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2013年10月

2013年10月28日 (月)

「ハードナッツ!~数学girlの恋する事件簿~」 第1-2回 リアルなのかフェイクなのか、橋本愛の正体…?(笑)

 NHKBSプレミアムで放送中の、「ハードナッツ!」。 「あまちゃん」 でユイを演じた橋本愛チャンが、大学の数学科で学ぶ天才的な才能を持つ学生、難波くるみを演じます。

 実のところ、私この、同姓ではございますが(笑)橋本愛チャンという演じ手について、なんかよ~く分かんないところが未だにあって(笑)。
 演技がヘタなのかうまいのか、分かんないんですよ。
 今回このドラマを見ようと思ったのも、この子の演技力について、ちょっと確認したかったのが第一義で。

 ところが…(笑)。

 今回、前編後編の2回分を見て、その謎がますます深まった、というか…(笑)。

 今回のくるみはいわゆる学問バカで同時にキャピキャピキャラであり、ユイとは性格的にもかなり違うのですが、このふたりを演じる愛チャンに共通しているのは、自分なりに分析してみると、「しゃべり方が、…ちょっとヘン」(笑)。
 ユイを演じていた時も、なんかいちいちヘンなふうにセリフを噛みしめながら言う時があったりしてた気がするんですが、今回のくるみは、そのヘンさ加減をさらに拡大膨張させているような(笑)。

 この難波くるみという女の子、ある企業に復讐するために数学を学んでいるのですが、ひょんなことから連続爆破事件に関わって、その犯人である数学者・湯沢(嶋田久作サン)の仕掛けた謎を、刑事の伴田(高良健吾サン)にくっつきながら解き明かしていきます。
 しかし人命が関わる、という重大な局面に何度も遭遇しながらも、くるみは学問バカから抜け出せずに、なんとなく余裕かましてるような、人を小馬鹿にしたようなしゃべりっぷりのまま。
 しかも緻密な数学的思考による推理を敢行していくくせに、大きく外すこともしばしば。
 彼女の推理には、世間知らず、という十代の女の子の限界が、常に付きまとっているんですよ。

 そんなくるみが、唯一真面目モードになった瞬間がありました。 湯沢に捕われた彼女が、彼の15年前に書いた論文の誤りをただす場面です。
 くるみは、自分の復讐に、爆弾で手を貸してやるという湯沢からの話を、きっぱりと断ります。

 「私は爆弾で復讐したいなんて思ってません。

 それに…私もあなたの15年前の論文読ませてもらいました。
 あなたは間違っています。
 あなたの微分方程式は、同じ確率分布に従うランダムな変数どうしを消去してしまうことによって導き出されています。
 でもそのなかに、消去してはいけない項があったんです。
 一見ランダムに見えるけれど、実はごく簡単な方程式から導き出されている項。 初期値のわずかな変化が、結果に大きな違いをもたらすために、それは複雑で非周期的な数列を作り出してしまう。
 あなたはそれを、ランダムな過程と見間違えた。
 それはランダムではありません、カオスです! 消去してはいけなかったんです!」

 なにがなんやらさっぱりですが(爆)、こういう具体的な想像力に頼る記憶が極めて難しいセリフを、それまでのキャピキャピモードをすっかり隠してすらすら、しかもとても普通の口調で言えるところが、この橋本愛という演じ手の本当の実力を示しているように、…見える(なんか自信ないけど…笑)。

 それなのに、くるみはそのシーンが終わると、またまたヘンなしゃべり方に逆戻り(笑)。
 いったいどっちが本当の橋本愛なのか?
 この疑問は、ドラマで展開される、「難波くるみって、いったい頼れる天才なのか?頼れない世間知らずなのか?」 という 「揺らぎ」 と、密接に結びついている。

 その、くるみのキャラクターに準拠したドラマの妙な不安定さは、実はこの連続爆破事件の解決パートでも展開していて(笑)。
 最後の爆破計画を察知したはいいけれど、くるみはいかにも怪しい警備員の言うことを真に受けてその現場へと行ってしまう。 「ど~してそこまで緻密に推理できてんのに、その警備員が怪しいと思わんのか?」 というくらいのマヌケっぷりです(笑)。
 でもここでも、もしかするとくるみは警備員の言うことをバカ正直に受け取ったふりをして、現場に行くことを優先したのかもしれないし。

 あとは、結局この、湯沢という男が究極的にいったい何がしたかったのか、ということが、よく分かんなかった(笑)。 ここらへんは別にフェイクでもリアルでもなく、ドラマの作り手がちゃんと最後に種明かしするのを忘れた、という感じがしましたが(もしかして前編で示されてたのかもしれないけど、こっちも録画を消去してランダムな数列をカオスに変換して…なに言ってるんだオレ)。

 ただ、湯沢を演じた嶋田久作サンは、「帝都物語」 での加藤保憲が久々に復活した、というほどの不気味ぶりで、この前後編をとてもよく締めまくっていたように感じます。

 さらに言えば、くるみが心惹かれていく、伴田という刑事。
 彼も登場時に、彼のことを知る情報屋みたいな男をボコってました。 後編のラストでは、ポーカー賭博は違法だとか言いながら自分もやってたし(笑)。 なんかどうも危険な匂いがする。 これもドラマの妙な不安定感に一役買っている気がします。

 とにかく、思った以上にクセ者のドラマです。 数学の知識がなくとも、かなりのめり込める面白さを有している。 連続8回だから、あと6回。 私も橋本愛チャンの正体を見極めるつもりで見ていきたいと思います(笑)。

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2013年10月26日 (土)

「ごちそうさん」 第2-4週 まだ見てます(笑)

 主役のめ以子が子役の女の子から杏サンに代わって3週間。 「ちりとてちん」「ちゅらさん」 の再放送との並行視聴となったために、今週に入って毎日のように見ていますが、この、朝ドラ屈指の傑作2作に比べると 「ごちそうさん」 はかなり分が悪い…、と思いながらも、なんとなく見続けています(笑)。 やっぱり毎日15分というのは気楽でいいですね(笑)。 コレ、1週間分1時間半をぶっ通しで見るのは、ちょっときついかもしれない。

 見ていていちばん感じるのは、話の先がとても読みやすい、ということでしょうか。 悪く言えば先が読めてしまうつーことですが(笑)。
 第2週ではめ以子のパートナーとなるであろう通天閣(東出昌大サン)…と書いている時点で先の展開が読めてしまうとゆーか(笑)、このふたり、最悪の出会いかたをするんですけど、め以子の家に書生さんが入るとなって最初は別の人が入る予定だったけれど通天閣が結局来てしまう、という展開もすごく読めるし、スコッチエッグの化学反応とめ以子が理科で赤点を取った話が結び付いていくんだろうな、というのも予想がつくし。
 第3週では関西出身の通天閣に納豆を食べさせようとめ以子が悪戦苦闘する話ですが、そこから食べることだけでなんの生きる価値もなかっため以子が(ヒデエ設定だなソレ)人に食べさせることの喜びを知っていく過程とか。
 第4週、今週ですが、め以子はお見合いをすることになるんですが、結局そっちは蹴っぽるんだろう、と思ってたら案の定そうなるし。 しかもお見合いの席を蹴って向かった先で川岸を走ってたら、案の定川に落っこちて(ソレ、予告編でやってましたがな)。
 そして落っこちた水深5メートルはあろうかという川底から、溺れため以子を助け出す通天閣。 一瞬 「平清盛」 かと思いました(笑)。 いや、あれ、最終回で海の底にいたのは、北条政子(杏サン)じゃなかったから!(笑)

 しかし、ずぶ濡れになって求愛するめ以子を、通天閣は一蹴(笑)。 「お断りします!」(ハハ…)。
 これはちょっと意外でしたけど、まあ、自分は大阪に帰る、とか悩んでたし、断るにはいろいろ理由があんだろうなというのは察しがつきます。

 この、話的にベタベタな(笑)分かりやすいドラマのどこに吸引力があるのか、というと、まずはこの、通天閣の 「逆ツンデレぶり」 でしょうかね(笑)。 「逆」 って、ツンデレは主に女性の専売特許という気がするもんで(ハハ…)。
 コイツ、理屈屋の権化みたいなクセして(笑)め以子に惚れてる(笑)。 惚れてることを自分の理屈好きの頭脳が、理屈でもって理解しようとする。 だから冷たく見えてしまう。
 め以子は仕方なく、自分も意地を張るために自らの通天閣への恋愛感情を無理矢理敵意に転化して、「ツンデレの報復」 みたいなことをしている。
 たぶんこのドラマのキモというのは、いまのところこの部分にある、と感じます。

 細かいところを挙げていけば実にきりがないドラマではある。 そもそも明治村の観光PRみたいな大正ロマンだし(笑)。 面白いよなあ、ここまで明治村使いまくりのドラマって(ハハ、ハハ…)。
 だから物語自体にも 「お手軽感」 がにじみ出てしまうのかな。
 いいセリフというものは確かにある。 でもそれが理屈でしかないから、そのときはなるほど、と思っても、心に残らないんですよ、不思議なくらい。
 結局それは、め以子の生き方そのものに対する芯のなさに通じてしまう部分があるように感じる。

 ただ、このドラマがいちばんキモにしようとしている部分って、それぞれのエピソードを、食べ物に絡めようとしているところなんだと思う。 見ていて食べたい、お腹がすいた、と視聴者に思わせることなんじゃないか、って。
 でも今のところそれって、ちょっとあまり成功していないように感じます。
 納豆の包み揚げって、結局どんな味なのかな?
 毎日毎日違う具をおにぎりに入れるというけれども、それってゴボウの味噌炒め以外に、なにがあるのかな? そんなにあるワケないっしょ~。
 ここらへんのお話をもっと細かく考えていかないと、それが物語全体の深みに寄与していかない恨みというものが出てくる気がするのです。

 ただ、お米の話を物語の序盤に持ってきたのはいい気がします。
 お米、ご飯は日本人の基本ですからね。
 炭水化物ダイエットとかよく言うけど、日本人はお米をもっと食べなきゃイカンですよ(笑)。

 それにしても、今回東出サンの名前を書くのにウィキを見て分かったんですが、この人 「あまちゃん」 で若き日の大吉さんを演じてたんですね。 全っ然分かんなかった…(オマエは 「あまちゃん」 の、どこを見ていたとゆーのだ?…笑)。

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2013年10月19日 (土)

ポール・マッカートニーのニュー・アルバム 「NEW」 新しいモノであり続けるポールの貪欲

おことわり この記事、初出時より若干加筆いたしました。

 発売1か月後に11年ぶりの来日公演を控えていた絶妙のタイミングでの、ポール・マッカートニーの新作。 ニュー・アルバムのタイトルが 「NEW」 というのは少々ややこしい感じだが、このタイトルはこのアルバムの目指しているスピリットを一言で言い表しており、まことに秀逸なタイトルと思われる。

 来日公演に合わせたのか、このアルバムのラインナップでいちばん曲数が多い、つまりボーナス・トラックがいちばん多いのが、日本盤だ。 全世界からも日本盤の注文が引きも切らない、という噂をネットで目にした。
 それにしても毎年ツアーを重ねていくポールのキャリアのなかで、なぜか日本だけはいつも度外視されており、ポールは日本のことがキライなのだろう、という邪推を抱いていたが、ここにきてそれも解消した気がする。 「アウト・ゼア・ツアー」 と銘打たれた今回のツアーで、日本公演からこの新アルバムから数曲がセットリストに加わるという本人の話は実行に移された。 「セイヴ・アス」「クイーニー・アイ」「NEW」「エヴリバディ・アウト・ゼア」 の4曲である。 数回のギグを除けば、ツアーの曲目として正式に演奏されたのは日本が初めてであり、これはポールの日本に対する大きな配慮のように思えるのだ。

 肝心の新アルバムの内容であるが、発売前から伝わってきていたのは、ポールがこのアルバムについて 「バック・トゥ・ザ・ビートルズ・アルバム」 という形容をしていた、ということだった。
 先行発売されたファースト・シングル 「NEW」 もまさしくその路線であり、聴くほうの気持ちとしては、アルバム全体もそのような雰囲気なのだろう、と考えるところだ。 ところが、さっそくCDをかけてみたところ、その期待は良くも悪くも、大いに裏切られた。

 全体的な印象としては、限りなく音作りがアグレッシヴで、ノイジーで、しかもアヴァンギャルド。 英語ばかりやないかい!(笑)
 要するに、過激なのだ。
 比較的静かな曲調の曲に関しても、間奏に入ると途端にうるさくなったりするし、低音はボンボン鳴り続けているし。 特に 「重低音」 の類は、アーカイヴ・シリーズを含めた最近発表されたほかのどのアルバムと比べてもかなり響いていると思う。
 そんなノイジーな曲群のなかで、最後のシークレット・トラック 「スケアド」 だけが、明確に静かな曲だ。
 この曲、タイトルを聞いて、かなりのビートルズフォロワーであれば、「それってジョンの、『心の壁、愛の橋』 のなかの曲のタイトルと一緒」、と分かることだろう。
 この曲はジョンのそれと違って、しっとりとしたピアノ主体のバラードだ。 この曲が完全に浮いてしまえるほど、アルバム全体の雰囲気は騒々しい。

 同時に感じたのは、「これってどこがビートルズ的なの?」 ということだった。
 このアルバムには、「スケアド」 以外に、ポール特有の 「胸を締め付けられるような美しい旋律の曲」 というものが極度に抜け落ちている気がする。 聞こえてくるのは、叙情的なものを廃してただひたすらにノイジーであり続ける、つまりそういう点で 「新しい」 ポールの姿なのである。

 1曲1曲の時間は総じて短い。 シングルの 「NEW」 などは、3分にも満たなかったりする。
 しかしながら通しで聴くと、ボートラが最も多い16曲入りの日本盤は1時間弱の構成となっており、それだけでもかなり長い、と感じるのに、これだけノイジーだと、「人が一日に聴くことのできる音符の量は限られている」、とモーツァルトの曲に対して苦言を呈した皇帝閣下の話(「映画 「アマデウス」 のエピだったか?)を思い出したりしてくる(笑)。

 構成的な話をすると、特に後半、アヴァンギャルド的な、一聴しただけでは全体像をつかみにくい曲が多い気がする(日本盤に準拠しているため、ボートラを含めた構成で考えた場合)。 ポールらしい印象的なメロディラインの曲が少ない傾向なうえに、あまりの音の攻撃に少々疲れてきたところに、なんだかよく分かんないような曲が続いて、「ひょっとしてこれ、駄作なんじゃないか?」 という気分にもなってきてしまう危険性を孕んでいるのだ。
 つまり、聴いててダレてきてしまう側面がある。

 しかし逆の視点から分析すると、それだけ今回のポールが、アドレナリン全開でアルバム全曲を作り上げた、ということでもあると言える。
 年齢的なことを言うのは簡単なのであまり書きたくないけれど、71歳にもなってここまで精力的に前向きに音作りできるポールというのは、やはりすごいのだ。 48歳の自分が 「聴き疲れた~」 などとウンザリこいている場合ではない(笑)。

 このアルバムは、近年のポール・マッカートニーのアルバムのなかでは、間違いなくいちばんの問題作、というカテゴリに属するアルバムだ。 そして、音作りがあまりに緻密なために、何度も何度も聴きたいという衝動を、聴き手に強引に要求してくるアルバムだ。
 じっさい近年のポールのアルバムのなかでは、購入してから短期間でこれだけへヴィーローテーションで聴き続けているアルバムというのは、個人的にはない。 そして何度も聴き続けているのに、中心にあるものが見えてこない。 まるで深い海底に引きずり込まれたかのようだ。
 その海底にある地下室では、地面のむき出しのコンクリートがしっとりと水を吸っており、|||Ξ|||という形状の蛍光灯が、それをうっすらと照らしている。 そんな感覚に陥ってくる。 つまり、このアルバムの、ジャケット写真のような光景だ。 聴き手はそんな、別世界に迷い込んだもどかしさと、不安と、期待に胸ふくらませるのである(オーゲサな表現だなァ…)。

 そして何度も繰り返して聴くうちに、このアルバムを 「ビートルズ回帰」 と表現した、ポールの真意というものに、気付かされていくことになる。

 つまり、ビートルズという生命体は、その活動期間中、一時も立ち止まることをせず、常に新しいものを求めてメタモルフォーゼを繰り返してきたバンドだったのだ。
 それは彼らが、常にトッパーモスト(頂点)でいることを自らに課し続けてきたことの証でもあった。
 そのなかの中心であったポールが、だからこのアルバムをビートルズ的だとするのは、なにも 「ビートルズみたいな音を再現した」、という意味ではなく、ビートルズがかつて抱いていた、「新しいものを追求し続けるスピリット」 を継承したものなのだ、というようにも理解できてくる。

 このポールのモチベーションの基礎にあるものとは何なのか。

 それは、このアルバムの曲群が、ポールの前の妻、ヘザーとのあいだに生まれた愛娘ベアトリクス(9歳)の学校の送り迎えのあいだに作られた、ということが最大の要因であるように思える。

 前回6年前のオリジナル・アルバム 「メモリーズ・オーモスト・フル」 では、トップ曲である 「ダンス・トゥナイト」 が、当時幼女(たぶん2、3歳)だったベアトリクスのために作られた曲だった。 この曲は限りなく単純で、幼女でも簡単に覚えられ、一緒に歌い踊ることができる性格を有している。
 時は流れて彼女も幼女から学校に通う年となり、必然的に現代のブリティッシュ・ポップシーンに触れる機会も生まれてきたことだろう。

 ポールはその、現代のミュージック・シーンに、ベアトリクスを通して、再び対峙する機会を得たのだ、と私は考える。
 彼は自分をベアトリクスのおじいちゃんではなく、父親として誇れるようなものを持たせてあげたいという動機から、オールドタイマーとしての自分をかなぐり捨て、現代のポップシーンにおいても 「新しい」 と評価される作品を作り上げようとした、と私には思えるのだ。
 そしてその姿勢は、自分がビートルズ時代に目指していた、新しいものを貪欲に取り込んでトップを維持する、という姿勢に、いつしかリンクしていったのではなかろうか。
 結果的に、このアルバムには近作のどのアルバムよりも、新しいことを積極的にやろうとするポールの姿勢が顕著に感じられるのだ。
 新しいことを始めるのには、いつの世も抵抗がつきものだ。 ビートルズが 「常に新しいものを追い続けたバンド」 であったことを忘れた従来のファンは、ポールが新しいことをやろうとするのに、反感を抱くことになる。 このファンはいつしか旧勢力側の人間となり、頭ではビートルズの本質を分かっていながら、ポールが始めた新しいことに、違和感を抱くことになる。
 これが、このアルバムが 「問題作である」、と私が定義づける理由だ。

 このポールの新しい試みをサポートしたのが、今回起用された4人の若手プロデューサーであることは論を待たない。
 楽曲のアレンジについてどこまで彼らが関与したかどうかは今のところ伝わってきていないが、おそらく原型的なアイディアはポールから提出されているのではないか、と私は考えている。
 その根拠としては、このアルバムのアレンジのアプローチが、「メモリーズ…」 後に発表された、ポールの変名ファイアーマン名義のアルバム 「エレクトリック・アーギュメンツ」 に比較的類似している点が挙げられる。 ファイアーマンプロジェクトでも、若手(といっても私と同年齢くらいなのだけれど)のユースと組んで、もともと自身のなかにあった前衛音楽に対する欲求を満たしていたのだが、「エレクトリック…」 ではさらに、その前衛を自身のポップミュージックと融合させることを推し進めていた。 今回のアルバム 「NEW」 は、その実験の成果の上に着実に存在している、と思われるのである。

 ただそれを実現可能にしていくのは、やはり若い感性だと思う。
 ベアトリクスによって呼びさまされたアグレッシヴな音楽への挑戦は、この4人のプロデューサーによって、一気に花開いたと言っていいのではないか。 そして誕生したのが、ここ数作のなかではいちばん 「問題作」 という警鐘を従来のファンに対して打ち鳴らすことのできる、このアルバムなのだ。

 これは、ポールが自分に残された時間というものを意識し始めた証左である、というようにも、私には思える。
 ポールは残り少ない自分の寿命を、懐古的な当たりさわりのないクラシカルなポップで満たすことを、敢然と拒絶したのだ。
 そのポールの本音を私がいちばん聞き取れる気がするのは、シークレットトラックの 「スケアド」。
 この曲の歌詞はついていないので、乏しいヒアリング能力で想像するしかないが、この曲でポールは 「君に 『愛している』 と言うことが怖い」 と最初に歌っている。
 これは内容的に言って、リンダに捧げられた 「メイビー・アイム・アメイズド」 にとても似ているのだが、同じ内容でもそこに含まれている精神が違うように、私には思える。
 ポールがこの曲を誰に向かって歌っているかと言えば、たぶん新しい妻のナンシーに向かってだろう。 彼女に向かって愛していると言うのが怖い、というのは、あまり愛情を注ぎ過ぎると、別れるときにつら過ぎる、という心情からきている気がするのだ。
 この曲はポール独特の美しいバラードでありながら、なんだか聞いていてこちらも怖くなるような錯覚に陥る、不思議な曲だ。 それは彼が、自分の寿命の尽きることをどこかで怖がっている、そんな恐怖を感じるからなのだろう、と思う。

 その強迫観念がポールを新しいものへと駆り立て、生き急ぐことを強いている気さえする。

 年齢による多少の声量の揺らぎというものはたしかにある。 だが、それでも前作のジャズ・アルバム 「キス・オン・ザ・ボトム」 での枯れたようなポールはもはや存在していない(それはそれで味わいがあって好きだけれど)。 71歳という年齢を考えなくとも、この巨人はおそらく、死ぬまでシャウトし続けるのだろう、と思うと、言われもない感動にこの身が包み込まれていくのが分かる。

 各曲の解説をしていくことにしよう。

 この続きは近日上書きいたします。 乞うご期待。

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2013年10月14日 (月)

「安堂ロイド~A.I. knows LOVE?~」 第1回 寄せ集めの先にあるもの

 木村拓哉クンの最新ドラマ、「安堂ロイド」。
 第1回を見終わったあとでつらつらその全体像を思い返すと、「あ~なんか、いろんな映画とかドラマとかマンガのごった煮だったような気がするなァ」 という感想なのですが、見ているときは結構面白いな、と思いながら見ていました。

 木村クンのドラマをこのブログで論じる場合、もうほんとに毎度毎度なんですが、この人の演技力についての見解を述べる必然性にぶち当たります。
 というのも、私はどちらかというと、木村クンの演技について嫌悪感を催す人間ではないからです。 だから弁解しなくちゃならない(笑)。

 確かに演技はうまいほうだとは思わない。
 でも、そんなにひどいとも思わない。

 そんな彼の 「何を演じても木村拓哉というスタイルを貫いている」、という姿勢は、実は彼の防衛本能なのではないか、と最近私は思うようになってきました。
 彼が若い頃は、自分が木村拓哉を貫くことで、自分のカッコよさを前面に押し出していただけだったように見えていた。 それは彼の、周囲からの演技力云々に対するひとつの抵抗、プライドだったように思うし、彼が尊敬している松田優作サンのスタイルをマネしているんだと、私は考えていました。 演技がワンパターンというのは、ひとつのエンターテイメントだと思うんですよ、芸能という世界においては。

 でも、年齢的なものがそのポリシーを許さなくなってきた。

 彼の前作、「PRICELE$S」 を見ていて感じたのですが、彼はこの作品で、ホームレスになるなど、かつての自らのカッコよさを捨て去ったような気がするんですよ。
 それでもまだ、彼は自分のドラマのなかで、そのドラマの役柄ではなく、木村拓哉であろうとしていることに、こだわっている。
 それって一種の、彼の防衛本能なんじゃないのかな、と。
 年を食っていく自分、そして演技力が上がっていかない自分、というジレンマに対抗するための、防衛的な対抗手段。

 今回この、 「安堂ロイド」 という、人を食ったようなタイトルのドラマの第1回を見ていて、やはり木村クンは自分のカッコよさという若かりし頃のポリシーを、以前よりもずっと、中心から外れた部分で見つめている気がしました。

 それはいきなり殺されてしまう大学教授のほうの彼、沫嶋(まつしま)黎士のほうに顕著。
 いきなり数式を書き出して 「ガリレオ」 かよ、という感じだったのですが、この教授ってなんか、オヤジギャグで学生たちに媚びたり、学生たちに冷ややかな目で見られるような冴えない性格の持ち主です。

 そしておそらく沫嶋教授が未来に対してプログラミングしたと思われる、もうひとりの木村クンの役、安堂ロイド(アンドロイド)にしてもそうで。
 彼は未来から沫嶋教授のフィアンセである柴咲コウサンの命を守るためにやってきたのですが、まんまターミネーター(T2以降のね)の設定で、かなりハードボイルドな役柄になっている。

 もともとアンドロイドという設定って、自らの演技力のなさをカバーできる側面がありますからね。 昔のシュワちゃんも演技力ないから無表情なターミネーターになってたわけだし。 ジェフ・ブリッジスなどは今じゃ演技派だとか言われてますけど、昔は 「演技力がないから宇宙人の役やってんじゃないの」 とか 「スターマン」 で言われてたし。
 今回、木村クン自身のカッコよさを追求した結果、というよりも、やはりターミネーターのパロディ的な部分で自らのカッコよさを戯画化しているような側面も感じられる。

 で、ドラマの内容のほうに論点を移しますが(ストーリーはだいたい省きます)。

 確かにこのドラマ、いろんなものの寄せ集め的な作品だと思う。
 でもだからと言って、それをクサしていたんじゃ、見ているだけで不快になるでしょ。 木村クンが嫌いな人とかにはお勧めできませんよね。

 ただ木村クンのドラマというのは、そりゃ芸能界の力関係という不条理が働いているにせよ、スタッフたちが面白いものを作ろう、と頑張っているところが見える。 だからそこそこ、面白いものができる。 私はそう考えています。
 今回もだから、いろんなものの寄せ集めだけれど、そこそこ楽しめた。

 そもそもこれ、「寄せ集め」 と取るか、「集大成」 と取るかで見方も変わってきます。
 まあ 「半沢直樹」 の後番組というつらさは払拭できませんけど(でもズブン、「半沢」 見てないんだよな~まだ2話しか)。
 でもスピード感はあるしぶっ殺すとか死ぬとか過激だし(倫理的に大丈夫か)どういう利害関係で未来と現在がつながっているのかまだ判然としないし、そこらへん見てて楽しい。

 ただ気になるのは、「死んだんじゃない、殺されたんだ」 とアンドロイドの木村クンが2度だか念を押していたように、沫嶋黎士は未来に何かを残したと思われるけれども、確実に死んでるわけですよね。
 この場合、沫嶋黎士の外見そっくりにプログラミングされたその、アンドロイドの木村クンと、柴咲コウサンを、今後の展開で安っぽく恋愛関係にしてもらいたくないなー、というのはある。 機械が心を持つとか、ちょっともうどーでもいい気がするんですよ(ハハ…)。
 でも無理だろうな~、タイトルがA.I.は電気羊の夢を見るか?みたいな感じですから。

 制作スタッフで私がちょっと注目したのは、コンセプト・設定協力に、「エヴァ」 の庵野サンや鶴巻サンが絡んでいること。 庵野サンと言えば、かつてのアニメのまさしく 「寄せ集め」 的な作品、「トップをねらえ!」 を作った人ですから、今回のこのごった煮感覚も個人的には理解できる。
 「半沢」 とは路線からなにからまったく違う土俵に立っている作品ですが、過去の焼き直しではなく、何かを仕掛けようとしている、そんな意気込みを第1回からは感じられた。 この先もその勢いを見せてほしいものです。

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2013年10月 5日 (土)

「ごちそうさん」 第1週 プレストーリーを追って

 「あまちゃん」 に続く朝ドラ、「ごちそうさん」。 NHK大阪放送局製作。

 物語の第一声。

 「これは、ものを食らう物語でございます。 食べずには生きることのできぬ、人間たちの物語でございます」 のナレーション。
 「ものを食らう」 という言葉の響きから、なんだか古典の魑魅魍魎の匂いさえ漂う、風雅な出だしだと感じます。 はてさて。

 今回の題材は 「食べる」 ということで、ドラマにもいろんな食べ物が出てきますけど、NHKって、社内食堂以外にも、ドラマで出てくる料理がメチャクチャおいしい、という話は、俳優さんとかがよくしてますよねー(笑)。 つまりNHKの食事スタッフの、面目躍如みたいな?(笑)。

 脚本は、森下佳子サン。 あの傑作ドラマ、「JIN-仁-」 の脚本家さんです。
 「JIN」 は原作マンガのある作品でしたが、非常に緻密できちんとした独自の脚色を加え、原作とは似て非なる、とてもすぐれた作品に昇華させた印象があります。
 それとこの人の近作で心に残るのは、今年初めにTBSでドラマ化された、内野聖陽版の 「とんび」(重松清サン原作)。 もともとNHKの堤真一バージョンの傑作があったにもかかわらず、それに敢然と挑み、それを凌駕する作品に作り上げた(意見には個人差があります…笑)。
 今回は原作のない、オリジナルストーリーらしい。 さて、どのくらいの力量を見せてくれるのでしょうか。

 個人的な注目は、音楽の菅野よう子サンでしょうか。
 この人、アニメとかゲームの音楽で有名な人。 「信長の野望」 とかね。 「攻殻機動隊」 の音楽には、この手のトリッキーな音楽が苦手な私でも、ちょっとシビレたもんです。
 そんなこともあって今回、「ごちそうさん」 のバックに流れる音楽を、少々注意して聞いてたんですが、「この人きちんと楽しい時は楽しいし、怖がらせるときは怖がらせる音楽ができるんだな」、という印象。
 

 今週はヒロインの杏サンは本格的に登場せず、子役の豊嶋花チャンが少女時代の卯月め以子を演じたので、お話的にはプレストーリーといったところでした。
 そのお話、第1週を見た限りでは、基本的にかなり 「正統派の連続テレビ小説」 だった気がします。 父母やおばあちゃん(吉行和子サン、ナレーション兼)との関係性、いじめっ子の存在とか、め以子にとってその後の人生の指針となるべきエピソードとか、ちゃんと本編に入るための前置きの役割を果たしている。 プレストーリーとしての構成がしっかりしている印象です。

 たとえて言えば、「カーネーション」、の力の入ってないバージョン。
 いや、「カーネ」 と比較してはなりません、いかなるドラマも(笑)。 あれは 「神ドラマ」 ですから。 でも 「カーネ」 でヒロインの師匠役だった財前直見サンが、め以子チャンの母親だし、比較したくなってくるってなもんで(笑)。

 しかしながらこの生真面目な作りの朝ドラ、番組HPを読んでいると、どうも次週、杏サンにバトンタッチしてからは、ラブコメになるらしい。
 じぇじぇ、ラブコメ?(「あまちゃん」 抜け切ってないな…笑)(いまだに驚くとじぇじぇとか言ってるし…笑)。
 にしても、なんだか第1週をここまで正統派に作っといて、ホントはラブコメドラマとは、ずいぶんはぐらかされてるように感じます。

 物語の舞台は、大正時代。

 東京で洋食屋を営む父、原田泰造サンと財前サンのあいだの娘が、め以子チャンであり。

 物語のモデルというものは存在しないらしいのですが、開明軒という名前がなんとなく洋食屋老舗の 「たいめいけん」 に似てなくもない。 しかも第1週の終わりには、オムライスの創始者みたいになってたし。 でも関係は結局なさそうですね。

 そこの娘のめ以子(6歳)。
 とにかく食いしん坊。

 いや、食いしん坊と言えばかわいげがあるのですが、この子の場合はどちらかと言えば、食い意地が張りすぎている、もっと悪く言えば、意地汚い。
 それは、め以子を演じる豊嶋花チャンの演技が、少々過剰である、という部分を差し引いてもそう見えるんだから始末が悪い。
 め以子はお寺のお供え物のイチゴをかっぱらって食べ(おおすじ)、洋食屋の常連の社長にもらったいちごジャムを誰にも食べさせようとせず独り占めにし、あげくにそれを池に落として大騒ぎし、それをたしなめられても、自分は悪くない、と開き直る。

 とりあえず母親の財前サンもおばあちゃんの吉行サンもめ以子の教育的指導はするんですけど、なにしろ人としてのモラルを、最初っから踏み外すレベルですからね、このガキ(ガキとは飢えた鬼のことなので、まさしく表現としては合っている…笑)。
 父親の原田泰造サンはそんな食い意地の張っため以子を喜ばせようと、おいしい料理を作って食べさせたがるのだけれど、これって娘のことを思っているわけでなく、自己満足の一種なんですよ。 娘に 「おとうちゃんの料理は世界一だ」 と認められて、悦に入りたがっているだけ。

 このめ以子の態度が天真爛漫という括りで語られつつあるのが、どうも見ていてムカムカして(笑)。

 この子は、非常に業の深い子だ。
 もしかするとそこに、この物語の深みが存在しているのかもしれない。

 私は最初、そう考えたのですが、週の後半になると、どうもそんな高尚なことをこの物語はやろうとしてないことに気付きました。
 め以子はおばあちゃんが倒れたのを契機に、欲しいものをひとり占めにすることの罪に気付き、人のために何かやろう、という気持ちを、急速に養っていくのです。 まるで週前半の小悪魔的な振る舞いがウソのように。
 と同時に、自分の腕を自慢したいだけだった父親もその問題をあっさりとクリアし、店の経営問題も、オムライスの発明で解決し、広がりつつあった風呂敷は簡単に収束していった。

 ちょっとあっけなさを感じたと同時に、浮き上がってきたように思えたのが、このドラマが言わんとしているテーマです。
 それはおばあちゃんの吉行サンによってもたらされたのですが、「ごちそうさま」 という言葉は 「馳走」、つまり馳せ走らせる、食事のために頑張った人に対して感謝する意味なのだ、ということ。
 この最終テーゼに向かうために、この第1週前半のめ以子は、手のつけられない 「小鬼」 としての性格を与えられていたのかな、と。

 そしてこのおばあちゃんは、第1週の終わりで、物語早々、死んでしまいます。 ただナレーションは続けていく模様(「ゲゲゲの女房」 パターン…笑)。
 ここで私が注目したのは、このおばあちゃんがこの物語の上で、千の風になることもなく(笑)、「ぬか床」 のなかに命を宿した、という設定にした点です。
 ぬか床というのは、毎日、混ぜ続けないと、ダメになってしまう性格のものです。
 つまりちょっとでも手を抜いた途端、おばあちゃんは 「第2の死」 を迎えることになる。
 でも、…まあそこまで深読みする必要もないのかな、ラブコメになるらしいから(笑)。

 ぬか床は、ぜひ生かし続けてもらいたいものです。 「ぬか漬けのうまい店にハズレなし」…とは、井之頭五郎の名ゼリフ?(違うドラマだろソレ)。

 ただ、はぐらかされたけれども、このお話自体には、深読みを可能にしてくれる余地があるものだ、と期待したい。 「JIN」 の脚本家さんだし。

 「カーネ」 には及ぶべくもないけれども、第1週、せっかくここまで、正統派の朝ドラを見せてくれたのだから。

 それにしても、ドラマに出てくる人みんなイチゴをあんなに珍しがっていたけど、あの時代、野イチゴぐらいなかったんでしょうかね?(ハハ、ま、ちっちゃいし…)。

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2013年10月 4日 (金)

「銀河パトロール ジャコ」 ものを作り続けるモチベーションって、なんだろう?

 少年ジャンプ創刊45周年のレジェンド枠として、最初から11回(本編10回+オマケ1回)の予定で連載された、鳥山明氏の新作、「銀河パトロール ジャコ」。 フォルム的に 「ウルトラマン」 を模したと思われる銀河パトロールの 「自称」 超スーパーエリート・ジャコが、地球にやってくる、というお話です。

 鳥山氏と言えば、「ドクタースランプ」「ドラゴンボール」 の作者としてだけでなく、超ヒットゲームソフト 「ドラゴンクエスト」 のキャラクターデザインなども手がけている、もう説明不要の人。
 ただそんな説明不要の人でも 「ドラゴンボール」 の連載終了後は、ほとんど表立った活動を停止してしまったため、近頃の若い人は知らない人も多数出てきている感じ。 この人が 「旧世代」 のあいだで話題になると決まってネットでは、「鳥山信者ウゼエ」 とか拒絶反応が起こったりします。

 私は単行本さえ買うまでには至らないものの、「ドラゴンボール」 が読みたくてジャンプを買っていたプチオッサンの時期がございましたので(笑)、今回もユーワクに勝てず、鳥山作品を読みたいがために、ジャンプを買い続けました(ハハ…)。

 それで感じたことは、とにかく鳥山氏の作品と、ほかのジャンプ連載陣との、世界観がまるで違う、ということ。 これでい~のか?ってくらい(笑)。

 ともかく詰め込まれている情報量とか、そのスピード感、温度差などが、完全に鳥山氏の作品だけ浮いちゃってるんですよ。 たとえて言えば、コロコロコミックのなかのマンガがひとつだけジャンプに紛れ込んじゃってるような(笑)。

 いっぽうで、その絵的な路線から行って、「ドラゴンボール」 の子供、とでも呼べる作品は、ちらほら散見する。 「ONE PEACE」 もそうですし、「NARUTO」 もそうだと感じます。
 でもその情報量は極端に大きい。 特にワンピースなどは、以前もたまに読んだりしてたんですが、かなりゴチャゴチャして何をやってるのかワケが分かんないところがあって。 逆に言うと、週刊誌においてここまで描き込まれていること自体が驚異的である、と感じる。

 情報量が多い、ということは、途中からの読者が入り込みにくい、ということでもある、と思います。 なにしろナルトなどは、誰が敵で誰が味方かとか、何を目的で戦っているのかとか、どういうルールが存在しているのか、すら分からない。 結果的に、意味が分かっていれば面白そうなんだけどな~、と思いながら、読むときはスッ飛ばし。
 同じことは 「ブリーチ」 とか、「銀魂」 とかにも言えて。 何やってるのかホント分かんないんですよ。
 「こち亀」 みたいな古参のマンガも、何かに急き立てられるように、情報量が多い。 昔はここまで詰め込んでなかった気がするんですが。 情報量が多いってだけで、読む気がしなくなって。 つーより、やっぱりギャグのパワーが落ちてますよね、両さんたちが大騒ぎしているわりには。 無理ないよ、単行本でもう200巻近い歳月やってますからね。

 それでも、ワケ分かんないなりに途中からでも入って行けるのもあるし。 「暗殺教室」「トリコ」 とか、「ベルぜバブ」 ですかね(ベルぜはここ数回、ちょっと分かんない…笑)。 最近始まった 「HACHI」 なんかは、「コイツ慣れてるな」、という感じのマンガですよね。
 って、少年ジャンプの批評をするためにこれ書いてるんじゃなかった(笑)。 本題に戻ります。

 とにかく、そんな血の気が多いほかの連載陣と比べて、格段に体温が低く、読みやすく、独自の世界を完成させてしまっている、鳥山氏の作品。
 少年ジャンプでは読者アンケートというものがあって、結果が悪いとどんどんページの場所がおしまいのほうに追いやられてしまうのですが、今回の 「ジャコ」 はもう連載開始直後あたりから、中間よりちょっと後ろ、という定位置に収まってしまい、これ、11回って最初から決めてるからいいけど、ヘタしたら鳥山氏ほどの超大物が打ち切り、みたいなパターンだよな、なんて心配するほどでした。
 その点では11回というのは非常に適当な回数で(笑)、だいたい11回くらいあれば、単行本1冊が出せる計算(笑)。 御大に恥をかかさないで済む回数つーことで(笑)。
 ジャンプの打ち切りで最速なのがだいたい、11回から14回くらいなのかな~。 今も同じなんですかね?

 作画的な話をすると、「ドラゴンボール」 のころと比べると、ちょっと線が太くなって、それとスクリーントーンの使用が増えたかな?…という気がする。 いや、鳥山氏ってコンピュータ彩色に完全に切り替えているようだから、単純にPCでモノクロの彩色やってるのかな、という感じでしょうか。 本人によると、「意識して昔風な作風にしている」、とのことでしたが、どうなのかな、「ドクタースランプ」 のときに比べても、描き込みは少ないし、なんかやはり、どこか違う。 ドラクエのパッケージで、近年の画風に見慣れてはいるんですけどね。

 (ここからネタバレ)「意識して昔の作風にしている」 という鳥山氏本人の話は、実は今回のこのお話が、「ドラゴンボール」 の前日譚みたいになっていたことによるものでした。 本編の10回が終わってオマケの11回目、最終回となるお話には、幼少時の孫悟空とかブルマ、悟空を育てたほうの 「じっちゃん」 孫御飯とか出てきてたけど、「ドラゴンボール」 開始時当時の絵と遜色ない感じ(まあ多少の違和感はあるとしても)。 マンガ家って、画風が変わっていくと、急に昔の作風で描こうとしても描けない場合があるけれども、そこはそれ、「天才」 鳥山氏のなせる技なのかと、ちょっと感心します。
 ただ、悟空って幼少時からサイヤ人のカッコしてたっけな?みたいな(ハハ…)。 あまりヘタなツッコミはできませんけど(単行本持ってないんで確認できない)。
 いや、連載途中から、「これってドラゴンボールと関係あんのかな?」 みたいなことは感じてました。 オーモリとかオカワリとか固ゆでとか登場人物の名前が食品関係だし、出てくるヒロイン役の女の子の名前もタイツで、「ブルマの関係者かよ?」 みたいに感じてたし(笑)。 そしたら案の定、タイツはブルマのお姉さんでした。

 もともと鳥山氏のマンガというのは、登場人物がバカをやって、それにシラケル周囲の反応によって笑わせる、「間」、すなわち引き算によるギャグが主流だと思うのですが、この 「ジャコ」 でもその間は健在。
 この人の世界観というのは、もともとほのぼの路線だと思うんですよ。 だから今回は、好きなように描かせてもらっている感じ。 まあ御大のやることに、ジャンプ編集部がケチをつけられるはずもないし(笑)。

 「ドラゴンボール」 はでも、ほのぼの路線とはだいぶ違う気もするんですが、最初のころはやはりほのぼのとしてましたよ。 それが、バトル中心の話になってから、どんどんシリアスになっていって。
 ただかなりシビアな戦闘シーンでも、どことなくとぼけたような展開にいつもなるし、だから悪が悪そのものに転化して行かない安心感みたいなものがあった。 それがだんだんと、ピッコロ大魔王とか、フリーザみたいなキャラを出すことで、その安心感が裏切られる時が来るのではないか…?という、そんな緊張感で読者を惹きつけていたような気がするのです。

 そして 「ドラゴンボール」 は不世出の人気作品となり、鳥山氏は自分の意に反して連載を継続させられるという状況に陥り、もう馬車馬みたいに働かされたあげく(笑)、さんざん話は引っ張られて(笑)、結果的に鳥山氏は大金持ちになり(笑)、別にこれ以上働かなくてもいい状況にまでなった(このレビュー、ここからが本題です…笑)。

 だからってわけかどうなのか知らないけれど、さんざん無理をしたせいなのか、「ドラゴンボール」 以降は、鳥山氏はほとんど引退状態に自分を置いてしまった。
 もうこれ以上、無理をして稼がなくてもいい、という感覚ですよね、いずれにしても。

 さらに金持ちになったせいで手に入れた、ごく初期のPCによって、CG彩色という方法を身につけてしまった鳥山氏。
 じつはこれも、鳥山氏のゲージツ的な絵の良さを結果的に損ねる要因となってしまった気がします。
 この人、前は水性ボールペンを水に溶いて、それを筆につけて彩色していた、という記憶がおぼろげながらあるんですが(なんかどっかで鳥山氏の絵の描きかたを読んだ気がする)、CG彩色なんかよりも、そっちのほうが格段に味がある。

 でも、鳥山氏は、CGによる簡単な彩色を選んでしまったのです。 今回の 「ジャコ」 も、カラーページを見るとその方法は変えてないみたい。

 これは、鳥山氏をひとりの絵師、という観点から見ると、とても惜しい成り行きだと感じます。

 ジャンプにはもうひとりそんな状態のマンガ家がいらっしゃいまして(笑)、名を富樫某というのですが(笑)、まぁ~連載をしてるのに、ほとんど出てらっしゃらない(爆)。 無理して稼ぐ必要ないからなんでしょ、やはり。

 ただ、絵を描く者が必要以上に売れてしまうことって、芸術とかにとって果たしていいことなのかな~、という気はどこかでします。 マンガを芸術と呼べるかどうかの議論は置いときますが。

 自分の描いたものがカネになって、自分が大金持ちになってしまうのって、まあ私もちょっと(だいぶ)憧れたりするんですが、いざ自分が大金持ちになってしまったとき、それでもまだ、もっとすごいものを描いてやる、というモチベーションというものって、継続したりするものなんだろうか?という気が、するんですよ。 答えを想像してもしょーがない問いですけどね(笑)。

 考え方を変えると、もし自分が宝くじに当たって、3億円でも6億円でも、無課税で手に入ったとしたら、そんときに果たして、自分の好きな仕事を続けてられるかな、ということです。
 もちろん今の仕事を嫌々やってたりしんどかったりした場合は、即刻辞めるに決まってますけど。

 もしゴッホが生前に今みたいな評価をされて売れ続けて、弟のテオに世話にならんでも済むような状態になってたら、あんな傑作を描き続けることができただろうか、なんて。
 ユトリロは生前、貧乏のどん底状態にあったときの絵が売れて、そのあとはいっぱしの金持ちになったんですが、金持ちになってからの彼の作品は、かなり芸術的価値が落ちる。
 対して、ピカソなんかは同じように、生前にきちんと評価されて、やはり大金持ちになったんですが、それでも死ぬまで傑作を生み続けた。
 ここらへんの違いというのは、「すごい作品を描いて世間をあっと言わせてやる、もっともっと評論家筋にも評価される作品を作ってやる」、というモチベーションが、彼にあったかどうかの話なのではないか、と感じる。

 マンガ家も同じで、自分の作品が売れてしまっても、ちゃんと働き続けるかたもいらっしゃいますよね。 まあ自分のプロダクションを大きくしてしまって、働かなきゃ立ちいかない、という状況があるとかいろいろ理由はあるとしても(笑)。

 ただ節税とか自分の金に群がってくるアリンコたちを排除するとか、かなり頭のいいお金の使い方をすれば、働かなくてもやっていけちゃう場合もある。
 鳥山氏や富樫某の場合はそれなんじゃないかなと思うけれど、いったん仕事からリタイアしたあとも、今の世の中、面白いことがあふれすぎている、というのも、文化という観点から見るとアレなんじゃないのかな、と(笑)。

 つまり、世の中が面白すぎて、金があると、いくらでも遊べてしまうんですよ。

 つまりモノを作る達人たちが、その罠にはまり、結果的に世の人々を歓喜させる作品を継続して作っていくモチベーションを失ってしまう。
 それは人間の文化にとって、とても大きな損失なのではないか(大きく出たぞ…笑)。

 まあ考えたってしょーもないことですけどね。 こういうことは、自分が大金持ちになった時に考えたい(笑)。

 とにかく今回、鳥山氏に単行本1冊程度の連載を描かせることになったモチベーションというのは、いったい何だったのかと考えると、「ドラゴンボールのクロニクルに花を添えてみたい」、という欲求だったのではなかろうか、と。

 でも、「どこから読んでも入りこめる」、という作品だった、と感じます、今回も。
 これって今のジャンプ連載陣にとって、重要なことじゃないのかな~。
 自分たちの作ったゲームのルールに従って遊んでるのって、仲間うちの話で終わっちゃうじゃないですか。
 マンガというコンテンツが他人に対して知らんぷりをするような作風になっていくことって、けっして業界にとっても得策ではない気が、するんですけどね。

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2013年10月 3日 (木)

「宇宙戦艦ヤマト2199」 最終回 「ヤマト第1世代」 たちへのメッセージ

 日本のアニメーション史に残る傑作、「宇宙戦艦ヤマト」 をリメイクした、今回の 「2199」。
 最初のうちは声優さんたちとかキャラデザに違和感があるとか、あとCGだと重量感がないとか、それから 「またヤマトで金儲けかよ」 とか、さらにその他いろいろ、言っても詮ないことをグダグダと考えておりましたが、設定の緻密さやその変更の意図などを考えながら見ていくうちに、私個人としては、回を追うごとに興味が増大していきました。

 特に見事だったのは、 「重量感がない」 と最初ケチをつけたCG。 これが戦闘シーンになると大いに威力を発揮して、かなりあり得ない、SFレベルの状況下で繰り広げられる描写には、目が釘付けになることもしばしばでした。
 もともと劇場公開を念頭に置いているせいか、テレビアニメとしても話、画力、ともにとても密度が高い。 これほど質の高いテレビアニメシリーズというのは、ほんとに数年に一度、くらいのレベルではないでしょうか。 ここまで丁寧に作ってくれて、ヤマトを最初から見ているファンとしては、もう頭を垂れるしかございません。

 そりゃダメ出ししたくなるような部分がない、とは申しませんよ。 言い出したらキリのないことはかなりある(途中で変わったオープニングテーマとかね…笑…でも録画したものをスッ飛ばしゃいいだけだし)。
 いちばん言いたいのは、「ところどころ演出があっさりしすぎていた」、という点でしょうか。 ドメルの最期とか、デスラーの行動と判断とか。
 つまりもっとねちっこくやってもらいたかった(笑)。
 まあ尺の関係もあるかもしれないし、テレビシリーズに焼き直したときにカットした部分もあるかもしれないですけど。
 だからこの路線に対する批判という意味では、まったくないんですよ。 「もっと回数が欲しかった」 という不満なのです。

 設定の緻密さという点で今回私が注目したのは、ガミラス帝国側の全体的な構造でした。

 もちろん地球側にも、この計画に異を唱える者たちの存在があって、けっして一枚板という設定にはなっていなかった。 これはこれでリアリティがあり、それでひとつの物語を形成していたところがあったけれども、それは物語に大きなインパクトを与えるようなところまで昇華していなかった気がします。

 ガミラス側はそれに対して、複数の種族を抱えることによって、内部構造の矛盾を浮き彫りにさせるような描写を可能にしていた。

 ここでもっともリアルさを欠いていたのが、ガミラス幹部にまま見られる、「下品な連中」 の描写でした。
 ガミラス総統のデスラーは、この 「下品な連中」 に対して不快感を隠さない人間でしたが、そんな下品な幹部がガミラスには、多数跋扈している。 いくら下品でもデスラーが起用せざるを得ない能力を、この連中は有しているんですよ。

 今回見ていて早い段階で気付いたのは、この下品な連中の年齢設定が、ちょうど我々、「ヤマト」 を最初に見ていた 「第1世代」 の年齢(4、50代)とかぶっていることです(ホントの設定年齢はいくつなのか知りませんけど)。

 同時に気付くのは、ヤマトの乗務員が、かなり若年層中心だったんだな、ということ(ガキの頃は 「どーしてみんな日本人なんだ?」 とか思ってたんですけど…笑)。
 これは物語の設定的に言えば、地球の危機に際して我々の世代クラスの働き盛りがごっそりいなくなっちゃったことに起因はしているのですが、あらためて見渡すと、ヤマト乗務員のなかで我々4、50代の人間とかぶっているって、機関部の山崎さんとか?それくらいしかいない。 沖田艦長を始め、徳川さんとか佐渡さん、みんな60代くらいでしょ?

 それに対して我々ヤマト第1世代の年齢層とかぶっている、ガミラスの下品な連中というのを見てると、彼らは下には暴力的で上にはヘーコラおべっか使いまくり、賄賂とかの描写はなかった気がするけど(笑)常に自分が自分が、みたいな自己顕示欲の塊みたいですよね。 肝心なところでは責任取らないし(笑)。

 つまりこれって、自分たち中堅世代が世の中に出ていって、自分をどのように汚していったのか、ということのカリカチュアなのではないか、と思ったんですよ。

 そしてヤマトの乗組員というのは、汚れることを知らなかったかつての自分たちのカテゴライズなのでは、と。

 もちろんガミラス側にも、自分というものを見失わなかった優れた人材というのはおりました。 ドメルをはじめとして、ディッツとかね。 クラーケンなんか、自分を貫くことのカッコよさを、オレたちも体現できるんだ、という証しのようでもあった。
 それは同時に、私たちの年代でも、自分を汚すことなく社会で生きていくことができた人たちもいる、ということでもある。
 その点において、このアニメシリーズは、合計26回、半年ものあいだ、絶えず私に対して、「お前はこのアニメに最初に夢中になっていた、あの時の気持ちを失わずに生きているか?」 という自問自答の場になっていたことは確かです。

 同時に、自分を見失ってしまった最大の象徴だったのが、デスラーだった気もしてきます。

 彼の行動自体は、このリメイクのなかでもきちんとした説得力を持って説明されていたとは思えない。 結局今回の制作陣は、原作に準拠してスターシャへの偏愛、そして崩壊過程での狂気の発動でもってその行動を説明しようとしてしまったように思えるのですが、大宇宙を統べる巨大帝国のアタマとしては、自分が常軌を逸した行動に出るに際して、その政治的な背景をどうしても探らなければいけないと思うし、刑務所の反乱とか、反対勢力の攻勢に対してのデスラー自身の焦りとかも描写する必然性があると感じる。

 ただそのいっぽうで今回のシリーズでは、デスラー自身を、まあ毎度自分の表現がワンパターンでアレなんですけど(笑)モラトリアム的な存在にした、というか、どことなくテレビゲームに夢中になっていらっしゃるお坊ちゃま感覚で捉えようとした部分も見える。
 それにある程度、総統としてのカリスマ性なんかを自分で演出しようとしている自己偏愛的な部分も見えたし。
 つまりまあ、設定的には叔父の帝国を受け継いだ、ということにはなっているけど、感覚的には彼は、世襲で帝国を束ねているにすぎない。 だからヤマトというたった一隻の艦があけたちっぽけな穴に必要以上に反応し、自分の持っている帝国の宇宙的な規模も忘却して、ヤマトに固執する。
 要するに、スターシャにしてもヤマトにしても、欲しい欲しい病みたいなもので。 どんなにカリスマ性を自己演出して自分を偽ろうとも、その核となる部分では、いつも欲しいおもちゃはひとり占めしていたい、所有欲が渦巻いているんだと思うんですよ。

 それはやはり、私なんかはビンボーだからその傾向にはないけれども、私たちの世代である程度経済的に成功している人たちにとっては、デスラーのオコチャマ的所有欲というのは、自分自身を振り返るある種のプロトタイプになっているのではないか、と。

 私のような 「ヤマト第1世代」 に対して、自らを省みる機会を強要し続けた今回の 「2199」。

 物語はそのエンディングに向かって、その設定を微妙にリアルに変えながらも、自らを古代進や森雪などの世代に原点回帰させるストーリーを、感慨を持ってなぞっていくことになります。

 すなわち、地球の照らす光によって、古代進の腕のなかで蘇生する森雪と、その地球への帰還を眼前にして、「地球か…何もかも皆、懐かしい」 というセリフと共にこときれていく沖田艦長、というストーリーです。

 今回、緻密になったストーリーのためにいちばん割を食った形になったのが、この古代進の描写だと感じます。
 かつて主人公の存在感を高めることで、物語としての吸引力が高まっていた平和な時代があった。 しかし現代のストーリーテリングは、突出した存在感を打ち出すには、非常に困難を伴うイヤな時代だとも思う。
 そのなかで、新たなキャラクターが跋扈する新しいス トーリーのなかで、古代進と森雪の関係は、静かに潜伏しながら進行するしかなかったような気もするのです。

 今回、コスモリバースシステムの性格を、古代進の兄、守の意識下にある地球の記憶をシステマチックに改変したことで、古代守は幽体的な存在としてヤマトに宿ることとなり、その意識によって森雪を蘇生させることに成功した(あ~ネタバレでした、スイマセン)。 そしてそのことによりいったんはシステムダウンしたコスモリバースシステムは、沖田艦長の死と共に、再びヤマトに宿ることとなる。

 こういう非科学的な設定というものは、見ている側をときにはシラケさせるものではあるのですが、人の心が受け継がれていく、という意義によって、その非科学性は乗り越えられる。 これってすなわち、森雪が生き返ることがすなわちヤマトのストーリーだし、沖田艦長は地球を眼前にして息絶えなければならない、という私たちヤマト第1世代のワガママではあるのですが(笑)、こうしてきちんと原作をなぞってもらうことによって、少なくとも私の涙腺は、決壊しました。

 つまり、今まで実に、ガミラスの幹部たちやデスラー総統のありかたによって現実を苦く振り返らざるを得なかった自分が、古代進や森雪の持つ、若い心、かつての自分が抱いていた気持ちにシンクロできる機会を、ここで得ることができたのです。

 そして沖田艦長の死は、同時に自分のなかで、その若かったころの自分の気持ちがなくなっていく、ひとつの象徴にも映った。

 これが、自分を限りなく、泣かせるのです。

 自分は、沖田艦長のように、自分のなすべきことをやりきって、死んでいくことができるのか?

 物語が終わって、限りない虚脱感と共に、自分のなかに打ちこまれた楔。

 「ヤマトに夢中になっていたころの自分を、裏切るような生き方はしたくないものだ」…、このアニメは自分のような世代の者にとって、ちょっとアニメという枠を超えた感慨を、もたらしてくれたのです。

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