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2013年8月14日 (水)

「激流~私を憶えていますか?~」 最終回まで見て

 中学の修学旅行中に行方不明になった、小野寺冬葉という少女。 その20年後、その冬葉の名前で、35歳になった彼女の友人グループ(田中麗奈サン、桐谷健太サン、ともさかりえサン、山本耕史サン、国仲涼子サン)のもとに 「私を憶えていますか?」 というメールが送りつけられてくる、というこのドラマ。

 この、初回の冬葉のいなくなりかたの演出がいかにも神隠し的で、私はこのあり得なさぶりにどこかSFチックなものを覚え、「まるで往年の 『少年ドラマシリーズ』 みたいだ」 と初回のレビューに書きました。
 そしてその懐かしさと相まって展開するのは、このメールがきっかけで露呈していく、友人グループたちの 「自分の人生、こんなはずじゃなかった」 という思い。

 このドラマを私に続けて見させたのは、実にこの 「今の自分って、15の頃に思い描いていた未来の自分とは違う」 という 「後悔」「失望」「やるせなさ」 だったように感じます。
 劇中の友人グループの年齢は35歳。 私は一回りちょっと年上ですが、やはり 「自分の人生、どこかで誤った」 と感じているという点で、いまだ彼らと同レベルなのです。

 ところがこの、冬葉の失踪事件は、回を追うごとにリアルさを増していく。

 オーラス2回ではドラマが抱えていた疑問点の回収に構成が集中し、一気にそれまで主役だった友人グループがわきに追いやられた格好。 そのバランスをとるためなのか、結局当事者全員が同じように罪深い、という理屈で、話に一定の深みを与えようとした部分が見えた気がします。

 見る側にとっては、今まで自分の 「私の人生こんなはずじゃなかった」 という部分で共感してきた友人グループですから、オーラス2回での展開は非常に理不尽極まりなく見える(笑)。
 「なんでアータがたにそんなことまで言われなきゃならんのよ?されなきゃならんのよ?」「なんでうちらまでワルモノになっちゃうわけ?」 みたいな(笑)。

 ここらへん、見る側受け止める側がどう見るかだと思うんですけどね、このドラマの評価として。

 ここからネタバレ入りますよ~(笑)。

 そもそもですよ、小野寺冬葉が死んじゃったのは(最初っからズバッとネタバレ…爆)、冬葉の母親(田中美佐子サン)と旭村先生(武田真治サン)の不倫が発端でしょーが(笑)。
 それともうひとり、冬葉のフルートの才能を自分だけ見い出していて旭村先生と婚約していた毛利先生(賀来千賀子サン)の歪んだ性格のせいでしょーが(笑)。
 それをですよ、「アンタたち(友人グループ)が冬葉さんがバスを降りたのを気付いてあげなかったのが悪い」 なんて、言いがかりも甚だしい、つーか(ハハ…)。
 いや、冬葉のオカーサンよ、アンタが抱えていた家庭の事情がど~だったかなんてイーワケにすぎない(笑)。 毛利先生よ、自分で冬葉を亡きものにしといて、友人グループにどうして思い出してもくれないんだなんて、そりゃ勝手すぎるぞてなもんで(笑)。

 この、おふたかたの、友人グループに対する 「逆恨み度」 は、はっきり言って尋常じゃなさすぎ(ハハ…)。 韓国ドラマの敵キャラ並みだ(笑)。
 そ~か、このテイスト、どこかで見たような気がしていたんですが、韓国ドラマですよこのノリは。

 しかしですよ。

 この友人グループはこの理不尽なおふたかたに対して、かなり言われっぱなしなんですよ。 ちょっとは口答えするけど。

 これってなぜなのか。

 それは、この友人グループのひとりひとりが、かなり冬葉のことを忘れて人生を謳歌していた、という自覚が、自分にあるからなんだ、と思うんですよ。

 みんな、自分の悪いところというものは、見えているようで見えていないものです。

 そりゃ、このドラマの設定からいくと、彼ら彼女らが、冬葉のことを忘れるのには、それなりの理由が備わっている、と思います。
 だって冬葉、「失踪」 しただけ、なんだもの。
 「死んだ」 と決まったわけじゃ、ないんだもの。
 「どこかで生きているだろう」 という彼ら彼女らの希望的観測が、そのまま冬葉の失踪した日まで忘れさせる要因になったことは、想像に難くない。

 でも、それはそれ。 田中麗奈サンは編集者として、高畑淳子サン演じる女流小説家の大家に対して、結構普段から事務的な冷たいやり取りしかしてなかったからこそ、他人からの嫌がらせを真に受けられてしまったのであり(普段からフランクな関係をしてれば 「ヤ~ネ、だれがこんなイタズラを」 で済んじゃうこともある)、国仲涼子サンは分相応ということを身につけていれば売春なんかやらずに済んだ。

 いちばん自分の悪い部分を自覚できなかったのは、ともさかりえサンでしょうかね、やっぱり。 歌手と小説家で一挙にブレイクして、家族も潤っただろうけれど、その先の修羅の道までは我関せず、という態度だったからこそ、弟さんがあんなになっちゃったんだろうし。

 言い訳は、いくらでもできるんですよ、みんな、自分を正当化できるだけの言い訳は。 たぶんそれは正しいだろうしね。

 でも、他人から言われなければ気付かない自分の落ち度、というものは、紛れもなく常に存在していて。

 そんな 「自分では気づかない自分の落ち度」 について、私たちはいつも恐怖を抱いている。 警戒心を抱いている。

 友人グループたちがかの理不尽なおふたかたに対して反論する態度を示せないのは、そんなところに理由がある、と私は思うのです。

 じっさいに、彼らは冬葉のことを、忘れかけていた。

 いや、それでも、彼ら彼女らの心のなかには、のど元に刺さった魚の小骨みたいに、冬葉の失踪という事実が、影を落としていたんだと思います。

 でも、やっぱり、過去というものは、忘却の彼方に流れていってしまう。

 このドラマのクライマックスで顔を合わせた、友人グループと理不尽なおふたり(笑)。
 彼らは全員が、正しい部分と、間違った部分を、同時に抱えている。
 この構造というものを見ていて、まるで舞台劇のようだ、と感じました。
 舞台劇のごとく、田中美佐子サンはそれまでかぶっていた 「かわいそうな母親」 の仮面を剥ぎ取って、田中麗奈サンたちにけもののような憎しみをあらわにし、狡猾に嘲笑いながら彼らを罵倒し続けた。
 この店はいくら客どうしが修羅場を演じてもダーレも出てこない特殊なお店のようでしたが(ハハ…)。
 いや、だからこそこの場は、劇場なんですよ。 舞台なんですよ。

 憎しみに囚われたとき、人は尋常という気持ちを踏み外していく。 憎しみに囚われた人にとって、他人の落ち度というものは、限りなく罪悪に変貌していってしまう。 この場合の 「落ち度」 というのは、「冬葉を忘れていた」、ということになりましょうか。 ともさかサンの弟の場合だと、「家族がどれだけ酷い目にあったかを姉貴が忘れていた」、ということになりましょうか。

 私も知らずに、人のことを傷つけているのか、と思うと、このドラマを見ていて感じたような寒気に襲われる気が、するのです。

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