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2014年1月

2014年1月28日 (火)

永井一郎サン、加藤精三サンのこと

 この1月17日に加藤精三サンが86歳。 そしてその10日後の昨日、27日に永井一郎サンが82歳。 私が幼いころから慣れ親しんできた声優さんが、立て続けにこの世を去りました。

 なんつーか、自分よりひと世代上の人たちが鬼籍に入る年代に、すでに突入していることは承知しているのですが、いざそうなってみると、いかに私の親たちの世代の存在が重かったかに思いを馳せざるを得ない。
 同時に、「自分たちの世代にはなにもない」 という無力感も湧いてくる(よく考えればいないこともないけど)。 さらに 「自分たちより下の世代には、輪をかけてなにもない」、という危惧すら覚える(田中マークンとか本田とかいるけど)。
 ただ、世の中は無常だけれども、この日本という国は、戦後から高度成長時代にかけて、敗戦で疲弊した世の中を鼓舞し、牽引していった偉大な人たちが特に多かった、と感じることが最近とみに多いのです。

 自分の中には 「声優さんというのは早死にが多い」、というヘンな思い込みというものがあって。
 それは 「宇宙戦艦ヤマト」 の古代進の声をやっていた富山敬サンが比較的早世だったことに端を発するのですが、「ルパン三世」 の山田康雄サンとか、広川太一郎サン、野沢那智サンなど、定期的に若死にしてしまう人のインパクトが強かったことによります。
 でも基本的には、声優さんの世界でもだいたいの人は、寿命を全うしていくわけで。

 その声優というお仕事は、だいたいが戦後アメリカから輸入されたテレビドラマで吹き替えというものをすることから派生したのですが、手塚治虫サンが作業をスリム化した(それでも労力はかかるんですが)ことで量産が可能になった、国産アニメの隆盛という時代に乗って、我々ガキ共に夢を与えたわけですよ。
 この独自なアニメの発展が、今の日本の文化の一翼を担うまでになったのも、そんな 「偉大な人たち」 の存在があったからこそなのであり。

 もともとマンガという素地がなければ、そしてそのマンガが面白くなければ、アニメというものが発達していったかどうかは怪しい。 その点、わが国にはトキワ荘のマンガ家たちという奇跡的な一派が戦後に存在していた。 そして手塚治虫という巨人が、その中枢に存在していたからこそ、アニメは興隆した。

 ただそのマンガという表現自体も、実は戦前の田河水泡サンの 「のらくろ」 あたりで大きく子供たちの支持を集めていたことは事実。 永井一郎サンが磯野波平の声を担当した 「サザエさん」 というマンガは、その田河水泡サンの弟子である長谷川町子サンによって、戦後間もなく連載が始まったマンガなのです(まあこれって説明不要という気もしますが、ここらへんまでさかのぼって体系的に説明しないと、どんだけ我が国の戦後世代のマンガ、アニメがとてつもないものだったのかが若い人には理解できないように感じます)。

 加藤精三サンが星一徹の声を担当した、「巨人の星」 というマンガは、そのなかにおいて 「劇画」 というマンガの発展形のなかで誕生したエポック的なマンガ(諸説ございましょうが)。
 その父親像というのは、それまでのマンガにあった表現形態から一歩進んだ、よりリアルを追求したものだった。
 個人的な話で恐縮なのですが、私の父親がこの星一徹にとてもよく似てましてね(笑)。 気に入らないことがあるとちゃぶ台なんてチマチマしてない、食卓の大きなテーブルをバーンとひっくり返すような人で(笑)。 私はテレビで 「巨人の星」 を見るたびに、なんかどこかでビクビクしていた気がします(笑)。
 だから私にとって星一徹は、「リアル」 そのもの。 ものすごく怖い存在だった。

 ところがこの星一徹。

 1980年代に始まった、フジテレビの 「オレたちひょうきん族」 で星飛雄馬役の古谷徹サンと一緒に、「巨人の星」 のパロディをやり始めたんですよ。 衝撃的だったなあ。
 と同時に、このことで、時代が 「深刻、暗い、クソ真面目」 という方向から、軽薄短小という段階に移行したことを、如実に(私にとっては残酷に)提示された気がします。
 そのカリカチュアは最近のauのコマーシャルまで、連綿と続いていた気がしますね。 剛力彩芽チャンとも共演したことになる(笑)。

 永井一郎サンは 「サザエさん」 の波平役、というのが一般的ということになりましょう。 私もそのイメージが非常に強かった。

 ただ、自分が中学生くらいのときはそのイメージが巨大すぎて、永井サンがほかの場面で出てくると、とても違和感を持ってしまっていた時期もありました。
 そのいちばんの弊害は 「機動戦士ガンダム」。
 永井サンがナレーションだったんですが、ナレーションが出るたびに 「コイツは波平、コイツは波平…」 という声が頭の中に広がり(笑)、ついにこのアニメをマジメに見ることがなかった(笑)。 それ以来ガンダムとは疎遠なままです(笑)。
 「未来少年コナン」 のダイス船長役も、だから最初は 「コイツは波平、コイツは波平…」 という感じだったんですが(笑)、なんかズッコケキャラクターだし、何より話が面白いんで(そりゃそーだ、宮崎駿サンの出世作なんだから)気にならなくなった。

 でもですよ、「さるとびエッちゃん」 ではエッちゃんの飼い犬で(エッちゃんがワカメだったよなあ、そーいえば)関西弁をしゃべるブルドッグ(なんじゃソリャ…爆)だったのに、当時は小学生くらいだったから気にならなかったんだよなァ。 チューボーあたりになるとヘンな知識が邪魔してダメだよな(笑)。

 そんな自分ですが、永井サンの吹き替えでいちばん個人的に印象に残っているのは、宮崎駿サンの 「名探偵ホームズ」 のなかの、「海底の財宝」。
 「さるとびエッちゃん」 のリスペクトなのか知らんけれども(笑)、登場人物が犬ばかりのこのアニメのなかで、永井サンが担当したのは、双子のブルドッグ(笑)。 イギリス海軍(だったっけな)のお偉いサンで、すごくエキセントリックな兄弟ゲンカをしていた(もちろん2役)。 当時私は大学生になっていたこともあって、もうかつてのような 「コイツは波平…」 という呪いの言葉も聞こえることがなく(笑)、素直に 「この人はすごい、やるときゃやる」、という印象を持ったのでした。
 宮崎アニメの中では、「コナン」 のダイス船長をはじめとして、「ナウシカ」 でもミト、「ラピュタ」 でもなんかの将軍かなんか(なんだったっけか)、とにかく重要な役が多かった。

 この加藤サンと永井サンが共演、はしてなかったのかもしれませんが、チョイ役で一緒に出ていたアニメが 「はじめの一歩」。 でも個人的にいちばん印象に残っているのは、なんと言っても 「ペリーヌ物語」('78年)にとどめを刺します。

 ここでこのおふたりは、ペリーヌが精神的にいちばんつらかったであろう、パリ編での下宿屋で登場します。 永井サンはそこの下宿屋の、ごうつくばりの管理人、シモンじいさん。 お金のないペリーヌ親子に、馬車は○○サンチーム、犬(バロン)は…などと細かく料金設定してくる金の亡者で(笑)。 でも最後はペリーヌにとてもよくしてくれるようになる。
 このときは永井サンの声が結構作っていたので、波平だとは気付かなかったなァ。

 かたや、加藤サンの役はそこの下宿人で、とても美味しいスープを作るガストンさんという人。 ケチでなかなかそのスープを他人にやったりしない男だったのですが、ペリーヌの母親マリが病で弱っていくときにそっと差し入れしてくれた。
 ここでの結末は本当に話が暗くて、もう涙なしでは見ることができません。
 ただ声優さんたちに興味の中心を移すと、このパリ編でルクリおばさんという男みたいなおばさんが出てきて、ペリーヌ達と旅を共にしたロバのパリカールを買い取っていくのですが、この声優さんが磯野フネ役の麻生美代子サン。 思わぬところで、シモンじいさんの永井サンと共演するのです。 後年このことに気付いたときは、ちょっとだけコーフンしました(ハハ)。

 私のなかでは、もう知り合いとかそういうレベルじゃなくて、遍歴の一部、魂の一部のような、このおふたかたが亡くなられたことは、残念という言葉だけでは言い尽くせません。

 月並みではございますが、おふたかたのご冥福を、お祈り申し上げます。

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2014年1月26日 (日)

「軍師官兵衛」 第3回 殺す理と生かす理

 「人の命は生かしてこそ」 という、官兵衛の考えの中枢がどのように形成されたのか、ということを、相変わらず堅実かつ地味に描いていった第3回の 「軍師官兵衛」。

 予告編ではおたつがしゃべっているとことか出てたので、赤松の襲撃からおたつはいったん助かったものだと思っていたのですが、冒頭からいきなり官兵衛の腕の中で絶命。 このドラマ、官兵衛の母親いわ(戸田菜穂サン)が亡くなった時もそうだったのですが、人が死ぬところをことさら大袈裟に見せようとしない。 実にあっけない印象をいつも持ちます。

 この回はほかにも、初恋の相手を殺されたことで血気にはやる官兵衛を諌めた祖父の重隆(竜雷太サン)が、ナレーションのひと言であっさりと退場。 こんなに簡単に死なせてしまっていいのか?と思うくらい。

 主要人物だけではありません。
 舞台が戦国時代だからこそ、名もなき雑兵たちに至るまで、このドラマの中の人々は、簡単に死んでゆくことを宿命づけられているように私には思えます。

 このドラマの 「簡単に人が死んでゆく」 という傾向というのは、もしかすると意図的にそうしているのかもしれない。
 人を簡単に死なせることで、命の儚さ、脆さというものを通じてこの世の無常を官兵衛に悟らせていくようにする演出。

 官兵衛は今回、キリスト教の教えに出会うことで、自らの中にある、生命に対する無常観を命の大切さに結び付けていく機会を得たように私には思えました。
 ただその反面、おたつの死に対しては、官兵衛の中でだけ 「経験値」 として取り込まれたような感覚で、人ひとりが死ぬことに対する重みというものがドラマ全体から伝わってこなかったきらいがあったように感じる。

 まず身内が殺されたことに対して、小寺氏は様子を見る、という態度に出るのですが、これは戦略的な見地から致し方のないことだったのかもしれない、と一応納得はできる。
 ただ、実の娘が死んだのに父親の尾藤イサオサンがまったく出てこないし、官兵衛の父親である柴田恭兵サンは 「このドラマのお約束」 である孫子の兵法を引き合いに出して、悲しみにくれる官兵衛を諌めるし、先に話に出たじっちゃんの竜雷太サンも、柴田サンと同様な諌め方を官兵衛に対してする。

 官兵衛は加えて、「まあ実の姉じゃなかったからいーじゃん」 という櫛橋のせがれからの心ない一言も浴びせられるし(この時ばかりは上下関係そっちのけでつかみかかっておりましたが)、官兵衛の周囲の反応からは、「おたつなんか捨て駒程度」 という空気が如実に伝わってくる気がしたんですよ。

 たしかにおたつのことを糧にして生きろ、命の近い道を考えて生きてゆけ、という方法論は間違っているとは言えません。
 でもひとりくらいおたつの死を官兵衛と共に同苦してくれる人がいてもいいんじゃないのか、みたいな。
 その結果、官兵衛の中に芽生える 「人は殺すより生かしてこそ」 という、戦国時代にあっては特異な思想が、まさしく官兵衛ひとりの中だけで培養されていくような感覚にとらわれる。

 そんななかで、鉄砲の買い付けに派遣された先で、官兵衛は自分と同じようなビジョンを持った木下藤吉郎の存在を知ることになる。 相変わらず渋い見せ方しますよこのドラマ。 ただ単に藤吉郎の存在を知った、という台本にしてないんだから。 共鳴を余儀なくされるような話の運び方をしてるんだから。

 早くも視聴率の危機が噂されていますが、別にいいんじゃないですか、今年の大河はハナから大衆受けとか狙ってない気がするから。
 ただ淡々と、粛々と、フツーの大河をやってりゃいいんだ、というその姿勢には、個人的には好感が持てるのであります。

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2014年1月21日 (火)

「足尾から来た女 前編」 知識がもたらすもの

 我が国最初の公害と言われる、足尾銅山鉱毒事件を題材としたドラマ。 この鉱毒事件に対して立ち上がったのが、教科書でも有名な田中正造ですが、彼の地元である栃木県谷中村の農民の娘、新田サチを、尾野真千子サンが演じます。

 この新田サチが純真無垢という性格設定であるため、なんの思想にもとらわれない事実を、見る側は未来から追体験することが出来る。 前編を見る限り、作り手のこの目論みは、大いに成功しています。 尾野サンは作品によって、その存在感があり過ぎる演技が気になったりすることがあるのですが、この作品との相性は非常に良い、と感じます。

 画面は全体的に埃をかぶったように暗く、茅葺きのにおいがたちこめるよう。 鉱毒がもたらした、緑青のような水色が土に混じるさまは、実に異様でとても自然界のものと思えません。
 冒頭、尾野サンは泥まみれで、父親と一緒に枯れた田畑を耕しているのですが、土の中から出てきた生育の極度に悪いサツマイモを無造作に捨てます。 「もったいない」、とこちらが思う間もなく、「食えるべ」、と父親がそれを拾う。 けれども 「母ちゃんがそれを食って死んだんだべ!」、と尾野サンが反駁することで、ことの重大さがダイレクトに伝わってくる。 この話の運びはうまい。

 そこにやってきたのがこの尾野サン演じるサチの兄の新吉(岡田義徳サン)。 何やら地元の名士か知識層みたいな人々を引き連れて、この惨状を訴えます。 サチはその際、新吉から、田中正造先生(柄本明サン)が東京の知り合いである社会活動家の福田英子(鈴木保奈美サン)から、お手伝いを頼まれているからそこに行け、と強引に言い渡されるのです。 それがこのドラマの発端。

 冒頭のこの陰惨なシーンは、サチが後年振り返るような形で行なうナレーションで、日清日露戦争で沸き立つ日本の民衆と対をなすように描写されます。
 ここだけですでに、見る側の想像力は大いに刺激される。 このドラマが、尾野サンの出会った久々の傑作であることを、早くも予感することができるのです。

 もともと福田英子が田中正造に頼んで、谷中村の娘たちを数人、お手伝いとして働かせたことは、実際にあったらしい(番組HPによる)。 谷中村の人々は、いまの放射能なんかより数倍きついであろうと思われる風評被害によって、働き口もなかったようなのです。

 ドラマ的にはこの新田家じたいが架空なので、サチも新吉も架空、ということになります。
 この新吉がお世話になった人物が仲立ちとなり、サチは東京にいる当時実在した社会活動家、福田英子(鈴木保奈美サン)の家に住み込みで働くことになるのですが、この 「新吉がお世話になった人物」 というのが日下部という男(松重豊サン)で、これも架空の人物。
 サチは早々に、日下部が警視庁の人間であることを知ります。 彼は、社会主義者たちを監視ししょっぴくために、サチを福田の家に送り込むらしい。 要するに、スパイをやれ、ということです。 サチは戸惑いますが、言われるがままにするしかない。 兄や田中の顔を潰すわけにもいかないし、谷中に帰ったところで農業なんかできる状態ではないのだから。

 日下部は社会運動家たちが 「国家転覆を企んでいる」 と決めてかかっていますが、そのこともサチがこの話を断らなかった理由の一端にはあると思う。

 ただここで考えさせられるのは、日下部がどうして、社会運動家たちをそのように捉えているのか、ということ。 明治維新から富国強兵に突き進んでいたこの国の構造を、この活動家たちは根本的に揺るがそうとしているという認識であることは疑いがないのですが、それは日下部が、国に雇われている公務員であるからこそ導き出される結論なのであって。

 そしてサチも、日下部の話によって、彼ら運動家たちが国をメチャクチャにしようとしている、それはいけないことだ、という認識くらいはもったと思うのだけれど、そもそもサチにとってその国、日本という国に対して、どれほどの信用があるのかは極めて不透明なのではないか、ということも考えさせられます。 なにしろ鉱毒の被害者たちなんか、国に見棄てられた、棄民も同然ですからね。

 サチや新吉、日下部が架空の人物として設定されることで、見る側はしぜんと登場人物たちの思惑や、知っていることがどこまでなのかに思いを巡らすことになり、深い鑑賞が可能になります。

 日下部は福田英子の家を探ることによって、田中正造が社会主義者で国家転覆を企てている、という尻尾をつかみたい、ということになりますが、新吉はそのことをどこまで知っているのか。 新吉は日下部の正体を知っているのか、騙されているのか。
 田中正造にとってしてみたら、ただ単に自分たちの鉱毒事件に対する活動の応援をしてもらっている、福田英子から頼まれたから、自分の地元の娘を紹介したんだと思うし。
 福田英子にしてみると、お手伝いが警視庁から因果を含まされているスパイだということを、どうもすうすう気付いているみたいなのですが、それがどの程度なのか、ということを見る側に考えさせる余地がここで出来上がる。 そしてそのお手伝いを派遣させた田中正造に対しても、福田英子は疑心暗鬼の目を向けるというドラマ的な深みを演出することが出来る。
 私は鉱毒事件や社会主義者たちの動向もさることながら、そうした点も気にしながら、ドラマを見進めました。

 ドラマは福田英子の家を舞台とすることによって、必然的に幸徳秋水(この人本物にクリソツだった…笑)や、堺利彦、大杉栄、石川三四郎という社会主義者たちが登場することになりますが、物語的にその社会主義を宣伝するような方向には行っていない気はします。
 冒頭で述べたように、物語はあくまで、主役の新田サチを、字も読めない純粋無垢な存在にすることによって、彼女の正直な目から見た世界を映し出そうとしている。
 足尾鉱毒事件が21世紀に入ってますます遠のいている現状だからこそ、このドラマ的な手法は正しい。 我々視聴者は、みな新田サチなのです。

 ただ、ドラマを見進めていくうちに、私の興味は 「新田サチが字も読めない」 ということに移っていきました。
 サチが知識の世界からはじき出されている、ということが、ドラマの構造にまで深く影響を及ぼし始めたように見えたからです。

 だいたい寺子屋から明治の学校制度に移行してからの識字率というものが、どのようなものだったかは分かりません。 サチは住職にイロハを教わった程度だ、と話していましたが、寺社によるまったくの限定的な教育しか及ばない地域も、あったのかもしれません。 そして国が教育を保障している、と言っても、切り捨てられる人たちも大勢いたのだろう、ということも想像できる。 特に部落とかね。

 政府の側からすれば、学のない人間がいるということは好都合です。 字が読めないから、学がないから、自分たちのいいようにコントロールすることが出来る。 だから日下部もその部下も、サチの字の読めないのを、比較的歓迎している。 字が読めるようになったら、それこそ自分たちに都合の悪い真実が分かってしまうからです。
 でもサチは、自分の感じたままに、人物を評価し、真実を見つめていく。 この構造が、見ていて興味深い。

 そして福田英子をはじめとした、社会主義者たちも、字が読めて知識を得たがゆえに陥る世界に、自らの不幸が蹂躙されていく。 この構造というものも興味深い。

 石川三四郎(北村有起哉サン)は自由恋愛という思想を得たがゆえに、住み込みの下働きであるサチにもちょっかいを出す。 石川に思いを寄せている福田英子は自由恋愛を先進の思想だと認識するがゆえに、石川の行状に嫉妬心を抱きながら、頭だけで理解しようとし、心乱れていく。

 福田の子供が夢中になって読んでいるのが、「みにくいアヒルの子」 というのも、非常に象徴的な演出だと感じます。
 みにくいアヒルは、自分が何者であるかという認識を持つことによって、自分に自信を持つことが出来る。 それはサチの存在を投影しているように見える。

 ただ、自分が白鳥であることを認識したとき、白鳥がもつ苦悩というものも、同時に背負わなければならなくなる。 つまり、ものを知ることによって、いままで感じなくて済んでいたものを、知覚的に感じるようになってしまうのです。
 それは、他人のことを知ってしまうと、自分の置かれている状況を他人と比較して、不幸になってしまう、というケースが出てくる、ということと同じ。

 そもそも、「鉱毒」 って、どうして 「毒」 がつくのかな。 ドラマを見ている途中で私は、「そう言えば、『鉱毒』 ってかなり遠慮のない言いかただよな」、と思ったのです。
 それって、それが悪いことだと認識できるから 「毒」 と言うのでしょう。
 田畑は枯れ、そこで出来る作物を食べれば死んでしまうから。
 でもそれを 「毒」 と言えるのは、「毒」 という文字を知ったからであって。

 国にしてみれば、あくまで毒というのは副次的な産物であって、毒だなんて認識をしようとは思わない。 いや、最初からする気がない。 国を富ませるために出た多少の犠牲、という感覚でしょう。

 それは原発を 「多少のことはあってもそうするしかない」 みたいに考えている思考回路と、構造的に同じなんですよ。 原発を毒とは言いませんよね。 でも明治の感覚からすれば、それは 「毒」 であって 「必要悪」 なんてカワイイもんじゃない。 どうにもみんな、知識があり過ぎて、情報があり過ぎて、ヘンに物分かりがよくなってないか。

 「東京にいる人間は、谷中の惨状なんてたいして気にしていない」 と田中正造に訴えるサチの感覚は、実は現在でも脈々と受け継がれている 「当事者意識の欠如」 という問題に帰結するものだ、と感じます。 それに対して田中正造は、「ひとりの人間を大事にしないマス(集団)というもの(国)は、必ず滅びる」 というスタンスです。 田中にとっては社会主義だろうが富国強兵だろうが、どうでもいい。 ただあるのは、目の前にいるひとりの人間の窮状です。

 サチの話したことがきっかけとなって、石川三四郎は官憲にしょっぴかれることになります。
 知識人であろう福田英子の母(藤村志保サン)から、シェークスピアの言葉をかけられ叱咤されるのですが、知識なんかは権力の横暴の前には、何の力にもなり得ないことを、このドラマの作り手は容赦なく暴いていく。 ここらへんの描写も、息を呑むばかりでした。

 知識って、いったい何なのか。

 鉱毒事件の話なのに、そんなことまで考えさせるとは、やはりこのドラマはタダモノではない。

 そしてこの、石川の逮捕に罪の意識を感じたサチは、谷中へと戻っていくのですが、そこで見たのは、自分の家が取り壊されるまさにその瞬間。 そしてそれを取り仕切っていたのは、兄の新吉です。 新吉は、足尾銅山から産出される銅でできた銃弾で、二○三高地の激戦を生き抜くことが出来たのだ、とサチに自分の心変わりの理由を言って聞かせるのですが、サチは慟哭してそれを咎める。 尾野真千子サンの本領が、ここまで生かされる場面もない。

 純真無垢な心が最後に求めるのは、やはり生まれ育ったところへの郷愁なのだろう。 そういう物語の結論に、作り手は情け容赦ない場面を用意しました。 そこに現れた田中正造。 後編に続く。

 いやはや、尾野サンの純真な娘の演技もよかったけれど、柄本明サンが演じる、田中正造ね。 「新参者」 での退職間近の刑事の演技もよかったけれど、なんか 「八重の桜」 で西田敏行サンの西郷頼母が、ラストで田中正造みたいになってたもんで(笑)、そっちのほうがよかんべなーと思ってたけど、この人もすごいわ。
 なにせ、もっと気難しそうな人だと思ってたんですけど、田中正造。
 スッゴイ気さくで、しかも悪は絶対許さない。 利害カンケーなんて、どーだっていい。 すごくまっすぐな人で、印象がガラッと変わりました。

 鈴木保奈美サンも、結構ツンとした印象の人なので、このようなインテリを演じさせるともうドンピシャというか。
 北村有起哉サンは今回は女ったらしの役だけれど、なんつーかもう、手練れてますよね。

 とにかく久々に、見ごたえのあるドラマを見させてもらった、という感じなのであります。

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2014年1月12日 (日)

「軍師官兵衛」 第2回 動の信長、静の官兵衛

 岡田准一クンが本格的に登場した第2回目のこのドラマ。 「堅実」 であるがゆえに 「押しが弱い」、という第1回目の印象を引き継いだ感があります。
 ただ個人的には、鳴り物入りでドラマ以外のところでいろんな見所がある、というここ最近の大河より、こうして落ち着いて見ることのできる作品のほうが、いいかもしんない。 なにしろ、もうワシも年じゃからのぉ~。 フガフガ…。 ズズ~っ。 やれやれどっこらしょ…ウッ!…グキッ!(ハハ…)。

 小寺氏に仕えることになり、父親の柴田恭平サンからまず釘を刺されたのは、「小寺の中では我らは外様。 出過ぎた真似はするな」。 その言いつけ通りになんとか大人しくしようとする岡田クンですが、あふれる若さを抑えることが出来ない。 そのせめぎ合いには興味を惹かれました。

 ふつう 「出しゃばってはならぬ」 などと言われると、どうしても必要以上に卑屈になってヘーコラしてしまいがち。 って自分だけか(笑)。 目立たぬように、はしゃがぬように、人の心を~見つめ続ける~時代遅れの~男~になりそうなんですけど(笑)、若いとどうしても血気盛んですからね。
 特に黒田家は目薬屋から取り立てられていった過程があるので、小寺の家臣の中では 「目薬屋」 と蔑む向きが多い。 これって自分がバカにされるだけじゃなくて、竜雷太サン演じる、じっちゃんまでバカにされる感覚。 こういうの、若いときは特に許せない。

 でも、官兵衛はここをぐっとこらえます。

 まあその鬱憤晴らしみたいに、赤松氏相手の初陣のときに、子分の永井大サンと 「っしゃーっ!っしゃーっ!」 と気合の入れ合いをしたりはするんですけどね。
 で、初陣で自分の出番を探しあぐねながらも、ついに機を見つけて斥候に向かう。
 戦況を見守りながら震えが止まらない官兵衛。
 しかしそこで孫子の兵法をとっさに思い出し(第1回にもございました)、味方をピンチから救い出すのです。

 かように、官兵衛の行動にはいちいち、「冷静になって物事を考えている」 という性格がついてまわっているんですよ。
 やっぱりのちに軍師になるだけあって、それぞれの状況をみずからの知識、知覚でもって切り開いていこうとする傾向を感じる。

 助けられた櫛橋のせがれ(金子ノブアキサン)は官兵衛を 「目薬屋」 と侮辱した当人。
 コイツは完全に血気はやりまくりで若気の至り全開で、却ってこちらのほうが経験不足の若者らしいんだけれど、官兵衛に助けられたのに礼も言わず、捨てゼリフみたいに負け惜しみを言ってその場を去ります。
 しかしそいつの憎たらしさよりも、官兵衛の関心は、戦場であたら簡単に死んでゆく者たちの亡き骸にある。

 この官兵衛の視点も、戦がもたらす、修羅に囚われた動的な精神状態というよりは、一歩俯瞰した位置から人間界を見渡している、静的なものを感じる。

 ただそれは、見ていて痛快というものではなく、物足りなさも同時に有しているわけであり。

 この官兵衛の冷静さは、幼い頃に結婚の約束をした南沢奈央チャンが、同盟関係のためにほかに嫁ぐことになってしまうときにも、発揮されてしまいます。
 官兵衛は 「武家の習わしによる政略結婚でも、幸せはある」 という、自分の母親を見てきた経験や、諸般の事情から、幼なじみが奪われることを結局よしとしてしまう。
 これは自らのクレバーさが招いたことなんですが、この機に乗じた赤松氏によって、奈央チャンの命は危機にさらされることになるのです。

 この、「賢さがもたらす成功と蹉跌」 というコントラスト。 物語の構成が、やはり堅実です。

 そして、知的な官兵衛の物足りなさを今回補っていたのが、修羅の道をひた走る織田信長(江口洋介サン)だった。
 美濃の斎藤にやられて敗走する中で、自らが殺した実弟の亡霊を振り切るように、追手を返り討ちにしまくる信長。 「弟よ、そんなにオレが死ぬのが見たいか」、という絶望の中で、自分のことを心から案じて馳せ参じた、秀吉(竹中直人サン)に、ある種の光明を見い出す。
 この転換の仕方は、見事だったと感じます。
 同時にこの物語の動の部分を、信長が受け持った瞬間だと感じました。

 どうも地味~ですが、渋~いお話ですね。

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2014年1月 8日 (水)

「軍師官兵衛」 第1回 正攻法な、あまりに正攻法な…

 豊臣秀吉の軍師として活躍した、のちの黒田如水、黒田官兵衛が主役である今年(2014年)の大河ドラマ。
 第1回を見た印象を申し上げると、「大河ドラマとしてこれ以上ないほどの正攻法」、ということになりましょうか。

 この作品の作者である前川洋一サン、この人の書いたドラマで私が以前見ているのは、竹野内豊版の 「人間の証明」(2004年フジテレビ)、「陽だまりの樹」(2012年NHKBSプレミアム)。 その2本に共通しているのは、どちらも奇を衒わない、誠実な作りだったという印象です。 今回もその特徴が色濃い気がします。

 こうした正攻法を旨とする脚本、というのは、裏を返せば 「面白みに欠ける」、という欠点も併せ持っている。 話題性に乏しく、華がない。 特に 「陽だまりの樹」 を見ているときに、どうにも退屈な場面があったような記憶があります。 良くも悪くも、「NHKBS時代劇」 の枠を超えていなかった、というか。

 ふつう大河ドラマともなると、第1回では大盤振る舞いで、「寄ってらっしゃい見てらっしゃい」 というサービス精神旺盛なものが多い。 だけども今年の大河は、竹中直人サンが18年ぶりに同じ大河でもって秀吉を演じる、ということくらい。 それ以外は淡々とドラマは進行し、堅実な作りに終始していた気がします。

 その竹中サンですが、まあ官兵衛との年齢差とか考えるとかなり無理のあるキャスティングなんですけど、秀吉って 「猿」 というあだ名が有名なくらい、顔がサルみたいにシワクチャだった?みたいに考えると、その違和感も払拭されるかな~(笑)などと思われます。 20歳だか岡田准一クンと年が離れてない、と思えばいい(笑)。
 興味深いのは、大河って同じ人物でも、作品が変わると解釈の仕方が違って別のキャラになることが多いんですけど、第1回を見る限りでは、18年前の 「秀吉」 と変わんない感覚である、ということ。 おそらく今回の大河では、黒田官兵衛を頭の切れすぎる奴、として警戒した、という秀吉のキャラになっていくのでしょうけどね、この先は。

 そしてその、当の黒田官兵衛。

 秀吉の軍師、というわりには、これまでの大河ドラマであまり印象的ではないスタンスで扱われることが多かった気がします。 直近のものでは 「江~姫たちの戦国」 での柴俊夫サン。 確かにいたな、つーか、あのドラマはまあ…ゴニョゴニョ(なんなんだ)。

 比較的印象に残っているのは、2006年 「功名が辻」 で斉藤洋介サンが演じた官兵衛。 このときは同じ軍師の竹中半兵衛が、主役の千代(仲間由紀恵サン)と恋仲だったみたいな設定で、筒井道隆サンが演じていたのですが、このとき官兵衛とライバル関係だったかなァ?くらいの認識しかない。 却って如水になってからのタヌキぶりのほうが印象に残っている感じかな。

 18年前の 「秀吉」 で官兵衛を演じたのは伊武雅刀サン。 …うーん…。 記憶にないぞ…(笑)。 こちらもどちらかというと、竹中半兵衛を演じた古谷一行サンのほうがよほど印象に残っている、というか。

 だからなんというのかな、大河を通じて私が黒田官兵衛に持っているイメージというのは、「結構秀吉に疎まれていた?」(笑)みたいな、権謀術数の持ち主、みたいな?(ハハ…)。 いずれにしてもあまりいいイメージがない感じ。

 それがですよ、今回第1回の冒頭から北条に対してただひとりネゴシエイトにやってきて 「命を粗末になさるな!」 などとヒューマニズムたっぷりでブチ上げ敵陣の真っただ中に飛び込んでいく岡田官兵衛は、なんつーか 「コイツ主役じゃん」 みたいな意外性があって(いや主役なんだがね…笑)。

 そして、冒頭から一気に時代はさかのぼり、少年時代の官兵衛(幼名は万吉)が描写されていきます。
 万吉はかなり膀胱が弱くていらっしゃるようで(笑)要するに 「ションベンたれ」(笑)。 跡取りとしての覚悟なんぞさらさらなく、幼女とデレデレしているようなフヌケで(ちゃうっての…笑)。
 振り回されるのは守役の、琥珀のベンさん…じゃなかった塩見三省サン。 「あまちゃん」 人事発令か(笑)。 ただ、ほかにもピエール瀧サンとか吹越サンとかいるけど、あまり 「あまちゃん」 推しは見られないかな。
 ベンさんは(ちゃうちゃう)万吉がいなくなるたびに 「若~!若~!」 と探しまくるのですが、それがあながち 「バカー!バカー!」 と鬱憤を晴らしているように見えなくもない(笑)。

 同時に黒田家の置かれている状況というものが、巧みに描かれていくのですが、ここらへんの語り口は見事。 親分さんが小寺氏で、片岡鶴太郎サンが演じているのですが、「仁義なき戦い」 の金子信雄サンをモデルにした、というその親分さん。 鼻は赤いし演じ方にかなりのクセをつけている感覚ですね(ワタシャその映画見たことないんですが)。

 こういう、ちょっと良識をはみ出したような役作りというのは、ここ数年の大河では 「江」 で秀吉を演じた岸谷五朗サンなんかがおりましたが、なんとなく久しぶりに見る気がします。 クセがあると、結構賛否両論湧きあがるんだよな(笑)。 私はいいと思いますよ。 マヌケなようなフリして、その実抜け目ない、という人物が物語に出てくると、結構話が引き締まる。

 黒田家はこの小寺氏から小寺の姓を賜っていて、小寺氏にひとかたならぬ恩がある。 でも親分さんはなんだか鼻もちならない人物。 だから官兵衛の父親役である柴田恭平サンが、小寺氏の外様の家臣として微妙な位置関係にあることがよく伝わってくる。
 同時に小寺氏と敵対関係にある赤松氏からは、柴田恭平サンに対して再三のヘッドハンティングの誘いが。 柴田サンは潔癖で厳格な人間だからそれには全く応じない。

 そんな折、万吉は病弱の母親、戸田菜穂サンの病を治そうとその赤松家領地に入って捕まってしまいます。 柴田サンはこのとき、単身、敵の懐に飛び込んでいくわけですが、これも冒頭での、北条にひとりネゴシエイトに向かった後年の官兵衛にきちんとつながっている。
 助け出された万吉は、戸田菜穂サンから 「お前の軽はずみな行動で人の命が危険に晒されるのです」 ということを、厳しく学びます。 結局母親はほどなくして亡くなってしまうのですが、それを機に万吉も後継ぎとしての自覚を育んでいく。 ここらへんの描写も、実に堅実ですね。

 さらに小寺氏内部の謀略を知ることで、軍師としての素質も頭角を現し始める。 バカ息子でオヤジからなじられっぱなしだった万吉が初めて父親から褒められる、というその発端。
 ここらへんのビルドゥングスぶりは、たしかに使い古された感覚はある。
 けれども、きちんと 「黒田官兵衛はどうして黒田官兵衛になっていったのか」 を描こうとする作り手の姿勢には、やはり好感が持てるのです。

 小寺氏のことを中心として回っていくこの段階での物語は、確かに今まで見たことがないので、結構新鮮です。
 ただしこれからは、戦国大河ではもう幾度も繰り返されてきた、織田・豊臣・徳川の話の渦に巻き込まれていくはず。
 これを、いままでの 「印象がかなり薄い、イメージが比較的いいほうではない」 黒田官兵衛、という視点からどのように脱却して描かれていくのかを見るのは、楽しみであります。

 まあ、「江」 みたいにならなきゃなんでもいーんだけど(笑)。

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コメントをくださった皆様へ

 どうにも多忙でして、皆様からのコメントにきちんとお答えしている時間がなく、大変申し訳なく思っております。
 このたび、「軍師勘兵衛」 第1回の記事を優先してアップしてしまいます。 皆様からのコメントには、後日きちんと返信いたしますので、なにとぞご了承くださいませ。

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2014年1月 5日 (日)

「ごちそうさん」 前半まで見て

 前回の感想文からかなりブランクが空いてしまいましたが、この正月休みに去年の年末までの前半部分をようやく見終わりましたので、ちょっと全体的な感想を書いてみようかと思います。

 と、その前に、年始にやってた 「タイムスクープハンター」、ご覧になりました? 要潤サンが大正時代に本郷のあたりにタイムワープしたら、め以子が出てきた(笑)。 この番組で杏サンは、タイムスクープ社のナビゲイター・古橋ミナミとしてふだん働いているわけですが、思わぬところでかけ持ち出演。 沢嶋(要サン)がそれを見て、ミナミと勘違いするというからくり(笑)。
 そのときめ以子はお団子でも食べてたのかな(笑)。 「違います、私、め以子です!」 と言って逃げていきました(笑)。 そこに落ちあったミナミが登場。

 まったくイメージの違う杏サンの2パターンを見て、この時のめ以子がヤケにかわいく見えたのが、自分的にはまず意外でした。
 意外だというのは、「ごちそうさん」 の本編において、私がめ以子に対して持っているイメージというのが、いつも口を尖がらせて眉間にしわを寄せている、というものだったから。
 そして食いしん坊というわりに、あまり四六時中ものを食べてるイメージというものがなかった、というのもひとつ。

 つまり 「ごちそうさん」 本編では、め以子の魅力というものを、今イチ表現しきれていないんじゃないか。 逆に言えば、「タイムスクープハンター」 のスタッフの遊び心のほうが、皮肉にも、め以子の魅力を引き出してしまっているんじゃないか。 などと考えたのです。

 そしてもうひとつ考えたこと。
 杏サン、古橋ミナミをやっているほうが、やはりなんか、合ってるんですよ、私のイメージのなかでは。

 古橋ミナミはめ以子と違って、冷静沈着。 クールビューティ、という面持ちですね。
 「平清盛」 での北条政子もそうだったのですが、杏サンはどちらかというと、かなり理詰めで役を演じるタイプなのではないか、という気がします。 つまり、演技そのものが、とてもクレバーである役者。
 これってお父上である渡辺謙サンに影響された、というより、お父上の役者のスケールを杏サン自身が背負いこんじゃってる結果そうなっているように、私には思える。 あんな大俳優の娘が、チャッチイ演技などをしてはならない、というプレッシャーが彼女をクレバーにしている、というか。

 ただし、このクレバーな演技力が、め以子と生理的に合わない気がするんですよね。

 め以子って、設定上かなりバカでしょう(笑)。
 お見合いをやってる途中で断ってしまうという考えの浅さだし、材料費も考えんと豪勢な料理作っちゃうし(笑)。 父親の原田泰造サンや母親の財前直見サンも夫の悠太郎も友人たちも、そして本人でさえも、「め以子という人間はバカだ」 ということを認識しまくっている(小姑の和枝さんはかなり本気で思っている…笑)。 直情径行で、あまり本音と建前を上手に振り分けるタイプじゃない。

 でも当のめ以子は、自分の本能に従って行動してしまうわりに、その自分の状態を、かなり冷静に分析して言葉に出来る能力を有している。 思慮が足らないバカとかいう設定のわりには、クレバーなんですよ。 どうもこの自語相違が、見ていて気になる。

 これは 「ごちそうさん」 全体に流れている、ある 「理詰め」 の雰囲気と合致しているようにも感じます。
 これって脚本の森下佳子サンがかつて書いた 「JIN-仁-」 とも共通しているように思えるのですが、この人の書く話って、人物の動機というものがかなり考え抜かれている傾向にある。 「ごちそうさん」 の東京編には、そこらへんの緻密さが比較的なりをひそめていて、ずいぶんのんびりとした脚本を書くようになったんだな、原作がないとこんなものか、という気がしたんですが、大阪編から話は人物の内面をかなり深くえぐるようになっている気がしますね。

 と同時に、話がなんとなく論理的に動いていってる印象がするんですよ。
 たとえば、大阪での小姑、キムラ緑子サン演じる和枝の意地悪な性格がどこからきているのか。 これを説明するために、和枝の小さい頃からの性格までさかのぼり、そして物語は、その持って生まれた性格から生じた因業の深さにまで、話を切り込んでいく。 和枝は株投資の詐欺に引っかかって、ガス漏れ騒動を起こすまで話が深刻化してしまう。 東京編のほのぼのモードとは対極の、話の振れ幅です。
 ここらへんの展開は見ていて凄みさえ感じるほどでしたが、凄すぎていたたまれなくなったのも確か。

 和枝は、妹である希子から言われたことを自分の胸に当てて、なんとか自分の持って生まれた性格を直そうと試みるのですが、結局それが出来ません。
 お話がメデタシメデタシ、という方向になかなかいかない、というのは、作りそれ自体がクレバーであるからだ、と私は思います。 ドラマなんだからノーテンキに解決しちゃえばいい。 そんなスタンスを取れないんですよ、あまりに賢すぎると。
 最終的に和枝は、農家に嫁ぐということで物語の表舞台からいったん退かせ、クールタウンするという方法しかとれなくなる。 これもクレバーな退場のさせかただと感じます(クレバークレバーとしつこいねどうも)。

 ただ和枝役のキムラ緑子サンには、もう唸らされまくりました。 コテンパンにやっつけられるのではなく、あくまで自分の因業の始末としての退場。 それをよく演じていた。

 め以子がぬか床を別れ際に渡して、これをいけずだ、と表現するのは、やはりめ以子ってクレバーなんだと思う。 だけどそれって、和枝にとってはあくまで 「小賢しい」 の域を出てないんですね。 和枝は立場上負けたままに自分を置かないために、その場でそのぬかの入った甕を叩き割る。 仲直りもしない、みじめでもない、実にうまく出来た退場のさせかただ、と感じました。

 物語が次に狙いを定めたのが、西門家の凋落の原因となった、悠太郎の父親正蔵の取り扱い。

 もともと、め以子からの求愛を 「お断りします」 と悠太郎がむべに断っている時点で、西門家にとてつもない結婚への障害があることは示唆されていたのですが、この西門家の状態が、悠太郎をこういう頑固で意固地な性格にしてしまった、というところまで、物語が考え尽くされている。

 そしてその淵源に、銅山の鉱毒問題を絡めてくる、という手。 正蔵をその問題の責任者に据えてきた。 これも、やはりかなり重たい問題であり。

 ただし物語は鉱毒問題に対してどこまで責任を追及させるか、という手段を登場人物たちに取らせない。 正蔵と悠太郎が長年のわだかまりを捨てて和解する場面では、やはり見ている者を感動させることに成功したと感じるのですが。 やはりここは、正蔵を演じる近藤正臣サンの演技が手練れていた、という印象に落ち着くでしょうか(なんかどうも上から目線だな…はっきり 「泣けた」、と言やいいのに)。

 ええ、ええ、泣けましたよ(カワイクナイねどうにも…笑)。

 ここから感じるのは、どうにも取り返しのつかないことって、やはり起きてしまうんだ、ということ。 正蔵はあくまで、自分の人生逃げて逃げてばかりだったけれども、その苦しみを背負い続けた、という時点で罪も抹消される、かもしれないし、やっぱり結局責任逃れだ、と謗られても仕方ないかもしれない。

 それをうやむやにしている、という点では、とてもリアルに近い始末のつけ方なんじゃないだろうか、という気はするんですよ。
 人生なんて、責任のつけ方がうやむやに終わってしまうものだらけだから。
 まあ、物語に正蔵を残しておきたいから、鉱毒問題の責任をあいまいにしたのかもしれませんけどね。

 そんな物語の中で、め以子は本当に、毎日笑顔で暮らしているんだろうか。
 物語は、食べ物を中心として、「ものを食らう物語」 として成立しているんだろうか。
 私の考えでは、ちょっとそこらへん、うまくいってない気がします。
 それはやはり、物語がノーテンキな方向で動いていない、ということが最大の理由なんじゃないのかな~。
 食欲というものはたぶんに本能的なものなんだと思うのだけれど、物語がなんとなく、理屈で進めたがっているから、そこに齟齬を感じるのでしょう。

 つらい現実の中で、食べ物を食べたときに、「ああ生きててよかった」、と思えるくらいのお話であればいいな、と私は感じます。 め以子に、オープニングテーマのときくらいの笑顔でいてほしいな、と感じます。

 物語は後半。 その予告みたいなものを見たんですが、西門家はガラッと雰囲気が変わるみたいですね。 子供も3人もいるし、その子たちも、1月の終わりにはずいぶんと大きくなっている。

 その、自分の子供たちに比べて悠太郎とめ以子が、あんまり歳の差を感じさせない、というのは、これはご愛嬌でしょうかね(笑)。 話が大きく展開することに対して、ちょっとしたワクワクは、感じています。

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「はじめの一歩 Rising」 第12-13回 沢村救済のシナリオ

 2000年の最初のシリーズから、緩急をつけた圧倒的な演出で、私を釘づけにしてきたこのテレビアニメシリーズ。 ときどき、「これって原作マンガよりすごくね?」 みたいな気分にまでなったものであります(森川サンゴメン…笑)。

 今回のシリーズでは、鴨川会長役だった内海賢二サンが去年、亡くなられたために、飯塚昭三サンに変更されました。 いや、だって、この人も相当なベテランでしょ?と思ってウィキで調べたら、なんと御歳80歳。 パッと代表作が思い出せないのがアレだけど、個人的には宮崎駿サンの 「名探偵ホームズ」 の、レストレード警部でしょうか。 悪役が多かった印象があるのは、内海サンと一緒かな。 内海サンの鴨川会長と、イメージがさほど変わらないのはさすが、というほかありません。

 で、今回、2クールの放送で前半の物語的に中心になっていたのは、幕之内一歩の5度目の王者防衛戦です。
 一歩の相手は沢村竜平なんですが、この男。
 小さい頃に、家庭内暴力をふるう父親を殺してしまってから性格が歪みっぱなしで、その暴力的な性格を更生させようと、恩師の河辺先生がボクシングをやらせようとしたのですが、これがまた却ってアダとなり。
 合法的に相手をブッ殺せる場が与えられたことで、人格の歪みにさらに磨きがかかってしまった、という設定になっています。 対戦相手のことを生肉にたとえ、やわらかい肉を食べることを生きがいにしているようなところがある。
 これは沢村が幼い頃に、暴力をふるう父親から救った母親との思い出が深く絡んでいるのですが、それゆえに多少のことでは修正が効かない根の深さを抱えている。

 今回の防衛戦で私が注目していたのは、果たしてこの沢村の精神的な救済がどのようになされるのか、という点でした。

 語り手は、試合前から沢村の異常な暴力性を次々とつまびらかにしていきます。 試合でも、どんなに有利な試合だろうと自分の生肉への欲望が高まると、どんな反則でも厭わない。 ボクシングをハナから舐めてかかっている態度に、一歩は闘争心を徐々に高ぶらせていきます。 試合前には、一歩の彼女である間柴久美に対しても暴力をふるってしまい、兄の間柴了にまで反感を買ってしまう。
 いっぽう、沢村は沢村で、自分の唯一の理解者であった河辺先生が、一歩に 「沢村に勝ってくれ」 と頼んでいたところを目撃してしまい、ますますその精神的な孤立度を高めていく。 河辺先生は沢村が精神の闇に取り込まれていくのをなんとかしようと思って、一歩に頼んでいたんですけどね。

 そして今回テクニカルな面で、物語の核心を司っているのは、一歩の必殺技であるデンプシー・ロールを破る秘策を、沢村がもっている点。
 デンプシー・ロールというのはこのマンガをご存知のかたなら説明不要ですが、要するに体を左右に振り子のように動かしながらパンチを繰り出していく、というテクニックです。 沢村はカウンターの名手。 このデンプシーをカウンターで迎え撃つ、ということは、完全無比なダメージを一歩に与えられる、ということを意味している。
 事前からこのデンプシー破りを知らされていた一歩は、自分の得意技のデンプシーが、相手にとって非常にタイミングのつけやすい、という弱点を持っていることに着目して、そのタイミングをずらすことを課題に練習に励む。

 しかしリズムに乗って全神経を集中させているこの運動を途中でストップするということには、過大な負担が筋肉に対してかかることになります。 選手生命さえ脅かしかねないこの新型デンプシーは、主治医の山口先生(美人)(笑)に止められるほどの危険なカード。

 しかしこの危険なカード、防衛戦での死闘がピークになればなるほど、一歩の覚悟をたぎらせていく要因となっていく。
 自分の体がどんなになってもいい、ボクシングをバカにしている人を許すことが出来ない、自分だけじゃない、自分と同じくリングの上で戦っているすべての人に対して申し訳が立たない、というその覚悟が、一歩を危険な賭けに踏み出させていくのです。

 この見せ方が、なんと言ってもすごい。

 このマンガのすごいところは、ボクシングの持つあらゆる面から見た、ボクサーひとりひとりの個性に、深くまで切り込んでいるところではないか、と感じます。 同じ少年マガジンで連載されていたボクシングマンガの牙城、「あしたのジョー」 に追いつき追い越せるスタンスというのは、そこしかない、と原作者が考えているようなフシがある。
 まあ、私にとっては 「ジョー」 はバイブルみたいなものですから、いかに森川サンが頑張ろうともその地位は微動だにしないんですが(笑)、私より若い人たちにとっては、もうボクシングマンガと言えば 「一歩」 ということになってきているのではないか、という気もします。 だってもうコミック本100巻とか超えてるし。

 で、「あしたのジョー」 信者の立場から言えば、この沢村というのは金竜飛に近いようなところがある。 幼い頃のトラウマが人間的な心を喪失させ、ボクシングというものをルールに守られた、極めて平和な世界だ、と捉えている点においてですが。

 ただ金竜飛の場合、トラウマのために 「飲めなくなった、食えなくなった」 のですが、沢村の場合自分の食欲に、破壊欲が融合してしまっている。 そして沢村の原点にあるのは、父親を殺してしまったことが、「母親を守ろうとする行為だった」 という善意であること。 これは大きい。

 ここが物語的に現代的な部分です。 金竜飛の場合、「飢える」 ということが、彼の人間性を阻害している原点にある。 だからそれを凌駕されてしまったとき、かなりあっけなくジョーに負けてしまいます。 ジョーはこの時、力石徹の存在を思い出すということで、金竜飛に対する劣等感を払拭することが出来た。 ジョーの勝利の要因は、そこだけでよかったのです。
 でも沢村の場合、善意が裏切られた、ということから精神性の歪みが出発している。 さらに試合直前、恩師にまで裏切られた、と感じてしまっている。 そこで 「相手に負けたくない」 という意識が同時に膨らんでいったために、自分のデンプシー破りが一歩によって凌駕されても、まだダウンをよしとしないんですよ。

 そして沢村はデンプシー破り破り・破りを決行するのですが(なんじゃソレ…笑)、一歩は会場からの声援(元気玉の発想だけど)を背に受けてるから、精神的にもっと強かった。 そのデンプシー破り破り破り破りによって(勘弁してくれ…笑)試合を制するのです。

 この精神力が、練習によって培われた、という語り手の結論。 新型デンプシーが沢村を迎撃し制圧していく様子は、これはもう、マンガでは表現しきれない、このアニメシリーズでしか見られないカタルシスなのではないか、と感じます。

 そして沢村が、どのように自分の精神性の闇から解放されたのか。

 この物語の語り手は、河辺先生に大きな役割を、あえて持たせません。 私が見たところ、沢村を精神的に救済できるのは、河辺先生だけだろう、と考えていたのですが。 これが昨今のテレビドラマだったら、河辺先生にリングサイドまで向かわせて、沢村に向かって号泣混じりの励ましとかさせるところなんですが。

 沢村を実際のところ励ましたのは、試合後に観客からわき起こった、沢村の健闘を称える拍手と、沢村と同じような境遇にいたかつての不良で一歩のライバルである、千堂の言葉でした。 自分たちの拳は、相手を殺すためのものだけれど、一歩の拳は、ボクシングの素晴らしさを教えてくれる、活人拳なのだ、と。
 でもそれらの励ましも、本当のところは沢村にちゃんと届いていたかどうかは分からない。 一歩にポンコツにされて病院のベッドで伏している沢村は、あくまで無反応だからです。

 でも、反則負けではない形で初めて勝負というものに負けた沢村は、何かを感じ取ったに違いないのです。 この見せ方はよかったなあ。 押しつけがましくなくて。

 じっさいのところ沢村は、ウィキを読んだところこのあとも原作ではいろいろ紆余曲折があるみたいで、けっして根本的な精神救済がなされているとは考えにくい。
 でも、あまりにも解決してしまう話よりも、自分が自分の因業によってどういう人生を歩んでいくか、という話をされたほうが、なんとなく説得力自体はあるような気がするんですよ、最近。

 で、このマンガ、試合後は急にユルユルモードで、ギャグ全開になったりする。 そこが 「ジョー」 とは決定的に違う面ですが、この緩急がまたひとつの味なんですよね。

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