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2014年6月

2014年6月29日 (日)

「花子とアン」 第10-13週 本当のことを言わない人々

 皆様ご機嫌よう。 当ブログ恒例月イチ 「花子とアン」 のレビューでございますよ~(笑)。

 いや~、当ブログにコメントをくださる方々の評判が、だいぶ悪くなっているこのドラマ(笑)。 私もあまりにも好意的な声を聞かないので、なんだか視聴意欲が減退してたのですが、本日4週間分を、一気に視聴いたしました(あーしんど)。
 ただ率直に申し上げて、そんなにひどい印象は受けませんでした。 まあひどいひどいと聞かされて、身構えていたせいもございますが(笑)。

 確かにスタートダッシュ時の緻密な構成、志の高そうな傾向は鳴りをひそめていると思います。
 細かいことを指摘しだすとキリがないのですが、見ていて 「どうなってるの?」 と思うことが多い。
 たとえば第10週、安東家の末娘であるもも(土屋太鳳チャン)に父吉平からもたらされた北海道行きの縁談。 相手役の青年がちっとも出てこないんですよ。 このドラマ、初期のころから、こういう大胆な説明カットがあったので、「ああここは、相手の青年を出す必要がない、と作り手が考えているんだな」、と考えましたが。
 ただその後のおじぃやんが亡くなる際に、はな以外の兄妹に関する言及がなかったのも相俟って、どうもドラマがはなばかりを優遇するような印象は否めない。
 じっさい兄妹の中できちんとした教育を受けたのははなだけだったし、仕方がない面はあるのですが、ドラマが隅々にまでわたる配慮というものに欠けているきらいは、確かにあると感じるのです。

 それから朝市が伝えるはずだった、はなへの思い。 朝市ははなの意思を尊重するあまり、自分の思いを結局伝えずに終わってしまう。 これも見ていてかなりもどかしかったのですが、今度の週で何か展開を残しているようではありますね。

 それから、蓮子との交友が再開するところ。 絶交したはずなのに、ふたりともかなりそのことを忘れている、というか。
 いや、9年だか10年だか会わなかった、というのがそもそも絶交のわだかまりを解くために必要な時間だった、という考え方もある。 まず蓮子がはなに挑発的な手紙と自分の著書を送りつけ、はなが自分の著書を送ることで、わだかまりを発展的に解消させた、みたいな。
 でもあんな別れ方をしたのだから、再び会うときはもうちょっとお互いに気遅れしてもいいような気もしました。 それにしても10年も経っちまったんかいな、みたいな(笑)。

 話は前後しますが、吉平が浮気した、という話に出てきた、相手のサダ(霧島れいかサン)が、さんざん安東家をかきまわしておいてそのあとしばらく出てこなかったのも、「なんか語り口が近視眼的だな」、と感じたひとつ。
 これはこのドラマが持つひとつの特徴ではある、と思います。 吉平が変なタイミングでいきなり出てきたり、ずーっと出てこなくなったり。 女学校のことばかりで甲府の実家がちーとも出てこなくなったり。
 つまり同時多発的、複視眼的な進め方をしないんですよ、このドラマ。 ひとつのことを語り始めると、おろそかになってしまう部分があったりする。 そんななかで、はなと蓮子との物語だけは同時進行的に説明したりはしているんですが。

 あと、「赤毛のアン」 をなぞるような逸話や、「想像の翼」 がその後さっぱり出てこない、というのもドラマ的には気になるでしょうか(妄想を映像化するのは骨が折れるからか…笑)。

 そのほかなんかまだいろいろ気になったことがあった気がしたけど忘れた(笑)。
 ただそれらは脳内補完するとして、ちょっと引っかかるのは、物語全体のスタンスです。
 当初、翻訳家である村岡花子サンの生涯、とは言わないまでも、生き方をきちんとなぞるような物語になるのかと思っていたんですけど。 でもかなりフィクション入り過ぎてるんじゃないか?…というか。
 もともとそんなに村岡サン自身がドラマチックな人生を歩んできたわけではないのかもしれませんが、村岡サンの人生を描こう、としたときに、軸となる部分をちょっと疎かにしすぎているのではないか、とはたまに感じます。

 その端緒は、女学校を卒業してから数年間、彼女が山梨の英和女学校に 「英語教師」 として赴任したことが、出身校の尋常小学校の教師に改変されていること。

 この設定変更の意図というものは理解できるんですよ。
 田舎の小学校の教師を数年間、はなにさせることによって、あんなに夢中になっていた英語の世界から、はなを強制的に隔絶させる。
 そうすることで、その後東京に出版社の編集者として就職したときに、はなが再び巡り合う英語たちが、それまで以上にキラキラと輝いて見える効果を演出する。 そして山梨での数年間、英語の精進を怠ってきた自分を叱咤する契機とさせる。

 また、はなを英語から隔離させた、この甲府帰郷編では、やはり彼女を再び物語創作の世界に引き込ませるカタパルトとなるエピソードを、随時挿入している気がする。
 「みみずの女王」 の話もそうでしたし、周造の病から死に至るまでの過程もそうだった。
 吉平の浮気話も、周造に 「たんぽぽの目」(はなの初めての本)の話を読み聞かせるエピソードをさらにドラマチックに見せるための導入だったと思われます。 単純に、吉平がおじぃやんへ読み聞かせをさせるだけではつまらない。 だからこのふたりの関係性の悪さを引き立たせるエピソードが欲しかった。

 ただはなを山梨英和の英語教師とせず、小学校の教師に改変したことは、ストーリー的に成功していたようにはあまり思えないかな~。 なにしろ1年目以外生徒たちとの交流がさっぱり描かれなかったし、卒業式後の校長先生をはじめとする贈る言葉も、なんかシラケたつーか。 フィクションだから仕方ないのかもしれないけど、はなを特別扱いしているように見えちゃうんですよね。

 村岡花子サンの人生をちゃんと描いていないのではないか、と感じるもっとも大きな原因は、当ブログにいただいたコメントでもご指摘が多かった 「恋バナ」 の多さにある気がします。
 とにかく恋愛についての割合が高い。
 特に女学校から卒業してからというもの、ももの見合い話や朝市への片思い。 その朝市の、はなへの片思い。 吉平とサダの浮気話。 蓮子に寄せる嘉納伝助の不器用な愛。 かよに恋する村岡印刷の弟。 村岡英治に対する醍醐のお嬢さんの思い。 メインはやはりはなと村岡英治の話なのですが、やがてはメインとなるであろう蓮子と帝大の宮本の恋愛も始まりました。 ドラマはここに、はなの兄である吉太郎の思いを絡ませて複雑化しようとしている。
 はなと蓮子の友情にしても、当初から疑似恋愛という趣があったように感じます。
 このドラマでは、常にどこかで誰かが誰かを愛している。 好意を抱いている。

 ただ私は思うのですが、これらの恋愛にはほぼ、共通しているものがあるように感じます。 例外も確かにあるのだけれど。

 つまり、肝心なことがなかなか告白されないんですよ。

 まあ範囲を広げると、このドラマ全体が、「登場人物たちが肝心な部分をなかなかしゃべらない」 という部分で共通しているように思えます。
 「思いを打ち明けないのは、なにも思っていないのと一緒」、でしたっけね、はながももに言った言葉。
 ももはだから、朝市に対して自分の思いを打ち明けたのですが、でもすでに朝市の気持ちを見抜いていた。 ももが朝市のことを諦められたのは、これが片思いだからなのではなく、自分の思いを伝えられたからだ、という語り口です。
 それをやきもきしながら見ていたはなでしたが、ももの朝市への思いや朝市のはなへの思いまでお見通しだった母ふじは、最初から最後までただ事のなりゆきを静観するだけです。 最後にももが傷ついて戻って来たとき、ふじはそっと抱き締め、ももの気持ちを受け止める。 物分かりがいいふりをしておいて、自分の思いが胸にたまっていたももは、母親の腕の中で号泣します。

 そしてこれらの展開の中でずっと悟りの境地の中にいた(笑)ふじも、サダが次々ついてくる信憑性のあるウソに騙されて(笑)阿蘇山大噴火…じゃなかった、富士山大噴火するわけですが、富士山が実際に噴火してたらギャグにならんなこの部分、と思いながら見てたけど(ハハ)、ここで吉平は、かなり言い訳しようと必死になって食い下がってたけど(笑)、きちんと自分から説明することはなかった。
 結局サダが忘れた頃にやってきて(笑)はなに本当のことを打ち明けるに至って、誤解は解かれるのですが、これらの展開を、「単にドラマを面白くするためにつまらん話を引っ張っている」 と考えると、ばかばかしくて見ていられなくなります。

 思いが伝わらないこと、そしてすぐに伝えないこと。

 ここから生じる誤解が、やがては取り返しのつかない事態に発展するのだ、ということを、作り手は見る側に伝えようとはしていないだろうか。

 この浮気話が発端となって、先にも述べたとおり、吉平とおじぃやんが語らう場が生まれたわけですが、このふたりはお互いに意識しながら、ずっとお互いを避け続けてきた。 それが最後の最後になって、お互いの思いを打ち明けることによって、誤解を解くことが出来たんですよね。

 話は東京編に飛びますが、村岡英治がはなを抱きしめたあと、「あのことは忘れてください」 と言った、その理由が本人から、なかなか説明されません。 ここも同じような 「登場人物がなかなか肝心なことを話さない」 という一環だと感じるのですが、英治がすでに結婚している、ということを知ってしまったかよも、はなにその肝心なことを、またまたなかなか話そうとしません。

 これも、「英治が結婚してると本人やかよが話しちまえばすぐ終わる話なのに、いつまでも引っ張ってんじゃないよ」 みたいに見ていると、すごくイライラする(笑)。
 それに、はなが勤める聡文堂の人々や、醍醐のお嬢さんが、どうして得意先の人間が既婚かどうかも分かんないのか、という疑問もわいてくるか、と思います。
 私の考えを申しますと、たぶん英治は編集長なんかと面識が出来る以前から妻帯していたけど、編集長と知り合ったときすでに奥さんが胸を患っていて、結婚していることを隠していた可能性がある。 胸の病気を持つ家族は当時、世間体にも影響したと考えられないだろうか。

 そして英治やかよがはなにその肝心の事実をなかなか打ち明けない、というのも、はなを傷つけたくない、という気持ちから発生している。
 だったらばどうして英治は大雨の日に、はなを抱きしめてしまったんだろうと考えると、英治は英治で、病気の奥さんの看病とか気遣いに、疲れていた、ということも考えられる。

 登場人物たちのいちいちの行動に、こうして脳内で補完しなければ分からない展開というのは、ドラマとしては得策ではないのかもしれません。
 そのいっぽうで、そこを推理して考える余地があるというのも、ドラマの甲斐性のひとつなのかもしれない。

 「ごちそうさん」 みたいに、全部説明されりゃいいのかもしれませんが。

 「カーネーション」 みたいに、完全に説明されるでもなく、見る側が感じることが出来る傑作も、いっぽうではございますし。

 冒頭で書いた、当初の緻密で志の強い傾向、というのは、実は作り手は望んでいなかったんじゃないかな、と思うこともあります。
 なにしろ週ごとにつく副題が、なんか最初から軽いな~とは思ってたんですよ(笑)。 「エーゴってなんずら?」(笑)。 「初恋パルピテーション!」(笑)。 「なんじゃこの副題は」、と思ってましたけど(笑)、全体的に主人公のはなは、前回のレビューでも指摘したように、結構ありのままな天然キャラで、お嬢様育ちで世間ズレしていて、ウソをつくのが極端にヘタ(笑)、さらに極度の鈍感ときて(笑)、とどめは酒癖が最高に悪い(笑)。 脚本の中園サンは中園サンで、精一杯ドラマを軽妙に作ろうとしている、ということは伝わってくるのです。

 まあ、村岡花子サンの生涯を忠実に描いた、という作品には程遠いのですが、「このドラマはフィクションです」 という最後のおことわりに無理やり納得するしかございません(笑)。

 蛇足的にかいつまんでみると、蓮子と嘉納伝助とのすれ違いについては、かなり説得力のある展開を示している、と感じます。
 伝助が蓮子に対して持つ愛は、先ほど指摘したように、かなり不器用。 「自分が惚れたのは、お前の身分と顔だけだ」 なんて言っちゃうんですからね。
 それは伝助にとって、とても正直な告白だ、と感じるのですが、蓮子はそのことが屈辱でしかない。 一度心が閉ざされてしまうと、何もかもが受け付けないバージョンになってしまいますからね。 はなは伝助と会ったときの印象を、「なかなかよさそうな人」 とか評価していたと思うんですが、そうした客観的なものの見方が出来なくなっている蓮子には、はなの人物評も 「まあ何も知らないから」 という感覚で寄せつけようとしない。

 吉太郎が憲兵になった、という展開も、なんとなく説明不足なような気がしますが、これもはな以外の兄妹についてあまり積極的に語られない傾向のひとつかな、と感じます。
 ただ吉太郎が憲兵になることがどれだけ物語の深刻度を増していくかには、ちょっと注目したいところです。

 んー、恋バナばかり、と思うと見てらんないドラマなんですが(笑)、ときどき展開される軽妙な展開にけらけら笑いながら、個人的には楽しんで見ることができております。

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2014年6月22日 (日)

「軍師官兵衛」 第4-24回 期待と不安のふたつ我にあり

 実に当ブログではほぼ5カ月ぶりの 「軍師官兵衛」 のレビューであります。 それまでの感想は今年1月、第3回感想のコメント欄でずらずらずらずら書いてきたので、あらためて言及するまでもないのですが、残念ながらまあ、ほぼこのドラマについてかなり否定的な見解であった、と言わざるを得ません。

 そこでのこのドラマに関する私の感想を要約すると、話があっさりしすぎて登場人物の動機に説得力が伴ってこない、というのが大半。
 物語序盤で官兵衛は 「播磨に官兵衛あり」 と謳われるような戦功を積み重ねていくのですが、見ていて別にそれが大した手柄に見えてこなかった。 最初のうち数回、「地味だけど堅実な作り」 だと私が思ったこのドラマの特徴が、悪い面で作用した感じ。
 別に大したことをやってないのに周囲に褒められ秀吉に認められ、むやみに官兵衛が持ちあげられていくのは、見ていてちょっと白けた。

 そして官兵衛が心酔していくことになる、織田信長。 江口洋介サンが演じているのですが、この信長、あんまり屈折してない。 江口サンの人の良さが出ちゃってる気がしたんですよ。 さわやかで、なんだか恐ろしく見えてこない。 却って母親の大谷直子サンのほうがよほど怖くて(笑)。

 私は思うのですが、信長にある種の、狂気を孕んだ 「恐怖の大王」 的な牽引力がないと、とりわけこのドラマは全体的に空転せざるを得ない構造にある。

 信長が凡庸に見えてしまうために、ほかの戦国大名はもとより、宗教勢力とも敵対して、まさに四面楚歌に陥っている信長に、あまり未来がないように見えて仕方なくなってきます。
 すると、官兵衛がどうしてこんなに先の見えない男についていってるのかが分からなくなる。
 小寺の姓もいただいていながら、小寺ではなく信長に仕えちゃってるみたいな、官兵衛の立ち位置のあやふやさも気になりましたね。 父親が小寺にべったりだったことも加味して考えると。

 官兵衛が信長についたことで、播磨は戦略の要衝的な場所として、危うい場所になってきます。 すると官兵衛は、信長の援軍をただひたすら当てにしだすんですよ。 「織田の援軍はまだか、どうなっているのだ」、って。 一時期そればっかり言ってるように見えたな。 ずいぶん他力本願な男に見えたものです。
 信長が頼りなく見えるから、そんな信長ばかりを頼りにしている官兵衛が、ますます小さい人物に思えてくる。

 そしてさらに、信長がそんなに怖く見えないから、謀反を起こす荒木村重がヤケに独り相撲を取っているように見えてくる。 何をそんなにビビってるのか?みたいな。 「使い捨てだ、オレたちはみんな信長に使い捨てにされる」、というのが一種の村重謀反のキーワードみたいになっておりましたが、あんなに戦功をあげているのに別にビビるこたないだろう、みたいな。

 まるで信長が元凶みたいな論調になってしまいましたが、官兵衛の行動にも一定の青さが常に伴っていたようにも思えます。
 ただこれは、官兵衛を演じた岡田クンに 「この時期は若さを前面に出した演技をしよう」 という意図があったようにも思える。 毛利襲来のときにはすでに30歳を超えてましたけどね。

 官兵衛の甘さが露呈した最たる出来事は、やはり荒木村重に監禁されたくだりでしょう。
 まず、小寺の鶴チャンに対する認識の甘さ。
 幼い時から仕えていて、鶴チャンのどっちつかずなさまは官兵衛もじゅうぶん承知していたはず。 その鶴チャンをしっかり支え、つなぎ止めていたのが妻のお紺(高岡早紀サン)だったのですが、彼女の死がどのような影響を及ぼすか、ドラマの中で官兵衛たちはきちんと認識していた。 だのにその危惧になんの対処もしていない。 御着(小寺氏)の反乱がまさに寝耳に水、みたいな感覚で描写されると、「30過ぎて戦国武将としてひとかどの経験もしておきながら、御着を警戒してなさすぎだよ」 と思わざるを得ませんでした。

 そして鶴チャンの説得に向かう官兵衛。
 「御着の殿とは幼い頃からの付き合い。 殿のために自分の嫡男である松寿丸を人質に出してまでいるのだ。 裏切るはずはない」。
 すごくおめでたいなあと思いました。 初陣して間もなくの若武者ならまだしも、社会に出て15年は経とうかという中堅どころですよ、言ってみれば。
 案の定、鶴チャンの小芝居にコロッと騙されて、村重の説得に向かって、あえなく捕縛、監禁。 官兵衛、甘い、甘いぞ。

 しかし。

 このドラマに私が手ごたえを感じ始めたのは、ここからです。

 さすがに戦国時代、1年もロウヤに入れられた、などという主人公は今までの大河の中ではありませんでした。 その新鮮さもあったかもしれない。
 しかし官兵衛の監禁を機に、ドラマのダイナミズムが大きく回転し始めたように見えたのも、また事実。 泣き女に転ずる妻のテル(笑)、息子の安否に心が揺らぐ父の柴田サン、殿を救出しようと奔走する黒田の家来衆三人。
 官兵衛が裏切ったと決めつけて息子の松寿を殺せと信長が命じたことも、ドラマに大きなアクセントをつけた気がします。 松寿が助かる要因を作ったのが秀吉の軍師の竹中半兵衛であり、半兵衛は死して仲達を動かす、じゃないけど、牢を出た官兵衛の精神的な立ち直りにも関与した。

 なにしろあのイケメン岡田クンが、ヒゲボーボー、髪の毛ボサボサ、顔も雨水かなんかで洗えそうなものなのにまっ黒けで土牢の中をのたうちまわるんですからね。 このインパクトはすごかったな。
 出来れば岡田クンには永遠にロウヤの中にいてほしかったくらい。 そのくらいドラマが面白くなった気がしたんですが(笑)、そーゆーわけにもいかない。

 そして信長のプレッシャーに対して籠城を続ける荒木村重の精神状態が、極めてエキセントリックになっていく。
 信長を演じる江口サンに凄みが出てきたように感じたのはこのあたりから。 やはり信長はサワヤカに日本の新しいビジョン(天下布武)を語る坂本龍馬じゃイカンのですよ。
 まあまだそれでも信長はフツーに見えたから(笑)、村重が勝手にファビョってるくらいな感覚ではありましたけど(笑)。

 村重は城主でありながら、毛利に援軍の直談判しようと城を抜け出します。 これもすごい話だな、と思いました。 まかり間違えば、すごく無責任になってしまうわけでしょう。 いや、じっさいは無責任な話だったのかもしれない。 でもそれを、ドラマは村重の強迫観念で説明した。 ドラマ的にはそっちのほうが面白いのであって。

 だから信長が村重に見せつけるような形で関係者たちを処刑していくことに一定の凄みが加わってくる。 村重はついに、「オレは信長には負けぬ」 とわめくだけの男になってしまいます。 負けないだけなら何でもできる。 逃げればいいんだから。

 しかしこの、「逃げる」 という行為をさらに突き詰めたのが、御着の鶴チャンなのであります。

 第24回 「帰ってきた軍師」 では、敗走した鶴チャンと斎クンが黒田に捕まります。 そこで鶴チャンと官兵衛は因業深い再会を果たすのですが、このドラマ的な組み立てはうまかったなと思う。

 鶴チャンはあくまで、見苦しく逃げることを選択する。 官兵衛は 「武将らしく腹を召されよ」 と迫るのですが、この御着の殿はそういう勇気もないんですな。

 結局官兵衛は、叫びながら刀を振り下ろしただけで、この見苦しい殿を逃がすこととなる。

 「これってある意味、殺してしまうより残酷な方法を官兵衛は採ったんじゃないのかな」、と見ていて感じました。
 つまりそこまで、官兵衛は御着の殿に対して恨みがあり、もっと言うならば、自分の甘さに対して大きな悔恨を抱いている。

 ここで御着の殿が生き残れば、鶴チャンはもう、死ぬまで自分の情けなさと対峙しなければならなくなる、と思うんですよ。
 これは小寺氏に武士(もののふ)としての面目、という 「誇り」 が残滓のように残っているのであれば、の話なのですが、そもそも官兵衛が言っている 「武将らしく」 というのも、その時代での価値観であって。
 小寺氏がそのあとの人生をどう歩んだのかは分かりませんけど、もし平穏に生きたのであれば、彼は武士としての面目をどこかに置きざりにした、ということになる。
 しかしその時代の価値観であった、切腹という誉れのある最後を選ばなかった悔いが残るとすれば、これほどの恥辱を受けながら生き続けるのは、かなりつらいのではないか。

 官兵衛にしても、ここで御着の殿を斬って捨ててしまえば、自分の甘さをそこで決着させた、ひと区切りがついた、と思ってしまうかもしれない。
 でも官兵衛は、御着の殿を逃がすことで、自分のそれまでの考えの甘さを将来にわたって戒め続ける、「もっとつらい方法」 を選択したのではないか。

 官兵衛が土牢から救出されてからの一連の行動パターンは、それまでの甘い考えからかなり脱却しています。
 救出直後、輿に乗せられて信長に謁見した時も、官兵衛はお追従のひとつさえ信長に対して述べない。 これは松寿を殺せと命じた信長に対して恨みを抱いた、とも考えられますが、もっと言えば、そんな事態を招いた自分に対して憤っていた、とも考えられる。

 小寺の殿に対して厳しい態度をとったのもその一環なわけですが、1年にわたる監禁を経て、官兵衛の考えに大きな変化が生じた、とするこのドラマの論調は、私個人としては歓迎したい展開でした。
 なにしろ大河の主人公と言えば都合の悪いことはごまかす連続。 これじゃいまの政治家となんら変わんないでしょう。 官兵衛も戦国武将として現代に言い訳の利かない残酷なこともやってきたはずですが、このことにきちんと向き合わないで、きちんとしたドラマは成立しない、と私は考えています。

 このドラマもようやくダークサイドに突入か、とちょっとワクワクしたのですが、その後の展開がいけない。

 官兵衛は御着の殿を逃がしたことを秀吉にわびるのですが、秀吉は 「それでこそ官兵衛なのじゃ」 と逆に持ちあげてしまう。 官兵衛は調子に乗って(笑)「我々黒田家は命を大切にする」 とかなんとか、家来の前で大見得を切ってしまう(笑)。

 そういうイマ風のヒューマニズム、少なくとも私は要りませんから。

 またこの再放送のあった同じ日に、「独眼竜政宗」 を見てしまったことがいけなかったな(笑)。
 この日は政宗の若さゆえに引き起こした父親の悲劇に、もう心を揺さぶられっぱなし。
 政宗の犯した悪い側面に真正面からぶつかっていくドラマの論調が、たまらないんだ。
 どうしてこういう、「主人公のいい面と悪い面をきちんと見つめること」 が最近の大河じゃ出来ないのかな。

 「平清盛」 じゃやってましたけど。

 岡田クンのイメージダウンになるとか?

 いやー、変に現代的なヒューマニズムをまぶした大河にされたほうが、私としてはイメージダウンなんですが。

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2014年6月15日 (日)

「銀二貫」 最終回まで見て

 NHK総合、木曜時代劇の 「銀二貫」。 天明年間、大坂の寒天問屋を舞台にした全9回の人情劇でした。

 このドラマの奥底を深く進行しているテーマは、まさしくタイトルの通り 「銀二貫」。
 ナニワの商人(あきんど)たちの信仰の中枢にあるのが天神様なのですが、そこに寄進をするスタンダードプライスが銀一貫。 物語の舞台となる寒天問屋、井川屋の大旦那である和助(津川雅彦サン)はそこを商人のプライドでもって、倍の二貫寄進しようとするものだから、物語はかなりの年月にわたって展開する必要が生じ、そのままならぬ紆余曲折をかなり駆け足で描写しなければならなくなったように思えます。

 結局物語の最初から最後まで、ウィキの資料から考えると、22年もの歳月が流れたことになる。 物語の主人公である松吉(林遣都クン)が彦坂鶴乃輔として登場したのが10歳であり、晴れて祝言に至った最終回が32歳、ということらしいから。

 全9回しかないクセにこの22年の歳月をやろうとするから、必然的にエピソードは飛び石のように、スッ飛ばしスッ飛ばし気味になります。
 しかし、この冗談みたいなスピードは、ナレーションを担当した天満宮の狛犬の化身、テンちゃん(山口智充サン)によって、冗談みたいに見る側を笑わせてくれることで解決しました。
 テンちゃんゆうても 「うる星やつら」 ちゃうで~(笑)。 ソフトバンクの犬のおとうさんみたいなんやで~(笑)。

 最初のうち、私はこの、全体的に重苦しいドラマに、どうしてかようにオチャラケたようなナレーション(ついでに言えばテーマ曲)がつくのか不可解だったのですが、笑いによって多少の齟齬をごまかしてしまう、という、そんな効果を考慮に入れていたという気もするんですよ。

 このドラマの本質をとてもよくえぐっていると思われるのが、井川屋にとってかなり重要になる寒天職人、半兵衛(板尾創路サン)の 「人生はシンドイけれど、オモロイ」、という一言だと感じるのですが、その思想がナレーション(およびテーマ曲)のオチャラケ感に集約していたのではないか、と私は思うのです。 オチャラケ、と言って悪ければ、「軽妙」。
 人生はそうした、悲喜劇のはざまで揺れている小舟のようなもの。 禍福はあざなえる縄のごとし。 そんな 「おもしろうて、やがて悲しき」「悲しゅうて、やがておもしろき」 という思想を象徴していた、と感じるのです。

 物語途中、松吉は新しい寒天を開発しようとして、長期間にわたって悪戦苦闘します。 平気で2年とか3年とか経っちゃう。
 そこでこのテンちゃんの出番。
 「へてから夏」、「へてから秋」、そして 「冬~~~っ!」(笑)。 谷岡ヤスジかと思った(笑)。 「アサ~~っ!」 みたいな。

 「へてから」 ゆうのは、大阪弁よう分かりまへんけど、「それから」 ゆう意味だっしゃろか。
 このドラマ、とにかくその 「へてから」 の連発で、流行語大賞狙ってんのかと思ったけど、視聴率があんまりよくなかったらしい(じゃ無理だ)。 そりゃ話をスッ飛ばしスッ飛ばしされたんじゃ見ているほうも分かんなくなるわな。 ある意味じゃロデオみたいなドラマ(笑)。

 いや、でもそれほど注意深く見てなくても、分かんないことはない。 まあ、NHK木曜時代劇なんか、もともとおしなべて視聴率がいいなんて話は聞いたことがないですからね。
 だけどこのドラマは、当たり外れの大きいNHK木曜時代劇の中では、かなりの線で傑作の部類だったと思いますよ。 見てない人はもったいない。

 このドラマのもうひとつの特徴は、まあ猛スピードでやるからですけど、大火事が非常に多い、ということ。 ケンカと火事は江戸の華、とか申しますが、江戸だけでなく大坂も頻繁に火事があったらしい。 いったん大火が出るとその都度多くの人々の人生がリセットされ、変化していく。
 それは多くの悲劇を生んだ元凶ではあったけれど、そこからどう這い上がるか、逆に不幸の種を積み重ねることになるのか。 それは江戸時代の大都市に生きる人々の大きな課題だったのではないか。 そんなことがこのドラマではよく表現されていたように思えるのです。

 そして感じるのは、そういう、「急に自分の人生振り出し」 という人々の受け皿というのが、なにも仮設住宅など建設せずとも、この時代にはきちんとあった、ということ。 貧乏長屋などと申しますけどね。 それは庶民のパワーなんですよ、つまるところ。 ここに幕政が絡んでいた、という感想って、あまり出てこない。

 さらにこのドラマの特徴を挙げると、寒天の発展過程を主人公の働きとして、フィクションとしてうまく絡めているところ。 現代で言うところの 「あんみつ」 に使うコシの強い寒天、つまり硬めの寒天をどうやって開発していったか、「プロジェクトX」 的な面白味を加えている。

 私などは松吉が寒天をところてん状にして干したりしたものを見て、「春雨じゃん」 とか思ったんですが(笑)、ことによるとそれも、寒天の歴史の中でのひとつの発想であったかもしれない。 こういうことに思いをいたせる、というのは、これもドラマの魅力のひとつなのではないでしょうか。

 そんな特徴の中で、このドラマはナニワの商人の職業的な規範を描くと同時に、「武士から商人」「武士から農民」 という身分の変更を通じ、江戸時代に生きる人々のアイデンティティを問う作品に昇華している。
 私などは小学校時代に 「士農工商は厳格で、職業を変えることなどできなかった」 というまるでカースト制みたいな教え込まれ方をしたんですが、まあその時代からテレビの時代劇では、貧乏浪人が傘を貼ってたりしてましたけど(笑)、そんなにおいそれと身分って替われるもんじゃない、と思ってました。 でも近年その考えは、テレビドラマによってかなり崩されましたけどね。
 ただウィキによると、原作での建部玄武(イトシ、じゃなかった風間俊介クン)は井川屋に来ることもなく、松吉に再会することもなく、この世を去ったらしい(仇討ち買いの銀二貫の使い道は一緒ですが)。 ここらへん、「自分は武士なのか、百姓なのか」 という玄武の葛藤をドラマ的に明確にした、という気はします。

 この銀二貫。

 要するにつらつら考えてみると、和助が鶴乃輔(松吉)の仇討ちを買ったときに既に一回。 あと、半兵衛のために出したのと、最終話で晴れて寄進できたのとで、都合3回たまっていたっけか。 あとなんかあったよーな気もするけど忘れた(ご存知の方はご指摘ください)。
 つまりホントだったら井川屋は銀6貫も天神様に寄進出来てた(笑)。

 それが出来ないばかりに、井川屋の人々はかなり遠回りをしながら、かなりの苦労を強いられながら、最終的な幸せに辿り着くんですが。

 どうなんでしょうかね。
 ここが実は、人生の機微だと感じるんですが。

 つまり、自分で稼いだものは自分のもの、という感覚で、老後のためにせっせと貯めるのも自分の人生。 そのなかでおいしいものを食ったりどこかに出かけたり、そういう人生の使いかたも、それはそれでいいでしょう。

 でもどこかで、他人のために何かをしてあげる、お金をポンと出す、それで自分の生活に支障が出ても、それはそれで自分の生き方の幅が広がることにならないか。

 私にしたって、無償でこんなブログ書きなんかしてますけど、別にそれで人生損している、という感じはしない。
 自分の生き方が、その分豊かになっている気がするんですよ。 お金の問題じゃなく。

 最終話の最終シーン。
 和助は番頭の善次郎(塩見三省サン)に、松吉を銀二貫で買ったのは、ええ買い物だったとつぶやき、善次郎は 「へえ、安い買い物でした」、とこたえます。

 これは何も 「損して得取れ」 とか、損得勘定で言ってるわけじゃない、と私は感じます。
 松吉が新商品デベロッパーで(笑)井川屋に多大な利益をもたらしたとか、そーゆーんじゃなくて。

 銀二貫で人生の苦労を買ったからこそ、面白い人生を自分たちは送ることが出来た、そこがいい、安い買い物だった、と言っているのだと感じる。

 つまり半兵衛が言っていた先の言葉、「人生はシンドイけれど、オモロイ」。

 もっと言えば、しんどいほうが、面白い、という視点が必要なのではないか、ということを、私に考えさせるのです。

 それにしたってこの主人公の松吉と真帆(松岡茉優サン、少女期は芦田愛菜チャン)、最初の出会いからゴールインまで17年かかっているわけで(笑)。 猛スピードでドラマは進行したけど、スンゲー晩婚ですよね、江戸時代にしちゃ(笑)。

 これは真帆が大火で首の部分に大きな火傷の跡を作ってしまったことと、同じくしてひとり娘を亡くしてしまったお広(映見くららサン)という女性と母子関係になってしまったことが大きな原因でしたが、松岡茉優チャンの放つオーラが説得力をさらに増してた気がするんですよ(笑)。

 松岡茉優チャンは 「あまちゃん」 でGMTのリーダー格をやってた女の子で、気の強いキャラだったけど、この 「銀二貫」 でもなんかそのキャラ継続中、って感じで(笑)。
 松吉が長屋に訪ねていくと、「なんか用かよ?」 みたいな感じで木戸を開ける(笑)。 すごく他人を寄せ付けないオーラがある気がするんだなーこの子には(笑)。

 だから松吉もなかなか恋心を打ち明けられなかったつーか(笑)。

 ただ原作どおりにいけば、真帆の火傷は顔半分に及んでいたらしく、さすがにそれはテレビドラマではアウトだったんでしょう。 でもそこまでやれば、「どうして真帆はあんなに松吉に冷たいのか?」 という疑問も解消したことでしょう。

 それと気になったのは、その松吉に恋心を抱いてしまう、松葉屋(団時朗サン)の孫、だったか、お咲役の浦浜アリサチャン。 これが団時朗サンの若い頃に似てるんだ(笑)。 この子を見ると 「帰ってきたウルトラマン」 を思い出してました(笑)。 よくこんな似た子を見つけてきたもんだとゆーか。 ホントに血がつながってるのかと思った。 団サンと同じ、ハーフだとのこと。 さもありなん。
 このお咲の恋ははかなくも破れてしまうのですが、恋敵である真帆と松吉のあまりにも遅い恋路に怒りを爆発させるシーンは、もう納得しまくりで(笑)。

 いずれにせよ、楽しませていただきました。 もっと回数あったらよかったのにな~。

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2014年6月 1日 (日)

「花子とアン」 第5-9週 「ありのままの」 主人公でいい、レリゴーレリゴー♪

 皆様ご機嫌よう。 1カ月ぶりの 「花子とアン」 のレビューでございます。 今回は、「波乱の大文学会」 から 「はな、お見合いする」 までをレビューいたします。

 作品の質を忌憚なく鑑みたとき、私が前回までレビューした週プラス翌週の 「波乱の大文学会」 まではかなりのクオリティだったのに対して、「腹心の友」 からの話の流れは、ちょっと散漫気味に感じます。
 それは脚本の中園ミホサンが、主人公の安東はな(吉高由里子サン)をスーパーウーマンにするのか、それとも普通の人として描くのか、そこらへんの逡巡があったせいなのではないか、という気がする。
 最初の数週のクオリティの高さ、というのは、もしかするとそれは、はなの父親である吉平(伊原剛志サン)が、読書好きだった少女期のはなに抱いた過大な期待が、ドラマの行方を後押ししたせいだったのかもしれません。 山梨の貧乏な小作農家と東京のお嬢様学校とのあまりにも極端な格差を描いてドラマは先鋭化され、さらに葉山蓮子(仲間由紀恵サン)という異文化の流入によって物語が複雑化しつつある。 そんな構造が今後に対する期待感をさらに膨らませていった感があります。

 しかしその複雑化に伴っていろんなところで仕掛けられたエピソードは、結構玉虫色で、いうなれば安易な決着を見てしまうことが、たびたび見られるようになる。

 たとえば 「波乱の大文学会」 で、はなと蓮子とのいわば同性愛的な友情に嫉妬する醍醐亜矢子(高梨臨サン)の様子を描いていたかと思うと、それは 「ロミオとジュリエット」 の芝居が紆余曲折を経て完成していくに従って、なんとなくうやむやな方向で解決してしまう。

 そしてはながのちの夫と出会う場となる、出版社でのアルバイト。 はなはバイト代について自分が使うことしか考えない。 結局何に使ったのか、というと、蓮子への土産のきんつばのみ?(笑)。 いや、ひと月も働いてきんつばだけというのはあり得んだろう、みたいな(笑)。 そのあと蓮子と一緒に甲府へ里帰りしてたから、その旅費に使ったのかもしれないけど、でもこれって蓮子の提案だったから、旅費は蓮子が出したのかもしれないし、あ~バイト代何に使ったのか気になる(笑)。

 そしてはなの妹、かよ(黒木華サン)が製糸工場を飛び出して修和女学校に来た時も、なんとなくそのままそこの寄宿舎にかくまわれたような格好になり、そのことで修和女学校に来た母ふじ(室井滋サン)の 「母としての思い」 も、どことなく出口を探しあぐねているような展開で、なんとなく片付いてしまったり。

 はなの就職に関しても、修和女学校で英語の教師として働かせてあげる、という富山先生(ともさかりえサン)の 「渡りに船」 的な話に、はなはなかなか乗ってこない。 これ、おかあの 「山梨に帰ってくりょう」 という思いに引きずられるような格好ではなは逡巡するわけですが、いや、比較論からいくとまったく天秤が釣り合わないですから。 山梨に帰ったって、働き口がないっていうんでしょう。
 そしたら朝市(窪田正孝クン)の口利きで出身校の尋常小学校で代用教員の働き口が見つかって、みたいな緊急避難的な解決。 ウジウジしとるあいだに決まっちゃった、みたいな。
 じっさいの話、村岡花子サンは卒業後、山梨の英和女学校で英語の教師として5年間勤めたらしいので、かなり事実と違うのですが、そのせいかまあ粗い展開の仕方ですよね(笑)。

 私が現在のところ気になっているもうひとつは、蓮子が政略結婚で嫁いだ先の九州の石炭王、嘉納伝助(吉田鋼太郎サン)のひとり娘。
 この子は伝助が芸者に産ませた子で、蓮子の境遇とまるで瓜二つなんですよ。
 だのにそこんところに関するストーリーのツッコミがまったく見られない。 この子に対して蓮子がどう考えているのか、ほんの少しの説明でも欲しいところです。 自分と同じなために同情しているのか、それとも近親憎悪的に憎んでいるのか。

 蓮子の嘉納家における身の処し方は、ちょっと頭のいい方向とは思えない。 環境の違う人たちを無理に自らの色に染めようとして、却ってドツボにハマっていく。
 これは蓮子が結婚を決断した時から始まっているように思えます。 葉山家の財政破綻を解決するために結婚するのだから、別に 「腹心の友」 であるはなに黙ってするようなことじゃない。 「腹心の友」 なればこそ、分かってもらえるでしょう。 それを徹底的に隠した末に、あからさまにはなを突き放し、絶交同然に袂を分かって嫁いでいくのです。 徹底して退路を断っているから、精神的な余裕が生まれない。

 ただそう考えると、蓮子が堕ちていく過程をこのドラマは逆に理路整然と語っているのかもしれません。 このドラマの軸になるひとつが、蓮子の不倫問題なのだとすると、蓮子のある種の視野の狭窄性が、この 「なんとなく解決しちゃう」 お気楽なドラマに大きな影を落とす、アクセントのひとつになりつつある気は、するのです。

 もうひとつ、第9週の 「はな、お見合いする」 では、それまでまるで放っとかれたように思われた、はなの父吉平と長男の吉太郎(賀来賢人クン)との軋轢がクローズアップされました。
 かたや、自分が社会主義の伝道者として重要人物だと買いかぶっていた男のみじめな逃亡と、父親の偏った愛情のおかげで憎しみばかりを募らせてきた息子の悲壮。 「いったいこの話はどうなっちゃってるのよ?」 と思ってましたが、さんざん引っ張っといて、作り手はちゃんと考えていたらしい(笑)。
 これで、「作り手が話を手広く広げちゃって、ちゃんとした解決方法を考えていない」 という危惧はだいぶ軽減された気がします。
 もしかするとさっき私が挙げた 「醍醐のお嬢さんがはなと蓮子の友情に嫉妬していた」 という話も、ある種の展開を見せるかもしれないな。 どうも番組HPの相関図によるとこのあと醍醐のお嬢さんは、はなの夫になることが物語上バレバレの(笑)村岡印刷…じゃなかった村岡英治(鈴木亮平サン)に恋するみたいだから。 なんか醍醐のお嬢さんがはながバイトした出版社に就職する過程も、「ゴーインな展開だなァ」 と思ってたんだよ(笑)。

 そんな、周囲がにわかに事態の深刻度を増すいっぽうで、物語の主人公、安東はなは結構出たとこ任せで気楽に生きているような気もする(笑)。
 これは、はなが幼少のころから費用のかからない方向で、お嬢様学校に入れられたことが大きく関わっている気がします。
 チビはなチャンにとって、この環境の大転換は、想像に難くない過酷な試練だったように思う。 ただそこをくぐり抜けると、甲府の貧乏な小作とはまったく価値観の違う別の人格が形成されてしまう、ということを、このドラマの作り手は見る側に伝えたがっているように見えるのです。

 だから初めてのバイトでも、「ビンボな実家に仕送りしてやろう」 とかいう気持ちすら湧き上がることがない。 まあきんつばしか買えないような雀の涙ほどの給料じゃ仕方ないけど(笑)。
 卒業前2カ月になってもまったく将来のこととか考えていないのもそう。 いや、悩んじゃいるのですが、かなりお気楽レベルで悩んでいる(笑)。
 その彼女が別の次元で人生をとらえている、という象徴が、「ごきげんよう、さようなら」 という言葉なのだ、と見ていると感じます。 この言葉は、彼女が後年ラジオ番組(現NHKラジオ)で 「コドモの新聞」 というコーナーを持ち、今の池上彰サンみたいなことをやっていたんですけど、そこでのあいさつ。 これは当時流行語になった、とも言われていますが、なぜ流行したかと言えば、この言葉自体が上流階級の言葉だった、つまり 「一般世間と乖離している言葉」 だったことに由来する、と思うんですよ。
 彼女が 「別の次元で人生をとらえている」 もうひとつの象徴は、妄想癖でもある(笑)。

 この、安東はなと嘉納蓮子の人生に対する捉え方の大きなコントラストというのは、どこからきているのか。
 それは、「さらば修和女学校」 の週で、女学校卒業の時のブラックバーン校長(トーディ・クラークサン)のスピーチを聞いたかどうかに影響されている気がする。
 このスピーチでブラックバーン校長は、「あなたがたが、この女学校時代がいちばん幸せだったと後年思い返すようなことがあれば、私の教育は間違っていたと言わざるを得ない」 というような趣旨のことを言っておりました。 つまり、「最上のときはいつもこの先にある」、と思わなければならない、希望は最後まで持ち続けなければならない、ということです。
 蓮子はこの場にいなかった。
 ドラマの論法としては、蓮子がこの生き方の指針を学んでいないことが、のちの白蓮事件に大きな影を落としている、という展開を示している。

 さらにはなにとって人生の大きな指針となっているのは、祖父周造(石橋蓮司サン)の数少ない格言(笑)かもしれません。 「失敗のいいところは、次はしなくなるところだ」 とか(だったっけか?)。 確かに若い時にいっぱい失敗しておけば、いろいろ学習しますからね。 はなの楽観主義は、おじいやんから受け継いでいるようなところもある。
 母ふじの、「なんとなく玉虫色だけど、これが幸せなんだよ」 と捉える生き方も影響してるかな。

 だから、私も途中までは 「こーゆーなんとなく解決しちゃう展開でいいのか?」 とか思ってましたけど、「♪ありのーままでー」 いいんじゃないのかなーと考えるようになりました。

 折しも昨日のNHK 「ラジオ深夜便」 で、甲府放送局から 「もっと楽しむ 『花子とアン』」 という特集をやっていて。
 そこで村岡花子サンが、夫が亡くなったあとのことを書いたエッセイが紹介されていたのですが、遺骨を見て泣いてばかりいるのは、意味のないことなんだと悟った、と。 夫は確かに現実にはもうこの世にいない。 でも夫の思いと自分は共にある、それを受け入れて生きていく。 彼女はそう綴っていました。
 それは究極の楽観主義である、と私は思うのです。 と同時に、その考えはブラックバーン校長の卒業式での訓示に通じている気がする。

 ♪レリゴーレリゴー(笑)。

 ところで蛇足ですが、このブラックバーン校長が卒業式の訓示で語った冒頭の二行。 「私と共に老いよ、最上のときはこの先にある」 という言葉は、ジョン・レノンが最後に残した傑作、「グロウ・オールド・ウィズ・ミー」 で引用した、ロバート・ブラウニングの詩ですね。
 このほかにもこのドラマの中で、ジョン・レノンの言葉が引用されてた箇所があった気がするのですが、どこだったっけなー。 忘れた(笑)。 とにかく中園サン、ジョンの言葉をさりげなくインサートしてますよね、ネ(笑)。

 それでは今日はこのへんで皆様ご機嫌よう(これは秋山ちえ子サンだったか)。 さようなら。

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