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2014年4月

2014年4月29日 (火)

2014年春、私が最近好きな曲

 自分がオッサンになってくると(もうすでに初老も近いですが…笑)最近流行っている曲などにはとんと疎くなるもので、ここ数年は全くと言っていいほどいい曲に出会ったという実感がなかったものですが、「これいいよ、みんな聴いて!」 と思える曲に最近よく出会うので、ちょっと紹介してみたいと思います。

 1曲目はファレル・ウィリアムスの 「ハッピー」 という曲。 「HAPPY」 という原題で売られているのかな(もしくは配信のみ?)。 「ハッピー」 なんて、そのものズバリで、なんてシンプルなタイトル。

 最近FM横浜の 「BPM2022」 という番組をよく聞くようになったのですが、新旧問わずリスナーからの洋楽のリクエストをかけるというこの番組で、よくかかるんだこの曲が。 でもこの曲、とてもレトロチックな作りなんですよ。 ジャズとかボサノバとか入ってる感じ。 だから最近の曲だとは全く思わなかった。
 そしたらなんか、アメリカで1位とか?流行ってるらしいじゃないですか。 え~、2014年のアメリカで流行ってるの、こんなアナログな曲が?
 で、オフィシャルミュージックビデオがYou Tubeで配信されているというので見てみたら(→ http://www.youtube.com/watch?v=y6Sxv-sUYtM )、歌ってたのが黒人の男性だということが分かって二度びっくり。 ゴスペルシンガーみたいな太ったオバチャンとか、イーディ・ゴーメみたいな人(古いねオレも)みたいな人を想像してたから。

 特にサビの部分、女性コーラスの 「Because I'm happy~」 というバッキングとファレルとの掛け合いが聴いててキモチイイ。 クライマックスではクラッピングに  「happy,happy,happy,happy」 とたたみかける感じでさらにイイ。
 イヤ~、なんか最近の曲って言ったら機械的なものばっかりだと思っていたけど、捨てたもんじゃないぞまだまだ洋楽。
 それにやはりタイトルがいいっスよね。 ただ、「ハッピー」 なんですから。 幸せを世界に配信している感じで実にイイ。

 2曲目はNHKのラジオ深夜便で 「深夜便の歌」 として4月からかかり出した、夏川りみサンの 「虹のかけら」。 このところまた、あまりパッとしなかった 「深夜便の歌」 でしたが(それなりにいい曲はあったけど)久しぶりに聴いてていい曲だなというのに巡り合った。
 作詞作曲は財津和夫サン。 財津サンもいい曲作りますね、相変わらず。
 特に私などはムチャクチャハチャメチャのビートルズファンなので(笑)、同じ財津サンの曲には、琴線が共鳴することが多いんですよ。
 この曲もアレンジとかにビートルズっぽいところがあるんですが、出だしはアコースティックでフォーキーな感覚。 最初メイジャーコードで、サビの部分になるとマイナーに変わる(だと思う…笑)。 これでサビの部分の切なさが倍加していくわけですが、この手法というのはビートルズ(ポール・マッカートニー)の 「フール・オン・ザ・ヒル」 と一緒なんですよ。 あの曲もサビになるとメイジャーがマイナーに変わる。
 聴いてると 「私は泣かない」 という歌詞があるのにもかかわらず、泣けてきてしまう。 夏川りみサンは、いい曲を歌いますね、やっぱり。
 これはたぶん、今のところ 「ラジオ深夜便」 で聞いてもらうしかない。 だいたい毎日、深夜0時50分ごろか、3時50分ごろのどっちかにかかります。 2曲あって、交代でかかってるから。 もう1曲のほうは、まあ…ね(笑)。

 3曲目はNHKつながりですが、朝ドラ 「花子とアン」 の主題歌、絢香サンの 「にじいろ」。 まあ、ここ数年の私のお気に入りの歌というのは、ドラマつながりがまことに多いのですが、この曲もいいですね。 「まぶしい笑顔の奥に悲しい音がする」 というところが特にいいですね。 花子のこれからを暗示しているようでもあり、人は悲しみを経なければ、本当の笑顔に辿り着くことはできない、ということわりをさりげなく示しているようでもある。

 ん~、いい曲というものは、誕生していくものなんですね。

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2014年4月27日 (日)

「花子とアン」 第2-4週 「規律が厳しい」 とは本来どういうことなのか

 皆様ご機嫌よう。 第1週のレビューから、はや3週がたってしまいました。 第2週までは主役の安東はなを山田望叶チャンが演じ、そして第2週の終わりから吉高由里子サンにバトンタッチしたわけですが、この3週間のこのドラマは、上流社会と小作農家とのあまりにも強いコントラストを描きつつも、さらに重層的なテーマが錯綜して、まったく飽きることがありませんでした。 本日私は先週分今週分のたまっていた録画をほぼぶっ通しで視聴。 計3時間。 これが全く苦にならない、というのは、前回のレビューにも書いたとおり、画面から滲み出る情報量が多い、ということが理由だと思います。

 そして、このドラマで現在のところ、私のいちばんの興味の中心が、はなが寄宿する学校の、ブラックバーン校長(トーディ・クラークサン)であります。
 この校長、なにしろ怖い。 とにかく怖い。 とてつもなく怖い。 あえてつげ義春流に言えば、テッテ的に怖い(笑)。
 はながなにかしら問題をしでかせば、「ゴー! トゥー! ベーーーーーッド!!!」(笑)。 要するに 「ベッドで寝てろ」、謹慎しとけということです。 これが、ゴー・トゥ・ベッドじゃ済まないケースが出てくるのが、また怖い(笑)。
 こんなに怖いキャラクターは、私もドラマを見ていて久しぶりに見た(爆)。 「赤毛のアン」 のキャラで補完するとすればマリラ・カスバートあたりになると思うのですが、イヤその比じゃない(笑)。 イメージ的には 「アルプスの少女ハイジ」 のロッテンマイヤー女史を彷彿とさせる。 でもそれ以上に怖いな(笑)。 「MOZU」 の中に出てくる悪い奴らなんかより絶対怖い(笑)。

 いや、ただ怖いだけじゃないですよ、さすがに。
 でも、このブラックバーン校長の怖さというのは、少女期の山田望叶バージョンのはなにとって、この修和女学校という場所自体の理不尽さと、完全にリンクしているように感じるんですよ。
 つまり、理由なき怖さ(笑)。 ブラックバーン校長は、修和女学校の 「規律の厳しさ」 を、まさにからだじゅうで体現している人なのです。 現在の常識から言うと、もう理不尽なくらい厳格。

 これが、自己主張が強い印象がある吉高由里子サンに主役交代しても、完全に吉高サンのパーソナリティを抑え込んでいるのが、実に興味深い。 吉高サンはブラックバーン校長の醸造している学園内の規律という縛りのなかで、ある程度もがきつつも、その枠に完全に絡み取られてしまっているように見えるのです。

 第2週冒頭、この修和女学校へと、はなは父親の伊原剛志サンによって半ば強制的に入れられます。
 貧乏な安東家にとって、東京のお嬢様学校に娘を入学させるなんてのは、かなり無理な所業です、のっけから。
 それを、「給費生」 という、ほかの人からの寄付で修学が成立するような方法をあえて選択し、「お前の大好きな本がたくさん読めるから」 という甘言ではなを騙して(笑)ろくに学校にも行かせてないはなを放り込んじゃうんですから。 この父親は、実にゴーインな人物であります(笑)。

 この、上流階級の中に放り込まれたはなは、鶴の中にはきだめ…意味が分からん(笑)…鶴の集団の中にみにくいアヒルの子状態。 去年の 「あまちゃん」 では 「じぇじぇ!」 だったけど、今年のはなは 「てっ!」「てっ!」 と驚きまくり。 流行らせるつもりかな(笑)。

 とりわけはなにとって脅威なのは、所作言葉づかい担当の軍曹・ハリセンボンのはるなサン、将校クラスがともさかりえサン。 そして元帥の座にましましているのが、ブラックバーン校長なのです。
 そこにひとりだけ、はなを比較的やさしい目で見ている浅田美代子サンがいる。 ただ彼女の素性の一端は第4週で明らかにされましたが、全体的に見てどういう人なのか、というのがあまりよく見えてこない。

 浅田サンだけでなく、修和女学校の人物たちについて、かなりこのドラマはブラックボックスの部分が大きい気がします。 それはこのドラマの作り手が、「描く必要がない」、と考えているからにほかなりません。
 そのスタンスが、「この学校はどうしてこんなに規律が厳しいのか」、ということについても 「それが当たり前の時代だから説明の必要自体がない」、という部分で共通している。

 第4週までの時点で、このドラマを引っ張っているもっとも太い線は、「はながこのように理不尽なまでに厳しい規則の中で、退学にならずにどうやって切り抜けていくのか」、という点にある、と感じます。 はなが受けるパニッシュ(懲罰)の度は増していき、しまいには全校の清掃、という途方もないレベルに達する(笑)。

 ドラマはこの太い線に第3週の、はなの里帰りを絡めて、社会格差を浮き彫りにし、はなが勉学に励む理由を明確化する。 そして第4週に登場したのが、はなの生涯の友となる、葉山蓮子(仲間由紀恵サン)です。

 彼女はほかの人物と比べて、かなり丹念に素性を明かされている気がします。 ハリセンボンのはるな軍曹が当初はなのご学友だったのに行き遅れで学校にとどまる、という経過を見てきているから、24歳でこの学校に入ってくるというのはとても遅い、特殊なケースであることは見ている側にもすぐ分かる。 特にはなの周囲は16歳ばかりですから、もうはっきり言って 「オバサン」 なんですな。
 ここらへん、見ている側の受け取り方が修和女学校の常識に既に染まってしまっているのは面白い。 現在の常識をもう逸脱しているから。 24歳でオバサン、なわけないでしょう(笑)。

 まあ仲間サンとか吉高サンの実際のトシを考えるとアレなんですが(笑)、ここでアンにとってのダイアナに当たると思われる仲間サンが、「赤毛のアン」 とは正反対にアン(はな)を酔っ払わせてしまう。 この構造も面白い。 それにしても酒癖悪いなこのアンは(笑)。

 で、この期に及んでブラックバーン校長の閻魔ぶりも頂点に達すると思われるのですが(笑)彼女は意外と冷静に推移を見守っている。

 これは、はなが入学当初まったく英語ができなかったのに、美人のスコット先生の、恋人へのラヴレターをまる写しして落第を免れたときと似ている気がする。

 つまり最初から分かっているんですよ、ブラックバーン校長には。 どうしてはながこれほど完璧な英文を書けたのか、はながどうして酔っ払ってしまったのか。

 彼女の 「厳格」 というのは、はるな軍曹やともさか大尉の行なっている厳格とは、性質的に違う。

 どうして厳格でならねばならないのか、それは彼女が、淑女を育てようとしているからなのです。 人間を育てようとしているからなのです。

 軍曹や大尉の厳格というのは、自分が厳しくされたからとか、自分の意にそぐわないから、というレベルでしかない。 これははっきり言って、私情の域を出ていないんですよ。

 目的がしっかりしていないと、いくら校則やなんだで生徒たちに厳しく接しようとしても、その中身は結局空洞化してしまう。
 空洞化している校則なんか、子供たちはバカにして従おうとしませんよ。 そこに隠れている真意というものを、子供たちは見抜く力をもっている。

 でも、人間を育てるためには、教師たちは厳格でなくてはならない。 その構造って、現代では完全に崩壊しているでしょう。 目的意識がきちんとしていないから、崩壊したと思うんですよ。

 蛇足的に感想を述べると、里帰り編で出てきたはなの妹かよ役の黒木華サン。 こっちが 「はな」 じゃんかよというのは置いといて(笑)この子は存在感あるなァ。 蒼井優サンみたいな素朴な清楚感がある。
 じっちゃんの石橋蓮司サンも、要所で泣かせる。 「自分のやりたいことを探しているうちに、こんなに歳をとってしまった」 というのは、オジサンにとっては結構痛い言葉であります。 セリフが少ないのに、そのセリフの重みがすごいんだ。

 「あまちゃん」 は変則的(ある意味ルール違反)な傑作だと思うけれど、「花子とアン」 は 「カーネーション」 以来の、朝ドラの正統派な傑作だ、と感じます。

 それでは皆様ご機嫌よう。 さようなら。

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2014年4月20日 (日)

「ファースト・クラス」 第1回 蹴落とし合いの果てにあるもの

 沢尻エリカサンが8年ぶりに地上波連ドラに主演、という触れ込みの、「ファースト・クラス」。 ファッション雑誌編集部での女のマウンティング、つまり格付けのドロドロとした世界を描きます。
 マウンティングというのはサルの世界で…まあいいか(笑)。 とにかく沢尻サンと言えば 「別に…」 の人(笑)。 あれからかなりバッシングを受けて、業界から干されたような格好ですが、彼女にも生活というものがあってですね…まあいいか(笑)。

 とにかく、沢尻サンが 「なりふり構ってらんないか」 と思ったかどうかは分かりませんが、そのポテンシャルの高さというものがスポイルされるのはもったいない。 やる気があるんなら頑張ってほしいし、どうせでてくるんであれば、きちんとしたものを見せてほしい。
 その点、第1回を見る限りでは、80パーセントくらい彼女の意気込みを感じた気がします。
 テレビ桟敷にいる私なんかからすると、彼女のちょっとした仕草とかに、まだカッコつけてんなというところが見えたりします。 でもそれは意地悪な見方。 彼女がどれだけこちらの心を動かしてくれるかが、問題なのです。

 ドラマを引っ張っていくのは、女性同士の意地の張り合い。 特に第1回では、編集長の板谷由夏サンのコネで入ってきた(しかも板谷サンにはハタ迷惑なコネ)沢尻サンをいじめる最初の敵キャラ(笑)田畑智子サンがエグイ。
 「読モ」、すなわち編集部に登録している読者モデルが、「撮影に来てください」 という呼びかけに対して半分も集まらない、という通常の実態をまずさりげなく示しておいて、この招集作業を新入りの沢尻サンに、わざとさせるわけですよ。
 けれどもその 「いじめ」 の構図というのは、現場にいる人なら容易に分かってしまう類のもの。 田畑サンはなんか契約社員らしくて、そんなこともあって正社員よりも働かされているし、新しい見習いというだけでも、自分のライバルになってしまうわけですから、この 「蹴落とし」 作業というのは一定の理由を伴っています。
 でもこのいじめは、からくりが分かっている人にはバレバレですから、それが彼女自身の評価を結果的に落とすことも考えられる。 ドラマはそこんところをきちんと示しているところに、好感が持てます。

 ただ、その田畑サンのいじめに対して、沢尻サンは結果的に街で呼びかけて読モの穴を埋めてしまうんですね。 これを彼女のスカウト力、と考えていいのか、それとも 「ファースト・クラス」 というこのドラマの舞台である女性誌のネーム・バリューと言っていいのか。 そこらへんの説明がなかったのは惜しいかもしれない。
 これはいかにもイージーだったけれど、田畑サンはたまっていた撮影のストックを最初から使うつもりだった。 このからくりもスタッフにはバレバレで。

 沢尻サンは当然のごとく愕然。 憔悴しながら編集部に戻ってくるのですが、編集長の板谷サンがかけた言葉は、「自分以外はみんな敵。 それが分からなければさっさと辞めてどうぞ」。
 「そんな、一冊の雑誌を作るチームなんじゃないんですか?」 と反駁する沢尻サンですが、ここで彼女の反転攻勢が始まるか…というのが第1回のラスト。

 まあ、多少の誇張は入っているんでしょうけれど、「蹴落とし合い」 というのは女性ですから、男性の世界よりエグイのかもしれません。
 ただ、私が感じるのは、「蹴落とし合いしているうちが華なのではないか」、ということ。
 実際のところ女性誌というのは、最近では何かしらオマケをつけないと売れないような時代。 それでも売り上げというのは電子書籍の登場で先細っていくしかない。
 女性同士が蹴落とし合いをしているというのは、そうした全体的な状況から考えると、実に牧歌的とも言えるのではないか。

 とりあえず沢尻サンの就職先も含め(笑)、このドラマの成り行きは気になるところです。

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「ロング・グッドバイ」 第1回 どこにもない世界

 テレビドラマが、自分の知らない別の世界を案内してくれるものだとすれば、このドラマは 「原作レイモンド・チャンドラーの世界をそのまま見せる」 ということにだけ目的を削ぎ落し、「まるでどこにもない世界」 というものを作り出すことに成功している気がします。
 つまり、レイモンド・チャンドラーのハードボイルドの世界、というものは、もういい加減この世から死滅している、ということにほかならない。 いや、もともとなかったのかもしれない。 少なくとも日本にはそういう世界は、過去にも現在にもおそらく未来にも存在しない。
 番組HPを見たりすると、設定的には1950年代半ばの横浜を舞台としているらしいのですが、これは単なる指標であって、作り手の意識としては、「ただの昔」 で見てもらいたいという意向を感じます。

 この、「どこにもないような世界」 というもの。
 ドラマを受け取る側としては、自らの感性を試される場だと言っていい。
 冒頭から無国籍風であり、かつレトロ的である場面の連続。 役者たちの話しぶりは日本語でありながら、今やだれもしゃべらないようなセリフばかり。 「失敬」 なんて、今じゃ誰も言わないでしょう。 つまり、2014年の現在、急速に古語化している日本語なんですよ。

 どうしてそんなドラマをやろうとしているのか。
 それは真っ先に考えられるのは、やはり 「レイモンド・チャンドラーの世界を再現したい」、ということなのですが、「自分の見てる世界がすべてだと思うな」 という、主人公の探偵、浅野忠信サンのセリフに、その鍵が隠れているような気がする。
 そしてもうひとつ、浅野サンを犯人隠避でしょっ引いた刑事、遠藤憲一サンのセリフ。 「時代ってのは足が遅いんだよ、そいつはまだお前に追いついちゃいねえんだよ」。
 先の浅野サンのセリフで、見る側は 「ああ、いままでの自分のものの感じ方を、このドラマのなかでは取っ払う必要があるんだ」、と気付かされます。
 そしてエンケンサンの後者のセリフ。 これは 「国民は国家の言うとおりにする義務がある」 というエンケンサンの言葉に 「いつの時代の話だよ」 と浅野サンが反応したあとに出てきたセリフです。
 これはドラマ第1回の終盤で出てくる、柄本明サン演じる大物実業家が政界進出の際に行なおうとしたクリーンイメージ戦略のあり方と呼応している。

 つまり、これは遠くて、近い話。

 そして過去のようでいて、近未来のような話。

 そう考えると、このレトロな画面の連続も、映画 「ブレードランナー」 を見せられているような気になってくるから不思議です。

 このドラマの中でだけ話される特殊言語みたいな日本語。

 そして展開していく、近未来の予言のような映像。

 「カーネーション」 を書いた渡辺あやサンが次に仕掛けてきたのは、かなり意欲的な、下手すればドン・キホーテと嗤われるような実験的な作品、と言える気がします。 スゲエな。

 連続5回。 この先、話はどうなっていくんでしょうか。 原作読んだことないんで楽しみです。
 ただ、ハードボイルドに影響されてタバコをくゆらせながらギムレットを飲んでも、自分は浅野サンや綾野サンみたいにカッコよくはならんでしょう(笑)。

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2014年4月17日 (木)

「ビター・ブラッド~最悪で最強の親子刑事~」 第1回 まあ、ノリで見れば…(笑)

 コメントを下さった方のたっての要望で、普段は(ほぼ)絶対見ない刑事ドラマというものを久しぶりに見たのですが。

 申し訳ございません、正直申しまして、「これは罰ゲームか」 みたいな感じで(笑)。

 のっけから新米刑事第1日目の佐藤健クンが 「会社(いや違った警察だ)に遅れるぅぅ~~っ!」 と、自転車で危険運転しまくり(笑)。 そこで彼の 「優し過ぎる」 性格をインサートしていくんですが、妊婦を助けたらその妊婦が産気づいて、成り行きで一緒に救急車に乗せられ、「めぞん一刻」 の五代クンかよみたいな(ハハ…)。

 若い人は 「めぞん一刻」 なんてもう知らんか…(オジサンは、悲しい)。

 その警察署で、佐藤クンは疎遠になった父親、渡辺篤郎サンと再会、いきなりコンビ(最近は、バディとかいうらしい)を組まされる。
 これも昔少年サンデーで連載していた 「おやこ刑事」 を思い起こさせるのですが、若い人は知らんだろうなァ(オジサンは、遠い目をしている…)。

 このふたり、過去にわだかまりがあるのだけれど、そのこだわりからくるぎくしゃく感にさほどの深刻さは認められません。 まあそのケンカの仕方が軽くて、どちらかというと丁々発止でドツキ漫才しているレベルだから。

 渡辺篤郎サンのコメディ、というのを私は初めて見たんですが、こんなこともできるんだな、という感じですか。

 ドラマは単独行動からくる警察捜査への悪影響、といったお勉強を佐藤クンに強いていくわけですが、たまたま銀行強盗事件に巻き込まれて、自ら人質になって…。

 ん~、まあ、いいじゃないですか!(笑) こういうこともたまにはあるさ!(爆)

 で、その銀行強盗なんですが、大勢を人質にして銀行にたてこもり(バカだなァ…笑)。 すごく成功の確率が低いことをやってます(オジサンのコメカミは、ヒクヒクしている…笑)。

 で、30分ごとに人質を殺すとか、むやみに視聴者の憎悪をあおってるし(成功の低いこの手の強盗で殺人をしようとする、輪をかけた愚を犯してます)。

 いや、たまにはいますよ! こういうアホな強盗も!(笑)

 そこで佐藤クンは、「下手に手を出すな」 という父親の切ない親心を無視して遅い反抗期に入り(笑)、「アンタの言うとおりにしてよかったためしなんかない」 と、そこで持ち込むべきではない私情を突然挟みだして(笑)、犯人の拳銃の弾が切れたのを確認してから犯人を取り押さえる(おお~っ、拳銃の弾を数えてたのか、そりゃすごい!)。

 …。 すみませんねオチャラカして。

 このドラマ、とても 「突っ込んでください」 と願っているようだったので(笑)、あえて突っ込ませていただきました。

 拳銃の銃口を頭に押しつけられた子供の精神的外傷とかはいいのかとか、細かいことも言いっこなしです。 ノリで見るドラマだと思うので。

 そしてこの事件の解決を陰から見ている、極悪非道バージョンのミッチー(及川光博サン)。 この親子刑事が疎遠になったきっかけの、何年も前の(年数忘れた)事件の犯人でもあります。
 どういうわけかこの男、執拗に渡辺サンをストーキングしている模様。 アンタもヒマだね(笑)。 ほかにやることないの(笑)。 そのストーキングのリストに、今回佐藤クンも加わった模様(まあ、どうでもいいんだけど、ここがどうでもいいと完全にこのドラマを見続ける意味がなくなってしまう…笑)。

 このドラマの生命線というのは、こうした 「ツッコミどころ満載」 という面白さもさることながら、渡辺篤郎サンが時折見せる、シリアスとコメディの豹変の仕方の小気味よさにもあるのではないか、という気がします(マジメに考察すれば)。

 まあ、いいじゃないですか! たまにはこういうドラマも! 気楽に見ましょうよ!(オジサンは、ラリっている…笑)。

 みんなテレビドラマを、マジメに見過ぎなんだよ!(それはテメーだろ…笑)。

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2014年4月15日 (火)

「極悪がんぼ」 第1回 どうしてそこに飛び込む?

 初恋の人に何年かぶりで会ったら、すっかりケバイもしくはチャラい人に変わってた…。
 今回尾野真千子サン主演のこのドラマで、「恋愛ドラマの王道、月9」 という拘束具を外したフジテレビ。 これって昼の帯番組の老舗 「笑っていいとも」 を終わらせるのと、どこか傾向的に似ている気がする。 つまり劇的で根本的な変化を自らに強いているわけですが、そこにはある種の 「開き直り」 さらには 「自暴自棄」 があるような気がするんですよ。
 初恋の人がそのように変わっていたらたいていは幻滅するのですが、人によっては 「それって面白い」、と思えるかもしれない(なんだこの例え)。
 これって、「極悪がんぼ」 の第1回を見終わって感じた 「どういう感想をもったらいいのか分からない」、という戸惑いと似ている。

 今回の題材というのは、要するに裏社会を舞台に、カネでドロドロの話が延々と続くわけですが、そのえげつなさは 「月9」 とは対極にあるモノ。 性格としては、深夜にやるようなドラマだと言っていい。 毒はけっして抜けはしないのだけれど、ドラマは原作であるマンガになるべく準拠させたがるのか、全体的にマンガチック。 町や人物の名前もマンガチックだし、しゃべる広島弁も実にマンガチック。 広島の人が見たらダメ出ししそうな広島弁つーか(笑)。 でもそれらはリアリティをなくすための手段だ、とも考えられる。

 ドラマの内容が法律に触れるようなことばかりなので、いかんせん主役のオノマチが正義感でやっている痛快な行動も、「果たしてどこまでがいいんだろうか」、と考えると途端に、見ている側にブレーキがかかる。
 だからドラマを見終わったあとも、どこか嚥下不良感が残るのです。

 それでも、このマンガチックさを楽しんでしまう、というのもひとつの方法ではある。
 竹内力サンなんかはもうそもそもがヤーサンよりヤーサンぽいし(ハハ)。
 たぶんみんな、原作のコスプレをやってるんだろうけど(笑)。
 三浦友和サンなんかは金髪にしちゃって、ドスの利いた経済ヤクザ、事件屋をやってます。

 ここでオッサンの昔話に突入いたしますが(笑)、三浦友和サンがヤクザをやったいちばん最初というのは、私の記憶が確かならば(周富徳サンのご冥福をお祈りします)山口百恵チャンとの映画 「泥だらけの純情」 だったと思います。
 それまでサワヤカーな青年役ばかりだった友和サンの、初めての汚れ役。 その当時はまっすぐな青年がどこかでねじくれてしまっていきがっている、という表面的なヤクザだった気がしますが、年月は友和サンを、貫録のあるヤクザもできる役者へと押し上げたようであります。 そこには汚れ役への戸惑いというものはなく、ただ役を楽しんでいるひとりの役者がいる。

 「カーネ」 信者にはオノマチと小林薫サンとの再共演、という要素も魅力ですが、今回のオノマチサンは原作では男なのを女に設定変換したうえでの登場。 しかも 「薫」 という役名をいただいています(いただいてんのかどうかは知らんけど)。

 その彼女と第1話でともに窮地に立たされるのが、「純と愛」 の純こと夏菜サン。 要するに友和サンは朝ドラの主役ふたりを蹂躙したことになる(笑)。 残念なのは夏菜サンが第1回だけの出演ぽいこと。 キャバクラ嬢にでもなってもっと楽しませてほしかった(エロジジイ)。 にしても最後はアレだったけど、夏菜サンもなかなか幸せになれないよな(現実と混同しとる)。 オジサンは純には幸せになってほしいんだ。 朝ドラがあんなだったから。

 原作では主人公の友人なのに、主人公が女になってしまったことから、カレシにならざるを得なくなったのが三浦翔平クン。 コイツがすべての元凶なのですが、コイツの作ったポテトサラダだけはやたらうまい、らしい(笑)。
 コイツが行方をくらましたあとでなんか友和サン関係のスナックで働くことになるんですが、どうもここらへんの成り行きがわざとなのかなにも考えてなくて三浦翔平クンを(友和サンの息子…じゃないよね…笑)出したいがためにそのスナックで働かせるのかが分からない。 どうしてよりによってこのスナックなのかな。 スナックのママは仲里依紗チャン。 どうも情報屋らしいけど、ネットで検索程度の情報屋じゃないの?みたいな(笑)中途半端なものも感じる。

 で、話はその、友和サンたちの経済ヤクザにオノマチが次第に巻き込まれていく、という展開をとっていくわけだけれど、こういう人たちのやりくちというのは、まず難しそうなことをまくし立てて話をなあなあのうちに取りまとめてしまおう、というケースが多い。 つまり話にブラックボックス的な部分を潜ませながら相手を騙していくわけですが、いわゆる広義での 「振り込め詐欺」 もこれに当たる。

 果たしてオノマチはそこをちゃんと理解しながら、彼らに巻き込まれているのか?

 そこがどうもモヤモヤする。

 翻って考えると、果たしてフジテレビは、このような法律に触れそうな問題ある題材を、きちんと理解しながら、月9の身をもち崩させているのだろうか? そこを承知で初恋の人をケバイ女性に仕立てようとしているのか?(例えが分からん)。

 オノマチはこの、友和サンたちの輪(小清水経営コンサルタント)の中に、違法行為上等で飛び込もうとしている。 毒は、毒でもって制することが出来るのか?

 私の興味はドラマの面白さやマンガチックさとは別に、そこにあるような感じです。

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2014年4月13日 (日)

「銀二貫」 第1回 「はい」 じゃねーだろ、「へえ」 だろ

 どうも当たりハズレの大きいNHKの木曜時代劇枠。 今回の話は大坂の商家が舞台。 大旦那の津川雅彦サンが、仇討の場面に遭遇、みなしごとなった武士の子を丁稚として育てます。

 第1回ではこの子が大きくなったところと、子供のころの場面が入れ替わり立ち替わりで展開しますが、大きくなったこの子の役が林遣都クン。 個人的にはお初の役者さんです。
 この男の子がですね、丁稚になってからずいぶん経とうというのに未だに返事がまともにできない(題名参照…笑)。 もともと父親が目の前でイトシに…じゃない、風間俊介クンに仇討されて津川サンにもらわれた年が10歳だったから、10歳まで武士の子として育てられたとはいえ、いい加減に返事くらいまともにできるようになれってゆーか(笑)。

 これはこの子が未だに武士としての意識を捨てられないことの端的な表れではある、と思うのですが、それにしたって返事くらいは出来るやろ、と申しますか(笑)。

 どうも見ていてそこが気になったのですが、もうひとつ気になるのが、ナレーションが犬(正確には狛犬)である、という点(笑)。

 この犬(正確には狛犬)をぐっさん、山口智充サンがやってるんですが、これ、見てるとそんなにオチャラケた話でもない気がするんですけどね(笑)。 どうも方向性が分からなくなる(笑)。 犬がしゃべる、とかソフトバンクじゃあるまいし、つーか(だから正確には狛犬)。

 それから気になったのは、この子の父親(石黒賢サン)がイトシに斬られて(だからイトシじゃないっての)今わの際にこの子に残した言葉が、「お前は生きよ」。

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」 というこの時代の価値観に逆行するようなこの言葉の意味って何なんだろう? というのが、また気になって。

 そもそも、イトシの仇討の際にこの子ももろとも斬られようとしていたのを、大旦那の津川サンが天神様に寄進する大事な銀二貫を差し出してなんとか放免してもらおうとし、イトシが 「この仇討売った!」 家康が 「買った!」 ってのはいいの?、とか(家康じゃないっての…笑)。

 これを、イトシが仇討よりも大事な生活があるとか、そこらへんの事情にまで切り込んでいかないから、見ていてどうもモヤモヤが残っていく展開であり。 まあ今後に語られるんだろうけど。

 第1回最後に出てきたのが、芦田愛菜チャン。 どうもこの子の演技も、見ていて気になる(笑)。 別に文句があるわけじゃないけど(笑)。 ドラマを自分が食ってやろうという野心が強過ぎる気がするんですよ。

 つまり、ドラマに集中させない要素が、多過ぎるということになりましょうか。

 この子が丁稚として働く寒天問屋の仕事の内容であるとか、この子の少年時代の武士と商人との間で揺れる葛藤とか、大坂商人の天神信仰であるとか、真摯に語られて興味深い部分が多いだけに、ここに見る側の意識が集中できないような作りは、ちょっと残念かもしれない。

 どうしましょうかね、全9回。

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「サイレント・プア」 第1回 ふわ~っと登場、ふわ~っと解決

 冒頭から失礼なことを申しますが、深田恭子チャン(深キョン)ももう31歳。 なんか前世紀から見ている印象があります(笑)。 でもずいぶんキャリアが長いというのに、なんかあんまりこの人は 「演技」 を感じさせることがない女優です。 いつもどこか、「ふわ~っと」 役を演じてしまう。
 これを意地悪なモノの見方で見れば、「ちっとも演技がうまくない」、ということになるのですが、妙な存在感がある。 「この子はいったい何を考えているんだろう」 と見る側に思わせてしまう妙な存在感です。
 大河ドラマ 「平清盛」 での平時子役のときが、この人のいちばん 「演技している」 姿だったように思うのですが、それでもやはりその存在感はどことなく頼りなげで、ふわ~っとした空気感のなかで、平家の行く末を共にした意思の強い人物を演じていた気がします。

 そんな深キョンが今回のNHKドラマ10では、コミュニティソーシャルワーカーという地域の福祉の仕事に就くことになって、自らも過去に何らかの傷を負いながらも、社会的弱者と呼ばれる人たちのケアをする。
 こういうシチュエーションであればやはりその人には、ある程度の強い意志とか、人助けをすることに対する思い入れとか、あってしかるべきなんですが、深キョンはどんな時でも深キョンでして(笑)。 ある意味木村拓哉クンがどんな役を演じても 「キムタク」 だ、というのと性格が似ている気がする。
 それはよく言えば 「自分というキャラクターを貫いている」、ということになるのでしょうが。

 で、冒頭から、深キョンは呼びかけても応答がないジイサマ(大地康雄サン)の部屋に屋根伝いで侵入しようと大立ち回りをするのですが、やっぱりなんか、なんの苦もなくやっちゃってる感じ(笑)。 大変さが伝わってこない、というか(笑)。

 その第1回目のケア対象者は、いわゆる 「ゴミ屋敷」 に住んでいる老夫人。
 このご夫人を香川京子サンが演じているわけですが、こちらもちょっと私の考えるリアルからは遠い、というか。 まだ倍賞美津子サンあたりが演じているとリアルなんですが(失礼)。 確か倍賞サン、同じドラマ10の 「八日目の蝉」 かなんかでゴミ屋敷に住んでたよな(違うかな)。 「TAKE5俺たちは愛を盗めるか」 でもホームレスとかやってたし。 なんか汚れてる役が多いような(重ねて失礼)。

 そんなことは置いといて(笑)、この香川京子サン、ゴミ屋敷から出ると結構品のいい老婦人になってて、ファストフード店でフツーに店員と気さくに話してたりする。
 私が考える 「ゴミ屋敷に住んでる人」 って、なんかどこか社会に背を向けてて、昼間はいるかいないか分かんないけど夜になると活動しはじめて、って感じなんだけど。

 で結局、このご婦人がゴミをためている原因、というのが、家を出てったきり戻らない息子のいないさみしさを埋めるためのものである、というのがこのドラマの説明だったと思うのですが、どうもその理由もなんとなく茫洋としていてよく分からない。 こうだから→こうなった、という必然性に欠けている気がする。

 でも、ドラマはこのゴミ屋敷の庭にあった栗の木を中心として、深キョンと香川サンの共通の思いを抱き込むような形で、なんとなくふわ~っと解決してしまう。

 なんか特別なことをやってるわけでもない、どこかに見ているものを揺さぶるようなものがあるわけでもないのに、ただ過去への思いだけがじわじわと見ている者を包んでいく。

 それが深田恭子チャンの持つ、なんとなくふわ~っとした雰囲気と合致しているんですよ。

 わきを固めるのが、福祉課の課長の北村有起哉サン。 深キョンの祖父役で米倉斉加年サン。 ここらへんの存在感で深キョンの頼りなさを埋めようとしている気もいたしますが、でも 「演技派」 であるこのお二人の印象も、「今回は深キョンの不確定な存在感に寄り添おう」 というスタンスで演技していらっしゃるように見受けられます。

 まあ、なんか見逃がしてもさほど苦にはならない作りだと感じますが、深キョンが抱える過去の傷というものが、そのふわ~っとした演技にどのような影響を及ぼしていくのか、というものは興味深い気がします。

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2014年4月 9日 (水)

「ブラック・プレジデント」 第1回 フジテレビ(関西テレビ)のプレゼンの方法こそ、考えたらどうだろう?

 ブラック企業の社長が、経営学をもう一度学ぼうと思って、社会人枠を使ってもう一度大学に入学――。
 ほかに惹起の言葉が見当たらないとはいえ、もうちょっとテレビ局も視聴者を呼び込む方法、つまり視聴者へのプレゼンの方法を考えたらいいんじゃないのかな?というのが、第1回を見終わった感想。
 つまり、最初のうちはすごく見くびって見てたんですけど、話が進行するにつれて、どんどん引き込まれていく感じだったんですよ。 このドラマは面白い。 もっと上手に番宣したらいいのに。 先週 「さんまのまんま」 で主人公の沢村一樹サンが出てたくらいだったな、私の視聴範囲では。 まあ制作が関テレだから、関西のバラエティに出るのは王道なんでしょうけど。

 私がこのドラマを見ようと思ったのは、別に大した意味はありません。 とりあえず刑事モノ事件モノ以外の新ドラマは全部チェックする習慣なんで。 今日も、録画していた分で同時間帯でやっているNHKの 「サイレント・プア」 のほうをきちんと見ようとして、まあその前にちょっと見とくか、みたいな感覚。

 で、
 最初のうちの反応。

 「ん~つまり、この人はブラック企業の社長ということになるのか…○タミの社長とかそーゆー話題を採り上げてんのか、お手軽でフジテレビらしいや…沢村サンはお調子者のエロ男爵…これも他局の人気キャラの流用…お手軽すぎるぞ…右腕が永井大…ちょっとミスキャストなんじゃないか?…役名が 『明智』 とか、『コイツ裏切る』 のフラグがもう立ってんじゃん(笑)…秘書は国仲涼子チャン…こないだまで 『ちゅらさん』 の再放送見てたんだけど、やっぱこの子は天真爛漫な役がいいわ…で、相手役は黒木メイサ…ああなんか、いかにもって感じだな…で、壇蜜がまたこれが、話題作りっぽいんだよな…」。

 つまりなんだか、つかみの段階でかなり、テレビ局のスケベ心がスケスケに見えちゃってるんですよ。 ブラック企業の社長が大学生たちと触れ合って何か化学反応が起きる。 ドラマとしてはそんな社会性を目的としているんだろうけど、その化学反応の様が容易に想像できてしまう。

 でも、私が最初にこのドラマに引き込まれたのは、このドラマの中で沢村サンが演じる 「ブラック企業の社長」 が、テレビ局の思惑とは裏腹に、ちっともブラックになっていないところを見たからでした。 それは私が曲がりなりにも経営者の崖っぷちにいるからで(笑)、この沢村社長の抱えるロジックというのは、会社を利益主体の生き物として考えた場合、至極当然のことばかりなんですよ。 あえて 「この社長はブラックでよろしく」 というテレビ局の思惑を反映させた形として、脚本家はこの社長に 「社員はポールペンと同じだ」、つまり使い捨てだと悪びれさせているようにも見える。 おそらくその 「ゆき過ぎた部分」 が、これからこの社長が経験していく大学生活の中で、修正されていくのだろう。

 まあ社長の立場からモノを言えば、社員というのは、やはりひとりひとりが主体性をもって行動しなければならない、と思うんですよ。 目的意識がなく、「やらされている感覚」 で仕事をしている社員は、まあ私に言わせれば不要、というか(なかなかそう切り出せないのが社長のつらいところというかダメなところというか)。

 たとえば沢村社長が、抜き打ちで支店を視察にやってきてあれこれと指示を出し、そこの従業員たちは 「社長は思いつきでいろいろ指示を出すけど、それをやるのは大変でサービス残業は増える一方、やってらんねーんだよ」 という意識で社長の指示に従っている。 そのうちその従業員たちは社長を不当労働で告発する。

 でもこれって、店内の模様替えでも何とか工夫すればあっという間に終わることだってあるかもしれないし、その効率を考え出すのも社員の主体性の一環なのではないか。 そもそも何が売れ筋でどうすれば売れるか、と頭を常に回転させていれば、沢村社長にダメ出しされることもない。 そんなところに仕事の喜びというものも生まれてくるだろうし、会社という生き物が活性化するカギというものがある。
 これを 「やらされている感覚」 で社長のきまぐれとか、いま流行りの 「ブラック」 という括りで断罪しようとすると、自分が会社の一員として役に立っていないことを、自ら正当化する口実になってしまう。

 そんな沢村社長から見ると、大学生というのはまあなんともお気楽な存在にしか見えてこない。

 彼らは彼らなりに、自分の夢と現実とのギャップと戦っているとか、なにかと大変なのかもしれない。
 でもそれって、社会に出てみると、わりとちっぽけでどうでもいいことだったりします。
 でもその一方では、やはり社会に出てみると、なんだかなるようになっちゃったりする。 成り行きで流されても、なんとか生きていけるんですよ。 確か沢村社長のセリフに、そんなのがあった気がする。
 社会で生きていくために戦ったことがある人から見れば、大学生あたりの悩みというのはとても稚拙に思えたりします。 誤解があっては困りますが。 なんとか生きていくぞ、という気迫がないから、なんか悩んじゃったりするんだよな、みたいな。 会社に入るのだって、それが目的じゃないんですよ。 手段のひとつなんですよ、仕事というのは。 だからマニュアルで、面接でこうしゃべれば好感度アップなんてよくやってるけど、小手先でどうにかなる問題じゃ、けっしてない。 要はやる気があるかどうかだ。 その会社に入るやる気、じゃないですよ(笑)。 自分は主体的に、どういう仕事をしたいのか、その目的がはっきりと見えている人が、やっぱり会社にとっても必要な人材となるのであって(まあその方向性が合致しなければ会社は採用なんかいたしませんが)。
 それとやはり、挫けない人ですよね。 難しい状況でもなんとかしようという気力が最後までありそうな人。

 この第1回目、沢村社長が大学で入った映画制作のサークルで、上映会をするのに15万が必要になる、というエピソードがありました。 かたや沢村社長は、15億の出資で頭を痛めている。 15万なんか 「はした金」 で、ポンと出しちゃったりするんですが、サークルの連中はそれをよしとしない。 「もらいやすいところから金を工面するのはなんか違う」、みたいな感覚。
 これって要するにカッコツケ、ということ。

 ここで沢村社長がサークルの仲間たちに説教をくらわすんですが、これが実に、観念的に堕すことのない生きた理論で。 「金を工面したければ、どんな手段を使ってでも工面しよう、と思え」、みたいな。 DHCの社長に借りるのもいいでしょう(爆)。

 それはそれとして(笑)つまり、「がむしゃらになってやらなければ自分たちのやりたいことなんか、出来はしない」、というスタンスなんですよ。

 そのためには、自分たちの作っているものに一生懸命に打ち込み、多くの人に見せたい、という自信と誇りに満ちているか。 そこが原点になるのだ、と。

 そして組織で動いている以上、ひとつのチームなのですから、互いに助け合い切磋琢磨し合って目的を遂行させていこうという気があるかどうか。

 でも、説教の途中で沢村社長は、口をつぐんでしまうのです。

 「こんな連中になにを言ったってしょうがない。 言ったってしょうがない連中になに言ったってムダ」。

 確かにこの映画サークルは、自分たちが作っている映画に対していい加減な姿勢だし、互いの理想の低さを慰め合って大した傷でもない傷をなめ合っているなあなあの組織だ。

 でも、果たしてそうなのか。

 彼らのやる気というのは、いまはただ単に眠っているだけかもしれない。

 沢村社長のほうこそ、「ゆとり」 という括りで、彼らの可能性に期待せず、芽を摘み取っているのかもしれない。

 ここらへん、回を追うごとに沢村社長とこのサークルの仲間たちが、どのように変わっていくのか。 そこらへんの化学変化が、まあありがちと言えばありがちなんだけれど。

 と、勝手に先読みしてドラマの芽を摘んでるのは、私のほうなのかもしれないし(笑)。

 で、その化学変化の中で、おそらく永井サン演じる明智は反旗を翻すんだろうし(笑)、黒木メイサチャンは沢村社長に惹かれていくんだろうし(笑)。
 いや、裏切るのは 「小早川」 かもしれん(笑)。 沢村社長の古くからの友達で、ただ会議のときに1票が入る要員として雇っているだけの男がいるんですよ、小早川っていう(笑)。

 この、黒木メイサチャンが大学の経営学の新米教師で、経営学を教えているクセにまったく金儲けとしての経営のロジックが欠落している、という設定も、ただきれいどころを講師に据えた、ということになっていないのがいい。
 メイサチャンは15万問題の時も、サークルの学生たちと同じ意見。 これを沢村社長は、「アンタも学生たちと同じ、狭い大学という枠の中で生きているだけで世間知らずだからそう考えるのだ」 とバッサリ切り捨てるのですが、ここらへんの切り口は実に見ていて素晴らしかったと感じます。 「大学という狭い世界」…「理化学研究所という狭い世界」…似ている…(笑)。

 で、メイサチャンも出世のために自分のカラダを使うのかどうか、という局面に立たされるわけですが(笑)、なにがなんでものし上がっていく、というギラギラした人なら、自分のフェロモンを有効活用するでしょうね(セクハラ御免)。

 「なんとなく生きてるんじゃねーよ、しょうがないで生きてるんじゃねーよ」「会社が自分になにをしてくれるかじゃない、自分が会社をどうしたいのかだ」 、という作り手の声が聞こえたようなこのドラマ。 エンディングタイトルで尾崎将也サンだったことが判明(遅えよ…笑)。

 尾崎サンも 「結婚できない男」 とか阿部寛サンとの一連の作品で私のお気に入りの脚本家さんだったけれど、「梅ちゃん先生」 で完全にミソがついた形だったからなー。 今回のはかなりよく出来てますよ!

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2014年4月 6日 (日)

「花子とアン」 第1週 かなりしっかりとした話

 第1回を見た限りでは、「『赤毛のアン』 のエピソードを絡めた、牧歌的な話なのかな」、という感想を持った今回の朝ドラ。 山梨の方言丸出しのセリフ回しがとても別世界に思えて楽しかった。
 しかし物語は第2回から、「地主と小作人」 という当時の農業の構造を堅実にまとめて見せ、しかも三島…じゃなかった、エート主人安東はな(山田望叶チャン)の父親である伊原剛志サンが、ただノーテンキな人物ではないところをさらっと描写する。 1回目で花子が石板叩き割り攻撃をした相手の男の子、朝市(里村洋クン)とのわだかまりも急速に修復する、という、展開のもたつきを極力排した話の運びもする。 前回の朝ドラと比較するのもナンですが、脚本力の違いを格段に見せつけているように感じます。 見ていて1回の15分がすごく短い。 美輪明宏サンの 「ごきげんよう、さようなら」 が出るとエッ、もう終わり?みたいな感じで毎回終わる。

 これは画面から滲み出る情報量がかなり多いことに由来する気がします。
 第1週を見ている限り感じたのは、1900年、明治後期の山梨県甲府の空気感を醸し出すことに、比較的成功しているのではないか、ということ。
 甲府、というと、東京からさほど離れていない印象があるけれど、当時の交通の便はどうだったのかな。 結構悪かったのではないか、という気がします。 旧甲州街道って笹子峠とか起伏があるし。
 そんななかで甲府と東京を行ったり来たりしている三島…じゃない(どうも 「はつ恋」 が抜けんなァ)伊原サン演じる行商人。 「肝心な時に婿殿はいたためしがない」 と、じっさまの石橋蓮司サンにチクリとやられるけれど、それにはきちんとした理由が存在している。 それをドラマはいちいち説明するわけでもないのですが、母親の室井滋サンとの馴れ初めのシーンで三島…(しつこい)伊原サンが行き倒れてたりと、ちゃんとプロットの上で 「東京-甲府間の行商のきつさ」 が表現されている。 両親の馴れ初めのエピソードが事実なのかフィクションなのかは分からないけれど、両親の描写もいい加減だった前作の朝ドラと比べると、もうなんつーか、第1週でリキが入ってるのかもしれないけれど、話の構造がゴシック建築みたいに感じる。 これってやはり、事実に基づいた原作がある強みなのかもしれません。 完全フィクションでここまでやるには、もう最初から膨大な量の設定資料を作る必要性がある、と思うのですが、前回の朝ドラは全くそのへんの深みはなかった(なんかすごくけなしてますね、前回のヤツ)。

 まあ深みがないほうが視聴率はいいんですどね、朝ドラの傾向としては(スゲー嫌味ぬかしとるぞ…笑)(「梅ちゃん先生」「ごちそうさん」 ファンのかた、ゴメンナサイ)(って 「梅ちゃん」 も入るんかい)。

 だからというわけではないが、今回は視聴率悪そうな気がする(ハハハ…)。

 翻れば、かなりの傑作に入る予感がするんですけど。

 少女時代の山田望叶チャンの演技から安東はなの性格が滲み出まくりだったことはここからも自明ですが、本がすごく好きな性格を、第6回目(土曜日放送分)で母親のDNAを受け継いだ形にまで昇華させています。 母親が三島(…)から聞いたいろんな場所の話にときめいたのと、自分が本を読んでいろんな場所を想像し、胸を苦しくさせるのとはおんなじだ、という話ですね。
 ここでははなが、両親の馴れ初めを立ち聞きしていたからそういう話になったんですけど、近所のおばちゃん(松本明子サン)から、はなにしっかり 「ボコ(子供)のきく話じゃねえ」 と釘をささせるのも忘れない。 ここらへんのなにげないセリフの周到さ。 「両親が出会った話くらいいーじゃん」、という現代の視点では、けっして出てこないセリフだと言っていい。

 この安東はな。
 「貧乏な小作人の娘」 という時点で一家に欠かせない労働力の一員であることを初回から見せまくっていましたが、地主のカンニング竹山(敬称略…笑)が年貢増税したので(あーもう、テメーラの都合で増税とか、現代も地主と小作人の関係そのままじゃねーか、国と国民って)自分から 「奉公に出る」 と勝手に決めて、カンニング竹山に頼み込んで話をまとめてしまう。

 ここらへん、並のドラマならば 「健気」 というレベルで語られるんでしょうが、このドラマはけっしてそんな視点ではなを描いていない。 「一家が困窮しているから、奉公に出るのは当然だ」 という、明治に生きる少女の視点で描かれているんですよ。
 これが大人たちにとっては、「子供の浅はかさ」 というレベルで捉えられている。 「奉公に出るったって、そんな生易しいものじゃないんだ、しかもお前ひとりがいなくなったらこちらの労働力もひとり減る」、という観点なんですよ。

 三島…が(三島かよ)勉強もできない長男に対してロクでもないと考えるのと、長女のはなに対してかける期待の過大さ、という 「ひいき」 の仕方に対しても、このドラマはきちんとその展開を考えている。 はながカンニング竹山に依頼した奉公の仕事は男の子ではないと務まらないという話になったときに、長男の吉太郎が 「おらが行く」 と言い出すのも、父親から自分はよく思われていない、という負い目があったからの話になっていて。
 伊原サンは伊原サンで、行商でいろんな土地の情報を見てきているから、明治の自由民権運動なんかも直に接している。 自分の子供に学をつけさせよう、という気持ちが強いのは、ここから発生している、という因果関係もしっかり描写しているし。

 で、寡黙ではあるけれどじっさまの石橋蓮司サンの存在もかなりリアルだし、その娘である室井滋サンの描きかたも、かなり深い。

 もともと貧乏な小作人のひとり娘(ほかの子供が病死したとかもあり得るか)みたいだから、ムコ殿をとるというのは当然考えられるのですが、学もないからそんなに頭のいい女性としては描かれてない。
 でも、凡庸ではあるけれど、やはりちゃんとした母親なんですね。 はなが無断で教会に入って本を読んで、共犯者の(笑)朝市を置いて逃げて帰ってきてしまった、と懺悔しても、室井サンははなをむげに叱らない。 はなが持ち込んだ奉公人騒動も、ただオロオロしながら自らの存在を悲しみ、それを受け入れていく。 「雨ニモ負ケズ」 に出てくる賢治の、ひいては当時の農民の姿と、重なるんですよ。
 そんな母親が、長男の奉公あけを機会に、はなを女学院に行かせてくりょう、とじっさまの石橋サンに頼み込む。 その場にいた父親も、一緒になって土下座する。 憤然としてその場を立ち去るじっさま。 ピシャリと締まる木戸の音。 土下座したままの両親。
 憮然としているじっさまのもとにはながやってきて、自分はじっちゃんと一緒にいるという約束を破らない、と話すのですが、石橋サンは 「オマエの母親は頑固で言い出したら聞かない、まるで富士山のようだ、名前が 『ふじ』 だけえな」 と話す。

 ここらへんの、シリアスとユーモアが渾然としているドラマの佇まい。 「おしん」 みたいにダバダバ泣かせるのかと思うと、「泣いてばかりじゃ人間生きられない、どこかで悲しみを受け入れ、ユーモアでスルーしないと」 という、人間の生業のリアルさを肌で感じるんですよ。

 そしてドラマとしての仕掛けがあったように感じるのは、「はなはいつになったら、ちゃんと『花子』 と呼んでもらえるのか?」 ということ(笑)。
 この第1週ではなは、もうことあるごとに 「自分のことは花子と呼んでくりょう」 と言い続けるのですが、私が見た限り、誰~もはなを 「花子」 と呼んでない(笑)。 そりゃもう、ムキになってるのかというくらい、誰も花子って呼ばないんですよ(笑)。 友達もじっちゃんも両親も(笑)。 なんか次週の予告を見る限り、吉高サンになってからも 「花子」 とは呼ばれていない模様(笑)。 もしかすると花子の生涯の友、仲間由紀恵サンが初めてはなを花子と呼ぶような、そんな予感がする(あくまで予感)。

 第1週では、かなりよく出来たドラマだ、という印象を持ったのですが、その吉高サンにバトンタッチしてからはどうなっていくのか。 そこらへんに注目、といったところです。

 …。

 三島じゃねーぞハシモト! 安東吉平だ!

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2014年4月 5日 (土)

蟹江敬三サン、さようなら

 誰かが亡くなると、ウィキペディアを見てその人の出演作などをチェックするのが常なんですが、この人の場合ウィキも結構完全ではないことを実感します。 なんか、こんなもんじゃないだろう、というか。
 で、自分のブログをチェックしてみたんですが、「官僚たちの夏」 の第1回に出ていますね。 ウィキに載ってない。
 それどころか、この人は絶えず、どこかのドラマで目にしていたような感覚がある。 ポルノ男優もやってたし初期のころは悪役を多数こなしていた人だったせいか、なんかこう、ドラマに出てくると、どこかでギラギラしていて、物語に取り入ってやろうという貪欲さみたいなものを感じていました。 だからこの人が出ていると、なんとなくその存在が、気になる。

 その、「出ているとなんとなく気になる」、という端役の見本みたいな役者さんが、近年一気に存在感を増してきたように思えたのは、「ガイアの夜明け」 のナレーションやったときからなのかな。 「この人のナレーション結構いけるじゃん」、と思った覚えがあります。 まあ 「ガイアの夜明け」 はそんなに見ていたほうではなかったので、その存在感を決定づけたのは、個人的には 「龍馬伝」(2010年)ということになる。

 「龍馬伝」 では龍馬とダブル主役級だった、岩崎弥太郎。 その父親をこの人が演じていたんですが、弥太郎役の香川照之サンのあまりにも、あまりにもな演技(なんだソレ)に対抗しようとしたせいか、ここでのこの人は、私が見たなかではいちばんエキセントリックだった。
 なにしろ初回からどんだけ埃をかぶっていたんだというくらいの汚さで(笑)、息子と一緒に鳥かご売りをしていたんだけどそんな汚ねェ鳥かご誰が買うんだというくらい汚くて(笑)、しかも飲んだくれで博打打ちで、弥太郎のなけなしのヘソクリをあざとく見つけてぜーんぶ遣っちゃうし(弥太郎のだったかな、オフクロサンのだったかな)。
 弥太郎はついにブチ切れて(既に出だしからキレてたけど…笑)オヤジ殿を追い詰めると、オヤジはたまらず、「プゥ~~~っ」 と…(笑)。 そのときの、なんとも言えない弥太郎の絶望感。 すごいなァ…と思いました、つくづく。 ここまで掃き溜めに徹するか、みたいな。

 でもいちおうフォローしとくと(笑)弥太郎に対して愛情が人一倍あったんですけどね。 そっちの演技もかなりエキセントリックが入ってた。

 その弥太郎の父親役のインパクトが醒めやらぬなか、去年(2013年)の 「あまちゃん」 では夏ばっぱのダンナ、つまり天野アキのじっちゃん役で登場。 遺影が仏壇に飾られていたのでてっきりアキが(春子もだったかな)死んだものだとばかり思っていたら、いきなり帰ってきて(笑)。 「海の男だからいったん漁に出たら死んだものだと思っている」、と平然と語る夏ばっぱ(笑)。 最初の数日だけラブラブで、数日たつと盛大なケンカが始まる、という 「おもろい夫婦」 でした。 アキにもなんか含蓄のあることを言った気がするけれど、忘れた(笑)。

 とにかくこの近年の大河と朝ドラの印象的な役で、ますますこの人の脇役としての重要度が増してきたな、存在感がすごくなってきたな、と思っていたのに。

 蟹江敬三サン、楽しませていただきました。 お疲れさまでした。

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2014年4月 3日 (木)

「キルラキル」 服を着るのか、服に着られているのか

 去年(2013年)10月から今年(2014年)3月までTBS系の深夜に放送されたアニメ、「キルラキル」。 「ど根性ガエル」 などの東京ムービー系の、懐かしい線の太い昔風の作画や、初回からトップギアで疾走しまくるそのテンションの高さに惹かれて、最後まで視聴を続けた。

 話としては、主人公の女子高生・纏流子(まといりゅうこ)が、殺された父親の手がかりを得て、そのかたきを討つために、全国制覇を目論む本能寺学園に乗り込む、というのが冒頭の展開。
 本能寺学園は、生徒会長の鬼龍院皐月(きりゅういんさつき)によって統一支配されているのだが、街ぐるみで巨大なヒエラルキーが形成されているのがいかにも不穏だ。 その階級闘争の道具として使われているのが、それを着ると普通の人間が超人になってしまうという、「極制服(ごくせいふく)」。
 この極制服に使用されている特殊繊維(生命戦維)の真の目的をめぐって物語はうねっていくのだが、とにかくその発端から、テンションが異様に高い(笑)。 「第1回からこんなにテンションが高くて、果たして最後までもつのか?」 という興味で視聴を続けた、と言ってもいい(笑)。

 制作は 「エヴァンゲリオン」 のガイナックスから独立したTRIGGER。 ただ絵の動かしかた、つまり動画に関してはガイナックスぽくなく、かなりラフな印象を受ける。 それでもそこには 「絵を動かすことの楽しさ」 を重視している姿勢が垣間見られ、一種の 「アニメ制作マニュアル」 というレールに則っている、昨今のアニメによく見られる、技巧に頼った 「妙に手慣れた余裕」、というものは感じられない。 こんなアナログ的な触感にも好感を持った。

 このラフな動画がもたらす奇妙なテンションの高さはそのまま、「制作スタッフが崖っぷちで仕事をしている」 という切迫感を、見る者に強いてくる。 こういう緊張感というのがいいんだよな~。
 最近のアニメは、あまりにも産業システム化されすぎて、こうした手作業的な 「人間臭さ」 というものが置き去りにされているように思えてならない。 この作品は、レトロな触感も相俟って、昨今の出来すぎたアニメに辟易している、アナログ世代のオッサンの琴線に引っかかる要素が多いのだ(ネットでは 「オッサンホイホイ」 の異名も見られた…笑)。

 この作品のレトロの根底には、旧世代のアニメ(そしてアニメーター)、とりわけ 「熱血」「スポーツ根性すなわちスポ根」 という、1970年代に流行ったコンテンツへの強烈な尊敬の念がある。
 主人公の纏流子は、簡単に言って 「アバズレ」(死語…笑)。 舞台は学園。 説明のスーパーはすべてぶっといフォント。 登場人物は全員ムダに熱く(笑)大声で自分の主張をぶつけ合う。
 このアニメの高揚感というのは、ぶっといフォントで登場人物たちが装備とか技とかを大声で宣言する、歌舞伎の見得の世界に相通じているものがある気がする。

 しかし、そこで声高に語られる 「熱血」 はただ単純な 「熱血」 ではない。 「熱血?ダセー」 という冷ややかな目で見られた時代も経た、一歩下がった冷静なスタンスが含まれているのだ。 言ってみれば、「熱血マンガ家」 の島本和彦サンが熱血根性もののブームが下火になって以降ダセーと言われるのを承知で描き続けたコンセプトに近い 「熱血」、と言えようか。

 さらに言えば、このアニメのタイトル 「キルラキル」 が物語るように、そこにはいったん海外に輸出され、タランティーノ監督などから 「クールジャパン」 と捉えられ逆輸入された映画、「キルビル」 の影響も見られる。
 いわば、このアニメはこうしたリスペクトやオマージュ、とカウンターカルチャーの応酬というごった煮状態の中から生み出された、2013年のアニメーション制作者たちの回答、とでも呼べる位置に属している、そんな気がする(あー解説の仕方がナマイキだぞ)。

 そんななかでこのアニメは前述したように第1回目からスーパーハイテンションで展開し、その勢いはまあほぼだいたい(笑)25回の最終回まで落ちることはなかった。 見るほうもテンションあがりまくりだったけれど、作ってるほうもさぞや大変だっただろう。 最終回は放送日の当日にテレビ局に納入されたらしい(マジかよ…笑)。

 けれども、こういうテンションの高い状態というのはすぐに受け手に飽きられるのが常なので、話は常に登場人物たちを無暗やたらにパワーアップさせていく必要性が生じてくる。
 このアニメはそこんところのイベントも過去の膨大なコンテンツから掻き集め、考えつく限りのことをやり尽くした、という印象がある。 仲間や主人公が暗黒面に陥る、とか、持ってる装備が強力化していく、とか、四天王が出てくる、とか(笑)、親子関係がシビアだ、とか(笑)、大阪みたいな別の文化圏と覇権をかけて戦う、とか(笑)、出生の秘密がどうだ、とか(笑)、全世界に影響力が広まっていって宇宙まで行きつく、とか(笑)。
 まあこういう、登場人物たちが限りなくパワーアップを重ねていく、というインフレーションがこの手の話の常道と言える。

 ただ、こうしたパワーインフレーションは過去のコンテンツにその元ネタが満載されている通り、常にマンネリ、という限界が控えている。
 しかしこの 「キルラキル」 という作品は、すべてを混沌の渦の中に投入していって、「ワケが分からないからこそ凄いのだ」 という、なんかワケの分からない理屈をそこから抽出した(笑)。
 つまり、理屈では割り切れない、「なにかに夢中になれる熱情」 とか、「物事にとことん執着するこだわり」 とか、そんなものでしか、人の心は動かせないのだ、というメソッド、とでもいえるだろうか(だからワケ分からん…笑)。

 そして物語は、ワケ分からん状態をまるで昇華していくように、登場人物たちが最終的に、み~んな裸になってしまう(だからワケが…笑)。

 だがそこから見えてくるのは、「極制服」 という 「着るもの」 に縛られることのない自由な精神への、作り手たちの憧憬だ(私の話もどうもワケ分からんな…)。

 要するに、このアニメの話というのは、「キル(着る)か、キラレル(着られる)か」。 たとえば、流行の服を着たい、とか、黒を着てりゃ安心だ、とか(笑)、人から 「コイツのファッションはカッコワルイ」 と言われるのが不安だ、とか、誰もが自分の着るものについて多かれ少なかれコンプレックスを持ったことがあると思うのだ。 この話は、そんな 「着るものに対するコンプレックス」 を突き詰めていった末に成立している、とは言えないだろうか。

 そしてこの物語は、「鮮血」 という名の、主人公纏流子の装備となるべき生きた戦闘服 「神衣(かむい)」 が、セーラー服であることに、大きな落とし所を用意していた。

 つまり、「制服というのは、学生時代が終われば脱ぎ捨てなければならない」、という、とても当たり前の事実である。

 着るものに対するコンプレックス、というのは、これはたぶん、思春期にいちばんあるんじゃないだろうか。 みんな大人になっていくと同時に、「他人から自分がどう見られているか」 などという恐怖心など克服していってしまう。

 しかしそれは、ちゃんと思春期の悩みを克服した結果なのだろうか。 私たちは、若いときの自分の幼さを、きちんと卒業して生きているのだろうか。

 だからこの物語のラストが見る側に与える感動というのは、そんな若い自分からの卒業を、あらためて自覚させられるゆえに起きる現象なのではないか、と感じるのだ。

 どうも分かりにくい話でスイマセン。

 全体的な話としては、確かにあり得なさすぎなのであるが、そのあり得なさを究極まで追求した潔さ、というものが気持ちよかった。 エロかったし(ハハ)。
 ただハダカに近いような神衣鮮血のイクイップメントに変身するときに見せる、主人公の纏流子が見せた恥じらい、というのは、その暴走気味な作品自体の過激さに対する、大きなブレーキになっていたとも思える。
 纏流子はしゃべり方から態度から乱暴ではあるのだが、元来がかなり自省的な孤独を抱えたままの少女だったという気がする。 物語のなかでも彼女は引きこもったことがあったが、彼女はもしかすると、引きこもりがちな人たちの、「自分はこうありたい」 という、行動の代弁者だったのかもしれない。

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2014年4月 1日 (火)

「笑っていいとも!」 を見なくなった理由って

 「笑っていいとも!」 が32年の歴史に幕、ということで、昨日の最終回を見たんですが(グランドフィナーレは録画したけど長すぎてまだ全部見てない)、何年ぶりぐらいだったかなー、見たの。 もう覚えてないくらい長いあいだ、この番組は見てなかった。

 いっぽうでタモリさんのもうひとつの番組、「タモリ倶楽部」 は現在に至るまでほぼ欠かしたことなし。 あまりにもつまんない企画のときは録画したものをスッ飛ばしながら、「空耳アワー」 だけは見る(笑)。
 ただ個人的な見解を申せば、タモリさんのパーソナリティは 「タモリ倶楽部」 のようなニュートラルな時に最大の魅力が引き出されるのであって、豪華な幕の内弁当みたいな 「いいとも」 ではただ消耗するだけ、と長いこと考えていました。

 でも今日、変に好感度が高く、「信者」 とも呼べる層が存在しているのは、「いいとも」 の功績が大なのだ、と感じる。
 もともとカルト的な位置に属するタレントなのに、タモリさんは広範に一般受けしているんですよ。
 だいたい出はじめが、「イグアナのモノマネ」 とか、「○ヶ国語麻雀」 (何ヶ国だったっけな)ですからね。 すごく異端だったわけで。
 で、「今夜は最高!」 なんて番組でそんなにうまいとは思えない(失礼)トランペットを吹いたり、結構そういうエンタテイメントが好きな人なんだな、という認識でいたら、いきなりフジテレビの昼間の帯番組、でしたからね。

 オッサンの昔話は続きますが(笑)、前番組の 「笑ってる場合ですよ!」 がその当時人気だったのが急速に下火になっていったところになんだか事件が起こって 「笑ってる場合じゃない」 とか新聞で報道されて(この見出しのセンスは未だにいいよなァと思う…笑)、打ち切りになってからの 「いいとも」 は、最初そんなに注目されていたわけではなかった覚えがあります。

 「なんかフジテレビの昼間やってる番組が面白いらしい」 と当時高校生だった私たちの間で噂になり出したのは、番組開始から4ヶ月か5ヶ月くらいたったころかな~。 「どうもゲストの知り合いにいきなり電話をかけて、その友達が次々と出てくるようなことを毎日やっているらしい」、と。 その 「アポなし」(当時そういう言葉はなかったと思う)で予期しないことが毎日のように起こるらしい、と。
 春休みを利用して 「いいとも」 のテレホンショッキングを見たんですが、これが実にスリリングで楽しい。 この人の友達がこの人なのか、という驚きもあったし。

 大学生になって時間の制約があまりなくなってからは、さんまサンとの金曜日のトーク、「日本一のサイテー男」 が特に楽しみで。

 昨日の 「グランドフィナーレ」 でそのコーナーが復活していたけれど、やはりちょっと距離があるたけしサンよりも、さんまサンのほうがタモリさんはしっくりくる。 つーかさんまサンが全天候型なんだ、という感じですが(笑)。
 この、タモリさんとさんまサンのトークがなくなった時だったな、私が 「いいとも」 を見るのをやめたのは。
 もともとテレホンショッキング以外のコーナーはさほど見てなかったし、テレホンショッキングも、そのうちにだんだんとヤラセであることが分かってきて、番組開始当初もそうだったのかもしれないけれど、その開始当初のスリリングさがなくなっていたし。

 昨日最終回を見ていてふと感じたのは、「タモリさんはどうしてこの番組(いいとも)をこんなに長く続ける気でいられたのかな」、ということです。
 正直言って、「タモリ倶楽部」 でのタモリさんを見慣れた私にとって、すごく久しぶりに見た 「いいとも」 というのは、とても別の世界に思えたし、騒々しい連中に囲まれるタモリさんは、自分をタモっていないように思えた(シャレか)。

 それはだけど、番組のかなり初期から感じていたことでして。 タモリさんはこういう騒々しい中でやるのは似合わない、と。
 もしかするとタモリさんは、異端の芸人である自分に課した、「年金の支払い」 みたいな感覚で、この番組を続けたのかもしれない。 こういう、きちっと毎日アルタに来て、自分の好まないことも引き受けて淡々と仕事を続ける、ということをしなければ、異端の存在である自分が社会からはじき出されてしまうのではないか、みたいな感覚。
 だからこそ毎日、自分らしくないことを続けられたのかな、って。
 まあこれは個人的な見解だし、タモリさんは自らのスタンスになんとか番組のベクトルを引き込もうとしてるようにも見えたし、そのなかで楽しもう、という姿勢でもいたとは思うんですよ。
 ただタモリさんはあくまで、冷ややかな目でこうしたバカ騒ぎする世界を眺めている、私たち視聴者の側に立っていたようにも思う。 だからこそ好感度が 「妙に」 高いんだと思う(笑)。

 そして、もうひとつ昨日の最終回を見ていて思い出したのは、「客席の気持悪さ」。

 これも私がこの番組を見なくなった大きな理由だったんですが、なにしろ反応がわざとらしい。

 でも、この客席の 「わざとらしさ」 も、最初のうちタモリさんは意図的にそれを逆手に取ろうとしていた気がする。
 テレホンショッキングの冒頭で、昔よくやってましたよね、客席とのわざとらしいやり取り(笑)。
 でもそのうちに、客席が学習してしまって、「わざとらしさ」 を無理に指揮しようとしなくても客が勝手にやっちゃうようになってしまった。
 ああいうあざといのは、見ていてゲンナリするんですよ。

 タモリさんが 「いいとも」 をやめたことで、一気にカンが鈍ったり老けこまなきゃいいと思う、今日この頃であります。

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