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2014年1月21日 (火)

「足尾から来た女 前編」 知識がもたらすもの

 我が国最初の公害と言われる、足尾銅山鉱毒事件を題材としたドラマ。 この鉱毒事件に対して立ち上がったのが、教科書でも有名な田中正造ですが、彼の地元である栃木県谷中村の農民の娘、新田サチを、尾野真千子サンが演じます。

 この新田サチが純真無垢という性格設定であるため、なんの思想にもとらわれない事実を、見る側は未来から追体験することが出来る。 前編を見る限り、作り手のこの目論みは、大いに成功しています。 尾野サンは作品によって、その存在感があり過ぎる演技が気になったりすることがあるのですが、この作品との相性は非常に良い、と感じます。

 画面は全体的に埃をかぶったように暗く、茅葺きのにおいがたちこめるよう。 鉱毒がもたらした、緑青のような水色が土に混じるさまは、実に異様でとても自然界のものと思えません。
 冒頭、尾野サンは泥まみれで、父親と一緒に枯れた田畑を耕しているのですが、土の中から出てきた生育の極度に悪いサツマイモを無造作に捨てます。 「もったいない」、とこちらが思う間もなく、「食えるべ」、と父親がそれを拾う。 けれども 「母ちゃんがそれを食って死んだんだべ!」、と尾野サンが反駁することで、ことの重大さがダイレクトに伝わってくる。 この話の運びはうまい。

 そこにやってきたのがこの尾野サン演じるサチの兄の新吉(岡田義徳サン)。 何やら地元の名士か知識層みたいな人々を引き連れて、この惨状を訴えます。 サチはその際、新吉から、田中正造先生(柄本明サン)が東京の知り合いである社会活動家の福田英子(鈴木保奈美サン)から、お手伝いを頼まれているからそこに行け、と強引に言い渡されるのです。 それがこのドラマの発端。

 冒頭のこの陰惨なシーンは、サチが後年振り返るような形で行なうナレーションで、日清日露戦争で沸き立つ日本の民衆と対をなすように描写されます。
 ここだけですでに、見る側の想像力は大いに刺激される。 このドラマが、尾野サンの出会った久々の傑作であることを、早くも予感することができるのです。

 もともと福田英子が田中正造に頼んで、谷中村の娘たちを数人、お手伝いとして働かせたことは、実際にあったらしい(番組HPによる)。 谷中村の人々は、いまの放射能なんかより数倍きついであろうと思われる風評被害によって、働き口もなかったようなのです。

 ドラマ的にはこの新田家じたいが架空なので、サチも新吉も架空、ということになります。
 この新吉がお世話になった人物が仲立ちとなり、サチは東京にいる当時実在した社会活動家、福田英子(鈴木保奈美サン)の家に住み込みで働くことになるのですが、この 「新吉がお世話になった人物」 というのが日下部という男(松重豊サン)で、これも架空の人物。
 サチは早々に、日下部が警視庁の人間であることを知ります。 彼は、社会主義者たちを監視ししょっぴくために、サチを福田の家に送り込むらしい。 要するに、スパイをやれ、ということです。 サチは戸惑いますが、言われるがままにするしかない。 兄や田中の顔を潰すわけにもいかないし、谷中に帰ったところで農業なんかできる状態ではないのだから。

 日下部は社会運動家たちが 「国家転覆を企んでいる」 と決めてかかっていますが、そのこともサチがこの話を断らなかった理由の一端にはあると思う。

 ただここで考えさせられるのは、日下部がどうして、社会運動家たちをそのように捉えているのか、ということ。 明治維新から富国強兵に突き進んでいたこの国の構造を、この活動家たちは根本的に揺るがそうとしているという認識であることは疑いがないのですが、それは日下部が、国に雇われている公務員であるからこそ導き出される結論なのであって。

 そしてサチも、日下部の話によって、彼ら運動家たちが国をメチャクチャにしようとしている、それはいけないことだ、という認識くらいはもったと思うのだけれど、そもそもサチにとってその国、日本という国に対して、どれほどの信用があるのかは極めて不透明なのではないか、ということも考えさせられます。 なにしろ鉱毒の被害者たちなんか、国に見棄てられた、棄民も同然ですからね。

 サチや新吉、日下部が架空の人物として設定されることで、見る側はしぜんと登場人物たちの思惑や、知っていることがどこまでなのかに思いを巡らすことになり、深い鑑賞が可能になります。

 日下部は福田英子の家を探ることによって、田中正造が社会主義者で国家転覆を企てている、という尻尾をつかみたい、ということになりますが、新吉はそのことをどこまで知っているのか。 新吉は日下部の正体を知っているのか、騙されているのか。
 田中正造にとってしてみたら、ただ単に自分たちの鉱毒事件に対する活動の応援をしてもらっている、福田英子から頼まれたから、自分の地元の娘を紹介したんだと思うし。
 福田英子にしてみると、お手伝いが警視庁から因果を含まされているスパイだということを、どうもすうすう気付いているみたいなのですが、それがどの程度なのか、ということを見る側に考えさせる余地がここで出来上がる。 そしてそのお手伝いを派遣させた田中正造に対しても、福田英子は疑心暗鬼の目を向けるというドラマ的な深みを演出することが出来る。
 私は鉱毒事件や社会主義者たちの動向もさることながら、そうした点も気にしながら、ドラマを見進めました。

 ドラマは福田英子の家を舞台とすることによって、必然的に幸徳秋水(この人本物にクリソツだった…笑)や、堺利彦、大杉栄、石川三四郎という社会主義者たちが登場することになりますが、物語的にその社会主義を宣伝するような方向には行っていない気はします。
 冒頭で述べたように、物語はあくまで、主役の新田サチを、字も読めない純粋無垢な存在にすることによって、彼女の正直な目から見た世界を映し出そうとしている。
 足尾鉱毒事件が21世紀に入ってますます遠のいている現状だからこそ、このドラマ的な手法は正しい。 我々視聴者は、みな新田サチなのです。

 ただ、ドラマを見進めていくうちに、私の興味は 「新田サチが字も読めない」 ということに移っていきました。
 サチが知識の世界からはじき出されている、ということが、ドラマの構造にまで深く影響を及ぼし始めたように見えたからです。

 だいたい寺子屋から明治の学校制度に移行してからの識字率というものが、どのようなものだったかは分かりません。 サチは住職にイロハを教わった程度だ、と話していましたが、寺社によるまったくの限定的な教育しか及ばない地域も、あったのかもしれません。 そして国が教育を保障している、と言っても、切り捨てられる人たちも大勢いたのだろう、ということも想像できる。 特に部落とかね。

 政府の側からすれば、学のない人間がいるということは好都合です。 字が読めないから、学がないから、自分たちのいいようにコントロールすることが出来る。 だから日下部もその部下も、サチの字の読めないのを、比較的歓迎している。 字が読めるようになったら、それこそ自分たちに都合の悪い真実が分かってしまうからです。
 でもサチは、自分の感じたままに、人物を評価し、真実を見つめていく。 この構造が、見ていて興味深い。

 そして福田英子をはじめとした、社会主義者たちも、字が読めて知識を得たがゆえに陥る世界に、自らの不幸が蹂躙されていく。 この構造というものも興味深い。

 石川三四郎(北村有起哉サン)は自由恋愛という思想を得たがゆえに、住み込みの下働きであるサチにもちょっかいを出す。 石川に思いを寄せている福田英子は自由恋愛を先進の思想だと認識するがゆえに、石川の行状に嫉妬心を抱きながら、頭だけで理解しようとし、心乱れていく。

 福田の子供が夢中になって読んでいるのが、「みにくいアヒルの子」 というのも、非常に象徴的な演出だと感じます。
 みにくいアヒルは、自分が何者であるかという認識を持つことによって、自分に自信を持つことが出来る。 それはサチの存在を投影しているように見える。

 ただ、自分が白鳥であることを認識したとき、白鳥がもつ苦悩というものも、同時に背負わなければならなくなる。 つまり、ものを知ることによって、いままで感じなくて済んでいたものを、知覚的に感じるようになってしまうのです。
 それは、他人のことを知ってしまうと、自分の置かれている状況を他人と比較して、不幸になってしまう、というケースが出てくる、ということと同じ。

 そもそも、「鉱毒」 って、どうして 「毒」 がつくのかな。 ドラマを見ている途中で私は、「そう言えば、『鉱毒』 ってかなり遠慮のない言いかただよな」、と思ったのです。
 それって、それが悪いことだと認識できるから 「毒」 と言うのでしょう。
 田畑は枯れ、そこで出来る作物を食べれば死んでしまうから。
 でもそれを 「毒」 と言えるのは、「毒」 という文字を知ったからであって。

 国にしてみれば、あくまで毒というのは副次的な産物であって、毒だなんて認識をしようとは思わない。 いや、最初からする気がない。 国を富ませるために出た多少の犠牲、という感覚でしょう。

 それは原発を 「多少のことはあってもそうするしかない」 みたいに考えている思考回路と、構造的に同じなんですよ。 原発を毒とは言いませんよね。 でも明治の感覚からすれば、それは 「毒」 であって 「必要悪」 なんてカワイイもんじゃない。 どうにもみんな、知識があり過ぎて、情報があり過ぎて、ヘンに物分かりがよくなってないか。

 「東京にいる人間は、谷中の惨状なんてたいして気にしていない」 と田中正造に訴えるサチの感覚は、実は現在でも脈々と受け継がれている 「当事者意識の欠如」 という問題に帰結するものだ、と感じます。 それに対して田中正造は、「ひとりの人間を大事にしないマス(集団)というもの(国)は、必ず滅びる」 というスタンスです。 田中にとっては社会主義だろうが富国強兵だろうが、どうでもいい。 ただあるのは、目の前にいるひとりの人間の窮状です。

 サチの話したことがきっかけとなって、石川三四郎は官憲にしょっぴかれることになります。
 知識人であろう福田英子の母(藤村志保サン)から、シェークスピアの言葉をかけられ叱咤されるのですが、知識なんかは権力の横暴の前には、何の力にもなり得ないことを、このドラマの作り手は容赦なく暴いていく。 ここらへんの描写も、息を呑むばかりでした。

 知識って、いったい何なのか。

 鉱毒事件の話なのに、そんなことまで考えさせるとは、やはりこのドラマはタダモノではない。

 そしてこの、石川の逮捕に罪の意識を感じたサチは、谷中へと戻っていくのですが、そこで見たのは、自分の家が取り壊されるまさにその瞬間。 そしてそれを取り仕切っていたのは、兄の新吉です。 新吉は、足尾銅山から産出される銅でできた銃弾で、二○三高地の激戦を生き抜くことが出来たのだ、とサチに自分の心変わりの理由を言って聞かせるのですが、サチは慟哭してそれを咎める。 尾野真千子サンの本領が、ここまで生かされる場面もない。

 純真無垢な心が最後に求めるのは、やはり生まれ育ったところへの郷愁なのだろう。 そういう物語の結論に、作り手は情け容赦ない場面を用意しました。 そこに現れた田中正造。 後編に続く。

 いやはや、尾野サンの純真な娘の演技もよかったけれど、柄本明サンが演じる、田中正造ね。 「新参者」 での退職間近の刑事の演技もよかったけれど、なんか 「八重の桜」 で西田敏行サンの西郷頼母が、ラストで田中正造みたいになってたもんで(笑)、そっちのほうがよかんべなーと思ってたけど、この人もすごいわ。
 なにせ、もっと気難しそうな人だと思ってたんですけど、田中正造。
 スッゴイ気さくで、しかも悪は絶対許さない。 利害カンケーなんて、どーだっていい。 すごくまっすぐな人で、印象がガラッと変わりました。

 鈴木保奈美サンも、結構ツンとした印象の人なので、このようなインテリを演じさせるともうドンピシャというか。
 北村有起哉サンは今回は女ったらしの役だけれど、なんつーかもう、手練れてますよね。

 とにかく久々に、見ごたえのあるドラマを見させてもらった、という感じなのであります。

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コメント

右も左も分らない田舎娘が少しずつ周囲を見て、
自分の意思を持って様をナレもなく表現していく様、
台詞を最小限に留めて表現していくのが見事ね。

そして庶民視点の近代ドラマ、待ってました!
日下部との会話場面など普通の歴史ドラマなら
単なる悪役と端役のやり取りじゃないですか。
松重サンも短い尺の中で「八重」の時より存在感を
出しているし、部下って勘助です(笑。
目元に愛嬌があるだけに180度違うキャラを演じると
逆に印象に残ります。「カーネ」と立場逆転。

ちなみに柄本明サンは以前に話した
松本清張サスペンスで尾野サンと共演してまして、
キスシーンまで、こなした仲です(爆。
だから三四郎に口説かれる場面を観て
「サチちゃんは正造先生の妾だから駄目よ」
とツッコミを入れてました。

投稿: 巨炎 | 2014年1月21日 (火) 14時46分

巨炎様
コメント下さり、ありがとうございます。

いまあらためて自分の書いたものを読んでみたのですが、どうにもこねくり回したのがすぐに分かるとゆーか(笑)。 なにしろヘタクソな文章で恥じ入るばかりです。 これでも最初に脱稿した時より、かなり直したんですけどね(笑)。 また直すかも知れないな。 不完全なものをお見せしてしまって申し訳ないです。

あのナマイキな部下は勘助でしたかcoldsweats02。 ちーとも気付きませんでした。

池端サンの脚本で近年印象に残っているのは、長澤まさみサンとオダギリジョーサンの 「ぼくの妹」。 コレ、あまり成功している脚本じゃなかった。 だから今回も、前編はよかったけれども後編で失速するのではないか、という危惧は付いてまわっています。

私の中では冬ドラマに軒並み失望しながらの視聴(つーかどうして事件ものと医療ものばかりなのだ?)(正直最初から見てないものばかりです)。 それに比べりゃ前後編なんてあっとゆー間じゃんかよ、という感じで実にもったいない気がします。 連続8回くらいで見たかったー。

投稿: リウ | 2014年1月22日 (水) 09時32分

橋本様
素晴らしいレビュー、有難うございます~♪
「このドラマ、タダモノでない」これ「カーネーション」以来かな?と思っていますが。
お褒めにあずかり光栄です、、と私がお礼を言うものではないのですが、久々自分の心にも大ヒット!場外ホームラン!と言う感じの濃いドラマでした。
尾野さん大好きのおばさんは、尾野さんの映画、ドラマは欠かさず見ており、ファンとしては「サマーレスキュー」以外は、どれも出てるだけで、余は満足じゃ・・状態でした(笑)が、これは、感動と言う度合いが違いました。
それは尾野さんの演技もさることながら、まるで田中正造先生そのもの?の柄本さんのお言葉の一つ一つが、深く、優しく、胸に突き刺すものだったからのように思います。
恥ずかしながら、正造先生はお名前しか知らないような自分でしたので、これを見て本当にその偉大さに感激、心が震えました。(ついでにもう一つの恥ずかしながら、山本覚馬様の存在も昨年の大河で初めて知った次第・・こちらも凄い人だと思いました。)

「東京ではだれも谷中の事なんか気にかけない・・」と言ったサチの言葉、
「この国を野蛮国だと思うか・・」と言った正造先生の言葉・・(橋本様はどう思われましたか?)
普段あまりものを深く考えないおばさんの心につき刺さりましたね~。

私が何をどう考えようと世の中変わるもんじゃない、とあきらめて生きてますけど、被災地の事、福島の事、そして身近な下北の事など思ってみました・・。
でも、哀しいかな、考えるだけでは何にもならないんですけどね・・・。
マ、難しいことはさておいて、とにかくこのドラマ、尾野さんの代表作に加えられそうな良質のドラマだと思います。(おばさん的には、橋本さんには不評だった「夫婦善哉」ストーリーはともかく尾野さんの演技はかなり素晴らしく、色々あったかもしれませんが、NHKでの尾野さんは良作に恵まれていると思ってます。)
ついでながら、「カーネーション」やっと、再放送決定!のようです~♪♪

かなり文章が支離滅裂状態ですが、久々感動!!のドラマに、何か嬉しかったです。これだったら受信料払ってもいいわ!って感じ(笑)こういうドラマを今、作ろうとした監督はじめ、関係者の方々、素晴らしい役者陣に感謝したい気分のおばさんです。

へば、又・・・。


投稿: おばさん | 2014年1月22日 (水) 22時53分

リウ様

upありがとうございます。
「足尾から・・」期待に違わず、いいドラマですね。田中正造さん(柄本さん)の人となりも表されていて、すんなり入っていけました。

銅山の事件は歴史的には知っていましたが、内容はよく把握してなかったので、知識の補完という意味でも役に立ちそうです。

銅山の鉱毒という話ではあるのですが、私もなんとなく福島の原発をイメージしちゃいました。

> 「東京にいる人間は、谷中の惨状なんてたいして気にしていない」 と田中正造に訴えるサチの感覚は、実は現在でも脈々と受け継がれている 「当事者意識の欠如」 という問題に帰結するものだ、と感じます。 それに対して田中正造は、「ひとりの人間を大事にしないマス(集団)というもの(国)は、必ず滅びる」 というスタンスです。 田中にとっては社会主義だろうが富国強兵だろうが、どうでもいい。 ただあるのは、目の前にいるひとりの人間の窮状です。

今も福島の原発は廃炉への道筋が確立されている状態ではないと思うのですが、メディアでは取り上げられる機会もめっきり減って、東京はオリンピックと都知事選一色です。
どうなんだろう?って思ってます。

先日みたドラマで、土日連夜で松本清張のドラマ2本見ました。リウ様は事件ものはご覧にならないでしょうけれど、とても良かったです。

今、見ているのは「緊急取調室」「失恋ショコラティエ」「僕のいた時間」「紙の月」。。。

今期は事件物が多いので、リウ様はあんまりご覧になってないかも?

投稿: rabi | 2014年1月23日 (木) 09時43分

リウ様
こんばんは。

久しぶりにドラマを観て、ぐいぐい引き込まれるような感覚になりました。

「足尾からきた女」というタイトルって、どこかスパイ映画っぽいよなあと思っていたのですが、本編を観て、納得しましたね。
足尾鉱毒事件という重たいテーマに正面から取り組んだ、大変真面目に作られた作品であると同時に、前篇に関して言えば、「一体これからどうなるのか」というドラマ的なサスペンスも十分に持ち合わせていたと思います。

また、知識を持つ者と持たざる者、というリウ様のご指摘、大変深く拝読させていただきました。敢えてそれに付け加えさせていただくなら、現実を踏みしめて物を見ている者と、そこから浮き上がったもの(つまりはイデオロギー)に囚われている者という視点もあるのではと。

そうした意味では、社会主義を理想とする石川や秋水と、明治国家イデオロギーという型枠に全ての人間を押し込めようとする日下部たちは同類ということになるし、結果としてとった行為は真逆であっても、サチと田中正造、そしてサチの兄さんは、滅びゆく故郷という同じ「現実」の上に立っている。
最後の、サチと兄とのやりとりが、観ていてあれだけ悲痛だったのは、どちらの言っていることも現実であり、しかも、お互い決して交じり合うことがないのが分かっているからなのでしょう。

こうした、多層的な人物造形が物語に奥行きを与え、オノマチや柄本さんの演技がそれを更に際立たせているのだと思いました。

ところでリウ様、オノマチ関連情報です。
4月からBSで「カーネーション」が再放送されますよ!今の「ちりとてちん」の枠でですね。渡辺あやさんの新作ドラマも4月からNHKで始まりますし、今やってるドラマには申し訳ないですが、心は半分ぐらいそっち方面に行っております(笑)。

投稿: Zai-Chen | 2014年1月24日 (金) 01時20分

おばさん 様
お久しぶりです。 コメント下さり、ありがとうございます。

このところコメント返信している途中でも眠すぎて寝ちゃうくらいで、タイムラグがあり過ぎて申し訳ございません。 おばさん様への返信をいま書いても、次のかたの返信まで出来るかどうか、甚だ微妙です。 ほかのかたがた、その節はあしからず、しばらくお待ちくださいませ。

さっそくご質問にお答えいたします。 「この国は野蛮国?」、答えはyes、ですね(笑)。

野蛮なのは主に政治家によるものだけれど、その政治家を選んでいるのは国民自身。
でも国民が野蛮なのかというとそうではないと私は思いますね。 野蛮でもないし、愚かでもない。

なにがこの国を野蛮にしているのか、というと、これは行政とか社会のシステム自体がそうさせている、としか言いようがない気がします。 政治家は議員になってしまえば志を忘れて、みたいなことはよくあるけれども、それは既得権益で人間性を骨抜きにしてしまうシステムがあるのが諸悪の根源なのであって。

そしていくら選挙で多数決で決めても、あるひとつの政党に力を持たせ過ぎると権力は途端に傲慢になっていく。 民主主義という方法自体に、もういちど根本的な懐疑の目を向けるべき段階に、人類は差し掛かっているのではないか、という気がします。

まあ、多数決で決まるのが、いまのところはいちばんいいのかもしれないけれど、その方法が万能ではないし、今のところはそうするしかないじゃないかという考えで現状を肯定するのは間違っている、と私は思います。

かなり難しい話になってしまいましたが、野蛮なのは日本人自体ではなく、日本という国のシステムなのだ、という結論になりましょうか。

しかし、このドラマの中での田中正造センセは、日本人の力を、誠実に信じ続けている。 どんな思想だろうと、どんな権力だろうと、そんなものには目もくれない、という気概に惚れました(笑)。

そして純粋無垢である存在のサチ。

ナレーションでは、サチは昔の自分を回想するような形でドラマが進行している。 サチがしゃべる内容は、およそ字が読めない人がしゃべっているそれとは違います。 すなわち、後年のサチは、ひとかどの知識を立派に備えた人間になっている、という予告が、ここでされているんですね。

後半、サチはどのように変化していくのか。 ここにも注目です。

ああ睡魔が…(笑)。

コメントを書いてくださったほかの皆様、いましばらく返信をお待ち下さい…。

投稿: リウ | 2014年1月24日 (金) 09時37分

rabi様
コメント下さり、ありがとうございます。 あけましておめでとうございます(笑)。 今年もよろしくお願い申し上げます(笑)。 「紅白」 でツイッター気味のコメントを下さって以来ですよね(笑)。

ようやくrabi様のコメント返信までたどり着きました(笑)。 こんなていたらくだから、ハシモトにはレビューを優先して書かせてやろう、というお気遣いでコメントを差し控えていらっしゃる、と勝手に解釈いたします(笑)。

冬ドラマはまあ、ほぼ全滅です(笑)。 事件ものと医療ものが多過ぎる(ハハ…)。 お正月に 「新参者」 と 「鍵のかかった部屋」 のSPを見たのですが、よく作り込まれているわりには、殺人に至る動機が、やはり軽い。 事件ものを作る人たちって、それにどっぷりハマっちゃって、トリックとか次に誰を殺そうとかどうやって泣かそうとかそんなことばかり考えて、肝心の 「人を殺す」 という行為がどれほど重たいものなのか、そこまで思いが至っていない気がします。

まあ、人を殺す人種なんてのは、そんなに考えないで短絡的にやっちゃうんでしょうけど。
犯人があまりに用意周到に証拠隠滅とかに血道をあげているのを見ると、自分が完全犯罪を遂行することだけに興味があって実際に人を殺すことがどのようなものなのか、まるですっ飛んじゃうんでしょうね。

そのことを考えると、「私の嫌いな探偵」 などは、人がそこで死んでるのにコメディをやったりして、事件もののドラマの大いなる皮肉になっている気がします(でも1回目の途中でリタイアしたけど…笑)。

rabi様は挙げていらっしゃらなかったけれど、「芦田愛菜がいない」 じゃなかった(既にこのギャグほかで使われてるかな?…笑)、「明日ママがいない」 に関しては、論じるほどのレベルなのかな、という気がいたします(これもちゃんと見てない…笑)。

投稿: リウ | 2014年1月25日 (土) 08時48分

Zai-Chen様
コメント下さり、ありがとうございます。 返信お待たせいたしましたcoldsweats01ゞ。

「ちりとて」 の枠ということは、早朝ですよね。 またしっかり時刻の字幕が入っちゃうのか…。 どうしようかな、保存版にしようかな。 確か市販のDVDは字幕付きじゃなかったと思うので、字幕付きで録画保存したいものです。

え~、「ごちそうさん」 の次の朝ドラが、なんとかかんとかって(忘れた…笑)。 「花子と杏」…じゃなかった 「アン」 か。 「はいからさんが通る」 みたいなのかな(笑)。 最近どうも時代がかってますよね(笑)。 語りが美輪明宏サンだとか。

さすがに 「あまちゃん」 みたいなトリックスター的な朝ドラはそうそう作れないんでしょうけど、ちょっと最近たるんでるよーな気はいたしますね。 まあ堅実なほうが朝ドラらしくていいのか。

そうそう、「足尾」 です(笑)。

相変わらずZai-Chen様には私の考えの一歩も二歩も先を行かれてしまいます(笑)。

確かに社会主義思想も、人間を縛る枷となっているという点では帝国主義と同レベルである、と言える気がします。

それに対して、国家とか思想とかに左右されずに生きてきたサチにとっての気持ちの拠りどころとなっているのは、やはり 「生まれ育ったところに対する愛着、思慕の念」。

帝国主義も社会主義も、すべては永く続き過ぎた鎖国からの解放で 「我が国は出遅れた」、という強迫観念のもとで未来を模索している。 「不平等条約の是正」 という問題はかれら明治人の中に重たくのしかかっているのですが、サチは違う。

土と共に生き、収穫の喜びの中に生きる。

それはたとえ字が読めなくても難しいことは分からなくても、人としての幸福感に何ら差別を与えるものではない。

いくら世界が見渡せても頭だけがよくても、そんなしっかりとした思想の中にいる人には、敵わないんですよ。

沖縄の基地問題も福島の原発にしても、そんな土に根ざした幸せというものを、「国家」 という生き物は重要視してない。

国家って、いったい何なんでしょうね。

投稿: リウ | 2014年1月25日 (土) 09時28分

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