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2013年6月

2013年6月30日 (日)

「あまちゃん」 第8-13週 夢中になれる、ということ

 主役の能年玲奈チャンが使っているガラケー。 たぶんパナソニックのビエラケータイですよね。 色もなにも、私が現在使用してるのと同型。

 さて、久々の 「あまちゃん」 レビューです。
 「あまちゃん」、かなり人気が出てまいりましたね。 テーマ曲やサントラの売り上げとかダウンロードが好調であるとか、「ぴったんこカンカン」 で採り上げられるとか、メディアミックスが始まっている印象です。 こうなるとドラマを中心とした流れが巻き起こるもので、「一大ブーム」 と呼ばれる現象へと発展していくものです。

 先週の某週刊誌連載では、クドカンサン、「『あまちゃん』 の執筆あと3回」、と書いていたので、もうラストまで仕上がっていることでしょう。 お疲れ様です。

 このドラマの最も原初的な 「つかみ」 というのは 「じぇじぇ!」 という感嘆句にあることだと思うのですが、「ゲ!」 を 「じぇ!」 に置換しただけのように思えるこの方言、ドラマ開始当初から 「こんな方言はない」 という話題が持ち上がっていた。
 私が 「朝ドラ」 につねに付きまとっているように感じるのは、このような 「重箱の隅ツッツキ感覚」。 毎朝見る習慣性の高いものであるせいか、かなり 「姑感覚」 で見る視聴者が多い気がするんですよ。 登場人物にちょっとでもおかしいところがあると文句を言いたくてしょうがない。

 それが今回はかなり少ないと感じるのですが、よくよく観察してみると、主人公アキの行動パターンって、私はかなり常軌を逸しているところがある、と感じます(もともと宮藤官九郎サンのドラマの登場人物って、みんなこうなんですが)。

 最初にそれを感じたのが、アキがイケメンの先輩にあこがれて普通科から潜水土木科に編入してしまう、という展開。 そこから 「ナマリすぎる海女」 として人気が出ていき、2000万円もの融資を取りつけて 「海女カフェ」 を建てる、という展開にも面食らいました。 「高校生の分際で自分のアイディアを実現させるためにこれほどの大金を動かすことに躊躇はないのか?」 という感じで。
 果ては今回、アイドルになるために上京、という決断をしてしまうところ。

 そもそもこの天野アキ、東京では「協調性も…(ナンダッケ?以下省略)」 なにもなくてドン暗のポエムを書いたりという高校生活を送っていたというのに、どうして三陸ではこれほどハッチャケているのか(ときに、「ズケズケ言いすぎだな」 と感じることもある)。
 これは、アキがこの場所で自分は生まれ変われる、と感じただろうからで、そのいちばんの武器として、アキは地元の 「訛り」 を積極的に使っている。 「訛り」 そのものがアキにとって、仮面ライダーに変身できる 「マジックスペル」 なんですよ。
 「海に潜りたい」 という衝動も同様で、「海」 というのは別世界の象徴。 自分をリセットできる巨大な力を有している。
 三陸の人々の精神的なおおらかさ、という点でもやはり大きなものがあると思いますね。 ズケズケものを言うことに躊躇がない。 都会じゃ腫れ物に触るようなことも、なんでも忌憚なく言い合えるアバウトさ、というものもある。

 それほどまでに彼女は東京を嫌い、東京での自分を忌避してきたわけですが、今回の 「東京編」 では、アキはそこらへんの葛藤を克服しないまま 「エイヤッ」 という感じで上京しちゃってる。 じっさい今週、東京でのいじめっ子に出会ったアキはかなり 「昔モード」 で別人のようでした。

 ことほどさようにアキの行動は場当たり的で結果オーライ的で、姑の常識的な感覚で見てると 「なんだこのムスメは」 という感じなのですが、でもそれが気にならない。

 それはこのドラマの構成要素に 「ギャグ」 という側面が深く関わっていることと無関係ではない。 要するに 「笑えるからそこらへんの欠点が解消してしまう」、ということなんですが、このギャグの性格は多岐にわたっていて、「著作権の関係上お見せすることができません、ってもともと作ってないでしょ!」 とか 「水口、いつからいたんだよ!ってみんな気付けよ!」 みたいな、フツーのお笑い的な感覚と同時に、1970~80年代の知識がないと分からない懐古趣味をまぶしたものも多いことが大きな特徴だと感じます。 「都会の絵の具に染まってしまった」 とか、「木綿のハンカチーフ」 を知らなきゃ笑えないギャグでしょ。 ここらへん、現在中年世代の心をいつの間にかつかんでしまうわけですよ。

 しかしきちんと締めるところは締めている。
 クドカンサンのドラマって、マジメなことを登場人物に語らせると、必ずあとで 「でもこーだけどね」 みたいなチャチが入る。 彼の 「真面目感覚」 というものは常にどこかに 「照れ」 みたいなものがあって、それが一種の 「はぐらかしによる快感」 を呼び起こしている作用があるのですが、先週の 「故郷編」 の終盤で夏ばっぱ(宮本信子サン)に、長年娘の春子(小泉今日子サン)に抱いていた申し訳なさをマジメに謝らせたとき、この 「チャチ」 が入らなかったんですよ。
 「ここでチャチが入ってしまうと、夏ばっぱの申し訳なさが春子に完全に伝わらないし、これでは故郷編の決着がつかない」、とクドカンサンは判断したんでしょうね。

 ここで春子はそれまでずっと 「夏さん」 と呼んでいた自分の母親を、初めて 「お母さん…」 と呼ぶのですが、これも一種の 「感動を呼ぶ小道具」 みたいなもので、ドラマ開始以来一貫してツンケンしていた春子の心を氷解させる、「故郷編」 大団円の呼び水としている。

 そして若かりし頃の春子が故郷を出る時にも、鉄道の絶景ポイントで大猟旗を振っていた、という夏ばっぱのエピソード。 これが感動のダメ押しなのですが、今回アキが東京に行く時も、夏ばっぱはやはり同じポイントで、大猟旗を振るのです。
 「ハテ?どこかで見たよーな」 みたいなエピソードですが、確か 「ちりとてちん」 の時もこんな場面があった気がします。 もしかしてクドカンサン流のオマージュなのかもしれません。

 この夏ばっぱの行動に気付かなかった昔の春子と、気付いたアキ。 「春子がこのことを勉サンから知った時点で、アキにケータイで連絡すべきだろう」 とも思ったのですが、クドカンサンはあえて(?)そのことをしません。
 おそらくこれは、夏ばっぱのメッセージが届く、ということが最良のことではない、ということなのかもしれない。 「なんでも都合よく心が伝わる」 ということに対するクドカンサン自身の懐疑がそこにあるのかもしれない。

 そしてアキの破天荒な行動に対してもうひとつ言えること。

 彼女の行動には、常に 「夢中になれることに向かって突き進めるのは、若さの特権だから」 というクドカンサンの思いが託されているように感じることです。

 若いからこそ、いろんなことにチャレンジできる。

 だからいくらアキが、場当たり的な感情で自分の進む道を決めていっても、「アキがそのことに夢中になれるのだからいいではないか」、という気がしてくるのです。
 そりゃ節操ないですよ。 なんかお稽古ごとを3日でやめるみたいで。 来週は薬師丸ひろ子サンの付き人をやるみたいだし。

 でも、なんだかんだと迷う前に、やりたいことをやりゃいいじゃないか、と。
 みんな不景気だとかそんなに簡単に夢がかなうはずないとか、マイナス要因ばかり考えて自分の好きなことを自分で限定しすぎていないか。
 そりゃ常識的なこととか分相応のこととか、考えることも必要ですよ。
 でもあまり分別つき過ぎたら、かえって自分の人生つまんなくなるんじゃないか。
 お年玉をもらって貯金するとしか考えられないなんて、堅実すぎてつまんない。
 もっとパーっと、人生楽しもうよ。

 そんな思いが、ドラマから伝わってくるような気がするのです。

 このドラマを見て元気が出るのは、全編に渡ってギャグタッチで、朝から楽しい気分になる、という要因も大きいのですが、やはりヒロインが若さにまかせて突っ走っている、という印象によるものが大きいのではないか、という気がします。

 この勢いが、「ドラマによる被災地の復興」、というNHKの大義名分と、しっかりマッチしている。 「あまちゃん」 ブームの到来というのは、すなわち被災地の活性化に直につながっているわけですよ。

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2013年6月28日 (金)

「激流~私を憶えていますか?~」 第1回 不思議感覚の 「十五の君へ」

 (初出時より若干手直ししました)

 NHK火曜のドラマ10。 結構リタイアすることが多いのですが、今回は面白そう。

 まずは冒頭から。

 どうやら文芸誌の編集者をしてるらしい主人公の田中麗奈サン。
 個人的にこの人のお顔を拝見するのはだいぶ久しぶりなので、私の記憶の中ではこの人は 「がんばっていきまっしょい」 のころの、眉毛に特徴のあるあどけない顔のまま。 「こんな大人になったのね」 という感想もそこそこに、彼女は作家の原稿を取りに、東京駅から京都行きの新幹線に乗ろうとするところ。
 そこに夫からケータイにメールが入り、どうやら離婚調停中だということが分かる。 そして座席に座ろうとすると、隣には山本耕史サン。 フツーだったら、「あれ?もしかして山本耕史サン?キャー」 というところなんでしょうけど(笑)、ドラマだからそういうことはない(当たり前だ)。 ただこのふたりが偶然一緒の席であるワケがないはずで(笑)、山本サンは彼女が京都行きでいつも思い出す、ある事件の当事者である。 このふたり、中学時代の友人グループなんですよ(最初のうちは気付かない、20年ぶりだから)。

 彼女が思い出す事件というのは、20年前、15歳の中学校の修学旅行のとき、友人グループのなかのひとりであった「小野寺冬葉」 という女の子が、グループ行動中に忽然と姿を消してしまった、というもの。

 ありていに言えばそれは 「失踪事件」、行方不明事件、なのですが、なにしろドラマでのこの少女のいなくなりかたが、ちょっとSFがかっている。
 一緒のバスに乗っていたこのグループ。 バスはやっと一台が入れるようなトンネルに吸い込まれていく。 周りの景色が暗くなり、冬葉は自分の顔が窓ガラスに映るのをじっと見ている。 そこから画面は不自然に緊張の度を増していき、バスがトンネルをくぐり抜けたとき、冬葉はいなくなってしまっているのです。

 この状況から見る側が考えてしまうのは、「トンネルの中」 という異世界の持つ不思議な感覚です。 要するに科学では説明のできない霊的なもの。 簡単に言ってしまうと、「これ、神隠しでしょ」。 「千と千尋」 もトンネル入ってたし(笑)。

 ドラマがこういう説明の仕方をしているから、私なんかも 「このドラマは 『ウルトラQ』 みたいな超科学ミステリーだ」 と考えてしまう。 こういう 「X-ファイル」 みたいなの好きですからね自分。
 さらに言えば、このドラマのいかにも中途半端チックなSFタッチ(笑)というのは、私が小学生のころ夢中になって見ていた、「少年ドラマシリーズ」(NHKで月-金で夕方6時からやってた)を想起させるのです。

 これじゃ食いついちゃうよ(笑)。

 こういう 「超常的な」 現象が起点となっているから、このお話で田中麗奈サンと山本耕史サンが20年ぶりに、新幹線の中で隣り合わせになった、という 「ありえへん」 ぐーぜんも、にわかに説得力が増してくる。 「冬葉が引き合わせたのかな」、という感覚です。

 ところが、話は急に殺人事件が絡んできて、いきなりワケが分からなくなる。 それまでやってたナレーションが、田中サンから急に男の人に変わるからです。 これを、山本サンの声かなと思った私は混乱して(笑)。

 そのナレーションの主は刑事の桐谷健太サン。 彼がまた、田中サンの友人グループのひとり。 彼が犯人を追う、ある殺人事件に参考人として絡むのが、これまた、かの友人グループのひとりであるともさかりえサン。

 ぐーぜんすぎだっての(笑)。

 でもこれが、「冬葉が引き合わせた」 と考え出すと、途端に不自然じゃなくなるんだなァ。 うまいですよ、こういう接点の作り方。 群像ドラマって、「ふぞろいの林檎たち」 でも 「男女7人」 でもそうなんだけど、大勢を一緒に行動させるのって、かなり話が無理やりになる危険性がいつもあると思うんですよ。 このドラマはそれを克服してる。

 で、彼らはこの殺人事件がもとで、再び出会うような方向に動いていくわけですが、それを決定的にさせたのは、冬葉から届いた 「私を憶えていますか?」 という一行のメール。

 ますますミステリー仕立てじゃないですかァ。

 「冬葉からこんなん届きましたけど」 と集まったグループのメンバー、もうひとりは、国仲涼子サン。 どうも今じゃ高級売春をやってセレブの暮らしを食いつないでいる感覚です。

 この、中学時代の友人グループ。

 実はこの国仲サンと同じように、みなそれぞれに中学卒業後、いろんな 「人に言えない」 人生を送ってきている。 桐谷サンだけはそんな感じには見えないけど。
 ともさかサンは歌手兼作家になって麻薬事件を起こしてくすぶり中。 山本サンもなんか家庭に事情がありそう。

 こういう、15の時の自分を強烈に対比してしまうようなドラマの語り口は、結局このドラマを見ている自分に 「自省」 として跳ね返ってくる性格のものであり。

 あの頃の自分は汚れてなかった。

 あの頃、世の中は自分にもっと優しかった。 こんなにややこしくなかった。

 そりゃ、悩みもあったし限界も感じていましたけどね。

 このドラマの吸引力というのは、この 「不思議感覚」 という部分と、「自分の過去との対話へのいざない」 という部分で成り立っているような気がします。

 「不思議感覚」 という部分で言うと、冒頭田中サンが京都くんだりまでわざわざ出向いて受け取った、女流作家さんからの原稿。
 この女流作家は高畑淳子サンが演じているのですが、この人出てくると、なんか笑っちゃうんだよなァ(ハハ…)。 これってどーにかなんないものでしょーか?(笑)
 それはそれとして、この作家さんの原稿は手書きであるため、わざわざ取りに行く必要があったのですが、今度は田中サン、これを紛失してしまう。
 これって大昔の朝ドラで藤田朋子サンがやってた編集者 「ノンちゃん」 みたいなアホの権化みたいなヘマじゃなくて(笑)、きちんと管理していたのになくなった。

 これも 「不思議感覚」、といったところなのですが、その原稿はなんだか、誰かに盗まれて、赤ペンで大々的にダメ出しした状態で高畑淳子サンのもとに送り返されたらしい。 怒り狂う高畑サン(笑)。 高畑サンはこうじゃなくちゃ(なにを期待しとるのだ?)。

 つまりこれは 「不思議」 ではなくて誰かの陰謀だったみたいですが、そこに絡んできたのが、田中サンと離婚調停をしている同業者の夫。
 この夫の愛人がですね、売れっ子の女流作家で、この作家が今度田中サンの文芸誌に連載を始めるにあたって、田中サンを排除しなきゃヤダとかゴネてきたらしい。
 それと高畑サンの原稿との因果関係は今のところ分からないけれども、こっちのドロドロにも興味がそそられる(悪趣味だ…)。

 なんか面白いそうだぞ、このドラマ。

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2013年6月25日 (火)

「坂崎幸之助・吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」 竹内まりやサンの女子会ノリ

 スペシャルウィーク(聴取率調査)でもないのにいきなりのスーパーゲスト。 個人的にはこないだの堂本剛クンよりすごいなと思う(失礼)竹内まりやサンの登場です。

 なにぶん仕事中だったので途切れ途切れにしか聴けませんでしたが、ここで展開される3人のトークを聴いていてまず抱いたのは、奇妙な高揚感。
 つまり、構造的にはやはり、吉田拓郎サンというのは御大で、坂崎サンと竹内サンというのは年下で同学年、という上下関係が成り立っている。 ミュージシャン歴、という点においても。
 坂崎サンと竹内サンにしてみれば、高校時代から吉田サンというのは、「雲の上の存在」「あこがれの存在」 なわけですよ。 だから話がすごく合う。

 これはちょっと意外でもあるんですが、竹内サンってワタシ的には、アメリカン・ポップスとかが中心であまり日本のフォークミュージックなどに興味がないのかな、と思っていたらそうじゃないんですね。 学生時代に松江で、ごくごく初期の拓郎サン(エレックレコード時代)の出てくるステージを見に行くほどの濃いファンだったらしい。

 いっぽう拓郎サンにしてみれば、竹内サンは後発のミュージシャンではあるけれども、iPodに竹内サンが歌った 「ボーイ・ハント」 なんかが入っていて、「竹内まりやはコニー・フランシスよりすごい」 というリスペクトを持っている。 どうやら中島みゆきサン同様、女性としての魅力にも参っているようです。 おそらくその声が低いところも気に入ってるだろうし、彼女の持つ母性、みたいにものに惹かれているのではないか、と感じる。

 それが番組構造的にいつも 「オマエ、バカヤロー」 とけなして転がしているような坂崎サンと同等に、自分をリスペクトしてくるわけですから、どことなくちょっとした優越感を抱くと同時に、仲間外れにされているような疎外感も同時に抱いている感覚なんですよ、拓郎サン(たぶん坂崎サンに対する嫉妬もある…笑)。

 この構造って面白いな、と思ったのが最初。

 そして想像したのは、「これって同窓会的な集まりで、昔やはり拓郎サンに心酔していた自分の友人たちと、『あの頃の拓郎ってすごかったよな』 みたいな話をしていたら、実は本人が隣りで酒を飲んでいた、みたいな感覚だよな」、ということ。
 でもそれだけじゃない。
 拓郎について語り合っている者たちも、実はひとかどの名をなしたミュージシャンである、ということ。 だから技術的な面とかもかなり専門的に話ができるんですよ。 竹内サンが 「拓郎のあの曲のギター、ロックっぽい」 とか言うと、「ギターを抱えたライナス」(あ、私が坂崎サンに名づけたアダナです…笑)坂崎サンがすかさず、「ある雨の日の情景」 とか弾いちゃうわけですよ。 拓郎サンはそれを聴きながら、いつもは 「坂崎オマエはこうせつ派だろう」 と言いながらベランメエ調で解説してるんですが、それをお気に入りのまりやサンという女性の前で、いつもより優しく解説してくれる(笑)。

 自分が感じた高揚感の正体というのは、おそらくこれです。

 で結局、竹内まりやサンと坂崎サンの源流には、ビートルズというものがあって、これも私を意味もなく高揚させる要因になっている(笑)。 やはりビートルズについて語らせると、「オレも仲間に入れろ」 と泉谷サン並みに(笑)乱入したくなるもんで。

 先週までの放送で、拓郎サンはまりやサンにも、いつものラジオドラマをさせようと意気込んでいたみたいでしたが(笑)、まあ内容が内容なために今回それはなかったみたいです(私が聞いていない時間帯にそれがあったとしたらスミマセン)。
 なんたってあのラジオドラマ、坂崎サンがモンゴル出身のゲイの相撲取りで…みたいなハチャメチャな設定ですから(爆)。

 竹内サンは今回、拓郎サンと坂崎サンと一緒に歌おうと、彼女お気に入りの拓郎サンの歌 「どうしてこんなに悲しいんだろう」 のコーラス振り分けアレンジみたいなものを作成してきたらしくて、11時台初めにそれを3人で披露しました。 拓郎サンは 「こんな勝手に仕切ってくるゲストは初めてだ」 みたいに呆れてましたが、この3人のハーモニーには正直、ノックアウトされますね。 仕事を一時中断して聴き惚れました。 これ、You Tubeにアップされたら録音したい(「著作権上の理由によって禁じられ」 てはいないよね?…笑)。 切れ切れ聴取なので未確認ですが、ここでのハーモニカは竹内サンが吹いたらしい。 拓郎サンは竹内サンがハーモニカを持ってきたのを見て、自分が吹くのかと思ったとしゃべってましたけど。

 竹内サンは1時間50分の放送中、ほぼ1時間40分くらいまで出ていらっしゃいましたが、竹内サンが帰ったあとに拓郎サンと坂崎さんはしみじみ、彼女はしゃべるのが好きなんだな、と語り合っていました。 夫の山下達郎サンともしょっちゅう何かとしゃべり続けているらしいんですよ。 山下サンもかなりのしゃべり好きですから、夫婦の会話が途切れることは基本ないんでしょうね。

 イントロクイズではしゃいだり、そのしゃべり好きの女子会ノリで、昨日のオールナイトは終始楽しかったです。 坂崎サン単独の別の番組でゲストに来てくれてもいいな、と思ったくらい。 何せ坂崎サンと竹内サンは、安井かずみサン(ズズ)と加藤和彦サン(トノバン)夫妻つながりなんですよ。 加藤和彦サンのモノマネができると聞くとすかさず加藤サンの 「不思議な日」(名曲です)をリクエストする竹内サン。 坂崎サンがいつものノリで加藤サンのモノマネを披露すると、ウケるウケる。

 でもやはり、ふたりよりも三人。 目の前に拓郎サンがいてこそのこのゴージャス感ですよ。

 堪能いたしました~。

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2013年6月24日 (月)

「空飛ぶ広報室」 最終回 「だけ」 見て

 このドラマ、第1回目の最初の10分間だけ見て、登場人物たちの人物描写の浅さに辟易し、リタイアしていました(不遜な書きっぷりはなにとぞご容赦ください)。
 でもこのブログにお越しくださるかたがたの評判がヤケによろしく、しきりに見ることを勧められたので、最終回だけ見ました。
 その感想。

 どうしてこんなのにみんな感動するのか分からない!

 うっそぴょ~ん(ハハ…)。

 実は私が第1回10分余りでとても違和感を持ったのが、今のギャグみたいな自衛隊員の不自然なまでの明るさと、逆にガッキーの不自然なまでのトゲトゲ感。
 その後皆さんに勧められて、たま~の日曜休みのときにちょろっと見ると、柴田恭兵サンが 「稲ぴょ~ん」 とかやってるし、「なんじゃコリャ、こんなののどこがいーのだ」 の連続で(笑)。
 特に綾野剛サンは、同時期展開している 「八重の桜」 で悲劇の藩主を演じているのでこのドラマでの 「空井」 のキャラには面食らってばかりで。 しかも名前 「空井」 でしょ。 空井が空飛んで、じょーだんかよ、みたいな。 名前オチのネタって好きじゃないんだよ(ハハ…)。
 ガッキーはガッキーで、テレビ局内で都落ちしたらしくグルメ情報番組に政治番組並みのこだわりを捨てず、「見苦しいヤツだ」 という初見の評価で定着。 テレビ局の安直な描写も見ていて不快で。

 ところが最終回のガッキーは、第1回の時のガッキーよりもかなり成長した模様(当たり前か…笑)。 「任せることで生まれる責任感もある」 と、後輩の女の子を観察し、取材先とのトラブルを未然に防いでいる。 ただまあ、最終回を見進めていくと、ガッキーも転がる石が丸くなるように、かなりいろいろあったからこそ今の自分があるようです(別にあらためて見たくもないけど…わわっ、石投げないで!)。

 そして気付くのは、登場人物たちがことごとく、最初はチャラいのですが、いきなりシリアスモードに転換して本音をしゃべること。 最初のチャラさで投げてしまっては、このドラマのいい部分につき当らないんですね。

 でもそれでもあえて言わせていただくと、やはりこの緩急の加減は激しすぎる、と感じますね。
 そこがハマリポイントなのは分かるのですが。 私みたいなメンド臭いヤツは、なんかイラっとくるんですよ、こういうプラマイゼロみたいなの。 「普段はオチャラケてるけど、決める時ゃ決めるぜ」 みたいなの。

 でもまあ見進めていきますと、震災当時に松山基地の戦闘機を津波からどうして救えなかったのか、という話とか、普段のニュースでは分からないようなことも教えてくれたりする。
 そして報道する側の心の葛藤、というものも浮き彫りにしてくれる。

 これらは、当事者でないと分からない心の推移だと思います。 私なんぞも簡単に、マスコミのモラルとか商業主義とかを簡単に批判してしまう傾向がありますけど、マスコミの人たちというのは、大震災のニュースを流すのだって、私たちよりずっと眼前で対象物を見ているわけです。 そのニュースを当事者ではない視聴者が見て、「気持ちが暗くなる」「トラウマになる」 だの 「流す必要がどこにあるのか」 だの、そんなクレームをテレビ局に言う資格なんかない。
 自衛隊の人々にとっても、滑走路の点検に時間がかかるとか、それは確かに言い訳かもしれませんよ。 でも彼らも、組織で動いている以上、ひとり勝手に戦闘機を飛ばせることなんかできないんですよ。 そりゃ数千億円とか高い授業料だったかもしれないけれど、この 「未曾有の」 災害から得た教訓、これは未来に生かしてほしい性格のものなのであります。

 ガッキーが松山基地周辺の取材を進めていくなかで印象的だった話。 それは、ブルーインパルスが戻ってきて、その騒音がたまらなくうるさいけれども、あの日以来静かだった空に、日常が戻ってきた気がしてうれしかった、という避難所のオバサン達の声です。

 これも考えようによっちゃ自衛隊に都合のいい話かもしれない。 私の住んでいるところは戦闘機の騒音なんてないけれども、あれはかなりうるさいですよ。 厚木基地の近くで仕事をしていたからよく分かります。 あれは暴走族の比じゃない。
 でも、暴走族は自分勝手を撒き散らしているけれども、戦闘機は自分たちの安全を守ってくれている、という信頼感が、どこかにある。

 だからなのでしょう、この最終回、ブルーインパルスの訓練飛行に 「非正規で」 集まった人々の、ブルーに向けた歓声と、それに応えるかのように飛行機雲を空に描いていくブルーを見たときは、知らず知らずに涙が…。

 そこに同時展開するのが、なんか知らんけど(笑)震災を機に2年間別れたっきりになっていた、ガッキーと容保公ちゃうちゃう空井一尉の、恋が成就する瞬間。

 あのチャラさ全開の柴田恭兵サンが、「諦めてほしくない!」 とマジ本気で叫ぶことで、空井一尉の気持に火がつくわけですね。

 このカップル、互いに持っているものが重たすぎて互いに別の人生を歩んだほうがいい、という結論で落ち着いていたわけですが、やはり互いを思う気持ちには勝てない。 容保公ちゃうちゃう空井一尉が 「幸せにできるかどうか分からないけれど…」 と言うと、ガッキーが 「私の幸せは、自分で決めます!」。

 重たいものを背負ってるのは誰しも同じ。 しかもあの大震災があったのだから、普通の人よりも余計にそれは重たいでしょう。
 でもこのふたりには、常に未来を見据えていてもらいたい。 柴田恭兵サンの思いは、震災に遭われた人々に対する、エールでもあるんですよね(最終回だけ見て知ったかぶりですけど)。

 そしてさわやかなエンディング。

 まあ、最初からちゃんと見ていれば…とまでは思いませんでしたが(半分負け惜しみもある…笑)、ドラマを見終わってサワヤカーになる、という点では、とてもよく出来たドラマだった、と私も思いましたです。

 最終回しか見ませんでしたけどね(シツコイ…)。

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2013年6月23日 (日)

「家族ゲーム」 第8-10回(最終回) みんな!エスパーじゃないよ!(笑)

 ドラマの構成、というものを考えた場合、確かに最終回、ラストシーンでいちばん感動することができればそれが作り手にとっても見る側にとってもベストであることは論を待ちません。
 でも、「このドラマの作り手って、ホントはこのシーンをいちばん見せたかったのではないか」、というようなシーンに途中で出くわすこともある。

 このドラマでのそれは、第8回、それまで互いに本音をぶつけてこなかった沼田家の人々が初めて本音をぶつけ合い、その果てに家じゅうのモノを破壊し始めるシーンと、その破壊後に訪れる、なんとも気まずい、長い長い静寂のシーンでした。

 吉本荒野を名乗る田子雄大(櫻井翔クン)によって、崩壊の行きつくところまで来てしまった沼田家。

 彼らは口論の末、その怒りを、食器や大画面薄型テレビ、そしてソファ、壁紙、カーテン、カーペット、種々の賞状・トロフィーへと向けます。 納戸の棚に塗るためにあったペンキは、そこらじゅうにぶちまけられる。 彼らは無言のまま、互いに背を向けあったまま、家財道具の一切を破壊する行動を続けるのです。 リビングは瞬く間に、凄惨な 「荒野」 へと変貌する。 まるで沼田家全員の、すさんだ心のように。

 この光景はかなり衝撃的。 あまりに徹底的に続けられるばかりに、途中で見ているほうが気分が悪くなってきます。
 この光景にカタルシスを感じる、という人は稀だろうと思います(笑)。 冷静に観察すると、演じている俳優さんに、「ここまでやっていいの?」 という躊躇というか恐れが見られるような気もした(笑)。

 この破壊のきっかけとなった彼らの口論。 本音をぶつけ合う、という行為は、互いに仮面をかぶって裏で冷え切っているような関係よりも、少なくとも一歩前進だと思えなくもない。
 だが確かに一面ではそうだけれど、違うんですよ。

 彼らの言い分。
 それはすべて自分中心の尺度でしかものを考えておらず、互いに自分以外の者に責任を覆いかぶせようとする姿勢で一貫している。
 その 「心」 から見直さなければ、いくら本音がぶつかり合っても、それは不毛しか生まないものだと思うんですよ。

 家族というのは、父親と母親の結びつきによって成立している、任意の関係です。
 必然的にそこには、「素の自分」 というものを委ねられる、「甘え」 が入り込む余地が生じるように、私には思われます。
 家族の構成員は互いに、「家族だから」 という、よくよく考えてみるととても曖昧な理由によって、互いに緩やかにお互いに甘え、赦されようとする。 地のままの自分でいやすい環境、と言えるのではないでしょうか。

 その 「甘えの構造」 というものは、お互いが家族のなかで演じる役割をこなす態度によって、「責任」 というものが 「ただの義務」 にすり替わってしまう危険性を、常にはらんでいる。

 「家族のために仕事をしている」「家族のために家事をしている」「家族のためにいい成績を取る」「家族のためにいい子になる」。

 これらの動機は、互いに対する愛情とか、感謝の気持ちの上にのみ、正常に機能するものだと思うんですよ。
 夫婦は互いの愛情。 子供ができれば、その子のために頑張ろう、という気持ち。 子供は、自分を育ててくれた親へのありがたさを感じる気持ち。

 この気持ちというものは、まあ結構、養われないもんだと思うんですけどね、少なくとも私の場合(笑)。
 これが当たり前、と簡単に思ってしまうし、誰のために頑張ってんだと恩着せがましく思ってしまうし、相手の欠点ばかりが見えてしまうし。
 言うは易く行うは難し、です。 なかなかご立派な人間にはなれません。

 でも、緩やかな任意の関係で一緒に生きていくためには、「互いのため」 というのは 「ただの義務」 になってはならないものでしょう。 「責任」 の上に立った家族のなかでの 「父」「母」「子供」 という役割をこなさなければ、成立しないんですよ。

 これがいちばん分かってないのが子供でね(笑)。

 子供は親を何か特別な存在であると思いたがる傾向があるから、親がただの人間だと分かると、途端に見くびってナマイキな口をきいてしまう。
 そもそも、「親に感謝する」 ということって、子供は学ぶ機会がないですから。
 自分で感じ取る以外にないんですよ。
 で、ナマイキな態度に出たりするけど、「家族」 というものに対して、定義が曖昧なまま甘えてしまう姿勢だけは崩れることがない。 「家族だから親が子供を養うのは当然だろ」 みたいな。

 でもそれは、やはり 「甘え」。

 自分が属しているその組織に不満があるのならば、究極のところそこを出て自分で生きていけばいいだけの話でね。
 そんな度胸もないクセに、ただただ親の愛情のいいとこ取りばかり求めようとする。
 バカな息子でしたよ私も(自分のことかい)。

 でも親からしたら、どんなバカでも子供は子供でして。

 なんの話をしとるんだ?(笑)

 いずれにせよ、自分以外のものに責任をなすりつけるその態度が改まらない限り、家族に対する怒りというものは、自分以外に向かうしか行き場がないわけですよ。

 沼田家の場合、殺し合いに発展しないだけまだマシでね(すごいこと語ってんなオレも)。
 結果犠牲になったのが沼田家のリビング、というわけであり。

 家を売却することになった(確かこの席で父親の生瀬勝久サンが 「明日見積りにくる」 とか言ってなかったっけな?)のにこういう破壊行為をするとか、「なんなの?アホなの?」 とか思うんですけど(笑)、おそらくそんな前後の見境など関係なく、このドラマの作り手には、「家族というものに対する曖昧な依存関係」 に対する極度な啓発意識というものがあったように、私は感じます。

 と同時に、このリビングの壊滅状況を震災の被災地の状況と重ね合わせることも可能なのですが、「絆」 に対するぬぐいがたい不信感、というものも、実はその言葉の 「曖昧さ」 に端を発している、そんな気もしてくるのです。 定義が曖昧だから、そこに甘えようとする構造において、「絆」 も 「家族」 も一緒だろう、と。

 でもまあ、それもこれも、互いに話さなければ、何も伝わらない。

 吉本荒野(田子雄大)は沼田家の全員に、「なにも言わなくても分かるなんて、みんなエスパーなの?」 みたいに揶揄してましたけど、家族は曖昧な結びつきに甘えることなく、互いの気持ちは常に確認しておかねばならないんだ、という作り手の主張も、ここからは見えるのです(「母さん助けて詐欺」w対策のためにも?)。

 物語の内容およびこのドラマの風呂敷のたたみ方、についてですが。

 今回の 「家族ゲーム」 の特殊性は、カテキョー吉本の素性を膨らませることによって、過去の松田優作・長渕剛バージョンと決定的な差別化を図ることに成功した、と考えられます。
 ただ田子雄大が名前を借りたその本人である、吉本荒野の 「怪物性」 に関しては、かなり説明が雑。 常軌を逸しすぎてるんですよ。 その異常性が。
 どうしてそこまでするのか、どうしてそこまで出来るのか。
 田子雄大は吉本荒野の母親に、「親の責任」 というものを指摘してましたけどね。
 だから田子雄大が沼田家の長男に、「第2の吉本荒野になる可能性」 を感じた、という危惧も、どこか 「原因探し」 の無理やり感が否めない。

 さらに、田子雄大が吉本荒野を名乗る意味についてでもですが、沼田家の長男が最後にそれを 「吉本荒野に対する贖罪なんですか?」 とぶちまけていたけれども、やはりこれも、どこかで無理な定義付けをしている、という気がする。

 その理由で昔なら、ドラマとして成立していたんですけどね(笑)。
 でも今のドラマの作り手は、予定調和的な結末の向こうにあるものを、探さなければならない。

 作り手はそんなモヤモヤ感を整理するために、「これも最後まで、田子雄大が吉本荒野として仕掛けた罠だったのか?」 という含みを持たせながら、このドラマを終わらせます。 長男が漏らした疑念に、「いいねぇ…」 というあの、決まり文句を使って。

 個人的にはこの含みは要らなかったかな(笑)。
 まあこうすることで、「続編」 としての含みも残った、ということで。

 以上で~す(軽いな…)。

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2013年6月22日 (土)

「雲の階段」 第6-10回(最終回) みずからの居場所

 医師免許を持たない医者(長谷川博己サン)が総合病院の副院長までのぼりつめていき、ついには破滅するこのドラマ。 そのサスペンス仕立ての作りは緊張感に満ち溢れていて、私もずいぶん引き込まれて見ていました。
 しかし視聴率が悪くて回数が削られたのか、オーラス2回のストーリーはおしなべて急ぎ足で、この優秀なドラマにケチがつけられたような格好。 まあテレビドラマではよくあることなんですが。

 と同時にオーラス2回では、「真相が判明」 というような形で、このドラマの登場人物の行動動機が次々に説明されていく。
 個人的にはこの展開はちょっと不満。 なぜなら、このドラマの良さというのは、「説明が不十分で、見る側に考えさせる余地が残されている」、という部分だったと思うからです。 そこに一種の余韻というものが与えられ、見るものは惹きつけられていく。
 それが 「全部説明されてしまう」 ことは、見る側の疑問を解決するにはいい方法だけれど、物語の余韻がそれでかき消されてしまう副作用も有している。
 ちなみに最終回が駆け足だった幾多のドラマを思い出してみましょう。 どんなラストだったか、覚えてます?
 説明されて納得しても、その場限りなんですよ。 永く記憶には残らない。

 こうした諸事情による混乱をなんとか 「一作品」 として収束しようと作り手が考える場合、効果的なのは 「どうとでもとれるラスト」 というものを、作り手に投げ出して終わる、という方法です。
 このドラマはその方法を採択しました。 仮釈放でシャバに出た三郎(長谷川サン)が何もかも失った田坂もと院長(内藤剛志サン)にわき腹を刺されて意識が遠のいたシーンのあと、南の島で現地の男の子たちに 「医者」 として慕われている三郎の姿をインサートさせる。

 これが現実なのか、三郎が今際の際に見た幻覚なのかは分かりません。
 でもこうすることで、作り手はラストを、見る側に委ねている。

 三郎が助かって、やはり無資格のまま、それが罪に問われないような南の島で医師を続ける、というラストを思い描ければ、そうとらえた視聴者の心は優しい。
 死ぬ前に見た幻覚だ、というのであれば、そうとらえた視聴者は現実主義的。
 「世の中は優しさで満ち溢れていると思いたい」 という心と、「世の中そんなに甘いもんじゃない」 という心のせめぎ合いを、視聴者は突きつけられるわけですよ。

 現実問題としてこのラストシーンを考えると。

 すべての罪を償って出所した三郎が、もし鈴木明子(稲森いずみサン)の待つ美琴島に帰ったところで、彼の生きがいというのは、医師をすることによって 「人のためになる」「人の命を救う」 ということしかないのであるから、結局また同じ無資格による医療行為を続けてしまうのではないか、という危惧がついてまわります。 だったら南の島なら問題ない?

 しかし彼の医学の知識と腕は確かなのだから、美琴島に帰ってからきちんと医師の資格を取るために正規のことをすればいい。 その場合、こういう前科があるからもう医師にはなれませんとか、そういうのはあるんですかね? とりあえず障害はあるだろうけれど、出来ると思うんですよ。

 それだけ三郎にとって、「人のためになる」「人の命を救う」 ということは、三郎自身の人生の命題となってしまったのだから、物語的な動きからいえばそれが必然だろう、と。
 まあ、それもこれも、「三郎が生きていれば」、という条件付きです。

 田坂もと院長は医師としておそらく人間の急所を知っているだろうから、三郎を確実に殺せるような気もする。
 どうにもやっつけ的な最終回の流れからいくと、田坂もと院長は返り血を浴びるのも厭わず、三郎を刺した後もその凶器であるメスを持って雑踏の中を歩いていく、という行動は、「死なばもろとも」 という両者共倒れ的な刹那主義的なものも感じるけれども、そう簡単に結論づけることができないヴェールが、まだかかっているような気もするのです。

 私はこの田坂院長の行動を、結構注視しながらこのドラマを見ていました。
 もともと養子として田坂家に入った、ということで、理事長で奥さんである多岐川裕美サンとは確執があり、対立関係。
 彼が三郎を、その無資格という罪を知っていながらある程度泳がせるような行動に踏み切っているのは、おそらく同じ婿養子の三郎に何らかの共通性を見い出し共感しているのだろう、という考察を自分なりにしていたのですが、彼は三郎を刺す際に 「お前と俺は、同じだ」 とかなりはっきりと説明しちゃった(笑)。
 これって私が冒頭に書いたように 「説明しなくても感じ取れればいーじゃん、クソ、これでレビューの必要性がなくなった」 というところなのですが(爆)、このドラマでは終盤で、この田坂院長の行動動機について、かなり下世話に近い形で 「コイツは政界進出狙いで~す」「田坂総合病院を乗っ取ろうとしてま~す」「愛人もただの遊びで~す」 と説明し続けた(笑)。

 でもですよ。

 彼は三郎を 「自分と同じだ」 と認識したからこそ、どこかに置き忘れた自らの良識を、三郎のわき腹を刺すことで、託したのではなかろうか、という解釈の余地も、あるような気が私にはするのです。

 もし自分の良識が生きているのであれば、三郎、オマエはこの出血から生還できるはずだ、と。 それだけ 「自分は人を救うために生きたいんだ」 という意思が強いのならば。 田坂院長は自分のなかに残っている良心を、三郎の生命力に賭けている、という側面がある気がするんですよ。

 と同時に、この殺人行為は、田坂院長が自らに課した 「自分の罪」 に対するひとつの自虐であり、自らのさらなる破滅の引き金にしようとしている。 自分のなかに巣食う悪に対する、半ば自己責任を放棄した復讐だ、とも思えてくる。

 簡単に言えば、自分は悪いことをしたけれども、自殺できるほどの勇気もないから、三郎を殺して人殺しとして他人に裁かれましょう、と。 だから状況証拠があからさまな殺人行為を遂行している。 あーゆー殺し方じゃ、すぐバレるでしょう。 バレてほしいからあーゆー行動を取ってるんですよ、三郎を刺したあと。

 ここで三郎の人生の目的となった 「人のためになる」「人の命を救う」 という命題ですが。

 前回のレビューで、私は三郎について 「破滅を待ち望んでいるのではないか」 という考察をしました。
 おそらく彼は、自分の生い立ちとか、社会環境だとか、人生の目的が定まらない自分とかに対して、破滅することをどこかで期待している。
 実際そうだった、と私は思うのですが、でも美琴島で医療行為に関わるうちに、「人のためになる」「人の命を救う」 ということに、彼は人生の命題がそこにある気がしてきていたんだ、と思うんですよ。

 でも、彼のそれまでの不遇な人生が、彼に素直にそう考えさせる余地を生み出さなかった。

 自分が無資格による医療行為を行なうのは、今まで自分を見下してきた者たち、社会システムに対する復讐だ、と考える思考回路が、彼にあったと思う。
 でもその思考回路が、本来の清らかな目的を見えなくさせ、それはおためごかしだと錯覚させてきた。
 それが、自分が無資格であることがばれ、窮地に追い込まれていくなかで、その復讐という側面がきれいに禊ぎされ、本来の清純な目的に近づく契機に変換していく。

 そのことをこのドラマでは、「自分の居場所を見つける」、という印象的な言葉で象徴していたような気がします。
 これは三郎だけでなく、ふたりのアキコ、鈴木明子と田坂亜希子(木村文乃サン)にしてもそうだったし、明子の幼なじみだった高岡君(萩原聖人サン)にしても同様のことがいえた気がします。

 人は自分の居場所を求めて、人生をさまよっている。

 そのなかで人は、みずからのあるべき場所へと収まっていく。

 このドラマでは、三郎が純粋に 「人のためになる人生」 に近づいていく過程を追っていった、と私は考えていたのですが。

 まあオーラスの2回はめまぐるしかったですね(笑)。

 ここでそのどこがダメだったのかをあげつらうのは本来の趣旨とは外れますが、ちょっと補足説明しておきたいのは、田坂総合病院の理事長である多岐川裕美サンの変心ぶりでしょうかね。

 すべての罪状が明らかになったあと、この理事長はいきなり 「いい人」 に変心して、田坂総合病院を人手に渡してどこか知らない街で一から個人病院としてやり直す、などと言い出すのですが、これのリアリティに乏しいことはまあ言えるけれども(笑)、よくよく考えてみるとこの理事長、いちいちイヤミったらしくて院長と反目はしているものの、なんら悪いことしてないんですよ(笑)。 愛人かこってるのは院長のほうだし、三郎が救急医療センターの設置を言い出してそれに反発するのだって、「予算がないから」 という当然の考えで(笑)。 「別荘売っ払えばいーでしょー」 という三郎の意見のほーが暴論で(笑)。

 だからいきなりいい人に変身した、というのとは違うよーな(笑)。

 いずれにしても、風呂敷のたたみ方がかなり乱暴だった、という感想を除いては、とても質の高いドラマだった、と感じます。 長谷川博己サン、「セカンドバージン」「鈴木先生」「家政婦のミタ」 など、私の中では 「いいドラマをきちんと選んでいる」 という印象が、これでまた強くなりました。

 そして個人的にうれしかったのは、ここんところあまり印象的な役に恵まれていないように感じていた、内藤剛志サンの演技がかなり堪能できた、ということ。

 と、いうことで。

 日テレ水10のドラマ枠、次の夏ドラマでは、ああ…(笑)。 坂元裕二サンのドラマらしいです。 この人のドラマ、内容が濃すぎていつもレビューに苦慮するんだよなァ…(笑)。

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2013年6月15日 (土)

「雲の階段」 第5回 破滅を待ち望んでいる自分

 え~、大変マヌケではございますが、僭越ながら1か月も前のドラマについてここでレビューしたいと存じます。 本当はもう、たまったものを見て一気にレビューしようと思ったのですが、ちょっとこまごまと書かねばフォローできない、という結論に達したものですから。

 「人は、一度きりの人生のなかで、肉体的に生まれ変わることは不可能だ。
 過去の自分も、今の自分も、自分は、自分でしかない。
 たとえ、ニセモノでも――。
 オレの人生は、今、ここにしかない」

 第5回冒頭。

 明子(稲森いずみサン)が消息を絶った、という状況下で、相川三郎(長谷川博己サン)はそういう決意を新たにするのですが、彼がひたすら求めているのは、自分が人を救うことができる、「ということの確認」 のような気がします。

 つまり人の命を救いたい、というのは、「慈悲的、慈愛的行為」 だと思うのですが、彼の場合はそこに目的の中核がない。 彼が少なくともこの第5回の時点でしたいのは、「こんな自分でも人のためになることができるんだ」、という示威行為。 それまでの自分に対して見せつけるためでもあるし、自分を疎外してきた世間に対する行為でもある。

 この第5回において描写されるのは、彼が亜希子(木村文乃サン)との結婚前に出会った彼女のセレブな友人たちに対する嫌悪と、そして彼の母親(加賀まりこサン)の母性愛。
 そのなかで見えてくるのは、彼が過去に抱いてきた劣等感です。

 結婚式で無理やり出席させられた彼の親戚のおじさんが言うことには、そのおじさんの会社で旋盤工として雇われた時期が彼にはあったそうなのですが、スジが悪くて1週間程度でやめている。
 旋盤工もようできんような不器用さというのは正直なところオペの達人である現在の彼の姿とは一貫性を欠く設定ではあります(笑)。 でもそれを、「彼の、人生に対する不器用さ」 という問題に帰結してもいい。 彼は美琴島でハウンドドッグのリーダーに見込まれるまでは(笑)、実にヘタクソな生き方をしてきたのだ、と想像できる。

 さらに言うならば、そのおじさんの工場に、「彼のやりたいこと」 というものは、しょせんなかった。 おそらく親戚のつてでそこに就職したりするのも彼には屈辱だっただろうし、そもそもこのおじさん、1週間で三郎がやめたこともあろうが、そんなに面倒見がよくて性格がいいほうだとは考えにくい。 どういう事情か知らないけれど、最初から迷惑がっていたのかもしれない。

 話はさかのぼります。

 田坂総合病院の着任早々、亜希子の強権発動によって当直をすっぽかし(笑)やってきた別荘地。

 そこで出会った亜希子の友人たちのセレブぶりに、彼はやはり、若い頃にその別荘地でアルバイトをしていた自分の嫌悪感を重ね合わせます。
 アルバイトは、おそらく生活費のためだということが想像できるし、そんな貧乏状態の彼がそこで出会う 「別荘族」 に対して憎悪の気持ちが育まれていったことも、想像に難くない。

 その、昔から抱いていた、金持ちに対する鬱屈とした気持ちが爆発してしまったのは、亜希子たちがそのセレブな仲間どうしでキャッキャッ騒いでいた時に、ひとり離れてウィスキーのグラスを三郎がちびちびやってたとき。

 消息不明の明子から、三郎の携帯に電話が入ってくるのです。

 意を決して出ようとすると、同時に電話が切れる。

 「明子が生きていた」 ということが動揺につながり、三郎はストレートでウィスキーのがぶ飲みモードに突入(笑)。 多少むせてたみたいでしたが、あんなむせかたじゃ済まんですよ、あそこまで一気飲みだと(笑)。

 そこにチャラチャラした亜希子とその仲間たちがやってきて、これから街に遊びに行こう、という。 泥酔状態に突入している三郎は 「君たち酒飲んでるのに運転はどうするの?」 と訊くと、「運転手がいますんで」。

 これに三郎がキレる(笑)。
 泥酔してるから、本音が出まくりです(笑)。

 「アッハハハハ…。

 はぁ…。 そうかぁ…。 運転手かぁ…。 アッハハハハハ…。

 …

 なぁ君たちさぁ、学生だろ?

 君たちが運転手つきで乗ってる車ってさぁ…誰買ったのよ?

 その…運転手の賃金、誰が払ってんだよ?

 親だよなァ? とーぜん親だよなァ? ハハハハハ…。

 昼間のモーターボートも、その、キラキラの時計も、アッハ…君たちにとっちゃあ、それがフツーなのか?

 あ?

 (突然大声で)フツーなのかよおッッ!!

 (立ち上がろうとしてけつまづく三郎、フラフラと立ち上がり)親がエラけりゃ、自分もエライのかよおッッ!!(そばにあった花瓶を思い切り蹴って破壊)

 (笑いながら)なんだよ…。

 オレが何にムカついてるか分かんねえのかよ?

 (テーブルを蹴り)そんなのも分かんねえのかよおっ!!」

 それまでセリフも切れ切れで、もぞもぞとなにしゃべってんのか分かんなかった男が、オペのとき以外で初めて見せたキレよう。
 このくだりを見ていて感じたのは、彼のいちばん底辺の意識下に持っているのは、実は破壊衝動なのではないか、ということでした。
 確かにこれまでの人生で、彼は家庭環境が経済的に不遇なことや、やりたいことが分からず自分がなにを出来るのかも分からない状態で劣等感ばかりが育っていった、という経緯はあるかもしれない。
 そしてそんな状況下で、彼はようやく、ニセモノの評価にすがりついて、自分というものを見つけたつもりになりたがっている。

 でも本当は、彼が目指しているのは、人の命を救うなんてことじゃない。

 いや待てよ。

 そんなことができる自分を確認しようとしているわけでもない。

 偽りに満ちたこの世のなかに対して、偽った自分を武器にして、その欺瞞性を暴き、破壊したがっているのではないか。

 復讐なんですよ。

 こんな境遇に置かれた社会やら、家庭やら、さらにはそこで鬱屈してきた自分に対してさえも向かっている、復讐。

 まあこれ、1か月前のドラマを見ての感想ですから、かなり外している危険性もあります(笑)。 そのマヌケさはお笑いください。

 そしてそんな三郎を、母親の加賀まりこサンは、散々迷ったあげく、彼の逃げ場所は自分である、ということを彼に伝えるのです。 ここは泣けた。

 母親の加賀サンは、結婚式前に、息子からすべての真相を聞き及びます(あ、あの泥酔事件がきっかけで、三郎は亜希子との結婚を決意した模様です…笑)。
 三郎の母親は、息子のウソに加担するよう頼まれます。

 母親は、息子がキレ気味にそれまでの話をする途中、「人のためになれた」 と言うと、彼に平手打ちをします。 「こんなオレでも、人を助けられるんだよ」 と言うと、また平手打ち。

 いくら息子が悪だくみぽいことを言っても手を出さなかったのに、母親がこの部分だけとくに敏感に反応したのはなぜでしょうか。

 それは、母親がいちばん問題にしようとしていることは、無資格という法律上のモラルとか世間体とか、そんなことではないからだと思う。
 母親にとっていちばん許せないのは、息子がニセモノの希望にすがって、それで許されようとしている、その姿勢に対してなのだ、と思うんですよ。

 なにが人のためになっている、だ。

 ここまで周囲を破滅の危険に晒しといて、この期に及んで 「人のためになっているから」 などというきれいごとを言ってごまかそうとするんじゃない。

 おそらく母親は、息子が自分に対して潜在的に抱いている家庭環境、つまり自分への恨みも、敏感に感じ取っているのだろう、と思う。
 だから息子の犯罪行為そのものに対してではなく、虚飾のきれいごとに敏感に反応して、手が出るのではないか、と思う。

 針のムシロのような結婚式のあと。
 母親は、三郎に向かって話します。

 「ずーっと、考えてた。
 あんたに、いったい何を言えばいいのか。

 もう、後戻り、出来ないんだろ?」

 「絶対、母さんに、迷惑は…」

 「あんたは偽医者だ。

 だったら…。
 絶対に人を死なせちゃ駄目だ。

 人殺しにはなるな。

 もし、もしも、そういうことに巻き込まれたら、

 どんなにぶざまでもいい。

 逃げ出しなさい。

 (三郎の手を取り)逃げて来なさい。

 母さんが…守ってやる」

 去っていく母親。 三郎は、崩れるように号泣します。 繰り返しますが、私も泣けた。

 おそらく彼の無資格の医療行為に対する責めは、必然的に訪れるだろう。 でもできるなら、ばれないようにしなさい、というのが、いくらそれが人の道に反していても、親の心というものだ、と思うのです。
 そしていくら世間に非難されようとも、私はお前の味方だ。
 それが人の道に反しているからこそ、その親としての心に、私も泣けるのです。

 きれいごとで片付けられるほど、単純じゃないんですよ、親子の情愛というのは。
 「ならぬものはならぬ」 という 「八重の桜」 での会津のモラルというのは、その点ではとても人の判断を楽にする方法である、と言える。 正しいことをやっていればまわりからのお咎めがないんですから。
 でも、親ならば、自分の子の過ちに対して一緒になってその責任を負う、というのが、かえって世間に対するけじめである、そんなふうに私は思う。

 その親心。

 過ちを犯せば、たいていの人はその人から離れていきます。
 でも親は、どんなときでもその子の味方であるべきではないのか。
 そりゃ見放す親はいますよ。 どうしようもない犯罪を犯した者の親が、「もう親でも子でもない」 というのを、ニュースではしばしば見かけたりします。

 でも、それでも、子の逃げ場所になろうとする心。

 子は、その親としての慈悲に、ただただ、泣くしかないんですよ。
 ここでそいつが 「自分の親ウゼエ」 とか考えたら、それこそテメエは、人として生きることを放棄した、と断ずるほかはない。 無間地獄だよ。 死刑廃止論者や法律がテメエの人権を許そうが、根本的な生命の法則というものが、テメエを許さない。

 …少々逸脱いたしました。

 母親の慈愛に号泣した三郎。

 救急車からの搬送依頼に二の足を踏むような、重篤な患者の受け入れを、亜希子の元婚約者の反対も押し切って強行します。

 これっていったい何なのか。

 「絶対に人を死なせてはならない」 という母親の忠告に反するような危険に、なぜ彼は挑もうとするのか。

 これは、彼のなかで、「人の命を救う、人のためになる」 ということの確認を、自分に対してする必要がなくなった、ということの表れなのだ、と私は感じます。
 母親が赦してくれたことで、彼には永年にわたる、家族に対する恨みや世間に対する劣等感が消えた。 だから 「慈愛行為」 そのものが、本来収まるべき場所である、本来の目的に居座ったのだろう、と考える。 自分の劣等感に対してチャレンジできる場を、彼はそこに見出したのだ、と思う。

 と同時に感じるのは、彼の違法な医療行為が、今までのどうしようもない自分を断罪させるための墓場にしようとしている、自暴自棄にもつながる心理状態です。

 いわば彼は、「自分の破滅」 を待ち望んでいる。

 それが彼の善的なチャレンジングと同時進行していることが、物語としての深さを増していると思うし、面白味を増す要因になっているように、私は感じるのです。

 以上、実にマヌケな感想になりかねない、今回のレビューでございます(笑)。

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2013年6月14日 (金)

内海賢二サンの訃報

 仕事から戻ってパソコンを開いたら、声優の内海賢二サン死去の報が。 ショックです。
 あまりたいしたことは書けませんが、やはり書かないわけにはいかないでしょうか。

 このところ声優さんたちの訃報に接する機会が多い気がするのですが、40代とか私どもの年代にとって馴染みのある声優さんたちというのは、やはり私どもの親たちの年齢層とかぶるものがあるんですよね。 内海サンも75歳とのこと。 私の親とたいして年が変わりません。

 「この人の声は聞いただけですぐ分かる」、ということは、私たちが慣れ親しんだ声優さんたちでは当然のこと。 どうして最近の声優さんたちの声が覚えられないのかは私もよく分かりませんが、「個性がなくなったからだ」 などと通り一遍の分析で納得してしまう傾向がある。

 昔の声優さんたちも、そりゃかなりいろんな声色を出していたものですよ。 太田淑子サンなんかも、男の子の声をかなり頻繁にやっていたけれども、「ひみつのアッコちゃん」 の主役の女の子だったりしたし。 堀絢子サンなんかもそう。 だのになんか、分かるんですよね、その人が出てくると。

 内海賢二サンの場合、悪役であるとか、かなりシリアスなケースが多かったけれども、私にとって内海サンというと、やはり最初は 「魔法使いサリー」 のサリーちゃんパパだったわけであり。
 このサリーちゃんパパ、サリーちゃんを魔法の国に強制送還させたくてウズウズしている感覚。 要するに 「雪の女王」 の感覚なんですな。 すごくマヌケで恐妻家でコミカルな部分もあるのだけれど、やはりサリーちゃんを視聴者の子供たちから引き離そうとする、「掠奪者」 の怖さを常に秘めているんですよ。

 「新造人間キャシャーン」 のブライキングボスはその点で、内海サンの声の持つ 「怖さ」 がいちばん発揮されていたように思うけれども、やはりどこかでちょっとコミカルではあるんですよね。 「怖いけど、なんとなくコミカル」。
 そこに気付いて 「Dr.スランプ アラレちゃん」 の則巻千兵衛のキャスティングをした人は、とても冴えてたよな、と感じます。 「アラレちゃん」 のころは私も高校1年とか結構な年だったけれども、やっぱり見てましたし、内海サンと言えばコレ、というスタンダードになった気がします。

 そのほかにも印象的だったのは、「スター・ウォーズ」 のあのー、ハン・ソロの友人役の人(名前はエート…笑)。 最近じゃ 「マトリックス」 のあのスキンヘッドの黒人の人(名前はエート…笑)。 吹き替えでは黒人役が多かった気がしますね。
 個人的に言うと、「はじめの一歩」 の鴨川会長ですよネなんと言っても。 「小僧!」 という声が耳から離れません。

 たいしたこと書けないなどと言っといて、結構書いたな…。

 声優さんの訃報が入ると、ウィキを見ながらのレビューが常なんですが、「あれもあった、これもあった」 などとやってくうちに長くなっちゃうんですよね。

 7月からフジテレビ系 「ノイタミナ」 で放送開始になるアニメ 「銀の匙」 が遺作となってしまったとのこと。 これはチェックせねばなりません。

 ご冥福を、お祈り申し上げます。

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2013年6月 8日 (土)

「八重の桜」 第19回 「慶喜の誤算」(5月12日放送) 第20回 「開戦!鳥羽伏見」(5月19日放送) 第21回 「敗戦の責任」(5月26日放送) 第22回 「弟のかたき」(6月2日放送)を見て

 へへへ…。

 また集中レビューでございます。 いざ参る。

 ここ数回の 「八重の桜」。 続けて視聴したのですが、会津が見舞われる悲劇に、涙が止まらなくなることが多くて。 ほぼ泣きっぱなし。 疲れてんのかな(笑)。

 やはり私も、福島生まれの人間なのでしょう。

 と同時に募るのは、慶喜サンはさて置いて(笑)、まず薩摩・長州に対する怒り。
 鹿児島県や山口県のかたがたに恨みなど持ったことはないのですが。

 どうもいけませんな。

 やはりね、人と人とが殺し合うというのは、長い長い禍根が残るものなのだ、ということを実感いたしますね。
 戦争など、ないほうがいい。
 人が人を殺すことなど、あってはならない。

 このドラマを見ていて薩長に対する怒りがわきあがる、というこの構図。
 「薩長に対する描写の少なさ」、という点に集約されようか、と感じます。

 最近NHKBSプレミアムで、薩長の生き残り戦術みたいなことをやってまして、それを見て感じたのは、やはり薩長というのは、関ヶ原のときから既に外様として虐げられる地位に260年もの間置かれ続けてきた。 だからこそ、倒幕にかける意気込みというものがものすごかった、ということです。
 つまり、関ヶ原のときから、明治維新という歴史の転換期が、お膳立てされていた、ということが、この番組の結論。 薩摩も長州も、幕府の長~いあいだの嫌がらせに屈せず、巧みに財政支出を切り詰め、どんな逆境が訪れようとも、「いざ」 というときの予算を残してきたからこそ、幕府と対峙するだけの軍事費が捻出できた、というわけであり。

 それに対して、会津というのは、どうも京都守護職任命からこっち、幕末でいちばんの貧乏くじを引かされてる思いは否めない。 第19回 「慶喜の誤算」 の冒頭でも、反射炉を作ろうという川崎尚之助に、神保内蔵助は 「会津は都で、金を遣いすぎた。 分かんべ?」 と吐露しています。

 予算がないから、軍事費が捻出できない。 だから川崎尚之助がいくら新式銃の改良に血道をあげても、新時代の軍拡に対応しきれてない。 薩長の側からしてみれば、川崎尚之助のやってることなんて、「子供だまし」 の域を出ないレベルなんですよ。
 薩長は金にモノを言わせて、外国から性能のいい火力を大量に買い付けてる。
 ドラマで会津がこれから突入していく新政府軍との戦争でも、関ヶ原時代の火縄銃が使われていた、なんて話も聞きますから。 お話にならんのですよ。 軍事力の差が。

 そんな貧乏くじを引かされている会津のいちばんの泣きどころは、先ほどちょっと話に上がった、徳川慶喜サンということは、論を待たないのであり(笑)。

 はぁぁ…、この人ねぇぇ(ハハ…)。

 この人がなにを考えているのか、ということを、今回のドラマではかなりしつこく解明しようとしている気はするんですよ。
 でもその行動パターンを見ていて感じるのは、やはり 「この人は結局、自己保身の人間だな」 ということ。
 徳川の存続、というご立派な大義名分もいちおう備わってはいるのですけど。
 私なんかから見れば、篤姫のほうがよほど徳川の幕引きに関してけじめをつけている、という気がする。

 この人は頭が良すぎるのか、策に走ってしまう傾向がとても強い気がします。
 でも、この人にとっていちばんの誤算は、徳川幕府自体の権力構造が、中央集権的ではなく、藩の自立性が強い合衆国タイプのものだったことではないでしょうか。
 これもこないだのBSプレミアムでやってましたね。
 徳川家康が関ヶ原で、主導部隊である秀忠軍の到着を待たずに天下分け目の戦に突入してしまったことで、徳川主体の国づくりがやりにくくなってしまった、と。
 それで、じっさい慶喜サンが将軍になって強権発動をしようとしても、絶対的な強制力が発揮できないんですよ。 慶喜サンも自分の権力が絶対的なものではないことに愕然ときたんじゃないか(まあ、黒船来航に対する幕府の対応があまりに頼りなくて一気に権威が失墜したのが大きいと思いますが)。

 で、その徳川に対していちばん忠実を貫いていたのが、ほかならぬ会津だったわけで。
 藩祖の家訓の力は大きい。

 それにしてもこのドラマで感じるのは、「慶喜サンにはブレーンがいない」、ということですね。
 すべてなんでも、ひとりで考えて、ひとりで決断しちゃってる。
 松平容保公は立場的に、それにいちばん翻弄される形になっていくのですが、容保という人物、「忠」「義」 に執着するあまり、慶喜サンにいちいち進言できる能力を有していない。
 いや、ドラマのなかではさすがに、容保公も慶喜サンの行動パターンを読めてきて(笑)、いろいろ拒絶したりなんかするんですけどね。 肝心の慶喜サンが、容保をブレーンとは考えず、ただの 「忠義人形」 だと思っているから、ゆーこと聞いたためしがない(笑)。

 それなのにですよ。

 慶喜サンは容保公の家来である神保修理の言うこと(京から逃げるべき)は素直にハイハイと聞いちゃう。 家来ですよ、容保公の家来。

 要するにですよ。

 慶喜サンは自分の考えていることと同じことを進言されないと、聞く耳持ちゃしないんですよ(笑)。

 さらに慶喜サンがずるいのは、これをあたかも自分の考えではなく、「おたくの家来の修理クンが言ったんだよコレ」 なんて巧みに自己責任を回避しちゃおう、とするところ。
 自分に非難の矛先が来るのに対して逃げ道を確保しているということなんだろうけど、そもそもそれが姑息なのがバレバレだから、この人には人望がないんですよ。 誰もこの人についていかない。
 「おたくの修理クンが言ったんだモン」 なんてじっさいに慶喜サンが言ったかどうかは知らないけれど、慶喜サンの人となりをよく観察し把握してるな、と思われるシーンでした。

 この人の得意技に 「敵前逃亡」、というのがあるんですが(笑)、その真骨頂だったのが、第21回 「敗戦の責任」 での、鳥羽・伏見の戦いのそれ。 修理クンのせいにしたこの逃亡劇、慶喜サンは容保公を道連れにします。

 なんだよソレ(笑)。

 つまり、どこまでも自分に責任が集中するのを避けてるわけですよね。 慶喜サンにしてみりゃ、スケープゴートが容保公しかいないのがキツイけど。
 慶喜サンにしてみれば、「はんそのごかきん」 というアイテムを使うと、「なんでも言うことを聞いてくれる」 という設定になってるRPGみたいなもんで(笑)。 「あいづはん」 というキャラにしか効果を発揮しないアイテムつーか(特に大ボスの藩主には効果てきめん…笑)。

 でも相手も人間ですから、ドラクエみたいにホイホイつき従うわけではない。

 容保公は頑なに拒絶しながらも、結果として慶喜サンにつき従うことになる。
 この時の容保の、錯乱しそうな精神状態。
 薩長主体の論理で動く幕末ドラマでは、軽く素通りされてしまいそうな部分ですが、今年の大河は絶対ここは外せない部分であります。

 「はんそのごかきん」 を持ち出さぬまでも、戦況的に兵の数だけ多くて全く不利(この状態、そもそも慶喜サンが幕府の力を過信していたことからくる戦略の稚拙さからきていたものでしたが)、という状況下では、半ばパニック状態に陥ってしまう。
 パニック状態でもっとも適正な判断をしよう、ということは、とても難しいものです。
 それがこの、容保公と慶喜サンの押し問答のシーンでは、よく出ていた。

 そして見えてくるのは、容保公にしても、どこかに 「徳川と一蓮托生であれば、浮かぶ瀬もある」 と考えている部分。
 容保公に自己保身の部分も、確かにあったと思うんですよ。
 兵を見棄てて大将だけ逃げればどういうことになるか。
 その想像力が容保公になかった、とは思えない。
 でもこの状態をリセットすれば、いっとき混乱はするだろうけれども、巻き返しのチャンスの可能性は生まれるのではないか。
 これってまともな判断だとは到底思えないけれども、パニックのなかで大きく自分が揺らいでいる、ということは見てとれるのです。
 「巻き返し」 に20パーセント。
 「自己保身」 に20パーセント。
 「はんそのごかきん」 に10パーセント。
 あとはおぼろ~。 あとはおぼろ~(古すぎだっての…笑)(あ、青江三奈サンね…笑)。
 冗談はともかくあとの50パーセントは 「おぼろ状態」、つまりパニクってワケ分かんなくなってる、という感じでしょうか。

 それにしても。

 浮かばれないのは、鳥羽伏見で散っていった、林権助(風間杜夫サン)や山本三郎(工藤阿須加クン)です。
 敵の銃弾を浴びた林は、目を見開いたまま、見方を守るように戦死。 こういう戦死パターンというのは、かつて幾度も見てきたけれども、やはり泣けます。 泣けて仕方なかった。

 三郎の戦死は、もっと泣けた。
 「難を転ずる」 という思いで八重がその軍服のひじの部分に縫い付けた 「南天」 の刺繍。
 これを見た三郎。 圧倒的な不利を少しでも打開しようと、冷静に考えればとても無茶な、突撃を敢行します。
 当然のごとく、三郎はハチの巣状態で銃弾の餌食となる。

 ああなんか、また泣けてきた。

 大蔵(玉山鉄二サン)に背負われて詰め所に戻ってきた三郎ですが、もはや打つ手はない。
 朦朧状態の三郎は、「よぐ狙って…」 と、訓練の時の八重の口癖を繰り返します。
 そして傍らにいた大蔵を、兄覚馬だと勘違いする。

 「あんつぁまが?…」

 「ああ。 こごにいんぞ…」

 大蔵は自分を偽ります。
 「よぐ戦ったな…」

 三郎は安堵し、つぶやきます。 「あんつぁま…。 姉上…」。

 ここに、ガラスが割れて不吉な思いをする八重、という、ドラマ的には非常にありがちなシーンがインサートされるのですが、こういう王道的なシーンは、やはり見る者を引き込ませるものです。
 ただ違うのは、ここで戦死した三郎の、南天の刺繍をもう一度見せることです。
 そのことで、「八重の思いが結果的にアダになってしまった」、三郎の戦死の責任に八重が絡んでしまった、ということを描こうとしている。

 この、「南天の思い」 が八重に投げかけるつらさ、というものが、非常に痛々しく描かれたのが、第22回 「弟のかたき」 でした。

 三郎の死を納得しない八重がその現実を受け入れざるを得なくなったのが、この刺繍だったわけであり。
 川崎尚之助からの報告にうなだれ、悲しむ山本家の人々。 特に父権八(松重豊サン)の悲しむ姿には、またまた涙を禁じ得ません。

 それでもその場でも泣かなかった八重。
 角場での教練にのぞむ伊東悌次郎たちをいつも以上に厳しく叱責するのですが、無意識のうちに悌次郎に向かって 「三郎!」 と叫んでしまいます。
 このシーンの前フリというものは、第19回 「慶喜の誤算」 の冒頭でなされていて、同じ角場の教練で悌次郎の長い前髪を、邪魔だからと切ってしまう牧歌的なシーンに呼応しています。
 これを偶然見てしまった母佐久(風吹ジュンサン)に 「男の子の髪を勝手に切ってはなんねえ!」 と叱られた八重、「つい、三郎といるような気になって…」 と反省するのですが、ここで 「こだ鉄砲の訓練へら、会津になにがおぎるってゆんだ」 という佐久の意識から、第22回ではかなり危機感が増していることが分かるのです。

 「オレは、三郎さまではねえんだし」 と悌次郎から言われた八重。 悌次郎の鉄砲をつかみ取り、外に駆けていきます。 「いけない!」 八重を追いかける尚之助。 八重は、フランス式の教練のことで尚之助に会いに来た大蔵に引き留められます。

 「八重さん! 銃を持ってどごに?!」

 「三郎の、かたきを討づんだし!」

 大蔵を振り払う八重。 追ってきた尚之助が、それを止めます。 ここは、大蔵と尚之助の、恋愛力関係が(笑)如実に現れたシーンです。 「行ってはダメだ!」「放して!」「どこへ行くんです! 誰を撃つ気ですか! しっかりしなさい!」

 「私が…行けば…よかったんだし! 三郎より、私のほうが、よっぽどつええんだから!

 戦には…私が…!

 …三郎ーーーっ!」

 尚之助の腕のなかで、泣き崩れる八重。
 今までずっと泣かずにこらえていたものが、堰を切ったように号泣へと変わっていく。
 もう、泣けて泣けて。

 このほかにも、修理の切腹に至る場面であるとか、薩摩につかまり牢獄で会津の赦免を叫び続け声が別人になってしまった覚馬とか、もう見ているだけで涙涙。
 いっぽうで、西郷(吉川晃司サン)があまりに簡単に江戸城無血開城に合意しすぎとか(笑)、やはり敵方の描写は最小限だな、という感想は否めません。
 特にムカムカするのは、錦の御旗をチラチラさせてる大福餅いや違ったごきげんよう(笑)。 よく500円になったもんだ(なんのことやら…笑)
 なんか最近、世良とかいうすごい顔の人も加わったような(笑)。

 そりゃ敵前逃亡に加担するとか、容保公の判断ミスというのはありますよ。 でも同情しちゃう余地が、このドラマにはある。

 「人は、変わることを恐れるもんじゃっでな。

 どげな悪か世でん、知らん世界よりはよかち思いたがる。

 260年の眠りから国を揺り動かすには、よほどのことをばせんなならん」(第20回 「開戦!鳥羽伏見」)

 西郷のこの思いは、民を離れた国づくりなど出来ない、という勝麟太郎(生瀬勝久サン)の思いによって、一時後退するのですが、新政府軍に抵抗する者たちが会津に続々集結している、という状況によって、再び方向転換される。

 しかし会津にも、生身の人間はいるのです。
 家族や同士の死を悲しむ、人間たちが。

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2013年6月 2日 (日)

「家族ゲーム」 第2-7回 いつ向き合うんですか? 今でしょ!(笑)

 「この国では、どーでもいい大昔のことはチマチマ学習させるクセに、自分たちにとっていちばん大事な認識のもととなる近・現代史をきちんと教えない」。

 これは吉本荒野を名乗る田子雄大(櫻井翔クン)が、沼田家の長男慎一(神木隆之介クン)に滔々と諭した、現代日本人のアイデンティティの喪失の淵源となるべき話のひとつです。

 これは特にこのドラマ全体に流れている謎の中核に迫る話でもないし、この事実自体たいして目新しい視点の話じゃない。
 じっさい昭和史なんて、3学期に入ると猛スピードで学習したクチですから私も。

 けれども、この話が象徴しようとしているのは、たんに日本人の歴史認識の問題点についてではない、と私には思われるのです。
 またこの国の教育、に限った問題を抽出しようとしているわけでもない。

 つまり、ひとりひとりがこれからの長い長い自分の一生を生き抜いていく力の拠りどころをどこに求めるか、という話に帰結する問題なのではないか、と私は感じるのです。 大仰なスケールの話になってしまいますがね。

 便宜上ここでは吉本荒野で話を進めますが、吉本荒野が目指しているのは、まずもって自分が仰せつかった沼田家次男茂之(最上晟周クン)の有名私立合格でもないし、長男慎一の更生でもない。 仮面夫婦を続ける父母(板尾創路サン、鈴木保奈美サン)の関係修復でもない。
 かと言って沼田家全体の家庭崩壊などではさらさらないことも明白。 ただドラマとしては、吉本荒野の意図を分からなくさせることで物語の興味を増そうとしている部分はありますけど。

 彼の目的でいちばん見えるのは、沼田家の構成員すべてに対して、まず 「目の前の問題に真摯に向き合う」 姿勢を構築しようとしていることです。
 つまり、沼田家の人々は、誰もが自分の直面している問題を、直視していない。

 次男はまず引きこもり(まあこれは早々に解決しましたが、もう問題がないわけではない)。

 長男は優等生を演じている。

 父親は会社のカネの横領を自分が悪いせいではないと思っている。

 母親は株に手を出したのを、自分が変わりたいからだ、とことさら自分が受けてきた傷のせいにしようとする。

 要するに、自分を取り繕ったり、ことさら自分以外の人のせいにしたり、自分かわいさで自らを偽り、ごまかし、論理のすり替えをして責任を回避しようとする。
 自分の悪い部分をなんとか正当化して、けっして認めようとしないんですよ。

 これはとりもなおさず、自分の弱さと向き合っていないことの証左である。

 自分の弱さを容認できないがゆえに、他人に対して強い自分を演じようとし、押し付けようとする。

 つまりこれは、現代日本人が現代史をきちんと学ばず、自らの正当性だけを抽出して情報を取り入れ続けていることに、究極的につながっていると私は感じるんですよ。

 吉本荒野が目指しているのは、まず自分の弱さと向き合え、ということだと私は思います。
 自分の弱さを直視しない限り、自分と闘えない。

 だからこのドラマでは、吉本荒野も、究極的に、自分の弱さを直視するために、自分が過去に犯した過ちを直視するために、沼田家の家庭教師を遂行している。
 このドラマが従来のような、教育ものドラマとしての予定調和的な帰結を拒絶しているのは、実にここに原因があろうか、と感じます。 このドラマの行きつく先には、吉本荒野が田子雄大に戻れるかどうかのカギが隠されている。 「吉本荒野」 という名前自体が、彼にとっての乗り越えるべき、壁であろうと思われるからです。

 吉本荒野はまた、「優等生」 慎一に対して、「想像力」 という言葉をしばしば使います。
 櫻井翔クンのこのセリフはいかにも人を食ったような言い方で、これも 「言い古されている」 ことへの作者の 「照れ」 を感じるのですが、吉本荒野が目指しているもののひとつが、「人の心の痛みを想像し、同苦すること」 であることも、ここからは見えてくる。
 話の流れを見ていると、これも過去の過ちを田子雄大が乗り越えようとするために吉本荒野になりきって遂行しているように見えます。

 だいたいそうでも考えないことには、なんでこの男が沼田家にここまでやってるのかが、分かんないですもんね(笑)。
 ドラマ的な組み立てを考えた場合、吉本荒野が過激なことをやればやるほど、比例して彼自身の動機も巨大にする必要が生じてくる。 かつての松田優作サンの 「家族ゲーム」 ではラストでその重大性をアピールし、長渕剛サンの 「家族ゲーム」 ではその動機自体を放棄していた(なんか、「さすらいのカテキョー(家庭教師の略)」 みたいな…笑)。
 今回の櫻井翔バージョンでは、吉本荒野の動機に光を当てることで、ミステリーとしての要素がドラマに注入され、疑心暗鬼の目を持って視聴者を食いつかせることに成功している。

 そしてこの物語の中核に見えるのは、理由ばかりを探して自己変革しようとしない、今の日本人が陥りつつある 「緩やかな保守化」 に対する問題提起なのではないか、という気がする。
 相手の痛みを考えず、まず自分の正当性を確認してばかりいる。
 こういう生き方をしていては、逆境にぶち当たるととても脆くなってしまう気がするんですよ。 「どうして自分はこんなに正しいのにこんなことになってしまうんだ」、とね。

 それに同時に見えるのは、こんな精神の貧困化が進むなかで、「カネ」 の優位性だけがいつまでもこびりついて離れない現実です。

 吉本荒野がどこから100万円を調達してきたのかは知らないが、ともかくこのカネで鈴木保奈美サンの精神的バランスは崩れている。
 株取引で出た1000万円の損失補填を申し出る父親を突っぱねる板尾創路サンも、カネによって生じる自分の 「オトコ」 としての価値喪失を、頑なに拒絶しようとするからだ、と思うのです。
 そして吉本荒野が次々に仕掛けてくる策略の裏にも、「協力料」 としてのカネが常に絡んでいる。

 ドラマとして見ると、「演じる」 ということを子役の時代から続けてきた神木隆之介クンに長男慎一を演じさせる、とか、かつては 「東京ラブストーリー」 などで屈託のない若さをふりまいてきた鈴木保奈美サンに、中年の現実を突きつけて神経質な役を演じさせる、とか、どことなく人を食ったような演技をしてきた板尾創路サンに、ちょっと現実を甘く見ている中年男を演じさせる、とか、キャスティングの妙をとても感じます。

 そして何より、今までどことなく本質がつかみにくかった気がする櫻井翔クンに、吉本荒野という役をやらせていることの、凄みも感じる。

 話の流れだけを見ていると、だいたいこんな感じになっていくだろうな、という次の展開が見えやすい、ということはあるけれども(たとえば次男が 「いじめられる側」 から 「いじめる側」 になっていくだろうなとか、父親の社内的な立場が悪くなっていくだろうなとか)、そこに内在しているテーマの深刻さで見せてしまう。
 そんな魅力が、このドラマにはある気がするのです。

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