(笑)、まず誰とも分かんない人が手紙を書いているところから始まり、ふたりが少女時代に初めて出会ったときの回想が始まり(もちろん羽田サンと板谷サンではなく別の女の子が演じている)、どうもその時点では板谷サンのほうが羽田サンより実力が上だったようであり(ここらへんが非常に分かりにくかった)、だのに今や羽田サンが世界的に有名なバイオリニストになり板谷サンは平凡な主婦、という話になり、

 私ゃ頭が悪いので、「あ~もうダメ、リタイア」、…と思ったのですがこの春ドラマもう何べんもそういうことばっかりやってるので(笑)今度こそはちゃんと見ようと思って何度か録画の冒頭部分を見直して、ようやく事態が飲み込めた(バカですから)。

 ただまあ、フツーならリタイアするところですが、やはりどこか作りが丁寧だったから、「もう一度最初から」 とゆー気になったんでしょうね私も(笑)。

 けれどもやはり、どことなく 「オッサンがオンナの世界のウラオモテを覗いている」 という後ろめたさはあったりして(笑)。

 オッサン的な目線から言うと、板谷サンはソロの座を羽田サンに蹴落とされたことをいつまでもグジグジ考えてるなよとか、羽田サンも 「蹴落とした」 と悪ぶるくらいならずっとそのことを気に病んでるなよとか、まあメンド臭いものだよなあと思いながら見てたんですが。

 さらにもうひとつ、やはり羽田サンも24年前のふたりの女の子も、ドラマ上バイオリンを弾く真似をしなければいけないわけで、その仕草がどうにも気になって(笑)。

 バイオリンって、弦を押さえる指を、ビブラート効かせるためにブルブル震わせるでしょ。
 これって形だけ真似しようと思っても、ずいぶん難しいことみたいなんですよ、今まで自分が見てきた、さまざまな俳優さんの演奏シーンを見てきた印象で言うと。

 しかし、先に述べたように、登場人物たちの心理が結構丁寧に描かれており(どう丁寧なのかはメンド臭いので説明省略します…ってそれじゃダメじゃん春風亭昇太です)、紆余曲折があって(ほぼストーリー説明無視)結局板谷サンは、羽田サンの凱旋公演を見にくる。

 話が丁寧だったわりにはここで板谷サンがどうやって踏ん切りをつけたかが描かれてなかった気がするのですが、そこでの羽田サンの演奏シーン。
 多少はぎこちなさも感じましたが、かなりキマっている気がしました。
 さらに音楽の良さも加味され、板谷サンの表情からは、積年の恨みがみるみる氷解していく、そんな清々しいシーンに思えました。

 そして公演終了後、ふたりは偶然ロビーで出会い、長いあいだのわだかまりを超えて、涙で抱擁するのです。 感動。

 しかし。

 そこに現れたのが、あの谷原章介サン。

 板谷サンは羽田サンの恋心など知らないみたいでしたが、羽田サンは谷原サンを見たとたん、涙で濡れた感動の表情を急速に曇らせていくのです。

 あーあ。 メンド臭いなァ、ドラマって(笑)。

 しかし、ドラマ冒頭で羽田サンが板谷サンの娘に書いていた、「最初で最後の手紙」 とは何なのか…? 気になりますねー、気になりますねー(押し売りか)。

 まあこの、メンド臭そうな女の友情のドラマを今後リタイアせずに見ていけるかどうかはちっとも確信が持てませんが(笑)、女性のかたにはオススメのドラマ、ととりあえずいちおう書いておきます(ハハ…)。

2013年4月16日 (火)

三國連太郎サン死去…。

 週刊誌で、老人ホームに入っているという記事を読んだのは、つい最近だと記憶しています。 三國連太郎サン。
 私も週刊誌のゴシップなど話半分で読んでいるからよく覚えていないが、そこで取材を受けた息子の佐藤浩市サンはそのことについて、否定はしてなかった気がする。
 そう言えば、このところ、三國サンの姿を見かけなかった。
 その記事を読んだとき、私は 「三國サンはすでに、『死ぬ準備』 を自らに課しているのか」 と思ったものです。
 自らの死期を悟り、群れから離れ、ひとり静かに森の中に去っていく、巨象のように。

 このブログでは、すでに数回、三國サンのことについて言及しています。
 ですからあらためて三國サンに対する私自身の思いをここに書くより、そちらを読んでもらうほうがいいので、ちょっと貼り付けます。

 ひとつは、教育テレビの番組 「知る楽」 で三國サンが採り上げられていたのをきっかけに書いた個人的な昔話。
 「三國連太郎サンから百恵チャンのこと」 という題名です。 → http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/01/post-c087.html

 この記事内でも書いているように、若い世代にっては、三國サンというのは 「釣りバカ日誌」 での西田敏行サンとのコンビが圧倒的な知名度だろうと思われるのですが、私は正直なところ、このシリーズを2、3本程度しか見ていない。
 それはおそらく、渥美清サンの死によって生じた 「男はつらいよ」 の空白を、この映画が埋めることはできない、という思いからですが、私の思いとは裏腹に、20年以上も続編が作られ続けた、というのは、やはり世間的に評価され、興行的にも成功していたからだろう、と思われるのです。

 上記のブログ記事で書いたように、三國サンに対してネガティヴイメージが先行し(笑)その後 「この人はすごい役者である」 という評価が定着していた私にとって、「釣りバカ日誌」 でコメディをやる三國サン、というのは、とても意外なものでした。
 その動機を今回ニュースで知ることができたのですが、これは藤山寛美サンに対する尊敬の思いからの出演だったらしい。

 三國サンの演技のすごさでいちばん私が印象に残っているのは、やはり百恵チャンとの 「赤い運命」「霧の旗」 ということになるのでしょうが(笑)、「マルサの女2」 も忘れることはできません。

 私はこの人の風貌を見ていて、どことなくユダヤ系の顔をしているな、というイメージを長いこと持っていたんですよ。 「ベニスの商人」 に出てくる、シャイロックみたいなイメージ。
 その人が、新興宗教を隠れみのにして脱税をする男の役をやる。
 伊丹十三サンのキャスティングの妙、ここに極まれりの役だと思いました、当時。

 父親の死を報告する佐藤浩市サンの姿も拝見いたしましたが、やはりこの人と三國サンとの関係というのは、「父」 と 「息子」 なのではなく、最後まで 「役者」 と 「役者」 だったのだろう、との感慨を抱きました。 佐藤サンにとって、三國サンは 「お父さん」「オヤジ」 ではなく、意識的に 「三國さん」 なんですよ、あくまで。

 当ブログでは 「A-Studio」 に佐藤サンがゲスト出演されたときのことを記事にしています。
 そのときに、佐藤サンと三國サンの関係については、ちょっと言及している。
 そのときの記事は、こちら。 「『A-Studio』 佐藤浩市サンと三國連太郎サンと中井貴一サン」 という記事であります。 → http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2009/07/a-studio-08ea.html

 三國サンの、演技に対するその姿勢。 ストイック、というより、エキセントリックと言うほうがしっくりくる気がします。
 佐藤浩市サンはそんな存在を、父親としてではなく、役者として、対峙し続けた。
 佐藤サンの役者としての存在感の大きさを否定する人は、いまもう世間にそうはいない、と感じます。
 結果として、佐藤サンは複雑な思いが集約されている、自分の父親に対する最大の親孝行をしていた、という、逆説的な結論が導かれている。 これは皮肉ではなく、親子の関係が人生を昇華させる要因になったという点で、特筆すべきものがあるのではないでしょうか。

 友達みたいな、なあなあの関係の父と子ではなく、互いに切磋琢磨していく、対等のライバル関係としての父と子。

 あこがれますね。

 
 あらためて、三國連太郎サンのご冥福を、お祈り申し上げます。

2013年4月13日 (土)

「あまちゃん」 第2週 いろいろあんだよ、人ってものは

 このドラマは、宮藤官九郎サンの性格によるものが大きいんでしょうが、見ていてなんかホッとするものがある。 どんなに登場人物たちが怒ったり喧嘩をしたりしても、こちらの気持ちまでささくれ立つことがない安心感、というか。

 その 「ホッと」 感の原因となるものを、今週のちょっとしたエピソードに見たような気がします。
 この三陸で暮らしている人たちの過去について、誰と彼は前に結婚してたとか離婚したとか、そんなことについて主人公のアキ(能年玲奈サン)と海女の先輩たちがしゃべるシーンです。
 彼女たちはそんな、触れられたくないような過去についても、「人間いろいろあるものなんだ」 というスタンスで許し合っていた。
 いろんな後ろ暗いこととか嫌なこと、人生にはそんなことがあって当たり前だろと。
 これが前作の 「純と愛」 では、「本性ではみんな汚い」 とか、ギスギスした話になっちゃってた感がある。

 ただクドカンサンのこれってある側面から見ると、とても責任の所在が曖昧でい~かげんな姿勢、ということにもなるのですが、あまりにこだわりすぎてばかりでは立ち行かなくなる場合には、とてもガス抜きになる考え方です。

 この、三陸へと失踪した(笑)アキと母親春子(小泉今日子サン)を追って、今週前半タクシー運転手をしている父親(尾見としのりサン)が現れます。
 このちょっとのほほんとした風情の父親、アキを見て最初、烈火のごとく怒り出す。

 尾見サンが現れてからキョンキョンの反応とか見てると、このふたりが東京の世田谷(私が住んでる世田谷の最南端ではなく下北とか賑やかなほうらしい…笑)で、どのような性格の家庭を形成していたか、だいたい想像がついてきます。
 つまり、尾見サンのほうは仕事以外では完全なる家庭第一人間。 妻も娘もものすごく大事にしている。
 キョンキョンのほうは、そんな夫にちょっと辟易しながらも、やはり娘のことをとても考えている。
 しかしこれが、家庭の閉塞感を助長しているんですよ。
 その結果アキは家の中では何もしゃべらない、笑いもしない、しかも学校でも疎外感と劣等感の塊で、引きこもりの一歩手前にいる。
 閉塞した家庭の中で、息がつまりそうになっているアキの姿が、想像できるのです。
 アキの酸素欠乏状態は(笑)、三陸の 「人間いろいろ過去はあるもんなんだ」 という 「許し」 の空気にさらされて、初めて大きく深呼吸ができている。

 逆に、アキの母親キョンキョンの場合、その過去に、拘泥されているがゆえに、この三陸で生きることが息苦しくなってしまった、という気がするのです。
 もともと子供のころから、母親の夏(宮本信子サン)が海に潜るのを、「これでお母さんが溺れ死んでしまったらどうしよう」 という恐怖心で見つめていた春子。 そんな過去のトラウマが海女に対する嫌悪感に結び付いていき、そして人間関係が濃密な、田舎の空気にも耐えられなくなっていく。

 けれども春子の場合も、いったんは捨てた故郷で、きちんと呼吸をしたいと思っている。
 春子にとって、それは過去への拘泥との対決なのです。
 それは、自分の居場所を見つけるための戦いという意味もある。 彼女がどこにも自分の居場所がない、と嘆くのは、過去にこだわる自分を変えられないがゆえの悩みだと考えられないか。

 すごくいい加減なようでいて、よく練られているように思えるこの脚本。 そこにはクドカンサンの、人生に対するおおらかさが潜んでいるような気がするのです。

2013年4月10日 (水)

「宇宙戦艦ヤマト2199」 第1回 「ヤマト第1世代」 のオッサンの感想です

 1974年(昭和48年)のテレビシリーズ第一作を、現代的な細かい設定のし直しのもとリメイクした、今回の 「宇宙戦艦ヤマト2199」。
 もうすでにかなりのところまで先行公開されているようで、これをリアルタイムで見ている人にとっては、この4月からの地上波(TBS系)での放送開始は今さらという感じなのでしょうか。
 まあ、そんなかたたちにとってはまことにマヌケな感想文になってしまいそうですが、とりあえず初回を見て感じたことを書かせていただきます。

 テレビシリーズをリメイク、ということは、西崎義展サンのプロデュースのものが原作、という形になるみたいですね。 西崎彰司サンというかたが企画で関わっているらしく、このかたは養子らしい。

 西崎義展サンのプロデュースに関するさまざまなニュースというのは、まあ大昔ガキンチョだった私にもそれなりに届いているわけで、今回のリメイクにはそれに通じる商魂みたいなものも感じます。
 ただまあ、「アルプスの少女ハイジ」 を見ている我が家族たちを尻目に、別の部屋で小さな2台目のテレビにひとりかじりついていた 「ヤマト第1世代」 のオッサンとしては、商魂は別としてチェックしておく必要はあるだろう、と(笑)。

 まず最初の違和感は(ハハ、のっけから批判的だぞ)キャラクターデザイン。
 松本零士サンの作り上げたコンセプトを残しつつも、かなり変えてきています。 ドクター役の佐渡酒造以外は、言われなきゃ松本サンのキャラだとは誰も気づかないレベル。 まあいろいろと松本サンと西崎サンは揉め事があったみたいだから。

 イカンのだな、これがまず。

 この作品の生命線というのは、野太くて泥臭い松本零士サンのキャラ(特に男たち)が、まったく正反対の精緻で大胆、美しいまでのメカデザインと融合している点だと思うんですよ。
 それは直ちに、松本零士作品の魅力と直結している。
 「特に男たち」 などと但し書きをしましたが、松本作品における女性たちは、逆に限りなく美しい。 これもまた、松本作品の大きな吸引力となっているのです。

 今回のキャラデザはそんな、この作品の強烈な個性というものを、現代的な没個性で塗り固めてしまっている。
 端正な顔立ちのいわゆる 「よく出来た」 キャラが、カッコイイメカに囲まれて話を繰り広げてたのでは、あまりにも当たり前じゃないですか。
 テレビ第1作では、まあ松本サンの作風を当時のテレビアニメのレベルできちんと再現してることはしてる。
 まあリアルとかいう問題など埒外の時代でしたから、私たちガキンチョは何の違和感もなく見ていたしそれがスタンダードだったわけですけど。

 そして第2の違和感(え~い、もう言いたいことは全部書くぞ…笑)。

 これは、タイミングの悪さも関係しているのですが、沖田艦長の声が違うことが、当然とはいえ喪失感を限りなく助長させる。
 先日お亡くなりになったばかりですからね、納谷悟朗サン。
 この声優さんたちの仕事ぶりも、「没個性の時代」 という現実を突きつけられる。
 …まあオッサンの懐古議論にお付き合いください(笑)。

 要するにですよ(エラソーに)。

 たとえば冒頭、ガミラスの降伏勧告に、沖田艦長は 「バカメ!」 と答え、怒ったガミラス軍によって手痛い反撃を受けることとなる。

 これってまさに原作通りで、テレビシリーズでも確か(うろ覚えだなァ)納谷悟朗サンはこのセリフを言い放っていた。
 しかしそこには、重たい説得力が潜んでいるわけですよ。
 でも今回、まったく同じ展開を示しながら、見ている側の心理としては、「そんな挑発的なことを言ったら敵を怒らせちゃうじゃないの、あ~あ、やっぱり怒っちゃったよ(笑)、これって結局、沖田がみんなを殺しちゃったんだよね?指揮官が人命を軽視してどーすんの」 という感想が導き出されちゃう。

 これってなんなのか。
 どうしてこうも印象が変わってしまうのか。

 それを解明するには、この物語の成立背景から説明していく必要があるのですが、…メンド臭ェなァ…(笑)。 お聞きになります?(おーい、投げやりだぞー)。

 この話が作られたのは、冒頭にも書いたとおり1974年、第二次大戦、太平洋戦争終結から30年たとうか、という時期なんですよ。
 当時は今なんかよりもずっと、戦争に対する強烈な嫌悪感が支配的だった。
 沖田艦長役だった納谷悟朗サンにしても、戦争の体験者なわけです。
 だから、自分の故郷が破壊されていくことへの怒りが、哀しみが、「バカメ!」 という言葉に乗り移って、比類のない説得力に転じている。
 これって納谷サンご本人の意識下なのかもしれませんが、私はそう解釈します。

 ここで、この作品が世の中に受け入れられた背景までついでだから書いちゃいますけど(ついでってな、不遜だ)。

 この作品は、当時の日本における、「戦争はもうイヤだ」 というエイトスに訴える要素を有している。 私のように 「戦争を知らない子供たち」 が産んだ子供たちの世代(ちょっと違うけど)に至るまで、そんな教育が徹底していたわけですよ。
 そもそもガミラスが地球攻撃の材料としたものが、「放射能」 だし(これって今回は設定変更になっている模様)。
 「放射能除去装置(コスモクリーナー)」 をイスカンダルまで行ってもらってくる、という話でしょう。
 福島第1原発に設置したいくらいだが(冗談抜きに欲しいっスよね)。
 「放射能」 に対して、今は現実的な 「今そこにある」 問題となってしまっていますが、当時は原子爆弾、要するに核爆弾が世界で最初に投下された唯一の国として、老若男女、国民全体の問題意識が格段に高かったと、私は考えています。 この作品は、そんな感情に訴えている。

 と同時に、この作品に透徹しているのは、英霊たちに対する思いの強さだ、と私は考えています。

 この作品は、当時影響力が今より抜群に強かった社会主義的な考えの向きからは、「好戦的である」 とか批判を受けていた覚えがある。
 確かに特攻的なエピソードはあるし舞台は戦艦大和だし、先の戦争を想起させるファクターが多すぎる。 ガミラスだって、そのモデルとなっているのは、ナチスドイツであることはあまりにも明白で。 ヒトラー総統→デスラー総統、ですもんね。 幹部にもヒスとかいるし。

 ただそんな、 「戦争はもうイヤだ」 という気分に押しやられそうになっていた、我が国を守ってくれた英霊たちに対する感謝の気持ち、というものを、この作品は意識下で私たちガキンチョの胸に刻みつけた、そんな気もするのです。

 だからこそこの作品は、1974年に成立し、テレビシリーズは 「ハイジ」 に惨敗だったけれど、やがては世の中に受け入れられる必然性、というものがあった、と私は考えるのです。

 まあその入り口が、メカのカッコよさと松本零士サンのキャラの魅力であったということです(特に森雪がワープで裸になっていくシーンには、もうひとつのよからぬ必然性というものがあった…笑)。

 そう言えば、今回その、「ワープ」 はやるのかな?(ワクワク…ってまたよからぬことを…笑)。

 私たちガキンチョは、森雪の衝撃的なシーンでワープ航法の理論を頭に刻み込んでいましたから(爆)、「スター・ウォーズ」 第1作(1977年)でワープシーンが出てきても、「なにをエラソーにワープしてからに」 などと思ったものです(ハハ…)。

 どうも不謹慎だな…(汗)。

 いずれにしても、このお話を説得力ある設定に焼き直して、という努力は買います。
 しかし設定を密にすればするほど、「戦争」 に対する1974年当時と現代の国民意識の温度差、というものも浮き彫りになってしまう危うさ、というものも感じる。
 このリメイクが必然性を伴っているとすれば、それは私たちオッサン世代に向けたものであって、新しいヤマト世代を創出していくには、どんな吸引力が必要なのかな、という気はします。

 まるで 「エヴァ」 の新劇場版みたいですよね。
 「エヴァ」 の新劇場版も、新しい顧客の創出というより、旧テレビシリーズ、旧劇場版をかつて見た世代に対する言い訳つーか(笑)、また 「エヴァ」 で儲けよーとするフトコロ事情つーか(あ~あ…)、まあ建前上、「きちんと後世まで残る完全なものにしておきたい」 というマジメな動機があるんでしょうけど。

 別にいいじゃないですか、シンジがアスカの首を絞めて、「キモっ」 と言われるラストでも(こっちも投げやりだ…笑)。

 で、私みたいな旧世代でも、なんつーのか、「♪アーアーアーアーア」 ってスキャット、あれが出たときは、こんな偏屈なオッサンでも思わず涙が出てしまいました(ああ、なんだ、この懐古的な涙は…)(何もかも、懐かしい…)。
 第1回エンディングで流れた主題歌にも、ささきいさおサンが参加されているようで、こちらも感動(簡単なもんだよな、ファン心理って)。
 そう、最初のテレビシリーズの、宮川泰サンの音楽が、そのまま使われているんですよ。
 音楽担当は、息子さんの宮川彬良サン。

 まあキャラデザとか声優さんとか、言っても仕方のないことをグダグダ申してしまいましたが、それはいいとしてひとつだけ言っておきたいのは(もう先行公開版はかなり話が進んでいるのでマヌケな文句かもしれませんが)、

 CGの超弩級の戦艦、動きがチャラすぎる!(笑)。 まるでオモチャ。 重量感まったくなし。 あんなんじゃ中の乗組員、Gで死んじまうだろ(いや、ミンチにもならないつーか…笑)。

2013年4月 9日 (火)

「NHKラジオ深夜便」 おおーっ、森田美由紀サン登場だ!

おことわり この記事、初出時より若干加筆いたしました。


 私、夜勤中、切れ切れに 「NHKラジオ深夜便」 を聞いてるんですが、昨晩のパーソナリティ(この番組内ではアンカーと称しております)はなんか、レギュラー陣では聞いたことがない女性の声で。
 なにしろ声が若々しいし、とてもソフトな語り口。
 あれ~? 深夜便でいちばん語り口がソフトな女性って、須磨佳津江サンなんだけど(独断)、それにしては声がシャキシャキしてるし。
 そしたらこれがなんと、表題にもある通り、長年 「ニュース7」 とかをやっていた森田美由紀サン。
 この4月から、毎月第2、第4の月曜日を担当することになったらしい。
 私この人、「ニュース7」 よりずいぶん前から、結構ファンだったんですよ(女子アナ萌え?…笑)。
 結構ファンだったクセして、今回ご本人が名乗るのを聞くまで(だいたい毎時冒頭のニュースが終わってテーマ曲が流れてから名乗るんですがその時間に聞けることは少ない)分かんなかった(ガーン…笑)。

 森田サンのどこがいいって、すごく落ち着いてるところスかね(NHKのアナウンサーはみ~んなそうですが…笑)。 でも冷たく見えなくて、誠実そうっていうか。
 この人がすっごく慌ててるところとか、キャピキャピしてるところを、一度見てみたい(笑)。

 しかしですよ。 後日 「深夜便ファンの集い」 の収録を聞いて判明したのですが、どうも森田サン、その昔、ディスコに通ってお立ち台の女王などと呼ばれていた時期もあったとか。
 ひぇぇ、想像できない(イ、イメージが…笑)。
 あの落ち着き過ぎの権化みたいな性格の(笑)どこに、そんな大暴れする(ゴジラかよ…笑)素養があるとゆーのか。 なんか怖くなってきたぞ(笑)。 尋常ではないエネルギーを内に秘めながら、完璧なしゃべりで水も漏らさぬ鉄の女を演じているのか、と思うと(笑)。

 ああだけど、月曜の深夜って、私TBSラジオの 「伊集院光 深夜のバカヂカラ」 を聞いてるんだよ~(ハハ…)。 全部聞けないのが悔しい。

 初回では、なかなか緊張していたみたいです。 石澤典夫アナなどは、最初のころはなかなか時間が進むのが遅く感じられたそうで、「まだこんな時間なの?」 と何度も思われたとか(笑)。

 この、初回のエンディングでは、トチリをお詫びしていましたが、なんのなんの。 ほかの深夜便のアンカーのみなさんも、曲名とかその他もろもろ、深夜だと思って(笑)間違いまくってますから(毎時冒頭のニュース読む人は別のアナウンサーなんですが、このアナウンサーも深夜で眠いのか噛みまくってるし)(特に外国為替の読み方がひどい…笑)(そのハプニングもNHKらしくなくて面白いんですよ)。

 後日判明したのですが、初回のトチリというのは、進行表だとか曲紹介の紙なんかがぶっ散らばって、なにがなんだか分かんなくなってしまったことだとか。 番組終了を告げる5時の時報が、あんなにありがたいものだとは思わなかった、と吐露しておいででした。

 でも森田サンのフリートークが聞けるというのは、往年のファンから申し上げると、こんな機会は今までなかったな~、と。
 いいもんっスね。
 月曜の晩というのは 「坂崎・吉田のオールナイト」(後記:9月いっぱいで終了…)もあるし、なんか私にとっては盛りだくさん過ぎてうれしい限りです(仕事に差し障る…笑)。

 追記。 完璧で水も漏らさぬしゃべりの森田サンですが、ある回での 「明日の予告」 で、「遥かなる山の呼び声」(映画 「シェーン」 のテーマ曲の題名ですよね)を、「遥かなる山の叫び声」 と紹介して、そのまんま番組終了したことがございました(笑)。 ご本人の恥をさらすようで誠に申し訳ないのですが、こういうトチリがあるというのが分かっただけでも、人間味を感じられますよね。 私はますます好きになりました。

2013年4月 7日 (日)

「あまちゃん」 第1週 結構まともな行動パターン

 「あまちゃん」 の第1週、6回まで見た感想でございます。

 まず、設定状況的には、これまで見た(見たってほどじゃないが)朝ドラのパターンを踏襲してて、クドカンサンのドラマにしばし見られる 「ハチャメチャ感」 というのはちょっと押しやられているかな、という感じ。 そんなに宮藤サンのドラマを見たわけじゃないのにナマイキそーに論じてますが。

 かえってNHK的な縛りなのか、常識を強いられているような感じがします。
 たとえば第1-2回の当ブログでも書いたのですが、台所の火をつけっぱなしで海に潜ってワカメ取りとか。
 「うぬぼれ刑事」 のオヤッサンだった西田敏行サンや、「11人もいる!」 で大所帯の大黒柱役だった田辺誠一サンとかなら、こんなことは全く平気でどんなクレームが来たって意に介さない、という感じだけど、今回はちゃんとお固い視聴者に対してフォローしている感じだし。

 それと同じレベルに見えるのは、ヒロインの母親役である小泉今日子サンの 「親としてのスタンス」 です。
 彼女は四半世紀近くも故郷と絶縁状態でしかも当時から性格的にかなりのヤンキー。
 娘に対しても、かつてかなり辛辣な批評を加えて、ヒロインのトラウマの原因ともなっている。

 なのに、娘が 「私、海女さんになる!」、という突拍子もない、しかも自分にとってのトラウマの原因である嫌いな仕事への希望を打ち明けたとき、彼女は強く反対しないんですよ。

 これは、突き放していると考えるより、娘のことを考えているがゆえの判断だ、と見るのが妥当でしょう。
 これって、クドカン作品にしてはとても常識的な範囲だ、ということです。

 私の乏しいクドカン体験から言うと、宮藤サンのドラマに出てくる親というのは、まずハチャメチャというイメージが強くて(笑)。
 子供のことを考えてない、ようで考えている、ようで結局考えてない、みたいな(笑)。
 この 「どっちつかず感」 が、宮藤サンの表現する 「家族の愛情」 のひとつのパターンであり、笑いのパターンなような気がするんですよ。

 でもコイズミは、まずはお試し期間を設けて、自分の娘の希望を受け入れる。
 ここ、娘が実際に海女さんの仕事をしてみてそのうえで決めさせる、というワンクッションまで置いてますよね。
 かなり娘のことをきちんと考えてますよ、この母親は。

 それと同様に、その母親の母親である宮本信子サンも、娘のことを突き放しているようで突き放してなく、結局突き放している(笑)。

 そして孫である、ヒロインの能年玲奈チャンについて 「あの子は変わろうとしている」 という評価をする。
 ここらへんの 「人は変わることが出来るのか」 というテーマは、ちょっと個人的には手垢がついた題材のように思えるのですが、ヒロインが東京ではまったく存在感のない女の子であったのに、三陸にいたらいきなり方言を連発しまくっている、ここらへんの感情には移入できる。 方言というのが、ヒロインにとって、過去の自分からの旅立ちを意味する 「新世界への切符」 なんですよね。

 そんなヒロインと対をなしそうな存在なのが、地元の高校生なのに訛ってない、橋本愛サンですね。 「部活やめるってよ」 の彼女です。 ちょっと気になりますね。 ヒロインと今後どういうコントラストを見せてくれるのか。 「ちりとてちん」 のA子とB子みたいな感じになるのかな。

 いずれにしても肩に力を入れなくても見ることのできる作り、というのはいいですね。
 こっちも肩に力を入れずに、たま~にレビューしたいときにレビューしようかな、と思います(笑)。

「チューボーですよ!」 女子アナたちの情念が渦巻く20年…(笑)

 祝、20年目突入!ということで、今回は初代アシスタントの雨宮塔子サン、そして4代目アシスタントの小林麻耶サンがゲスト。
 私も開始当初から見ておりますが、20年目ということは、19年間やってきたということなんですよね。 堺サンの番組の中では、もっとも長寿の部類になるのではないでしょうか。 こんなに続く番組になるとは、私も想像しておりませんでした。

 同時に20年、ということは、いろんな出来事が番組の中であったということでして。 その点ではかなりドキュメンタリーの側面も有している、希有な料理番組ということになります(オーゲサ)。

 今回、特に堺巨匠とウマが合っていたと思われるこのアシスタント2人を見てつくづく感じたのは、この番組のホストである堺正章サンの持つ、「特殊な居心地」 についてです。

 この番組の特色として、「ゲストと楽しいトークを繰り広げながら」「料理を作る」 というコンセプトがあるのですが、このふたつの両立というのは、はたから見ていてもとても難しいように感じます。 実際トークに堺サンの神経が行ってしまったときなど、茹で加減火加減味加減などが疎かになってしまい、星を減らす主因になってしまっていることが多い。

 アシスタントというのは、この二律背反する番組の目的を、堺サンをサポートしながら遂行していく役なんですよ。
 そこにはやはり、同じ目的に向かって努力するチームワークというものが形成されてくる。
 そのチームワークの上で左右されてくるのが、堺サンが父親から受け継いで持っている、「芸人魂」、みたいなものではないでしょうか。
 要するに、笑いを演出するために、厳しいところは厳しいんですよ。
 それが時に、ある種の視聴者にとっては、傲慢と映ることもあるように感じられます。

 しかし 「お仕事」 というのは、元来厳しいものですからね。

 ここで今回出てこなかった、2代目アシスタントの外山恵理サンや、3代目アシスタントの木村郁美サンのことを考えると。

 外山サンは当時、新人の部類だったと思うのですが、自分のやりたいフィールドが、どうも合ってなかったように感じます。
 それは後年彼女がラジオで永六輔サンのアシスタントをすることによって、ラジオこそが自分のフィールドだということを自覚することによってはっきりしたのですが、こういう、気持的に中途半端な人間というのを、堺サンのプロ意識というのは拒絶するのではなかろうか、と私は考えるのです。

 そして木村郁美サン、最近とんとお目にかかりませんが、彼女の持ち味というのは、「万事そつなく」 で、バラエティ番組のカンフル剤のひとつであるハプニング性に欠ける。 仕事が完璧すぎるのも、番組の活性化につながらないんですよ。 安心して見ていられる、という強みが彼女にはあるのですが。 もしかすると堺サンは、そこのところに不満があったのかもしれない(邪推です)。

 それに対して雨宮サンは天性のボケ気質というものが、ことこの番組のコンセプトに非常に合致していた。 この番組だけでなく、彼女はバラエティ番組との相性がメチャクチャいいんですよね。 だからパリに行ってしまったことはつくづく惜しい。

 そして小林麻耶サンは、一生懸命なところに予期しないボケが天然で入る面白味、というものがある。 彼女が3年前にボロボロの涙で卒業したことは昨日のように覚えていますが、そのシーンが今回流されていました。 本人も 「ここまでひどいとは思わなかった」 と振り返ります(笑)。
 まあ彼女の場合、「自分のやりたいフィールドは報道なのだ」、という強い意志があったのですが、それがテレビという生き物が求めるニーズとはずれを生じていた、という点で、外山サンとは逆のパターンであるように感じます。

 「自分のやりたいこと」 と 「視聴者から求められていること」。

 「チューボーですよ!」 のアシスタントの歴史を振り返ると、女子アナたちの思惑が、まるで情念のように渦巻いていることを実感するのです。 ここらへんが 「ドキュメンタリー」 の側面なのかな(笑)。

 だからこそ、同じ目的のために戦うパートナーである堺サンに対して、特に雨宮サンと小林サンは、とても精神的な結びつきが強いのではないでしょうか。
 数年前にゲストで出たときに泣いてしまった雨宮サンのVも出ておりましたが、あのあと 「パリの暮らしがそんなにつらいの?」 とかメールをいっぱいもらったらしくて(笑)。
 でも今回雨宮サンはその涙の理由を、「ゲストとして扱ってくれることがうれしくて」 としゃべっていた。 おそらく一緒に番組をやっていた時の大変さというものに、懐かしさがこみあげたのではないか、と私は推測しています。

 雨宮サンも小林サンも、まるで自分の故郷に帰って来たかのように、「本来の自分」 と 「テレビとしてのニーズに沿った自分」 を今回、感じることが出来たのではないでしょうか。

 そう考えると、この番組というのは、堺サンが用意した、バトルフィールドなんですよ。

 現在のアシスタントについてここで言及させていただくと。

 枡田絵理奈アナは、当初自分の立ち位置についてどうしようか、という試行錯誤が見えたのですが、ここ数年は 「堺巨匠の敵キャラ」(笑)という位置に落とし所を定めたように見えます。
 これって、ちょっと個人的には、ムッとすることも多いんですが(上司のオッサン目線で見てしまうからでしょうか?…笑)、それを不快感を出さずにバラエティとして見せるのは、結構難しいことのように思えますね。
 でも彼女はそれをやろうとしている。
 最初に出たときから、私は枡田サンはかなりテレビ向きの人間だ、と思ったのですが、おそらくその自分の特色を、そんなリスクある役で生かそうとしている。

 堺サンもそこは認めている、と思うんですよ。 だから堺サンを傲慢だ、と取る視聴者から見れば、枡田サンみたいな小姑的なヤツって堺の意向で番組降ろさせるのではないか、と思われがちに見えるのでしょうが、堺サンはたぶん、枡田サンに対してそんな強権発動的なことはしないんじゃないだろうか、…とまあ、これも邪推です。

 ただまあ、個人的には小林サンがいたころの番組の空気感というものが、いちばん好きだったかな~(いちばん面白かったのは、そりゃ雨宮サンでしょう…笑)。

 あと、すごく蛇足で申し訳ないんですが、番組ナレーションの武田広サン、この人もこの番組になくてはならない存在ですよねー。 なかなかナレーションに言及することはないのですが、この人のナレーション番組(「チューボー」 と 「タモリ倶楽部」)、毎週欠かさず見てるんですよね、ワタシ。

 ちなみに今回のメニューは、第1回メニューと同じ、ボンゴレロッソ。 雨宮サンがゲストのときはたいてい無星が連発されることが多いのですが、今回も星0.5(たぶん小林サンがいなければ無星だったと思う…笑)。
 おそらく雨宮サンとのトークって、相性いいんだと思いますよ、堺サン。
 だから話も煮詰まりソースも煮詰まっちゃった(うまくオチをつけられた…笑)。

2013年4月 6日 (土)

「妻は、くノ一」 第1回 7代目市川染五郎の持つ 「飄々とした空気」

 黒船来航より30年ほど前。 平戸藩に勤める、天文学好きな男、雙星彦馬(ふたぼしひこま)。
 このうだつの上がらなそうな男に嫁が来るのですが、それが幕府の送り込んだ密偵。
 しかしこの彦馬がとんだ見込み違いだったということで、結婚後ひと月でお役御免、彦馬の前から姿を消してしまいます。
 彦馬はその、最愛の妻を探し求めて江戸にやってくる。

 ドラマの筋立てとしてはそんなところですが、彦馬の運命を変えてしまうキーパーソンとして出てくる、もと平戸藩主の松浦静山と、幕府関係者などの対立構造がちょっと頭に入らなくて、ドラマの最初のうちは、ちょっと話が分かりづらかった。

 しかしそんな小難しい話の興味をつなぎ止めたのは、主役の彦馬を演じる市川染五郎サンの、なんとも安定感のある飄々とした佇まいでした。 意外なことに。

 どうも染五郎、という名前を聞くと、私の場合お父上の松本幸四郎サンのイメージが抜けきれなくて(なにしろ大河ドラマでいちばん最初にまともに見たのは、幸四郎サンが染五郎時代に主役を演じた 「山河燃ゆ」 でしたから)。
 それに今の染五郎サンって、結構テレビドラマに積極的に出てくる人のように思うのですが、まずそのドラマを見たためしがない。

 だから今年に入って、「八重の桜」 で孝明天皇を演じる7代目染五郎サンの演技に対して、個人的にはとても新鮮で、「こんな安心して演技を見ていられる人だったのか」 という驚きがとても強かった。
 そして今回のこのドラマでの、役柄的には天皇とは全く違った下位の武士の役。
 去年の転落事故で精神的に生まれ変わったのかと思わせるほど、そのどちらの役にも、「安定感」 というものを深く感じるのです。

 ところがどういうわけか、個人的に感じるのは、この 「安定感」 の質は、お父様の松本幸四郎サンよりも、先ごろ亡くなった中村勘三郎サンに近いものがある、ということです。
 これって、たぶん孝明天皇にしても彦馬にしても、どことなくしゃべりかたの 「間」 とかが、達観しているような印象を与えるところが大きい。 演技によって生じる、人間的な大きさ、キャパシティというものを感じるんですよ。 「寛容」 とか、「鷹揚」 といった性質のものを。

 対して松本幸四郎サンの演技というのは、寛容さより真面目さを感じることが自分の場合、多い。
 染五郎サンの演技に、どうしてお父上の遺伝子よりも、勘三郎サンの面影のほうを感じてしまうのかは、私にはちょっと謎です。

 しかしそれは同時に、勘三郎サンや市川団十郎サンといった、現在の歌舞伎界において最も屋台骨を支えていると思われたかたが相次いで亡くなったことを、染五郎サンという新しい世代が、着実に受け継ぎつつある、という感慨も、同時に私に抱かせるのです。

 少々抽象的な議論になってしまいました。

 ドラマ的に面白いのは、染五郎サン演じる彦馬がその純粋な気持ちで妻を探し求めているのに、その妻は平戸藩的には 「敵」 という存在であること。
 だから、彦馬が妻と再び出会うとき、それはバッドエンディングを導き出す要素となっている。

 そしてこの、天文学のこと以外は全く役立たずに見えるこの彦馬が、天文学の知識を借りて、江戸の幼女誘拐事件(かどわかし)を解決してしまう、という意外性も面白い。

 彦馬の妻でくノ一 「織江」 を演じるのは、朝ドラ 「てっぱん」 のヒロイン、瀧本美織チャン。 髪形が江戸時代なので誰だか分かんなくて(笑)、エンディングタイトルで 「ゲッ、そーだったの!」 みたいな。
 でも、この美織チャン、業務命令で妻を演じただけ、というのに、彦馬の純粋な性格に実のところ惚れてしまっている、という設定がよい。 ツンデレ、というカテゴリーとはちょっとずれるけれども、表面上は 「あんな平凡な男」 と冷たいところを装っているのが、いいんですよ(笑)。
 吹き替えかもしれませんが、やっぱりくノ一ですから、アクションシーンというものがある。
 なかなかサマになっている気がします。

 美織チャンの母親役が若村麻由美サン。 「純と愛」 のオニのよーな(笑)母親の面影が、ちょっと残っているのというのが笑える。 状況的に見て、この母親もくノ一であり、 娘が彦馬に惚れちゃったのを見抜いている、というのも、ドラマ的にいいんですな。

 そしてキーパーソンの松浦静山には渋い渋い吉田東洋(「龍馬伝」 ですね)、田中泯サンです。 隠居の身でありながら、武術的にかなりの手練れ。 美織チャンもそうですが、このふたりのアクションシーンは見モノであります。

 これは、ひょっとすると、かなり拾い物のドラマかもしれません。
 連続8回。 NHKBSプレミアムで毎週金曜夜8時より。 今回の第1回再放送は、4月7日午後6時45分からです。

2013年4月 3日 (水)

「吉田照美 飛べ!サルバドール」 なんとなく感じる 「やるMAN」 の使い回し感

 東京のラジオ文化放送で6年間、朝の番組 「ソコダイジナトコ(略してソコトコ)」 をやってた吉田照美サン。 今度は 「夕焼け寺ちゃん」 の後がまとして、TBSラジオ 「荒川強啓デイ・キャッチ」 の牙城に挑むことに。

 開始から2回、ほんの聞きかじりですが感じることは、これってかつての昼の王者、「吉田照美のやる気MANMAN」 の使い回しっぽいな、ということです。
 特にアナウンサーに、他局の前でこの番組の宣伝を大声でするみたいなことをさせるのって、完全に 「お助けマン」 のノリでしょー(笑)。
 昨日(4月2日)の加納有紗アナウンサーは、月曜の男性アナウンサー(匿名にしときます…笑)よりも度胸が据わっていて、「やるなコイツ」 という感じでした(笑)。

 つまりまあ、スタンス的にはニュース番組をやるより吉田サンはバラエティっぽいほうが似合う、ということで、こっちのほうが水を得た魚のようなのですが、ワタシ的には 「ソコトコ」 を3分の2くらいリニューアルしたほうがよかったよーな気がするんですよ。
 だってこの時間、荒川強啓サンの番組のほうが聞きたいもん(笑)。

 や、いちばんの希望は、「やるMAN」 の復活ですけど(小俣サン、もう無理かな…笑)。

 「ソコトコ」 でいちばんのウィークポイントは、コメンテイターが比較的弱かった、ということだったのではないか、という気がしています。
 特に違和感があったのは、大変失礼ながら、月曜コメンテイターの玉木サン。 スポーツ評論家なのに、政治や時事の話を喋らせるというのは、とても無理がある、と思っていました。 ご本人が一生懸命だから余計に。
 それと、各コーナーの企画力の弱さ。 「とまり木」 とかねぇ…。 マスターがあんななのに、かかる曲がファンキーすぎるとゆーか(笑)。

 逆に 「ソコトコ」 でいちばん楽しみだったのは、やはりおすぎサンとの絡みでしょうか。 時事ネタに関しては、少々ずれてる部分も感じましたが、でもこのふたりの掛け合いというのは、ラジオ的にかなりスリリングで面白い。 個人的に、吉田拓郎サンと坂崎幸之助サンが、いま放送されているラジオの絡み合いでは最高峰だと考えているのですが、それに匹敵する。
 今回の新番組移行でこのコンビが解消されるのか、と危惧いたしましたが、どうも今日(水曜)コメンテイターとしておすぎサンお出になるようで、ホッといたしました(聞ける時間帯かどうかは分かりませんが)。

 番組内容についてほとんど書いてませんが(爆)、外人から見たこの国、という視点がメインになるのかな。 そんなのワタシ的にはど~でもいいのですが(笑)、NHK中国語講座の 「美人過ぎる講師」(あ~この言い方…○×△)、段文凝サンは気になります(笑)。

 画像はこちら→ http://www.joqr.co.jp/saru/130402-6.JPG (つながんない場合はご容赦…)(画像デカッ…笑)。

 「ソコトコ」 って、かなり反原発をしつこくやってましたから、今回の終了というのはなんとなく政治的な匂いがして嫌だな~という感じ。 それより照美サンを、あっちゃこっちゃの時間帯で引きずりまわさないでほしいよな~。

2013年4月 2日 (火)

「あまちゃん」 第1-2回 クドカンのスピード感

 まあいつも、「とりあえず」 で見始めて、完走したためしがない(笑)、毎度の当ブログ朝ドラレビューです(「カーネ」 は遠くになりにけり)。

 24年前に故郷の北三陸を飛び出していった、小泉今日子サン演じる母親。
 幼なじみの杉本哲太サンの 「母危篤」 のしつこいメールに、能年玲奈サン演じる娘を伴って帰って来ます。
 この娘が、祖母、つまり小泉今日子サンの母親を演じる宮本信子サンにあこがれて、「海女ちゃん」 になっていく、という話みたいですが。

 その作りを2回目まで見ていて気付くのは、結構疑問点の回収が早いな、というところでしょうか。
 第1回目で朝ごはん支度途中でワカメがないことに気付いた宮本信子サン、海に材料を取りに行った(笑)のですが、火がかけっぱなしで 「不用心だ」 という見る側の感想を、2回目で小泉今日子サンにそのまま語らせ、宮本信子サンにちょっと反省させる。 きちんと回収させてる。
 杉本哲太サンがどうして小泉今日子サンのメアドを知ったのかという疑問も第2回で早くも回収しているし、顔文字のjjjjjjつーのはなんだ?という疑問も、「じぇじぇ」 という地元の人たちの驚きを表わす言葉に引っ掛けて説明している。
 なんで杉本サンのバレバレ危篤メールに反応して小泉サンが帰ってきたのか?という疑問も、「大きな荷物」 を持って帰ってきたことで、帰らざるを得ない状況があることを示唆させてるし。

 疑問の回収が早い、と同時に、やはり脚本の宮藤官九郎サンの特徴でもある気がするのですが、話のテンポがとても速い。

 これって朝ドラのスピードとしてはどうなのかな。

 それに、地元訛りがかなり容赦ない形で再現されているみたいで(笑)、解説用の字幕がバンバン出るし(笑)。 画面から目が離せないんですよ(笑)。

 朝のせわしない生活の中で、ちょっとした見落としがどんどん出てきそうな感じもする。

 でも、クドカンのドラマというのは、そんなに細かいディティールを意識しなくても、話の根幹にかかわる部分に関しては、骨太なメッセージがあるし、それをきちんと分かりやすく示してくれることが多い(ように感じる)ので、結局のところ問題はないように思えるのです。

 却ってこのテンポは、日本人の朝の脳内体操にはちょうどいいんじゃないか(笑)。

 これを前作の 「純と愛」 と比べてしまうことは、少し酷なような気がしますが、遊川和彦サンの話って、「人生甘ったれんな、99%の不幸と苦労があって初めて1%の幸福が手に入るんだ」 みたいな、なんとなく朝からシュンとうなだれたくなるようなのが多くて。 それに比べれば、テーマ曲も 「天国と地獄」 みたいだし(徒競走が始まったのかと思った…笑)、元気に一日始めよう、という気にはなるんじゃないでしょうか。

 まあ私みたいな夜勤生活者にはカンケーないですけど(笑)。

 あとは、小技(こわざ)がちょこちょこ効いてるな、というか(笑)。

 小泉サンの24年前の回想シーンが出てくるのですが、さすがに本人がやるわけにいかず(「年なんかとりたくない」 と 「なんてったってアイドル」 で歌ってましたけど)(あ、アレ秋元康サンだったっけな、作詞)有村架純サンが演じておりますが、ものの見事にサーファーカット(笑)。
 これって細かいツッコミをすれは、彼女は役的に別に24年前に小泉今日子というアイドルではなかったんであって(ハハ…)。
 でもこの、別名 「聖子ちゃんカット」 は、コイズミのデビュー当時のアイコンであったわけであり。
 彼女はかなり早い段階からこのイメージを払拭しようと、ショートカットに転向したものでしたけどね(「真っ赤な女の子」 くらいだったかな)。

 あとは、宮本信子サンの大きなトンボメガネ風サングラス。 「あっ、『マルサの女』 だ!」な~んて(笑)。

 主役の能年玲奈サンは、「クラスで2番目にカワイイ女の子」、という感じかな。 今のところ元気ですが、その元気にもウラがあるような感じですね。

 まあ、また途中リタイアかもしれませんが、とりあえずしばらく見てみます。 レビューの予定は今のところ未定です(笑)。

« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

2019年1月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

無料ブログはココログ