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2013年5月

2013年5月26日 (日)

「島の先生」 第1回 割り切れる答えを探して

 仲間由紀恵サンが南の島の先生を演じるドラマ、「島の先生」。
 この島では、不登校など問題のある生徒を里親として預かり学校に通わせる制度があるのですが、この設定から言ってだいたい予想のつくドラマが展開していきます。

 ただほかの 「島のドラマ」 と違うのは、主人公の仲間サン自身も問題を抱えている、といったところでしょうか。
 こうした設定を聞いて視聴者が想像する主人公像というのは、なにしろスーパーマンタイプ。 いろいろ問題は途中で起きるけれども、最後には主人公が痛快に問題を解決し、見終わってスッキリ、こんなうまくいくはずねーよと思いながら(笑)。
 でもこのドラマの仲間サンにしても、このドラマの裏番組の 「35歳の高校生」 の主人公である米倉涼子サンにしても、そんなにズバズバ問題を解決できないんですよ。
 だって自分自身にそもそも問題を抱えているから。
 だから、「ごくせん」 とか 「ドクターX」 とかの爽快感を期待すると、とても視聴後にモヤモヤが残る結果になる(シーマセン、両方とも見てませんけど私…笑)。

 リアルという点で言うと、主人公が簡単に解決策を提示してしまうほうがよほどアンリアルなのですが、どうも視聴者は爽快感のほうを強く求めてしまう傾向がいつもありまして。
 現実が常に、割り切れない答えと顔つき合わせながら、だから。

 仲間サンのドラマを見ていていつも感じるのは、「この人はどこか、すべてをさらけ出してくれてない」、ということ。 今まで最もあけすけな演技が見られたのは、私が見たなかでは 「ゴーストママ」 なのですが、それでもやはり、どこかで何かを、隠したままでいる。

 その、「すべてをさらけ出して見せてくれてない」 という感覚が、「サキ」 などのミステリアスな役どころに生きていく側面もあるのですが、これは話の面白さとなかなか直結していかないもどかしさもありまして。
 私が見たなかで、仲間サンのキャラがいちばん生きていたのは、「Mr.BRAIN」 でのサイコな犯罪者役だったかな~。 この人はサキみたいな妖しさよりも、狂気を演じさせるとすごい、と感じる。 もしかすると仲間サンのいちばんコアな部分には、「理性的なものを破壊したい」 という衝動があるのかもしれない(あ~考えすぎだ…笑)。

 今回の島の先生役には、そんな仲間サンの狂気が多い隠せるような、島の環境がやわらかく描写されていくのですが、最初のシーンはそれとは裏腹に、狂気を含んだような薄笑いを浮かべて、断崖から海に飛び込んでいくシーン。

 これは結局、母親(田中美里サン)に連れられて島にきた不登校児(今井悠貴クン)の 「宝物」 を探すための行動だったのですが、この仲間先生、いちいちこの不登校児や母親に対してする行動が、不適切なものばかりで(笑)。
 いや、気持ちは分かるんですよ、気持ちは(笑)。
 たとえばこの不登校児が 「わしは、こんな島なんか来とうなかった」(懐かしいな…笑)とほざくと(笑)開口一番 「じゃ帰りなさい」(笑)。
 海に飛び込んでしまうのもその一環で(笑)、それを見てあわてた不登校児が続いて海に飛び込んでしまい、結局溺れさすとか(笑)。
 仲間サンはその子の宝物を探しだそうと、今度は島の人たち総出での大捜索を開始(笑)。 分かるんですけどね、気持ちは。
 でもそれがすべてアダになって、周囲への見栄を気にするその子の母親の逆鱗に触れてばかりで、結局 「ほかの島に留学させますっ!」。

 この話の展開を見ていて、いちばん問題なのはこの子の母親だろう、ということは明白に見えてくるのですが、仲間サンは母親に対して、的確な話ができるわけでもなく、いざその母子が島を離れる、というときに、その子が土下座して 「この島に居させてください」 と頼むまで、なにもできない。
 いや、その後も何か効果的なことをやったか、と考えると、なにもやってないよーに見える(笑)。
 つまり、その母子の自己修復能力を、まあ促進してると言えば聞こえはいいのですが、んー、結果オーライ、つーか(笑)。

 でも現実って、いつもそんな感じだよなあ、と私は同時に思うのです。
 スーパーマン的な解決なんてごくまれで、たまたまうまくいったときでさえ、次への問題がそこに新たに孕まれている。

 仲間サンが演じる主人公自身にも問題を抱えている、と冒頭に書きましたが、このドラマは、不完全な人間が、割り切れる答えを探しながら、最適ではない、という方法で思考錯誤しながら、完全な答えを追い求めるドラマなのではないか、という気がするのです。

 島の里親を演じるのは、石坂浩二サン。 その息子を演じるのは、崇徳いや違った井浦新サン。 最初のこの問題が収まったと思ったら、また新たな問題が勃発といったところで、まあ連続6回だから忙しいだろうな、とは思いますが(笑)、なんだかんだで見ちゃうかもしれません(ここんところ忙しくて、正直録画がたまっていく一方なんですが…笑)。

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2013年5月25日 (土)

「妻は、くノ一」 最終回まで見て

 こちら当ブログでのほかの記事はこちらです→ 第1回 7代目市川染五郎の持つ 「飄々とした空気」 http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2013/04/1-7-78aa.html



 このドラマって、妻がくノ一つまり女忍者だという話であることは題名からも分かるんですが、最初 「平戸藩主、松浦静山の相談役だった雙星彦馬の、とんち話みたいなものが半分混じってるのかな」 と思ったんですよ。
 松浦静山は、「甲子夜話」 という、政治・経済・文化など多岐にわたる題材の随筆を、江戸時代後期に書いている。 1800年代前半だから、黒船来航を次世代に控えている、という感覚ですよね。 雙星彦馬は、この随筆の科学的な部門の情報提供元であった可能性がある、とのことでした(オレ、これどこで調べたんだっけな?…笑)。
 最初のうちはそんな彦馬のオモシロ科学みたいな話だったんですが、話は平戸藩潰しのきっかけをつかもうとする幕府方とのせめぎ合いのほうにウエイトが移っていき、結果的に、最終回まで見た印象としては、かなり錯綜した、登場人物どうしの疑念と思惑の交差に終始した感があります。

 まず主人公・雙星彦馬(市川染五郎サン)が仕えるもと平戸藩主の松浦静山(田中泯サン)。
 この男は視野がグローバルで、異国へ渡る船(大砲も備えている)の建造などを考えていることから、幕府からは要注意人物としてチェックされ、内情を探り出そうとする忍びの者たちの干渉もたびたび受けている。
 そのせいもあってか、ものごとのウラを読みとるのにとても長けている。

 そして彦馬が江戸に行ってしまったために雙星家の養子になり家督を相続した、「年上の息子」、雙星雁二郎(梶原善サン)。
 ネタバレになりますが、彼の正体は松浦静山に仕える忍びだった。
 だから表向きかなりい~かげんな人物のクセして、実はウラでいろいろやってた(梶原サン、久々の当たり役だった、と私は思います)。
 この雁二郎は自分が忍びであるがゆえに、彦馬が思いを断ち切れないでいる織江(瀧本美織チャン)が所属している、敵方の忍びの組織の内情を容易に推理できる。 屋敷内に忍びが入り込めばそれを察知できるし、それを静山に報告して危機意識を喚起もできる。

 いっぽう同じ敵方に属する織江の母雅江(若村麻由美サン)。
 彼女も、自分たち母娘に接触してくる織江の親友・お蝶(黒川智花サン)の様子を見て、自分たちの主である川村(和田聰宏サン)の思惑を推測できるのは、やはり忍びとして頭脳がいつも研ぎ澄まされた状態であるからこそだと思われるのです。

 このドラマでもっとも興味深いのは、その推理と思惑の錯綜の交差点に、主人公の雙星彦馬だけが加わってないところ。
 人間どうしのどろどろとした感情の埒外にいるんですよ、彦馬だけが。

 それは彦馬がただただ朴訥でまっすぐで純粋な少年の心を持ち続けているからなのですが、フツーこういう 「面白くない」 人間というのは、主人公にはおよそなりにくい。
 そして駆け引きが激化していくなかで、こういうフツーの人間は、ドラマのなかで存在感をどんどん失っていくものだと思うんですよ。
 でもそれがない。

 つまり、まわりの人間が、みな虚々実々の、本音と建前の棲み分けをしている人たちばかりだから、彦馬の純粋さが、際立ってくる。
 彼の頑張りが、いとおしく思えてくる。
 彼の一途な思いを、応援したくなる。
 このドラマのいちばんの魅力は、そんな構造にあるような気がするのです。

 そして織江は、そんなどろどろとした世界から、彦馬の住む穏やかで曇りのない世界を、羨望のまなざしで見つめている。

 彼女が 「抜け忍になる」、つまり川村の組織を抜けることを決意したとき、その果てには際限のない荒野が突如として現れます。
 まあこれは、自分が白土三平サンのマンガ 「カムイ外伝」 を読みまくっていたから余計に感じ取れることなのですが、雁二郎も言っていたように、「抜け忍」 に対する組織の執着は、基本その抜け忍を殺すまで続く過酷なものです。 どこまで執拗なのかは、「カムイ外伝」 をご参照なさってください(笑)。

 ただ、だからこそ、彦馬と織江のあいだに生じた 「互いをいとおしむ」 感情は、困難によって成長していくのです。 ドラマはそんなふたりの高ぶっていく感情を、権謀術数のストーリーのなかに、巧みにしのばせていた。
 そして最終回、川村の手の者たちとの死闘のなかで、彦馬と織江は一瞬ではありましたが、たがいを見つめ合う瞬間を持つことができた。

 その時の瀧本美織サンの表情。

 なんつーか。

 ここ数年来で、いちばん女優さんの表情でハッとしたものだった、と書いておきましょう。

 まあエフェクト処理されてましたけどね(笑)。

 それにしてもこのドラマ。

 アクションシーンが主にそうだったのですが、全体的にとても暗闇のシーンが多かった気がします。
 だからなにが展開してるのか、時としてすごく分かりにくかった部分もあるのですが、この暗闇主体の画面をスタイリッシュと評価すれば、結構カッコイイものなのかな、と。
 まあアクションの主体者の拙さをごまかす暗闇でもあるんですけど、いいじゃないですか目くじら立てなくても(笑)。

 最後に展開した、織江の母雅江と松浦静山とのいきさつ。
 織江が松浦静山の子であったからこそ、その松浦静山が信頼を寄せる彦馬に対して、「今までくノ一として閉ざされてきた感情が解き放された」 という理由以外に、説明不能な慕わしさというものが生じたのではなかろうか、なんて考えたりもしました。
 この設定は、だから結構物語の余韻を深くする要因になっている、と感じますね。

 雅江も、自分の娘に対して厳しく接してきたことは、すなわち自分の娘への愛情であることは、忍びの掟のことを考えれば分かる。
 そして子育ての段階で、娘の女としての感情を殺してきたからこそ、自分を殺すことでその感情をよみがえらせようとした。 そんな屈折した母親の犠牲的精神を、若村サンは見事に演じていた気がします。

 そして川村を演じた和田聰宏サン。 どこか風貌が大沢たかおサンに似ている感じなのですが、冷酷な忍びの組織の頭目役、なかなかよかったですね。 悪役が光ってないと、話が引き締まりませんからね(悪役っつーと幕府方の陰謀の立役者だった金井勇太サン、菅野美穂サンの 「ギルティ」 からこっち、ずっとこんな感じですけど…笑)。

 川村は最後雅江と刺し違えながらも生き残った。
 おかげで織江への憎しみがそれまで以上に高ぶっている。
 川村が織江に惚れているのは、明言こそしなかったけれど見てればかなりはっきり分かりますから(笑)。
 こりゃもっと残忍な川村が活躍できる、続編を期待しないわけにはまいりません。

 そう、つまりこのドラマ、結局彦馬と織江は結ばれず、「またいつの日か」 という含みを持たせて終わっている。
 続編がないワキャない、つーか(笑)。

 原作本もかなり大胆な展開になっているみたいだし(彦馬と織江がアメリカに渡ってツインスターというダセー名前を名乗ってるとか…笑)、結構何シーズンも続けてそこまで行ってほしい感じがします(海外ロケってそりゃ無理っぽいけど…笑)。

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2013年5月19日 (日)

「あまちゃん」 第6-7週 "アイドル"キョンキョンへのラヴレター

 このドラマでは、かなり頻繁に1980年代の出来事が回想シーンとして登場します。
 ヒロインのアキ(能年玲奈チャン)が寝泊まりしている、実家の母親春子(小泉今日子サン)の部屋も、春子が家出した24年前からタイムカプセルのまま放置されている。
 いや、放置されていたのならホコリだらけだったでしょうが、おそらく春子の母、夏(宮本信子サン)がきちんと掃除だけはしていたと思われます。 そのためにいつまでもみずみずしく、1980年代がそのまま保存されています。
 当時アイドルにあこがれていた春子の部屋は松田聖子チャンをはじめさまざまなアイドルのポスターなどが貼られており、横長のステレオラジカセ(サンヨーの 「おしゃれなテレコU4」、自分も持ってました…笑)とかブラウン管テレビ(これは最近まで現役感覚ですが)とかの懐かしグッズにあふれている。

 母春子が昔アイドルを目指していて夢破れた、という経過というのは、ドラマを見てればなんとなく察しがついたのですが、私はこの設定を見ていて、脚本の宮藤官九郎サン自身が抱いていた、1980年代の自分のあこがれもそこに投影されているような気がします。
 たぶんクドカンサンも、当時の大多数の中高生のように、フツーにアイドルのファンであり、アイドルになりたいとは思わないまでもアイドルにあこがれていた。

 そしてこの時代のアイドルを象徴している存在なのは、聖子チャンが牙城ではあるけれども、この春子を演じている小泉今日子サンなわけですよ。

 彼女は聖子チャンが歩む王道のアイドル像とは少し一線を画した位置にいて、「アイドル」 という存在意義を見つめて、そして 「アイドル」 という存在を 「演じ」 続けている、そんな感覚が、当時私にはしていました。
 その微妙な立ち位置を、鋭く歌詞にして当の本人に歌わせてしまったのが、現在AKB48の仕掛け人として有名である秋元康サンだった、と思う。
 秋元サンが彼女に書いたのは、「なんてったってアイドル」。
 この曲の2番の歌詞に、こういうのがあります。

 「ずっとこのままでいたい
 年なんかは取りたくない
 いつもみんなにキャーキャー言われ続けたい
 楽しければいい いい」

 この曲に初めて接したとき、私は 「またキョンキョンが挑発的なことをやってるな」 と感じたのですが、この2番の歌詞を聞いたとき、「この曲を年を取ってから彼女は、どう感じるのだろう?」 などと考えたものです。
 要するにその当時の自分の年齢を、彼女は楔として打ちつけたがっている。
 それはもしかすると、彼女がこの先どういう人生を送るのかは知らないが、彼女にとって足かせになってしまう楔になってしまうのではないか、ということです。

 まあ私にそんなことを考えさせる前フリというのは、あったんですけどね、話はズレますが。

 ベイ・シティ・ローラーズ(BCR)というバンドがございましてね昔(笑)。
 昭和50年代の前半、彼らはヤタラメッタラ人気があって、ビートルズの再来とまで言われていた。
 そんな彼らがリリースしたのが、「イエスタデイズ・ヒーロー」 という曲で。
 「僕らは昨日のヒーローにはなりたくない」、つまり落ちぶれたくないつー曲なんですよ。
 彼らは当時人気の絶頂だったから、この曲はそんなにシリアスに受け止めて私も聞いていたわけではなかったのですが、なんかメンバーの分裂とかしてるあいだに、あっという間に人気がなくなってしまった。 現実になってしまったんですよ、この曲が。

 つまりキョンキョンも、BCRと同じようなことにならねばいいが、と思ったんですよ、簡単に言うと。
 でもね。
 アイドルというのは、賞味期限が極端に短いですからね。
 それに年を取るというのは、もう不可避ですから。
 私が彼女の歌を最後に聞いたのは、いつでしたかね。
 たぶん日曜劇場 「スィート・ホーム」 のテーマ曲だった 「マイ・スィート・ホーム」 だったかな。

 で、結局 「なんてったってアイドル」 の2番の歌詞というのは、やはりいつの間にか立ち消えになってしまったのですが、この 「あまちゃん」 というドラマで、クドカンサンは、そんなキョンキョンのアイドルとしての決着を、付けたがっているように見えるんですよ。
 それはご本人の覚悟に対してもそうだし、クドカンサン自身の当時の思いへの決着という意味においてもそうです。

 「年なんかとりたくない」 という願いは、いつも虚しいものです。
 それでも、その当時の思いを抱きながら生きていく限り、その当時の自分を否定しない限り、その願いというのは内面的には成就しているんじゃないか?
 そこに、本当の答えがあるんだ。
 「年なんかとりたくない」、永遠に若いとは何か、ということの答えが。

 そしてその気持ちというのは、いろんな忸怩たる思いというのは、実はそんなに大したことでもない。

 こだわりすぎるから、鎖に縛られてしまうのだ。

 自分から、重たい鎖に思い切り巻きつかれてしまうのだ。

 第7週の最後で、キョンキョンはかなりあっさりと、その鎖を解き放った気がします。
 歌ったんですよ。 スナック 「リアス」 で、みんなの前で。
 私どもの年代から見るととても感慨深いものがあるし、彼女自身のこだわりにも思いをいたしたくなるシーンだった。

 でもクドカンサンは、おそらく 「キョンキョンに、キョンキョンとして」 歌わせたかったのだと思う。
 昔への郷愁とかいう意味ではなく、彼女に、今も生き続けているアイドルとしての歌を。
 彼女のため、そして自分のために。

 そしてそれを、夏ばっぱやじいちゃん(蟹江敬三サン)の前で歌わせた、ということに、ドラマとしてのひとつの決着も目論んでいる。
 冒頭にも書きましたが、夏ばっぱは春子の部屋を、家出してから24年のあいだ、きれいな状態に保っていたと思われるんですよ。
 そんな母親としての思い。
 10週勝ちぬかないとデビュー出来ない、というオーディション番組に春子が出る、と言い出したときも、「中途半端な決心だったら出るな」、というスタンスだったし。
 表面上のことに目を奪われがちだけれども、やはりこの家族はなんだかんだ言いながらも、奥底ではつながっている。

 このドラマを見ていて感じる安心感、居心地の良さ、というのは、実はここからきている気がします。
 そしてこの第7週目で見たのは、"アイドル"キョンキョンに対するレクイエム…というのとは違うな、リスペクト、というのもちょっと軽いな、つまり、「過ぎし日へのラヴレター」 とでもいうか。

 そして今週あらたに登場した、琥珀屋のベンさんの弟子になった、松田龍平クン。 これからどういう動きを見せていくのか。
 さらにアキの父親である尾見としのりサンの動向も気になるし、春子の歌をどのような気持ちでユイ(橋本愛サン)が聞いていたのか(その場にいなかったっけな?いたよな?…笑)、自分のプロトタイプとしての結末をそこに見ていたのかどうかも気になります。

 アキの友達ユイはアキのアイドル的な活動に、春子が嫉妬しているんだ、と考えていましたが、それはかなり浅いモノの見方ですよね。 彼女はかなり計画性を持ってアイドルになろうとしており、そのためには自分が忌み嫌っている 「方言」 も武器にしようと考えている。
 彼女がどのように育っていくのか、やはり注目したいところですね。

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2013年5月12日 (日)

「剣」 黒澤映画の脚本家たちが繰り広げるオムニバスドラマ――そして夏八木勲サンのこと

 NHKBSプレミアムで名作時代劇として放送が始まった、「剣」。
 ネットで調べてもウィキにも出てこないし、どんな作品なんだかまるで分からない。 ようやく分かったのは、1967-8年(昭和42-3年)に日テレで放送された、46回くらいの1話完結ドラマだ、ということです。
 それを今回10回程度の放送、ということだから、かなりはしょっている感じ。

 それにしてもクレジットタイトルには圧倒されます。 企画・脚本に名を連ねるのは、橋本忍サンとか小国英雄サンとか、黒澤映画の脚本家がずらり。
 音楽も日本を代表する作曲家、武満徹サンだし。
 出演する役者さんたちも、丹波哲郎サン、鶴田浩二サン、田村高廣サン、山崎努サン、…なんか圧倒というより卒倒してしまう(笑)。

 既に別記事のコメント欄でも書いたのですが、今回の第1回では、丹波哲郎サン演じる戸沢一刀斎が、剣豪日本一になった途端に、鶴田浩二サン演じるどこの馬の骨とも分からない大口叩きヤローにあっけなく敗れてしまう。 あとで名前を聞いて納得、鶴田浩二サンの役は宮本武蔵だった。 それまで一刀斎がどんだけ自分を律しながら戦いに勝ち続けてきたかをつぶさに見ていたので、この幕切れはとても意外で。 これが橋本忍サン脚本。

 先週放送された第2回は、小国英雄サン(共同執筆)脚本でさらに凄かった。 お話的には、「隠し砦の三悪人」 の別バージョンみたいな感じだったのですが、ある重要な物資を届けに城に向かう一行に、田村高廣サンと山崎努サンが用心棒として雇われるんですよ。 これらの人々の素性とか真の目的とかをめぐって虚々実々のやり取りが繰り広げられるのですが、とても50分程度の話とは思えない濃密さで。 んも~堪能いたしました(笑)。

 ただ、黒澤映画にしてもそうなんですが、昔の映像作品って、録音状態が悪いせいか、セリフが聞き取れないことが多くて。
 ちょっと突っ込んだレビューが出来ないのが残念です。

 昔の時代劇で、勧善懲悪もの以外のものを見ると、かなりニヒリズムとかヒロイズムとか、思想的に確立しているものが多い気がするのですが、これはまさに黒澤映画が本流にあったからだ、という気がいたします。 その脚本家たちが手掛けているのだから、奥の深いものが出来上がるのは当然かと。
 これは戦後に色濃かった共産主義の影響も少し流れている感覚がある。 逆の意味として。
 コミュニズムというのは、集団でいろいろと成し遂げていくものだけれど、この手の時代劇に出てくる剣豪たち、というのは、基本的に自立しているんですよ、思想的に。 自分の弱さと常に戦っているから。
 だから個人個人が面白い。

 字幕付きならもっと深読みできる気もするのですが、それも野暮なような気もするし。 あ、このドラマ、字幕付いてません。

 話は別件で、ここでしてしまうのは失礼にあたる気もするのですが、昨日お亡くなりになった夏八木勲サンも、この手のクオリティの高い時代劇に多数ご出演されていた記憶がございます。
 こうした奥深い時代劇の担い手が次々鬼籍に入られてしまうことは、誠に大きな損失であります。
 ご冥福を、お祈り申し上げます。

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「雲の階段」 第1-4回 満たされないグラス

 登場人物の考えが分からなくて 「つまんない」 という判断をされてしまうドラマがたまにあります。 このドラマの視聴率が悪いのも、おそらくそこに原因があると思う。 なにしろ主要人物の行動規範というものがちょっと分かりにくい。
 でもそこを乗り越えると、このドラマは結構面白い部類に入るような気がするんですよ。

 このドラマの面白さの中心は、無資格なのに医者をやっている主人公が、次第に野心をもたげていくピカレスク的な側面、そして医師免許がないことがどこでバレてしまうのか、というハラハラ感だと感じます。
 そして主人公をめぐる、恋愛模様、といったところでしょうか。

 で、その主要人物たちの、「分かりにくい」 行動規範なんですが。

 まず長谷川サンが演じる、主人公の相川三郎。

 彼は過疎の島の診療所で事務員をやりながら、無資格のまま医療行為をやっています。 いや、院長に無理強いされてやらされている、というべきか。 どちらにしろ、なあなあのうちにやっている。 でも村の人の評判はいい。 知識も豊富で腕もいいから。
 ただまず彼がどうしてこの島に来たのかが分かりません。
 なにしろしゃべりはボソボソで歯切れが悪く、なにを考えているのかよく分からず、そしてとにかく、とても暗い。 春の日差しのなかで、とても暗~い(ハハ…)。
 たぶん自分の人生の目的も分からず、優柔不断で流されるままフラフラとこの島に辿り着いた、そんな感じです。 過去に何かあって、その苦しみから逃避してきたのかもしれない。
 長谷川サンは現在、ほかのドラマ(「八重の桜」)で綾瀬はるかチャンの夫をサワヤカーに演じているだけに、この暗さをまず受け入れられるかどうかが、視聴の分かれ目になる気がします。

 そして彼に医療行為を無理強いしている院長、大友康平サン。

 彼の行動規範もよく分からない。
 違法行為を強制して、いったいどーゆーつもりなのか。 アホなのか(笑)。
 院長の考えるところによると、自分が死んだら後継者がいない。 しかしこんなへんぴなところに医者が来るわけがない。 だから見込みのある三郎に自分の持っている技術や知識を叩き込ませるのだ。

 でもですよ。

 大友サンはかなり勤務態度がよろしくなく(笑)、しょっちゅう休んでるし、三郎に何もかも押し付けて、とても無責任なように感じる。
 のちにこれが病気のためだということが判明するのですが、それにしたって三郎には医師免許を取らせる努力をすべきでしょう。
 診療所の大勢は、この院長の無理強いに批判的です。 でもなんとなく成り行きでそれを容認しちゃっている。
 どうも過疎の島、という限定的な狭い世界で、院長も周りの人間も、大局的なものの見方が出来ない心理状態になっている、そう判断すべきなのでしょうか。

 そんななか、ひとり積極的に三郎を応援する、看護師の鈴木明子(稲森いずみサン)。
 また彼女が、なに考えてるか、よく分かんないんですなぁ(笑)。

 彼女が三郎を応援するのは、彼女が三郎を好きだからなのですが、どーしてこんなにワケの分からんネクラな男を好きになるのか(笑)。

 まあマジメに考察すると、たぶん稲森サンは、このヤサ男がなにを考えているのか分からないところに最初に興味を持ち、それから 「無資格なのにかなりその医術の腕が確かだ」 という頼りがいがあるところに惹かれていき、「でも無資格」 という危険な側面をスリルとして味わっている。 そしてヨロメキ風の(いつの時代の表現だよ…笑)この男を守ってあげたい。 ユドンハフツーウォーリー。 そして私が、この人の医療スキル向上を支えてあげるの。 おそらくそんなところかと。
 それと見逃せないのは、彼女がかつて子宮外妊娠で子供を堕していた、という過去でしょうか。
 明子はその精神的な乾き、空虚感を、三郎というミステリアスな異性に満たしてもらいたがっている。

 まあいちばんの原因は、この男がイケメンであることなんでしょうけど(笑)。

 第1回、東京からやってきて同じく子宮外妊娠で、長谷川サンの手術で胎児は死亡したけれど一命を取り留めた、田坂亜希子(木村文乃サン)も、おそらく同じような感覚で、長谷川サンに惹かれていく。
 これ、稲森サンの役名も 「アキコ」、木村サンの役名も 「アキコ」 ですね。 同じ名前だから同じ感覚なのか(笑)。
 でも、人格も環境も違うけれども、同じ名前だからこそ同じ運命をたどる、みたいなことはあるかもしれない。

 またこの田坂亜希子の行動規範がですねぇ…(以下略…笑)。

 これもマジメに考察すれば、田坂亜希子は東京の大病院の令嬢。 親は仮面夫婦、望まない政略結婚に嫌気をさして、別の男との子供を身ごもっていたわけだったんですが、やはり彼女も、心にかなり満たされないものを抱えている。 その乾きが、長谷川サンに向かっていると思われるのです。

 つまり、モテモテなんですよ、このワケ分かんない男(笑)。 不愉快だなあ(笑)。 イケメンだったら何でもいーのか(笑)。
 でも手先が器用だし(笑)。
 長谷川サンのかつてのドラマ 「セカンドバージン」 でも、鈴木京香サンは長谷川サンの、指の長いところにキュン!キュン!(「あまちゃん」 かよ)してましたよね。

 ドラマの展開としては、たった3度の手術経験くらい(数え方の基準で違ってくる気がしますが)で田坂の大病院に移籍早々、VIP待遇の政治家の手術をしてしまう、という、ちょっと考えられないような急成長ぶりでリアリティに乏しい、ということはあるかもしれない。
 しかし実戦でメキメキ成長する、というケースもあるかもしれないし(医術のことも知らんとテキトーなこと言ってますけど)。

 ただお話として面白いから許せる気はしますね。

 最初の手術で大パニック状態になりながら明子に支えられて何とか三郎が面目を保っていく様子であるとか、2度目の手術では破格の待遇で診療所が迎えた 「本物の」 医者(田中哲司サン)がなにも出来ずに、屈辱にまみれながら 「無資格の」 三郎に手術をお願いするとか。
 3度目の手術では大病院の意地悪な衆目のなかで難しい手術をやり遂げてしまう、その爽快感であるとか。

 こうしたケースのなかで、「医療行為とは何なのか」 とか、「医師とはどういう存在であるべきなのか」 とかいう問題提起も、確かになされている。
 でも私がこのお話のなかでいちばん重要だと感じるのは、登場人物たちが共通して抱えている、「ワケの分からなさ」 のウラには、「心の渇き」 が潜んでいるのではないか、ということです。

 三郎はおそらく、今までの人生でなにをしても認められてこなかった、と私には思える。
 そして自分が何者なのかも人生の目的も分からず、空虚な気持で生きてきたその心の渇きを、他人から評価される医療行為によって満たそうとしている。
 でもそれは、どこまで行っても 「無資格」 という違法行為の範疇から出ないのです。
 言わば、間違った飲み物で、グラスを満たそうとしても、けっしてそのグラスは満ちることがない。

 明子が三郎に求めているものも、おそらく自分が何者であるかの答えであろうかと思われるのですが、三郎はおそらく、明子にとっての答えを持っている人間ではない。
 これは亜希子にしても同様で、亜希子が求めているものを三郎がもっているとは考えにくい。

 さらに言えば院長の大友サンが三郎に求めているものも、それは間違った方法であり、その答えを三郎は持っていない。

 分かりにくい話で恐縮ですが。

 でも、人間というもの、本当に自分にとって正しい生き方をしている人って、かなり少ない気はしますけどね。

 正しい目的、正しい手段。

 人というのは、間違った飲み物、自分には合わない飲み物でグラスを満たした気になっている、もしくは満足しようとしているケースが、とても多い気がするのです。
 おそらくこのドラマは、それを提示しようとしている。
 この物語の題名は、そんな実態のないふわふわした幻想を、象徴しているように、私には思われるのです。

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2013年5月 5日 (日)

「八重の桜」 第18回 白河視察で見えてくるもの

 まあ基本的に不勉強なものですから、ウィキペディアで予習だの復習だのしている私ですが、それにしてもここに来て、板垣退助とか後藤象二郎とか、土佐藩が絡み出すと、もうなにがなんだか分かんなくなってきて(笑)。
 それでも、「龍馬伝」 のとき、大政奉還に土佐藩の山内容堂公が深く絡んでいたことは学習していたのですが、いちいち役者さんが違うもんだから、なんだか頭の中でうまくつながらなくて。

 「龍馬伝」 でさんざんやっていた、大政奉還の理論を後藤象二郎に授けたのが坂本龍馬だった、というお話も、結局どこまでが本当でどこまでが嘘なのかも分からない。
 今回の大河でも、先の薩長同盟の際に、龍馬と思しき後ろ姿がチラッと映ったのみであり。
 この、後ろ姿、というのが、歴史的に見た龍馬の立ち位置を象徴しているようで、私は甚ださびしいものを感じます。
 龍馬の成し遂げたことは、やはり歴史の表舞台ではなく、あくまで裏方なんだと思うんですよ。
 「龍馬伝」 では、龍馬が山内容堂公と直接会談したとか、容堂公が牢屋につながれている武市半平太に会いに行ったとか、やたらと信憑性の薄いエピソードを挿入していましたけどね。 そうでもしなきゃ龍馬の功績が分かりやすく提示できない、というか。

 ところで今回、覚馬から送られてきたスペンサー銃を見て、ミリタリーバランスの逆転現象を肌で感じ取った川崎尚之介は、会津防衛の要所である、白河関の視察を決意します。
 これは、京都守護職によってイメージ最悪となりつつある会津藩の今後を見据え、幕府の倒壊を見据えた、かなり 「確度の低いと思われがちな」 危機管理意識によるものだと言っていい気がします。

 簡単に言やあ、「薩長が会津に攻めてくるってその時点で考えるなんて、心配のし過ぎでは?」 というレベルの話のように思える。
 しかしこの、川崎尚之助の危機管理意識は、今後のこのドラマの行方(物語の配分)を想像するうえで、ひとつのヒントだと言っていい気がします。
 尚之助と八重が白河に視察旅行に行く、という話が事実かどうかは私には分からないのですが、ここで二本松少年隊が登場したり、白河での戦いの主役となる西郷頼母に西田敏行サン、という大物を配していたり、ここで味方として活躍するもと新選組の斎藤一がヤケにこれまで出まくっていたり、新政府軍の指揮官である板垣退助まで登場している、となると、「八重の桜」 では、会津の鶴ヶ城での攻防の前に、かなりこの、白河での攻防戦に時間を割いてくる気が、してくるのです。

 でもって、おそらくその真相がよく分かっていない、八重と尚之助が別れたことなんかにも時間を割くだろうから、もしかして新島襄とのお話って、スッゲエあと?な~んて、推測してしまうのです(笑)。

 つまんない心配はいいとして(笑)、今回の視察旅行は、まるで龍馬とお龍の 「日本初の新婚旅行」 と張り合っているかのような展開(この時点で八重と尚之助は新婚だったかどうか分からないですけど)。

 で、この 「二本松少年隊」 と八重との邂逅は、ドラマ的にいうとなかなか面白い演出だったように感じます。 鉄砲の訓練をする少年たちに、八重がお手本を見せるところですよね。 まるで黄門さまの印籠みたいな感じで(笑)。 「おなごに鉄砲が撃てんのかよ」 という目のなかで八重がこちらの期待通りガーンと一発決めて、少年たちから尊敬される、という構図ですね。

 その子たちの尊敬の視線を浴びながら、鉄砲を撃つときに目をつぶってしまう、という子供に、アドバイスをする八重。

 「秘訣は、目を開けようとしねえことです」

 えっ?といぶかしがる少年。

 「目のことは忘れて、弾の行方だけ追えばいいんだし」

 結局は、形式とかマニュアルとかは二の次だ。 ようは、心を目的に定めることなんだ。

 このことは、見える見えないにこだわって自分を見失いそうになる、覚馬に向かっている言葉のようにも思えます(勘ぐりすぎかな)。
 そしてこの八重の言葉は、やはり 「天皇の権威、ご威光」 にこだわって錦の御旗を掲げようとする岩倉具視や薩長に向かっているようにも思えるし、幕府の権威とかにこだわって嘔吐してしまう、徳川慶喜のこだわりにも向かっているような気がする。

 考え過ぎですかね(笑)。

 いずれにせよ、子供らに向かって注がれる八重のまなざしは、後年、自分たちの作った学び舎で学ぶ学生たちへ注がれる目にも通じるものがあるのではないか、などと考える、私です(って、確か八重、学生たちから突き上げ食らうはずだけど?…笑)。

 そうそう、蛇足ですけど、今回反町隆史サンがのちの大山巌として登場、西郷隆盛役の吉川晃司サンとツーショットでしたよね。

 おおっ、ダブル信長じゃん!みたいな(笑)。

 あ、それとそれと、もひとつ蛇足ですが、今回白河の戦い、二本松の戦いをウィキで調べていてわかったこと。
 わが故郷三春の三春藩は、どうやら新政府軍に寝返ったウラギリモノだったみたいです…(タメイキ)。

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「八重の桜」 第13回 「鉄砲と花嫁」 第14回 「新しい日々へ」 第15回 「薩長の密約」 第16回 「遠ざかる背中」 第17回 「長崎からの贈り物」(3月31日、4月7、14、21、28日放送)を見て

 へへ…、「八重の桜」 直近5回分を一気にレビューいたします(手抜きだぁ~っ…笑)。

 蛤御門の変以降、八重と川崎尚之助は急接近し、結婚に至ります(簡単だなァ…)。
 そして蛤御門で目の上あたり?を負傷した山本覚馬は、白内障が進行し、失明の不安にさらされていく。 まさしく 「ベルばら」 のアンドレ状態ですよね。
 ただし覚馬が恐れているのは、愛するオスカル、じゃなかった、愛妻うらや娘のみねの姿が見られなくなることもさることながら、これから激変を余儀なくされている、この国の行方を見ることが叶わないことと、それに際して自分が会津藩のためにきちんとした働きが出来なくなるのではないか、ということ。

 いっぽう会津を取り巻く政治情勢は、薩摩の西郷が勝海舟の 「寝た子を起こしちゃったかな?」 的な助言で大きく方針転換をし、長州と急速に接近していき、さらに容保公の強い進言で京に上洛させた14代将軍家茂の死、さらには会津の大きな後ろ盾であった孝明天皇の死で、逆風がその風速をさらに高めていくことになる。 折悪しく会津の町を覆った大火を煽る風のように。

 ここ5回のこのドラマを立て続けに見ていて感じるのは、事態がどんどん会津にとって悪くなっていく、その息苦しさです。
 このドラマの語り部は、おそらく会津の大火もその重要なファクターとして配置しているし、なにより、「覚馬の目が見えなくなっていくこと」、というファクターを、会津の状況と完全にリンクさせている気がする。

 この手法は、見事と言うほかはない気がします。

 この混迷を極める政治情勢の中で、「我らは、何と戦っているのであろうのう」、というのは、田中土佐のつぶやきであったのですが、これに抽象的ではあるが象徴的に答えるとすれば、「会津は、時代の流れと戦っている」、ということになろうか、と私は考えます。

 これをもっと意地悪い言い方をすると、「会津は古い時代の墓標になりつつある」、ということになる。
 「上の者に対して絶対服従する義」。 封建制度の根幹的な考え方ですが、外圧によってそれはもはや、ガタガタに崩れている。 日本中が新しい秩序というものを求めて流動的に動きつつあり、幕府でさえその波のなかで自分を見失いつつある。
 そんななかで会津は、頭の固い古臭い連中、というレッテルを、大勢から張られようとしている。 誇りある薫陶である、「ならぬものはならぬ」、という考えが、流れゆく時代のなかで会津を孤立化させ置き去りにする最大の原因となる。

 ここで会津をさらに翻弄させる徳川慶喜にしても、時代の流れの中でアイデンティティ崩壊のさなかにいるわけですよ。 だから朝令暮改、自分でなにをやってんだか、基本的に分かってない。
 そんな混迷の中で慶喜サンがなにをしようとしているのか、というと、やはり徳川の権威だけは失墜すべきでない、ということで、同時に彼は、時代に即した体制に幕府も変容していかねばならない、というオブジェクションに囚われている。

 これをですね、かつての大河 「徳川慶喜」 のように、彼を主人公にしてしまうと、限りなく自己弁明のための論調になってしまう気がするんですよ。
 今回の 「八重の桜」。 私は今までで、この慶喜サンの立場が最もよく描写されているのではないか、なんて気がするのです。

 そしてもうひとつ。

 時代の流れの中で会津が取り残されつつある、という象徴が、山本家(川崎家、ということになりますか、この場合)にも進行しつつあって。
 それは、川崎尚之助が日々改良を加えている、新式の銃です。

 尚之助はこの新式銃を開発したら、八重さんと結婚する、という目標を人知れず立てていて、それが叶ったために八重に求婚し、結婚した。
 結婚後も、義父の権八の思惑に逆らってまで八重に銃の改良の手伝いを求め、岩に爪を立てるように少しずつ、少しずつ、新式銃の開発に努力している。

 しかし、「長崎からの贈り物」 で覚馬から届いたスペンサー銃は、尚之助のそうした努力を水泡に帰するだけの威力を有しているわけですよ。 7連発式だし。

 そしてそうした銃を、長州や薩摩、諸藩がこぞって買い漁っている、という事実は、もはや旧態依然とした権力が、ミリタリーバランス的に崩壊してしまっている、という事実を、尚之助、ひいては会津に突きつける。

 もひとつ象徴的なのは、八重にとって強力な槍のライバルが現れることです。
 それは中野竹子。
 八重にとっては黒船級の存在でしょうね(笑)。
 つまり、スペンサー銃も中野竹子も、井の中の蛙でお山の大将気取りでは突き崩せない存在としてリンクされている。

 ここらへんのことに着目しながら、今晩の 「八重の桜」 を久々にリアルタイムで見たいと思います。

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「35歳の高校生」 第1-4回 すっごく不快なこのドラマ、なんで見ちゃうのか?

 米倉涼子サンが35歳で高校にもう一度通うドラマ(かなりざっくりとした説明…笑)、「35歳の高校生」(そのまんまやがな)。
 正直なところ、この春ドラマの 「学校でのいじめ問題」 取り扱い率はやたらと高い気がしていますが、おそらくこれは、テレビドラマ制作者たちが、いじめとか体罰が原因の自殺者が続出する教育現場の現状に、危機感を抱いている表れだ、とは感じます。

 そうしたドラマのなかでもこのドラマは、いじめる側、さまざまなハラスメントをする側の憎たらしさがいちばん誇張されている気がする。
 要するに、見ていてかーなーり、不快なんですよ。

 でもなんか見ちゃうんだな。
 特に私は、こういうナマイキなガキが出てくる学園ものって、毛嫌いする傾向が強くて。
 それは数件前の記事(「真夜中のパン屋さん」)で書いたのであらためて言及しませんが、おそらくそれでも見てしまうのは、このいじめる側の憎たらしさが限りなくマックスに近いからでしょうね。 コイツラがコテンパンになるのを見てみたくなる、というか。

 特にこの時間枠での前作、「泣くな、はらちゃん」 でも出演していた、いじめのリーダー格の菅田将暉クン、彼の憎たらしさはハンパではない。 「はらちゃん」 でも結局はいいヤツなんだけど少々敵キャラっぽかった、その性格が今作ではさらにエスカレートしています。 「仮面ライダー」 のイメージから脱却しようとしてるのかな。

 もうひとつ、「はらちゃん」 と妙なところで繋がってるように思うのは、主人公の米倉サンが時々読み返している、たぶん自分が高校生だったときの不満書き殴りノート。 越前さんのマンガノートと仕様が一緒なんですよ。 最初見たとき、「はらちゃん」 が出てくるのかと思った(それはない)。

 このノートを見て悶々としている米倉サンの素性は今のところ明確になっていませんが、まず米倉サンは、渡哲也サン演じる教育長によって、この高校に派遣されている。 彼女の住んでいる部屋は無機質で、生活感というものが極度に乏しい。 それなのに高そうな左ハンドルのスポーツカーで通学してる(笑)。
 そして、どうやら彼女は高校時代に根源的なトラウマとなるべき出来事に遭遇し、それを35歳の今になるまで乗り越え切ってない。

 つまり、ジャック・バウアーが冒頭のナレーションで煽りに煽り(笑)、大門教育長がライフル片手にまるで満を持して送り込んだかのように見える彼女(少々この文章説明が必要な気もしますが、まいーか…笑)、

 けっしてドクターXじゃないんですよ(そっちのドラマ見てないから内容知らんけど、要するにスーパーウーマンじゃない、っていうことです)。

 で、彼女がこの高校に中途入学した動機というのが、「ともだち100人できるかな」。
 これはなんか建前っぽくて本当じゃないような気もするけれど、案外彼女の本音なのではないか、と思われます。

 そのせいなのか、彼女はいじめグループの直接的な更生に、あまり積極的ではありません。
 却って 「いじめられる側」 の精神的な強さを鍛えようとしている側面のほうが強い。

 そしていじめられる側は、自分が苦しめられてきた重い鎖というものが、実は自分の気持ち次第で消えてしまうものであることに、気付いていく。
 このドラマの快感刺激ツボは、ここにありそうな気がします。

 空気を読むであるとか、みんなに嫌われない自分を演じるとか、そのこと自体、絶対悪とは呼べないとは私も思うけれども、必要以上に自分を縛りつけ、自分を窒息させるための鎖には、してはならない。
 みんながそのことに気付いたとき、自然といじめというものは淘汰されていくのではないか、というのが、このドラマの主張なのではないか、と思います。

 いじめというものを根源的な悪ととらえようとするから、いじめ自体を根絶させようとする。
 でもそれは間違った考えなのではないか。
 社会で生きていくうえで、他人との軋轢に苦しむことは、これは必然と言ってもいい気がします。 いろんな人との、感情の力関係によって、やはり社会というものは成立しているからです。
 もちろん、他人との競争の中で、他人を蹴落としてでも、というシステムも存在している。
 しかしそこで、自分に対して働きかけてくる、ネガティヴな他人からの力に対して、いちいち負けていたのでは、生きていけないんですよ。
 「いじめを、いじめと思わずに生きていける力」。
 その力が全体に広がったとき、いじめが消えてなくなるのではなく、いじめ自体が存在してもそれに対する抗体ができている、強い精神力を備えた社会になるのではないか。

 だからこのドラマの見据える先には、広く社会全体の自殺者多発傾向があるような気がするのです。

 でもまあ、見ていてかなり、カリカチュアライズされてる気もしますけどね。 いちばんアレなのが(アレって…笑)片瀬那奈サンとか(笑)。 見ていてオチャラケすぎていてイライラすんだけど(笑)、ふざけまくっているようでいて、どっか本質突いてるよーな気もするし(笑)。
 そのほかにも米倉サンより年下教師の溝端淳平サンとか、校長の榎木孝明サンとか、かーなーり、見ていてイライラします(笑)。

 要するに、全体的に見ていてすっごくイライラするドラマなんですよ(笑)。

 でもその不快感を、米倉サンが最終的にスッキリさせてくれそうで。

 それを期待しながら見続けている、と言っても過言ではございません(笑)。

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2013年5月 4日 (土)

「あまちゃん」 第3-5週 こんなにイージーで、ま、いいのか、クドカンだから(笑)

 このドラマのヒロイン天野アキ(能年玲奈チャン)は、母親春子(小泉今日子サン)の故郷である三陸に一緒にやって来てからというもの、おそらく自分をずっと殺してきた東京での暮らしから脱却しようとしている。

 言わばこのドラマ、ヒロインが 「自分はここで生まれ変わろう」、としている物語だ、と私は考えています。

 ところが今週、そのアキは生まれて初めての 「一目惚れ」 をした、という動機から、相手の男の子(仮面ライダーフォーゼ、じゃなかった、福士蒼汰クン)が通っている同じ高校の潜水土木科に編入しようとする、というかした、あっという間に(笑)。

 この無謀なるヒロインの行動、これがやはり 「自分が生まれ変わる」 ためのステップだとすれば、よほど東京での自分が、そして東京が、ダイッキライだったんだろう、と思われるのですが、果たして?
 それともこの破天荒な決断、「若いからなんだってできるさぁ~」(なして沖縄弁?…笑)という範疇の話なのか?
 私はアキの潜水土木科編入に少々面食らっています。
 でも、クドカン流のギャグタッチにごまかされるような形で、「まっい~か」 みたいに見ている自分もいる(笑)。

 そもそも、アキを突き動かしている動機というものは、「おら、海に潜りてぇ」 ということに集約されています。
 でもこの動機じたいが、深いところまで説明されていない部分がある。
 私は勝手に、「アキは海に潜る海女さんを 『カッケー』 とただ単に思った」「自分も海に潜ることで、これまでの人生とまったく違った世界を垣間見ることができた」「海に潜ることは、いわば今までの自分の自殺である。 そして新たな自分の再生である」 というように捉えています。
 そこにはアキの、変身願望というものが強く投影されている。

 けれども今回の潜水土木科編入は、これって自分の将来にまでかかわってくる判断だ、と思うんですよ。
 今週のドラマを見ている限り、先に書いたように、アキは自分の好きになった先輩と一緒にいたい理由で、ほぼこの判断をしている。
 もちろんそこには、「夏のあいだだけしか海女として潜れねえ」 という思いが横たわっているのですが、アータ潜水土木科って、海に潜ってウニ獲んじゃないのよ、土木作業すんのよ、つーか(笑)。

 これを、「若いことは何でもかんでもチャレンジできる特権がある」 とか考えちゃうと、「あ~まあ、そーね、なんでも試してみたら?」 とか言いたくなっちゃうんですが、これってつまり、大学進学の可能性を自分で潰していることになりはしないか、つーか。

 行きつくところ、「アキは大学進学をハナからしないつもりなんだ」「ここで海に潜って生きていきたいんだこの子は」 と思うのですが、

 まっいーかっ! クドカン作品だから!(笑)

 それでまあ、ちょっと下世話的な感じで論じるのもバカバカしい気はするのですが、いちおう書いとくと、やはりこういう破天荒の決断の裏には、ヒロインが抱えている闇、というものが、考えすぎかもしれないけれど見えたりするんですよ、このドラマ。

 強い変身願望、と書きましたけどね、アキって一面では、かなりシビアな性格も有している。

 たとえば、三陸にきてから初めて自分に言い寄ってきた小池徹平クン(役名・足立ヒロシ)のことを、アキは平気で 「ストーブさん」 というあだ名で呼びかけます。
 これは、ヒロシの父親である平泉成サンが自分の息子に侮蔑をこめてつけていたあだ名であります(いや、確かあだ名としてではなかったと思いますが)。

 そしてこのヒロシの求愛に対して、アキは比較的ストレートに嫌がっている。 確かにそのものずばりストレートに拒絶しているわけではないのですが。
 そのいっぽうで、「オレはこの高校の生徒全員と仲良くなる男だ」 と豪語する、いやそれは仮面ライダーだった(笑)、えーと(笑)、福士クン(役名・種市浩一)には、なんだか初対面でイージーに一目惚れしてしまっている。

 まあこれって考えてみると、今どきの女子高生が共通して持っている、シビアな異性評価判断の一環とも取れます。
 つーか、女子の直感ですよね。
 ヒロシは今のところ観光協会でひとかどの仕事を任されているけれども、どことなく根なし草っぽくて頼りがいがない。
 それに対して種市クンは、「将来は潜水土木作業員」、という目標でもってこの潜水土木科で潜っている。 未来に向かって目線が定まっている男なんですよ。
 アキは女子の直感で彼らに対する反応を使い分けている。

 そしてさらに考えられるのは、アキがヒロシの姿に、東京での自分を連想してしまうのではないか、という側面も、…まあ一応考えられる余地があるのではないか、と(自信なさげだな~…笑)。

 まあ、それだけアキの東京での人生は、なんか暗黒がかっている気がするんですよ。
 私のこの考察がもし考えすぎでなければ(笑)、ひょっとするとこの先、アキにはその暗黒面を思いっきり吐き出してしまう局面がやってくるのではないか、なんて気がしているのです。

 死んだはずだったおじいちゃん(蟹江敬三サン)が突然現れたり夏ばっぱ(宮本信子サン)が楽しかったり、キョンキョンの1980年代グラフィティが楽しかったり、まあそこらへんで笑わせてくれるだけならいいんですけどね。

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「TAKE FIVE~俺たちは愛を盗めるか~」 第1-3回 「現実離れ」 を楽しむ

 TBSの金曜10時ドラマ、「TAKE FIVE」。
 「正義の泥棒」、という、まるで 「CAT'S EYE」 みたいな題材ですが、メンバーのひとりがネコ嫌いとか、彼らを追う刑事がメンバーと面識があるとか、ちょっとかのマンガを意識しているような部分も感じられます。
 それにしてもイケてないのはその副題で、「俺たちは愛を盗めるか」(笑)。
 これで視聴者かなり失ってるよーな気がいたします(笑)。
 実際このドラマの主人公で盗賊TAKE FIVEのリーダーである唐沢寿明サン(大学で心理学の教授をしてる)の盗むポリシーが、「盗みには愛が必要だ」。
 これが見ていて少々むずがゆい。

 しかも物語冒頭から出てくる謎のホームレスのバーサン(倍賞美津子サン)(ただいま表現にフテキトーな…)がいきなり唐沢サンと接触。 そのせいで唐沢サンは長いこと解散状態だったTAKEFIVEを再起動させる、という、すごく脈絡の薄い、というか、脈絡を放棄したような、語り始めなのです。

 私が普段見ているドラマというのは、原因があって結果がある、その動機というものを重視したようなものが多いのですが、このドラマはそうした一切をわきに追いやって、強引に話を進めていきます。

 しかしそのことは逆に、映画を見ているようなテンポの良さを引き起こし、見ている側に快感を与える。
 私はいまのところ予想外にこのドラマを、エンタテイメントとして楽しんでいます。

 正直なところ、現代の日本というのは、快盗団にとっては非常にやりにくい社会システムになっている。
 街中監視カメラが据え付けてある、というのがまずその第一なのですが、そんななかでもTAKE FIVEはべつだん顔にマスクとかすることもなく、堂々と盗みを行なっていらっしゃる(笑)。
 これはことこの種のドラマに関して言えば、「リアリティがない」、と難じるよりも、「彼らはそれだけ自分たちの行動に自信を持っている」、ととったほうが面白いのです。

 しかし、ここがこのドラマのミソなのですが、彼らはいっぽうで、考えられないようなわきの甘さも露呈する。
 そのもっとも顕著な一例が、リーダーの唐沢サンが極度の下戸で、酒を一滴飲んだだけで人事不省になってしまうという(んなワキャねーか)体質であるということ。
 この唐沢サンにライバル心を燃やすのが松坂桃李クンなのですが、唐沢サンとの最初の邂逅の際、互いにお互いの財布を抜き取ったりしている。 抜き取るのはいいけど抜き取られるなんて、かなりマヌケでしょ、ドロボーとしては(笑)。

 でもそのマヌケなところさえも、わざとやってるような部分が見えたりして、その真意を探るのも、見ている側の興味の一部になってくるのです。

 そしてこのドラマを別の意味で牽引しているのと思われるのが、松雪泰子サン。 冒頭で紹介した、「彼らと面識のある刑事」 というのが彼女です。
 彼女は20年前にTAKE FIVE絡みの事件で刑事だった父親が殺され、その恨みを晴らすために刑事になっている。
 「愛のある義賊」 であるTAKE FIVEがそもそも、その殺しに関わっている、というのは、まあフツー考えにくいわけで、要するに彼女の憎しみは行き違いによるカンチガイであろーと思われるのですが、この 「茫洋としたカンチガイによる憎しみ」 のなかにいる松雪サンの佇まいが、なんともいいんですよ。
 彼女の閉ざされたその暗い表情には、この物語を深くする要素が多分に含まれている。
 ただしコミカルな描写がないわけでもないのが、またこれが楽しい。 これをあくまで暗く真面目に演じているから、コミカルな部分がウケるんですよ。

 結局TAKE FIVEの一員となった松坂桃李クンですが、彼は松雪サンを、どうも好きになっている模様。 おそらく閉鎖された心をこじ開けたい、という、「コソ泥」 としての本能が彼をそうさせているんだと感じます。
 彼女の気を引くために、桃李クンは自分がTAKE FIVEであることを彼女にいきなりばらしてしまう。 「わざと相手に手の内を見せる」、という面白さが、ここでも発揮されている。
 そして昨日放送された第3回では、警察を辞職しなければならなくなりそうな彼女のために、桃李クンはまたひと仕事遂行するのです。

 松雪サンはその動物的なカンの良さで、このひと仕事を桃李クンがやっていることに気付くのですが、しかしたぶん、それでもまだ彼女は桃李クンがTAKE FIVEだと考えていない。 「TAKE FIVEはアンタが6歳の頃に解散した」 というアタマがあるからで、少なくとも自分の復讐には関わっていない、という判断がそこにはあるんだ、と思うのですが。

 ここらへんの、盗賊と刑事の関係、というのが、また微妙で面白いんですよ。 ここらへん、ちょっと 「キャッツアイ」 みたいだなと思います。 もっとリアリティのある。 「キャッツアイ」 はあまりにマヌケすぎますよね内海刑事のほうが(笑)。

 そして再結成されたTAKE FIVEの最後のメンバーとなる、稲垣吾郎チャン。 彼は警察側の人間で、警察の人間が犯罪者側に加担する、という微妙な位置関係が、ドラマの中で最大限に活用されている気がします。
 それとやはり、「信長のシェフ」 で明智光秀をやったときにはなんだかな~と感じていたゴローチャンの演技ですが(笑)、こういう、クールでちょっとキレると怖い、という役をやらせたら、彼はもうピカイチですね。

 また、ほかのメンバーにも六角精児サンとか、なんだかワンクールで終わらせるには、少々もったいない気もしてくる顔触れだと思います。

 原因と結果を重視していないことは、時に話の整合性がイージーに陥る弊害も引き起こすのですが、こうした 「現実離れ」 を楽しむドラマがあっていいと思うし、このドラマはそのエンタメ性を、じゅうぶん兼ね備えている気がします。

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