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2013年12月

2013年12月31日 (火)

2013年 「第64回紅白歌合戦」 実況、やっぺよやっぺ~

 綾瀬はるか!(笑)

 今年の紅白は、この人だけを見ていればいい(笑)。 のっけから声を失う(笑)。 曲紹介のときでも笑ゴマ(笑)。 美輪明宏サンのありがたい話を途中でぶった切る(笑)。 去年の堀北真希チャンの、落ち着きの権化みたいな司会では決して見られなかった、「生放送ゆえの緊張感」 がこちらにも伝わってきて、とても刺激的です。
 下世話な言い方で言えば、「ハプニングの面白さ」 こそが、紅白の醍醐味のひとつでもあったと思うのですが、ここ数年は司会のかたがたのあまりのこなれぶりに、その面白さというものを忘れかけていました。
 私どものような年配者にとって、紅白というのは年々 「分からん」 人たちが増えていって、冷淡になっていくのがスタンダードであると言える。 それでもこの番組を見続けるのは、この番組が年末に見る、ひとつの 「年忘れ」 の行為であり、「お祭り」 としての性格を維持し続けているからだと思うのです。

 でも、じぇじぇじぇ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 のっけから 「北の海女」 の格好をした天野アキ(能年玲奈チャン)が登場。
 今年の紅白のつかみというのは、綾瀬サンとアキちゃんのふたりによって成立した、という感があります。

 そして8時の声を聞こうとするとき、舞台はいきなり北三陸へ。 なんとなんと、「あまちゃん」 に出演した人たちがほぼ全員という感覚で出ている(ミズタクがいないぞ、ミズタクが…笑)。 キョンキョンはもとより、薬師丸ひろ子サンまでスナック 「リアス」 に集結している!

 すごいなっしー!!

 すごいなっしー!!(笑)(20時20分)。

 この記事、随時更新いたします(ハハ…)。




 「花は咲く」。 綾瀬サン、泣いてしまいましたね。 リハーサルの時にも泣いてしまったらしいですが、福島の人たちのVTRを見て、また声を詰まらせてしまいます。 んもー、なんかすごい好感度アップなんですけど。 これで中間発表では紅組が劣勢とは、つくづく嵐の力はすごい、と思う。

 それにしても肝心の歌のほうが、完全に箸休めになっているのがどうにもね…。 綾瀬サンとかあまちゃんとか、そっちのほうがよほどメインなんだもの(21時05分)。

 見たぞ見たぞ、「暦の上ではディセンバー」、そして 「潮騒のメロディ」(メモリーだったっけ?…笑)。 アキちゃんも含めて、キョンキョン、鈴鹿ひろ美のメドレーだ(スゲ…)。

 それにしてもこの展開は何なのか? さっきまでこの人たち、スナック 「リアス」 にいたではないか?

 つまりですよ、8時頃にやっていた、副駅長が登場したところだけが北三陸で、実はスナック 「リアス」 のところだけが、VTRもしくは東京のスタジオでやっていた、ということなのか?

 いや、さっきまでキョンキョンは髪染めていた。 NHKホールに出てきたキョンキョンは髪染めてない。 さっきのはVTRだ。 おそらくそうだ。
 それにしてもキョンキョン、手が震えてた。 どれだけ久しぶりの紅白で、緊張していたんだろう。
 そして薬師丸ひろ子サン、薬師丸サンとしてではなく、鈴鹿ひろ美のクレジットで登場。 キョンキョンも天野春子のクレジットでしたけど。 いずれにせよ薬師丸サンは紅白、初めてでしょう。 すごいなコレ。 こんなところで薬師丸サンの初紅白を見ることが出来るなんて。

 そして出演者全員で、「田舎へ帰ろう」。 ここまでやるとは思わなかった。 まあ、「あまちゃん」 に触れていなかった人には何がなんだか、という演出ではありますが、ワタシ的にはかなり血湧きました。

 ドラマ好きとしては、「ごちそうさん」 の主題歌を歌う、ゆずが次の興味の中心です(22時10分)。




 pufumeのパフォーマンス、ずいぶんとフツーでしたよね。 なんかデジタルの着せ替えみたいなことをやって外国でも評価が高かった、と聞きましたが、それをやってくれたらよかったのに。

 で、次は杏サンと東出サンがやってきて、ついに 「雨のち晴レルヤ」。 「あまちゃん」 と比べると大阪制作の朝ドラは、「カーネーション」 の時もそうでしたけど、かなり地味。
 でも、歌詞のほうは 「潮騒のメモリー」 よりもよく知ってるし、私の中では今年一番知っている新曲、です。 やっぱりいいなぁ(22時25分)。




 えー、AKB、大島優子チャンが卒業、ということを電撃発表らしいですが、なんか既視感が強い。 卒業ばかりだからかな。
 「恋するフォーチュンクッキー」 でセンターをとっていた指原サンもこの発表に顔を覆って泣くフリしてましたけど(笑)、何もかもがわざとらしく見える。
 それよりも、この発表の後に歌われた 「ヘビーローテーション」。 この曲が歌われたころのAKBには、あの子もいたしこの子もいた(急に名前が思い出せないが、ひとりは前田アッチャンだった)。 最近のガールズグループのアイドルの歌というのは、没個性であって、誰が歌おうが一緒だと思っていたけれど、やはりメンバーが変われば、曲の表情じたいが変わっていくものなんだ、と感じました。 やっぱり数年前の 「ヘビーローテーション」 とは違うんですよ。

 そして泉谷しげるサンの 「春夏秋冬」。
 この曲は、限りない絶望の歌だと思うんですよ。 「今日ですべてが変わる、今日ですべてが報われる」。 これは絶望の中で自分を限りなく自嘲している歌なのだ。 つまり、「そう言ってみただけ」 という意味の言葉。 その歌詞を額面通りに受け取って、「すべてが報われる」 歌なのだ、と解釈することは間違っている。 客席に向かって 「拍手をやめろ」 と警告する泉谷サンは、シリアスなものをただ楽しく、現実を直視しようとしない 「この世の中」 に向かって警告していることと同じなんだ。 そんなことを感じながら、見ました(23時00分)。

 大トリが、今年で紅白を卒業する、北島三郎サン。 竜の形をしたクレーンに乗っかり、歌の途中で降りてからは、主に演歌人の出演者のかたがた、そして嵐の面々と握手しながらの歌唱。
 いくら綾瀬サンやアキちゃんが頑張ろうとも、紅白50年の歴史を背負った北島サンの力には形無しであることは、もうすでに分かっておりましたが、この勢いのまま白組優勝。

 というより、嵐が司会のうちは白組が勝つことはもう動かないものであろう、と思われ。

 急に 「北の国から」 モードですね(笑)。

 ルルルルルルルルルー(笑)。

 もう、あの頃の紅白は、時の流れの遥かかなたに過ぎ去ってしまったように思えます。

 では皆々様、今年はこれでおしまいです。

 よいお年を、お迎えくださいませ。

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2013年12月30日 (月)

「クリスマスの約束 2013」 小田サンの目指すゴールのあり方

 「フェードアウトというか、バットの置きかたは難しいやね…でも、なんかその、あそこ行ってポロンポロンって演ったら喜んでくれたとか、最後はそんなのがいいなぁとは思うけどね。

 でも、なんかこう、貢献できることは、しなくちゃいけないなっていう、義務みたいなものも感じるし。

 それとやっぱり音楽的なことで言えば、自分がホントはこういう音楽が昔好きだったよなあっていうスタートとこのへんの。 バンドやったり、オレのイメージで頼んでくる曲を、ちょっと書かなければいけなかったり。

 …置いてきたものを、そういう曲をやってみたいとかね」。

 これは今年の秋口にNHKBSで放送された 「吉田拓郎YOKOSO(ようこそ)」 のゲストとして小田和正サンがしゃべっていた、自分のミュージシャンとしてのゴールのあり方についての話です。
 今年の 「クリスマスの約束」 を見て、なんとなくこれってこの時の対談に対する、拓郎サンへの小田サンなりのひとつの答えなのかな、なんて気がしました。

 今回の 「クリスマスの約束」 の目玉は、なんといっても拓郎サンがゲストで出た、ということ。
 これ、その 「YOKOSO」 の対談のときに話が決まったんじゃないかな。
 「YOKOSO」 のなかで、拓郎サンは「最近なにごとにも億劫で…(笑)」 という話をしていたんですが、小田サンは 「テレビでこういう話をするのはさびしい(笑)」 という反応をし、ボイストレーニングを始めたという拓郎サンに対して 「新しいことを始めるのはいいことだ」 と大いにけしかけていた。
 新しいことをやって、自分のやる気を持続させる。 おそらくこの対談がきっかけになって、小田サンは拓郎サンを、今年の 「クリスマスの約束」 に引っ張り出したのかもしれない。

 逆に拓郎サンの側からすれば、この秋口で4年間続いたアルフィーの坂崎サンとのラジオ番組も終了し、自らの新作制作に没頭しつつあるときに、かつてのような 「曲が勝手に天から降ってきて簡単に出来てしまう」 ということがなくなり、七転八倒しているときに、小田サンとの共演は、多少なりとも刺激になるかもしれない、という思惑もあったのかもしれない。

 その 「YOKOSO」 で、ボイトレをやった結果オリジナルキー(いちばんの高音がG♯と言ってました)で声を出せるくらいになりつつある、と拓郎サンがしゃべっていた 「人生を語らず」。 「クリスマスの約束」 の小田サンとの共演の、いちばん最後がこの曲でした。 やっぱり、「YOKOSO」 と今回の 「クリスマスの約束」 は、繋がっている。

 ただどうも、拓郎サンに捧げたような、番組冒頭の 「the flag」 のあと、小田サンに紹介され、万雷の拍手のなか登場してきた拓郎サン。 …なんか固い(笑)。 いつもの砕けた感覚がない(笑)。
 最初の曲は、もう名曲中の名曲、「落陽」 だったのですが、すごくきっちり歌っている印象。
 もともとこの 「落陽」、あまりに名曲すぎて、拓郎サンも歌い飽きてるのかもしれないけれど(笑)本人あんまりきちっと歌うタイプの曲じゃないんですよ。

 なぜなのかはすぐ分かりました(笑)。 小田サンが完璧なバックコーラスをつけてるから(笑)。 小田サン特有の、あの後追いコーラスとかね。 だからきっちり歌わないと歌バラバラになっちゃう(笑)。
 曲のあいだのMCで、あまりにリハーサルに時間をかけ過ぎだみたいなことを拓郎サンが愚痴ってましたが(笑)、完璧主義者の小田サンにかかっては、拓郎サンのフィーリング重視も形無しだな、というところで(笑)。

 でも、小田サンのハーモニーが入った 「落陽」 は、なかなかに刺激的ではありました。

 そして次は、これまた初期の名曲、「リンゴ」。
 これは本来、拓郎サンがアタック気味のスリーフィンガー(要するに叩きつけるような感じで、弾くほうの指を3本で演奏する方法)を駆使する曲なのですが(レコードでは石川鷹彦サンだったかな~)、のっけから拓郎サンのストローク(つまり指で爪弾かないでジャカジャカやる奏法)で始まり、そこにフィンガーピック(指につけるギター弾くためのネイルみたいなもんですな)(んも~いちいち説明するのメンドクセエ…笑)をつけた小田サンがスリーフィンガーで追随する、という方法で演奏されました。 これも見る人が見れば、これまた非常に刺激的な場面でした(つまり自分はこの場面のすごさが分かっている、という、エラソーな自慢であります…笑)。

 続いては、ギターの弦を拓郎サンからタダでもらった小田サン無名時代の思い出があるという(笑)「今日までそして明日から」。 小田サンのハープ(ハーモニカ)も冴えてます。

 そして4曲目、最後の曲が、先ほどお話しした、「人生を語らず」。 ボイトレの成果が、ここに集結(笑)。 「♪届かないものおおお~~~っ身近に感じてえええ~~っ」 の 「おおお~~~っ」 の部分が先ほど書いたG♯の部分だと思うのですが、スンゴイよく声が出てた。
 しかも、近年の拓郎サンの声は、若い時よりもずっといい(と思っている)ですからね、もう最高でしたね。 まあアレンジが小田サン寄りなのは仕方ないとして(笑)。

 それにしてもこの、拓郎サンが登場の時ばかりは、いつも客席のうら若き美人の女性が涙を流しているとこばっかり映しているこの 「クリスマスの約束」 がですよ(笑)、完璧に 「オッサンのためのクリスマスの約束」(笑)。 どうして拓郎サンだと客席のオッサンが 「タクロ~~~ッ!」 とダミ声で怒鳴るイメージしかないのか(まあ、小田サンのコンサートだからそーゆーのはなかったですが…笑)。 仮にも 「フォーク界の貴公子」 とまで言われたお方ですよ(笑)。

 あと、蛇足ですけど、この日、拓郎サンがかけていたメガネ、なんか自分が今しているメガネと、形が似てたなー、という、どーでもいい話(笑)。 いや、まあ拓郎サンはいろんなメガネ持ってるけど、うれしいもんです、ファンとしては(笑)。

 で、そのあとも今年の 「クリスマスの約束」 は延々と続くんですが、そのあとは興味なしというか(笑)。
 拓郎サン退場のあとでてきたスタレビの根本サンは完全に自虐モード(笑)。 スキマスイッチやいきものがかりのメンバーなどと歌った 「プリーズ・ミスター・ポストマン」 は、もともとはモータウンのガールズグループの歌だったんですが、これはなんといってもビートルズのカヴァーで有名になった曲。 そのアレンジメントはさすがに小田サンのカラーが出たのか、どちらかというとカーペンターズがカヴァーしたほうにフィーリングは似てたけど、最後はビートルズばりに、全員が立ち上がって一斉にお辞儀。 これはビートルズスタイルなのです。

 その後は完全に興味がなくなり(笑)。

 世代的には、ミスチルの桜井サンがゲストで出て来たときのほうが、インパクトが強いんだろうな。 ただ私にとっては完全に管轄外。 細かい解説はその方面に詳しいサイトにおまかせします。
 で、番組もいつもの通り、客席の 「泣く女」 を映す方式に戻りました(笑)。 …まあこっちが本来の 「クリスマスの約束」 のあり方でございます。 拓郎サンが出てくるほうが、異色なんだよなぁ。

 あと、個人的によかったと思うのは、松たか子サンとJUJUのふたりと歌った、バート・バカラックの 「ホワット・ザ・ワールド・ニーズ・ナウ」。
 好きなんだよなー、この曲(つーかあの時代のバカラックはもう、神がかりまくりですけど)。 ディオンヌ・ワーウィックの名曲ですよ。 個人的にはセルジオ・メンデスとブラジル'77の、テンポの速いヤツも好きなんですが。

 そして最後に、東北大学の学長からあった、校内歌を作ってほしい、という依頼にこたえた曲。

 ここまでの流れを見ていて、冒頭に掲載した、「吉田拓郎YOKOSO」 でしゃべっていた小田サンの話と、今年の 「クリスマスの約束」 は、見事に合致しているんじゃないか、と思った次第なのです。

 つまり、もう70代という年齢が見えてきているこの時期に、小田サン自身がどうやってこの仕事を続けていきたいのか、ケリをつけたいのか、というひな形。

 ただ、フェードアウトなどと小田サンは言っておりましたが、この番組の1か月あとに来日した、ポール・マッカートニー。 彼は今年71歳なのです。 71で、あそこまでロックが出来る、というのは、拓郎サンにとっても小田サンにとっても、いいお手本になったのではないか、という気はどうしてもします。

 「YOKOSO」 の中でも、ふたりとも、自分のゴールを見定めないままに、いままで突っ走ってきた、という感慨を、自分たちの活動に対して持っていた。
 でも、いるじゃないですか。 生涯現役で、おふたりの前を突っ走り続けている男が。

 「クリスマスの約束」 のキャリアの中で、いちばんのピークだったのは、おそらく2009年の 「22'50''」 だろうと感じる。 この番組が最初始まったときの趣旨が結実したのが、この曲だろうと思うから。
 でも、そんなピークを過ぎたとしても、毎年クリスマスの時期に、何かしら心をホッとさせてくれる、潤いを与えてくれるような、このプログラムが、ずっと続いてくれることを、私は期待しているのです。

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2013年12月23日 (月)

「安堂ロイド~A.I. knows LOVE?~」 最終回 自虐の果てにある 「哀しみ」

 木村拓哉クンが未来から来たアンドロイドの役に挑んだ、今回のこのドラマ。

 もう第1回目から、「どうぞ失笑してください」「ツッコミ入れてください」 と言わんばかりのドラマの構造。 自虐を狙っているとしか思えませんでした。 制作スタッフは 「木村クンにこういう役をやらせたい」「今まで見たことのないビジュアルの限界に挑戦したい」 というモチベーションでやってたんでしょうけど。

 こういうドラマって、最初のうちはネタ仕込みのためにみんな見るけど、急速に飽きられるケースをたどることが多い。 案の定、「安堂ロイド」 の視聴率は2回目以降急降下を余儀なくされ、結果的に木村クンのドラマの中では記録的に低い部類になったのではないでしょうか。

 そこから 「木村拓哉の役者としての価値はもう終わりだ」 とか、そういうタブ 「ロイド」 紙みたいな下世話なことは、ここでは書きませんよ(笑)。 視聴率なんかアホの尺度ですからね。

 却ってこのドラマが対決しようとしていたのは、そんな下世話な、世間の人が陥りがちな、愚かな考え方だったのではないでしょうか。

 このドラマは世間の失笑を一手に買うようなアホな外装をしていながら、その中核に流れるテーマが非常にシリアスであることに大きな特徴がある。
 シュワちゃんのお面をかぶった狼だった、と思うのです。
 ただ惜しむらくは、失笑を買いすぎて、世間がこの作品に見向きもしなくなっちゃった(よーするに視聴率が悪化した)ということでしょうか。

 このドラマの背景に流れているSFの設定は非常に難解で、まともに取り合おうとするとかなり頭が混乱する。
 暴力的な描写を厭わなかったことで、敬遠する向きがまた増える。
 結果として、このドラマが発信する、重要なメッセージは、極めて限定的な人々にだけしか、届くことがなくなる。

 そのメッセージというのは、悲惨な未来を子供たちに残すな、というもの。
 それ自体は別に目新しいものではないのですが、昨今のネットの普及は、人間の持つ下卑た部分を急速に拡散させる作用がある、と私は感じています。 匿名で交わされていく世論のなかで、相手の悲しみに寄り添わない心が培養されていく。 このドラマの中で展開していた未来は、その可能性は低いとはいえ、このまま人が勝手なことをしていけばどうなるのか、という想像力に加えるべき世界だ、と思うのです。

 このメッセージは、いじめをしている子供たちに向かっているものだと思うし、自分がひとかどの力を持った人々が、その力を自分本位な方向に使おうとしている人々に向かったものである、とも言える。

 で。

 私が見たところ、このお話のいちばんの発端は、主人公である沫嶋黎士(木村クン)の妹である、沫嶋七瀬(大島優子チャン)の多重人格のなかのひとり、レイコがもたらしたものであると思うのですが、そのレイコが作り出したアンドロイド(確かプログラム、だったよーな気がしますが)、ラスト・クイーン(桐谷美玲チャン)。
 彼女は沫嶋黎士の風体をしたARX…エートなんだっけ、のアンドロイド(安堂ロイド)の妹分で、そのARなんとかの機体よりもかなり性能が優れているんですが、彼女は 「人間なんかロクでもないから滅んでもいーんだよ」 という、まあかなり昔からSFなんかでコピペされ続けているような思想の持ち主です。
 それに対して、人間の持つ善の部分を信じる安堂ロイドが対決していくわけですけど、それはどーでもいーとして(よくねーよ…笑)。

 私が注目したいのは、この桐谷美玲チャンが、同じドラマに出てくる桐谷健太クンの妹なのでは?ということ(ちゃうちゃう…笑)。 いや、蛇足ですけど、このふたり名字が一緒だし顔つきも吊り目気味で似てるし(笑)。 調べたら違ってたんですけどね(笑)。

 このザ・ラスト・クイーン。 憎々しさを出すための演出なんでしょうけど、なにしろ相手を見下しまくり。 その口のききかたの悪いことと言ったら。
 そいつがですよ、木村クンのことを 「ポンコツ」 だとかなんとか(もう忘れた…笑)、「お兄ちゃん」 とか猫なで声を出しながら、もうナメまくりなんですよ。 クソムカつくんだそれが(笑)。

 ただこれって、ちょっと考えたんですが、実は現在、もう成人を超えているような若者たちが、木村拓哉という人に抱いている感情のひとつを代弁している構造なのかもしれない、と。

 つまり、今の若い人たちというのは、木村クンがかつていかにモテモテで、人気がありまくって、彼氏にしたい男性ナンバーワンを独走し続けていたか、話には聞いてても、実感として分からない、と思うんですよ。
 彼らにとっては、どうしてこんな、なにを演じてもキムタクでしかないナマイキそ~な男が、これほどまでに騒がれるのか、いささか腑に落ちないのではないか。
 彼らにとってキムタクというのは、もはや 「ポンコツ」 の部類に入りつつあるのではないか。

 これはかなりシビアな個人的感想なので、ちょっと書くのが憚られたんですが。

 そんなクソナマイキな次世代機に対して、旧世代機のキムラタクヤは、立ち向かっていくわけですよ。

 この、自虐的でありすぎる物語設定のなかで、この展開というのは、なんかとても、悲壮感がついてまわる。

 しかも最終回、この2機のアンドロイドがともに空中で大爆発を起こしてしまうという、もっともクライマックスである、と思われるシーンで、いきなり流れてきたBGMが、小田和正サン。
 いや、いーんだけど(笑)。
 ソレ、ベタすぎるだろ、つーか(笑)。
 分かるけど。
 ここで泣けっていうのは。
 でもそれまで、竹内まりやサンの歌でさんざん 「これ、ドラマと合わね~な」 と思っていたのに(笑)、最終回でいきなり出すか、小田サンを(笑)。 あまりにも制作者諸君、発想が陳腐じゃないかね。 いや、笑わそうとしてるのか?

 自虐もここまで極めれば、それは哀しさとなって表現されうる。
 時代はもはや、木村拓哉を恋愛ドラマの主人公として取り扱うことの限界に来ていて、木村クンはアンドロイドになるしか、恋愛ドラマを成立させることが出来ない段階に突入している。 そんな哀しさ。

 でもいっぽうで、やはり私は木村クンのドラマには、制作スタッフのやる気というものが感じられて、その輝きはまだ可能性を残している、と思うんですよ。
 木村クンが主演だからこそ、どうでもいいものは作らない。 それは事務所の力関係とかそれまでの木村クンの人気があればこそとか、そんな動機であるにしてもね。 テレビ局が木村クンのドラマを作る際に滲み出すアドレナリンというものがある限り、木村クンのドラマがつまんなくなることはないだろう、そんなふうに思うのです。

 だって途中、話が堂々巡りだよなぁとか、大島優子に絶叫させんなとか(笑)いろいろ文句も言いたかったけど(笑)、基本的に楽しめましたもん、このドラマ。

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2013年12月22日 (日)

「八重の桜」 最終回 しなやかな強靭さと脆さを共有した物語

 当ブログ的には、毎回フォローをするわけではなかった、今年の大河。 自分の故郷福島県のご当地大河だったってのに。
 つーか最近、コメント欄の充実ばかりで、肝心の本編のほうが全く疎かになっている、いわば 「仮死状態」 になっている当ブログであります。 非常に拙いブログではございますが、こんなどうしようもないヤツに期待をかけてくださる読者の皆々様には、ここであらためてお詫び申し上げます。
 その前回の感想が、第44回 「襄の遺言」 までだったので、今回はそのあとの6回分を回顧し、さらに総括的なレビューを目指したいと思います。

 京都編に入ってからのスケールダウン感は、前回の感想で述べたとおり。
 鶴ヶ城落城までは、出番こそ少なかったものの、八重はきちんと、歴史の表舞台に陣を構え、しかも女性でありながらその最前線において戦っていた、という印象が強かった。
 物語は八重が鉄砲に興味を持ってから、会津の京都守護職、そして官軍から賊軍への立場逆転、戊辰戦争へと、まさに一直線の性格を有していました。
 会津編では、私も泣きまくりました。 申し分ない出来だった、というのが私の評価です。

 それが京都編になると、八重は新島襄の妻になることによって、悪く言うと夫の優しさの陰に安住。 また、西南戦争のような、「かつて自分がいた場所」 の人々たちの行く末にも、外野からただ心配するしかない。 そんなもどかしさが、見ていて常についてまわった気がします。

 ドラマでは確かに 「やえ」 を 「ぬえ」、と絶妙なギャグセンス(笑)で揶揄する同志社の学生たちとも、八重は正々堂々と渡り合った印象はあるし、学校の出資者であるアメリカの伝道団体の意向とも闘ってはいました。 ただそれは、個人的な感想を申し上げれば、(あくまで)会津編に比べるとコップの中の嵐、といった感覚に過ぎなかった。

 おそらく作り手が思い描いた大河ドラマの構成としては、前半が本格的な大河ドラマスケール、後半は等身大のホームドラマ、だったのではないかと感じます。
 八重の人生を俯瞰した場合、それはそれで大胆な場面転換であったろうし、ドラマとしても一本調子で飽きられることを回避する、最良の策だったかもしれません。

 ただ、それが物語の全体的な整合性にとっては齟齬をきたすことになった気はどうしてもする。
 まあ、コメント欄にも書いたのですが、人の一生なんて、結構あっち行ったりこっち行ったり、フラフラしてるもんですよ。 全体のバランスが取れた人生を送っている人なんか、そんなにいるもんじゃないとは思います。
 でも、会津編がかなり一直線なプロットバランスを保っていたのに対して、どうしても京都編は論点が定まらない。
 それは先の感想でも書いたように、会津時代のオトシマエというものを登場人物たちが取っているように見えない、という物語の弱さに原因があったのではないか。

 そしてもうひとつ、物語があれもこれも、と欲張りすぎてしまったことにも原因の一端がある気がします。
 会津藩の人々が飛ばされた斗南での惨状は、リアルに現場を活写することもできず、ただ山川浩の苦悩にだけスポットを当てざるを得ない。
 川崎尚之助との別れに関しても、事実関係がほとんど解明されていないから、物語の作りようがいくらでもあるのに、どうにも玉虫色の決着で収めてしまった印象。
 前半あれほど出ずっぱりだった(八重よりよほど出番が多かったのではないか)松平容保公のその後も、ただかいつまんでいるだけ。
 山本覚馬は明治に入って活躍するのですが、どういう経緯で偉くなっていったのかが見ていてどうも茫洋としている。
 覚馬に付き添った時栄についても、回を割かなければならない、という作り手のジレンマが垣間見える。
 徳富蘇峰と徳富蘆花を加えて、ジャーナリズムについても言及したい。
 伊藤博文を加えて薩長による明治政府の評価もする必要がある。

 そんなことを織り交ぜながら、新島襄と同志社の話をメインでしなければならないのですから、どうしたって論点が定まらないように見えてしまうのです。
 

 とりわけキレイゴト感が抜けなかったのは、川崎尚之助に対する取り扱いでしょうか。
 八重は 「待ってる」 とか言ってたけど、結局川崎尚之助は、八重を捨てた、ということになるんでしょう。 だから八重も川崎尚之助にあくまでついていく、という強い態度を貫く方向には、けっしていかない。

 自分を捨てた人にはついていかない。

 演出を取り除いた事実だけを見つめた場合、その八重の判断は、至極当然のような気がします。 それを 「いづまでも待ってるがら」 みたいにするのは、いかにも闘う女性の範疇ではない気がする。
 結局物語は、川崎尚之助の死によって、八重が繋いでいた思いを完全に断ち切った形として処理されます。 じっさいに新島八重サンが川崎尚之助の死を知っていたかどうかは定かじゃないけれど、ドラマのなかの八重は知らせを受け取ったことになっていた。

 どうしてこの八重の 「いつまでも尚之助さまを待ってる」 に私がどこまでも引っかかるのか、というと、その後の物語で、八重が新島襄に寄せる強い思いに、構造的にうまくつながっていないからなんですよ。

 特にラストに向かう数回で、襄の病は篤くなっていき、八重が襄に寄せる思いも、いやがおうでも高まっていった。 このラストに向かう数回は、私も会津編のときに比類するほど泣きまくりました。
 襄だけでなく、八重の人生に多大なる影響を与え続けた、兄の山本覚馬も亡くなり、八重が味わう寂寞感は、見ている私の胸を、強く締めつけました。
 この、ラストに向かう数回は、やっぱりかなりいいですよね。

 でも、襄の死にもらい泣きするなかで、「川崎尚之助のときに比べると、だいぶ八重の反応が違うよな」、つー心の声がどこかでするのです(笑)。 ドラマで川崎尚之助の死を知った時、八重はある程度の思いはいたすけれども、特に嘆き悲しんだりはしてなかったから(笑)。

 八重は、襄が死を目前にしながらも大学設立のための募金活動を強行するなかで、「これは、襄の戦いだったんだ…」 ということに気付きます。
 でも、それはもっと早い段階から作り手が八重に気付かせなければならなかったのではないか、という気がする。
 川崎尚之助と八重、新島襄と八重との関係を、ドラマ的に結び付けられる個所があるとすれば、それはその両方の関係が、「夫婦」 であるということよりも、「ともに戦った戦友である」、ということに、その本質が帰着するのではないでしょうか。
 その関連性について、作り手はどこかでちょっと言及していたような気もするけれど、憚りながら言わせていただければ、もっと執拗に言及すべきだった、と感じます。 川崎尚之助との結末があんなことになってしまったから、自分は襄に対してこうするんだ、自分は襄との思いに殉じるんだ、みたいな。

 そして最終回に至る、物語の大詰めの時点で繰り広げられた、時栄と久栄をメインとした 「不義の噂」「駆け落ち」 の2話。

 この2話も、それだけ費やす必要があったのかと考えると、どうも疑問がついてまわります。

 作り手の気持ちに立って考えると、山本覚馬の二人の妻について、どうしても描く必要がある、という強迫観念みたいなものはあったんじゃないかな、と思う。 ここを外して 「数年後、時栄は山本家を出、久栄は病を得て亡くなった」、というナレーションひとつで済ませるには、ちょっと私自身も、無理があるような気がします。 現代の、夫婦関係に潔癖な視聴者のニーズから言えば、前妻うらとの別れもきちんとけじめをつけるべきだし、時栄の山本家からの放逐もきちんと描くべき、という判断がなされるのも当然だと思う。
 ただ1回には収められたんじゃないのかな、と(笑)。

 当ブログの 「八重」 マスターであるささ様の考察をお借りすれば、久栄といちじ恋仲になる徳富蘆花のことまで言及しようとする作り手の姿勢が、この 「余分に思える2回」 を書かせている気もします。
 「自分のようなものは、必死になってもがいて生きているんだ」。
 「駆け落ち」 の回、蘆花は八重に向かって、そういう意味のセリフをぶちまけます。
 これは、いつも自信満々で前だけを見て生きている八重に対する、ひとつのアンチテーゼでもある。
 蘆花のヘタクソな生き方を通じて、八重の人生のスタンスを逆に浮き彫りにさせる、そんな意味合いもあるんじゃないか、と感じます。

 京都編の八重には、このように、自分が今まで会津だけで見てきた価値観とは違う立場の人々が、多く登場することになる。
 八重はそういう人たちと接しながら、自分がかつて信じ込んでいたものを振り返る機会を得ただろうし、その積み重ねが、最終的に八重を赤十字の従軍看護婦に向かわせる契機となっている。

 そのことを考えると、八重の赤十字での戦いをつぶさに描写することこそが、終盤の数回で割り当てられるべきではなかったか。

 これも実は、当ブログにコメントを下さる、rabi様のご意見に乗っかった考えです。

 八重の一生にスポットを当てた場合、だから帝国議会のこととか大山捨松のこととかは、結構瑣末な問題のような気がする。 まあすべてに連関性はあるんですけどね。
 そして徳富蘇峰が最終的に陥ってしまう、ジャーナリズムによる国威宣揚という問題も、八重の赤十字での戦いを優先すれば、別に描かなくてもいいようにも思える。 八重が戦場で見たことを描けば、戦争に対する作り手の思いを世間に向かって問いかけることが出来る、そう思うからです。

 最終回では、八重に勲章が贈られたことにも時間が割かれていた。
 これは華族を除く民間人で、女性初だったということに大きな意義があることは認めます。
 ただ物語の構成からいけば、ナレーションひとつで済ませても、特に問題がないように思える。
 結局は八重が、どう戦ったかに論点の重きが置かれるべきだ、とする私の個人的な意見です。

 結局京都編は、描かれる事象が多すぎて、最終回で風呂敷をたたむのにかなり苦労してしまった。 そんな印象があるのです。

 会津に戻った八重が、西郷頼母と再会した、最終回終盤のシーン。

 頼母は、八重を、にしは何度も咲き誇る桜だ、と形容します。
 これは、桜が太平洋戦争当時、パッと咲きパッと散る、潔さの象徴とされてしまったことに対する、作り手なりの答えになっている気がします。 まあ作り手がそこまで意識していたかどうかは不明ですが。

 桜は、咲いて散って終わりじゃない。
 その季節になれば、毎年、何度でも咲く。
 
 けっして滅びの美学だけを宣揚している花ではないのだ。

 桜は、再生の象徴。
 これはふるさと福島に対する、この大河としての大きな励ましのように思えるのです(「花を咲かせる」 という形容について私の別な考察は、前回レビューに付属のコメント欄を参照してくださいまし)。

 そして、ラストシーンでの、徳富蘇峰との語らい。
 「自分が鉄砲の最後の一発を使うとすれば、どこに向かってそれを撃つか」。
 鶴ヶ城で戦い続ける八重を、歳を重ねたもうひとりの八重が見つめ続けます。
 若き日の八重は、その最後の一発を、重苦しい光をたたえた、天に向かって放ちます。

 このラストシーン。

 答えは言葉によって明示されません。
 答えが用意されなかったかわりに、八重のつぶやきで、このドラマは締めくくられる。
 いわく、「私はあぎらめない」。

 この終わりかたは、とてもよかったと感じます。

 私なりのその答えを考えるとすれば、それは人の心に巣食う、悪魔に対してなのではないか。
 相手の心を考えない、その悪魔。
 人が相手の立場に立って考えることをやめたとき、暴力は肯定されます。
 でもそれを、ただ傍観しているだけではダメだ。
 あきらめては、何ひとつ解決しない。

 この、論点が定まらなかった京都編のラストを締めくくるのに、これだけ余韻を残す見事な終わらせかたもないように、私は感じます。

 まあ、文中散々京都編にミソをつけましたけど、会津編に限って言えば、冒頭に述べたとおり、かなり完成度の高い大河ドラマだった、と感じます。
 松平容保公の行なった軍事的なことに関しては、コメントをいただく巨炎様から、かなりネガティヴイメージを植え付けられましたが(笑)。
 ただまあ、250年以上も続く平穏な日々から、このような激動の時代に陥ったのですから、戦いかたがヘタクソだった、という言い訳もできるかもしれません(笑)。 長州だって、最初はいろんなとこに負けてるし(笑)。 孝明天皇が味方されていたころはよかったけれども、急展開で逆賊扱いされてしまって、アタフタしてしまった、みたいな(笑)。 それと、攻撃しているうちは威勢がいいかもしれないけれど、いったん守りに入るとかなり軍略的に稚拙だったのではなかろうか、と(笑)。

 全体的に申しまして、よいところも悪いところもあった大河だったような気がします。 会津人の生き方がもつ、しなやかな強さと、作り手が言いたいことが多すぎるために起こる、話の弱さ。 そんな両極面が現れた大河だったような気がするのです。

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2013年12月 1日 (日)

「はつ恋」 1年4カ月遅れ、再放送を見てのレビューです

 当ブログにコメントを下さるかたの強いプッシュもあって、何度かの再放送を見逃した末にようやく今回、見ることができたこのドラマ。 2012年5月から7月までのドラマだったので、1年以上遅れた 「いまさら」 のレビューになってしまいますが、よろしければお付き合いください。

 まず全体的なディティールの印象を申し上げますと、ちょっと厳しいですが、「かなりあり得ない話」、との感はつきまとい続けました。
 もともと物語のとっかかりからその思いはあった。
 主人公の村上緑(木村佳乃サン)が手術の難しい肝臓ガンに罹り、夫の村上潤(青木崇高サン)がその難しいガンを治すスーパードクターを探した結果、フランス在住でたまたま日本に帰国していた三島匡(伊原剛志サン)に行き当たる。 ところがこの医師は緑の高校時代の初恋の相手で、最悪の別れ方をした苦い思い出の持ち主であって…、という出だし。
 こうやって説明的に書くとスムーズなようですが、まずこの偶然は非常に確率的に低い、と思わざるを得ない。 「ようそんなに都合よくなるよな」、という感じ。

 ただ、その 「あり得なさぶり」 が、私にこのドラマを最後まで違和感なく受け入れさせる土台となってくれたことは確かです。 特に後半から終盤にかけて若干 「これってどうなのかな?」 と思わせる話の持っていきかたをするんですが、「まあそもそも出だしがアレだったし…」、と気にしないで済んだ。

 このドラマの最終回には、放送終了当時、議論百出あったようです。 私が結構納得して最後まで見たのとは対照的。
 それはなぜなのか、と考えると、この 「あり得ない話」、とても演出が細やかで、話をあり得なくさせずに見る側をのめり込ませた、完成されたドラマだったからなのではないか、という気がする。

 物語の序盤から、このドラマは村上家の描写が実に丁寧なんですよ。
 緑が愛情を注ぐ、素直でいい息子の健太(里村洋クン)。 緑の父親である、床屋を営んでいる男やもめの豊崎勝(串田和美サン)。 「泣き虫」 で緑への愛情がストレートな夫の潤ちゃん。
 そうした 「絵に描いたような幸せな家庭」 がきちんと描かれているからこそ、このような 「あり得ない」 状況に直面した緑の戸惑い、というものに見る側が共感できる。

 周囲の人物についてもなおざりにしてない。 緑の仕事は、言語聴覚士なんですが、患者の大竹まことサンは言葉がうまく出てこない男の役を見事に演じていた。
 村上家に出入りしている弁当屋の広瀬(カンニング竹山サン)は緑と三島を知る、高校時代の同級生。 だからふたりがどんな別れ方をしたのか知っている。 それを潤ちゃんに知られないようにするのですが、この役もよかった。

 そして主役の村上緑。 家庭では明るくて良き妻良き母親、職場では仕事ぶりがハキハキしていて、とても誠実。
 いわば、この物語の主人公は、どこから見ても 「道を踏み外すことなど絶対にない」、というタイプに描かれているのです。
 でも緑は、三島と出会ったことによって、「開けてはいけない箱を開けてしまう」 ことに、次第になっていく。

 これは、緑が潤ちゃんと出会う前まで、およそ20年近く?男性との交際を拒絶し続けてきたことと、ちょっと無縁ではない気がするんですね。

 ネタバレになりますが、緑はその昔(高校時代は橋本愛チャン)三島(高校時代は小林ユウキチクン)の子供を妊娠し、三島にその相談に行った際、「君のことを好きだと思ったことなんか一度もない」 とスゲー冷たくされて、妊娠を告白もできないまま、そのまま流産。 緑はその時三島に、どうしてこんなに冷たくされるのかが分からないまま、三島と別れたまんま、時が止まったまんま、なんですね。

 そんな、恋愛に対する気持ちを閉ざしてしまったままの緑の心をゴーインにこじ開けたのが、潤ちゃんなわけですよ。 彼女は潤ちゃんの強力な求愛に負けて結婚。 健太というかわいい息子にも恵まれた。

 でもそれは、自分の本当の気持ちを 「箱に閉じ込めた」 状態での、偽りの自分だった。

 本当の自分を偽っているからこそ、彼女は外見上は良き妻良き母親であろうとしたように思えるし、生まれてきた健太を流産した三島の子供の生まれ変わりだと考えて育てている側面も考えられる。 言わば、偽りの代替の人生を歩むことによって、自分が過去に負った大きな痛手をごまかそうとしている。
 ただ断っておくと、そういう描写というものはなかったです。 でも高校時代の緑は、少なくともこんなに、出来過ぎのハキハキした人物ではなかった。 だから 「大人になった緑が、偽りの自分を生きている」 というのは、私の単なる想像です。

 これを、「偽りの自分だから本当の気持ちのままに生きてもいいではないか」、と考えた場合、緑が三島と再会したあとの一連の行動にある程度の理解をすることはできる。
 ただし、「いくら偽りの自分であろうと、いまある幸せこそがリアルなのだ。 それを壊すことが果たしていいのか。 責任の放棄ではないのか」 と考え始めると、ドラマの進む方向に賛同できなくなってくる。

 これはだから、「自分の本当の気持ちにしたがって生きることは、果たして是か非か」 、というドラマだと思うんですよ、一面では。
 でも普通だったら、「そりゃ今ある自分を大事にするほうがよかろう」、ということで済んでしまう話。 それを、このドラマはまたもや、その 「あり得なさ」 でひっくり返そうとする。

 緑の手術は成功。 そのあといろいろあって、三島があのとき緑に冷たくした理由も判明する。 過去へのわだかまりが解消した緑でしたが、彼女は今ある家庭を選ぶ。
 それで済んでいたはずなのに、1年後、今度は三島が脳出血で倒れ、あろうことか失語症になってしまうんですよ。
 心を閉ざした三島に、前の妻であるサトエリチャンが思いついたのは、言語聴覚士である緑に三島を治してもらおうとすること。 ね、すっご~くあり得ないでしょ(笑)。

 もともと肝臓の難しい手術を緑が必要としたところにおあつらえ向きに現れたのが、肝臓ガン摘出の権威である三島(笑)。 今度はその三島が、緑を必要とする立場になっちゃうわけですから(笑)。 お互いおあつらえ向き過ぎるっての(笑)。 都合よすぎだろ(笑)。 三島が肝臓ガンの権威じゃなかったらどーすんの、緑が言語聴覚士でなかったらどーすんの、という話ですよ(笑)。

 だからこれはもう、運命である、と割り切るしかない(笑)。
 こうなったらもう、緑は自分の本当の気持ちに、突っ走るしかないんですよ(笑)。

 それを切ない話に昇華させるいちばんのファクターとは何か。

 それが、この恋が 「はつ恋」 である、ということなんじゃないかな、という気がする。

 橋本愛チャンと小林ユウキチクンが出てくる回想シーン。
 高校時代の緑は、公民館?でいつもピアノを弾いています。
 曲はスティーヴィー・ワンダーの、「ステイ・ゴールド」。 「輝いたままで」、という意味ですよね。
 初恋というものは、懐かしく、ほろ苦く。 ♪若いという字は苦しいという字に似てるわ…古いなオレも(笑)。 そんな時代も、過ぎ去ればずっと、輝いたままなのです。
 もしできるのならば、あの時代に戻って、もう一度やり直したいと思えるのが、初恋なのではないでしょうか(そりゃ人生、個人差というものはございますが)。

 普通だったら、過去は過去として、そんな切ない思いは自分の胸のなかにだけ秘めて、墓場まで持っていく。 再会したところで、昔は今にはなりえないし、どこかで理想化されちゃってる場合もあるでしょう。

 だからこの物語は、自らの胸のなかにある切なさを、解放させるカタルシスを目的としていた、そう考えられないだろうか。
 そのためには現実味というのは脇に追いやられてもいい。
 昔に対するみずからのノスタルジアを、このドラマのなかだけでは、そっと遊ばせてやってもいい。 そんなドラマだったのではないか。

 だから、緑の心の痛みに、三島の心の痛みに、見る側は一緒に胸を締め付けられる。 加速していく切なさに、見る側は自分を同化させていく。

 けれども、過去に遊んだ代償は、やはり高くつくのです。

 またネタバレになりますが、言葉を失ってしまった三島。 「ド…リ…」。 「ドリ」 という高校時代の緑の呼び名を口にしたことで、緑はそれまで抑えていた気持ちが瓦解してしまう。 ふたりは一線を越えてしまうのです。
 この不実は隠し通すこともできず、緑は潤ちゃんの怒りを買って、村上家から追い出されてしまう。 それまでの幸せが自分にとってどれだけ大切なのものだったのか。 「健太にももう二度と会わせない」 と言われ、物陰から健太を見て号泣する緑。 父親の串田和美サンも、自分の大事な娘を孕ましたヤツが三島だと知ったから、緑を許せない。 結局、緑は別の場所で、三島と暮らすことになります。

 それから三年後。
 失語症もかなり治った三島ですが、今度は緑が、手術不可能な位置に肝臓ガンを再発させ、最期は三島の頼みで村上家に戻り、村上の家で静かに亡くなります。

 この展開がね。 物議を醸したっつーか。
 ただ私は思うんですが、やはり 「三島くんが好きだ」 という、自分の本当の気持ちに殉じたその時点で、緑には自分の命を代償にしなければならない必然性というものが生まれたんじゃなかろうか、と。 物語的にですが。

 結局最後は、緑の父親、潤ちゃん、三島の三人が、紆余曲折を乗り越えて、良好な関係を回復させる、というラストシーンだったのですが、これが緑の望んでいることなんだろうなー、って。
 「医者になりたいという健太の、勉強をみてやってくれ」、と潤ちゃんが三島にかけたひと言は、緑が望んでいることなんだろうな、って。

 それはまっすぐに、明るく生きてきた緑が、考えそうなこと。 潤ちゃんもそれが分かっているから三島にそう頼んだのだろうし、三島もそれを受け入れたのだろう。
 それは結果的に、偽りだったかもしれない緑の 「出来過ぎ」 の人生を、作り手が肯定したことにもなる、と考えられるんですよ。

 自分的にはでも、このドラマいろんな泣かせどころがありましたけれども、3年のブランクの末に緑が村上家に帰って来たときに、父親と再会したシーンでしたかね。 なにも言うことができず、「お父さん…お父さん…」 と繰り返すだけの娘。 ここがいちばん泣きました。

 最後に、Fクルーラー様、なかなかレビューでおこたえできませんでしたが、今回ようやくその責を全うできました。 このドラマをご紹介くださって、誠にありがとうございます。

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