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2013年6月23日 (日)

「家族ゲーム」 第8-10回(最終回) みんな!エスパーじゃないよ!(笑)

 ドラマの構成、というものを考えた場合、確かに最終回、ラストシーンでいちばん感動することができればそれが作り手にとっても見る側にとってもベストであることは論を待ちません。
 でも、「このドラマの作り手って、ホントはこのシーンをいちばん見せたかったのではないか」、というようなシーンに途中で出くわすこともある。

 このドラマでのそれは、第8回、それまで互いに本音をぶつけてこなかった沼田家の人々が初めて本音をぶつけ合い、その果てに家じゅうのモノを破壊し始めるシーンと、その破壊後に訪れる、なんとも気まずい、長い長い静寂のシーンでした。

 吉本荒野を名乗る田子雄大(櫻井翔クン)によって、崩壊の行きつくところまで来てしまった沼田家。

 彼らは口論の末、その怒りを、食器や大画面薄型テレビ、そしてソファ、壁紙、カーテン、カーペット、種々の賞状・トロフィーへと向けます。 納戸の棚に塗るためにあったペンキは、そこらじゅうにぶちまけられる。 彼らは無言のまま、互いに背を向けあったまま、家財道具の一切を破壊する行動を続けるのです。 リビングは瞬く間に、凄惨な 「荒野」 へと変貌する。 まるで沼田家全員の、すさんだ心のように。

 この光景はかなり衝撃的。 あまりに徹底的に続けられるばかりに、途中で見ているほうが気分が悪くなってきます。
 この光景にカタルシスを感じる、という人は稀だろうと思います(笑)。 冷静に観察すると、演じている俳優さんに、「ここまでやっていいの?」 という躊躇というか恐れが見られるような気もした(笑)。

 この破壊のきっかけとなった彼らの口論。 本音をぶつけ合う、という行為は、互いに仮面をかぶって裏で冷え切っているような関係よりも、少なくとも一歩前進だと思えなくもない。
 だが確かに一面ではそうだけれど、違うんですよ。

 彼らの言い分。
 それはすべて自分中心の尺度でしかものを考えておらず、互いに自分以外の者に責任を覆いかぶせようとする姿勢で一貫している。
 その 「心」 から見直さなければ、いくら本音がぶつかり合っても、それは不毛しか生まないものだと思うんですよ。

 家族というのは、父親と母親の結びつきによって成立している、任意の関係です。
 必然的にそこには、「素の自分」 というものを委ねられる、「甘え」 が入り込む余地が生じるように、私には思われます。
 家族の構成員は互いに、「家族だから」 という、よくよく考えてみるととても曖昧な理由によって、互いに緩やかにお互いに甘え、赦されようとする。 地のままの自分でいやすい環境、と言えるのではないでしょうか。

 その 「甘えの構造」 というものは、お互いが家族のなかで演じる役割をこなす態度によって、「責任」 というものが 「ただの義務」 にすり替わってしまう危険性を、常にはらんでいる。

 「家族のために仕事をしている」「家族のために家事をしている」「家族のためにいい成績を取る」「家族のためにいい子になる」。

 これらの動機は、互いに対する愛情とか、感謝の気持ちの上にのみ、正常に機能するものだと思うんですよ。
 夫婦は互いの愛情。 子供ができれば、その子のために頑張ろう、という気持ち。 子供は、自分を育ててくれた親へのありがたさを感じる気持ち。

 この気持ちというものは、まあ結構、養われないもんだと思うんですけどね、少なくとも私の場合(笑)。
 これが当たり前、と簡単に思ってしまうし、誰のために頑張ってんだと恩着せがましく思ってしまうし、相手の欠点ばかりが見えてしまうし。
 言うは易く行うは難し、です。 なかなかご立派な人間にはなれません。

 でも、緩やかな任意の関係で一緒に生きていくためには、「互いのため」 というのは 「ただの義務」 になってはならないものでしょう。 「責任」 の上に立った家族のなかでの 「父」「母」「子供」 という役割をこなさなければ、成立しないんですよ。

 これがいちばん分かってないのが子供でね(笑)。

 子供は親を何か特別な存在であると思いたがる傾向があるから、親がただの人間だと分かると、途端に見くびってナマイキな口をきいてしまう。
 そもそも、「親に感謝する」 ということって、子供は学ぶ機会がないですから。
 自分で感じ取る以外にないんですよ。
 で、ナマイキな態度に出たりするけど、「家族」 というものに対して、定義が曖昧なまま甘えてしまう姿勢だけは崩れることがない。 「家族だから親が子供を養うのは当然だろ」 みたいな。

 でもそれは、やはり 「甘え」。

 自分が属しているその組織に不満があるのならば、究極のところそこを出て自分で生きていけばいいだけの話でね。
 そんな度胸もないクセに、ただただ親の愛情のいいとこ取りばかり求めようとする。
 バカな息子でしたよ私も(自分のことかい)。

 でも親からしたら、どんなバカでも子供は子供でして。

 なんの話をしとるんだ?(笑)

 いずれにせよ、自分以外のものに責任をなすりつけるその態度が改まらない限り、家族に対する怒りというものは、自分以外に向かうしか行き場がないわけですよ。

 沼田家の場合、殺し合いに発展しないだけまだマシでね(すごいこと語ってんなオレも)。
 結果犠牲になったのが沼田家のリビング、というわけであり。

 家を売却することになった(確かこの席で父親の生瀬勝久サンが 「明日見積りにくる」 とか言ってなかったっけな?)のにこういう破壊行為をするとか、「なんなの?アホなの?」 とか思うんですけど(笑)、おそらくそんな前後の見境など関係なく、このドラマの作り手には、「家族というものに対する曖昧な依存関係」 に対する極度な啓発意識というものがあったように、私は感じます。

 と同時に、このリビングの壊滅状況を震災の被災地の状況と重ね合わせることも可能なのですが、「絆」 に対するぬぐいがたい不信感、というものも、実はその言葉の 「曖昧さ」 に端を発している、そんな気もしてくるのです。 定義が曖昧だから、そこに甘えようとする構造において、「絆」 も 「家族」 も一緒だろう、と。

 でもまあ、それもこれも、互いに話さなければ、何も伝わらない。

 吉本荒野(田子雄大)は沼田家の全員に、「なにも言わなくても分かるなんて、みんなエスパーなの?」 みたいに揶揄してましたけど、家族は曖昧な結びつきに甘えることなく、互いの気持ちは常に確認しておかねばならないんだ、という作り手の主張も、ここからは見えるのです(「母さん助けて詐欺」w対策のためにも?)。

 物語の内容およびこのドラマの風呂敷のたたみ方、についてですが。

 今回の 「家族ゲーム」 の特殊性は、カテキョー吉本の素性を膨らませることによって、過去の松田優作・長渕剛バージョンと決定的な差別化を図ることに成功した、と考えられます。
 ただ田子雄大が名前を借りたその本人である、吉本荒野の 「怪物性」 に関しては、かなり説明が雑。 常軌を逸しすぎてるんですよ。 その異常性が。
 どうしてそこまでするのか、どうしてそこまで出来るのか。
 田子雄大は吉本荒野の母親に、「親の責任」 というものを指摘してましたけどね。
 だから田子雄大が沼田家の長男に、「第2の吉本荒野になる可能性」 を感じた、という危惧も、どこか 「原因探し」 の無理やり感が否めない。

 さらに、田子雄大が吉本荒野を名乗る意味についてでもですが、沼田家の長男が最後にそれを 「吉本荒野に対する贖罪なんですか?」 とぶちまけていたけれども、やはりこれも、どこかで無理な定義付けをしている、という気がする。

 その理由で昔なら、ドラマとして成立していたんですけどね(笑)。
 でも今のドラマの作り手は、予定調和的な結末の向こうにあるものを、探さなければならない。

 作り手はそんなモヤモヤ感を整理するために、「これも最後まで、田子雄大が吉本荒野として仕掛けた罠だったのか?」 という含みを持たせながら、このドラマを終わらせます。 長男が漏らした疑念に、「いいねぇ…」 というあの、決まり文句を使って。

 個人的にはこの含みは要らなかったかな(笑)。
 まあこうすることで、「続編」 としての含みも残った、ということで。

 以上で~す(軽いな…)。

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コメント

いいねえ〜!

でも、なかなか、ここまで、家族を抉るお話もありませんから。

桜井くん版の家族ゲームの世界というのもちゃんと成立していたと思うし。

最後に神木くん使うなよ!って!(笑)でも、彼があのキャストの中で一番演技が出来るから!(笑)

吉本荒野として、彼が再び登場する日があるのか?贖罪って、個人的には、永遠に終わりはないもの。自分が自分を許せる時、神の審判に向かえるのかもしれません。田子雄大の贖罪の日々は、終わらないんじゃないですかね。それも、いいねえ〜!なんでしょう!軽い!(笑)


投稿: ささ | 2013年6月23日 (日) 12時04分

ささ様
コメント下さり、ありがとうございます。

このレビューあらためて読み返してみて、「なんかけなしてるみたいだな」 と思ったのですが、書いてるときはそのような気分はまったくなし。 却ってこのドラマの作り手の気持ちになっていました。

神木隆之介クンが最後に、「アンタをぶん殴りに来た」 という話というのは、あらたに始まった 「正常な」 家族のなりわいのなかから生まれた発想にしてはいかにも不自然に思えたし、田子雄大としてどうして生きられないのか、という櫻井翔クンへの怒りも、「こういう形で展開するのはちょっと無理っぽいな」 と。 で、最後に 「ありがとうございましたっ!」 でしょ。 ちょっとクサイかな、と。
これて、まるで自分が、「このドラマをどうやって終わらせよう」 と考えながら、脚本家の気持ちで考えた感想だ、と言えなくもないのです。 不遜ですけどね。

そしてエンディングが、「実は解決していませんでした」 パターン。 昔からよくありますよね、マイケルの 「スリラー」 で、「これは夢だった」、と思わせといて、ラストでマイケルが、こっちを向いたらネコ目で不気味に笑ってた、みたいな(笑)。 ここらへん、局側から 「続編の含みを持たせといて」 と依頼されたエンディングのような気もするんですよ、意地悪な見方ですが。

でも全体を見ていて感じるのは、やはり櫻井クンのドラマとしては、個人的に最後まできちんと初めて見ることのできたドラマだったし、それだけのレベルの高いドラマだった、ということです。

いや、かなり突出して傑作だった、櫻井クンのドラマの中では。

このドラマの眼目というのは、やはり瓦礫の中から呆然としながら、再び歩み出す沼田家の姿だったと思うし、結果的に 「破壊することで再生する」 という、「家族ゲーム」 というお話が共通して持っているテーマを、現代的に蘇らせていた、と思うのです。

あ~あ、しちメンド臭いこと考えてますね、私も(笑)。

投稿: リウ | 2013年6月24日 (月) 11時08分

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