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2013年11月

2013年11月26日 (火)

紅白はもう、明確に世代分けをすべき

 今年の紅白の出場者が決まりましたが。
 どうも年々興味が薄れていきますな。
 世代間の断絶がここまで明確になると、前半は若者向けの紅白、後半は大人向けの紅白、というように、はっきりと分けたほうがいいと思います。 アイドルばかりのところにいきなり演歌歌手とか、そんなもの誰も見たくないんですよ。 若者も、大人も。

 だいたい流行ってる歌がないですからね。 そこがもう致命的であって。
 私が今年の歌で知ってるのは、「NHKラジオ深夜便」 で毎日かかっている 「深夜便の歌」(3カ月ごとに更新) くらいしかない。
 それと、「あまちゃん」 の挿入歌、「潮騒のメロディ」…アレ?(笑)。 「メロディ」 じゃない、「メモリー」 だったっけ?(笑)。 そういやキョンキョン、出てこないけど、なんなんだよコレ。 今年流行った曲、これしかないじゃん(極論)。

 まあ、もしかしてサプライズで出るのかもしれないけど、変に 「あまちゃん」 を神出鬼没みたいに出さないでほしいな。 見たくもないアーチストだかいう人たちの合い間合い間にひょこっと出たりとか。 見逃しちゃうよ。

 それに、「あまちゃん」 でせっかく80年代の歌謡曲が脚光を浴びたんだから、80年代のコーナー作ってもいいんじゃないのかな。 河合奈保子サンとか柏原よしえサンとか早見優サンとかシャネルズとか横浜銀蠅とか(まあ出るのに支障のあるかたもいらっしゃいますが)。
 それってそもそもNHKにおいては、「思い出のメロディー」 という別番組で需要があるんだと思うのだけれど、もう 「思い出のメロディー」、紅白に移行してやっちゃってもいいんじゃないだろうか。 テレビ東京さんとかぶるけど。
 だって流行ってる曲ないんだもん。 過去の遺産で食ってけばいいじゃないですか、もう。

 サブちゃんこと北島三郎サンが、今年を最後に紅白から引退、というのもさびしい話で。
 いや、後輩に譲るとか、やめてほしいよ。 いないもの。 見たい後輩ってもんが。 いないんだから、サブちゃんは続けるべきだ。 サブちゃんの後継と呼べる人が出てきたら、晴れて引退すればいい。 でもこうなりゃもう生きてる限り紅白には出てほしいですよ。 島倉サンもいなくなっちゃったんですよ。 屋台骨を支えていただかないと。 日本の歌謡界の。

 まあ、積極的に見たいのは、朝ドラ 「ごちそうさん」 のテーマ曲を歌ってる、ゆずくらいなもので。 あ~めのち~ぃ~、はれ~るやぁ~。
 あとはまあ、泉谷サン? 今年 「昭和の歌よありがとう」 というコラボアルバムを出したのだけれど、そのなかでデュエットしていたおひとり、大竹しのぶサンが、「紅白に出たい」 とご自分のラジオ番組で盛んにしゃべっておいでですよ(笑)。 お出しになってさしあげたらいかがでしょうか(笑)。

 それにしても今年ばかりは、当ブログ恒例の 「ツイッター風・紅白実況中継」 をやる気が起きてまいりませんなぁ…。

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2013年11月17日 (日)

「ごちそうさん」 第7週 鯛が大阪弁でしゃべるキッチン・オペラ

 このドラマ、大阪編に入って、どうも面白さに加速がついてきたように思えます。
 相変わらずめ以子(杏サン)の経済観念とか詳細な部分に関しての説明が不十分とか、構成にはところどころ甘い部分も見受けられる。
 ただそれを補う、何かがきちんと説明されている感覚。
 そのおかげで、15分を見終わったところで、「次はどんなんやろう」 という気持ちを、見ている側に起こさせる。 その原動力になっているものは何なんだろう。

 まず考えられるひとつは、め以子を苦しめ続ける小姑の、和枝(キムラ緑子サン)の本性に深く関わっていると思われる、過去の説明が(さわり的ではあるが)なされたこと。

 和枝は、め以子がとうとうブチ切れてそこらじゅうにぶちまけた洗濯物のあとを見て、自分もむかし嫁ぎ先で同じ目に遭って同じことをしていたのを、思い出します。
 その回想シーンでは、和枝の息子と思しき男の子が、和枝にすがって泣いている。
 その息子が着ていた着物と同じ柄の、つまり息子の着もののきれっ端で作ったと思われるお守りを、和枝は肌身離さず持っているのです。

 この息子はいったいどうなったのか。
 和枝は出戻りだから嫁ぎ先にはいられなくなったことは明白ですが、それで息子とも縁を切ったとまでは考えられる。 ただ息子の着物で作ったお守りを持っているとなると、その息子が不慮の出来事で死んでしまったということまで考えられてくる。
 和枝がどこでそんなに性格がねじくれてしまったのかを見る側が思いをいたすには、じゅうぶんな材料なんですよ。
 そして、そんな、め以子に対して同情を持つ機運を描いておきながら、なおかつめ以子に難題をふきかける和枝。
 この和枝の行動規範が何なのか、やはり見る側としては気になる。

 そして原動力のふたつめは、め以子が師匠と仰ぐ、「ほうるもんじいさん」(近藤正臣サン)の登場です。 「ほうるもん」 とは、「ホルモン」 の語源のひとつとも言われてますよね。
 酉井捨蔵という本名のこのジイサン、食材を余すところなく使い切る達人という触れ込みであり、それが大阪の 「始末の文化」 を体現する存在である。 今のところこのジイサンが、伊丹十三監督の 「タンポポ」 での山崎努サンほどの存在感を披露したわけではないけれども、「師匠」 的な存在が物語に登場すると、お話って急に面白くなる傾向って、やっぱりあるんですよ。
 和枝がめ以子に過去の自分を重ね合わせながらも、さらに仕掛けてきた難題に対して、このほうるもんじいさんが助け船を出す。 ここらへんのつなぎ方は見事だなぁと感じました。

 その難題。
 これも、鯛を親戚同士でやり取りする 「魚島季節」(うおじまどき)という、大阪の風習を絡めたもので(蛇足ですが、おにぎりを三角に握るのはお葬式の時だけとか、そんな風習の蘊蓄も今週はありました)。
 これをめ以子に任せたはずの和枝が、いざめ以子が魚屋のバイト(つーか、手伝い?)までして金を工面してそろえた鯛とは別に鯛を手配し、すでに親戚に配ってしまって、大量の鯛が余りまくる、という話。

 これって、いちおう和枝は株で家計を助けている、という描写があったから、ああその鯛買った金も株で儲けたもんなんだろうな、ということは想像ができるのですが、和枝にも経済観念というものが、なんか欠けてる感覚。
 しかもほうるもんじいさんの助けでその鯛の始末を敢行しため以子も、やはり鯛を引き立てるための食材を買いまくりで、こちらも相変わらずの経済感覚のなさ。
 こういうところがこのお話のリアリティを著しく減退するファクターとはなるんですけど。

 ただ私が面白いな、と思ったのは、こういう 「お金ど~すんねん」 という気持ちを吹き飛ばしてしまうきっかけというものに感心したため。
 目の前に大量に余った、40匹にもなる鯛の山。
 その鯛がですよ、め以子に大阪弁で 「わてらどないなるの?」 とか 「腐っても鯛言いますけどなぁ」 とか、しゃべり出すんですよ(笑)。
 これは明らかにめ以子の幻覚なんですが(笑)、その場に現れた後妻の静(宮崎美子サン)に 「これどうすんの」 と聞かれ、「もうっ!モオ~っ!モオオオ~っ!」 とついに牛になったかと(笑)思うとその場から出奔(笑)。
 それでめ以子は、酉井に助けを請うんですけどね。

 この、鯛がしゃべる場面は、め以子が食材に対して生来持っている愛情がその幻覚を引き起こした、と言ってもいいんだろうな、と思う。 しかも鯛が大阪弁でしゃべる(笑)というのは、め以子にとって鯛が、自分に立ちはだかる 「この土地」 の象徴に見えていることの証左でもある。
 つまりここでは、主役はめ以子ではなく、鯛なんですよ。
 この主客逆転のダイナミクスというのは、表現がブッ飛び気味の映画なんかではよくある表現なんですが、テレビドラマで出てくると結構新鮮。 鯛がしゃべり出し、それに主役のめ以子が過剰に反応する。 そうすることで、大正時代の厨房が一気にオペラコンサートの場に豹変する、そんな高揚感を生み出す作用がある。

 酉井の助けを借り、鯛料理を制覇しため以子。
 「もう食えへん」 という食卓で、義妹の希子(高畑充希チャン)が、「鯛のなかのタイ」、つまりワンピースで鯛の形をした骨を見つけます。 それは極端な内気の希子が見つけた、小さな 「希み」 のような気もする。 ここらへんの食材の使いかたも、まことにうまい。

 そして今まで悪い見方しかしていなかった西門の家の者たちを、逆の視点で見つめることができるようになっため以子、という話につなげていく。
 ここにはめ以子の夫である、悠太郎(東出昌大サン)のめ以子に対する思いというものもさりげなく作用している、というのも見てとれるのが、いいんですよね。
 バイトで疲れきって、食卓の席で座ったまま寝てしまうめ以子に、「苦労ばかりかけて済まんなぁ」 とつぶやくとか、め以子が東京の両親に宛てて書いた、きれいごとばかりの手紙のあとで、ちゃんとフォローの手紙を出すとか。
 ただまあ、め以子の手紙がきれいごとばかりというのは、ちょっと違いますけど。
 それはそれで、め以子の覚悟が見て取れる内容で。
 その覚悟が分かるから、め以子の父親(原田泰造サン)は、心配する母親(財前直見サン)に 「ほっておけ」 という。
 冒頭で書きましたが、このドラマがきちんと説明し始めた 「なにか」 が、そこにはあるような気がするんですよ。

 このドラマの主題歌が、悠太郎の視点に立っている、というのは感じています。
 「どんな君でも愛している」。
 今週の、東京での描写にもありましたけど、め以子はバカでバカでしょうがない面も確かにあるんですよ。 でも悠太郎は、そんなめ以子でも、愛している。
 どうなっていくんでしょうかね、この悠太郎も。 なんとなく 「先に死亡」 フラグが出ているような気もするんですけどね。

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2013年11月14日 (木)

最近の訃報に思う

 島倉千代子サンがお亡くなりになったりとか、訃報というのは特に自分が年配になってくるとそれぞれに感慨深くなってくるものです。
 以前はこのブログでも、訃報記事がひとつのジャンルみたいな位置付けをしてまいったのですが、このところ深く語ることのできるかたが少なくて、ちょっと意識的にやらないでまいりました。
 ただこのところ、ちょっと多い。
 やなせたかしサンとか岩谷時子サンとか川上哲治サンとか、そりゃもうこの歳まで生きたら…というかたがお亡くなりになることが最近の傾向のような気がいたしますが、それでもやはり、「この世」 というステージにまだおられる、ということの安心感というものは、あった気がいたします。 島倉サンで75歳、だったでしょうか、これで 「まだ早い」、という感覚ですから。

 たしかにやなせサンなんかを見てると、「このジイサン元気だな~、オレも頑張ろう」 という気にさせていただいていたのですが、アンパンマンのごとく、自分を切り売りして元気を分け与えていたようなかたがいらっしゃらなくなると、「また世の中が、ひとつ面白くなくなった」、という気にはなるものです。

 岩谷サンの訃報を聞いてまたウィキに駆け込んだりもしたのですが、郷ひろみサンの一連の作詞のなかで、「花とみつばち」 もしてたんだな、というのはちょっと意外だったかな。 あの歌詞はオフコース小田和正サンの 「Yes,No」 と同系列の、「しゃべり言葉による歌詞」 だと思うんですよ。 「♪どうでもいいけど~」 って。 そうか、ザ・ピーナッツの 「ふりむかないで」 も同じだ。 「ふしぎなメルモ」 も同系統だなー。
 しゃべり言葉による歌詞というのは感性が大きく作用するので、気を抜いたように見せかけてきちっとした言葉を選ばないと、聴き手の心に残ってこない。 スキルの要るジャンルだと思うんですよ。 まだ生きていらっしゃるんだな~というのは 「ラジオ深夜便」 でしばしば確認しておったのですが、いざ亡くなられてみると、やはりどこかに喪失感というものが残ります。
 合唱曲の 「空がこんなに青いとは」 もそうだったんだ。 「♪知らなかったーよー、空がこんなに青ーいとーはー」。 懐かしいな。

 その 「ラジオ深夜便」 つながりで申しますと、この番組で月イチの 「隠居大学」 というコーナーを受け持っていた、コラムニストの天野祐吉サン。 朝日新聞のCM天気図で最初に知ったのかな。 「面白い文章を書く人だな」、って。 「ブロードキャスター」 にもお出になってましたよね。 この人の根底には、いつも何か、世の中を面白がる、というのがあって、そこが結構好きだった。 80歳ということである程度の天寿かもしれませんが、でもやっぱり惜しい。 亡くなったあとに 「深夜便」 で放送された 「隠居大学」、所ジョージサンとの対談では、やはり軽妙な受け答えが素晴らしくて。 期間限定でお聴きになれますのでぜひ。 → http://www.nhk.or.jp/shinyabin/doga/04.html

 川上監督については、NHKの野球解説で頑張っていたのが印象的でしたが、このかたに関してはもうなんか、「巨人の星」 とか 「侍ジャイアンツ」 の、「架空のイメージ」 が強くてね(笑)。 たぶん実像とはかなり違っていたんじゃないかと思う。 梶原一騎サンの創作したイメージですよ。 特に 「巨人の星」 では、この作品の質をワンランク上に位置づける重要な役割を果たしたと思っています。 これについては当ブログで数年前に言及したのですが、探すのメンド臭いからリンクは張りません(ハハ…)。

 島倉サンは、よくラジオの大沢悠里サンの番組にゲスト出演していた印象があるんですが、ホントにしゃべりが少女みたいな感覚でね。 人間性が、根本から可愛らしいんですよ。 だから悪いヤツに騙されちゃったんだろうな、というのは感じます。 イカンですよ、こういういい人を騙しちゃ。 いい人っていうのは騙される。 特にお金を持ってると。 イヤな世の中だ。
 この人の歌う曲というのは、かなりキイが高い。 そこらへんにちょっと注意して聞いたことがないんですが、たぶん島倉サンは、いくら歳を重ねようとも、オリジナルのキイで歌うことにこだわり続けた、という印象が個人的にはあります(認識違いがあったらゴメンナサイ)。
 たぶん、だからだと思うんですけど、乳がんを患ってからの島倉サンは、高いままのキイの昔の歌を歌うのが、ちょっとキツそうに思えることがあった。 だから、「こんなに歌ヘタだったっけ?」 と思うことも、正直ありました。 でもオリジナルキイで歌うことが、彼女の歌い手としてのプライドだったんじゃないでしょうか。
 これも昨日の(正確には今朝の) 「ラジオ深夜便」 で、数年前の宮川アナのインタビューが、流れてました。 無邪気なまんまで。 とても亡くなったとは思えません。

 なんか、いつの間にか、世の中を面白くしてくれていた人たちがいなくなってる、ということに気付きます。 若い人たちにとって、そんな存在って、どんな人たちなんだろう。 サッカー選手とか、エグザイルとか、そんな感じになっちゃうのかな。

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食品偽装についての下らない私の意見

 久々にドラマ以外の下らないお話を。

 ホテルのレストランで、和牛とか芝エビでもないのにその表示をしていたとか、百貨店でおせちの材料に虚偽表示があったとか、ひとつ露見すると次々連鎖的に出てくる、という不思議現象がまた起こっていますが、個人的には興味がありません。 なぜなら利用しないから。 ホテルとか百貨店のおせちとか利用するほどお金持ちではございませんので。

 してみると、このニュースは、お金持ちが 「だまされた!」 と憤慨するためのニュースなのでしょうか。 ビンボー人にしてみりゃ 「いい気味だ」 ということになるが、このニュースで怒っている人っていうのを見たことがない。 栗がホントは韓国産だなんて言ったら 「韓国」 ということだけで怒ってる人というのは、ネットで見かけるけど。

 じっさいのところ、我が国はバブル崩壊後の不況(潜在的にはゆるーい好景気だった)があまりにも長過ぎたおかげで、「本物の味」 というものを知らない、もしくは忘れてしまった人たちだらけになってしまったのではないか…、という気もいたしますが、芝エビがバナメイエビだったとしても、分かんなきゃさほど大したことではない。 小ぶりのエビなんか、単品で出てくるならまだしも、大概は料理のなかの具材のひとつ。 濃厚な風味のエビチリなんかで出された日にゃ、どうやって素材の味を確かめられるのか、という気がする。

 要するに今回のことは、ホテルや百貨店が、この不景気でどうやって収益を伸ばそうかと考えた末に、メニューの表示の曖昧性に目をつけ、消費者の舌の鈍感さに目をつけた末の確信犯的な所業だと思うんですよ。 彼らの謝罪の仕方を見てごらんなさい。 「自分たちが悪いことをした」 という気持ちがこもっとらんでしょう(笑)。 AをBだと言いくるめてAB(エビ)にしましたくらいの感覚(なんだソレ)。 「これは自分たちのスキルであって、誇るべき偽装技術なのだ」、と。 だから、「あ~コレ問題なのか、じゃドサクサに紛れてウチも謝っておこう」、くらいの感覚で、次から次からボロボロ出てくるんじゃないですか。

 私が却ってすごいな、と思うのは、ただの肉に牛脂を注入して、和牛に見せかけてしまう、というその、彼らの技術のほうですな(笑)。 注入して、なんて聞くと、まるで注射器に牛脂を詰めて単純にチューッニューッしてるだけ、みたいに思えるけど、コレ、伝え聞くところによると、なんだか剣山みたいな道具を使うらしい。 これならまんべんなく、霜降り肉みたいに牛脂を注入できる、というわけです。

 この道具欲しい(笑)。 あと牛脂も(あのな…スーパーに無料で置いてあるがな)。

 コレ、通販で売り出したらどうだろう。 「この道具を使えば、どんな肉でも、霜降り肉に早変わり!」 って。 「本日は特別に、但馬牛の牛脂を1キロおつけいたします!」 みたいな(笑)。

 ただもしその道具があまりに高かったら、それこそビンボー人の手には届かないから、我慢してホテルで偽装和牛を食って、感心するしかないんでしょうな(ハハ…)。

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2013年11月 9日 (土)

「ごちそうさん」 第6週 こんぶねーしょん悪い?

 なんだかんだで結局温室育ちだった東京編のめ以子。 そりゃそうだ、父親も母親も、この食い意地が張った長女に、ただ食いもんは不自由させちゃならないという気持ちだけ(「だけ」 とも言えないけれど)で育ててきたんだから。

 ただですね、それが悪いかというとそうでもないんじゃないのかな。
 世の中の常識なんざ、親のそうした愛情だけで、ある程度のことはカバーできてしまうのではないか、って思うんですよ。
 そりゃ確かに常識知らなさすぎですよこの子は。
 自分の食欲にあくまで柔順だし、自分の気持ちが中心で世の中回ってるし(お見合いすっぽかしではそれが端的に出た気がする)。
 でも、め以子は先週までの東京編で、「自分以外の人に幸せになってもらいたい(食べ物で…笑)」 という気持ちを育てていった。 そこには親の思いも、確実に注入されています。 ただ単に放任主義で育てられたわけじゃない。
 だから躾だなんだって、別にいいじゃないの、とも思う。 人のために何かをやる、という気持ちが育ったんだから別に。 あくまで自分勝手だと、どこに出しても恥ずかしい娘になっちゃうけど。 親がしゃんとしてれば、子供なんてのはしぜんと育つもので。

 でもそれってやっぱり、結局温室だった。 今週から始まった大阪編で、め以子は通天閣の姉で出戻りの小姑に、外海の荒波をもろに浴びることになります。
 この小姑を演じるのがキムラ緑子サン。 かーなーり、ハマってます(笑)。

 この小姑のなさることは、かなり過激。 め以子はいきなり女中扱いだし、食べ物が口に合わないと全部ぶちまけるし。
 ここで見る側にとっていちばんこたえるのは、この小姑が、め以子が東京から持ってきたぬか床を捨てるシーンです。
 これは正直なところ、「ナレーションやってる人を捨ててる」 のと同じ感覚。 だってこのドラマ、ぬか床(め以子のおばあちゃん)がナレーターだから(笑)。 番組の存続にまでかかわる話だ(笑)。
 おそらく小姑に野菜を漬けまくられたのでありましょう、いきなりぬか床は水浸し。 弱っていくおばあちゃん。
 そのあげくにこの小姑はこのぬか床を庭に埋めて捨ててしまう。 気付いため以子が止めに入ったがぬかはもうほんのわずか。 ただしぬか床のなかのおばあちゃんはこれでもまだ生命を維持できるらしい(笑)。 とりあえずホッとした(なんなんだ)。
 冗談はともかく、亡くなったおばあちゃんの心まで捨てられるというのは、それまでのめ以子の人生を否定されるに値する、象徴的なエピソードではないか、と思われます。

 で、この居住環境の激変でなにがいちばん露見するのか、というと、やはりめ以子の常識のなさなんですよね。
 でもめ以子は、「自分以外の人に食べ物で幸せになってもらいたい」 という気持ちで行動してる。
 常識のない人間が他人のために行動するとどうなるか。
 今週の 「ごちそうさん」 はその典型的なパターンを展開していった気がします。

 め以子はまず、飯を炊くのにガスではなく薪を使うという現実にぶち当たり、三度三度温かいご飯が出るわけではないという西門家の常識に面食らい、「薪代くらい自分で出しますよ」、と見得を切る。
 そして父親直伝のメンチカツをしょっぱなの夕食のおかずに。
 これらのめ以子の行動が、おいしいものを食べてもらおう、という気持ちから発生していることは確かなのですが、それがまずいんだな。
 ここには、相手を思いやっているようで、相手のことを考えずに自分の尺度で行動している、という致命的なミスがある。
 だから、西門家の味というものの壁にぶち当たったとき、絶食するだの昆布を片っ端から試すだの、この子はすごい遠回りしてしまうんですよ。
 小姑に素直に訊きゃいいのに(教えてくれるとは限らないけど)。

 でもですよ。

 だからといって、このドラマ自体がそのことで致命的になってしまうというのとは違うんじゃないか、と。 だからダメなんだよ、と断じてしまうのは早計な気もする。
 結局この子は遠回りながらも西門家の味に近づいたし、義理の妹さんの心もちょっとだけ開いたし、小姑サンとの仲がどのように変質していくかも、これからの話だと思うんですよ。
 確かに薪とか食材とか、この子には経済観念というものがない。
 でもそんなもの、これからの話でしょう。

 肝心なのは、そこに辿り着く方法がどんなに常識のない、家計のことも考えていない、独りよがりの方法だったとしても、め以子の気持ちの中核には、「食べ物で幸せになってほしい」、という思いがある。 彼女の場合、それが自分の食い気と密接につながっているから(笑)、遠回りでもいろいろと試さなければ気が済まない。 小姑サンに訊くのは簡単。 でもそれを拒んでいるのは、なにも彼女が自分の尺度だけで行動しているわけではなく、自分の食欲に忠実であろうという思いも交差しているからなのだ、と思う。

 私たち見る側は、そんな不完全な彼女の成長を見守る、という態度も必要なんじゃないかな、っていう気も、するのです。

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2013年11月 5日 (火)

「リーガルハイ」 第2期 第1-4回 「裁判」 ってなんなのか

 前クール 「半沢直樹」 の、度を超えた好評で思いっきり助走をつけた感じの、堺雅人サン主演、「リーガルハイ」 セカンドシーズン。 視聴率的にも余勢をかってファーストシーズンより5%は上積みされているようです。

 ただ第1回の設定を見た感じでは、かなり失望しました。
 そのもっとも大きな要因は、ファーストシーズンで主人公・古美門研介を遺恨の相手として敵視し続ける、三木法律事務所の生瀬勝久サン・小池栄子サンのコンビがわきに追いやられ、サワヤカーな好青年、岡田将生サンが、古美門のあらたなライバルとして起用されたこと。
 そして次に、このシリーズを通じての話になりそうな悪女・小雪サンの登場。
 正直なところ、フジテレビはこのところ安易な続編を乱発して前作のクオリティダウンを次々敢行している、というイメージが 「ヒッジョーに」 強くて、今作もその範疇か、と感じました。 お祭り騒ぎで登場人物増やして、論点をとっ散らかせる。 生瀬・小池コンビというこのドラマのおいしいエッセンスを追い出して、線の細そうな俳優を人気があるからと投入する。

 こういう手法は、この春に放送されていたスペシャルバージョンみたいな単発のときには威力を発揮するのですが、こうした連続ものに採用すると、本来のシリーズファンを失望させる大きな爆弾になることが多い。
 「リーガルハイ」 よお前もか、という失望があったことは否めません。

 しかし、この岡田将生サンの、誰にでも当たりがよく人たらしで、裁判を常に 「訴えるほうと訴えられる側の両方が幸せな結果をもたらす場」 にしたいという野望を描いているこの男の設定を見て、この男の存在というのは、古美門研介の存在意義をより深くするためのものであることが分かった気がします。

 古美門研介というのは、裁判で勝ち続けることが自分のアイデンティティだと思い込んでいる、ゴーマンで自分勝手の権化みたいな男。 無敗神話に酔いしれ、今回一方的な罪の受け入れによって負けてしまった、原告小雪サンの失地回復のため、シリーズを通して弁護に挑み続ける。
 彼の天まで届く鼻っ柱の強さはその弁護料の高額さににも裏打ちされている。 要するに弁護士界のブラック・ジャック的な存在であろうとしている。 だからどのような不利な案件でも、どーでもこーでも屁理屈でも草の者をしのばせてまで相手の弱みをつかみ取って、裁判を勝利に導こうとする。 事実それで彼は無敗を誇ってきた。

 この、なりふり構わぬ彼の弁護の方法は、当然品のいいものではありません。 どんな悪いヤツだって無罪にしちゃうんだから(でもどうにも勝ち目がないヤツの話には、あくまで乗ってきません、負けるのがイヤだから…笑…結局なんだかんだと乗っちゃうこともあるけど)。

 しかし岡田クンが演じる、今回の羽生という若手弁護士は、裁判に際して双方が幸せになる、ウィンウィンの結果を目指している、という時点で、古美門研介のスタンスとは完全に対極にあるのです。
 これは、沙織に対する個人的な恨み(笑)で古美門と対峙していた生瀬サンの三木弁護士とは、根本的に違う。
 羽生弁護士は、古美門弁護士のアイデンティティに対峙しようとしているからです。
 三木弁護士では、単なるベタなケンカのレベル、持ち込まれた案件によって浮き彫りにされる社会問題、というレベルでしかドラマが進行しないのですが、羽生弁護士の登場は、さらに一歩踏み込んで、古美門が単なるゴーマンで自分が勝つことにしか眼中にない男なのか、というレベルまでドラマを深くすることができる。

 そしてその先には、「そもそも裁判って、いったい何なんでしょうね?」 という、作り手の声が聞こえるような気がするのです。

 羽生弁護士が目指すウィンウィンの結果、というのは、弁護士報酬という観点から捉えると、「それじゃ弁護士が食っていけないだろう」、という話になるような気がするんですよ。
 どれだけ弁護士が弁護料をもらうのかは不勉強で知りませんけどね。
 でも相手から慰謝料とかそれなりのものをいただかないと、結局支払われる弁護料というのは、訴えた側が自腹で工面しなければならなくなる。
 古美門のやり方というのは、限りなく弁護料をつり上げることによって、そこらへんの問題をすべてクリアしようとしている。 羽生弁護士のやり方というのは一見クリーンなように思えるけれども、和解ですべて決まるということは、残ったのは高い弁護料だけ、というパターンが増えていく、ということになるんじゃないのかな。

 まあ、裁判とかやったことないから、いい加減な議論ですけどね、私の話も。

 ただ、裁判というのは、そんなお金を払ってでも、自分の言い分を通そうとする行為でしょ、訴える側にとっては。

 そしてそこには、「お金ですべて、とまではいかないが、ある程度のことは納得したい」 という思惑が働いているわけでしょう。

 このドラマ、シリーズを通して私が感じるのは、古美門というのは、そういった裁判とか係争の本質的な部分に対して、かなり醒めた目でピカレスクを気取ろうとしている存在に見えるんですよ。
 やるからには必ず勝つ、石にかじりついてでも勝つ、という彼の姿勢は、だから裁判とか、それをリードする弁護士という職業そのものの存在意義まで問うている、そんな気がする。

 だいたいどんな悪人でも、弁護士というものは、付くものでしょう。
 今回のシリーズではホリエモンのモデルの人は自分で自分を弁護してたけど(笑)。
 話はそれますが、あのホリエモンの回は、このドラマそのものに対する自虐的なパロディにまで昇華してましたよね(笑)。
 それはそれとして、とにかくその、誰が見ても悪人、と思える人にまで弁護士がつく、というのは、悪人にも一部の理があるからだ、という理屈があるからなんじゃないのかな(またいい加減なことを言ってますけど)。
 古美門弁護士は、そんな 「誰が見ても」 という世間一般の認識に対しても、常に懐疑の目を向けているように私には思えます。 そしてそれがこのドラマの生命線でもある、そんな気がする。

 そんな古美門の本音を白日のもとにさらけ出すのは、三木弁護士では役不足なんですよ(役不足の意味、合ってるだろうな?…笑)。

 ただまあ、岡田クンもまだ線が細すぎて、古美門のアクの強さに対抗しきれてない、という気もしますけどね。

 認識不足による議論もいろいろあると思うので、いちおう先回りして、謝っておきます。 従って今回のこのレビューに関して、イチャモンの類は受け付けません(笑)。

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2013年11月 3日 (日)

「八重の桜」 第38回 「西南戦争」 第39回 「私たちの子ども」(9月22、29日放送) 第40回 「妻のはったり」 第41回 「覚馬の娘」 第42回 「襄と行く会津」 第43回 「鹿鳴館の華」(10月6、13、20、27日放送) 第44回 「襄の遺言」(11月3日放送) を見て

 先の当ブログ 「八重の桜」 レビューでのコメントでやり取りしたことと、かなり重複してしまう部分があることを、まずお断りいたします。

 当ブログにおいて、だんだんとレビューの間隔が長く遠くなってきている、今年の大河ドラマ。
 正直言って、このドラマのクライマックスは鶴ヶ城落城でした。 そこから先の京都編は、個人的な見解を申し上げると、もう後日談でしかない、という感覚です。

 それを痛感したのは、「襄と行く会津」 の回を見たとき。

 この回で八重は、襄の伝道旅行について14年ぶりの会津に戻ってきたのですが、さすがにこの回は、最終回かと見まごうばかりの回想シーンの多さ。 しかしその回想が、八重の幼少時代から、鶴ヶ城落城まで、見事に一直線の物語として成立していたことを、肌身で感じたからです。
 それからの八重の人生は、いくら同志社創立者の妻として何かをやろうと、どうしても歴史の主体者としての重みを伴ってこない恨みがついてまわる。
 私が戊辰戦争での敗北からの八重を見ていて、会津人としてのアイデンティティを感じるもっとも大きなファクターというのは、まあ当時、標準語がどのような性格のものであったかは分からないのですが、八重が会津弁でしゃべり続けていること(まあそもそも登場人物が、名刺代わりみたいな感じで、薩摩弁、土佐弁などを喋りまくってるんですが…笑)。
 それ以外で会津の誇りは、「ふん、逆賊か」 と言われたら反発する、それくらいのレベルでしかない。 八重が薩摩や長州に対して遺恨を持っていることは大山巌とかとの接し方を見ていて分かるのですが、そんなもんはその場限りなんですよ、あくまで。

 それに、八重はキリスト教(プロテスタント)に改宗したことで、自分の罪を悔い、他者の罪を赦す、という宗教者としての局面に立たざるを得ない立場にいる、と私は思う。 でもドラマではそこらへんの線引きが、とても曖昧に描かれているような気がしてならないのです。
 それは、宗教者として八重に反省させてしまうと、本当の意味で反省したように見えない、つまり部外者にとって反省の説得力が弱く見えてしまうきらいがどこまで行ってもぬぐいきれない面があるからだと思う。
 しかしひとりの人間にとって、宗教と関わることは、それくらいの重大事なのだ、と私は考えるのです。 他人から見て説得力がないように思えるのは、その他人が、その宗教を信じていないからだ。 それくらい信じるものと信じない者とのあいだには、越えることのできない壁というものが、存在しているものだと私は思うのです。

 そして 「襄と行く会津」。

 この回では、何もかもが変わってしまった自らの故郷で、わずかに残っている角場の痕跡から、八重たちはそこがかつての自分たちの家だということが分かり、涙します。
 私もこの回では、かなり泣きました。
 それは、八重が自分たちの誇りをかけて戦った場所に対して抱く、かなり強い望郷の念に、同じく故郷の家を失った自分の琴線が大きく共鳴したせいです。
 私も、単なる田舎、ではなく、自分のアイデンティティの拠りどころくらいの意味のあった故郷を、失っている。
 建物が無くなった場所を、私も数回訪れたことがあるが、涙は出なかった。 自分の故郷に対する思いがあまりに強すぎるために、却ってその場所を早く離れたかった。 ややもすれば、「どうしてもうないんだ!」 と、叫んでしまいそうだったから。 ただ感じたのは、救いようのないくらいの寂寞の思い。

 人は、自分の愛する場所に対して、これほどまでに執着するものなのか。

 でも、人がどの土地を愛するのか、ということには、そこでその人がいい思いをしたか、イヤな思いをしたかということが、密接に関係してきます。 イヤなことがあった土地には、戻りたいなんて思わない。

 このドラマは、鶴ヶ城落城以降の話を、かなり執拗に続けている。 それはドラマ的な意義から考えると、「会津(福島)の人たちが、負け戦(原発事故)からどのようにして立ち直ったのか」 を描こうとしているからにほかならない。 でもそれが、それぞれの会津人にとって、きちんとしたオトシマエとして取り扱われていないために、どうしても冗漫に見えてしまうのです。 覚馬はこの伝道旅行に同行しなかったし、八重だって会津には、この回以外一瞥もしていない印象を受ける。 山川家は会津の身内に対して送金とかをしている描写があったけれど、本当にどれだけの苦労があったのかは、見る側にきちんと伝わってこない。

 それはとりもなおさず、八重とか覚馬とか山川とかにとって、会津はイヤなことがあった土地だからです。 と書くと言い過ぎですが、少なくともこのドラマ上では、八重たちが無意識のうちに過去を避けているように見えるのです。

 それを象徴するセリフが、八重の口から何度か出たことがある。 「自分たちは過去にとらわれてはなんねえ、未来を見据えねばなんねえ」、といった内容のセリフです。

 「襄の遺言」 では、松平容保が姉の照姫との最後のシーンで、孝明天皇から賜った刀と和歌を照姫に見せ、「これは会津が逆賊ではない証拠なのだが、いまは出す時期ではない」 ということを語るのですが、そこから容保の苦悩を察することは、少なくとも私にはできませんでした。
 八重の態度にしろ、容保の出し惜しみ(笑)にしろ、どうして明確なオトシマエをつけようとしないのか?という不満はくすぶることになる。

 もともと襄の会津への伝道旅行というものは、板垣退助から、「先の戦では会津の領民たちが甚だ戦に非協力的だった」、と言われたことがきっかけであったのに、八重は下々の者と会話はするものの、そこに気付かない。 これはシナリオの構成上、とても片手落ちに思えます(当ブログコメンテイター巨炎様の影響かも…笑)。

 その点で明確なオトシマエをつけたのは、「西南戦争」 の回での、佐川官兵衛や斎藤一(改名後はエート…)だったように感じます。 佐川は戊辰戦争で、遅参という大失態を犯したのですが、それを西南の役でなんとか挽回することができた。 しかも官軍と賊軍との立場の逆転、という歴史上の皮肉のはざまのなかで。
 私はこのドラマのいちばん最初にアメリカの南北戦争を出してきたことを見て、このドラマの本質が 「内乱」 なのではないか、という勝手な憶測をいたしたのですが、そのスケールから言えば、「西南戦争」 はこの物語のひとつの結論を導き出すべき回なのではないか、という期待を持っていました。
 でもこの回での八重たちは、新聞を読んで戦況を知り一喜一憂するだけ。
 要するに、もう八重たちはこの時点で、歴史の中心にはいないんですよ。
 私が鶴ヶ城以降のこのドラマを 「後日談」 のように思う理由のひとつがここにあります。

 その思いは、「鹿鳴館の華」 でさらに強くなった。

 この回、大山巌が山川家の帰国子女、捨松に求婚してくるのですが、それに決着をつけようと八重が提案したのが、腕相撲。

 何かの冗談かと思いましたけど、このシーンで会津・薩摩の過去の遺恨の浄化がなされたという意義は認められたものの、いくら八重の腕力が強くて、大山がロートルの域に達していようとも、下駄をはくまで分からん勝負を仕掛けるかよ、という感じで。
 これってもう、大河ドラマのスケールから言えば、後日談そのものでしょう。 田原坂で自刃した西郷隆盛のほうが、よほどカッコいいんですよ。 歴史ドラマとして。

 それに、せっかく鹿鳴館の華として描かれた山川捨松でしたが、私が学校で習ったことを述べさせていただくと、そもそも鹿鳴館というのは、日本が後進国ではないことをことさらアピールしようとした、いわば猿マネの象徴。
 ここから不平等条約に対抗する手段としての意義を認めることは難しい。 もっともっと、捨松の実績を具体的な成果として示していただかないと。 ただ社交ダンスをして英語が堪能だけでは、大河ドラマとしての説得力は持たない、と思うんですよ。

 ほかに、このドラマがここ数回、描写に力を入れているように思うのは、自由民権運動の高まりです。 これは徳富蘇峰との絡みで仕方ないんですけど、これが八重と、うまく関わってこない。
 さらに国会開設のために伊藤博文サンがやたらと出てきてますが、やはりこれも、八重とうまく絡んでこない。 ここまで細かくやる必要があるのか、と私などは思うのですが。

 そしてこのドラマがもうひとつ描こうとしていることが、覚馬の妻(でいいんだよね?…笑)時栄の不義問題および放逐。 なんかもう、後日談なんだよなァ(笑)。

 このドラマが新島八重を主役に据えようとした時点で、物語の構成はどうしても同志社のことまでやる必要が生じ、八重の身内のことも細かくやる必要が生じた。
 もともと収めどころが非常に難しい題材なんだよな、という気がとてもします。
 大河という風格を考えれば、鶴ヶ城落城がクライマックスなんですけどね。

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