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2014年4月 3日 (木)

「キルラキル」 服を着るのか、服に着られているのか

 去年(2013年)10月から今年(2014年)3月までTBS系の深夜に放送されたアニメ、「キルラキル」。 「ど根性ガエル」 などの東京ムービー系の、懐かしい線の太い昔風の作画や、初回からトップギアで疾走しまくるそのテンションの高さに惹かれて、最後まで視聴を続けた。

 話としては、主人公の女子高生・纏流子(まといりゅうこ)が、殺された父親の手がかりを得て、そのかたきを討つために、全国制覇を目論む本能寺学園に乗り込む、というのが冒頭の展開。
 本能寺学園は、生徒会長の鬼龍院皐月(きりゅういんさつき)によって統一支配されているのだが、街ぐるみで巨大なヒエラルキーが形成されているのがいかにも不穏だ。 その階級闘争の道具として使われているのが、それを着ると普通の人間が超人になってしまうという、「極制服(ごくせいふく)」。
 この極制服に使用されている特殊繊維(生命戦維)の真の目的をめぐって物語はうねっていくのだが、とにかくその発端から、テンションが異様に高い(笑)。 「第1回からこんなにテンションが高くて、果たして最後までもつのか?」 という興味で視聴を続けた、と言ってもいい(笑)。

 制作は 「エヴァンゲリオン」 のガイナックスから独立したTRIGGER。 ただ絵の動かしかた、つまり動画に関してはガイナックスぽくなく、かなりラフな印象を受ける。 それでもそこには 「絵を動かすことの楽しさ」 を重視している姿勢が垣間見られ、一種の 「アニメ制作マニュアル」 というレールに則っている、昨今のアニメによく見られる、技巧に頼った 「妙に手慣れた余裕」、というものは感じられない。 こんなアナログ的な触感にも好感を持った。

 このラフな動画がもたらす奇妙なテンションの高さはそのまま、「制作スタッフが崖っぷちで仕事をしている」 という切迫感を、見る者に強いてくる。 こういう緊張感というのがいいんだよな~。
 最近のアニメは、あまりにも産業システム化されすぎて、こうした手作業的な 「人間臭さ」 というものが置き去りにされているように思えてならない。 この作品は、レトロな触感も相俟って、昨今の出来すぎたアニメに辟易している、アナログ世代のオッサンの琴線に引っかかる要素が多いのだ(ネットでは 「オッサンホイホイ」 の異名も見られた…笑)。

 この作品のレトロの根底には、旧世代のアニメ(そしてアニメーター)、とりわけ 「熱血」「スポーツ根性すなわちスポ根」 という、1970年代に流行ったコンテンツへの強烈な尊敬の念がある。
 主人公の纏流子は、簡単に言って 「アバズレ」(死語…笑)。 舞台は学園。 説明のスーパーはすべてぶっといフォント。 登場人物は全員ムダに熱く(笑)大声で自分の主張をぶつけ合う。
 このアニメの高揚感というのは、ぶっといフォントで登場人物たちが装備とか技とかを大声で宣言する、歌舞伎の見得の世界に相通じているものがある気がする。

 しかし、そこで声高に語られる 「熱血」 はただ単純な 「熱血」 ではない。 「熱血?ダセー」 という冷ややかな目で見られた時代も経た、一歩下がった冷静なスタンスが含まれているのだ。 言ってみれば、「熱血マンガ家」 の島本和彦サンが熱血根性もののブームが下火になって以降ダセーと言われるのを承知で描き続けたコンセプトに近い 「熱血」、と言えようか。

 さらに言えば、このアニメのタイトル 「キルラキル」 が物語るように、そこにはいったん海外に輸出され、タランティーノ監督などから 「クールジャパン」 と捉えられ逆輸入された映画、「キルビル」 の影響も見られる。
 いわば、このアニメはこうしたリスペクトやオマージュ、とカウンターカルチャーの応酬というごった煮状態の中から生み出された、2013年のアニメーション制作者たちの回答、とでも呼べる位置に属している、そんな気がする(あー解説の仕方がナマイキだぞ)。

 そんななかでこのアニメは前述したように第1回目からスーパーハイテンションで展開し、その勢いはまあほぼだいたい(笑)25回の最終回まで落ちることはなかった。 見るほうもテンションあがりまくりだったけれど、作ってるほうもさぞや大変だっただろう。 最終回は放送日の当日にテレビ局に納入されたらしい(マジかよ…笑)。

 けれども、こういうテンションの高い状態というのはすぐに受け手に飽きられるのが常なので、話は常に登場人物たちを無暗やたらにパワーアップさせていく必要性が生じてくる。
 このアニメはそこんところのイベントも過去の膨大なコンテンツから掻き集め、考えつく限りのことをやり尽くした、という印象がある。 仲間や主人公が暗黒面に陥る、とか、持ってる装備が強力化していく、とか、四天王が出てくる、とか(笑)、親子関係がシビアだ、とか(笑)、大阪みたいな別の文化圏と覇権をかけて戦う、とか(笑)、出生の秘密がどうだ、とか(笑)、全世界に影響力が広まっていって宇宙まで行きつく、とか(笑)。
 まあこういう、登場人物たちが限りなくパワーアップを重ねていく、というインフレーションがこの手の話の常道と言える。

 ただ、こうしたパワーインフレーションは過去のコンテンツにその元ネタが満載されている通り、常にマンネリ、という限界が控えている。
 しかしこの 「キルラキル」 という作品は、すべてを混沌の渦の中に投入していって、「ワケが分からないからこそ凄いのだ」 という、なんかワケの分からない理屈をそこから抽出した(笑)。
 つまり、理屈では割り切れない、「なにかに夢中になれる熱情」 とか、「物事にとことん執着するこだわり」 とか、そんなものでしか、人の心は動かせないのだ、というメソッド、とでもいえるだろうか(だからワケ分からん…笑)。

 そして物語は、ワケ分からん状態をまるで昇華していくように、登場人物たちが最終的に、み~んな裸になってしまう(だからワケが…笑)。

 だがそこから見えてくるのは、「極制服」 という 「着るもの」 に縛られることのない自由な精神への、作り手たちの憧憬だ(私の話もどうもワケ分からんな…)。

 要するに、このアニメの話というのは、「キル(着る)か、キラレル(着られる)か」。 たとえば、流行の服を着たい、とか、黒を着てりゃ安心だ、とか(笑)、人から 「コイツのファッションはカッコワルイ」 と言われるのが不安だ、とか、誰もが自分の着るものについて多かれ少なかれコンプレックスを持ったことがあると思うのだ。 この話は、そんな 「着るものに対するコンプレックス」 を突き詰めていった末に成立している、とは言えないだろうか。

 そしてこの物語は、「鮮血」 という名の、主人公纏流子の装備となるべき生きた戦闘服 「神衣(かむい)」 が、セーラー服であることに、大きな落とし所を用意していた。

 つまり、「制服というのは、学生時代が終われば脱ぎ捨てなければならない」、という、とても当たり前の事実である。

 着るものに対するコンプレックス、というのは、これはたぶん、思春期にいちばんあるんじゃないだろうか。 みんな大人になっていくと同時に、「他人から自分がどう見られているか」 などという恐怖心など克服していってしまう。

 しかしそれは、ちゃんと思春期の悩みを克服した結果なのだろうか。 私たちは、若いときの自分の幼さを、きちんと卒業して生きているのだろうか。

 だからこの物語のラストが見る側に与える感動というのは、そんな若い自分からの卒業を、あらためて自覚させられるゆえに起きる現象なのではないか、と感じるのだ。

 どうも分かりにくい話でスイマセン。

 全体的な話としては、確かにあり得なさすぎなのであるが、そのあり得なさを究極まで追求した潔さ、というものが気持ちよかった。 エロかったし(ハハ)。
 ただハダカに近いような神衣鮮血のイクイップメントに変身するときに見せる、主人公の纏流子が見せた恥じらい、というのは、その暴走気味な作品自体の過激さに対する、大きなブレーキになっていたとも思える。
 纏流子はしゃべり方から態度から乱暴ではあるのだが、元来がかなり自省的な孤独を抱えたままの少女だったという気がする。 物語のなかでも彼女は引きこもったことがあったが、彼女はもしかすると、引きこもりがちな人たちの、「自分はこうありたい」 という、行動の代弁者だったのかもしれない。

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