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2013年9月

2013年9月29日 (日)

「あまちゃん」 最終回まで見て(「あさイチ」 プレミアムトークの感想もあるよ)

 場当たり的で、下品。

 このドラマに対するネガティヴな評価というのは、まずこんなところが大きな柱ではなかったろうか、という気がします。
 クドカンのドラマに特徴的であるように、NHKということで多少のブレーキはかかっているとはいうものの、登場人物たちは概して口が悪く、気難しがり屋の視聴者にとっては笑えないマニアックなギャグが飛び出す。 さらにその語り口の強引さで、まあ多少は大目にみてよ、という部分まで、透けて見えてしまう。

 でも、私はこのドラマの 「東北復興、元気を取り戻す」 という大目的という点において、その役目はじゅうぶん果たされた、と感じます。

 このドラマって、見てるとこちらが元気が出る作りになっている。
 タイトルバックからしてそうで、あの 「徒競走」 みたいなテーマ曲と同時に、ヒロインの能年玲奈チャンがはじけるようにジャンプする。 このオープニングのインパクトは、歴代の朝ドラのなかでは比較的秀逸な部類に入るのではないでしょうか。
 私は夜勤ですからあまりその恩恵は受けなかったんですが(笑)、あれを見て会社に行く、という行動パターンだったら、すごくカタパルトみたいなタイトルバックだったと思うんですよ。 元気に仕事に飛び出して行けそうな。

 しかも本編は、基本的に暗くなりようがないでしょ。
 いくら登場人物たちが悩んでたって、どこかに茶々が入るような作りになっているし。
 重たい場合は、「重たい」 と念を押されるし(笑)。

 で、ドラマ自体が、AKBとかのパロディやら1980年代へのオマージュやら、とにかくごった煮で、すなわち 「お祭り騒ぎ」 なんですよ。
 これをマスコミが追い打ちをかけるように、このドラマをブームにしようと乗っかり、お祭り騒ぎは雪だるま式に膨れ上がっていった。

 確かに作品の質を考えた場合、そんなに評価されるほどの出来か、というとけっしてそうではない。
 だから騒がれかたが大きくなるに従って、却って醒めてしまう見かたもあると思います。

 でも私の場合、物語の整合性とか浅薄の度とかに関わらず、このドラマにはしょっちゅう笑わせられたし、見ていて基本、楽しかった。 私はたまに固め見するのが常だから、かなり話によってはしんどくなって、視聴をやめてしまうことが朝ドラの場合、結構ある。 でも今回の朝ドラは基本それがなくて、見始めると次も次も、という感じで見れちゃった。
 結果的にこの 「あまちゃん」 は、「カーネーション」 以来、ズブンが完走した朝ドラの一員に名を連ねることができました。

 だってなにしろ、1回につき15分とはいえ、これが週6で150回以上続くんですよ。 脚本家にとってはまさに、自らの力量が試される場である、と言っていい。 これを最初から最後まで徹頭徹尾、緻密な物語を構築できるっていうのは、まさに神業に近い、って私は思うんです。

 最終回まで見て抱いた感想というのは、かつてこのブログで書いた数少ないレビューのなかのひとつに書いたとおりになってしまった気がします。

 いわく、
 なんだかんだと迷う前に、やりたいことをやっちまえばいいじゃないか、と。

 「あまちゃん」 というのは海女ちゃんであると同時に、人生の甘ちゃんでもある、という思想は明確に伝わってきたのですが、「甘ちゃん上等!甘ちゃんでなにが悪い?甘ちゃんだからこそ、生きていく力が生まれるものなんだ」 という、クドカンサンの主張も感じ取ることができました。

 つまり、「グダグダ考える前に跳んでしまえ」、という、半ば強引な人生の生き方のすすめ。
 このドラマは、「昔の自分を乗り越える」、という課題を、登場人物たちが背負っている。
 それは主人公アキの母親、春子(小泉今日子サン)や夏ばっぱ(宮本信子サン)はもとより、アキの父親正宗(尾見としのりサン)、アキの親友ユイ(橋本愛サン)、大吉クン(杉本哲太サン)とかあんべチャン(片桐はいりサン)、太巻P(古田新太サン)や鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子サン)にとっても共通の課題だった。
 アキにとっても、東京でのチョー暗かった自分を克服するためのステージとして、北三陸があったことは論を待たないのですが、しかし彼女はかなりのスピードで、それを克服していってしまいます。
 それは彼女が、三陸訛り、という自分の変身ツールを身につけたからである、というのは以前のレビューで指摘したのですが、それにしても早すぎる。
 でもそれは、彼女が望んでいたことだったから。
 以前の自分をリセットできる場所を、彼女が得たということだから。

 海女から素潜りの南部ダイバー、そして地元系アイドルへと、その衣を早変わりのごとく脱ぎ捨て着替えていったアキは、朝ドラ視聴者の小姑的な目線をよそに、みずみずしく泳いでいったような気がするのです。

 ここで興味深いのは、当の能年玲奈チャンが、実は登場した当時から、ほとんどみずみずしい気持ちを失っていない、ということ。

 私が彼女を見た最初は、「今夜も生でさだまさし」 に 「今度の朝ドラのヒロインです」 ということで登場した時でした。
 「北の海女」 の格好をして入ってきたはいいものの、もうなんか、すごく影が薄くて(笑)。 おまけになんかオドオドして、挙動不審(笑)。 別の話に夢中になるさだサンを尻目に全く会話に入ってこれず、なんかいるのかいないのか分かんないうちにそのまま退場してしまって(笑)。 今にも消え入りそうなキャラクターだった。
 それがですよ、今回先週の 「あさイチ」 も併せて見たんですが、プレミアムトークに登場した彼女、相変わらずキョドってるし(笑)、有働アナウンサーのツッコミに時折り言葉を失ってしまうほどのナイーヴさも健在していて。 「なんだ、『生さだ』 のときと変わんないじゃん」 って(笑)。

 これを演じているのではなく、素のままでやってるとしたら、彼女は相当すごい。 いや、この素人っぽさを演じているのだとしたら、そちらのほうがすごいことですけど(笑)。
 つまり能年玲奈チャンって、上野樹里チャンとかが持っている、女優特有の不思議感覚の持ち主である、そんな気がする。
 これってちょっと道を間違えてしまうと、ただの変わり者に陥ってしまう可能性が非常に高くて。
 「あさイチ」 のなかで宮本信子サンが、能年玲奈チャンはそのパターンに陥らなかった希有なケースであることを図らずも吐露していたような気がするのですが、でもこの先も、彼女にはその危険性が、常に付きまとっている気がするのです。

 「あさイチ」 では、「家では生ゴミみたい」 と自分のことを言っていた彼女ですが(笑)、イノッチや有働サンの質問にいちいち考えこんでしまってスパッと回答できないのって、「生ゴミ抜け切ってないんじゃ?」 みたいな(笑)。
 でもそれは、真摯さの裏返し。
 このインタビューでミソがついてしまったのが、またもや有働アナだったというオチまでついて(笑)。 「有働テメー、アキちゃんが怖がってるじゃねーかよ、いじめんなよ」 みたいな(笑)。

 でも、最終回まで見たアキは、そんな本人のナイーヴさとは裏腹に、自分を表現する場を与えてもらったうれしさで、泳ぎまわっていた。
 彼女がこのドラマの続編を強く希望している(そしてキョンキョンにそれをたしなめられたらしい…笑)、というニュースも小耳にはさんだのですが、おそらくそれも、ナイーヴな彼女の 「居心地のいい場所を失いたくない」、という気持ちから発生しているのでは、と感じる。
 あさイチでは、このドラマは自分にとって 「基盤」 だ、と答えてました。
 そしてその意味をさらに尋ねる有働アナ(笑)。
 「基盤」 ったら 「基盤」 だろがよッ!みたいな質問、つーか(笑)。

 話を戻しますが、アキがどんどんと自分の夢を叶えていく、という過程は、そりゃ現実味には程遠い。
 夢というのはたいてい叶わないのが常で、ましてや人気アイドルになるとかテレビに出るとか、かなり確率の低い話です。
 そこをこのドラマでは、春子と太巻の関係性をクローズアップさせることで、その実現性の低さを克服している。
 そしてそこに、アキの親世代が抱えている、「過去の自分を乗り越える」 というテーマを絡めさせたところが、このドラマが私たちのような中年世代にも受け入れられた、大きなファクターとなった気もします。

 このお話の後半を見ていて特に興味深かったのは、時折り現れる、若き日の春子(有村架純チャン)の幻影。 これが現在の春子が乗り越えるべきものだった、という結論に達したのが、最終週でした。 と同時に、それは鈴鹿ひろ美が乗り越えるべき存在でもあった。 この描きかたも見事だったと思います。

 もともとですよ、じっさいの話をさせてもらえば、歌唱力という点では、小泉今日子サンと薬師丸ひろ子サンって、ドラマとは逆だと思うんですよ。 薬師丸サンは確か、合唱部に入っていただけあって、キョンキョンのアイドル然とした歌い方に対して、かなり歌がうまかった。 口を大きく開けて歌うし、お腹から声を出してる感じだし。 うますぎて、その少々声楽家みたいな歌いかたが、かえってアイドルっぽくなかった印象が、私なんかはあります。
 それが、キョンキョンが薬師丸サンに歌唱指導、ですからね(笑)。 私なんかから言わせると、「逆だろ、逆!」 みたいな(ハハ…)。

 ドラマのクライマックスでは、鈴鹿ひろ美が音痴だったのかそうでなかったのかの結論を、うやむやにしたまんまで終わりましたが、彼女が薬師丸ひろ子サンに戻って歌っているかのようだった、劇中歌 「潮騒のメモリー」。
 最初聞いたときは、かなりオチャラケた、遊び半分の歌だと感じたのですが(特にラストの 「好きよ、嫌いよ」 は、まんま聖子チャンの 「小麦色のマーメイド」 でしたからね…笑)、この歌詞のなかで 「寄せては返す波」 とか 「三途の川」 とかの言葉を、震災後のイメージの変化と結びつけたくだりは、「ここまで計算していたのか」、という感じでした。
 最終週、鈴鹿ひろ美が歌詞を変えたその言葉は、アキ、春子、夏ばっぱに向かったメッセージに昇華した。 それはドラマとしてのカタルシスを呼び込む大きな要因になった気がします。 

 それにしてもじっさいこのドラマでは、実に些細なことまで、回想シーンが頻繁に使用されていた印象があります。
 これってつまり、クドカンサンが、原稿をとてもトータルに読み返しながら、あるいはキモとなるセリフを抽出しながら台本を書き進めていたことの証左なのではないかな、と思う。
 思ったより計算高いな、という感じ(笑)。

 その、キモとなるセリフにしても同様で。
 見ていてかなり、ハッとするセリフにぶち当たるんですよ、このドラマ。
 それがあまりに多すぎて却って記憶に残ってない、アホな筆者ですが(ハハ…)、その全体的なイメージを思い出すと、やはり 「グダグダ考えてないで、こうと決めたらやるんだよ!」 みたいな 「思い切り」 を促すものだった気がします。

 これは、何でもかんでも好き勝手やっていいんだ、という意味でないことは自明です。
 これは、引っ込み思案な人に対するハッパなんですよ。
 まず一歩踏み出してみる。 考えるのは、それからだ。
 これは、夏ばっぱが海に潜るアキに対して言ったセリフにあったような気がします(たぶん…笑)。
 アキがユイに向かって放った一言にも、それが表れていた気がする。 「アイドルなんて、ダセーのは分かってた。 ダセーくらい我慢しろよ!」 みたいな(うろ覚えでスミマセン)。
 ウジウジ考えててもしょうがない。 まずはやってみろよ、と。

 そしてそれがたとえ、世の人々の不興を買うことでも、やってみなきゃ分かんないだろう、と。

 この物語の最終回、アキはユイに誘われて、未だ開通していない、北三陸線のトンネルをくぐり抜けていきます。
 これってとても感動的なシーンである、と同時に、安全面からいうと、とてもほめられた行為じゃない。
 でも。

 分別とかを諭すのは、大人の役割であって。

 結局この物語が、もし戦っているとしたら、そんな世間の、あまりに分別がつき過ぎた、管理されすぎた事なかれ的な考え方に対してではなかったろうか?という気も、してきます。

 それを言い出したら、暑いのでアイスケースに入ってみましたとか、やってみなきゃ分かんないだろう、という論理に結び付いてしまいそうですけど、バカじゃなければそこまで考えんだろう、と(笑)。 そんなことも分かんないバカも、確かに多いけど(笑)。

 でも、バカが全世界発信になっちゃうから怖い、というのもあるし。

 なんの話をしとるのだ(笑)。

 あと、ユイちゃんが地震のあとにトンネルを抜けて見てしまったものについても、考えたい。
 彼女は潮騒のメモリーズを再結成することを頑なに拒絶し続けたわけですが、やはりそれは、彼女が修学旅行でさえ行くことの叶わなかった東京に、初めて行く、という日に出会った出来事の大きさが、そうさせたのだと感じます。
 ほかの日ではなく、あろうことかその日に出会ったその災厄。
 彼女が見たのは、「お前は東京に来るな」 とばかりに無残に引きちぎられたレールと、そして瓦礫だけでなく、犠牲者の姿だったのではないか、という気がする。
 それは、運命が彼女に突きつけた、「お前はアイドルになってはならない」 というメッセージのように、彼女はとらえた気がする。

 この物語後半の、大震災からの復興編に対して、主にヤフーの星イチ批判者たちは格好のエサを見つけたみたいでしたが、みんな三陸に集まってくるのにどうのこうのって、当たり前でしょ、みたいな。
 それだけ、みんな何かをしようと思って集まってくるのだから。
 アキが海女カフェの再建を口にするのだって、なんとか元気を取り戻そう、という気持ちの表れであって、けっして自分勝手で言ってるわけじゃないし。
 メガネ会計ババア(木野花サン)の家が流されて、海女カフェのほうが先かよ、という話だって、確かに劇中でもあった。
 でも、オチャラケているようなふりをしながら、ノーテンキに笑っているふりをしながら、みんな心に、大きな傷を抱えている。
 けれどもたとえどんなに悲しくても、みんな笑おうとしているんですよ。
 それがどれだけ尊いことか。

 悲しいから悲しい顔をするのは、簡単です。
 でも、悲しい時に笑おうとするからこそ、人は自分の人生の意味に気付いていくものなんじゃないでしょうかね。

 その点で、特に物語の終盤では、大吉サンには泣かされましたね。 北鉄の復旧が決まってあいさつに立った時に感極まるところとか、あんべチャンに求婚を申し込むところとか。
 たまりにたまっていたものが溢れ出すから、それが私を泣かせるんでしょうね。

 ユイが潮騒のメモリーズ再結成を決断したのも、いわゆる震災復興という、ありがちなボランティアという動機ではなかったことにも、着目します。
 つまり、まずは自分が、輝くこと。
 自分が輝くことによって、まわりの人々も元気になっていく。
 それをユイは、アキの姿から気付かされていった、という話の進め方も、よかった気がします。

 結局ストーブさん(小池徹平クン)だけが、物語的に成就したものがなかった感じですけど(笑)。 ミズタク(松田龍平クン)は、思わぬところで思わぬことが成就したつー感じでしたが(笑)。

 このお話の屋台骨を支えたのが夏ばっぱだったことは明白ですが、夏ばっぱには、引退せずに最後まで現役で潜ってもらいたい気がしますよね。

 さて、もう書くこともなくなってきた気がします。

 このお祭り騒ぎが終わってしまったことは、とてもさびしいですね。 夏の名残りに、キンモクセイの匂いを嗅ぐようで。
 最後まで、単純に、面白かったです、このドラマ。 笑わせてもらいました。 ありがとうです。

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2013年9月20日 (金)

「ワンス・アポン・ア・タイム」 第1回 最近の海外ドラマときたら…

 ディズニー傘下のアメリカABCスタジオ制作による、ファンタジー・ドラマ。 おとぎの国の人々が、悪い魔女によって記憶を失ったまま、現代のある街に閉じ込められて暮らしているという設定です。 NHKBSプレミアムで始まりました。

 とりあえずこの悪い魔女というのが、「白雪姫」 に出てくる毒リンゴ作ったあの魔女だという設定で、この悪しき状態を救うヒロイン、エマ・スワンが、白雪姫と王子様とのあいだに生まれた娘であるらしい。
 ということは、おとぎの国と言っても 「白雪姫」 の世界だけなのかというと、なんだか 「ピノッキオ」 とか、「赤ずきんちゃん」 とか、なんつーかディズニーワールドのレギュラーメンバーも駆り出されている模様(笑)。 「赤ずきんちゃん」 ってディズニーランドにいたかどうか知らないけれど、ディズニークラシックでアニメを見た記憶があります。
 ディズニー御用達ということで、グラスホッパーのジミニー・クリケットとかディズニーアニメにしか出てこないキャラクターもいるみたい。
 まあ要するに、「呪われたディズニーランド」、という設定でよろしいでしょうかね(笑)。

 となると、さしずめヒロインのエマ・スワンはディズニーキャラクターを救う、テレビゲーム 「キングダム・ハーツ」 のソラみたいな感覚で(笑)。 キーブレードは持ってないけど(笑)。

 第1回、そのエマを呼び戻しにボストンまでやってくるのが、エマの息子であるヘンリー。 このヘンリーは生まれてすぐにエマに捨てられたらしいのですが、どういうわけか知らないけれど、ヘンリーを養子として育てているのが、この世界を呪いにかけた悪い魔女当人なんですよ。 どうもここらへんの成り行きというものが分からない。 そのうちに分かるのかもしれないけれど。

 少々入り組んだ設定のため、今回NHKは番組冒頭と終わりに速水もこみちクンを登場させ、解説を加えているのですが、ん~…(ハハ…)。

 はっきり言わせてもらえば、「要らんよコレ」 つーか(笑)。

 いや、やるのは一向に構わないのですが、そのためになんだか金のかかってそ~なセットを作ってスモーク焚いたりライトアップしたり、「受信料をこんなところで浪費するな」 と言いたくなるよ~な感じで(笑)。

 つまりはこの案内役をやらされているもこみちクンにも、要らぬイメージダウンを強いるわけであり(ハハ…)。
 NHK、「純と愛」 でもこみちクンのイメージをダウンさせといて、さらに追い打ちかけるかな、みたいな。

 そしてエンディングテーマには中川翔子チャンが起用されてて、これも 「要らんよ」 という感じ(ショコタンゴメン)。 まあいいんですけど。 NHKの海外ドラマにはよくあるパターンだし。
 ただなんかもっと、シンプルに本編だけやってりゃいいのに、なんで余計なことをするのかな、と思っちゃうんですよ。
 NHKは来たるスーパーハイビジョンの次世代4Kには目もくれず、その次の8Kをしたくてしょうがないんでしょ。 他局民放なんかはハイビジョンの設備投資だけでヒーヒー言ってんのに。 要するに受信料もらいすぎて資金が潤沢すぎるんじゃないですか? だからこういうちょっとしたところを見ても、「無駄遣いなんじゃないか」、という気がしてならんのですよ。 カネがあると、通常感覚って麻痺してきますからね。

 それも大事な問題ですけど、当のこのドラマも、最近の海外ドラマが陥っている悪しき傾向に染まっている気がする。

 つまり、設定のフィールドを限りなく広くしておいて、ドラマが成功した場合に備えて、後付でどんな言い訳も立つように間口を開けておくという傾向。
 そのために登場人物や状況をかなり細かく設定していくんですよ。 アルティマニアクラスの攻略本でも一冊作れそうなくらいね。
 だから、1回見ただけではにわかに理解できないことが、多すぎる。

 この傾向というのは、まあこっちは映画ですが、「スター・ウォーズ」 の第1シーズン、4、5、6作のころの設定の仕方からいうと、病的なほどに深化している気がします。 「ロード・オブ・ザ・リング」 とか 「ハリー・ポッター」 とかが、この設定細分化の呪縛にかかった典型、というか。 その傾向がテレビドラマにも要求されているんだな、と感じる。
 結構難解そうに思えた 「ブレードランナー」 でも、まだ牧歌的だった気がします。 「マトリックス」 になると、もう病的レベル(笑)。

 で、だからドラマを見たあとに、「アレって何なんだ?」 という感じで、ネットとか見る羽目になってくる。 知識欲はそれで満たされるからいいかもしれないけれど、正直ここ数年、かなりメンド臭い、個人的には(トシかな)。

 そして、「ER」 あたりから始まったような気がするけれど、どうもこのお話も、何シーズンも続くらしくて。
 当たったからって引き延ばすなよな、つー気がするんですよ。 しかもシーズン終わりには 「なんだよコレ、どうなっちゃうんだよ?」 みたいな終わり方するし(「SHERLOCK」、続編どーなってんだよ!…笑)。 たぶんこのお話もそうなんでしょ(と決めてかかってますが)。
 あまりこういうことばかりされると、そのうちウンザリしてくるんですよ。 いくら話が面白くてもね。

 設定の膨大化という問題に話を戻しますけど、どうも個人的な感覚だと、こうすることで却って、ことに人物の場合、その人物に感情移入しにくくなってくるような気がする。 つまり、登場人物のひとりひとりが、ヤケに物分かりがよく状況をすぐに飲み込めて頭がいい、という傾向になってないだろうか。 そうすることで物語のスピード感は増してスリリングにはなるのですが、あまりに登場人物たちが物分かりがよすぎると、私みたいな老境に差し掛かりつつあるオッサン(笑)は、置いてきぼりを食らうみたいでね(ジジイのヒガミだ)。
 いきおい、登場人物に感情移入がしにくくなる。

 今回のこのお話も、だいたいのディティールは見てれば分かるんですけど、ヘンリーがどうして悪い魔女の養子?とか考えてるあいだに、どんどんお話が進んでいって(笑)。 話が目まぐるしいから、考えてるヒマもない、つーか。

 でもまあ、今日的には、こういうのは面白い、というカテゴリーには入るんですよね。 面白いですよ、なんだかんだ言っても。

 ただまあ、なんかどこかで置いてきぼりを食らわされてる一抹の寂しさっつーのも、あるこたあるのです。

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2013年9月16日 (月)

「八重の桜」 第30回 「再起への道」(7月28日放送) 第31-34回 「離縁のわけ」「兄の見取り図」「尚之助との再会」「帰ってきた男」(8月4、11、18、25日放送) 第35-37回 「襄のプロポーズ」「同士の誓い」「過激な転校生」(9月1、8、15日放送) を見て

 ひゃー。 前回のレビューからたまりにたまりまして、8回分のレビューと相なってしまいました。 あまりにたまりすぎて、どこにレビューの論点を置いたらよいか分からない(笑)。

 ただ、前回 「鶴ヶ城開城」 の回のレビューに付属しているコメント欄において、このドラマをご覧のコメンテイターのかたが、「鶴ヶ城開城」 以降の回についてことごとく深いレビューをなさっておいでです。 つくづくありがたいことであります。
 このところ出張がかさんだうえに夏バテとその後遺症で完全にブログを書く気を失っている、ダメな当ブログ筆者(ハハ…)は、これらの高度なコメントに対してかなり的外れな返信をいたしておりますが、当たらずとも遠からじという感じで(笑)このコメント欄でレビューに替えることはできる、と自負いたしております。 どうぞそちらをご覧ください…って、人気記事ランキングでも上位に位置してるから、「鶴ヶ城開城」 の回は、かなり皆様に読まれていると勝手に判断いたします。

 と、ひと通りイイワケを書き連ねたところで…。

 ここ数回の 「八重の桜」 を見ていて感じることは、何千発の砲弾を受けて瓦解していく鶴ヶ城が、明治の世になってからもさらに見えない砲弾を受け続け、崩落を続けている、ということ。

 新しい世の中が、巨大な鎚の音を立てて建設されていくのだけれど、その新しい世の中が捨て去ろうとするものたちの、絶え間ない怨嗟の声が聞こえてくる。

 八重はすでに、その新しい価値観のなかに、自らを委ねようとしている。

 それは八重にとって、新しい風景を見るような、高揚感の連続です。
 けれどもそれは同時に、過去を捨て去る作業を八重に強いてくることではないか、と私には思える。
 ただ、「過激な転校生」 の回までを見る限り、その葛藤を八重が積極的にどうにかしよう、という動きをしているようには見えません。
 先にご紹介した 「鶴ヶ城開城」 のコメント欄でも、このことについてはコメンテイターの皆様が指摘をしておられます。

 八重だけでなく、戦いに敗れた会津の人々が、その後の時代に何を犠牲にしたのかを、このドラマは積極的に描こうとしていない。 山川浩にしても、梶原平馬にしても、佐川官兵衛にしても、それまでの自分にどうオトシマエをつけているのかが、きちんと見えてこないんですよ。
 その代表格が松平容保であることは論を待たないのですが、鶴ヶ城落城まで、あれほどまでにドラマの中核をなしていただけに、容保の消息が斎藤一(藤田五郎)の祝言の際にしか現れない、というのは、ドラマの体裁としてはちょっと不格好な気がする。 仕方ないんですけどね。 もう八重の人生とは交わらないんだから。

 容保公の最後のスケープゴートとなったのが、萱野権兵衛。 容保公が助命される肩代わりとして、切腹を命じられます。 彼は旧時代の、主君に対する忠誠心という誉れのなかで死んでゆく。
 ただし明確に身代わり、という萱野に限らず、斗南に移り住んだ人々は、極寒の地で塗炭の苦しみのなかで死んでいった人々もいるわけで、その複数のかたがたも、容保公の失政の犠牲者である、と言える。 梶原平馬は、立場上萱野よりも責任の度は大きかったのに切腹を免れたばかりか、斗南の統括を山川浩に譲渡し、失職したために妻の双葉を離縁し、結局何やってんだか(ハハ…)。 託されたほうの山川浩は、困窮した元藩士たちに 「我慢しろ」 と言うばかり。 ドラマを見ている限りでは、山川が何かしたとか分かんなかったんですけど。
 佐川官兵衛は藤田と共に警視庁に勤めるようになったんですが、結局血気盛んなもと会津藩士たちの過激な行動に対して取り締まるしかできず、山川には 「アイツラと会ったことにするな」 と釘をさす始末。

 この人たち、過去の自分にどうオトシマエをつけてるんでしょうかね。 少なくともドラマでは、表面的にしか聞こえないセリフだけではなく、行動で見せてほしい気がするんですが。

 ドラマ上いちばん惨めなのは、八重の夫であった川崎尚之助。 斗南のためにコメを調達しようとして詐欺事件に巻き込まれ、裁判闘争中に肺病で死亡、とは。
 これをドラマでは、いちおう一定の配慮された演出でフォローはしているのですが、実際のところこのドラマがNHKで放送されることが確定してから、川崎の文献が発掘されて名誉が回復されたような感覚なのであり、いわば歴史に埋もれていた人物。 旧会津の人々が、川崎尚之助に対して何かをしたのか、ということが、このドラマではまったく描かれないんですが、実際も完全に見棄てられていたんだろうな、ということが分かる。

 ただつらつら考えるに、実はコメ調達をめぐる詐欺事件って、巻き込まれたんじゃなくて首謀者だったのではなかったのかな、という気もしてくる。 だからみんな川崎に救いの手を差し伸べなかったのかな、とか。 ドラマでは八重が 「自分が恐ろしいのです」 とか 「待ってっから」 とか言ってましたけど、それこそ説得力がなくてね。 いてやれよ一緒に、てなもんで(笑)。

 そして八重の兄、山本覚馬。

 彼こそが過去をはっきりと捨て去ろうとしている会津藩士の象徴みたいでね(笑)。
 先に紹介したコメント欄でドラマを見ていない私が腹立ってたのが、覚馬が京都で子供作っちゃったということで(笑)。
 まあ同情するに足る事情はございますよ。 獄に繋がれて半身不随になって目が見えなくなって、それでも会津の無実を訴え続け、坂本龍馬の新政府綱領にも匹敵する、新時代の見取り図である、管見なるものを作り上げたのだから、そりゃ京都の知事、じゃないのか、いちばんエライ人の後見役になるのも当然でしょう。
 しかし覚馬が見ているのは未来のことばかりで、やはり過去の自分に向き合っていない。 いや、未来を見据えることで過去への贖罪に変えようとしている部分が見えるんですよ。
 その犠牲となったのが、7年(だったかな)も彼の帰りを待ち続けた妻の うら であることは自明。 いちおう覚馬はうらのことを考えたりもしますよ。 赤い櫛とかなんとか(笑)。 でも彼が考えている膨大な未来のことに比べれば、もう一瞥でしかないし、別れたうらに何かしようとすらしてないでしょ、ドラマだけ見てると。
 それにやっぱり、尚之助のことに対しても、後悔の言葉ばかりで何かをしてやろうとしているそぶりが全くない。 自分のボスの高嶋サンがピンチになったときに東京まで行ったんだから、そのときに何かできそ~なもんだ、と私も思いましたですよ、ささ様。

 まあだから、要するに川崎尚之助は、詐欺の首謀者だったから覚馬にも八重にも会津にも見棄てられたんだ、とゆーことでよろしいでしょうかね(ハハ…)。

 そんな旧会津の人々の身の処し方を見ていると、新しい時代に適応しようとしながら、古い時代を廃仏毀釈のごとくさらに壊そうとしているようにも、見えてくる。 私が 「鶴ヶ城がさらに見えない砲弾で瓦解している」、と書いたのは、そのためです。
 このドラマでは明治時代になっても、鶴ヶ城の雄姿が冒頭に登場します。
 これは、八重たちの心のなかにある 「誇り」 の象徴として、その美しい姿をとどめているのかもしれないけれど、私にはさらに失われつつある美しい精神の象徴であるように思える。

 そして、新しい時代を切り開こうとする覚馬や八重、八重の夫になる新島襄が直面しているのが、「新しい時代とは名ばかりの、旧弊」。

 八重の前に現れた新島襄は、このドラマにおいてはとても現代人なんですよ。 男子厨房に入ってしまうし、ハグはするしメソメソ泣くし。 言ってみれば、現代からタイムスリップしてこの時代に舞い降りてきてしまった天使。 相手が綾瀬はるかサンだから、「JIN」 みたいですよね(笑)。
 西洋に追いつこうとするには、西洋人の考えの基盤であるキリスト教を学ぶ必要性があるというのに、それが分からない人々。
 これは最新回で同志社に編入されてきた熊本バンドの連中にも言えることで、彼らはキリスト教の信者となりながらも、その考え方は旧弊に凝り固まっており、頭とからだが、バラバラな状態に見えます。 「汝の隣人を愛せよ」 とか言って、ぜんっぜん言葉通りのことをしてないし(分かりやすすぎ…笑)。 それは明治維新などと言ってもまったく感覚が変わっていない人たちと、レベルにおいては全く一緒でしょう。

 ただまあ、熊本バンドの行動って、キリストの教えを信じながら戦争を繰り返してきた西洋列強の矛盾と、全く一緒だと私には思えるんですがね(笑)。

 だから、私が熊本バンドを見ていて思うのは、新しい時代の変遷のなかで、何かを見失ってしまっている点において、八重や覚馬と変わらないのではないか、ということですね。

 彼らの不満は、どことなく、新しい時代に見棄てられてきた会津の人々の怨嗟と共通しているような印象を受ける。 このドラマはそれを、もっと政治的に巨大な形として、西南戦争という士族の反乱に、その論点を集中させようとしているのかもしれない。

 そんなふうに考えると、次回の 「西南戦争」 は、このドラマにとってのもうひとつの山場になってくるような気が、するのです。

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2013年9月15日 (日)

「夫婦善哉」 最終回 愛のかたち、思いのかたち

 男はどうしようもない道楽息子で、商家の跡取りから勘当された禁治産者(笑)。
 女は貧乏が嫌で芸者になったのに、それを簡単にあきらめこういうごく潰しにどこまでもついていく、アホ女(笑)。
 このドラマを最終回まで見ていてどうにも疑問がぬぐいきれなかったのが、「どうしてこの男と女は一緒におるのか?」 ということでした。

 男の名前は柳吉、演じるのは森山未來クン。
 女は蝶子、尾野真千子サン。

 「ちりとてちん」「平清盛」 で質の高い作品を書き続けた脚本家、藤本有紀サンは、昔の映画で名高いこの物語に、現代的な解釈をつけることにとりあえず成功したと思えます。
 つまり、金持ちのボンボンで生活力のない柳吉に、大人になりきれないモラトリアムとしての役割を与え、人生の目的そのものを見失っているふわふわとした不確定な存在として描いた。
 そしていっぽうの蝶子のほうには、世話女房を演じることに自分のアイデンティティを置きたがる、自己欺瞞とでもいうか、自己陶酔型のカテゴライズを施した。

 このドラマの最終回、柳吉は蝶子に、「お前は俺のことを一人前にするとか日本一の夫婦になるとか言っていたが、実はそうならないことを望んでいたのだろう」 と詰問します。
 ここに作り手の言いたいことの核心が隠されている気がする。
 柳吉はそもそも、マジメに働こうとすればそれができる能力を有しています。 まるでだめ夫じゃない。
 だのに、うまくいきかけるとそれをいきなりリセットして振り出しに戻りたがる性癖を持っている(笑)。 それもかなり過激な方法でリセットしたがる(笑)。
 最初のパターンは、柳吉の病気がきっかけだったのでそれに気付かなかったのですが、蝶子が貯めた金をふた晩で遊び尽くしてしまう、さらに店を抵当に入れて競馬につぎ込んでしまう(ただしこっちは勝ったからよかった…笑)、という事態に至って、「コイツって実は、破滅することに快感を得ているんじゃね?」 と(笑)。 ここまですると、コイツは蝶子に対して、何か復讐をしているようにも思えてくる。

 じっさいこの男は母親の死に目に蝶子をわざと行かせまいとし、さらに病気療養で呼び寄せた蝶子の弟に対してもあからさまに嫌味な態度をとり続けた。

 それは、この男がなにからなにまで自分中心の尺度で世界が回っているからで、「自分が親の死に目に会いに行ったらテッテ的に無視された、それなのに女房が親の死に目に会いに行って泣きの涙で親子愛を演じるのは我慢ならん」「オレが時局が不安定ななか遊びたいのを我慢して働いてるってのに高い旅費を出してやって弟を呼び寄せ温泉につからせるなんて我慢ならん」 という考えからでしょう。
 これに対して蝶子が怒るのは当然なんですが。

 ドラマの深刻度が藤本脚本流に増せば増すほど、「どうして蝶子はこんなどーしょーもない男についていってるのか」 というのが分からなくなってくるもので(笑)。

 その回答として作り手が考えたのが、「実は蝶子は口で言うのとは正反対のことを考えている」、という理由づけだった。
 でもそうするとやっぱりますます分かんなくなるものでね(笑)。

 つまり愛情がないやないですか。 夫を立派にするというお題目とか、女房に対して復讐しているとか。
 だいたいそれがホントだったとしても、一回ガス自殺しようとした女ですよ。 蝶子が自殺しようとしたのも、そもそも自分のアイデンティティの欺瞞性を下っ端のナマイキ女に指摘されたからだったし。 未遂事件を起こしている女にそこまで言うのは、「また死ね」 と言ってるようなもんでしょう。 どこに愛情があるんですか。 自分が情けないクセして。 なんだかんだ言ってもまた蝶子のもとに戻ってきてしまう甘ったれじゃないですか。 甘ったれんのもいい加減にせいよオマエてなもんで。 甘ったれんのも愛情のうちなんですか。 ふざけんなよ。

 ただ、こういう話にすることによって、「言葉によって縛られてしまう感情というものがある」、という興味深い側面を切り取ることは、出来てくる。

 妻は 「夫を一人前にする、日本一の夫婦になる」 という言霊で自らを陶酔の魔法にかけ、夫はそれを自分への侮辱だと受け取って恨みを募らせていく。

 もともと口から発せられる言葉というのは、自分の感情をすべて物語っているわけではないものだと私は思うんですが、その言葉の危うさによって自分の感情が確定していく、という逆転現象がまま起こりやすい。
 ここで展開するのは、脚本家はそのセリフに真実を込めたがるのに、脚本家自身がその言葉に対して疑義を呈している、という面白い実験です。

 ただまあ、こだな難しい話をするよりも、世間一般の夫婦関係を考えると、「どうしてこのふたりは夫婦なんだろうな」 というのは、結構あるもんですよね(笑)。
 DV夫についていってる妻とかいうのは極端かもしれないけれど、結局夫婦関係というのは生活互助関係だから、何か嫌なことがあってもどこかで我慢して、愛情というもので自分を納得させるしかない部分があるんですよね。

 それをこのドラマは、「面白うて、やがてかなしき」 という切り口で見せてくれた気がする。 「アホな男とアホな女」 という括りで簡単に思わせぶりをしておいて、その実は夫婦関係の不思議さの核心に迫ろうとした。

 結局ふたりとも、柳吉の娘の文子チャンに認められたがっていた、というのは、これは表向きな決着の話でね。

 はぁぁ~。 「オノマチのドラマにハズレなし」、か…(笑)。 まだこの伝説は、継続ということでよろしいでしょうかね。

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