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2013年8月

2013年8月28日 (水)

ショック…。 「坂崎幸之助・吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド」 9月いっぱいで終了…。

 「生放送で重大発表」。

 スペシャルウィークの謳い文句で流れているラジオCMに、「何かな~? また今年も拓郎サン、ライヴをやるっていう告知かな? それとも沢田研二サンとの対談みたいに、またBIG対談が実現、とかいう話かな~?」 と思っていたのですが、おととい(8月26日)の番組冒頭から、いきなり拓郎サン本人の弾き語りで 、名曲 「流星」 が流れてきて、おお~っ!と感激したはいいものの、続いてはさらなる名曲 「落陽」。 本番の前には坂崎サンの前で、「旅の宿」 をフルで歌ったらしいし。

 「なんだよこの大盤振る舞い…」 と、なんとなくイヤ~な予感がしてくる。

 「ひょっとして重大発表って、番組終了、ってことなのか?」。

 すると拓郎サン、この番組を始めてから4年になる、自分の番組でこんなに続いたのはこれが初めて、とか、これも坂崎クンと一緒にやってたからだ、ここに来るのが楽しみだったもの、といかにも感慨深そうな顔をするのも~楽に~で~きる~…じゃなかった(ビートルズが~お~しえて~く~れたぁ~…笑)ヤケに不安をあおることを話していきます。

 「ああ、こりゃ番組終了の告知だ…」。

 案の定。 私が現在、少なくとも関東エリアで流れているラジオ番組のなかでは、もっとも面白い番組だと考えている、この 「坂崎幸之助・吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド」 が、9月いっぱいで終了、というのです。

 がぁ~ん…。

 あまりのショックに、私ラジオをかたわらに夜勤をしとるのですが、ぼぉ~っとして仕事で重大なミスを犯してしまいました(笑)。 タクロウのせいだ(笑)。

 まあ、拓郎サンが述べていたように、拓郎サンの番組のなかでは今まで最も長く聞いていたよな~、という気がします。 「パックイン」 の世代ではなかったのですが、小室(等)サンと一緒にやってた時も4年も続かなかったし、「オールナイトニッポン」 もせいぜい1年か2年?2年もやってなかった気がする。

 つまり、だんだんと拓郎サンが番組を続けていくことに、嫌気がさしてくる、というか、飽きてくる、というのが、それらの番組を聞いていると結構感じ取れたんですよ。
 今回の 「幸拓(コウタク)のオールナイト」 でもその傾向は早い段階から読み取れたものでしたが、ここは拓郎サンもおっしゃるように、坂崎サンの面白さによって4年近くも続けることができていたんだろうな、と。

 なにしろ、この番組での坂崎サンは、完全に拓郎サンのタイコモチに徹していた。

 いちばん得意な南こうせつサンのモノマネをはじめとして、「ビブラートがすごくてどんどん音程が上がっていく村田英雄」 とか(笑)「裏声だけでなりきっているアグネス・チャン」 とか(笑)、ラジオのなかの拓郎サンと一緒に、私も仕事をしながら笑い転げていたものです。

 拓郎サンが前に 「坂崎はホントによく歌を知ってる」 としゃべっていたように、坂崎サンの70年代フォーク・ロックに関する知識は膨大。 生き字引、と言ってもいい。 大学の講師レベルだと私は思ってます。
 高校時代の坂崎サン、どんだけ金があったのかなーと思うんですが、たぶん実家の酒屋さんが儲かっていたのか(笑)、かなりマイナーなフォークグループのアルバムに至るまで、どうも買い漁っていたみたいで。
 これって現在の坂崎サンの、熱帯魚とか爬虫類とかカメラとかのコレクター癖の先鞭なのかな、という気がする。

 それに坂崎サンは、自分の好きなものにシンクロしようとする傾向があるんですよね。 モノマネがうまい、ということもその傾向のなせる技、と言えるんですが、自ら買い漁っていたと思われるそれらのアルバムの曲を、これまたよくコピーしていらっしゃる。 当時はネットとかない時代ですから、全部レコードを聞きながら、という手法で自分なりにコピーしたんでしょうね。

 だから自分の頭に入っている70年代フォークのアーカイヴには、コード進行とか理論的な裏付けが確固としてある。
 ただ単に曲を知ってるだけ、というのでは、やはり拓郎サンもここまで坂崎サンと一緒にはやらなかったと思うんですよ。 すぐに飽きたと思う。

 そして同時に、拓郎サンはそんな坂崎サンの限界、というものも、この番組ではそれとなく指摘していたように思う。

 知識が豊富なだけじゃダメだ、モノマネだけじゃダメなんだ、と。

 拓郎サンはこの番組のなかで、アルフィーのことをツアーのパンフをはじめとしてコキおろしていたものですが(笑)、拓郎サンの目線で、アルフィーを聞いてて感じるもどかしさ、というものも、たびたび指摘していたと私は感じるのです。

 拓郎サンが今回、番組をやめると言い出したのは、数週間前に番組のなかで話した内容に大きな理由があるのでは、と私は考えています。

 曰く、「新しい曲が浮かんでこない」。

 拓郎サンは現在、新しいアルバムの準備に取り掛かっているらしいのですが、どうにも曲を書こうとしても、歌いたいものが何もない、というジレンマに取りつかれているらしい。

 これってモノを作る人間としては、かなり危機的な状況だと思います。 私も僭越ながら、モノづくりのはしくれとして、同じ危機感に晒されたことがあるから分かる気がする。

 この状況を打開するには、坂崎サンとのバカ話で世俗的な楽しみに浸っている場合ではない、と拓郎サンは考えたのではないだろうか。

 自分の作品を作る、というのは、かなり孤独な作業です。
 拓郎サンはそんな孤独に身を置くことで、あらたな創作の糸口を見つけようとしたのではなかろうか。

 確かにこの番組が放送しているあいだも、新譜は出ましたよ、拓郎サンの。
 でも今回はそれでは間に合わない切迫したものを、この番組終了の拓郎サンの決断から感じる。

 ただ、坂崎サンとの番組をやめるには、拓郎サンもまだかなり未練があるようで(笑)、「9月でいったん終了して、10月からまたあらたに始めるか」 とか(笑)「やりたくなったらヤッコ(ディレクター)に電話して柔軟的にやるか」 とか、嬉しいことを言っちゃってくれてます。
 ぜひぜひ!
 また番組が復活してくれることを、切に願っています。
 出来ればライフワークみたいに、断続的でもいいから、継続してほしいなぁ~。
 坂崎サンとのコンビは、やはり最強だと思いますよ。

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2013年8月24日 (土)

「夫婦善哉」 第1回 ああしてこうしてこ~なった、でい~のか?(笑)

 織田作之助の 「夫婦善哉」 を、尾野真千子サン・森山未來サンでドラマ化。 オノマチフォロワーとしては見逃せるはずもなく。 しかも脚本が 「ちりとてちん」「平清盛」 の藤本有紀サンとくれば、ねぇ。

 この夏のアホみたいな暑さにドラマレビューを書く気が完全になくなり、しかも満を持して観に行った宮崎駿監督の新作 「風立ちぬ」 に完膚なきまでに失望し(笑)、「いい作品って、いったい何なんだろう?」 という疑問に苛まれている近頃の当ブログの筆者。
 その状態でこの 「期待の」 ドラマ第1回目を見終えた感想は、やはりどことなく、感動のしどころというものが分からない感じ。
 オノマチの演技は相変わらずすごい。 大正末期の空気感も大阪の風俗も、ドラマの描写は完璧だと思われる。
 でも、見ていてどうも嚥下不良感が付きまとう。
 私は感動の方法を忘れてしまったのでしょうか?

 お話は貧乏な一銭天ぷら屋の家に育った尾野サン(少女時代は 「悪夢ちゃん」 の主役の女の子だった)が芸妓はんになると言い出して、まあ家も貧乏だったから簡単になってしまう。
 そして一年後、人気芸妓となった彼女は見るからに親のスネかじって生きている金持ちのボンボン(しかも女房子供アリ)、森山未來サンに惚れてしまって熱海まで駆け落ちするも関東大震災に遭って大阪に出戻り。
 森山サンは完全に跡取りとしての信用を失ってしまい、父親の岸部一徳サンからも勘当されてしまう。
 尾野サンはもとのお店に戻れるはずもなく、ランクが下がった麻生祐未サンの斡旋屋(こりゃ 「カーネーション」 での共演以来ですな)で安い芸者の仕事をやってお金を貯めるのですが、森山サンはそれを知るや通帳を持ち出してふた晩で使い果たしてしまう。
 怒り狂って森山サンをぶちまくる尾野サンですが、簡単に許してしまって第1回ラストではこのクソ暑いのにイチャイチャしまくり(笑)。

 何なんだよコイツラ、という話ですよ、マジメに生きている者たちにとっては。

 いや、なんつーか、このお話の流れ全体に漂う、すんごいイージー感、というのか。 動機なんかどーでもいい感、というのか。
 昔の小説が原作だからしょうがないとも言えるが。

 まず、まあ芸妓になる動機というものはいいとして、でもそれも 「ずいぶんと簡単に芸者になっちゃうもんだな」 と思っていた矢先に、今度は金持ちのボンボンに惚れちゃう、という展開でしょ。 あげくに駆け落ちだし。
 つまりこの、尾野サンが演じる蝶子という女性は、芸妓に出されたことで親がお金をもらってるとかしがらみがどうだとか、あんまり重視してないんだよな、という。
 しかも蝶子は柳吉(森山サン)が道楽趣味の金持ちのボンボンだということを、最初から承知している。 生活力がゼロだと、きちんと認識しているんですよ。 なのになんでこんなのに惚れるかなァみたいな。

 どうにも分かんないけど私なりに分析すると、柳吉が金持ちのクセしてヘンにB級グルメなせいなのではないか?と(笑)。

 柳吉の食に傾ける蘊蓄を聞いていると、高ければそれでいい、という金持ちが陥りそうな思考とは一線を画している。 安くてもうまいものはうまい。 柳吉には、物事に対する妙な気取りがないんですよ。 そこに蝶子は惚れたのか。

 それともうひとつ、男がダメだと女は支えたくなる、という心理もあるのかな、と。
 蝶子は 「あの人を一人前の男にしてやりたい」 と言います。 これって、蝶子自身が身売りみたいなことを自分から言い出して芸妓になり貧乏な家をなんとかした、という自負から来ている意識かもしれない。 パトロン、とでもいうか。 夫を自分の作品にしたい欲求、とでもいうか。
 それが浪花節なんだよと言われればそれまでですが。

 そして蝶子はまるで自らが望んだようにして、ダメなパートナーに人生を翻弄されていくのですが、結局それもこれも、「この人が好きやから」 という思いで説明されてしまう。

 これ見てて都はるみサンと岡千秋サンの 「浪花恋しぐれ」 を思い出したんですけどね、まだそっちの歌のほうがマシですよ、酒も女もやってても、亭主には 「今に見てみい! ワイは日本一になったるんや!」 という気概というものがある。 それに比べりゃ柳吉の場合、「親の後ろ盾がなくなったら、ワテの人生ハイそれま~で~よ~」 の 「貯金ブラックホール」 ですからね(笑)。

 そのうちに、見てて 「ああ、こんないい加減でも許せちゃうことも、あるこたあるんだよな~」 というおおらかな気持ちになってきたワタシ(笑)。
 これを単なる浪花節でドラマが語りきってしまうのか、それとも藤本脚本特有の、ひりひりとしたシニカルな視点が今後展開するのか。

 第1回目で 「ん~、こんなもんなのかな~」 と思ってしまった私を、唸らせてもらいたい気がするのです。

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2013年8月15日 (木)

「銀の匙」「あの花」「宇宙戦艦ヤマト2199」 のあいだに流れるもの

 たまってた 「ヤマト2199」、そしてフジテレビ系ノイタミナの新番組、「銀の匙」「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」(←これは再放送らしい)を見ました。 オマケになんか手塚治虫&石森章太郎両氏のテレビ初回と最終回を見る、みたいな意味不明の番組(笑)やってたんで、予約していたそっちも見ちゃいました。 「マグマ大使」 とか 「さるとびエッちゃん」 とか 「人造人間キカイダー」 とか。
 これらのアニメ・特撮ものを見ていて、ちょっと感じたことがあったので書いてみます。 ホントは 「ヤマト2199」 だけは独立して書いてもよかったのですが。

 ひとつめはフジテレビ系のノイタミナ枠で始まった 「銀の匙」。 少年サンデー連載中のものが原作。 作者はあのヒット作、「鋼の錬金術師」 のかたらしい。
 ただ 「連載中のものがアニメ化される」、というのはシリーズ全体の統一感が生まれにくい傾向にあり、私なんかにしてみると最初から二の足を踏みたくなる要因なのですが、先日亡くなった内海賢二サンが遺作としてお出になっていることで、見てみようという気になりました。
 ここで第1回(先週まで見ている限りでは、ほとんど出番がないです)の内海サンの印象を述べさせていただくと、ん~なんか、確かに以前のようなお声の張りがなくなっていたかな、という感じでしょうか。 遺作、ということは、すでに全話録り終えてるのか、それとも途中から出番がなくなるのか、代役を立てられるのか。 いずれにせよ番組内で内海サンが亡くなったことに関する告知は一切なし(なかった、と思う)。

 話は、主人公の男の子、八軒クンが進学校の受験に失敗して、全寮制の酪農の高校に入学、その直後あたりから始まります。 この原作マンガのパブリックな吸引力というのは、酪農に関する知識を読者に提供して、それにいちいちカルチャーショックを受ける主人公のリアクションの面白さで読ませる、という感覚なのでしょうか。 飼っているものたちを食う、という、「通らねばならない道」 についても目をそらすことがない。
 この主人公のフツー感覚が、酪農中心で人生が回っている、友人たちの 「狭い常識」 に一石を投じる、という側面も持つようです。

 それにしても私が不思議に感じるのは、この主人公、八軒クンの飄々とした佇まいです。
 フツー受験に失敗してこういうところに入学した場合、「自分はこんなところに来たくなかった」 というウジウジ感が付きまとう気がするのですが、彼は全寮制という自分の経験したことのない新しい生活で繰り広げられる、ガテン系の、体力的にかなりキツイさまざまな体験に対して、「キ、キツイ…(ず~~ん)」「マ、マ、マジかよ~~っ!(ちゅどーん)」 みたいなマンガ特有のリアクションをするものの、思ったほど嫌がらないんですよ。

 これは彼のそれまでの人生が、ただいい成績をとることだけに価値観が偏っていたために、「酪農は自分のやりたかったことではない」、という拒絶の要因にもともとなってないことによる、と考えられます。
 だからこそ、「部外者」 という目で、酪農の常識に対して疑問を提示することができるのだろう、と思うのですが、なんなんだろう、この八軒クンの 「別に流されてもい~や~」 みたいな違和感は。

 彼は特段何も考えずに、たとえば飼育の世話とか誰もいないというときに 「じゃ自分がやります」 みたいに、簡単に手をあげちゃう。 そして出会う体験に素直に感動したりして、無理せずに溶け込めてしまう。

 今どきの若者ってみんなこうだ、とは思いませんが、こういう 「ある種のこだわりのなさ」 って、適合能力に直結する側面も持つ反面、「なにくそッ」 という 「根性」「反骨精神」 とは無縁の世界に思えるんですよ。
 そりゃ八軒クン、努力はします。
 でもこだわりがあるからこそ葛藤というものが生まれて、それを乗り越えるという物語の面白さ、というものを、このマンガの作り手はハナから相手にしていない。 「別に主人公にウジウジ、こんなこと自分はしたくないだの、深刻に悩ませる必要ないっしょ」、みたいな。 ま、八軒クンなりに悩んでんのかもしんないけど。

 ただこの八軒クンの沸点の低さ、「スポ根世代」 の私からすると 「こんなもんなのかー、オレたちのこだわりって、邪魔なもんなのかー」 という気にさせられちゃうところがある。

 そしてもうひとつのノイタミナ、「あの日見た花の名前を以下略(笑)(タイトル長過ぎ)(つーか言葉的にありきたりで覚えらんない)」。 ファンの間では 「あの花」 と略されているらしい。

 この話は昔の遊び仲間だったグループが、「めんま」 というニックネームの女の子の死によってバラバラとなり、互いにそのトラウマから抜け出せないまま高校生活を送っている、という内容。
 主人公の男の子 「じんたん」 はグループの中心的存在だったけれど、今じゃ引きこもり。
 その 「じんたん」 に 「めんま」 が取り憑くホラー、ちゃうちゃう(笑)。
 じんたんの前に現れためんまはじんたんにしか見えない。 めんまはじんたんにあるお願い事をするのですが、その真意というのはおそらく、昔のように元気で明るいみんなを取り戻してほしい、というものなのでしょう。

 このアニメを見て真っ先に気付くのは、全体的に絵がていねいだ、ということ。 1本仕上げるのにアタフタしてない、やっつけ的なところが見当たらない。
 そして細部に細かい配慮がされている。 この物語の舞台も 「ちょっとだけ田舎」 みたいなところでロケ地が特定されており、そこのトレースが忠実になされている印象。 いきなりサッポロ一番塩ラーメンとか妙に写実的だし。

 登場人物たちは 「銀の匙」 とは全く逆で、「ウジウジ悩み続けている」 やつばかり(ハハ…)。
 しかし心情的にこっちのほうが共感できると思うのに、なにかここにも違和感が存在する。
 なんだろうと考えたのですが、たぶん、たぶんなんですけど、おそらく登場人物たちがあまりにアニメ的すぎるんですよ。
 そのいちばんアニメ的なのは、めんまであることは論を待たない。
 いや、そこがいいんだよ、そこに意味があるんだよ、というファンの声が聞こえてきそうですが、こと設定がリアルになってくると、このめんまのアニメ声は、それだけでアニメファン以外の視聴者を疎外する要因になってしまうんですよ。

 これはおそらく、宮崎駿サンが自分のアニメに声優を使わなくなった、という要因と絡んでくる話だと思うのですが、声優さんの演技には、ある程度のお約束みたいなものが絶えず含まれていて、「女の子はカワイイ、キャピキャピ」 みたいなパターン化された演技でみな同じになってくる。 そしてそれがアニメキャラとアニメファンだけの符丁になっていって、そこに入れない人たちを 「仲間外れ」「あっち行け、しっしっ」 みたいに疎外していき、結局内向きな 「自分たちだけが分かってればいいから」「無理に分かってもらおうと思わない」 という世界を形成してしまう要因になる。

 でも実際の世界を見てみれば分かるけれども、「エヘヘェ~…」「じんたん、だぁ~い好きっ♡」「なによ~、プンプン」 などと反応する女の子など正直皆無でね(笑)。

 めんまはそうした 「閉じた空間」 の象徴的存在としてことさらアニメキャラチックな性格を背負っているのかもしれない。 幼児退行願望のアニオタたちのはけ口としてね。

 おそらくめんまは自分の願い事がかなえば消えていくのでしょう。 それがユーレイの宿命だし、そしてこのアニメの泣かせどころはそこにある、とも言える。 要するにめんまは子供の時間にとどまりたがっている 「半分大人」 たちに、少年少女時代との決別を促している存在なのかもしれない。 だから彼女は突出してアニメキャラっぽいのかもしれない。

 でも、昔の手塚・石ノ森作品を同時に見てしまった手前(笑)、なんかこのアニメの持つ最大の長所である、「等身大すぎるメッセージ」 に、物足りなさを感じてしまうことを白状しなければなりません。 別に 「あの花」 を否定しているわけではないのであしからず。

 私が同時に見てしまった 「さるとびエッちゃん」 とか 「人造人間キカイダー」。
 すごく設定が荒っぽくて、アニメのほうは絵も荒いし、特撮のほうは稚拙すぎる。
 しかしそれらの作品には、なんか独特の 「勢い」 というものが存在してるんですよ。
 これは高度経済成長期の日本が持っていた勢いとしぜん合致するものなんだと思うのですが、見ていてなんか、すごくガツガツした、前につんのめりそうなハングリーさを有していて、こちらを知らずに鼓舞するような気分にさせてくれる。
 要するに、「熱い」。

 たとえば 「さるとびエッちゃん」 その第1回目で、エッちゃんのしゃべる飼い犬の永井一郎サンは(笑)ヒッチハイクをしようとして、ねーちゃんたちがスカートをまくりあげて脚を見せてやすやすと車に乗り込んでいくのを見て、自分もマネして自分の足の皮を引っ張り上げるのですが、引っ張りすぎて皮がやぶけ骨が出てしまう(笑)。
 (笑)、と書いてしまいましたが、これかなりサベージですよ(笑)。 笑いながら、「エッ、こんなのい~のかよ」 と思ってしまいました。
 エッちゃんの性格もかなり残虐(笑)。
 いじめっ子たちをちぎっては投げちぎっては投げって、ホントにちぎってる(だったっけな?…笑)。
 これ、確か当時は少女マンガとして認識されていたと思うのですが、すごいよな少女マンガでこの過激ぶり。

 「宇宙戦艦ヤマト」 にしても、今回の 「2199」 ではかなり設定が詳細化していることはあるのですが、もともとの大きなプロットからしてスケールが違いすぎる。
 逆に、この物語を現代でリメイクするに際して、その設定を限りなく分厚くする、ということは時代の要請なんですよね。
 これって、「あの花」 の設定の緻密さ濃密さと通じるものがある。
 ただそうすることで、「ヤマト」 でさえも、1974年あたりのイケイケドンドン感というものが、失われてしまう。

 地球が侵略者によって蹂躙されていく、という話自体は当時、いっぱいあったけれども、これを解消するためにたかだか戦艦一隻だけで、何万光年も離れたところに旅立つ、というのですから、話が大きすぎるなんてもんじゃない(笑)。
 しかも敵は大帝国ですよ。 かたや戦艦大和と言えば、そもそも時代的に航空母艦(空母)が主流となりつつあった太平洋戦争末期、軍部の無知によってあえて作り出された、ただバカでかいだけの代物で。 無理がありすぎるんですよ話に。

 でもそれをどうにか見せてしまうところに、当時の 「勢い」 というものを直に感じる。
 別に 「この花」 のスケール感のないのがイカン、と申し上げているのではありません。 このすぐれたアニメは、これでいい。
 ただ、等身大の思春期の悩みを投影したもので満足してしまい、それで終わりにしてしまうよりも、もっと大きなスケールで物事を考えてもいい気もする。 自分の夢が叶わないことへの無力感を嘆く前に、まず踏み出してみろよ、と。
 この思いって、私が引きこもりの人に対して思うイライラからきているのかもしれません。 「あの花」 を見て自分を正当化すんなよ、許してしまうなよ、みたいな。 じんたん、お前が閉じこもっていられるのは、オヤジさんがいてくれるからなんだぞ、と。 いなくなったら、イヤでも自分が食うために、外に出なきゃならないんだぞ、と。

 めんまがいなくなってしまうことを一緒に嘆き、いっぽうでそこにひとつの救いを求める。 その先はアニメでは指し示すことはできません。 つまり、アニメ自体が問題なのではなく、その世界にわだかまってしまう自らの気持ち、というものが問題だ、と思うのです。

 これは、見る側の問題なのです。

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2013年8月14日 (水)

「激流~私を憶えていますか?~」 最終回まで見て

 中学の修学旅行中に行方不明になった、小野寺冬葉という少女。 その20年後、その冬葉の名前で、35歳になった彼女の友人グループ(田中麗奈サン、桐谷健太サン、ともさかりえサン、山本耕史サン、国仲涼子サン)のもとに 「私を憶えていますか?」 というメールが送りつけられてくる、というこのドラマ。

 この、初回の冬葉のいなくなりかたの演出がいかにも神隠し的で、私はこのあり得なさぶりにどこかSFチックなものを覚え、「まるで往年の 『少年ドラマシリーズ』 みたいだ」 と初回のレビューに書きました。
 そしてその懐かしさと相まって展開するのは、このメールがきっかけで露呈していく、友人グループたちの 「自分の人生、こんなはずじゃなかった」 という思い。

 このドラマを私に続けて見させたのは、実にこの 「今の自分って、15の頃に思い描いていた未来の自分とは違う」 という 「後悔」「失望」「やるせなさ」 だったように感じます。
 劇中の友人グループの年齢は35歳。 私は一回りちょっと年上ですが、やはり 「自分の人生、どこかで誤った」 と感じているという点で、いまだ彼らと同レベルなのです。

 ところがこの、冬葉の失踪事件は、回を追うごとにリアルさを増していく。

 オーラス2回ではドラマが抱えていた疑問点の回収に構成が集中し、一気にそれまで主役だった友人グループがわきに追いやられた格好。 そのバランスをとるためなのか、結局当事者全員が同じように罪深い、という理屈で、話に一定の深みを与えようとした部分が見えた気がします。

 見る側にとっては、今まで自分の 「私の人生こんなはずじゃなかった」 という部分で共感してきた友人グループですから、オーラス2回での展開は非常に理不尽極まりなく見える(笑)。
 「なんでアータがたにそんなことまで言われなきゃならんのよ?されなきゃならんのよ?」「なんでうちらまでワルモノになっちゃうわけ?」 みたいな(笑)。

 ここらへん、見る側受け止める側がどう見るかだと思うんですけどね、このドラマの評価として。

 ここからネタバレ入りますよ~(笑)。

 そもそもですよ、小野寺冬葉が死んじゃったのは(最初っからズバッとネタバレ…爆)、冬葉の母親(田中美佐子サン)と旭村先生(武田真治サン)の不倫が発端でしょーが(笑)。
 それともうひとり、冬葉のフルートの才能を自分だけ見い出していて旭村先生と婚約していた毛利先生(賀来千賀子サン)の歪んだ性格のせいでしょーが(笑)。
 それをですよ、「アンタたち(友人グループ)が冬葉さんがバスを降りたのを気付いてあげなかったのが悪い」 なんて、言いがかりも甚だしい、つーか(ハハ…)。
 いや、冬葉のオカーサンよ、アンタが抱えていた家庭の事情がど~だったかなんてイーワケにすぎない(笑)。 毛利先生よ、自分で冬葉を亡きものにしといて、友人グループにどうして思い出してもくれないんだなんて、そりゃ勝手すぎるぞてなもんで(笑)。

 この、おふたかたの、友人グループに対する 「逆恨み度」 は、はっきり言って尋常じゃなさすぎ(ハハ…)。 韓国ドラマの敵キャラ並みだ(笑)。
 そ~か、このテイスト、どこかで見たような気がしていたんですが、韓国ドラマですよこのノリは。

 しかしですよ。

 この友人グループはこの理不尽なおふたかたに対して、かなり言われっぱなしなんですよ。 ちょっとは口答えするけど。

 これってなぜなのか。

 それは、この友人グループのひとりひとりが、かなり冬葉のことを忘れて人生を謳歌していた、という自覚が、自分にあるからなんだ、と思うんですよ。

 みんな、自分の悪いところというものは、見えているようで見えていないものです。

 そりゃ、このドラマの設定からいくと、彼ら彼女らが、冬葉のことを忘れるのには、それなりの理由が備わっている、と思います。
 だって冬葉、「失踪」 しただけ、なんだもの。
 「死んだ」 と決まったわけじゃ、ないんだもの。
 「どこかで生きているだろう」 という彼ら彼女らの希望的観測が、そのまま冬葉の失踪した日まで忘れさせる要因になったことは、想像に難くない。

 でも、それはそれ。 田中麗奈サンは編集者として、高畑淳子サン演じる女流小説家の大家に対して、結構普段から事務的な冷たいやり取りしかしてなかったからこそ、他人からの嫌がらせを真に受けられてしまったのであり(普段からフランクな関係をしてれば 「ヤ~ネ、だれがこんなイタズラを」 で済んじゃうこともある)、国仲涼子サンは分相応ということを身につけていれば売春なんかやらずに済んだ。

 いちばん自分の悪い部分を自覚できなかったのは、ともさかりえサンでしょうかね、やっぱり。 歌手と小説家で一挙にブレイクして、家族も潤っただろうけれど、その先の修羅の道までは我関せず、という態度だったからこそ、弟さんがあんなになっちゃったんだろうし。

 言い訳は、いくらでもできるんですよ、みんな、自分を正当化できるだけの言い訳は。 たぶんそれは正しいだろうしね。

 でも、他人から言われなければ気付かない自分の落ち度、というものは、紛れもなく常に存在していて。

 そんな 「自分では気づかない自分の落ち度」 について、私たちはいつも恐怖を抱いている。 警戒心を抱いている。

 友人グループたちがかの理不尽なおふたかたに対して反論する態度を示せないのは、そんなところに理由がある、と私は思うのです。

 じっさいに、彼らは冬葉のことを、忘れかけていた。

 いや、それでも、彼ら彼女らの心のなかには、のど元に刺さった魚の小骨みたいに、冬葉の失踪という事実が、影を落としていたんだと思います。

 でも、やっぱり、過去というものは、忘却の彼方に流れていってしまう。

 このドラマのクライマックスで顔を合わせた、友人グループと理不尽なおふたり(笑)。
 彼らは全員が、正しい部分と、間違った部分を、同時に抱えている。
 この構造というものを見ていて、まるで舞台劇のようだ、と感じました。
 舞台劇のごとく、田中美佐子サンはそれまでかぶっていた 「かわいそうな母親」 の仮面を剥ぎ取って、田中麗奈サンたちにけもののような憎しみをあらわにし、狡猾に嘲笑いながら彼らを罵倒し続けた。
 この店はいくら客どうしが修羅場を演じてもダーレも出てこない特殊なお店のようでしたが(ハハ…)。
 いや、だからこそこの場は、劇場なんですよ。 舞台なんですよ。

 憎しみに囚われたとき、人は尋常という気持ちを踏み外していく。 憎しみに囚われた人にとって、他人の落ち度というものは、限りなく罪悪に変貌していってしまう。 この場合の 「落ち度」 というのは、「冬葉を忘れていた」、ということになりましょうか。 ともさかサンの弟の場合だと、「家族がどれだけ酷い目にあったかを姉貴が忘れていた」、ということになりましょうか。

 私も知らずに、人のことを傷つけているのか、と思うと、このドラマを見ていて感じたような寒気に襲われる気が、するのです。

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2013年8月 4日 (日)

「あまちゃん」 第14-18週 メディアの操作と批判

 東京編に入ってからの 「あまちゃん」。 クドカンサンはアイドル業界というものの魅力を巧みに探りながら、同時に芸能界に対する体系的な批判を加えようとしているような気がします。

 前回レビューでも書いたのですが、メディアミックスが始まって、一挙に社会的な潮流を作ることにこのドラマは成功しつつある。
 見る者を元気にさせるこのドラマ。
 ここ数週、その魅力は80年代アイドルの代表的なふたりである薬師丸ひろ子サンと小泉今日子サンをぶつからせることによって最大級のうねりを生み、そしてその舞台を、現代アイドルの象徴的存在であるAKB48を模した場で行なわせることで、アイドルというものを歴史的に俯瞰できる構造を目指しているように思われるのです。

 しかしそれも今週まで。 主人公天野アキ(能年玲奈チャン)は、この集団的自衛権…じゃなかった(笑)集団的競争システムから脱出し(正確に言うとクビになり…笑)、母親の天野春子(キョンキョン)と共に、新たな芸能事務所を設立するのです。 このドラマが次に向かうべき場所とは、どこなのか?

 かように糸の切れた凧みたいにゆく先の定まらない(笑)このドラマ。 登場人物たちは前回も指摘したように、かなり 「エイヤッ」 という感覚で、そのときの自分の気持ちに正直に、あと先の見境なく、自らの行動を前進させるのです。
 でも作り手の頭の中には、常に北三陸への思慕が存在している。 東北を元気に、故郷を元気に、という、地元復興への強い思いが底流にある。
 その証拠に、東京でアキの心は、北三陸への思いに時々行ったり来たりを繰り返します。 そもそも彼女が所属していたアメ横女学園(アメ女)では、地元(GMT)を前面に出したプロモを展開しようとしているのだし。

 蛇足ですがここでちょっと不思議に思うのは、最初、全都道府県からアイドルを集める、などと豪語していたアメ女のプロデューサー太巻の思惑が、結成当初からかなり急速にしぼんでしまっているように見えること。 結局5、6人しかいね~んじゃね?(笑) だいたい水口(松田龍平クン)みたいなスカウトマンが数十人とかいなけりゃハナから無理っしょ(笑)。 ただ大所帯になったら天野アキなんか埋もれてしまうけど(笑)。

 とにかく 「まめぶ大使」 として東京に出てきていた安部チャンとか、南部ダイバーの夢破れて鮨屋の見習いをしている仮面ライダーフォー…種市先輩が絡み、このドラマは東京編になっても北三陸の匂いから離れることを拒絶している。

 アキが北三陸にいたときに、自分が生まれ育った東京のことなど一顧だにしなかったことを考えると、これは雲泥の差です。
 そりゃヤナ思い出しかなかったからそ~なるのですが(笑)、アキがアメ女の活動にあまり違和感なく溶け込める背景には、GMTのノリが海女クラブのそれに類似していたことも原因ですが、もともとアキが世田谷の下北沢(セリフから類推)という、演劇のちょっとした中心地に住んでいたことも原因として絡んでいるような気がするんですよ。

 メディアミックス、という話に戻ると、このところの 「あまちゃん」 は周辺情報を拡充することで影響力をさらに加速させようとしているような気がするのは、私だけですかね。
 小泉今日子サンがもう、前いつ出たか記憶がないくらいに久しぶりのシングル盤 「潮騒のメモリー」 を 「天野春子」 名義で発売したりすることもそうですが、私が気になっているのは、ユイ役の橋本愛チャンが、アイドルの道を断たれ 「積み木くずし」 化しているのと並行するような形で、現実でも 「第2のエリカ様?」 みたいな報道がにわかになされていること。

 彼女に彼氏がいようがなんだろうがいいのだけれど、このドラマを 「もっと見たい」 と私を前のめりにさせる要因のひとつが、「ユイは大丈夫か?」 という思いなわけで。 これが現実問題でも絡んでいる、となると興味がますます惹かれる構造になっているのではないか、これってもしかして視聴率アップのひとつの策略なのではないか、と思うことがある。

 まあ、たまたまかもしんないけど(笑)。

 このドラマの吸引力を高めているのは、やはりこのドラマがAKB48とそのプロデューサーである秋元康サンに対するちょっとしたパロディ的な、批評的側面を有していることも同時に挙げられる。
 AKB48というユニットというのは、個性が埋没傾向にある現代で物量作戦に訴えたアイドルのひとつの完成形であり、競争原理の導入によって人間の業を増幅させるシステムである、といっていい。
 そこには感動的なドラマが生まれやすいいっぽう、人としての業が抱える齟齬も同時に生まれやすい。 「金儲け」 であるとか 「有名になりたい、人よりも上に立っていたい」「異性とも付き合いたい」 とか。 そんな醜い部分を見るのも、人って悪趣味だから好きなんですよ。 そこも結局商魂に利用されている。

 このドラマのなかの太巻は、さすがに投票券をCDに忍ばすとかアコギなマネ(笑)はしないけれども、「恋愛禁止」 などの項目が有名無実化していることを、このドラマではかなりあけすけに批判している。 「バレなきゃなにやったっていいんだ」、という、「人として」 の道を踏み外している構造が、臆面もなくさらけ出されているんですから。
 でも 「人ってそんなものでしょ、こういうファンへの裏切り行為も見世物のひとつなんですよ」、という部分が見え隠れすることに、世間は嫌悪感を示すわけですよね。 つまり、そういうアイドルの、そしてその発信者のキタナイ面を見透かすことによって、AKB及び秋元康サンに対して、世間の受け手というのは、優位に立てる錯覚を得ることができる。

 この構造というものの端緒は、やはり1980年代のアイドルの変容からきているように思えるんですよ。
 アイドルが1970年代の神様的存在だった時代から 「隣のお姉さん」 という位置に自ら降りてきて、聖子チャンの涙を 「ウソ泣き」 と揶揄しだした世代から、この構造は始まっている。

 だからこのドラマに出てくる往年のアイドルは、薬師丸ひろ子サンと小泉今日子サンという、1980年代のアイドルでなければならない必然性を伴っているように思えるのです。 まあ、70年代アイドルで朝ドラに出せるような人たちってあまり思いつかないけど(笑)。 でも70年代アイドルは雲の上の存在だから、アキたちと同じ批評的土壌に立てる価値観と、ずれてると思う。 ドラマとして成立しないんですよ。 アキの母親になるには高齢出産になってしまうし(笑)。

 「あまちゃん」 東京編のここまでの流れは、そんな視聴者側の批評家眼的ニーズを満足させる大きな魅力を伴っていた。

 このドラマの吸引力を高めているもうひとつの要因は、若き日の天野春子を演じる有村架純チャンに負うところも大きい気がします。

 この子、ホントに若い日のキョンキョンにそっくりだ。 よく見つけたな、という感じ。 しかも現代的な美少女のカテゴリも併せ持ってるし。
 ところが 「あまちゃん」 以外で見つける彼女、ちっともキョンキョンに似てないんだな。 髪形が聖子ちゃんカットじゃない、というのもあるんだけど。
 でも、彼女の存在というのは、キョンキョンが若い頃に同時期を生きてきた男の子にとっては、なんかタイムスリップをしたような甘酸っぱい感覚にとらわれるとても強いファクターなんですよ。

 彼女、役柄的に、当時の女の子たちが持っていた価値観を代表しているようなところがある。
 女性の力が台頭してきた時代の初期にあって、「アバズレ」 から 「ヤンキー」 への過渡期にあると同時に、前時代的なウェット感も共有している。 最近の女の子って、ここらへんのこだわりがなくて、ヤケにカラっとしてるんですよね。 土着的な、因習的なしがらみとは無縁の、次世代的な価値観の中にいる。

 私は別に、特別キョンキョンのファンだったわけではないですよ、確かに。 でもなんか、有村架純チャンを見ていると、自分の若かった時代に戻るような錯覚を覚えます。
 これこそ偶像(アイドル)そのものでしかないんですけどね。 有村架純チャンは、1980年代の住人じゃないから。

 それにしても薬師丸ひろ子サンとキョンキョンとの対峙シーンには、血湧き肉躍りましたね(笑)。

 このふたり、確か過去に映画の2本立てで一緒になったよーな記憶があるんですが、基本的に共演というのは初めてでしょう。
 ふたりとも役柄の上では本人のイメージとかなり違う。
 でもその生きるスタンスにおいて、なんかとても、役柄と本人が近い気がするんですよ。

 薬師丸サンはかつて安全地帯の玉置サンと結婚していた時期とかあって、結局別れちゃったけど、なんとなく 「これだ」 と信じてこの道を歩いていないような感覚。 数年前だったか 「A-Studio」 で 「ここは自分の居場所じゃない」 と思いながらこの仕事を続けてきた、というご本人の証言を聞いて、なんかとても納得した覚えがあります。
 言うなれば、どこかでとても、アバウトな感覚というものがこの人には備わっている。
 それが今回のドラマでも、役者以外のことではとてもオープンでだらしないところとか(笑)天野春子がアイドルになれなかった理由に 「運がなかったのよ」 とアキにさらっと言ってしまうような部分とかに現れているような気がする。

 いっぽうのキョンキョンは、前にも指摘しましたが、どこかで 「アイドル」 という自分の存在を批評家眼でどこか醒めた目で見ているような部分を私は感じていました。 早々に聖子ちゃんカットをバッサリ切ったり、「なんてったってアイドル」 なんてのはその客観的スタンスの最たるもので。
 それが今回のドラマでは、自分の過去を冷ややかに見つめ続ける天野春子のスタンスと被っている。
 天野春子がその過去に置き去りにしてきた、やり残してきたこと、というのが、キョンキョンのそれとどこかで重なる部分を感じるんですよ。
 「娘に夢を託している」。
 ドラマの中で薬師丸ひろ子サンや、喫茶店 「アイドル」 のマスターである松尾スズキサンは、その動機を無責任に論じます。
 簡単にそうとは言い切れないであろうことを、視聴者は容易に考えることができる、でも、それが何なのかは、視聴者にも当の春子にも、今のところ分かってない。 「娘をアイドルにする」、という動機はチラッと語られていたけれども、それだけじゃないことを、見る側は予感したりするのです。
 アキが本物のアイドルになった時点で、天野春子はキョンキョンとしての忘れ物を、同時に見つけることができるのではなかろうか。 そして天野春子として、このドラマがこれから遭遇するであろうあの大震災後に、アイドルとはいかなるものであるかが、理解できてくるのではないか。 そんな予感がするのです。

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